6:喰われた

 コップ一杯あたり角砂糖十個くらい入ってるみたいに甘い。


 それが、水白みずしろおんによる私の血の評価だった。やかましい、誰が糖分過多だっつんだよ。


「そういうことじゃなくて、俺との相性によって人間の血の味って色々に感じられるんです。塩水みたいな人もいるし、味がなくて熱しか感じられない人もいる。感じる味が『おいしい』に近いほど相性がいいということなので、瑠璃るりさんと俺はすごく相性がいいんだと思います。俺はかなりの甘党なので」


「はあ、そっすか」


「瑠璃さん、美味おいしい」


「言い方」


「事実ですよ」


 私の耳元で、糸遠の声が笑っている。ムカつく。それからまた、私の首に糸遠の唇が吸い付く。湿った熱さの中で柔らかい舌が肌の上をなぞり、それからちくりと痛みが来る。


「……その、舌でポイント探すのやめろ、」


「癖で」


「また……!」


 ムカつく。ムカつくムカつくムカつく。体格差がムカつく。上体ごと抱きすくめられてそうされるのが、めちゃくちゃ気持ちいいのもムカつく。息が乱れて、涙腺が緩む。血を吸い取られるたびに快感の波がきて、声が出てしまう。いつの間にかしがみついて、身体の震えがきっとバレてしまっている。

 この野郎、マジでムカつく。終わったらシメる。泣かす。絶対に。


 初めての吸血には五分ほど掛かった。

 ちょっとちくりとするだけで全然痛くはなく、終わると咬み痕は短時間で塞がって元通りになってしまう。

 糸遠はぺろりと唇を舐めて笑っている。


「甘いし、ちょっと酔っ払う感じもありますね。本当に美味しい……長いこと吸血鬼やってきたけど、こんなに美味しい血は初めてです。

 瑠璃さんは俺の、運命のあるじなのかも」


「あっそ。こっちは餌の気分だね」


「瑠璃さん、泣いてる? それに、耳まで赤いですね」


「は?」


 結んでいたゴムを乱暴に取って髪をおろした。

 泣いてなんかいない。殺すぞ。

 なんだか腹が減ってきた、さっき食べたばかりだけど。糸遠が甘党だというなら塩引きの鮭でも焼いて食わせてやろうか。いや、もったいない。こんな奴、醤油一升飲んでくたばればいい。多分私は空腹なのではなく苛立っているのだ。


 ちゅん、と雀が鳴いて、庭木が風にざわめいた。それで私はようやく、ここが開けっぱなしの玄関前だったことを思い出す。

 敷地が無駄に広い家でよかった。外の道路からこの玄関は見通せない。こんなところを近所の人に見られるのはさすがに良くない気がする。

 それからまた、様々なことを思い出す。

 ボコボコになったお気に入りの玄関ドア。

 足元に落ちたままの金属バット。

 玄関ポーチの済みに置き去りにされた木製バット。


「……あの女、どこ行った?」


「俺が瑠璃さんの血を吸った時点で主従関係がなくなったので、。多分昨夜からの記憶が飛んで、自動的に自宅まで帰ったところで気が付くはずです。怪我のこともそれから気が付くと思うんで、瑠璃さん、復讐されることはないと思いますよ」


「すげぇシステムだな。さっさと次のあるじ見付けて、私にもお前のことを忘れさせてください」


「うーん、でも瑠璃さんの血、美味しいから……」


「あー、あのさ、瑠璃さんって呼ばれるの、あんま好きじゃないんだよね。火室でいい火室で」


「お知り合いはみんな火室さんって呼ぶんですか?」


「大体はね」


「俺は『瑠璃さん』がいいな。名前って大事ですよ。血の味と瑠璃さんの名前がもう結び付いちゃったから、俺には瑠璃さんって呼ばせてください」


 何だこいつ、急にグイグイ来るな。腹立つ。


「ドア」


「え?」


 どんと胸のあたりを突いて糸遠を押しやりながら、私は言った。


「このドア扱ってる業者探しといて。取り替え工事含め見積り出して一番ちゃんとやりそうなとこ。費用は自分で持って」


「え、俺がですか」


「あの女に請求できない以上そうでしょうよ。責任は取ってもらう。この家が新築の時から一番お気に入りのドアなんだよ、正直すげームカついてるし、このまま八つ当たりでお前をボコる選択肢も無くはない」


