第六章 情侶旅館(ラブホテル)

「あっ」

 リンは小さく叫んで、時計を見た。

「灯りが一つ消えたわ」

 窓の外を見たが、無数の光源の中から消えた一つをさがしだすことなど出来ようはずがない。

「こんな早い時間に眠るのかしら」

「残業を止めたんだろう」

「ラブホテルだったのかもしれない。これからアレをするとこだったのよ、きっと」

 リンはそう言って室内を見渡した。

「ここは、ラブホテルじゃないぜ」

「いいえ、ラブホテルよ。ここは窓の大きな情侶旅館チンリゥリゥグァン

 数えるほどしか部屋がなく古びてはいるが、上品で落ち着いたおもむきのホテルだ。日本式ラブホテルの雰囲気など微塵みじんも無い。ボーイが客を部屋まで案内するし、レストランもルームサービスもある。常連じょうれんの泊まり客を何人もかかえた普通のホテルである。

「英語にはラブホテルなんて単語はないわ。恋人同士は普通のホテルやモーテルに泊まるし、ストリートウォーカーは安ホテルのすみっこの部屋を常時キープしている。泊まる目的でホテルの性格は変わるのよ。男女が二人で泊まるなら、どんなホテルでもラブホテル」

「君が僕とここに泊まる理由は?」

没人情味的男人メイレンチンウェイダナンレン。半年も離れていた男女がホテルですることなんか決まってるでしょ?」

 リンは呆れ顔をした。

「ビエンナーレの受賞祝い?」

野暮やぼな奴」

 今度は日本語で言った。

「上海の娼婦を取材したことがあるの。コミュニストの国なのに、コールガールもストリートウォーカーも大勢いたわ。その中の一人に、あなた方の仕事場は何処かっていたの。そうしたら、当り前のことを何故質問するのかって顔をして、情侶旅館チンリゥリゥグァンにきまってるじゃないかって言うのよ。この国にもラブホテルが在るのかって訊いたら、今度は笑い出したわ」

「その記事は読ませてもらったよ」

 リンは、娼婦の言葉をそのまま記事にした。

…情侶旅館 が無い国なんて地球上の何処にもない。あんた、この国の男と女は性交シンチィアォ しないと思っているんじゃないだろうね。結婚しなければ二人で住む家はもらえない。党は結婚を奨励していない。それなら、結婚できない情侶カップルはどこでむつみあえばいいのさ。革命より戦争より宗教より抱き合うほうがはるかに精神面貌的メンタルだから、学校が無くたって図書館が無くたって情侶旅館だけはちゃんと在る。たとえ今日、ミサイルの百発も落ちて町一つ消え失せても、明日の朝にはきっと情侶旅館が建っている。小さなラブホテルが幾つも幾つも建っている。たとえ今、くにひとつ潰れる間際まぎわでも情侶旅館は満員で、今日はちょっと忙しいんだと今日の男は今日の女を抱き、今ちょっと暇が無いのよと、今の女は今の男と寝るのよ…

