シンシア

 わたしはこれから、山田正夫による短い論考、『オカルトゲームを契機に発症した集団ヒステリー』(社会精神医学、二〇XX年四号)にささやかな注釈をつけようと思う。社会、精神、医学、そのすべてに素人であるわたしが、いまさら語る内容はおそらく多くの人にとって蛇足以外のなにものでもない。わたしがこの論考にわざわざ口をはさむのは、山田の言う『オカルトゲームを契機に発症した集団ヒステリー』の、わたしは当事者だからだ。オカルトゲームを行ったのはわたしたちだ。集団ヒステリーを起こしたのもわたしたちだ。しかし、当事者だからこそわかる真実があるなどといった、大げさな主張をしたいわけではない。わたしが語るのはきわめて私的な思い出話にすぎない。この話の主人公は、シンシアだ。山田の指摘した通り、わたしたちのクラスには自傷行為によって隔離された生徒がいた。シンシアだ。

 シンシアというのはもちろん仮名だ。シンシアは三十分くらい遅刻して教室に入ってくると、チョークを拾い上げ黒板にひしゃげた平行四辺形を書きなぐった。

「これはなに?」と先生が聞くと、シンシアは「こいのぼり」と言った。あとから気づいたことだが、シンシアはその日を5月5日だと思い込んでいた。なぜだろう、こどもの日は学校が休みのはずなのに。シンシアは椅子にどかっと座って、座るなりいびきをかいて眠りはじめた。シンシアの異常に気づいた先生は救急車を呼んだ。担架で運ばれていくシンシアの寝顔が、わたしにとっての最後のシンシアだ。

 山田の言うオカルトゲームとはこっくりさんのことに他ならない。山田はわたしたちの行ったこっくりさんの遠因として、自死と自傷の隔離政策を上げている。疫学的調査から、身近な人の自死や自傷と接触することが、精神疾患発症のリスクを高めることがわかりつつある。その傾向は特に思春期の接触に顕著である。この研究成果を受け、隔離政策は二十年代初期からはじまった。

 山田は隔離政策を神かくしに例える。児童生徒の内面的体験としては、隔離はそれまで一緒に学校に通っていた友達が、突如として消えてしまう現象だ。しかもその原因については箝口令が敷かれる。ポルノグラフィを例に出すまでもなく、なにかを覆い隠すことは、それを暴露したいという欲望を喚起する。公的な場で語ることを許されない自死と自傷は、徹底的に私的なものとして語られざるを得ない。結果的にそれは、個人の妄想と呼んで差し支えない水準の言説を、数多く発生させることになった。

 また隔離政策は自死と自傷の影響力を剥奪することを目指したものだ。それは間違ったことではない。しかし、自死や自傷に直面した当事者は、自死や自傷を行ったとしても社会になんら影響を与えることをできないと、否応なしに学習させられる。学習された無力感から芽生えてくるのは、自分たちに操作できる範囲の経験では、世界を十分に理解できないという感覚だ。そのため、自死や自傷に直面した当事者たちには、不可視なものによって世界を理解したいという思いを抱くことになる。

 結果、自死と自殺の隔離政策は、噂話レベルのオカルトを生み出しやすい性質をはらむことになる。

 さて、山田の考察を簡単に要約した。私は特にこれに反論したいわけではない。しかし、わたしの実感と異なる点がある。シンシアはおそらく自らなにか毒か薬を大量に摂取したことによって隔離されたのだろうが、山田の言うオカルトゲーム、こっくりさんがわたしたちの間で流行りはじめたのは、シンシアが隔離されるより前なのだ。シンシアが隔離されるまで、わたしたちにとって隔離は決して身近なものではなかった。こっくりさんを行っていたわたし達に、不可視なものによって世界を理解したいという切実な欲求があったとは思えない。あれはなんとなくやっていた暇つぶしの遊びで、熱狂していたものも、その背後にある霊的なものの存在を本気で信じていたものもいなかったように、わたしには思える。

 最後のわ行が「わをん」と濁点半濁点からなる五十音に、「me」と「you」を加えた計55文字の文字盤を、最初に作ったのはシンシアだった。だれだれくんの好きな人はだれですか。そんな他愛のない質問をしては、「うわ、知りたくねー」などとやじを飛ばし、反応して、五円玉がすーっと、う、ん、こ、などと文字盤の上をスライドしようものなら、わたしたちは「真面目にやれよー」と怒ったりして笑いあった。

 シンシアは占いや心理テストが好きで、少し変わったところがある少女だったとはいえるかもしれないが、いじめられていたかというと、そうでもないように思う。一部の男子にはからかわれたり悪口をいわれたりしていたこともあったが、また一部の男子からは好かれていた。

 ある日の授業が自習になったとき、シンシアの読んでいた本を取り上げて、わざと変な抑揚をつけて音読しはじめた男子がいた。それを見て笑っている男子も多かったが、「やめてください」「席についてください」と注意する男子もいた。シンシアの本を音読していた男子は次第に興奮し、しまいには本を窓から校庭に向かって投げ捨てた。

 集団ヒステリーが起こったとき、窓から飛び降りた男子というのは、シンシアの本を音読していた男子だった。その男子が「飛び降りないと殺す」という幻聴を聞いていたことを、わたしは山田の論考を読んで知った。その時は単にパニックから急いで逃げ出そうとしていたのかと思っていた。山田は男子が軽いけがで済んだと書いているが、ひざを擦りむいて、左手を骨折したのが軽いけがと言えるかどうかは、価値観によるだろう。

 シンシアはピアノが得意で、音楽の授業の合唱コンクールなどでは、いつもピアノを弾く係だった。シンシアの真似をして、シンシアの弾いていたピアノに触ったとき、鍵盤がとても重いのに驚いたのを覚えている。鍵盤はとても重かったので、まるで厚地の絨毯のように、ふかふかと柔らかく感じられた。

 ひ、゜、あ、の、を、ひ、い、て、あ、め、を、ま、つ、て、る

 シンシアはわたしに「かえるのうた」を両手で弾くことを教えてくれた。ピアノを弾いたあと、シンシアはスツールをくるくると回転させた。それでわたしは目が回りそうになった。

 シンシアはそんなふうにクラスの中でも頼りにされることが多い立場にいて、特別にいじめられていたわけではないと思うが、シンシアがかわいそうに思えたのは、シンシアの上にガラスが降り注いだときだ。教室でボール遊びをしていた男子が、球を天井の蛍光灯にぶつけてしまったのだ。あのときもシンシアはどこかに連れて行かれた。きっと保健室で髪を洗っていたのだと思う。

 も、う、す、く、゛、か、゛、ら、す、の、あ、め、か、゛、ふ、る

 そういえば山田の論考には、もうひとつわたしの記憶との齟齬がある。山田は「こっくりさん、おかえりください」と唱えたあとに、十円玉がい、い、え、と文字盤の上を動き、いつまでも出口にいってくれなかったことを契機に、ある女生徒がパニックになったと書いているが、わたしたちの作った文字盤にははじめから入り口も出口もなかった。

 その日のこっくりさんでどんな質問が出たのか、正確には覚えていない。ただ、5円玉はシ、ン、シ、ア、は、と動いたあと「me」の周りをくるくると5回まわった。それでわたしは目が回りそうになった。顔をあげると、窓ガラスの割れる音が聞こえた。

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