第24話 回想の渓谷(四)

 翌朝、その日は曇り気味で薄暗い朝だった。遠くの山並みも一部が雲で遮られ、以前のような絶景は望めない。谷の中はまだ夜の雰囲気をたっぷりと残した冷気が静かに地をっている。


 ユングヴィは泊めてもらった家屋から物音を立てないように抜け出すべく、行動を開始していた。まだ周囲は暗いが、目立たないように発光石はっこうせき発光花はっこうかの類は使わずに荷物をまとめる。室内の分かりやすいところに、お世話になった礼として贈答用の腕輪と短刀を置いていった。クィスに協力することで、ある意味、この村の人々を裏切ることになる。だが、世話になった方々への恨みはない。本当ならちゃんとお礼は言いたかったが、今は見つからないことが第一だ。

 

 寝泊りした部屋と同一建物内にある馬屋に行き、馬を連れ出そうとすると使用人らしき少年が小屋の掃除をしていた。急用を思い出して急いで出る事になったと話し、主人によろしくと言い含める。この少年にも世話になったと、質は悪いものの北方で採れた夕焼けの海のような色合の海琥珀うみこはくを与えた。少年は喜び、丁寧にこちらを見送ってくれた。ユングヴィとしては早く村人の視界から消えたかった。


 さて……いるかな、あの子


 周囲に目を走らせながら、クィスが待っているはずのやぶへと、意識して慌てずに向かう。人気はほとんどないが、褐色にくすんだ緑が混じった草本の絨毯じゅうたんがどこまでも続く、そんな谷のところどころで羊の群れが動いている。少しは起きて家畜の世話などをしている者がいるのだろう。近くによるとそれは細長い星杉ほしすぎやぶだった。やぶと言うには隙間が多く寂しいが、星杉ほしすぎの独特の星型の葉がなかなか絵になる。その一番たくましい杉の陰に隠れるように、全身を布で隠した「それ」が潜んでいた。


「やあ、クィスかい?」

「!」


 布の下から少女が顔を出す。クィスは緊張した面持ちで黙ってこくんとうなずいた。その脇には彼女の荷物なのだろう、小さな袋が一つ置いてあった。持ち出すものがこれしかないというのか。


「では、我慢していてくれ。今、峠を越えてしまえば日の出の後に追手が来てもすぐには追いつけないだろう」

「……一応聞いておくわ。なぜ、山道を行くの? 目立たない? 私が言うのも変だけど、うちの村人は山道は慣れているわよ?」


 もちろん、それはそうだろう。なにせ、こんなすごい渓谷でずっと暮らしている民なのだから。


「空気が温まると峠道を横切る小川の水量が増えるんだ。山頂の雪が溶けるんだろうね。小川とは言うが、そうなったら渡るのにてこずるはずだよ」

「へぇ……なんでそんなこと知っているの?」


 少女が感心したように言う。


「何度も来ているからさ、何度も、ね」


 もう来れなくなるだろうけどね、心の中でそう付け足した。


「やっぱり貴方に頼んで正解だったわ。あとは気を付けて」

「……うん、山道のことかい?」

「違うわ。追手が来たらどうするのよ。アオルシには風使いがいるから」


 アオルシの民は風の民とも呼ばれる。風を使うという伝承があるのだそうだ。クィスの言い方は気になったが、そろそろ出発しないといけない。伝承については後でゆっくり聞こうと思う。

 クィスを革袋に隠し、出発する。馬に乗せる際に、袋がじたばたと暴れたが我慢してもらう。予定通り、小川を渡り、峠を越えてその日の夕方にはその向こう側へたどり着いた。ここはもうクィスが見たことがない世界だ。


「もう出ていいの? 本当に大丈夫?」


 峠を越えて、革袋から出てくるようクィスにうながすとそう言われた。


「気に入っちゃったかな、袋の中」

「やめてよ、くっさいの我慢してたんだから!」


 軽口を言いながらも、クィスはしばらくの間、息を荒くしながらもずっと周囲を不安そうに警戒していた。せっかくの谷の外の景色を楽しむ余裕もなさそうだ。


「この後のことだけど、北方に行くと大河のそばに大きな街がある。そこで旅装を整えて東方に旅をしようと思う。この先もついてくるかい? それとも街でお別れして後は自力で生きていくかい?」

「自力でなんて無理よ。少なくとも今は無理よ」


 ユングヴィは黙ってうなずいた。東方にはターグという大きな国ができたと聞く。以前、大陸東方に旅をした時は戦乱続きでとても旅をするどころではなく、その手前、東方の国々からは「西域さいいき」とか「漠土ばくど」と呼ばれている地域を主に巡って帰って来た。不安定な権力に支配された地域も多く、危険な場面も何度かあったが、大きな国が成立したのならば以前よりも安全に旅ができるはずだ。隊商による交易への依存が高い、大陸中央乾燥地帯の人々にとって大きな国の支配は交易の安全につながるものであり、そうでなければ困るものだからだ。


