第7話

「どうした?」

「‥いいえ」

 私は今、どこにいるのだろうか。

 見れば分かるだろう。考えるまでもない。彼の隣で、グラスを傾けているのが私だ。初めて―――あの人以外の男性を自身の部屋に招いた夜、彼との時間を享受しているのが、この私だ。

「味はいかがですか?」

「美味しいよ!勿論!」

 はしゃぐように頬に食事を満たしていく彼は、見た目だけならば『ただの子供』だった。今も微笑み掛けている彼は、私が連れ去るには未熟な子供でしかなかった。

「‥何故でしょうね」

「ん?どうかした?」

「‥‥ふふ、いいえ―――私は、今どこにいるの」

「哲学の話か?」

 自分の戯言に、自身の内の世界を使って言葉にしようとしてくれている彼が、今はただただ愛おしかった。そして、ただただ彼の存在が恐ろしかった。

 初めて会った時、私は無自覚ながらも腕を砕いてしまった。彼が彼でなければ、切断すら視野に入っていたと、言われてしまった。あの館で再会した時は、本心で首と落とすつもりだった。—―――そうでなければ、手を取れなかった。

「じゃあ、俺はどこにいると思う?」

「え、私のリヒトはここにいるのでは?」

「そうだと思う。だけど、俺は存在の半分以上、向こうの彼岸に置いて来てる。この身体は、向こうからの投映に過ぎない―――そう思わないか?」

「‥‥では、ここにいるリヒトは、一体何者なの?」

「さっきロタが言ってただろう。俺はロタの恋人だ」

 煙に巻かれた気分でいる自分はそのままに、少しだけ大人びた顔付きとなった彼が、頬を赤く染めながら再度料理に邁進していく。

 見た目通り、気恥ずかしさなど感じていない。

 彼の言葉は、ただの事実だった。その証に、彼は内に『世界』を抱えている。

「‥誤魔化していますね。年上の女性を振り回すなんて、リヒトは悪い子ですよ」

「ロタだって良い子じゃないだろう」

「私は、大人の女性なので、年下の生意気な男の子を手籠めにする、妖艶で悪い女性になっていいのです。リヒトだって、いつもあの人とマヤカさん、カタリに」

「て、手籠めになんてされない‥みんないつも優しい‥」

「ふふ、あれは手籠めにされると言うのですよ」

 最初、私の心を推察出来なかった彼は、私の正面に座った。呆れながらも手招きをして、隣に座らせたというのに――――料理ばかりで手のひとつも握らない。

 だからお仕置きの為に、肌を晒した素足を彼の膝の置いてみる。

「‥‥ロタ」

「はい、このロタに何か?」

「‥‥まだ料理があるから、全部食べてから」

「まぁ、食べきったら直接?私は、一緒にゲームにお風呂、映画を見てからだと思っていたのに‥。まだまだ夜明けまでは長いというのに―――体力に自信があるの?」

 耳朶を噛みながら、最後の一文を囁くと、握っていたスプーンが皿に落としてしまう。そのまま掴む気配を見せないで、視線を足に逸らしていく。

 俯いているから気付かれていないと思っているのだろうか?

「‥ロタ」

「はい、あなたの愛しいロタに何か?私の足に見惚れて、声も出せないリヒトはどうしましたか?」

 スプーンを持ち上げて、口に差し出すと無言のままに食していく。顔は真っ赤に染まって、心中も穏やかではない彼は、なおも食事を続ける。

 私よりも空腹を重んじているようで、こちらの心中が穏やかではなくなっていく。

「もしかして、怒ってる?」

「さぁ?どうでしょう」

「‥‥ごめん」

「では、許してあげましょう」

 足を離した途端、緊張の糸が切れたように椅子に背を預けてしまう。

 何故、自分はここにいるのだろうか。何故、自分はここに来てしまったのだろうか?勇者や英雄を探し出す為だろうか?もしそうならば、ここで彼の世話をしているのは、矛盾してやいないだろうか―――――彼は、英雄には成り得ないというのに。

「だけど、急にロタが困らせるのが悪いんだからな」

「そう、私の所為ですか。リヒトは私が悪いと、私がわがままだと言うのですね。では、こんなわがままで悪い乙女の事など、リヒトは要らないのでしょうね」

 こう言って、少しずつ距離を取って行くと、追いかけるようにリヒトが手を伸ばしてくる。既に目元を潤ませる彼は、泣く一歩手前に見えた。事実として、それは見間違いではないようだ。

「待って、困らせたなら謝るから。怒った訳でもないから‥ただ、偶にはロタに反撃したかっただけだから‥」

「ああ、リヒト、このロタはとても傷つきました。涙で湖を造り、自身の翼を引き千切ってしまいかねない程、暗闇の奥底にいます。折角、リヒトの為に食事を用意したというのに、リヒトは私を傷付けて、素知らぬ顔で食事を続けながら私を痛ぶるのですね」

「ロ、ロタ‥悪かったから‥」

 手を引こうとしてくるリヒトから逃れ、椅子から立ち上がって背を見せる。

 全ては私の思うままだった。椅子から転げるように追い掛けてくる彼は、跪きながら私の手をとって泣き付いてくる。「怒らないで、ロタを困らせる気はなかったんだ!」と、叫ぶ彼に軽く振り返ってみると、目元を赤く腫れさせている姿が見えた。

「仕方ありません。何もかもを未経験で、未熟なあなたには私が必要ですね。このロタは、まだまだ男の子なリヒトの為、これからも側にいると誓いましょう」

「本当?もう怒ってない?」

「はい、怒っていませんよ。ではリヒトからも誓いを立てて下さい」

 このような時間、一体どれだけの価値があるのだろうか。

「‥わかった。神獣リヒトは、ロタと共にいる。いつ何時でもロタの為に、俺はいよう。ロタが困っていたら、俺はすぐにロタの為に何もかも薙ぎ払う。ロタに道を作り出すから」

 ――――無理矢理引き出した言葉に、どれだけの意味があろうか。

 —―――彼のような何も知らない子供の心を弄ぶ事に理由などあるのだろうか。彼のこの顔に、自分は何を思っているのか。

「ああ、リヒト、遂に私にそのような言葉を捧げるだなんて‥」

「だけど、自分で言えって‥」

「私が?また私の所為にする気なのですね。まだまだ男の子のリヒトは‥」

 振り返って顎を膝で持ち上げてみる。顎から感じる肌の感触に、短いスカートの内側から漂う―――女性と香水の匂いに意識が朦朧としていく。

 手に取るようにわかる彼の心に、思わず笑ってしまう。

「もう困らせないでくれ‥折角ロタが料理を作ってくれたんだから‥」

「ごめんなさい、確かに少しいじめ過ぎましたね。さぁ、立って」

 もし私が自分の製造使命通りに、己を操作するのなら、どうすればいいのかなど明白であった。都合よくも私に心酔している彼を使い潰し、世界を再生すればいい。

 —―――ああ、だけど作り直した世界は、本当に私が元いた世界となるのか?

 —―――ああ、彼を使い潰すという事は、人間が彼に施した事と同じではないか?

 私は、あのような醜悪な人間達と同じ真似をしたがっているのではないか?

「ロタ、どうかした?」

 気が付いた時、私は彼の胸のなかに顔を埋めていた。私のような美の究極にいる女性体にしがみつかれ、身体を固くしている彼は背中を抱いてくれない。

「‥ふふ、やはりまだまだ男の子ですね。今夜は、私が導いてあげますから」

「‥少しぐらい動けるようになった。上に乗られるだけじゃなくなった」

「では、リヒトの手腕—――楽しませてもらいますね」

 手を握り、無理やり背中に回した事でようやく身体を抱く彼は、きっと今夜も動けないのだろう。彼はきっとこう言う「ロタがペースを乱すのが悪い」と。

「食事を続けましょう。だけどお酒は寝室で‥酒を潤滑油に絡まるのは、とても楽しいですよ」

「‥うん」

 食事にばかり気を取られていた彼は、数時間後の出来事しか頭に無くなってしまう。ようやく座り直した彼は、時たまこちらに視線を振って顔を朱に染めていく。

 —――なぜ、私はこんな事をしているのだろうか。私の使命は、このような時間で塗りつぶされてしまうほど、矮小で些末な事であっただろうか。

 年相応の恋心?恋人との逢瀬?—――くだらない、ああ、くだらない。

 ああ――――だが、それを頭に浮かべるだけで、歯車が、心臓が裂けそうだ。

「美味しい?」

「美味しい!」

 向けたスプーンから食事を取る彼の笑顔の裏、身体の内側にいる神獣に怖れ慄いている自分がいるから、私は彼に仕えているのだろう。そう言い聞かせながら、子供の世話を己が血肉を使って奉仕している。いや、それだけでは言い訳にならない。

「それは良かった。私も、時間を掛けた甲斐がありました」

 神獣リヒト。彼の内に潜む『生命の樹』は、きっと私にとって有益となる。







「お断りします」

「そう言うと思っていたよ。だが、せめて話だけでも聞いてくれないか?」

「何故私が」

「君も、外部監査科のひとりだからだよ。こちらの世界に留まり、身体を提供する代わりにこちらの任務を遂行する―――そういう約束だっただろう?」

 約束は守る物。それは私達にとって絶対的な関係であった。何故ならば、我らが主神からの命令は、権限という名の元、施されているがあれは紛れもなく約束、約定—――己が使命は、己が欲求、それを果たせるのなら何をも差し出せた。

 だが―――それから己を優先し、逃げ出した者が、これを盾とするか。

「‥‥あなたが、約束と口にしますか」

「卑怯かもしれないが言わせて貰う。言っておくが、私にだって選択肢はなかった」

「—―――それはあなたが、自ら逃げ出したからでしょう!!」

 準備室に轟く己が声は、薄い壁や扉を貫通してカレッジ内すべてに響いてしまった。扉の外から自分の声に驚き、人間達の出す声が聞こえてくる。

「‥‥ロタ、君はまだ」

「これは使命でも理念でもありません。あなたの身勝手さなど、昔からの事。だけど、『自分』から逃げ出したあなたと、最後まで『自分』を全うした私とで、同じ秤に置かれるのは我慢なりません。—―――あなたの都合など知りません、あなたが私の都合など考えていないのと同じように」

 振り返って扉へと突き進む、けれど肩を掴まれ無理に振り戻される。

「ロタ、まずは聞きなさい。君が私を嫌っているなど、知り尽くしている。未だ、私も君と同じだからだ――――戦乙女から逃げ出したというのに、未だこの権能に頼っている私など、視界にも入れたくはない事も。だが、私は既にこちらの世界の守り手についてしまっている。ならば、その役目を遂行するまでだ」

 世界の守り手としての役目を遂行する?この被創造物は、一体何を言っている?

「君の誇りを汚すような真似はしないと、ここに誓う。だが、既に過ぎ去り、燃え尽きてしまった世界の理に、どれだけの理念がある。捨てられないのなら、それでいい。けれど――――それは君の世界だ。私の世界とは違う」

 あの場から逃げた者など、数える程だった。その翼が焼かれようと、己が子を守る為、身を捨てた賭けた者達がいた。全て消え去ったとしても、あの勇姿はこの眼に焼き付いている――――そんな姿を、この脱走者が、価値を計っている?

「‥ロタ、どうか覚悟を持ってくれ。その誓いはとうに意味など」

「その言葉は、自身に投げかけて下さい。あの場に居てしまえば、私もあなたも燃え尽きた。‥‥投げ捨てられなければ、私もここにはいないとわかっています。けれど、何もかもがまだ間に合った瞬間、我らを裏切り、手勢を従えて逃げたあなたに、どれだけの覚悟がありました。捨て去る覚悟など、後からいくらでも言い繕えます」

 肩から手を振り払い、扉へと腕を伸ばす。再度呼びかけられるが、その声には憎しみしか生まれない。

「もう結構です。やはり、私はあなたは認められない」

 この方がいなければ、私は今も何者かに従えられていた。自身の誇りなどという都合のいいものに手綱を操られ、ただの荷馬車という穢れた殻と成っていた。

 けれども、扉を通り抜ける頭蓋ばかりは止める事が出来なかった。

「‥‥私の矛先は、どこへ行くの」

 口の中だけで呟いた言葉に、どれだけの価値があるだろうか。今も邪な視線を向けてくる人間の汚泥を通り抜け、日の差す場所へと向かう。

 階段を下り、踊り場に到達した時、ようやく光を纏う事ができる。

「‥‥ああ、一体、私には今さら価値などあるのでしょうか」

 自分は人間達の組織、オーダーとマガツ機関とやらに置かれているらしい。

 だから、なんだと言うのだろうか?覚悟?生きる為、身を振る事になんら忌避感など持たない――――だが、あのような裏切り者、身を落とす根源となった者に知った口を叩かれ、意味も解らず我が槍を貶されるなど、決して許す事など出来ない。

「—――いっそ、心など砕いてくれれば良かったのに。ただ笑いながら槍を振り回せる自分は、一体どこへ行ったの?なぜ、この世界には狩り取れる巨人がいないの?」

 この場で翼を開き、逃げ去ってしまおうか。この世界の表裏の支えを、ただの快楽で折って砕いてしまおうか。その時こそ、私は己が役目を見つけ出せる。

 自身の求められた役割通り、戦乱の中で自分の勇者を見つけ出せる。

「何故、覚悟ばかり問われて―――誇りは無価値だと言われなければならないの。『あの者』には、とうの昔に覚悟などないのに。『あの人間』が排除された時から、既にそんな物など持ち合わせていないというのに――――何故、推し測れなければならないの」

 理解できない。納得できない。看過できない。認知できない。嚥下できない。

 私は、求められた通りに戦い、駆け抜けた。生き残り、帰って来た事がこれ程までに罪深いというの。ならば、何故私は断罪されない。何故、私ばかり看取る側なのだ。

「‥‥あなたは、今どこに。私を認めてくれた、私を信じてくれたあなたは‥」

 祈るばかりでは何も出来ないとわかっている。既にこのような生娘のような行い、淘汰してきた。祈るのならば、己が槍。願いを掛けるのであれば、己が翼。

「—――私は、あなたの認めてくれたロタのままなのでしょうか」





 既に講義室にはロタが到着していた。顔を見合わせた瞬間、ロタは椅子から跳びあがるように立ち上がり、否、跳びあがってふわりと真横に舞い降りた。

「どうですか?」

「‥‥もう少しスカートを気にして欲しい」

「悪い子ですよ、リヒト。私を覗くだなんて―――見たいのなら私に傅いてお願いして下さい。あなたの秘部が見たいのだと。そうすれば、」

「そろそろ席に着いてくれ」

 いつの間にか教壇に立っていたマスターからの視線に逆らえず、ロタの手を引いて大人しく学生のひとりに徹する。

 だが、不満げながらも肩に頭を置いたロタが、腕を取って胸に引き込んでくる光景に息を詰まらせていると、耳の穴に息を吹き込まれる。

「私に見惚れてしまうのは仕方ありません。だけど、時と場所を選んで下さい」

「その通りだ、リヒト。君の好色家は知った所であるが、いつ何時でもそのように子孫繁栄に身を注がれては、マスターとして君を諌めなければならない」

「‥‥すみませんでした」

 納得出来る部分が何ひとつしてないの。もっとも不服ではあるが、きっとどう言い訳してもロタに視線を奪われていたのは紛れもない事実なので、絡め手で最終的に謝る事になると、短い付き合いでわかってしまった。

