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 それからわたしの欲求は尽きることがなかった。いままでどういう風に動けばいいのかわからなかったが、高校生になってからどこでも行けるという気になってしまって、いつも最新情報をインターネットでチェックするようにした。バンドマンというのはライヴ以外でもCDがリリースするタイミングでラジオの公開放送やCD店でイベントをやる。


 インターネットの情報文化が発達していくにつれ、ジンくんの悪い噂が流れた。


 ジンくんは女癖が悪いとか、同性愛者で男のひとに体を売っているとか両極端な噂だった。それを見るたびに冷や汗が出て、呼吸が浅くなる。わたしはほんとうのジンくんのことなんて知らない。


 こういうのは嘘が多いと別のところに書いてあったけれど、試しに「ジンは渋谷のファミレスの店員と付き合っている」と書きこんでみた。真っ赤な嘘だ。そしたら「俺もその店員知っている」と書き込みを煽る様なひとが数人出てきた。それを見て、いままでの噂もわたしの中で打ち消された。それからそういう噂などが書いてある掲示板を見るのをやめる決意をした。わたしはジンくんから発せられるものだけを信じればいい。


 ジンくんへの気持ちが深まるほど、わたしは勉強が手につかなくなり、二学期最初の実力テストではどんどんランクを下げていった。そのときにもうプライドとかそういうものが完全に粉々になってしまって、どうでもよくなってしまった。じぶんにとってジンくんに会えるなら大学なんて入れればどこでもいい。


 開き直ってからはいままで週三回だったアルバイトの回数を週五回に増やし、わたしはCDの発売イベントの握手会やラジオの公開放送にすべて行った。


 初めての握手会、ジンくんはいままで金髪だった髪を真っ黒に染めていた。イベントはギターのカナミとジンくんのふたりだった。椅子にちょこんと座っているジンくんは中学生くらいにしか見えなかった。ジンくんの触った感触は華奢だけどやっぱり手は男のひとだと思うほどしっかりとしていた。


 間近でみるジンくんはほんとうに壊れてしまいそうで、なんでこんな人前に出る仕事をしているんだろうと思ってしまった。


「きょうは来てくれてありがとうございます」


 バンドマンらしからぬ丁寧なことばづかいで笑おうとした。


「好きです」


 剥がしのひとに肩を叩かれたけど脚が震えて動けない。


「大好きです。世界で一番」


 こんなことを初対面のひとにいきなり言われたら気持ち悪いだろうなと自覚がありながらわたしはついつい口から零れてくる言葉を止められなかった。


 ジンくんは大きく頷きながら「ありがとうございます」と目を細めて笑った。


 カナミには特に言うこともなく「応援しています」と当たり障りのないことを言ったが、彼は快活に「おう! ありがとう!」と言った。


わたしは会場を出てすぐ座り込んだ。触った。触ってしまった。体から神経がすべて抜かれたような気になってしばらく動けそうになかった。このまま、死ぬのかもしれない。


 ジンくんが好きだ。恋愛というよりも、ひととして、ジンくんはわたしの神様のようだと思った。なにもなかったわたしの世界のひとつの太陽のような存在でもあった。でも太陽というよりジンくんの放つ光は月光に近かった。ジンくんが好きということでわたしの世界はずっと彩られ続けていた。


 そのまま順調に「god-death」の関東で行われるイベントやライヴには通い続けた。


 両親とは何度も揉めたけれどわたしの気持ちはとどまることを知らず、何度も抵抗し、呆れられてしまい、諦められた。


 いい大学に入っていい会社に就職することよりも、馬鹿らしいかもしれないけれどいまのわたしにとってはジンくんと会えることのほうが幸せだった。


「god-death」はどんどん有名になっていき、前までは夢だと思われていた渋谷AXを満員にし、Zepp Tokyoを埋め、渋谷公会堂公演を成功させた。そうなるとファン層は少しずつ変わっていった。いままでいなかった騒がしいひとがつき、ジンくんのMCの最中もチャチャを入れたりするので、進行が止まる。ジンくんは注意できないので、いつも困り顔で笑った。それからカナミが「うるせぇ」というのが一連の流れになっていった。早くこういうひとたちがいなくなればいいのにとわたしは願っていた。


 一年ずつ、ジンくんの顔は少しずつ変わっていっていることに気がついた。最初はメイクの方法が変わったのかと思ったけれど「ジン顔弄ってるよね」と誰かが言っていたし、いくら信者でしかないわたしもそれだけは仕方がなかった。


 整形したという事実よりも、こんなにきれいなひとにもコンプレックスがあるということにショックを受けた。でもジンくんにはジンくんにしかわからない心の傷がある。そう思ったら尚更、ジンくんが愛しかった。


 さすがに大学受験の年はライヴに行く回数を減らし、適度に勉強しながら安全圏の女子大学に入った。元々両親とは一緒に過ごす時間も少なかったから小言を言われてもまったく気にせずにいられた。


