第12話 告白

 サラと娘二人が使っている部屋は、リビングとベッドルームを二つ持つスイートルームだった。その部屋で三人は、小さなテーブルを挟んでソファに座った。壁側に浩二、反対側にアイリーンとレイラが並んだ。

 ホテルの廊下とリビングルームは短い廊下で隔てられ、部屋の中に外の音が届かないようになっている。そんなリビングは、静まり返っていた。床から天井まで繋がる大きな窓から、真っ白なレースのカーテン越しに、外の光がふんだんに取り込まれている。くつろぐには申し分のない部屋に、そのときばかりは研ぎ澄まされた、肌に突き刺さるくらいの緊張感が漂っていた。

 少しでも雰囲気を和らげようと、サラが部屋の端でコーヒーを淹れていた。備え付けのドリップマシンが、お湯を吐き出す音を立て始めている。場にそぐわない、がさつな音が響いた。しかし立ち込める匂いは、その場の緊張を和らげるのに一役買っている。

「浩二はシュガーとミルクは要らないのよね? アイリーンは?」

 そう言うサラの話し方は、どこか角張ってぎこちない。サラは緊張しているのだ。何かをせずにはいられなくなって、自らコーヒーを淹れ始めた。

「私は両方入れて下さい」

 アイリーンの言い方も、変に他人行儀だった。一方レイラは、リラックスしている。

 サラが四人分のコーヒーをテーブルに運び、それぞれの前に置く。浩二の前に置かれたものだけが漆黒で、残りは全てミルク入りだ。コーヒーカップは白い陶器で、清潔感だけが取り柄の安物のようだ。部屋の中に、コーヒーの香りが充満する。

 どうも差し向かいというのは気詰りを感じる。浩二がそう思いながらコーヒーを一口すすったところで、ますます沈黙が膨らんだ。

「それじゃあ、いいかな?」

 浩二がサラに向いて言った。みんなが浩二の話を待っている。彼は自分とサラの気持ちに区切りを付けるため、それを言葉にしたのだ。

 浩二の隣に座ったサラが「ええ」と言い、アイリーンとレイラは二人の短いやり取りを黙って見ていた。

「これから二人にある話をする。大切そうな話だけれど、それほど大切じゃない。これから話すのは単なる事実だ」

 浩二は言葉を選び、慎重に切り出した。

「この話を四人で共有しても、サラや僕や君たちは何も変わらない。まずはそれを、君たちの心にしっかり刻んで欲しい。そして最後まで聞いて欲しい。それを約束してもらえるかな?」

 二人に念を押すように、浩二はアイリーンとレイラへ交互に視線を投げた。二人は黙って頷いた。サラも口を結んで二人をじっと見た。

「君たちの誕生日が同じなのは、もう知っているね」

 娘二人が頷くのを確認して、浩二が続けた。

「二十年前、君たち二人は同じ日に同じ病院で生まれた。つまりその日、君たち二人の母親は、同じ病院で君たちを産んだ。それは君たちがこの世に生を受けた記念すべき一瞬だ。アイリーンのママはエレンだったね」

 浩二はアイリーンが頷くのを確認して、話を続けた。

「サラもエレンも君たちの誕生を心から喜んだ。そして大切に育てられ、こうして立派な大人になった。二人の母親が君たちに愛情を捧げてきたのは、君たちが十分知っていることだ」

 二人の娘は、ここでも小さく頷いた。静寂がますます重く広がった。浩二の声だけが部屋の中に響く。

「しかし今になって、信じられないことが分かった。それは、そのとき生まれた赤ん坊が、入れ替わっていたということだ。病院が間違えて、生まれた子供を違う母親に渡してしまった」

 浩二は確信に触れる部分を、一気に伝えた。二人の娘は一層沈黙した。サラは気丈に、娘たちから視線を外すまいとしていた。

 沈黙を破ったのはレイラだった。

「それって、どういうこと? つまりママは私の本当のママじゃないってこと?」

 レイラはそう言って、浩二を射抜くように見た。アイリーンは微動だせず、浩二の目をじっと見つめていた。

「それは少し違う。君のママは、君の本物のママだ。しかし血縁上は、レイラはエレンの子でアイリーンはサラの子だ」

「言っていることが分からない。つまりママは、私の本当のママじゃないってことじゃない」

 レイラは浩二に、言葉を投げ捨てるようにそう言った。

「レイラ、私はあなたのママよ。それは何も変わらないの」

 レイラは、サラの言葉に反応しなかった。

「最初に言ったように、この事実が分かっても、僕たち四人は何も変わらない。これからもレイラの母親はサラで、アイリーンの母親はエレンだ。これまで築いた繋がりは何一つ変わることはない。変わりようがないし、変わって欲しくもない。この事実を君たち伝えるべきか、僕とサラは悩んだ。しかし隠しごとを持つのはよそうと二人で決めた。隠し事は君たちを傷付け、今の関係を壊すからだ。だから君たちを信じて打ち明けた」

