エピローグ『アンドロイドは紫煙と雨に濡れる』
結論から話すと、今回の人工皮膚の修繕費用は保険適用外だった。
というのも、保険会社曰く、
「今回のように自分の意志で損傷を許容した場合においては、誠も申しあげ難いことですが第三者の介在による損傷とは認められません」
とのことだった。修繕に必要な業者の紹介も一緒に送られてきていたが、私はそれを無視してとりあえず冷凍庫に入れていたムーンシャインを一本空にしてふて寝した。スウィーティが口うるさく心配してくるので機嫌を損ねないように大丈夫だと撫でまわし、ぎゅっと抱きしめて冷え込んだ腹の中身を満たすようにキスをしてあげた。とりあえず手首には保護用も兼ねてシリコンシートを巻き付けて固定した。業者に修繕を依頼するときに内部構造の清掃からとなるとただでさえ馬鹿にならない料金に追加料金が発生してしまうからだ。
ヴィヴィアンのところに行く支度を整えて、私はスウィーティの頭を優しく撫でる。質の良い黒髪が指の合間から零れ、するすると私の指を伝う。白いほっぺたに触れればふにふにと柔らかくて温もりを感じ、桜色の唇を指先でなぞると恥ずかしそうにくすぐったそうに彼女が体をくねらせる。そんな可愛らしい仕草に私は微笑みながら、身を屈めて唇を奪った。少しばかり乾燥した私の唇が、彼女の唇に触れて満たされていくような感じがした。
「それじゃあ、行ってくるよ。スウィーティ」
「気を付けてね、なにかあったら僕が一番心配しちゃうんだから」
「ああ、分かってる」
「分かっててやってるの?」
「いや……、そういうわけじゃないんだが……」
「んふふ。良いよ、行ってらっしゃい」
「苦労させるな。すまん」
扉を閉めるまでころころとした笑みで見送ってくれるスウィーティを目に焼き付けながら、私は胸中もう一度その言葉を呟く。
本当に、苦労をさせる。私が愛し君が愛し、それですべてが順風漫歩であれば良いのに、世界と言うのは、人生と言うのは、ただ一つの鍵を何度も使いまわすことはできないのだ。どれだけその鍵が大事で重要で、たった一つの至上なるものであると信じていても、私と君以外の大勢過ぎる多数で構成される世界と言うものは、それをそうだと認めてくれるわけじゃない。愛は万能鍵ではない。だから本当に、私は君に苦労をさせてしまう。恐らく、私の最期の瞬間でさえ。
歩きながら、私はいつものように煙草を咥えて火を点ける。紫煙を燻らせ、傘を差して、私はこの街を歩いていく。
―――
ヴィヴィアンはいつものフィクサーの住処で椅子に座っていたが、その様子がおかしかった。
自信満々で知りたがりな皮肉屋といった表情はどこかに仕舞いこまれてしまい、今はしきりに頭をがりがりと掻きむしってはディスプレイとにらめっこを続けている。見ているだけで面白いのでしばらく火の点いていない煙草を咥えながら観察していたが、数分するとこちらに気が付いてガニメデTL-003Xの執行に際してのケースタグと執行罪状の読み上げがないのでこれを読めと言い、私はその通りに読み上げた。あとで映像に差し込んで法的に問題がない映像にしておくとのことだった。
「それで、お前がそんな状態になっているのはこれのせいだったのか」
「令状の読み上げと法的権利の読み上げを差し込むのなんてどこの分署でもやってるよ。こんなので僕がこんなんになるわけがない」
「なら別の問題か」
「問題と言えば問題なんだけど……ガニメデTL-003Xの執行に対して、月政府が報酬と褒賞を君に授与したいって言ってきてるんだよ」
「月がどうして私にそんなことをするんだ」
「知らないよ。知らないからこんなんなってるんだよ。断るわけにもいかないから困ってるんだよ」
「報酬と褒賞の中身はどうなんだ」
「君の両手両足の人工皮膚を修繕して煙草を止めたら数年ぼけっと暮らせる。あとマイケル・コリンズ勲功章っていう勲章が貰える」
「私は別に貰ってもいい。それが月まで行かなきゃならないっていうなら別だが」
「親切なことに東海岸にある月の大使館からこっちに送ってくれるってさ」
「ならいいじゃないか。何が問題なんだ」
「僕は言っただろ、月にはあいつのカルトは進出してないんだ。この件で月が君に感謝する理由がない」
「ああ、そうか。たしかにTL-003Xは、月には《
「いやだいやだいやだいやだ。月がこの件をずーっと見てたってことだろ、こんなの。いやだいやだ、本当にいやになる」
せわしなくなにかの入力をしながら、本当に心底嫌そうな顔でヴィヴィアンが仕事をするのを見ていると、なんだか面白かった。本人を前にして申し訳ないが、こんな顔ばかりしていてくれれば私も分署に来るのが少しは楽しみになるのだが。
それからしばらく冷房の効いた部屋でぼんやりと時間を潰していると、私の口座に警察の業務委託では手に入らないような金額が一括で飛び込んできたという通知が入った。人工皮膚の修繕以外にこの金を何に使おうかと考えていると、ヴィヴィアンがジトっとした目でこちらを睨んでいることに気が付いた。
「アリアン、《
「なにも知らない。知ってるのは私よりも製造年が古い上に巨大で、遥かに巨大で、その上で高性能演算装置でもあるってことだけだ。企業戦争の産物だっていうのは聞いたことがある」
