5:来た

 モニタに写ったのは見たことのない女で、郵便局や運送会社の制服でもないし、通販も何も到着待ちのものはない。このまま居留守を使おう、と答えずモニタを切ろうとした時、後ろから愕然としたような呟き声が聞こえた。


惟佐子いさこさん……」


「おい」


 即で振り返って私はおんに詰め寄った。


「あれがご主人様? 何でここにいるって分かるんだよ。あ、あんた連絡、」


「してませんよ、そんなこと。スマホも持ってないし、俺は逃げてきたんですから」


「不自然だろうよ。何? こういうタイプの詐欺? 組んでやるやつ?」


「違いますって! 俺のあるじでいるうちは、夜の間なら何となくどっちにいるか分かるんですよ」


「だからって家特定できるのはおかしいだろ、あともう朝だわ」


惟佐子いさこさんとはもう長くて、八年くらいになるから」


「から?」


吸血鬼おれの魂の半分を埋め続けるうち、主も人から魔物に近付くんです。惟佐子さんはそろそろ本当に魔物側になる段階に来てて、昼間でも近くまで来れば俺の居場所も分かるんですよ。

 俺は惟佐子さんを魔物にしたくないんです。あの人は俺に執着して邪悪に傾き過ぎてる。魔物になった瞬間、理性を失ってきっと酷いことになる」


 ぴんぽん。

 ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。

 ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん。


「ううう、うるせえ!」


瑠璃るりさん、お願いします。俺に血を飲ませてください。俺の主になってください、そうすれば惟佐子さんと俺の契約は切れて、惟佐子さん、きっと正気に戻るから」


 がごん!

 玄関から大きな音がして、振り返るとモニタの中で女が何かを大きく振りかぶっている。

 ごがごん!

 野球用のバットだ。

 どがごがん!

 繰り返し。

 繰り返し繰り返し。


「あっっっほかあの女! うちのドア!」


「いま魔物寄りになってるから馬鹿力なんです」


「解説いらんわ、止めてこい!」


「いや、会って声聞くと惟佐子さんの言うこと聞いちゃうから俺は」


「役に立たねえな!!!」


 手首のゴムで髪を結わえた。椅子の背にかけていたパーカーを取って羽織った。リビングを出て、飾り棚に立て掛けてある金属バットを取って、玄関でサンダルではなくスニーカーに足を突っ込み、扉についたチェーンを外して解錠、その間にドアの硝子がらす窓越しに相手の位置の当たりをつけ、突き飛ばすようにドアを開けながら隙間から金属バットを勢いよくドア正面に向かって突き出す。ここまで停止のない一流れだ。

 バットの先に鈍い手応えがあって、ギャッ、に近いような悲鳴も聞こえた。

 広い玄関ポーチにみっともなくひっくり返っている女を見下ろし、私は我ながら機嫌の悪い声を出す。


「何だてめぇ、あぁ? ボコボコにしてくれやがって、私んちのドアに親でも殺されたのか?」


 現役を離れて十年以上経つとはいえ剣道有段者の突きを金属バットで見舞われた女は、地べたから起き上がることができずに歯を剥き出してうめいている。骨の一本も折れたのかもしれないが知ったことではない。こっちは長年お気に入りのスウェーデン製ドアにバットの殴り痕をつけられ窓部分のさんを叩き折られているのだ。硝子にもひびが入っている。ほんとぶち殺すぞ。このドア、今どこに注文したら買い直せるんだろう、まじで面倒くさい。

 女は長い髪を振り乱して何とか身体を起こそうとしていた。


「返せ……、おん、返せ、わたしの、」


「っせぇな、ドアの買い換え取り付け代金払えクソボケ野郎。こっちはてめぇの住所も名前も分かってんだよ、職場まで追い込むぞコラァ!」


 後から考えるとさすがに柄が悪すぎたのだが、うちは無駄に敷地が広くて外に聞こえる気遣いもあまりなく、昨日までの仕事のストレスも手伝って完全に地金が出てしまった。

 這いつくばった女は必死に自分のバット(木製だった)を掴もうとしている。見下ろす私も自分の金属バットを手にしている。クソボケ女と育ちの悪い女のバット対決だが、ファーストヒットが入った時点で勝負はもう決まったようなものだ。私は今すぐ惟佐子というこの女を殺せる。一発振り下ろすだけで。


「瑠璃さん。……瑠璃さん、これ以上はもう」


 後ろから糸遠の抑えた声が追ってきて、私はぞんざいに「うるせえ」と言った。


「この女は、私んちのドアを壊した。分かるか、もうお前関係ねえんだわ、私とこの女の問題だから」


 言いながら振り返ると糸遠は両手で自分の耳を塞いでいた。じゃ私の返事も聞こえねえじゃねえか、バカなのか。

 ……惟佐子という女の声を聞いたら従ってしまうから?

 さっきそんなこと言っていたけど。


 そんなことが本当にあるのか?


 吸血鬼と人間の主の契約なんてものがあるのか?


 本当にこの女が命じれば糸遠は従う?