 通い始めてから四年目経ち、ジンくんがわたしを見ると知り合いを見つけたときのようなリアクションをしてくれるようになったことに気がついた。


 ライヴのときも、よく目が合うような気がするし、その度薄く微笑んでくれる。ジンくんは過度にファンサービスをするほうではなかった。


 こういうのはよくきく話で、わたしも期待しすぎないようにしていた。だけど、毎度のライヴでそれをやられたと感じるたびに勘違いでもいいなと思った。


 一度、握手会のとき「たくさん来てくれてありがとう」と何の前触れもなく言われた。それで、もしかして、という気持ちを強めたけれど誰にも言わず、わたしだけの秘密にしておきたかった。


 そう思ったら忘れられるのが恐くなって、ライヴの本数をどんどん増やしていき、大阪や名古屋などでライヴが行われれば遠征するようになっていった。最初の一回はあんなに重かったのに本数が増えると記憶力がついていかなくなった。大事にできなくなるから大切にできる本数だけ行けばいいのに、そう思いつつも一秒でも長く観たい。その想いの方が強くなっていった。


 大学に入ってアルバイトも地元のスーパーから大学の近くのコンビニエンスストアに換えた。時間の融通がスーパーよりも利くし、時給も高かった。


 ようやくいままで欲しかったブランド物の服も買えるようになった。わたしはなりたいわたしになれていったのだ。


 大学に入るとクラスがなかったので人間関係がよりフランクになったので、なぜだか少しずつひとと話すようになった。こんなわたしのことをコンパに誘ってくれる子もいたけれど、いつもライヴの予定と被ってしまったので断っていた。だけど、「そんなにライヴが大事?」とは誰も言わなかった。わたしはまだジンくんを見つめていたい。ジンくんを観て、ため息をつきたい。ふつうの女の子みたいな恋愛には興味が沸かず、じぶんの気持ちをまだジンくんのところに置いておきたかった。


 ジンくんは急激に痩せた。顎がシャープになったけれどそれは痩せたからではないように思った。わたしが出会った頃の八年前に比べると顎の形そのものが変わっていた。その頃からか、いつも苦しそうな顔をしていた。


 東京公演では基本的に二〇〇〇人規模の会場でやることが多いので、整理番号が悪いとジンくんを近くで感じられない。でも、同じ会場にいるだけで幸せだった。この前の名古屋のときに比べても、大阪のときに比べてもジンくんの笑顔は弱々しかった。ほかのメンバーはみんな楽しそうなのに一番強い光の当たっているジンくんだけが辛そうだった。最初は何かの病気なのかと疑っていた。でも、ライヴで飛び跳ねるのを見て、体に異常はなさそうだと思っていた。


このごろ、ふと、むかしとは違う種類の冷たい不安がわたしの中で芽生えた。


 ジンくん。わたしたちこの先どうなっちゃうんだろうね。十年とか二十年とかそれよりもっと遠い未来、年金とかもらってるのかな。どんな顔して、どんなことを考えて誰の隣にいるんだろう。


 わたしは最近、この光の中そんなことを考えるようになった。十四歳のときに好きになって、いまは二十一歳になってしまった。ふつうの女の子ならもっと将来のことを真面目に考えるべきなのかもしれない。ジンくんはわたしの八つ上だから、今年で二十九歳。来年三十歳になる。顎だけでなく、奥二重だったのに綺麗な二重になった。それで人気を保ちながら、ファンは確かに増えていった。ジンくんが、きれいだから。


 ジンくんいまわたしは、あなたがそんなにきれいじゃなくても好きだよ。なんでもないひとになっても好きだよ。ステージの上に立っているあなたが好き。あなたの声で唄われる歌が好き。存在が好き。顔の中身のきれいさどうこうではなく、ジンくんの美しさというのはあなたの存在感から醸し出す儚さにある。ジンくんが一度も観たことがないステージに立つジンくん自身を観せてあげたかった。そしたら思い直してくれたかもしれない。でもわたしがそう言ってもあなたの悩みはきっと、根本的には解決しないだろうね。


 こんなに好きだって思うのに何もしてあげられない。


 こんなにたくさんのものを貰っているのに何も返せない。


 コンスタントにライヴに通い続け、CDをたくさん買う、それで足りなければお金をあげるというのはなんだか違う気がした。


 決まってライヴの終わりのほうにやる『ささやき』は流れるようなギターのメロディに合わせて繊細な歌声で歌詞が載せられている。そのとき、いつもジンくんは幸せそうな顔をするけれど、きょうはほんとうに辛そうで、涙を流していた。


 弱っているのかなと感じる。綺麗だった肌も化粧をしていても隠せなくなってしまっている。それがまたジンくんの精神を蝕んでいるのかもしれない。


 永遠なんてなくてもいい。どんなあなたになっても朽ちていくところを観ていきたい。でももう、終わりなのかな。ひんやりとした気持ちが全身を包んだ。


 ジンくんが最後、長いお辞儀をした。


「きょうは会いにきてくれて、ほんとうにありがとう」


 わたしはそれを観て泣いていた。初めて観たときの嬉しさだけではなかった。


 周りのひとは「ありがとう」と次々に口にする。


「行かないで」


 こころにそう浮かんだのに口にできなかった。認めるようなそんな気がしていたんだ。


 ジンくん。ジンくん。ねえ。ジンくん。


 あなたはどこに行くの。

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