第23話 回想の渓谷(三)

「見て、もうすぐ日の出よ」


 少女が東の方を向く。もう空に藍色のベールはない。まだ日は出ていない。だが、山の背後まで太陽が来ている。それは、東の山々の背後から強烈な光線が空に向かって放たれている様子からうかがい知ることができた。


「貴方、異国から来たんでしょ?」


 少女が最初に投げかけた質問をもう一度繰り返す。ユングヴィはその質問にちゃんと答えていなかったことに気が付いた。


「貴方の見てきた異国の空ってここと同じなの? 太陽の色も見え方も日の出の鮮やかさも同じなの?」

「うーん、どうだろうね」


 なぜかこの質問には答えたくなった。


「同じところもあるが、違うところもある」


 我ながら当たり前のことを言っているなと思う。だが大事なことなのだ。


「私の故郷には海がある。青くて、灰色で、とても冷たいが、生きる力を与えてくれる」

「海?」


 この少女は海を知らないらしい。ここは周囲を、氷河を抱く山岳に囲まれた盆地にあたる。海は遠いはずだ。見たことはないだろう。


「海、信じられないほどたくさんの水が溜まっていて、その深さは計り知れない、見たことないかい? 」

「湖じゃないの?」

「もっと大きい。知っているかい? 船で海の上を行くとね、どこまでもどこまでも海が続いていて、陸が見えず、最後にはこの世の最果てに行き着くと言っている者もいるんだ」


 気が付くとユングヴィも少女も夢中になって海について語り合っていた。エルフは航海も得意とし、海上交易や海賊行為で生計を立てている者も多い。ユングヴィの父も海の果てを目指して航海し、数年に渡って大洋をさまよったこともあった。船乗りたちが持ち帰る話は面白かった。やれ見たことのない土地を発見しただの、未知の部族を戦っただの、洋上に浮かぶ氷の城を発見しただの……小さい頃は、そんな怪しくも不思議な話を喜んだものだった。


「へぇ……この世の最果てって何? どんなところなの?」

「それは私も分からない。私の父が友人とその最果てを目指したが、とうとう行き着かずに帰って来た。その道中で空を舞う光や怪魚など不思議なものを見たそうだが、とうとう最果ては見ることはできなかったと言っていたよ」

「じゃあ、誰か最果てを見たことのある人は?」

「いないんじゃないかな」


 少女はふくれっ面をした。その表情や湖底の澄んだ水のような青い瞳には、当初は見られなかった無邪気な色が宿っていた。


「じゃあ、なんで最果てがあるって分かるの?」

「ないわけがないじゃないか」

「はぁっ!?」


 もう少女はそもそも何の話をしに、ユングヴィのもとを訪れたのか忘れているのではないだろうか。それからもしばらく、海について話が続いた。ユングヴィは知っている限り、父や友人、そして異国の船乗りから聞いた話を語ってきたかせた。それは小さい頃、ユングヴィ自身が心躍らせた綺羅星きらぼしのような話だった。それが一段落着く頃には、山を越えて今日最初の太陽光が我々の顔へと降り注いできた。もう、この少女は自分の家なり持ち場に戻らないと、怪しまれるのではないだろうか。なにせ、夜明け前から異国の商人とずっと戸口で語り合っているのだから。


「自分の不幸を嘆くより、受け入れてなんとか楽しく、生き甲斐がいを見つけてやっていく、それがきっと一番だと思うの……きっと私も分かっているの、それは」


 突然、少女が話題を元に戻す。そして、ぽつぽつと力なく、まるで自分に言い聞かせるかのように語った。その瞳には先ほどまでの無邪気さはなくなっていた。まるでいつの間にか消えた蝋燭ろうそくの炎のように。


「でも、できることならこの狭い故郷の外の世界も見てみたかったの……。ごめんなさいね、変なこと言って……この故郷に私が大事にしなければいけないものが、もうないから……姉さんもいないし、父さんにも母さんにも私は余計な食い扶持なのよ。だったらせめてって……」


 ユングヴィの眉が悲しげに動いた。この時、初めてこの少女を心底かわいそうだと思ったのだ。そしてなんとなくではあるが、ユングヴィは自分がなぜこの少女の瞳に吸い寄せられたか分かった気がした。この少女の抱いている気持ちは、自分がかつて持っていたものと似ているところがあるのだ。


 エルフは長命だ。なぜかは諸説あるが、そこら辺の種族の何倍も生きる。そんな長命を持ちながらもエルフは武を重んじ、特に若い時は武力で異国の地を征服し、身を立てることを名誉とする。他の部族よりも長命で、周囲の者たちよりも長い生命を約束されていればこそ、その生命を賭して何かを成し遂げることに価値を見出すのだ。だから若者たち、特に財産の相続の見込みが薄い次男三男などは外の世界へ飛び出していく。ある時は傭兵として、またある時は侵略者として。

