第三話 本当は生きたいよ【一花】

 二日前までは死ねばどれほど楽になるのかと言うことばかり考えていた。


 一花いっかは黒板に書き出される文字をノートに写しながらここ数日のことを思い返していた。


 周りの無視にも慣れてきたある日の放課後、靴を隠された。幼稚だなと思う反面、そんな連中になにも言い返せない自分がとても惨めだった。鬱々とした気持ちで靴を探しながら、家でのやり取りを思い出していた。


「お母さんも学生の頃虐められていたの。絶対に抵抗しちゃダメよ。抵抗したらエスカレートしていくんだから。耐えて耐えて耐えぬくの。先生に言ったって、バラして終わりなんだから。誰のことも信じちゃダメ」


 唖然あぜんとした。同時に、こんな人にすがりついたのかと恥ずかしくなり、この気持ちをアドバイスごと墓場まで持って行こうと決めた。

 それに抵抗しなくても、こうやってエスカレートしている。それこそ、誰のことも——母親の言うことも信じてはいけないのだろう。


「まったく嫌んなっちゃうわよねえ」


 その声を聞いたとき、ようやく自分が校舎の裏側まで来ていたことに気付いた。


「アナタ、もう誰も信じられないんでしょ?」


 図星を穿うがたれて固まっていると、声の主は近寄って来て、掌にとても小さな瓶を握らせた。錠剤がいくつも入っている。


「怪しいわよねえ。ワ・タ・シ。うふふ。まあ実際怪しい者よ。魔女だもの。でもよいの女神ニュクスと呼んでちょうだい。ほら、女神のように美しいでしょ? と言ってもワタシと別れたら美しい声も美貌も忘れちゃうんだけどね」


 確かに彼女と別れたあと、声色と顔を思い出すことはなかった。不思議な感覚だった。言われたことは覚えているのに。

 その晩、ニュクスに言われたことを思い出していた。持たされた薬は魔薬まやくと言っていた。飲んだら魔法が使えるようになるとか。正直怪しい。ただ、これが劇薬ならそれでもいいと思った。


 そして雨の日の放課後「ああ死のう」と思った。だが隣に立った男子が、傘に入れと言ってくれた。とても秀麗な顔立ちだが、鋭く尖った双眸が人を寄せ付けない、ミステリアスな雰囲気をまとった人だった。同じクラスになったときからずっと気になっていた。けれども別次元の存在だと思っていた。それなのに、あろうことか死に際とも言えるこの刹那に、声を掛けてくれたのだ。


 彼の行動は「生きろ」と言っているようだった。そう感じたとき「私だって生きたいよ! 本当は!」そんな気持ちが溢れてきて、自分がまだ生きていたいことに驚いてしまった。


 いまでも魔女に貰った魔薬は持っている。もしものときは飲めるように。けれども、しばらくは大丈夫そうだ。一花は斜め前の席に座る透久凪すくなの背中を見つめた。






 昼休みに屋上へ行った。透久凪に声を掛けるために。


鏡桐きょうどう君」

「えっと」

神斬かみぎり一花いっかです」

「一花か。すまない。人の名前を覚えるのはどうも苦手だ」


 名前で呼ばれて頬が熱くなるのを感じた。


「俺のことは透久凪で良い」


 今度は耳まで熱くなってしまう。


「あの、その、良かったら、一緒に」


 一花が弁当を持っているのに気付いたのか、隣の席に目線を送った。席とは言ってもコンクリートで出来たただフェンスの土台に過ぎないが。


「他の奴らは連れて来るなよ」


 意味深な物言いに、少しだけ期待をしてしまう。


「ど、どうして?」

「騒がしいのはかなわん」

「大丈夫、私、友達いないから」

「ああ、そうだったな。すまない」


 太ももの上に置いた弁当を広げ、箸を持つ。その手に力が入る。思い切って彼の目を見る。切れ長の双眸にしまわれた瞳は、黒鉛で輝きが出るまで塗りつぶしたかのよう。光と闇が混在する宇宙染みている。


「あの……!」

「なんだ?」

「本当に私は傍に居てもいいのでしょうか」

「構わない。周りがどうだこうだと考えるな。お前が俺と居たいなら居ろ」


 一花は一度も聞いたことのない言葉に口をパクパクとさせてしまう。


「一緒に居たいのか、居たくないのか」

「居たいです!」


 ——ぱぎっ。

 数年ぶりに大声を出したことで、手に異様に力が入ってしまった。


「大丈夫か?」


 透久凪は一花の掌を開いててくれた。


「ケガはないようだな」


 透久凪は一花の手を離し、自分の弁当を食べ始める。

 横目にこちらを見て、固まっている一花を不審がった。


「替えの箸がないのか」

「だ、大丈夫です」

「そう言ってこの前も大丈夫じゃあなかっただろう」

「ごめんなさい」


 項垂うなだれていると箸を差し出される。これはさっきまで透久凪が使っていたものだ。

 躊躇ためらっていると眉をひそめられた。


「こういうの気になるタイプだったか。水道で洗ってこよう」

「あ、え、いや、気にしない、です」


 嘘だ。気になる。だが、それは悪い意味ではない。間接キスになってしまうのが申し訳なかった。


「でも、透久凪君も替えがないんじゃ?」

「交互に使えばいいだろう」


 顔が沸騰している感覚があった。一花の体には一足先に夏が訪れていた。


「やはり手が痛むのか。ほれ」


 透久凪は一花の弁当箱からおかずを摘まみ上げると、それを一花の口に寄せた。

 唇に物が触れ、反射的に開く。そこにおかずが入れられる。咀嚼そしゃくも忘れてゴクンと飲み込む。


「あの、さすがに悪いです」

「気にするな。慣れている」

「慣れて!?」


 透久凪は少しだけ視線を逸らして、咳払いをした。


「忘れろ」

「はい……」


 それから彼が言う通り、本当に交互にご飯を食べた。

 初めは恥ずかしかったが徐々に慣れていった。すると、先の彼の慣れている発言が再び気になり始める。眉目秀麗びもくしゅうれいな彼のことだ。彼女もいるのだろう。きっとその人は大人びていて、美人で、胸も大きくて、背も高くて、モデルみたいない人だ。自分の胸に手を当てる。大きいとは言いがたい。それに透久凪を見上げるほど背も低い。どんなに高いハイヒールを履いたとしても彼と並んで歩くことは叶わない。妄想を膨らませていると、透久凪に覗き込まれていた。


「なにか嫌なことがあったのか? それともやはり気にするタイプだったのに我慢していたのか?」


 そんな表情をしていたのか。一花は首をぶんぶんと振った。


「そうか」


 安堵と言うには非常に曖昧なため息。あきれられただろうか。


「透久凪君は、嫌なことはないんですか?」


 一花の視線は彼の手首の絆創膏ばんそうこうに吸い寄せられていた。気にはなっていたのだ。学生服から時折覗く絆創膏が。もしかしたら、自分に手を差し伸べてくれたのも、シンパシーがあったからなのかも知れない。だとすれば、一花は聞きたかった。透久凪の悩みを。


「嫌なことはない。俺はとても満たされている」


 そこには、一粒の虚勢すら漂っていなかった。これがどれほど悲しいことか。

 天高くから射す陽はうららかに。ぬるま湯い風が、ふわっふわと彼の前髪を撫ぜて、フェンスの向こうに飛び降りて行った。

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