第8話:生まれゆくノスタルジック・アイデンティティー

「トワっ」


「うん、大丈夫」


 眩しさで滲む視界はまだぼんやりとしている。ツグムは佐伯さえきトワの腕の中にいた。彼女の体温を感じながら、一定のリズムで揺れているのは列車に乗っているからだと分かる。薄緑色の長椅子が並ぶ車内に乗客はいない。天井から伸びているつり革が、時を刻む秒針のようだった。


 線路沿いに立ち並ぶいくつもの鉄塔が、車内の床に断続的な影の流れを映し出す。何度も時間が巻き戻されるように、等しい影の動きが延々と繰り返されていく。それは、歩みを進めるたびにスタートラインから一歩も進んでいないというような錯覚に似ているけれども、変化がないことは、今のツグムにささやかな安定感をもたらしてくれた。


「ここは……」


 地下鉄に乗り込んだツグムは車内の椅子に腰かけるとそのまま眠ってしまったらしい。ホームに列車が滑り込んできた風景の続きは、ツグムの頭から綺麗に欠落していた。


「まだ目覚めが不完全なのだと思う。眠るときには自分を見失わないで。ほんとうのことは、頭の中で作り出されるイメージや解釈ではなくて、いつだって目の前にしかないのだから」


「ほんとうのこと?」


 トワは彼の問いに答えるでもなく椅子から立ち上がり、乗降口に近づくと車窓を流れる景色を見つめた。線路に沿って並ぶ鉄塔は、延々と続く高圧電線を支えている。その向こう側には真っ白な風車がいくつも立ち並んでいた。風車に取り付けられた巨大な羽は、ゆっくりと同じ速度で、そして同じ方向で回転している。それは風という自然の力が羽を動かしているというよりはむしろ、風車自体が意志を持っているかのようにさえ見えた。


「地下鉄、いつの間にか地上を走っていたんだね」


 ツグムはそう独り言のようにつぶやくと、乗降口上に設置された路線図のパネルに視線を向けた。新宿は彼にとって聞き覚えのある地名だった。しかし、地名と結びついている記憶を探しても、その欠片や断片さえ掴むことができない。再生されない風景を、言葉が残す余韻だけがつないでいる。


 他に見覚えのある地名を探してツグムは路線図を追う。自分がかつて東京に住んでいたこと、高校進学をきっかけにどこかの郊外へ移り住んだこと、その時系列はわりに鮮明だが、いくら記憶をたどっても文脈を欠いたフィルムの一コマしか見つからない。


 東京に住んでいたころの自分を定義づけるものは明らかに限られていた。その理由さえ分からない。断片的にコマ送りされる、ノスタルジックな情景の中で、おぼろげに浮き上がるアイデンティティ―。いくつかの細切れの景色の中で、一瞬の鮮やかさを残していたのは、駅のホームに停車している銀色の列車と、その外装に赤く光る東亜メトロ株式会社のエンブレムだった。


「父さん……」


 そう、東亜メトロが全線開通したのは、ツグムが小学生に入学したころだ。全線開通式典で、駅のホームから無人で運行される新しい交通システムを見せてくれたのは彼の父親だった。それがあの新宿三丁目のホームだったかは分からない。ツグムが記憶の断片から拾い上げたのは、父親の広い背中と新しい未来の象徴としての新都市交通システム。そして同時に理解できたことは、父親も母親も、今は既にこの世にいないということ。


 東亜メトロは全線で無人化を達成した最初の新都市交通システムだった。列車を運行、管理しているのは東亜メトロ株式会社と田邊重工株式会社が共同で立ちあげた新東京都市開発機構である。東京下町を中心にスマートシティーを構築する壮大なプロジェクトで、その中枢管理システムとして稼働していたのが田邊重工製の人工知能、「ミソラ」だ。エリア内の信号機、公共交通機関、無人物流システム、あるいは電力需要に予測に基づく効率的な給電をも可能にした。


