第8話

「あの人達、大丈夫でしょうか?」

「あの人って?」

「討魔局の方々でーす。一回も話せていませんが、自分の術によほど自信があるよーで、形代を意気揚々使ってましたー。‥‥もし、ドーマンセーマンのひとつでも懐に忍ばせているのなら―――陰陽術を使えるかもと」

「可能性としてあるかもしれない。だけど、もしそうだとしても簡単には繰り出さない。それに陰陽術を見せない為に彼らは魔狩りの銃なんていう兵器を持ち出したのだから」

 背の高いマヤカが、覗き込むように顔を見つめてくる。同じ画面を見ていたのだから気に病む必要などないとしても――――何故、こうもマヤカは大人びた魅力を持っているのだろうか。いくつか離れているとは言え、これは呪いではないだろうか。

「どうかした?」

「‥‥そうよ、私がふたりに提案したの。向こうはよく人の物が羨ましいから捜査とか言って家探しに入ってた。だから協定違反のあの拳銃を使ってくる、まだ隠し持っているって事で、半強制的に捜査の一環で叩きのめしていいんじゃないかって」

 先生のホテルにて自然学第三カレッジの外周を眺めていたが、何か起こる筈もなく、三人共討魔局の今までの動向を探るに至ってしまっていた。

 これではわざわざ行政地区にまで足を運んだ甲斐がないというものだ。

「持っているかもしれないで、襲撃を仕掛けるんですかー」

「当然じゃない?だって、散々こっちも『ただの疑い』で犯罪者扱いを受けてきたんだから。秩序側の人間だからって何しても許される訳じゃない、今まで自分達がやってきたのはこういう事だって、教え込ませてあげてって言ったの」

 長大な一つながりの窓に視線を逸らし、高層でありながら一階部分はオペラハウスのように巨大なカレッジという名の権力の象徴に溜息を吹きかけてみる。我らが異端学カレッジでは足元にも及ばない資金の暴力が、そこにあった。

「どうせ向こうだって、この最後の機会にリヒトを狙ってくるってわかってる。手傷を受けた人間なら自分の奥の手を出して、魔貴族のリヒトに襲撃を仕掛ける―――その為にわざわざスーツの下に防弾装甲を仕込んであげたんだから」

 手間こそかかったが悪くない出来だと自負してしまう。

「—――だけど、そこが懸念なのね」

 マヤカが小さく呟いた不安に、頷いてしまう。

 もし、もしもだ。討魔局が協定通りに魔狩りを持ち出さないで、危惧した通りに陰陽術、ドーマンセーマン符でリヒトに命令を下しでもしたならば――――私達は討魔局の側を守らねばならないかもしれない。

「討魔局がどれだけリヒトの事を理解しているかはわからない—――オーダー省がリヒトの調書を開示してたとしても、彼らがそれを理解しているという確証もない。陰陽方ではない彼らではリヒトを透視することは出来ない」

「‥‥結局、祈るしかないの。陰陽術は自分達が使役してる式、もしくは自分で命令できる自然界の物質、大気を操って結果を引き起こす。だから自然の中で生まれる災害だったり死も操れる――――だけど、リヒトの身体は、この星そのもの」

 星への命令などという神の御業、生半端な実力しか持っていない人間が下そうものなら星の生命循環は瓦解、新たに生まれる筈だった形を歪ませてしまう。異常な命令を遺伝子から細胞に送り続ける癌細胞と変わらない。リヒトの形を歪ませてしまう。

 その上、リヒトの魂は世界と神を喰らってきた神獣そのもの。

 ロタの私物であるノートパソコンを閉ざしたマヤカが、グラス片手に更に紡ぐ。

「リヒトに陰陽術を掛けたら、あの皮が破れ去る。それでも尚繰り返そうものなら神獣の身体を操る事を目指すに他ならない。命令を下させる筈がない―――もし、そんな事をしたらリヒトの身体が陰陽術を辿って牙を剥く」

「—―――創生の彼岸から水晶の供給をされているリヒトさんに、ただの人間が命令を下す、リヒトさんの身体を垣間見ようものなら彼らの脳髄が耐えられません。仮に耐えられたとしても、そこにいるのはもはや人でもない。廃人と変わりません」

 今頃になって不安になってきてしまった。自分達には形代や物理的な武器しか見せて来なかった事から提案したが、もしあの中に陰陽方が紛れ込んでいたとしたら。

 リヒトの怒りを抑える為、外部監査科はリヒトの敵となり得る。

「ごめんなさい、心配させるような事を言って。その時の為に、符を見たら自分の水晶を壁にして耐えてって言ったのにね。大丈夫、リヒトにはロタもマスターもカサネさんもいる――――自分を信じて」

 きっと泣き出しそうな顔をしていたのだろう。マヤカが自分の胸に引き寄せて心音を聞かせてくれるが―――それはリヒトのような子供に対するあやし方だった。

 そして自分は、自分の授けた作戦の不備など既に気が付いていた。

「私はリヒトと違って子供じゃないから!!それに、なんの為に私がロタにヴェールを編んであげたと思ってるの!?」

「設計図と工房を提供したのはこの私でーす」

 緊張感のないそれぞれにマヤカが朗らかに微笑む。その顔は、やはりリヒトをあやしている時の顔に見えてしまい、私もリヒトと同じく頬を膨らませてしまう。多少なりとも、自分とマヤカの年の差を感じながらも扱いの同じさに不機嫌になって来た頃—―――ロタから呼びかけが届く。

「ロタ?今はまだ会合の筈なのに‥‥」

 通話をタッチしながら耳に付ける過程で、「ロタさん、スマホも持ってるんですね」「マスターが、現代を勉強する為と与えたの」と緊張感が皆無な世間話が聞こえる。

「ちょっと静かにして。ロタ、どうかした?」

「‥‥どうしましょう。私、囚われてしまったようです」

「—――はぁ?」

 まるで緊張感のない、むしろ今の状況を楽しんでいる節さえある戦乙女による唐突な自己診断に、私は耳を疑うしかなかった。よって次いでもう一度聞き返す。

「ロタ、どうかしたの?」

「はい、私、囚われてしまったようです。確かに私は美しく耽美の化身ではあるのは間違いないのですが、いえ、人間であるのなら私という美の天使を一目視界に収めただけで恋焦がれるのは致し方ないのも理解できるのですが。けれど、こんな方法で独占しようだなんて、これでは世界の損失であり――――」




 この身を包んだ閃光が爆炎だと気付いた時、視界の果て―――空気中の水素、窒素、酸素を大きく吸い込み身の丈を越した深紅の爆発の更に向こうに、あの余裕と盲目を履き違えた愚か者達が仁王立ちしていた。

「どれだけ君が人間離れしていようが、この世界のルールには従わなければならない。そして僕達は長きに渡ってこの国を魔の脅威から守ってきた守護者だ。何を目指して自ら堕ちたのか知らないけれど―――自らの責任を取る時が来たんだよ」

 衝撃によって消し飛ばされたスーツが、弾け飛んだ皮膚と骨と内臓を晒す。舞い上がる白煙によって今はまだ覆われていたとしても、廊下の壁や天井、貴族と検非違使達の顔や衣に赤焦げた肉片が飛び散っているのがわかった。

 背中が軽いからだ。ほんのわずかな時間で、自分は身体の5割を無くした。

「嫌という程、知り尽くして貰うよ。自分のやった事の重みを――――君が欲した力は、その程度だという事実も。大人しくただの学生でいれば、死ぬ事も無かったのにね」

 息が出来ない。身体の周りにあった空気がまとめて消え去ったからだ。

 爆発の手助けをし、今もこの身を焼く爆炎を担っている世界の構成物質が、既に死したリヒトの存在を許さないでいた。この身は星の奔流に晒された事により、星の加護を受けたこの世界最高峰の入れ物。

 よって、この世界にある物質で奪うのも容易かった。

「こちらの仕事は終わった。本当は君の危険性を立証できればそれで今回は引き上げる気だったんだけど―――君が彼らを襲っている現場に出くわしてしまった以上、止めなければならない。また、君の身体から学究の徒との繋がりを見出せた。全て君の責任だ。諦めてそこで死んでくれ」

 身体を支える足の筋肉と腱が燃え尽きた。衝撃に骨さえ砕け、松葉杖も銀の仕込み杖も廊下のどこかへ消えてしまっているこの身体では、焼け焦げた床板に膝を突くのは道理であった。

「君達、こちらの話はこれで終わりだ。彼女は好きにしてくれ――――報酬として」

「‥‥こんな話聞いてねぇぞ。どういう事だ‥‥?」

「見ての通り。君達を襲おうとした危険人物はこちらの静止を振り切って攻撃、よって防衛をした。そしてこちらからの捕縛術を受けた彼は、人生の今後に絶望して自殺。これが今回の真実さ――――撤収を開始」

 今も視界を隠すように煙が立ち込める中、踵を返した討魔局は何事もなかったように足音を立っていくが――――当然、貴族のせがれ達がこのような現実を受け止める筈がなかった。威嚇かそれとも外れたのか、貴族の放った弾丸が討魔局の頭上の電灯を撃ち抜いた事で、天井の破片が彼らの頭に降り注ぐ。

「‥‥なんのつもりだい?」

「とぼけるな!!これはどういう事だ!?しかも、話は終わり――――俺達を囮にしたって事かよ!?」

「そうだけど、それが何か?」

 諸人には焼死体と見分けがつかない自分から、貴族の誇りを向ける相手が変わったようだった。今も多くの討魔局がいる中、学生貴族達は拳銃を取り出す音を鳴らした。—―――それを見て鼻で笑う彼らは、やはりこの土地の住人ではなかった。

 ただの一射で文字の力を使い切る弾丸のゴーレムは、動物を時限爆弾と書き換えた非倫理的な技術の集合体。その一撃たるや、航空支援—――焼夷弾と変わらぬ威力があると目算されていた。そして、それは実際に目の当たりにされてきた事実だった。

「—――このままでただで帰すと思うか?この銃は俺達を避けるんだからよ‥‥」

「避ける?ああ、そんな古い型じゃあ、真っ直ぐ飛ぶ事もしないだろうね。悪いけど、僕達は暇じゃないんだ。子供の喧嘩なら自分達だけでしてくれ」

 未だ身体の修復が追い付かない。

 皮を失った自分がこのまま立ち上がろうものなら、カタリとの約束を果たせない。完全に油断した所からの陰陽術は、人間への端末たる身体の表面を焼き尽くすに留まったが――――続け様の一撃は避けなければならない。

「それに君達だろう?真っ先に彼を刺したのは。ここでオーダーとして君達を逮捕してもいいんだ。侯爵の息子が私怨で一般学生を刺殺なんて―――本格的にここを拠点とするいい理由になるよ」

 やはりこの検非違使達は貴族の性と似通っている。自分達以外の人間だというだけで人を殺し、危険な現場に追い落とす。そのまま素知らぬ顔で逃げ去り、ただの傍観者を気取る。あらゆる利益の中心にいながら、何ひとつ責任を取らない。

 —――やはり人間を体現するかのような人種が、彼らなのだろう。

「それで手打ちにしろだと―――負け犬の見返りなんて期待するべきではなかった」

 自分と相対していた時とは空気が変わった。

 言葉使いだけではない。その身で纏う高価なスーツが、ただの布ではないのだと証明するように。この社交界は戦争であり、自らが戦争の主役だと謳うようだった。

「我々はこの秘境の中で、家を継ぐ為にカレッジに所属している。何もしていないと思わない事だ――――選ばれた階級の出自を持つ者とそれ以外の人間とでは明確な違いがある。我らを謀った罪、ここで雪がせてくれる」

「何をそんなに憤っているんだい?その怒り、そのまま部屋で眠っている彼女にぶつければいいじゃないかな?とても可憐な子だったじゃないか、ロタという子は」

 —――その瞬間、焼け焦げた皮膚から僅かに健康的なものに戻りつつあった腕が、神獣のかぎ爪と変わっていくのを感じた。人間の皮では到底抑えきれない質量を持つ―――樹の竜を灰燼に帰した神域の竜へと。

「それに、これ以上邪魔をするのなら―――君達が学生のひとりに暴行を加えたと告発する。どうせもう犯したんだろう?渡した薬を飲ませて記憶を消した?」

「お前達が、手引きしたんだろうが!!」

「何ひとつ証拠もないけど、まだ続けるかい?」

 身体の修復、水晶でこの身を包むという全員で結んだ約束を破ってしまうのだろう。カタリとマヤカ、ヨマイにマスター。全員が敵に回るやもしれぬ状況を―――自分は造り出そうとしている。我らは外部監査科でありマガツ機関、オーダーの所属であるのだから殺人は許されず、創生の彼岸の知識は秘匿すべきと決まっていた。

「‥‥いつまでも踊らされると思うな」

「いつまでも悪ふざけに付き合うとは思わないでくれ。—――仕方ないようだね、こちらとしても在りもしない戯言を言い振らされても迷惑だ。オーダーを宣言する」

 けれど、それで被害を被るのは人間達だ。

 想像も着想も出来ない創生の彼岸の知識と、その身を呪うに等しい神域の力を垣間見た時、ただの人間である彼らは死に絶え、或いは廃人と化す。やはり死ぬのは人間に過ぎない。ならば、一体何を恐れる事があるだろうか。

「魔に連なる者という、この国の秩序を破壊する君達には牢屋が相応しい。外からの侵略者達よ、この国の力を都合良く利用するのも、今日ここまでだ」

 この焼けた足を更に強靭に、元の形に戻す再誕に何を厭う事があろうか。

 熱波によって溶けた瞳と水晶体が縦に割けた時、眼前に整っていたのはドーマン符—――九字の通りが格子状に描かれた、蘆屋道満が語源になったのではと言われた魔除けの符を、彼らは陰陽術というたった一つの方向性に収束させ使っていた。

「‥‥なんだ、お前らこそ都合よく使ってるじゃないか」

「—――ッ!?」

 どこか平安京の街並みを思わせるドーマン符の波濤が一際輝き、こちらへと向けられる。青白く輝く紙の整列の奥—――形代だけでは出せない不気味で無機的な獣の姿を感じ取る。

 この感覚、この脈動が式なのだろう。

 鬼神とも呼ばれる式神は、奴隷達の神とは似て非なる。これは土地や地脈、太陽に河川—――これらから生まれ出た、奪い取った力の破片を自分の物として操り、術者の望むままに模倣する。同時に、これは大いなる自然の力そのもの。であれば。

「奪魂は避けたかったんけど、君には苦しんで死んでもらうか」

 一歩、踏み込んできた少年はなおも余裕を崩さなかった。けれど、少年の未熟な隠蔽工作に出来たばかりの鼻で笑ってしまう。一騎打ちと駆け引きばかり得意に見せようとしていただけだと、気付いたからだ。

「ひとりでやる気か?」

「今の君になら、十分だと思わないか?」

「嘘だな。お前みたいな陰陽方崩れが、ひとりで符を使える筈がない。精々が形代、ただの盾程度だろう」

 推理を正しいと認め、奥歯を噛みしめる音が聞こえた。先ほどの急急如意令という命令、呪文の締めくくりを数人で唱えていた――――照準こそ自分達に支配権があるが、起動は他人、締め括りの命令すら彼はひとりでは出来ていない。

 当然だ、彼らは陰陽方ではないからだ。

「お前は陰陽方の眼でしかない。――――さっきの術を放った術者も陰陽方じゃない。前に家に来た本物の土御門は、全てをひとりで終わらせていた。逃げる選択も早かった」

 当初の目的として、この俺を始末しに来たのなら奪魂とやらの準備などとうに済ませておかねばならない。けれど、彼らが使ったのは空間内を飽和させる符の起爆。

 式を意のままに扱えるのなら、誰もが思い描く丑寅の人外すら呼び出せた筈だ。

 今の彼らは、幻想に寄り添えない現代の素人に過ぎない。だから、ただの人間で理解出来る『自然現象』にだけ頼っている。自分達が理解出来ない、見た事もない世界への反抗を知らずに生きてきたのだから。

「だから――――」

 二度目の起爆が毛髪と残っていたスーツを包み込んだ。深紅の爆撃が身体のあらゆる箇所を抉り、奪い去っていく。自分の肉片だった、殻だった皮が弾ける感覚に身体が軽くなっていくのを感じる。けれど、これはさきほどとは違う。

 あの家から逃げる時と変わらない――――人間の期待や呪いを捨て去った時、身体と心ばかり軋ませる重い鎖と、繋がれていた墓から脱した夜と同じだった。

「陰陽方でなくても、これだけの人員と符、形代があれば陰陽術の行使程度造作もないんだよ。形代は生贄としての役割もある――――ヒトガタなんてただの消耗品だ」

 無防備だった。未だ火が身を包んでいるこの神獣の姿を見据えもせずに、強固な靴底で焼け残った絨毯を踏みつけてくる。だから彼らは敗北した。だから彼らは、負け続けている。

「喉が焼けて肺まで尽きたかい?もう息をしないで、諦めて死ぬ事を勧めよう‥‥」

 留めのつもりなのだろう。既に変換が完了した頭蓋に銃口を突き付けている。

「最後だ。君の婚約者は、後で回収する。ここにも病院があるんだ、避妊ぐらい出来るだろう?」

「―――お前も俺のロタに触れる気か?」

 銃を掴み上げた時、無意味に引き鉄を引いた検非違使の人間が、銃を捨てて大きく後ろへ飛んだ。そして自分の安全が確保された後、やはり悠長にこう謳う。「「「急急如律令」と。その意味はこの公文書は、何よりも素早く実行しなくてならない。しからばこれは勅令である。勅令通り、何処か遠方より此方を見つめる鬼神は三度火を放つ。

「―――何故、立っていられる‥‥」

 先程までの余裕など既に握れずにいる。

「おかしいだろう‥‥この力は、人類が」

「所詮、人だ」

 中身である筋肉、骨、筋、外骨格である皮膚、鱗、角が完成した暁、人間の身体から膨張、到底抑える事など不可能な神獣の身体がようやく立ち上がる。火の中から生まれ出るのは不死鳥で非ず。火を渡るのは神々で非ず。火という人間の知恵を見下すは、この神獣。

 双方の人間達には何が見えている事だろうか。火によって天井も壁も溶け落ち、床板は今も煌々と燃えている中、火に抱かれながらその身を赤熱と化した神獣を何と見ているだろうか。悪魔か?神か?それとも化け物か?―――きっとどれにも当てはまらず、どれにも当てはまる。創生の彼岸にて生まれた自分は、始原の生命体であり、あらゆる人間から望まれた生贄。

「覚悟しろ。自分達が生み出したこの神獣の怒りを求めた人間。望む通りに振る舞ってやろう」

 今の自分は二足か四足か。足が地に付いているだろうか。しかし眼球はしかとある。

 背後の貴族達へ、振り向き様に羽ばたいた翼でその身を竦ませ、自分達が侮っていた人間の振りをした人外を視界に収めさせる。見下ろしていた筈の自分達は、今や見上げる姿勢を取っている。鎌首を上げた水晶の獣に、人の術など効かないと直感で気付いたのだろう。

 それどころかこの身から感じる神域の力に、呼吸すら忘れ腰を下ろしていく。

「ひ、ひとじゃない‥‥」

 全身を神域の水晶に変換させた自分に、人の形跡など見出せない。臓物も背骨も脳髄も、今の自分には備わっているのだろうか。終わりを見せず水平線の彼方まで続く七色を放つ身体は創生の彼岸と繋がった扉でもある。ただの人間では地獄の門との違いも測れず、ただ首を垂れるだけとなった。

「コロシテ、ホシイカ?」

 人に理解出来るよう、空気を震わせるという手間をかけて発した伝達を人間は耳にした途端に逃げ出し始めた。矮小な人の技術そのものである拳銃とゴーレムを投げ出し、背中を見せて逃げ去る人間の―――望みが確かに伝わった。

「去りたいのか。なら叶えよう」

 人体であれば容易に貫き、砕く顎を開け放つ。神獣の息吹をここに顕現する。

 何者も逃れられず、何者も抗えない裁きの極光。対象選定―――眼前の全ての生命。罪を知らず、理を知らぬ獣には酌量の余地など非ず―――神域との接続開始、創生樹、創生の彼岸より海を呼び出す。足元から溢れ出る水晶と水晶の光を放つ海に、廊下と足を固定され振り向く自由すら奪われる―――己が証明固定完了、仮想を超え、存在条件完遂。

 今、此処に存在するは神の使い。此処に神域を証明しよう。

「―――裁定の時だ」

 蒼き燐光を上げて、廊下の壁へと貫き薙ぎ払われた息吹は―――神穿つどころか星穿てずにも届かないただの浄化だった。人の罪、いや、彼らの罪などこの程度だという事だった。

 背中を血に染め上げてこそいるが、直後に熱で焼かれ出血が止まっていく。生涯癒されぬ真一文字の傷に引き裂かれたとはいえ、這いつくばって虫の息を晒すに留まった。

「小さい生命の罪は、この程度か―――ロタに感謝しろ」

 ロタを連れ去った罰として、この上なく寛容に振り下ろした息吹となってしまった。怒りこそ今だ沸き上がっているが、所詮は操られた人間。しかも、不相応に抱いた怒りの矛先をこの神獣に向けた点で、誇りを忘れなかったと手心を加えてしまったのだろう。

「そのまま家に帰る事だな。敗北した貴族に、価値などない」

 この言葉さえ常人には理解出来ない交信や音波、信号の類。同じ位に位置してなければ知覚出来ない地震にも等しい震わせだった。―――そして、背後から吹き荒れる新たな轟音に視線を向ける。

「―――何者なんだ‥‥」

 視線を向けられただけで、足をつけている世界が歪む感覚に陥っている。頭が揺れ、直立出来ず倒れ伏していく人間が続出する。けれど意識だけは手放せない理由は明白だった。

 猛獣の檻に入れられた餌が、自分を見失う事があるだろうか。恐怖で発狂し、声を失うことはあっても自分の生命を守るため、呼吸だけは続けてしまうからだ。

「奪魂‥‥奪魂符を!!」

 照準を定める人間の一人が脆く叫んだ時、思い出したようにドーマン符が浮き上がり壁の如く羅列していくが―――自分でも意図しないただの呼吸だけで、散らされ燃え上がっていく。その光景に壁や人の背に隠れていた者達から声を上げて倒れていく。

「―――お前がロタを奪えと言ったのか?」

 この言葉が耳に届いたとしても、正確にはかる事など出来やしない。けれどけれど、自らの生命が危機に瀕している事ぐらい、どれだけ卑怯で矮小、愚かな下等生命体でも理解はできる。次に熱線を撃たれるのは自分だ。次に焼かれ倒れ伏すのはこの自分だと。

「―――撤退、撤退だッ!!」

 その声に反応出来た者から形代、紙人形を呼び出して足留めに置く。直後に誇りも外聞も何もかもを置き去って逃げ出していく。背中を見せて逃げる事のなんと健気な事か。

 自分以上の格を持つ者達から逃げる様は、爪や牙を持たない、その上思考すら捨て去った生物の真なる姿。理性も本能さえ捨て去った獣の末路は、総じて他の贄である。

「俺と同じだ。俺も考える事をやめたから生贄にされた―――だけど、それで許す理由にはならない。‥‥俺からロタを奪ったなッ!!俺のロタを狙った!!ロタを傷つけようとした!!コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスッ!!」

 もはや何足かも想像出来ない。翼をはためかせ、紙人形を熱風で焼いていく様など見るつもりもない。ただ触れれば灰となる雑草など気に止められない。今はただ―――首を捻じ切り、腹を噛み砕き、爪で貫き、翼で切断し、眼球を踏み潰し、息吹で焼き焦す。

 楽には殺せない。楽には死なせない。楽に終わりを告げない。吹き鳴らすは人間の悲鳴、絶叫、叫喚、怒号―――それら全てを我が咆哮で平伏させる。

「俺からロタを奪った罰だ。ロタは誰にも渡さない、ロタの声も身体も魂も―――この神獣の者だ!!ロタの料理も手もベットも、全て俺以外に触れさせない!!」

 白の衣を揺らし、逃げ続ける愚か者を追い立てるように迫る。諦めさせる訳にはいかない、最後の瞬間まで自分だけは生き残れると希望を抱かせる。そして、その時が訪れた瞬間―――何もかもを忘れさせてただの肉塊と笑う。己が運命は己が行いで招いたのだと絶望させる。さすればこの牙も満足しよう。息吹を下すに相応しいと微笑み掛けよう。

「止められるのなら止めてみろ!!この神獣に、この竜に触れた事を忘れるな!!」




 幾人目かの人間を踏みつけて、壁にめり込ませた時—――あまりの開放感に再度咆哮を放ってしまう。人間という下位生命体に別れを告げた自分だから、この光景を受け入れているのか、それとも自分とは元々こうであったのか。

 自身の腕と角にひれ伏すしかない蟻の如き肉塊達は、揃いも揃って無力だった。

 あれだけ我が矛と高らかに放ってきたドーマン符は、既に途切れたようで足止めすらしてこない。何処まで続く終わりのない狩りは、もはやいつ足が遅い奴を蹴落とすかの瞬間を狙う遊戯と化していた。

「ま、待ってくれ!!」

 指揮官らしかった少年が、自分よりも僅かに年上の青年を蹴りつけて回避フレアとした時、誰もが息を呑んだ――――ついに始まったのだと。集団を崩壊させるになら個を贄とする。人間であれ獣であれ、ついて来れなくなった個人を斬り捨てるのは、自然な光景。同時に倒れた青年の下半身を踏みつけて顔を青白く染めるのも、当然の風景だった。

「どうして!?」

「僕達は討魔局なんだ!!ここで全滅する訳にはいかない!!」

 年若い雌が何も知らない口で嘆いた瞬間、断罪する言葉が響いた。

「わかるか!?ここで僕達が敗北したら、彼らを止める者達がいなくなる。跡を引継ぐ者達もいないんだ――――それとも君ならアレを止められるのか!?」

 これ以上は体力の無駄とばかりに閉ざし、それ以上の呼びかけには反応しなくなる。それで納得してしまう雌も愚かだったが、それ以上の追求を恐れて押し黙る雄も愚かだった――――何故、自分はその秤の中に含まれていないのか?何故、この程度の矛盾にも気が付かないのか。敗北した指揮官の使命を全うしない愚者には相応しいのかもしれない。

「聞こえるか!!僕達を殺したなら、この街もオーダーも君の敵となる!!」

 やはり何故、こうも愚かなのかと嘆いてしまう。

 何故、今更そんなわかりきった事実を投げかけてくるのか。

 自分に一度でも人間が味方であった事などあると思っているのだろうか。

 張本人たる自らが人間だというのに――――自分の姿が見えないのか。

「ああああ—―――ッ!!!」

 足元の人間を咥え上げ、今も背を向けている人間に投げつける。人体の重量をおおよそ重力が無視したかのような扱いに、宙を舞っている人間は意識を失う。

 それが幸いした――――発端の少年が、最後に自分の為に隠し持っていた人型の形代を使って、人間の砲弾を防ぐ。紙を握り潰し拳の形を模した形代は、人間を防ぎ壁へとめり込ませる。

 くの字に折り曲げられた人間には、一切視線すら向けずに逃走を続ける。

「まだ逃げるか!!まだ抗うか!!」

 既に天井を自分の背で越し、いつかのマーナのように巨大な門となった顎を展開し、這いずるように追い続ける。けれど―――自分は、何故こんなにも怒り狂っているのか、何故ああも愚かな人間の背を追うなどという愚行を続けているのか。

「‥‥ロタ」

 神獣の口でその名と告げてしまった。自分の耳、頭蓋、心臓、背骨。その短い言葉が震わせた瞬間、強大な力を握り絞めていた手足と、獲物を求めて開いていた顎を閉ざしてしまう。そして、つい振り返ってしまった。

 狭い部屋に押し込められ、昏倒しているかもしれないロタの姿が脳裏に映った。

 彼女はヴァルキュリア。人間など比べ物にもならない高次元の存在であり、並み居る人外の中でも際立った美しさと力を持った天使でもある。だけど、

「ロタ、ロタを探しに行かないと」

 今も逃げ続けている人間など放置する。あのような雑多な人間など後からでも仕留められる。いずれまた狙いに来るとわかりきっている。自分の中で生まれる数え切れない理由を全て拾い集め――――振り返ってロタを求める。

「ロタ、俺のロタ―――探しに行かないと」

 身体を覆う水晶を落とし、軽くなった身体で駆けた。何処にいるかなどわからない、ここは自然カレッジである以上、隠し部屋のひとつかふたつはあるだろう。

 穴だらけになりながらも自己修復機能を持った絨毯と壁や天井が、時間を巻き戻すように整っている間を走って元いた場所、あの貴族達が走り去ろうとした方向へ向かう。わからずとも、さもなくば今も倒れているであろう彼らから聞き出せればいい。

「そうだ、スマホ」

 ロタが数度使っているのを思い出し、上着から取り出すと同時にロタへと呼び掛ける。数度のコールが鳴り響く中、何をするでもなくただ立ち尽くしてしまう。

「‥‥ダメだ、動かないと」

 補強していた水晶が消えた事で、足取りが急激に重くなる。杖がないのを思い出し水晶の杖を造り出すが、普段自分が使っている物の質量を思い出せない。ロタが傍らにいないという現実に、頭が混乱してしまっていた。

「どこだ―――」

 杖をこの場に呼び出そうにも、仕掛けられた術式に交信が出来ない。そんな状況にまた混乱してしまい、何度も続けるが体力と時間ばかり浪費していく。

「なんでだ、なんでいつもひとりなんだ。—――ロタだってひとりなのに‥‥」

 砕けそうな骨に頼って数歩前へ進むが、膝から倒れる。這いずる無様を見せつけながらもロタを求める自分と、神獣を求める人間の何が違うだろうか。あんな人間など無視してロタを求めればよかった。息吹にも届かない熱線をロタを求める為だけに使えば、今頃ロタと逢瀬を重ねられていた筈だ。

「嫌だ‥‥ロタ、ロタがいないと」

 立ち上がろうにも限界だった。声を出す気道も動かせない。今出来るのは人間の身体を繋ぎ止めるだけの生命維持運動のみ。鼓動すら自分の意思通りにならない。

「—――ああ、思い出した。また、俺は死ぬのか‥‥」

 この光景には見覚えがあった。過去に二度経験してきた。疲れ切った身体に失われた食事、それらを癒してくれたのはカタリだった。全てを失ったと絶望した自分を天へと連れ出してくれたのはカタリだった。

 生命の木に宿られ、一切を奪われた時にも感じた。身体の中身を吸い尽くされ、干からびた自分は星の結晶の風見鶏に――――奔流を捉える帆とされた。

「‥‥もう生きて行けない。もう嫌だ‥‥」

 寝返りを打つ体力すらなくなった。このままでは眠ってしまう―――まだロタを救い出せていないのに。だけど、人を模倣した端末は限界だった。骨は砕け、腱は千切れ、まぶたも開けられない。顔は絨毯の繊維すら感じない。

「何を期待してたんだろう―――」

「何か期待していたのですか?」

 幻聴のように、天啓のように降り注ぐ声に終わりを見つめる。

「前にも言いました。あなたはこの世界に、人間に期待を持つ過ぎている。可哀想なリヒト、あなたはまだ幻想を求めているのですね、何度傷つけられれば終わるの?」

 その言葉は身を包むようだった。

 羽衣で抱かれる身体が軽く、光溢れる場へ連れ去ってくれるかのようだ。

「前にも伝えました。私達に味方などいません、いたとしても私達を利用しようとする俗物のみ。あなたは人間にとって都合のいい材料。味方を振りをするのは人間の常套手段—――私は、既に乗り越えています」

「‥‥ごめんな、情けなくて。かっこ悪くて」

「はい、とてもとても格好悪くて私が選んだ神獣なのかと情けなくなります。だけど―――リヒトのような人外を選んだのはこのロタ、あなたを美しいと選ばれるべきと見定めたのは、このロタです。リヒト、あなたの答えを聞きましょう。まだ人間達に与したいのですか?」

 柔らかな月色の衣で抱いた頭に、囁くように呟くロタは何処までも冷徹だった。見定める使命を心としているロタに選ばれるとは、こうまで恐ろしいのかと、自分の今までの感性、見地、心情の全てを掘り返され、見つめられている。

「私はあなたの乙女。あなたを正道に導くのも私の役目—―――さぁ、あなたを答えを教えて。あなたには何があるというの?このロタが選ぶに相応しい理由はある?」

「—――人間に与する‥‥?」

 死の先に達したようだった。

 戦乙女に選ばれるのは死した戦士のみ。そして怒り狂う魂を鎮めるのも彼女らの役割であった。自分は戦士ではない、そして今は怒り狂ってなどいない―――ロタは全て違った。戦士ではな自分を選び、その怒りは正しい物だと肯定する。

「そんな事、今まで一度も考えてない。俺は―――ただ生きて、」

 手を床に付けて、水晶の柱を造る。それを支えに我が死の天使を抱き寄せて立ち上がる。なんて苦しい、なんて激痛、身体が裂けるとも形容出来ない裁定が下される。

 —――こんな痛みを対価にロタを抱き締めるなんて――――この世界は、何処まで行っても――――詰めが甘い。なんてつまらない世界なんだ。

「生きて、愛を学びたかった」

「ふふ、では誰と一緒に学びたかったの?」

「カタリと、」

 その瞬間、完全なる拳が胸を叩いた。

「ふ、ふふふふふ‥‥確かに、カタリの方が長くいたのですから、仕方ないかもしれません。ふふふふ、そうですか、リヒトはロタとではなくカタリと学びたかったの」

「だけど、ロタのお蔭でわかった―――愛する人間以外を理解する必要はない」

 叩かれた胸を押し付けて、ロタのローブを潰す。

「相互理解など不要。都合がいい時だけ構ってやればいい。だから、」

 水晶をお互い身体に絡み付かせて、離れる隙さえ無くす。自分の身体を這いずり回る水晶の腕に顔を赤く染め、甘い声を上げるロタを再度抱き締める。もう腕も足も動く、ロタの帯が身体を引き締めて上へ上へと手を引いてくれる。

 ようやくロタに導かれる獣へと成れた。失う筈だった魂は戦乙女に抱かれ、館へと召し上げられる。終わりを先延ばしにした神獣に、ロタは新たな天地を見せてくれる―――何も恐れる事などない。自分の敵など、既に見据えているのだから。

「戦乙女、どうかこの獣を導いてくれ。この神獣は、既に帰り道を失った。魂の行く末など、もはや我が手を離れている。どうか我が先導者、導きの光となって―――新たな戦場へと連れ去ってくれ」

「誓いましょう。我が恋人よ、あなたが目を失い、手足もないのなら私が光となり翼にも橋ともなり、あなたを導きましょう。けれど、既に私も自分の館へと道などとうの昔に失っています――――だから、どうかこのロタを暖めて。極寒の戦場を生きられるほど、この戦乙女は自分を律しられない」

「—――誓おう、必ずロタの隣に居続ける。ロタが望むのなら、ロタが求めるなら全てを撃ち落とし、須らくを灰塵とする。どうか、もうひとりにしないで」

 僅かばかりの覚悟すら不要だった。既にこの身は人を恐れさせる形を持ち合わせている。視界に入っただけで、その名をつぶやいただけで魂は潰れ、身体は力を失う――――人間とは次元の違う神獣と向かい合えるのは、人外の恋人のみ。

 神獣の腕に座った戦乙女は、確かな答えを神獣にのみ伝わる言葉で知らせ、口付けを施してくれた―――分け与えていた神獣の血を、ロタは己が身体で増幅し返してくれた。燃え上がるように、煙るように熱せられる身体を自分の内側に留める。

「暖かい獣。誰よりも恐ろしいのに、私には誰よりも優しくて、誰よりも求めてくれるなんて。あなたを選んで正解でした、これ程の逸材、絶対に二度と見出せない」

「‥‥褒めてくれるか、少しだけ大人になれた?」

「全然、足りません。まだまだあなたは男の子。私の手に収まる小さくて可愛くて、初心でわがままな男の子—―――だから、まだ私に導かせて」

「必ず、ロタ好みの大人になってみせるから」

 ただの怒りではない。美しい水晶の海の調べが頭に響いた。それはあの方からの贈り物であり、自分が求めた正しき息吹の在り方。怒りも得た、理も得た、そして自分が欲した息吹の形が己が内に実った。迷う必要などない、この身はひとりを恐れていただけに過ぎない。ならば、傍らに恋人がいる今、何が足りない事があろうか。

「行こう、ロタと一緒なら何も怖くない。怖がらないで息吹を放てる」

「はい、リヒトの邪魔をする者など息吹で焼き尽くしてしまえばいい――――そして、どうかあなたの息吹をこのロタにも施して。リヒトの力は、私の物なのだから」

 最後の瞬間まで、人間の顔を模っていた身体に口付けをしてくれたロタが、「あなたは私のリヒト、だから最後までそう振る舞って」と告げてくれた。





「そろそろね。リヒト君の様子を見に行かなくてもいいの?」

「いると思うか?今頃、ロタと情事に耽っているよ。今行こうものなら、私も君も巻き込まれる。くくく、楽に手籠めに出来ると思わない事だ。彼の夜の体力を知らないだろう?なかなか、満足させてくれるぞ?」

 言葉の途中まで聞き終えた所で、腰を浮かせようとした瞬間、異端学教授の続け様の言葉に、淫靡な表情をさせる。けれど、それも一秒にも満たないで元に戻る。

 教育者然としていながらも、やはり彼らは人外、人間から大きく離れた者達だった。しかも白紙部門の師団長に至っては、そういった神々とも契っているのだから、引きずられてもおかしくないのかもしれない。

「彼女のこれは、元からさ。年下の恋人を何度か作ったが、彼女の夜について来れない者達は―――」

 それ以上は許さないと言わんばかりに、跳び掛かって口を手で塞いだ彼女は、年相応よりも幼く見えた。そして「私は、数えるほどしか経験していないもん!!」とやはり子供の言葉を使った。数えるほどしか話して来なかったが、こんなに親しみやすい人だとは思わなかった。

「リヒトについては心配いらない。もしもの時は、カタリ君達が乗り込んでくれる手筈となっている。—――心配するのなら、ロタを連れ去った彼らの方だ。もし誘われたのならロタは殺すだろうし、よしんば叶ったとしても我らの艶事に耐えられる人間などいない」

「え、」

「私達は人間ではないんだ。酒と戦と夜に酔うのは我らの日常さ、身持ちの固いロタでもそれは変わらない。そうでなければあれだけリヒトを満足させられないだろう」

 自分の顔が赤くなっていくのがわかる。そして同時に彼女らの存在は、やはり自分達とは大きく違うのだと悟ってしまった。見た目も言葉も似通ってこそいるが、その中身は戦乙女、神々に限りなく近しいのだと。

