第11話 帰郷

 着陸を控えた飛行機の中で、窓際に座るアイリーンの目にこんもりとした樹木を蓄える島が見えた。隣には浩二が座っている。乗客のそれぞれが窓の外を覗き、客室全体が落ち着きをなくした。乗務員が専用シートに座り、ベルトを装着する。着陸は間近だ。

 とうとうアイリーンは、セブに帰ってきた。故郷に帰ることがあっても、彼女はそれが、遥か遠い先だと考えていた。もしかしたら自分は、二度と故郷の土を踏むことができないのではないかという、漠然とした諦めもあった。

 地獄の生活から救出されても、彼女はセブへ帰るという実感を中々持てずにいた。しかし斜陽に照らされるセブ島の陰影を見て、アイリーンの心の中に、不安と安堵をかき混ぜた奇妙な歓喜が湧き起こった。

 思えば不思議な展開だった。見知らぬ日本人がふらりと現れ、自分を優しく包みながら約束したことを実現してくれた。知り合って一か月も経っていない浩二に、何年も前から良く知っているような親近感を覚え、いつの間にか彼に対して信頼を寄せている自分がいた。彼はその信頼にきちんと応え、それがより深い信頼へと繋がった。

 アイリーンはこの不思議な感覚を最初から浩二に感じ、そしてその正体についてずっと考えていたのだ。その正体を見定めるため、彼女は浩二のことをずっと観察している。そして彼女は、ようやく一つの答えを導き出そうとしていた。

 彼女が浩二と一緒にいて心地良いのは、彼の自分に対する愛情を感じるからだ。彼には自分に対する親切に対し、見返りを期待する素振りが何一つない。そうであれば、それは純粋な愛情でしかないのだ。しかしその答えに到達しても、アイリーンはまだ混乱した。これまでそのような愛情を感じたのは、両親や兄弟であった。それ以外の人からそれと同類の愛情を注いでもらった経験がないだけに、その愛情の裏にあるものが何かを、彼女はいつでも探ってしまう。

 アイリーンには予感があった。その答えはセブにある、しかもそれは、全く自分の想像を超えるものかもしれないという予感だ。そして仮にその答えが不幸なことであっても、自分の浩二に対する信頼が揺るぐことはないだろうと思われた。

 窓のすぐ下に地上が迫ると、機体から車輪の滑走路を捉える振動が伝わってきた。逆噴射の轟音と共に急激に速度を落とす機体は、進行方向を右や左に変えながらゆっくりとターミナルに向かう。エンジン停止直後、気の早い人たちが座席から立ち上がり荷物を棚から取り始めた。アイリーンの心臓は高鳴っていた。サラが娘のレイラと一緒に出迎えに来てくれているはずだ。

 隣に座る浩二が、自分の手をアームレストに置いたアイリーンの手に重ねた。彼女が浩二を見ると、彼はただ頷いて立ち上がった。どうやら浩二は、アイリーンの緊張や不安の混ざる複雑な感傷を読み取っているようだ。余計なことを言わないのが、浩二の優しさなのだろう。

 アイリーンの父親や兄妹には、彼女の帰国を知らせていなかった。そのことは一旦落ち着いてから、ゆっくり連絡を取れば良いと浩二に言われていた。確かに兄妹たちは親戚に預けられ、バラバラになっている。帰国の連絡をしたところで、彼らにはどうすることもできないことが容易に想像できた。

 まだ新品のスーツケースを引きずり、アイリーンは浩二と一緒に空港の外へと出た。シンガポールとは違う種類のむせるような暑さが、彼女は懐かしかった。

 それは浩二も同様のようだった。セブの地を踏むのが数年ぶりの浩二も、晴々とした顔で空を仰いでいる。

 空港前は人でごった返していた。その人ごみの中にサラがいるはずだった。

「アイリーン」

 一際甲高い声がアイリーンの耳に飛び込んだ。声の出る方を見ると、そこに大きく手を振るリンの姿が見えた。

「リンさん」

 リンの顔を見た瞬間、アイリーンの中で溜まっていたものが弾けた。彼女は人ごみを掻き分け、夢中でリンの元へと歩み寄った。そして思わず、彼女はリンに抱きついた。

「フィリピンに帰った。やっと帰った。本当にごめんなさい、ごめんなさい」

 リンは良かったと言いながら、泣きじゃくるアイリーンの背中を母親のようにさすった。アイリーンはリンの中で、ありがとうを何度も繰り返した。

 その姿を、サラが複雑な想いで見守っていた。本来、そこで彼女を受けとめるのは自分ではなかっただろうか。しかしアイリーンを初めて見たサラは、真っ先に彼女を抱きしめたいと思わなかった。あれほどアイリーンのことを考え会いたいと夢見ていたはずなのに。そのことにサラの心は揺さぶられ傷付いた。

