第二話 月の夜の禍ツ喰い【透久凪】

 透久凪すくなが下校するために下駄箱に行くと、玄関の傘立て辺りをうろうろしている女子生徒を見つけた。無数に突き刺さった傘を一本ずつ確かめ、ため息を吐いている。


 全面ガラス張りのドアから見える空は鈍く、長い線を幾重にも描いている。朝からずっとそう。この調子でやみそうもない。


 自分の傘を見つけた透久凪は女子生徒の隣に立った。


「ご、ごめんなさい」


 彼女は自分が邪魔になっていると気付いて三歩も後退あとずさる。

 透久凪は黒色の傘を掴んで引っ張る。


「ないのか?」


 言葉が自分に向いているのがわからないのか、彼女は答えないでキョトンとしていたが、雨樋あまどいの外側を伝う水滴が三度水たまりをぴちょんと揺らしてから、ハッと我に返ったように首を振った。


「あ、え、だ、大丈夫です」


 視線は合わない。話も噛み合ってない。


「あるのか、ないのか」

「ない、です」


 透久凪はガラス扉を開けつつ女子生徒を見やる。


「入っていくか?」


 彼女は目を見開いてまたしても首を振る。ライトブラウンが曇天を拾って、鈍くくすんでいた。

 透久凪はドアの外に出る。そこはまだ大きなひさしの中で濡れることはない。そこで傘を広げて見せた。


「この傘はとても大きい。そしてお前はとても小さい。問題ない」


 彼女は俯きながら小走りに歩み寄り、声を潜める。


「私と一緒に居ると、鏡桐君も虐められてしまいます」


 外ハネの長い髪が湿気を含んでふるりと揺れる。白い肌と白いブラウスの彼女を見て、透久凪は、そう言えばもうユリの咲く季節だったなと思った。


「俺を知っていると言うことは、同じクラスだったか?」

「はい。神斬かみぎり一花いっかです」

「すまないな、覚えてなくて。ほら、俺などそれくらいの人間だ。いまさら誰がなんと言ってこようと知らん」


 ぶっきらぼうな言葉に、一花は短く息を吸って肩を強張らせる。ゆっくりと息を吐きながら、透久凪を見上げた。その瞳にはもう、曇天は映り込んでいなかった。






 夜が始まる。まだ山の間に陽が隠れ切らないが、空の竜胆りんどう色には宵のインクが落とされていた。


 透久凪がアーケードに付く頃には一粒の星がしょぼしょぼと瞬いていた。商店街の中でも一際明るい塾の前を通り過ぎる。最近は即席魔女インスタント・ウィッチがよく出るので、塾もサボることが多い。


 裏路地に入り、革の学生鞄から刃渡り25cmほどの小振りな剣を取り出した。鞘から抜くと剣身に彫られた刻印から赤黒い水滴が微量ではあるが浮かび上がっていた。“禍ツ喰いまがつぐい”が、微量ではあるが魔力に反応している。この近くで魔法を使った証拠だ。しかもそれほど時間は経っていない。


 剣先を右に左に動かして、反応を見ながら進んで行く。

 しばらく進むと、倒れて呻き声をあげているサラリーマンを発見した。そしてすぐそばには女子高生が肩で息をして立っている。


「あなたが悪いんだから……はあ、この子を、ろせって言うから!」


 男は掌を女学生に向けている。許しを乞うているようだ。透久凪は無遠慮に近づいていくがまったく気にする素振りがない。


 剣先を女学生に向けると“禍ツ喰い”の腹から大量に赤黒い水滴が滴り昇る。


「誰!?」


 気付かれた。だが透久凪は名乗ることもなく女学生——即席魔女インスタント・ウィッチに向かって走り出す。


 彼女は踵を返して走り出した。追おうとした透久凪の脚に男の手が絡まる。


「け、携帯を、壊されて、はあ、はあ、きゅ、救急車」


 男は服が焼け焦げ、腹から下腹部に向けてただれていた。服と皮膚の区別がつかない。

 透久凪は掴まれた脚をブンと振って解き、一瞥もくれずに走り出した。


 女学生にはすぐに追いついた。袋小路になっていたからだ。


「な、なに者なのよ、あなた!」


 彼女は振り向きざまに喚いた。頭の上でお団子にしていた髪の毛はバラバラと乱れ、汗に塗れた顔に張り付いている。柔らかく鮮やかな朱色が戦慄わなないている。


「魔女の弟子だ」


 短くそう告げ、剣を向けながら一歩間を詰める。


「魔女って、あなたニュクスの? だったら私は味方よ!? さっきの魔法だって魔薬まやくのおかげで——」

「知っている。だが俺の師はそんな醜い名前ではない」


 透久凪は“禍ツ喰い”を振り上げた。


「え。ちょ、ま——」


 言い終わる前に“禍ツ喰い”は振り下ろされ、ドサリと言う音を立てて少女は頽れた。彼女が出すはずだった叫び声は、夜の闇の中へと吸い込まれていった。






 ——パチッ。


 壁に手をわせて照明のスイッチを切り替えた。一面、白い壁紙に覆われた無機質な部屋が現れる。中央にはダブルサイズのベッドが一つ。サイドテーブルには水の入った瓶と江戸切子えどきりこのロックグラスが置かれていた。


