【3】 空路、イスタンブール経由

 目を覚せば、ベッドの上だった。遮光カーテンの隙間から目映い朝日が差し込んでいる。体中が汗ばんでいる。恐ろしく生々しい夢だった。なにより龍の紋章の鎧を纏う男の姿が鮮明に瞼に焼き付いている。その姿はまるで恐怖そのものだった。


 薄闇が怖くなり、亜希はカーテンを開け放つ。屋根の向こうには青空が広がっている。遠くに見えるビルやマンション、いつもと変わりない風景だ。

 亜希は寝る前に眺めていた龍の紋章の本を手に取った。やはりそうだ。表紙の翼を広げた龍は男の鎧に刻印されていたデザインと一致していた。亜希は鳥肌が立つほどの興奮を覚える。


 ページを捲ると、漆黒の鎧の男の逞しい背と、赤い龍が天を覆うように翼を広げている版画だった。周りを囲む異国の鎧を着た兵士たちが恐れ戦きながら地面にひれ伏している。

 印象的な絵だ。その強烈なイメージが脳裏に焼き付いて、あのような夢を見たのかもしれない。亜希は身震いして、慌てて本を閉じた。

 

 ルーマニアへの旅は五日後に迫っていた。久しぶりの旅行の準備は心が躍った。パスポートの期限は何度も確認した。現地で使うお金をいくらか両替した。ルーマニアはEU加盟国なので基本的にユーロが使えるが、ルーマニア通貨レイも持っておく方が良いと聞いた。着替えに洗面道具をスーツケースに詰める。中五日の旅程だが着替えは三日分にして、手洗い洗濯で乗り切ることにした。


 航空券のeチケットの印刷もオッケーだ。そうだ、常備薬を忘れてはいけない。料理は口に合うとはいえ、油断は禁物だ。胃腸薬とロキソニンを準備した。それから、あの本。

「ご縁はこの本からだもんね」

 龍の紋章の本を肩掛けバッグに入れた。文字はどうせ読めないが、版画は眺めるだけでも雰囲気があって楽しい。トランジットの待ち時間にでも読めば時間潰しになるだろう。


「本当に行くんだね、馬鹿な子だわ」

 旅行前の最後の晩餐に、母からの嫌味は堪えた。娘が特別な旅行に出掛けるときすら、気持ち良く送り出してくれないのだ。何を期待した訳でもないが、さすがに落ち込んでしまった。


 翌日の夕方、仕事に出た母とは会うことなく亜希はアパートを出た。

「いってきます」

 返事をする者は誰もいない。戸締まりを念入りに確認し、まだ新しいスーツケースを引きながら関西国際空港へ向かう。


 関西国際空港の二三時台発の深夜便でイスタンブールへ飛び、三時間のトランジットでルーマニアのヘンリ・コリアンダ空港へ。

 亜希にとっては初めての海外一人旅だ。個人で航空券やホテルを手配して気軽に行く友人たちの話を羨ましく聞いていたが、いざ自分でやろうとすると勇気と労力がいることが分かった。それを河合の手伝いがあったとはいえ、一人で成し遂げたことは小さな自信になった。


 亜希は周囲からはおおらかで明るい性格と見られているが、ひどく心配性で内向的な面がある。母の支配欲に縛られて生きてきた結果、自分に自信が持てず無意識に人の目を気にするようになっていた。


 これは、自分を変える小さな冒険だ、そう奮い立たせて飛行機に乗り込んだ。これから十一時間のフライトだ。不安と期待がないまぜになった気持ちで狭い窓の外に映る空港の灯りを見つめていた。いよいよ飛行機は動き出し、滑走路へ向かう。轟音が鳴り響き、車輪が地面を離れたとき、浮揚感とともに、解放された気分になった。心は驚くほど落ち着いていた。亜希は旅の無事を祈ってぎゅっと目を閉じた。


 エコノミーながら、しばらくぶりに乗る飛行機は想像したよりずっと快適だった。飛び立ってすぐに機内食が出てきた。何時間か眠り、また食事。気がつけば空は白んで厚い雲に光が射している。時折雲間から見える地上はどこの国だろうか。シートベルト着用のアナウンスが流れ、飛行機は着陸態勢となった。


 飛行機を降り立つと、異様な熱気と湿気を感じた。周囲を見渡せば黒いストールで顔を隠した女性やターバンに白い布、ベルトを巻いた男性が目の前を通り過ぎていく。有り余る異国情緒に海外にやってきたことと実感する。見たところ、欧米人やイスラム系が多い。やっと見つけたアジア系は中国人旅行者だろう。


