旅の終わり -2-

「今頃、みんな困ってるだろうな……」


 一人呟く言葉が、すごく空々しく響く。


 しとしとと雨が降り注ぐ中、私は真夜中の岡で一夜を過ごした。数日前に訪れたばかりの、小高い丘に作られているログハウスのテラス。私はテラスの隅に体を小さく丸めて座り込み、降り注ぐ雨をただ眺めていた。


 暗い空から、いくつもの雫が落ちてくる。つい先ほどまでは大雨だったが、ようやく落ち着いてきた。この分なら、日が昇るころには雨が上がってくれるだろう。


 腕時計で時間を確認する。何時間か前に日付が変わり、九月二日になっていた。岡山に戻ってきた私は、少しだけ家に立ち寄ると、そのまま岡山を出た。スマホや余計な荷物は、すべて家に置いてきた。この夏休み肌身離さず持ち歩いていたボストンバッグの他は、財布くらいのものだ。


 カメラも、置いてきた。もう、必要のないものだから。


 私が住んでいた家は、私の叔父さんと叔母さんの家だ。でも、早朝は二人とも家にいないことが多い。旅を終えたあの日も、帰っても誰もいなかった。


 その間に、必要なことはすべて終わらせた。


 叔母さんたちへ手紙を書き、このあとのことは、どうにかなってくれるだろう。

 自分がなにをやっているのか、なにをしたいのか、今でもよくわからなくなる。なにが正しくて間違っているのかなんて、もう私にはわからなくなってしまった。


「センパイ……怒るだろうな……」


 雨音にも掻き消えるような声で呟く。

 私が行きたい〈まほろば〉を探すというお願いに、夏休みすべてを使って付き合ってくれた、心優しいセンパイ。


 きっと、すごく怒る。ものすごく怒る。はっ倒すって。


 だけど、もう決めたこと。ずっと前に決めたこと。

 センパイへの手紙も、家に置いてきている。私がいなくなったあとで、叔母さんたちが渡してくれるはずだ。

 迷惑も、かけてしまう。


 でも、私は……。


 どろどろと沼の底に染まった澱のように濁った気持ちが、さらに暗く胸の内に広がっていく。

 心とは対称的に、空は光を帯び始めていた。気がつけば雨は上がっていた。雲は少なくなり、空には晴れ間がのぞいている。冷えた空気が肌を撫で、雨上がりの香りが鼻を差す。

 すっかり固くなってしまった体を無理矢理起こし、立ち上がる。

 湿った空気に渇いた口から吐息を落とし、ぬかるむ地面に足を踏み出す。


「行こう――」


 自らに言い聞かせるように、呟く。

 心の中にもう迷いはない。


 つい先日、センパイに手を引かれて歩いた道。

 初めてここに来たときは、お父さんに手を引かれて。

 先日、二回目に訪れたときには、センパイに手を引かれて、この道を歩いた。


 そして、今度は一人で歩く。一歩、また一歩と。


 こうしようとあの日決めた。決めてしまった。お父さんと最後に訪れた〈まほろば〉にたどり着けてもなお、なにも見つけられなかったのなら。今でもその考えに変わりはない。

 スカートから出た足を雫を滴らせる草が濡らしていくが気にもならない。靴が泥だらけになっていくが、どうだっていい。


 頂上へ、たどり着いた。


 九月に入ったばかりの早朝。しかも先ほどまで大雨が降っていたこともあり、下の駐車場にも、頂上の展望スペースにも誰もいなかった。

 雨雲は抜けていた。眼下の諏訪湖と富士山までまばらに雲は残ってはいるが、それでも十分に視界が晴れてくれた。


 正面の景色がよく見える柵際まで歩いていく。

 あのときと同じように、ただ静かに、景色を眺める。

 地平線が、わずかにオレンジ色の光を帯びている。

 あの日、日の出を見てから帰ってもいいよと言ってくれたセンパイの言葉を、私は断った。

 このときのために、見ないでいたかったから。


 この〈まほろば〉、【高ボッチ高原】からもう一度日の出を見るとき――



 私は、自分の人生を終わらせようと決めていた。



 肩にかけていたボストンバッグを、そっと地面へと下ろす。濡れた土から水を吸ってしまうが、もういいのだ。

 そっと、ボストンバッグのファスナーを開けて、中のものに視線を落とす。

 もうすぐ、日が昇る。


 そのときが、すべての――

 

 不意に、背後で音がした。

 

 濡れた地面をふみしめる、人の気配。

 ただ、誰かが来たという気配だけがあった。それなのに、振り向かずとも、誰がそこにきたのか、わかってしまった。


「ハァッ……ハァッ……」


 喘ぐような荒々しく乱れた呼吸が、丘を撫で下ろす風とともに響く。


 その人の雰囲気を、声音を、息づかいを覚えてしまうほど、長い時間をともにしてきた。

 今、一番この場所にいてほしくない人だ。

 先ほどまでなにも感じなかった手足が、真冬の氷を押し当てられたように凍り付く。


 体が震え、やってきたその人物が誰かわかっているにもかかわらず、振り向き、それでもそこにいる人物に、驚きを隠せなかった。


「なにっ……やってんだよお前……っ」


 苦しそうに胸を押さえ、荒々しく呼吸し、私を睨み付けているその人。

 その双眸には、これまで見たことがないほど鮮烈な激情が宿っていた。

 


「渉瑠……センパイ……」

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