二十日目

 授業が終わった金曜の夕方のこと。暇を持て余したボクたちは、またリビングに集まって、怠惰に、優雅に、平日を過ごしていた。

 自己収容生活を始めてからというもの、まさしく毎日が日曜日であった。嫌な勉強も仕事も全部ゴミ箱に捨てている──わけではないが、これだけ時間があれば、課題もあっという間に終わってしまう。ボクは出勤しなくて良いようなので──ボクともあろう者を不必要だなんて、愚かしさ極まるが──こうして家でのんびりと過ごしていた。

 日記を書き始めて、二十日。自己収容生活を始めて、二ヶ月。最初こそ家に縛りつけられている感覚が厭わしかったが、今になってみると、配給が必要ならば少ない人数で外へ出ているし、足りなくなった運動は家の中でやっているし、それらをやりくりするお金はもうしばらくしたら──五月中に貰えるんだろうか──支給されるから、実際のところは縛りつけられてなんかいない。人と接する機会が少なくなってしまうという不安も、蜜柑や雛芥子がやっていたように、オンライン座談会が開催されればなんてことは無い。SNSを見なくなって、今までよりさらにゲームや運動、執筆をする時間がとれるようになった。良いことづくめである。

 感染者数は上がったり下がったりで、緊急事態宣言は延長される。ボクたちはまだまだ家に引きこもらなければならないようだ。消毒剤を撒いたわけでもないのに、ゾンビがそう簡単に消え去ることは無い。ワクチンや治療薬が出来たからといって、自由に出歩けるわけではない。サバイバル映画を見ていれば分かることだ。

「『国民の皆様の努力のおかげで感染者数が押さえられました』って……なんで専門家に感謝されるんだろうね、あたしたち何もしてないのに」

「そういうのは政治家とかが言う台詞ではあるね。感謝すべきはアタシたちの方なのに」

 専門家会議は生中継、まるで無観客ライブのようだ。歌手の一言で涙してしまう信者のような心情である。感染者数の減少を示した矢印に熱狂するファンも少なくはないだろう。おぉ、神よ、なんてむせび泣いて喜ぶ神父でも出ていきそうだ、サバイバルホラーとしては。

 辛気臭い顔をして、国民に自粛を呼びかける首相の顔。皆この顔を見ると二分間憎悪を始めて、罵声を浴びせ始めるのだろう。しかしながら、ボクらはそうもいかない。大学生というぬるま湯に浸かった立場から、この状況を面白がっている。

「きゃー! 首相! マスクしてー!」

「給付金ちょうだい!」

 牡丹と竜胆の黄色い声。始まってしまった。首相・オン・ザ・ステージなオンラインライブである。

「皆、ありがとー! 皆が頑張ってるおかげで、感染者数が減ってきましたー! 皆! 自分に拍手だよ!」

「きゃー!」

 そして首相役は蜜柑。お前かよ。目の前でライブを続けている首相に失礼だろう。

「私たちは、皆の応援があるから仕事が成り立ってますっ! 本当にありがとうございます!」

 感謝を前面に押し出した九十度の礼。若いアイドルのやりそうなことである。マイクを持っている前提で、胸の前で手を握って、泣きそうな顔で観客を──牡丹、竜胆、雛芥子、秋桜の四人──見上げるのだった。