「忘れていないか?私達は、死した戦士の前にだけ訪れていた。我らとの同化を求めるなど、死を自らの内側に招くと変わらない。毒をあおる方がまだ絵になるさ」

「それ以上は許しません!!」

 と白い布で口をようやく閉ざされた教授は、僅かに微笑んで今も続いているお披露目会を眺め始める。「ごめんね」と申し訳なさそうだが、その内容には相応しくない甘い顔付きで謝罪をしてくる。もはや慣れた、だけではないのは明白だった。

「‥‥リヒトさんとカタリさんは、恋仲なのですよね?」

「え、うん‥‥そうだと思うよ」

「なのに、この方とあなたとも?」

「私は違うよ!!」

「夢に出て夢精を貪った君が言うのか?」

「ちょ、ちょっとだけだから!!」

 顔付きと性格で、まだまだ一線を越していないとばかり思っていたが、彼は想像以上に経験豊富だったようだ。それどころか年上好きの胸狂いでもあったようだ。

「‥‥胸が、お好きなのね」

 そう呟いた時、この中でもっとも豊満で包容力を持った戦乙女はもう一度笑う。彼の性的趣向に知っていた師団長は、「うん、沢山甘えてきたからね」と肯定する。ドレス姿をあれだけ褒めてくれたのは、そういった理由があったからなのだと理解する。

「彼の話は、ここまででいいだろう。それで君への通信を今も無視し続けているが、そろそろ取る気にはならないか?」

 視線で示された揺れ動く木札を拾い上げ――――力を借りた腕力で握り潰す。

「いいのね?」

「‥‥彼をあれだけ傷つけた彼らに、手を貸すつもりはありません。それに―――愛想も尽きてしまいました。私をこの街に誘った事には感謝しています、だけどあの冷ややかなせせら笑いは、許せません。—――今更同胞意識を持たれたって」

「うん、わかった」

 それ以上を言わせないでくれた。白い豪奢なローブで抱きしめてくれた白紙部門の契約者は、やはり悪魔と契ったているとは思えない包容力と優しさを持っている。

「何故、あなたがあちら側から離れたのか、わかった気がします」

「そっか、わかっちゃたのね。—――できれば最後まで知らずにいて欲しかった」

「ごめんなさい」

 口では謝っているが、私の中の深淵は既にその解に導かれていた。

 あの退魔局には、もはや未来がない。千年の時の中で、この国を守護してきたと勇ましく誇っていた彼らは、勇姿の影も形もない。被害者を気取る卑怯者だった。

「この街で沢山のお友達が出来ました。好きなだけ勉強、学生としての楽しみも過ごせています。夜に友達で集まって遊んで料理もして――――ちょっとだけ恋もして」

「怒ってない?私が、向こうとの縁を完全に絶ってしまった事」

「‥‥最初は、そう思っていたかもしれません、だけど―――あなたは正しかった」

 赤みがかった髪の毛に顔を埋めながら、遠い家での追想を始める。

 陰陽方から魔に連なる者へと、オーダーへと鞍替えをした我が家は大きく発展、貢献した。結果、国内の貴族や国外の貴族に結社、魔に連なる者の世界に関する方々から親しまれ、受け入れられた―――けれど退魔局、討魔局からは強く嫌悪された。

 裏切り者だと、幼い私に投げつけた彼らが今は助けを求めている。

「ごめんなさい、私が家をオーダーに連れて行ったから。なのにこうして家から離れて―――あなたがこれまで向けられた言葉は、全て私が引き受けないといけないのに」

「いいえ、あなたがあの場に居ようと、彼らは私を名指ししたでしょう―――結果的にここに逃げ込まないといけなかった」

 苦しいと背中を叩くと「あ、ごめんなさい」とまた謝ってくる。大量の悪魔や神々と契約しているとは、到底思えない人間らしい反応につい笑ってしまう。

「私、彼らとの縁を切る事になんら厭うものなどありません。だってそもそもは彼らがそう促したのですから。—―――彼らがどれだけリヒト君の怒りに触れたのか、私は見定めなければなりません。あれだけ彼を狩れると息巻いていた実力を見させて」

 その時だった。海がこの場に誕生したのかと錯覚してしまう程の大きな水のうねりの音を。けれど、何処までも済んだ調べが響き渡る。同時に―――誰もが震えあがる憤怒がこの会場全体を包み込む。これが咆哮だと、気が付いたのは彼を知っていたからだ。

「困った事になった。ロタとむつみ合っているのだとばかり思っていたが、その実これは祈りの類だったなんて――――ふふふふ、これはどう題名を打つべきかな?」

 会場全体の身動きが取れない圧倒的な威圧感と、響き渡る声—――その持ち主の姿を想像した事で誰もが声を漏らせずにいる中、静寂を打ち破るように一階の大扉が開かれる。逃げ込んできたのは白の衣を赤く染めた討魔局の人間達。

 その姿でわかった。あの血は自らの物だけではないと、そして―――決して触れてはいけない神獣の怒りに触れた、愚か者達がこの場の助けを求めにきたのだと。

「我らは総じて背徳者でなければならない。当然だ、そうでなければこの世界に牙を剥く事など出来ないからだ。そうでなければ魔に連なる者などという裏切り者になった価値がないからだ。彼らはそれを冒涜と冷笑するが、」

 怒りの矛先は大扉からではなかった。

 巨大な赤のカーテンに覆われた劇場の最奥からだった―――現れたのは巨大な槍を握り、美しい水晶の翼をその身に宿した戦乙女。

 照明を反射するローブに包まれた美麗という語彙すら足りぬ姿に、誰もが言葉を失った―――もはや冒涜的だと言わずにはいられない。

 美の窮極に位置する天上の輝きに、今もその身を包む憤怒さえ忘れ去り、助けを求めて飛び込んできた彼らさえ言葉を失う。目が焼かれてしまったのだ。

 時間さえ忘れかけた頃、ヴェールを取り払った彼女の微笑みに誰もが膝を折る。

 立ち上がっていの一番に逃げ出そうとしていた学生や貴族達すら、魂を抜き取られた。人間では到底辿り着けない、神々が世界を創造するのと変わらぬ時間を掛け彫り上げた容貌に、触れた瞬間あまりの次元の違いに手が燃え上がると確信してしまう四肢をローブ越しだとしても見せつける彼女は、やはり人ではなかった。

 人ではないのだから、人以上の美を持ってしまうのは当然だったのだろう。

 一見すれば槍と翼という、この場にいる者達なら誰もが思い描く姿だった。けれど、その本物など見る事能わらない彼らからすれば、この姿は分不相応だと評してしまう。—――自分も囚われていたとそこで気付いた。

 あの姿を持つ彼女という天使に看取られ、見初められ、連れ去られたい。

 自分の物にしてしまいたいと、誰もが思い描く。けれど、それを欲した対価は何よりも重く、鋭く、恐ろしかったのだと次いで現れた姿に絶望する。

「—――神獣」

 誰が呟いたのか、それとも誰もが呟いたのか。

 水晶の身体を持つ竜が現れる。その身の全てを結晶で覆い、その身の全てを覆う巨大な翼を持つ神獣の眼に、誰もが跪く。同じ地平に立てない。同じ世界を見れる訳がない。どうすればあそこまでの高みに立てるのか、何故あそこまで美しいのかと。

 触れてしまえば、その刹那で砕け散り、一瞬の輝きと終わりそうな脆い竜体を持っているというのに、カーテンがその身に触れた瞬間、燃え尽き、灰と化していく。

「創生の彼岸の神の使い―――同じ種族など存在しない、唯一の竜」

「同時に、創生の彼岸の神を喰らった神喰らい達だ。恐れたまえよ、私達はあの彼を使い潰そうとしていたのだから。‥‥世界に狂わされたと嘆いた所で彼の憤怒は治まるまい」

 見上げるほどに高い劇場の三階たるこの席と、ほぼ同じ高さとなっている神獣を見定めながらも、いまだ余裕を崩さない彼女らは―――もはや人外なのだからという理由は使えなかった。何故、これほどに余裕でいられるのか、自分には受け入れられなかった。

「‥‥なんで、怖くないんですか」

「怖いさ。とてもとても怖い。我らが主神や神族、巨人達が立ち向かったところで、星を滅ぼす災厄たる彼には到底及ぶない。最後の戦の果てに向かえる、多くの生命で作り上げる滅びを、彼はひとりで体現しているのだから」

「私も怖いよ。そして自分の愚かしさと彼の優しさに、立てないぐらい震えてしまっている。私は、一度あの彼を本気で怒らせた。彼は自分の全てを私に差し向けた―――慣れるなんてあり得ない。今も、こんなにも恐ろしいのに」

 背中で私を守るように立ち上がった二人が、リヒト君に合図をする。二本の指で造り出したルーンの文字を使い、光を呼び出す。明滅する光に視線を向けた神獣に、背骨が凍り付き、皮膚が焼けただれ、脳の血が全て凍てついた時—――彼女らが微笑んだ。

「ふふ、相変わらず可愛い子だ」

 その言葉の意味がわからないでいると、カサネさんに腕を引かれ、立ち上がってしまった。視界の全てを覆い尽くす長い首を持つ竜の頭に、二本の角、終わりなき空洞を感じる水晶の眼に息を忘れた――――そして、その言葉の意味がわかった。

「あ、甘えてる‥‥」

「わかった?リヒト君は、隙あらば先生先生って甘えてくるんだよ」

「聞いたぞ、彼と食事に約束をしたと。叶えてやってくれ」

 一歩前に出て、手すりから身を乗り出した時、鼻先を向けて答えてくれる。それどころか危ないから下がってくれ、と言いたげな表情と目元を感じ取り笑ってしまった。

「終わったら、一緒に食事に行きませんか?」

 その言葉に、彼は微笑んでくれた。そして肩にロタさんを乗せた彼ら歩み始める。眼下に広がる人間の中に紛れ込もうと、蟻の隊列に割り込もうとする別の蟻を見詰めた彼は、顎を大きく開く。地獄の門と銘打っていたその姿は、地獄とは似ても似つかない。彼は、古き世界を破壊する竜だった。神を喰らい、世界と成り得る苗木を喰らった彼は――――敗北者が去り際に残した予言を燃やし尽くす災厄の権化だった。




「見えますか?」

 盃と槍を手にしたロタの示す方向、有象無象の中に紛れ込もうとしている白い衣の数人を見つける。廊下で追走していた時とはまるで違う、神域の獣となった自分を見上げ、己の命運を悟るべきだった彼らは――――尚も逃げ出そうとしていた。

「殺してはいけません。私のリヒトは、自分の使命を忘れないのだから」

「—――だけど、ロタ」

「ここで見逃せば、ここで確実に息の根を止めなければ私達の害となる。それがどうかした?彼ら人間は常に私達の外敵であり、私達を狩りにくる別種族。彼らを殺した所で、何か変わる?」

 鎌首を曲げ、ロタの手を求める。まぶたを撫でて声を掛けてくれるロタに、この身を貫く激情を癒して貰い、僅かばかりの理性を取り戻す。改めて彼らの姿を視認しようとした時—―――見慣れてしまった青白い光の九字通りを見つける。

「あれが陰陽術—――約束を守りましたか?」

「‥‥わからない。あの力は、あの人間達に主導権こそあるようだけど、力は別の遠方から供給されている。この身体の状態で受けてはいないけど、確証はない」

「それならそれで構いません。彼方の人間は死したのなら、私達の知る所ではありませんから」

 深紅の爆炎が形を持って発射される。

 赤熱化した自分とは比べ物にならない、ただただ物理的な力であるが殺傷能力としては群を抜いていると目算出来た。無論、また焼かれるつもりもない為――――口を開こうとした時だった。

「落ち着いて」

 心に直接呼びかける、温かな声に牙を閉じる。同時に、高く掲げた盃が輝いたのが見えた。あれは魔人の館にて回収した、ギリシャ神話最高峰の主神の従者、そしてその従者が主神に捧げる筈だった盃。青い体躯を持つ盃が、水晶よりも強く輝き深紅の爆撃を迎え入れるように光の帯で包み込んでいく。

「良い熱ですね。火酒には十分」

 ロタの手に収まる程度だった盃に、ロタの全身を呑み込む程巨大だった火が飲み込まれる。与える筈だった損傷も火傷も、時を拒絶したように消え去ってしまう。

 その光景に、どよめきが響く。やはりこの場にいるのは魔に連なる者の中でも輪にかけて探究、探索を続けている魔導士達。既にその性格は自身の研究テーマに染め上げられ、生命としての本能である自己保存の原則など渇き切っている。

 この状況に不理解不可解だと顔をする彼らは、やはりこの街は相応しくなかった。

「けれど、それをするには私はまだ完成していません――――お返しします」

 中身を溢すように、放り投げるように器を傾けたロタが僅かにある言葉を告げる。圧縮された言葉の意味、それとも彼女達でなければ理解出来ない、脳に染み渡らない空気の震わせが響いた時—―――氷の奔流、雹の竜巻が発射される。

 人体をそのまま圧し潰しかねない質量の塊が、数十数百と嵐に巻き上げられて迫り行く。竜巻という到底限定的に発生する事が能わらない力の奔流を、ロタは的確に操り衣を血に染めている討魔局の人間だけを呑み込んでいく。

「ふふ、動かないように。あっさり死んでしまいますよ」

 氷の檻どころか氷の銃弾が飛び交う聖域を造り上げたロタは、ある程度、完全に反抗の意識が消え失せたのがわかった時、切り上げて盃を元に戻す。学生と貴族、教授陣の動きは素早かった。自身の行使出来る最速の術式、ゴーレムを使って瞬間的に自分の位置を測定し直していた――――中には縮地の使い切りを使用している者すら。

「さぁ、次はリヒトが」

 続け様に発射される劫火を、視線だけで呼び出した水晶の柱で防ぐ。弾き砕ける劫火は舞台のカーテンや座席を焼き始めるが、ここは自然カレッジ、座席下から生まれ出た樹々が火を呑み込むように締め上げ、水を携えた器を造り出していく。

「ん?あれは‥‥」

 ロタが指差した方向、ボックスシートのひとつに――――先ほどから見当たらないと思っていた少年が佇んでいた。丁度いい、そう口を衝きそうな言葉と共に息吹をご覧に頂こう、そしてご退場頂こうとしたのに、ロタが槍で軽く叩いてくる。

「怒りますよ」

「‥‥しばらく観察しよう」

「はい」

 このやり取りすら理解出来ていない彼らは隙が生まれたと思ったのか、見飽きてしまったドーマン符の通りを―――ボックスシートを覆う程に展開していく。雷撃と見紛う規模となった青い光に、僅かな蒐集心が刺激されるが、それより先の好奇心が優先されてしまう。

「君がどれだけ身体を覆った所で、本物の人外には敵わないだろう!!」

 そして彼らは口を開いた「急急如律令」と。

 本来そう何度も唱えられない。過去に我が家に襲撃を仕掛けてきた土御門は一度しか唱えなかった再定義に頭を振りそうになる。

 命令はひとつだけでいい、何故ならこちらの力を見据え、それを越える力と策略を最初から用意しておけばいいからだ。何度も別の命令を行使するなど、現場の兵士からすれば指揮官は錯乱したと確信してだろう。

「どうしてああも、他人の力に頼り切れるのでしょう?」

「自分には何もないってわかってるから。自分が寄り添っている力を越える力を目にしたら、否定しないと狂ってしまうんだ。だから自分達以外を否定して、自分達とそれ以外を造り出す――――自分を見詰められない人間特有の視点だよ」

 雷撃ではないと見据えていたが、その実、雷撃であるのは間違いなかったようだ。現れたのは屏風や掛け軸、襖に多く絵が描かれた妖怪、もののけの一種であった。

 牛頭鬼。牛の頭に人の腕、下半身に至っては人間と牛を合わせたような鬼の姿だった。けれども、それでしかない。到底天王とは銘を打てない巨体だけの張りぼてに、人間の欺瞞を見通せた。姿ばかり造り出せても、所詮は虚像、紙人形にも劣る。

「何故でしょう、とても空虚です」

「わかるのか?」

「はい、人間が崇拝する神とやらはあの程度なのですね」

 血走った瞳とその身さえ引き裂きかねない咆哮を放ち、頭蓋と同等かそれ以上の質量を誇る角で激突を望んで来る。この身体に風穴を開け、そのまま突き上げて破壊する―――やはりこれは人間が定義しただけの、人間にとっては恐ろしい攻撃。

「向ける相手はを間違えたな――――没だ、集めるに値しない」

 顎を開き、息吹の為に牙と角を赤熱化させる――――狙いは必定、けれど牛頭鬼ではない。対象はその先にいる人間の振りをしている老人。この俺をここまで狂わせ、恐らくロタさえ狙わせた強欲の老人共。—―――敵対対象固定完了、魔人の二人。

 翼を開き、放出される息吹に耐える為更に赤熱化、空間を掴み取るように余剰の力を放出、逆噴射を狙う―――推奨、足場の固定、推奨を是認。爪を伸ばし舞台にめり込ませる――――ようやく自分達が狙われていると気付いた老人ふたりは、ため息交じりに手を前に出す。それぞれの力は不可視なれど、安倍晴明の如く不可侵の力にてカエルを潰した奪命の力にも通じるものだと、定義開始—――完了、確実にあれら人外を貫き、灰と化そう。

「リ、リヒト!!学院長はやめてくれ!!私の立場が!!」

「知るか!!」

 既に後脚は完成、舞台との融合を果たし樹木のように足場を固定—――神の血の注入を開始—―終了—――並列飽和完了、神域との完全接続を終了。

 この場この空間この世界を、神域と同化させん。足元から生まれ出る創生の彼岸の津波に巻き込まれまいと人間達—――この俺を嘲笑った人間達が逃げ出そうとするが、既に神域の水晶の柱で封鎖していた。

「諸共に――――砕けろ」

 人類のレールガンよりも早く強大な極光が発射される。燐光を携え、螺旋に大気を巻き込み焼き尽くして進む光は馬蹄形のハウスの全てから迎撃をされるが、何者も寄せ付けず、その身に触れる事さえ出来ずに灰と化していく。牛頭鬼など触れるまでもなく塵と消え、壁としても意味があったドーマン符は余波だけで拭き荒んでいく。

 この光景は災害だった。どれほどの力、才能、知識を持っていようと万人に等しく降り注ぎ、遍く万人に死の燐光を降り注がせる。逃げ惑う人間達の中には光の一滴を受けて、倒れ伏していく者もいた。

 あれほどこの自分を冷ややかに笑い、追放を求めた人間達は、自らがこの場から逃げる帰る追放を求める――――そして容易に貫かれ結界に、老人らしからぬ「は?」という道化な問いかけをした者達も全て焼き尽くされた。

「ああぁぁ‥‥やってしまったな」

「俺からロタを奪おうとした罰だ。マスター、カサネさん、あなた達にも話がある――――逃げるなよ、逃げれば星ごと貫てくれる」

 光が完全に収束し、座席もボックスシートも天井の絵も舞台の床板も何かもも灰となった。もはや自己修復機能さえまともに起動しないのか、あれほど縦横無尽に生え揃えていた樹々も一切姿を見せない。

「リ、リヒト。これにはロタだって」

「リヒト、あの方は何も言わないで私を差し出したの。しかも私は何度も助けを求めたのに、助けに来てくれなくて。カタリ達が助けてくれなければ――――私手籠めに」

 顎を開き、新たな息吹を授けようする。

「待ってくれ!!しっかりと私の人形達も準備して、カタリ君達にも声を掛けていた!!もしもの時はロタに力の解放の許可も与えて――――そうだ。カサネ、君もロタには一肌脱いで貰おうと」

「私!?」

 どちらにせよ息吹を繰り出す理が生まれてしまった。神域に再度接続を開始—――承認、あの二人は生身ではないと知り尽くしている。人形の身体ひとつ失った所で数舜後には、素知らぬ顔で現れる―――よしんば違ったとしても、構わない。

「マスター、あなたには仕置きが必要のようです―――消えよ」

「待って!!」

 その声に顎を閉ざしてしまう。

「私、私もいるから!!もしこの方達に罰を下すになら――――私にも」

 アマネさんの言い出した内容に、顔を青くしたマスターとカサネさんは無理に口を閉ざさしてボックスシートから逃げ出す。仕方ない―――そう思って息吹は使わずただの熱線で壁を貫通、ふたりが僅かに逃げ出せる速度で追い掛け回す。

「ふふ、あの方達にはいい薬となったのでは?」

 ロタの手と言葉に頷いて、小さな反撃を続けるのだった。






「灰被りなど、私には似合わないと思うのだが‥‥」

「私だって‥‥」

 シャワー上がりの二人は、やはりやけに露出のあるバスローブで身を包んでいた。胸元が緩いのは構造状の問題なのだろうか、それとも質量の問題で閉ざせないのか、どちらにせよ―――カタリとロタの双方から拳と肘を受けるのは必定だった。

「余裕ね、これだけ化膿させておいて」

 ソファーの上で新たな薬の投与を受けていた。事切れる寸前にふたりが打ってくれた薬のお蔭で、今も意識を失わずに済んでいる。けれど、そう遠くない時間でまた自分は昏倒してしまうとわかる。

「‥‥どうしよう」

「不味いか?」

「‥‥ちょっと不味いかも。しばらくこの腕は使わないで。毒が身体中に回ると大変だから――――そんな青くならないでよ。死ぬほど痛いとかそういう意味だから」

 額から汗を流しているカタリを、ロタがヴェールで気遣っていた。

 先ほどから一切動かない腕は麻酔を打っているからだ、と言えるのかもしれないがその実、毒が心臓に回らぬよう止血しているのとさほども変わらない。杖を握るどころか自力で車椅子ひとつ回せなくなってしまった。

「あーカタリ君」

「今忙しいの、後にして」

「‥‥はい」

 何かしらの言い訳をしようとしたらしいが、一切の余裕と躊躇を無くしたカタリはマスターを背中だけで黙らせる。鬼気迫る雰囲気に気圧されたマスターとカサネさんの肩がみるみるうちに縮んでいく気がした。

 実際小さく椅子に座っている姿は、格上の外敵を見つけた猫や梟を彷彿とさせた。

「ロタが薬を貯蔵してて良かった。その盃、やっぱり私の物にしてれば良かった」

「カタリだって、新しい品々を手にしたのですから。私の槍はどうでした?」

「—――流石って感じ」

 ふたりの会話について行けない自分は、何故だ?と首を捻って問いかけるが「気にしないで」とカタリに一蹴され、大人しくソファーの肘掛けに頭を預けるに留めた。

 そして―――いい加減触れるべきだと思う視界の事実に追求する。

「なんでカタリまでドレス?」

「私のドレス姿、好きでしょう?わざわざ着てあげたんだから感謝して」

「—――うん、すごい綺麗。天使みたい」

「はいはい、私が美人なぐらい知ってるから。わかりきった事言ってないでいい加減眠って」

 ひとしきり投薬を終えたカタリに従って、腕を任せながら目を閉じる。

 自分で購入したブラックタイは燃えつけてしまったので、今は毛布に包まっている為、眼を閉じた瞬間、急激な眠気が迫ってくる。けれど、未だ頭ばかりは覚醒してしまっている夢現に陥って、身体ばかり動けなくなる。

「それでカタリ君、リヒトの様子はどうだ?」

「‥‥正直今すぐ病院に運び込んだ方がいいと思います。そこで監禁でもしないと」

「手配しよう」

 どこかに連絡を始めたマスターの元を、足音ひとり分が去って行くのがわかる。まぶたひとつ開けられない顔の上に、冷たくて薬の匂いがする手が被さられた。

 それを掴み取ろうと手を伸ばすが、掴み上げられて自分の胸に乗せられる。

「カタリ‥‥」

「眠ってっていったでしょう?」

 リラックスさせる為なのか、心地よい重みを持つカタリの身体が被さってくる。慣れ親しんだ、自分の物よりも安心する体温と髪の香りに口角を上げて腰を抱き締めた。

「—――もしかして、怒ってる?」

「‥‥もしかして怒らせた‥‥?」

「‥‥うんん」

 胸に鼻先を擦りつけてくるカタリと、瞼の裏だけの世界を共有する。真っ白な世界でカタリの体温を頼りに、呼吸を続ける今の自分はきっと死にかけているのだろう。

「えっとね、リヒトをしばらく追い出してたのはね―――」

「自分の研究が佳境に入ったから、大丈夫怒ってなんてない‥‥だけど寂しかった」

 静かに呼吸をするように紡いだ言葉に、カタリが息を呑む音が聞こえた。恐る恐る胸に触れてくるカタリの手を握って「捕まえた」と答える。だけどこれが自分の喉から発せられた声なのかと、恐怖する。到底生者の声とは思えない弱さだった。

「あのね、リヒトはリヒトだから。私の―――前のリヒトはもういないってわかってるから。だけど」

「好きなのもリヒト」

「うん‥‥」

 人間リヒトはもういない。器を俺に手渡した後、星の中を巡りに行った。きっと星の終焉まで終わらない永遠の旅路となる。それどこかもう他の星に旅立っているかもしれない。だから―――もうカタリは彼に会えない。最後の会話を奪ってしまった。

「—――だけど、俺もリヒトだから。必ずリヒトに成ってみせるから」

「うん、あなたもリヒトってわかってるよ。私のリヒトはあなただから」

 握り返してくれた手は弱々しかった。けれどお互いの体温を重ね合わせた時、ようやくよく知るカタリの手に戻ってくれた。薬で癒してくれて、必要があれば手で道理を教えてくれる――――幼馴染で恋人で、この神獣を召喚した錬金術師。

「ごめんね、私わがままだから。都合がいい時だけリヒトを呼び出して。無理言って、ひとりで待っててなんて。部屋でひとりにさせて――――怖かったね」

 籠められていた力が抜け骨と皮ばかりになった時、腕を折るような力が籠められる。安心してしまった、安堵の時を過ごしていると自分の血が完全に抜けた。

「ごめん‥‥まだひとりは怖いんだ。カタリがいないと‥‥頑張ってみるからリヒトに成りきってみせるから。だから一緒に眠って―――傍にいて‥‥」

 最後の言葉には力など含まれていなかった。掠れた言葉を胸の膨らみで汲み取ってくれたカタリが、頬に頬を当ててくれる。首に口づけをするように、耳朶を噛むように呟いてくれるカタリに、「ありがとう」と伝えられた。





「眠ったかい?」

「はい‥‥」

「そのままでいい。しばらく彼のわがままを聞いてあげなさい」

「‥‥はい」

 立ち上がろうとした時、肩に手を置かれた。そのままリヒトと一緒に背中を覆うように毛布を被せられる。寝息こそ立てているが毒が溢れ出した顔は、血管が浸食されるようだった。黒く染まっていく頬と目元を―――睨みつけてしまう。

「討魔局—―――オーダーは前言を撤回したんですよね」

「それどころかそもそもそんな承認下していないとの事だよ。どこまで信じていいか見当もつかないが、もし彼らによる偽の文章が出回っていたとすれば―――」

「討魔局は解体される」

「必ずな」

 リヒトの顔をひと撫でした先生は、その足のままテーブルに戻る。見渡さなくても、これ以上の戦力はないと断言できるだろう。戦乙女の中でも唯一無二の力を誇り、女神とは違う系譜の天使。そして悪魔という過去の神々を屈服させた契約者。

「ではカサネ、今後の展開は任せていいのだね?」

「—――はいって断言出来れば良かったのに。彼を侮っていた人間達は全員逮捕しましたが、何も掴めていません。きっと彼らも、リヒト君を恐れたのでしょうね。何も知らない自分達が触れようとした彼が何者なのか―――彼の怒りの矛先が誰に向いているのかも」

 自分達の力でバスローブからそれぞれ黒と白の法服に変わったふたりの視線は、鋭かった。視界の内に羽虫でも飛んでいれば、そのまま撃ち落とされしてしまうそうなぐらい。

「オーダー街に襲撃を仕掛けた使徒と討魔局の関係については、何か掴んでいるか?」

「使徒?」

「気にしないでくれ―――いえ、いずれ分かる時がくる。それまで待っていてくれ」

 ロタの問に、先生は頭を撫でるだけに留める。流星の使徒—――彼らが来たとは。

「—――技術提供の前払いとして、『レヴァナント』について伝達された可能性が高いようね。まだ疑いでしかないから、私達しか知り得ないけど」

「彼らを操るとは、怖いもの知らずな事だよ。直接的な繋がりはなさそうだな、結局足で探すハメになりそうだ。ロタ、体調はどうかな?」

「好調、とは言えません。私も少しだけ疲れてしまいました」

 リヒトの腕の毒をひとりで抑え続けていたロタは、体力を取り戻すようにグラスを口に付ける。盃に仕込まれた薬は、調整こそしていたが多量に摂取させれば昏倒させかねない強力で有害な物だった。そんな毒薬とも成り得る薬の安定値に、常に気を配りながら神獣の身体に投薬を続けていたロタの繊細な技術、精神力は感嘆に値する。

「マヤカ君も彼らの見張りに忙しい。マーナも離れられない。ヨマイ君も陰陽術の供給源—―――源流を遡って探って貰っている。カタリ君は言わずもがなリヒトの看病に従事して貰わねばならない。—―――私も、学院内のけん制を疎かに出来ない」

 異端学カレッジの教授として、自身の愛弟子が引き起こした自然学カレッジの崩壊の責を取らされていた。何もかもが討魔局、底辺貴族が原因だったとは言え事実として破壊したのは、紛れもなくリヒトだった。それを先生は粛々と認めた。

「—――良ければ私達、白紙部門が」

「いや、君だって機関、外部監査科、法務科との折衝があるんだ。押し付けられない―――それに自然学カレッジが封鎖される事に関しては、我々カレッジは同じ志を灯した士だと言える。あれだけ煩わしかった自然学の新たな敗北の歴史だ。名ばかりの謹慎を楽しませて貰うよ」

「だけど先生」

「本来、カレッジ崩壊の責任など到底私ひとりでは負えない重みだ。けれど、本当にただ大人しくしていればいいだけなんだ――――無論、それ以上の意味などないよ」

 この場では言えない責任の取らされ方をするのかと焦っていたら、先生はくつくつと笑い始める。そして第三カレッジにいた悪魔使いすら乾いた笑いを始める。

「いやいや、酌のひとつでも求められる思ったが、まさかリヒトの話を今日この日まで信じていなかったとは。第四位の魔貴族などという話、確かに信憑性には欠けた物ではあったが、そんな魂がひしゃげかねない嘘を発する訳がないだろうが」

 グラスを手に取って、くるりと回った先生のあまりの美しさに言葉を失う。

「実際にあの魔人が学院長と席を共にし、談笑をしていたというのだ。しかも、リヒトに孫などと呼び掛ければもはや信じるしかない。カタリ君、君がただのお爺さんと呼んだあのご老人は、なかなかに突飛な好々爺であり、魔に連なる者の歴史を体現するかのような人物だったという事だよ」

「—―――信じられない、まだ信じてなかったなんて」

「それは君が近くに居過ぎた所為だよ。しかも私もリヒトと恋仲だと知られてしまった、ああ、私もついに身を固める時が来るなんて」

 腕を頭に乗せて、世界を嘆くように声を出した先生は、微かに悪魔使いを眺める。

 その意味を自分は知った事ではないが、魔貴族の一員と見られたという話だった。

 自分を貴族と誇らしく掲げた者達支配権争いを決める宴に、一切参加こそしなかったがどの家よりも力を溜め込んでいた。

 それ咎めに、今後の魔に連なる者の世界への発言力を得ようとした家々を全て打ち破った魔人の家系に、その名を連ねる事が約束された先生に何を求められるだろうか。しかも、下手に関係など求めようものなら―――――。

「その上、リヒトのあの姿は評判も良かった。隠者になるなど、これでは出来ない相談だ」

「‥‥やっぱり見られたんですね」

「ああ、あらゆるカレッジの教授陣に見られてしまった。中には異端学カレッジに留学や交換学生の話まで来ているぐらいだ。未だかつてない発展を見せつけてくれるよ。誰もがあの息吹の矛先になる事を恐れている」

「それだけは避けたいから、けん制、謹慎っていう一応の形を使って私達を遠ざけたい、結果的に争いが表面化しつつあるみたいですね」

 権謀術数渦巻く秘境だからこそ、こういった分かりやすく巻き起こる争いを楽しめる。むしろこれこそ権力闘争の常套手段なのかもしれない。力では打ち勝てないから、留学や交換学生という柔の握手、謹慎を求めるという剛の扱い。

 全てのカレッジが、遂に異端学カレッジを認めたという事だった。

「つまりこういう事だよ。私達の邪魔をする者こそいないが、もはや侮って来る者もいない。知らぬ存ぜぬで突き通してきた会合にも、そろそろ顔を見せなければ」

 今の発言に、咳払いをした悪魔使いが口を開く。

「話を戻しましょう。忘れているかもしれないけど、学究の徒達が私達の目標、逮捕対象です。討魔局との争いを隠れ蓑にしていたのかもしれませんが、向こうからすれば想定以上に決着が早く付いた筈です」

「彼らが目的を達成していれば、何かしらのアクションが秘境内で起った筈だ。なのに、全ては討魔局が原因の事件以外何も起こっていない」

「そもそも、そのような方々は侵入しているのですか?影も形も見出せませんが」

 顔を染めたロタが、吐き出すように参加する。自分も、もはやそこに疑いの眼を向けてしまっている。本当に、そんな話があり得るのかと。

「—――これは紛れもない事実だ。証拠、という訳ではないがある犯罪組織に所属していた技術者が消えている。組織本部は既に解体済みだが、その技術者の足取りは掴めていない。わかるか?ならば消息を掴めない場所に逃げ込んだ、という話だ」

 漠然とした話ではあるが、ようやく話の全容を知らせてくれた先生は、胸のつかえが取れたようだった。「ようやく話せる時が来たよ、口止めされていてね」と言い訳を始める。けれど、それが本当なのだとしたら、今の話は何よりも信じられる。

「‥‥リヒトが眠っている今話したって事は、リヒトが関係してるって事ですね」

「私とリヒトを、討魔局に当てがったのもそういう事ですか」

「結果的にそうなってしまったがね」

 グラスを傾ける先生は、なおも飄々していた。けれど未だ濡れた髪で余裕の表情を造っている先生を、鼻で笑ってしまう。

「うむ、今の意味には触れないでおこう。だけど、当初は本当に学究の徒探しに宴に参加していたのだよ。だが、少し考え過ぎだったようだ、あまりにもあから様に彼らが来るものだから、必ず繋がりがあると思っていたのに」

 その時だった。ロタが立ち上がって、ふらふらと寝室に入って行く。

「ロタも充電切れらしい。そろそろ解散としよう、リヒトは今晩はここで預かってくれとの事だよ。部屋の準備を整えると。私も今日は少しだけ疲れた」

 柏手を打ったように静まった部屋で、それぞれが立ち上がる。悪魔使いの力と借りてリヒトを寝室に連れて行った時、既にロタがベットの準備を整えていた。

「次は私達が温めます。カタリはシャワーでも」

「ええ、任せるわ」

 ふたりにリヒトを預け、リビングに戻ると先生がテーブルに付いてボトルを開け始めていた。自分は、何もを思ったのか先生の隣に座ってしまう。先生も無言でグラスを差し出した。

「リヒトは、ずっと頑張ってました。誰に何を言われようと」

「きっと眩しかったのだろうな。才能ある勤勉家など、何も無い者達にとって疎ましくて仕方なかったに違いない。だから、彼から力を奪った。せせら笑うために」

「‥‥私には理解出来ません」

 注がれる赤い液体に自分の顔が写る。それが鮮血のようで、リヒトの生き血を啜ってきた自分を思い出してしまう。

「それでいい。—――君は、もう人間ではないのだから。私達と同じだ」





「それで、良かったんですか?」

「何がだい?」

「‥‥結局、俺達がやったのは身内同士の小競り合いでした」

 鉄格子でも施されていそうな個室に移された時、保護者として付き添ってくれたマスターは、それを聞いて僅かに微笑むだけだった。言葉にこそしていないが、立場としてあまりいい状況とは言い難い筈なのに。

「まったく、何を心配しているかと思えば。前にも言っただろう、人間との問題や関係など私に任せればいい。—―――君が気にする程、重大な亀裂など走っていない」

「‥‥でも」

 今も動かない左腕に視線を逸らしながら、声を絞り出す。

 外部監査科という組織は、本来オーダーとオーダーだった者達が巻き起こした事件や事故、そして暴走の始末を付けるのが役割とされていた。マスターから言い渡される仕事も、直接的には関係ないが自分もオーダーである以上延長線上の秩序維持に駆り出されるのも不思議ではなかった。

「マスターが、この街に居られるのは」

「なんだ、そんな事か」

 口元を袖で隠すマスターの艶やかさに言葉を失う。

 前髪に差した光に包まれ、聖女の生誕を想起させる神聖さを持つと同時に、この仕草をするのが成熟した四肢と人間離れした神が直接描き出した顔立ちのマスターがするものだから―――。

「ふふふ、催したのか?いいだろう‥‥」

 吐息を顔に吹きかけながら、馬乗りになってくるマスターが胸元を揺らしてくる。

 長い足で腰に跨り、しなだれるように胸を胸に押し付けてくる艶姿に身体を硬直させ、成すがままに差し出してくれる快楽に声すら我慢する。

 そして、望み通りの温かな身体と底が見えない柔らかな肢体で覆ってくれる。

「固い固い、もっと握っていいのに。しばらく時間が必要かな?」

「‥‥はい」

「私は君の物なのだぞ?すれ違いざまに淫行の約束でも取り付けても構わないのに。奥手な事だ、若さに期待して身体を持て余す私の身にもなってくれ――――自分で慰めるのにも、飽きてきた所だ‥‥」

 首を舌で慰撫する淫靡な音に舌を伸ばしてしまう。けれど、直後に後悔してしまう。自分からマスターを求めようものなら、どんな結末を迎えるか夜の度に後悔、決してマスターには勝てないのだと再確認してしまうのに。

「罠にかかったな?」

 唇を吸われながら紡がれた声に、顔を白くする。脳髄を直接吸い出されている幻覚に苛まれながら、代わりに波濤の如く押し寄せる快楽に意識を手放さぬように拳を作る――――けれど、それを見越していた大人の手に指を繋ぎ止められる。

 そのまま衣服の上から擦りつけられる下腹部の暖かさと、香り始めて汗の匂いに嗅覚も奪われる。既に手元にない触覚、痛覚、そして嗅覚に味覚、視覚—―――全てを奪われた時、意識を手放してしまう、そう諦める。

