香りに包まれ




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 近づいてきたあなたを、あたしは最初「怖い」と思いました。それは直感。この人に、あたしの何もかもが奪われてしまいそうな、そんな気がして。警戒するあたしに、先輩は言いましたね。『友だちになりたい』と。このときすでに、あたしはあなたに、ふたつのものを奪われていたんです。ひょっとしたら、気持ちをおさえられないかもしれない。あたしがそんなふうに思っていたなんて、想像できましたか?




 **




「先輩、もしかして、猫飼ってます?」


 正式に友人になったあたしたちは、さも当たり前のように昼休みの時間をともにしていた。中庭のベンチに、ふたり並んで座る。木陰になっているこの場所が、彼女のお気に入りらしい。今日は陽射しが強く、暑くて窓際では寝られそうになかったので、あたしは内心よろこんでいた。


「どうしてわかったの? 毛色が真っ白い子が、ひとりいるわ」


 猫に『ひとり』とは、先輩らしいというか、なんというか。きっと、家族の一員として、すごく大切にしているのだろう。同じ猫好きとして、親近感がわく。


「久美ちゃん、優しい目をしている」

「そう、ですか?」

「うん、そう。でも、わたしにじゃないのが、ちょっと残念」

「それって、どういう──」

「ううん。おかしなことを言ってごめんなさい」


 先輩はあたしの言葉を遮り、「もう、おしまい」と言わんばかりに、謝罪を口にして会話を切った。『わたしにじゃない』とは、いったいどんな意味を持つのだろう。何かをごまかすように立ち上がった先輩は、スカートの裾を整えて数歩進むと、くるりとあたしに向き直る。彼女の体の動きに合わせて流れる髪も、ひるがえるスカートが描く円も、その一挙手一投足が本当に優雅な人だ。


「久美ちゃん。あのね……」


 柔和な瞳に、わずかばかり決意を秘めたような、そんな視線に射抜かれる。この人と目が合うと妙な緊張が走り、鈴を転がすような声に、心が落ち着きをなくす。あたしは人見知りするほうではないのだけれど、先輩とのふれあいは、なぜか慣れないでいた。

 続く言葉を待っていると、彼女の目がぱちぱちとまたたく。あたしの瞳に向けられていたそれは、顔より下、胸元のあたりへうつったようだ。


「もう。久美ちゃんたら、こんなにだらしなくして」


 どうやら、あたしのネクタイの結びかたが気になるご様子。締めつけられるのが嫌でゆるくしているのを、見咎みとがめられてしまった。座っているあたしの前にやってくると、ネクタイをほどき、手で撫でて整えてくれる。


「わたしがしてあげる」


 本人はまったく意識していないのだろうけれど、先輩の豊かな胸が鼻先にあり、目のやり場に困ってしまう。見ないように、と顔を上げると、彼女の唇が想像以上に近くにあった。どきりとして、どこを見ればよいのかまた視線が迷う。やや下方を見やると、そこには無防備にさらされた白い首すじが。


「あの、早く、済ませてもらえますか」


 でないと、ヘンな気を起こしそうなので。相手は同じ女子だというのに。


「んー。じゃあ、これからはきちんとしないと。ね?」


 あたしが弱っているのが伝わったのか、実に手際良く、するりとネクタイを結び終える。


「はい。できました」

「こんなの、首にかかっていればそれで──。あれ? 窮屈に、感じない」

「でしょう。無理に締めなくていいの」


 以前、母にしてもらったのを思い出した。見た目はきれいで、それでいて苦しくはない、上手なやりかた。感心しながら結び目をさわっていると、ふいに先輩の指があたしの後ろ髪にふれた。


「首、暑くない?」


 毛先が肩にあたるかどうか、くらいに伸びたあたしの髪。確かに、これからの季節、首にかかるそれは暑さを助長させそうだ。思い切って、ばっさりやってもよかった。乾くのは早いし、身だしなみを整える手間も減る。そんなふうに考えていると、しゅるっとかすかな音が、耳に届いた。


「結ってあげる」


 見ると、先輩の手から、自身の髪をまとめていたリボンが垂れ下がっている。そのまま、彼女の両手があたしの後ろに回された。、である。


「あの、こういうのって、普通は正面に立ってはしません、よね」

「リボンをしてあげるのに、かわりはないでしょう」

「そうです、けど」


 真正面に立って、後ろ髪をリボンで結ばれる。距離が異様なまでに近い。気づいているのかどうか、あたしにとっては嫌味としかいえない膨らみが、彼女の動きに合わせて、ときどき鼻先にあたる。人の視界は広いはずなのだが、こうなってしまうと、どんなに目を逸らしても、そこに先輩がいるという事実を視覚が強制的に認識させてくる。

