第25話 竈の火(前)

 結局、クィスの体調が回復するまで、イェスイとイェスゲンが用意してくれた来客用のぱおに三日間泊まらせてもらった。昼は周囲でイェスゲンが狩りに付き合ってくれた。


「この辺りで狩りを?」

「この辺りは獲物が多い」


 ユングヴィの質問に対して、馬上からイェスゲンは淡々と答える。この無表情な少年は弓矢を持つと少し色めき立つ。少しうきうきしているように見えるのだ。


「何を狩るのですか?」

「季節にもよるが、キツネやイタチは毛皮になる。あとはレイヨウの類が多い。これは群れで生活しているので、はぐれたものを狩って肉を食用にする。雄の角は時折、街で商人に売る。薬になるのだそうだ。このあたりのレイヨウには二種類いて……」


 狩りの話になるとこの少年は少し饒舌になる。聞いていないことまで話してくれるようになるのだ。佐成サセイは二人の会話を後方で黙って聞いていた。興味はあるが、草原の動物についてはあまりよく知らないためだ。

 動物が好きなのだろうか。それとも狩りが好きなのだろうか。狩りの話をしている時、いつも疲れたように表情に乏しいこの少年の草色の瞳も、まるで目の前に動物の群れがいるかのようによく動く。


「あと、我々にとって一番意義深いと言ってもいいオオカミの狩りがある」

「なぜオオカミを? 肉を食らうのか?」

「違う」


 心なしか少年の口元が少し笑ったように見えた。


「オオカミは家畜を襲う。だから時折狩る。仲間が人間に狩られるとオオカミは賢いから、人間と戦うのは不利だと理解する」


 この広大な土地において、そんな時々オオカミに理解させるようなやり方でやっていけるのだろうか。そう思い、つい佐成サセイは口をはさんだ。


「時折狩る? この辺りのオオカミを部族総出で狩り切ってしまえばよいのでは? そうすればこの広大な土地を家畜のために活用できる」


 少年が笑った。わかっていないなぁという、そんな笑みだ。


「そう簡単ではない。オオカミを狩り過ぎれば家畜やこの辺りの野生動物が減らない。すると草原が食いつくされる。オオカミの害は防ぐべきものだが、オオカミは草原の守り神でもある。我らは神に武威を示し、その領域を占めるに値するものでなければならない」

 

 饒舌になっていた少年はそこでしばらく無言になる。無言で草原の一点を凝視していた。


「客人、話も良いがライチョウがいる。あれを夕食に供そう」


 言うが早いか少年は馬を走らせた。草原を黒い部族の衣装に身を包んだ黒髪の少年が黒い馬に乗って疾駆する。その姿は幻想的ですらあった。


「見事な手綱さばきだな。あれほど馬を自由に乗りこなしてしかも安定して……お、矢を射たぞ」


 ユングヴィが愉快そうに少年の動きを追う。だがその言葉に対して佐成サセイは困惑していた。ユングヴィやイェスゲンと話していてなんとなく感じたのだが、自分はどうも二人ほど目が良くないのだ。二人ともあそこにライチョウがいるだの、レイヨウがいるだの草原の遠くを見るのだが、佐成サセイが見てもどこに何がいるか分からないのだ。ただ、そこには時折風でざわつく広大な草の海があるばかりなのだ。書物ばかり読んできたせいだろうか。今だって少年が狙うライチョウがどこにいるのかまだ分からないでいる。


 まだ若く未熟とは言え、書物や経験でそこらの常人よりも世の中を知っていた。少なくともそのつもりであった。だが、俺には見えない世界がまだまだある。広大な世界がある。そう思って来たが、まさか知見と言う意味ではなく、実際に見えない世界があるとは。


 佐成サセイはユングヴィたちと旅に出てから、自分にゆるぎない自信を持てたことがあっただろうか。時をたどればそもそも科挙に失敗し、従軍してから自分のできないことを実感し続ける人生ではなかったか。ここに生きていて良いのだろうか。そう愚痴をこぼしたくもなる。


「見事だ! 当たったぞ!」


 ユングヴィがイェスゲンの射撃に感嘆の声をあげる。それは佐成サセイには見えないところで行われ、評価される事象だった。



   ◇



 草原の夜はぱおの中でかまどの火に当たりながら過ごした。伊塞いさいの民はかまどの火に神霊が宿ると崇めており、夏でもその火を消さず、また万が一消えた時に備えて近く住む親族間で度々火を混ぜ合わせ、分配するともいう。そんなかまどの火にあたりながら、ユングヴィがこれまでにクィスとしてきた旅路の話を聞かせてくれた。その日もクィスとユングヴィが風の谷を出た後、大きな川のほとりにある「なんとかプール」という大きな隊商都市に連れて行ったらしい。クィスがたまに着ている草色の衣はその時、ユングヴィが旅装にと買ったものらしい。部族の服のままでは目立つといけないからと言う配慮であったという。だが、クィスはその服を気に入ってしまい、旅装としては使われていないのだそうだ。


「おや……やあ」


 ユングヴィがぱおの入口の方を向き、軽く声をかける。来客でもあったのだろうか。そう思っていると足音もなく、いきなり包の入口に風よけとしてかけられたせん暖簾のれんがあげられる。


「……XXX……やあってね……」


 クィスだった。今もその言葉は聞きとれない部分が多いが、その音でクィスの言葉だと分かるようになった。いつもの灰色の長袍ローブを顔を隠すように着込んでそこに立っていた。暗くて良く分からないが、包の中のほのかな炎がそのくりくりとした瞳に映っている。


