想いが、あふれた。




 **




 久美ちゃんは、思っていることが顔に出やすいタイプよね。お弁当、どれも美味しそうにしていたけれど、一番は何か、すぐにわかったわ。残さずに食べてくれて、ありがとう。でもね、ああいうときは、言葉がほしいものなのよ。「美味しい」と、たったひと言でいいの。そうしたら、わたしはもっとはりきっちゃうんだから。あなたのためだけに、ね。




 **




「ねぇ、キューゾー。あんた、このまま陸上部に入らない?」


 友人からのいつもの勧誘。これまでに何度か試合の類に助っ人を買って出たからか、ご好意でユニフォームとスパイクをもらった。そこまでは、まぁよしとしよう。しかし、部室には、あたしのネームプレートをかけたロッカーまである。おまけに、顧問の先生からは『お前、ほとんど練習に来ないなぁ』と、まるで部員のように扱われる始末。戦略と呼ぶのもおこがましい、あからさまなやり口。外堀を埋めて、なし崩しで入部させようというのが見え見えだ。


「たまーに、気ままに走るからいいんじゃない。それに──」


 ちらりと、トラックの隅に目をやった。そこには、ちょこんと座った先輩の姿がある。あたしの視線に気づき、ひらひらと手を振ってくれる。それだけで、気分が高揚した。


「今は帰宅部がいいの」


 そう言葉を継いだ。


「残念。でもさ、頼んだらちゃんと来てくれるから、ほんとに助かるわ。これからもよろしくね」

「あたしも楽しんでいるから、気にしないで」

「あんたのそういうところ、好きよ」


 友人が、あたしに「好き」と言う。友情の好き。心がかき乱されることのない、穏やかな「好き」だ。

 準備運動をして軽めに走ると、かちりと音がして、あたしの中のスイッチが入った。ただひたすらに、過去の自分を追い抜くために、風を受けて駆け抜ける。隣接するレーンに誰がいようと関係ない。地を蹴り、自身の体の躍動を感じる、そのわくわくが止まらない。息があがるのすら、心地がよかった。

 次のスタートを切るまで、友人や他の陸上部員との話に花が咲き、あたしはすっかり“あるもの”を忘れていた。瑞々しい果実が無造作に転がっていれば、野鳥がついばみにくるのは至極当然。視線の先で、先輩が複数人の男子生徒に囲まれていた。


「ちょっと貸して」


 女子マネージャーが持っていたストップウォッチをなかば奪い取るようにして手に持つと、あたしは先輩のもとへ走り寄った。


「すみません。この人、マネージャー志望の見学者で、体験入部してもらっているんです。だから──邪魔しないでもらえますか」


 最後のほうは、拒否感を露わに、あわせて威圧した。我ながら、なんて低くて冷たい声だろう、と感心する。けれど、効果はてきめん。野鳥どもは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。先輩が上目遣いにあたしを見ている。立てば芍薬しゃくやく座れば牡丹ぼたん歩く姿はなんとやら。この人は、立っていようが座っていようが、どんなことをしていようが、慎ましく清らかである。しかし、あまりに無防備なのだ。ちょっと目をはなせば、果肉はたちまちに食べ尽くされ、芯どころか種まで残らなそうな危うさがある。


「先輩、ノートとペンはありますよね。これ持って」


 強引にストップウォッチを持たせると、矢継ぎ早に言葉を続けた。


「それであたしのタイムをはかってください。下校する生徒が少なくなるまで、何度でも走りますから。もしさっきみたいに言い寄ってくる輩がいたら、あたしを指差してこう言うんです。『あの人のタイムをはかっているので、よそ見できないんです』と。いいですね、あたしだけ見ていてください。ノートには何も書かず、フリで構いません。わかりましたか?」


 彼女は二、三度まばたきをすると、優しく微笑んだ。口もとは変わらず、眼鏡越しに見える瞳が、うれしそうに細められる。


「うん。久美ちゃんだけ、見ているね」


 この人は、本当に、どこでも遠慮なく雰囲気を出してくる。彼女に呑み込まれそうになるのを必死に堪え、「そうしてください」と短く言ってその場をはなれた。去り際、汗が飛んだのではないかと気になったが、振り返るわけにはいかない。そうしてしまったら、たぶん、先輩の隣りにいたくなる。誰よりも近くで、彼女を感じたい、と。悶々とする心を晴らそうと、あたしは足早にトラックへ向かう。途中、ふと自分が何かまずいことを口走ったような、そんな気がした。