 ベッドの上で仰向けに寝かされた少女の顔を覗き込む。白い肌はシーツと同化してしまいそうなほどで、およそ生気と言うものは窺えない。その額を中心にふわぁと広がった金色の髪はベッドの枠を超えて床にまで達しており、山を描いた絵画のようである。天辺から裾野に到るまで照明の光を几帳面に反射して、こちらの方がよほど生きているように思えた。


「成果があったぞ、師匠」


 ぼそぼそと独り言のように言葉を放つと、彼女の目がゆっくりと開いた。


「ケガはなかった?」


 師匠——魔宮まみや都瑚とこに心配の色はない。恐らくはただの義務感のようなもので労りを口にした。


「俺を誰だと思っている」

「魔法を使えないバカ弟子」

「!?」

「何度教えても覚えないバカ弟子」

「っ!」


 彼女は仰向けのまま無表情で言葉を吐き捨てる。だが不意に都瑚のまなざしが変わる。月影に照らされた湖のような深い青が、揺れる。


「これだけ言われても諦めない、バカ」


 覗き込んでいると吸い込まれて沈んでしまいそうな瞳。そうなったらきっと呼吸もできなくなってしまうだろう。


「なんとでも言えばいい。あと、ケガならいまからするぞ」


 透久凪は学生鞄から“禍ツ喰い”を取り出し、鞘から抜いた。手首の大きな絆創膏ばんそうこうを剥がして、刃をそこに押し当てる。乾いた傷の上に新しい何本目かの線が入ると、はすの葉に浮かぶ水滴のようにぷっくりと赤い血が浮いた。それが“禍ツ喰い”を伝うと、刻印から赤黒い水滴が滴って、血と同化した。傾けて切っ先を都瑚の口元に近づける。開けた口に、ぽちょ、ぽちょ、ぽちょ、と入っていく。


 これをやり初めた頃はロックグラスに入れて飲ませていたが、彼女が起き上がるのが面倒だと言う理由から、剣から直接飲ませるようになった。


 刻印から滴る水滴がなくなった。透久凪は剣を上げて、血をティッシュで拭きとって鞘に納めた。


 都瑚は具合がよくなったのか、上半身を起こした。子供と変わらない座高と痩躯そうく。それをたおやかに包む絹で編まれた漆黒のネグリジェが、光を受けてあでやかに踊る。彼女は腰を動かして透久凪の方に寄って来た。


「そろそろその傷治そうか」


 透久凪は新しい絆創膏を貼りながら首を振る。


「せっかくお前の魔力が回復したのに、俺のために使っていたら意味ないだろう。どっちがバカなんだか」


 “禍ツ喰い”をカバンの中に入れる。


「アンタが魔法を使えないおかげでそれが使えて良かったわ」

「そのせいでこき使われているんだがな」

「じゃあやめたらいいのに」

「お前に復活してもらわないとかなわん。今日もニュクスとか魔薬とかって言っていたぞ」

即席魔女インスタント・ウィッチが?」

「ああ」

「向こうも相当消耗している証拠ね。魔薬を生成できないまでに追い詰められればいいけれど」

「そうなったらお前も回復できないぞ」

「構わないわ。そもそもアタシが仕留め損ねたのが悪かったのだし。それに100年くらい待てば、自然治癒で動けるようになるしね」

「そうしたら俺が死んでいるだろうが。さっさと回復して、俺を鍛えろ」

「そうね。でもどうしてそんなに魔法使いになりたいの? 才能なしなのはアタシのお墨付きだってのに」

「お墨付けるな。俺はただ、永遠を生きたいだけだ」

「へえ、貪欲。でも本当にそれだけ? なにかモチベーションがなきゃすぐに飽きちゃうわよ?」

「飽きたら死ねばいいだろう。ただまあ、飽きないとは思う」

「どうして?」


 湖に風が吹いた。深い青が揺れている。まっすぐ下から見上げられ、透久凪は身を引いた。気を抜けば溺れそうだった。


「その答えが知りたければ俺をしっかり育てることだ。だからくたばるなよ、師匠」


 背中を向けて出て行こうとしたが、都瑚の声が裾を摘まむ。


「電気を消して部屋を出る前に、カーテンを開けていって。今日は月が綺麗なの」


 言われた通り電気を消して、カーテンを開けると、月明かりがふわりと出窓に降り立った。

 とても月のやわらかい夜だった。

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