 茫然と立つサラの肩に、浩二が後方から手を置いた。

「久しぶり」

 振り返り浩二の顔を見たサラは、浩二の手に自分の手をそっと重ねた。

「浩二、ありがとう」

 浩二はサラに黙って頷いて、リンとアイリーンを見た。

「あなたがリンさんですか? 今回はいろいろとありがとう。あなたのおかげでアイリーンがフィリピンに帰ってくることができた」

 リンは極めてシンプルに、どういたしましてと言う。アイリーンが慌ててリンから離れ、涙を拭きながらサラと向き合った。

「ごめんなさい、挨拶もしないで。サラさんの話はシンガポールで沢木さんから聞きました。今回の件では、ありがとうございました」

「いいのよ、アイリーン。久しぶりに帰ってきたのだから、思い切り甘えてちょうだい。そうそう、私の娘も紹介させて」

 そう言ったサラは、娘のレイラの背中に手を添えた。アイリーンと同じ歳のレイラは、長くまっすぐな黒髪を持つ美しい女性だった。レイラは恥らうように小さくお辞儀をして、「はじめまして」と言いながら、浩二やアイリーンと握手した手をすぐに引っ込めた。

「フィリピンの子はみんな恥ずかしがりやだね。君のお母さんも初めて会った時はそうだった。今はもう堂々としたものだけれど」

「それは私が、おばさんになったってことを言いたいの?」

「強くなったってことだよ」

「物は言いようね」

 そんなやり取りで場が和やかになる些細な幸せが、アイリーンを暖かく包み込む。

「今日はこれから、みんなを食事に招待しよう。これほど大勢の美女に囲まれて食事をするなんて生まれて初めての体験だ。今日は好きなところへ連れて行くよ」

 浩二は上気した面持ちで言った。サラは久しぶりにフィリピンへ帰ったアイリーンの肩を抱いて、明るく言った。

「あなたが食べたいものにしましょう。今日はあなたの帰国祝いだから、どんな我儘を言ってもいいのよ」

 アイリーンは、まるで家族に囲まれたような暖かい空気を感じ取った。

 彼女はかつて、金儲けを企む親戚から食い物にされようとした。母親の叔母であるダイアンやその娘のシェラは、口では思いやりのあるようなことを言いながら、言葉とは裏腹の人を蔑む卑しい目を持っていた。そして実際にシェラは、彼女の顔見知りに自分を売りつけようとしたのだ。自分が騙されてシンガポールへ行ったのは、そのことが関係している。

 しかしそこに集まる人たちは違う。サラは浩二が語ってくれたように、優しく明るい素敵な女性だった。母親のエレンが生きていたなら、きっとこんなふうに自分を包み込んでくれるだろうことを感じさせる人だ。アイリーンは、浩二との出会いが自分の全てを変えてくれそうな、そんな期待を抱かずにはいられなかった。

 五人は、セブシティのライトハウスというネイティブフードレストランに行った。そこは浩二とサラにとって、思いで深いレストランの一つだ。

 ライトハウスはセブの名物レストランの一つで、入り口から間もなくのところに、蟹や魚が泳ぐいくつかの水槽がある。

 かつての浩二は、水槽を置くレストランに行くと真っ先にその中を覗きこみ、必ず泳いでいる魚の状態をチェックした。そこで弱っているものを発見すると、浩二はサラにその名前を訪ね、決してそれを使用した料理を注文しないのだ。もし適当に注文すれば、レストランは弱って死にそうなやつから調理するに決まっていると言うのが浩二の持論だった。

「そんなことはないわ。あの水槽はただのディスプレイよ。調理用は別にあるわ」

 サラがそう言っても、かつての浩二はオーダー前の水槽チェックを止めることはなかった。

 ライトハウスに行った浩二は、やはり真っ先に水槽をチェックする。

「あなた、全然変わらないわね」

 楽しそうに笑うサラに、浩二は元気のない魚の名前を尋ねた。そんな二人をテーブル席から見ていたリンやアイリーンは、これから浩二とサラが、残りの人生を共に歩いていくことを確信した。