「クィス、もう良くなったのか?」


 佐成サセイも驚き、思わず大きな声で尋ねてしまった。クィスはいささかばつが悪そうにそこに立っており、なかなかぱおの中へと入って来ようとしない。


「お帰りクィス、私が君の体調管理をちゃんとできていなかったね。すまない。さぁ、そんなところに立っていないでこっちで火にあたろう。今、お茶を入れるよ」


 クィスはまるで夜の静けさの邪魔をしないようしているかのように、静かにぱおの中に入り、ユングヴィと佐成サセイの間に腰を下ろした。ユングヴィは荷物から毛布にくるまれた土器を取り出すと水を汲みに行ってしまった。佐成がクィスに何か声をかけた方がいいか迷っていたが、迷っているうちにユングヴィが戻って来た。情けなくも少しほっとしてしまう。ユングヴィは今度はかまどの火の下から石を火箸で取り出す。


「これはなんだい?」


 思わず聞いてしまった。


「ご覧の通り焼いた石だよ、これをこの水に入れて湯を沸かす。見たことあるだろう?」


 出来上がった湯の中に、例の碁石のような茶の塊を削り落とす。豪快なお茶だ。ぱっと新緑の香りが包の中に広がる。


「蜂蜜、入れてくれるの?」


 クィスが落ち着いた声で希望する。以前、同じ要望をしたときは、蜂蜜を入れて甘くしろともっと騒いだはずだった。


「すまないが蜂蜜はない。このまま素の味わいを楽しもう」


 ユングヴィはてきぱきと容器にお茶を分け、私とクィスに差し出した。クィスはすすーっとその匂いをかぐ。

「いい香り……初夏の香りみたい」

「お茶は高いんだ……ずいぶん豪快に使うね」


 たくの都、上都央京府じょうとおうきょうふでもお茶は手に入るが、薬として服用するか、特別なお祝いや宴会でないと飲めない。貴族や豪商は茶を飲み比べて、その産地をあてる遊びをすることもあるというが「優雅」なことだ。


「うん、前も言ったけど交換で手に入れたんだ。そんなに高くなかったよ。産地とか交易する道の違いもあるんじゃないかな」


 都で一緒に学び、遊んだ友の中にお茶がすきなやつがいた。あいつなら、このユングヴィの茶の産地も知っているだろうか。


「ねぇ、ユングヴィ……XXX?」


 美味しそうにお茶をすすりながら、クィスが話し出す。その顔にはいつものような、生き生きとした表情はなかった。落ち着いてはいたが、どこか落ち込んでいた。


「イェスイさん、私にXXX優しくしてくれた。熱がXXX、ずっとXXX。まるでお母さんみたいに……」


 相変わらず途切れ途切れにしか理解できいが、イェスイは、あの遊牧民の夫人はクィスのことを親身になって世話してくれたらしい。遊牧民は客人を大事にすると聞く。交易に従事する民には困った時にはお互いさまと、初めて会うような旅人にも親切にしてくれると、そう西域さいいきに関する書物で読んだことがある。我がたくの民にも、客人に丁寧に接する礼儀の文化があるがそれとはまた違うのだろうか。


「ユングヴィ、覚えている? 私が故郷XXX、最初の街でXXX。XXXの時もおじさんが優しく助けてくれた! でも私の……!!」


 クィスが突如嗚咽おえつした。感情があふれた。さっきまでのいつになく静かなだったのは感情を抑え込んでいたからだったのだろう。


「なんで! なんで! なんでなの!? なんで私にとってXXX近いはずXXX実の親が!やっぱり私は親にとっていらなかったの! そこまでなの!? XXX!」


 ユングヴィはそんなクィスの慟哭どうこくを、嗚咽おえつで幾度となく中断されながらも続く感情の奔流ほんりゅうを静かに聞いていた。エルフとはこんなにも哀しく、優しい目ができるのだろうか。そんな表情で。澄んだ月光のように穏やかなユングヴィの横顔と、渦巻く火炎のように感情が混じりあうクィスの横顔をかまどの火が静かに照らす。


 佐成サセイにはクィスが、彼女が何を考え、どう受け止め、そして今泣いているのか理解が及ばなかった。推測の翼を広げることはできるが、それもしてはいけない気がした。これはクィスとユングヴィの間でのみ成立する悲劇だった。自分もこの小さな隊商の仲間だという意識が、最近芽生えている。それだけに少し寂しかった。自分の知らない二人がいるということに。少し嫉妬も感じたような気がする。だが、このことに割り込むわけにはいかない。人の心の世界は万人に開かれているわけではない。この二人の心も、そしてきっとかつて同僚たちに理解されなかった自分自身の心も。クィスの慟哭どうこくに動じないふりをしてお茶をすする。さっきまで甘い新緑の味がしていた気がするが、今はほろ苦かった。


 その後もクィスの慟哭どうこくは続き、さらに静かになり独白するかのようにユングヴィへと語り掛け続けた。独白が終わった後、しばらく間を置いてユングヴィは口を開いた。


「クィス、まだXXX。今日はもう寝なさい」


 クィスの視線がユングヴィの顔を泳ぐ。そして、クィスは黙ってぱおを出ていった。今日はまだイェスイのぱおにお邪魔して眠るのだろう。クィスがぱおを出ていく時、少しだけ夜空が見えた。残酷なまでに満天の星空の一部が。

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