愛情を知り




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 あのときです。あたしがあなたに対して「怖い」と思わなくなったのは。膝枕をしてくれた日。起こしてくれるはずが一緒に寝ちゃうなんて、愉快な人だなあ、と。悪口じゃありませんよ。

 そういえば、あたしが寝ているとき、先輩は何もしていませんよね? あたしですか? 寝ている先輩には、何もしていませんよ。するわけがないじゃないですか。




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 思えば、あたしは何かひとつでも、先輩に奪われてしまわないよう、抵抗してみせただろうか。見目の麗しさに、音を奏でたような声。鼻孔をくすぐる香気に柔らかな肌。人間の感覚機能を五つに分類するなら、そのほとんどをやられたのではあるまいか。


(まぁ、先輩の魅力を前に、抗し得ないのはしかたがない、わよね)


 でも、と思う。彼女と何かしらの勝負をしているわけではないが、負けっぱなしの印象は拭えない。


(陸上競技じゃあ、やる前から勝ち負けが見えている、か)


 うーん、と腕組みをして唸っていると、友人の声が飛んできた。


「おーい、キューゾー。あんたにお客さん」


 客? と疑問に思いながら教室の出入り口を見やると、先輩があたしの友人に深々とお辞儀をしていた。その拍子に、腕に抱えていたものを落としかける。慌てる姿が可笑しい。時計の針は、お昼時を指していた。いつもなら、先輩が先に中庭にいて、あたしが窓から飛び降りて合流するのだが、今日はどうしたのだろうか。


「教室に来るなんて、珍しいですね。待っていてくれればいいのに」


 彼女のもとへ歩み寄りそう声をかけると、先輩はわかりやすく疑問の表情を浮かべ、あたしをまじまじと見る。


「わたしだって、すぐにわかった?」

「どうやったら見間違うんですか。先輩みたいに、わかりやすい人」

「ふふっ、ありがとう。じゃあ、行きましょう」


 いったい何を指して「ありがとう」なのか。彼女はずいぶんとご機嫌なようで、鼻歌が聞こえる。


「あの、先輩。その髪。それに脚も。眼鏡までして、どうしたんですか?」


 先輩の見た目は、普段とはずいぶんと異なっていた。長い髪は三つ編みにしてふたつに分けられ、小さな背に揺れている。脚部はタイツにより黒一色。美しいラインがくっきりと浮かび上がり、思わずどきりとしてしまう。おそらく伊達なのだろう眼鏡は、フチが細い黒色フレーム。縦幅の広い逆台形で、上品さはいつもどおりだけれど、どこか知的に見えた。変装のつもりだろうか。いぶかしむような視線を送っていると、彼女はくるりと振り返った。


「久美ちゃん、女心がわかっているわね」

「女心? それって、どういう……?」

「わたしの変化に気づいて、ちゃんと言葉にしてくれたところ」

「気になったら、誰だって口にすると思いますけれど」

「そうじゃない人もいるのよ。気持ちって、やっぱり口にしないと伝わらないものだから」


 変わったところを「変わった」と言われるのが、そんなにうれしいのだろうか。あたしにはさっぱりだが、先輩がよろこんでくれたのなら、よしとしよう。


「理由も、聞いたほうがいいんですか?」

「わけ? ふふっ、そこまではいいのよ」

「そう、なんですね。でも、気になるかも、です」


 どうやらあたしは、先輩の言う女心とやらを理解しきれてはいないようだ。こういう場面では、根掘り葉掘り聞くものではないらしい。彼女はそんなあたしを見て、「しょうがないなぁ」と目を細め、口を開いた。


「髪は、朝、“ちょっとやりたいこと”があってね。邪魔になりそうだったからまとめたの。脚は、ほら、だんだん陽射しが強くなってきたじゃない? 肌が弱くて、それで。眼鏡は変装気分。似合っているでしょう」


 似合っている。眼鏡だけでなく、すべてが。こんな心理状態を『あばたもえくぼ』と言っただろうか。彼女がどんな姿形をしていようと、今のあたしにはたぶん、肯定の感情以外はわかないに決まっている、そう思った。


「ねぇ、久美ちゃん。わたしたちって、どう見えたのかしら」

「そりゃあ、先輩と後輩ですよ」

「それだけ?」

「そう、ですねぇ。あとは、仲のいい友だち、でしょうか」

「『久美ちゃんはわたしのものです』って、伝わったかしら」

「ものって。まぁ、このごろはいつも一緒にいますし、そんなふうに見えても、不思議はないかもしれませんね」


 あたしがそう返すと、彼女は一瞬だけ意外そうな表情をしたあと、いつもの笑顔に戻り、短く「好きよ」と口にした。その変化に隠された意図を読み切れず、あたしは今にもスキップをしそうな先輩のあとを、黙ってついてゆく。心が、ざわりとした。


 *


 中庭の定位置につくと、先輩はゆっくりと向き直る。その腕には、標準サイズとそれよりやや小さめのお弁当箱がふたつがあった。ランチボックスと言ったほうがふさわしいだろうか。リボンもそうだったが、持ち物のひとつひとつがおしゃれである。わたしの目がそれを捉えても、恥ずかしそうに俯きはするが、隠そうとはしない。大きめのほうには箸、もしくはスプーン・フォークを入れる部分がある。もう片方にはそれがない。

