十九日目

 耳に心地良いタイプ音。昼下がりに聞こえてくる小さな音は、僕らにとっては子守唄だ。

 蜜柑はいつも、ノートパソコンの前に貼りついて離れない。家事をするとき以外はずっと画面を睨みつけているといっても過言では無い。

 そんな彼女が何をしているのか? 答えは簡単だ。彼女は六人の文学少女だ。呼吸するように物語を仕上げ、脈を打つように文章を書く。血液は、骨は、肉は、文字で出来ている。そう、執筆だ。

何時間も僕らに安眠用BGMを流してくれている彼女を見て、竜胆があることを思いつく──それが今日の主題だ。

「ねー、ミカンって実際打つの速いの?」

 「打つの」とはつまり、「タイピング速度」ということだ。蜜柑は黒い目を丸くして、考えたこと無かった、と返した。

 タイピング速度については、パソコンを使うのを仕事としている人たちは速いと言われている。文字盤など見る必要も無く、手が距離感を覚えているのだそうだ。もちろん、仕事でパソコンを使っている僕も、タイピング速度は速い方だと自負している。

 一方で、スマートフォンに慣れた若者たちからすれば、キーボードの複雑な並び方を覚えるよりは、フリック入力を覚える方が分かりやすいというのも聞く。僕もスマートフォンはよく使う方だから、そちらの入力速度も速い。だが、リンドウやアザミのように、普段からスマートフォンを使い慣れている人たちには敵わないだろう。

 さて、タイピング速度を測るのに最も良いのは、タイピングを使ったゲームだ。小学生から大人まで、そのプレイヤーは多岐にわたる。その歴史も長く、かつてはフラッシュプレイヤーを用いたものが出回っていた。

 出てくるローマ字に従い、文字をタイプする速度を競う。いたってシンプルだ。そんなゲームをネットで探し、六人で遊んでみることにした。

「これでいっか。一番長いので良いよね?」

 蜜柑が見せたのは、初級から上級まであるうちの、最も難しいコースだ。一文に至る長さを時間制限の間で何回打てるかによって、秒速何タイプできているかを測る。

 実際のところ、タイポ無しで文章を打つのは難しい。それに、こういうゲームでは変換を考えないため、文字の打ち分け方も異なる。たとえば、「文字の打ち分け方も異なる」という言葉を打つとき、普通は「文字の」「打ち分け」「方」「も」「異なる」というように分けてスペースを押すだろう。つまりは、全て変換無しで打つというのはなかなか難しいのだ。

 最初に挑戦するのは、ゲームが大好きな牡丹だ。彼もパソコンに慣れている方である。しかも、彼の短時間の過集中は目覚ましいものである。こういうふうに一点に集中する力は誰にも負けない。

 ということで、凄まじい勢いで文字が送られていく。その分タイポも凄いが、実践する分には問題無いだろう。竜胆と薊も、おぉ、と声を上げて感心している。

 制限時間が終わると、牡丹は背中を反らせて伸びをした。緊張の糸がぷつんと切れて、硬直していた口元が緩む。結果は、一秒あたり四回強。タイピングミスは多いものの、そんなことなど忘れさせるほどの突破率であった。

「はー! 頭痛くなりますよ、こんなの! でも、たまにやると面白いですねェ!」

「速いな……ゲームだったら何でも得意なのか、ダリアは」

「まぁ、僕にかかればこんなもんですよ」

 顎に手を当て、独り納得するように頷いていた薊が、次のプレイヤーとなった。薊も執筆自体はするし、機械には慣れている人だから、遅くはないのだろう──そう思っていると、カタカタと大きな音が立ち始めた。よくいる、「改行を押す音が爽やかな人」形式である。牡丹にも劣らぬ速さで突破されていく問題の数々、傍観して口を開けている面々。薊の短期集中力も牡丹に並んでいる。

