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両親が共働きで小学校三年生の頃から塾に通わされていた。中学受験をするわけでもなかったが単に両親が忙しかったからその分習いごとをさせて誰かにわたしをみておいてもらいたかっただけなんだろう。
小学五年生のときにクラスで仲がよかった女の子に「勉強ばかりしてひかりちゃんはウザい」と陰口を叩かれている子を別の子からきいてからひとを信用できなくなってしまった。
きっかけはこういう簡単なことに過ぎない。その子とも距離を置き、ひたすら勉強に時間を費やした。たかだが小学校のテストでも「一〇〇」という数字を見るのが嬉しかった。わたしには何の取柄もなかったけれどそれを見るとじぶんが生きていてもいい気がした。
中学校は小学校から歩いて十分くらいのところで、私立中学にいった子以外は全員同じ中学に進学した。ひとと極力関わらず、休み時間には読書をしていた。だからよく、「玉置さんは感じ悪い」と言われているのを知っていたが、もうショックを受けなかった。
テスト前になるとみんな都合よくわたしの授業ノート目当てで群がってきた。だけど、遠足などの班決めのときは余り者のグループにいつもいた。それで学校生活はなんとかなるなら別にいい。
中学に入ってから母親も「いい高校に入れるといいね」と言うようになっていた。この調子でいけばたぶんそうなるだろうとわたしも思った。勉強は向いている。国語の読解文はパズルのようなものだと思っていたし、数学は数式を覚えてあとは数字を変えるだけ、あとの教科はひたすら記憶していく。
そんな機械的にやっていたから豊かなこころというのは育たず、小学五年のときのまま、捻じれて放置してあった。
中学二年になり、より一層勉強に対して本気になっていた。いままで遊んでいたひとたちも塾に通い出すようになっていったから、わたしが負けるわけにはいかなかった。その頃、県で一番偏差値が高い公立高校に入る気でいた。夏休み前の担任との二者面談でも「玉置なら可能性がある」と言われて、その気持ちを高めていった。
塾から帰り、家で復習をした後、また新しい箇所の予習をする。熱いとも寒いとも感じられない夜の中、じぶんの椅子が少し軋む音だけが耳の中に入ってきた。
カーテンを締めきった外からときどき猛スピードで通り過ぎる車の音が聞こえる。ひとりはこわくないし、誰かといて傷つけられるくらいならひとりのほうがずっといい。
でもわたしはこの先どうなるんだろう。ふとじぶんのなかで新しい不安が芽生えたことに気がついた。このまま勉強だけしていって、いつか“決められた勉強”をする必要がなくなったとき、わたしの中でやりたいことがなにか生まれるんだろうか。
いまは首を振り、その雑念を振り払って、目の前のテキストとノートに向かった。不安になるのはそのときでいいから、いまは与えられたことをこなしていけばいい。
眠くなるまでひたすら数式を解き、答えを出していった。出した答えが増えていくたび、少しずつ安心していって、ベッドの中に入った。毛布にくるまり体が温められる。わたしの体温と毛布の温度が混ざり合っていっても、頭の端っこに芽生えた冷たい不安を摘むことはできなかった。
塾に行く前に本屋に入り、新しい本を探しに歩くとクラスメートの外山さんが音楽雑誌コーナーの前に居た。
化粧をした男が四人並んでいる写真が表紙になっている雑誌を口元に笑みを溜め、眺めていた。その光景は奇妙だった。地味な外山さんがああいうのもを好んでいるのもそうだし、男が化粧をしているなんて気持ちが悪い。
彼女に声をかけず、文芸コーナーをまわり、一冊前々から気になっていた本を手に取り、また音楽コーナーのほうを見ると外山さんはもう居なかった。先ほどまで外山さんが読んでいた雑誌を手に取り、開く。巻頭のバンドに対してただひたすら嫌悪感しか沸かなかった。何がいいんだろうと内心小ばかにしながらページを捲っていく。雑誌の真ん中らへん、一ページだけのバンドのところで手を止めた。
そのバンドの煽り文には「居場所なんて用意されていないから」と書いてあった。そのことば以上に真ん中に立つ金髪ショートカットの男に目を奪われた。三人のメンバーに比べ、真ん中の男は少し背が低く、パッと見、女性と見紛うほどだった。
目の周りを黒くし、赤い口紅を塗っていた。ほかのバンドと比べじぶんを良く見せるメイクではなく、何かを隠すようなメイクだった。バンド名は「god-death」。
つい買う予定ではなかったその雑誌を手に取り、文庫と一緒にレジに持って行った。店員はごく当たり前の様子で商品をスキャンし、笑顔で値段を言う。思ったよりも高かったなと思いながら、財布の中から二千円をだし、釣りをもらって店を出た。
じぶんが衝動でこんなことをするなんて思っていなかった。悪いことをしたわけでもないのに胸騒ぎは嵐のようだ。
塾に居る間もいつもとは違った。脳みその一部が綿になったのではないかと思うほど、ずっと揺れている気がした。あのひとはなんていう名前なんだろう。塾の前に買わなければよかった。いつもなら集中できるのにきょうはじぶんのこころがどこか遠くにいったまま、戻ってこなかった。
授業が終わった後大急ぎで家に帰り、家の鍵を開け、暗い部屋の電気をつけた。午後十時過ぎだけど、両親はまだ帰ってきていない。いつものことだった。部屋に入り、本屋のビニール袋から雑誌を取り出した。真っ先にさっきのページを開く。誌面に印刷された顔を見ると解放されたような気持ちになった。