 先輩の瞳が、ものを言いたげにしている。さっき聞いた、朝の“ちょっとやりたいこと”とは、これを指すに違いない。


「それで。大きいほうが、あたしのぶんなんですか」


 どうやら正解を選んだようで、彼女はこれ以上ないほどの笑みを浮かべる。やれやれ、と思いながら、ステンレス製の容器をありがたく受け取った。素直で、わかりやすくて、きれいでいて可愛らしい。本当に、しかたのない人である。


「こういうときって、『作りすぎちゃって』とかなんとか、言い訳するものじゃありません?」

「ううん。久美ちゃんに、食べて欲しくて」


 なんてストレートなのだ。このまま先輩のペースに乗せられたら、とんでもない醜態をさらしかねない。膝枕をされて眠りこけた件もある。とはいえ、あからさまに話題を変えて、あの笑顔を失うのもどうかと思う。あたしは、「食」からははずれないよう気をつけながら、こう返した。


「それにしても、いったいどういう食生活をしたら、そんなふうになれるんですか。くれぐれも言っておきますが、“どこが”じゃありませんよ。全体的にです、全体的に」

「そんなふう? あ──」


 彼女は、あたしの視線に気がつき、合点がいったようだ。


「どこが、じゃないのはわかったわ。久美ちゃんは、そんなところ、見ていないものね」


 抜群の均整を誇る先輩の身体つきは、早熟にすぎる。性別にかかわらず、誰しも一度は「ふれてみたい」と、そんな気持ちを否応なく誘引されるだろう。しかし、だ。言いかた、と、自分でつっこみたくなる。あたしときたら、なぜこうまで嫌な色を含んだ言葉になるのか。けれど、先輩はまったく気にした様子も見せず、少し考えてから、あたしが手に持った容器を指す。


「──それ、かな」

「もしかしてこれ、先輩の手づくり、ですか?」


 彼女は、こくりと首を縦に振る。慣れないことをしたのでは、と、傷を作ってはいないか不安になったが、爪の先まできれいな、見慣れた指がそこにあった。料理まで完璧なのか、この人は。


「これを食べたら先輩みたいになれるって、いったい、何が入っているんです?」


 心配させて、とか、なんでもできるんですね、とか、勝手に腹立たしくなったあたしは、ぶっきらぼうに聞いてみた。それが照れ隠しなのは、きっとばれている。

 目を細めて、彼女は言う。短く、ゆっくりと、ひと言だけ。


「愛情」


 これはもう、大人しく食べるしかない。「愛情」とはどんな味なのか、想像すると、心がそわそわ、もしくはふわふわする。単純な話、それは行き場をなくした「うれしい」の気持ちなのだ。食べる前から、お腹いっぱいである。この人は、本当にずるい。

 言葉をかわしていると、愛情が食べられなくなりそうなので、「いただきます」と口にして、あたしはお弁当箱のふたを開けた。


「先輩、これ……」


 料理の構成に言葉を失う。主食となるご飯はよい。パンでもパスタでも、何がそこに待っていても食べるに決まっている。だが、メニューのバランスがまるでなっていない。鳥の唐揚げにハンバーグ、豚の生姜焼きにウインナー(タコさん)、エビフライに卵焼き、と、とにかく主菜が多い。根菜の煮物にポテトサラダなどの副菜は、もうしわけていどに添えられていた。栄養の偏りは明白。けれど、整然とした配置に食欲をそそる匂い、何より、お弁当の定番にして美味しいものばかりがそろっている。文句など言えるはずもない。


「久美ちゃん、何が好きなのか知らなかったから。今日、教えて。もし苦手なものがあったら、残していいからね」


 編んだ髪をほどきながら、先輩が片目をつむる。どれをとっても、美味しいに決まっているではないか。残すなんてもってのほかである。「どれからでもいいわ」と、適当に箸をつけ口に運ぶ。それが舌にのった瞬間、「んんー!」と声にならない声があがった。頬が、文字どおり落ちたらどうしよう、と慌てておさえる。目の端に涙が浮かんだ。先輩がその様子を、にこにこと満足そうな笑みを浮かべて見ている。


(何か、悔しいわ)


 意地悪をしたかったわけではないが、あたしはひと言も「美味しい」とは発せずに、箸を動かし続けた。けれど、おそらく表情が雄弁に語っていたことだろう。美味しいです、と。「久美ちゃんの反応を見たら、何が一番好きなのかわかったわ。次は副菜とのバランスも考えて、デザートも用意するから、入れ物はもう少し大きいのにしないとね」とかなんとか、先輩の声が聞こえた。物騒な言葉を使うが、彼女は、幸せを凶器にしてあたしを殺す算段を立てているらしい。

 愛情を平らげると、今度は「はい」と何やら促してくる。どうやら、昨日と同じように、あたしを寝かしつけるつもりのようだ。食べてすぐ寝ると牛になる、とことわざを持ち出して、丁重にお断りした。幸福に溺れて、このままでは死んでしまう。

 お昼にこんなに食べたのは久しぶりで、その日の帰りは、摂取したぶんを燃焼させようと、陸上部へ顔を出すことにした。



 つづく

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