幕間ー赤い龍を背負う男

 ***一四七六年 ワラキア郊外


 残酷なほどの静寂が辺りを支配していた。遠く、雷鳴の残響が微かに鼓膜を震わせる。雲間から射す一筋の光が深い森の奥に佇む男を照らしていた。男の足元には数多の屍が転がっていた。いや、足元だけではない、周辺一帯に五十名は下らない無惨な兵士の屍が折り重なっていた。


 月の紋章を縫い付けた赤色の旗印が風に煽られ、地面に叩きつけ垂れた。その赤は兵士達の流した血で濃い赤に染まる。男は漆黒の鋼の鎧を身につけている。胸元には翼を広げる龍の紋章が刻まれている。この紋章には見覚えがあった。

 肩にかかる豊かな黒髪が風に揺れている。その骨張った力強い手には血みどろの剣が握られていた。


 噎せ返る血の匂いに亜希は思わず目を顰めた。周囲は巨大な黒い杉の木が林立する暗い森だ。大木の影に身を潜めて見る光景は、まるで映画で観る中世の戦場のようだった。曲線を描く剣や月の紋章をあしらった盾が散乱し、血だまりの中に溺れるように身を横たえる兵士の屍。


 これは、夢だ。目前に広がる光景はひどく現実離れしている、しかし、あまりにもすべてが克明だった。頬を吹き抜ける冷たい風や、湿った土と鉄錆の匂い、そして大地を染める血の赤。五感すべてが反応し、この場所にいることが本当に夢なのか分からなくなってくる。


 男がゆっくりと振り返る。木の幹に貼り付いたままの亜希は全身を駆ける恐怖に硬直する。額からじっとりとした汗が流れ落ちた。極限の緊張で口の中はカラカラに乾いている。しかし、その男から目を背けることができなかった。


 意思の強さを想像させる形の良い眉、高い鼻梁の精悍な顔立ちだ。鼻下には整えられた黒髭、その下の薄い唇は冷酷な印象を与えている。双眸はルビーのように赤く、静かな狂気を湛えていた。亜希は息を呑んだ。そこで呼吸をするのを忘れていることに初めて気が付いた。


 男の双眸がこちらを真っ直ぐに見つめている。赤い深淵に引きずり込まれる、そんな感覚に亜希は強烈な目眩を覚えた。天からの光に照らされる男の体から赤色の霧が立ち上り始めた。それは徐々に形を成していく。


「赤い龍」

 亜希は稲妻の亀裂が走る曇天を覆う龍の影を見上げ、畏怖のうちに意識を失った。

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