「許すと思うか?」

 膝を当てられた下腹部の甘い鈍痛に背骨が突き上げられる。声を出してしまう、そう恐れた言葉諸共マスターの口へと吸い込まれる。今も潰す寸前の圧力に耐えながら、長い舌に頼りながら口元を唾液だらけにする。

「もう寸前のようだね、ではこのまま愛欲を満たすとしようか?」

「‥‥まだです」

 まだ動く右の袖口で拭き取ろうとしたが―――自分の舌で舐めとる。

「ふふふ、強欲だな。幾らでも上でも下でも注いであげるというのに」

「誤魔化さないで下さい。俺、ここからでも槍だけなら」

「—――真面目な男の子だ。嬉しいよ」

 額に口づけをしてくれたマスターが、軽く息を整えながらベット脇に座る。長い黒髪を首に巻き付けて、くるくると指で弄ぶ姿はマヤカを彷彿とさせた。

 きっとあの行為はマスター譲り、もしや褥の始まりも習ったのだろうか。

「その目は許せないぞ、一体誰と重ねている?」

 背中から振り返ったマスターが、頬を摘まみ上げてくる。ひとしきり動かない身体で遊んだマスターは、満足気に微笑んで頬に手を当ててくれた。

「これから入院する君を安心させられるなら、いくらでも時間を掛けてあげよう。何が聞きたい?」

「‥‥あなたは、オーダーの仕事をして来たから―――この街に居られる。なら、今回の仕事を、最初に断ろうとした俺が言える事じゃないってわかってますけど‥‥」

「何を言い出すかと思えば」

 振り返って呆れたように額を指で弾くマスターに、また一目惚れしてしまう。

「何度私に惚れ直す気だ?では、君の問に答えるとしよう。私は、別にオーダーから仕えている訳ではない、むしろ爪弾きにされているぐらいだ。彼らからの命令違反など、もはや数える気も起きない」

 鼻で笑うような仕草で、せせら笑うマスターはベットから立ち上がり―――鉄格子の付いた窓のカーテンを開け放つ。これが今の自分の扱いであった。

「形式的に必要なのは理解出来るが無駄な事を。この程度、君なら吐息ひとつで打ち破れるだろうが。—―――前にも言っただろう?私は、ただ都合が良いからこの世界の守護を気取っているに過ぎない。暇つぶしと言ってもいい」

 腰に拳を付けて、宣戦布告さながらに振り向き様で流した黒髪、開いた手を突き付けてくる。これはあのクラブでも聞かされた話でもあった。

 けれど、外部監査科というオーダーの中でも更に特殊な立ち位置は、特別に用意された物であるのは間違いなかった。

「だけど、マスターはもう自分だけじゃない。俺の面倒まで見てくれてる。—――保護する引き換えに、」

「心配性だね」

 頭の下に手を入れて、起こしてくれるマスターの隙を突いてみる。誘われる動きだと言うのはわかりきっていたが、結んでは開く艶やかな唇を放置出来なかった。

「いいぞ、君の望むままに私を求めるがいい。私もそうしているのだからね」

「—――ごめんなさい」

「くくく、確かに私はリヒトの保護、世話をしている。こうは考えられないか?君の保護をしているからこそ、彼らは私に強く出れない。言ってしまうと、リヒトという獣を唯一組み敷けるのは、このヘルヤだけなのだ。私が何かの気の迷いで――――君を解き放って、もっとも不利益を被るのは誰だと思う?」

「‥‥人間、人間の世界です」

「正解だ。困るのは、ごくごく限られた大多数の種族だけだよ」

 残り少ない血を誘うように、腹部から下腹部に掛けてを手で流していく。この手が温かくて、それでいて敏感な部位に僅かに優しくて触れる手付きに、声を漏らす。

「握って欲しい?君が断ったのだ、もうしばらく私の児戯に付き合いなさい」

「‥‥はい、マスター」

「いいぞ、その顔—――興奮するじゃないか」

 耳元から鳴る舌なめずりに、髪を逆立ててしまう。

「では、話の続きをしよう。暴発はしないようにね――――まず君の心配を取り除くとしたら、私はオーダーを使っている側だ。秩序維持という便利な側面を大々的に振っている彼らは、私のような危険な種族を野放しには出来ない。けれど、私達人外の手を借りなければ、生き残れないのもまた事実な訳だ―――これは正当な取引さ」

「俺はマスターの矛なのですね‥‥」

「矛とは―――なかなかに理にかなっているな。君の槍を防げる盾など、君しかいないのだからね。それに、私を貫けるのも君だけなのだし。どうかしたかい?」

 自分の谷間に連れ込んで、強く抱きしめてくる行動に息を忘れる。我慢の限界に達した時、マスターの肌ごと吸い付くように呼吸を始めると―――よく知る甘い香りに包まれる。紙とインク、そして甘いアルコールの香りだった。

「マスターの匂い‥」

「ふふ、もしオーダーが今までの協定を破って私を捕らえに来ようものなら―――君はどうする?」

「焼き尽くします。この島国を三日三晩、七度焼き尽くしましょう」

「恐ろしい事だ。彼らの末端や頭ばかりは、その可能性に気付かないだろうが、オーダーの本体とも言える者達は、それが紛れもない事実だと身に染みて知っている。そして―――自慢ではないが、私だって同じ事が出来る。彼らは私と契りを結んだ時点でもはや後戻りは出来なくなっているのだよ」

 マスター達がこちらに訪れてから、どれだけの年月が経っているのか、想像もつかないが―――もしオーダー発足時から不変の契約を結んでいるのなら、事実として戦乙女達はオーダーを都合のいい道具にしているようだった。

「‥‥強かですね。俺に落としたのも、その為ですか?」

「簡単な物だったさ。それに君のマスターなのだぞ?神と巨人の戦ひとつ知らない幼年期達に、遅れを取る訳がない。ただ、それでは余りに彼らが不憫で哀れだろう?」

「だから、世界の守り手に」

 正解だ、そう耳元で呟くマスターが膝にかけてあった布団に手を潜り込ませた。

 血で火傷しそうになっている部位を、更に熱い手で覆ってくる。身震いしてしまいそうになるが、胸と腕で抱き締められている自分には、逃げ場などなかった。

 自分では造り出せない、圧倒的な快楽に身構えながら震えてしまう。

「彼らは金払いだけはいいんだ。都合のいい時だけ構ってあげればいい。これで分かったかい?」

「‥‥マスターとの時間を邪魔する事はない。俺から俺のマスターを奪う事もない―――マスターを独り占めできる」

 まだ動かせる右手で、マスターの腰を引き寄せてベットに無理やり引き入れる。

 溜息をしながらも添い寝をする為、布団に引き込んでくれたマスターと共に体温を積もらせる。寒くて震えそうだった肩を抱いて、顔ひとつ分はありそうな胸に引き寄せてくれた。

「まったく、それはいずれ生まれる赤子の為にあるのに―――」

「マスターは、俺の物です。マスターは誰にも渡しません。必ずあなたを振り向かせて見せますから」

「ふふふ‥‥そう言っている内は、まだまだ男の子さ」

 眠りに送り出す為、絶頂に導こうとしていたようだが、ようやく思い出したのだ。この神獣をいつもどうやって眠らせていたのか。あの部屋で眠れぬ夜は、ふたりで抱き合っていたというのに――――それともこれは、マスターからの試練だったのだろうか。

「今は休みなさい。君の不安は私が取り除く、だから私の不安は君が砕きなさい」






「どう?‥‥可愛い?」

「はい、とても素敵です」

 今までワンピース姿だった白い神は、制服の上にローブを纏ったような姿となっていた。何かを被るように着るのが服のイメージなのか、思い出したように一枚のローブを被っている姿は、正しく成長した我が白い方のお姿だった。

「うん‥‥嬉しい‥‥」

「どうしました‥?」

 腕に腰を掛けさせて、持ち上げながら顔を覗き込む。

 傷ひとつない白い顔は、何故だろうか晴れていなかった。何か違ったか?心臓を絞めつける表情に、思考を渦巻かせながら次はなんと声を掛けるべきかと口を震わせる。そして何も生み出せない中、しばし波の音に空間を任せる。

「‥‥私、可愛い?」

「俺が嘘を吐いた時がありましたか?とても似合っています。これはご自分で?」

「うん。ちょっとだけあなた達の物を参考にした―――だけど、私にはわからない。これは、可愛いの?」

 息を呑んでしまう。忘れたつもりなどなかったと、嘯いた自分の愚行を呪う。

 この方は姿ばかり人のそれを模せていても、その内側は到底人間とは比べ物にならない程—――貴いお方。人間のファッションという趣味趣向、評価という食事とは違う、自分ひとりでは下せない裁定に頭を抱えていたのだ。困って当然だ。

「あなたのその姿、俺はとても好きです。また見せてくれますか?」

「本当?私の服、とても可愛い?これが素敵というの?」

「当然です。俺に見せる為に作り上げてくれて、とても嬉しいです。ありがとうございます、あなたはとても可愛くて愛しています」

 満面の笑みと成ってくれた白い神は、滑落するように腕から降りて、胸にしがみついてくる。勢いと重みなど大した事はなかったが、砂浜に背中から倒れ込み、そのまま長い白い髪を梳いて差し上げる。猫のように微笑む表情に、ようやく安堵する。

「良かった!!私、やっぱり可愛いよね?私の事、大好き?愛してる?」

「大好きです。可愛くて綺麗で可愛くて―――大好きなあなたを愛しています」 

「褒められるの、嫌いじゃない!!」

 頬を胸に擦りつけてくる白い方は、その小さい顔を全て使い切って笑みを浮かべる。身体ばかり成長しても、その内側はやはりここの創生と破壊の神であった。

 幼くてわがままで素直で可愛くて。それでいて優しくていたずらっ子で。

「どうしたの?そんなに強く求めなくてもどこにも行かないよ?」

「こうしていたんです。どうか、許して下さい」

「うん?わかった、許してあげる。私の眷属は、とても甘えん坊なのね」

 砂浜で二人、抱き合いながら波の身体を任せる。身を濡らす創生の彼岸にて七色のオーロラは刹那的に移り変わっていく。神秘的な光景でありながら、二度と生まれない残酷な光に包まれ、確かに腕の中にいる温かな竜神との時間を楽しむ。

「苦しい‥‥」

 絞り出すような声に、慌てて腕を離すと首を抱き締められて隙を突かれる。

「すみません」

「大丈夫、嘘だから。ふふ、あなたはいつも優しいね。だから好き!!」

 腰の上に跨った白い方は、普段通りに手を上げると海から巨大な水晶の腕が付き上がる。白い血管を持ち七色のプリズマを放つ腕は、やはり流木のように彼岸に辿り着く。開かれた手には青い実と水晶のマグカップ。グラスではないのは、この方の趣味なのだろう。

「沢山作ったから、ずっと一緒に居られるよ」

「ありがとうございます、俺も、あなたの時間を楽しみにしていました」

 カップを捧げるようにかざした白い神は、自分の腕に命令して酒を満たさせる。幼さを残すこの仕草に、自然を後ろから抱き締めてしまう。首を捻って謎の行動への最適解を模索する白い神の手を掴んで、ふたりでカップを捧げる。

「ふたりでしたかったの?」

「はい、ダメですか?」

「うんうん!!あなたとふたりでするの、大好き!!」

 同じように胸に抱きついてくる白い神との共同作業を終えて、砂浜に水晶の柱を造り出し背を任せる。言われるまでもない、そう言った感じに膝の上に座ってくる主様の椅子に徹しながら、腹や首、試しに胸元辺りをくすぐると――――最初の内は喜んでくれるが、「私の方が偉いの!!」と酒を大量に含んで口移しを繰り出す。

「ふふ、どう!?」

「‥‥美味い」

「今回のは悪くないって、自慢できる!!それに私の体液が好きなあなたなら、喜んで当然!!私にいたずらしたいなんてわがまま、まだまだ早い!!」

 と、振り戻って椅子扱いをしてくる。諦めて酒を口に含むと、確かな別格の美味さに酔いしれてしまう。この方が自慢するとは、この味は次は楽しめそうにない。

「沢山飲んで、使い切った身体を取り戻して。向こうのあなたは存在の6割を失ってる。鱗の一枚でも、失わないように気を付けて」

「失ったら、どうなりますか?」

「あなたの中から、ここの力が溢れてしまう。そうなればもう元には戻れない。私達以外が水に触れたら、もう何者にもなれない。あなたの世界が崩壊を始める。まだ終わりを迎えるには、早いのに」

 世界という器には限界があった。人の数、獣の数、神の数。全てに決まった絶対量という物が存在する。保有量や負担量、飽和量など言い方は数知れず―――だが、それを越した時、世界は溢れた存在を抹消しにかかる。

 世界は自分をも狂わせて、この存在は看過できぬと命令する。その対象が―――この自分だった。溢れ出る終わりなく命の数々など、真っ先に消すに値するだろう。

 世界が自分を崩壊させてでも。

「‥‥気を付けます。しらばくこの世界で酒と実を喰らいます」

 片腕に酒を、もう片腕に実を遊ばせながら創生の彼岸との一体化を進める。

「うん、そうして。ここでのあなたを満たせば、向こうの端末にも届くから。だけどあれだけ破けた皮では、いつ溢れるかわからない。長い時間を掛けて編み戻さないといけないの。私の言う事、聞いてくれるよね?」

「わかってます。あなたの望むままに、振る舞います」

「うん、それでいいの」

 声こそ甘く可愛らしい物ではあるが、言葉の端々から感じ取れる強い意志と覚悟に、身を引き締める。実が携える新たな肉で胃を満たし、血管に酒を注ぐ。失った身体が戻ってくる感覚に、体温が高まって行く。

「ねぇ、聞いていい?まだ向こうに居たい理由は何?」

「気になりますか?」

「‥‥ちょっとだけ」

 背を預けながら、顔を見上げてくる姿に笑みが零れる。長い睫毛に大きな瞳。移り変わる空のように、角度や時間によって変わる色に目を奪われる。

「—――前にも、話しましたか。愛する事を知りたいから向こうにいるって」

「でも、もう愛するはわかったんじゃないの?なのに身体を失ってまで、向こうの命を愛するのは私には理解できない。人間の世界に、私達は居場所なんてないのに」

「そうですね。きっとどれほど向こうの世界に馴染んでも、世界は俺達を排斥をする。弾き出そうにも星の加護を受けた身体を消す訳にはいかない―――だから、こうやって自分から逃げ出すように仕向ける。—―――俺は、もしかしたら無駄な努力をしているのかもしれません」

 カップを捧げ、新たな酒を注いで貰う。

「だけど、やっぱり皆を置いてはいけない、帰らないといけないんです―――皆に救われてしまい、好きになってしまいました。‥‥俺の魂は、あの人達の物なんです」

「魂?命を掴まれてるのは、弱みを握られているという事なのね」

 この受け答えは予想外だったが、紛れもない真実だった。

「ええ、そうです。弱みを握られたから守らないといけない。傷つく姿は見たくないんです。それに―――俺を守ってくれるには、あの人達だけ。そしてあなただけ」

「‥‥うん、そうだね。あなたはどの世界からも受け入れられない―――私達と似た種族の世界でも、それは変わらないのかもしれない」

 唇を濡らすように、小さく飲み続ける白い神の腹を抱き締めて人形のように求める。何も言わないで身体を預けてくれる優しさに、ひび割れていた心が巻き戻るのを感じる。

「怖いね、人間は」

「はい、とても怖い種族です。どこまで逃げようと、どこまでも追いかける。俺が死ぬまで術を放って、素知らぬ顔で逃げていく――――どうして俺なのでしょうね」

 膝の上で振り返って、肩に頭を乗せてくれた。

「あなたが、とても強くて恐ろしいから。ここにいた神も、私を始め見た時は排除しようとした」

「‥‥あなたも、同じだったんですね」

「うん」

 嘆いても仕方ない、だってお前以外にも可哀想な奴はいるんだから、諦めて死んでくれ―――人間はそう嘯いて、あらゆる責任をひとりに押し付ける。

 その結果がどうなろうと、自分が負うべき責任を全て他人に被せ殺して諍いを鎮める。何も知らない無知程、殺人を求める。いつもそうだった――――死んだ事もない愚人が犠牲ばかり求める。死んだ身体を貪るのは、それほどまでに甘美なのか。

「私達に居場所はない。だから自分で居場所を造る―――だけど、それを許さないのが世界と呼ばれる果実達。どれもこれもつまらないのにね」

「そうですね。どれもこれも期待するには、欠けてばかりなのに」

 肩から顔を離した時、青い血に汚した唇を預けてくれる。啜るように唾液を貪り、濡れた唾液を絡ませる。頭が火照る純度の高いアルコールに、脳を焼かせながら服を引き合う。お互いの息が尽きた時、お互い大人の表情になって顔を離す

「それでも―――まだ、あなたは期待する?」

「‥‥いいえ、きっともう期待できない」

「なのに、まだ行くの?」

「はい。俺は帰らないといけません。リヒトとの約束を反故には出来ない、カタリと家族にならないといけない――――それにあなたにも世界を見せないといけない」

 仄かに頬を染めた白い神は、息を呑んで抱き締めてくれる。

「あなたは強いんだね。毒と火に苛まされても、あなたの旅路は終わらない。人間の世界があなたをどれだけ憎み、追放したとしてもあなたは止まらない――――きっと、それが怖いんだと思う」

「あなたも、俺が怖いですか?」

「うんん。あなたは私の眷属、端末、接続した分身だから」

 水晶を消し、砂浜を寝床に変える。肺の膨らみを伝えながら、腹と胸の上で弾む神を強く抱きしめる。もう眠る寸前だと、体温でわかった。酒に絆されていた。

「あなたに加護を。世界があなたを苦しませるのなら、私という世界の創造主が力と成りましょう。あなたが求めるのならこの神を喰らった竜の息吹も―――眠りなさい、私があなたを守ります」

「‥‥感謝します。主よ、あなたがその身体で守ってくれるなら、何よりも安心しながら眠れます。どうかこの神獣を抱き、慰めて下さい。あなたが求めるのなら俺は何処にも行きません。あなたの翼を握りしめ、あなたの息吹に巻かれます」

 目を閉じ、この身を抱く白い神と水晶の壁に預け渡す。満たされる白い血と青い肉片が身体が癒し、再生させていく。失われた片方の肺も砕かれた左腕の骨も元に戻るだろう。焼け焦げた脳髄を入れ替えるように開かれる身体が、心地よかった。



「どのくらい眠ってた?」

「一週間ぐらいかな。顔色も良くなったし、中身も入れ直しが終わったみたいね」

 鉄格子と見張りがいる部屋の扉を潜ったカタリが、頭を抱きながら脈を測ってくれた。手首を刺す爪先から感じ取る冷たい痛みが、この身体の居場所を知らせてくる。

「いい香り。新しく調合したのか?」

「ふっふっふ‥‥ちょっとだけね。リヒトが喜ぶと思って。どう?まぁ当然気に入ったでしょう。私がわざわざ造って付けて来たんだから―――これで絡みたい?」

「—――したい」

「じゃあ頑張ってね。退院祝いに浸かってあげるから、沢山薬も作っておくから期待してて」

 脈と退院後の約束を終えたカタリが、傍らに座って強気な笑みを見せてくれる。悲し気な表情など欠片もないサディスティックな笑みこそ、カタリには相応しく懐かしかった。

「この身体は、今どこが悪いんだ?」

「当然、全部に決まってるでしょう?血も無い、骨も無い、そもそも肉も内臓も足りない―――縮まってるって言った方が適格かも。必要最小限の機能だけ残してる回路って言ってもいいかも。取り敢えず動きはするけど信号だけ感知できる感じ」

「‥‥それじゃあカタリの料理を味わえないじゃないか」

「なら早く身体を治して。私が好きなら私の命令に従う、まずは横になって。はい、早く!!」

 手拍子をされながら横になると、左腕に薬針を添わされる。なんの躊躇、こちらの準備も整っていない瞬間、深々と血管に沿うように突き刺され痛みに悶える。

「はい、動かない。はい、終わった。はい、次ー」

 身を捩ろうにも動かない身体を良い事に、次々と突き刺す針に腕を穴だらけにされる。血が零れる隙さえない蜂のような医療行為によって、薬の時間はものの数秒で終わり―――左腕は包帯で強く巻かれ塞がれる。

「このまま1分は動かないで。いい?返事は?」

「‥‥わかったよ」

「素直なリヒトはいい子よ。声も出さなかったし」

 声を出す暇がなかったんだ、そんな言葉が口を衝きそうになるが、諦めてしまう。取り出したベルトに注射器や薬瓶をしまっていく姿に、声を忘れてしまったから。

「後でご飯が終わったら、飲み薬だから。苦いかもしれないけど」

「‥‥聞いていい?」

「ん?なぁに?」

 優し気で、実際天使や女神のように優しいカタリの聞き返す可愛らしい声に、笑みが浮かんだ時「どうしたの~?私の顔が見たかった感じな訳~?」と普段通りの強気で愛らしカタリに戻る。ころころと変わる幼馴染の顔に、また笑んでしまう。

「‥‥何でもない。今日はずっといてくれるのか?」

「どうして欲しい?リヒトがひとりでいたいなら」

「やだ。一緒にいて」

「はいはい、仕方ない男の子。リヒトってやっぱり私より幼いよね。なんでこんなに子供っぽいんだろう」

 立ち上がったカタリが窓を開けながら、「私が大人っぽい所為かな?」とやはり下に見ながら言うものだから、振り返ったカタリに両手を伸ばして子供のように不機嫌を告げてしまう。

「なに~?どうかしたの?」

「‥‥俺は今不機嫌なんだ。カタリの所為だ」

「また人の所為にして」

 上から目線はそのままに、上着を着ていないYシャツのままで抱きしめてくれる。顔を胸で潰しにかかるカタリからの猛攻に抗いながら、呼吸を続けると――――顎を指で持ち上げられて口を奪われる。それもほんの一瞬だった。

「大好きな私の口はどう?少し久しぶりじゃない?」

「‥‥だってカタリが追い出すから。寂しくて」

「ロタから聞いたよ。リヒトでいられるか不安だって、このままリヒトでいていいのか悩んでるって――――忘れた?あなたはもうリヒトなの。この世界に刻まれたリヒトはもういないんだから、あなたが何をしようとリヒトでしかないの。わかる?」

 召喚者たるカタリは、この俺にリヒトと名付けた。

 ならこの世に呼び出された『リヒト』は『リヒト』として振舞わないといけない。—―――なのに、この自分が『リヒト』なのだから、『リヒト』でないといけない。

 真逆在り方に、混乱してしまっている。先にあるリヒトという座席に付かされるなんて。

「リヒトはさ、もう私に飽きた?」

「違う!!」

 叫んだ声に応えるように、扉の外から物音がした。

「もし、私があなたをリヒトって名付けなかったら、私を好きにならなかった?」

「‥‥なる」

「聞こえないんだけど」

「カタリを好きになる‥‥」

 目覚めた時、初めて見たのがカタリの顔だった。遠い世界からこちらを覗く、夢の中でのみ会う―――そんな幻想の光景であったのに、リヒトと名付けられる前の自分は、あの時のカタリに一目惚れしてしまっていた。

「じゃあ、どうする訳?ありのままを受け入れて欲しい?そんな事言えるの?」

「‥‥俺は、何も持ってないんだ。ありのままなんて―――」

「なら諦めてリヒトでいて。私もあなたをそう扱うから、これでいい?」

「—―――リヒトでいれば、好きになってくれる?」

「なってあげる。私が好きなのはあなたであってリヒトでもあるの。リヒトじゃないあなたなんて、ただの他人だから」

 カタリからの発言は、この治ってきた身体を砕くのに十分な物だった。涙が零れそうになった時、頭を抱いて目元を隠してくれる。

「‥‥あなたはリヒトって名乗らないと、この世界から簡単に消されちゃう。あなたに残された席は、もうリヒトだけなの」

「リヒトじゃないと、いけないのか」

 小声で聞かせてくれる言葉に頷いた。そうだ、この神獣に居場所はない。

「だからリヒトって名乗って。私の幼馴染で恋人—――神獣リヒトとして」

「世界は狭いんだな‥‥」

「うん、そうだね‥」

 涙をカタリのシャツで拭き終わった時、慈しむように頭を手で抱き起こしてくれる。自分はリヒトではないといけない、その意味を解っていないのは、きっと自分だけだったのだろう。マスターもマヤカもロタもヨマイも―――皆知っていたのに。

「ごめん、情けなくて。自分で気付くべきだったのに。俺はリヒトだ」

「うん、これからもそう名乗って―――怒ってる?」

「‥‥カタリが俺を放置してた事には、怒ってる」

「ふふ、ごめんね。もう追い出さないから。だけど!!」

 離れたカタリが、鼻先に指先を突き付けてくる。

「後ろから抱き着いたり、料理中にちょっかい出すのはやめて!!危ないから!!」

「‥‥だって折角カタリと一緒にいるのに」

「私に意見する気?」

「—――ちゃんと言ってから抱き着きく」

 何か間違えただろうか、見上げて行った言葉をカタリは連呼、また何か小声で呟きながら頭を抱え始める。わからないと伝える為に、首を捻ると「あーもうー!!」と襟を掴んでベットに押し倒される。

「そう!!それでいいの!!今度から、確認を取ってから、いい?」

「わかった、カタリの好みに成ってみせるから」

 そう告げた時、何かを誤魔化すように口で口を塞いできた。

 


「人間って勝手ね。自分達がロタを誘拐してのが原因の癖に――――もう忘れたの?」

「かもしれないな。そもそも誘拐ってつもりじゃなかったのかもしれないし。なんて言うんだったか?お誘いする?」

「戦乙女を誘うとか、身の程知らずにも限りがあるでしょう」

 軟禁状態である自分には、外の光景こそ眺める自由はあるがリハビリ室だったり中庭を駆ける平等の精神は与えられなかった。人間でないのだから正しいのかもしれないが、だとしたら自分は動物園の動物よりも不自由な生活を送る事となりそうだ。

「外のアレ、そろそろ殺すか」

 車椅子を自力で回し、手に槍を造り出す。

 やはり室内の監視をしていた覗き魔達は、悲鳴を上げながら廊下に倒れ込む音を響かせる。腰が引けて動けないのが、引きずる尻の音で分かった時—―――扉を槍で突き開けて見下ろした。若い男性達は、短剣を向けてくるが鼻で笑ってしまう。

「その程度で監視官のつもりだったのか?どうしてこうも人間は自分以外を軽視するんだ」

 振り上げた槍を見せつけ、最後の光景をとして提供しながら降ろす。

「だからダメだって。やはりリヒトには、このロタがいなければ」

 ヴェールで造り出した白い草木の槍で、こちらの矛先を抑えてたロタにたしなめられてしまう。「冗談のつもりだった」と告げても、ロタは首を振りながら車椅子の肘掛けを押して病室に戻す。ベットまで戻った暁には、カタリまでも上に戻し始める。

「何故止めなかったのですか?」

「だって、外のあいつら―――なんの許可も取らないで覗いて来てたから」

「それは死に値しますね。待っていて下さい、今すぐ始末を」

 助かった―――そう思って侮っていた機関の人間達は、ようやっと自分の置かれている状況、自分達の上司に贄と捧げられていたと気が付き逃走にかかる。

 廊下と疾走する地響きと荒げる息の汚さに、興が削がれたと槍を消す。

「久し振りですね、リヒト」

「一週間ぐらいだったんだろう?久し振りって程でもないぞ」

「私にとって一週間とは、世界が滅ぶに十分過ぎる時間です。さぁ、再会の抱擁と口付けを――――」

 と、言い出しながら近寄るロタの前にカタリが立ち塞がり睨み合いを始める。けれどロタは、その状況を楽しむように微笑み始める。それはカタリも同じだった。

「いくらか、回復した?」

「全快の3割程度には。あなたの薬のお蔭です」

「そう、毎日飲んでるみたいじゃん」

「ただあの薬は苦くて‥‥」

「リヒトみたいな子供っぽい事言わないで」

 告げられた瞬間、ロタは絶望したようにうめき声を出す。何故、そうのような顔を描いたのか、後で問い質さるを得ない。そして思い出したようにロタが封筒を取り出す。何も言わないで手渡すそれを開き、カタリと並んで眺める。

「罪状?」

「今のリヒトは、自然学カレッジを崩落させた犯罪者です。同時に息吹の力を使って無差別に人々を脅かし、損害、損傷、精神的苦痛をも与えたと―――カレッジの修繕費だけでも当方も無い額は勿論、慰謝料や治療費の請求が届いているとか」

「完全に息の根を止めれば、後ろふたつは要らないって事か」

「では修繕費は?」

「自然学を完全に消し去ればいい」

 封筒の中には自分に対しての罪状宣告、諸々の費用の内訳という――――表でも裏でも重要視される当然の常識を完全に無視した恐喝文が含まれていた。

 罪状をまず初めとして、個別具体的な理由など一切書かれず、一方的な事実だけを切り取って問われる罪のなんと清々しい事か。自分達の起こした犯罪など天よりも高く掲げられている――――しかも、費用に至っては医者や業者の内訳など一切ない。

「負けた腹いせか―――恥知らずが。貴族の誇りとやらはどうした?」

「見せて‥‥こんな送った所で払う訳ないでしょう。先生は?」

「面白いから、教授会でなじるとか」

 秘境のカレッジ群の合意は、現在の一貴族の家の一言よりも圧倒的に優先順位が上であった。あらゆる貴族のご子息ご息女が学ぶ学院である以上、全てのカレッジの一派を従える教授陣には、もはや誰も拮抗する力を持ち合わせられない。

 逆に言えば教授を取り込んでしまえば―――そう思う貴族もいるだろうが。

「前にマヤカから似た物を貰ったか。外は今どうなってる?」

「病院の外については割と面白い光景が見れるわよ。この街であれだけ幅を効かせていた貴族達がリヒトひとりに逃げ帰ったんだから。残ってる貴族学生達は、カレッジだったり寮だったりで縮こまってるみたいで」

「この街の治安も、改善するだろうな」

 自然学カレッジでの記憶を呼び覚ませば、この力を羨んで襲い掛かってきた学生の大半が貴族達だった。つまるところ小競り合い、工房、一派間で起る諍いの原因の全てが貴族達だった。そんな彼らが大人しくなるなど、笑いしか浮かばない。

 我らが異端学カレッジにも、それに類する家や血筋の人間はいるにはいるが、それぞれが自分からにせよ家からにせよ絶縁されている関係なので気に留めていないだろう。

「機関内部は見ての通りです。リヒトひとりに責任を負わせて逮捕する――――外聞的にも規律とやらを正す為にも必要な事柄とか。どうしてこんな無駄な事象に拘るのでしょう?その気になれば人間など、リヒトなら串刺しに出来るのに」

「機関、魔に連なる者と言えども外からの眼には弱いんだ。マヤカはなんだって?」

「しばらく、そこで休息を取ってと。早めの夏休み、余暇だとか」

「‥‥暇になりそう」

 枕に後頭部を打ち付けて天井を眺める。

 突然の狂行に顔を覗き込んでくる二人は、顔を見合わせて『何故』と告げてくる。けれど、それに報いる言葉を自分は持ち合わせていない。暇な理由など暇しかない。

「カタリとロタは大丈夫なのか?何か機関とか貴族から嫌がらせとか」

「嫌がらせー?そんな真似させる訳ないでしょう?もし勝手に私達の部屋に入り込んだら、全員明日には金に代わってるから。寄付してあげるわよ」

「私も同様ですね。運動不足のマーナに遊び道具として授けてあげましょう」

 迷いなく放たれる極刑の数々に、窓の外を眺めてしまう。そして―――

「聞いての通りだ。さっさと失せろ」

 鉄格子越しに放った槍とも言えない水晶の塊は、ヤモリの形を模してこちらを覗いていた使い魔を撃ち抜き砕いた。小さな身体では抑えきれない流れ込む力の奔流に、触れただけで消滅し塵芥となっていく。

「良い眺めとなりました。やはり檻は破壊する為にあります」

「あの先生達の事だから、むしろ破壊するのも推測済みでしょう?で、誰だと思う?」

「誰でもいいさ。考えるとしたら――――討魔局の手勢だ」

 ヤモリと言えば家守または宮守、家の害虫駆除を行う有益な縁起物として重宝されてきた歴史を持つ。また―――あれは生きた虫しか喰わない為、生者に対してはしつこく監視する性質を持つ。

「手段を選ばないのは魔に連なる者なら当然の常識だけど、誰が使ったかわかるような手を使ってくるなんて。侮られてるのか、気付かないのか、馬鹿なのか」

「それって同じじゃない?」

「かもな」

 ひしゃげた鉄格子に、自力で造り出した水晶の檻を被せ砲撃に備える。仮に彼らが敵討ち復讐に訪れたとしても、初手から有無も言わさずに陰陽術は使わない。

「エイル先生呼んで来てくれるか。身体について相談したい」

「了解です。待っていて」

 先ほどの殺気など元からなかったように、献身的に働きかけてくれるロタには心からの感謝しかない。同時にあっさり去ってくれた事に、重ねて詫びが必要だった。

「カタリ、少し頼みがある」

「わかってるから。何かあったら無理にでも回収しにきてあげる」

「‥‥あの時みたいだ―――」

 自然と口を衝いた言葉を噛み切ってしまう。この記憶は自分の物ではないからだ―――この記憶は、刻まれた過去にこの席へ座っていた人間リヒトの物だった。

「焦らないで。少しずつリヒトになって」

「‥‥ごめん」

「謝ってなんて私が言った?今は身体を治す、心は私が満たしてあげるから」




「土下座しろ!!俺に対して!!」

 開口一番の無法、我が水晶の槍は涙を流しそうであった。泣く泣く振り上げた槍に腰を抜かす――――なかなか骨があった学生は意気揚々と柄の短い斧を背中から取り出す。どうやって収納していたのかと思案していると、突然斧が長大に変わる。

 斧とは失礼であったかもしれない。彼が脅しに用いたのはハルバード―――誇り高い戦士が請け負う切り込み役。決して貴族が、ままごとに持ちだす得物ではない。

「いい重量じゃないか」

 槍で受け止めたハルバードに水晶を纏わせ、握りつぶすように固定する。

「いい調整役、工房主がいるみたいだな。先端にここまで重量を与えてもぶれない刀身、逸れない柄—――なのにそこまで軽々扱うか。意外と良い腕してるみたいだな」

「—――ッ!?」

 しかも判断も良かった。

 逃れられないと選択した瞬間、自分の武器を手放し部屋の外へと飛び退く。

 その上懐からではなく袖の中に腕を戻し、新たな術の行使に移る。袖を戻すという行為は腕を失った神や英雄、もしくは異形の者達を模す事に他ならない。

「価値はない。だけど、らしくない。いい腕だ」

 水晶の槍を杖へとコンマ数秒で作り直し、ゴム床を突く。

 瞬きの間に迫る水晶の津波に、背を向けず呑み込まれる彼は驚きで動けなかったのか、それとも最後の抵抗のつもりだったのか――――侮っていただけか。

 海に溺れる彼は廊下の果て、分厚いコンクリートの壁に打ち付けられて―――ただの破片と霧散した後、先ほどと同じように看護師さんが回収して何処かへと連れ去っていく。これで5回目だった。

「それは」

「返す」

「‥‥別に残念とか思ってないから」

 奪ったハルバードをベット脇に立て掛けて、カタリに釘を刺しておく。錬金術師の血が騒いだカタリは放っておけば、そのまま分解、自分の物にしそうな雰囲気だった。—―――先ほどから無価値にも程がある貴族やカレッジ代表学生に溜息を吐いてカタリにとって、今の状況はひどくつまらない物だった。

「お見舞いの品とか言って復讐に来るなんて、どれだけ暇なの?しかも復讐って、やるならリヒトでしょう?逆恨みって知らないの?」

「思いつかないんだろう。そもそも逆恨み以前に、自分達が思ったより大した事なかったからあれだけ盛大に負けたんだ。手の内を隠すのは結構だけど、自分達の最奥以上の力を見た結果の礼が是なんて――――マキトと変わらないな」

「言えてる。自分の術を磨かないで人に当たる所とかそっくり」

 新たな点滴の世話をしてくれるカタリに礼を言うとした所「それと、二度とアイツの名前は言わないで」と念押しされてしまい、俯いて謝る仕草をしてしまう。

 今日だけで既に八組の面会、見舞いの来訪を繰り返されてきたが、その内に五組がこれであった。では残り三組は友好的だったか?それは大いに違う。

「でさ、向こうのカレッジに移るとかの話はどうするの?」

「カレッジ総出で土下座して毎日迎えてくれるなら、考えてもいいかも」

「頷かれたら?」

「その首を落としてカレッジを滅ぼす。誇りと見栄ひとつない魔に連なる者に価値はない」

「ふふ、確かにね」

 力を使ってしまい、軽く眩暈に陥っていると新たな足音が響く。仕方ない、そう自分を鼓舞して新たな槍を造り出そうとすると「こんーにちはー」と間延びしながらも、耳心地のいい声が響いてくる。

「顔色、まだ悪いですねー」

「これでも大分良くなったの。それで、どうだった?」

「現在、迷宮ラビュリントスは外部カレッジには完全閉鎖。例外としてカサネさんの私兵達が踏み込んでいますが、その程度ー。セキュリティーゲートが一新された為、間違いないかとー」

「そう、手間を掛けさせたのね」

「いいえ、ここに来る過程でしたから楽な物でしたよー。それよりー」

 ランタンを腰に下げたヨマイが、指で示す先はあのハルバードだった。これはダメだと首を振るが、ヨマイは「大丈夫大丈夫ー」と気にした様子も一切見せないで手に取る。先ほどの学生と同じように軽々使う手腕に、改めてヨマイの工房主としての力に目を見張る。

「やっと戻って来ましたー。なかなか返してくれなくて困っていたんですよー」

「ヨマイの工房から生まれた物だったのか‥‥」

「はーい。間違いなく、この私の手で生まれたハルバードでーす。外形型ゴーレムの試作品として作り上げてみましたがー。まだまだ満足の行く物でなかったので、実験と再利用の肥やしにと考えていたのでー」

 聞き慣れないゴーレムの名に、疑問を持ったが「お気になさらずー」と唇を指で突いてくるヨマイの動作に言葉を失う。揺れる髪と共に漂う甘い香りを吸い込んでしまい、膝の布団を握るしか出来なくなる。

「代償は高かったみたいね。貸出でもしてた訳?」

「形のない力を縫い止める役割、杭として求められたので造り変えて提供したのですが―――余程気に入ったのか、支払われた代金が尽きても返してくれなくてー。まぁ、この事は私個人ですからどーでもいいんです。それで学究の徒についてですが」