「素直な男の子はいい子だぞ。後で励むのは結構だが、今は講義室だ、大人しく優等生を振る舞っていたまえ。—―――では、全員揃ったようなので始めるとしよう」

「全員?」

 もしかしてと思い、講義室中を見渡してみるが、カタリもマヤカもヨマイも、まだ到着していない。何故かと思い、マスターを眺めると、鼻で笑ったマスターが自身の薄いローブをまくり、白い腿を晒してくる。

「‥‥やはり大人の肉体が好みのようですね。待っていて下さい、後数年も経てば」

「では、その間は私が彼の世話をしようか。もう二度と私から離れられないように――大人げなかったな、いい加減進めるとする」

 かぶりを振ったマスターが、普段の教授然として教鞭を取り出す。

「今回、君達にして欲しい事はひとつだけだ。異端学の代表として、『宴』に参加して欲しい。わかっていると思うが、参加するのは―――それぞれの学科と貴族、そして秘境に関わる組織、部隊だ」

「えー‥」

 自然と心底嫌だという想いが、にじみ出てしまった。当然、マスターもこの想いは想定の範囲内、しかもその宴とやらの危険性など百も承知だった。

「まぁまぁ。君がそれほどまでに行きたいという想いは、痛い程わかった。だから私の話を聞いてから、改めて頷いてくれ」

「‥なぜカタリ達はいないのですか?外部監査科という組織全体であれば、参加できるのではないですか?」

「この宴は、どこまで行っても『顔見せ』としての機能以外求められていないからさ。異端学カレッジという一組織ならまだしも、取り締まる側である我々が総員で参加してしまえば―――品定めとしてわざとらしいからだよ」

 魔に連なる者にとって、宴とは二分化される。ひとつは黒ミサ、俗に言う『サバト』という生贄からの献血作業。酒や薬、人々の集団心理と操り、人間を洗脳する事が目的とされる。祭壇の上での淫行など、副次的な物に過ぎない。

「だけどマスター、それはわざわざ参加してやらないといけない事ですか?たかが人間の退廃意識に、なぜ俺達が手を貸してやらないと‥」

「無論、『ある疑い』が持たれているからだよ。因みに、何故三人がいないのかの答えは、簡単だ。カタリ君はそもそもが錬金術師の出自、あまり居心地の良い場所ではない―――場合によっては、彼女が狙われてしまう。またマヤカ君は、堂々たる機関、オーダーの所属だ。有名人たる彼女がいては、動きを見せないかもしれない」

 前々から思っていたが、マヤカは相当顔が知られているようだ。機関の人間を顎ひとつで操れる姿勢に、おのずと頷いてしまう。

「ヨマイ君に至っては、彼女に知識面でも実力でも実績でも負けている者達が、ごまんといる。彼女は面白がって顔を見せるかもしれないが、あまりにもいい意味でも悪い意味でも顔を知られている彼女では、理不尽な目に遭わされるかもしれない」

「—――つまり顔が割れていない私が適任だと」

「そういう事だ。何故リヒトなのかの理由は、逆の意味だ」

「顔と家は直結してる。爺さんの子孫である俺に、舐めた態度を取れる者達は限られる。はっきり言うと、それが狙いですね?」

 最終的な答えに、満足そうに頷くマスターが改めて教鞭を握り直す。

「カタリが狙われるって言いましたね。その事はもうカタリには伝えましたか?」

「ああ、一足先に伝えたよ。彼女も―――そのような場に私がいたら、誘拐してでも知識を求めるだろうと。こういう事だ、今回君達にやって欲しい事は、宴に参加し、参加した者の務めを果たして貰う。顔見せの目的と共に、知識人を求める者達、『学究の徒達』を探し出して貰いたい」

 学究の徒、その名には聞き覚えがなかった。ロタを見つめても、同じように首を振るばかり。マスターに向けると、落ち着きなさいと言いたげに手で制してくる。

「『学究の徒』の目的は、知識を求める事。何故、その者達を探さなければならないのか―――それは新たな人体の探究、死に直結する研究をする者達だからだ」

「ああ、この街では殺人は禁止でしたね」

「‥‥死に直接する研究」

 カタリが今回、顔も見せていないのはそれが理由でもあるようだ。俺をこちらへと呼び戻し、こちらに固定するには、一度この身体を殺さなければならなかったからだ。下手に口を滑らせると、今までの行いが白日に晒されてしまう。

「という事は、ネクロマンサー、薬学とか自然学の人間に近づく者達って事ですね」

「その通り、だとは言うが、それだけだとは限らない。色彩に、発掘、宝石、神事—――当然、『聖体科』もだ。ふふ、そう楽しそうな顔はしないでくれ」

「聖体?」

 ロタが不思議そうに首を捻る。あそこほど、魔に連なる者らしく。魔に連なる者らしからぬ学科もない。今回の宴に聖体科が参加するのなら―――。

「ロタ」

「はい、リヒト」

「一緒に逃げないか?」

「まぁ‥はい。お受けします」

 ロタと見つめ合い、手を握り合う事で意識を一体化させる事に成功。同時に立ち上がって講義室から逃げようとした時、マスターの布がロタ共々拘束してくる。

「大丈夫、流石に彼らの輪に入れとは言わない。今回は私も表に出るのだから、私に任せてくれ。いくら学究の徒達がこちらに詳しくないとして、あそこに頼る事だけは有り得ない――――話を戻そう。言っておくが、今回は絶対に参加して貰う」

「‥‥わかりました。じゃあ、ロタ」

「私はお断りします」

 完全なる断言に、背筋を振るえた。

「ロタ?」

「宴と言いつつ、所詮は人間の暇つぶし。戦士もいない中、見世物になるのは私の誇りに反します。学究の徒?望む所ではありませんか、人智の及ばぬ死の世界を垣間見たいなど、私は看過します―――所詮、死に絶えるのは人ばかり、無価値です」

 手を握っているロタが、初めて会った時のような冷たい雰囲気を纏い始める。

「‥まぁ、今すぐに決めてくれとは言わない。また呼び出させて貰うから、その時までに決めてくれ。では、私は失礼するよ」

 普段ならあの手この手で引き受けさせるマスターが、それだけを告げて出て行ってしまった。その後ろ姿に、ロタは一瞬だけ視線を向けるが、それもすぐに窓の外へと投げてしまう。

「ロタ」

「怒りましたか?」

「—――全然」

 驚いたように顔を向けるロタを、腕に腰掛けさせるように持ち上げる。子供のように驚き続けるロタを抱えて、講義室の机に腰を掛ける。

「リ、リヒト?どうしたのですか?」

「いつも俺のわがまま聞いてくれるだろう。だから、今回も聞いてくれないか?」

「‥‥仕方ありません。わがままなリヒトは、私を抱擁したいのですね」

「ああ、大好きなロタを独り占めしたい」

 膝に降ろしたロタの胸に耳を重ね、優しい心音を求める。いつ何度でも、俺の為に言の葉を紡いでくれるロタの心臓は、呟くように耳朶を叩いてくれる。

「ロタ‥実は俺も受けたくないんだ」

「‥何故ですか?」

「向こうには、俺の事を知ってるかもしれない人間達がいる。あの古屋で生活してた時の俺を、マキトと一緒になって‥俺の‥」

 元気付けようとした自分が、今はロタの抱かれていた。何者にも侵されないロタの体温が。冷たい汗をかいていた頬を撫で上げてくれる。そして、ロタ自身も頭を強く抱いてくれた。

「ロタ‥」

「はい、どうしましたか?」

「俺、怖いよ‥。もう食事を‥目の前で踏み付けられたくない‥もう空腹は嫌なんだ‥」

 埃を被っていたとは言え、栄養としてあり付けた食事を、アイツらは高笑いの元、踏みつけて行った。靴の底の味がする食事は、もう嫌だった。硬い小石を取り除く生活は、耐えられない。氷のように冷たい水で喉を焼くのは、耐え難かった。

「ロタ‥ロタ‥」

「はい、あなたのロタは此処にいますよ。あなたのロタは、何処にも行きません」

「‥やっぱり、俺は勇者にはなれないんだ。勇者なら、人間に反撃だって出来るのに」

「大丈夫ですよ。あなたは勇者になってはいきません。そんな期待、あなたには押し付けません。だって—――あなたは神獣、私は恐ろしい獣に心を預けてしまった巫女なのですから。だから、そんな顔はしてはいけません」

 頬につけられた冷たい手に、意識を取り戻す。袖から生み出したヴェールで汗を拭ってくれるロタを見上げると、隙を突かれてしまった。

「さぁ、これで三度目です。—――ふふ、何を迷っていたのでしょうね」

「‥ロタは決めたのか?」

「はい、勿論。今回のお仕事、はっきりと断ってきます」

 



「マスター、怒ってるかな‥?」

「そう思いますか?」

「—――わからない。ロタは、どう思う?」

「私は‥そうですね、少しだけ頭を抱えていたようですが―――あれはあれで楽しそうでした。誤魔化しているつもりだったのか、行く事が出来なくなって肩の荷が降りたようでしたよ」

 共にゲームコントローラーからグラスに持ち替えた時、つい呟いてしまった。断ったというのに、マスターの心証ばかり気にしてしまう優柔不断に、ロタは溜息ひとつしないで励ましてくれる。

「マスターの頼みは、出来る限り果たしたい。だけど、出来ない物は出来ない、やりたくない事はやりたくないんだ。‥子供っぽいよな」

「はい、わがままな男の子そのものです。嫌いな食べ物だけを残す、いけない子」

「‥‥かっこ悪い‥」

 グラスをサイドテーブルに乗せながら、なおも呟いてしまう。心残りばかりで吐露し、今すぐにでもカレッジにいる眼鏡姿のマスターに泣きついてしまえばいい―――そう自分でも叱りつけてしまいそうな程、情けない姿だった。

「聞いてもいいですか?何故、それほどまでに貴族を警戒するのですか?何度か、この世界の貴族を見かけはしましたが、どれもこれも取るに足らない雑兵ばかり。あなたのつま先にも及ばないのでは?」

「‥‥数が多いんだ。貴族は、人間の中でも特に繁殖力が高い。それに―――自分の血族以外を何とも思ってない。自分の家さえ、コミュニケーションさえ生き残れれば、それでいいって言い放てる連中だ」

 自分の家など、その最たる例であった。外側に立つ事が出来たからこそ、認識できた。その上、己が血筋を守る為なら、『家』のひとつ、あっさりと切り捨てられる。

 無論、それが人であっても。

「ロタの世界でもあったかもしれないけど、魔に連なる者の世界は、命の価値に差があるんだ。—――無価値だと判断されたら、容赦なく消費される。その判断を下すのが、貴族なんだ」

「—――どれも同じ血肉袋だというのに、新鮮かどうかの判定を下す事が出来るのですね。もし、誰かが無価値だと判断されたら、その方はどうなるのですか?」

「‥‥俺みたいになる」

 隙を突くように、ロタの足に頭を降ろす。そんな動作を待ち伏せていたロタは、出迎えるように腿を持ち上げて、頭を受け入れてくれた。

「‥‥やっぱり、戻る」

「いつでも戻って、私の元に」

 ロタの肌は冷たくて、酒で火照っていた頭を冷静に戻してくれた。一瞬、ほんの一瞬だけ横になったまま視線を向けた所、ロタからの品定めをされるような視線に耐えられず、ほんの数秒で起き上がってしまった。

「私の足は、お気に召しませんでした?」

「‥‥もう少しで勇気を持てるから、それまで待ってて」

「不思議な方。口づけも抱擁も、済ませたというのに―――後は入浴と褥だけでしょう?それも、既に他の方々とは経験済みだというのに―――何故、そんなに初心なのですか?」

「‥‥相手がロタだから、ロタとの初めては大事にしたい‥」

 自身の心を曝け出した瞬間、ロタが髪を金に染めて無理やり膝に頭を落とされる。

「リヒト、ああ、私のリヒト―――そんなに私を絞めつけて、どうしたいのですか?既に研いでいた今夜の覚悟を、何故そうも鈍らせるの?あなたは私の槍を、砕いてしまいたいのですね」

 真っ直ぐに見つめてくるロタに顔を背けてしまい、この様子に、不信感を持たせてしまったロタが顔を覗いてくる。そんな優しいロタに、心臓が凍えていく。

「どうしたの?‥私、リヒトを困らせてしまいました?」

「—――ロタだけなんだ。最初から『この俺』を求めてくれたのは」

 カタリもマヤカも、ヨマイもそうだ。皆、『あの俺』を出迎えるつもりだったというのに、帰ってきたのは『この俺』だった。皆、『この俺』でいいと、リヒトを名乗る神獣リヒトでいいと、受け入れて許してくれた―――自分もそれに応えたかった。

 だけど―――会話の差異を感じない事はなかった。

「‥カタリ達の事は、これかもずっと好きで、ずっと恋人でありたい。だけど、切っ掛けを作ったのは『この俺』じゃないんだ。『あの俺』は、もう溶けて消えた」

「過去のあなたの振る舞いに、疲れてしまった?」

「まさか。俺は、俺らしく振る舞ってる。同じリヒトではあるんだ、幼馴染のカタリからしても、寸分違わない情けないリヒトらしいんだ。だけど‥」

 それ以上の言葉を、ロタが許してくれなかった。唇に付けられた指ひとつに抗う術を持たない自分は、やはり情けないのであろう。

「あなたも、この世界での自身の在り方に、迷っているのですね」

「ロタも?」

「はい。―――私も、この身を振るう場所を求めてしまっています。この世界で持ってしまった感情は、とても得難い物ばかり。カタリにマヤカさん、ヨマイさんと共に過ごしたあの時間は、とても楽しかった。そして、あなたとのこの時間は、未だかつてない静寂を、私に施してくれています」

「‥‥俺との時間は、つまらない?」

「‥‥ふふ」

 普段通りに妖艶に微笑むロタから、笑顔の裏に強靭な刃を隠す殺人鬼のような圧力を感じる。あまり凄みに視線を逸らす事すら出来ず、ロタのいたずらのされるがままとなる。指で頬や鼻、耳を摘まむロタが、それはそれは楽しそうに続ける。

「リヒト、ああ、リヒト?この私が、私が見出したあなたとの時間を楽しんでいないと思っているのですか?このロタ、もはや勇者を見極める目は失ったとしても、己が伴侶を見定める目は捨てた覚えはありません」

「‥‥嬉しい‥」

 急に涙ぐんでしまった目に、ロタはヴェールを当ててくれる。

「どうしましたか?」

「‥俺、俺さ」

「はい」

「実は不安だったんだ。ずっとリヒトを張れるかどうかって、カタリ達にリヒトじゃないって言われたら、もう俺‥」

 寝返りを打ちながら、ロタの腹部に顔を埋めると、気恥ずかしそうにロタが笑いかけてくれる。冷たい指を頬に当ててくれるロタが、今は何よりも愛おしかった。

「俺‥リヒトじゃないから。リヒトの振りをしてるだけなんだ―――もう、あのリヒトは消えてる。形だけの、ただの獣なんだ」

「‥‥そう。あなたはリヒトではないのですね。ええ、きっとあなたはリヒト本人ではない、リヒトの皮を被っているだけの人外。到底、人間だとは言えない別次元の神獣―――はい、このロタは―――このロタは‥」

