旅の終わり -4-

「なにっ……やってんだよお前……っ」


 明るくなり始めた空の下で、破裂しそうになる胸を押さえながら喘ぐ。

 少女の表情は、これまで見たことがないほど、空っぽな虚無に染まっていた。


「……渉瑠……センパイ……」


 少女、晴礼は、誰もいない丘の上に一人立っていた。

 いつも持ち歩いていたボストンバッグだけが足下に投げ出されている。

 旅の途中、ずっと晴礼が持っていたにもかかわらず、一度として見ることがなかった、その中身。開かれたボストンバッグの口から、細長い木箱がのぞいていた。


 その木箱がなんであるか、俺は既に知っている。


「それが……」


 晴礼が、わずかばかり悲しげな笑みをこぼす。


「そうですか……もう、知ってるんですね……」


 言って、木箱のふたを開ける。

 中に入っていたのは、黄色を帯びた白色の粉。

 いいや、違う。


 

「――これが、私のお父さんです」


 

 ボストンバッグの木箱に収められていたのは、晴礼の父親の骨、遺灰だ。


 無機質な瞳が、かつて父親の姿をしていたものへと向けられる。


「お父さん、もうずっと何年も意識がなくって、お薬とか治療とか体中ボロボロで、火葬のあとは、骨の形も残らなかったんです……」


 晴礼は俺が送り届けた日を最後に、手紙だけを残して、これまでしていた連絡をすべて絶った。嫌な予感がした叔母さんが骨箱を確かめると、中身が遺灰でないことに気がついたらしい。


「嘘を吐いていて……ごめんなさい……。実はお父さん、夏休みが始まるずっと前に……」


「ごめん」


 晴礼の言葉を遮り、俺は口を開く。


「俺、知ってたんだ。晴礼のお父さんが、本当はもう、亡くなっているってこと……」


 晴礼の目が見開かれ、そして自嘲気味な笑みをこぼす。


「やっぱり……そうだったんですか……」


 昨日叔母さんからその事実を聞かされる前、そもそも夏休みの旅を始める前から知っていた。晴礼とその叔母さんの姿を病院で見たときから、すべて。晴礼の姿は、ずいぶん以前から病院で見かけていた。同じ病院に祖父が入院している巫女同級生からも、それとなく事情を聞いていた。長期入院している父親がおり、よく病院に来るのだと。


 そして、最後に病院で晴礼と叔母さんを見かけたその日に、父親が亡くなったであろうということは、誰に聞かずともわかっていた。


「すいません。センパイ……」


 そう言い、晴礼は骨箱のふたを閉じて、そっとボストンバッグの上に置く。そして、ボストンバッグの外ポケットに手を入れた。


 取り出されたそれに、俺は驚愕に呼吸が止まった。


 晴礼の手に握られているそれは、薄暗い丘の上でも鋼色の金属が恐ろしく光を放つ。アウトドアで用いられる、刃渡り十五センチほどの鋭利なサバイバルナイフだった。


 自らの名前でもある、晴れ晴れとした感情からもっとも遠い、感情をまるで感じさせない無機質な表情で、晴礼は口を開く。


「帰ってください。ここが、私の旅の、人生の終着点の〈まほろば〉――」


 自然な動作で、小さくはあるが確実に凶器たり得る鋭利な刃を、自らの喉へと向ける。



「私は、今日ここで死ぬために、旅をしてきたんです」



 晴礼の叔母さんから渡された手紙に書かれていた、一つの真実。

 その言葉を、晴れの口から実際に語られ、俺は唇を噛みしめる。


 晴礼は、小さく笑い目を伏せる。


「ごめんなさい。こんな、こんなことにセンパイを巻き込んでしまって……。でも、お父さんが死んだ日に、私は決めたんです。私は生きていちゃいけない。私もお父さんと一緒に、死ななくちゃいけないんだって」


 だから、と晴礼は父親が眠る箱を前に、ナイフに持つ手に力を込める。


「ここで、お父さんと一緒に、死ぬことにしたんです」


 晴礼が口にすることが、頭に入らない。

 手紙を読んで、晴礼が紡ぐ事柄を事前に知っていたしても、理解などできない。


「なんで……だよ……」


 湧き出た疑問が、口から零れる。


「なんで、お前のお父さんが死んだら、お前が死ぬってことになるんだよ……っ」


 伏せられていた目が、真っ直ぐこちらに向けられる。

 迷いなど欠片もない。自分のやることが、間違いだとは些少も思っていない瞳。


「私、お父さんのこと、大好き、だと思っていたんです」


 不確かで曖昧な言葉を、晴礼は口にする。


「でも私、全然悲しくなかった……。いや、違いますね。今も、悲しいとは思っていないんです。あんなに大好きだと思っていたお父さんが死んだのに、叔母さんはあんなに泣いていたのに、私は、全然大丈夫だった」


