【8】 ブラショフ Barエニグマ

 ホテルは市庁舎の広場から徒歩圏内だ。建物は年季が入っており、ロビーは薄暗い。エリックの補助でチェックインを済ませ、部屋に入る。


「夕食はどうしますか」

「パパナシでお腹がいっぱいです」

 お腹が空いたときに、とエリックは近くのレストランやコンビニエンスストアの場所を教えてくれた。明日の朝は九時出発と約束をして別れた。亜希はぎこちない足取りで部屋に入るとすぐに鍵を閉めた。


 どうしよう、警察に通報するか。ルーマニア語も話せないのにエリックに言いくるめられはしないだろうか。

 ここまでエリックはとても紳士的な態度で接してくれた。ラドゥの言葉が脳裏に蘇り、亜希は不安に押しつぶされそうになる。

 不意にノックの音が響く。亜希はひゃっと叫びそうな声を飲み込んだ。


「アキ、お願いがあります」

 ドアの隙間からエリックが覗いている。

「はい」

 亜希は努めて冷静を装う。声が裏返ったかもしれない。

「龍の紋章の本を貸してもらえませんか。友人なら文字が読めるかもしれません、聞いてみましょう」


 亜希はバッグから龍の紋章の本を取り出した。これを渡していいのだろうか、いやここで断るのも不自然だ。逡巡した末に、亜希はエリックに本を手渡す。エリックは礼を言って隣の部屋に戻っていく。

 扉を閉めて、施錠を確認する。亜希はベッドの上に腰掛けてまた思い悩む。一人で海外旅行なんて冒険だったのかもしれない。事件に巻き込まれたときに、何もできない。自己責任、という言葉が脳裏を過ぎる。


 そうだ、イーストトラベルに問い合わてみよう。亜希はスマートフォンを手にした。画面にはラインのメッセージが入っている。母からだ。

 ―気をつけなさい。海外は何があるかわからないんだから。お土産はいらない。

 母の皮肉たっぷりな口調が思い浮かび、苦笑する。しかし、今はそれでもありがたい。ほんの少し、心が落ち着いた。


 エリックの目的は何だろう。ラドゥという美しい青年も完全に信じられない。亜希はラドゥから受け取ったカードを取り出した。エレガントな装飾文字は「エニグマ」と読める。黒字に金文字、組み合わさった歯車がデザインされている。

 地図によると、エニグマは市庁舎広場の近くにあるようだ。ホテルから徒歩五分程度、時計を見ると、針は午後六時を示していた窓の外はすっかり日が落ちて、残照に染まる雲が流れていく。何もせずこのまま夜になれば、不安に怯えたまま眠れないだろう。

 ラドゥの話を聞いてみよう、亜希は意を決して立ち上がった。


 ホテルを抜け出し、でこぼこした石畳の道をエニグマへ向けて歩く。道の両側にはドラッグストアや携帯ショップの控えめなネオンが灯っている。薄暗い明かりの店はコンビニエンスストアだ。こうして思えば、日本の店は異様に明るいのだと再確認する。

 人通りはまばらにあるが、この感じだと深夜になるとほとんど無人になるだろう。

 地図によれば、この辺りだが看板が見当たらない。目の前のピンク色の壁の建物は明かりが落ちて営業しているようには見えない。一組の男女が建物の脇から奥へ入って行くのが見えた。亜希は彼らについて行くと、路地の先に石畳の道、教会やバーが並んでいる。街灯も無く、、周囲は薄暗い。


「エニグマ、ここだ」

 歯車や電球を組み合わせたスチームパンク風の台座に、エニグマの文字があしらわれている。手元のカードのデザインと同じだ。

 店の前には革ジャンを着た若者たちがたむろしている。アジア系が珍しいのだろう、亜希の姿を物珍しそうに眺めている。正直、怖い。慣れない海外で夜に出歩くなんて、やめた方が良かったかも。挙動不審な亜希を見て、若者たちがひそひそ話をしている。話しかけられても面倒だ、と意を決してオーク材の重いドアを開けた。


 ダウンライトの店内には煉瓦の壁面に沿ったカウンター席、四人掛けのテーブルが十席ほど。巨大な歯車を模した時計が目を引いた。その周囲にある無数の歯車は異なるスピードで回転している。

