十八日目

 いよいよ自己収容生活に狂いそうになった僕らのもとに、蜜柑の後輩から連絡が来たそうだ。

 かつてから小説について語り合う座談会を好んでいたらしいが、感染症が蔓延した今、外で集会なんて生存者に目をつけられてしまう。彼女が愛する後輩を、彼女が脅かすのは、まったくもってナンセンス。満場一致でオンライン座談会が行われていた。

 まったくの他人と話す機会なんて、自己収容生活ではほとんど無い。これだけ情報社会が進んでいても、僕らはそれに逆らって自らを収容しているのだ。他人の熱を分け合って生きれば良いものを、強がって引きこもっている。ゆえにこそ、蜜柑の饒舌っぷりは凄まじかった。

 僕らは六人揃ってお喋りだ。自分の思ったことを見てほしい、聞いてほしい、考えてほしい。構ってちゃんとも言えようか。だからこそこうして日記を書いて、互いに思いを打ち明けあって、ゆっくり話す時間を設ける。不安を、恐怖を、迷いを、ただ吐き出す。それが家族でもなんでもない他人と行えるなんて、僕らは救われていると思う。

 通話が終わった頃、蜜柑のいる部屋へと戻ってきた。ゲームのしすぎで少し疲れてしまった。どんなに好きなことでも、何時間もやっていると飽きてしまう。そういうときは暗い部屋で休むに限る。

 扉を開けると、蜜柑がノートに何かを書いていた。片手で持てるサイズのものだ。おそらく彼女のネタ帳だろう。彼女にとっては、自分の人生の全てがコンテンツだから、きっと今日の座談会も小説としてショウカしてしまうのだろう──そう思って彼女の手元を覗き込むと、こんな一文が書かれていた。

 死から自分を遠ざける。なんとなく言葉が胸に引っかかって、蜜柑に話しかける。

 普段二人きりで話すことは少ないのだけれど、別に蜜柑のことが嫌いなわけではない。センパイみたいに僕らを甘やかして、厨二病。皆の頼れる司令塔。薊みたいにさっぱりはしていないし、彼女の言うことはどことなく説得力を持っている。センパイみたいに聞き上手で、薊みたいに話すのが好き。彼女が慕われるのは、そういうところなんだろうな、とは思う。

「何書いてるんですか、ミカン」

「わっ……びっくりした、覗き見ないでよ、恥ずかしい」

「僕らの仲でしょう、隠し事なんてできませんよ」

「そ、それは辛いな……まぁ良い、話そうか」

 蜜柑が振り向いたので、僕はベッドに座る。無造作に置かれたアルパカのぬいぐるみを抱きしめて、あぐらになった足の上に乗せる。蜜柑は、可愛いな、と呟くと、皮肉に笑って話し始めた。

「今日話していて、とても面白い話をしてね。いや、全部面白かったんだけどさ。そのうちの一つが、これ。

死にたがりは、死までの距離が短い。普通の人間は、死までの距離が遠い、ってね」

「距離、ですか。どういう距離?」

「短絡的なんだ、つまりは。

何か悲しいことがあったとき、普通の人なら、死を思うまでに、いろんなことを考える。誰かに相談しよう、いや私は悪くない、ストレス発散しよう、寝て忘れよう、とか。

されど、死にたがりにとっては違う。悲しいことはすぐに死に直結する。それって、まるでアタシたちみたいじゃない?」

 僕はそんな言葉を鼻で笑ってしまう。あぁ、死にたがりだって自覚しているのか、この人は。とはいえ、この人はそんなに死にたい死にたいって嘆かないと思うんだけどな。

 死までの考えが短絡的。他の考え方ができない。他に頼ろうなんて思えない。よく考えれば、そうなのかもしれない。日常に飽きてしまったら、すぐに死を思う。毎日目を醒ましたら、自分がたった四畳半の牢獄に囚われていることを思い出す。舌を切って死ぬことを考える。

 幸せになるほど、不幸が怖くて死にたくなる。スリルを常に感じていないと、快楽を常に感じていないと、それが無くなったときに死にたくなる。その空虚感が怖くて、僕らはいつも何か新しい刺激を求めている。それは確かに、猿よりも短絡的な発想かもしれない。

「寂しくなるくらいなら、死んだ方がマシだとは思いますね」

「その短絡さは、アタシたちの思考の癖なのかもしれないね。すぐに自分には何も無いと思い込んでしまう。そして、本当に死のうとしてしまう。

もう少し賢く生きたいね、ダリア」

「それを僕に言うのは皮肉か何か? そんなこと言ったって、刺激の無い日々なんて過ごせませんよ。快楽の無い日々なんて過ごせない。そのために、センパイやアザミみたいに、他人に依存するのは馬鹿らしい。そうしたら、死ぬしかありませんよ」