 求める言葉を発してくれないロタへ、震えながらしがみ付いていると、微かに息を吐いて笑い出す声が聞こえた。凹凸を作る腹部に、訝しんでいると頭を抱きかかえてくれた。

「‥もう迷う必要はないって、何を戸惑う必要があったって自分に問うた筈なのに―――ふふ、まだまだ私も子供のようですね。リヒト、良く聞いて」

 肩を叩いて起き上がるように伝えてくるロタに首を振って、しがみつき続けると、「言う事を聞かないリヒトは、悪い子ですよ。さぁ‥」と再度肩を叩かれ、見せたくない顔を隠しながら起き上がる。

「泣かないで。私は、これから告白をするのですから。私の、初恋を捧げる誇らしいあなたであって」

「‥‥わかった。頑張ってみるから‥」

 未だ震える唇を結び、骨の軋む音のする拳を白く染め上げる。

「はい、それでこそ私のリヒト。裁定の席にて、万人に裁きを下す神の使い。人間への憤怒を忘れぬ暴食の竜—――私の愛したリヒトは、このような恐ろしい神獣です。どうか、あなたはあなたのままで。私の愛したリヒトでいて」

「‥‥ロタのリヒトでいれば、俺はロタの伴侶に成り続けられる‥?」

「ええ、勿論。あなたこそ、私の隣に相応しい人外。人間など歯牙にもかけない、比類する者などいない、世界のくびきから放たれた怨嗟の翼—――忘れないで、あなたの翼は全てを灰燼に帰せる。—――人間であった頃など、思い出すだけでいいのです、このリヒトはリヒトのままでいて下さい。怒りのまま、世界の理を司るあなたは、思うがままに振る舞って」

 世界の理—――それは、きっと災厄のひとりの意だろう。マスターと機関、そしてオーダーが俺の監視を続けている理由が、これだった。それはこの星を、世界を滅ぼす宿命を得ている事。そんな自分へ、ロタはその理を良し、努めろと言った。

「‥‥俺は、俺のままでいいのか。リヒトじゃない俺が、リヒトを騙って」

「勿論、だって、私が愛したリヒトは――――あなたですから」

 両手で顔を掴み、逃げ場を奪ったロタが、誓いの口付けを授けてくれる。

「わかった―――俺は、災厄のひとりとして、この世界に翼を降ろす。ロタが、求めてくれた自分でいる為に、リヒトの名を使い続ける。‥‥ありがとう、俺を認めてくれて、思い出させてくれて―――俺はロタの為に生きる」

「はい、その通りです」

「後、マスター達の為にも」

 その瞬間、腹部にロタの膝が刺さり、身体が宙を舞う。浮き上がった身体の支配権を取り返せないうちに、ロタに足を掴まれソファーに引き戻された。

 そして、呼吸も冷めやらぬ中、こめかみスレスレに突き刺さるロタの腕と、怒りがにじみ出ている瞳に、神獣が気圧されてしまう。

「リヒト、今あなたの目の前には誰がいますか?月明かりにも敗北しない、世界が変わったとしても、誰もが恋焦がれる美の果てたる戦乙女は、一体誰ですか?」

「‥‥ロタ」

「そう、このロタです。そのような美しさの権現たるロタを目の前にして、何故他の乙女達の名を口にするのですか?そんなにも、成熟した肉体が好みですか?手籠めにされ、力及ばず犯される時間が愛おしいですか?」

「そ、そんな酷い事されたりしない‥」

「であるならば、今夜は私に犯されるが道理では?」

 もはや怒りで真っ当な会話が成り立たないロタをなだめる為、視線でコントローラーとグラスを示すが、それらをロタは無視、否、一息で飲み切る。

「ふふ‥身体が熱くなってきました。これでは、このロタ、自制が効きそうにありません―――やはり、飲酒は褥前に限ります」

 底冷えしそうな声に、無理やりにでも起き上がろうとするが、戦乙女としての力を解放したロタの腕力には、人間の皮を被っている自分では到底届かない。

「そんなに怖がらないで。リヒトはただ私の四肢を眺めるだけで十分ですから」

「ロ、ロタ」

「はい、ベットに行きたいのですか?それは、また後で――しばらくは私の玩具になって貰いますけど、いいですね?」

 首元に舌を這わせてきたロタを、突き飛ばす事など出来なかった。耳元で微かに笑い、首を振った時に一瞬で意識を飛ばす甘い香りに、身を捧げる事にした。





「ロタとは、最近どうだい?」

「‥え?」

「ロタとの同衾はどうだったと聞いたのだよ。私とは違う、欲望のままに夜を食い潰す時間は、とても有意義であった事だろう?仕える事に楽しみを得ながら、蹂躙する事も得意なロタの事だ、自然と上を取られたのではないか?」

「‥はい。ずっとロタが上でした」

「‥まさか、本当に答えるとは―――素直さは美徳だが、沈黙も金だと学びなさい」

 ロタにも見て取れる雰囲気だが、試しに聞いてみる、いじめ目的で問い質してみるといった、敢えて乱暴に言うとギャンブラー気質に近い物を戦乙女達は持ち合わせている。

 そして、この雰囲気を纏ったマスター達は争い難い風格を言葉の端々から感じる。

「くくく‥‥身内のこういった関係に興味を持ってしまうのは、同型機ゆえの性質かな?年上の姉として、幼いロタを気に掛けてしまうよ。―――このような事をロタが聞き届けたら、あの笑顔で首を奪いにくるだろうが」

「やはり、マスターとロタはそういった関係なんですね。エイルさんとオーダー街の、あの方も同じですか?」

 マスターと2人、講義準備室で手を繋ぎながら聞いてみる。手を繋いでいる事に、差程も意味もない事だろうが、だからと言って繋がないという理由にもならない。

「う〜ん、なかなか難しい問いだよ。私は、そういった関係と言えるだろうが、彼女達2人は、我らの中でも更に特殊だ。まぁ、そう言ってしまえば私など特殊の最たる例ではあるのだが―――ロタは、まだ未成熟なんだ。いずれ成長するロタの為、気を揉んでいる、こう理解しておきたまえよ」

 ソファーの上で並んで座っている今の状況で、何も訝しむ事なく足を組むマスターに、視線が吸い寄せられてしまう。その視線に気付いたマスターが、握っている手を自身の足へと運ぶ。

「‥マスター」

「再三触れて来ただろう?あれだけ口でも慰撫しておいて、未だにそんな初心な反応をして―――私の恋人である君には、このような接触日常として受け入れて貰わねば困るぞ」

「‥はい、が、頑張ってみます」

「いいぞ、その意気だ」

 そうは言ったものの、冷たくて成熟されたマスターの大人の脚は傷一つなく、必要以上に触れないように理性で握力を消し去っていた。人類どころか神が創り上げた究極的な美を誇っている白い脚は、脚自身が光を放っているようで、自分にはまだまだ眩し過ぎた。

「‥ま、マスター」

「この美の頂点を極めんとする私に、何か御用かな?男の子君?」

「こうやってマスターと身体を重ねるなら‥‥暗い部屋がいいです」

「おっと、それはその通りだな。日中の明るい部屋から君を愉しむのは、少しばかり急ぎ過ぎたな」

 ようやく脚から手を離してくれたマスターは、此方の反応に満足したようで、大人しく脚を元に戻してくれた。昨今、身体の凹凸がわかる薄いローブやスーツを着ているマスターは、こうやって暇潰しをする所があった。

「ロタとの時間は、とても楽しかったです。ロタは、いつも優しいので―――俺が嫌がる事をしないで、料理も美味しかったです。‥‥ロタとは、これからも親しくなりたい‥」

「ふふ‥そうか」

「はい、その‥‥最初は難しい子なのかと思いましたけど、やっぱりロタはいい子なんだと思います。―――ロタも俺と同じなんだと思います、自分の在り方を決めたはいいけど、そこから先に行く足場が見えていない。カタリ達と遊ぶ事は出来ても」

「新たな使命を求めてしまっている。自分の時間を持て余してしまっている、伝えておこう、我らがこの世界に来た時は、君のような災厄の子達の監視―――排除も役割だった」

 想像はしていた。言っていたではないか、マスターは世界の護り手としてこの世界にいる。ならば、世界を崩壊させかねない力や運命を持つ者達を消し去ったとしても、不思議ではない。

「‥マスター、俺、マスターが大好きです‥」

「ふふ、何か勘違いしていないか?」

 ロタと同じだった。一瞬の隙を使って引き寄せられ、共にソファーに倒れ込む。マスターの身体に被さりながら、薄手のローブを掴む。

「監視とは君達が生まれるのを祝福する為だ、排除とは心に静寂、穏やかに過ごさせる為無用な他人との接触を断つのが目的だ―――もう、争いはやめたんだ。到底拮抗など出来ない。ならば、和解を目指すしかない」

「和解、ですか‥?」

「ああ和解だよ。けれど、我らにとって槍と持ち、争う事は本能、使命に刻み込まれた性能そのものだ。自身の得意とする槍を手放し、手を握る事としたのだ、上手くいかなくて当然、それどころかロタのように無理解をした所で、特段不思議な事じゃない」

「‥ロタは、優しいです。一緒に手を繋いで褒めてくれました」

 少しだけ強く握り返して、それを訴えかけてみた。そんな反応はやはり子供っぽかったのか、マスターは一瞬だけ微笑んで、嬉しそうに頭を抱いてくれる。

「それは君が、特別だからさ。―――私もそうだ。もはや、ここの人類を救うには目を瞑っていくしかない。どこまで行っても、人類は人類だった。自分以外の種族を使い潰し、いずれは別の星へと己が渇きを癒すために飛ぶ出すだろう―――それが発展だと嘯いて」

 頭を抱いているマスターが、懐かしむように呟き、肺を膨らませる。

 確かに、今のマスターから怒りの感情を感じた。

「けれど、それはずっと先、いつかの話だ。その上、直近で世界や星を崩落させうる力の持ち主達は、既に我らが確保、身体や心で慰撫している。―――結局、我らも人肌が恋しいだけだったのだろう。戦が出来ない以上、別の欲望に心を砕くのは自然の摂理だ」

「‥マスターも、そうですか?」

 その通りだと言わんばかりに、下腹部を膝で持ち上げられ、声を出してしまう。

「痛かったか?だけど、その声を聞けたのなら、蹴り上げた甲斐があったようだ―――ああ、そうさ。自身の勇者を求め、勇姿を褒め称える。そしていつの日か起こってしまう、必ず起こる災厄の日に―――いいや、この話はまた今度」

 マスターの膝に気が気でなかった自分は、その言葉を推し量る事が出来なかった。

「身を持て余して当然なんだ。君は、図らずとも私に落ちてしまった、カタリ君にマヤカ君、そしてロタにも落ちてしまった。戦乙女としての血は、常に戦乱を求める。それが役割だったからだ、それと同時に、傷つき倒れた戦士の心を慰めるのも役割、今は片方だけしか求められていない」

「‥ロタは、辛いんですね」

「ああ、そうだよ‥」

 膝を直したマスターに、泣きつくように腰を抱き締める。

「―――俺に出来るのは、ただ怒りをぶち撒ける事だけです」

「‥そうか」

「すみませんマスター。だけど、本当にこれだけなんです、マスター達を愛したいと願っています。だけど、愛せるのはマスター達だけ―――人間など噛み砕く程度しか出来ない」

 最後に、大きくマスターのローブで深呼吸をしてから起き上がる。マスターに手を差し伸べて、掴ませる。

「俺も、ロタと同じです。目に入る人間を全員灰にしても、まだ足りないのに、ロタも我慢してる。それなのに槍を振り回せる場所を求めているのに、俺の世話ばかりしてくれてる。―――もっとロタと話し合ってみます。ロタとどうすれば、この世界と付き合っていられるか、探してみます」

「―――ああ、それがいい。そうしなさい、私も、君達の教員として力を貸そう。君達が安心しながらこの街で暮らせるようにはかるのは、当然の事だ。ただ、いいかなリヒト?」

 その声には、敢えて優しげに言うと迫力があった。

「これだけ私の身体を求めておいて、脚に触れさせておいて、私からの誘惑の耐えるとはどういうつもりかな?君が私に飽きる事などあり得ないが、ロタロタと言い続けるなんて―――それほどまでに、ロタとのまぐわいは新鮮だったのか?」

「‥ごめなさい、怒らないで」

 肩を震わせて叱られるまで待ち続けていると、微かにマスターが笑む声がした。

「マスター‥?」

「ちょっとした冗談だったのに。ふふ、肩を振るわせる君は、囚われの姫のようだったぞ。ロタとの関係を築くのは、とても良い事だが、その前に私の都合に付き合って貰おう」

 近場の椅子にかけてあった黒の外套を手にしたマスターが、こちらにそれを渡してくる。

「君には、私の荷物持ちを任せたい。本部に用があるんだ、一緒に来てくれ」




「マスター、マスターは何故機関のローブを纏っていないのですか?」

「ん?ああ、私は一応は白紙部門の一員なのでね、一般の機関とあまり密接に関わってはいけないのだよ。作戦内容によっては同じ旗の元で肩を並べる事はあっても―――ついこの間のような事があるのだから」

 機関の高層ビルに足を踏み入れた瞬間、一瞬だけ護衛がこちらに視線を向けるがすぐさま自身の役目たる仁王像に戻ってしまう。まるで顔パスであった。

「‥‥あの寄生虫共は」

「リヒト」

「—――裏切り者達は、今どこに?」

 我が事ながら、どうにもストレスを感じてしまうと昔の言葉遣いに戻ってしまう。カタリとマヤカに再三叱られたというのに、三つ子の魂百までとは事実だった。

「彼らならば、既にオーダー街に囚われている。法務科が、犯罪の立証をしてから、我らに相応しい裁きの台へと立たされるだろう。—――裏切り者には、相応しき最後だよ」

 マスターの鞄と外套を手に持ちながら、彼らの顔を思い出してみるが、どれもこれも取るに足らないと走馬灯を振り払ってしまう。所詮、表側の人間に襲撃を仕掛けただけの犯罪者だった。

「馬鹿ですよね。今更、この国で魔に連なる者が表舞台に立てる筈がないのに。大人しく、この街で幅を効かせるお山の大将を気取っていれば良かったものを」

「辛辣な事だ。周りを見たまえよ」

「同じですよ。誇りだなんだ言っても、結局は機関とオーダーの傘に隠れないと逮捕されていた卑怯物達です。ただの被害妄想で、世話になったこの街に反旗を翻すんですから。—―――子供の反抗期と変わりません」

「‥‥そうかもな」

 カサネさんの元へ足を運んだ時、使ったエレベーターへ乗り込みボタンを操作する。灰色のブロックカーペットは簡易なれど、編み込み方でわかる―――拘束の印が刻まれ、瞬時に首を締め上げるだろうと。