 吐き出すように、深い絶望を露わにするように、俺が知らない内面を、晴礼は言葉にする。


「信じられなかった。私、あんなにもお父さんのことが好きだったはずなのに、お父さんが死んでから、一度も、一滴たりともお父さんのために泣けなかったんです。ようやく泣けたのが、渉瑠センパイがここに連れてきてくれたとき。やっと、旅を終えられるって、私が死ぬことができる場所にたどり着けたってことが、嬉しくて、涙が出ました」


 ずっと、不安だったことがある。疑問だったことがある。


「だって、誰も私のお父さんが死んだってことに、気がつかないんですよ? 友だちも、先生も、私を見ても、お父さんが死んだってことに気づきもしない。そうしないように振る舞ったわけでも、気をつけていたわけでもない。私にとってたぶん、お父さんの死は当たり前のことだったんですよ」


 旅に出る以前から知っていた。晴礼のお父さんが亡くなっていることを。先日、亡くなったということを。


 それでも、その事実が疑わしくなるほど、晴礼は当たり前に、これまで通りだった。友だちと談笑し、先生に頼まれ事をされ、委員会の仕事をこなし、写真を撮る。

 クラスメイトになった春から見てきた、晴礼の姿。その姿と同じものを、父親の死後も高校で見せ続けた。貼り付け続けていた。

 旅をしていた夏休みも、まったく悟らせない。素振りさえ、ほとんど見せなかった。お父さんの話を楽しそうにして、時には懐かしそうに笑って、それが普通なように。


 そんな晴礼に、俺は不安を覚えていた。


「センパイの弟さんの、進歩さんの話を聞いたとき、私は本当にどうしようもないくらい泣いちゃいました。センパイが、そんな辛い経験をしてきたなんて全然知らなくて、それを聞いただけで、抑えられなくなって、苦しくて、涙が止まりませんでした。私は、悲しいって思えるんです。でも、でもダメなんですよ……」


 すがるように、もうなにもかも諦めてしまっているように、晴礼は苦しげに顔を歪めた。


「お父さんのこと、ずっと覚悟していたんです。お父さんがいずれ死ぬってことは、わかっていたんです。そのときが来れば、きっと、私の人生で一番泣くだろうなって、思ってたんです」


 すっかり明るくなっている空を見上げる。

 晴礼の口元は、自らをあざけるような、悲しい笑みが浮かべられていた。


「だけど、全然泣けなかった。ちっとも、悲しくなかった。ただ、ああ、そのときが来たのかって、どこか腑に落ちるような感覚さえあったんです」


 自分の父親の死を前に、傍観者のように立っている自分がいたと。


「――そんな自分に、失望したんです」


 弱り切った表情で、崩れ去りそうな姿で、晴礼は笑う。


「私、なんで生きているのか、これからどうやって生きていけばいいかが、わからなくなったんです。こんな薄情な私が生きている意味なんて見つからない。生きていていい意味なんてわからない。これからも、こんな自分に失望していく人生が、嫌なんですよ……っ」


 胸が、痛んだ。

 まるで、晴礼が持っているナイフで心臓を抉り出されるような、痛みが走った。


 俺は知っている。

 この痛みを、この、思いを。


「一つ、聞く……」


 晴礼の視線が、こちらを向く。


「それならなんで、お前は旅をした……?」


 黒く染まった二つの瞳に、さらなる影が降りた。


「センパイを巻き込んでしまったことは、本当に申し訳ないと思っています。私が旅に出ようと思ったのは、お父さんと最後に訪れた〈まほろば〉に行きたかったから。それは本当です。その〈まほろば〉にもう一度行ければ、なにかが見つかる。もう一度お父さんと一緒に見た景色を見ることができたのなら、きっとそこにはなにか、私に必要なものがあると思ったんです」