 事前に浩二は、アイリーンにお願いをしていた。

「様々な事情については、レイラに自分たちの言葉で直接伝えたい。申し訳ないが、それまでは君の知っていることを彼女に内緒にして欲しい」

 アイリーンは、レイラの本当の父親が浩二だと信じていた。だから彼女は真剣に、その約束を守ろうと思っていた。

「あんなに楽しそうなママを見るのは久しぶり」

 レイラが隣に座るアイリーンに小声で言うと、アイリーンは、あの二人はお似合いねと言った。

「あら、あなたにジェラシーはないの?」

「ジェラシー? どうして?」

「沢木さんはあなたの恋人じゃないの?」

 サラはレイラに、詳細を抜いて、昔の恋人が訪ねてくるとしか伝えていないようだった。その昔の恋人が若いアイリーンを連れて空港に現れたものだから、レイラはアイリーンが浩二の愛人ではないかと疑っていた。

「あの人は恋人じゃないわよ。私の恩人で、私が信頼する人。沢木さんはリンさんの恋人の知り合いという繋がりなの」

「そうなの?」

 それなら良かったと言うレイラの顔に、突然明るさが戻った。

「私ね、てっきりあなたが沢木さんの恋人だと勘違いして、あの人一体どういうつもりでママに会いにきたのかしらって心配していたの。だってママ、あんなに楽しそうだから、ますます心配になっちゃって」

「それで元気がなかったの? 心配しないで。あの人はすごく真面目な独身男性よ。私の恋人だなんて大きな勘違い」

 そっかと言ったレイラは、水槽の前にいる浩二とサラにところへ駆け寄った。三人は以前から家族であったように、魚を見ながら楽しそうに話し始めた。

 アイリーンは、サラや浩二のような両親を持つレイラを羨ましいと思った。みんなで過ごす時間が幸せであるほど、自分が独りになる時がやってくるのが怖くなる。きっと浩二とサラとレイラは、親子三人でこの先仲良く一緒に暮らしていくのだろう。たとえ離れて暮らしたとしても、三人は家族という強い絆で結ばれ、関係が途切れることはない。

 しかし自分は違う。いくら親切にしてもらっても、所詮は赤の他人だ。この家族に割り込むことはできない。それがアイリーンの心に、ふと陰を落とす。

「どうしたの? アイリーン。少し疲れた?」

「ごめんなさい、リンさん。三人を見て、私も家族のことを思い出していたの」

「ホームシックになったの? あなたはフィリピンに帰ったのよ。あなたが家族に会いたければいつでも会えるわ。ただ、兄妹が離散しているから、まずはそれを何とかしないとね。それは身体をゆっくり休めてから考えなさい。私も協力するわよ」

「そうね、ありがとう」アイリーンは、遠慮気味に切り出した。「ねえ、リンさん」

「なに?」

「リンさんは、私のシンガポールでのことを知っているんでしょう?」

「ええ、和也に聞いているわ」

「それ、パパたちは知っているの?」

「詳しいことは誰にも話してない。あなたの微妙な問題だから、もし話すなら自分で説明しなさい。私からは誰にも言うつもりはないわよ」

「それを聞いて少し安心した。それとね、沢木さんがどうして私に親切にしてくれるのか、リンさんは何か知ってる?」

「ええ、知ってるわ。ただそれは、沢木さん自身から説明すると言われているでしょう?」

「ええ」

「だったら彼の説明を待ちなさい。そのことも、私の口から言うべきことではないから」

 分かったと言うアイリーンに、リンが続けて言った。

「あなたはまだ不安なんでしょう? それはよく理解できるの。でも心配することはない。ここにいる人はみんな、決してあなたを裏切らない。だから安心して、あの人たちに任せて甘えなさい。みんなあなたのことを本気で心配しているのよ。あなたはエレンの大切な娘だから。エレンとサラは、あなたが思っている以上の深い繋がりがある。あなたのことは、今でもエレンが守っているのよ」

「ママが?」

「時期がくれば、あの二人がきちんとそのことを説明するはずよ。それまで焦らず、あなたは二人に甘えていればいいの」

 そこに三人が、戻って来た。

 浩二が「ごめん、魚のチェックに時間がかかった」と言うと、サラが「あの水槽は関係ないから、何でも注文していいのよ」と言った。浩二はその言葉を無視して、スープは何にしようかと、メニューに向かって呟いた。