「機関も変わりませんね。相手がまだ人間だけだと思っているなんて」

「君の言う事も正しいさ。だが、その人間こそが最も恐ろしいのだよ、もしここに人狼や巨人の類が入り込んだのなら、その実行犯は間違いなく人間だ。厄介な事だ」

 眉間に指をつけてかぶりを振るマスターは、疲れ切った大人の女性だった。

「ああ、つまらない。つまらなくて今週の週末も酒瓶を抱えて眠りそうだ」

「それは毎週なのでは‥‥向こう側が用があるんですよね。なぜ、わざわざこちらが出迎えないといけないんですか?」

「私もそう思うよ。今更彼らがなんの用があるのだとね。まぁ、けれどこれも仕方ないのかもしれないね。実際、この街はこの短い期間で二度も襲撃されてる。ひとつは特務課のお子様、もうひとつは迷宮の占拠—――機関の信頼性が、これほどまでに揺らぐ事もないだろう」

「それはオーダー側も同じだって聞きましたよ。マヤカが言ってました、オーダー街にも特務課が攻め込んだって」

 そう言った瞬間マスターが「違いない‥」と呆れるように嘆き、ようやく開いたエレベーターの扉を一足先に素早く降りた。その理由に、自分も嘆きそうになってしまう――――『被害妄想の放火魔達』がこの階を占拠していたからだ。

「ここは機関の建物だ。諸君には悪いが、あまり自身達の見苦しい姿は晒すべきではないのではないか?—――わからないようだから端的に言おう。邪魔だ退いてくれ」

 不良がこちらに睨みを効かせるような物だった。降りて来たマスターに詰め寄りながら、何も言わずに顔を覗いくる。その姿に、手の内から水晶を取り出しそうになったが、後ろ手で制したマスターに免じて大人しくする。

「これはすみません。私達は、あまりこの街には踏み入れた事がなくて、つい物珍しくて何かも眺めてしまい、申し訳ありませんでした。だけど、どうか私達を責めないでください、あなた達を出迎えようと待っていたもので」

 声こそ柔和であったが、その言葉にはこちらへの配慮など欠片も含まれていなかった。しかも、こちらに歩み寄りながら声を掛けてきた男性は―――少年と呼べる背格好であり、しかもせいぜいが自分と同い年程度に見える。到底責任者には見えない。

「ここは宿泊施設ではないのだ、自分達の家だと思われては困る。マガツ機関は、この街だけではない、この国の魔に連なる者達の秩序と秘匿を心掛けている。こちらに敬意を払えないのであれば、私達白紙部門も機関も、到底貴殿達に貸せる手など持ち合わせられない――――あなたが彼らの責任者であろうか?」

「あはは、まだまだそこに達する事は出来ていないくて‥‥僕は代理です。どうか、こちらの職務の関係上、晒せない顔もあるのだとご理解して頂きたいのです」

「‥‥では、そうしようか」

 無表情になったマスターは、怒りなど感じていない。このまま立ち話をしても時間の無駄だと感じ、『彼ら』が敵意の視線を向けるなか、溜息ひとつしないでその身を晒しながら踏み込み続ける。

「あはは‥聞いていた以上に美しいです。僕もまだ生徒の立場なので、あなたのような教師がいたら、毎日」

「すまないが、そういった世辞には飽きているんだ。私もそちらと同じように時間を使ってここに足を運んでいる――――話を聞きにきたんだ、上の者へ取り次いでくれないか?」

「はい、わかりました」

 自分よりも背の高い好青年を装った『放火魔』は、軽くマスターに視線を流しながら背中を向け、我が物のように廊下を先導していく。後ろ姿ひとつ取っても気に食わない少年に、マスターと離れないように追いかけていくと、やはり柔和な笑みを浮かばている少年は振り返ってきた。

「彼はあなたのお弟子さんでしょうか?」

「ああ、その通りだ。もしかしたら彼にも手を貸してもらうかもしれないから、顔を覚えておいて損はしないと思うぞ」

「‥‥流石に中等部の子に、力を借りる事なんて―――ああ、でも道案内を頼むかもしれないね。その時はよろしくね」

 この顔、この言葉、この背中を向けながら応対する態度、全てが気に食わない。

 一歩前に出た時、マスターに肩を掴まれたが振り払って前に立つ。

「無礼もほどほどにしろ。先手を打ってるんだと我慢してたけど、あまりにも礼を欠き過ぎだ。仮にも、宮仕えをしてた組織だろう、宮廷で仕込まれるのは嫌味と世間知らずだけか?」

「‥‥へぇ、言うじゃないか」

 先ほどから視線ひとつ向けなかった少年が、わざと顎を高く上げて見降ろしてくる。—――ああ、そうだ、この態度には覚えがあった。こいつは、貴族の性だ。

「‥怒らせたのなら、謝らせて貰うよ。すまなかった。だけど―――誰が敵で誰が味方かもわからないこの街で、あまり下手に出る訳にはいかなくてね。そしてもうひとつ謝らせて貰う、君に使う時間じゃないんだ。後で付き合わせて貰うから、後にしてないか?」

 柔和な表情を取り戻した少年は、最後に鼻で笑うような態度を取って通り過ぎていった。己以外の魔に連なる者を、見下し、貴族の模範のような態度を取る宮仕え。

「討魔局—――退魔局から代わって新たに造り出された組織だが、内情は然程変わらないようだな。確か、『君の家』にも何度か来たのだったね」

「‥‥はい、マスター。何度か『家』に来て、ある事ない事言って敷地に踏み込んできた被害妄想共。こちらの世界の諍いを起こすプロの『放火魔達』—――気に食わない」

「同感だよ」

 この会話を頭の中だけで続けている事すら嫌だった。いっそのこと、全てを聞かせて襲い掛からせ、返り討ちにしてしまいたい卑怯者達。討魔局—―――またの名を退魔局と言われた、過去に宮廷につかえていた検非違使達だった。




「検非違使?また、それはそれは――――厄介でーす‥」

「同感ね。宴だけでも面倒なのに、よりによって検非違使の視察なんて。散々特務課に荒らされたのに、またあんなテロリスト達を引き入れるなんて―――オーダーの命令なんでしょうけど、機関も苦心してるみたい」

 新たに出店された雑貨屋、サボテンや草木の鉢を求めて訪れたが、なかなかの一品たちが揃っている。簡素な物から竹細工のような手間暇かけた物まで、ありとあらゆるものに目移りしてしまう。

「‥‥これなら自分で作った方が」

「焼き物まで作る気?納得できる物が出来るまで、続けるというの?」

「‥そうね」

 後ろからマヤカが、溜息を吐きながら諌めてきた。悔しいが、これは真実であるのだから、大人しく従うしかなかった。試しに振り返ってマヤカのカゴを眺めると、

「マヤカは、何も買わないの?」

「マーナに似合う物を探しているのだけど、なかなか見つからなくて」

「首輪とか?」

「マーナに首輪を付ける気はないけど、腕輪や尻尾輪とかはあってもいいのだと思ったけど、見つからなくて。—――いっそ自分で」

「納得するまで続けるつもり?」

「‥‥ふふ、そうね。可笑しな話ね」

 そう言って新たな探索に赴いたマヤカは、どこか楽しげでステップでも踏みそうなほど上機嫌に見えた。魔に連なる者と錬金術師である自分達の悪い癖だった。納得できない物があれば、己で作り上げられる自分達は、この国の経済に打撃を与えている事だろう。

「ヨマイはどう?なんかいいものでも見つかった?」

「うーぬ。どのようなスタイルかぁ、ある程度決めてきたのですがー、私のキンシャチにはどれもこれも大人っぽくて。もっとこー、リヒトさんみたいなー」

「あーわかるかも。もっとこじんまりした方が可愛いわよね」

「そーなんですよねー。まぁ、少しだけ背伸びした大人な鉢植えに変えてしまうのも、可愛いんですけどねー。くふふ‥こんな事聞いたらリヒトさん、怒ってしまいますかねー?」

「どうせ怒っても、ご飯さえ食べさせてあげれば、大人しくなる筈よ。いつもいつも、ご飯ご飯って言うんだから」

 自分も自分で、見当をつけてから自分の植物たちに相応しい鉢を探しにきたが、リヒトを思い浮かべると、どれもこれも大人っぽくて仕方ない。昨夜から自分の工程が佳境に入り、追い出していたが―――今日は帰ってくると約束していた。

「あ、さっきの話ですけど、本当に彼らがこの街に?ほんとーに?一時の迷宮みたいに占拠されてしまいますよ」

「私もそう思って、何度か確認をしたのだけど、どうやら本当みたい。とてもとても気に食わないけど、彼らの方が歴史を持っているのだから、一歩ぐらいはこの街に踏み込む事を許してもいいと思ったの」

「思った、ではなく納得させた、では?」

「ふふ、あなたはとても賢いのね。あなたにも、特別に姉と呼び権利を」

「マヤカさんで統一しまーす」

「‥残念」

 戻ってきたマヤカのカゴには、大量のベルトなどが放り込まれていた。どうやら、やはり自分で作り上げると決めたらしい。ヨマイもヨマイで、自身でデザインし直したいらしく、資料として鉢をカゴに入れ始めた。

「だけど、良かったの?あんな奴らがいるなら無理に付き合ってくれなくても」

「私もあなた達と同じ。彼らの顔も見たくない―――これは秘密、何度か機関と討魔局は争いを続けていた。しかも、それは全てが彼らからの、宣戦布告も無しに仕掛けられた襲撃。到底親しくなんて出来ない。実際に怪我を負わされたのだから」

 どうやら襲撃とは権力闘争などではなく、本当に夜盗のように襲われたらしい。しかも、それが数度も続いたという事は、こちらの口封じも含まれていたようだ。

「よ、よくそんな方が、このオーダーが掌握する国で野放しになってますねー‥。私なんていう弱い家には、見向きもしないみたいですが‥」

「オーダーは外聞に拘るの。機関とオーダーが対等だと表向きは、宣言するように。だから、長くこの国を現実として守ってきた彼らの文化を重んじている―――ふふ、だけどもはや見た通り。宮廷、宮仕えの影も形もない敗北者、それが今の検非違使」

 哀れとは思うが、それを差し引いても到底看過できる存在ではなかった。

 何故ならば、私とリヒトの家のように、強大な力と繋がりを持つ者達には、それこそ夜盗のように襲撃してきたからだ。しかも、その理由が「力を持ち過ぎているから、調べたくなった」という羨ましいから物を盗みに入ったという児戯にも似た言い訳だった。

「‥‥一応はオーダーの傘下にいるから、強制捜査をしても、後からいくらでも言い繕える。本当の理由は言わない、資料も渡さない、もしくは燃やした―――ほんっと!!気に食わない連中!!」

 思わず声を出してしまい、周りからの視線を集めてしまった。

 ふたりに視線で謝って急いで会計を済ませながら逃げ出す。しばらくあの店には入れないかもしれない。

「ご、ごめん‥」

「構わない。それに、私も彼らに対しては憤りを持っている。カタリと同じ気持ちだから、気にしてはいけない」

 自分の方が大人だと自負をしているマヤカが、リヒトにするように頬を撫でてくる。子供扱いに一抹の不満を持ってしまうが、優しい雰囲気に抗えなくなっていく。

「ふふ、カタリ、覚えてる?あなたも私を姉と」

「言う訳ないでしょう?リヒトに、夜はそう呼ばせるだけで我慢して」

 顔で手を振り払って道をひとり歩くと、驚くヨマイと、思い出したように嬉しがるマヤカが、後ろを着いてくる。

 休日にこんな大人数で出歩くとは、半年前であれば想像もしなかった。

「ロタさんは、今日カレッジでしたかー?」

「ええ、そう訊いてるけど。どうかした?」

「‥‥いえ、もし彼らがロタさんに対しても同じような態度を取ったらと思ったら」

「それは大丈夫。ロタは、今日マスターとリヒトと一緒にカレッジで、『宴』の話を聴いている筈だから。もう日もないから、そろそろドレスの準備も始める筈」

「宴ねぇ‥」

 魔に連なる者の宴、というだけでも気味が悪いというのに、その中で人を探せ、しかもこの秘境の中でも輪をかけて頭がおかしい者達に近づく者を見つけろとは、罰ゲーム以外の何ものでもない。

「このタイミングで、討魔局が来たって事は、そいつらも宴に参加する感じな訳?」

「全く無関係だとは思わない。むしろ、私もそう思っていた、だけど証拠がある訳じゃない。彼らに問いただしたとしも、偶々自分達の視察中に宴が始まった、だから参加する事にした―――そう言って憚らないと想像できる‥」

 最後に溜息を吐いたマヤカの印象で、彼らがどれだけ機関の頭を抱えさせてきた、不良達だか容易に想像できた。顔も見たくないと言った理由も、察しがつく。

「しばらく、私はカレッジと部屋だけを往復すべきでしょーか‥。下手に顔を覗きに行ったら、逮捕されてしまいそーでーす‥」

「安心して、彼らは逮捕はしない。得意の拡大解釈で、」

「その場で制裁を喰らわせるって事じゃないですか!!」

 マヤカに泣きついて保護を求めるヨマイの頭を、妹と言うよりも娘でもあやすように撫でるマヤカは、無表情ながらも口元で喜んでいるとわかる。

 周りの見渡すと、それぞれも討魔局の噂が何処からか流れ込んでいるらしく、皆それの話で持ち切りだった。だが、今はまだ噂、機関に関係していない学生達はそれ止まりであるようだが。けれど、自分はそれ以上に気がかりな事があった。

「—――リヒトも気になるけど、ロタも大丈夫‥?」

 昨今の、物憂げなロタの表情は、出会ったばかりの面影を覗かせていたのを思い出した。






「話にならない。自分達が、今後はこの秘境を監督するからオーダーに口添えしろ?—――これだから自分達しか、知らない人間は愚かなんだよ。負け続けて、離散寸前の自分達に、一体何が出来る‥」

 討魔局が占拠していた階から離れた時、何も言わないマスターと共にカサネさんの私室に訪れていた。自分とは対照的にデスクに腰を掛けたマスターは、静かなまま渡された書類を眺めていた。

「彼らは、どうだったの?」

「見ての通りですよ。自分達こそが、正しい組織。いつも通りに、魔に連なる者など恐れるに足らない、お前達みたいな異郷の、外から移り住んできた者なんてって」

「‥‥こっちも、向こうと同じくらい歴史と、向こう以上の規模があるのにね。自分達に誇りがあるみたいだけど。あそこまで‥その――」

「この場には身内しかいない。リヒトが気になるのなら、彼の家を思い出してくれ」

 誤魔化すように笑ったカサネさんを、問い質すようにマスターはデスクから飛び降りて言葉を求めた。自分も、はっきり言ってくれと告げそうになっていた。

「‥うん、そうだね。私の眼から見ても、彼らはあまりにも傲慢過ぎます。こちらを挑発し、手を出すまで待っているのなら見過ごすつもりでしたが、越権行為が目に余ります―――少しだけ、彼女にお願いしてみましょう」

「‥‥助かるよ」

 隣に座ったマスターが、安堵したように息を吐いた。あの部屋で行われた事は、数世代は前の人間が行っていた、否、今も行っている嫌がらせそのものだった。

 自らの力量が測れないだけならまだしも――――カレッジの教職を1人ずつ呼び出して叱りつけるなど、今すぐあの部屋を爆破しても物足りなかった。

「こちらを侮っているのなら、私だって気にも留めなかった。だが、機関の実力が自分達の想像を超えていたとわかった瞬間に、秘境を構成するカレッジの私達を呼び出すとは。手段を選ばぬ野良犬達は、なかなかに侮りがたい。さて、どうするべきか?」