 俺と晴礼が旅を始めたその日、俺は同じことを尋ね、そして晴礼も同じように答えた。

 なぜ旅をするか。

 旅の意味は、その場所にあるなにかを見つけるためだと。


「センパイも言っていた通り、私も旅で探していたんです。私が、お父さんを好きだっていう思いを。大好きだったお父さんが死んだことが、悲しいって気持ちを。私がお父さんと行った〈まほろば〉に行けば、きっと見つけられるって、信じてました。それを見つけられれば、もしかしたら私が生きていてもいいっていう、理由が、意味が見つかると思ってた。そして、私は見つけたんです。――この、〈まほろば〉で」


 空いた手を、【高ボッチ高原】の丘へと広げる。


「――見つけたのは、やっぱり私は悲しくないってこと、だけ」


 希薄でありながら、その表情は悲痛に満ちていた。


 父の死に対する悲しみではない。

 父の死を悲しくないと思ってしまっている、自分自身への、絶念に。


「旅をして、わかりました。私は、これから生きていくことなんてできない。そんな惨めで苦しい思いまでをして生きていくのが、怖い……っ」


 握られたサバイバルナイフに力が込められる。

 それほど大きなナイフではない。それでも、十分に自死たり得る凶器だ。

 わかる。俺も、同じ場所に立っていたから、立っているから、わかる。


 再び、胸に痛みが走る。


「ふざ……けるな……ッ」


 右手で胸を握り潰すように押さえつけながら、喘ぐように言葉を吐き出す。

 晴礼の視線が、ゆっくりとこちらに向けられる。


「生きていちゃいけない? 生きる意味がわからない? 生きることが、怖い? そんな苦しみを抱えているのが、お前だけだと思ってるのか!? 誰も彼もみんな、自分が生きている理由なんてわからず、それでも生きている。生まれてきたからには、生きているからには、人は生きなきゃいけないんだよ!」


 晴礼の視線が、蔑むような冷気を帯びる。


「センパイは、真っ直ぐじゃないですか。強いじゃないですか。強いから、そんなことが言えるんです。私は、センパイのように、強くない……」


 言葉が力なく揺れ、それでも振り上げられた気持ちが、はっきりと告げられる。


「センパイは弟さんが、進歩さんが死んで、その命をもらって生きているのに、前を見て生きていられるほど強いじゃないですか! そんなセンパイに、私の気持ちなんて――」


「そんなわけないだろ!」


 晴礼の言葉を破り捨て、俺は声を吐き出す。

 胸に鋭い痛みが走り、奥歯が軋み音を立てる。

 実際に裂けているんじゃないかと思うほど、鮮烈に痛みを発する胸を握りしめながら、俺は声を絞り出す。


「俺が、俺が進歩の命を犠牲にしてまで生きていられるなんて、そんなわけないだろ! 俺がこれまで、何度死のうとしたと思ってる!」


 言葉にすると同時に、胸が破裂しそうなほど痛みを上げ、視界が霞む。

 揺れる視線の先で、晴礼が驚いたように目を見開いている。


「何度も、何度も死のうとした。進歩の命をもらって生きていることが、今でも胸の中で俺を生かすために脈打ち続ける心臓が、怖くて仕方がない。それから逃げだしたくて、俺は今まで何度も、何度も死にたいって、死のうとしているんだ」


 誰にも話したことがない。父親や病院の先生や、大地たちでさえ知るはずもない、紛れもない事実。


 一度や二度ではない。俺は数え切れない回数、自殺を試みている。意識している。実行しかけている。


 【摩耶山掬星台】のような高所では飛び降りを。

 【琵琶湖】のような水辺では入水を。

 何気なく車を走らせている間の交通事故を。


 身近な場所に死ねる場所なんて溢れかえっている。それらの近くに行くと、自分の死を意識せずにはいられない。

 許されないことであり、疑いようもない獰悪であることはわかっている。

 でも考え始めると、その先にある死が、救済のように感じられる。手を伸ばせば、もう悲しみにとらわれることも、恐怖に戦くこともなく、安らかになると思えるときがある。

 それでも、ダメだった。


「でも、俺は死ねなかった。いや、進歩が死なせてくれなかったんだ」


 晴礼の考えに思考が共感し、俺も死を意識してしまうことで、今にも裂け、血を吐き出しそうになっている胸を押さえる。


「死を意識するたび、胸が、心臓が痛む。意識が飛ぶほど痛みが走るんだ。あいつが、進歩が俺が死ぬことを許してくれない! だから俺は死ねない。俺は生きられるほど真っ直ぐだったわけでも、強かったわけでもない……っ」