 制限時間はあっという間に過ぎ去った。ふう、と大きく息を吐く薊の目に映るのは、秒速四回強の文字。牡丹と同じくらいだろうか。

「まぁ、ざっとこんなもんだべ」

「さすがアザミ。機械を触らせたら隣に立つ者無しね」

「『ゲームを触らせたら隣に立つ者無し』なダリアに並んだなら、上出来でしょう」

 声をかけた秋桜も、思わず拍手をしてしまうくらいだ。次の挑戦者は彼女なのだが、彼女がパソコンを扱うのが上手いというイメージは無い。薊が突出しているからということもあるが──そう思っていると、彼女は文字盤を見ながらゆっくりと打ち始めた。

「ブラインドタッチできないの?」

「できないわ。スマートフォンならできるんだけど……」

 竜胆が半笑いで尋ねると、秋桜は困り顔でそう返した。牡丹や薊がプレイヤーだったときに見られたような爽快感は無い。びっくりマークやはてなマークが来るたびに、う、と声を出してシフトキーを押す様は、さながらダメージを受けた敵キャラクターの呻き声のようだ。確かに句読点や記号を打つのは難しいだろう、それらが出てくるたびに、秋桜は目を細め、険しい顔で白く広がったキーボードを睨んだ。

 残り時間を示すゲージが消え、結果が発表される。どうやらゲームとしてはゲームオーバーらしい、惜しいところまではいっていたのだが。秒速二回のタイプだったようだが、僕はそれを遅いとは思わない。それくらい打てれば充分だろう。

 秋桜はがっくりと肩を落とし、駄目ね、と小さな声で呟いた。蜜柑が彼女の肩に手を置き、僕が言いたいことを先に言ってくれた。

「別にアンタは遅くないよ。致命的な遅さじゃない」

「最初の二人がハードルを高くしたからよ……次はリンドウね」

「あ、あたしかぁ……いつぶりだろう、パソコン触るの……」

 竜胆は黒いパーカーの袖を捲って、秋桜と交代して椅子に座る。彼女はスマートフォン世代にどっぷりと浸かっているから、パソコンを必要としない。秋桜同様、全ての作業はスマートフォンで完結させてしまうタイプだ。その分、スマートフォンのタイピング速度はなかなか速いのだが、パソコンではいかがかというと──遅い。非常に遅い。まさかの二本指入力である。それでも、「二本指にしては」速いのがまた滑稽であった。

 牡丹が腹を抱えて笑い出し、竜胆を指差す。竜胆はまるで敵でも見るような吊り目で字面を見つめ、笑わないでよ、と声を出した。

「あははは! 二本指入力見たのいつぶりだろう! 小学生以来⁉」

「馬鹿にしないでよね! え、っと、句読点は……」

「さすがにそれは遅いですよ、リンドウ……」

 僕もツッコミを入れてしまうくらいには遅い。彼女からしたら、キーボードの盤面はさぞかし不規則で理不尽なのだろう。クワーティ配列はしょせん商業的に優位に立つために考えられたものにすぎず、ガラケーの配列に比べたらはるかに不可解だ。何でアルファベット順に並んでないの、と喚く竜胆は可哀想でもある。

 ときに、制限時間は尽きた。目をぐるぐるさせる彼女が見つめる結果は、秒速一回。一分待って六十文字しか打てないとは、三千文字のレポートが仕上がるには休まず叩いても五十分かかるということである。竜胆はキーボードを投げ出し──いや、決してノートパソコンを投げ出したりはしていない──大きな溜め息を吐いた。

「あたしは大学生になってもレポートはスマホで書くよ」

「諦めないでくださいよ、パソコンの方がいろいろ便利なんですよ」

「むー、そんなに言うならヒナゲシもやってみなよ」

 ようやく僕の番が回ってきた。といっても、特に気負う必要は無い。いつものように打つだけである。スペースキーを押して、開始。出てきた文を打ちこんでいく。

 しかしながら、数文打ったあとに、このゲームの本当の難しさを知ることとなった──自分から文を産出するのと、与えられた文をコピーするのとでは、だいぶ感覚が違う。また、バックスペースキーを使わないで打つというのは、かなり直感的に難しい。失敗が目に映らないから、どこで間違えたのか、何を打って間違えたのかが分かりにくい。どこで詰まったのか分からないまま、わたわたと別のキーを押すも、通らない。なんとももどかしい。

