21:思うこと。願うこと。①




 荒い息が聞こえる。


 倒れ込んだ背中が雨水で濡れていくのを肌で感じる。


 俺の足先数十センチの所に電車の車輪がある。


 ──間一髪だった。


 響花があと少し来るのが遅ければ、俺は電車に轢かれていた。


 そして──、


 腕の中にある、小さな体に目を向ける。俺の腕の中には──青白い顔で荒い息を繰り返す響花がいる。


 ざっと見たところ、その体は無事だ。腕を引っ張ったのが功を奏したのか、響花の勢いが強かったからなのかはわからないが、響花も電車に轢かれるという事は避けられたようだ。


 ただ、何をしたのか。何が起こったのかわからいようで響花は目を白黒とさせている。


「な、ながし──」


 声をかけようとして、はっと響花が我を取り戻した。


「光太郎さん無事!?」


 俺の言葉に割り込みながら、胸ぐらを掴んで俺の体を揺する。


「あ、ああ」


「この馬鹿!! なんであんな所でボーッとしてるのよ! 死ぬかと思ったじゃない!!」


 眉を怒りに逆立て、響花は涙目になりながら叫ぶ。


「いきなり会いに来て目の前で自殺!? そんなもの見せつけられる私の身にもなりなさいよ!」


 ぐうの音もでない。


 次第に騒ぎを聞き付けた周りの人たちがざわざわと声をたて始める。電車の中からは俺と響花の姿を口をあんぐりと開けて眺める人たちの姿があった。


「って、ヤバ、これ警察くるじゃん!」


 周りを見渡した響花が焦りの声をあげる。


「光太郎さん、立って! 走るよ!」


「は? ちょ、ちょっと──!?」


 響花は俺の手首を掴むと、有無を言わさず引っ張った。そのまま響花は走り出し、俺も響花につられて駆け出す。


 雨を掻き分けるように響花が後ろも見ずに駆け、それに俺は必死になって着いていく。


 早々に息が上がるが、響花は離してくれない。


 雨を吸った服がどんどん重くなる。動きづらさに唇を噛んでこらえながら、俺は足をがむしゃらに動かした。


 

 

◇  ◇  ◇




 十分ほど走って、電車を止めてしまった踏み切りや駅から遠回りして駆け込んだ先は、先ほど見かけた長島家──響花の家だった。


「はぁ……はぁ……はぁ……ッ」


「ぜ……ッ、は……ッ……ッ……はっ……」


 二人して玄関に倒れ込むようにしてへたりこんだ。


 二人の荒い息だけが薄暗い玄関に木霊する。響花は玄関に座り込んで、俺は両手をついて息を整える。


 汗とともに濡れた髪や顎から雨水が滴り、玄関の床を濡らしていった。


 響花は、良いかもしれないが、普段、運動、していない、俺は、たかが、十分程度でも、全力疾走、なんて、したら、死ぬ。


 流石に若いからか、響花は早々に息を整え回復し始める。


「こ、光太郎さん、大丈夫?」


「ぜ……はぁ……ぜぇ……あ、ああ……ゲホッ! ゲホッ!」


 咳き込む。


 こっちは、全然回復しない。


「そうだ。水。お水持ってこようか?」


「いや……もう……はぁ……大丈夫、だ」


 それでも見栄をはって答える。


「とてもそうは思えないんだけど……」


 心配そうに眉根を寄せる響花に、俺はちゃんと応えられないまま、靴棚に背中を預けて座り込む。


「年よりは、体力無くて、走れないんだ……はっ……ふぅ……」


 そこでようやく俺は響花の顔をまともに見た。


 雨に濡れた黒い髪が頬に張り付き、ブラウスもスカートも雨に濡れて肌に張り付いる。でもそれより、くりっとしたはつらつな目に涙を貯めているのが印象的で、俺は吸い込まれるようにその目に釘付けになった。