 一見華やかなレストランの食事光景の中で、各自胸の内には、錯綜する複雑な思いが漂っていた。

 リンはアイリーンとサラを見比べて、やはり病院の取り違いは本当だったと確信していた。アイリーンは明らかにサラに似ているし、レイラの美しさはエレンから譲り受けたものだ。複雑な事情を持つ家族が、秘密を抱えたまま幸せな時間を過ごしている。しかしリンにはどうすることもできないし、他人が介入すべきことではないと思っていた。

 浩二もまた、これから二人の娘に事実を話さなければならないことを重荷に感じていた。自分がサラと今後の人生を一緒に歩むとしたら、尚更対応が難しい。物静かでか弱い印象のレイラに、現実が耐えられるだろうかと心配になる。サラとの結婚を決意しているものの、自分はアイリーンの実の父親だ。現実に一同が会してみると、事態が思っていた以上に複雑に絡み合っていることに浩二は気付かされるのだ。

 料理の注文の途中で、アイリーンが店員にトマトを一つ頂戴とお願いした。

「赤いトマトを丸ごとね」

 アイリーンのその言葉に呼応して、浩二もトマトをお願いした。

「あなた、トマトをどうするの?」

 サラがアイリーンに訊いた。

「久しぶりに食べたいの。バリリの家の畑で収穫したトマトを、子供の頃からよく食べていたの。だから恋しくて、いつも食べたいと思っていたの」

 サラは驚いた。浩二も昔から、トマトに塩をつけて丸かじりするのが大好きだったからだ。普通のフィリピン人はそのようなことをしないから、サラは浩二のそれを、日本人の変わった趣向としてよく覚えている。

 やはり親子なのだ。サラは、現実から目を背けられないことを思い知らされた気がした。アイリーンは間違いなく浩二の娘だ。すなわちそれは、自分とレイラの血が繋がっていないことを意味する。

 今更それが何なのか? 血の繋がりがあろうがなかろうが、レイラは間違いなく自分の娘で変わりようのない事実だ。そのことに怯える必要は何もないと自分に言い聞かせながら、サラの胸中は複雑な感情に支配されている。

 静かなレストランで会話を弾ませ楽しく食事をし、各自が幸せを感じていた。しかしそれが幸せな時間であるほど、それぞれが違う視点で複雑な想いを抱いてしまうのだ。

 その夜浩二、アイリーン、サラ、レイラの四人は、セブシティ内の大型ホテルに泊まった。マンダウェイにあるサラの家にアイリーンのベッドがまだないため、一行は数日ホテルに宿泊することにしたのだ。部屋は二つにし、浩二が独り部屋となった。

 ホテルにチェックイン後、浩二とサラはホテル内のプールバーでお酒を飲もうと約束した。表向きは二十年振りの再会を祝うことであっても、二人の間には重要な話題がある。それは言うまでもなく、アイリーンとレイラのことだった。

 水中からライトアップされたプールは、水の動きに合わせて揺らめく光に包まれていた。闇夜に浮かぶプールの中で、宿泊している子供たちが奇声をあげながら水遊びを楽しんでいる。浩二はそんな南国ムードが好きだった。そのホテルは街の中にありながら、リゾート気分を十分漂わせている。

 アイリーンとレイラは、浩二とサラに気をきかせ、ホテル内のショップを探検すると言って姿を消した。ホテルの中には、免税店、各種レストラン、ショップ、カジノが揃い、探索する場所が溢れている。

 浩二が頼んだジントニックとサラが頼んだマルガリータがテーブルに届き、二人はプールサイドで再会の乾杯をした。

「再びこうして会えるなんて、夢にも思っていなかった」

「私だってそう。アイリーンのことがなければ、私はあなたに連絡をしなかったもの」

「二十年前、なぜ君は妊娠を教えてくれなかったんだい?」

「それを伝えたら、あなたは困ったでしょう? もしそうじゃなかったら、あなたは私にあの縁談を勧めるはずがないもの」

 浩二は頭を掻く。「君にはまいったなあ。しかし妊娠は特別なことじゃないだろうか」

「それは今だから言えることじゃないの? あの時あなたが私の妊娠を知ったら、あなたはもっと悩んでいたわよ。私はそんなあなたを見て、自分が傷付きたくなかったの」

 サラの口調は穏やかだった。彼女は浩二を責めているのではない。責めるつもりすらないのだ。

 月並みの女であれば、あなたの幸せを考えてと答えるかもしれない。しかし彼女は、それは自分のためだと言った。しかし本当はそうではないことを、浩二はよく知っている。それでも相手に非を与えない答え方をするサラに、浩二は彼女の頭の良さと優しさを感じるのだ。