 カウンター席は錆びたパイプを幾重にも張り巡らせ、天井から下がるランプにビリビリと紫色の火花が走る。


「ひえっ」

 隣に立つガスマスクをつけたボンデージルックのマネキンに気が付いて、驚いて思わず一歩横に飛んだ。強烈なコンセプトデザインの店だ。流れるBGMはローテンポのダンスミュージックだ。アングラな雰囲気と相まって、気後れしてしまう。

 きっと海外ではこういう感じが普通なのだ、日本でいう居酒屋なんだと亜希は自分に言い聞かせる。


 亜希の様子を見ていたテーブルの男が二人、立ち上がった。親しげに何やら話かけてきた。ルーマニア語なのだろう、さっぱり分からない。亜希は逃げ出したくなった。しかし、この店でラドゥは待つと言っていた。もし今夜会えなければ、明日エリックと別の街へ向けて出発することになる。


「ノーサンキュー」

 亜希は自信なさげに首を振る。それでも男たちはジェスチャーを交えて話かけてくる。一緒のテーブルで飲もうといいたいようだった。

 店の外で待とうか、そう思ったとき男たちの間に一人の女性が割って入った。人指し指をつきつけて厳しい口調でまくし立てている。男たちは面白くなさそうに自分たちの席に着き、ビールをあおり始めた。


「AreYouOK」

 女性は簡単な英語で話しかけてきた。亜希は無言で首を何度も振った。彼女は店員ではなさそうだ。髪は深いブラウン、くっきりした二重瞼の下には切れ長のビビッドなブルーの瞳。ダウンライトの下でも鮮やかなベルベットの唇。赤色のストールを羽織り、スレンダーな体のラインがはっきり分かる黒のワンピースを着ている。


 女は亜希の目の前に人差し指を突き出した。そして英語で注意しなさい、と言っている。誰を信じるのか考えるのよ、そうも聞こえた。

 亜希は呆気に取られ、瞬きも忘れて女を見つめる。一体どういうことなの、と訊ねたいが言葉が出てこなかった。

 女はそれだけ言うと踵を返し、ヒールの音を響かせながら店を出ていった。


「一体、何だったのだろう」

 絡まれていた外国人を助けた、それだけと思えなかった。誰を信じるのか。まるで亜希のおかれた状況を知っているかのような口ぶりだ。呆然と立ち尽くしていると、ソフトモヒカンの店員がメニューを持って座れと言いたそうにしている。

 亜希は慌てて着席した。店員がダンスミュージックのリズムを刻みながら注文を待っている。亜希はメニューを指さしレモネードとトマトパスタを注文した。


「ここ、いいかな」

 レモネードが運ばれてきたタイミングで、ラドゥがやってきた。

 薄手のグレーのジャケットに白い開襟シャツ、黒いパンツ姿だ。整った顔立ちとスタイルの良さは周囲の目を引いて、女たちは甘い視線で彼を見つめている。ラドゥはグラスワインを注文する。


「こんばんは、来てくれたんですね」

 ラドゥは口元に微笑みを浮かべる。その浮世離れした美しさは彼が目の前に座る人間だという現実感が希薄で、まるでテレビ画面でも見ているような気分になる。

「ええ、まあ」

 エリックの目的、それを聞きたい。ラドゥは優美な動作でワインを口に含んだ。

「彼はあなたの持ち物を狙っています」

 お金か、パスポートか。穏やかな話ではない。亜希は全身から血の気が引いていくのが分かった。


「古い本をお持ちでしょう」

「あ、あの本」

 龍の紋章の本だ。ホテルの部屋でエリックに渡してしまった。それをラドゥに言おうとして、亜希は踏みとどまった。彼女の言葉通り、ラドゥが信用できるかもまだ分からない。ラドゥは穏やかな笑みを浮かべ、亜希を見つめている。美しい顔だ、しかし何を考えているのか全く読めない。


「とても古い、貴重な本です。博物館から盗まれました。私はそれを探しています」

「盗まれた」

 亜希は思わず聞き返した。


「一九八九年冬、ルーマニアで革命が起こりました。ニコラエ・チャウセスクが民主化デモを武力で鎮圧したことが発端です。各地で暴動が起こり、たくさんの血が流れた。政府の施設に次々に暴徒と化した市民が押し寄せた。その混乱に乗じて博物館から持ち出されたのです」


