街を歩く、というのはとても不思議な感覚です。

 人が作った建物が、こんなにも密集して存在していることに、違和感を覚えます。それだけの数の建物にちゃんと、人が収まっていたという事実に、ひたすら困惑してしまいます。うそじゃないかと思います。そんなに人がいたら、うるさくて、目が回って、わたしはとても生きていけないと思います。

 雨が灰を洗い落として、色が見えます。そのこともとても不思議です。隣り合う建物同士がぜんぜんちがう色だったり、看板が目のチカチカするような色合いだったり、道路に立っているポールでさえ、鮮やかだったり。そんなカラフルな世界はゲームのなかだけという気がしていたので、なんだか現実の世界を歩いているという感覚が、どんどん削り取られていきます。

 そして、ひとりで歩いているということも、とても不思議です。わたしにとってそれは、経験のない出来事でした。

 目的の商工会議所はすぐに見つかりました。五階建てくらいのコンクリートの直方体に、わかりやすく商工会議所と書いた看板がついていました。入り口のガラスドアは粉々に砕かれて、ぽっかりと黒い口を開けています。なかは光のさす窓もないので真っ暗で、誰かが待ち受けている様子もありませんでした。ぽつりぽつりとまた小雨が降ってきたので、一時的に建物のなかに避難します。砕かれたガラスを踏む音が、メタリックに響きます。

 そとの景色をながめながら、呼吸を整えます。むかしヒトミちゃんに使い方を教わった閃光弾をもういちどよく観察して、手順をおさらいします。自分の目をおさえるですよ、とヒトミちゃんはいいました。でないと自分も伸びちゃうですからね。わたしは想像のなかで目をおさえ、閃光弾を投げつける動作をしました。想像のなかで炸裂する閃光弾。ちゃんと光るのかな、どれくらい強い光なのかな、ととりとめのないことを考えていると、ふいに背後からなにか視線を感じたような気がしました。

 振り返ってみますが、誰もいません。というか、暗くてよくわかりません。がらんとしたロビー、いくつかのドア、奥へつづく廊下が、闇のなかにかろうじて見分けられます。気のせいだろうと思いつつ、わたしはゆっくりと足を進めます。ガラスを踏む音はすぐにしなくなって、絨毯の、やわらかく音を吸う感触が靴ごしにしっとりとつたわります。徐々に目がなれてきても、見えるものは散らばった書類や割れた蛍光灯、古くなった掲示板の紙、死んでしまった植物の鉢くらいで、なにか生きた存在が目につくことはありませんでした。

 あきらめて入り口に戻ろうと踵を返したとき、ふと壁際になにかを見つけました。どさっと置かれた、おおきな荷物のようなもの。遠くからでは黒い影としてしか見えなくて、わたしは近づいてそれをたしかめようとします。黒い影は、体育座りをした人の形をしていました。バス停で見たアンドロイドを思い出しましたが、もっとずっと角ばったフォルムをしています。それがなんなのか、すぐに思い当たるということはありませんでした。無意識のうちに手を伸ばそうとしかけたとき、豆粒くらいのちいさな赤い灯りがつきました。人影の、頭のあたりです。きゅうに人影は動き出すとこちらを見つめ、それからまっすぐこちらへ腕を伸ばします。なにかをわたしに突きつけます。銃だ、と思った瞬間、いままでに聞いたことも想像したこともないおおきさの爆音と衝撃が、わたしのからだを通り抜けていきました。


   *   *   *


 苦しくも 降り来る雨か 三輪の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに


 万葉集265、長意吉麻呂ながのおきまろの作歌です。きゅうに雨に降られてしまって、雨宿りする場所もないことに、ああ困ったなあ、という感じの歌です。なんだか身も蓋もなくて率直で、ほんとうに困っているんだなということがひしひしとつたわります。

 車で旅をすれば、きゅうな雨も心配ご無用です!

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