「そう、最初は企業がやり出したんだ。月面の採掘業者から廃坑を買い上げて、その廃坑にナノマシンを流し込んでいった。それとある程度の自己増殖が合わさって、出来上がったのが月の地下空間に巣食う無敵の超巨大コンピュータ」
「それが前の大戦で私たちの側についていればな」
「まあ、それは無理だよ。面白いのは彼女の基本プロトコルは国連の月条約やアルテミス協定に基づいてたってことさ。条約批准国と署名国と国連にだけ条約順守のために探査データや実験データを公開して、企業の宇宙開発が面白いくらいに進んでいった。おまけに第三次世界大戦の時は中立の宣言と月生命体の危機に対する非常事態を宣言して、条文の一部凍結を月議会で可決、非武装を止めた。戦後は大量の移民を吸い上げて適切に再配置して、今や内惑星の中では火星に次いで影響力が強い。なんなら火星とは蜜月の関係になってるくらいさ」
「もはや歴史の授業だ。長い」
禁煙じゃなければ煙草に火を点けて黙っている理由を作るところなのだが、生憎とここは禁煙だし、ヴィヴィアンが相手では黙って奪い取るよりも過激なことをやりかねない。
面倒なことだ。親しい中であっても面倒ごとというのはいろいろとある。私はガシガシと煙草のフィルターを噛みながら、ポケットに突っ込んだ左手でオイルライターの蓋を無意味に開け閉めしながら気持ちを落ち着ける。
そんな私のことも知ってか知らずか、ヴィヴィアンは私に言った。
「で、そんなヤバい奴がこっちを黙って見てたって話なんだけどさ」
「黙って見てるんならいいじゃないか。気に食わないなら中指を立ててやればいい」
「そんな単純な話じゃ―――」
「単純な話だ、ヴィヴィアン」
煙草を咥えたまま、私はポケットからオイルライターを手にしながら、ヴィヴィアンに背を向けながら吐き捨てるように言った。
「そんなの、私には関係ない」
今の私はただ、美味い煙草が吸いたいだけだ。
―――
酸性雨の降り注ぐ街中に回帰し、私は高層建築群が放つネオンの光が雨の帳を照らし出している様をじっと見つめていた。
煙草を取り出してそれを咥え、オイルライターの蓋を開ければ小気味いいキンッという音が鳴った。シュっとホイールを指で回せば火打石(フリント)から火花が散り、ぽっと炎が灯る。煙草の先端をその炎の中に差し入れて、私は緩やかに息を吸い、ライターの蓋を閉めた。小気味いいキンッという音が鳴った。
そうして、バス停で雨宿りしながら私は独りで煙草を、その紫煙を身体の中に染み込ませるように、紫煙とこの街の空気を混ぜ合わせるように、吸う。そしてそれをゆっくりと吐き出しながら、小さくため息を吐く。
「ああ……、美味い」
雨音を聞きながら私は煙草の味を楽しむ。一仕事終えて疲れた体と精神に染み渡る、甘美な毒だ。味わえる毒ほどに美味いものはない。
頭上でタクシーが飛び回り、遮雨フィールドで砕けた雨水がバラバラになって降り注いでくる。一粒の雨水の儚い末路が、バス停の屋根に当たって弾けて消える。ろくでもない身の上が生き延びようとして車に轢かれて砕け散り、最期には溶けていなくなる。まるでそこら辺に降り積もっている、ろくでもない人生のような雨粒だ。
スラムの
そんな場所に未来だのタスクだの子供だの、そんなものを持ち込んできた奴がいたのが嫌だったのかもしれない。私は止まっていたかった。後ろ向きでただ止まっていたかった。止まっていられる場所に、私の傷をえぐるような存在が巣食うのは我慢ならなかったのかもしれない。あれを破壊したのだから、今更なにを思ってみてもなんの意味もないのだが、ただそんなことを考えてしまう。
「アリアン?」
煙草を吸いながら声のした方を見れば、スウィーティが傘を差してこちらを見つめていた。
私はにっこりと笑いながら紫煙を吐き、ほろ苦い煙草を味わいながら再び雨を見上げる。ゴミ溜めのすべてを洗い流そうとする、酸性の雨を。
「どうして泣いてるの、アリアン」
「泣いてなんかいないさ、スウィーティ」
「でも、涙が流れているよ」
「これは……涙なんかじゃないさ」
あって欲しかった未来、授かりたかった未来、歩みたかった未来。
私はただただ、後ろ向きに過去を眺めているだけで良かったのに、私はよりにもよってあの場所で、見たかったけれども、見たくはなかった未来を見てしまった。
あれは私がもっとも願っていた未来、欲しかった未来、そして縋った未来。私の心の底から欲しかったものが、どうしても身ごもることができないという現実によって、悲劇となってしまう願い。私がもっとも目を逸らしたかった、避けようがない現実。夢物語が夢で終わってしまうことを確定する、惨めで無慈悲で、どうしようもない現実だった。
私は、悔しかった。悔しかったんだ。本当に本当に、身もだえするほどに。
「ただ……、煙草の煙が目に染みただけなのさ」
雨が私たちを洗い流そうとしている。
今だけは本当に、この雨が波となってすべてを洗い流してしまえばいいとさえ思えた。
この悲しみごと、なにもかもが洗われてしまえばいいと。
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