「君はぜんぜん変わってないね。まあ、それは過ぎたことだ。それに結局は、その時の子供が僕たちをこうして再会に導いた。僕はそこに運命を感じるよ」

「本当にそう。私も同感よ」

 二人の間には、感傷に浸るだけの懐かしい思い出話しはたくさんあった。しかし浩二は、現実の問題を具体的に先に進めるための話をしたかった。

「サラ、僕はその運命に逆らいたくはない。僕は二十年間、君とのことでずっと後悔を引きずって生きてきた。どうだろう、僕と残りの人生を一緒に歩いてくれないだろうか。君は僕が愛した昔のままのサラだ。ちっとも変わっていない」

「浩二、私は昔と同じではないわ。レイラを育てるために一度は夜の世界に身を落とした女よ。それがどんなことかあなたには分かるはず。普通なら、女手一つで子供を育てて家まで買うなんてできないの」

「君はそのことを後悔しているの?」

「いいえ、そのことを後悔はしていない。あの子を育てるために、私の選択肢はそれしかなかったの。そして彼女は立派に成長した。私が体を張って彼女を育て上げたの。それを後悔なんかしない」

「それを聞いて安心した。君はちっとも変わってなんかいない。いや、むしろ優しさに加えて人間として強くなったかもしれない。僕は君の歩いてきた道を尊重する。僕も人間として成長したつもりだ」

 浩二はサラの目を見据え言った。

「どうだい? これは君へのプロポーズだ。僕の申し入れを受け入れてくれないだろうか?」

 浩二は自分のグラスをサラに差し出した。

 サラもじっと浩二の目を見つめながら、考えているようだった。彼女の目に、プールの明かりが反射し煌めいている。そのことで浩二は、彼女の目が潤んでいることに気付いた。

 ほんの少し、二人の時間が止まった。

 サラはゆっくりとグラスを持ち上げて、だまって浩二の差し出したグラスにそれを合わせた。

「それは、了解という意味でいいの?」

「ありがとう。本当はすごく嬉しい」

 二十年の歳月を経て実現した、二人の結婚の約束だった。

 レイラには二人の約束を、しばらく伏せておくことにした。彼女が動揺することを心配してのことだった。

 浩二はシンガポールでの出来事を、サラに聞かせた。アイリーンがどれほどサラに似ているか、そのことがどれほど浩二の心を揺さぶり同時に癒してくれたのか。何よりも浩二がサラに伝えたかったのは、今回の出来事が、自分の人生の中でどのような意味を持ち、どれほど大きなウェイトを占めているかであった。

 浩二がサラと別れてから歩いてきた道は、仕事一筋の道だった。ある程度の財産を築き、社会的地位も確立し、一端の社長として社員や周囲に認知されるようになった。厳しいビジネスの世界で荒波に揉まれながら、人間を見る目を養い、反省を繰り返しながら生きてきた。しかしいくら財を築き人間的な成長を果たそうが、それを継承する人間がいないことへの淋しさが浩二にはあった。浮き沈みの喜憂を分かち合う人が身近にいないことは、自分が何のために働き何のために生きているのかという自問自答へと繋がった。若いときにはがむしゃらに走って生きてきたけれど、仕事が軌道に乗り一段落した頃には、人間が独りでは生きていけないと言われる所以を実感するようになった。だからこそ、アイリーンという実の娘の存在が自分の心の救いになった。浩二はそのことを、感謝の気持ちを添えてサラに伝えたかったのだ。

「こんなことで君の苦労が報われるわけではないけれど、本当にありがとう。君が僕とのことをずっと大切に想ってくれた気持ちを痛感しているし、僕の子供を産んでくれたことに、とても感謝している」

「私は何かの見返りを期待してあの子を産んだのではないわ。だから私のこれまでのことは気にしないで欲しいの。私は今までも、そして今も幸せよ。あの二人が立派な女性になった姿を見た時に、初めて私の苦労は報われるの」