 龍の紋章の本の出所を知り、亜希は驚きを隠せない。しかし、なぜ日本のアンティークショップにあったのだろう。

「その本が今ルーマニアに戻ってきた。これはまさに運命です」

 ラドゥの口調が甘い熱を帯びてきた。

「彼は本が高値で取引されることを知っている。どこかであなたが本を持っていることを知り、本来のガイドを出し抜いてあなたに接触したのです」


「そんなこと」

 亜希は目を見開く。ルーマニアの治安についてガイドブックに書かれた注意喚起を思い出す。観光地で外国人を見るや、警察手帳を出して違法な両替をしたなど取ってつけた理由で拘束し、金やパスポートを巻き上げるというものだった。ガイドになりすます、それも偽警官の延長線上ではないだろうか。


 エリックは気遣いが細やかで、丁寧で紳士的だった。ブカレストで奪い取れば済みそうなものなのに、このブラショフの街まで連れてきてくれた。

 亜希は揺れた。目の前のラドゥか、エリックか、誰を信じるか考えろ、彼女の言葉がぐるぐると脳裏を巡る。

「困ったらいつでも電話をして。私はあなたの味方です」

 ラドゥはワインを飲み干し、亜希にメモを渡した。ラドゥは亜希の分の支払いも済ませてエニグマを出て行った。


 亜希の目の前にトマトたっぷりのパスタが運ばれてくる。緊張とショックで喉を通らないだろう、そう思ったが一口含めば酸味の強いフレッシュなトマトの風味が食欲を蘇らせてくれた。

 パスタを巻き取りながら考える。エリックの狙いは龍の紋章の本で、今はエリックの手中にある。もしエリックが自分を騙すつもりなら、明日の朝ホテルのロビーでの待ち合わせに現れずにそのまま逃走するだろう。


 大事な本を取られるのは癪だが、命を取られるよりはマシだ。イーストトラベルの河合に連絡を取って助けてもらおう。ブカレストにさえ帰れば、飛行機で日本に戻ることができる。

「うん、何とかなる」

 亜希は自分に言い聞かせるように頷いた。ここには頼れるのは自分しかいない。他人の意見に流されることが多く、誰かの顔色を覗う癖があった。そんな自分に嫌悪感を抱きながら生きてきた。しかし。ここでそんなことをしていては、命に関わる。

 ―ほら、ごらんなさい

 困り果てた自分を嘲笑う母の顔を思い浮かべ、亜希はそれを振り払う。


 ホテルへの帰り道、でこぼこした石畳の道を早足に歩く。店のネオンは消え、街灯の橙色の光だけが石畳をぼんやりと照らしている。見知らぬ街の静寂の中、聞こえるのは自分の足音だけ。まるで異世界に迷い込んだような気分に寂寞と不安が押し寄せてくる。


 早く帰ろう、と足を速めた矢先、目の前に白装束の人影が飛び込んできた。心臓が冷たい手に鷲掴みされるような感覚に、息を詰まらせる。

 白装束が三人、道を塞ぐように横並びに立っていた。イスタンブール空港で見たイスラム系の民族衣装のようだ。白装束たちは亜希にじりじりと近付いてくる。捕まれば死ぬかもしれない。亜希は直感した。緊張と戦慄が全身に漲っている。


 亜希は踵を返し、市庁舎広場へ向かって走り出した。海外では有事のときに逃げられるよう、走れる靴を履いていきなさい、と友人が教えてくれたのを思い出した。特別な旅行だからと新品の洒落た靴にせず、履き慣れたスニーカーを選んで良かった。

 しかし、凹凸の大きな石畳に足を取られて思うように走れない。背後を振り返るのも怖かった。亜希は広場手前の石造りのアーチの内側へ逃げ込んだ。裏路地は街灯が無く、闇に包まれている。


「助けてください」

 叫び声を上げたつもりが、恐怖に声がかすれている。ルーマニア語か、せめて英語でなければ通じない。しかし亜希はパニックでそんなことは頭になかった。

 振り返ると、白装束がすぐ背後に迫っていた。これで私の人生はおしまいか。極限の恐怖を前に、亜希はどこか他人事のように冷静だった。海外で夜出歩いた女性が暴漢に殺害、そんな新聞記事が思い浮かび、亜希は激しく首を振った。龍の紋章の本がくれた縁はこんなことではないはずだ。


 脇の壁に角材が立てかけてあるのが見えた。亜希はとっさにそれを拾い上げ、振り回して白装束を牽制する。恐れる様子もなく、三人は無言で亜希と間合いを詰めてくる。

 不意に叫び声が聞こえた。エリックだ。血相を変えて走ってくる。

 白装束は目配せをして、亜希の前から走り去った。

 亜希は全身の力が抜け、へなへなとその場に座り込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る