【4】 ブカレスト ヘンリ・コリアンダ空港

 機内食を平らげて、小さな窓に切り取られた風景を眺めてはうたた寝を繰り返す。日本からイスタンブールまでの十一時間に比べたら三時間なんてあっという間に思えるが、やはり長い。


 いつの間にか日は落ち、星の瞬く夜空が広がっていた。着陸態勢を伝えるアナウンスが流れる。地上の灯りがだんだん近くなってきた。ここはルーマニアの上空だ。ルーマニアなんて、ついこの間までどこにあるかも知らない国だった。龍の紋章の本を手に入れてから不思議な力に導かれるように、驚くほどとんとん拍子にルーマニアへの旅行が決まった。この旅で一体何が起きるだろう、亜希は期待に胸を躍らせる。


 ルーマニアの首都空港、ヘンリ・コリアンダ空港に到着したのは午後二三時。深夜便での到着のため、空港からホテルまでの送迎を依頼した。イーストトラベルの河合から聞いたのは、空港の出口で名前を書いた紙を持ってドライバーが待ってくれているということだった。


 ルーマニア人、一体どんな人だろう。亜希は想像を巡らせてみるが、そもそもルーマニア人の一般的な外見を知らない。飛行機の乗客を見れば、髪の色は意外と黒い人が多い。彫りの深い顔立ちで、女性は肌が白く目鼻立ちが明瞭で、はっとするような美人も多い。お年寄りになると太っていくのは欧米あるあるだなと感じた。

 ドライバーとは長い車中一緒だし、気さくでついでに格好いい人だと嬉しい。


 飛行機は徐々に高度を落としていく。滑走路が見えたと思うと、車輪が路面に着く音がして機体は無事地上に降り立った。周囲の乗客の安堵の声が聞こえる。予定時刻より十分程度の遅れの到着だった。


 ヘンリ・コリアンダ空港は関西国際空港よりずいぶん規模が小さくて驚いた。日本の地方空港のような雰囲気だ。これが首都の空港なのか、意外に思った。入国審査のゲートでは検査台の数も少ない。ヨーロッパは陸続きなので、飛行機での移動はマイナーなのかもしれない。


 深夜便で到着した十数名が入国審査のゲートへ並ぶ。英語で言われたことが分かるだろうか、ドキドキしながら身構えていたが、検査官はパスポートと亜希の顔を何度か見比べ、何も聞かずにスタンプを押してくれた。

 出口の案内に従いスロープを下り、ベルトコンベアに流れるスーツケースを受け取る。


 あとは出口でドライバーを探すだけ。柵の向こうにまばらな人待ちがあった。Mr.某と書いたカードを掲げている人がいる。このドラマのような風景は実際にあるんだ、と地味に目からウロコだった。

 自分の名前のカードを持つドライバーを探さなくては。柵越しに歩きながらカードの名前を読んでいく。なかなか見つからない。もう待ち列が終わる、急に心配になったそのとき、Ms.Aki Oritaのカードが目に飛び込んできた。良かった、私の名前だ。亜希は嬉しくなり、思わず駆け出す。


「ハイ、アキ」

 カードを持っていたのは気の良さそうなおじさんドライバーだった。黄色と青のストライプのシャツにハーフパンツというラフな格好だ。髪の毛はきれいな白髪で口髭を蓄えている。眼鏡をかけるとカーネルおじさんに似てはいないか。

 ドライバーは亜希の手からスーツケースをひょいと取り上げ、こちらへ、と英語でエスコートしてくれた。若いイケメンを心のどこかで期待していたけど、こちらは女性一人、このおじさんなら安心できそうだ。亜希はカタコト英語で挨拶と、迎えに来てくれたお礼を伝えた。


 狭い空港はこじんまりした土産物コーナーとコンビニエンスストア、両替コーナーがある程度で、目の前にはすぐ出口が見えている。

 ふと、コンビニエンスストアを見ると、イスタンブール空港で声をかけてきた青年が立っていた。スマートフォンで電話をかけている。亜希は青年と目が合い、一瞬ドキッとした。青年は気付いた様子もなく、通話を続けている。自信過剰だったかな、と亜希は気恥ずかしくなった。日本人が珍しかったのと、純粋にあの本に興味を持っただけなのだろう。


 ドライバーはミハイと名乗った。車はシルバーのフォルクスワーゲンワゴンだ。ミハイはトランクにスーツケースを入れ、助手席のドアを開けてくれた。欧米男性は本当のレディファーストを心得ていると感じた。もちろんこちらが客ということもあるが、ごく自然な心遣いにひたすら感動した。


「ホテル、キャピトル」

 今晩のホテルの名前だ。亜希は慌ててバッグに入れた旅程表を探す。一日目、ブカレスト キャピトルホテルで間違いない。OK、とジェスチャーを交えて答えると、ミハイも笑顔で指で輪を作った。良かった、平易な単語で意思疎通は図れそうだ。


 空港からブカレスト市街まで約三十分。二車線の国道は深夜のためガラガラに空いている。ミハイは安全運転で、亜希はホッとした。ブカレストと書かれた看板がヘッドライトに反射して光る。本当にルーマニアにやってきたんだ、と実感が湧いてくる。橙色の街の灯りが車窓を流れていく。ロータリーに立つのは大きな凱旋門だ。ルーマニアはバルカンの小パリとも呼ばれることを思い出す。


 ポプラ並木を照らす橙色の街灯がノルタルジックだ。近代的なビルの合間に建つ伝統的なバロック建築は不思議と街の景観に馴染んでいた。

 日中は雨だったのだろう、濡れたアスファルトがネオンサインや街灯を反射してキラキラと輝いている。車窓から見える風景の何もかもが異国情緒に溢れ、亜希はしきりに感嘆のため息を漏らす。


 大通りから一本裏路地へ入り、ミハイが車を停めた。目の前に年季の入ったホテルが建っている。ミハイがこの周辺は旧市街地だと教えてくれた。ミハイはスーツケースをトランクから取り出し、亜希をホテルのロビーへ案内する。


「パスポート」

 ミハイに言われて慌ててバッグからパスポートを取り出した。外国人が宿泊するときはパスポートの提示が必要だ。フロントのホテルマンがパスポートをチェックし、のんびりとした所作でコピーをとる。チェックインが終わり、ミハイが部屋までスーツケースを運んでくれた。カードキーの台紙に朝食は七時から、と手書きのメモがあった。


「モーニング、タイム」

 明日の朝、何時に待ち合わせかということか。

「ナイン」

「OK!グッドナイト」

 ミハイは一仕事終えてやっとビールが飲める、と満面の笑みで帰っていった。部屋に入りドアを閉めて、亜希は大きく伸びをした。

「無事に着いたっ」

 大きな達成感とともに、緊張の糸がプツンと切れたのか急に疲労が襲ってきた。亜希は荷物を放り投げ、ベッドに腰掛けて呆然とする。


 いけない、明日からは全力で観光を楽しまないと。亜希は奮起してシャワーを浴びることにした。設備は古くさいが、清潔でお湯も出る。長時間のフライトの疲れを熱めの湯が洗い流してゆく。


 到着するまでは心配ばかりしていたが、明日からは優しそうなおじさんドライバーと一緒にルーマニア観光だ。力一杯楽しもう。亜希はわくわくする気持ちで、気絶するようにストンと眠りに落ちた。

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