 浩二が言い終わると、静寂が部屋を包んだ。レイラはうつむいてしまった。

 アイリーンは、相変わらず浩二の目をまっすぐ見ていた。レイラを心配そうに見るサラの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「話は分かったわ。でも少し一人で考えさせて。私混乱している。何だか分からないの」

 うつむき加減でそう言ったレイラは突然立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。

 レイラと叫んで彼女を呼び止めようするサラを、浩二が制した。レイラは部屋を出て行った。

「少し一人にさせてあげよう。彼女にも考える時間が必要だ」

 浩二は呆然とするアイリーンをまっすぐ見た。

「君には僕とサラのことを話しているから、僕が君にとって誰なのか、もう分かるね。これが君に約束した僕の答えだ」

 無言で頷くアイリーンの顔が歪んだ。

「君も驚いているだろう」

 浩二はアイリーンを見つめて、そう言った。彼女も無言で浩二を見つめ返した。

 浩二は静かに言った。

「レイラのことをお願いできないか」

 彼女は目に涙をためて、ゆっくり頷いた。

 彼女は浩二の初めてのお願いごとに応えたいと、素直に思った。そしてレイラを追い、部屋を出た。

 アイリーンはホテルの中で、レイラを探した。レストランやコーヒーショップに行き、それでも見つからず外に出て中庭を探した。

 彼女はプールサイドの椅子に座り、水遊びをする子供たちを見つめていた。アイリーンは彼女に近寄り、黙って横に座った。

 しばらく二人並んで、無邪気に遊ぶ子供たちを眺めた。

 プールサイドの母親が、男の子にそろそろ休憩しなさいと叫んでいた。五歳くらいの子供は嫌だと言ったけれど、父親が子供を抱き上げプールサイドに彼を降ろした。男の子は泣いて駄々をこねた。母親は彼をバスタオルで包みなだめた。そして彼を椅子に座らせ、飲み物を与えた。

「あなたは心が痛くないの?」とレイラが言った。

「私は自分に何が起こっているのか、さっぱり分からない」とアイリーンが答えた。

「私もよ。馬鹿みたい。今日はママとおじさんの婚約発表だと思って期待していたの。そしたらあなたは私の子供じゃないなんて……」

 再び会話が途切れ、二人はまたプールを眺めた。プールから飛び出す雑音は、沈黙の気まずさを紛らわすのにちょうど良かった。

「私はこんな贅沢なプールで遊ぶなんて、なかったなあ」

 今度はアイリーンが先に口を開いた。

「家族で遊びに行ったのは、いつも滝壺のある泉。おかずを入れた鍋を持って、パパとママが先頭を歩いて、兄妹六人がその後ろをぞろぞろ追いかけて歩くのよ。周りはもうジャングルで、鳥や動物の鳴き声が聞こえてくるの。まだ小さかったサリーが疲れたって言うと、パパはいつも抱いて歩いた。弟には自分の力で歩きなさいって言うのに、パパは女の子には甘かったのよ」

 アイリーンは言葉を切って、小さく笑った。

「泉の水はとても冷たいの。泉でしばらく遊んでいると寒くなるけど、でも水から上がりたくないの。あの男の子みたいにいつまでも水遊びをしていたいのよ。でもいつも優しいママが、すごい顔で怒るの。休憩しないならここに置いていくから、好きなだけ遊んでらっしゃいって」

「楽しそうね」

 レイラがプールを見つめたまま言った。

「楽しかったわよ。兄妹で喧嘩もするけど、でもいつも賑やかで楽しかった」

「私は一人っ子だったから、兄妹が欲しかったなあ」

「楽しいけど、兄妹が多いのも大変よ」

「大変でも欲しかった。でもあなたの兄妹は、本当は私の兄妹なんだよね」

「本当は……か」

 確かによく考えれば、そういうことになるとアイリーンは思った。「でも、本当にそうなのかなあ」彼女は呟くように言った。

「そうね。見たこともない人を本当の兄妹だなんて思えないわね」

「私も、あなたのママを自分のママだなんて思えないの。一緒にいてこんなに楽しいのに、私のママはやっぱり死んだママだけなの」

「私も同じ。私のママは一人だけ」

 そう言ってからレイラは慌てて、ポケットから携帯電話を取り出した。「きっとママが心配してる」レイラは携帯のダイヤルを押した。

 彼女は、「アイリーンと一緒にいるから心配しないで」と言った。そして夕食までには二人で戻るとサラに約束した。短く気まずそうな会話だった。しかしアイリーンには、その会話がレイラとサラの絆を示しているように思えた。