「君は本当に強くなったね」

「子供を育てるということはそういうことなのよ。子供と一緒に自分も成長していく。そうじゃなかったら子供なんて育てられないわよ」

 サラの言葉には、実績に裏づけられた自信と説得力があった。浩二はそんな彼女と自分を比べ、自分がとても幼く思えた。

「昔は僕がリードしていたつもりだったけど、今は君の方がずっと大人だ。ずいぶんと差がついてしまった」

「母親は強いのよ。男はいつまでも子供みたい」

「そうだね、本当にその通りかもしれない」

「それでもいざとなったら男の人に敵わない。あなたは立派にアイリーンを救った。既に彼女の心も掴んでいる。それは素晴らしいことよ。誰にでもできることではないわ」

「難しいのはこれからだ。とにかく僕たち四人は、これからお互いに心を通わせる必要がある。そして僕はタイミングを見計らって、二人に本当のことを伝えるべきだと思っている」

 血の繋がりがないとして、それがどんな意味を持つのか。それが分かる前と後で一体何が変わるのか。取り違いなど単なるアクシデントだ。浩二はそれが、これまで培った親子の愛情になんら影響はないはずだと信じたかった。それよりも、秘密にした事実を二人が何かで知ってしまう方が、二人を大きく傷付けるのではないか。

 サラもそのことは理解している。しかしサラの受け止め方は、浩二と微妙に違っているのだ。

 レイラが自分の本当の娘でないと気付いた時、サラは気が動転した。取り違いの事実は、レイラを浩二の子供と信じて育てた自分の必死の二十年間が、一瞬で否定されるような恐怖感に襲われたのだ。そしていざアイリーンを目の当たりにすると、今度は開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったような不安に襲われた。浩二の言う通り、血の繋がりがないことなど関係ない。レイラは誰がなんと言おうと自分の娘だ。ならば余計な詮索をしなかった方が良かったかもしれないのだ。勿論それは、アイリーンを助け出したことを後悔するものではない。実際、事実を知ったサラは、心からアイリーンを心配し彼女を救い出したいと願った。アイリーンがどこかで大変な目に合っていると考えただけで、まるで自分のことのように心を痛めた。そして自分の手元に彼女を取り戻したことに安心し、幸せを感じている。それでも取り違いの事実を無かったことにしたいという気持ちを、サラはどうしても拭えない。

「君はレイラがこの事実をどう感じ、心の中でどう処理するのか分からなくて不安なんだ。しかしレイラは、誰が何と言っても君の娘だ。それは今更変えられない事実だ。そしてアイリーンが二人の娘だということも事実だ。誰の人生にも、思い通りにならないことやどうしていいか分からないことはたくさんある。それが普通だよ。しかしほとんどの人間はそんな運命を受け入れながら、生き抜く力を持っている。僕と君が出会ったこと、そのことで君が子供を産んで育てたこと、僕がそんな君やアイリーンのことを知ったこと、そして僕と君がこうして再会したこと、その全てが受け入れるべき運命だと思う。そして君もこれまで、運命を受け入れて立派に生きてきた。レイラもアイリーンも同じだ。彼女たちも運命を受け入れて、それを乗り越える力を持っている。二人をそんなふうに信じるべきだと思う」

 サラは、思いつめた眼差しで浩二を見つめた。そしてふと、肩の力を抜いた。

「そうね、あなたの言う通りだわ。起こってしまったことは変えられない。だったらがんばって乗り越えるしかないわね。やっぱり最後はあなたに敵わないな。昔からそう。あなたはいつも頼りなく見えて、いざとなると強いのよ。あなたも何も変わってないわ」

「いつもそんなに頼りないかなあ」

 浩二は頭を掻く。サラはそんな浩二を見て、ただ笑った。

 四人は五日間、セブのホテルで過ごすことを決めた。どこかへ旅行をする案は、サラのもったいないと言う一言で取りやめになった。慌ただしく動きまわるより、一箇所にじっくり腰を据えた方が交流を深められるという判断もあり、実際にその考えは正解だった。