 *


「キューゾー。あんた、そんなに走り込んで。久しぶりなのはわかるけれど、オーバーワークじゃない?」


 あたしもそう思う。息はとうにあがっているし、太腿がときどき軽い痙攣を起こしていた。けれど、ここで走るのをやめたら「部活」が終わってしまうのだ。彼女が嘘をつき通せなくなる。ペースを落とせばいいものを、競技者魂とでも言おうか、一本を走るに、すべての力を出し切ろうとするのは、あたしのよくないところだ。


(でも、そろそろ最後にしないと、もたないかも)


 ゴールに定めた地点が、やけに遠い。あたしって、こんなに遅かったかな、と自信を失いかけ、それを否定したくて、大地を蹴る足に力を込める。その一歩一歩から重い音が響き、耳朶じだにふれた。


 *


 いったい今が何往復目なのか忘れかけたころ、ちらりと先輩を見た。瞳は真剣そのもので、あたしを突き刺さんばかりである。タイムをはかるのはあくまでフリ。彼女は、走るあたしの姿を見てくれている。応援してくれている。それが、こんなにも力になるなんて、初めて知った。走るのが楽しくて、気持ちよくて、ずっとこのままで、と思ってしまう。見れば、周囲を行く生徒の数は、ずいぶんまばらになった。トラックにいるのは、彼女とあたしのふたりだけ。


(今日のラスト。いきますよ、先輩)


 額からとめどなく流れ落ちる汗をトップスで拭い、呼吸を整え、スタート位置についた。気のせいか、先輩の声がする。彼女は、あたしのように大きな声を張り上げられはしない。けれど、確かに、その唇が動いていた。あたしが最高のタイミングで飛び出せるように、合図を送ってくれる。


 いちについて、ようい──どん。


 号砲と呼ぶにはあまりに微かなその音で、あたしは迷わず飛び出した。


(これがあたしのペース、なの。なんて遅い)


 全身から力という力が抜け、筋肉や関節が「走るとはこうするんだ」とあたしの体を勝手に運んでゆく。フォームを整えないと、と思うものの、自然な動きに任せて走るのは、とても心地がよかった。


(ここまで疲れさせてくれた先輩に、感謝しないといけない、かな)


 ふっと笑みがこぼれたそのとき、あたしの脚は限界を迎えた。気持ちだけは前へ進んでいたのだが、体は置き去り。腕はまったくあがらず、あたしはなんの防御姿勢もとれず、トラックに倒れ込んだ。転倒するまでの間、世界がスローになる。擦り傷は間違いないな、とか、骨折したらどうしよう、とか、痛いのは嫌だな、とか、思考する時間はたっぷりとあった。


(先輩が見ている前で、かっこわるいな、あたし)


 最後にそう思って、目の前が真っ暗になった。


 *


 どのくらいそうしていたのだろうか。下半身には、トラックのひんやりとした感触があったが、上半身は何故かあたたかくて柔らかい。


(今日、雨の予報だったかな)


 いつの間にか雨が降り出したようで、頬にぽつりぽつりと水滴が落ちてくる。


(早く着替えて帰らないと。先輩ったら、あたしが行くまで待っていそうだし)


 体には、思いのほか痛みはなかった。ゆっくりと目を開ける。視線の先にあるものをはっきりと認識して、一気に覚醒した。

 泣きじゃくる先輩に抱かれ、あたしは地面に仰向けに寝かされていた。頬に感じた水滴の正体は、彼女の流す涙だったのだ。先輩は、「ごめんなさい」と何度も繰り返し、泣いていた。あたしが意識を取り戻したのに気づくそぶりはない。艶やかな髪が垂れ、あたしの肩をくすぐっていた。本当にきれい。自然と手がのび、その絹糸のような髪を撫で、指にからませた。先輩が短く息を呑むのが聞こえる。


「久美、ちゃん……」


 おそらく、あたしが目を覚ますまで、ひたすらに謝り続けていたのだろう。喉の渇きからか、潤いのない、別の人のような声がした。


「バカですね。そんなに泣いて。人は、このくらいじゃ、死にませんよ」


 先輩を安心させてやりたかった。あたしは大丈夫です、と。簡単にそうはならないと知っているから、日常生活では案外「死」という言葉を口にする場面がある。ちょっとした冗談ではないか。真に受けるほうが間抜けなのだ。しかし、まさかそれが、彼女にはあるはずもないと思っていた逆鱗にふれるとは、予想だにしなかった。