 レイラは電話を切ると、これでゆっくりできるわと言って、さばさばした表情で再びプールを眺めた。

「私も分かっているの。どんな事実があったとしても、私とママの関係は変わらないって。だって変わるはずがないでしょう? 突然変わるなんてそれこそ想像できないもの」

 レイラは「ただね」と言って、少し驚いているだけだと言い足した。アイリーンは、自分も同じだと言った。

 またしばらく沈黙が続いた後に、レイラが口を開いた。

「私ね、本当はこんな贅沢なプールで遊ぶの、初めてじゃないんだ」

 その話の続きに何があるのか、アイリーンは彼女の言葉を待った。

「子供の頃ね、ホテルのプールも冷たい水の泉も行ったことがあるの。いつも知らないおじさんが一緒だった。その時のママ、いつも楽しそうじゃないの。子供でも分かるのよ、それが。だってママが見ているのはいつも私のことだけで、おじさんのことなんて見てなかったから」

 レイラが一つ呼吸を置いてから続けた。

「ねえ、あなたは気付いてる?」

「何が?」

「今のママ、いつも嬉しそうにおじさんのこと見てるでしょう? こんなことは今までなかったの。たくさんの知らないおじさんと一緒に出掛けたけど、こんなの初めてなの」 

「そうか」

「それで、私気付いたの。ママは今まで我慢してたんだって。どこかで自分を殺して生きてきたんだろうって」

「それはあなたのためだよね」

「そうよ。ママは私を育てるために、今までたくさん我慢してきたんだなって思う。だから私はママに言ったの。おじさんと結婚してもいいよって。結婚して幸せになって欲しいと思ってそう言ったの」

「それで今日の話に心が痛くなった?」

「違うの。その気持ちは今も変わらないの。さっきから考えていたんだけど、ママに幸せになって欲しいという気持ちは全然変わらないの」

 気付いたら、レイラの頬を涙がつたっていた。

「うん、分かる。私もあなたのママが大好きよ。でもあの人が私のママだって言われても、今はそんなふうに思えない。おじさんが言ってたでしょう? 何も変わらないって。私もそう思う。結局何も変わらないのよ」

 そうねと言って、レイラは涙をぬぐった。

 アイリーンは、シンガポールでの出来事をレイラに話した。騙されて売春宿に売られ、浩二に助けてもらった顛末のことだ。そこに浩二とサラの、出会いから別れの話も含めてレイラに教えた。

 レイラは、そんな話は初めて聞いたと言った。

「つまりおじさんは、あなたの本当のパパってことなの?」

「そうみたい。そしてあなたのママとおじさんは、二十年も気持ちを通わせていたってことになる。あの二人はとても素敵な人たちなの」

「そんな素敵な人がパパだなんて、いいわね」

「違うわよ。その素敵な人はあなたのパパになるのよ。やっぱり私のパパはバリリにいるパパなの。そして私の兄妹たちは今でも私の家族なの」

「おじさんが私のパパになって、あなたはおじさんの娘? と言うことは、私たちは血の繋がりはないけど姉妹?」

「なんかややこしいけど、そうかもね」

「確かにややこしいけど、少し楽しいね」

「私のママがいつも言ってた。幸せは人と比べるものじゃない。自分が幸せと感じることができたら、それが一番いいんだって。幸せは気持ちの持ち方で訪れたり逃げたりするってことなのよ」

「あー、その言葉は心に浸みる。素敵なママね」

「そうよ、もう死んじゃったけど、素敵なママだったわ。その素敵な人は、あなたのママでもあるのよ」

「本当にややこしいわね」

 二人はそこで、ようやく笑うことができた。

 結局二人は、一番大切なことが何かについて分かっていた。分かっていたけれど、事実を受け入れるための心の整理が必要だったのだ。心の整理も簡単ではない。そのためにいくつものステップが必要だ。人間の心は当たり前に複雑だからだ。誰かが正解を言っても、それが全ての人に正解とは限らない。正解を正解とするために、多くのステップが必要となることは普通にある。

 人はその複雑な心の繋がりで生きている。心の繋がりは頭で分かることではなく、心で感じるものだ。血の繋がりは所詮理屈であって、心で感じることではないはずだ。もし血の繋がりを心で感じることがあるなら、それは既に愛情が芽生えているからで、最後は心の繋がりに帰結する。

