第五章 家族のスナップ

 娘を抱く若い母親…写真を観る者は十中八九、そう思うだろう。被写体の二人はそろいのセーターを着ているし、アンの眼差まなざしが、子供を抱く母親の眼差しそのものだからだ。しかし、彼女の膝にのっている女の児はアンの子供ではない。マリの五歳になるむすめだ。

 アンゴラ風の毛糸でんだセーターのけばが背景の窓から入る外光をたくわえて、二人の輪郭をまばゆいほどに輝かせている。

 逆光ぎゃっこうこうし人物の露出を得ようと絞りアイリスを開けたため、窓外の風景は白く飛んでしまった。

 強い陽光に輪郭をかされせ細った帆船はんせんのマストが画面に淡い影を残している。二人の服装が冬服でなければ、きっと真夏の風景に見えるだろう。

 写真のアンは実際の年齢より四、五才けて見える。長い髪を後ろで束ね、額をあらわにしているせいだ。写真学校での撮影以来、アンは髪型を変えた。

 食べかけのフルーツパフェと栓を抜いたビール瓶が二人とカメラの間に置いてある。

 湾内の人工島に造られた遊園地。その北側にある海上レストランに、三人はいた。

「あのお船に乗ったら、ママの国に行けるかな?」

 マリの子供は、湾内を遊覧ゆうらんする小型の客船を指さした。

「いいえ、あなたのママの国は遠いでしょう? だから、飛行機に乗って行くのです。いつかあなたも、パパやママと一緒にママの国に遊びに行けたらいいね」

 遊びにね……と、アンは念を押すように言った。

「ママの国とパパの国、どっちがいい国なの?」

「どっちもいい国よ。ママが生まれた国も、パパが生まれた国も、みんないい国。アン小母おばさんが生まれた国もね」

 アンは対岸たいがんの街に眼をった。

 アンははしゃ いでいた。

 彼女はモデルの仕事をもらった。撮影は一週間前に終わっている。彼女にしてみれば並はずれた額の報酬も受け取った。

 広告代理店で働く友人にアンのポートレートを見せ、モデルとして使ってくれるよう頼んだのだ。彼は眼科医学の専門誌にせる広告のモデルにアンを起用きようした。

 写真は、水薬みずぐすりが眼球の表面ではじける瞬間の大写しアップだった。

 眼科医薬メーカーの研究室を借りて、撮影は行われた。

 白衣の立会人。医療用光学機器というべきいかめしいカメラ。広告写真撮影の雰囲気などまったくない。手術着を着せられたアンは眼科手術用の椅子に座らされ、顔を天井に向けたまま頭部を器具で固定された。

 モデルと云ってもパーツモデルである。鼻梁びりょうと眉の一部が画面内にかろうじて写り込むだけだ。その写真を見てモデルがアンであることに気付くのは、彼女の知り合いだけだろう。

 専門誌に掲載される広告だから、写真が一般人の目に触れることもない。それでもアンは喜びを隠そうとしなかった。撮影にはまる一日かかったが、アンは始終しじゅう陽気で、撮影スタッフや立ち会いの眼科医たちを愉快にさせた。

私の最初の成功マイ・ファースト・サクセスよ」

 お祝いをすると言って、アンは食事に誘ってくれた。

「土曜日の夜、先生と二人でディナーね。私、ドレッシーにキめて行きます」

 ところが当日の昼になると、アンは電話を寄越よこし、予定を日曜の朝に変更して欲しいと言った。そして翌日の朝、アンは待ち合わせの場所に子連れで来た。子供とお揃いのセーターにジーンズという格好である。

 三人はチャイナタウンを通って臨海公園まで歩き、桟橋さんばしから遊覧船に乗った。船は五十分ほど湾内を巡り、遊園地のある人工島に着いた。

 子供に求められるまま島内の遊戯施設ゆうぎしせつまわり、午後の一時過ぎ、ようやく食事をることになった。

「ビールがテーブルにあると、ファミリーに見えるでしょ」

 アンは勝手にビールを注文した。

「あのね、あたしのパパも、ビール、好きだよ」

 子供は、川口夫婦がアンに付けて寄越よこしたお目付役めつけやくだ。僕とアンの間に何かがあってはいけないとの配慮はいりょだろう。土曜の夜のデートも、アンは禁止されていたに違いない。