 四人は気の向くままにショッピングをし、散歩をし、ティータイムを楽しんだ。映画を観て、プールサイドで本を読み、思い出深いダウンタウンにも遊びに行った。

 どこから見ても、幸せな四人家族だった。浩二とサラは、四人家族を意識して演じていたのだから、周囲からそう見えるのは当たり前だったのかもしれない。

 気持ちも大切だが、形を作るのも大切なことだ。結局きっかけは何でも良かった。四人の気持ちが繋がればそれで良い。気持ちが繋がるということは、信頼し合うということだ。つまりお互いに信じ合えることである。浩二もサラも、その気持ちが四人を救うと信じていた。だから何事も真剣に楽しんだ。

 真剣に楽しんだ結果、それは独り暮らしの長かった浩二にとって、生きていることを実感する至福の時間となった。長い間苦労を重ねたサラにとっても、夢の中の花畑を駆けずり回るような、心の浮き立つ時間となった。浩二とサラは、青春を取り戻したかのような感覚に酔いしれた。二人が抱える複雑な事情など、まるで最初から無かったように時間が流れた。浩二とサラにとって、それはそれで良かった。作り物の楽しさを演じるよりも、心から楽しむ時間を共有することが大切だからだ。

 ホテル暮らしが三日目となる夜のことだった。レイラがシャワーを終えて、バスルームから出てきた。アイリーンが入れ替わりでバスルームへ入ると、レイラは濡れた髪をバスタオルで拭きながら、ソファで本を読むサラの傍にやってきた。

「ママは沢木さんのことが好きなんでしょう」

 突然のことに、サラは視線を手元の本から動かせなくなった。サラは本に目を落としたまま、努めて冷静に「なんでそう思うの?」とレイラに訊いた。レイラは焦る彼女の心を見透かしたように笑い、「だって見てれば分かるわよ。ママはいつもと全然違うから」と言った。そしてレイラは真顔になった。

「私のことは気にしなくていいのよ。ママはママの好きなようにして。あの人と一緒だったら、ママは幸せになれる気がする。私は最初、あの人が私のパパかなって思った。それならそれでもいいなって。でもそれはきっと違うわね、私の顔には日本人が入っていないもの。でもそんなことはどうでもいいの。ママは今まで大変だったから、ママが幸せになれるのだったら思ったようにして欲しい。あの人だったらいいわよ。言いたかったのはそれだけ」

 レイラは自分の言いたいことを言い、さっさとベッドルームに姿を消した。サラが本から目を離すと、不意打ちのように再びドアが開き、レイラが顔を覗かせた。

「ねえ、アイリーンは私の双子の姉妹じゃないわよね。だって彼女はママに似ているから。それに彼女は私と誕生日が同じなのよ。でもそれもきっと違うわね。不思議な偶然。それじゃあ、おやすみなさい」

 サラがあっけにとられる間にドアが閉まり、再び部屋の中が静まり返った。冗談めかしたレイラの言葉に、サラの心臓が大きく波打った。そしてレイラの言葉に何も反応できなかった自分の態度が、取り返しのつかないまずいものではなかったかと思えてきた。

 レイラは薄々、何かに気付き始めているかもしれない。もしレイラの疑っていることが、アイリーンは自分の双子の姉妹ということであれば、それは彼女にとって残酷な勘違いだ。行動を共にしていると、思わぬところから綻びが生じるものだと言った浩二の言葉が、サラの頭をよぎる。

 サラは唐突なレイラの言葉に動揺し、それを冷静に受け止める余裕を失っていた。今感じている幸せも、一旦ほころび始めると、一気に崩壊へ向かうのではないだろうか。今後自分がどのように振る舞うべきなのか分からず、焦る気持ちばかりが胸中に渦巻いた。

 一方でアイリーンも、レイラと自分の誕生日が同じと知ったとき、それが心に引っかかった。浩二は自分を売春宿から助け出した理由を、セブで説明すると言った。そのことと関係があるのだろうか。

 相変わらず浩二とサラは、自分のことを家族のように扱ってくれる。自分がまるで、二人の娘であるかのように。

 娘……。

 まさか、私が二人の娘? アイリーンは一瞬そんなことを考えたけれど、それはどう考えても無理がある。自分の記憶にあるママや家族の思い出が偽物でない限り、そんなことはあり得ない。あの記憶が誰かにインプットされたものだとしたら、まるで映画の中の話だ。これは突拍子もない考えで、やはり他に理由があるのだろう。結局アイリーンも、自分の考えが煙に巻かれてしまうのだ。

 そんな女性たちの気持ちとは別のところで、浩二は一つの決断をしようとしていた。それは、アイリーンとレイラに真実を伝えるということだ。浩二も四人で幸せな時間を過ごしながら、夜は一人の部屋で苦悩した。

