希望、小一。そのさん

 日の出とともに、目を覚ました。二階の寝室では、家族五人が川の字になって眠っている。カーテンの隙間から、朝日が漏れている。僕は、ママの頬を舐める。なかなか起きてくれないから、声をかけようかと思ったけれど、二人の弟妹を起こしてしまっては、可哀そうだ。カズユキは大きなイビキをかいているので、起きはしないだろう。僕は根気よく舐め続け、ママは迷惑そうに顔を拭いている。ママをもっと寝させてあげたいけれど、やはり昨日のコーラの言葉が気になって仕方がない。堂本のおじいさんとマルの朝は早いのだ。ノゾムとノゾミの登校を待っていては、間に合わない。ママに怒られたらどうしようと、内心ヒヤヒヤしながら、ママの顔を濡らしていく。ママはようやく観念したかのように目を覚まし、僕を抱えて階段を下った。そして、リビングの隅にある僕の部屋の前で下ろした。

 僕の目的はそれではなかったのだけれど、折角なのでトイレを済ませて水を飲んだ。すると、ママは、大きなあくびをして、二階に戻ろうとする。僕は慌てて、玄関に通じている扉を爪で引っ掻いた。音に気が付いたママは、首を傾けながら扉を開けてくれた。玄関の土間に飛び降りて、靴箱の反対側の壁に前足を伸ばした。二本足で立ち上がって、顔を上げる。

「ええ? 散歩行きたいの? まだ、朝早いでしょ?」

 ママは困り顔で、上がり框に腰を下ろした。一度、ママに視線を向け、また壁の上を見る。視線の先には、僕の首につけるリードが、壁にかかっている。僕は大きな目を潤ませて、ママを見つめた。これは、僕の必殺技だ。この技を繰り出すと、ママは大抵お願いを聞いてくれる。ママは、深く溜息を吐いた。

「もう、分かったよ。準備するから少し待っててね」

 よし、勝った。僕は、框にあがり行儀よくママの支度を待った。暫くして、ママは帽子を被りマスクを装着した姿で現れた。リードを首に巻いてもらって、玄関を飛び出した。家を出て右へ向かう。いつもとは違うルートを進む。そして、左手にある広い公園へと入った。堂本のおじいさんの家の前の公園だ。堂本のおじいさんとマルは、よくこの公園で散歩している。僕が辺りをキョロキョロ見ていると、目視確認する前に、マルの匂いが漂ってきた。公園と堂本さんの家の間にある道路を歩いていた。もう家に帰ろうとしているようであった。僕は慌てて、マルの方へと走り出した。

「ああ、マルに会いたかったのね」

 ママは、小走りで僕の後を追ってくれた。でも、さすがに全力疾走をすると、ついてこれないので、僕は少し足の回転を緩めた。マルがのんびり歩き、たまに立ち止まり振り返っている。堂本さんの歩く速度は、あまりにも遅い。これでは、どちらが散歩してもらっているのか、分からない。これなら、急ぐ必要もなさそうだ。マルの前にやってきて、マルと堂本のおじいさんに声をかけた。その瞬間に、全身の毛が総毛立つような悪寒に襲われた。

「誰だ! お前達!」

 反射的に怒鳴り声を上げていた。全ての細胞が警戒を促しているように感じた。

「おうおう、ホップかいな? 朝っぱらから、元気がええのう。ひゃっひゃ」

「すいません、堂本さん。突然どうしたの? ホップ?」

 ママが慌てて僕を抱きかかえ、堂本さんのおじいさんは、いつも通りに呑気に笑っていた。僕は、怖くて怖くて堪らなかった。勿論、それは初めて見た訳ではない。

「落ち着けよ、ホップ」

 マルが僕を見上げて、優しく声をかけてくれた。マルの声に冷静さを取り戻した僕は、全身の力を抜いた。ママの手を舐め、体をよじると、ママはアスファルトに下ろしてくれた。顔を上げ、堂本のおじいさんの顔を見る。いや、正しくは、おじいさんの後ろを見た。

 そこには、逆光を浴びたような、全身真っ黒の人型のなにかが立っていた。

 しかも、三人だ。人という表現が正しいのかも分からない。でもやはり、人の形の影のようだ。

「お前さんも見た事あるだろう? そう驚く事もないだろうに。それに、あれを追い払おうとしても無駄だ。もうずっと、やっている」

「で、でも」

「奴等は、日に日に数が増している。それに厄介な事にな」

 マルは、おじいさんの様子を伺うように、後ろを向いた。マルの体は、所々毛が抜け落ちていて、以前の活力もなくなっているように見えた。

「厄介な事って?」

「奴らは、主人だけではなく、俺にもついてくるんだ。主人と俺の間をウロウロしたり、ジッと眺めていたりする。いったいなにを待っている事やら」

 マルは、諦めたように息を吐き、『じゃあな』と言って、家の中に入って行った。僕は茫然とマルとおじいさんの後ろ姿を眺めていた。

「さ、ホップ行くよ」

 ママが僕を引っ張るようにして、歩き始めた。少し戸惑ったけど、ママについていく。歩きながら何度も振り返って、マルの姿を探した。

 あの影のような黒い連中は、いったいなんなのだろうか?

 マルが言ったように、たまに目撃する。公園内や橋の真ん中、はたまた家の中などだ。基本的には、一人で、フワフワ浮いているのだが、先ほどのように何人も集まっているのは、初めて見た。昔は、人間と勘違いしていたけれど、今では人間ではない事が、一目瞭然だ。不気味で不穏な存在としか判断ができないでいる。

 マルと堂本のおじいさんは、大丈夫なのだろうか? 心配でならない。

 僕は、尻尾を引かれる思いで、ママの横について歩いていく。

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