 何度も死に逃げようとするたび、動けなくなるほどの痛みが胸に走り、俺を生に縛りつける。


「終わったことじゃない。今でも俺が死を意識すると、心臓が張り裂けそうに痛む。進歩が俺を死なせない。俺が、今ここに生きて立っている理由は、強いからじゃない。ただ、死ねなかっただけなんだ」


 情けなく、弱々しく、誰にも告げられるはずがない事実を、吐露する。


 呼吸ができなくなるほどの痛みが収まるのを待ち、俺は再び口を開く。


「俺が生きているのは、偶然じゃないんだよ」


「え……」


 胸を押さえていた左手に目を落とす。


「俺と進歩が車にはねられたとき、進歩は突っ込んでくる車に気がついていたんだ。あいつが、俺の手を引いて、突き飛ばした。だから俺はあいつほど重症じゃなくて、まだ助かる余地があった」 


 今でも、あのときのことは記憶に刻み込まれている。

 事故直前、会話をしていた進歩が驚いたように目を見開き、そして突然、俺の手を掴んで突き飛ばした。


 直後衝撃があって、俺の意識は暗闇に埋め尽くされた。


「俺は……」


 言葉が揺れる。


「俺は、あいつから守ってもらって、その上であいつの命をも受け取ったんだ。あいつの全部をもらって、俺は今、生きている。あいつにこれだけのことをしてもらってまで生きる俺の命の意味が、俺にわかるわけないんだよ」


 一人の命の意味でさえ、俺にはわからない。

 それなのに弟の、進歩の命と二人分の命を背負っているこの命の意味なんて、もっとわかるわけがない。


「それでも、俺は進む」


 はっきりと口にした言葉に、晴礼の表情に泣き出しそうに歪んだ。


「ひとりぼっちになって帰ってきた家に、待っていてくれたものがあったんだ」


「……」


「家の机の上に、鍵とメモが置かれていたんだ。『好きに使えばいい』って」


 淡泊で、それでいてあの人があのときにできた精一杯の応援。


「誰もいなくなった家に、唯一、プリウスだけが待ってくれていた。納車されているってことは聞いてた。見ても俺は、あまりいい気持ちを持てないだろうなって、思ってた。でも車庫の中で、光の当たらない場所で一人俺を待ち続けていたプリウスに、進歩に、俺は言われた気がしたんだ。――前に、進め。って」


 そして。 


「目的も、たどり着きたい先も決まっていない、終わりがあるともわからない。でも、あいつの心臓が、あいつが俺を生かすまで、俺はあいつと一緒に旅をしようって決めたんだ。目的地も、終わりも決まっていない旅だけど、ずっと、ずっと先まで」


 胸の中で、答えるように脈動があった。


「これが、俺が旅の始まり。この胸の傷とプリウスが、俺の旅のきっかけだ」


 山々を吹き抜けた風が、後押しをするように俺の体を吹き付ける。


「俺は、これからも前に進む。進まなくちゃいけないんだ。あいつからもらった命を、あいつと父さんと一緒に手にしたプリウスと、あいつと過ごしたたくさんの思い出を、あいつが行けなかった場所まで連れていってやるために。見せてやるために。今でも、時々死にたくなることはある。それでも、それはやっぱり間違いだって、あいつが痛みを伴って教えてくれる」


 心臓が脈打つと同時に、ずきずきと痛むそれ。

 でも、その痛みにはあいつの優しさが帯びていることを、俺は知っている。


「だから俺は、探すために旅をする。これからも、旅を続けていく」


「…………」


「一度起きたことも、犯した過ちも、自分ではどうしようもなかった出来事もなにもかも、過去を取り返すことはできない。立ち止まって振り返ることはできても、戻ることはできない。でも、俺は信じてる。過去がどんなものであっても、どれだけ辛く苦しいものであっても。俺が進むことの道が、出会った人たちが、訪れた場所場所が、意味のあるものだと信じてる」


 間違っているかもしれない。正しいとしても、それが正しいとわかる日なんてこないかもしれない。それでも――


「胸の鼓動が消えるまで、こいつが俺を生かすまで、あいつからもらった命を少しでも前に進めるために、俺は旅をする。その旅の先にきっと俺が、あいつの命をもらって生きている意味が見つかられるって、信じてる。俺は、俺が生きる意味を探すために、旅をしているんだ」