 世間話は終わり、カタリが病室の扉を閉めに行く。それが済み、傍らに戻って来たカタリが視線で続きを促す。

「では、私の調査結果を発表します。学究の徒、もしくはそれに類する正体不明の組織による接触は現在確認されていません。けれど―――先日の社交界、宴に参加する為に秘境に訪れた方々の内、ひとグループだけ顔を見せていない組織があります」

「参加を名目に入り込んだ組織がいるのは、間違いないのか―――」

「はい、どうしてわかったかについては私の人脈、外から物資を搬入する方々からの情報でーす。自力で持ち込むのは億劫な家財道具をホテルに送る為の方々ですからー危ない人ではないですよー」

 ヨマイの人脈にはいずれ聞かなければならないが、あれだけの動乱の中、学究の徒が動かなかったのは、ある程度火消しが済んでから動きたかったのだろうか。

 だとしたならば、彼らの気の長い手堅い策略に関心してしまう。

「危なくない物を搬入してたのはわかったけど、なんで顔を見せてないってわかるの?」

「その中に松葉杖らしき物がいくらか含まれていたそうでー。だけど、そんな杖を突いていたのはリヒトさんのみ。まぁ、軽く視界に入れただけで実際に杖そのものかどうかわかりませんが――――とにかく、杖を突いてまでこの秘境に訪れたのに、松葉杖どころか車椅子ひとつ使わないで姿を見せないのは違和感があるかとー」

 ヨマイの違和感には納得した。確かに人に見せる為に着飾った杖が搬入されていたというのに、それを使った人間は見渡す限りいなかった筈だ。

 何かの術具である可能性もあるが―――だから、危険な方々ではないと言ったのだろう。どうやらヨマイの知り合いは、そういった検疫官に近い人物のようだ。

「どこのホテルか、わかるか?」

「それが消えてしまったそうで。これは特段不思議ではないので、黙認したとか」

「—――らしいのは秘境の検疫官でも同じか。つくづく魔に連なる者は、」

 目元を手で覆って首を振ると、カタリに肩を押され横に倒れる。

「それについてはマヤカと先生に伝えよう。リヒトは休むの、わかった?」

「‥‥だけど、」

「私達が狙われるかもしれない?言っておくけど、この状況で一番危ないのはリヒトだから。私は、リヒトが危ないから手伝ってあげてるだけ。いい?」

 ヨマイに視線で助けを求めるが、仕事を終えたヨマイはハルバードを構え直し傷や変形の確認を始める。カタリに改めて視線を戻すも、絶対に受け入れないとわかる表情だった。

「わかった‥‥」

「どうわかったの?」

「‥‥ちゃんと病院で身体を治しながら、薬も飲む。ご飯も食べる」

「そう、それでいいの」

 これ以上はドクターストップが掛かってしまった。マヤカからの言伝通り余暇を過ごすしかないようなので、カタリに両手を開いて抱擁をせがむしかないようだ。





「お身体は、いかが?」

「‥‥あまり良くないです。特に手が痛くて」

「あ、ふふ‥‥」

 今日最後に尋ねてくれたのは、アマネさんだった。少しだけ意地悪に返した言葉に、朗らかな笑いで迎えてくれた同級生の才女は、困ったように手を握ってくれる。

 白い手と爪、青い血管が浮き出る皮膚には傷ひとつなく―――安堵する。

「何も仕込んでないんですね」

「‥‥酷い―――私、お見舞いに来ただけなのに」

 冗談ではない趣に慌てて手を離した声を掛けようとするが、手ばかり振ってしまい―――気に掛ける言葉が思いつかない。普段の日常の所為だった。自分は他者からの攻撃には慣れていたが、純粋な気遣いには慣れて来なかった。

「すみません、平気ですから‥!!あの、お見舞いありがとうございます!!」

 まず最初に頭を下げるべきなのか、謝罪の言葉を紡ぐべきなのか知らなかった。

「せっかく慣れないお見舞いに来たのに。リヒトさんは、私には来て欲しくなかったのね―――ごめんなさい」

「違いますから!!アマネさんが来てくれて嬉しいです!!行かないで‥」

 立ち上がって去ろうとするアマネさんの手を引こうにも、動かない身体を無理に引きずった弊害が生まれる。布団に騙されてベットの寸借を見誤り、転げ落ちそうになる―――けれど、見計らっていたように受け止めてくれるアマネさんがいた。

「あ、これも初めて。同年代の男の子との抱擁って、こういう感じなのね」

 頭を肩で持ち上げられながらベットに戻される自分も、怖いくらい顔が熱くなっているのがわかった。

 カタリやヨマイとは違う、涼やかで軽い花のような香りに血流が早まる。

「お顔が真っ赤ね」

「‥‥助かりました」

「ふふ、気にしないで」

 こちらばかり意識してしまっているのに、アマネさんは至って正常だった。片手を頬に付けて微笑んでいる顔色には、血の気こそ感じられるが普段通りとしか形容できなかった。—――自分が小さく感じる。

「聞かないの?」

 口火を切ったのはアマネさんからだった。

 彼女にとってこのまま取り留めのない会話を続ける現状が、何よりも怖かったのかもしれない。それは自分にとっても同じだった。見上げる顔はやはり普段通り、焦りが呼吸にも響かず、膨らむ肺にも異常性は見当たらなかった。

「‥‥やっぱり胸、好きなのね。真面目なお話をしたかったのに」

「そ、そんなつもりじゃ―――すみません」

 視線は胸元に引き寄せられていると気付かれてしまった。

 身を捩るように胸を庇うが、腕の間から零れる自分の質量に首を捻り始めるアマネさんと目が合った時―――ついお互いに微笑み返してしまう。

「カタリさんがいるのに。リヒト君は男の子なのね‥‥さぁ、聞いて」

「—―――アマネさん、あなたは陰陽方ですね」

 胸をすく思いだっただろうか、それとも胸を貫かれた気分だっただろうか。憑き物が落ちたような表情になったアマネさんは、ただただ痛々しかった。

 魔に連なる者ならば誰もが忌み嫌う討魔局の陰陽方、同時に自然学カレッジの才女であり、次期自然学カレッジ教授候補とも目される彼女は、どれだけの軋轢に怯えていただろうか。何もかもから逃げ出した自分にとって、途方もない重みだった。

「いいえ、違います。私は、私の家はもう討魔局には所属していません」

 胸を潰すように拳を押し付ける彼女には、一切の曇りも迷いもなかった。

 何も恥じる事もない、ここにいるのは自然学カレッジのアマネ。いつも一般学生、貴族学生共に分け隔てなく中心にいる引く手あまたの秀才だった。

「信じてくれる?」

「信じます」

「‥‥ちょっとずるい」

 この返答は想定外だった。何故だ?そう問いそうになった時、窓から入る月明かりに照らされたアマネさんの顔は、月に照らされていてもわかる程に赤く染まっていた――――その表情に、安堵の息を吐く。

「もう、どうして笑うの?」

「すみません、アマネさんと初めて親しくなれた気がして。アマネさんは、その後どうですか?」

「ありがとう、気にかけてくれて。私は平気です。あの人達も、機関の方々に逮捕—――保護されたのでもう街を歩いていないから、もう顔を見る機会も無くなるかも」

 少しだけ棘がある言葉に、アマネさんの本音が見て取れた。

「討魔局は嫌いですか?」

「ん――ちょっとだけ。ごめんなさい、あの時は嘘を吐いてしまって。‥‥私達は少しだけ複雑なの。だから、どうかここまでで許して。私だけの話ではなくなってしまうから」

「カサネさんとも関係しているんですね」

「‥‥酷い、知っていたのに言わせたなんて」

「すみません。だけどその手はもう効きません。カサネさんに同じ事を言われました―――彼女のとの事は言い難いって。あの人が白紙部門に所属しているのも、同じ理由ですね。答えて下さい」

 何度も同じ手には掛からないと諦めたアマネさんは、ようやくこくりと頷く。

 ならば、恐らくアマネさんの家が討魔局から離れる事となった切っ掛けはカサネさんだ。もはや没落しているとは言え、討魔局は一時この国の秩序維持を担った存在。

 一派から離れるにはあらゆる恩恵を含めて、利子を付けて返さなければならない。

 もしくは近辺に置けない程の大罪、または偉業を成し遂げてしまったか。

「私達は、元いた土地から追放されたてしまった。ふふ、だけどそれは遠い過去の話。それにきっと彼らから離れて私達は正解だったの。魔に連なる者に鞍替えをして正しかった―――大きなお屋敷の深い座敷に隠れ住む必要はなくなった、友達も沢山出来て家も大きくなったから。私、今とても幸せなの」

「俺も、友達と数えてくれますか?」

「勿論—――だけど、少しだけ」

 布団の上の手を握り上げたと思った瞬間、指を噛まれた。

「え、え?」

「ふふ、美味しい」

 突然の凶行、幼い少女のような仕草に驚き、何も考えずに指を舐めてしまう。

 その行いに気が付いた理由は、アマネさんの鏡移しの行動だった。

「困った男の子。こんなに私を辱めるなんて。リヒト君は胸に抱かれるのが好きだと聞いたなのに―――もしかしてカタリさんも、そうやっていじめてるの?」

「‥‥いじめてなんか。むしろカタリがいじめて来るのに」

「ふふ、やっぱり」

 いつの間にか下げていた視線を上げた時、アマネさんの顔が眼前まで迫っていた。

 丸い大きな瞳に憂いの色を与えたアマネさんは、魔眼を造り出したかのようだった―――いや、違う。疑う余地もなかった―――これは魔眼。月明かりに隠されているが、その奥にある瞳はわざとその形にカットされた宝石にも似ていた。

「‥‥すごい、効かないなんて」

「俺は、もう人ではない」

「—――そうだったのね。本当に人から離れて―――」

 静寂を打ち破ったのは、扉を叩くよく響く音だった。

「時間みたいね。また明日、必ず来るから」

「いや、違う。遅すぎだ―――」

 右手でアマネさんの襟を掴み上げ、無理やり背中に隠す。同時に動かない左手に水晶の柱を通し無理やり骨格を造り上げ―――腕に不格好な盾を造り出す。

 無音、無回転、無動作で破壊された扉が壁のように迫る。そして激突の衝撃に肩が外れる寸前—―――ベットを貫く水晶の根が完成、天井に弾き返された扉が轟音を上げて床に落ちる。

 間に合った水晶の盾を、扉の一波が終わったと同時に更に強固にアマネさん共々全身を包むように呼び出す。顔が見えた、そう脳が認識した瞬間に水晶の檻にひびを入れる打撃に口を結ぶ。爪から浮き上がる血の痛みも忘れ、水晶柱で反撃にかかる。

「動かないで!!」

 身動きをするアマネさんを、右手でベットに押し付けて水晶柱をカウンターのように突き出す。だが、襲撃者の動きは―――人間離れ、人間が想像した完璧な身体能力を持ち合わせていた。

 長い黒髪、小さい顎、膨らんだ胸元に反して細く狭まる腰。顔付きで女性だとは思ったが、その実彼女は人外だった。到底真っ当な人間とは思えない。

「いやー!!驚いちゃった♪確実にその顔面貰ったと思ったのにね!!」

 向けられた兵器を受ける訳にはいかない。だが避けられる時間も無かった。

 部屋全体を顎とし、口を閉じて中を守るように、何層もの水晶壁、柱、牙、腕を模した水晶を造り出し―――近代兵器による爆撃に耐える。

 やはり彼女は人間とは思えなかった。病院全体を震わせ、崩壊させかねない榴弾を生身、しかも片腕だけで放った。水晶どころかマヤカやマスターのような布も補助もないのに。

「うーん、流石に想定外かも。どうして今ので死んでくれないの?」

「‥‥シネ」

 前歯を破壊し、奥歯まで届き自分とアマネさんを守る、囲むように造り上げた腕の数本だけしかなくなった時、ようやく上下から挟み込んだ牙で爆炎が止まった。

 自分が作り上げたのは顎だった。守る為の牙があるのなら、灰とする為の息吹も整っている。顎を開け、ようやく何も守る物も攻める力もなくなった時、その邪悪な顔を見つめる。その顔は子供のようだった。あらゆる物が遊び場、あらゆる者が玩具。

 そこに立っているのは、悪魔とも言えない人間の真正。人間そのものだった。

「あ、ちょっとマズイかも♪」

 壁など気にかける暇もない。開いた顎の果て、中央にいる自分の構える息吹を―――楽し気に鼻で笑った瞬間、その姿の前に新たな人物達が現れる。

「子供‥?」

「君と同じだよ、少しだけ違うけど―――またねー!!」

 少女達の手には松葉杖。それを模した銃火器に再度顎を閉ざす事となる。

「うんうん、あの親子からの情報通りだね。その力を使うには、対象の視認が必要。向こうの彼を見習ったら?彼は、見なくても見える人外だから」

 夥しい銃火の閃光に目を焼かれながら、耳を突き刺す美声だけが聞こえた。

 

 

「ま、待て‥」

 血でも混じりそうな声を放つが、背中に備えられた手に心臓を抑える。一歩として動く事が叶わない骨と皮、水晶ばかりの痩身では限界が見えていた。

 もはや深紅の光にしか見えない一直線の銃弾の光線に、水晶の壁で扉を塞ぐしかなかった。自分が呼び出し編む瞬間には、既に数十数百の弾丸が牙を叩いていた。

「ん~?何か言ってるの~?聞こえなーい♪」

 耳を押さえる仕草すら忌々しくも、何も告げずに逃げようとする彼女の不気味さに寒気がする。あまりにも直情的であるのに、その内には確かな算段、狂気にも等しい彼女だけのルールを内包してこの襲撃に吐き気を感じ始める。

「動かないで‥‥」

 弱弱しい声を水晶を削る銃弾が掻き消していく。その質量は既に廊下を薬莢や貫通せずに終わった弾頭達が埋め尽くすほどだった。見覚えのない松葉杖型の兵器は、その内から銃弾を量産しているのかと錯覚してしまう程の、内容量を誇っていた。

「う~ん、カッコイイ!!可愛い男の子なのに騎士様の真似事も出来るなんてねー。畜生風情が粘るじゃないか―――大人しく人間の家畜に徹してれば良かったものを、

そうすればわざわざ私がお前程度に出張る必要もなかったのにさ!!」

 洪水を生み出す準備は整った。

 だけどそれを凝縮、全身分の竜骨に変換せざるを得なかった。留めのように発射された砲弾の雨、拳代の火薬と鉄片の塊であるグレネードランチャーの弾頭が地震を引き起こし、地響きを鳴り知らしめる。

「へぇー頑張るじゃん。うん。やっぱりそろそろお暇—――」

 水晶越しの景色の果て、黒髪の襲撃者が真横に―――廊下の角を越えて砲弾のように突き飛ばされる。唐突に表れた人物は、豪奢な白のローブを纏った悪魔使いだった。真後ろ、陣形の中心に表れた人物に周りの少女達が銃口を向ける――――。

「ごめんね」

 黒い影としか形容出来ない幾本もの腕が少女達を殴りつけ、壁や床、或いは天井へと投げ飛ばす。ひとりがこちらに転がってくる姿は、まるで人形のようだった。

「そこから動かないで」

 日常と変わらない、時たま機関本部で見かける優しくて甘い年上の女性の笑みを浮かべたアマネさんは、瞬きの内に消え去っていた。

「‥‥大丈夫?」

「—――すみません、限界です‥‥」

 ベットに倒れ込んだ時、部屋中を包む水晶の骨や腕、牙達が燐光をあげて砕け散っていく。霧散した水晶の光の粉に包まれながら抱き寄せてくれるアマネさんは、目元を濡らしている。

「守れませんでしたか‥」

「いいえ、あなたは私を守ってくれた。ごめんなさい、私泣き虫なの」

 温かな体温の中、精一杯の微笑みで送り出してくれたアマネさんは、やはり自分よりも年上だった。優しくて温かくて、この身を任せても何ひとつ恐ろしくなかった。






「どう?身体が戻ってる感じする?」

「‥‥よくわからない。だけどカタリが大好き」

「いつも通りって事ね」

 知らず知らずのうちに新たな病室に移送された時、自分の手首にはカタリが用意してくれた輸血パックが繋がっていた。佳境に入っていた薬物は自分への医療品であったのだと、事ここに至ってようやく知り得た。

「ただの塩水じゃあ、リヒトの身体でも限界が来る。どうにか腕の毒を抑えながら身体の補充、再生も出来る薬品が欲しかったの。—――言っておくけど、多用出来る物じゃないからね、それも毒な訳だから」

 手を握りながら優し気に知らせてくれるカタリと、もう片方を握るロタが槍を片手に「私は不満です」と笑顔で知らせてくれる。警護兼世話役を買って出てくれた。

「‥‥なんかサッパリしてる。カタリが?」

「と、ロタ。あのアマネって人?あの人も手伝おうとしてたんだけど、リヒトの裸見た瞬間逃げちゃって。まだまだ乙女って感じ。私の方が大人ね」

「—――そうかも」

 単純にそれは、見慣れているかどうかの違いではないだろうか。

 どちらかと言えば、この出会った頃からこの年齢までのリヒトの身体を見慣れて、触れ慣れているカタリの方が大人への階段を登れていないのではないか。

 けれど同時に新たな疑問が浮かぶ、何故戻って来てばかりの時は目を覆っていたのか―――迷宮もかくや、摩訶不思議なカタリの心は未だに掴み切れない。

「ロタが駆けつけてくれたって聞いたけど、どんな状況だった?」

「まず私がここに到着した時、部屋にはまだリヒトの水晶が舞っていました。その過程で廊下に転がっている人形達を見つけはしましたが、あの方—――エイル様がすぐさま回収、カサネという人間だった者を何処かへ連れ去って行きました。私は、その後リヒトの部屋の警護をしていましたので、これ以上は」

「‥‥ありがとう、助かった。夜中だったのに駆けつけて、嬉しかった」

「ふふ、私の姿など見ていないのに。素直なリヒト、やはり世話役が必要なようね」

 舌なめずりをするロタから守るべく、カタリが胸に引き込んでくれる。

 —――疑問は埋まらなかった。あの襲撃者、黒い人形ではない真っ当な身体を持った人間は一体誰だったのか。マスター達から幾らか聞いているのなら、ふたりが話してくれる筈。なのに、ふたりともそこには触れなかった。

「—――教えてくれないのか?」

「教えたら大人しくするの?しないでしょう?」

「‥‥そうかもしれない」

「じゃあ、言わない」

 上から見降ろしてくるカタリの顔は、全てを知っていると物語っていた。

 ロタの言った人形とは、きっとカタリ達の技術—――錬金術が関係している。危険だから言わないのか、それとも――――もっと個人的な理由、家族が関わっているのか。どちらにしてもカタリは何も言ってくれなかった。

「私、先生と話してくるから。大人しくしてて」

 頭を解放したカタリは、声や手を伸ばしても振り返らずに去ってしまった。扉を開ける仕草すら冷たげで、自分どころか自分以外の全てに憤慨しているようだった。

「‥‥カタリ、怒ってる」

「追いかけてはいけません」

「そうだけど、でもカタリは幼馴染なんだ。ひとりにさせたくない」

 肘に力を込めて上体を起こそうとした時、ロタがベットに腕力で縫い付けてくる。ロタに何故だ?と視線で問うが、首を振るばかりの戦乙女は決して自由を許さなかった。

「先ほど、カタリはなんと言いましたか?」

「大人しくしてて―――」

「では、それに従いましょう。カタリは、あなたの為に寝ずに薬を完成させました。言いませんでしたが、私をここに送り込んだのはカタリです。一晩でその薬液を実用可能レベルまで向上、安定化させた彼女の指示に従わないのですか?」

「—――わかった」

「どうわかったの?」

 顎を指で持ち上げ、無表情で眺めてくるロタの顔は鏡のようだった。自分の選択肢によっては、自分の導き手は容赦なく意識を刈り取りに掛かる。

「カタリには時間が必要‥‥俺の為に時間を使ってくれたんだ。それにカタリは俺の医者で恋人—――だから、言う事には従わないといけない。大人しくしてる」

「はい、男の子のリヒトは私達に従わないといけません。困らせないで、いいですね?」

「‥‥頑張る」

 顎を離したロタは、すかさず額に口づけをしてそのまま後頭部を枕に埋めさせる。

 突き出すよう張った胸、ロタの豊満な膨らみは制服越しでも分かる程深くて、甘い香りにも思考を奪われ言葉を失う。

 —―――過去にマスターから同じ愛撫をされたのを思い出した。

「ふふ、頑張って下さいね。しばらくの間、私はリヒトの隣にいる事となりました。同時に―――」

「単位の危ないリヒトよ!!早い夏季休暇中の夏期講習に、この私が来たぞ!!」

 分厚い鋼鉄の扉を突き飛ばし開け放った時、その豊満な身を振りかざし影と光によって身体の凹凸がはっきりとし――――淫靡で底知れぬ肢体の持ち主であるマスターが屹立していた。窓から差し込む光など、マスターの後光には到底及ばず、端正過ぎる顔を光輝かせるスポットライトとなっていた。

 ヒールを履いたマスターの、モデルを彷彿とさせる一切足元を見ず胸を張る、腰に手を付けながら一歩一歩近づいてくる姿は――――女神の誕生、新たな主の到来を目撃したようだった。けれど、その携えた微笑みは悪魔のように甘く愛くるしくて、悪魔の名を冠したケーキの如く中毒と成りそうだった。いや、既に虜となっていた。

「マスター」

「ん?どうかしたかい?」

「‥‥抱きしめて欲しいです」

 悪魔の笑みから、温かな女神の笑みとなったマスターは全身を使って息も許さない抱擁をしてくれる。完成された肉感的な四肢は、柔らかな脂肪に覆われた筋肉で全ての者を魅了する―――けれど、それを堪能、捧げられるのはこの自分だけだった。

 耳元から聞こえるくすぐったい鈴を転がす微笑に、鳥肌と神経の痺れを感じた。

「その身体でよく彼女を守った。女性を守る君は、素敵な男性だ」

「‥‥やっと大人に成れましたか?」

「そうだ―――と言ってあげたいけれど、終わった瞬間に意識を失って倒れてしまっては大人とは言えないぞ。アマネ君、とても心配していたんだ。無事な姿を見せてあげなさい」

 背中を軽く叩かれた時、マスターの肩越しにその少女を見つける。手には、あの時と同じ植木鉢を胸と腕で抱え、もう片方の腕には白い花を見つける。

 けれど―――その顔は、笑顔ではあるけれどロタが時たまやる「私はとても不機嫌です」と告げる晩鐘を訊くに等しい、否、覚悟を問われる裁定者の笑みだった。

「ふふ、お元気そうで何より」

 かつかつと耳心地が良い靴音に、自然と背筋が凍り付いて行く中、耳元で微笑むマスターが腕で温めてくれる。歯を鳴らす震えをひとしきりマスターで終えてから、ようやくアマネさんの見舞いの品々を受け取る。

「顔色、また酷くなってしまったのね」

「大丈夫です。俺、結構強いので」

 平気だと植木鉢を抱えながら告げるが、彼女の顔は晴れていなかった。

 自分でも分かる白い顔は、冷たくてマスターの頬や耳で火傷をしそうだった。土気色とさほども変わらない不健康を絵にした顔色では、元気づけるなど不可能だ。

「うん、知ってるよ。あなたは私よりもずっとずっと強いって。誰にも負けた事の無い、尊い方—――神獣リヒトは、私達人間には触れる事さえ叶わない次元の違う獣」

「—――あなたは、アマネさんは平気でしたか?」

「あ、心配してくれるの?うん、平気だよ。あなたが守ってくれたから」

 花束を抱き締めながら、花を首元に寄せながら告げてくるその姿勢は、どこか天女を思わせた。

「まずは座ってくれ。ここはリヒトの個室なんだ、椅子も好きなだけ出せるから」

 花束を受け取ったマスターの指示に従って、ロタとアマネさんがそれぞれ絶妙な壁を作るように椅子を並べて腰を掛ける。その姿にマスターは満足そうに頷いて自身はベットに腰を下ろす。具体的にはこの神獣の胸を押して横にさえ、枕を見下ろす。

「こういった手管をリヒトは好むのさ。ロタ、ひとつ賢くなったな」

「‥‥甘んじて受け入れましょう」

「では、講義を始める。アマネ君、君もこの学院の学生、交換学生のつもりで聞いて行きなさい――――君達は功利の怪物という単語を訊いた事があるかい?」

 功利の怪物—―――それを聞いたロタが首を捻るが、アマネさんは思い当たった事があったのか、手を叩いてはにかんだ。その仕草が可愛らしくて、ここに『功利の怪物』がいたのだと再確認する。

「ロタ、もし君の目の前にケーキ、甘味があったならどうする?」

「リヒトに自慢して一口だけ上げて中毒に、しばらく遊んでから全て目の前で食べてしまいます―――ふふ、勿論リヒトの分もありますから安心して」

「よし、今のは聞き流す。アマネ君ならばどうだ?」

「はい、勿論食します」

「ああ、そうだ。もし君達が幸福を目指すのなら迷わず手に取ればいい」

 マスターが講義室で見せる教育者然とした表情、前髪を整えながら肯定する。

 そうだ、もし個々人が自身の幸福を求めるのならば、眼前のケーキを手に取って口中に含んでしまえばいい。得られる幸福の差は個人によってあれど、利益に飛びつくというのは食欲であれ性欲であれ、本能という物は抗い難い衝動である。

「では、それが君の友人達全員で感じたいのなら、君はどうする?」

「はい、切り分けたり多く購入、用意しておきます」

「ならば、それが一つしかない。或いは怪我人に与えるひとつしかない薬であったなら―――治療という幸福の結果を可視化、数字化出来るとしたらどうする?」

 この問で、ロタはこの怪物が理解できたようだった。「なるほど」と呟きながら立ち上がって後ろの鞄から新たな薬液を用意、腕に繋がっているスタンドに下げてくれた。

「もしこの薬が、ケーキであったなら、そしてケーキを食べればリヒトの傷が癒されるのなら、私は迷わずリヒトに与えます」

「そうだ、具体的にはひとつのホールケーキで5の幸福が得られるとする。そこで5人いるのならそれぞれが1の幸福を得られる。だが、もしその中のひとりに一つのホールケーキで1000の幸福が得られるとしたらどうする?全体の幸福を願うのなら、全てその人物、効率的に幸福を得られる『功利の怪物』に与えるべきではないか?」

 大多数、全体的な幸福を願うのならばマスターの言う通り、全て怪物に与えるべきであった。100の集団の内、例え99人が不幸になろうと99人では到底叶わない幸福量を叶えられる怪物に全て与えれば、結果的に集団の幸福量が増える事となる。

 だが、そこには勿論弊害もある。99人を犠牲にしている所だ。

「ロタ、もし君の槍がリヒト以外の全てを救える力を持っているとする、ならば君は槍を手放すか?」

「いいえ、リヒトを救えないのなら私は槍を手放しません。身体だって預けません」

「学生らしくなってきたな。ああ、そういう事だ。これはひとりを生贄に、それ以外を救えるのなら構わないではないか。この暴論に通じる道でもある―――では、アマネ君、もし君が将来赤子を」

「赤ちゃん‥‥私の」

 頬に手を当てて、赤く染めながら俯いてしまったアマネさんは戦力外だった。

「‥‥リヒト、私の話を聴いてどう思う?」

「もし『功利の怪物』が存在するのなら、それは赤ん坊、子供です。食事だったり入浴だったり、全ての事に最大の幸福を感じてくれる怪物は、無垢で素直な存在—――それがペットだったり植物だったり、ひとによって違うかもしれませんが」

「では、それだけの理由で怪物を養うか?」 

 マスターはあくまで、講師としての立場でこの議題を進めている。

 ならば、たったそれだけの理由で『怪物』に何かもを与えるのは、いかがなものか。幸福という本来目に見えない『力』とも呼べる概念は、決して手に取れない。

「—――もし、それが触れられる、目に見える物ならば、俺は守らないといけません。俺みたいな思いをさせたくありません。‥‥喜んで笑ってくれるのなら、もししてくれなくも。いつか笑ってくれるから」

 幸福は伝播する。それが笑顔であったり成長であったり、完成であったり―――目に見えての結果、与えられる報酬としてこの心を震わせてくれる『幸福』という概念は決して一方的ではない。注げば注ぐだけ実入りがあるとは断言できない。

 —――だけど、それはきっと幸福だ。

「ああ、そうだ。共感性という物は人だけではない動物でも感じるそうだ。幼子が、自分の子が笑いかけてくれるのなら『怪物』を養う事も受け入れられる。この『功利の怪物』は、本来物質的な豊かさを分け与える功利主義の反論として生まれた。だが、実際には現実に存在していた―――ロタ、手伝ってくれ」

 左腕の点滴に、新たな薬液が注入される。

 スタンドにはロタが、手首の針はマスターが。全体の幸福を得るのなら薬ではなくケーキを用意しておけばいい。死に掛けの自分など放置して外へと遊びに出ればいい。—――だけど、幸福とはきっと不可逆的なのだ。失われた幸福なり得る時間は、もう手には戻らない。そして与えられる幸福は、返さなければならない。

「ありがとう。早く元気になるから―――だから、守って」

「約束だ。必ず私達の元に戻りなさい。我らの隣は、君しか歩めないのだから」

 きっと『功利の怪物』は現実の赤ん坊だけではない。目に見えない存在だけど、確かにそこにいるのだ。育み与えあう力、仮に名を与えるのなら―――それは。

「少し疲れましたね。さぁ眠って、私の愛しい人—――お休み」

 薬の副作用なのだろうか、手首へ繋がる管に薬が流れ込む光景が断続的に途切れていく。明滅する視界の中、楽しく笑うロタの顔と銀に輝くスタンドに埋め尽くされる。微かに感じられる聴覚の世界に、三人の談笑が瞬くのがわかる。

「その、こう言ったら怒られるかもしれないけれど」

「言いなさい。ここには君と同じ人外しかいないのだから」

「—――子犬みたい」

 もはや目も開けられない病室に、確かな微笑が響く

「君にもわかってしまったか。ふふ、私達皆が思っていた事を」

「ごめんなさい。だけど、はい。ふふ、子犬みたいだなって前から思っていて」

「ええ、わがままで甘えん坊で。だけど言いつければ大人しい良い子になって。隙あらば何度も甘えて―――このリヒトは子犬です。そして、とても危険な獣です」

 




「言えないの」

「だけどマヤカ、」

「言えないの。私のお願い、聞いてくれない?」

 胸の前で組んだ腕で、自分の胸を抑え込む手管はマヤカの特技と成っていた。

 この手は何度も使われた。自分の言いたくない事やお願いを聞かせる為に、こちらからの言葉を奪って「リヒト、どこを見ているの?」とサディスティックな笑みを浮かべる。そしてこの神獣をいいように使って、後から「お疲れ様」と抱き締める。

「ふふ、どこを見ているの?そんなに私を噛みたいの?また犯されたい?」

「‥‥抱きしめてくれるなら」

「約束する。この胸で抱きしめてあげる。好きなだけ、ね」

 僅かに顎を上げたマヤカは、勝ち誇った顔を影で表現してくる。その顔はあまりにも美しくて、大人びていて。—――初めてマヤカに犯された時を思い出す。

「その身体でも反応してしまうのね。だけど、それは夜中に自分で諌めて」

「そ、そんな事しない。‥‥わかった聞かない」

「ごめんなさい。どうか秘密ばかりの私を許して―――お願い」

 時々マスターのような空間を無視した歩法を用いるマヤカは、いつの間にか顎と胸を指で撫で上げていた。柔らかくて鋭い魔女の指を使うマヤカは、舌なめずりをしながら見つめてくる。

 それが目の前で、眼球を舐めるように見せられた所為だ。目を閉じてしまう。

「ほら、また私に勝てない」

 留めを刺すように唇を舐めてくれたが、それ以上は感じられなかった。

「‥‥マヤカ、誤魔化されるのも仲間はずれも嫌なんだ」

「怒らせてしまったのね。だけど、どうか許して。私はあなたの恋人—―――年上の初めての魔女を信じて。—――それとも長い入院生活で欲求不満?」

「‥‥必ず抱きしめて貰うから」

「ふふ‥」

 最後に額に口付けをしたマヤカは、吐息を吹きかけながら去ってしまう。その背中に言葉を掛けようにも、マヤカの残した吐息と髪の香りに当てられて、呼吸ばかりしてしまう。

「終わりましたか?」

 外で待っていてくれたロタが、当然とばかりにベットに腰掛けてくる。その顔は只々無表情で疑問を持っている自分が間違っていると言わんばかりだった。

「マヤカさんの香りですね。また誑かされたの?それとも犯された?」

「‥‥そ、そんな酷い事、されてない」

「あなたとマヤカさんが個室から出て来る時は、いつも同じ顔ですよ」

「—――気を付ける」

 クスクスと笑うロタが、振り返りながら頬を撫でてくる。

「では、準備を」

 先に立ち上がったロタが車椅子を運んできてくれた。エイル先生からの限定的な許可をようやく得られた身体は、ロタの手を加味しても身体は衣で包まれたように軽かった。そのまま飛び降りるように車椅子に座った時、ロタが運び出してくれる。

「これで二回目ですね」

「助かってる。やっぱりロタがいないとダメなんだ」

「ふふ、素直な子はいい子です。リヒトは男の子なのだから」

「どういう意味?」

「さぁ?一緒に行きましょう」

 それ以上の返事をくれないロタは廊下を押して渡り、エレベーターへと運び込んでくれた。




 ロタが押す車椅子に押され、到着したのは機関本部であった。少し前、と言っても既に二週間は経っている二度目の訪問は、なかなかに騒がしかった。

 その理由は、至極単純。学究の徒からの襲撃を受けた張本人たる自分を呼び出したからだった。しかも、討魔局の後ろ盾が大臣だけではないとつい最近判明した。

「—――警察、でしたか?」

「広義の意味では、特務課は警察の傘下にいる。俺達が知らないだけで学究の徒とベッタリだったのかもしれないけど。よりによって討魔局のバックには警察もいたなんて」

 ヨマイの逆探知の結果だった。まだ何も声明こそ出されていないが、陰陽術の供給源—――それは警察庁、つまりは公安の元の部署から流れ込んでいた。

 しかも運び込まれた荷物を強制的に押収した結果、形代や太刀、魔狩りすら彼らの印が押されていると判明。あまりにも堂々たる兵器の製造を、秘密裏に行っていた。

「ヨマイは?」

「危ない橋を渡ってしまったとかで、しばらく迷宮に隠れるとか」

「なら、早く歩けるようにしてあげないと」

 ヨマイの交友関係には今更言及するつもりもなかったが、あまりにも恐ろしい交友関係を使って討魔局の荷物を奪取、それらを迷宮に持ち込んで発掘学内で解析。

 その結果がこれだった。

 機関内部を駆け回るのは機関所属だけではなかった。大量の電子機器を荷台で運びながら、スマホ片手に説明をする学生達は発掘学カレッジの住人達。

 彼ら彼女達にとっても見過ごせる技術ではなかったようで、ほぼ無報酬で働いていた。

「彼女の話によれば、地脈に直接干渉しているとか。確か第二オーダー街とやらの地下にあるレイラインを狂わせてひとつの方向に収束、ひとつの力にのみ発展させて枝葉させた。けれど、扱いとしては根に近い―――人工的な脈を造り出したと」

 ロタが伝えてくれるヨマイの話に息を呑む。

 一本の力の流動を造り出すではない、場当たり的に何処へ伸びるかもわからない根—――それこそ亀裂に近い物を勝手に造り出し、この秘境を包み込んだ。

 強大なひとつの銃口ではない、散弾銃よりも無差別的。

 爆撃、爆弾—――彼らの行う爆炎にも類する供給源を造り出している。

「ここまでの下準備、秘境への侵攻はずっと昔から想定していた。学究の徒との繋がり、やはり持っていた―――それともただ都合がいいから名前を借りただけか」

「土地を開発するとは、カタリ達から聞かされた陰陽師の特徴、始まりの役割と同じですね。確か家だけではない川や橋、そして儀式や祝日の日取りも決めていたとか」

 全てを見越していかのような文言に舌を巻く。

 つい視線を上げてロタの顔を眺めると、そこには普段通りの笑みを浮かべるロタが車椅子を押していた。優し気であるのに、何処か冷酷な笑みを湛える戦乙女に、残酷な女神の面影を見つける。

「どうかしましたか?」

「ロタ、ロタは最初から全部知ってたのか?」

「ん?私はリヒトの戦乙女です。リヒトの事以外など、どうでもいいの」

 鼻歌を奏でるように、上機嫌になったロタは高い音符が可視化出来る笑いを流す。跳ねるように歩むロタの美麗さに、殺気立っていた人間の全ての視線が吸い寄せられる。空間が切り取られたかのような静寂の中、響くロタの鼻歌に息を止める。

「どうしましょう。人間などという矮小で卑怯で醜い肉塊が、私を視線で穢していきます。ロタはリヒトの物、ロタの恥部に触れていいのはリヒトだけだというのに」

 全てを言い切る前に、全力で伸ばした腕で通り過ぎそうだったエレベーターのボタンを押し、自分でも感嘆するほどの腕力を以って―――ロタ共々に乗り込む。

「どうかしたのですか?リヒトが人などの視線を気にするなんて」

「ロタは俺の物なんだ。誰にも見せたくない」

「ふふ‥」

 機嫌を悪くしないように、全力で脳をすり減らして編み出した言葉にロタは満足してくれた。けれど、これさえ見透かされている―――この神獣の限界を見極めての難題を与えているとしたら、この戦乙女は生粋の人外。

 人に下される災害そのものだった。

 突貫的に緊急的に避難したエレベーターであったが、この道筋は正しかったようだ。目指していたカサネさんの私室のある階への直通であり、時間も短縮できる。

「もしかしてここまで想定済み?」

「ふふ、リヒトは男の子ですね。全ての世話をしてあげないと不安になってしまう」

「‥‥少しは大人になった。ロタだって褒めてくれただろう」

「いいえ、リヒトはまだまだ男の子です。私がいないと満足に眠れないのだから」

 口を結んでしまう。ロタの胸の上で息を荒げていた自分を、思い出してしまった。

 微笑みながら頭を抱いて、褒めてくれる姿に自分は少しは成長したのだと自負していたが、ロタにとってあれは褒め言葉でしかなかったのだと気付く。

「‥‥満足させてみせるから。必ずロタに大人って言わせてみせるから」

「知りませんでしたか?ロタは、男の子なリヒトが好物なのに。それに大人になっては、ロタと一緒にゲームが出来なくなります」

「これは俺のプライドだ。必ずロタを抱きかかえてみせる」

 口を衝いた物は、過去にマスターへ送った言葉だった。きっとロタは『いつになる事やら』と呆れているだろう。だが、これは自分への誓い。背を伸ばさなくては。

 世間話は時間を忘れさせる。いつの間にか、後一階となっていた頃—――扉が開かれる。そこに立っていたのは自分の息吹に焼き焦がされた討魔局のひとり。

 あの少年に言い負かされていた女性のひとりだった。

「あ、行って下さい‥‥」

 一瞬、歩み出そうとしたが躊躇した女性は視線を逸らしたまま下がっていく、が。

「入ればいいじゃないですか。僕達も上に用があるんだから」

 女性の肩を掴むように現れた少年は、裏など見当たらない満面の笑みでこちらを見返してくる。杖と足で、角と咆哮、息吹で蹴散らされた日を忘れたようだった。

「まだこの街に居たのか」

「まだ保護を受けなければならなくてね。それに、僕達を捕らえているのは君達だろう?」

「原因はそっちだ。無駄な駆け引きは時間の無駄だ、乗りたければ乗れ」

「—――では、失礼するよ」

 会釈でもするように、或いは暖簾でも潜るように歩み寄ってきた少年は、傍らの女性を引いて乗り込んでくる。こちらと自分の間に置いた女性は盾でもあると同時に、必要な時の重し――――突き飛ばす武器でもあった。