 つい先ほどまで無表情を崩さなかったマスターは、どこか訝しむ、疑問に思っているものが違っているようだった。

「マスター?」

「ん?どうかしたかい?」

「‥‥いえ、あの‥なんて言うか。討魔局の事をどう思いますか?」

「ふふ、そうだな。見た目通り、態度通りに敵意だけを向けてくるのなら、分かり易くていいのだが―――どうやらそれだけではなさそうだ。リヒト、彼らの話を覚えているか?」

 そう問われた瞬間、呼び起こすべき記憶が思い当たった。

「—――カレッジに探りを、いえ、『知識』を探しているようでした」

「その通りだ。少しは落ち着いてきたかな?」

 両手を広げて、迎え入れてくれるマスターに身体を預けて深呼吸をしてみる。深く思い出す必要はない。既に、『向こうの目的』は知っていたのだから、直感で応えればいい。

「正直な所、彼らの目的はわかっても、目標には今のところ憶測すらつかない。だが、彼らが私達の敵である―――人体を使っての魔道を進む、『学究の徒』と繋がりがあったのなら、これ以上にやりやすい人間はいないさ。では質問だ、彼らは、まず何を訊いてきた?」

「確か‥‥異端学は何を教えているのか」

「答えはもう出ているようだな。今更何を訊きに、そんな事で呼び出したのかと気に食わなかったかもしれないが、あれが彼らのやり方なのだよ。だが、私達の魔道を理解出来る頭など持ち合わせている筈がない。もしいたなら、こんな事を聞く筈がない」

 我らが異端学は―――そもそも何を教えるという事はない。どれにも染まる事の出来なかった、どの枠からも己が立ち位置を見出せなかった、見放した者達が集まる異端児達の砦。なんの為に異端学があるのかどうかさえ、理解していなかった。

「まぁ、そもそも我々には期待していなかったようだがね。カサネ、君には何か接触はなかったか?」

「—――他言無用でお願いしたいのだけど、彼らは私に、誰が『身体』を作っているのか聞いてきました。ふふ、何処から聞いてきたのかわからないけど、何もかもを知っている訳ではなさそうね。イミナが有名になってしまった所為かも」

 笑いながら続ける言葉に、マスターも「違いない」と笑いながら返す。自分のついて行けない会話が不服で、マスターの胸に無理やり顔をねじ込むと困ったように抱きしめてくれる。

「察しがつくだろうが、身体とは私達の使う人形と、乗り移っている身体の事だ。これも察しがついているだろうが、目の前の彼女が作り上げて、提供してくれている。これはオーダーの中でも、至秘と呼ばれる枠であるが、よく調べたものだよ」

「だけど、それ以上は知らなかった。爪が甘いですね、相変わらず」

「やはり、君も貴族の出だね。それほどまでに、彼らを毛嫌いする理由を聞いても?」

「聞くまでもないでしょう。あの放火魔達は、散々本家分家、親しくしていた家々にある事ない事呟いて、何度も混乱させた狼人間だ。しかも、自分で起こした火災の中に飛び込む火事場泥棒ですよ。あれが家に来たら、何度も―――何度も‥」

 思い出したようだな、と言いたげなマスターが、髪を梳いてくれる。

 そうだ、あれらは多くの組織に、虚言を吹き込み、混乱を起こす事を主としている。異端学だけではない、それぞれのカレッジにも、各々吹き込んでいるとしたら、

「秘境を分断させて、混乱している内に知識と技術を盗もうとしている」

「ああ、私もそう踏んでいる」

 知っていたのかと、カサネさんにも視線を向けると、困ったような申し訳なさそうな笑顔を向けて、「ごめんなさい」と謝ってくる。不満だと視線を向けると、

「あ、でもでも‥えっと、ごめんね。もうカレッジの教授さん達には話を聴いていてね、ヘルヤとリヒト君を最後にして貰って、答え合わせを‥」

「先生なんて嫌いです」

 首を回して、マスターに埋まりながら答えると、「うぅ‥」と唸り声を上げてくる。また試され、またいいように使われたようだ。襲われないだけマシだろうと言いたかったのだろうが、自分からすればとてもつまらなかった。

「リヒトの事だ、ここまで膳立てさせて気付かない訳がないと踏んだんだ、どうかカサネを悪く思わないでくれ。‥‥そうだ、今度カサネに手料理を振る舞って貰いなさい、私の料理の師は彼女だ」

「そ、そうだよ!!今度、必ず沢山食べさせてあげるから、その―――」

「でだ、リヒト。—―――もう一度『宴』の件、考えてくれないだろうか」

 強く、絶対に離さないと抱擁で伝えてくるマスターの顔を見上げる。その顔は、微笑みを携えながらも、必ずこの手を取ってくれると信じて待ってくれた。

「‥‥ロタ。ロタと、話して決めたいです」

 耳に付けられている手を握り返した時、大きく頷いてくれる。

「だが、一度断った仕事を受けるからには、大きな責任、代償が必要だ。君は何を支払える?」

「『学究の徒』とやらを捕まえればいいんですよね。なら、簡単です。—――家を使いましょう」

 楽しむ様に歯を見せていたマスターの端正な顔が、徐々に歪んでいく。普段では決して見せてくれない、心底慌て始めるマスターを逃がさないように、強く抱きしめてマスターの胸を独占する。何処までも埋没する鼻を更に擦りつけて、呟く。

「マスター、俺を使うという事は、こういう事だと覚えて下さい。カサネさんも、俺でものと試すとは、どういう始まりを迎えるか、思い知って下さい。—――死人が出ないように、気を付けるのはあなた達だ‥」




「そろそろ教えてくれないか?何処の出自だ?」

「‥‥」

 先ほどから、誰かに呼びかけている声が、自分に対してなのだとようやくわかった。肩に置かれる手は、力ばかりを籠められ、こちらを慮る意志などない。

「どこだって聞いてるんだ?言えないのか?はッ、言えないぐらい雑多なのかよ?」

 痺れを切らしたというのだろうか。呼び起こせる記憶を辿ってみると、つい数分前まではまだ敬語の体を成していた筈だ。けれど、今ではこの態度—――このような言葉遣い、『向こう』でしよう物なら、即刻首を飛ばしていた。

「‥‥お教えするつもりはありません」

「ここに所属してるって事は、いずれは俺達の庇護下にいるって事だろう!?ここにいたいなら、義務を支払えよ!!どこだって聞いてるんだろうがよ!!」

「お教えする予定もありません」

 肩から手を振り払い、眼球を向ける。

 同じ白だが、向こうは衣のようだった。その上、大量の銀の装飾が階級の違いを訴えている。リヒトと同い年だとは思えない顔付きだが、青臭い顔がリヒト以下の使い手だと教えてくれる。

 思えば、リヒトは人間ではないのだから一概に比べられる訳がなかった。

「—――青いですね」

「‥何がですか?」

「お顔の事ですよ。まだまだ戦士とは呼べません」

 髪の毛を逆立てた『子供』が、挑発とも言えない事実の指摘に逆上する。その結果、自身の衣の下から佩いていた太刀を振り抜く。

 脆い。一目でわかるその浅はかさ、未熟さ、重ねた血の薄さに鼻で笑ってしまう。

 その態度が、またも『子供』の心をくすぐってしまったようだ。

「お前!!」

「ここは本部ですよ。血を流してはいけないと聞いていますが?」

「俺は許されるんだよ!!」

 ただ腕力で落とすだけの刃など、この身を撫でる事すら能わない。

 一歩引き、身を翻すように避けた一刀はこちらのローブを触れる事だって出来ない。そんな現象につんのめりながら驚愕の文字を眼から浮かび上がらせた子供の腹へ、つい石突きを放ってしまった。

「いい感触ですね。肋骨と内臓、どっちも潰してしまいましたか?」

 口から血を吹き出し倒れながら、衣を染めて痙攣する少年に、周りの大人達が慌て出す。慌てるタイミングが遅い事から考えて、これはよくある事だったのだろう。

「ふふ、軽い軽い」

 血のついていない槍をヴェールに戻し、上から見降ろしていると、人間でいうところの中年が襟を掴んで壁に叩きつけてくる。痛みなど感じる筈がない一撃だが、またも私は槍を造り出し、腹に突き入れ、膝で蹴り上げてしまった。

「あははは!!ごめんなさい、でも許して下さいね。だって―――」

「ロタ!!」

「ああ、リヒト‥」

 背の低い、幼い顔付きの憤怒の竜が駆け寄ってくる。倒れている人間の事などに目もくれず、私を引き寄せてくれる彼の肩に頭を乗せてみる。

「大丈夫だったか?」

「ええ、勿論。この程度の雑兵に私が負けると?」

「‥無事でよかった」

 一度離れた彼は、私の腕を引いてここから離れようとする。けれど、そんな事は許さないと言わんばかりの人間達が、私達の周りを取り囲み、紙の人形達を造り出す。

「なんの真似だよ」

「彼は私達の構成員の一人だ!!ただで返す訳がないだろう!!」

「取り調べか?機関内の小競り合いなんてよくあるだろう。俺達から話のひとつでも聞きたかったら――――白紙でも通すんだな」

 言葉の途中で迫ってきた紙の兵士を、水晶の一刀で全て『砕いた』リヒトに、人間達が言葉を失う。何故だろうか、彼の噂など、力の一端など既に見ている筈なのに。

 —――どうやら彼らは、外から招かれた者達らしい。

「討魔局の人間が、そもそもなんでここにいる。ここは機関の縄張りだ、失せろ負け犬。お前ら放火魔に、この街は相応しくない」

 リヒトは私以上に言葉を選ばず、『放火魔』達の心を抉った。逆上した彼らは紙の兵士を更に呼び出し、佩いていた太刀をそれぞれが引き抜く。

 ―――けれど、何故だろうか。

 誰も彼もが、粒とも言えない実力しか持ち合わせていないと、一目でわかった。

「お前らの役割は、オーダーへの助言、密偵の筈だ。本職の俺に、勝つつもりか?」

 その瞬間、リヒトが水晶の塊を手に呼び出し―――床に落とす。

 重量を持つ水晶は、砕ける事なく床へと引き寄せられる。たったそれだけの動作に、『放火魔』達は恐れ一歩下がる。

 その光景にほくそ笑んだリヒトが、砂利でも踏むような感覚で水晶を踏み潰す。

 次の瞬間—――リヒトの足元で弾けた水晶が、内に抑えていた海を解放するように周りの人間達を巻き込みながら膨張、或いは貫き、壁へと押し流す。

「リヒト、やってしまいましたね。どうするのですか?また怒られてしましますよ」

「その時は、高飛びして逃げるよ。—――いや、叱りつけてくる人間がいるなら、俺が仕留めてくる。それに、見てくれ」

 リヒトが水晶から力の供給を消し、燐光にした途端、そんな光景を先ほどから遠巻きにこちらを眺めていた機関の人間達が、総じてせせら笑うように見えた。

「ん?どうして?」

「見た通りだよ。アイツらは、こっち側からするとあぶれ者。オーダー内の組織にして――――魔に連なる者の力を、何も知らない一般人に振り下ろす素人だ」

「‥‥なるほど、隠匿すべき世界を表に晒す卑怯者という事ですね」

「ああ、そういう事。しかも」

 心底、嫌いだというのが言葉の端々から聞こえ、つい笑ってしまう。

「笑わないでくれ‥」

「ふふ、ごめんなさい。それで、彼らはどうして放火魔と呼ばれているの?」

 水晶の拘束が外れた人間達が壁や天井から落ちてきた。その身を血で汚してこそいないが、きっと胸を抑える骨の幾つもが折れて、呼吸の度に肺を痛めている。

「仮にも、オーダーの一部署として生き永らえているのに、同じオーダー内の組織内の紛争を起こしてるんだよ。しかも、火事場泥棒も特技にしてる」

「まぁ‥それはそれは―――ふふ、卑怯な人間に相応しい技巧ですね」

 何事もなかったように、周りの白のローブを身に付けた大人達が何処へと連絡していく。自負してしまう程、使いこなしているスマホは、この世界では常識の技術らしい。

「一旦上に行こう。話があるんだ」

「リヒト、私を人気のない所へ連れ込みたいなんて、私達の未来についてなのでしょうね?」

「ああ、そうだ。ロタとの未来についてだ!」

 そう叫んで、エレベーターへと飛び込むリヒトの背に、言葉を失ってしまった。

 彼の手は、こんなにも大きかっただろうか。彼の背中は、こうも広かっただろうか。何も言わないで息を荒げる彼を、私は見上げている。

 何故気付かなかった―――彼は、私よりも背が高かったなんて。

「‥‥リヒト、本当に?」

「ロタこそ、よく考えて答えて欲しい。俺は―――本気だから‥」

 強く握ってくれるこの手が、初めて痛んでいる。思えば、私を痛めつけた来られたのは、この神獣だけだった。創生の彼岸という水晶の浜からその身を浮かべ、形を持った神の使いは、唯一私を喜ばせてくれた。

「‥‥ロタは、このロタはとても嬉しいです。ようやくロタに、この世界での意味が与えられるのですね‥。リヒト、改めて誓います―――私はあなたの戦乙女、あなたを導く神の娘として、あなたの隣にいると」




 笑顔のまま槍で素振りするロタは、「私はとても不機嫌です」と伝えていた。未だかつてない程の殺気を放つロタは、カサネさんの私室の調度品は勿論、壁と天井にも一切触れずに切っ先を振り回し、足元に泣きついて謝るこちらを見て、ようやく。

「どうしましたか、リヒト。ロタとの未来の話は、これで終わりですか?」

「‥‥ロタ」

「はい、このロタに何か御用ですか?」

 声に反応してくれたはいいが、やはり切っ先に戦乙女としての憤怒を乗せたロタは、この場にいる全員を身から解き放つ威圧感だけで圧倒していた。

「あぁーロタ、そろそろいいかな?リヒトを唆したのは私達なんだ、怒るのなら」

「あなた達が?」

「—――いいや、リヒトの所為だ」

「やはり、リヒトが悪かったのですね」

 急回転、切り離し作業を終えたマスターは、カサネさんと共に茶番で口を塞いでしまった。最後の助けを求めるように、民族先導者たるカサネさんに視線を向けるが―――既にカップで顔を隠している本人は、拳を作って励ますだけに留めた。

「ロタは、覚悟をしてあなたの手を握りました。あなたがあれほどまでに強く、このロタを求めるのですから、何にも代えてあなたに仕え、導こうと決めたというのに―――結局は、年上の女性達に求められただけだったのですね」

「‥悪かった。だって‥」

「だって?」

 槍の素振りを終えたロタが、眼を一切閉じずに微笑んでくる。一点の曇りなき瞳に射抜かれ、呼吸も止まってしまうが、ロタ自身にしがみつきながら気道に残った最後の空気を口に運ぶ。

「ロタじゃないと、ダメなんだ‥」

「ロタではないとダメ?何故ですか?」

 顔が割れていないから、というマスターからの入れ知恵など使おうものなら、何かもをカタリ達に告げ口して、針のむしろのような状況に置かれてしまう。不機嫌なカタリは何よりも怖い――――だが、そんな理由ではないのは、明白だった。

「俺は今回、異端学のカレッジとしても、そして第四位の魔貴族としても参加する事にした。だから、ロタには、俺の隣で‥‥その‥」

「多くの人物、多くの組織がいるなかで未婚のリヒトが私を隣に置くという事は、私を未来の伴侶として見せつけたいのですね。カタリやマヤカさんではいけないのは、先刻のヘルヤ様の言った理由—――では、もう一度聞きます。何故、ロタを?」