「連れだって泊る男女にとって、ホテルは抱き合って眠る場所よ」

 リンはほこらしな顔をした。


 アンは僕を、ラブホテルに連れていった。日暮れ時だった。

 南風みなみかぜ街中まちなかを抜いて吹いていた。

 自分の仕事場を見て欲しいと、アンは僕を誘った。

「男の人が先に入るのです。女の人を外に放っておいて、さっさと入るのです。そうすると、女の人は男の人を追いかけて入るのです」

 先にさっさと入ったのはアンの方だった。

「アンじゃないの。こんな時間に、どうしたの?」

 隙間すきまと言った方がいいような狭い窓口から、初老の女が顔をのぞかせた。

「わたし、今日はお客よ」

 アンはハンドバックを開けようとした。それをせいして、僕が財布を渡す。

 アンが男物の財布から紙幣を出すのを見た女は、部屋の鍵を渡しながらアンの手を握り、アンの耳元で何かささやいた。

「ありがとう、小母おばさん」

 アンは中年の女に言葉を返し、エレベータに向かった。

「この部屋、一番好い部屋なの」

 キーホルダーに彫られた部屋番号を、アンは指でなぞった。

「小母さん、気をかせたのね」

 三階でエレベータを降りたアンは、慣れた足取りで先導した。

 ホテルが建てられたのは、二十数年前だろう。改装を重ねたらしく、建物の構造と内装が調和していない。

 廊下の端まで歩き、アンは部屋のドアを開けた。

「ここが、一番良い部屋?」

 がらんとした洋室に、頑丈がんじょうそうなダブルベッドが一台置いてあるだけだ。高級ホテルまがいの装飾やてらった「設備」は全くされていない。

 海の男と港の女には、清潔で頑丈なベッドが一台あれば充分だ……ホテルの経営者は、この部屋にそんな意味づけをしたのかもしれない。

「そう、私が一番好きな部屋です」

 ベッドサイドに行ったアンが厚いカーテンを開けると、小さな窓が現れた。縦三フィート、幅二フィートほどの片開き窓だ。ベッドに座って外を観るのに丁度ちょうど好い腰高こしだかだった。

 外の景色には見覚えがあった。

 窓の直ぐ下を向こうに走る細い路は、幅の広い道路と直角にぶつかっている。その道路は、ビルとビルの間から部分的にしか見えなかったが、冬の初めアンの姿を撮影した場所に間違いなかった。

「この窓から、私の故郷ふるさとが見えるのです」

 アンは窓を、さらに開けた。

 幅の広い道路が街の南北をつらぬき港へ真っ直ぐに続いている。アンは方角をあやまっている。窓から海は見えない。窓の開けられた先に、彼女の国はない。

「ほら、あそこにイーストセレナが見えるでしょう?」

 細い路地の陰に、セレナと書かれた看板が見えた。

「マリと健さんは、イーストセレナで逢いました。毎日毎日、逢いました」

 東セレナを閉めようかと店のママが言った際、マリが激しく反対した理由がわかった。

「マリは健さんをこの部屋に連れてきて、ユウワクしたのです」

 アンは首を傾げて僕の視線を求めた。目が合った瞬間、僕にはアンの決心がみえた。

「ここに座って」

 アンは、ベッドを軽く二度叩いた。

「待っていて下さい」

 アンは、窓を閉めカーテンを引いた後、バスルームに向かった。

 彼女がどんな格好で其処そこから出てくるか、僕には見当けんとうがついていた。

「アンは先生にれているよ」

 前日、僕は川口一から電話をもらっていた。

「先生、言いにくいんだが……あんた、アンを嫁にもらう気があるかい。アンを嫁にもらう気がねえんだったら……」

 川口は言葉に詰まった。

 言いたいことはわかると、僕は返事をした。

「あんなにアンの面倒をみてもらっているのに、すまねえ。昔、俺の舎弟しゃていで、外国あっちの女といい仲になった奴がいたんだ。赤ん坊が生まれてすぐに出入でいりがあってな、数えるほどしか自分の子供を抱かねえで死んじまいやがった。相手の女は子供抱えて泣きながら自分の国に帰えったよ。其奴そいつは女房もちだったんだよ。先生は出入りで死ぬなんてことはねえだろうけどな、あんたにも女房みてえな人がいるんだろ?」

 川口は、僕とリンの関係を知っていた。

「先生、俺はあんたを見ていると、その舎弟のことを思い出しちまうんだ」

 つらそうな口調の川口に、わかったから安心してくれと応じて、僕は電話を切った。

 アンは、裸身にバスタオルを一枚巻いただけの格好で、浴室から出てきた。

「私、先生にお礼をしていなかったでしょ? 写真を撮ってくれたお礼をします」

「僕は、お礼なんかいらない」

「それなら、普通の恋人のように、私をクドいて」

「今日じゃなくてもいいじゃないか」

 アンは首を横に振った。

「今日じゃないと駄目なの」

 アンは隣に座り、身を寄せてきた。

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