「私たちは、あと一ヶ月、緊急事態宣言を延長します! 中小企業の人たち、本当に辛いと思う。だから、私たちができることは一つだと思いました!」

「なーにー?」

「給付金集めて、増やせるようにしますっ!」

「きゃああああ! ありがとおおおお!」

「そんなことは一言も言ってないんですけど……」

 雛芥子が苦笑しながら緩く拍手をする。給付金が増えたら良いな、というのはあくまで願望である。

 蜜柑は涙を拭う真似をして、にこっとアイドルスマイル。きらっと煌めく笑顔はアイドルの特権。

「皆! マスクは使ってくれたかなー?」

「使ってるよー!」

「届いてないよー!」

「ちいさーい!」

「ありがとー! 私たちが、頑張って作りました!」

「作ってないだろー!」

 首相は作ってない。自分の名前を冠したマスクを配給しようと決めただけである。事実、配給される布マスクは見た感じ小さくて使いづらそうではある。

 蜜柑がくるっと回って、下手くそなウインク。観客を指差して、甘ったるい声で最後の一言。

「これからゴールデンウィークですっ! 頑張って感染、抑えちゃおう! そのためにも、私たちは(お金が渡せるよう)一同頑張っていきます! これからもよろしくね!」

「きゃー! 首相、かっこいい!」

「がんばれー!」

 ようやく首相ワンマンライブが終わったらしい、蜜柑が大きな息を吐いて席に着いた。四人も何事も無かったかのように席に着いている。

 不謹慎にも程がある。本当に首相を──首相が矢面に立っているだけで、その裏には少なくとも数百人の共犯者がいる──憎悪して顔も見たくない人たちがいることを分かっていない。とはいえ、我々が憎むべきは、首相でも、休業していない居酒屋でも、パチンコ屋でもない。世界に広がってしまったウイルスだ。我々の娯楽を、経済を、文化を、自粛の一方向へ追いやった天災だ──そのウイルスですらも、某研究所から漏れ出したなどという、実にパンデミック映画らしい筋書きを信じている人がいるらしいが。

 我々が憎むべきで廃絶すべきなのはウイルスの方で、其奴に関して言えば、徹底した手洗いうがいでぶち殺すことができる。世界六十兆人は皆勇者、世界に蔓延るウイルスを殺す力を持っている。それが我々の合意点なので、こういう悪ふざけが行われるのだ。

「ミカンのそれ、面白いから、アフレコ動画として出したらウケるんじゃないの?」

「アタシの声で売れるのか?」

「ネタとしては悪くないし」

 竜胆と牡丹は真面目な顔をしてそんなことを言っている。確かに、本当に首相がそういうアイドルになってくれれば、「ウイルスに侵され、人々が死にゆく中、希望の火を絶やさないよう呼びかけるアイドル」らしくて良いのだが。

 世界中で、抑え込まれたストレスにやられて、自粛警察が出回っている。自分の正義を振りかざすことに酔い続ける、哀れでみっともない豚だ。そういう輩は、魔法少女モノでいうと敵側に回るだろう。そんなところに颯爽と首相アイドルがやってくるのだ。

 皆、苦しいと思う。でも、苦しい人同士で争うと、私たちは悲しいです──そう言って札束でぶん殴ってやってくれ。廃業した人々による、生き残った人々の足を引っ張る所業を止めさせてやってくれ。

 でも、ボクたちがこうやって諧謔的というか、不謹慎になるのにも、理由がある。目の前に現れた首相という人間は、エマニュエル・ゴールドシュタインではない。悪の権化という概念などではない。開業中の店に押しかけた不届き者も、それでも人間だ。口角に泡を溜めて理不尽に政府を責める人々も、それでも人間だ。どんなに愚かで惨めったらしくても、人間には変わり無い。

 だったら、生存者同士で争い合って潰し合うより、これくらいふざけていた方が、ボクらみたいな温い人間には心地良い。

 メディアは大喜びで、苦しみ悶えて悲しんでいる事業主ばかりを映して、ほらほら可哀想でしょう、これが政府のやったことです、我々の言うことを聞いてください、我々は真実を伝えます、我々は寄り添います、なんて言いふらして、人々の心を安らがせている。そんな二分間憎悪じみたプロパガンダを信じるほど、ボクらは切羽詰まっていない。

 白い壁に囲まれた、小さなリビング。減り始めた備蓄。引っ張り出した物だらけの机の上。代わり映えのしない光景。着慣れた部屋着。規則的なシャッターの閉まる音。窓の外はまだボクたちのものにはなっていない。ノアの方舟の辿り着く先はまだまだ遠い。懲役一ヶ月、まだこの家の中に軟禁され続ける。

 されど、諸君、ボクらはそろそろ楽しめるようになってきたよ。少ない備蓄をやりくりして、できるだけ外出する機会を減らして、ネット上の情報から身を離して、精神科の薬を取り寄せて、家で運動をして、執筆を進めて──そうやって、二ヶ月もやってきた。

「ま、ボクらは言われなくても頑張るけどね」

「そうね、総理が言ってくれなくたって、私たちは家にいるつもりだもの」

「明日辺り、全員で酒でも飲みましょうか。あ、竜胆はジュースで」

「むー! まぁ良いけど」

 記録をつけ始めて二十日記念だ、盛大に晩餐をしよう。今日さっそく一万五千円も課金した馬鹿もいるが──牡丹のことである──明日を記念日として、引きこもり続けられた自分に乾杯をしよう。

 我々の努力が、今日の我々の生存に至らしめている。諦めて外に出て、カラオケに行ったり、ゲーセンに行ったり、ショッピングをしていたり、そんなことでは辿り着けなかった境地だ。外の無症状感染者との接触を減らせた我々だからこそ至れた場所だ。

 蜜柑のふざけた文句に迎合するのは抵抗があるが、「皆! 自分に拍手だよ!」といったところか。

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