浅田と下田

 彼女の名は浅田。周りの人はまるで浅田が存在しないかのように振る舞っていた。ぼくも最初そうした。でも浅田のほうからぼくに声をかけてきた。

「おう、下田ぁ」

ぼくも「おう」とあいさつをする。しかし頭の中はガンガン痛むほどのショックを受けている。浅田は上半身裸で腰に短いタオルを巻いただけの姿で、つまり下半身もほとんど裸で、しかもここは男湯だったはずだからだ。

「おやじがいなくなっちゃってさあ。見つけたら教えて」

と浅田は言った。そうか、ぼくは納得する。女子が一人で男湯に入るわけがない。いま思うと小学校高学年の女子は普通たとえお父さんと一緒でも男湯には入らない気がするが、そのときのぼくは納得した。

「お父さん、どんな人?」

「背が高くて二メートルくらいある」

なるほど。浅田自身、クラスで一番背が高いのだ。

「そんな人いなかった気がするけどなあ」

とぼくが答えながら湯気の中を見回すと、浅田は

「うん、もしいたらでいいから」

と言った。そっかあ、じゃあいたら教える、とぼくは風呂をあがることにした。

 ぼくと浅田は学校ではほとんど会話をしなかった。だいたいぼくは女子と話すことはあまりない。

 翌日も銭湯に行くと浅田がいた。ぼくは浅田の裸に目が慣れてきたのかもしれない。昨日より落ち着いて話すことができた。

「おう、下田ぁ」

「浅田、お父さんは?」

「それがやっぱり見つかんなくってさ、見かけたら教えてよ」

「今日もはぐれたの?」

「はぐれたっていうか、ずっといないんだよ」

 ぼくは嫌な予感がした。ぼくの予感は当たるんだ。

「ずっとって、いつから?」

「三週間くらい前かな」

 その時聞いたのはこんなことだ。浅田のお父さんは三週間前に「風呂屋に言ってくる」と言って家を出た。それからずっと家に帰っていない。警察には連絡済み。三週間後の浅田は、待ちきれなくなって銭湯にお父さんを探しにいくことにした。

「お父さん、たぶんずっと銭湯にいるわけじゃないんじゃないかな」

とぼくは言った。

「だからあんまり男湯に一人で入らないほうがいいよ」

とも。

「そうは言ってもほかに手がかりないしなあ」

と浅田は言う。

「銭湯はこれから毎日おれが来て見張っとくから、浅田は別のとこ探しなよ」

「んーわかった。頼むわ」

と浅田は言った。

 次の日にぼくのうちの風呂は直ってしまった。湯沸かし器が直った以上、銭湯に行く理由はないわけだけど、ぼくは母親に頼んだ。

「今日も銭湯行きたい」

母親は、あんた銭湯好きだね、と意外そうな顔をしたけど、入浴料金分の硬貨をくれた。ぼくは小さい頃から親にものをねだったりすることがめったになかったからかえってすんなり納得してくれたのかもしれない。

 そうしてぼくは銭湯に行って、それから蒸発した。

 さすがに毎日銭湯に行きたいと行ったらぼくの母親も嫌な顔をするだろう。ぼくはそんな顔を見たくなかった。でも浅田には毎日銭湯に行くと約束してしまった。約束を守るにはこうするしかなかった。

 湯気になったぼくは目が霞む。霞む目でみると人混みはひまわりの模様のようだった。湯気の生活は快適で、嫌いだった虫も好きになった。

 浅田はちょっと様子がおかしくなった。夜眠れなくなって、中学校に入ってもお母さんに添い寝をしてもらっていた。鳴っていない電話に急にでたり、宿題を忘れることも多くなった。でもそんなのは長い人生から見ればほんの一時期のことだ。

 浅田のお父さんはホームレスをしていたが、職務質問されたのをきっかけに家に帰ってきた。しばらくは抑うつ状態で毎日寝て暮らしていたが、最近警備員のアルバイトを始めた。

 浅田はもうすぐ高校に入学するそうだ。

 ぼくはまだ帰るきっかけをみつけられずにいる。

「おう、下田ぁ」

と、前みたいに浅田が声をかけてくれるのを待ってる。

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