【9】 シギショアラ カーサヴラド・ドラクル

「アキ、大丈夫ですか」

 エリックはしゃがみ込んだままガタガタと震える亜希の背中をさする。亜希は思わず叫び声を上げそうになる。失礼、とエリックは慌てて手を離す。


 あの白装束は一体何者なのか。まるで訓練された兵士のような動きだった。頭全体を覆う布で顔は見えないが、体格からして男性だ。

 ラドゥはエリックが本を狙っていると言った。白装束を差し向けたのはエリックなのだろうか、いやもう本は彼の手元にあるのだからそんな必要は無いはずだ。ラドゥだって正体は分からない。彼が現われてから白装束が現われた。


 一体誰を信じればいいのか。亜希は恐る恐る顔を上げてエリックを見た。エリックはかがみ込んで心配そうに亜希の顔をのぞき込んでいる。安心できる、人の良さそうな顔だ。しかし、今は誰も信じてはいけない。

 何も知らないふりをしよう、そう決めた。ラドゥの話は胸にしまっておくことにした。


「大丈夫、あの人たちは一体」

 エリックは亜希の手を取って立たせてくれた。

「分かりません、この国であのような衣装は一般的ではありませんね」

 エリックは怪訝な表情を浮かべる。自分は知らない、というアピールのようだがその仕草はごく自然に映る。

「もう遅いです、ホテルに帰りましょう」

 エリックにホテルの部屋まで送ってもらった。部屋に戻る前に、亜希は立ち止まる。


「何故あそこにいたんですか」

 思い切って疑問をぶつけてみた。亜希が外出したことをエリックは知らないはずだ。

「本を返そうとドアをノックしました。返事が無いので心配で街に探しに行ったのです」

 この付近で夜遅くまで営業している店は、裏路地のバーのみだということから見当をつけたと言う。エリックはちょっと待って、と部屋に戻り、亜希に龍の紋章の本を返した。亜希は思わず拍子抜けする。


「怖かったでしょう、何かあれば呼んでください。明日は九時でいいですか」

「ええ、ありがとう、おやすみなさい」

 エリックの態度に不自然な点は無かった。もしかして本が偽物にすり替えられているのでは、と慌ててスタンドの光で確認してみたがそんな事は無かった。

 もう何がなんだかわからない。狙っているはずの本を易々返すなんて。エリックに下心が無いならラドゥが嘘を言っているのか。


 亜希は安堵と疲れの入り交じった盛大なため息をついた。静かな部屋に一人でいると、白装束に追われた恐怖感が現実味を帯びて蘇ってきた。窓の鍵がかかっていたか、震える手でカーテンを少し開けた。冷気を放つ窓の外は古い町並みが街灯の橙色に染まり、幻想的な景観が広がっている。白装束の気配が無いことに安堵して、カーテンを閉めた。


 何度も寝返りを打ちなかなか寝付けずにいたが、一度寝入ってからは熟睡していたようだ。カーテンを開けると、青空が広がっている。日本とは違う、深みのある青にここが違う大陸だと実感する。

 ビュッフェの朝食を済ませ、スーツケースの荷物をまとめて約束の時間に合わせロビーに降りた。


「おはよう」

 エリックが爽やかな笑顔で手を振る。。そこにやましさは無いように思える。白いポロシャツにジーンズというラフな格好だ。

「よく眠れましたか」

「はい」

 エリックは亜希の血色の良い顔を見て安心したようだ。


「警察に行くことも考えましたが、実害が無ければ難しいでしょう」

 エリックの意見はもっともだ。白装束の男達に襲われたというだけで何も手がかりはない。暗いし怖いし、パニックで人相もろくに分からない。穿った見方をすれば、自分の犯罪を明るみに出さないよう、警察を避けているのではとも考えられる。

「いろいろ聞かれて時間を無駄にしたくはないです」

 逡巡し、亜希の出した答えだった。


「わかりました、では出発しましょう」

 エリックは朝早くガソリンを満タンにして洗車も済ませてきたようで、石畳に停車したBMWの車体はピカピカだった。


「今日はシギショアラへ向かいます」

「ドラキュラ公の生家がある街だ」

 それを聞いて、楽しい気持ちが戻ってくる。

「生家はレストランになっています。とても人気がありますよ。それに古い町並みは見応えがあるよ」

 ブラショフを離れる前に、エリックが黒の教会を案内してくれた。巨大なゴシック建築の教会で、名前の由来は、爆撃で焼け焦げたことからだという。教会は閉まっていたので、外周を散歩した。聖堂内には大きなパイプオルガンがあり、音楽祭も開催されるという。