「‥‥ロタなら、背中を預けられる。正面から俺と同等の使い手が現れたら、カタリとマヤカ、ヨマイじゃあ守らないといけなくなる―――ロタなら、人間の始末を」

 それ以上先を言おうとした瞬間、ロタが槍から唇に指をつけた。

「ヘルヤ様から聞きました。あなたは、仮にもオーダーの一員、そのような直接的な事を言わせてはいけないと。‥リヒト、あなたの覚悟の程、見届けました」

「なら‥!!」

「仕方ありません。まだまだ男の子のリヒトには、このロタが必要という事ですね。けれど、このロタを求めるという事は、自分はまだまだ男の子だと認める事になります、自分ひとりでは歩く事が出来ないのだと、それでよろしいのですか?」

 その問に答える為、跪いていた床から立ち上がり、ロタと同じ目線になる。

「まだ男の子でいい。俺には、ロタの導きが必要なんだ―――勇者にも英雄にも成れない俺には、ロタが手を引いてくれないとダメなんだ。ロタ、俺を守ってくれ」

「‥‥はい、お受けします」

 ようやく微笑んでくれたロタを抱き締めながら、小躍りするように跳ねてしまう。ここ数日、自問自答を繰り返すように遠い目をしていたロタと、ようやく視線が重なった気がした。

「ロタロタ!!」

「はーい、どうされましたか?」

「ロタの作った料理、自分で勉強したのか?」

 ロタが作ってくれた手料理は、ビーフシチューだった。夏場に近づいてきたとは言え、その味に陰りなどなく、柔らかい肉と野菜は、本当に手間暇をかけて――――ロタが俺の為に作り上げてくれた一品だった。

「ええ、そうですよ。あなたが喜んでくれる、それに私の世界にも似た料理があったので。ふふ、実は自信作でした。どうでした?」

「美味しかった!!また、作ってくれる?」

「‥‥勿論♪」

 講義室の時のように、腕でロタを持ち上げて腰掛けさせる。楽し気に頬に手を伸ばしてくれるロタは、大人びながらも身体相応の少女の笑顔を向けてくれる。

 天井が輝いているのか、ロタの笑顔が眩しいのか、一緒に回り続けている自分にはわからなかった。けれど―――ロタが笑っているという現実が、何より嬉しかった。

「あぁーやはりそろそろいいか?」

「ロタ、次のステージはどう攻略する?」

「最初に、私が焼き尽くすので、リヒトには」

「‥そのままでいい、聞いてくれ」

 諦めたマスターにふたりで視線を向けて笑うと、好きにしてくれと言わんばかりに、ソファーに身体を預け切って足を組んでしまう。仕方ないとロタと笑い合い、ロタを膝に置いたまま、ふたりで腰を掛ける。

「うぅ‥私には眩しいよ‥。どうしてこんなに、目が眩むの‥」

「安心してくれ、私もだ―――若さなど、私達にはそもそも無縁な物ではあるというのに‥」

「ロタ、」

「いいえ、このままでいましょう」

「‥わかった、そうしよう」

 膝の上にいるロタと抱き合いながら、離れないという意志を伝える。試しに、首だけ動かして顔を見上げると、待ってましたというように唇を舐めとられた。

「ロタ、俺はロタが導くに相応しいか?ロタにとって、価値を見出せる?」

「—――まだまだ男の子と思っていたのに。はい、リヒトは私にとって、とても有益だと断言できます。どうか、これからもそのままでいて下さい」

 ロタは人間ではない。当然だ、人間よりも力を持つ種族—――否、種族という言葉自体相応しくない。ロタ達戦乙女は、限りなく『神霊』に近い。

 人間に奉られて、人間を祝福し加護を授ける。授けられた人間は言わずもがな、片目を湖に捧げ、全知全能に届いた神の館に、その魂を召し上げられる。

 なぜ限りなく『神霊』に近いと言わざるを得ないのか、それは――――。

「ロタにとって人間は裁定を下せる存在。ワルキューレは、人間をどこまでも見極められる目を持ってる—――俺を見極められなかったのは、人間じゃないから。見ててくれ、俺の価値は、ロタが思っている以上に」

「はい、そこまで。そこから先は今後、見せて貰います」

 言葉を遮ったロタは、「約束です‥」と告げて、唇を合わせてくれた。何度でも傷ついた魂を抱いて癒してくれるヴァルキュリアが、誓いを立ててくれる。

「よし、わだかまりが溶けたようで何よりだ。いい加減、こちらを向いてくれ。向いてくれたと判断する――――何故、『学究の徒』と呼ばれている者達が、この秘境に訪れるわかったのか、気にならないか?」

 マスターの方も、ようやく覚悟を決めたようで、今回の核心に触れ始めた。疑問には思っていたが、こちらから聞いた所で話さないと確信していた為、ここまでずるずると伸ばしてしまっていた。

「確か、人体を使って探究を行う学者達でしたか。非倫理的な研究を行うのなら、ある意味は選択として正解だと思いますが‥‥オーダーから?」

「ああ、その通り。オーダーの外部監査科、私達とは別の部署からの通報だよ。具体的に、誰なのかは言う訳にはいかない、君が私と同じくらいになれば、おのずと分かるだろう」

 どうなんだとカサネさんに視線を向けると、普段の優し気な眼差しを向けず、泣きそうになっていた。

「先生‥」

「あ、うん、先生だよ!!ごめんなさい、私からも教えられないけど、信用していい情報だから。相手がオーダーであるのは間違いないけど、彼ら‥討魔局との繋がりは、有り得ないから」

 カサネさんらしからぬ『有り得ない』という言葉に、息を呑む。事はそれほどまでに、危険な在り方をしていると、わかった。

「‥‥続きを聞きたいです」

「確かな筋からだと信じてくれればいい。学究の徒達の目的には、ある程度だが察しがついている。先ほども言ったが、討魔局が、カサネに聞いた事を思い出してくれ―――身体は誰が用意した?」

 つい立ち上がってしまいそうになった身体を、ロタが肩を抑えて留めてくれる。

「まさか‥マスター達が目的‥」

「疑惑は確証に変わった。無論、カサネが教える事などあり得ないが、それに類する技術を持ち合わせている魔に連なる者が、この秘境にいない筈がない」

「はい、特別な技術であるのは間違いありませんが、私だけが独占出来る術でもありません。それに、秘境とはこういう街です。自身の求める魔道に、同じ線が入り混じる事も、想定しての魔道の街だから―――彼らが強硬手段に出なければいいのだけど」

 自分が狙われる可能性が最も高いというのに、自分のようにこの街に望みを掛けて来た魔道を志す者を、気にかける言い方だった。

「先生は、姿を隠さなくても大丈夫ですか‥」

「ありがとう、心配してくれて。大丈夫だよ、私、悪魔に加護されてるから」

 自分の胸に手を付けて、微笑んでくれるカサネさんには、最も相応しくない単語のような気がする。けれど、あのホテルで守ってくれたのは―――この人だった。

「カサネなら大丈夫だ。それより、君だ。リヒト」

 笑顔の一切を消したマスターが、宣告でもするように呼び掛けた。

「私達の身体に関する技術を求めている。それはそのまま、君の身体にもいずれは到達するという事でもある。忘れていないか?君の身体は、人間の血肉をただ模しているに過ぎない」

「—――自分達で、殺しておいてか‥」

「戻って」

 ロタを抱き締めていた腕が、ほんの一瞬だけ神獣のそれに変じてしまった時、ロタが頬を撫でて落ち着かせてくれる。けれど、一度呼び起こした怨嗟は、止まらなかった。

「自分達で、『俺』を使い潰して、造り出しておいて―――自分達でまた消耗したいだと‥ああ‥目障りだ‥。災厄のひとりして、燃やし尽くしてくれようか‥」

 自分の喉から別の何者かが、溢れて出てくるようだった。

「落ち着きなさい。これはまだ向こうには、知られていない情報だ。確かに、君とあの元教授の関係については、この街に居れば知られる事ではあるかもしれないが」

「上等ですよ。俺を狙いに来てるなら、喰い殺せばいい‥。二度と、俺の前に立たないぐらい、内臓を引きずり出せばいい‥。皆殺しだ‥」

「—―ロタ、命令ではなく頼みだ。彼を頼む」

「はい、どうやら彼を止められるのは、私だけのようですね」

 マスターの布によって目を塞がれた。これは獰猛な獣を落ち着かせる技法ではあった。ようやく、自分の今の姿に思い当たる物があった。

「‥‥すみません」

「いいさ。だが、いくら怒りに身を任せたとしても、人だけは殺すな」

「‥人は、俺を殺したのに」

「それでもだ。—――いいかい?」

 目から布が解かれた時、目の前には、普段の優しいマスターの顔があった。そのままロタと共に、頬を左右から撫でてくれる。

「—――落ち着きました。これからどうしますか?」

「まずは、私達は彼らの内情について知らなければならない。『学究の徒』と『討魔局』が繋がっているのなら、これはオーダー組織全体の問題だ。法務科も巻き込んで、全体で捜査、浄化をしなければならない」

 ソファーに戻ったマスターが、顎に触れるが、その姿もよく絵になり過ぎた。絶世の美女、傾国の美女とも評せる身体と顔を持つマスターの真剣な眼差しを、このまま絵や石像に出来れば、新たな信教が設立されそうだった。

「ふふ、そんな見つめないでくれ。みなまで言わなくてもわかる―――君の想像通り、また私の艶姿が見れるぞ」

 真剣な姿から、異性を誘うかのような官能的な目元を見せるマスターに、言葉を失った時、膝の上のロタが頬を掴んでくる。

「『宴』という公の場で、いつものスーツ姿という訳にはいかない。それに、ああいった場では肌を見せるのも、暗黙の了解でもある。ふふ、そう睨んではいけない。私の姿は、望むと望まれると関係なく、脚光を浴びてしまうものなのだから」

「あははは‥だけど、魔に連なる者の貴族達も集まる場で、普段着という訳にはいかないのは、その通りだよ。リヒト君は、フォーマルなスーツとか、持ってる?」

 パーティーにお呼ばれした者、招待された者ならば、呼ばれた者として一定の義務がある。それはドレスコードと呼ばれる、参加者全体で造り出す雰囲気そのもの。

 相応の立場を持つ者達の姿が、皆バラバラでは空気に一体感がない。

 これは、常識、配慮の問題だった。無論、女性に求められる物も知られていた。

「マスターのホテルで買った物なら。あのブラックタイです」

「これは顔見せではあるが、どちらかと言えばそれぞれの組織のけん制会でもある。畏まったものよりも、少しばかり威厳、余裕を見せなければならない。しかも、リヒトは『あの家』の代表として顔を見せるのだから‥‥ふふ、選び甲斐があるよ」

 楽し気に呟くマスターは、先ほどの冷や汗など既に引いていた。

「マスターは、何度か参加しているのですか?」

「また忘れたな。私は、異端学の教授だぞ」

 不服だと示す顔で、眉間を突いてくるマスターと、何かを思いついたように声を出すロタ。そして「あ、私も選んで上げるからね」と言うカサネさん達は、自分が預かり知らぬ所で、次の段取りに察しがついているようだった。




「おかえりー。どうだった?」

 カタリの部屋に戻って来れた時、自分は既に疲れ切っていた。女性の買い物とは、何故ああも長いのだろうか。その上、自分が着るのだと言うのに、絶対に自分に選択権を与えてくれなかった。

「ど、どうしたの?ふらふらしてるけど‥」

「‥‥色々あった‥」

「そ、そうなんだ。色々あったんだね」

 普段の強気な顔を潜ませたカタリは、手を引いてリビングの椅子まで連れて一点くれる。もはや家財道具の大半を片付け終えた部屋は、真っ白なキャンバスのように無個性だった。

「『宴』の話とスーツを見て来たんでしょう?そんなに疲れた?」

「既製品で良いって言ったんだけど、折角だからって身体中の寸法を全部取られたんだ。‥‥デザインにもあんまり意見を言えなくて‥あ、蝶ネクタイは嫌だって」

「あー、私以外の女の人の買い物に付き合ったのね。だけど、大人を目指すなら、そういう時間も楽しまないと。前に買ったスーツも、持っていくんでしょう?」

 本来は自分の部屋にあるべき、あのブラックタイは、カタリの部屋に保管されていた。同じ部屋に住むのだから、荷物はまとめるべきとの意見の同意だった。

「うん、そうする事になった。お色直しが必要になるとは思わないけど、あれも良い物だから。念の為持って行こうって。‥‥カタリは、行かないんだよな」

「私がいると、色々と面倒な事になるしね。別に、先生から来るなって言われた訳じゃないから。私だって、この街に自分がいる違和感とか不自然感とかわかってるし」

 待っていてくれたのか、カタリは何も言わなくても夕飯の準備を始めてくれる。何か手伝うべきだと思い、立ち上がるが「邪魔だから、座って待ってて」と釘を刺される。

「‥‥カタリが、秘境に居ても別に変なんかじゃ」

「リヒトがそう言ってくれても、結局決めるのはリヒト以外の人間だから。それに、ああいうパーティーって息が詰まって苦手なの。あ、いい感じ♪」

 先日購入した圧力鍋を開いたカタリが、軽い調子で鼻歌を歌いながら、つい先日食した料理を運んできてくれる。ロタの料理の師は、カタリだった。

「ロタから教えて欲しいって言われたの。その時余った材料で作ってみたんだけど、いい感じでしょう?」

「‥‥いい匂い」

 深い皿に、注ぎ入れてきてくれたシチューには大量の肉と野菜、ジャガイモなどが煮詰められていた。けれど、それだけではない。ロタが作り上げてくれたシチューではなく、カタリが用意してくれたいた物は、ビーフストロガノフ。

「ご飯なら沢山あるから。自分でやって」

 二人分の食事を瞬く間に用意したカタリは、普段通りにお代わりは自分でやってくれと告げて食事に入る。一口ごとに、「悪くないわね。だけど‥」と呟くカタリの顔を眺めながら、自分もスプーンを手に取る。

「それで、結局ロタも参加する訳?」

「‥そうなった。カタリは、気付いてたのか?」

「まぁね。リヒトもマヤカもそうだけど、ロタ達『人外』って『人間』と違って考えてる事はわからないの。だから、ひとりで何か考えてるって事は、きっと―――」

 そこから先を続ける事はなく、自身が作り上げたビーフストロガノフに口を付けた。自分もそれ以上を聞いてはいけないとわかってはいた。だけど、

「カタリ、ロタの事、どう思う?」

 聞かなければならない。カタリとロタは、当初険悪な関係とも言えた筈だった。

 だけど、それは直後に後悔と変わった。

「どうもこうもないわ。リヒトと同じ、人外。私だって純粋な人間じゃないだから、私にとっても同じ普通の女の子。悪くない友達、これでわかった?」

「‥ごめん。気を遣わせてばかりで」

「私達の関係を探るなんて余裕、リヒトが持てるの?慣れない事しないで、大人しくロタを信じて待ってなさい。ロタは、いい子なんだから」

 やはり、自分はまだまだ男の子だったようだ。下手にロタの心を知ろうとしてしまっていた。カタリの言う通り、信じて待っているという―――時間を共有する余裕を持ち合わせるべきだった。