「嫌がってるぞ、離したらどうだ?」

「見苦しかったかな?だけど、僕も彼女の身を守らなければならない。君の不意打ちには、散々痛い目に遭っているからね」

「—――この見た目の俺に言っているのか?」

 車椅子姿で、手首に薬液を下げている自分に対しての態度とは思えなかった。

 顔こそ逸らしているが、女性も自分の袖の内に手を隠し、少年に至っては隠しもしないで佩いている太刀の柄を撫でていた。魔狩りは没収されたのは事実らしい。

「無駄な駆け引きをしたくないって、君が言ったんだよ。それとも地方者の君には、その程度挑発にも入らないのかい?」

「リヒト」

 買い言葉に売り言葉—――続け様の声を発しようとした時、後ろの恋人が声を掛けてくれた。それだけで浮き上がった肺を引き戻し、自分の呼吸を取り戻せる。

「‥‥行こう」

 扉が開かれた時、自然な速度で押し出される背後に嘲笑の声が駆けられる。それが風圧とも感じられたが、振り返る程度のそよ風でしかなかった。

「ひとつ、わかった事がある」

 背後から呪詛で投げかけようとしていたのか、背中に回されていた手が止まる。

「そうやって去る人間全員に後ろから声を掛けたんだろう―――見捨てられた当然だ。親切心で教えておく、最後に残ったお前が一番の裏切り者だ」





「マスター、どうされましたか?」

「ん?エイルに酷く絞られてね。リヒトを連れ出す条件として、色々と呑まされた‥‥覚えておいてくれ。その身体はリヒトひとりの身体ではないのだと」

「‥‥嬉しいです、マスター」

 車椅子姿のままで手を伸ばすと、呆れながら笑んだ年上の恋人に両手を握って貰えた。繋ぐ度に思った――――この手に自分は守られているのだと。

 合わせれば自分よりも僅かに大きいとしか見えないが、それは大いに違う。

 この手に頭からつま先まで、全て握られ支えられているのだと。

「ではリヒト、君は私に何を施してくれる?君を連れ出す為に私は大きく力を割いたが、この期待に応えてくれるかい?私からの抱擁と慰撫に、足り得る神獣かな?」

「はい、マスターの教えに従って―――万人を全て灰燼に帰します。誰であろうと」

「うむ。頼りがいがあるが、それは気持ちだけ受け取っておこう。ロタとヨマイ君から聞いたな?この秘境は私は勿論、君達が想像しているよりずっと昔から彼らに狙われていた。彼らとは二種類いるが、それは誰と誰だ?」

「討魔局と学究の徒—――あの放火魔と襲撃者」

 本人がいない私室にて、マスターは我が物顔でソファーに腰を掛けていた。足を重ねる妖艶で、僅かに覗かせる夜の蠱惑的な行為に息を呑むと、後ろからロタが小突いてくる。

「私に見惚れるのもほどほどに。いや、常に見惚れたまえ。私は、君のマスターであり、君は私の弟子であり恋人なのだ。君に良からぬ行いをさせない為、常なんどきでも私に夢中であるべきだ。そう、これは世界の理に他ならない」

 立ち上がったマスターの踏み慣らす、心地良いヒールの音に耳を奪われていると、受け入れられない訳がないと吐息がぶつかる範疇にまで顔を寄せる。

 瞬きなどしよう物なら、一瞬で飲み込まれる―――そう確信した時だった。

 ほぼ無音の槍の石突きが側頭部に見舞われる。首がそのまま遥か彼方に飛ばされる勢いに、車椅子ごと壁まで滑るとそこには仁王立ちのカタリが待っていた。

「元気そうじゃん―――外に出て平気なの?」

「ずっと病院に居ても同じだったんだ。休める場所を、造り出さないと。‥‥ごめん、怒らせて」

「謝るならロタに言って。ずっとリヒトの為に護衛をしてくれてたんだから‥‥ごめんね、休める場所すら造ってあげられなくて」

 車椅子を元の場所に戻し終わった時、脈を測ってくれる。

 温かくて幼くて、なのに心臓が跳ねるぐらい成長を感じられて。

「いつまで誤魔化してるの?こんなに冷たくて震えてるのに」

「‥‥震えてなんかいない」

「私に嘘を吐くの?」

 握られた左腕を奪われる。肘に伝わる痛みは目が確認してからだった―――神経を伝わってくる筈の触覚は、やはり数テンポも遅れていた。

 皮膚、神経、脳、視覚—―――本来このルートで繋がる外界との接触の回路はこの身体の中で既に崩壊していた。マスターの吐息を感じる筈の顔は動かず、ようやく伝わってきたこめかみの鈍痛に、顎を痛める事もない。カタリに触れられている左腕の動脈は、骨で冷えているとわかる程だった。

 一度皮膚の全てを焼かれ、身体の内外を完全に分解、再構築した弊害だった。

 元のリヒトの姿を模せているのは見た目だけ、中身は到底同じ物とは言い難い。本来は時間を掛けて、自分の内臓や脳髄、背骨を『思い出す』筈だったのに。

「強がってるつもりだったの?ずっとロタが傍にいた意味、わからない訳じゃないでしょう?」

「‥‥だったら、どうすれば良かったんだ。街を歩いても襲われて、カレッジではロタを連れ去られて――――病院では暗殺。この秘境に安全な場所なんかないじゃないか」

「‥‥そうかもね」

 左手首の袖を上げて、アルコールと布で拭いてくるカタリは機械のようだった。

 錬金術師の薬と残された遺産、遺物でこの身体を造り出して、魂を呼び寄せたカタリが―――この身体の状態を知らない訳がない。

「カタリこそ、どうして病院から出て良いなんて言ったんだ」

「‥‥静かにしてて。ロタ、押さえつけて」

 何も言わないで、顎に槍の柄を押し付けてくる。頭を胸と槍で拘束したロタは、何も言わなかった。もしかしたら自分は危険な状態なのかもしれない。

 内部からは見た目ばかりの身体の崩壊が、外界からはカタリの薬が。一瞬の抵抗などロタの力で押さえつけられるだろう。だけど―――。

「ちょっと痛いけど我慢して。‥‥ねぇ、抵抗しないの?」

「‥‥しない」

「どうして。こんな状態なのに」

「ここから逃げろって言うなら、そうする。だけど、今カタリは薬の準備しかしてない。ロタもいつも通り押さえつけるだけ。何も変わらない日常なんだ、俺だけ違う事をしていい筈がない。—――注射器、苦手なんだよ」

 微かに、ほんの微かに鼻で笑った声がした。

 やはり、何も変わらない。普段通りにそれぞれの役割に徹しているに過ぎないこの状態で、ふたりを傷つけるなんて出来なかった。元から人間ではない戦乙女に、神獣を呼び出す為に人間と決別した錬金術師。そうだ、ここに人間などいない。

「大丈夫、まだ俺は人間の違いが分かる。まだ生き物として見えてる――――カタリを、人間と一緒になんて見てない。まだ人間の振りが出来るから」

 自分の姿を、完全に認識してしまったら自分は完全なる神獣となってしまう。

 蟻の違いが肉眼ではわからないのと変わらない。相互理解など不要—―――いや、不可能だ。この身体は、下位生命体たる人間と会話が出来るように調節させた器でしかない。ならば、この身体を自分ではないと自覚してしまえば、振りさえ出来ない。

「—――ロタ、離していいなんて言ってないんだけど」

「リヒトには、このやり方が相応しいかと」

 槍を消したロタが、胸と腕だけで頭を抱き締めてくれる。強い薬にいつも酩酊する自分に、ロタは気が済むまで心音を聞かせてくれた。

「‥‥ねぇ。私達、まだ人間の世界に居ていいって思う?」

「わからないよ」

「そう、だよね。私にもわからない――――私はさ、リヒトを呼び出したのだって自分ひとりじゃ、耐えられないって思ったから。この世界で生きられる程、私は自分が強くなってわかってるから」

 ベルトから取り出した薬液に刺した注射器針の中身を、僅かに捨てる。

「全部自分の都合。全部私の勝手。なのにリヒトは全力で応えてくれてる、どんな姿になっても、こんなに痛めつけられても変わらない。なんで?」

 肌に添わせた針を刺す寸前、顔を見上げてくる。

 強気な目元は変わらない。一切揺れない指先は、見なくともこの身体の血管を正確に捉える。迷いなどカタリには相応しくなかった。

 だけど、落涙を知らない訳じゃない。嗚咽と絶望に呑まれた時すらあった。

「こんなに苦しめてる私がいる世界を、リヒトはまだ誇ってくれる?」

「‥‥リヒト、カタリがそう名付けてくれたんだ―――」

 ロタから離れ――――無理に右腕を伸ばした所為だった。

 力の加減を誤り、引き寄せた頭を頭をぶつける。歯と歯を当てて、唇と唇を当てる躊躇いを楽しむ時間は与えられなかった。

「痛いし強いんだけど。後、危ないから終わったらにして」

「だけど、今言わないといけないんだ。俺は、この世界に来た時から変わらない―――カタリが呼び出してくれた、祝福してくれた。なら、やっぱり俺はカタリのいる世界を誇れる」

「その半分見えてない目でも、そう視えるの?」

「目が見えなくても、そこにカタリがいるのはわかる。ならやっぱり、誇れる」

 返答は短い物だった。「そう」視線も合わせずに執り行われた認識作業に、錬金術師は針で終止符を打つ。前兆も無しに終えられた薬物の注入に鋭い痛みを感じる。

「しばらく、そこで眠ってて」

「起きたら、褒めてくれる?」

「—――約束してあげる」

 左手首から首を伝い、口元を痺れさせる毒に暖かみを感じた。脳を握りしめられている感覚は、思考を停止させ自分の領域を明け渡すに等しい。それは死だ。

 限りなく視覚化不可能な世界への旅立ち。自分は、今確かに死を体験している。

「必ず起こしてあげるから。だから、あなたも約束して―――最初は私の顔を見て」





「どうかしたの?すごくご機嫌に見えるよ」

「そう思いますか?」

「うん、彼女との会話はそんなに嬉しかった?」

 海から引き揚げられた時、半強制的に椅子代わりにされていた。そして自然な雰囲気で持たされた水晶の杯を、自身の腹の前に―――傍から見ると後ろから抱き締めている姿にさせられた自分は、白い方の髪に口づけをしてみる。

「ん?何度かそうされたけど、私の髪は美味しいの?」

「はい、とても‥‥」

 枝毛などない垂直な髪は、ただ白いだけではなかった。手に取ってみれば分かる、その実態は水晶の七色が重なり、結果的に白く見ているに過ぎない。重ねられた髪を手で流してみれば、この世界の空を思わせる刹那的で瞬間的な煌めきを見せつける。

「くすぐったい。だけど髪を撫でられるの、気持ちいいかも」

「気に入りました?」

「‥‥特別に許してあげる」

 得意気ながらも、どこか不服そうな神喰らいの竜は、握らせていた杯を持ち上げて酒を煽る。喉の動く姿に官能的な容姿と感じられたが、振り返って微笑む姿はやはり幼く見えた。

「また笑ってくれた。うん、私もあなたが笑ってくれるととても嬉しいよ」

「嫌いじゃない、ではないんですね」

「‥‥うん」

 頭を押し付けるに甘えてくる姿は、やはり猫というよりも直情的で子犬のようだった。いたずら好きでわがままで。だけど、叱られると小さく縮こまる。

「あ、そうだ。私の言いつけ守ってくれたね。ちゃんと全部自分の身体に留めてたね」

「‥‥全部ではありませんでした。身を守る為に、かなり消耗してしまいましたから」

「でも息吹を使わなかったよ。だから褒めてあげる」

 視線を創生樹に移した時、水晶の巨大な腕がまた湖を突き破って生まれる。巨大な影を造って迫る姿は、何度見ても圧巻だった。

 人間が見る自分の姿も、このような感覚なのかもしれない。

 腕が握りしめた水晶の卵は、青ではなく七色の酒が満たされている――――自分の身体の一部なのだから恐れる物はない、そう伝えてくる無防備な白い方は盃を奪う。

 盃に注がれた七色の酒は、七ツの首を持つ蛇を酔わせるヤシオリを彷彿とさせた。

「今までと違いますね」

「でも、美味しいよ。あなたの為に作ったの」

 膝の上で器用に振り返って渡された酒を、間髪入れずに飲み干す。この姿に気を良くした我が主様は、更に酒を注いでくる。あなたの為に作った―――その意味は一口目からわかった。身体が内側から支えられている、骨が増えていく気さえした。

「美味しい?」

「はい、とても」

 これは愛嬌の類ではなかった。舌に痺れも拒否感もない。本当に水のように飲める酒は、アルコールではない新たな感触があった。自分の血を飲んでいる―――肉でも貪っているようだった。

「まだまだあるよ」

 声を掛けられた気がしたが、今は酒しか目に入らなかった。いつの間にか隣に用意されていた青い実の中身を乱雑に掴み取り、新たな生物の肉を口に放り込む。

 既に中毒となっていた。この浅ましく貪る姿に笑い声がかかる。

「そう、もっともっと飲んで食べて。私が手伝ってあげる」

 自分の飼っている愛玩犬の姿に微笑んでくる姿は天使でもありながら、終わりへと突き進む愚かな姿を嘲笑う悪魔でもあった。自分の指ひとつで突き落とされる脆くて儚い命を弄ぶ神は、とても美しく蠱惑的であった。

「美味しい?」

「‥‥美味しい」

「もっと食べたい?」

「食べたい――――」

 口に運ばれる実の中身を掴み取るなど、もはや不可能だった。かぎ爪へと変化した腕で実を握りしめ、そのまま口に含む。噛み千切った瞬間—――溢れる青い血と零れ落ちる血管と神経、内臓と砕かれた骨—―――そして紫の脳を更に啜り貪る。

「沢山食べてね。沢山用意したから」

 水晶の海から続々と流れ着く、酒と肉を含む実を腕ごと噛み砕くように掴み取り、口に入れる。味など感じられているのだろうか?この身を襲う焦燥感、乾きを満たす為に世界のあらゆる物で身体に満たさなければ―――燃えつけてしまいそうだった。

「あなたには、世界をあげる。あなただけの世界」

 創生樹が揺れる。水晶の枝が音を立てる。だけど、今までの比ではない。樹が海から、その身体を伸ばしているのを、白い方越しに見届ける。今まで海の底から光り輝いていた事しかわからなかった根底が、浮き上がってきた。

「‥‥あれは」

「言ったでしょう?あれは、あなたの世界」

 それは果実だった。創生樹の根本。青い巨大な球体を、水晶の根が掴んでいた。

「世界を喰らう竜には相応しいでしょう?」

「‥‥でも、アレを食べたら」

「あれは世界。樹が作る果実。それに、そろそろ熟し時だった」

 根が崩れる。プリズムの波を起こし、根の中央にいた巨大な果実が水晶の海にはじき出される。果実の巻き起こした津波が迫るが、それが二分される。

 丁度、白い方を避けるように、海がふたつに分かれる。

「それに、あの樹はあの程度では枯れない。あの樹の役割はあの実を作る事」

 流れてくる果実は、遠目から見ても山のようだった。

 巨大というだけで恐怖を感じる。これは生物として本能か、それともあまりの格の違いに畏怖しているのか。真横を通る波ひとつ受けるだけで、塵と消えていた。

「今度のは失敗作なんかじゃない。あれは、間違いなく成功する世界」

「食べたい‥」

 勝手に口が開いた。それに、白い方を抱きしめる腕に力が入ってしまう。

「うん。美味しいよ。私も、食べた事がある。ここにいた神よりも、美味しかった」

 抱かれたままの白い方が、腕を果実に伸ばす。

 その瞬間、果実が海に沈み、砕ける。

 轟音など聞こえない。だけど、世界に降りてくるその果実の破片でわかる。

 破片ひとつ、身体に受けるだけでわかった。これは人間などとという下位が住む世界じゃない。きっと黄金の時代を永遠と続ける神々の世界。

「だけど、あれは切っ掛けにしかならない。ようやくあなたの中で育った叡智の結晶と、彼方の狼の血が目を覚ますに至った。だけど、使いこなすにはあなたの世界は狭すぎる――――だから、あなたの中で新しい世界を造り出して」

「‥‥だけど、そうなってしまったら俺は」

「私が、信用できない?」

 腕の中で微笑む姿は、やはりいたずら好きな方だった。だけど、この方はいつもこの端末の為に身と時間を割いていてくれた。時間という概念を知らぬ、感じられないこの方にとって、何かを準備するとは苦痛以外の何者でもないのに。

「大丈夫—――私の血も上げる。私の血の方が、あの実よりも優先される。あれはただの入れ物、回路でしかないの。私達の血を世界に流して必要な力を算出、求める結果を入力すれば表現してくれる―――ふふ、あなたは世界と私に何を求める?」

「—――決まってます」

 腕から可憐に逃れた白い神が砂浜に足跡を残しながら開かれた実に足を乗せる。

 手を伸ばしてくる白い神に応え――――肩を抱きながら実の中央へと歩みを進めた。足元の青い水晶板を踏みつけ光り輝く実の中央、それは脳であり中心であり心臓であり―――種でもあった。祈るように包まれた新たな星の創造神、機械仕掛けの神は未だ意識を持たず、産声を上げる時は今か今かと待ち望んでいた。

「可哀そうに見える?だけど、この世界はあってはいけない」

「何故ですか?」

「何故?だって、この世界は必ずあなたの世界を侵略しにくる。世界を越えるのは構わない、それも生存競争、ただの自然現象でしかないから―――だけど私のあなたを苦しめる姿勢は、とてもとても腹立たしい。あなたが食べないのなら、私が溶かす」

 指一本だけ、包まれた種に触れた瞬間—―――種に僅かな亀裂は走る。

「さぁ、どうか喰らって。そうすればあなたはまた一つ、私に近づける」

 両手を掴んで誘う姿は、天使でも悪魔でもなかった。自分の眷属の為、あらゆる国や事象、生まれる筈だった機構を全て焼き捨てて下賜する神々そのものだった。

「私が食べさせてあげるから」

 再度白い神が種に触れた瞬間、種は水晶の卵の包まれその身を隠してしまう。

「あの中に私の血肉も含まれたから。だから、このまま食べて」

「—――あなたを食べられるのですね」

 自分を優に超える巨大な影に身を包まれ、潰されるように迎え入れる。水晶の狭間、中を移し出す結晶の間に血と肉に溶かされた種を見つける。

 溶かされ、這い出る筈だった神々の破片は笑みを浮かべてしまった。

 小さい海に浮かべられた世界と成り得る種は最後の抵抗なのか、その身を伸ばし世界創造、星の再現へと分不相応にも目指そうとしていた。けれど、それは自分の中で模して貰う他なかった。






「満足した?」

「‥‥もう動けません」

 白い足に身を預け、波に身を任せる。包まれる身体は熱を帯び、水晶の海が余分な力を溶かしていく。海を覆う程だった果実の破片は既に無く、創生樹に呑み込まれていた。

「うんうん。満腹で動けないあなたも可愛いよ」

 自分の足に押し付けながら、髪を梳いてくれる主は普段の何倍も優しくて愛らしかった。慣れない気遣いに苦闘しながらも、自分がされて嬉しい事を真似てくれる姿は、血の祝福—――眷属の誓いを立てた時のようだった。

「全部食べてしまったね」

「‥‥すみません。あなたも食べたかったですか?」

「うんん。とても嬉しいよ、私の用意した力を余さず食べてくれて」

 この方が食べさせてくれる世界は、大半が失敗に終わる、或いはつまらないと裁定を下した物ばかりだった。もしかしたら成功する世界を食したのは初めてだったのかもしれない。

「何故、俺にあの果実を?」

 胃の中で、まだ熱を帯びている力が頭を包み込んでいく。柔らかな波の抱擁に眠りの世界が近づいてくるのがわかる。

「‥‥あなたがこれから出会う存在は、きっとあなたには理解できない。外なる神々に、あなたはとても有効であってとても無防備でもあるから―――星と世界に望まれた矛たるあなたは、もう消えてしまっている」

「‥‥矛?俺が―――」

「そう。だから外の力に通じる世界を食べて貰った」

 自分の学んできた魔に連なる者の知識では、到底理解出来ない言葉の数々だった。

 外なる神々とは一体—―――そして自分が、自分だった者が矛だと。

「どうか恐れないで。あなたの敵である人間は、彼らに憧れ崇め、神格化してしまった。本来は星の外、深宇宙の果てでしか力を行使出来ないのに―――」

「‥‥俺は、どうすればいいのですか」

「あなたは望むままに。必ず、それがあなたの―――」




「食べる?」

「食べたい!」

 カタリの手から直接食べさせて貰う昼食。いつからか自分はサンドが好物と知られている中、カタリが手間をかけて造ったベーコンと葉物野菜を挟んだボリュームあるバゲットを用意してくれていた。

「美味しい?」

「美味しい!!」

「‥‥そう」

 自分の分も気にせずに食べさせてくれる手に感謝しながら、塩と胡椒というシンプルながらも、熟練の技と神獣の好みを知る経験がなければ造り出せない味付けを頬張り続ける。まばらながらも均一性すら感じられる塩気に―――唇も舐めてしまう。

「‥‥ねぇ、美味しい?」

「美味しいよ、カタリは食べないの?」

「‥‥食べる」

 恐る恐る自分の用意したバゲットをひと齧りする。震える口を閉ざす姿に、痛々しさを感じ始めた。手を引いて自分の足に腰掛けさせると、顔を背けられる。

「—――私ね。ちゃんと知ってたの。貴族の中にリヒトが飛び込めば、遅かれ早かれこうなってたって‥‥。きっとアイツらは正面から殺し合う気概も度胸もないから、必ず人質だったり暗殺を企てるって」

「‥‥言わないで、俺を放置してた。そう言うのか?」

「‥‥うん」

 前髪で顔を隠し、視線を絶対に合わせないカタリの腰が細く脆く感じられた。

「酷いよ。俺」

「ごめんなさい」

 口を汚したままの顔でも気にしないで胸で抱きしめてくれたが―――カタリ自身が抱擁を求めていた。自分が起きるまで、ずっと抱きしめてくれていたのが汗と香水の香りでわかる。目が覚めた瞬間、跳び起きて離れたのだとわかった。

「どうして、守ってくれなかったんだ」

「薬を造ってたから」

「—――だけど、話す時間はあっただろう」

 何も言わない錬金術師は、吐息で胸を膨らませるばかりだった。心音を荒立てる事もなく、卑屈そうにも億劫そうでもなかった。だけど、は何も言ってくれない。

「カタリ、俺は今—――カタリが一番怖いんだ。此処に呼び出してくれたのに、カタリは俺を見てくれなくなってる。‥‥俺の世界から、カタリが居なくなって来てる」

「違うッ!!」

 張り裂けるように叫んだ時、自分が小さく感じた。

「違う違う!!私は!!リヒトがいるから、まだこの世界に居てられる!!誰の為に私が薬を造ってると思ってるの!?全部—――全部‥‥」

「わかってる。全部俺の為だってわかる。だけど、俺にとってもカタリは特別だから。ずっとカタリだけを見て生きて来たんだ―――もう離れたくないのに」

 逃げようとした細い身体を引き寄せて、震える爪で服を掴み握る。

 何故カタリが自分から離れていたか。考えるまでもない、自分の近くに置いていた方が危険だと、わかりきっていたからだ。

 学究の徒。まだ数人しか見ていない、その上取り調べにも関われていないが―――きっと転がってきた人形のような彼女は、ホムンクルスに通じる『何か』だ。

「俺は、ロタもマスターも大事だ。絶対に守らないと気が済まない、だけど」

「だけど何?私の力が信じられないの?」

「‥‥傍にいる事は出来た筈なんだ。俺が襲われてる時、カタリにも襲撃があったんだろう。何も知らなくて、思いつかなくてごめん。俺、やっぱり何も出来なくて」

 マスターは最初から言っていた。

 カタリがあの場に居れば、まず間違いなく狙われる。錬金術師の後継者である彼女の知識こそが、学究の徒たる組織が最も望む至宝、隠された秘術だった。

「ずっとカタリの傍にいたつもりだった――――この俺とリヒトは違うってわかってる。だけど、カタリが俺を特別だって言ってくれて嬉しかったんだ。カタリの隣にいれて誇らしかった。カタリの特別でいられる自分が、嬉しかった」

「‥‥もう嬉しくないの?」

「違う。違うんだ。—――もう、カタリにとって俺は特別じゃないのか。ただの荷物、枷でしかないんじゃないのか」

 一瞬の隙を突かれる。顔から離れた身体を視認した時、ただの手の平で頬を叩かれる。血がはじけ飛びそうな痛みの中、銀に変えた手で冷やし癒してくれる。

「一度でも、そんな事言った‥‥。私がリヒトの事を迷惑だなんて言ったの‥‥」

「わからない」

「言ってないッ!!そんな酷い事、あなたに一度も言った覚えないから!!」

 両手で顔を掴まれ、無理に目を合わせられた。泣きそうだったのはカタリだった。

 次の言葉を迷っているのではない。溢れ出る感情を誇り高い彼女は自制心と優しさで押さえつけて、震えて操れない唇で発しようと呼吸を整えている。

「—――前にも言ったでしょう。あなたを呼び出したのは、全部自分の為。私の都合であなたを呼び出して、リヒトって名前を付けた。迷惑なんて思った事も、思わせようとした事もない。独りぼっちを埋めようとした感情もあったのも、確かなの」

「なら、何で見てくれないんだ。なんで傍に置いて、話してくれなかっただ」

「‥‥あなたを捨てた覚えなんてない。だけど、」

 銀から元に戻した腕を胸の前で押さえつけて、祈るように見つめる。

「リヒトは、寂しかったの?」

「もう独りぼっちは嫌なんだ。置いてけぼりも置いて行くのも、嫌なんだ」

「‥‥そっか。ごめんね」

 残っていたバゲットを差し出され口を塞がれる。

 もう何も言わないで欲しい。数週間前の関係に戻りたいのも、同じ気持ちだった。だけど―――置いて行ってしまったカタリを、また見捨ててしまう気がした。

「聞かせてくれ、カタリは何に狙われてるんだ。俺は何を消せばいいい」

 自分の出来る最大にして最低限の存在意義、何者も許さない極光の矛先を召喚者に聞き促すと――――俯きながら顔を振ったカタリが、鼻で笑ってくる。

 何故?そう口を衝いてしまいそうになった時、やはりバゲットを差し向けられた。 

「そんな身体で私を救いたいの?そんなに私の役に立ちたいの?なら、まずは身体を治して。リヒトがどれだけ自分の身体を大切にしてないか、毎日気にかけてる私の気持ちがわかる?」

「‥‥そうすれば、喜んでくれる?」

「うん、喜んであげる。それに褒めてあげるから」

 ならばと思い、一切れを一口で食べ尽くす。僅かに焦げたベーコンの香ばしさと新鮮なレタスの歯ごたえが心地いい。水など不要なと高らかに告げてくる瑞々しいバゲットは、ひと噛みで使っている食材の高品質さが伝わってくる。

 そして―――最後のひとつになった時、驚きがあった。

「‥‥それステーキ?」

「そう。ステーキサンド、食べたい?」

「食べたい!!」

「どうしよ~かな~」

 持ち上げたステーキサンドが、艶やかに自分の美味しさをアピールしてくる。

 そのパフォーマンスや問答無用で誰もが目を奪われ、その美味に想いを寄せ―――食べる事の出来る選ばれし者に、嫉妬の念を送りつける事だろう。

「あ、あ!!」

「美味しい♪」

 カタリが見せつけるように一口食べた時、目が緩み始める。自分に『待て』など言った試しもないカタリからの拷問に、ソファーの上で涙ぐみそうになる。

「カタリ‥」

「はいはい、ごめんね」

 ステーキサンド。一枚の巨大な肉を切り分け、指一本分の太さと長さになったレア肉を挟んだバゲットは、専用のソースが掛けられている事で更に香しく、色艶やかに見えた――――ソースは醤油を基本に作り上げたのか、唾液が溢れそうになる鼻孔をくすぐる慣れ親しんだ匂いに酩酊しそうになる。

「自分で食べる?」

「食べさせて!!」

「めんどくさいリヒト。仕方ないから、食べさせてあげるね」

 向けられた瞬間、噛みちぎった肉と野菜、ソースを歯と舌で混ぜながら呑み込む。口当たり、歯触り、舌触り、後味—――全てを余す事なく楽しむ為、一切口を開かずに次を求める。先ほどとは違い、バゲットの中間に差し掛かった事でソースの濃厚な味と分厚いステーキに突き当たった。存分に歯で噛み千切り、舌の全てを包み込む甘くて柔らかい肉とソースを味わい尽くす。

「あ、ごめん」

「また私の指まで食べて。そんなに美味しいの?」

 三度、ステーキサンドを噛んだ時、知らず知らずのうちにカタリの指を口に含んでしまっていた。謝りながらもソースが掛かった指に、恐る恐る舌を伸ばすと―――震える程の美人、サディスティックな笑みを浮かべるカタリが歯を見せていた。

「へぇー。許可も与えてないのに、また食べるんだ―――」

「だ、だめ?」

「美味しいの?そんなに私が欲しい訳?」

「‥‥うん。カタリと一緒になりたい」

 その瞬間、押し付けられるようにステーキサンドが差し出される。だから、一切の躊躇も消し去りステーキサンドに邁進する。最後の一口となった時、何も言わないのと良い事にカタリの指どころか手諸共口に含む。

「そう!!それでいいの!!リヒトは私と一緒になりたいのね?言ったわね?確かにそう言ったよね?仕方ないから一緒に成ってあげる。嫌とか言わないよね?」

 矢継ぎ早に紡がれる―――当然の事実に、指を含みながら頷く。

「ほら、やっぱりリヒトは私がいないとダメじゃん。置いて行く訳ないでしょう?こんなに世間知らずでわがままなリヒトを、捨てる訳ないでしょう。私が躾けてあげるから、荷物なんかにさせないから覚悟して!!」

 引き抜いた指を自分の口で清めながら、強きに微笑んでくる。

 この強気でサディスティックで、脆くて独りぼっちで―――優しい笑顔がカタリだった。抱き寄せられた首に拒否権などなく、柔らかくてハリのある唇に空気ごと奪われる。生気を奪い去る悪魔のように、力を奪い続けられた事でソファーに押し倒される。

「どうしたの?まだまだ満足できないんだけど?」「‥‥唇だけ?」それ以上を求める為、頭を上げた時—――唇を指で抑え付けてソファーに押し戻される。

「大人のが欲しい?それは退院してから。いい?」

「わかった―――我慢してみる」

「そう、私を思い出してするのもダメ。気付かないって思った?」

 顔が真っ赤になるのがわかる。目を合わせて欲しいと思っていた先ほどとは、真逆の状態だった。楽しむように顔を覗いてくるカタリから手で顔を塞ぎ、「もう、許して」と吐露すると。高笑いを上げて引き上げてくれた。

「ふふふ。で、何が聞きたいの?」

「‥‥いつから」

「ずっと前から。そんなに詳しく聞きたいの?なら、今度聞かせてあげるね」

 この部屋、カサネさんの私室から逃げ出そうとしたが手を引かれた身体は、まるで言う事を聞かなかった。そして、カタリの胸を枕にしながら引き戻される。

「ふふ、誤魔化すのはもう止めにするね。なんでリヒトから離れないといけなかったのかは、これが理由。私が危ないってわかったら、誰でも殺してたでしょう?」

「殺す」

「そう。そう言うと思ってたから」 

 優し気な微笑みを携えながら、手を引く仕草に懐かしさと共に大人びた母性に近い物も感じた。細められた目と緩やかな口元に、淫靡ささえ感じながら。

「また見惚れてるの?じゃあ問題、私はなんでリヒトから距離を取っていた?」

「学究の徒—―――彼女らが狙うとしたらカタリ。だから、カタリの傍に俺がいたら諸共に狙われる。そこで、もしカタリが攫われたら、俺が人を殺してしまったから」

「正解♪」

 一本の指を上げて、成否を伝えてくる幼い行動に、また見惚れてしまう。

「可愛い‥」

「はいはい、わかってるから。もう気付いてるかもしれないけど、『学究の徒』って私達錬金術師の―――術だけに興味がある無法者の事みたいなの。だから当然、最後の錬金術師である私を狙うのは必然的。リヒトの事で有名になっちゃたみたい」

「なら、尚更なんで俺から離れたんだ?殺さない程度には、俺だって」

「私はこれまで、三回リヒトの前で怪我をしてるけど、その内一回でも手加減できた事ある?」

「‥‥あるもん」

「ないから。嘘吐かないの、いい?」

 今度は不正解だと告げる為、頬を突いてくる。

「—――次は大丈夫。確か人体を使って探究をする一派が学究の徒なんだろう?ならホムンクルスじゃなくて、もっと完成度の高い――――それこそ人間を誘拐して」

「だから、ホムンクルスを求めてるの。‥‥これは秘密、ホムンクルスは本来人間以上の性能を持ってる。前に話したガラス管の中の生物なんてただの失敗作。

 本当は人類が創造した究極的な頭脳と身体能力を持ち合わせてる完璧な人間、を目指す―――だけど、究極の身体なんて人間の精神力じゃあ、到底扱い切れない」

「人間の形をした、人間を模した何か―――マヤカ達」

 その答えに、カタリは小さくだけど確実に頷いた。

「直接言うのは止めて。マヤカの為にも。だけど当然、そんなデザインされたヒューマノイドなんて細胞の消耗が激しくて寿命なんてすぐ尽きてしまう。だから『学究の徒』達は私達を求めてる。理不尽な命令にも確実に答え、自分の身体能力と見識を使って世界に抗う結果を身体ひとつで表現する――――完成された肉体を」

 声が漏れそうになった瞬間、カタリが指で唇を閉ざした。

 カタリがこれ程までに俺を遠ざけて、接触を回避していた理由に気付いてしまった。この身体こそ、カタリが造り出した『器』こそ彼女達の目的だったのだと。

「研究成果と研究者、その双方が別々の場所にいるのなら、リヒトはどちらを奪取する?しかも研究成果は数度の襲撃、病院送りにしても人体程度易々と貫通しうる力の持ち主だったとしたら―――ごめんね、必ず私の方が狙われてるって思ったのに」

 瞳孔が開き、心音が高鳴るのがわかる。

 自分の内側が造り変えられ、与えられた黎明を迎える世界に繋がるのを感じられる。世界を造り出す機械仕掛けの神は、自分の情念、憤怒、命令に従って世界の回路を使って星ひとつを用意する。核は言うまでもなかった―――狼の骸と叡智の結晶。

「コロス―――ミナゴロシだ」

「落ち着いて」

「どいつもこいつも、殺しに来やがって‥‥二度と見れない顔にしてくれる!!噛み砕いて、踏みつぶして―――ただの灰にしてくれようか!?」

 造り変えられた内部が外にも溢れ出す。

 指の先がかぎ爪に、犬歯が牙に、眼球が縦に割けていく。内臓が増えていく―――息吹を造り出す臓物が完成した時—――髪さえ水晶のそれに。あの方を模し始めた瞬間、温かな温もりに包まれる。

「落ち着いて。それ以上人間から離れたら、また離れ離れになっちゃうから」

「だけど、だけどもう俺は!!」

「必ず守るなんて言えない、リヒトを傷つけないなんて言わない。だけど、私をもう一度ひとりにする気なの?傍にいるって、一緒になるって言ってくれたのに」

「—――その為に、邪魔者を消すのもダメなのか?」

「ダメ。一度でも殺したら、リヒトはもう戻れなくなる。ただの享楽で人を殺し始めちゃう」

 蟻を踏みつぶすのと同じだった。もしくは、ただの害虫を殺すのとも似ている。

 残酷で純粋な子供のように、ただの暇つぶしで虫を殺し、溺れさせて高笑いを上げる。大人でも同じだ。気分を害したから害虫を殺す、見た目が気に入らないから殺す。—――それは自分が施されてきた扱いと同じだった。

「リヒトの優しさ、慈しみを忘れないで」

「‥‥俺は、」

「いいえ、あなたはリヒト。私のリヒトは、あなただけだから」

 慣れ親しんだ髪の柔らかさと腕に目を閉じ、抱き締め返すと星が砕けていくのがわかる。胸を引き裂いて生まれ出る寸前だった憤怒の神獣は、鎮められていく。

「怒るのはいい。だけど、どうか狂わないで。リヒトは、リヒトのままでいて」

 抱き締められた身体は引き寄せられ、カタリが後ろに倒れる。ソファーの上で重なった身体はお互いの骨と肉の重さ、心音と血管を通る血流と肺の膨らみに笑い合う。

「ちょっとだけ大きくなったね」

「‥‥カタリは成長し過ぎじゃないか。なんて言うか」

「背もすぐに追い抜いちゃうかもね。それに、私はもう大人だから」

「‥‥俺もすぐに大人になるから。待っててくれ」

「あんまり待たせないでよ」

 数日会っていないだけで着実に成長、豊満になっていく幼馴染の肢体に口を紡ぐ。普段通りにカタリの胸に顔を沈めて言い淀んでいると、カタリの声が聞こえる。

「そんなに胸が好き?そうよね、昔からここで眠ってたもんね」

「‥‥カタリが好きなんだ」

「そんな事、昔から知ってるから。はい、起きて」

 仕方ない、そう勢いを付けて起き上がる。

「それでリヒトはどうする?私的には、大人しく病院で眠っていて欲しいんだけど」

「嫌だ。カタリと一緒にいる。じゃないと暴れるから」

「そういうと思ったから言わなかったのに。じゃあ、いいのね?私と一緒で」

「カタリじゃないと嫌だ」

 答えは決まっていた。既にこの神獣は、錬金術師しか鎮める事が出来ないのだから。錬金術師の薬で惑わされ、料理で大人しくされ、厳しい躾けで生き方を学ぶ。

 遍く全てをカタリに頼らないと、何も出来なかった。

「嫌だ嫌だって。そうね、このわがままさがリヒトよね。—――じゃあ、早速だけど話を訊いて。私達、先生とロタ、マヤカとで行く場所があるんだけどリヒトも行くでいいのね?」

