【7】 ドラキュラ城 Castle Bran

 シナイアを出発して、さらに北上しブラショフへ向かう。くねくねと曲がりくねった山道を木漏れ日が照らす。座り心地の良い座席で亜希はうたた寝をしてはハッと顔を上げることを繰り返す。

 平坦な道路に出ると、緑の地平線が広がる。見渡す限り広大な農地だ。羊の親子の形をした白い雲が青い空をゆっくり流れてゆく。目の前にはなだらかな山脈が連なる。


「目が覚めましたか」

 穏やかなエリックの声に、亜希はまだ夢見心地だ。ブラン城の看板が見えてきた。

「ドラキュラ城ですよ、もう一五分もしないうちに到着です」

 シナイアのカフェを出発して、三十分ほど眠っていたようだった。車を開けると心地よい風が吹き込み、髪を弄ぶ。


「この辺り全部はトウモロコシ畑です」

「黄色いもちもちの、ママリガの原料ね」

「そうです。あの山の上、見えますか」

 エリックが指さした山の上に大きな白文字のアルファベットの看板と、石垣が見えた。


「山上には中世に作られた砦をよく見かけます。ラスノフもその一つです」

 日本の山城に通じるものがある。エリックは運転をしながら、ガイドもこなしてくれる。

 交通量が増えてきた。赤い屋根のレストランやかわいい窓の並ぶ観光ホテルを通り過ぎると、小高い丘の上に城が見えてきた。


「ブラン城に到着です」

 ブラン城はルーマニア観光には外せないスポットのひとつだ。どのガイドブックにも大きく紹介されている。

「ブラン城の最初の歴史は、一三世紀にドイツ騎士団が建てた要塞です。その後今の石造りの城の基礎ができました。一五世紀初頭にはミルチャ老公に所有権が渡り、以後トランシルヴァニア公、ブラショフ市へと所有権が移り変わります」

 車を駐車場に停め、城への道を歩く。沿道には土産物店がひしめきあって並んでいる。


 ブラン城はドラキュラ城として観光客を集めている。土産物店にはドラキュラ公の肖像のマグカップやキーホルダー、Tシャツなど、多彩なグッズが並ぶ。吸血鬼ドラキュラをモチーフにした商品も多い。

「ブラン城は実際のところ、ドラキュラ公とは関係はないと言われています。しかし、先ほどお話ししたミルチャはドラキュラの祖父にあたります。一時期管理をしていましたから、もしかしたらドラキュラ公も立ち寄ることはあったかもしれませんね」

 なぜここがドラキュラ城ということになったのか、不思議だったが、祖父が管理していたことからルーマニアで一番の有名人と結びつけたのだろうということで合点がいった。


「あら、思ったより小さい」

 亜希は思わず叫ぶ。素直な第一印象だった。切り立った崖に白い城壁の城がそそり立つ。崖と城が一体になったような造りだ。砦という印象に近い。

「これがチケットです」

 エリックからチケットを受け取る。ブラン城をデフォルメしたデザインが印刷された紙チケットだ。


 エリックはいってらっしゃいと手を振る。亜希は城への石畳の階段を上り始めた。城の外壁は岩と同化しており、丘の地形を利用して建造されたことがわかる。

 階段を上り詰めた先にある黒い鉄の扉をくぐる。城内は、漆喰の白壁に黒木の板張りの床の小部屋が連なっている。アンティークな調度品や騎士の甲冑が展示されており、歴史博物館としても楽しめる。


 史実のドラキュラ公ヴラド・ツェペシュについての展示コーナーを見つけた。パネル展示で彼の生涯や恐ろしい串刺し刑の様子が紹介されている。亜希は大きな目をぎょろりと見開いた有名なドラキュラ公の肖像画に見入る。


「あなたは何故私の夢に出てくるの」

 亜希はひとりごちる。本を手にするまで全く知らなかった遠い異国の王が自分の夢に現われるのは不思議だった。ドラキュラ公の率いたドラゴン騎士団のタペストリーが壁に掛けられていた。ここでもドラゴンだ。亜希はバッグの上から龍の紋章の本を無意識に撫でる。


 別室は吸血鬼映画の紹介コーナーに変わる。「吸血鬼ドラキュラ」や「ノスフェラトゥ」といった白黒映画のパネルが並んでいる。

 吸血鬼は太陽や十字架や聖水、ニンニクが弱点で、美女の生き血を吸うというステレオタイプな設定が独り歩きして、最近ではドラキュラ伯爵のようなポマードの匂う中年ではなく、美男美女が主役の吸血鬼ドラマが人気だ。それでもしぶとく吸血鬼の代名詞としてその名が残っているのは、ブラム・ストーカーの生み出した吸血鬼ドラキュラのインパクトがいかに大きかったことか。


 人が一人なんとか通れる隠し通路の細い階段を上がり、中庭を囲むバルコニーへ出た。見下ろす中庭もかなり狭い。庭の中央に井戸が見えた。井戸は秘密の地下通路に繋がっており、城下の村に出ることができるという。もちろん、今は埋め立てられて通ることは出来ない。