 俺と晴礼は、同じ場所に立っている。

 俺も自分の命に、まだ意味なんて見いだせていない。

 でも俺は、この先の未来にきっと、俺が生きていたことがよかったと思える瞬間があると信じてる。

 それを探すために、旅をしている。


 俺も結局、晴礼と同じなのだ。


「でも……っ」


 晴礼は辛そうに顔を歪め、自らに向けているナイフへと視線を落とした。


「でも、私にはなにもない……。私が旅の中で見つけたのは、自分がどれだけ醜い人間かってことだけだったんですよ。お父さんが死んでも悲しくないっていうことだけ。お父さんなんて好きじゃなかったってことだけ。なにも――」


「なにもないわけ、ないだろ」


 晴礼の言葉を遮り、俺は告げる。


「お前はこの旅で、なにも得たものはなかったのか? たしかにどれだけ旅をしたところで、なにも手に入らない旅だってある。見つからないことだって、意味がないと思える旅だってある。でも、それでもお前は、この旅がなにもない、空っぽだったって思うのか? 湊川さんとの旅で、大地と渚との旅で、千波さんとの旅で、俺との旅で、本当にそこに、なんの意味もなかったって、本心からそう言えるのか?」


 晴礼が言葉に詰まる。


「あいつらと出会って、悩んで、触れ合って、そこでお前が感じていた気持ちは、ただ上っ面の仮面だけだったのか? 貼り付けた仮面だけの、無意味なものだったのか?」


 湊川さんや渚の悩みを真剣に聞いて、千波さんの旅館の手伝いを楽しそうにやって、俺の心根を聞いて肯定してくれた姿に、嘘偽りなんてなかった。


 それは、晴礼とともに旅をしてきた俺には、はっきりとわかる。


「でも……それでも……っ」


 晴礼は泣き出しそうに顔を歪める。

 首元に突きつけられているナイフに、再び力がこもった。


「それでも、私にはなにもないんですよ。私には、お父さんへの気持ちも、もっともっと一緒にいたかった時間も、お父さんが死んじゃったのに、一度も泣けない! ただなにもないように笑うことしか、私にはできない。みんなみたいにどれだけ悩んでも、前に進むことも、探すことも……! そんな私が、私は、私には――」


 俯き視線が外れた瞬間、晴礼に近づき、その手に握られていたナイフを手の甲で弾き飛ばした。


「あっ――」


 晴礼の手から剥ぎ取られたナイフは、柵の向こうへと飛んでいく。

 当たり所が悪く、手の甲が裂けて痛みが走る。


 俺は血が滴る手で、そのまま晴礼がナイフを握っていた手を掴み取った。


「離してッ!」


 俺が掴んでいないもう一方の手が振り上げられ、俺の頬を打つ。

 乾いた音が響き、頬に鈍い痛みが広がっていく。


 それでも、掴んだその手は離さない。


 俺は、進歩に手を引いて、助けてもらった。

 あいつからもらったこの命で、今度は、俺が誰かを助ける番だ。


 俺を叩いたのに、まるで自分自身を叩いたかのように痛みを露わにする晴礼を前に、俺は口を開く。


「……俺も、晴礼になにかをしてあげられる自信なんてなかったよ」


 唇を噛み、こちらを睨む晴礼に、俺は言う。


「晴礼を旅に連れていくことを決めた一番の理由は、晴礼にも探してほしかったからだ」


「え……」


「俺は、晴礼のお父さんが亡くなっていることを知っていた。晴礼がお父さんのことをどれだけ想っているかも知っていた。だからお父さんが亡くなって、それから高校で普段と変わらないお前の心が普通じゃないってことも、最初から全部わかっていた」