「行くー」

「はいはい。一緒に行こう」

 大きく呆れた声を上げたカタリに引き寄せられて、車椅子に戻された時扉を叩かれた。





「わかり合えたようで、何よりだよ。誤解は解けたかな?」

「カタリー」

「はいはい、まだ足りないのね」

 甘いサンドを手で食べさせてくれるカタリに、笑みを向けると再度呆れながら笑いかけてくれる。用意してあった保冷ボックスには、マスター達も食したサンドの残りがまだ余っている。その残りを、容赦なく平らげていた。

「美味しい?」

「美味しい!」

「聞いているか?」

 一足先にロタとマヤカは、目的地に到着しているという事なので、今は優雅にマスターの運転する車に揺られていた。慣れ親しんだ砂利道すら愛おしいカタリとの時間は、類似品も代替品もない特別なひと時だった。

「カタリー」

「ん?なぁに?」

「大好き」

「はいはい、私もよ」

「そろそろ到着するぞ。頼むからこちらを見てくれ」

 泣きそうな声になってきたマスターへ、諦めて視線をずらす。ひとり運転手を買って出てくれた我らが異端学カレッジ教授に、相応しくない扱いに謝罪から入る。

「すみませんマスター。俺まで乗せて貰って」

「構わないよ。それに、こうなる事は察しがついていた。カタリ君に避けられていた間、毎日誰かの所に訪れて泣きついていると知っていたからね。勿論私の所にも」

 その瞬間—――産毛が総立ちする殺気が首を貫く。骨が凍り付き砕け散る寸前だと自覚できる殺人的な視線に―――謝る為にカタリの足に縋りつく。

「あまり厳しくしないでやってくれ。大体がカタリ君との関係、どうすれば仲良くなれるかの相談だったのだから。贈り物の相談など、初めてされたのだぞ」

「‥‥へぇ、あの植木鉢はそういう事?」

「頑張って選んだんだ‥‥」

「じゃあ、許してあげる」

 このやりとりに、張本人たるマスターが笑み始める。車内で造られた空気にも一抹の懐かしさを感じた。長い砂利道や坂を上った時、そこにはいつか見た姿と同じロタが立っていた。その姿を視認しながら扉を開けるとロタが駆け寄ってくる。

「車椅子ですね」

「ありがとう、助かるよ」

 ハッチバックドアを開けて軽々と車椅子を降ろすロタは、満面の笑みのままで手を貸してくれる。デザインされ直された肩だけの銀のローブは―――戦乙女として再誕した証だった。

 日差しに包まれながら押された道は、広い中庭であり未だ機関の駐屯地となっている魔人の庭であった。この館で一晩過ごすなど、自分でも遠慮すべきだったからだ。

「これで何回目だろう。学究の徒とあの教授、繋がりでもあったのか?」

「ではないか?の疑いだ。ついこの間、ある研究施設が法務科によって強制捜査された。強制捜査とは正確ではないな、滅ぼされたが正確だ」

「えっと、つまり?」

「この館の地下施設と、レイラインを通じて建設されていたあの回廊、あれらに類似した内装が研究施設でも用いられていた。設計士が同じなのか、それとも―――あれには理由があるのか」

 思い起こせば、確かにあの白い廊下、白い地下施設は大きく似通っていた。教授の趣味かと思っていたが、マスターが睨んだ通り白い廊下には意味があったのもしれない。

「平気ですか?」

「‥‥また頼るかもしれない」

「任せて」

 自分を守護すると誓ってくれた戦乙女が、頭上から見守ってくれる。

 この世界で得られる加護の中でも、最高峰とも言える神の娘からの微笑みは自分だけの天恵だった。そして傍らにいるのは共になると約束してくれた神々と名を競う天使だった。けれど。

「マスターは一緒じゃないんですよね?」

「すまないが、しばらく自制しなければならなくてね。無視しても構わいが、君達がいるんだ。私の出る幕はそうそうあるまいよ」

 手を振って、機関のテントに入っていくマスターの後ろ姿を見送る。と同時に入れ替わるようにマヤカとマーナがテントの布を押して現れた。魔女と自分を銘打っているマヤカだが、その姿は清らかな聖女そのものに見える。

「—――カタリから聞いたのね。怒ってる?」

「少しだけ」

「どうすれば許してくれる?」

「‥‥また料理が食べたい。そろそろ行こう」

 既にローブの下を銀に変えていたカタリが先導している中、何も言わないでロタも車椅子を押して行く。ひとり残されたマヤカは、マーナをひと撫ですると後ろを守るように殿となった。

「地下に行くんだよな。この状態だと、誰かに助けて貰わないと」

「ああ、それなら大丈夫だから。リヒトが迷宮にエレベーター使った時の真似をして、発掘学と機関がエレベーターを造り出したそうだから。お金でもとって見学させとくんだったなぁ」

 心底、そこが心残りだという言うようにカタリが肩を落としながら前を歩く。

 その光景にマヤカの顔を覗き見ると―――なるほど、と言った感じにマヤカが手を叩いていた。

「ロタはどう思う?」

「得られる物は、全て得るべきです。いい足置きにはなるかと」

 遊びのない、遊びだらけの意見を吐露したロタはすまし顔のままだった。庭園を抜け、未だに白のビニールのトンネルが門まで続いている道を通り抜けると、思いの外中は掃除が済み、多くの機関の人間が闊歩している。

 赤の絨毯は取り払われているが、破壊された動物の骨格や鎧、破壊された絵画は破片もなく消え去り、視点を変えればミサのひと場面を見ているようだった。

「もう安全なのか?」

「安全、私達にとってはそう言える」

 つまりは、それなりの腕を持つ者しか歩けないという事だと判断。握っている杖に水晶を纏わせていると、驚く情景が飛び込んで来る。白の衣を纏った女性が立っていたからだ。付き添いの女性と共に、黒い樫の木で造られた階段を上がっている。

「‥‥なんで」

「彼女は自分から申し出て来た。彼らのやり方には、もう付き合えないと。いつ自分を贄にされるやもしれない彼らから離れたいから――――必要な知識を渡したいと」

「裏切り者を信じるのか?」

「まさか。彼女の働き、あなたが初めてそのローブを纏った時と同じテストを下してる」

 どの程度まで自分達の意のままにコントロールできるか、精神を掌握できるか調べているらしい。その証拠に、背後には同性の女性—――こちらも驚いた。

「カサネさん」

 そう呼びかけるが、僅かに振り返った悪魔使いの麗人は豪奢なローブのスカートを翻し、口元に1を造った指を立てて、返事はせずに去って行く。

 二階へと続く階段の果て、木製の窓枠と曇りないガラスから差す光に当てられたカサネさんは、溜息が出てしまう程美しかった。清楚だが四肢の所為で、妖艶に見えて―――それでいて軽やかに階段を上がる姿は少女のようで。

「ふふふふふ。年上という形態がそれほど好ましいのですか?」

「‥‥そういう訳じゃ」

「ロタ、許してあげて。長い禁欲生活でリヒトは我慢できないの」

「精神を律するのは、大人への第一歩ですよ。リヒトは堪え性のない、まだまだ私の男の子。仕方ないので退院した暁には、何分耐えられるか締め上げて差し上げましょう」

 首元で囁かれる声に身震いすると、ロタとマヤカがせせら笑うのが聞こえる。

 何事かと振り返ってくるカタリに助けを求める視線を向けると、「ロタ。リヒトはまだ子供なの。あんまりいじめないであげて」と最も重要な部分を全て肯定する。

「だけどカタリ、このリヒトは可愛くて」

「リヒトが子供なのは仕方ないでしょう?見た目通り童顔なんだから。見た目に精神が引き寄せられるのは当然だから。ロタだってたまにリヒトみたいに子供っぽ事あるし」

 カタリからの進言に緩んだロタが、可愛らしく呻くが―――それは何故か?と聞く為に上を見る。けれど、それほどショックだったのか、ロタは気付かないでいる。

「マヤカ」

「私の男の子リヒト。あなたには、まだ気づいてはいけない事がある。それだけ忘れないで」

 と、これ以上は聞くなと釘を刺してきた。


 誰が技術を漏洩したのか知らないが、自分とロタを運んでいるガラス製のエレベーターは間違いなく、ヨマイの指示に従って設置した迷宮の昇降機に似通っていた。

「ヨマイに知られたら機関に詰め寄るかも。なんで、ここまで似てるんだ」

「違和感がありますか?」

「あの場にいたのは、俺とカタリとヨマイしかいなかったんだ。だけどこのエレベーターは、ヨマイの製造図に似すぎてる。密偵でも放たれてたのか?」

 軽い調子で言っているが、もしそうなのならば機関は迷宮の技術を奪取している事になる。それはあの一件以来手を取り合って運営していくと決めた同盟を、全力で反故している事と他ならない。人面獣心ならば、まだ聞こえはいいだろう。

「—――これはこれでヨマイに話すべきか。身内に気を配れって」

「何故ですか?技術の共有は、不思議な事ではないのでは?」

「もしロタ達の槍が、ただの盗賊に渡ったらどうする?俺達は、そういった技術が奪われるのを守る為に今回動いてるんだ」

「そうでしたね‥‥」

 迷宮で日々生み出される技術や探究、研究、解析結果は到底本人達以外が使いこなせる生半端な代物ではない。迷宮外の住人である自分達が恩恵に寄り添えているのは、彼ら彼女らがある程度汎用的にグレードダウンさせた物だからだ。

 危険な王水そのもので掃除などする酔狂な愚人がいるものか。

「ロタ、ロタは知ってたのか?カタリが狙われているかもしれないって」

「わかりません。そう言ったら、許せませんか?」

「わからない。カタリとマスターが知っていて、ふたりで決めた協定があったんだとは思う。だったら―――無暗に俺達に何もかも伝える事はしない。だからマスターが強制はしなかったんだ」

 ガラス製のエレベーターの外は、つい数か月前に見た地層の積み重ねに覆われていた。その中には黒く変色した植物や、元は獣であったと思われる化石すら発見できる。

「ん?どういう意味‥‥?」

「マスターは、きっと俺達を今回矢面に立たせたくなかった。あの社交界を最初から断れば、俺はカタリとずっと一緒にいた筈なんだ。そうすればカタリが無理に薬を造る為に時間を取る事もしなかった。—――俺が入院する機会もなかった」

 何も言わなかったのではない。何も言えなかったんだ。

 もしマスターが外部監査科からの指示の裏、錬金術師たるカタリが狙われるかもしれないと伝えれば、俺はカタリの傍で身構えていた筈だ。

 だけど、彼ら討魔局からの攻撃と、あの杖のような現代兵器の襲撃を同時に受けていれば、手も足も出なかった。

「もしあのふたつの襲撃を続け様に受けていれば、俺もカタリも攫われていた。俺が派手に動いたから、もう力は残っていないと思ったから狙われた」

「—――ふたつに分かれて受ける筈だった攻勢は、双方ともリヒトに向けられてしまった。これについては想定外だったから、リヒトを眠らせる策を取ったのですね」

「そうだったのか?」

 初耳な作戦に首を捻りながら聞くと、ロタは「しまった」と言いたげに口元を塞ぐ。どうやら、その作戦は二度三度と無意味になっていたようだ。

「実はそうなの。機関での投薬は、ちょっとしたあなたへの試練でもありました。あの薬であなたが長期間、一か月でも眠ってくれればと私達は祈っていましたのに」

 困ったように言うが、わざとらしい口調のロタの内心はどうにも測れない。

 ロタの言う通りならば、ここから先は俺は『不要』だという意味だった。十全のロタとマーナが居れば、確かに『学究の徒』へも肩を並べられる。

「やっぱり、俺は邪魔だったか‥‥」

「二度と言わないで」

 背骨でも握り潰された気がした。

「あなたが一度でも、私の期待に応えなかった試しがありましたか?答えなさい」

「‥‥だけど、俺は眠っていた方がいいって」

「あなたが早い段階で目覚めた時、それが今のプランです。当然、あなたが目覚めなかった時、そして学究の徒など無視して昏睡状態のリヒトを守るルートもありました―――まだ気づかない?私達は、あなたが目覚めると期待して準備を整えていた。この二週間の期間は、その為に造り出した時間」

 きっと最後まで伝えてはいけないと決めていたであろう幾つもの作戦を、ロタは吐き出し続ける。学究の徒など無視してとは、外部監査科やオーダーからの命令違反を覚悟しての物だ。ロタはたった今、オーダーへの造反を口にした。

「‥‥ごめん、怒らせて」

「はい、ロタはとても憤慨しています」

「許してくれないのか」

「はい、許しません。二度とそんな事言わないで」

 ガラス扉に移る顔は、白く無表情だった。ロタの顔があまりにも恐ろしくて、顔を背けてしまう。優しくて甘やかせてくれる普段のそれとは、一切類似しない。

「‥‥ロタは、マスターからなんて言われて断ったんだ」

「私は『学究の徒』と呼ばれる人間の組織が、秘境へ侵入—――並びにリヒトを狙ってくる筈だからリヒトの傍で彼らを挑発、リヒトの存在を知らしめろと。私は知っていました、少なくともリヒトは狙われると」

 まただった。またしてもあの人の意図に気付かないで、引き受けてしまったようだ。あれだけロタがマスターに強く当たり、同時にマスターも引き下がった理由に合点が入った。乗り気ではないのは、マスターも同じだったようだ。

「ただ、あまりにもリヒトという存在が周知されてしまったようです」

「魔貴族の一員ってだけでも余程なのに―――加えてあれだけ派手に力を見せつければな。カタリに行かなくて良かった」

 その瞬間、普段の余裕ある微笑みとなってくれた。

 けれど、前動作も無しに後ろから頬を撫で上げてくれる行動に、鳥肌を立たせるとくすくすと朗らかに笑うのは、やはり許せなかった。

「ロタが撫でるからだ!」

「私の所為?やっぱりリヒトは私の所為にするのですね。わがままなリヒト」

「‥‥ロタが悪いんだ」

「はい、私の所為ですね。このロタが悪いんです」

 遊ばれていると承知はしているが、きっと何を言い返しても受け流す。そして結局は自分が悪いのだと、錯覚してしまいロタに謝る事となる。

 だから、頬を膨らませて顔を背けるしかなかった。





「マヤカ」

「どうかした?」

「俺は怒ってるんだ」

「そう、それは大変。リヒトは、また私の所為にするのね」

 手慣れた言葉遣いに、カタリもロタも、マーナさえも呆れたようにこちらを見つめる。無論、溜息を吐かれたのはこの神獣であった。

「ロタから全部聞いたようね。無理矢理淑女の口を割らせるなんて、リヒトは悪い子—――いつからそんなに悪い男の子に成ったの?」

「マヤカが、こうした」

「そう。やっぱり私の所為なんて。ふふ、あなたを躾けた甲斐があった」

 鋭い目を流して、僅かに微笑みながら去る背中を追いかける。だが、自分では限界があるのは百も承知しているのでロタに視線だけで求める。

「はい、わがままなリヒト」

「俺はわがままじゃない‥‥」

 既にガラス管の全てを排斥された地下空間は、天井や壁の傷しか異常性を知らせる証は残されていなかった。何故またこの地下に来たのか忘れそうになったが、討魔局の術式を解明、出来る事なら解呪する為であった。

「マヤカはどう思う?」

「何が?」

「あの老いぼれと学究の徒、討魔局は関係してたって思うか?」

「私個人の所感でいいならば。私はそう思う、滅ぼされた研究施設の構造とこの地下施設、そしてあの回廊には類似点が多くあった。なら、何かしらの繋がりがあっても不思議ではない――――むしろ、全く関係ないと言い切れる理由があるなら見てみたい」

 どこか棘どころか、首でも落としかねない鋭い端々に息を呑む。

 床の枠を車輪で乗り越えながら、ロタが発見した小部屋への道に到達する。

 光の一さを受け入れず、また去る事も許さないと思わせていた扉は、既に機関の高効力の光によって、その姿を晒されていた。

「嘘‥‥こんな中を歩いてたの」

 カタリが口を押えながら嘆いたが、その理由に自分も大いに頷いた。

 闇で覆われていた廊下の壁は多くの枝葉が絡み付き、今も虫のように蠢ていた。

 生々しい節足の如き姿には、自分も嫌悪感を隠せない。

「気にしないで。もう栄養源は途切れた―――そう遠くない時間で枯れるから」

「今すぐ焼き尽くせない?」

「可能かもしれない。だけど、無理に燃やし尽くすと火災と煙で」

「わかったからわかったから!!我慢すればいいんでしょう?」

 諦めたカタリは、何故か目を閉じてマーナの銀の尾を掴む。

 銀の耳を僅かに動かしたマーナは、察したように誰よりも早く歩みを進める。カタリの水先案内人となったマーナは、やはり意気揚々と廊下を進んでいった。

 その光景に満足そうに微笑んだマヤカと共に、車椅子を押されながら進む。マヤカの楽し気な雰囲気もさることながら、ロタの鼻歌にも耳を引かれる。

「ロタは、平気か?」

「はい。こういった趣旨趣向は、ちょっとだけ理解があります。リヒトは?」

「絶対無理とは言わないけど、後から知らされるとちょっとな」

「ふふ‥‥」

 蠢く枝葉のアーチを潜り抜けた時、そこで思わず深呼吸をしてしまう。だけど、それはそのままマヤカの後ろ髪から漂う香りを吸い込むに等しかった。

「そんなに嗅がれると、ちょっとだけ恥ずかしい」

 普段見せない、赤みがかったマヤカの表情には得もしれない淫靡さ、艶やかかさを感じてしまう。その上、自分の髪を引き寄せて恥ずかしむ姿には、幼ささえも。

「だけど、まだ私の髪を味わせる訳にはいかない。その身体に無理はさせられない」

「どういう意味?」

「とぼけるなんて。そんな手管をどこで―――そう、私からなのね」

 満足そうに「私の所為ね」と告げたマヤカは、まだガラス筒の残る研究室—――個人的な私室にも見える部屋を、無防備に歩き回る。ここにはまだ防犯装置の類が残っているかもしれないのに、傍らにマーナも置かないで。

「マヤカ、ここはもう安全なのか?」

「ここは見ての通り、とても慎重な実験をする為に造り出されたセーフルーム。この部屋に入る者を迎撃こそしても、部屋を自分で破壊するような罠は仕込んでいない」

 言いながらも、壁やガラス筒の裏を叩いたり眺めたりするマヤカは、何かを急いでいるようにも見えた。「何故だと思う?」、視線でふたりと一匹に問うが、首を捻るばかり。

「あの白い回廊。あの場には―――リヒトがいた」

「‥‥ああ、そうだ」

「あの回廊こそ地脈、レイラインを観測する為に造り出された羅針盤そのもの。同時に直接干渉する為に造り出された杭でもある――――これだけ覚えていて」

 肩に手を置いてくれたロタとカタリに、感謝しながら目をつぶる。

「なら、ここから直接赴ける道があってもおかしくない」

「ついに見つかったのね。道って事は、特別な船とか列車じゃなかったの?」

「いいえ、特別な足であるのは間違いない。いえ、特別な枝と言える」

 その瞬間、突然の地鳴りが巻き起こる。巨大な地震にロタとカタリが背で守ってくれるが、マーナを呼び寄せたマヤカは至って冷静だった。

「ユグドラシル―――この名は知ってる筈ね。ならば、その原義は知っている?」

「私の世界の世界樹です。あの樹は九つの世界を内包しながら枝で世界を結ぶ楔でもあります、ならば当然—――その枝を辿れば、あらゆる世界へと赴けます」

「そう、本当にあらゆる世界へ辿り着けたのね」

 胸に手を当てて、郷愁でもするように天井を見つめる。足元の銀狼に手を伸ばす姿は絵画のような美麗さを誇るが、その意味を訊く前に、身の安全を目指すべきだと思い立った。

「マヤカ、こっちに!!」

「ユグドラシルの元の意味は主神の愛馬ではと、こちらの世界では言われている。それは同時に主神の別名、ユグの馬、恐るべき馬の意味でもある―――大丈夫、私は平気よ?」

 主神の馬で思いつくのは、八本脚の軍馬スレイプニル。その名を訊いてロタが僅かに顔をしかめる。その反応は当然だった。何故ならばスレイプニルから造られた枷を破壊、解放された悪神の息子—――狼によって主神は喰い殺された。

 その上、スレイプニルは悪神の息子のひとりでもあったからだ。

「主神の軍馬はとても賢く、非常に早く走れた。そして空さえ飛べた」

 いよいよ部屋が崩壊するのではと思わせる振動が巻き起こる。真下から突き上げてくる地震には、我ら人の身体を持つ者はあくまでも無力だった。自然災害にはどれだけの備えをしても、到底肉体を持つ者では抗う事など出来ない。

「最後の瞬間まで、我らが主神はかの馬に跨っていました。なるほど、急にそんな話をしたという事は――――」

 唐突に地震が収まった。だが同時に目を見張る変化にも包まれる。

「壁が‥‥」

 カタリの示す方向、マヤカの背後だけではない。全ての部屋の壁が青白く仄かに輝き始める。その姿は青い炎が燃えているようでもあった。

 無論、炎であるならば壁の先だって見渡せる筈だった。だが、眼前の炎が身を焼く事がなかった。そして炎と思わしきものは、到底熱など感じる物でもなかった。

「何だ、水か?」

 炎と思っていたそれは水泡、水の中で舞い踊る泡そのものだった。

 この部屋は水槽に通されたガラス箱となり、部屋の重量によって水底に徐々に吸い込まれていく。ようやくロタが「なるほど」と言った理由に気が付いた。

「ここは世界の境界線。海の底を通ってるって事は――――」

「そう。舌を噛まないように」

 やはりと思った。木の枝を滑り降りるように滑走し始めた時、部屋の外の光景がまたもや変化する。それは空だった。レイラインに滑り込んだ部屋は星々のひとつとなる銀河鉄道の夜の夜景そのものとなる。

「これは脱出ポットでもあったのか?」

「かもしれない。だけど、それを訊く相手はここにはいない」

 マーナが座り込んだ時、マヤカも安心したようにマーナの背に腰を下ろす。

 この場には相応しくない微笑ましい光景に、緊張感が欠き始める。だが。

「マヤカ、もしかして」

「ん?どうかしたの?また抱きしめて欲しいの?」

「—――もしかして、これは初めての」

「そう。試運転」

 視界が真横に滑り始める。ジェットコースターと言えば爽快かもしれないが、その実、この光景は紛れもない墜落そのもの。滑空どころか滑落する現状に車椅子を握りしめるが、不思議なぐらい車輪は動かない。

「ふふ、私に死角はない。少しだけ、その車椅子にはいけない事をしたから」

「例えば?」

「ん?秘密」

 マヤカ自身は冷静だが、突然の墜落劇に巻き込まれた自分達は堪った物ではなかった。何も話さないカタリは、慌てて何も出来ず、ロタにしても槍で態勢を整えるしか出来ずにいる。

「マヤカ!!騙したの!?」

「ごめんなさい。実は、内緒で起動させたから。だって、あの回廊に入るには多くの手間をかけないといけないから。オーダーへのホットラインなんて私は持ち合わせていないの。ふふ、ごめんなさい」

 前々から思っていたが、日常的に自然体な性格をしているマヤカはマーナの上で手を振るだけだった。衝撃に耐えながらカタリがマヤカの元に移動した時—――殴り掛かるとかと思いきや、マヤカの胸に抱きついた。

「終わるまで守って貰うから!!」

「困った。私の妹がこんなに可愛いなんて」

 文句のひとつでも言うと思ったが、カタリの顔を胸で押しつぶしたマヤカは微笑みと共に振動が過ぎ去るのを待ち続ける。

「どれくらいまで掛かるんだ!?」

「さぁ?だけど、そんなに長くないと思う。長くないと思う」

「困りました。二回言うという事は、あれは願望という―――」

 最後の衝撃と思わしき一撃に、ロタに抱きつきながら耐えると―――続いて新たな枝に乗り移った衝撃がロタの胸越しに伝わってきた。





「ふふ、どうして抱きしめてくるの?」

「マヤカの所為だ」

 ようやく内臓の位置が整ってきた。それまではと思い、肺を抱き潰すつもりでマヤカの顔を越える胸に埋まっていたが、マヤカ自身はむしろ楽し気だった。

「‥‥まだ気持ち悪い。ロタ、水取ってー」

「はーい」

 椅子を並べて横になっているカタリも、まだ動けないようでロタに水を手渡されていた。現状、我らが外部監査科は完全に壊滅状態。実に五割の戦力を失い。看病にもう五割を割いていた。

「あれ、マーナは‥‥?」

「マーナには部屋の留守番を頼んでる。もしも自動的に元の位置に戻ったら、救助要請をしなければならない。その時、私達は後ろ指を差されてしまうの。ふふ‥‥」

 マヤカの胸に寄り掛かりながら呼吸を整える。目の前の恐怖を覚えるぐらい整った顔を歪ませるマヤカは、普段の優しいマヤカだった。

「ここに討魔局、学究の徒がいるのか?」

「ヨマイさんの話を総合的に見ると、直接的にはここに踏み込んでいない。だけど同時に、間接的に地脈には介入していると思う。地脈への介入なんていう長い年月を掛けたか、もしくは人並みの杭を打ち込んで土地を狂乱させる術式、ここになんの影響もない筈がないから」

「えっと、ここでは証拠集めが必要って事か?」

「そう言える。さぁ、そろそろ」

 背中を叩かれてしまい、仕方なしと車椅子に滑り降りる。ロタとカタリの方を見ると、ロタに肩を貸されるカタリの姿が目に移る。「なんで、ロタは平気なの‥‥」と聞くと、「私は空を飛べますから」と身も蓋もない事実を指摘した。

「つらいかもしれない。だけど、あなたなら」

「わかった。俺ならレイラインの異常性に気付くかもしれない」

 本来、レイラインとは強大な土地と土地、或いは神聖な建造物同士が相互に干渉—――結果的に造り出す力の奔流である。数億にも及ぶ力の列は、僅か一本でも操る事が出来れば、錬金術師が残した列車の車輪でもあり、帆が掴む風にもなる。

 そして自分は―――ながらく、この土地に縛り付けられていた。

「だけど、それを調べたら俺はしばらく動けなくなる。覚悟してくれ」

「‥‥わかった。必ず守ってあげる」

 後ろに回ったマヤカが、休憩室から車椅子で押し出してくれた時—――想像以上の狙撃に頭を撃ち抜かれる。苦い薬とも、マズイ病院食にも匹敵する呪詛に涙が零れる。

「‥‥驚いた。いつの間に?」

「ていうか、どうやって俺達はここに来たんだったっけ‥‥?」

 未だに重い内臓と脳を引きずって、顎を開けっ放しにしている黒服に水晶の津波を放つ。鮫のように空間を噛み砕きながら突き進む奔流に、正気に戻った物から背を向けるが――――人の足で逃げられる訳がない。

 天井や壁に打ち付けられた者から意識を失い、或いは鈍痛にうめき声を上げて倒れる。「仕方ない」、そう呟いたマヤカはスマホを取り出して救援を呼び寄せる。

「このまま放置する訳にも行かない。どうやってここに‥‥」

「似た船か列車でも持ってるとか?」

「—――だとしたら。それは」

「並みの人間じゃない。それに、こいつら‥‥」

 未だ青い顔をしているカタリが、黒服のひとりを掴み上げた。そして胸から落ちる紋章を拾い上げた。見慣れないそれを覗き見ると、マヤカが声を漏らした。

「私兵‥‥」

「私兵?誰の?」

「確証がないから言えない。だけど、どうやら彼らはオーダーでもあるようね」

 オーダーでもある、ならば本来はオーダーには属さない組織の人間という意味だった。ならば、答えは簡単だ。特務課の人間だった。

「なんで、ここに」

「討魔局が呼び寄せたのか、それとも彼らを顎で使える者が密偵として放ったのか。やはり―――あの『悪魔』がいるのね。‥‥行かないと」

 質問する時間を与えてくれなかったマヤカは、ただ無言で車輪を回し始める。横と通り過ぎたカタリの顔も、やはり晴れた物ではなかった。自分も、口を閉ざすしかないと判断し、成すがままに任せた。

 長い白い廊下は、耳が痛くなるほど無音だった。打ち捨てられていた書類は掃除され、本来の清潔で下劣、卑怯者達の巣窟元通りとなっていた。

「マーナを呼び戻した方が良いんじゃないか?」

「私達では不服?ふふ、大丈夫。もう呼び戻して尾行させてる」

 そうなのか?と後ろを振り向くがあの銀色の巨体を見つける事は出来ない。

「マーナは狼なの。獲物が事切れるまで、隠れ続けられる」

「頼もしいよ。ロタ、前に」

「はい、任せて」

 槍を既に取り出していたロタは、ひと跳ねで車椅子の前まで躍り出る。それを確認した後、再度声を出そうとしたが、既にカタリが真横まで到着していた。

「ねぇ、話があるんだけど」

「‥‥なにか怒ってる?」

「話によっては。ヨマイとロタから聞いたんだけど、虱潰しに貴族達に襲撃を仕掛けてるって聞いたけど、それは本当?」

 視線で何故教えてのかと、ロタの背筋に問うが何も言わないで誤魔化される。

「‥‥何度か。だけど、」

「怪我してると狙い撃ちにしてくるからでしょう?あの素人達、正面から睨み合って言い合いしても勝てないってわかってるから、足を引きずってる時のリヒトを狙ってる。それは別にいいの。だけど、ちゃんと取る物取ってる?」

「取る物って?」

「負け犬には負け犬として扱ってるかって聞いてるの。前みたいに、情けなんてかけてない?ちゃんと、トドメ刺してる?人に言いつける気概さえ奪ってる?」

 言葉には出さないが、きっとマキトの事を言っているのだろう。あの模擬戦で中途半端に生かさず殺さずをしてしまった所為で、しばらく付け狙われた筈だった。

「‥‥まぁまぁ」

「どうせ、何にも取ってないんでしょう?向こうの心が完全に折れるぐらいはして。さもないと、どんどん敵ばっかり増えるから。舐められたら面倒よ」

「一度でも、俺に敵以外が増えた試しがあったか?」

「—――そうね」

 そうだ。この場にいるのは、カタリを外せば全員元は敵だった。マヤカも初対面でも話など聞かずに鎖を投げ付け、ロタに至っては槍で脅しにかかった。

「だけど、向こうの言う所の誇りとかいう都合のいい言い訳なんて、二度とほざけないように叩き潰して。足が動かない所を狙う、卑怯者なんて殺していいから」

「カタリ」

「‥‥死なない程度に、殺してやって」

 マヤカからの声に、訂正に走るがそれは我ら魔に連なる者達からすれば命を無くすよりも恐ろしく、生きている理由を失うに同意義だった。

「カタリ、安心して下さい。リヒトが満足して帰る寸前に、ヨマイさんが好きなだけ鹵獲—――献上品として回収してそうですから。いつか溜まったら工房に招くと知らされています」

「それならいいの。やっぱり負けた人間には、それなりの扱いがあっていいんだから」

 カタリが満足そうに胸を張る。確かにカタリの言う事には一理あった。

 足を引きずり、松葉杖で歩き回っている自分を彼らは狙い撃ちにしてきた。敢えて動かない足を罰だとばかりに嘲笑って蹴りつけてきた時は、流石に腹に据えかねた。

「ありがとう。大丈夫―――俺も忘れてないから。失望されるだけ失望された人間の自暴自棄は。マヤカ、病院での襲撃者は『あの親子』って言っていたけど、」

「あなたの想像通り。そんな事を言ったのね」

 やはり、それはあの二人なのだろう。逆に言えば現在拘留中の人間に会える、もしくは告げ口される側という事は、あの女性はかなりの立場を持ち合わせている。

 オーダーか警察かは預かり知らぬし、知る機会もないだろうが。

 ただ―――どうやら逆恨みは牢屋に中に入っても終わらず、むしろ親子水入らず、完成された復讐心を造り上げたようだ。

「貴族達に関しては任せてくれ。向こうの踏みつぶされたら痛い所は知り尽くしてるから」

「例えば?」

「向こうに取って最も重要なのは歴史。しかも学生時代の交友関係には、とにかく気を付ける。公に出来ない人間達と若い内から付き合ってるなら尚更。討魔局と手を携えて、学生ひとりに強襲を仕掛けて敗北するなんて、噂だったとしても嫌だろう?」

「そういう事。リヒトを仕留めきれなかった時点で、あの子供達は終わってるのね」

 満足した感じに、一歩分だけ離れたカタリはヨマイが貯蔵している品々に思いを馳せ始める。家々で古くから編み出し、積み重ねてきた術そのもの足る『現代の杖達』は例え売っても二束三文どころではない―――ひと財産築ける。

 それはそのまま彼らの秘奥を明かす事に他ならない。一族郎党でその価値を失う。

「そろそろ到着するのに、何もいませんね。また巨人狩りが出来ると思っていたのに。やはりあれらはこちらでは貴重種なのですね。なんてつまらない」

 先ほどから無言で先導していたロタは、既に自分を攫った貴族の事など脳内になく。槍を振るえる相手を探し回っていた。




「彼らが入り込んでいた理由、これがそうみたい」

 画面の光に照らされた無表情の顔が、僅かに歪む。その意味を知らない者は、この学院にはいない。彼ら、特務課と呼ばれているシークレットサービスは、自らが引き起こそうとした災害の事実を改ざん、隠蔽に走っていた。

「正気とは思えない。どうしてこんな事が出来るの?」

「それほど危険なのですか?」

「ええ、とても危険。彼らが直接下した訳ではないかもしれない。だけど、これに関わった人物達は―――大量虐殺も躊躇しない狂人と呼べる。歪みの余波だけでこれなのに、中心地は一体どれだけ。近々向かわないと」

 額に汗をかき始める。その様子にカタリを息を呑んだ。

 ふたりは知っているのだ。レイラインを操作して地脈を歪ませるという行いがどのような結末を迎えるかを。どれほどの殺し合いが、屍の山、血の河が築かれるかを。

「‥‥ここから、せめて秘境は正せるか?」

「正直私ひとりでは手の出しようがない。元からの地脈、地理図を調べ上げなければ―――発掘学、天体学、自然学。いえ、あらゆるカレッジと近辺の貴族の家から古地図をかき集めて、山々、神社、神体の場所を正しい場所に戻さなければ‥‥」

 口元を抑えたマヤカは、歪んだ醜いレイラインに嗚咽を吐きそうになる。

 無計画な森林伐採、ダムの建設などという表面上の人間と自然の交わりではない。彼ら―――討魔局と特務課、学究の徒が行った行為は大陸プレートを、敢えて沈ませる事とそうは変わらない。それはそのまま人体、人の深層心理すら歪ませる。

「最低でも百年は掛かる――――倫理じゃない、理性はなかったのか。自分が何をしたのか知らない筈がないだろう。なんで」

「リヒトを仕留める為。そう思うわ」

 カタリがマヤカと共に、コンソールと画面を操作し始める。

 ピアノの連弾にも見える二人の姿は、その実いつ起爆するやもわからない核爆弾の装甲を外して、弾頭のスイッチを目視で探しているのとやはり変わらなかった。

 数秒ごとに脳を消耗し、目元に影を造り出すふたりはコンソールのボタンに仕組まれた術式を操作し、地脈の裏側を解析していく。それを数秒で数十回続けていく。

「‥‥私達ではこれが限界。推定観測域を狭めて――――あなたに残る星の結晶と波長を合わせて貰うしかない。リヒト、お願い。私達に力を貸して」

「大丈夫なのか。俺は、正しい位置を覚えているだけだ。指が狂ったら」

「わからない。だけど仮にここに、カレッジの教授陣が揃っていても河に小石を投げ入れる程度のもの。大局は変わらない―――波長を合わせるだけでいい」

「いえ、危険よ。やめたほうがいい」

 マヤカの肩を抑えたカタリが、振り向いた顔に首を振った。

 最後の錬金術師である彼女からの断言に、黒髪の魔女は呼吸を整えながら頷いた。息を忘れていたマヤカは画面から数歩離れ、影に身を休める。

「‥‥理由を訊いていい?」

「元からあったレイラインの位置が、そもそも『正しい』って言う理由はないから」

「—――そう、そう思うのね」

「ええ。リヒトの身体を、ここに納めている間に自分達に都合がいいように操作してる可能性が限りなく高い。まだ狂って安定しているのなら、このまま楔を打ち直してレイラインを干からびさせた方が早いし確実。行くべきよ、歪みの中心地に」

 振り返ったカタリが、「こっちに」と告げてくる。

 それに従ったロタが無言で車椅子を押すが、それも途中で止まって後ろを振り返る音がした。そして、独りでに動くように押し離した。

「ロタ?」

「仕留めてきます」

 首を無理に動かした時には、既にロタの姿は消えていた。

 車椅子を受け取ったカタリが忌々しそうに舌打ちをするが、後を追わずにコンソールに手を置けと指示してくる。終ぞ、詳しく見る事のなかったコンソールには球体が、特殊な形をした指紋認証機が中央に設置されていた。

「波長を合わせて貰う訳じゃないから。これはリヒトの――――座っていた場所がまだあるかを調べるの。そうすれば原始的なレイラインじゃない、リヒトの中にある最新の星の結晶を、まだ受け入れられるかを確認できる。今のリヒトの基盤、基準にして異常な力の流れを感じ取る。‥‥やっぱりリヒトに頼る事になると思う」

 手を拾い上げたカタリと共に、球体に手を当てた時だった。こめかみに僅かに痛みが走る。血など流れていない、だけど生暖かい体温の感触に不快感を感じる。

 何も言わないで片手でコンソールを操作するカタリは、横顔だけで苦しんでいるのがわかった。口を強く結び、視線を細める顔には一切の余裕がなかった。

「大丈夫、すぐに終わるから」

「焦らなくていい―――もっと頑張れるから」

「‥‥わかった。やっぱり帰るとか言わないで―――」

 小さな音をコンソールから流した瞬間—――カタリと共に光の渦に落ちていく。

 幾枚もの光の岩盤を通り抜け、雲のような粒子達の間を突き抜ける。空に落ちたかのような浮遊感に身を任せ、脳内の血管と接続した地脈をふたりで見渡す。

 そこには光り輝く力の奔流—――レイラインが足元に広がっていた。幾千幾億もの光の線は、ただ見るだけでカタリの造り出した仮初の眼球を焼き尽くしそうだった。

「怖がらないで。これは今の私達が理解出来るように、視覚化出来るように算出、表現してるだけだから。あれも仮初、形と色だけで造り出した光そのもの」

 光の身体で頭を抱き締めてくれるカタリと共に、ふたりの心音を整える。カタリも、ここまでの潜界は初めてだったらしく、星の規模から見る自分達の小さな姿に身を震わせていた。

「‥‥俺達は、小さいなんだな」

「いいえ、私達はむしろとっても大きいの。星々からすれば人間なんていう生命体は、塵にもならない。光を可視化して形を見つけるなんて、本来は出来ないの。これは私達だけが出来る世界への反逆」

「良かった。人間よりも上位体って事か」

 そう告げた時、カタリは仄かに笑って頭を離してくれた。

 絶対に手を離さない為、強く結んだ指を常に気にしながらレイラインの数々、竜の背にも似た行く末を見通す。

「‥‥どう?何か感じる?」

「—――ああ、わかる。俺は、あそこにいた」

 光で造り出された指を使い、自分が座っていた席を示す。そこは幾億のレイラインのひとつに過ぎないが、周りと違い七色—――あの方の水晶の造り出すプリズムの光を放つ帯が真っ直ぐに横たわっていた。

「直感でしかないけど、なんとなくわかる。ごめん、断言できなくて」

「うんん、いいの。リヒトが、ここで感じるって事は間違いないって事。行こう」

 ここでの身体の使い方を最初に掴んだのは、造り出したカタリだった。光の人魚に誘われる姿となった自分は、大人しくカタリの手を握り続けるしかなかった。

 七色の帯が眼前、手を伸ばせば届きそうなったが、そこでカタリが停まってしまう。不思議に思いながら顔を見つめると―――顔を背けてしまう。

「リヒト、ここにいたのね‥‥」

 それは『この俺』に言ったのではなかった。『あのリヒト』に対しての投げかけだった。だけど、一言そう言っただけでカタリは帯から離れ俯瞰する位置に戻る。

「いい?改めて説明するけど、今からリヒトには地脈を荒らしてる杭を探して貰いたいの。少なくとも討魔局が今までの準備を全て使い切って、リヒトを狙ってきたのは突発的な理由が原因」

「俺が、ここで生まれてしまったから」

「しまったなんて言い方止めて。リヒトが知られるようになったのはごく最近。だから、討魔局が作り上げてきた地脈にもリヒトは順応してるの。その光に触れて、違和感を覚えたら――――それが歪みの中心」

 光り輝く天使となったカタリに頷き、『もう一人のリヒト』に触れる。

 河の水を手の平ですくい上げるように触れた時。この身体ではない元の身体に異常が走る。胸部—―――生命の樹が宿っていた箇所に痛みが、この光の身体、ここでのアバターに穴を穿つ。

「リヒトッ!?」

「大丈夫。ずっと感じてきた痛みだから」

 これはきっとキーコード。リヒト以外がこの光に触れた時への、彼が残した最後の証。自分が確かに此処にいたという、カタリへの伝言。また自分が奪ってしまった。

「痛みを感じてきた者同士だから、耐えられたのか。爪が甘いなお互い」

 光の河に身を浸ける。自分の身体の一部、血そのものでもあるならば拒絶される事もない。だから、感じられる痛み、血の淀みには繊細に気付けた。そして。

「光が―――なんで、これはただのイメージでしかないのに」

「‥‥ごめんな。また奪って」

 七色の光、虹の如き竜の背が光の身体に取り込まれていく。これはきっとカタリへの贈り物だったのに――――こんな物をカタリに残すとを思ったのか?