 乗り継ぎのため、スーツケースはそのままヘンリ・コリアンダ空港へ届くことになっている。心配症の亜希は河合に何度も確認して、苦笑されたことを思い出す。

 まず、ルーマニア行きの飛行機の搭乗口を確認しておくことにした。広大な空港だが、地図はシンプルでわかりやすく案内看板も巨大で、目的の搭乗口はすぐに見つかった。電光掲示にルーマニア行きの便名が表示されているのを見てホッと息をついた。


 ショッピングコーナーを覗くと、トルコの土産物がずらり並んでいた。青いガラスの目玉のキーホルダーは魔除けだ。色鮮やかなモザイクランプや緻密なアラベスク文様の絨毯は目を楽しませてくれる。海外へやってきたという過剰な緊張感が解きほぐされてくるのを感じた。


 安心すると小腹が空いてきたので、フードコートで軽食をとることにした。値段と食べたいもののバランスが悩ましい。旅先でケチるのは無粋と弁えながらも堅そうなパンのサンドイッチセットに千円以上出すのも憚られる。悩んだ末に何も食べずに搭乗口へ戻ってきてしまった。自分はつくづく貧乏性だな、とため息をつく。


 搭乗時刻まで一時間を切った。トイレを済ませて搭乗口へ向かうと、続々と乗客が集まってきている。ここでもやはり、アジア人は珍しかった。

 亜希は搭乗口が確認できる待合椅子に座った。手持ち無沙汰にそわそわしていたが、龍の紋章の本を持っていたことを思い出した。肩掛けバッグから取り出し、表紙を眺める。


 古い革張りの表紙は角が装飾金具で保護されている。これで手の平を切ってしまってから、扱いは慎重になった。龍の紋章が浮き彫り細工されており、ずっしりと重厚感がある。臙脂色の下地の中央にある龍の紋章を囲むように金色の唐草文様が描かれている。厚みは五センチほど。色褪せてはいるが、本文はしっかりした材質で破れや折れはない。大切に保管されてきたことが窺える。


 本に夢中になる亜希の隣に青年が座っていた。気配を感じない程に熱中していたことに驚く。他にも席は開いているのにわざわざ隣に来るなんて。亜希は身を固くした。

「ハロー、こんにちは」

「あ、はい、こんにちは」

 青年は片言の日本語で話しかけてきた。薄いブラウンのくせ毛、透明感のある青い瞳、西欧系のすらりと通った鼻筋に白い肌。年齢は二十代前半だろうか。笑うとどこか無邪気な幼さを感じさせる、愛卿のある青年だ。


 亜希は内心恐ろしく緊張していた。海外で、達者な日本語で話しかけてくる人間はこちらを騙そうとしていると思っていいと旅慣れた友人から聞いていた。そんな暴論があるのか、と思っていたが今まさにそのシチュエーションだ。


「あなたは日本人ですね」

 亜希は努めて平静を装っているが、どうやって逃げだそうか、頭をフル回転させていた。

「ルーマニアへ行くのですか」

「そうです」

 ああ、こんなときに馬鹿正直に行き先を言うなんて。

「ルーマニアはとても美しい国です」

 わざわざそんなことを言いに来たのか。いよいよ怪しい。

「楽しみです」

 亜希は緊張のあまり、ひどい棒読みで返事をする。


「その本、とても素敵ですね。ちょっと見せてもらえませんか」

「あ、はい、どうぞ」

 咄嗟のこととはいえ、龍の紋章の本を見知らぬ外国人に渡してしまった。青年は本の表紙をじっと見つめている。そしてページを一枚一枚丁寧に捲る。その表情は真剣そのもので、隣に座る亜希にまで緊張感が漂ってきた。


「とても古い本ですね。どうぞ大事にしてください」

 気が済んだのか、青年は本を閉じて亜希に手渡す。そして、にこりと笑って席を立った。亜希は慌ててバッグの中身の貴重品を確認した。本を読むふりをして財布や携帯を盗む手口だったら。結果的にその心配は無用だった。

 青年はコンビニエンスストアで飲み物を買っている。亜希と同じルーマニア行きの飛行機を利用するのだろう。もうちょっと愛想よくすれば良かったかなと少し後悔した。過剰に警戒しすぎてさぞや顔が引きつっていただろう。

 

 搭乗案内のアナウンスが流れ、飛行機へ乗り込む。ここからまた三時間。飛び立ってすぐに機内食が出てきたので、フードコートのサンドイッチを買わなくて正解だったと亜希は満足そうに頷いた。そっと周囲を見渡すと、あの青年は近くにはいないようで安堵した。

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