金髪の彼の白いブラウスの上に「ヴォーカル/ジン」と書いてあった。その横の青い長髪の男は「カナミ/ギター」。右サイドの黒髪は「ベース/リスキ」、左サイドのスキンヘッドは「ドラム/マト」。まずはメンバーを覚える必要があるように思った。
新しいノートを本棚の一番下の棚から取り出し、バンド名「god-death」とメンバー名を書いていった。テレビを観る習慣はなかったが、たまについているのを観てもかっこいいとも好きだと感じるひとはいなかったし、他のメンバーに対しても何も感じないが、この“ジン”は特別だった。
鋭い目の周りを黒く塗りつぶしている。唇が厚いので、無愛想感は薄れ、少しだけ甘い雰囲気を残す。鼻は高く、顎が少し平らだった。パーツひとつひとつの美しさというか総合的なバランスがとてもいい。儚い、とまた口にしてみる。
インタビューはニューシングル『箱庭の外へ』に対するものだった。このバンドはジンが詞を書いているらしく、何も考えず、出てきたものを書きならべたらこのようになった。
ジンの声をきいたことがなかったけれどすらすらと脳内に入ってくる。インタビューで起こされている文字さえ、異物感がなかった。こういう話し方をする人が好きだ。
雑誌とノートを持って下に降りた。リビングの隅で埃を被っている箱型のパソコンの電源を入れた。起動するまでの時間、脈が激しくなるのがわかった。インターネットエクスプローラーの水色のアイコンをクリックして、起動したらすぐに「god-death」を検索した。ディスコグラフィーの視聴のボタンを押す。流れてきたジンの声はハスキーでありながら、甘く、男性にしては高めでありながら深みがある。
その声を支えるリズム隊、主張しすぎない正確なギター。このバンドを違和感なく好きだと思えた。この新しいCDはまだ発売していない。わたしはとりあえずノートにいままでリリースされたCDのことなど「god-death」に関わることをすべてノートに書きだしていった。まだ結成して二年のバンドなので一時間足らずでノートに書きこむ内容は終わった。
池袋・新宿などのライヴハウスを中心に活動していることがわかった。千葉の田舎に住むわたしからするとそのすべてが謎の呪文のようだった。いますぐにCDを集めたいし、ジンに会いに行きたかった。
翌日、塾に行く前に商店街にあるCD屋に行ったが、「god-death」の「g」の字もなかった。ニューシングルの『箱庭の外へ』は取り寄せることができるようだったので予約注文をした。
じぶんのこころの中に生まれた新しい感情とうまくバランスを取れずにいた。急にわたしはおかしくなってしまったみたいだけど覚醒したじぶんが嬉しかった。わたしの知らない、わたしがいた。
居場所なんて用意されてない。クラスにいて、周りの楽しそうなクラスメートを見ながらそんなことを感じていた。
彼女たちは頑張ってなんとなく気の合いそうなひとを見つけ、弱い磁力で繋がりあっているに過ぎない。中学を卒業したらきっと離れ離れになるひとが大多数だろう。
無理にそんなことをしなくてもいい。わたしはそんなことばを誰かに言ってほしかったんだと思う。休み時間に本を読んでいたのにいまではむやみに「god-death」の曲名を机やノートに書く。まだ聴いていない曲もたくさんある。平行線上にいる外山さんも弱々しい笑顔を浮かべながらクラスメートと話をしている。彼女はじぶんの趣味をほかのひとに話しているんだろうか。
塾の帰りにドラッグストアに寄り、黒いアイシャドーと赤い口紅を買った。わたしはいままで化粧をせずに生きてきたから買ったはいいものの、うまく使う方法がわからなかった。毎月少しずつ部屋に増えていく「god-death」の雑誌の切り抜きは壁に貼っていった。それを見ながらジンくんの真似をするけれども要領が悪いからか化け物の真似にしか見えない。
わたしの家は東京までは電車で一時間半かかるところにあった。たかだか一時間半だが中学生が一人で東京に行くには色々な壁がある。
土曜日は塾なので行くタイミングは日曜だが、両親の仕事が休みだし、いつも家にいるわたしが外出するとなると理由を訊かれる。それに電車賃だけでも片道一〇〇〇円近くはかかるし、CDを買うために服が必要な気がした。だから、いまは諦めるしかない。
じぶんの体の中に渦巻く感情は、毎月発売される雑誌の中からジンくんを見つけ、部屋に貼り思いを高め続けることでどうにかするしかない。
予約したCDを取りに行ったが三曲とも素晴らしく、わたしはこの音楽を聴くためにいままで何も知らずに生きてきたのだと思う。家ではずっとかけっぱなしにし、CDウォークマンを塾に持って行き、授業前にも聴いていた。それでいい気がした。
雑誌にライヴレポートが載るたび嫉妬しながらわたしもいつか必ずそこへ行くと思いながら、わたしはいままで通り勉強を続けた。いままで何もなかった私に生きる目標が生まれた。クラスメートから偶にひどい言葉を浴びせられることもあったが、この世のどこかにジンくんがいると思えば、そんなやつらのことなどどうでもいいと思えるほど、わたしの気持ちはどんどん強くなっていった。
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