「リヒト‥」

 これはお前の忘れた身体の一部だ。流し忘れた爪の一欠けら。捨てたければ好きにしろ。だが、お前にはリヒトでいて貰わねばならない。諦めて受け入れろ。

 巨体を唸らせ、神と謳われる竜そのものとなったリヒトの遺産が、レイライン達の中から姿を見せる。光に包まれながらもその姿には類似する存在はおらず、幾億ものレイラインは『リヒト』に付き添っている細い雲のようだった。

 そして―――身体を突き抜ける一刺しは、そのまま熱となった。

 レイラインを捥ぎ取り、その身に宿すという愚行は魔に連なる者であるリヒトが、星を宿すリヒトと繋がっているからこそ出来る―――星の破壊。

 星を撃つ落とす行いだった。消え去った彼は、やはり魔に連なる者だった。

「先を越されたか。やっぱりお前はカタリの選んだ―――」





「起きてッ!!お願い、私の名前を呼んで!!」

「‥‥カタリ」

 車椅子で目を覚ました時、涙を流し続けて目を腫らしていたカタリに抱き締められた。未だ焦点の合わない眼球には頼らず、感じ取れる温もりと慣れ親しんだ声を頼りに背中を抱き締める。

「すぐ先生も来るから。マヤカもロタもいるから―――だから、ここにいて。私を一人にしないで。もう消えないで」

「消えない‥‥ずっと一緒にいるから。だから、俺を一人にしないで」

 Yシャツに涙を染み込ませながら、返答を聞き届けた筈のカタリはなおも離してくれなかった。胸とこめかみに走った痛みは、やはりあの光の思念体はカタリが造り出した―――瓜二つのアバターが出来過ぎていたからだった。

 寸分違わず造り出された潜界の為の人形を、自分は自分の身体を受け入れてしまった。過去にマスターから説明された、存在の半分を置いてきた関係と似通っていた。

「マヤカ達は?」

「大丈夫。ここにいるから。ロタもいる」

 マヤカの声を共に、無言で手の甲に置かれる暖かみに笑みを浮かべる。

「—――場所がわかった。第二のオーダー街だ」

「本当なの?あの街にはレイラインこそ通っているけど、力の中心的なんてない」

「リヒトは今疲れてるの。話は後にして」

 ようやくフォーカスが合って来た目を開いたが、そこには普段通りの強気で少しだけ不機嫌そうなカタリが立ち上がっていた。その傍らに、何故だかマーナも。

「マーナ、来てくれたのか」

 手を伸ばすと自分の頬をなすりつけてくる。長い口を撫でろと命令する銀の冷たい狼の力が強過ぎる所為で、腕が力負けして車椅子が後ろへと押される。

「おっと、危ない。マーナ、ほどほどにしなさい」

 もう一人の飼い主、マスターに叱られたマーナは本物の動物のように縮こまっていく。目を上に向けると、そこには黒の髪を持つマスターが優しく微笑んでいた。

「無理をさせてしまったようだね。すまなかった」

「少しだけ疲れただけです。それにずっとカタリ達が守ってくれていました。何も怖くありませんでした」

「‥‥良かった」

 車椅子のハンドルを操作し、方向転換を終えたマスターが「目的は達した。帰還する。よくやってくれたね」と告げる。今日の仕事を終える声に、ロタが大きく伸びをしたのがわかった。

「ロタ、無事か?」

「ありがとうリヒト、私は無事です。‥‥いえ、実は私も疲れてしまったので」

 ふわりと、舞い上がったロタに車椅子の上、膝と肘掛けの上に座って首に腕を回される。長い手足を曲げて座るロタの背と膝の裏に腕を回すと、「人の眼がある所で、未婚のロタを抱擁するなんて。もうロタはリヒトと共になるしか‥‥」と、わざとらしいとわかっていても、眩いほどの美少女像を見せつけるロタには勝てなかった。

「ロタ、リヒトはまだ病み上がりにも成れていないんだ。今は無理をさせては、」

「リヒトは嫌ですか?」

 顔を掴むロタから視線を外せない。それに、ロタの顔は。

「—――何か見たのか?」

「いいえ、見せつけたいのです」

 未だ爪痕が残る凄惨な現場を後にする為、隔壁とも言える分厚い自動ドアが開かれる。そこにはロタが制圧したと思わしく黒服達を拘束している機関の魔に連なる者達が――――自分と同じか少し上程度の少年が、こちらを冷ややかに眺めた。が。

「クソガキが――!!」

 向けられた視線だけではない、罵声にも我がこめかみが動いた。

「あ?」

 脅しはしない。ひと声で水晶の槍を造り出し、ロタを抱き締めたままで槍を宙に放り投げ――――対象硬度人間—――水晶殻の追加は要らない。指で示せば呼吸半で人体を風穴を開ける水晶柱を発射する。宙で回転、先端と末尾のみを赤熱化し、傷口を焼け焦がす一撃を加えようとした瞬間—―――ロタからの接吻を受ける。

「ロ、ロタ?」

「はい、私の婚約者リヒト。どうされました?」

 放つ最終段階となっていた水晶柱は、宙で砕けただの塵となっていた。自分の一撃を知っている者達が背を向けて逃げようとしている刹那に行われた一部始終に、誰もが疑問符を造り出す。

「あの人間、このロタに出会う度に言い寄ってきたので。そろそろ見せつけるべきかと思ったの。驚かせてしまって、ごめんなさい。私は、リヒトだけが触れていい高等で完璧、神に許された選ばれし生命なのだから―――」

 全てを言い終わった時、ロタはその言い寄られていた人間を―――無言で手だけで退けとジェスチャー。一連の行為を見詰めていた少年は、何故が自分を睨みつけてくる。

 その上、一歩一歩芝居がかった態度で廊下を歩んで来る。

「緊張感がない。ここを何処だかわかっていないの?」

「馬鹿みたい。私達は先行ってるから」

 マヤカとカタリは、溜息と共に呆れた視線を向けながら少年の真横を通っていくが、恋する少年本人はそれが自分に向けられているなど露とも思わず、そもそも気が付いてすらいない。

「マスター」

「横恋慕の相手、略奪婚など自分でどうにか、と言いたいが、そんな事を行ったらどうなるかわかった物ではない。待っていなさい」

 車椅子から離れたマスターが壁となって立ち塞がる。「止まりなさい」、と威厳を造り出しながら紡ぐが、「確かに君は敗北した。それは変えようのない事実だ」と相手の急所を的確に抉り、駆け出す勢いを与えてしまう。

「ここを何処だかわかっていないのか?そして彼が誰かも」

「うるせぇ!年増!!」

 と、背中からでも殺気が可視化出来る佇まいを纏った、我が愛しいのマスターは手をローブの中に入れて―――好きにしなさい、と暗に告げてくる。よって。

 マスターの真横を通って、車椅子姿の自分に対して拳を放ってくる手段を選ばない少年に、鏡移しのように左拳を突き出す。

 『水晶を纏わせた岩石となった拳』に、『拳を砕かれた少年』は膝を突き――――袖の中に隠してあったナイフを投げ放ってくる。ロタに刺さる下手など踏まないという自信と覚悟の表れは、先日の勇士の真似事を思い出せた。

「無価値だ」

 正面から水晶を纏わせた眼球でナイフを受け止め、瞬きと共にロタの膝の上に落とす。これで幾人もを仕留めてきたらしい少年は、不愉快だと表情で伝えて一歩下がる。

「これで仕留めて―――」

「何度もさせるか馬鹿が」

 踵を床に打ち付け、水晶の河を造り出す。津波ではない細く透明なそれが足元に蛇のように這いよる光景にほくそ笑んだ少年が、肘を突き出す瞬間—――足元から打ち上げられた水晶がその身を晒す。

 無論、水晶に捕らえられた少年の顎は天井まで届き、顔面を白い天井まで打ち付け、天井に叩き落とされた少年は突き上げている水晶に更に顔面を打ち付ける。

 その光景にロタが手を叩いて笑いながら、後ろに回って車輪を回してくれる。

「ふふ、こんなに笑わせてくれるなんて。彼には道化の才能があります」

 懐から取り出した小銭を少年に投げつけたロタは、そのままクスクスと笑いながら通り過ぎていく。未だ気絶している彼はロタの行為など気付かず、白目を剥いていた。



「それでリヒト、詳しく聞かせて欲しいのだけど」

「ああ、わかってる。だけど、俺が見えたのは第二オーダー街—――この秘境に来るまでの過程で通った街だった。本当にあの街には地脈の中心点は存在しないのか?」

「私は聞かせられてない。だけど―――」

 無言でマスターの姿を、機関が保有する列車の座席に身を預けている麗人に視線を向ける。だが僅かに微笑んだマスターは全力の愛想笑い、男性は勿論女性すら恋に落とす所謂美形な顔を造り出すが、「マスター真面目に」とマヤカが、少しだけ語気を荒めて問い質す。

「はははは、マヤカ君。私は君のマスターなのだよ。もう少し優しく」

「—――何か?」

「よし。勿論、あの街にはレイラインの始まりであり地脈の中心点が存在する。あの街からでしか、この『秘境』への進入は基本的には許されず手段はないのだから。幽谷とも称される道を通ってきた君達は、知らず知らずの内にレイラインに頼っていたのだよ」

 初耳ながらも、納得と理解が出来る説明にマヤカは大人しく座席に戻った。

 よくよく考えれば、至極当然の事だっただろうか?この秘境は――――この星を見渡したとしても、もはや数少ない聖域の残り。だとしても地続きの土地に足を踏み入れる為にレイラインを使っているとは、想像していながらも不可思議な感覚だった。

「魔に連なる者が、この秘境に足を踏み入れる為の許可か。他所の街からは、たまに普通の人間も入ってくるのに。どうして、そんな道順が必要なんですか?」

「あれは儀式の一環なのだよ。ただの道順という認識である君とカタリ君は、やはり特別という事さ」

 あっさりと、だが本来は隠し通されるべき秘境の秘密を口にしたマスターは、特別気にした様子でもなかった。一定の立場を持つ者にとっては当然の事実なのかもしれない。

「であるからして、ヨマイ達が調べ上げた第二オーダー街からこの秘境への侵攻は、特別不思議ではないという事だよ。だが―――この事を知っているのは」

「オーダーの中でも限られた人物だけ。私にさえ話されてなかった事実を知っているなんて。彼らの後ろにいる大臣というのは、それほど強力という事ね」

 機関の中でも上位、白紙部門の師団長と通じられているマヤカも知らないとは。

 だが、この記憶は光の帯を受け入れた時に垣間見た世界の裏側から見た光景だった。創生の彼岸に存在を置いてきている自分だからこそ、この星のあらゆる事象に通じる影の世界—―――受け入れられた世界の設計図に嘘やまやかしの類などありえなかった。

「第二オーダー街については、時期を見なければな。少なくとも今すぐどうにかしようと走れば、何処から誰から強襲を脇腹に受けるかわかったものではない。それに、学究の徒と逃げ出した討魔局の人員も、おっと」

「逃げ出した?」

 オウム返しに繰り返した声に、片目を瞑って微笑んだマスターが口を開く。

「ああ、彼らは逃げ出した。理由はわかるかい?」

「逃げ帰った場所に、学究の徒がいるのですね」

「正解だ。リヒト、君もなかなか手慣れてきたな。無論、彼らはオーダーである為素直に自分達の飼い主の土地に逃げ帰るとは思えない。だが、逃げ出したという事はやましい考えを持っていたからだ、という話となる」

「ようやく堂々と、なぎ倒せる理由が生まれた。今どこに?」

 黒のローブ、薄い素材に作り直された法服を纏ったマスターは、袖口からスマホを取り出して手慣れた様子で操作していく。遠くの世界から渡ってきたマスターといいロタといい、もしかして身近に電子機器に近しい物があったのだろうか。

「その前に、君には伝えておかないといけない事がある」

 わずかに前屈みになったマスターの目は、瞬きひとつしなかった。

「君が関わってしまった学究の徒―――彼女達は、どこへでも身を潜められる。当然、この街すら。もしかしたら私達以外の全員が彼女の私兵かもしれない」

「なんの冗談ですか‥‥?」

「つまらない冗談だ。だが、これは紛れもない可能性でもある。君にとっての世界とは、この秘境全てかもしれない。新たな世代の魔に連なる者リヒトよ、それは本来正しい見識だ。もはや数という観点からしか我らを保護するオーダーからすればね」

 一体何を伝えたいのか、自分という狭い世界しか知らないリヒトには途方もない話だった。マヤカに視線を逸らそうとした時「マスターを見て」と伝えられる。

「だが彼女らを支持する人間は数多い。私達どころかオーダー省すら把握、もしくはオーダー内部の人員すらも、彼女らの信者かもしれない。わかったか?君を狙ってきた者達は、こういった組織―――敢えて乱雑に括るのなら宗教とも言える」

「‥‥自分に、なんらメリットがなくても、それが世界の真理だと信じ込ませる」

「そうだ。だがメリットはある。信者の望む世界へ送り出し、彼方の世界の住人と会話ができるのだから。それを発展、進歩、進化だと信じ込んで」

 自分が関わった相手とは、金銭や立場、即物的な品々だけでは落とせない信念を持つ者達だった。自分の求める光こそが、正しいと信じて深淵に身を潜ませる狂人。

「‥‥錬金術師」

「その可能性がある。だが、忘れないでくれ、あくまでも可能性だ―――私の言いたいをわかってくれたか?」

「―――はい」

「ならば、この場で答えてくれ。君がどんな選択、嘘を吐いたとしても私は受け入れよう。だから―――よく考えて欲しい。もし影に潜んだ錬金術師達が諸手をあげて、君を求めに走っているのなら、私では守りきれない。その時、君は自分で身を守らねばならない。今度こそ」

 最後の錬金術師であるカタリは、自分が知っている中でも特別だった。だが、それは本当に1000年の歴史の渦中で本当の深淵に沈んでいた者達からすれば―――当然の参列者なのかもしれない。もし―――カタリの親族達すら戦列に加わっているのなら。

「‥‥これは独り言です。もし俺を狙っているのなら、俺は望まれ通り、災厄にして災害そのもとなります。世界が滅ぶまで、形ある者全てを破壊し、撃ち落とす」

 鏖殺、虐殺、屠殺―――全て全て人間達、そして彼らに付き従ってきた者が施してきた終焉の演目だった。ならば、次は自分だと誰しもが考える、受け入れる事だろう。

「俺の答えは、皆殺しです。誰であろうと、俺の生命を―――マスター達に与えられた生命を奪うのなら、迷いはありません。何も変わりません、全員殺して踏み砕きます、腰掛けます」

「‥‥それが人類全てだったとしてもかい?」

「俺は人類の発展の為に捧げられたのでしょう?なら、俺の死にあやかって恩恵を受けようとした人間など、既に敵でしかありません。もう一度言います、誰であろうと殺す」

 あの方が微笑んだ気がした。創生の彼岸にて生まれてしまったこの神獣を害する者を決して許さない、神々を喰らった超越の獣は既にこの世界など見放しているのだから。

 破壊神の側面を持つあの方からすれば、どう崩壊していくかも娯楽のひとつだった。

「‥‥ごめんなさい。怒りますか」

「ふふ、いいや。怒っていないよ」

 隙を突いて行われた抱擁の直後に深呼吸をする。それはマスターとの合図でもあった。

 頭を強く抱き締めて行われる体温の交換に、高鳴っていた殺戮の衝動が身を潜めていく。

「君は、やはり何も間違っていない。自分の身を守る為に、自分を狩りに来る種族―――人間などいない方が良いと考えるのは、普通の事だよ。なのに君は踏みとどまっている。やはり、リヒトは良い男の子だ。流石は私の男の子」

「‥まだ男の子ですか?」

「私がいなければ、すぐに空腹で倒れてしまうのだから、まだまだ子供だ。大人しくこの胸に収まっていなさい。さぁ、疲れただろう?眠ってくれ」

「まだ起きてます。俺は大人ですから」

 マスターの胸を突き放さず、むしろ強く抱き締める為に引き寄せる。その行動にマスターは勿論、マヤカすらも笑い始める。きっと俺はまだまだ子供に見えているのだろう。

「学究の徒についてわかりました。だけど、やっぱり俺にはあの人達がそんな他人に頼るような理由で、何処かに与するなんて信じられません。だって、本当になんでも出来る人達だったんですから」

「リヒトも、そう思うのか?実を言うとカタリ君も同じ意見だった。あの人達が、そんな無駄な事で何かを消耗する筈がないって。必要なら自分で全て創り出すとね」

 離れようとするマスターを抱き締めながら、首を振ると溜息を吐いて隣に座る。マスターの膝に頭を預けて、天を仰ぐと―――当然、天井の光は胸によって隠される。

「それでカタリ達は今どこに?」

「列車の前で、何か話し込んでいるよ。だから、ここにいるのは君好みの大人の女性のみ。このまま私達、姉弟子と師匠の悪戯に身を震わせていたまえ。きっとカタリ君達と今日一日、顔を合わせられなくなってしまうぞ」

 その意味をはかる寸前だった。顔を押し潰すようにマスターが前屈みに寄り掛かってきた。




「どうかした?」

「‥‥ど、どうかした?」

「はぁ?聞いてるのはこっちなんだけど?」

 ロタと共に、遅れて列車に乗り込んできたカタリが訝しみながら問い質してくる。

 たった数分間の逢瀬、悪戯の類であったが――――当のマスターとマヤカは、この様子を牙を剥きながら笑っていた。頂点捕食者であるふたりにとって、手負いの獲物を放置するのも、また愉悦のひとつであったようだ。

「‥‥少しだけ、学究の徒について聞いたんだ」

「ふーん」

「だから、俺答えたんだ。誰であろうと容赦しないって」

「—――良かった。そう答えてくれて。もし力を使えないとか言ったら、怒ってたかも」

「ふたりで、ふたりで決めた事なんだ。忘れたりしない」

 納得したカタリが、満足気に笑いながら真向かいから身を引いた。そのまま足を組んで何も言わず、何かを思案しているようだった。真剣な眼差しを窓の外、可視化出来るレイラインに向けたカタリの考えには、見当が付いた。

「きっと遠くに、この地脈の何処かにいるんだと思う」

「うん。私もそう思う。きっと遠くに、だけど会おうと思えばすぐにでも―――だから、今はいいの。それにあの家から逃げ出した私は、裏切り者だから」

 長い睫毛を持つまぶたを閉ざす姿にすら、溜息が出てしまう。

 気丈で誇り高くて、天才とも称された頭脳、そして頂点に立てる才能と才覚を余す事なく支配出来る最後の錬金術師は、この―――ひとめぼれに察しが付いてしまう。

「また私を見てるのね。今日はどんな気持ち?」

「‥‥やっぱりカタリは綺麗過ぎる。ずっと綺麗で可愛かったのに、ずっとずっと綺麗になっていく。俺は、カタリの隣に居られるぐらい格好良くなれたかな」

「そんな物自分で決めて。だけど、もし私の隣にいたいのなら、せめて常に私の好みであると心掛けて。言っておくけど、今のリヒトはまだまだ子供、男の子止まりだから」

「‥‥頑張ってみる。だから」

「うん、ちゃんと見ててあげるから」

 組めるほど長くなった脚線と、まぶたを覆う程大きく、そしてハッキリとした二重を持った成長したカタリであっても、このリヒトに向ける視線と笑みだけは―――引き継いだ記憶のままだった。温かくて、いつも甘くて優しくて、それでいて。

「—―――カタリには、まだまだ届きそうにない」

「ふふん♪じゃあ、まだまだ頑張ってね♪」

 人差し指の腹を向ける仕草に安堵してしまう。片目と閉じながらサディスティックに微笑む姿は、記憶の中のカタリ通りだった。

「‥‥そろそろ帰って来てくれ」

「帰ったら、何食べる?あーでも、献立は指示されてるんだった」

「そうなのか?」

「うん。だけど、安心して。食材の指定をされてるだけだから、しっかり計測して薬を盛って―――それからね」

 大きく咳払いをしたマスターに、仕方がないとふたりで視線を向ける。そこにはこの光景を楽しんでいるマヤカ、暇を潰す為にスマホでゲームをしているロタ、腕を組んで首を振っているマスターとそれぞれだった。

「では、私からの!!説明をさせて貰う。彼らには私の人形を付けさせている。述べるまでもないと思うが、対象は討魔局の残党だ。その中には、あの少年も含まれている」

「指揮官だけでも逃がしたんですか。見上げた自己犠牲、『かまど』にでも放り込んでみますか?きっと悟りを開いて覚者にでもなると思いますよ」

「犠牲がなければ悟れないとはね。それもそれで『見もの』かもしれないが、静止しておこう。彼らには身内のオーダーに裁かれるという涙ながらの粛清が待っている。顔見知りに取り調べを受けるなど、恥以上の辱めだからね」

 どうやら本当にオーダー内でも、特別嫌われていたようだ。あのような態度を誰に対しても取っているのなら、さもありなんと言った所。それどころか―――涙ながらに喜び勇んで、解散を指示できるのを今か今かと待ち望んでいる事だろう。

「で、あいつらはどこ?」

「敬語を使ってくれないかな?それでは『あの討魔局』と同じに映って」

「彼らは、今どこに居ますか?」

「当該彼らは、現在—―――おや?」

 スマホを取り出したマスターは、心底驚いたらしく既に整っている前髪を指で梳きながら目を開いた。美人は何をしても絵になるが、甘く柔らかな口元に指をつける姿には―――得もしれぬ淫靡さを感じた。

「先生?」

「機関本部」

 その答えに、マヤカが腰を浮かせた。

「‥‥いえ、違う筈です。だって」

「正確には変装をして病院近くに潜んでいる。だが、彼らが現在治療中の足手まといを助けに来る訳がない。そんな仲間意識、私達だって持ち合わせていない。どうやら、それはそれで使えると思ったから、敢えてこの位置を取っているようだね」

 病院と機関本部の間に、陣を張っているようだ。彼らの根城には興味など持っていなかったが、その実目と鼻の先にいた。

 つまりは―――外からの来訪者を迎える高級ホテルが立ち並ぶ行政地区にいる。

「そんなにホテルに憧れてるの?あの馬鹿も、部屋を借りてたし」

「寮やカレッジがある君達学生からすれば、違和感を持ち合わせてしまうかもしれないが、公的な組織が長期間滞在するには、それなりの場所を得なければ名誉に関わるのだよ。大人とは面倒でね、友達の家に滞在するなど人聞きが悪いのさ」

「それに、もし彼らに無報酬で宿を与えるような事をすれば、必ず誰かの耳に入る。上手く隠し通せても、かならず綻びが生まれる。リヒトに敗北したように」

 マヤカがロタの肩を揺らしながら伝えてくれるが、「あともう少し‥‥」と呟く愛らしい姿に、根負けしてしまい溜息を吐いてしまう。

「お金の関係って便利ね。お金を受け取ったからって言い訳出来るなんて。じゃあ、これから機関本部諸共、ホテルも塵にする感じですね?」

「ですね、と来たか。それは敬語と言えるかどうか私にはわからないな。一応否定しておくぞ、もし機関と正面から敵対しては我らがカレッジが―――負ける筈ないか」

 と自分の学生達の実力、異常性を知り尽くしてるマスターが渇いた笑いを続ける。

 そうだ、もし彼らが手を合わせてカレッジ防衛、打倒機関を掲げてしまえば、数日で完遂してしまう。これは、ただの任務となってしまう。

「これではどうかな?もし機関と敵対すれば、私のホテルを使えなくなってしまう。彼らも機関からの許しがあって、商業活動が出来ているのだから」

「つまんなーい」

 子供っぽく、ある意味大人らしく返した答えにくつくつと笑って返した。

「ひとまずは、彼らの動きを見ていよう。食料も医療品も供給されない敵陣で、追い詰められれば、必ずや彼女らに助けを求める。例え、それが意に反したとしてもね」

 そう言って座席に頬杖を突くマスターは、やはり自分達のマスターだった。




「マスター」

「ん?何かな?」

 マスターのホテルにて、カタリ達は小休止を取る為に外出中であった。よって自分は年上の女性と二人きり。震える程の美女と一室に閉じこもっているなど、心臓から耐え難い突き上げに襲われていた。

「‥‥病院で襲い掛かってきた人物。彼女は、本当に俺だけを狙いに来たのですか?」

「それ以外の目的がある。もしくは、あれはただの暇つぶしだと?」

 アマネさんの到来は自分にとって予見し難い物であった。

 誘拐を志したのに予定外の事象が起ってしまった場合、それは既に失敗を意味している。例え暗殺であっても、同じだ。護衛がいないと確証していたのなら尚更。

「ひとりならば確実に仕留められる――――だから、あそこまでの人員を連れて、確実に仕留めに来た。なのに、あまりにも簡単に引き下がったのは違和感があります」

「何故?君を暗殺しに来たのに、そこにはアマネ君がいた。ならば、目撃者と予定外の殺人という致命的な作戦変更を突き付けられる状況から、一刻も早く逃げ出すのは不思議ではないんじゃないか?」

「—――彼女達が正気であったのなら、そう言えたと思います。だけど、カサネさんから逃げきって、未だ討魔局よりも優位に、かつ俺達の眼からも逃れ続けている。これほどの状況、確実にあらゆる事態を想定していなければ確立出来ていない」

 これは自分の経験談であった。霧のように掴めず、風の如く姿が見えず、夜を思わせる果ての無さ。まるで吸血鬼のような執拗さと正体不明の然様を呈する。

「その気になれば、病院ごと爆破だって出来た筈です。それに目撃者を気にかけたのなら確実にアマネさんも殺しにかかる筈です。病院にいる人員全ても」

「忘れたのか?グレネードを使ってまで、君を仕留めにかかったという事実を。君の水晶が爆風を全て受け止めて、握り潰さなければ階層は跡形もなかったのだよ?」

「だけど、失敗した。今も姿を掴めさせない人間達が―――」

 退き際の良さは、寿命の長さと直結している。褒美や手柄、そういった物を求める三下には理解できない事実だが、三下を使い捨てる格上にとって、こういった鉄砲玉は何よりも有難い。死んで口を閉ざしてくれるのだから。

「違和感は最初からありました。変装でも、看護師の振りでもしてワゴンを押していれば俺もアマネさんも何も考えずに引き入れていました。なのに、扉越しの攻撃を仕掛けてきた。今の慎重さの欠片もありません」

「つまりこう言いたいのか。襲撃と潜伏、双方が全くの別人に感じると」

「‥‥もうあの女性は、この街にいない。目的を達したから」

 ベットの上から見上げるマスターの高い鼻と長い睫毛が、マスター自身の手によって隠される。思案しているのか、それとも思い出そうとしているのか。

 自分には推し量れなかった。

「冷静にかつ大胆に、何かの駆け引きにも似ているが、正気の人間がそんな破滅的な思考を持っているとは思えないか。あの女性は激情、人間の狂気を司り―――今の指揮官は人間の冷徹さ、言い方を変えれば臆病を物語っている。それは手こずりそうだ」

 唇を覆っていた手を、一切躊躇しないで口に押し付けてくる仕草に―――布団を握りしめて下半身を覆ってしまう。その仕草に薄く笑ったマスターは、布団を肩までかけ直してくれる。

「隠すと決めたのなら、いや誘っているとしたら君はかなりの腕前だ。私でなければどうなっていたか。マヤカ君やロタにもしないように、また乱暴されてしまうぞ」

「ら、乱暴なんてされません。ふたりとも、いつも優しいです‥」

「食べてしまいたいぐらい可愛い―――この言葉を覚えておきなさい。話はわかった。確かに、現場で襲撃を受けた君の言う通り、彼女らの行動には一貫性がない。何故ならば、既に何かしらを達成してしまったから。あり得る話だ」

 そう言いながら枕元の椅子から立ち上がろうとするマスターの薄いローブを掴み、首を振る。『行ったら嫌だ』、そう伝える為に掴み続けると、「大丈夫」と望み通りに腰を掛け戻す。

「少し立ち上がりたくなっただけだよ、君を置いては行かない。質問をいいかな?その彼女は、君になんと言った?」

「‥‥えっと、確か―――人間の家畜に徹していればって」

「人間とはあの教授の事か、それとも人類全体の事か。どちらでも同じ事だが、家畜とはどちらであっても変わらない。人間の為にその身を奪われた君を知っていた――――どうやら君こそが本プラン、去ったのは君は望み通りには動かないと悟ったか、もしくは君の代わりを見つけ出したからか」

 口元に戻した手を移動させ、首に這わせたマスターは特に何か意味があるようではなかった。マヤカの鎖と同じで、ハンドスピナー代わりに、もしくはペットの毛皮代わりにされた自分は、声を我慢できずにされるがままに慰撫される。

「やはり、あの人形は彼女らが―――いや、ならば一体どれだけの長い時間を掛けて作り上げた。それに中に異形を降臨、貴き者を呼び出すなんて。一体何を肩代わりに―――」

 首に飽きたマスターは、耳を指で擦り始める。脳を震わせる激しい音と未だ慣れない快楽に身が弾む自分は、既に布団を握る手を開けてしまっていた。

「やはり、アマネ君は自然の中で生まれた『究極の鍵』。人工でも必然でもない、完全なる偶然の素体。だけど、彼女を攫わなかった理由はなんだ。もしや既に自力で―――聖女だったか」

 耳の穴に冷たい指を詰められ中の壁を擦られる。内側をいじられる快楽に、顔が熱くなっていくが、既にマスターの顔を見れないぐらい羞恥心を感じているというのに、独り言を続ける麗人はこちらの都合など何も考えずに―――。

「あ、すまない」

 ようやく気付いた時、こと切れる寸前となっていた自分は仰け反っていた背骨をベットに埋められた。そして、下腹部を眺めたマスターは困ったように「私の責任だね」とベルトに手を伸ばした。

「病院帰りで溜まっていたのに。流石にここで約束を果たす訳にはいかない。匂いで気付かれてしまうからね。それに――――あと数分で戻る彼女達の顔を見れるかい?」

「‥‥見れません」

「ならば、すぐに鎮めさせなければね。大丈夫、君の急所は心得ている。私の顔を眺めながら突き出していなさい」





「よく眠れた?」

「え、」

 食事を終えてきたカタリ達は、少しだけ顔色が良くなって見えた。

「あんまり眠れなかった?」

「ついさっき起きたばかりなんだ。寝ぼけていて、先ほどからずっとこうだよ」

「‥‥ご飯はもう少し待って。帰ったらすぐに用意してあげるから」

「だ、大丈夫。まだ平気だから‥」

 カタリ達の顔を見れないだけではない。

 隣に座っているマスターの顔こそが一番見れなかった。自分はこんなにも気恥ずかしくて、終わって早々に掃除されてしまった。だというのに、すまし顔のままでマスターはカタリ達が購入してきた昼食に手を伸ばしている。

「そ、それでマスター。彼らは今どこに?」

「現在、討魔局一行はこの近くに潜伏しているよ。どうやら彼らはオーダーの本職でもあるようで、変装も潜入も得意のようだ。彼らの狙いは、どうしたって街からの脱出。ならば、機関地下か病院地下の列車を狙うのはわかっている」

「別の区画への移動は考えないのですか?ロタは行ったことはもありませんが」

 リビングルームのテレビでゲームを使用していたロタが、ようやくこちらに顔を向けてくれた。普段通りの仕草に、安堵しながら自分が否と伝える。

「別区画への移動は、車両でも徒歩でも魔に連なる者なら検問に引っ掛かるんだ。この街で学生をやってる人間は、人とは少しだけ身体の構造を変えてるから」

 自分やカタリを筆頭に、この街で自分の研究テーマを全うしようと進めている学生にはある特徴がある。それは血だ。

 薬であれ食事であれ、自分の望みを掛けてくる学生達の研究は大小関係なく特殊な物である。ならばそれに耐えうるように、自分を自然と改造するのは常識である。

 しかも―――無自覚に、年輪を造るが如く蓄積される。

「魔に連なる者の身体、良く言えばただの人間よりも頑丈なんだ。当然、血も」

「なるほど。私達の世界も、世界の壁を越えるには一度生まれ直す儀式が」

「ロタ」

「‥‥なんでもありません」

 マスターの一言に、大人しくなったロタはわざとらしくゲームに戻った。

「彼らも、広義の意味では魔に連なる者。全力で否定するだろうがね。別の区画、北部は例外だが東部南部に移動しようものなら――――この世界を露呈しようとした離反者と名指しされる。それだけは彼らだって避けるだろう」

「私もそう思う。私のリヒトを害する為に来たとは言え、彼らだって自分だけで生きて行けるほど、強い筈がないと気付いている。だから、やっぱり無理にでもレイラインの線路を求める」

 マーナを向かわせたマヤカが、表情筋をまるで動かさないで同意した。

 ならば、やはり自分達はこのホテルで待機していて正解という事だった。学究の徒に助けを求めるのは、もはや時間の問題。彼らがここにいるという事は、学究の徒はここに。そしてふたつの組織が求める列車の場所も、ここから程近い。

 尚更—――待ち続けるしかなかった。が―――唐突に扉を叩かれる。

「ん?」

 そんな日常に訝しんだのはマスターだった。

「おかしいぞ。何も呼んでいない上に、ノックはするなと伝えたのに」

「では、私が出てきます」

 敗北の字が画面に移されたロタが、僅かに表情に影を差しながら扉へと向かう。

 不機嫌であるのは論ずるに無用。しかも扉をノックされた時に手元が狂い、敗北の原因となった為、なおの事不機嫌であるロタは、そのまま刺殺でもしかねない空気を纏っていた。—―――しかも、それは空気止まりではなかった。

「あ、失礼」

 白の衣、ではない私服姿の青年の腹部に石突を抉り込ませた姿に、全員が席から立ち上がる。一人目の無力化は成功。けれど二人目の袈裟斬りを僅かに頭を逸らして避けたロタが、滑るように部屋の中央—―――全員が付いているテーブルに戻る。

「ふふ、足手まといを造ってしまったのに。反撃してくるなんて」

 部屋で扱うには相応しくない長大な槍を手にしたロタが、迫り続けて放たれた二刀目を弾き、その場で勢いを使って蹴り飛ばす。だけど、片腕で耐えた青年は目付きが違った。

「—―――」

 危険だ。止めるべきだ。間に割り込むべきだ。そう悟ったというのに。

 遅かった。

「あはははははははッ!!!!そう、そうすべき!!私を楽しませて、槍を振るわせて!!」

 銀色のローブを一瞬で纏ったロタが、髪を元の色に変えて長大な槍の柄先端を掴む。そのまま首でも飛ばすように振り被った一撃に、青年は扉の外まで弾き飛ばされ―――口から内臓でも吐き出しそうな衝撃に白目を剥いた。

「‥‥つまらない」

 一瞬の激情に、ローブも髪も元の物に戻したロタはやはりつまらなそうだった。

 だが、時代劇のように続々と入り込んでくる討魔局—――武家方の面々に、僅かに口角を上げる。最初にメインデッシュを味わったが期待外れであったロタは、前菜とスープで腹を膨らませると決めたようだった。