「ロタの心配より、今は自分の事考えれば?異端学カレッジの代表として参加するんでしょう?他所のカレッジの貴族に目付けられたら、後々面倒よ」

「うん、わかってる気を付けるよ。‥‥後、これはマスター達とカタリにしか話してないんだけど、カレッジだけじゃなくて、家の代表としても顔を見せる事になった」

 その瞬間、カタリが―――全てを察したように頷いた。

「ああ、そういう事にしたんだ。いいんじゃない?リヒトが、あの家の出身だなんて皆知ってるんだから。ようやく、散々リヒトを舐めてた連中が真実を知れるなんて―――いい気味」

 特別気にした様子もないカタリだが、数秒後には思い出したように笑い始める。

 誠に遺憾ながら、我が家は魔貴族。その中でも、魔人とさえ謳われた、あの爺様の血族。世界中や、襲い掛かってきた家々から散々奪った、献上されたゴーレムや至宝の類を雨あられと貯蔵している、魔に連なる者の世界を体現したかのような一族。

「あーあ、私も遠くから監視してたいかも。もう、それぞれの顔見せなんかじゃなくて、リヒトのお披露目会になるかもね。あの『放火魔達』なんて、霞んじゃない」

「マヤカから聞いたのか?」

「それもあるけど、街中の学生達なんか、その話で持ち切り。噂って侮れないのね」

「‥自分達から、流した可能性もあるかもしれない」

 この言葉に、カタリが視線を向けた。

 カタリも違和感に気が付いたのだ。あの『放火魔』は、仮にもオーダーの密偵。自分達のような特殊な家の出身だから会話の中に易々と登場させられるが、貴族でもない家の者では、その姿どころか存在自体知らなかった者もいる筈だ。

「詳しく聞いていい話?」

「アイツらの話を、そのまま信じるなら、今後の秘境の運営は自分達がするからオーダーに口添えして、機関の建物を明け渡せって」

「向こうだって、そんなの不可能な事ぐらいわかってる。何か別の事を探ってるみたいね、なんとなく察しがつくのは――――リヒト達が関わろうとしてる『宴』目的」

 やはりカタリは自分以上に冷静で、大人だった。頼もしくはあるが、僅かな悔しさを胸にビーフストロガノフを攻略し続ける。

「美味しい‥」

「当然でしょう。それで、実際どうな訳?」

「マスターもそう言ってたし、わかってて引き入れたみたいだ」

「相変わらず、先生って読めない人。このタイミングで討魔局なんて他人が入り込んで来るなんて、直近で起る『宴』以外理由ないじゃん。わざわざ引き入れるなんて―――何考えてる訳?」

 呆れながらも、マスターの事を信用してくれているカタリは、思い出したようにパルメザンチーズを冷蔵庫から取り出して席に戻る。本当に信じていないのなら、このような悠長な時間など、決して過ごさなかっただろう。

「これは他言無用って事なんだけど、人体を使って探究をしたがってる学究の徒って奴らが、この秘境の技術を狙ってるらしいんだ」

「その学究の徒と関わってるかもしれないのが、『放火魔達』なのね。あまりにもタイミングが良過ぎる今、無理やり行政区の機関本部を占拠するなんて」

 そう言った瞬間、カタリが鼻で笑った。

「馬鹿馬鹿しい。無理に決まってるじゃん、そんなの」

「無理って‥」

「あの特務課とかいう連中を見てわかったでしょう?秘境の中と外とでは、ただの力ひとつ取っても隔絶された壁があるの。討魔局?学究の徒?そんな連中が、この秘境の技術なんて使いこなせる訳ないし、何より誰が渡すって思うの?」

 自分も思い出してしまった。そうだ、無理に決まっている。到底、使いこなせる訳がない。あの教授が使っていた、生命の樹の専門家だって、結局は頼りどころか助手とすら見ていなかった。ただの使用人、保管を差せていたに過ぎないのだから。

「単純にお金って関係だって、あり得ないでしょう。あの発掘学の連中が、金欠で喘いでいるぐらい―――カレッジ同士の協定、隠匿を破った制裁って重いんだし」

「‥‥外の連中に渡すぐらいなら、カレッジ間で受け渡しをした方が、建設で健康的だな」

「そういう事」

 どうやらマスターは、まだまだ伝えていない事があるようだった。いや、マスター自身も、まだ推測の域を出ないと言っていた。手探り状態であるのは、マスターとカサネさんも同じなのかもしれない。

「‥もしかして求めてる知識は、技術じゃないのか?」

「じゃあ、なんだと思う?」

「—―――助言、とか?」

「技術じゃなくて助言—――いい所入ってるんじゃないの?私もそう思ったから」

 こちらの世界に戻ってきた時、あの教授は「どこに行っていた?」と訊いて来た。それからも、「どうやって行くんだ?」とは聞かずに、「果実の中身は?」と訊いてきた。―――創生の彼岸に足を踏み込んだ自分に知識、助言を求めた。

「‥だけど、学究の徒とあの討魔局は繋がってるんじゃないのか?だったら、なんでこのタイミングに‥、向こうも学究の徒を探してるのか?もしかして‥」

「仮にもオーダーだとしても、そんな殊勝な真似アイツらがする訳ないでしょう。どっちかっていうと、知識を横取りしようとしてるんじゃない。『アイツ』みたいに」

 どうやら勝手に他人の敷地に踏み込んだふたつの勢力が、勝手に紛争を起こそうとしているらしい。しかも、この放火魔は討魔局の本領、火事場泥棒の始まりだった。

「カタリに話して、良かった‥」

「ふーん。どのくらい?」

「また好きになるぐらい」

「それって毎日の事でしょう?リヒトが私を好きになるなんて、普通の事だし。それで、言いたい事はそれだけな訳?」

 ふと気が付くと、自身の皿は空になっていた。恐る恐るカタリに「お代わり‥」と呟くと、よく似合うサディスティックな笑顔となり「はいはい」とキッチンまで皿を持って行ってしまう。

「カタリ‥」

「ん?何?」

「大好き‥これからもずっと‥」

「私も。まだまだあるから食べていいからね」

 その後も普段通りだった。食事が終わり、お互い落ち着いてきたら共に入浴をする。ふたりで重なるように浸かる湯舟に文句を言うカタリに「あともう少し。夏まで我慢しようと」と伝えると「リヒトはいいでしょう?私とくっつくの昔から好きなんだから」と胸と腹の上でくるりと回ったカタリに、頬を引っ張られた。





「ロタ、決めたんだね?」

 誰一人としていない暗い夜中のカレッジで、グラスを片手に聞いてみる。

 試着として白のドレスに身を包んだロタが、自分の想像以上に大人びていた―――花嫁に見えてしまう自分は、どうやら人間のように時間を楽しんでいたようだ。

「私は何も変わりません。生まれた時からそうです、何故あのような雑多で矮小、卑怯な種族を出迎えねばならないのだと―――到底理解出来ませんし、これからもする気はありません」

「‥そうか」

「—――ただ、もうあのヒトはいないのですね」

 月を見上げる狼のように、誇り高いロタの横顔は決して花嫁などではなかった。

 我らの中で、もっとも戦乙女と呼ばれるに相応しい彼女は、私などよりも義理堅い―――心優しい天使だった。そしてその心根は今も変わらず、万人に注がれる。

「‥私、これからも割り切る事なんて出来ないと思います。リヒトを見つめる度、彼を受け入れる度に、失ったものを思い出してしまう」

「つらいか?」

「わかりません。私、人間なんて嫌いです。思い出すだけでも、身の毛がよだちます。だけど、思い出してしまう物はあります―――彼女達との時間は、とても有意義で」

「楽しい、とは言わないかい?」

「‥‥友人との時間は、とても楽しいです。それに新たな恋人との時間は、とても得難い。尊い物です―――ええ、ロタはきっとこちらに来て良かったのだと思います」

 立ち上がったロタが、一身に月の光を浴び始める。

 我らにとって、人間とは十把一絡げの存在に過ぎない。だけれど、そこから選び出し、仕えなければならない―――自分にとっての勇者を。

 添い遂げる覚悟にも似た―――使い潰すという本能を。

 相手が神の三柱、どれだけ強大な巨人、竜であろうと、新たな世界の為、我れが創造主、あの方の元に向かわせその心を奪い、魂を消し去らなければならない。

「リヒトの事を、どう思う?」

「まだまだ男の子です。ちょっと肌を見せて上げただけで顔を赤らめて、少し触れただけで身震いしてしまい‥‥夜をどれだけ重ねても、ふふふ‥」

「身体を壊させないように気を付けてくれ。君ひとりの身体ではなく、私が慰撫する身体でもあるのだから」

 単純な挑発をしながら、軽く胸を腕で持ち上げると、まだまだロタも子供といった感じに頬を膨らませて睨みつけてくる。純白のドレスが良く似合ったロタは、まだまだ花嫁と送り出すには早いようだ。

「‥‥あなたは、いいのですか?」

「何がだい?」

「—――リヒトと私達は、種族としてあまりにも遠い過ぎる。あの身体が、どこまで人間を模しているのならまだしも、神獣リヒトとしての在り方しか、この世界は認めない。‥‥彼の血を紡ぐ事など」

「ふふ‥」

 心の底からの吐露を笑ってしまい、ロタは更に顔を白くさせる。

「すまない。わかっているんだ、私も―――いいや、カタリ君もマヤカ君も、皆わかってる。神の使いとして現界している彼が、私達のようなこちらの身体を持ち合わせている者達と血を混ぜるなど、不可能なんだ」

「‥‥。私、もしそうだとしても彼を愛します。怒りながら孤独感に苛まれている、哀れな神獣をひとりにする訳にはいきません」

「—――ええ、その通りですね」

 自分も立ち上がり、細い白いロタを抱き締めて呟く。

「彼をひとりにする訳にはいきません。彼をひとりぼっちにしてしまったのは、マヤカ君とカタリ君から奪ってしまったのは、この私なのです。彼の魂を救済する資格など、私には皆無だとしても―――愛すると決めた。ロタ、どうかこんな醜い私に手を貸してくれ」

 月明かりの元、あの星となんら変わらぬ夜の中で、我らは誓う。消える運命、消耗される魂を救いだし、いずれかの世界の礎となる事を願い――――橋とする。

「私が憎いのならそのままで構わない。だが、どうか彼だけは救ってくれ。あんなにも哀れで悲し過ぎる、誰に看取られる事もなく、ひとりで死んだ彼を、もうひとりにする訳にはいかないんだ」

「‥‥やはり、彼は」

 そこから先をロタは言わないでいてくれた。

 そうだ、彼はひとりで死んだ。誰に見送られる事もなく、我らが連れ去った勇者達の誰ひとりとして耐えられなかった、自分を失っていく死をただのひとりで経験した。彼の魂など、とうに砕かれていた。

「私は、彼の為にいます。このロタは、あなた同様、彼を選びましょう」

「‥‥ありがとう。そして、ロタ、君もひとりにしない」

「‥‥ふふ、ようやく言ってくれましたね」

 彼女に似たロタは、やはり彼女どうように耳元で笑んでくれた。

 




 幾人かの挨拶後、異端学カレッジのテーブルにはようやく静寂の時間が訪れていた。

 相克を目指すと言えばまだ聞こえはいいだろうが、実際の所はけん制以外の何者でもない怒涛の顔顔顔。カレッジ、結社、貴族達のもはや覚えるのも無駄な登場人物たちの名すら忘れた頃、マスターが蒲萄のジュースを渡してくれる。

「—――さて、どう見る?」

「どうもしません。‥‥もう、顔も忘れました」

「くくく‥‥容赦がない。伝えた通り、この秘境の長の顔は覚えておいた方がいい」

「どのおじさんでしたか?」

「あははは!!失敬‥」

 急なマスターの高笑いに、方々の魔に連なる者達が驚いて視線を向けてくるが、どれもこれも見るに堪えなかった。仮にも此処は、魔に連なる者の中でも選りすぐりの魔道を極めんとする者。そんな肉食獣にも似た物達が跋扈する会場で、背中を開けているなど―――まるで自覚が足りていなかった。

「ふふふ‥まだ挨拶を交わしていないおじさんだよ」

「なら向こうが来るまで待ちましょう。用事があれば、最低でも三回は訪ねてきます」

「三顧の礼とは、君は自分をどう評価しているのかな?」

「自分がどう思うかは些細な物ですよ。向こうが、この俺を『孔明』と同等に思っているか、そして自分が立場をどれだけ自覚しているかで、回数だけじゃなくて態度も変わるかと」

「それは帝王学と呼ばれるものなのか?」

「処世術のひとつです」

 蒲萄ジュースを飲み切った時、隣から新たなグラスが差し込まれる。丸い銀のトレーで諸々の世話を終えたスタッフが、ひとつ会釈をして去っていった。

「向こうのルールを真似てるなら、頭なんて下げません。せいぜいが失礼の一言。こちらの対応のふりをしてるなら、もっと深々下げますね」

 なかなかに悪態が尽きない。直すべき悪癖だとは前々からわかっているが、一度開かれた汚泥袋の口を、閉ざすにはまだ吐き出し足りなかった。

「今まではみ出し者、爪弾きにされていた異端学カレッジに、ああも媚びを造って来るなんて、余程、向こうにいるライターは殺されたいみたいですね。明日には、挨拶に来た分だけ頭が転がっているのでは?」

「まぁ落ち着きなさい。彼らだって、君の出自に関しては確信がなかったんだ。彼らの誇りとやらを鑑みれば、殺されかねないが、むしろ君と繋がりが出来て嬉しがっているかもしれないぞ?」

「まさか。俺をどう転がせば、何を落とすかの算段と見当を付けているだけですよ。舐められているのは前々からわかっていましたが―――自分達が偉く、強くなった気でもしてるんですか?—――試しに首のひとつでも注文してみましょう」

 適当にスタッフのひとりを呼ぶべく、手を上げた所、見覚えのある若い男性スタッフが顔を見せた。

 こちらの顔に覚えのあったスタッフは、歯軋りをしながら返答をしてきた。

「‥何か?」

「お前の首をここで晒したい。跪ついてくれるか?」

「すまない。彼は酔っているんだ、水を一杯」

「しょ、承知しました」

 腕から水晶の刃を造り出そうとした瞬間、マスターが手を握ってスタッフを解放してしまった。つまらないという顔を向けると、額を少し強めに突かれる。

「何もかもが気に食わないのはわかるが、君は家の代表として」

「魔貴族の代表なんて、この程度ですよ。あの爺様を知ってる皆々様が、今更気に掛けると?」

「君は、このヘルヤの婚約者なんだ。ふふ、自覚したかい?」

「‥‥すみません。俺‥」

「わかったら、背筋のひとつでも伸ばしなさい。挨拶周りでもしに行かなくては」

 片手で視線すら向けないマスターが、水を奪うように受け取って手渡してくれる。想定通り、マスターに水を手渡したはいいが、自分には一切視線を向けられなかったスタッフが、何故かこの自分を睨みつけてくる。

「さぁ、行こう」

「はい。わかりました!」

 黒髪を巻いたマスターが、自身の使うような黒い布を思わせるイブニングドレスを纏って手を引いてくれる。腕と背中を大きく露出したマスターの肌を、天井のLEDとシルク状の素材が一際輝かせ、ありとあらゆる目を一身に引き受ける。

