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 夏期講習に参加したり、次のライヴへの資金を貯めるためにアルバイトをしていたらついにその日が来た。飛び切りのおしゃれ、といってもわたしの出来る限界だった。


 フリルのシャツにスウィーツの描かれているピンク色のスカート。白いタイツを履いて、ピンク色のエナメルの靴。雑誌を見ながらつけまつげをつけて、ピンクのチークとピンクのリップを塗り、それなりに恥ずかしくないレベルの顔になった。


 わたしの姿を見て両親は絶句していたけれど、何も言われなかった。ハート型の合皮の鞄にその日必要なものをすべて入れて、駅に向かった。家から駅に続く商店街で、知った顔がわたしをみる。でもこれがほんとうのわたしだから、べつに恥ずかしくなんてない。


 電車に乗り込むと特異な目にさらされている実感があった。こんなことは初めてだった。いままで押し殺してじぶんは表に出るとやはり誰も近寄らないのだ。少しだけ、それが快感だった。


 ただ、東京に向かうにつれ、ひとが増えて行き、だんだんとわたしを気にする人などいなくなっていくのが面白かった。


 渋谷には行ったことがない。ハチ公改札を出たが、ひとが多すぎて、かの有名なハチ公を見ることはできなかった。プリントした地図を見ながら、スクランブル交差点を渡る。

 あまりにもひとが多くて、こんなにもたくさんのひとが目的があってここにきている。それほど渋谷というのは多くの用事が存在する場所だった。目の前に「god-death」と書いてあるトートバックを肩からさげている全身真っ黒な女性がいた。彼女はわたしとは違って地図など見ずに当たり前の様子で交差点を渡り、「109」の横の道を通っていく。その後を少しの距離を保ちながらついて行く。


 辿りついたライヴハウスの会場の前ではグッズ販売が行われていて、すべて欲しかったけれどライヴが終わる前に潰したり傷をつけてしまいそうでやめておいた。グッズ販売の横ではCDも売られている。じぶんの財布の中身を思い浮かべながらわたしはライヴに何度も来る必要性があるように思った。


 会場の周りに群がるひとたちはメンバーのコスプレをしていたり、可愛らしい服装をしていたり、ピアスをいっぱい耳にして、黒い革の服を着ていたり、様々だった。その中でわたしは浮くことがなく、むしろ埋没しているように思った。


 開場時間の十七時が近くなると会場の周りにはさらに人が集まり、一番から番号を呼ばれていった。おない年くらいの子から、母親と同じくらいのおばさんまでいる。いままでじぶん以外の「god-death」のファンのひとと出会ったことがなかったが、彼女たちはどういうきっかけかわからないが皆同じ目的でここにいる。きょうがはじめてのひとばかりではない。それが少し寂しく思えたけれど気持ちだけではわたしも負けていない。負けたくなかった。


「三十〇番までの方」と呼ばれて、わたしは三〇二番だったのにほかのひとに抜かされながら入った。

 会場に入ってすぐ階段を登ってロッカーに荷物を預け、降りた。フロアーは人々がひしめきあっていて、わたしもどうにか真ん中が見えやすいところに立った。開演まであと四〇分ほどある。いろんなひとが以前のライヴの話やイベントの話をしている。そういう話が耳に入ってくると怒りで心が燃えそうだからここでも友だちをつくるのはよそうと決意した。このバンドとわたしのことは、わたしの中だけのことにしておきたくなった。



 ひとが増えるにつれ、体温が上がっていく。早く始まってほしい。会場内にヴォーカルなしの不思議な曲が流れている。


「これシザーハンズのサントラだよね」


 誰かがそう言う声が聴こえた。「シザーハンズ」というものがなにかさえ、わたしは知らない。


 まもなくジンくんに会えると思うと嘘のようだった。会えなかった二年分の気持ちが膨らみすぎて、ジンくんが出てきたら、わたしはそのまま爆発するのかもしれない。そこまで行かなくても観たら倒れてしまうかもしれない。