 ある詩人はそんな若いエルフの意識を「疾風怒涛しっぷうどとうの青春」と呼んだらしい。だが、そんな青春時代を生き延びたエルフは、今度は己が長命に飽き、戦いや権力のどうしようもなく黒い部分に飽き、旅に出る。旅をして世界を見て回り、もう一度自分の生を組み直すことをとするのだ。

 そして、ユングヴィ自身もそうしてきた。ユングヴィの場合は自ら権力者になろうとはしなかったが、傭兵として、また一時的には臣下として戦場を渡り歩いた。戦場は血をたぎらせる。悲惨で思いだしたくない戦場もあったが、戦友と共に町を守ったり、国づくりをしたりといった自分にとっては輝かしい思い出もある。エルフの中には戦闘への衝動に身を任せて没我を味わいたいという、どうしようもない衝動があった。あったが、今は違うものを見て味わいたいと思っていた。だから旅に出た。それまでの人生に嫌気がさしたわけではなかったが、違うものを知るために。


「……私と来るかい?」


 ユングヴィは思わず、そう言っていた。


「……いいの?」


 少女が青い目をぱちくりとさせる。


「覚悟が必要だ。この土地にあるものはすべて失う。この土地の人々にいとわれる。君がいなくなったことで嫌な思いをする者もいるかもしれない。そして、この先、君が自分の人生を信じることと疑うことに責任と勇気を持つ。その覚悟が必要だ」


 あたりを朝の柔らかくも推進力がある日光が照らす。もう時間がない。


「貴方、この土地で商売しているのでしょ? 私を連れ出しちゃうとやばいんじゃないの!?」


 少女とユングヴィの言っていることがさっきと逆になってきた。少女の肩をつかみ、視線を合わせて話す。


「そうだね、私も私なりの覚悟が必要だ。だが、私なりに君に外の世界を見せたいと思った」


 少女の肩は細かった。朝の冷え込みのせいか、不安かそれとも武者震いか、心なしか震えているようだ。


「もう一度言う。覚悟が必要だ。私と一緒に来て幸せになれる保証はない。今までと違う世界を見たいということは、今までの世界の安寧あんねいを、当たり前を捨てるということだ。本当に捨て去っていいものか、もう一度しっかり考えてみることだね」


 何も言わず、震えながらうなずく少女へと言葉を続ける。


「私は五日後に出発する。それまでに返事を寄越すか、この村から私が去るときに何としても追いついて来るんだ……いや、できれば前日までに決心を聞かせてほしいな」


 少女は最後にもう一度うなずくと、黙って走り出した。自分の家へと帰るのだろう。無事に帰れると良いが、無事に帰れなければそこまでの運命だったのだろう。冷たいようだが、広い世界を渡り歩くには割り切った考え方も必要だ。我々は万能の存在ではないのだから。


「さて、厄介なことになったな……いや、いつもそうか」


 ユングヴィのつぶやきを聞いた者は誰もいなかった。ただ、澄み切った明るい空へと消えていった。



   ◇



~ほんと旅はろくでもない♪

 風は冷たく、雨もまた冷たい♪

~狼に追われてる気がするし、野盗が待ち伏せしている気もする♪

 ああ、旅にでなきゃ良かった♪

~きっとまだ古びた家の方がましだった♪


~ほんと旅はろくでもない♪

 宿は汚く、飯屋もまた汚い♪

~お釣りはごまかされた気がするし、ひどい肉を食わされた気がする♪

 ああ、旅にでなきゃ良かった♪

~きっとまだいつもの粥の方がましだった♪


~ほんと旅は……


「こんな時に歌っているなんてほんと、良く分からない人ね、貴方」


 独りの歌を邪魔する声の方を振り返ると例の少女がいた。私にここから逃げさせてとお願いに来たあの少女が、呆れたような、苦笑したような、そんな顔をして立っていた。


「これ、私の故郷の歌なんだ……そんなに良かった?」

「何言っているのかわからなかったわ」


 ズボンについたほこりをはらい、木の根元から立ちあがる。辺りをこの季節にしては暖かい大気が漂っている。歌を歌いながら昼寝をするにはなかなか良い空気だ。もっとも、季節的に葉は粗方あらかた落ちてしまったので、木漏れ日の下で、と洒落しゃれ込むことはできないが。