「じゃあ東に行こう。砂漠がある。君のいた谷とは違い、非常に乾燥しているが親切な人々が住む地域だ。その先には一面に穀物が実る広大な沃野よくやがあり、赤い提灯が夜の街をにぎやかに照らしている。その先は私も行ったことがないが、海があるらしい。行こう、地の先へ」

「もし、もしもだよ、追手が……」

「心配かい。もう峠は越えた。可能性がないとは言わないが、この先に追手はそう簡単には来れないはずさ」



   ◇



 ところが、追手はすぐに来た。どこをどう追ってきたのか分からなかったが、峠の先、より北に行ったところにある湿原でアオルシ族特有の灰色の衣装に身を包んだ二人の男が追ってきたのだ。アオルシ族の男が被る灰色の頭巾には、二人とも同じ模様が、二つの環をくぐった矢印が金色の糸で刺繍されていた。同じ一族の出身なのだろう。


「おや、何か御用ですか? 忘れ物はした覚えはありませんが……」


 そうとぼけてみたものの、背後にいるクィスの存在はもう見られている。言い逃れはできないし、聞く気もないのだろう。男たちは無言で迫って来た。


「右の若い方がカンビレ、左の髭がある男がガマス……母の親族よ。気を付けて、特にガマスは風を使える」


 後ろからクィスがそう教えてくれた。


「前にも言ってたけど、その風を使うってなんだい? 伝承の中で……」

「伝承なんかじゃないわ! 私たちは本当に風を使える! 風を操れる! 油断しないで!」


 クィスの叫びと同時にアオルシの若い男の方、クィスがカンビレと呼んだ男の方が剣を抜き、一気に踏み込んでくる。この辺りの山岳部族によく見られる、鈍い黒色を呈したまっすぐな両刃の剣だ。


「いい剣だね!」


 こちらも右手で腰の剣を抜いて切り結ぶ。エルフの剣は握りやつばに装飾が入っているが、刃自体は癖のないまっすぐな剣だ。力任せに何度か斬りかかったが、カンビレの剣の使い方は安定していた。素早く背中にかけている皮製の鞄の下に隠してある、ルームで手に入れた剣を左手で抜く。


「おっと! なかなか楽させてくれない……だがっ!」


 二本の剣をカンビレの剣の先と根本に、上下の二方向から叩き込む。その勢いでカンビレの剣は回転しながら弾き飛んでいった。


「そこまでだ!」


 右の剣をカンビレの喉元に突きつける。カンビレは何も言わずただ切っ先を見つめていた。ガマルという髭の男はその後方で何か祈るような姿勢のままこちらを静かににらんでいる。


「君たち、ガマスとカンビレと言ったか」


 二人の男たちは、それぞれそのままの姿勢で静かにこちらをにらみつける。


「君たちにお願いがある。退いてくれ。君たちの立場もあると思うが退いてくれ」


 二人の男たちは無言のままだ。何を言っているんだこいつ?とでも思っているのだろう。


「私は真面目に言っているんだ。退いてくれ。このままだと君達を……」


 言っても退いてはくれないだろうな、と諦めていた。


「……君達を殺すしかもしれない」


 カンビレが瞳に危険な光を宿すと、こちらの足元に飛びかかって来た。体勢を崩そうというのだろう。その直前に剣の柄で側頭部を殴り、よろめいたところを蹴飛ばす。カンビレは勢いよく地面に頭から突っ込んで倒れた。この辺りは湿原の植物が堆積している。大したケガはしていないだろう。


「まだやるかい?」


 もう一人の男、ガマルの方を向き、剣を持ったまま踏み出そうとしたその時だった。今まで黙っていたガマルが口を開いた。


「ジンよ! 我の声を聞け!人より先に生まれ、かげに潜む者よ!タヤンの金色の目を恐れ、我の意に従え!」


 ガマルのしわがれた声と共にパンッという破裂音が聞こえたような気がした。次の瞬間にはユングヴィの体は突風に吹き飛ばされ、体三つ分は離れたところに生えていた木に叩きつけられた。


「な、なんだ……」


 背中を強打し、声が出ない。息が苦しい。ガマルが視界の端で何か動きをした。遠くでクィスが悲痛な叫び声をあげた気がした。


 また風が来るっ!


 咄嗟とっさにそう予感する。両腕で顔を覆った次の瞬間には大小幾つかの石が突風と共に体に飛び込んできた。


 ……!!