「馬鹿はどっちよ! こんなに心配させて! 人はね、転んだのをきっかけに、死んじゃうことだってあるんだから。足が動かなくなって、起き上がれなくなって、そうしたら、すぐに──」


 最後のほうは、はっきりとは聞こえなかった。

 驚いた。先輩が、こんなにも怒りの感情を露わにできる人だったなんて。泣いているのだか怒っているのだか、どちらでもある表情で、彼女はあたしをきつく睨んでくる。優しい顔のつくりのせいで、どんな表情をされても怖くはない。けれど、さすがに先輩の気持ちを汲むべき場面だろう。


「あの、先輩。あたし、そんなつもりじゃなくて。すみません」

「じゃあ、どういうつもりだったの。謝っても許してあげない」


 両の瞳から大粒の涙をこぼしながら、真正面からキッと強い視線をぶつけてくる。これは、受け止めないといけないものだ。避けてしまったら、たぶん、先輩との関係は終わってしまう。


「不安にさせましたね、あたし。でも、うれしくて」

「それってどういう意味? わたし、怒っているのだけれど」


 凄みをきかせたつもりなのだろうが、声音は穏やかにすぎる。その様子が可笑しくて、無意識に笑みをこぼしてしまったようだった。それが彼女の心を逆撫でする。


「さっきは男の子からかばってくれてありがとう。これ、返します。さよなら」


 まだ彼女の腕の中にいるあたしにストップウォッチを押しつけ、先輩がさっと立ち上がろうとする。支えを失ったあたしの上半身が落下し、地面に頭を打ちそうになった。先輩は、「あっ」と声をあげると、反射的にあたしの体を抱きとめてくれる。怒りの中にあるというのにどこまでも優しくて、ふっと吹き出してしまった。すると、いよいよ火がついたようである。


「真剣になっている人をそんなふうに笑うなんて、最低。大っ嫌い」


 今度こそあたしの体をはなすと、先輩は足早に歩き出した。ふわりと、柑橘系の香りがする。あたしが好きになった匂いだ。目立った外傷はなく、疲れてはいたものの、彼女に追いつくのは容易なくらいには動けた。立ち上がり、先輩のあとを追う。


「ついてこないで」

「ついていきます」

「そういうの、つきまとい行為っていうのよ。悪い人のすることなんだからね」

「先輩だって、あたしにつきまとってたじゃないですか」


 ぴたりと立ち止まると、かぁっと耳を真っ赤にして、先輩の肩がわなわなと震え出す。振り向かないのは、きっと顔も同じ色をしているからだろう。


「わたし、そんなことしてないわ。久美ちゃんの馬鹿。嫌い。もう知らない」


 嫌いと言うわりに、まだ下の名前で呼んでくれる。先輩の心がそばにあると感じられて、また可笑しくなった。早く追いつかないと。そう思って彼女を見やると、前を向いているようでいなかったのか、対面から来た男子生徒とぶつかっていた。ぐらりと体勢を崩す。慌てて駆け寄って後ろから抱きとめる。本当に軽い。温かいし、柔らかいし、やっぱり、あたしの好きないい匂いがする。


「やっ、はなして。久美ちゃんになんか、さわられたくない」


 まるで駄々をこねる小さな子どもだ。可愛らしくてしかたがない。


「はいはい。こうでいいんですか」


 あたしから解放された先輩は、スカートのすそを払い居住まいを正すと、粗相をして迷惑をかけた男子に深々と頭を下げる。


(ああ、もう。そんなふうにしたら、胸元が見えちゃうでしょうに)


 この人は、本当にもう。男子なんて、女の子の身体のどこを見ているか、わかったものではないというのに。


「はーい、ごめんなさいね」


 腰を折ったままの先輩の手を取って、引っ張るようにしてその場をはなれた。いやいや、と先輩は愛らしく抵抗してくるが、強めに手を握ると、存外すぐにおとなしくなる。そのまま人気の少ない渡り廊下に向かう。歩くペースは、疲労はあっても歩幅の違いからあたしのほうが明かに速く、先輩は小走りについてくる。このくらいで息があがってしまうのだから、か弱く、儚い。だからこそ、愛おしく感じる。


