脱兎

 このあたりはあまり坂のない街だ。商業地域と住宅地が集まって矩形の町割りをしていて、縦横に道が走っている。「使いやすい街」という印象が初めに来る、紛れもない、快適な都会である。


 それを乱すのが、お池と上水、更に私の泣いた急坂だ。お池や上水は素敵な"自然"だ。でも、どうしてこんなところに急坂があるのか、私はここで二度泣かされた。


 急坂は、私の家からも近い場所にあった。しかし、通学路や普段通る道から少し外れていて、急坂を登ると上水に続くことだけは知っていた。


 ある日、年上のお友達たちに「遊ぼうよ」と半ば強く誘われて、私と弟は急坂のほうへ連れられて歩いていった。


 何をするのかしら。彼がなにをして遊ぼうと思っていたかは定かではない。私は道の木や草、生き物を見るのも、石を見るのも、好きだった。彼はどちらかというと、缶蹴りや虫取り、ボール遊びが好きだったか…。


 「おーい」と先を行く彼が手を振る。走っていくと、虫かごを持っている。何か狙っているのだろう。目当ての木があるようだ。カナブンでもいるのだろうか。


 だいたい、木の節のところから樹液が出ていて、虫がいたりするし、いなくても、木というのは面白いものだ。


 彼は何本か木を見て、一つの木に目を止めた。


「見てみろよ」


 それを見て、私は頭が固まった。そこにいたのは立派な蜂、大きな大きなスズメバチだった。そうだ、スズメバチも樹液が大好きだ。だが今まで見たことがない大きさだ。15cm……20cmはあろうか。息を呑んだ。


「これ……大丈夫?静かに逃げたほうがよくない……?」

「大丈夫だって。俺、これ持ってきているんだ」

 そう言って彼が取り出したのは殺虫スプレーだ。もうおわかりだろう。世界最強とも噂されるホーネット、オオスズメバチに殺虫剤をかけようというのだ、生身で。


「やめて!やめて!ゆっくり、さがろ?」

「じゃ、離れてて。逃げてもいいよ、ほらだいじょ……」


 彼がスプレーをかけはじめた!途端、私と弟は脱兎の如く逃げ出した!彼がどうなるかはわからない。でも触れていいものと、迂闊に触れていけないものがある。今回は後者だ。自分が喘息持ちなことすら忘れて、半泣きになりながら、走って走って少し離れた小さな角まで逃げ、肩で息をしながら、様子を伺った。


 彼は無事だろうか。スズメバチは暴れていないだろうか、こちらに追いかけてきてないだろうか……。しばらくして、彼が歩いてきた。


「大丈夫だったよ」と胸を張って彼はそう言った。

「見てくればいいじゃん。大丈夫だから」


 彼はそういうけれど、ひとまず、安心したけれど、私は、肩で息をしていて、それどころじゃ、なかった。なにより、今見に行っても、正直、怖い。


 「ううん、いいよ、いい。おうち、帰る……」


 散々な目に遭ったのだった。"必死で逃げる"なんて、後にも先にもこの時だけだった。

 そして、彼は一言、「ごめん」と謝ってくれたのだった。

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