 さらに困ったのは、匂いだ。先輩の髪が、あたしの肩をつたって胸元へ滑り落ちる。真っ黒に染めた絹糸のような、艶のあるさらさらとした髪。それが放つ柑橘系の香りが、逃げ場のない鼻を捕らえてはなさない。

 まったくの無意識に、あたしはそれを指の腹で撫でていた。まとめて手に取ると、彼女の髪はすくった水のように指の間をするりと落ちてゆく。


「黒い髪って、どう思う? 重たくないかしら」

「いえ。先輩のは、とってもきれいで、ずっとこうしていたいくらい、です」


(これ、シトラス、かな)


 香りに包まれる、とはこのことだ。いけないと思いつつも、それに反して、ずっとこのままで、という思いがわいてくる。惚けている自分をはっきりと認識できた。匂いが気持ち良すぎて、先輩の髪をいじる手が止められない。そんなあたしの意識を引き戻すように、声が降ってきた。


「これまでに告白をしてくれた人──男の子はね、みんなそこばかりに目がいってね。誰もわたしを見てくれなかったの」


 先輩の言う「そこ」とは、今あたしの視界を塞いでいる双丘を指すのだろう。女のあたしからしたら、髪だって決して負けてはいないが、異性となるとそうはならないのかもしれない。


「先輩の魅力のひとつ、じゃないですか。異性に──いえ、同じ女子だって憧れますよ、きっと」

「久美ちゃんも、そう?」

「あたしは、別に。ないものねだりなんてしません。それに、そこに目をやったところで、先輩を見ていることにはなりませんから」

「ふふっ。そういうところ、好き」

「どうせお子様の体型ですよ。まぁ、おかげで、何も気にせず走れます」


 ぽそりと、『伝わらないものね』と、消え入りそうな彼女の声が聞こえたような気がした。それを確かめようと見上げたとき、首すじが軽く涼やかになり、そちらに気がいってしまう。


「どうかしら?」


 先輩に問われ、うなじをさわる。そこにかかっていた髪は、どこにもなかった。風があたり、ひやりとして気持ちがいい。先輩が渡してくれた小さな手鏡を覗くが、うまく見えない。けれど、ふれてみると、短いポニーテールにしてあるのがわかった。


「これ、涼しくていいですね。あ、でも、リボン」

「そのまましていて。久美ちゃん、シュシュは持っている? リボンより手軽にできるから」


 あいにくと、あたしはそういったものを持ち合わせてはいなかった。彼女に話すと、年頃の女子らしくないあたしを笑いもせず、「今日の帰り、一緒に買いに行きましょう」と誘ってくれた。「デートね」とうれしそうにしていたが、あたしの付き合いが面倒でないなら何よりである。

 売り場で、汚れが目立たない、という理由からあたしが紺色を選ぶと、「少しはおしゃれしないと」と先輩は白系のものを手にのせてきた。うっすらと黄色みのある白色で、名前はなんとかホワイトと言ったか。結局、紺と白のふたつを買って、あたしたちは帰路についた。別れ際、ふわりと鼻孔をくすぐった先輩の香り。どんなシャンプーを使っているのか聞いておけばよかったな。

 夜、お風呂に入ろうと脱衣所で鏡を見て、“忘れ物”に気がついた。我ながらうっかりしている。


「先輩のリボン、つけたままだった」


 こういうのって、洗って返すのかな。洗剤はどうすれば、とか、手洗いがいいのか、とか、乾燥機にかけたら傷むのか、とか、あれこれと考えたが、結局そのまま、きれいにたたんで返すことにした。

 ベッドに寝転んで、リボンをもてあそぶ。先輩が選んだだけあって、肌ざわりが心地よい。手のひらにゆるく巻いて、そのまま掲げる。手の甲とひらを交互にくるくるさせていると、リボンがほどけてあたしの鼻頭に落ちた。柑橘系の──先輩の香りがして、思わずうっとりしてしまう。


(ちょっと、やばい。あたしったら、何してるの)


 慌ててリボンを振り払った。音もなく床に落ちたそれを拾い上げ、丁寧にたたみ直す。指先が、少し震える。そろりと手を鼻に近づけると、まだ微かに、彼女の匂いがした。



 つづく

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