「次の駅で降りるわ」


 トワの声にツグムは現在位置を路線図で確認する。次の到着駅を知らせるランプはつつじが丘駅を示していた。やがて列車は滑らかに減速すると、再び地下に潜っていく。窓から入り込む暖かな光が消え、車窓は再び闇に包まれた。ツグムは窓ガラスに反射した自分の姿を見つめる。


 ほんとうの自分、それは今ここにいる自分なのか、それともハルタやサオリと過ごしたあの教室の中にいる自分なのか。あるいは、そのいずれのものか、いずれでもないものか。結局のところ、人間は目の前の因果性を深く信じ、世界は打てば響くようになっていると信じているけれども、ツグムにとって、今その信念の是非が問われていた。列車が停車すると、音もなく開く乗降口を降り、二人は灰色のプラットホームに足を延ばす。


「駅の外に出るには、ここから行くのが一番に安全だと思う」


 日本の総人口が都市部に集中する中で、新都市交通システムの主要駅には居住エリア、商業エリア、オフィスエリアなどの経済、産業、生産、居住拠点が集まるようになった。どの駅にも、街が直結して一つの社会が、そして生活が営まれている。ここ、つつじが丘も例外ではなかった。


 改札を抜けると、隣接している商業エリアの狭い通路を抜ける。通路脇には食料品を扱うマーケットをはじめ、生活必需品から嗜好品まで数多くの店舗が並んでいる。しかし、二人の目の前に広がっていたのは、客でにぎわう商業施設のあるべき姿ではなく、ただ埃が降り積もり、静寂に包まれた抜け殻だけだった。


「誰もいないんだね」


 あけ放たれた店舗のシャッター奥は闇に包まれている。深海の奥底で眠る中身のない二枚貝のように、そこにあるのは生活の痕跡であり、暮らしの遺構である。


「ツグムも見たでしょう? みんな眠ってるの」


「でも、眠っていない人もいたよ」


「自分の言葉を持たぬ人たち……。あの本を燃やしていた男性のように」


 二人は常夜灯のみが照らす薄暗い商業エリアの地下道を奥へと進む。やがて目の前に現れたのは、居住エリアの巨大なエントランスと、天井から入り込んでいると思しき外の光だった。エントランス内部は広く、高層集合住宅と直結しているようだ。しかし、広大な床には、やはりカプセル状の生命維持装置が大量に並べられ、ここでも多くの人がその箱庭の中で眠っていた。


 生命維持装置の微かな作動音に包まれながら、ドーム状になったガラス張りの天井から差し込む光が、宙を舞うチリや埃を乱反射していく。その光景は人間社会がたどり着いた最後の楽園のようにさえ見えた。床はところどころ崩れかけ、隙間から茶色の泥が覗き、生命力あふれる緑の雑草が生い茂っている。天井を支える太い柱には、つる性の植物が幾重にも巻き付き、上層で緑の葉を揺らしていた。


 湿気を孕んだ空気がよどみ、このエリアはそう遠くない未来に緑で埋もれてしまうかもしれない。それでも人は夢を見続けるのだろうか。


 エントランスを抜けると景色は無機質な金属パイプが複雑に入り組んだ構造物に囲まれていく。壁にはいくつもの配管がうねり、天井には電気コードがむき出しのままどこまでも続いていた。作業用機械の大きな音が至る所で響いてくる。きっと工業エリアなのだろう。何かを生み出すという作業が、無人の都市となった今でも続いている。


「この工場を超えた先に地上へ出る通路があるわ」


「ここでは何を作っているのだろう」


「街が何かを作るとしたら、あのカプセルの中身を満たしている液体か、レーションのようなものよ」


「街が作る?」


「見て、ツグム。あそこに人がいる」


 トワが指さした先に見えたのは、階段状に編み上げられた鉄骨に上に座っている、一人の中年男性の姿だった。釣り糸のようなものを垂らしてして微動だにしていない。彼の後方には、やはり得体のしれない作業用機械が、その巨体を震わしていた。


「あれは……、眠らない人」



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