第9話:倫理のエッジにたたずむ青い光
複雑に編み上げられた鉄骨の下は、どこまでも深い闇が続いていた。工業エリアを分断するように横たわる巨大な空洞。あたりに充満している湿気から、水の流れがあるのだと分かる。鉄骨の隙間から覗いている細い配管から、時おり濁った水が勢いよく吹き出していた。
ツグムが男のすぐ真横に立った時、彼は釣竿を上下に小刻みに揺らしながら、勢いよくリールを巻き始めた。何か獲物がかかったらしい。ほどなくして闇の中から顔を出したのは、どす黒いウロコをまとった大きな川魚だった。
「ノゴイね。この下を流れているのは多摩川よ」
「お嬢さん、物知りだねぇ。僕も忘れかけていたよ。ここの生まれなのにね。そう、多摩川さ。そして今僕たちがいるこの場所は、かつて巨大な堤防があった場所なんだ」
そういった彼は、手際よくノゴイから釣り針を取り外すと、脇に置かれた青いバケツの中放り込んだ。中には氷が入っているのだろう。エラ呼吸ができなくなってしまったノゴイは、バケツの中で大きく暴れていたが、やがて灰色のベルトコンベアーが動き出すと、後方で大きな音をたて続けている産業用機械の奥に吸い込まれていった。
「私もここの生まれよ」
「そうかい。それはよかった。この街はささやかではあるけれども……。うん、よい街さ」
「おじさんが釣っている魚はどうなるのですか?」
ツグムは再び闇に吸い込まれていく釣り糸の先を見つめる。ノゴイは機械の中で適度に加工され、トワの言うとおりレーションの材料になるのだろうと分かっていたが、この世界の眠らない人間が単純な問いにどう答えるのか知りたかったのだ。
「さあねぇ。僕はただ、こうして命の連鎖の中間にいるだけさ。生きている魚を釣って、それをあの機械の中に送る。残酷だと思うかい?」
食材として加工されてしまえば、そこにあった命の痕跡は見えないけれども、ほんとうに大事なことは命と命の連鎖に、命あるものが関わっていくことの必要性なのかもしれない。だからこそ、ツグムは目の前の男が命と命を綱く大切な仕事をしているのだと感じた。
「いえ、大切な仕事だと思います」
「回りくどいだろう? こんなこと……。なぜいまだに僕がやっているのか。僕自身が理解できないんだ」
「何なら、すべて街がやればいい、そのほうが効率的……」
トワはそう呟くと、ツグムの隣にしゃがんで、彼がそうするように釣糸の先を見つめた。
「そう思うだろう、お嬢ちゃん。まったくその通りさ」
二人の会話の片鱗に、この世界の大切なことが、いくつか散りばめられているのだろうとツグムは思った。でも今は何も問うてはいけない。そうした空気の重さのようなものも同時に感じていた。
「ええ。でもわたしはそう思わない。だからここにいるのよ」
「ほう……」
「生命は、それ自体が非生産的な現象として進化してきた。だから非生産的なことをあえて残すことで、まだ人がこの世界にいるのだと、そう実感していたい。それがこの完全な世界に唯一残された不完全性なのよ」
一級河川と呼ばれるだけあって、川幅はとてつもなく広い。対岸にも工業エリアは広がっている。眠る人だらけのこの世界で、それだけの生産性が必要なのかと考えてしまうくらい巨大な街並みは、人の生活を支えるためというよりは、この街を動かしている得体のしれない何かのために存在していると考えたほうが合理的だ。
「トワ、あれ……」
ツグムが指をさした川の対岸には、巨大な倉庫がいくつも並んでおり、オレンジ色に光る常夜灯の群れは、闇夜に浮かぶ軍事要塞のようだった。その倉庫の周辺を濃紺色のエンフォーサーたちがせわしなく動き回っている。背中から延びる触手で黄土色のコンテナを器用に持ち運び、それを床に配置されたベルトコンベアーに乗せている。
「エンフォーサー……」
倉庫の壁面塗装は赤茶色のさびで覆われ、下地の薄緑色にまだらの染みを作っていた。まるで迷彩色を施したような壁には『南東京総合物流センター』の文字がかろうじて読める。
ツグムは目の前の男が着用している紺色の作業服にも、南東京総合物流センターのロゴマークが刺繍されていることに気が付く。かつてはセンターの作業員だったのだろう。
「あなたは眠らないのですか?」
「眠るかどうかを僕が決めることはできないんだ。眠りは人の所有物ではないんだよ」
ツグムの問いにそう答えた男は、小さくため息をついた。
「所有物……」
やがて沈黙を破るように男はリールを再び巻き始める。引き揚げられたのはやはりノゴイだ。まるで映画のワンシーンを繰り返し再生するように、先ほどと全く同じ動作で魚から釣り針を外し、青いバケツに放り投げる。その振動を感知したベルトコンベアーがノゴイを加工機械の奥へ運んでいく。
単純作業の繰り返しの中に埋没することの恐ろしさ。繰り返される行為の無限性に意味や価値を見失わないように、有限の設定の中で意味や価値を取り出すことができるかどうかが、人の生活を支える基本条件ではなかったか。目の前の男は人間の振る舞いというよりはむしろ、作業用機械の一部品のような、そんな存在になり果てているようにさえ見えた。
「ツグム、そろそろ行きましょう。何となく嫌な予感がするの」
「いやな予感?」
「あのエンフォーサーたちを見て?」
対岸にたたずむ一機のエンフォーサーが二人をじっと見据えていた。頭部の視認センサーは青色に点灯していたが、人間と同じように外界を認知しているのであれば、ツグムとトワの姿を容易に補足していることだろう。背中から延びる触手が奇妙に八の字を描いていた。
「僕らを見ているのかな」
「あるいは……」
そういって、トワはゆっくりと立ち上がった。ツグムも彼女に続く。
「もう行くのかい、君たち。なら、これを持っていくとよい」
そう言って男がトワに手渡してきたのは、いくつかのレーションパウチだった。
「限定品だ。とっておきたまえ」
その緑色のパッケージには「ウメワサビ改」とだけ書かれている。
「本物だよ、それは。巷に出回っているウメワサビ風ではない。ほんとうの美味しさがそこにはあるんだ」
トワは軽く頭を下げると、男から手渡されたレーションパウチをリュックにしまった。
「ありがとう、おじさん。あなたの仕事は決して単純作業の繰り返しに終わらないはずだわ。人から眠る自由を取り返すための最後の抗い。そうだったのでしょう。人が人として守らなければならないこと、より豊かな社会のために何をしなければいけないのか、それを自分自身とは別の価値基準に照らして省察し続けることを倫理と呼ぶのよ」
人は行為の理由がないと不安になる。だから倫理という人間特有の問題が立ち上がる。価値基準を上から押し付けられるのではなく、自分がいる場所に根ざして、その時々で生き方を考えていくこと。
「倫理……。お嬢ちゃん、難しい言葉を知ってるね。さあ、気を付けてお行き」
そういって男は再び釣糸を垂れた。
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