 血の繋がりがあっても愛情が存在しなければ、親と子の気持ちは決して交わらない。つまりそれは、他人と同じと言うことで、その逆も然りだ。血の繋がりがなくても、その関係に愛情が介在すれば、それは立派な親子になる。

 結局サラとレイラは立派な親子であって、それがやすやすと崩れることはないということだった。

 同時に浩二とアイリーンを結びつけたものは、血の繋がりであった。しかし二人の関わりに介在したのは、最初から最後まで愛情と信頼であった。そこに血の繋がりが先行した事実は、結局一つも見当たらない。

 夕食前、約束した通り、レイラは部屋で娘を心配するサラの前に姿を現した。

 サラは部屋に入ったレイラを抱きしめた。抱きしめながら、サラは涙を流して何度もレイラにごめんなさいと言った。

「ママは何も悪くない。私の方こそごめんなさい。私、少し時間が必要なだけだったの。ママ、これからも、何も変わらないよね。ママは私のママでしょう?」

「当たり前じゃない。今更あなたのママをやめろって言われたら、私は死んじゃうわよ」

「ありがとう。そうね。何も変わらないわよね。私はこれからもママの娘よね。分かっているけど、もう一度、ママの言葉でそれを聞きたかったの。もう私は大丈夫よ」

 そんな二人を見届けた浩二は、黙って部屋を出た。

 廊下に出ると、そこにアイリーンが立っていた。浩二はアイリーンに、レイラのことをありがとうと言った。アイリーンはいいのよと言うように、頭をゆっくり左右に振った。

「少し話せるかい?」浩二の言葉に、彼女は静かに頷いた。

 二人は黙って、隣の浩二の部屋に入った。

 浩二はアイリーンに窓際の椅子を勧め、自分はベッドに腰掛けた。

「アイリーン、君も事実を知って辛かっただろうが、そんな君にレイラをお願いして済まなかった」

「いいの。あなたは私のことを信頼して、お願いしてくれたんでしょう?」

「その通りだ。苦労を掛けた君に今更父親だなんて言えないが、僕は父親として君を信頼した」

「ありがとう。私あの時、不思議だけれどそれが分かったの。それであなたの期待に応えたいって思った。お父さんとかそんなの関係なくて、あなたの期待に応えなきゃいけないって気がしたの」

「さっき話したことが事実だ。シンガポールで君を助けたいと思ったのも、それが理由だ。君は既に納得していると思っている」

「ええ。よく納得できる理由だったわ。本当のことを教えてくれて、ありがとう」

「もう一つだけ君に言っておきたいことがある。君の家族のことだ。君には父親や一緒に育った兄妹もいる。その家族はやっぱり君の家族だ。僕は君からその家族を取り上げるつもりは全くない。僕がさっき言った通り、家族のことは君にとって何も変わらない。それは君にも分かっていると思う」

 アイリーンが頷く。浩二が少し気まずそうに口を開いた。

「一つ君にお願いがある。聞いてもらえないだろうか?」

「何?」アイリーンは穏やかに浩二に訊いた。

「この先僕を、君の家族の一人として認めてくれないか。すぐにとは言わない。時間をかけてくれていいんだ。僕を君のもう一人の父親として考えて欲しい」

「あなたはもう私の家族よ。事実を知る前から、私はあなたにそれを感じていたもの。だから怖くてもあなたを信じることができたの。あなたもシンガポールで同じ気持ちでいたでしょう? そしてさっき、私を信じてレイラを託してくれた。私はそのことがとても嬉しかった」

「アイリーン、ありがとう」

 浩二はその言葉を聞いて、胸が詰まる。

「ついでにもう一つだけ、僕のお願いを聞いてくれないか?」

「私にできること?」

「できるかどうか分からない。嫌なら嫌でもいい」浩二はアイリーンをまっすぐ見て言った。「君を抱きしめてもいいかな?」

 アイリーンが頷くのを見て、浩二が立ち上がった。アイリーンも立ち上がる。浩二はゆっくり彼女に歩み寄り、アイリーンを抱きしめた。アイリーンも浩二に寄り添った。

 浩二はけなげなアイリーンが愛しくて仕方なかった。彼女を抱きしめ、彼女の髪を撫でた。

 アイリーンが浩二の胸の中で小さく言った。

「本当にありがとう。パパ」

 浩二は我慢していた涙を、とうとう堪えることができなくなった。

(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイリーン 秋野大地 @akidai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