第7話:リアルは認識か、実在か。それが問題だ

 近郊列車の二駅は、都市部のそれと比べればはるかに距離が長い。列車に乗っている時間は十五分くらいだけど、歩けば二時間はかかるだろう。

列車から降り、二人が木造の駅舎を抜けると、視界に飛び込んできたのは、どこまでも続く広大な田園風景だった。


「……この景色」


 ツグムとサオリの間をすり抜けていく微かな風たちが、田に張られた水面を波立たせ、映りこむ夕暮れ時のオレンジを揺らす。それを日常と呼ぶには何かが足りないと、ツグムはそう感じていた。


「早く行かないと面会時間終わっちゃう」


「お、おう。その前に駄菓子屋……だよな」


 二人は田圃道の間を縫うように歩く。駄菓子屋に通じる路地裏への近道だ。このあたりの住民は、そのほとんどが農業を営んでいる。木造の家屋と広い庭をぐるっと塀で囲んでいる古い家が多い。石で積み上げられた塀がうねる小道は、巨大な迷路のような錯覚を覚える。


「ちょっと待っててね、すぐに買ってくるから」


 そういってサオリは薄暗い駄菓子屋の屋内に足早に消えた。軒下につり下がっている季節外れの風鈴が、カランと乾いた音を立てる。駄菓子屋を囲む石塀から真っ白な猫が軽やかに降りてきて、路地裏に消えていった。


――白猫の行く先……。完全でも不完全でもない現実。


 誰だっけ。白猫の行く先に導いてくれたのは……。


「誰……だっけ……」


 そう呟いたとたん、急に激しい動悸がツグムを襲った。こみ上げる吐き気と鋭い胸の痛み。ツグムは大きく深呼吸をして瞳を閉じる。繰り返し、繰り返し空気を肺にたっぷりと吸いこむ。

 少しずつ鼓動のリズムが戻ってくるのを感じながら、ゆっくりと瞼を開いた。


「お待たせ。行きましょっ」


「あ、ああ」


 目の前にはビニール袋を手にしたサオリが立っていた。紺色のスカートが夕暮れの風に揺れている。


「大丈夫?」


「うん、平気さ。って、そんなにたくさん買ったのか?」


「あたしも食べたいからねっ」


 ハルタの入院している病院までは歩いて十分ほどだ。決して大きな病院ではないけれど、複数の診療科を標榜している総合病院だった。一般外来の受け付けはすでに終了しているらしく、待合室の明かりは消えて薄暗い。正面の自動ドアも施錠された後で開く気配も感じなかった。二人は救急外来用の通路から病院に入ると、そのまま病棟に向かった。


「どこの部屋だったかな……」


「三階でしょう。立原くん、なんか今日、ほんとに変だよ?」


「変とか言うなっての」


 そういってツグムは無理に笑って見せた。笑わなければ感情の不安定さが、情動の不安定さに変ってしまう気がしたから。


 ハルタの病室は大部屋だったが、他に入院中の患者がいないため、広い個室をあてがわれたようなものだった。病床の窓ガラスから夕空を眺めていたハルタは、二人に気が付くと、人懐っこい笑顔で出迎えた。


「暇なんだよね。時間を持て余してる。人間はさ、食事を摂らないと生きてはいけない。でもね、食事を摂っているだけでも生きていけないのだと知ったよ。やれやれ……」


「また難しいこと言ってる。そんな理屈っぽいから大柳くんはいつまでたっても彼女ができないのよ。あのね、物事はシンプルに考えないと。立原くんみたいに」


「おいっ、それってどういう意味だよ」


 サオリはビニール袋からウメワサビチップスの袋を取り出しながら、冗談冗談と、笑いながらその封を開けた。


「ツグムはむしろ単純に物事を考えられないのさ。それに、単純なことを考えることって案外難しい。それは人の幸福を考えることに直接的につながっているからね。生活の中の幸せというものを疑似的に作れるのかなって、僕はずっと考えていたのだけれど、まあその答えが何となくわかった気がするよ」


 はいはい、と聞き流すサオリの横で、ハルタはじっとツグムを見つめながらニヤリと笑った。その笑いからハルタの人懐っこさが消えている。不気味な彼の笑顔に、ツグムは鳥肌が立った。首の後ろから冷や汗がゆったり伝っていく。


「サオリ、これはもしやウメワサビじゃないか?」


 それはまるで時間が止まったようだった。ハルタであって、ハルタではない存在。一瞬だったけれども、目の前にいるハルタはツグムの知る大柳ハルタではなかった。


「立原くんも食べなよ。あれ、なんか顔色悪い?」


「悪い、ちょっと外出てくるわ……」


「ツグムっ」


 ハルタの鋭い声に病室の出入り口に向かった歩みを止める。


「ツグム、ありがとうな」


 振り返れば、いつものハルタの笑顔があった。


「あ、ああ。すぐに戻るよ」


 ツグムは病室を出ると、こみ上げる吐き気を抑えながら、急いでトイレに駆け込んだ。意識が飛びそうになる中で、あの胸の苦しみに三たび襲われる。洗面台にうずくまる彼は水を飲もうと水道の蛇口をひねった。


――考えるな考えるな考えるな考えるな。考えてはいけない、ツグム。


 頭の中に響くハルタの声。ひどい頭痛だ。水の流れる音は勢いを増し、ツグムの脳内を占拠する。


――本当のリアルに視線を向けないと、軸足のようなものが消えてしまう。それはとても怖いことなんだ。


「本当のリアルってなんだ。あいつは、あいつはいったい誰だ……」


――言葉にした瞬間、夢は夢でなくなるんだ。大事なのはリアルな言葉だよ、ツグム。


 両腕から力が抜けていく。いや、自分以外の誰かが自分に入り込んできて、その他者に体の自由を奪われる感覚に近い。鏡に映る自分の姿さえ自分だと感じない。


――知性が言葉を支配するのではなく、言葉が知性を支配することがある。


「だから文学は、言葉は、文字は危険な思想なんだろっ!!分かってるさっ」


 肩に掛けていた学生鞄がドサっと、床に落ちてその中身が散らばっていく。いくつかの教科書やノートの隙間から、見慣れない本が除いていた。


 ツグムは呼吸を整えながら床に屈んで本を手に取る。茶色のハードカバーで装丁された表紙にはタイトルが書かれていない。彼は最初のページを震える手でめくった。


『はじめに言葉があった』


「この本は……」


 決して暑いわけではないのに先ほどから汗が止まらない。額から、頬から、首の後ろから。全身からゆったりと粘り気を帯びた汗が噴き出してくる。


――言葉というのはそれほど難しい技術なのさ。だからこそ危険でもある。危険は排除しなくてはいけない。


「誰だ……頭の中にいるのはいったい誰なんだ」


『言葉は神と共にあった』


――私は神など存在しないと思っているんだ。無神論者と言うそうだよ。でも、この世界で最後まで残すべき本を一冊だけ選ぶのだとしたら、間違いなくこの本さ。


『言葉は神であった』


――世界の外側に、今ここではないどこかに……。君はそんな景色に興味がある?


「トワ!?」


『この言葉は、初めに神と共にあった』


佐伯さえき……トワ」


――わたしは意味よりも先に、言葉に宿るかすかな音に耳をすませたい。


「トワっ!!」


『万物は言葉によって成った』







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