「連れていって下さいと、マリに頼まれたのです。仕様しょがないね」

「ショガナイネ」

 子供がアンの真似をした。

「こら、今日、アン小母さんはママの代わりでしょ? ママを馬鹿にする、いけません」

「じゃあ、パパのかわりは?」

 子供がアンを見上げた。僕はシャッターを切り、二人の瞬間を記録した。アンの部屋に飾ってあった母子おやこの写真と同じ構図になった。

「パパのかわり?」

 アンは、ビールびんしに、カメラをもつ僕を見た。


「天使とのデートは楽しかった?」

 窓ガラスに一組の男女が映っている。充分に深くなった闇を背景としたその鏡像きょうぞうは、立体的で現実味を帯び、まるで窓の内側にいる彼らのあるじたちとは別の人格をもつかのようだ。

い年の小父おじさんが自分の娘のような年頃の女の子を腕にぶら下げて、よく恥ずかしくなかったわね」

「恥ずかしかったよ」

 僕が静かに見つめ返すと、リンは、我に返ったように大きくまばたきをした。

 リンは直ぐにおだやかな眼差しに戻り、

「ごめんなさい。ただの嫉妬しっとよ」

 と、うつむいた。

「私、あなた以外の男と寝たことがないの」

 今度は、僕が瞬きをする。

「驚いた? USの東洋系移民って結構保守的なの。大抵の女の子は処女のまま結婚するし、父親の許しがなければ結婚しない。私なんか、これでも進んでるほう」

 だから……ただの嫉妬よ、とリンはもう一度、うつむいた。

 窓の鏡像たちは、僕等と同じ表情をして、何を語り合っているのだろう。彼らは今にも立ち上がり、室内の二人を無視して夜景の中へと歩き去るのではないか。

「さっきの話に戻るけど、娼婦を写したいと思うことあるでしょ?」

「うん」

 娼婦は魅力的なモチーフの一つだ。

 写真家なら、一度は娼婦を撮りたいと思う。娼婦はの人間に限りなく近いからだ。彼女たちは自らを飾っていては暮らせない。自らをいつわることが出来ない。

「他の理由で、娼婦を撮りたいと思ったことがあるはずよ。私、娼婦にのめり込んでしまったカメラマンを大勢知っているわ。カメラマンは四六時中しろくじじゅう、被写体と付き合うでしょ。彼らは娼婦達と一緒に暮らして、あることに気付くの。私も取材していて同じことを感じたわ。普段の彼女たちがセクシーなこと。普段の彼女たちは、吃驚びっくりするほどセクシーなのよ。あなたが撮ったアンのようにね」


「先生は、ビールが嫌いですか?」

 アンは、コップにそそがれたビールを見た。泡はもう消えてしまっている。

「僕は、お酒に弱いんだ。ちょっと飲むだけで、酔ってしまう。酔っぱらうと、何を言うかわからない。アンを口説くどくかもしれない」

「クドク? 今日辞書持っていません。どんな意味?」

言い寄いいよるって意味だ」

「イイヨル? もっと解りません」

 首を傾げた後、アンは目を閉じ、クドク、クドク……と、小声で繰り返した。

 注がれたままのビールをテーブルに残し、偽りの家族は席を立った。

 父親代理は片腕で子供を抱き上げながら、レシートを手に取るアンに財布を渡そうとした。

「払っておいてくれ」

「今日は、私がお礼をするの。だから、私のオゴリよ」

「この国のママはパパにオゴらない。お金はいつも、パパの財布からママが出す」

 笑いながら言うと、アンはしばらく考えてからうなずき、押しつけられた財布を受け取った。

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