 両腕と左膝、いや体のあちこちから鈍い痛みが走り出す。混乱する頭の奥で、クィスの言っていたことが想起された。これが風を使うということなのか。


「エルフよ、お前は大したやつだ」


 ガマルが初めてこちらに話し掛けてきた。ただし、勝ち誇った口調で。また風を使う気なのだろうか。何やら祈るような動きをしながらゆっくりとこちらへ歩いてくる。


「それだけの剣技を持ちながらカンビレの命を取らないでくれたことは感謝しよう。だから殺さぬ。殺さぬが、クィスは返してもらう」


 さらにガマルの口が動く。きっとまたあの祈りの文句を唱えたのだろう。次の瞬間、ユングヴィの体の周りの空気がぐるぐると渦を巻き始めた。周囲の草や泥を上空へ跳ね飛ばしたかと思うと、小さな竜巻が現れる。


 竜巻に閉じ込められた?


 右手で握っていた剣はどこかにいった。左手で握っていた剣を竜巻に突き出す。


「あぐっ!?」


 剣は風に弾き飛ばされるかのように上空へと飛ばされてしまった。これではこの竜巻から出ることはできなそうだ。


「無駄だよ。そこでずっと反省していろ。旅人が村娘を連れ去ることの馬鹿らしさをな」


 ガマルはカンビレのもとへしゃがみ、顔を叩いて意識を確認する。


「ちっ、気絶してやがる……クィス! 何のつもりか知らないが、村に帰るぞ。村でお仕置きは覚悟するのだな」

「嫌よ!」


 ガマルの話が終わらないうちにクィスが激昂げっこうするかのように拒絶の声を上げる。


「これは私がそのエルフにお願いしたことよ! あんな両親のもとになんか帰らない!」

「子供がわがままを言うんじゃない! 大人には大人の事情がある。小さいうちはそれに従いなさい」

「嫌ったら嫌っ! 私は、私はいらない子なの!」


 目の前の竜巻のせいでよく見えないし、よく聞こえないが、クィスが泣きじゃくりながら反論していることは分かった。


「父さんも母さんもあんなに私のこといらないくせいに! なんで、なんでこんな時だけ私にかまうの! そんなに姉さんの嫁ぎ先との関係を切りたくないの!? だったら、だったら可愛がってる妹でも送ればいいじゃない! なんでこんな時だけ私なの!」


 ガマルはクィスの言葉の洪水にも動じた様子はなかった。


「大人には大人の事情がある。その話は後で家でやりなさい。抵抗するならお前を気絶させるくらい……」


 ガマルがそこまで言った時、クィスが地面に座りこみ、何かを始めた。


「クィス? お前、まさかっ!?」


 竜巻の中に囚われていてもクィスが何をしようとしているのか分かった。ガマルがさっきやったのとよく似た動きだ。風を使おうというのではないか。


「クィス! 止めなさい! 女にできることでは……!」


 ガマルが説教を放棄して祈りの姿勢に入る。対抗しようというのだろうが、遅かった。クィスが宣言するかのように、両手を組んで空へと突き出す


「ジンよ! 我の声を聞け!人より先に生まれ、光を渇望かつぼうする者よ!アルタンの青い目を恐れよ! 我の前より立ち去れ!」


 またあの破裂音がした。気が付けば竜巻が消えていた。クィスが消したのだ。次の瞬間、ガマルの早口の詠唱が終わり、突風がクィスを吹き飛ばすのが見えた。ユングヴィは素早く視界の隅に剣を見つけると、跳ねた。


「しまった!」


 同じ人間といえどもエルフの一族の動きについてこれる者などいない。ガマルの背後へと跳躍し、剣身の面でガマルの顔を強打する。一撃で十分だった。ガマルの体はその場に崩れ落ちた。


「クィス!クィス! 大丈夫か!?」


 クィスは少し離れた地面に横たわっていた。咳き込んでいるが意識ははっきりしているようだ。ガマルとカンビレの様子を観察し、しばらく動きそうにないことを確認してからクィスを抱き起こす。


「クィス! 立てるか!?」


 何度か咳き込んだ後、クィスは絞り出すように声を出した。


「……大丈夫、なんとか……ふ、二人は死んだの?」

「いや、気絶しているだけだ」


 クィスが安堵する。追手とはいえ、親族に死んでほしいとは思わなかったのだろう。


「あいつらを少し面倒くさい結び方で木にでも縛り付けてくる。そして、意識を取り戻す前に逃げよう」

「待って!」

「なんだい?」


 クィスはユングヴィにすがりつくようにして立ち上がった。


「貴方の名前、聞いてなかったわね。貴方が風にやられた時、なんて呼べばいいのか分からなかったじゃない」


 彼女らしい口調が戻ってきた。


「ああ、そうだったかな。ごめんね。イングヴァールだ」

「へっ?」


 聞こえなかったらしい。

 

「私はヘルギの子イングヴァールだ」

「イングヴァール……? 発音しにくいからユングヴィでいい?」

「……好きにすればいいさ」

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