「驚いた。あれは形代であったか。あははは!!うまく誤魔化されたようだよ」

 ロタと同族であるマスターも、やはり戦乙女であった。追い詰められている状況で高笑いに楽しむ。常何時戦である世界で生まれた彼女達に、カタリもマヤカも溜息を吐く。そして―――。

「ロタ、残念だけどあなたはリヒトを」

「仕方ありません」

 銀の腕を持つカタリと入れ替わったロタが、槍をヴェールに戻しながらこちらに戻ってくる。欠伸ひとつこそしないが、お互いそんな心持のようで緊張感の欠片もなかった。

「リヒト、さぁ」

「え、うん」

 差し伸べられた手を掴んで水晶を脛や関節—―――無理に立ち上がれる程度には補強すると、杖と松葉杖をマヤカが渡してくれる。そのまま肩も貸してくれた。

「時間がないの。リヒトはこのまま外に」

「ここは高層の」

「時間がないの。だから、頑張って」

 ひとり完全に立ち上がった時、ロタと共にベランダまで誘ったマヤカが部屋へと戻った。ロタと二人きりになった自分は―――まさかと思ってすぐそばにいるロタを見つめる。幼さと女性の色香を持ち合わせる、人々の願望を合わせた美貌を持つ戦乙女は「リヒト、高い所は平気?」と告げてくる。

「ロタと一緒なら、どこでも平気」

「嬉しい。私もです」

 そう言って、その細腕では信じられない力で―――脇の下から持ち上げられる。まるで子供のような対応に、誰にも気付かないぐらいに表情を曇らせる。

「ロタ、」

「口を閉じていて。リヒトの舌を噛むのは私なのだから」

 白い手すりを越えたとわかった瞬間—――部屋の中から楽し気に手を振るマスターが眼に映った。それは講義の時には決して見せない、自分にだけ向けてくれる親しみと淫靡の表情であり、これから起こる事への対価でもあった。

 そして唐突に、浮遊感に包まれた身体は足のつかない上空に投げ捨てられた。





「リヒトとの初体験ですね」

 軽やかに、愛らしくそう告げたロタは、こんな状況でも楽し気であった。

 いまだ雲を掴めそうな位置で、胸に頬を押し付けてくるロタは慣れ親しんだ庭での会話を楽しむように言葉を待っていた。だけど、当然自分は返す余裕などなかった。

「まぁ。ふふふ。その顔、ロタとの寝屋のよう。もう我慢できない?」

 身を包む浮遊感は、一種の快感でもあった。重力という誰しもが与えられる拘束は。時間という概念と並び称される不自由の証でもあった。

 それが双方とも手を離されている状況に、絶叫すら上げない自分は臆病にも豪胆にも見えていた事だろう。視界の隅にあるホテルの窓ガラスは高速道路のアスファルトのようだった。流れていく巨大な窓枠達は新人を出迎えるように、その身を輝かせて歓迎する――――呼吸すら忘れていた自分は、ついロタの温かな息を吸ってしまう。

「ここでの行為を望むなんて、リヒトは私でも思いつかない快楽を知っているのですね。だけど、そろそろ時間なの」

 負けたと言わんばかりに、顔を朱に染めたロタが銀のローブを纏う。光輝く空気を布状に編んで纏う姿は、光をそのまま着るようで幻想的でロタによく似合っていた。

「では」

 ヴェールを羽衣に見立てて、否、翼であり羽衣であるヴェールを本来の形に戻したヴァルキュリアが空気ではなく。空間を翼で掴んで浮き上がる。鳥よりも自由に、雲よりも優美に佇むロタに抱かれた自分は、ようやくロタの胸で呼吸が出来た。

「ちょっとだけ怖かったんだ。後でわがまま聞いて貰うからな」

「いくらでも。好きにロタを汚して。私も、あなたで拭い去るから」

 と、大人びた態度を取っているヴァルキュリアの胸に顔を埋めるしか、自分が取れる反撃はなかった。そんな心を見通しているであろうロタは、鈴を転がす声と共に滑空を始める。

 自分がヨマイと共に行った樹の上での跳躍ではない。何かもの制限から逃れたロタとの飛行は、この身を弾ませるには十分過ぎた。そして上空から降り注いでくる二本の杖を、新たなヴェールで掴み上げたロタはなおの事軽々しく空を進む。

「重くないか?」

「ふふ、私達にとって戦士を運ぶとは日常でもあったので。それに、ロタは神の実子—―――人の世界での重量なんて、神々の世界からすればこの通る」

 そう言いながら身を翻したロタの胸の上に『置かれた』自分は、改めてロタの可憐さ妖艶さ、そして人外さを思い知った。美し過ぎる顔と肢体だけがロタではない。

 この身体を包む、視覚化すら出来そうな人並外れた神秘性には自然と目を預けてしまう。ただ美しいだけではない、誇り高く、自分達とは住む世界がまるで違う神の娘の抱擁を受けている今に、永遠を求めてしまう。

「‥‥温かい」

「気持ちいい?」

「気持ちいい‥」

「楽しい?」

 ロタに包まれて今は、夢に入っているようだった。何を問われても肯定し、何を差し出してでも戦乙女との時間を求めてしまう。夢であるのなら現実を捨て去ってしまいかねない。選ばれた戦士しか感じられない快楽に、まどろみを感じていた。

「‥‥ロタが大好き」

「—――ふふ、何度も聞きました」

 柔らかなヴェールで包まれているとは思えないぐらい、自分も羽ばたいて飛んでいると錯覚してしまう浮遊感に慣れてきた頃、ようやく目を開けた。

「これから何処に行きますか?」

 試すように問うてくるロタに、「—―――」と断言する。

 ホテルで襲撃を受け、カタリ達を残してきたこのような状況であれ、自分の傍らにはロタがいる。冷静に判断を下せる自信と共に確信を持てた。そして彼らは、ようやく自分達以外に警戒心を持てるようになっと、今の襲撃で知り尽くせた。

 —―――ホテルの討魔局はきっと囮。

「何故ですか?」

「ただでさえ少ない残党が、機関本部に攻め込める筈がない。病院だ、あの建物は何処まで行っても医療施設。もし攻め込まれたのなら、患者を優先する。それに」

「手負いの部下に命令し、最後の役目を果たさせる為。自害でも起こし始めたなら、エイル様達は手を外せなくなる。無人にも等しくなった所で、あの列車を奪取するのですね。ふふ、どうやらあの車輪を求めているようで」

「‥‥ロタは、全部気付いてたのか?」

「私はリヒトの戦乙女。それ以外などどうでもいいの」

 諸人には光としか感じられないロタの翼に抱かれ、空を突き抜ける感覚には優越感すら覚える。下々の人間とは吸っている空気すら違う。天空に許された生命である我らは、人間を見下しながら選ぶ立場に収まる。そして―――裁定者でもある。

「いかがですか?この光景は。ロタと同じ世界か」

「‥‥もっと早くロタと出会っていれば良かった。もっと早くロタを選んでいれば」

「ふふ、ロタももっと早くあなたを見つけていれば良かった」

「本当に?俺は、ロタに選ばれていた?」

「ええ、勿論。誰よりも早く、あなたを手中に収めていれば――――」

 風に包まれた耳では、それより先を聞き届けられなかった。そして、再度言うように懇願したが、当のロタは「ん?私をそんなに知りたいの?」と舌なめずりをしながら告げてくる姿には、胸に頭を押し当てて「知りたい‥」と呟くしかなかった。

 

 

 眼下に広がるは、そびえ立つ摩天楼。下界から見上げれば天まで届かんばかりに影と落とす人類の英知そのものとも呼称出来る。だが、それは天を求める俗人達の夢幻に過ぎなかった―――何故ならば、本当の天の館を知る存在がいるからだ。

 天そのもの者と言っても過言ではない神域の主—―――その娘と共に風に流るは、この神獣。ただ視線を向け、その怒りに触れれば何人たりとも、形を持てず―――ただ塵となるが『運命』であった。

 天へと翼を広げた人間は、ただ人間であった所為で天より拒まれた。

 やはり身の丈に合わない欲望も、力も与えられてはならない。

 その答えが、これだ―――。

「ミツケタ‥‥」

 ロタの腕から離れた時、既に水晶の翼で天を仰いでいた。日光が翼を貫通、透過されるプリズムは、やはり人間からすればただの自然現象。

 人間の脳では、意味など計れない貴き御業である。言葉での理解など不可能だ。

 肩に立ち上がるロタは、クスクスと笑いかけてくる。そして指を差された方向には、目標ではない諸人達がこちらを見上げていた。

「どうしましょう。美しいリヒトを、なにも捧げずに視界に与えるなんて。なんて傲慢、なんて無知—―――自らが見上げる神獣が、何かわかっているのでしょうか?」

 袖口で顔を隠す仕草には、遥か過去の貴族達を彷彿とさせた。下人には顔すら見せず、もし直視しようものならその場で首を刎ねられる。

 けれど―――己を天上人と定めた者は、総じてただの人間。欲と食に塗れた人間でしかない。だからこのロタは違う。人間とは次元の違う天の御使いそのもの。

「確か隠者になるとか。そう言ってしましたよね?」

「ああ、言っていた」

「なのに、よろしいの?」

「構わない。この姿と俺を繋げられる人間はまずいない。いたのなら、気に留める必要もない」

 ビル群を越え、雲と突き抜ける水晶の竜に、一体何を見つけるか。

「何故ですか?」

「憶測の域でしかなかったリヒトの力は、この秘境の中でも際立って異質。自分が理解出来ない力という概念は、自分を大きく超える力の持ち主であるんだ。見上げているならどうでもいい、逃げ惑うなら尚更気に留める必要もない。どうでもいい」

「ふふ、ではそのように‥‥」

 翻す翼に空を掴む力はない。あるのは――――この世界を踏みつける次元違いの存在証明。飛びではない。この世界のテクスチャーを、空の表面を滑るように進んでいた。だから、この世界しか知らぬ人間には、やはり理解の外である事だろう。

「あの方、ヘルヤ様はやはり私達を罠に」

「いや、今回は違うと思う。ロタは、マスターのどういう所が嫌いだ?中途半端に優しくて、厳しく成り切れない――――容赦を取り戻した所じゃないか?」

「ええ、その通り。生き残った私を、逃走した裏切り者と言って殲滅に来られれば、甘んじて刺し違えていた。なのに、あの方は私に席を与えた。『生徒』という手下とも奴隷とも違う。子とも違う愛でる対象にした。とても気に喰わない」

「本当に容赦を捨てたのなら、俺達に逃げ場なんて与えない。あの場に自分は来ないで、俺達だけにした筈だ。窓も扉もない部屋で」

 迷宮とは大いに違う環境だ。羽ばたこうと思えば、幾らでも逃げられる最上階に招いていた。ならば―――あの部屋は。

「あのホテルはマスターの私物。完全にマスターの支配下にある館だ――――あの人、カサネさんにも言っていない策略。これは罠じゃな機会だ」

「機会‥‥そう。これはチャンスという意味‥‥」

 ロタも気が付いた。

 これはマスターからの―――オーダー、マガツ機関、そして学院への宣戦布告。自らの力を誇示し、自分達の存在を知らしめる凱旋でもある。ならば凱旋に必要な物など知れている。首だ。

「これで俺達は、自他共に認める資格。討魔局と未だに潜んでいる学究の徒達をあぶり出せる力を見せつけている事になった。俺達は選ばれたんだ」

「‥‥あの方からの贈り物という所が気に喰わない。だけど、羨望の眼差しは悪くないですね」

 ひとつの羽ばたきで下界を吹き荒らし、ふたつめの滑空で息を止める。

 この神獣は今どのように見えている?太陽光を一身に受け、地上に七色の光と届けている自分は―――天からの言葉を届かせる使いに見えているか?それとも賢者を肩に乗せる、恐ろしい使い魔に移っているのだろうか?

 鼻で笑ってしまう。この神獣が、矮小で雑多な人間など視界に納めると思っているのか?大いに違う。まるで違う。見上げてくる人間のどれも理解出来ない。

「近づいてきました」

 視界の果て、つい先刻まで自分の鱗にも満たなかった病院は、既に視界の多くを収めるに値していた。そして怪我人達を慰める庭園を徒党を組んで襲撃している人間達も―――また、行政地区の中央、機関本部に攻め入っている人影も。

「あちらは本人達に任せましょう」

 その言に頷き、自分は咆哮を向ける相手を見極めた。

 頭蓋を破壊し、耳をつんざき、心臓と心を手折る神獣の怒り。空を震わせ、空気を崩壊せしめる天の響きに、誰もが空を見上げる。そしてその身に落とされる影も。

「来ましたね」

 自分達、人間とは規格外の人外だから感じられる震わせが、確かに伝わった。

 その声に飛び込むように、声を独占するように顎を開いた時—――息吹に焼かれた者達が悲鳴を上げる。泣きつくように病院の職員に懇願する姿に、生命の輝きを見つける。だが、その姿に送れる感情は、やはり憐れみばかりだった。

「こちらには向けないように」

 だが、一度開けた顎を閉ざす事由が生まれてしまった。よって。

 白の衣を纏っていた―――機関本部でマスター達に探りを入れていた上層らしき人間達を踏み潰すに留める。そして身体は残し、ロタと共に病院の庭へと足を落とす。

 出迎えながら、胸で受け止めてくれた戦乙女の医者が微かに微笑んだ気がした。

「‥‥先生。ごめんなさい」

「はい、私は医者、先生です。ようやくあなたからも『それ』が訊けた気がします。行きなさい、彼らは既に地下へ」

 手放される、離れる体温に背を向けて院内へと歩みを進めた。

 ほぼ無人の病院は非現実的だった。リハビリとして手すりを掴む姿も、人を迎える為にソファーで時間を潰す患者もいない。けれど、争いの跡として窓ガラスや書類が放置されている。普段のエイル先生の病院では、決してあり得ない光景だった。

「彼らも、ここに入院するのですよね。ふふ、なんて恐ろしい」

「‥‥やっぱり、怖い?」

「少しだけ。ふふ、あの方は女神に唯一歯向かえて、首を垂れさせた御仁だから。リヒト、あの方はとても優しくて甘えさせてくれる年上の女性です。だけど、同時に神さえ震え上がらせた――――」

 そこで止まったロタは、きっと思い出したのだろう。

 あの優しい先生の、向こうでの姿を。

「リヒト、ここの地下への道順は覚えていますか?」

 改めて問われると、実は曖昧であった。初めて降りた時はマスターに昏倒させられ、事ある度に運ばれていた道である。だが、やはり意識が明確の時は数える程もなかった。

「うんん、あんまり。ロタは?」

「情けないリヒト」

 一言、たった一言を病院のグランドフロアで放たれた自分は―――二本の杖と共に倒れ伏してしまいそうになる。いつもの楽し気な雰囲気ではなく、心の底から、視線を外して言い放ったロタに泣きつきそうになる程。

「弱いリヒト。どうしてそうもリヒトは弱いの?ひとりでは路頭に迷ってしまうなんて。何故こんなにも脆くて」

 最後まで聞く気概など、脆くて弱い自分は持ち合わせていなかった。

「‥‥もう、止めて」

「ふふ、その声すら情けないなんて」

 関節や骨を補強していた水晶さえ消え去った時、拳ひとつ分以上ある胸部で抱きしめてくれるロタに、引きずられるように何処かへと連れて行かれる。きっと自分は人工呼吸や心臓マッサージに用いる人形に見えているだろう。

「ロタ、ロタごめん。俺弱くて、だけど頑張るから。ちゃんと頑張るから‥」

 下を向きながら、涙を胸に吸わせる姿には自分も嫌気が差すが―――情け容赦ない言葉の持ち主であろうと、ロタの胸の中は温かくて何もかもを預ける包容力を持ち合わせていた。

「だから守ってくれ‥‥ロタがいないと弱いままなんだ」

「はい、リヒトは弱い子。わがままばかりなのに、眼を離したら何も出来ない弱弱な男の子。だけど、私が許してあげます。このロタが、特別に手足を取ってあげるから」

 温かな声に顔を上げた瞬間—――あの冷たい無表情ではなく、何もかもを許して抱きしめてくれる甘いロタに戻ってくれていた。このままロタに溶けてしまいたい。

「ロタ」

「ん?どうかした?」

「リハビリ、付き合ってくれる?」

「勿論♪」

 腰を引き寄せたロタが、されるがままに抱き締めさせてくれる。自分のペースで事を進めてくれるロタには、マスターと似た包容力、揺り籠にも似た心地よさがある。

「ロタ、ここは?」

「ん?エレベーターですよ」

 いつの間にか乗せられていた昇降機は、確かに何度か運ばれてきた道だった。気付かない間に連れ去られていた小部屋に首を捻ると、顔を抱き締めるように腕を伸ばされて―――目を強気に、口元さえ歪ませたロタに口を奪われる。

「あまり見ないで。そう言われているから」

「秘密?」

「そう秘密の扉。リヒトには刺激が強過ぎるの。もう疲れてしまった?」

「‥‥まだ平気」

 二本の杖に改めて体重を預けて、水晶を身体全体に巻き付ける。

 関節を増やす、或いは骨を増やすように補強した身体はバランスさえ取れれば自重だけで人体を折り曲げられる力を造り出せる。

 杖の一振りで背骨さえ叩き割れるだろう。

「ロタ、いくつか聞きたい。—――討魔局も学究の徒も、俺を狙っていた。それは間違いない」

「ええ、その通りかと」

「錬金術師が作り上げた、創生の彼岸の獣の依代であるこの身体を。同時に悪魔使いの造り出したその身体も。ロタが最初に断った理由は、それは」

「勿論、リヒトの傍に居れば私も狙われるから。私だって自分の身は可愛いのです」

「‥‥嘘、言わないでくれ。俺が断ったらロタが囮になるって、そう言われてたんじゃないのか?この世界で生きる為の功績を造れって、オーダーから命令されたんだろう‥‥」

 マスターが、今の地位に付くまでに一体どれだけの世界に貢献してきたのか、自分には想像もつかない。世界の守護者と自分を謳った戦乙女は、きっと本当にそれをやってのけた。だから――――今は、あそこまで自由でいられる。

 オーダーに抗っていられる。

「ロタは、まだこちらに来て日が浅いから。認められないって言われた―――違うか?」

「‥‥さぁ?」

「だけど、マスターが違うって言った。ロタはこの世界に必要な存在だって証明させったかった――――俺以外の事はどうでもいい。本当に、ロタはロタの事もどうでもよかった。‥‥ごめん、気付かなくて。もっと俺がロタに」

「私に?」

「‥‥もっと早くロタは婚約者だって見せつけていれば、認められたのに」

 この抱き締められない身体が忌々しかった。自分の事ばかりで、愛する者に何も施せない。自分ひとりでは何も出来ない自分には相応しい哀れな姿だった。

「だから、ロタは断ったんだろう。自分の為に俺を利用するのを嫌がったから。マスターの善意に寄るのも嫌だったから。—――ここにいる自分を認められなかったから」

 時折、空を見上げていた。それは遠くの世界に思いを馳せているのだろうと、故郷の記憶を辿っているに過ぎないのだと。そんな半端な覚悟を持っている筈がないのに。

「俺、もっと早くロタの手を掴むべきだったんだ。止まり木になるべきだったんだ。ずっとひとりは嫌だって思ってたのに、ずっとひとりにさせてたのは、俺だった」

「—―――そう思う?」

 決して抱き締めず、何も映さない氷のような瞳に背筋が凍てつくのを感じる。

「全部俺の為だったのに。言われるままにロタを誘って、守ってくれたロタに甘え続けてた。ロタだって守らないといけなかったのに。ごめん、俺、小さくて‥‥」

 一歩として踏み込む勇気を持てなかった。握っていた筈の手さえなくなっている。

 顔を見上げる気概さえ抱けない。得気に手を引いていた自分を呪ってしまいたい。

「もう少し頑張ってみるから。ロタの隣にいられるように、頑張って立ち続けるから。だから、ずっと肩に居て欲しい。ロタが導いてくれないと歩けないから」

「‥‥約束しますか?」

「する。ずっと手を引いて欲しい」

「欲しい欲しいと、わがままばかり。何故、そんなにも私が良いの?」

 見上げる機会をくれた。そう頷いて、白い怖いぐらい整った顔を見つめる。ヴァルキュリアは死者の前にのみ現れる。ならば、ヴァルキュリアを求めるとか死を求めるのと同意義である。自分きっと、また死のうとしていた。

 今度こそ自分で死を選べた。

「ロタが綺麗だから。この病院で初めて会った時から気付いてた――――ロタは、」

 それ以上は言うなと、唇を唇で塞がかれる。肩を持ち上げるロタの両腕に頼りながら杖を手放す。どれだけ頼っても戦乙女の力で受け止めてくれる天使は、呼吸と唾液、体液を交換し続けながら僅かに微笑み―――舌を噛んだ。

「そこへの傷は、初めてでしょう?私しか知らないあなたの傷。私しか抉れない新しい腫瘍。忘れないで下さい。ロタとリヒトの関係は、こうだという事を。私はあなたに仕える―――だけど、それは上下関係ではなく」

「恋人‥‥?」

 恐る恐る、そう訊いた時だった。マスターと良く似た微笑みを浮かべる。

「これは導き。あなたを正しき道、このロタと共に天界へと続く道を渡る伴侶には、相応しき風格が必要です。勇者でも英雄でもないあなたには、私が作り上げる完璧な神獣になって貰います」

「‥‥頑張ってみる。頑張って伴侶になるから」

「ふふ、ではリヒト。あなたにはひとつだけ試練を」

 自然とロタの背中を抱いていた。

 耳元から語り掛けるこそばゆさなど気にならない。この美しきロタと共にいられるのなら、煉獄すら焼き尽くし、天界すら焼き焦がす。そして人界など息吹ひとつで薙ぎ払う。例え、それが自分と生ける命、全てとの完全なる別れだったとしても。

 何故ならば、既にこの身はロタの物だから。何をも捧げられた。

「それほどまでにこのロタが欲しいのであれば、ロタとの別れを受け入れて」

 





「あはは、もしかして怒ってます?」

 人好きしそうな笑みを浮かべる少年が、未だ開かない扉の前で開錠作業に没頭してる人員に声を掛けていた。正確には座席の上で傷を抑え、或いは落ち着かない様子で立ち上がっている『仲間』に声を掛けていた。

「いえ‥‥」

 その中のひとり、機関に首を垂れるように指示されていた女性が短く返事をした。

「大丈夫ですよ。例えこの列車が動かずとも、我々の船があるのですから。これはただの間借り――――いっときの借宿でしかない。だって傷を治して」

 言葉の途中だった。少年の声を遮るように人員のひとりが床を踏み慣らした。

「借宿だぁ?この状況がわからねぇのかよ!?」

「ん?この状況って?」

「ふざけてんのかッ!?」

 息吹の余波だけで腰が引け、カレッジ通路の端で縮こまっていた雑兵が偉そうに、少年はそう思った事であろう。だが、少年も何もかも知っている訳ではなかった。

 この男性こそ、戦乙女に掴みかかって肋骨を折られた勇者のひとりであるとは。

「なんだこの街!?ただの学生街だって話は何だったんだ!?どいつもこいつも、正気じゃない―――まともな人間なんて一人もいない。特にあのガキだ!!」

「ガキ?ああ、肩をわざとぶつけて君を弾き飛ばした彼かい?」

「だから‥‥ふざけてんじゃねぇよ!!」

 内臓と骨の痛みに耐えながら立ち上がる。その後ろ姿に、討魔局の面々がようやく現れた勇者像にわずかながらの希望を見出し始める。だが、それはただの幻想だと誰もがわかっていた。

「誰に口を効いてるのか、わかってますよね?」

 整った目鼻立ちを、一切歪まずに行われる凄みには、経験を覗かせる。

 だが、そう言った裏での荒事に慣れていないある種の英雄は、気付かずに襟を掴み上げる。その行いに誰もが、少年自身も驚きながら見世物の対価として涼しい顔を浮かべた。

「テメェみてぇな他所者が何を知ってる!?俺達は、お前が椅子でお勉強してる間に毎日毎晩地脈を歪ませ続けて来た!!それもこの国の為になるって信じて!!なのに、いざ実行するとなったらお前が出張るだ?しかも、何もかも失敗している!!挙句逃げ出す始末、敗軍の将の義務も果たさずによ!!」

「へぇー。敗軍の将の義務って、一体何かな?」

 なおも男性の心を逆撫でする態度を崩さない少年に、誰もが恐怖を抱き始める。

「撤退はオーダーならば誰もが学ぶ一手ですよ。まさか、たった一回の敗北が、そんなに恥ずかしんですか?現場を知っている僕から、何も知らないあなたへ―――」

 襟を掴み上げ、顔面、鼻先に中指の関節を叩き込む寸前だった。

 男性の庇っていた脇に拳ひとつがめり込む。直後、怯んだ男性へ送っていた拳の肘を自身の膝で蹴り上げ、そのままアッパー気味に腹部を抉って行った。

「弱点を造り出す。確かに、それは拠点攻略、危険人物逮捕にとって重要な因子です。ならばこそ適格に弱点を運用、弱みを握っているアドバンテージを使って交渉を有利にする――――これこそが最重要事項です。あなたに、それが可能でしたか?」

「‥‥何が、言いたい?」

 既に仰向けに倒れ、腹を抑えるしか出来ない男性に、少年はなおも微笑み続ける。

「はっきりと言ってしまえば、前準備なんて誰でも出来るんですよ。時間なんていくらでもある、必要な道具も技術も知識も、いつでも彼女達に求められたんですから」

 ヒトガタという人材は、とても有用だったと指揮官の少年は聞いていた。

 その身を顧みず、一歩間違えれば自身の脳神経をただの肉片に変えてしまう状況でも、何も知らない様子に何も恐れなかったと聞いた。

「地脈、レイラインを歪ませる?そんな専門的な技術、いえ、天文学的な確率の世界で生まれる欠片を拾い上げる結果を算出できる術を、あなたが持ち合わせていると?僕が椅子に座っている間、『彼女達』に触れていたあなた達が何をしていたと?」

 顎を上げた少年が、全員にそう問うた。誰も応えられる筈がない。

 何も出来ず、何も知らない彼ら彼女らは―――学究の徒の手助け無しに、前段階すら整えられなかったのだから。1000年の歴史を持つ討魔局は、100年の歪みひとつ造り出せてなどいなかった。

「—――そ、それは」

「陰陽方が手を貸さなかったから?」

 立ち上がった男性が、喉を裂かんばかりに言い放った。「負けたのはお前が原因だろう!!」と。敗軍の将の義務。その意味を知らぬ訳がなかった。

「‥‥ええ、そうです。現場で指示を取っていた僕の責任です。僕が―――陰陽方であれば成功。彼の身体を焼き焦がし、彼女達のひとりでも身柄を抑えられた。だからなんですか?」

 鼻で笑うように、手を広げて言い放った少年がいた。

「だって僕も武家方。あなた達と同じ所属です。なのに、あなた達は同じ武家方である僕の責任だと言った。失敗?して当然では?だって陰陽方でない僕を見て、あなた達は言った筈です――――期待していないと、あれは嘘でしたか?」

 カラカラと笑う少年は、なおも続ける。

 この場で全員が跳び掛かれば圧殺すら可能だという状況で、狂ったように笑い、狂ったように言葉を吐き出す姿には、道化だけではない何者かが乗り移ったようでもあった。

「現場の責任は指揮官の責任。あなた方ならば、彼を完全に焼けましたか?だって僕が配備された理由は―――銃口すら向けられないと通達されたからですよ。僕みたいな畑違いが呼び出された理由がそれです。討魔局の誇り?退魔局の復興?何ひとつ受け告げていないあなた達に、そんなお題目重すぎたんですよ」

 少年は、なおも涼しい顔をしていた。言い放たれる怒号、放たれる銃弾、引き抜かれる肥後守。肉の塊が全体重をかけて、骨が折れる事も厭わず向かい来る襲撃を。

 だが、続け様に言い放たれる怒号をかき消したのは―――。

「もうお帰りですか?」

 レイラインを軌道にし、地脈の果てから果てまでを踏破出来る至宝とも秘宝とも、『戦略兵器』とでも言える列車の窓を破壊しながら飛び込んできた少女だった。

 その背に七色に輝く水晶の翼をはためかせ、神速にも届く世界を自由に歩く戦乙女だった。もし彼らが、この神獣の従者の正体を知っていれば早々に目的のひとつを果たしていた事だろう。

「けれどけれど、まだまだ『私達の』持て成しは終わっていません。享楽は充分ですよね?ならば―――我らの戦を知り、そして血に微睡みなさい!!」

 座席や窓ガラスなど意に介さない水晶の槍の一振りで、誰もが頭を守る。けれど、身体が強張り伏せられなかった者達から、窓を突き破り外へと弾き出される。

「ふふ、あははははは!!!終わり?終わりなんて、認められません!!さぁ、私を楽しませて!!」

 舞うが如く、煌びやかに執り行われる殺戮には誰もが無力だった。

 太刀は既になく、形代すら使い切った現状で狂った神々に対抗する術などなかった。だけど、ひとつだけ策があったのもまた事実であった。

 神の怒りとは洪水、地震、飢饉といった自然現象の形を乗っ取り振り降ろされる。

 旧約聖書にてソドムとゴモラ、ノアの箱舟。それらに関係するのは『あった街』である。何故、『あった』なのか?それは既に滅びたからだ。

 飽食、性の乱れ、傲慢といった罪を裁かれなくなったからだ。天変地異の名を借りて与えられた裁きには誰もが抗えない。だが、唯一生き残れた例があった。

 迫りくる無情の刃を身に受け入れる覚悟など、人間が持てる筈もないのだから。




「一時だけ耐えて。このロタを手放す勇気を持って―――」

 目を閉じながらこの言葉を繰り返す。

 一握の寂しさとは到底言えない寒さに耐えながら、水晶に覆われたまぶたに熱を灯す。言われるがままに、誘われるままに、地中を貫く空洞にこの身を収めていた。

 眼前にそびえるは列車などではない。

「船か‥‥」

 何かしらの移動手段を保持している事には、さほども食指が出なかった。この秘境は、確かに『特別』である。だから同時に、他の組織も『特別』を持っている。

 唯一性や独立性など、聞けば僅かに頬が緩む言葉ではあるが、探してみればそう言ったものは枚挙にいとまがない―――我らは魔に連なる者なのだから。

 それぞれがそれぞれの終わり、特別という言葉では片づけられない終点を目指しているだけに過ぎない。その過程で、こういった便利で汎用的な代物が生まれた。

「‥‥似た物を、確か‥‥」

 彼らは討魔局。ならば、天乃羅摩船—――カガイモの実で造られた悪童神の船で会ったり、藁や紙で造られた戦艦とでも呼ぶべき色物でも用意しているかと思ったが、それは大いに違った。敢えて命名するのなら―――虚船と言うべきだ。

「確か、日本のUFOだったか。だけど、あれは国外からの国流し、追放を受けて地位ある者達への、最後の贈り物だった筈だ。もしかして、こんな本当は見た目?」

 宇宙への展望は、誰であろうと持ち合わせている。そう、自分は確信している。

 だが、やはり目の前の虚船は、自分の思い浮かべるUFOとは似ても似つかない強襲艇だった。これは美術館は美術館でも、展示される場と国が違う。

「戦争博物館の強襲艦。片道だけの、爆薬を抜いた上陸艇に似てる。それにこれは」

 マキトの使っていた部屋に飾ってあった絵画の、夜空を駆ける船にも似ていた。

「‥‥知られてはいけない歴史って言った所か。それとも別の視点と技術を得らないと、もはや自分達では何も作れないのか。保持してる資料だけは並外れてると思っていたのに―――技術の後継者が消えたか」

 彼らは広義の意味では魔に連なる者だが、だからと言って何かを目指している訳ではない。これに類する研究をしている学生ならばいるだろうが、それは彼らの思い描く神話の船ではないのだろう。だから、現存している設計図を元に、こんな複雑怪奇な『何か』を造り出したのかもしれない。

「線路を滑る。滑走路がないから、無理に車輪を造ったんだろうけど、所詮は付け焼き刃。片道でいいから、好き勝手に改造したって所かな?」

 船を造り出した工房を思い浮かべていた時だった。遥か彼方にある病院の列車の方向から機関音と共に、車輪と線路の弾き出す火花の音と色が見えてくる。

「間に合ったか」

 ロタを別れ、かなりの距離を水晶の波で走った甲斐があったようだ。

 間に合った。彼らが真に列車の操縦が可能であったなら、既にレイラインへと飛び込み、銀河鉄道の夜を思わせる狭間の世界へと飛び立っていただろう。

「飛んでいたらロタが仕留める。ここまで辿り着いて、飛び乗ったのなら」

 それぞれの役割に徹して結果だった。最悪、ひとりで世界と世界の狭間を渡れるロタだからこそ、一番危険な先攻強襲を選んだ。ならば自分はどうだ?

 自分だって世界を駆け抜けられる。自分は既に新たな世界と成ったからだ。

「だけど、それをするにはあの形になるしかない。その時、俺は人を殺してしまう」

 迫りくる高光力のライトに目を焼かれる。急ブレーキに車体を軋ませる操縦は、慣性に従って壁から天井に、そして床へと叩きつけられる人の事など無視していた。

「あれはつらい。空を飛べるロタじゃないと」

 もし自分が脳と内臓の混沌を受けていたら、どうなっていたか。考えるまでない。

 そして、自分の眼下を通り過ぎながら駆け抜ける列車の窓から―――自分のヴァルキュリアが飛び出てくる。その姿は妖精のようでもあったが、やはりこの清楚で儚くて美しい姿は、死者の魂を連れ歩く熾天の使いとしか形容出来なかった。

「リヒト」

 翼をはためかせ、耳元で囁くロタに目配せをした。

 消えたロタの事を探さず飛び出してくる幾人かは、強靭な中枢神経の持ち主だった。あれだけのシェイクを味わっておきながら全速力で疾走出来る姿には感服する。

 よろめきながらも這い出てくる人間達の事など無視した行動、既に放置しながら発車の準備を始め―――それも数分で終わらせる姿には尊敬の念を送ってしまう。

「どうやら彼らはやはり」

「ああ。あれは裏切りじゃない。元から一枚岩とは思ってなかったけど」

 人には通じない会話を頭の中だけ済ませる。彼らに猶予を与える理由は述べるまでもない。散々秘境に破壊活動を行った彼らが逃げ惑う。追いかけるには十分だ。

「目を閉じてくれ」

 背の翼でロタを覆い、噴射される装甲の輝きから守る。想像通り、あれも世界を滑るように進む別次元の技術だった。口寄せにも似た術が使えるのだから、さもありなんだった。よって、ロタを肩に置きながら――――飛び出した船を追跡する。

「ふふ、そうそう。もっと見せつけて差し上げましょう」

 ようやく逃げ出せた。ようやく助かった。そう思っている。なのに、この背後の光景はどういう事だ?どうして光そのものが追いかけてくるのか。どうして、光輝く竜が顎を開けて迫りくるのか?処理が追い付かない場面に、脳を丸ごと吐き出しそうになっている事だろう。

「逃がすと思ったのか?」

 レイライン突入準備に入った瞬間。牙と角、翼を赤熱に染める。

 射程対象、虚船。与えられた世界へと接続を開始—―――潜行許可。接続開始—――終了。世界が造り出す熱源を再構築、変換開始、出力段階終了。

 眼前にあるのはなんだ?何もかもを奪おうと、辱め、穢そうとした人間だ。彼らの理念はなんだ?この国を我が物顔で闊歩している我らを排斥か?

 いつから、人間はこの神獣を裁ける権利を得た?

 肩で笑みを浮かべるロタが槍を差し向ける。方向を見間違うな、容赦をするな、何かもを破壊しろ。この神獣に出来る事はそれだけだ。言われるもない事実に、瞳を縦に開く。

 翼から放出される余剰にして、十字を切る顎を狂わせない為の力すら人間など瞬く間など灰燼に帰す。神獣の後塵を拝するだけで、これだ。

 ならば、面前を駆ける人間など塵も許し難い。

 牙が赤に染め切った時、顎の奥から別世界の熱が姿を現す。対象が左右に揺れ始める。だが、既にこの息吹はその姿全てを視認、呑み込む。

 お前達が、放った爆炎と同じように。

 顔を叩く風すら燃え尽きる。自分とロタの周りのみ、既に別世界であった。人外に呑み許され、切り拓かれた新たな世界には、人間の踏み入る隙などあり得ない。

「放って」

 微笑みながら、そして残酷に与えられた指示のまま。極光を撃ち出す。撃ち落とされた虚船が線路にその身を削るが、なおも放出される息吹にその身を燃やし尽くされる。許容できない力の奔流を受け取った装甲は、弾けるように破壊。

 燐光を上げて燃えつけていく姿には、天へと上る命の終わり見つける。

 きっとロタが、この神獣に手を差し伸べて理由がこれなのだろう。触れてみたくなる、自分の手で留めを刺し、砕け散る結晶を演出したくなる。

 許されなかった主を守る為に、その身を捧げる姿にはトドメを刺すしかなかった。



 

「どうしたました?」

「‥‥なんでもない」

 ロタと二人、モニターの前でコントローラーを操作していた。

 既に夕食と入浴を終えた身体は、このまま眠りに付いてもおかしくなかった。このままロタの腿に頭を預ければ、降り注がれる微笑みに何もかもを捧げてしまう。

「本当に?」

「‥‥本当はある」

 口角を上げたロタが、ゲームを停止して楽し気に足を組んでしまう。

 白かった足は既に血流で赤く染まり、このまま噛み付けば我を忘れてロタを求めてしまうとわかる程だった。傷ひとつない皮膚である薄い脂肪は、形のいい筋肉と骨を覆っている。触れれば沈むのに、反発する力はロタの意のままに雪にも石ともなる。

「‥‥何がしたい?」

「‥‥ロタ」

「ん?」

 組まれた足には他を受け入れる面積などなかった。胸を守るように腕を組む姿にも寂しさを感じるのに、自分の口で言うまで絶対に与えらない、お預けにも涙が零れそうだった。

「頑張って。ロタと何がしたい?ここには私達しかいませんから」

 言葉ばかりは優し気ながらも、それを口にする表情は強く歪まされている。

 きっと自分の所為なのだ。あれだけ優しいロタが、ここまで顔を歪ませているなんて。造り出された表情はロタのよくする顔付きでもあったが、自分が今欲している表情は大いに違った。

「‥‥ロタと恋人がする事をしたい。甘えていい?」

「今はそれで良しとしましょう。さぁ‥‥」

 叩かれ、解かれた腿に飛び込み―――ロタとの時間をようやく始める事が出来た。




研究所が発見、先生が消えていた

少年はオーダーの指示で、討魔局に潜入、ヒトガタの探りをしていた。


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神獣の飼い方 一沢 @katei1217

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