「分かりました。あと、おんです」


「あ?」


 我ながらガラの悪い声を出したと思う。多分顔も凶悪だったと思う。

 それでも糸遠は全く動じることなく、穏やかな笑みでこう言った。


「お前じゃなくて、糸遠です。主には名前で呼んでほしい。名前って大事ですよ」


 とっに言葉が出ない。呆れて。

 こいつはあれだ。

 話が決まったら(私が追い込んで決めたんだなということに、このときやっと気付いた)、グイグイ来るというか、あれだ――図太い。

 ニコニコ笑ってんじゃねえ。昨夜拾われたばっかのくせに急になつくな、バカ犬が。

 ああ、面倒くさいことになったな。大型犬男を一人飼うコストってどのくらいなんだろう。血を飲めれば食べ物はあんまり要らないみたいなこと言ってたけど食べないって訳にもいかないだろうから結局二人分の食費になるんだろうし、まずこのズタボロの服のままでいさせるのはこっちの精神衛生に悪いから着るもの一式買って、食器の足りないもの買って、歯ブラシとかコップとか買って、昔両親が使ってた寝室を片付けて使わせてやるとしたら古いベッドはバラして寝具ごと捨てちゃったからベッドと布団買って、ああ多分光熱水道代がこれまでより掛かるしシャンプーリンス石鹸も消費量が上がって、あ、これ結構金掛かるな。ダルい。


「ダルい」


「えっ」


「道に落ちてるものは拾わない方がいいってことが分かった。すごく反省してる」


 えー、と笑って糸遠は、金属バットを拾って家に入る私の後をついてくる。

 ドアを締めて、靴を脱いで、ああそうだ糸遠は裸足で外に出てしまった。足を拭くものを用意してやらなくちゃ――ナチュラルにそう思ってしまった自分に軽くいらつく。


 吸血鬼と主? 冗談じゃない、今んとこ私が一方的に世話を焼いてるんじゃないか。

 ああ、まったく、何でこんなことに。


 家に上がるなそこにいろ、と命じると糸遠はその通りに立ち止まって、やけに嬉しそうに私を見た。


「瑠璃さん。ねえ、瑠璃さん」


「んだよ、うっせーな」


昨夜ゆうべ、何で俺を拾ってくれたんですか?」


 こいつ。

 舌打ちひとつで我慢して、私は洗面所に向かった。

 背後から、瑠璃さん、瑠璃さんと糸遠の声がする。甘えるんじゃねえ、バカ犬が。

 そして私は、まんまと昨夜のことを思い出している。



 想像してほしい。

 十歩先もかすんで見えないようなどしゃ降りの雨の夜道、大きな表通りでもない暗い裏道、その暗がりで地面に転がった男の顔がいい、とはっきり分かってしまう。

 これ以上見ていると私は死ぬかもしれない、と思うくらい、私の日常から考えれば非現実的なまでに容姿のいい男だ。

 だからといって足を止めるべきではなかった。

 声をかけるべきでもなかった。

 私はあまりにも無防備で、多分、そういう訳の分からない油断から殺されて死んだりするのだろうな、と思う。

 糸遠の、私を引き寄せる力に簡単に負けてしまった。


 多分それを魔力と呼ぶ。

 あるいは、魔性とか。



 道に落ちてる顔のいい男を拾って飼いたいとかバカなことばっかり考えてるとこうなる、という話だ。

 それは、単なる顔のいい男ではなかった。

 私は魔物を我が家に招き入れてしまい、どうやら魔物はここに居つくことを決めたようである。


 この魔物は、種族を吸血鬼というらしく、私は彼をおんと呼んで暮らすことになるらしい。


 けれども恐らく私にとって、彼の名は。



――私を喰べる、きれいな生きもの、だ。











〈了〉

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私を喰べるきれいな生きもの 鍋島小骨 @alphecca_

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