 その涙は、俺のせいだ。


「……長島、すまん。本当にすまん」


 頭を垂れる。


 自分の情けなさを恥じた。


 女子高生に助けられたとかではない。


 彼女を泣かせるような真似をした、自分に対してだ。


 そんな情けない大人に彼女は──


「光太郎さん」


 優しい声をともに、彼女の手が俺の頬に触れる。


 顔を上げると、彼女は涙を引っ込め微笑んでいた。


「本当は一発ぶん殴りたいところだけど──体冷えちゃうから、まずはお風呂入ろっか」


「いや、俺よりも長島が先に入れよ。お前だってびしょ濡れだろ」


「いーからいーから! 命の恩人の言うことは素直に聞く!」


 腕を引っ張られ強制的に家にあげられ、風呂場まで背中を押される。


「服、洗濯しちゃうから洗濯機に入れておいてね。着替え持ってくるから、シャワー浴びて待ってて」


「あ、ちょい、待て、おい」


 俺の言葉など無視して、脱衣所の扉が閉められる。


 ……素直に風呂に入るか。


 服を脱いで熱湯を頭から浴びる。


 浴びながら風呂を眺めれば、流石にアパートの狭い風呂と違って、一軒家の風呂はなかなか広い。足の伸ばせないうちの風呂と違って、この家の浴槽は悠々と足が伸ばせそうだ。


「光太郎さん、着替えとタオル。洗濯機の上に置いておくね」


「お、おお。ありがとう」


 浴室の曇りガラスの向こうに響花の影が見えた。


 その姿が消えるのを待ちながら、気持ち長めにシャワーを浴びる。あんまり早く上がるとなんだかあの子が怒りそうな気がした。


 風呂から上がると、バスタオルと男性もののTシャツとズボンが用意されていた。響花のものではないだろうから、彼女の父親のだろう。


 洗濯機が動いているのを見れば、俺の服は現在洗濯中だ。


 バスタオルで頭と体を拭いながら服を一瞥し、勝手に持ち出してきて良いのかと思う。ご丁寧にトランクスまで用意している。


 用意された服に袖を通し、脱衣所を出ると話し声が聞こえてきた。


 その方向に向かい、ドアを覗き込むと響花がスマホで誰かと話している。既に制服から着替えて白いTシャツと灰色のロングスカート姿だ。


「うん。うん。ごめんね! 心配かけちゃって。私は大丈夫だから。ちょっと、こう、急いで戻らなきゃいけなかった……え? さっきの男誰だって? 誰のこと? 気のせいじゃないかな」


 響花は電話口の相手を笑い飛ばし、「じゃあまた明日ね」と電話を切った。恐らく、相手はさっき一緒にいた友達だろう。


 その顔が俺に気がつき、誤魔化すように笑みを向ける。


「上がった?」


「ああ、ありがとう。温まった。長島もお風呂入れよ」


「あー、いや、私は──」


「お前だって体冷えてるだろ。入っとけ」


「んー、うん。わかった。光太郎さんはこっち、リビングで休んでて」


 何故か少し迷ったようだったが、響花は頷くと顔をドアの向こうを指差した。


 響花と入れ替わりでリビングに入る。


 外観から想像できたように、広いリビングダイニングだった。何畳あるだろう。俺の八畳の部屋よりよっぽど広々く見える。


 どこに身を置けば良いのか少しだけ迷い、結局ソファーに腰を下ろした。三人がけのソファーは俺の体を静かに受け止める。


 しかし、気まずいな……。


 今は響花しかこの家にいないようだが、家族が帰ってきたらどうするのだろうか。見知らぬオッサンが家に居るとか通報案件過ぎやしないか。


 響花は特に気にしていなかったようだが……もし家族と居合わせたらなんと弁明するつもりなんだろうか。


 というか、服を洗濯に出している時点で、家族と鉢合わせする確率高くないか?


 洗濯して乾燥機で乾かすにしても時間がかかる。それを待っていれば夜になり、夜になれば誰かしら帰ってくるだろう。


 もし親以外に兄弟がいれば、そっちと鉢合わせる可能性もある。


 一気に緊張感が増してきたな……。


 体が強張るのを感じ、落ち着きなく辺りを見渡す。


 その時、違和感を覚えるものがあった。


 なんだ? と思い、もう一度辺りを見渡し──その正体に気がつく。


 棚の上に伏せられた写真立てがある。普通こういうものは理由なく伏せられないものだ。その写真立てに触れようとし──あることに気がつく。


 だいぶ埃がたまっているな……。


 伏せられた写真立ての裏は埃が積もっており、長い間伏せられていたことを示している。見れば写真たて以外も、棚からテレビまで埃まみれだ。どうやら、しばらく掃除していないらしい。


 伏せられた写真を見れば、それは家族の集合写真だった。


 響花と、恐らく両親であろう男女の二人。どことなく響花に似ている。写真の中の響花は今より幼く、恐らく中学生ぐらいだろう。


 笑顔の両親とは対称的に、響花の顔はつまらなさそうに視線を背けているが、指だけはしっかりとピースをしていた。中学生らしい素直になりきれない不器用さを感じる。


 写真立てを元に戻し、ソファーに座り直す。


 腕を組み、考える。


 先ほどの気まずさは、もう無かった。


 俺の脳内に、ある仮説が立っていた。


 俺の予想が正しければ、たぶんこの家には誰も帰ってこない。帰ってくる者が居ない。


 だとすれば、俺は相当最低なことをしたのだと思う。


 一時間ほどタイムリープでもできればと、ありもしないことを考える。


 軒先から滴り落ちる雨水が、時間など戻らないことを示していた。




 

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