 晴礼の手を掴んでいない方の手を、ズボンのポケットに入れる。


「晴礼が俺と一緒に旅に行きたいっていう姿に、俺は自分と同じものを感じたんだ。生きる意味がわからなくなって、それでも生きる意味を、探す気持ちを」


 初めから全部知っていた上で、俺は晴礼とともに旅をすることを決めた。


「だから、わかるよ。なにもないわけがない。お前の中にある想いは、ここにある」


 ポケットから取り出したそれを、掴んでいる晴礼の手に握らせる。


「これ……お父さんの、スマートフォン……」


 晴礼の手に握られるそれは、一台のスマートフォンだ。黒いボディの所々が擦り切れて白い地が見えており、使い込まれた年月を感じさせる。


「お前の家に行って、借りてきた」


 電池が切れているため起動はしなかったが、車で充電はすませてある。


「電源、入れてみろ」


 なにを言われているのか、わからない様子だった。


 それでも晴礼の指を、無理矢理電源ボタンの上に置く。

 戸惑いながら指に力が入り、数秒後、真っ暗だった画面に光が灯る。

 ゆっくり、ゆっくりと画面が切り替わっていく。

 やがて、灯ったディスプレイに、待ち受け写真が表示される。


「……っ」


 そこに表示されていたのは、まだ元気だったころと思われる晴礼のお父さんと、中学生くらいの晴礼が、笑顔で寄り添い写る写真だった。


「これが……」


 ただ、それだけの写真だ。


「これが、なんだって――」


 言葉が途切れる。

 画面の中央に、文字が表示される。



『受信中』



 スマホが旧式だから、この場所の電波状況が悪いからか、読み込みが非常に遅い。

 だがそれでも、続く。


「この旅で、なにも得られなかったなんてことは、絶対にない。お前は、この旅で確実に見つけたものがあるだろ」


 受信されたものは、メールだ。


 思うように体が動かなくても見られるようにしているため、待ち受け画面に受信したメールの文章と添付ファイルがまとめて表示していると、以前言っていた。

 しかし意識もなくなって、見ることもできなくなって、それっきり充電されることもなく荷物の中で眠り続けていたスマートフォン。


 一文とともに表示された画像は、どこまでも続く桜の回廊。日付は、もう何年も前だ。

『もう桜の季節だね。病室の窓からは見える?』


 また受信される。

 空一面を埋め尽くす満天の星空に流れる、幾本もの流星。

『初めて流星群撮れた! お父さんが元気になりますようにって、百万回お願いしといたから! 早く元気になってよね?』


 受信される。

 大海原の上を大群をなして羽ばたく、無数の白い鳥。

『渡り鳥の群れがすごいよ! いつか私もまた、旅に出てみたいな。お父さんとの旅、本当に楽しかったんだよ?』


 また、受信される。

 雲の切れ間からのぞく綺麗な青空にかかる、大きな虹色の橋。

『雨上がりの虹! おっきいすごい! 最っ高! お父さんも早く見てね?』


 受信される。

 今よりも少し幼げな、晴礼の制服姿。

『高校生になった私の姿を見よ! ふ、服に着られてる感がすごいけど、その辺はご愛敬っ。に、似合ってるよね!?』


 また、受信される。

 寝室から撮影したと思われる、揺れるカーテンと夕焼けの空。

『風邪引いたー。お見舞いに行けなくてごめんね。治ったらマッハで行くから! 楽しみにしててね?』


 受信される。

 受信される。

 受信される。


「あ……ああ……っ」


 受信される。

 また受信される。

 また、受信される。


 なんとも思っていないわけがない。

 なにも、感じていないはずがない。


 広大な青々とした空に、高々と立ち並ぶ、大輪のひまわり畑。

『お父さん、いつ退院できる?』


 心の奥底に押し隠した感情とともに、ぽたり、またぽたりと、スマホを濡らしていく。


「ああ……っ」


 ずっと一緒に旅をしながら、すぐ側で見てきた。


 大事そうにいつも持ち歩いている、晴礼の小さな手には不釣り合いな一眼レフカメラ。

 旅を続ける中で、そのカメラで〈まほろば〉を撮り続け、そして写真をメールで送る。

 楽しげとも寂しげともとれる表情でメールを送り続ける晴礼の姿を、ずっと見てきた。

 返事があるわけがないとわかっているのだ。それでもメールはすべて、送信相手に問いかけるように終えられている。


 そこに宿る一縷の望みは、正真正銘、晴礼の心の欠片。


 お父さんのことをなんとも思っていないわけが、ない。

 いつも、これまでも、そして今も変わらず晴礼の中に確実に存在する、お父さんへの想いが、晴礼の手の中へと降りてくる。


