十七日目

 眠れない夜は酷く長い。不眠の惰性で読んでいた漫画が、かえって私を不安へと落としこむ。不安定な人々の群像劇。終わりのまだ見えぬ遠い物語。私もこういうものを書かなければ、だとか、早く先が読みたい、だとか、もう読みたくない、だとか。どうせ読んだところで、私に何のメリットも無いだとか。素直に楽しめないだとか。

 ボクはこうしてまだ他人の不幸を願っている。自らが満たされないがゆえに。自らが愛されないがゆえに。競うべきでない人々と競い、一方的に鎬を削る。削られるのは自らの心だというのに。

 ようやく寝ついたのは、朝五時のこと。漫画を読み終えた直後のこと。次に目を醒ましたのは、朝十時のこと。眠気に悩まされ、働かぬ頭で授業を受け、高まった希死念慮を、シャワーで洗い流そうとする。

 風呂場は嫌いだ。昔から彼処に行くと、シャワーで汚れが落ちていくのと同時に、感情がこぼれ落ちるからだ。僕は水の打ち付ける音に紛れて咆哮する。言葉にならない叫び声を上げる。そうして風呂場で独り蹲る。絶望に満ちた僕の混沌とした瞳が鏡に映り、炯々と光っている。

 死にたいな。死にたいな。死のうかな。どうしようかな。アタシは天井を見上げ、呆然とする。どうしたら良いのかな。答えの代わりに水が打ち付ける音が返ってくる。また蹲って泣いてしまいそうになったとき、返り事がくる。

「なにさ、課題だって全部終わってるのに。なにを死のうとしてんのさ。それに、物語が読まれるようにはなってきたとは思うぜ?」

 薊があたしにそう言って、得意げに笑う。いつも彼女はあたしたちを慰めてくれる。尻を叩いて襟を正してくれる。自己顕示欲に呑み込まれそうになったとき、道を正してくれる。あたしはそんな彼女が大好きだ。

「それに、物語を公開するのはあんたの自己満足でしょう。他人に幸せを求めては苦しくなるだけです。あんたがやりたいことを、あんたがやりたいように、他人の目を気にしないでできたとしたら、良いとは思いませんか?」

 荒れてしまった肌に無理やり化粧水を染み込ませる僕の手を引いて、センパイはそう言って笑う。ひりひりとした痛みが僕の目を無理に開かせる。眠れないくせに、肌は綺麗になってほしいなんて、めちゃくちゃな願いだ。それでも、強迫観念のように乳液を塗り込んでいる。

「今のあたしたちは、少しずつ前へ進んでるんだよ。あたし、死にたくないもん。生きようって思うもん。こうやって自分の思うことを形にできるだけ、凄いことだよ! だから、あたしのことを責めないで」

 嗚呼、竜胆の言うとおりだ。死にたいだなんて願うなんて、苦しいだなんて思うなんて、たった一日眠れなかっただけじゃない。ただ少し眠らなかったから不安になっているだけ。ただ少し眠れなかったから絶望しているだけ。私たちはあまりにも短絡的すぎるんだ、きっと。今の私たちは、ただ早まっているだけ。ただ怖がっているだけ。

 綺麗にメイクをした顔が、歪に微笑みを浮かべる。美しくない。美しい。どちらの言葉も同時に浮かんで、どちらも呑み込んだ。私は大丈夫、大丈夫じゃない。私は賢い。賢くない。ボクは前へと進んでいる。ボクは独りで閉じこもっている。僕は独りじゃない。僕は独りだ。あたしは、あたしは……

 六人揃って、大きな欠伸をする。同時に笑い出してしまう。あははは、おっかしい。何を悩んでいるんだろう。悩んだって何にもならないのに。行き詰まったって何にもならないのに。救いは無いし、救いはここにある。振り返ると、六人の笑顔が向かい合う。

「あと一つ授業を受けたら、一度寝ようか。明日は休みだし、アザミが課題を終わらせてくれたから、しばらく時間も空くだろうから、アタシが小説を書くよ」

「助かります。昨日から運動をしていないですから、少し動きましょう。最初はヨガでも何でも良いので」

「僕はゲームしたいなァ、せっかくだし。そろそろイベントが始まりますよ?」

「ボクは少し休んでもいいかな。少し疲れてしまってさ……」

「あたしはお菓子食べる! あ、あと、ゲームもする!」

「私は……アザミと一緒に寝ようかしら。少し疲れたわ」

 六人揃って、会議を始めよう。何度も、何度でも。私たちは六人で一つ。アタシたちは、白い方舟の中で、明日を生きようとしている。ゴールデンウィークが明けたって、まだアタシたちの物語は終わらない。世界が病める限り、僕たちはずっと引きこもり続ける。そうして、一生この生活が続くことをどこかで願っている。

 ボクたちは、どこかで他人の不幸を願っている。幸せそうな顔をしている他人がゆっくりと病んでいくのを眺めている。人々が潰し合うのを笑っている。誰もが満たされなくなっている一方で、満たされている自分に幸せを感じている。

 仕事も無いし、学校には行けないし、状況は何一つ良くなっていない。それでも、あたしたちが他の人とは違うのは、心を開いて話せる相手が五人もいるということ。決して独りではないということ。見つめるべき他人なら側にいるということ。

 今日も日が暮れる。夕方になったら、蜜柑と薊が家事を始める。お腹が空いたので、牡丹と竜胆はポテトチップスを開ける。雛芥子はカフェインレスコーヒーを注いで、秋桜はソファに座ってうとうとしながら、昼寝を始める。リビングに六人が集まる。今日も一歩も外に出ないで、自己収容を徹底できた。それだけで、僕らは素晴らしい。誰も誉めなくても、ボクが褒めよう。明日もよろしくね、皆。

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