「やあ、来たね。さて、私の出発は明日だが……」


 改めて少女を見る。前と同じような灰色のローブを頭から被り、下半身には白いズボンを履いている。明るい昼の光の下で見ると、少女はアオルシ族らしくよく日に焼けた褐色の肌に、鼻筋の通った整った顔をしている。以前あった時も印象に残った、くりりとした目玉と山奥に秘められた湖の湖水のような青い瞳は、前回よりも穏やかな輝きを放っている。その上にある眉毛は力強い。こう言ってはなんだが可愛い顔に不釣り合いと思ってしまうほど太くしっかりしている。意志の強さというよりは、頑固さを感じさせるものがある。ローブの頭の部分からのぞく栗色の髪は編み込まれているが、雑な編み方だ。この子自身が話していたように、家族の中に丁寧に髪を編んでくれる者がいないのだろう。


「……何? 人の顔をじろじろ見ないでよ」

「君、名前は?」


 少女は名前を言うことに少し抵抗があったようだ。女性の名前は恋人や夫にしか教えないという習慣を持つ人々は多い。


「……クィス、私はクィスよ」


 アオルシの言葉でクィスとは何だっただろうか。星のことか、冬の別名ことか、それとも水しぶきのことか……思い出せない。


「その……ね、決心はついたわ。私、ここを出る。二度と戻れなくてもいい!」

「わかった。じゃあ、作戦を説明しよう。君をここから連れ出す作戦だ」


 クィスが困惑した顔をする。


「え? ちょっと、普通、こういう時って、本当にいいのか?とか確認するものじゃないの!?」

「はい?」


 予想していた反応の一つではあるが、悠長なことは言ってられない。


「クィス……だったっけ? そんな悠長なことを言っているのかい?」


 相手を説得するときは思いっきり演技をする。東方で広く行われる無言劇ではなく、西方の劇場で行われる、仰々しい演劇のように。


「私は君に時間をあげた。その中で決定したんだろう? あ、行くってことをさ。それを今更再確認だって? そういうことしていると何も決まらないよ。この先、旅に出るなら、例えばどの道に行けば良いのか、そういった決定が毎日ある。間違っていたと気づいてから引き返せるようなところばかりではないし、そもそも間違っているのかどうかわからない状況でどうするか考えないといけないこともあるんだ」


 我ながら説教くさいな、歳を取ったかな、とユングヴィは心の中で苦笑した。だが止めるわけにはいかない。商人の旅は観光じゃないのだ。言葉を続ける。


「与えられた機会で決める、決めたらもうその決定を信じて行動する。行動した結果には自分で責任を持って対応する……頑張るにしろ、逃げるにしろ、あるいは最悪の場合自分がくたばってしまうにしろ、ね。それができないなら帰りなさい。自分に与えられた環境で頑張ること、自分で違う環境に飛び込むこと、どちらも尊いと言えば尊いよ」


 クィスはこの言葉には例の生意気とも捉えられる口調で反論することもなく、ただ黙って聞いていた。


「……私からお願いしておきながら変なことを言ってしまいごめんなさい、私は行きます。この先、後悔するかもしれないけど、ここを出て生きていこうと思います。どうか、どうか力を貸して」


 それは静かだが、その奥底で燃えているような言葉だった。その決意に圧されてか、ユングヴィは黙ってうなずいた。


「よし、では作戦を話そう。君を連れ出す作戦だ」


 作戦とはこうだ。本来出発は明日昼の予定だが、明朝の日の出前にこの少女……クィスを革袋か何かに入れて、馬にまるで荷物のように運ばせる。クィスには袋の中でいろいろと我慢してもらう。後は村人が少女に気づく前に距離を稼ぎ、峠を越えてしまう。その先にある隊商宿キャラバンサライが林立しているような交易都市に入ってしまえば追手があったとしても巻けるだろう。


「……な、なんだか雑じゃない?」


 クィスが不安そうに言う。


「昔話に出てくるような華麗な脱出劇でも想像していたのかい? そもそもこの村には大掛かりな道具もない。大きなたるとか船もないんだ。できる道具でできるようにやるしかないだろう」


 なおもクィスは不安そうだ。


「危険はある。あるからこそ、普通の人はそんなことしないだろうと警戒しない。その隙を突く。それしかないんだ。さて、集合は繰り返すが明朝日の出前に私の宿泊先から見えるあのやぶだ。そこまでは自力でなんとかするんだ」

「もし、もしも自力でなんとかできなかったら?」

「今回は縁がなかったと諦めるんだね」


 なおも不満と不安であふれた顔をしているクィスを説得して家に帰らせた。あまり外で長居をして周囲の者に怪しまれたくない。危ない賭けだが、やると決めたらやるというのがユングヴィのやり方だった。中途半端に逡巡しゅんじゅんしていると時間も機会も過ぎていく。最後は、明朝にあの子がどう決断するか。そして、無事に出て来れるか、それは神のみぞ知るといったところだろう。

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