そっとふれて




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 ありがとう。必要以上に身を寄せたわたしを、ふりほどかないでいてくれて。あなたをはなしたくない、心の底から、そう思ったの。デート、楽しかったわ。また行きましょう。今度はお休みの日に、手をつないで。つなぎかたは、お友だちのそれじゃなくて、ね。久美ちゃんの私服姿も楽しみ。

 そうそう。あのリボン、あげるつもりだったのよ。気づいていた?




 **




 ふわぁ、と大きくひとつ、あたしはあくびをした。別に退屈なわけではない。ここのところ、お昼休みは先輩と一緒にすごすようになり、昼寝の時間がめっきり減ったからだ。いよいよ夏本番、と言わんばかりに、今日の陽射しは強い。日陰に入らなければ、とてもではないが昼寝などできっこなかった。


「ふふっ、大きなあくび。シュシュ、白いほうをつけてくれたのね。ひょっとして、おしゃれに気をつかって夜ふかししたの?」


 眠そうにしているあたしを見て、先輩が微笑む。やや慣れてきたものの、向けられる笑顔を直視できない。半分は本当に睡気からくるものだが、もう半分はそれをごまかすためのあくびである。


「誰のせいだと、思っているんです?」

「もしかして、わたし……?」


 うっかりにもほどがある。照れ隠しとはいえ、昼寝ができないのを、よりにもよって彼女のせいにするなんて。ここ数日の付き合いで、先輩がこのくらいで怒るような人ではないと知った。けれど、言いがかりもはなはだしい。


「そっか。久美ちゃん、わたしといてくれるようになったものね。お昼寝の時間をなくしてまで」

「あ、いえ。そのぶん、授業中に寝るので、大丈夫です」


 我ながら苦しい言い訳である。勝手に口を滑らせて、勝手に気まずくなるあたし。頭の後ろでゆわえた髪をいじりながら、どうしたものかと思案していると、先輩は朗らかに笑い、あたしの頬を両手で挟んだ。


「だーめ。授業中に居眠りなんて、わたしが許しません」


 昨日“前科”があることは、黙っておいたほうがよいだろう。内心、冷や汗を垂らしているあたしに、先輩は「はい」と何やら催促してくる。見ると、自身の太ももをぽんぽんと叩いていた。


「ほーら。遠慮しないの」

「いや、それじゃ、先輩が退屈しちゃいますし」


 つまるところ、膝枕をしてくれる、そう言っているのだ。ベンチに座ることで大腿部の筋肉が押し上げられ、立っているときよりやや幅広に見える先輩の脚。美しいラインはいささかも失われておらず、むき出しの肌がもたらす誘惑は、実に争いがたい。ふれてみたいという欲求がないといえば嘘になる。しかし、だ。出会ってから毎日のように彼女の魅力を思い知らされ、ここにきて、皮膚感覚をともなう接触までしてしまったら、いよいよあたしの心がもたない。


「遠慮しておきます」


 できるだけ傷つけないように、丁重にお断りした。


「じゃあ、授業中に寝ちゃダメよ。でも久美ちゃん、もう居眠りしちゃっているんでしょ」


 先輩はすかさず痛いところをついてくる。あたしの行動は掌握済みのようで。


「はい……」

「ふふっ。素直でよろしい」


 いけないことをしたのに叱られなかった安心から、油断した。先輩が、あたしの肩をぐいと引き寄せる。彼女のほうへ倒れかかると、柔らかな手でふわりと頭が受け止められ、そっと大腿部におさまった。想像以上の気持ちよさに、あたしの脳はあっという間に甘美な痺れに支配される。


「時間になったら、起こしてあげる。おやすみなさい」


 耳もとで囁かれ、チェックメイト。

 彼女の肌に、ふれてしまった。しかも、直接。早鐘のように打つ心臓とは対照的に、心はすでに眠りの淵にある。かろうじてわいた「きっと、重いだろう」の意識から、頭を持ち上げて少しでも先輩の負担を和らげようと、彼女の脚部に手を添えた。「やめておけばよかった」と思ったときは、もう遅かった。温かく、滑らかで、綿のようなさわり心地。残ったあたしの意識は、抵抗する間もなくあっけなく刈り取られた。


「久美ちゃん? ふふっ、もう寝ちゃった。ごめんね、いつもわたしに付き合わせて。それから、ありがとう」


 眠っているあたしに先輩が何をしたかは、彼女以外、知る由もない。


 *


 どのくらい眠っていただろうか。睡眠への欲気はきれいに消え去り、あたしの意識がはっきりとする。学校での昼寝で、こんなにも爽やかな目覚めは初めてだ。まぁ、それも無理からぬ話である。様子のよい木陰と、柔らかくあたしを包む先輩の感触。そう先輩の──。


(ち、ちょっと。これ、まずい)


 見ると、目と鼻の先に彼女の寝顔があった。あたしに覆い被さるようにして、すうすうと可愛らしい寝息を立てている。無防備極まりない。


(ああ、もう。がんばってよね、あたしの理性)


 首に手を回して引き寄せれば、白く細い首すじは、あたしの思うがまま。寝込みを襲うなんて最低だけれど、先輩に知られなければ、何をしたって“何もしていない”のと同じだ。いけないのはわかっている。人目だってきっとある。でも、もうあたしは、どうしようもないくらいこの人に惹かれ、本能的な欲求に身を委ねてしまうきわまで、到達してしまったのかもしれない。


(すみません、先輩。これっきりに、しますから)


 理性が敗れた。いとも簡単に。

 そっと、彼女の首すじに指をあてた。するりと下に滑らせ、付け根に浮き出た骨を撫でる。本当にさわり心地のいい肌。無意識に指を一本増やし、同じ場所を何度も往復させた。


「う、ん……」


 くすぐったかったのか、先輩が目を覚ます。さっさと“したいこと”を済ませてしまえばよかったものを。少し残念に思いながら、あたしは彼女に声をかけた。


「起こしてくれる人まで寝ちゃってどうするんですか」

「だって、久美ちゃんがとっても気持ちよさそうだったから。うらやましくなって」


 目をこすりながら、薄ぼんやりとした声での愛らしい抗議。あたしたちは互いに見つめ合い、ごく自然に笑みをこぼす。先輩に対して抱いていたおそれは、このとき、静かに失われたような、そんな気がした。



 つづく

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