 十八時を少し過ぎて暗転した。「きゃー」「わー」などひとびとの感嘆が漏れ、後ろの人が圧迫してきた。これがいわゆる「押し」というもので、噂にきくより結構体にしんどいものがあり、正直、立つのがやっとだった。


 鉄琴のような音で奏でられた音楽に乗せてカナミ、マト、リスキの順で入ってくる。会場からはそれぞれの名を呼ぶ声が飛び交った。ジンくんは一番最後に入ってきた。

 その瞬間、わたしの呼吸は一瞬止まった。世界の音が何も聞こえなくなった。というか、BGMが止むと皆、名前を呼ぶのをやめる。ジンくんは思ったよりも小さく、弱々しく、丁寧に丁寧に時間をかけて創られた繊細なガラス細工のように思った。


 一曲目は「夜の音」というバラードの曲で、イントロのギターの音が奏でられたとき、全身が鳥肌になった感覚がして、温度を失くした。俯いていたジンくんが顔をあげたとき、獲物を捕らえるような鋭い目にも見えたし、すべてを諦めたような最後の夜のような色をしていた。


 いつもイヤホンの中でしか聴いていなかった声が会場の中に響き渡る。涙が止まらなかった。この日のために泣くという機能をつけて生まれてきた。いままでいろいろな涙があったけれど、きょうが一番泣いている意味がわかる。嬉し涙が温かいということを初めて知った。


 一曲終わり、ジンくんが礼をする。そうすると誰も余韻を乱すことなく恵の雨のような拍手をする。わたしのこころはただ揺れるだけだった。


「こんばんは。god-deathです」


歌声とは違う声で囁き、礼をした。


 唸るようなギターの音から次の曲へ移った。周りのひとたちは拳をあげ、周りのひとも女子からぬ声を出している。これがライヴかと感じた。ジンくんもさっきまでの恍惚とした表情ではなく、力強い目つきに変わり、奇妙な笑みを浮かべながら客席を煽りながら歌う。次はどんな顔をするんだろう。目の前で観るということはこういうことだった。いろんなジンくんを観たい。胸は高鳴っていった。


 喋る声は歌う声より軽やかで、ジンくんははっきりと発音するけれど話す声は小さめだった。

 歌っているときの堂々とした様子はなく、恥ずかしそうに、笑顔をつくったり、なくしたりしながら話す。素敵だな、好きだなと思う。体中に好きという感覚が沁み渡る。


 会いたかったと声に出して叫びたかったけれど和を乱すからやめておいた。ここに居られるだけでほんとうのほんとうに幸せだった。この気持ちをジンくんに伝えたい。ジンくんを一秒でも多く観ていたい。いままで制することのできたわたしの欲望はどんどん膨らんでいくのを感じた。


「むかしは、居場所なんて用意されてないって思っていました。だけど、ここが、みんなにとっての居場所であったらいいなって思います。最後の曲です」


 そうして演奏されたのは『箱庭の外へ』だった。出会ったときのことからいままでのことが走馬灯のように駆けていった。手を胸の前で組み、ただただ涙した。この思い出があればあしたからもわたしは、強く生きられそうだった。


 アンコールが二曲あり、最後、カナミは客席にハイタッチしていったけれど、ジンくんは恥ずかしそうに何度も礼をしながら去っていった。


 終演後、満足感と激しい虚無感が胸を埋め尽くし、ここから動きたくないような、走り出したいような、そんな気持ちでいっぱいだった。持っていなかったCDを二枚と、ジンくんの写真を一枚だけ買った。


 渋谷は色んな色に溢れている。看板が放つ光はそれぞれ明るい。夜空は下から照らされているけれど星が見えないなんて嘘だった。舗道に立ついろんな男の人を通過しながら駅へ向かった。きょうという日が永遠になればいいのに。

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