 ブラショフを後にして車はさらに北上する。


「あのう、龍の紋章の本ですけど」

 亜希はエリックの表情を覗いながら切り出す。

「何か分かりましたか」

「大学生の友人がいます。そのつてで内容がわかるかもしれません。書かれているのはラテン語です。それに古いルーマニア語も」

「どんな物語が書いてあるのかな」

 無邪気な亜希の言葉にエリックは黙り込んでいる。本を奪おうとしていることを悟られたと思っているのだろうか。


「アキ、これから言うことをよく聞いてください」

 エリックが神妙な声で話し始める。

「あの本は私の父が所持していたものです。父はルーマニア革命の混乱を逃れて幼い私を連れて日本にやってきました。そして東京で東欧雑貨の店を開きました。あるとき、店が泥棒に入られました。お金やめぼしい商品が無くなっていました。そのときにあの龍の紋章の本も盗まれたのです」


「そんな、これは盗品なの」

 エリックの話しぶりは真剣そのもので、都合の良い嘘をついているようにも思えない。ここからどう話を展開させる気だろうか、亜希は身構えた。父の本だから返せというのではないか。

「アキがその本を持っていることを知って、驚きました。日本からルーマニアへ再び本が帰ってきたのです」

 エリックは穏やかな調子で話しを続ける。


「アキ、あなたは本に導かれてこの国に来ました。そして、ドラキュラ公の夢を見た。あなたは本に語り部として選ばれたのです」

 亜希はエリックの言葉にどう返していいのかわからなくなってきた。一体どういうことなのだろう。宗教の勧誘にでも遭っているような気分だ。車は牧歌的風景の田舎道をまっすぐに進んでいる。


「語り部って」

「本があなたに語りかけています。龍の伝説、誇り高いドラキュラ公の物語を伝えるために」

「言っていることがよく分かりません」

「夢を見たでしょう。ドラキュラ公と赤い龍の夢を。この国には太古より生きる龍がいた。ドラキュラ公はその龍の力を手にしたのです。しかし、その力はあまりに強大で、人間が制御することはできないと考えた。そこで彼は息子たちに龍の力を封印するよう命じました」

「おとぎ話みたいですね」

「そう思いますか。封印された龍の力の謎はあの本に記されていると言われています」

 亜希はバッグの中から本を取り出した。


「この本が」

 亜希は龍の紋章を指でなぞってみる。西洋アンティークのお洒落な本、という認識だった。まさかそんな大切な意味を持つとは。

「父が私を眠りにつけるために教えてくれたおとぎ話だと思いました。しかし、本はここにあり、そして何者かがこれを狙っている」

 亜希は白装束の男達、そしてラドゥの顔を思い浮かべた。


「あなたは私に本当のガイドなの」

 亜希は勇気を出してエリックに尋ねた。

「ブカレストでミハイから交代しました。もちろん彼には内緒で」

「えっ、それじゃあ」

 亜希の顔に不安の影が落ちる。やはりエリックはガイドと偽っていたのか。その瞬間、逃げ出したい気持ちにかられる。車から飛び降りようか、しかし、言葉も通じない国で一体どこへいけばいい。


「私は父の意思を継いで龍の封印を守ならければならない。そのために本が必要です」

「この本はお返します。私をブカレストへ送ってもらえませんか」

 亜希は努めて冷静に伝える。修道院は見てみたかった。しかし、得体の知れないエリックとこのまま行動を共にしたくない。


「あなたはドラキュラ伝説に興味があると言っていましたね」

「ええ、それは」

 そうだが、それどころではない。亜希は眉を顰めてエリックの正気を疑ってしまう。


「もし、あなたさえ良ければドラキュラ伝説を巡る旅にでかけませんか」

 エリックの提案は唐突だった。この先のドラキュラ公の生家のある街、シギショアラから西へ向かい、公ゆかりの地を巡るという。モルドヴァの修道院にも行く、日程はオーバーするがホテルの手配などは全部任せて、とエリックは微笑んだ。亜希は休業中で、ルーマニアへの滞在が数日延びたところで困ることはない。先立つもの以外は。


「その、日程が延びるのは構わないけど。余分なお金はないわ」

 幸い、休業中なので職場に謝りを入れることはない。しかし、エリックがロマンチックな話でその気にさせ、観光地巡りを追加するといって後から大金を請求しないとも限らない。今はどんな可能性でも疑っておくほうがいい。


「アキは父の本をここへ届けてくれました。心配しないで、追加の旅費は私が持ちますよ」

「そんないい話、あるの」

「信じられないですか」

「ええ、それはもう」

 亜希は大きく頷いた。

「私は本当にアキに感謝しています。それに、あなたの夢には何かヒントがあるかもしれない。このまま一緒に旅ができたら、私も嬉しい」

 エリックは言葉を選びながら真剣に話してくれた。さてどうする、亜希は逡巡する。


「もうすぐシギショアラです」

 目の前に橙色の屋根が連なる中世の町並みが見えてきた。世界遺産の町シギショアラだ。車を停め、石畳の坂道を登っていく。見上げるほど立派な時計塔の下をくぐり、ドラキュラ公の生家の黄色い建物の扉を開く。カーサ・ヴラド・ドラクルと大理石の看板が壁に埋め込まれていた。


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