 いや、起こるはずがない。

 非現実的じゃないか。

 起こらないはずだ。


 有り得ないだろ。


 有り得ないって。

 だって吸血鬼とか、



おん此処ここなさい」



 ひび割れた廃墟のような女の声がした。



あたしのそばになさい」



 ……がたん、と背後で音がする。

 見ると、糸遠は蒼白になって、耳から手を離しかけている。



「あなたはあたしのものでしょう」



 裸足のまま、玄関の上がりかまちを一歩降りてくる。

 ほんとバカだな。足の裏、傷だらけだろうが。まだ絆創膏ばんそうこうも貼ってやってない。やめておけ、破傷風は怖いんだぞ。



「しおん、」



「やかましい!」


 ガォン、とばかでかい音を立てて、片手ワンハンドで金属バットを玄関ポーチに撃ちつけた。惟佐子という女の目の前に。

 女はヒャッとか何とか悲鳴を上げて、私を見ると少し後ずさりたいような動きをした。私が余程ひどい、鬼のような形相をしているのだろう。そして女はさっきの突き一撃で本当に立ち上がれないのだろう。めんどくさいことになったな、こいつのために救急車呼んでやるのは嫌だな。

 でもまあ、そんなことは後だ。私は再び糸遠を振り返る。


「お前、ほんとにこの女のものなのか?」


「……そうです。血をもらったから」


「それはお前が何飲んだかの話だろ、お前はこの女のなのか?」


「瑠璃さんには分かんないんですよ。これは俺みたいなタイプの吸血鬼では仕方ないことなんです」


「でも嫌で逃げ出したんでしょうが。お前はこいつに支配されたくないわけだろ? あのさあ人には人権てやつがあって、警察とか司法とか病院とかが理由あってする時以外は拘束受けるいわれはないんだけどお前それ分かってんの?」


「俺人権無いと思います、人間じゃないんで……戸籍もないし」


「何て!?」


 苛々いらいらする。私は自己評価低いっぽい振る舞いをする奴が気に入らない。人に低評価されることを受け入れてたら私は生きてこられなかった。そのままではお前は死ぬのに何でその意識に囚われてなきゃならないんだ。腹が立つ。


「誰の言うこと聞くかくらい自分で決めろ、幼稚園児か」


「……それは、鳥に、『お前も飛べばいい』と言われるようなものです」


たくはいいんだよ」


 我ながらドスのきいた声が出た。どうやら私はめちゃくちゃ機嫌が悪い。前にこのくらい機嫌が悪くなったときは結局警察沙汰になったんだっけ。嫌だな。

 でも、停まり方も無い。


「実際逃げたいと思ったのはお前。逃げ出してきたのもお前。新しい主だかにするために私の血をくれと言ったのもお前だ。現実的に、自由にやってんじゃねえか。なのにクソ女が出てきたぐらいで急に奴隷行動ムーヴしてんじゃねえ!

 それは思い込みだ。

 自覚しろ。

 この女や私を利用している。お前の意志で。

 プレイヤーはお前だ」



 糸遠は、あの何の変哲もないよくある焦げ茶色の瞳で私を見ている。今起きたようなぼんやりとした顔で。


 本当に顔のいい男だな、と思う。

 耳を塞ごうとしていた両手はもうすっかり下ろされていて、そういえばその耳がちょっとだけとがり気味だな、と私は気付く。

 そして何か言おうとしている。開いた唇の内に並んだ歯が見え始める。

 八重歯なんだなあ。八重歯――いや、歯列が前後してる感じではないから、乱杭らんぐいというわけではないのだ。単に犬歯が長くて尖っている――



「俺は」


 やっぱり危険な声だ。人を駄目にする声だ。


「俺の意志で動いていいのか」


「いいのかじゃねんだよ、もう動いてんじゃん。逃げてここまで来て、私をスカウトまでしてんだろ」


「……スカウト」


「なんかあるじの言うこと聞くみたいなやつあったとしても最初にその主だかを選んでんのはお前じゃん。お前の意志じゃん。私が朝なに食うか自分で決めてパンと卵焼くのと同じじゃないのか」


「……、ああ、」


 物分かりが妙にゆっくりな子供みたいに、糸遠はどこか中空を見つめたままうなずいて。

 それから改めて、私を見た。

 もうすべて、という表情で。


 後悔した。


 やっぱりこいつを拾ってはいけなかった。

 見ることすら、しない方がよかったのだ。


 だってこんなにも視線が、視線だけで、私は絡め取られる。

 引き寄せられる。

 身体よりも先に、心が、意志が。


「瑠璃さん」


 名を呼ばれるだけで世界が私と一緒によろこぶような錯覚さえ起こす。

 手に力が入らない、そう気付いた時にはもう、金属バットが玄関ポーチに落下した音が聞こえた。


 そうして私は、自分がすでにポイント・オブ・ノーリターンを遥か遠く踏み越えてしまったことを知る。


 魔物に出会ってしまった。

 魔物に見出だされてしまった。

 魔物が今、私を呼んで、そしてすべてが変わる。



瑠璃るりさん、俺の主になってください。

 俺はあなたの血が飲みたい」



 ああ、

 この生きものは、

 きれいだ。





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