「先輩」


 そう呼んでも、ひと言すら返事がない。そもそもはあたしが悪いといえ、無下にされると頭にくるものだ。


「先輩ってば」


 足を止め、掴んでいた手をはなし、彼女に向き直った。

 あたしと目を合わせないようにする先輩は、呼吸が落ち着くと、するりとわきを抜け、その場を去ろうとする。手でも肩でも捕まえられそうだったが、あえてそうはしなかった。かわりに、ちょっと、いや、かなり強い口調で、あたしはこれまで一度も口にしなかった“それ”を、彼女の背中に思い切りぶつけてやった。


「けい先輩」


 びくりと体を震わせ、先輩の足が止まる。下の名前を呼ぶ。いつか使うつもりでいたカードが、この場面で切り札になった。彼女は、ようやくあたしに反応してくれる。


「わたし、下の名前で呼ばれるの、好きじゃないの」


 好きじゃない。口をついたその言葉とは裏腹に、声音から拒否の色は微塵も感じられない。むしろ──。


「わかりました。じゃあ、やめます」

「……いや」

「その『いや』は、やめるのが嫌、と受け取っていいんですね」

「いや、なの」

「どっちなんですか。嫌じゃなくなるように、好きに呼びますよ。けい先輩、けいさん、けいちゃん、どれがいいんですか」

「い、いや。お願いだから、意地悪、しないで」

「それとも──けい」


 それは、あたしの予想をはるかに超えた効果をもたらしたようだった。様子からすると、もう逃げる意思はなさそうだ。あたしはゆっくりと歩いて彼女の正面に立つと、少し屈んでその顔を覗き込む。そこには、怒りとうれしさとがないまぜになったような、複雑な表情が浮かんでいた。


「名前、初めてね。それも、呼び捨てなんて」

「いつか──まぁ、いつにするかは決めていませんでしたが、そのうち呼ぶつもりでいたんです」


 嘘ではないぶん、恥ずかしい。さて、どう言葉をつないだものかと思考をめぐらせていると、先輩が一歩、踏み出した。潤んだ瞳であたしを見上げる。


「わたしが怒った理由、知りたい?」

「思い出したくないことですよね、それ。だったらあたし、気になりませんから。先輩には、その、笑っていてほしいので」


 照れ隠しに目を逸らした、その一瞬。彼女はあたしの油断を見逃さず、ひと息に距離を詰めてきた。先輩の両手が、あたしの首の後ろに回される。全身汗まみれの体にふれさせてはいけない、と身じろぎすると、彼女が耳もとで囁いた。抗う気力を根こそぎ奪ってゆく、優しい声。


「ねぇ、久美ちゃん。久美ちゃんは、どうしてわたしと一緒にいてくれるの?」


 どうして、とは、今さらである。しかも、張本人が口にするとは滑稽な。


「先輩が、悪いんじゃないですか」


 悪い、とは、なんて直接的な非難の言葉だろう。

 間近にある先輩の顔。心にかけていたはずの鍵は、いとも簡単に、音を立ててはずれた。


「きれいな見た目で近づいてきて、澄んだ声であたしを呼んで」


 ああ、もう。自分でも何を言っているのかよくわからなくなってくる。きっとこれは、疲労のせい。


「いい香りで惹きつけて、柔らかくあたしを包み込んで」


 心の奥底まで覗き込むような彼女の目が、「それで?」と、続く言葉を求めている。きわのきわまで追い込まれたあたしに、抗う術など、あるはずもなかった。


「それで、あなたのこと、好きになるなって──そんなの、無理に決まっているじゃないですか。どこかおかしいですか、あたし」


 女の子が女の子を好きになるのって、ヘンじゃないのかな。涙声で告白めいたことを口走ってしまってから、ふいにそんな考えが浮かんでくる。この気持ちは、おそらく、みんなの言う「普通」じゃない。


「久美ちゃんは、おかしくなんてないよ」


 彼女の両手が、心情の吐露を終えたあたしを慈しむようにして、頬を滑りおりる。そのままあたし腕を撫で、空を掴んでいた手に、先輩の細い指がからんだ。五指の間に彼女の五指が入り込み、お互いをいっぱいに感じられて、えも言われぬ安らぎが訪れる。そして先輩は、うんと背伸びをして、あたしのおでこに口づけをした。唇の感触から、想いが伝わってくる。