 この人は分からないのだろう。友人と話し終えたあと、突如やってきた沈黙が、どれほど恐ろしいか。エアコンの音だけがする暗い部屋の中で、独り蹲ることが、どれほど寂しいか。財布のお金が無くなって、手には買った物だけが残ることが、どれほど虚しいか。どれほど悲しいか。どれほど悍ましいか。

 あはは、と乾いた笑い声が部屋に響き渡る。だが誰も答えることは無い。考えを言葉にする。だが誰も答えることは無い。その空虚さに、どうして耐えられようか。

「ミカンは何も分かっちゃいないんですよ。本当に死にたい人が、そんな簡単な距離で測れるとでも?」

「耐えられないという意味では、短いと思う」

「一度空いた穴は塞がらないんです」

 僕は思わず狼狽した。僕はそんなことを思っていたのか? 僕はこんなにか弱かっただろうか? それでも、言葉は繋がっていく。まるで詩人のように。まるで作家のように。息を吐くように言葉を吐く。つらつらと。すらすらと。

「一度我慢できなくなったら、二度と満たされないんです。我慢しきって心に穴が空いてしまった。それからは、いくら入れても風穴から冷たい空気が入ってくるんです。

アンタには分からないでしょうね。他人が笑うたび、他人が喜ぶたび、それがちっとも嬉しくないことに気がついてしまった僕の気持ちなんて。他人が泣くたび、他人が怒るたび、それがちっとも恐ろしくないことに気がついてしまった僕の気持ちなんて。空虚で空虚で仕方が無いから、死を願うんです、僕は!」

「……ダリア」

「空っぽなんです。いつだって空っぽで仕方無いんです。だから死にたいんです。他人に共感し、喜び、泣くことは、何も救いにならないんです。もうそんなこと疲れたんです。だから死にたいんです」

 アルパカを抱きしめる手に力がこもる。頬を熱い雫が伝っていく。声が震える。泣いたのなんて、いつぶりだろう。いや、本当は毎夜泣いていたんだ、気がつきたくなかっただけで。怖くて怖くて震えていたんだ。独りが怖くて。泣き方なんて知らない。喚き方なんて知らない。だから、黙って口を結ぶ。耳が熱くなって仕方が無い。

 寂しい。寂しいんだ。ずっとずっと寂しいんだ。誰かと接した温もりは冷めてしまう。誰かと心を触れ合った喜びは冷めてしまう。冷たい明日が無情に僕の足を這い上がってくる。僕の心を凍らせる。眠れない夜は怖い。寂しい。悲しい。足りない。熱を求める。また冷める。冷える。凍る。

 誰かに手を握ってほしかった。

 誰かに手を握ってほしかった?

 蜜柑が僕の手に触れている。小さくて細くて弱々しい手。僕の手なんかを包むことはできない。それでも、確かに温かい。

「アタシが後輩たちから貰った温もりを、分けてあげる」

「……なに、それ」

「ダリアの気持ちが分かって、アタシは嬉しいんだ。でも、死んでほしくない。悲しんでほしくない。独りにしたくない。だったら、アタシがしてもらったように、そばにいてあげる。アタシがしてもらって嬉しかったように、満たされたように、アタシはアンタの話を聞いてあげる」

 体がぽかぽかと温かくなる。それはきっとエアコンが効いてきたおかげで、きっと蜜柑が僕に触れているおかげで、きっと。

 蜜柑は狡い。こんなに優しいから、皆に愛される。だから可愛がられる。だから愛される。だから慕われる。嗚呼、そんなに優しくするから、裏切られるんだ。センパイと一緒。薊と一緒。そうして満たされなくなれば良い。足りなくなれば良い。底まで落ちてしまえば良い。そうしたら分かる。全部分かる。薊がそうだったように。センパイがそうだったように。そうすれば、僕ら三人が死にたがる気持ちだって思い知る。

 アンタは負の側面なんて何も知らない、無垢な先輩。アンタは素敵な後輩に会った、幸運な先輩。裏切られることを知らない、馬鹿な先輩。

「……要らない」

 手を払う。布団に入る。目を瞑る。蜜柑は少しどもって、ごめんね、と小さく呟いた。

「ごめんね、分かったような口利いて」

 空いた手が冷えて凍えて冷たくなって固まって動かなくなって震えて軋む。蜜柑が部屋を出ていく。静寂が訪れる沈黙に包まれる無音に襲われる呼吸が聞こえる荒い荒い泣き声が響き渡る誰も答えない誰も笑わない誰も泣かない。

「死にたいなァ……」

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