 数十、数百をも超える言葉と写真に込められた、晴礼の想い。


「おとう……さん……っ」


 スマホに触れる手に力が込められ、止まることなくあふれ出した涙が、また落ちる。


 なにもない。なんとも思っていない。

 無意識にそう思い込まなければ、平穏を保つことができなかった、晴礼の心。

 でも、向き合わなければいけない。


 受信は、続く。


「お父さんとの旅の思い出を、探したかったから旅をしたんだろ? お前がお父さんと一緒に旅をした場所は、ここだけじゃないんだろ?」


「……は、はい……もっと、もっといっぱい、ありました……っ」


 涙を流しながら、晴礼は頷く。


「その旅は、悲しいものなんかじゃなかっただろ? 楽しかったんじゃないのか?」


「……楽しかった……?」


「幸せだったんだろ?」


「……っ」


 我慢をするように目を瞬かせるが、それでも涙は止まらず落ちていく。


「晴礼が探そうとしていた悲しさは、最初からなかったんだよ。お父さんとの旅は、悲しいものなんかじゃなかった。楽しい旅、幸せな旅だったんじゃないのか?」


「はい……っ。楽しかった……幸せだった……」


 揺れる言葉が漏れる。


「私……お父さんとの旅が、本当に楽しかった……幸せだったんです……っ」


 父親という大切な人を失った事実から、目を背けずにはいられなかった自分自身が、このメールには映っている。


 俺の知っている景気が映った。


 【大平山展望台】からの夕焼けに染まる山並み。

『これからお父さんと行った〈まほろば〉を探す旅に出ます! 必ず見つけるから、待っててね?』


 【摩耶山掬星台】の夜景をバッグに、湊川さんと一緒に撮った写真。

『一緒に旅をした夏帆ちゃんね、お父さんとお母さんのことが大好きなんだって。私も、お父さんのこと、こんな風に思えてた? 私、お父さんのこと、好きだったんだと思う?』


 【伊勢神宮】から帰ったあとに撮った、大地と渚とのバーベキュー。

『お父さんから教えてもらったアウトドアスキルが役に立った! 絶賛だった! 大地さんと渚ちゃん。二人の悩みを聞いたんだけど、みんないろんなことを考えて生きてるんだよね。お父さんは、私はどうすればいいと思う?』


 【下呂温泉】を出る際に、千波さんと俺と三人で撮った写真。

『旅館でお仕事手伝ったよ。この旅館に、私もお父さんと来てみたかったな。それとね、私を旅に連れていってくれたセンパイの、話を聞いたの。センパイも、こんな辛い思いをしたんだって知った。私は、どうだったのかな。お父さんがいなくなっちゃたこと、悲しく思ってるのかな?』


 俺たちがともに歩み、旅をしてきた〈まほろば〉が、次々と受信されていく。


 そして、【高ボッチ高原】からの景色を最後に、メールの受信が終わる。

『お父さんが最後に連れてきてくれた場所は、今でも最高に綺麗な〈まほろば〉だったよ。お父さん、ありがとう。ずっとずっと、ありがとう』


 最後の言葉は、問いかけではなく、終わっていた。


 数日前に送られたばかりのメールにも、晴礼の心が映っている。

 何気なく、おそらくそれほど意味も考えずに、自分が今考えていることを書いただけの文面。

 写真とメールに宿る気持ちは、たしかに晴礼の中に存在する、お父さんへの想いだ。


 瞳からあふれた涙が、また頬を伝って落ちる。


「晴礼、見てみて」


 掴んでいた手を引き、晴礼を今の景色へと導く。


 【高ボッチ高原】から見える諏訪湖、富士山、さらにその向こうから、世界を照らし出す太陽がゆっくりと昇ってくる。

 晴礼がお父さんとの最後の旅で目にした、【高ボッチ高原】からの日の出の景色。


 世界が、光り輝いている。


「う……あああ……っ」 


 崩れ落ちた晴礼は、父親が眠る骨箱を抱え、涙を、嗚咽を漏らす。


 俺そっと晴礼の体を抱き寄せた。


「まだまだ、もっと探しに行こう。お父さんとの、楽しい思い出を。幸せな思い出を。俺も、付き合うから」


「はい……はい……っ」


 俺の胸の中で、晴礼は何度も、何度も頷き、そして涙を流す。


「うああ……っ……うわああああああああっ!」


 深い深い慟哭とともに吐き出される、これまで晴礼の中に眠り続けた暗い悲しみ。

 だけどそこにはたしかに、お父さんへの、大切な想いがあった。


 どこまでも綺麗で美しい景色を前に、果てしなく深い思いとともに、ずっと自分自身の中にあった想いを、晴礼はきっと――。

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