 先輩は、つないだ手をほどき、あたしの指を撫でて遊び始めた。ひとしきりそうしたあと、「はぁ」と短くため息をはき、名残惜しそうに体をはなす。


「あの、そういうのって、ここにするんじゃないんですか」


 あたしは、自分の唇に指を当てて言った。先輩は薄く笑うと、背を向けて天を仰ぐ。肩の動きから、深く深く息を吸って、吐き出したのがわかった。


「もしも、よ。もし久美ちゃんがわたしのことを本当に好きになってくれたら、そのときは、ここにしてくれる?」


 くるりと振り返った先輩が、ひとさし指を唇に添えて、いたずらっぽく笑った。先輩は、容姿だけでなく、あらゆる所作が美しい人だ。あたしへ向き直るときの足の運びも、ふわりと流れた髪が均整のとれた体に落ち着くさまも、どこかさびしそうな微笑みも、何もかもが美しい。爽やかに吹く風も、柔らかに射す夕陽も、彼女の見目を引き立たせている。あたしへ愛を告げるその可愛らしい仕草。はにかんだ表情は、年下のあたしよりも幼く見える。このとき、あたしの心は、先輩にすっかり奪われたのだと思う。その心に名前をつけるとするなら、それはやっぱり「恋」がふさわしい。


「じゃあ、今、してもいいですよね」

「ふふっ、だーめ」

「どうしてダメ、なんですか」

「だって、久美ちゃんの『好き』は、きっとわたしのとは違うもの」

「そんなこと──」

「いいの。こういうのって、片思いをするのが楽しいのよ」


 勝手に決めつけて、と、無性に腹が立った。

 あたしは彼女の手首を掴んでぐいと引き寄せると、そのまま先輩の腰の裏にまわした。後ろ手になり、体の自由を奪われ倒れかかる彼女を、あたしは難なく支える。そして、いつにもましてすきだらけになった上半身──白くて細い首すじに、何の躊躇もなく唇を当てた。ちゅっと音がするほどに吸い上げると、先輩が甘い吐息をもらすから、もっと聞きたくなって。あたしはその柔らかな肌に、我を忘れるほど夢中になった。先輩はその間、細い身体をかすかに震わせながら、一切の抵抗をしなかった。


 *


「あの、先輩。気持ち悪かった、ですよね。すみません。でも、一度でいいから、こうしてみたくて。これがあたしの、想いです」


 先輩を解放すると、自分がしたあまりにひどい過ちに、後悔が大波のように押し寄せた。あんなことをしておいて、「嫌いにならないで」などと、口が裂けても言えない。覚悟を決めておそるおそる顔を上げると、朝露に濡れた花のように、先輩の瞳からつうっと雫が落ち、頬を伝うのが見えた。


「久美ちゃんの気持ち、よく、わからないよ」


 両手を後ろにまわし、少しだけ上を向くと、彼女はゆっくりと双眸を閉じた。その涙を止められるのは、きっと、あたしだけ。そっと、先輩の顔から眼鏡をはずす。気持ちを遮るようなものは、たとえ薄布一枚だって剥ぎ取らずにはいられなかった。邪魔なんてさせるものか。

 小さな体をそっと抱き寄せ、背にある彼女の手に、あたしの空いたほうの手を重ねた。さっきのはいけなかった。怖がらせたに違いない。先輩の心への、否定とも肯定とも、どちらともとれる、そんな伝えかただった。あたしの想いがつけた跡が、彼女の首すじで痛々しいほどの赤みを帯び、事実を突きつける。だから今度は、できるだけ優しく。先輩がきっと気に入ってくれるような、そんなキスをした。


(本当にこの人には、負けてばかりだわ)


 あたしの唇がふれた場所は、もちろん──。




 *




 連絡先を交換し合ったあたしたちは、その日の夜、メッセージアプリで「今だから言える」そんな話をした。本心を打ち明けるのはとても恥ずかしかったけれど、それは先輩も同じ。彼女からの返信は遅くて、そのまま「遅いです」と送ってしまった。すると、すぐに怒ったキャラクターのスタンプが返ってくる。それだけはあたしよりも速い。「ごゆっくり」と伝えて、飲み物を取りに行く。戻ってくると、先輩からのたくさんの想いが届いていた。


(これに応えるのは、骨が折れそう)


 あたしがどんな想いを言葉にのせ、先輩がどう受け止めてくれたのか。それは、ふたりだけの秘密である。




 *




 おしまい

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