 部屋の窓から麓の村を眺める。新緑の木々の合間にオレンジ色の屋根が点々と見える。まるでメルヘンの世界だ。

 ブラン城はオレンジ屋根のコンパクトでかわいいお城というのが亜希の抱いたイメージだった。

 出口に小さなミュージアムショップがあった。亜希はお城のロゴをあしらったキーホルダーとブラン城の絵はがきを買った。


 城外に出ると、土産物店のおばあさんと世間話をしていたエリックが亜希に気付いて手を振った。

「現在、この城は海外の富豪の管理下におかれています。今は一般公開されていますが、権利の関係で閉鎖される可能性もあります」

「ルーマニアの大事な観光資源なのに」

 そんな事情があるとは知らず、亜希は驚く。

「城の管理は莫大な資金が必要です。政府もなかなかお金を出せません。難しい問題ですね」

 世知辛い話だ。ブラン城だけが国の観光資源では無いだろうが、シンボルが失われてしまう気がした。


「ブラショフへ向かいましょう。今日のホテルがある街です」

 元来た道を辿り、ブラショフへ。日が傾いているのか、農地を流れる車の影が長い。車で二十分ほどで旧市街に到着した。モスグリーンの壁にアーチ飾り窓のお店や、モスグリーンに白い窓のカフェ、ゴシック風の古い石造りの銀行が立ち並ぶ歴史的な街並みは異国情緒が溢れている。街全体がテーマパークのようだ。ブカレストとはまた違い、コンパクトで素朴な雰囲気が気に入った。


「見学で疲れたでしょう。カフェで休憩しましょう」

 エリックの勧めで広場を見渡すオープンテラスのカフェで一息つく。ペールオレンジの市庁舎の時計塔は街のランドマークだ。

「ルーマニアに来るきっかけは本で見た修道院だけど、ドラキュラ公も面白い人物ね」


 店員がカフェラテとブラックコーヒーを持ってきた。亜希は話を続ける。

「吸血鬼の代名詞で串刺し公とあだ名され、血腥い話がついてまわる人だけど、当時の強国オスマントルコと戦った英雄でもある」

 事実は小説よりも奇なり、と地で行く人生と、その二面性が興味深い。

 亜希は一呼吸置いてカフェラテを一口啜る。ほのかな苦みが口の中に広がる。


「旅に出ようとした頃から夢を見るんです」

「夢、ですか」

「ドラキュラ公が赤い龍になる夢、それからブカレストについた日には、トルコの使者を串刺し刑にした夢。本の読み過ぎと旅行で気分が高ぶっているのかもね」

 エリックは真剣な面持ちで亜希の話に耳を傾ける。ただの夢の話をそんな険しい顔で聞かれても、と亜希は内心戸惑う。


 エリックが何か言いかけたとき、店員がパパナシを運んできた。ルーマニアの伝統的なデザートで、ドーナツのような揚げ菓子だ。肉厚のドーナツの上に丸いミニドーナツとサワークリーム、ベリー系のソースがかかっている。


「これ、食べたかったのよ」

 亜希は甘いものを前にして、上機嫌だ。薄いサクサクの生地の中はふわふわでやわらかく、ほんのり甘い。あつあつのパパナシに酸味のあるブルーベリーソースと生クリームをたっぷりつけて食べると相性が良い。亜希は思わず頬に手を当てた。まさに幸せを感じる。


「この店のパパナシは有名です。気に入ってくれて良かった」

 エリックはコーヒーを飲み干して、電話をかけてくると席を立った。

 突然一人置き去りとなり、亜希は心細くなった。そわそわと周囲を見渡すと、カフェの席にはカップルや家族連れが多い。安心してパパナシを頬張る。


「こんにちは」

 エリックの座っていた席に柔らかな巻毛のブロンドの男が座る。相席をするような混雑具合ではない。亜希は身を固くした。エリックの姿を探すが、見当たらない。しかも、日本語で話しかけてきた。男性は二十代後半、まるでモデルのような美しい顔立ちだ。透き通るような白い肌、透明感のあるブルーの瞳、赤く艶やかな唇を緩く引き結んでいる。


「こんにちは」

 亜希はぎこちない愛想笑いを浮かべながら挨拶を返す。

「彼は友人ですか」

 自然な日本語のイントネーションだ。優しい口調に、亜希は警戒心を抱き、唇を引き締めた。


「いえ、私のガイドです」

「そう、彼は最初から約束していたガイドなのかな」

 ブロンドの青年の言葉に亜希は眉を顰めた。

「ええ、ブカレストから一緒ですけど」

「空港に迎えに来た人とは別人では」

 そういえば、そうだ。亜希はぞわりと鳥肌が立つのを感じた。


「気をつけて、彼はあなたの本来のガイドを騙して、すり替わっているのです」

 まさか、亜希は絶句した。そんなこと、信じられない。亜希は心の中で自問する。空港に迎えにきたミハイが本物のガイドで、エリックは自分を騙しているのか。だとしても、一体何が目的なのだろう。疑念が膨らみ、顔から血の気が引いていく。


「私はラドゥ。助けてあげましょう。でも、彼には内緒ですよ」

「は、はい」

 そうは言っても、目の前の人物も相当怪しい。しかし、彼の話は筋が通っている。ガイドが別人であることも知っていた。

「今夜、私はこの店にいます。彼に見つからないよう会いに来てください」

 ラドゥは名刺大のカードを亜希に手渡した。カードには店の名前と電話番号、簡単な地図が書いてある。亜希はそれを隠すように慌ててバッグにしまった。


「では、また」

 ラドゥと名乗った青年は立ち上がり、夕闇の中に消えてゆく。心臓が早鐘のように打つ。過呼吸になりそうな呼吸をようやく落ち着けた。ここから逃げだそうか、と思った矢先にエリックが戻ってきた。

「お待たせしましたね、ではホテルへ向かいましょう」

 亜希は不安を押し殺して、作り笑顔で頷く。逃げようにも一体どこに、と冷静になったからだ。

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