 敢えてレイラに真実を伝える意味がどこにあるのか、浩二にはそれが分からなかったのだ。しかし、アイリーンだけに真実を伝えていいものだろうか。もしレイラが何かをきっかけにそれを知ったら、レイラの心は浩二とサラから離れてしまう気がした。思い悩んだ末、やはりそのことは、二人同時に伝えるべきだと考えるようになった。それがレイラに対する思いやりだと、浩二は信じることにした。幸せな時間を共有しながら、それぞれが秘めた重苦しい想いを胸に抱えた。

 翌朝、四人で遅い朝食をとったあと、浩二はサラをプールサイドに誘った。

 外は朝から、相変わらず暑かった。サングラスがないと、浩二の目には太陽光線の刺激が強すぎた。既に数人の子供たちが、プール遊びを楽しんでいる。

 真っ青な空の中で、白くて小さな雲の集団が、優雅にゆっくり移動していた。時々プールのある中庭を、強めの風が吹き抜ける。それが強い日差しで火照る身体を冷やしてくれる。

 浩二はプールサイドのテーブルで、ビールを注文した。サラが現れた時、浩二のビールは既に底をついていた。二人はあらためて、グラスビールを二つ注文した。

 サラは浩二の向かいに座るなり、「私も二人で話したいことがあったの」と言った。それは昨晩のレイラの話である。

「レイラは既に、何かに気付き始めているんじゃないかしら」

「そうかもしれない。しかしいずれは二人に真実を伝えるべきなんだ。もし気付かれるなら、自分たちの口からはっきりと伝えた方がいい」

「そうかもしれない。でも私はまだ、心の準備ができていない」

「君の心の準備とは何かな? それはいつできるの?」

 答えに躊躇するサラに、浩二は続けた。

「もし二人に事実を隠すのであれば、最後まで徹底的に隠し通す覚悟が必要だった。けれど僕も君も、既にアイリーンと接触した。本当に隠し通すなら、アイリーンのことは諦めるくらいの覚悟が必要だったんだ。でもそれはできなかった。そして僕は、アイリーンを助け出して良かったと思っている。それは君も同じはずだ」

「その通りよ。ここで彼女を見捨てたら、私は一生苦しんだわ」

「だから事態は既に動き出してしまったんだ。それでも隠そうとしたら、それはとても辛いことになる。隠し事があれば家族に亀裂が入る。それが大きなひびになり、そしていつか割れることに怯えながら生きていくことになる。だから僕はみんなで堂々と幸せになるために、二人に真実を伝えるべきだと思っている」

「でもそれを知った二人が受ける衝撃を考えると、簡単に同意はできない」

「その気持ちは分かる。僕だって深く考えた。その上で出した結論だ。レイラは昨夜君に、僕たちのことを認めてくれると言ったんだよね。彼女は君の幸せを、大切に考えているんじゃないのか? それはなぜかな?」

「なぜってそれは……」

「君とあの子はしっかり親子だからだよ。二人は愛情で結ばれているからだ。事実を打ち明けることでそれが消滅するとは思えない。親子の絆に血の繋がりは関係ないんだ。血の繋がりは単なる理屈に過ぎない。しかし家族の絆は理屈ではないだろう? それは心で感じるもので、決して理屈ではないんだ」

「それはあなたと私がそう思うだけであって、あの子たちが同じように思うか分からないわ」

「いや、あの子たちは分かっている。一番大切なものが何か、二人共きちんと気付いているよ。レイラには君が、アイリーンにはエレンが、長い時間をかけてそのことを伝えてきたんだ。君は自分の伝えてきたことを信じればいい」

「でも……」

 サラは浩二の言うことを理解していながら、一歩を踏み出せない。

「もう逃げない方がいい。僕は昔、君との結婚から逃げたことで二十年も後悔を引きずった。自分を大切にしたいなら、逃げない方がいい」

 サラは無言で遠くを見つめた。浩二はそんなサラを、黙って見つめた。

 しばらく重たい沈黙が二人の間を彷徨った後、サラが肩の荷を下ろすように口を開いた。

「分かったわ。あなたに任せる」

「ありがとう。二人には今日の午後に話をしよう」

「ええ、どうなるか怖いけど、あなたの言葉を信じる」

 浩二は静かに頷いた。

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