 そう思うと、やはり「目の前に出てきた表示に従って動く」という、まさしくゲームらしい動きは、牡丹が一番得意とするところだったのだろう。彼が好きなゲームの中に、画面に表示されたとおりに踊るリズムゲーがあった。その一方で、体を自分の思うがままに動かすのは僕の得意技なので、こうして言うことを聞かせられないのは悔しくもある。

 結果は秒速三回。微妙な位置に収まってしまった。きっと本来のタイピング速度はもっと速いのだろう、と自分に言い聞かせることしかできない。それでも竜胆は純粋に、凄いね、と言ってくれる。

「速いなー、ヒナゲシ。やっぱり事務作業得意なだけあるよね」

「仕事で使っていたのに、趣味で使っているだけのアザミに負けたのは悔しいですね」

「ボクだってレポート書くのに使ってるよ。さて、最後はミカンだね?」

「勿体ぶらせないでよ、アタシが真打ちみたいじゃない」

「違うの?」

 薊に言われるがまま、蜜柑が椅子に着く。普段僕らにタイピング音を提供してくれているミュージシャンのお出ましだ。蜜柑は手を組んで伸ばすと、小さく息を吐き、神妙な顔でデスクトップを見据えた。

 カタカタカタ、タン、カタカタ、誰よりも心地良い音でキーボードが叩かれる。薊のように激しくも、竜胆のように遅くもない。淀み無く、滞り無く、音と文字が走っていく。そのスムーズさといったら、薊や牡丹に匹敵するだろう。どれだけ指が走れど、涼しげな顔をしているのも強者らしい。五人で彼女がタイピングしている様に見惚れているのはなかなかシュールな光景だろう。薄暗くなり始めた部屋の中、白く四角い光に集う六匹の虫、といったところか。有史以前の人間は、こんな奇妙な光景が見られるだなんて思わなかっただろう。

 結果発表、その数字に、六人は息を呑む。秒速四点八回。最高記録である。タイポの数も六人の中でダントツで低い。さすが真打ちなだけある。

「おー……そんな早かったんだ、アタシ」

「本業なだけあるわね。あれだけ短時間で作品が仕上げられるのは、このタイピングの速さゆえかしら」

「そういうわけではないけど……ろくに考えないで文を書けるのは、頭にあることを出力するまでの速さが速いから、ということなのかな」

 秋桜の言葉に対し、蜜柑はなぜだか納得しているらしい。作品が早く仕上げられるのは、タイピングの速度よりもむしろ、無尽蔵な創造と、無限大の想像のおかげだと思うのだが。そちらの方がどちらかというと誇れるものではないだろうか──そうは思うけれど、蜜柑にとっては小説を書くのは、人間が言葉を使えるのと同じくらい当たり前のことだから、才能だとは思っていないようだ。

 結果が出揃い、秋桜はシャッターを閉めに、薊は電気を点けに離れた。牡丹と竜胆はタイピングゲームにハマったらしく、もっかい、と言いながら蜜柑からノートパソコンを取り上げる。手持ち無沙汰になった蜜柑は、しばし悩んだあと、スマートフォンを取り出し、驚異的なスピードで文章を書き出す。フリック入力もお手の物とは、空想少女には頭が上がらない。

 そんな彼女らを見ながら、この休み中にタイピングの練習をしよう、と思ったのは、僕だけの秘密である。負けず嫌いというわけではないけれど、最年長として──つまり、一番パソコンを使っている身として──ある程度の速さで打てるようになって、威厳を保ちたいと思ってしまった。そんなことをするために僕らが引きこもっているわけではないのだが。

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