「しかし、よく耐えられたね。総勢30人以上の人間がご機嫌伺いに来たというのに。前の君だったら、途中であのやさぐれリヒトに変わっていただろう?」

「やさぐれリヒトってなんですか。俺だって少しは大人になりました、しっかりマスターの隣を歩けるように、我慢を覚えました!」

「ふふ、いい子だ。少しだけ大人になった君は、とても誇らしいぞ。だが、あのやさぐれも忘れてはいけない。不機嫌な君も、可愛いのだからね」

 何処までも何時までも、マスターの手の上で転がされているみたいで―――悪くなかった。きっと、自分が途中で不機嫌になったら、「彼は私の婚約者だ」と告げて、襟を立たせていただろう。

「あぁ、終わりました?」

「終わったー。ロター褒めてー‥」

「はい、沢山頑張りましたね。挨拶を努めるリヒトは、とても紳士的でしたよ」

 マスターとは違う手を引いてくれるロタが、グラス片手に褒めてくれる。少しばかりのアルコールを口元から漂わせるロタは肌を赤く染め、前に見た物と同じ程度の露出だというのに、官能的な大人の妖艶さを湛えている。

「状況はどうだった?」

「『彼ら』が真っ先に挨拶に向かったのは、あの方ひとりだけでした」

 多くの人間達、得に若い学生達が立ち並ぶ中、視線だけで示したその先には、杖こそ突いているが一切腰の曲がっていない老紳士が立っていた。そしてようやく気が付いた、この周りに立っている者達は、老紳士への挨拶の隙を窺っているのだと。

「けれど見た通り、まだ挨拶が終わっていないようで」

「好都合だ。行こう」

 ロタの手を引き、マスターと並びながら老紳士の元へ歩みを進める。周りから感じられる視線など、所詮敗北者の眼球。取り揃える価値も、覗き込む必要も皆無だった。

「お久しぶりです。学院長」

「おお、君か。久しぶりだ。入学式以来、顔を合わせていなかったか」

 マスターが先陣を切って知らせてくれた名詞に、ロタと共に軽く会釈をしようと下時、「ああ、畏まらないでくれ。楽にしなさい」と手で制してくる。改めて顔を見ると、そこに立っているのは、やはりただの老紳士だった。

「初めまして」

「初めまして―――ははは。ああ、失礼、けれどね。私と君は過去に一度だけ会った事があるのだよ。気を悪くしないでくれ」

 申し訳ないという意志が、ひしひしと伝わる困り顔で謝ってくれる。学院長という確立された立場、オーダーと正面から交渉、命令を下せる程の人物からの謝罪と、過去の関係に、周りがどよめきの声を上げる。

「もしかして、当主と」

「ああ、そうだよ。君のお爺様には何度も世話になったし、何度も世話をした。昔の仲間と呼べる相手のひとりだよ。ははは、第四位の魔貴族とは、あいつは変わらないな」

 灰色の髪と髭を整えた紳士は、この会話だけで只者ではないのだと痛感した。あの魔人の古い仲間だと自称したこの学院長は、自身も魔人のひとりだと認めたのだ。

 到底、見た目通りの年齢、姿など持ち合わせていない。自分と同じく、内に何かを飼っている―――魔人だった。

「あいつとは、そうだなぁ‥。源氏だ、上杉だ、織田だ―――あと徳川にも召し抱えられていた時代があってな。ただ、豊臣とはどうにもソリが合わなくて」

 自分の知識が正しければ、それらの家々が在った時代など、とうに400年は経っている―――しかも源氏にも仕えていたと、この老人は語った。

「ああ、すまない。ダメだな、歳を取ると思い出話ばかりだ。近々寄らせて貰うとするよ」

「は、はい。伝えておきます」

「ははは、アイツとは似ても似つかない礼儀正しいさだな。真面目な孫など、私には皆無だったのでね、羨ましい限りだよ。お嬢さん、あなたは?」

「お初にお目にかかります。異端学カレッジに所属させて頂いている、ロタと申します。どうか、これからもよろしくお願いいたします」

 一歩下がったロタが、深々と頭を下げながら最上級の挨拶を繰り出した。不自然な点などない対応に、老紳士も頭を下げ返してくれる。

「先ほどから手持ち無沙汰にしてすまなかった。‥‥見る限り、君は―――」

 瞬時、この神獣リヒトにしかわからない雰囲気を、この老紳士が纏った。

 油断などしていなかった。前方からの狙撃には息吹で、背後にも気を配り、一息半で水晶の尾を造り出せるように、身構えていた筈だった。

 けれど、この杖を付いた老人に、身体中の全細胞を向けなければならない―――さもなくば、『取って喰われる』と本能と理性、自分の中身が叫んだ。

 ―――息が詰まる。喉が焼ける。眼球が焼き付く。眼前で水爆でも起爆したかのような空気に包まれ、『災厄の竜』としての再誕の決断を迫られているようだった。

「—――ほほう。これはこれは」

「学院長、挨拶が送れた事、ここに」

「ああ、構わないよ。なるほど、君は彼の婚約者だな?」

「はい、このロタはリヒト氏とお付き合いをさせて貰っています。もしよろしければ、ここで挨拶をさせて頂いてもよろしんでしょうか?」

「いや、ここではダメだ。そういう場を、今後設けさせて頂くよ」

 マスターもロタも気付いていない。この老紳士の内側に、この神獣リヒトにも匹敵する人外が、住み込んでいる事を。あのオーダーがこの老紳士に、秘境を任せたその理由を―――。

「では、そろそろ失礼させて頂こう。すまないね、慌ただしくて」

「いえ、こちらこそお時間頂きありがとうございました。失礼します」

 マスターとロタに合わせ、自然と頭を下げたしまった事に感謝した。腕を引かれながら立ち去る後ろ姿に、老紳士は何を思っているだろうか。そして周りの魔に連なる者達は、どう見えているだろうか―――到底、自分には預かり知らな事だった。




「どうかしたかい?」

「‥‥マスターは」

「あの老紳士は、この秘境の長だ。それだけは忘れないように」

「‥‥わかりました」

 学院長終わりの挨拶周りを済ました後、またも異端学カレッジに戻って来ていた。周りのカレッジ達も同様のようで、既に歓談の時間は過ぎ去り、品定めでもするかのような視線を老いも若きも男女問わずに、向け向けられていた、

 それらの眼に嘲りや嘲笑の類などなく、ただただ自身のカレッジ、並びに自身の魔道の探究にとって好都合な対象を探していた。

「結局、彼らは学院長以外には挨拶もしませんでしたね。私達にも」

「むしろされた所で困るだろうさ、勿論、された側がだ。下手に討魔局と繋がりがあるなどと見られたら、今後の繋がりに支障をきたす」

 自分の目からは勿論、視線でロタに意見を求めるが、首を振って返すばかりだった。諦めたのならそれで構わないが、どうにも不気味に感じる。あまりにも動きがなさ過ぎた。

「参加する人数は、三人まで。別グループとしての人員増加はルール違反。私の人形にも探らせているが―――それにも掛からない。どう見る?」

 頭の中で応える「これは陽動‥」だと。直後にマスターも「同意見だよ」と返してくれた。これは自分達の眼を引くだけの作戦、実際は――――それぞれのカレッジに直接赴いているのかもしれない。

「カタリが言ってました。もし技術を得たとしても、外の術者達では、理解出来る訳がない。使いこなせる筈がないって」

「だから助言か。やはりそうとしか言えないな。いや、それだけでいいのかもしれない」

「それだけでいいって‥それは―――」

「あ、リヒトさーん」

 それは女性のものだった。この声だけで物腰柔らかとわかる、そしてこの場にいるという立場を鑑みれば、一体それが誰なのかは考えるまでもなかった。

「アマネさん」

 立ち上がって背後から聞こえた声に返事をすると、想像通りにその人が立っていた。深紅のドレスのより、大きく露出した胸元を揺らし、病院で会った時よりもテンションの高い、年上かと思っていた同学年の学生が駆け寄ってくる。

「やっぱり、あなたも来ていたのね。そのスーツ、とても似合っていますよ」

「ありがとうございます。アマネさんも、赤が良く似合っていますね、自然学の代表ですか?それとも貴族の?」

「はい、私は貴族の招待者です。ふふ、流石に一年生の私では、自然学カレッジの代表なんて荷が重くて‥。それに貴族というより、友達と遊びに来た感覚なの」

 だからなのか、普段のお淑やかな雰囲気とは違い、夜の街に遊びに来たかのような様子だった。試しに、マスターから頭で許可を得て、討魔局についての意見を求める。

「討魔局については、どう思いますか?」

 施設で指し示す先にいる、今も勝手に参加しテーブルを独占している放火魔を。

「う~ん、ごめんなさい。私はあまり彼らに詳しくなくて‥」

「あ、すみません」

「うんん、お役に立てなくてごめんなさい。‥‥だけど、あまり関わり合いになりたくないのが、本当の所かも。私自身も、友達もいいイメージは持ち合わせていなくて」

「‥‥そうですね。すみません、変な事聞いて」

「いいえ。良かった‥同じイメージを持っていたみたいで」

 その時だった。

 黒のスーツ、色鮮やかなドレスを身に纏った魔に連なる者達の中、席とテーブルを蹴り飛ばし、立ち上がる人間達がいた。誰もが舌打ちと共に、訝しみの視線を向ける。

 視線を一点に集めた者達は、あの討魔局だった。

「皆々様、このような場を私達の為に用意して頂き、誠に感謝しております!!」

 立ち上がって高らかに声を上げたのは、あの少年だった。

「この会場で、ただ挨拶を交わすだけでわかりました。皆様は、唯一無二の魔道を極めんとする者達だと。己が為、延いてはそれぞれの学問魔導の発展の為、身を粉にしているとは」

 誰もがその発言を鼻で笑った。当然だ、魔に連なる者が、学問、魔導の発展の為?あまりにも、我らの存在意義を理解していない戯言だった。皆が皆に聞いてみればいい。

 何の為に、この秘境にいるのかと。万人がこう返すだろう、全ては研究テーマの為だと。

「だからこそ、私達はあなた方にこう提案したい。今こそ、我らの中で築き上げられてきた壁を取り除こうではないかと。あなた方が恣意的に排除してきた我らの為、この秘境を明け渡すべきではないのかと」

 あまりにも愚かで今までの自分達の行いを見つめられていない提案に、この場の全員が倒れそうになる。「どの口が言っている」と。散々、オーダー内、魔に連なる者達の世界を掻き乱し、対立を煽ってきた放火魔が、「この仕打ちはおかしい。原因はお前らだ」と宣戦布告をしてきたのだ。

「‥マスター」

「彼らだけじゃない。周りを見渡しなさい」

 ロタと二人、その意味を瞬時に理解した。これこそが陽動なのだと、アマネさんを無理矢理座らせながら「静かに」と呟く。彼女もやはり魔に連なる者だった。焦る様子もなく、ただ黙って従ってくれる。

「‥いない」

 次々と新たなテーブルを見渡し、動きを見せた者達を探し出す。

「‥‥先程の質問に答えておこう。恐らく君もカタリ君も、良い目の付け所をしている。だが、それは我ら魔に連なる者にとってのルールでしかない。しかし、彼らはその身の大半をオーダーに沈めている。彼らが求めるのは、その言葉のみ」

「言葉‥?」

 誰もが討魔局の宣言に目を奪われている間、外部監査科たる自分達だけが、血を流す覚悟で目と脳を動かす。

「彼らはオーダーだ。ならば、当然手錠を持ち合わせている。そして現行犯ではない限り、それを使う機会は限られる。――――もうわかるな?」

「無理矢理証言させて、誰かを逮捕しようとしている。‥もしかして、その相手は」

 遅ければ、この胸から刃が生えていたかもしれない。背後から突き出される筈だった、討魔局の太刀を振り返りざまに水晶の腕で弾き返し、顎に水晶を纏わせた拳を叩き込む。

 隣のテーブルまで弾き飛ばされた黒のスーツは、その場で気を失い、再度巻き起こった轟音に意識を奪われる。確かに聞こえた――――あれは発砲音だと。

「――――そこで刺されてくれていれば良かったものを」

 討魔局の少年は、眼鏡もかけていないのに眉間に軽く触れ、天井に向けて発砲した拳銃の銃口を、『こちら』に向けてきた。あまりの出来事、そして魔に連なる者達の世界においてもあり得ない、堂々たる襲撃に誰もが自身の懐に手を入れる。

「ああ、全員動かないように」

 そう告げた瞬間だった。会場の扉から、白の衣を纏った討魔局の数十人が飛び込んで来る。全員がその手に太刀と拳銃を構えていた。オーダーであっても、まず有り得ない構えに非現実感しか感じられない。

「‥‥君達は、討魔局の人間だね。これは何のつもりかな?」

 ひとり立ち上がった学院長が、この場の全てを背で守るように今も銃口を向けている少年に話し掛けるが、そんな老紳士の歩み寄りを嘲笑うかのように足元へ発砲した。

「動かないで貰えますか?あなた達のような犯罪者への発砲は、こちらにとってとても軽い物なので。私達も、無用な血を流したいのではありませんから」

「‥それは難儀な事だ」

 一見すれば杖しか持たぬ老人に、少年が拳銃を向けている光景だった。その数秒後の世界など、誰もが容易に思い浮かべられるだろう、こめかみに銃底を叩き付け、老人を無理矢理床に押し付けながら拘束すると。

「マスター」

「今はまだ動いていけない。今はまだ‥」

「‥わかりました」

 自分達以上に状況がわかっていないアマネさんの手を握り締め、「動かないで」と小声で伝える。その返事など聞く暇はなかった。討魔局の目的が、わかってしまったからだ。

「私達の目的は簡単です。この場にいる学生のひとりを引き渡して頂きたい。その学生が人体を使って自身の研究テーマを達成しようとしていると、わかったからです。いや、既にそれを成し遂げ、今もこの場で次の研究に手をつけようとしている」

 視線の全てが、今も立ったままの自分に注がれる。

 誰も彼もが知っているからだ。このリヒトは自然界教授の研究、生命の樹によって新たな生命を作り出す為、生贄に捧げられたと。だというのに、このリヒトはこの場で異端カレッジ、そして第四位の魔貴族の招待者としてここにいると。

「リヒト、わかっているな。あの銃は―――」

「‥はい。あれが、魔狩りの銃」

 マヤカとマスターから聞いた銃の話だった。何故それほどまでに銃を恐れるのかと。

「‥動いてはいけません。あれを受けては」

「知ってるんですね‥」

「ええ、あれは私達の血を破壊する為に作られたもの。もし心臓に受けでもしたら、必ず死んでしまう‥。―――あなたが人間から離れているのならば、運命のように」

 今まで見たことのない鋭い目付きとなったアマネさんが、自身のドレスを手で押さえながら立ち上がろうする。ロタに目配せをしてアマネさんを任せると、肩を抑えられたアマネさんが、口を小さく開けて「逃げて‥」と呟いたのが聞こえた。

「それは―――今もそこで立っているリヒト氏です。繰り返します、私達の目的は簡単です。彼さえ引き渡してくれれば、」

「話にならないな。放火魔が」

 この蔑称を知らなぬ筈がなかった。だというのに、『放火魔』達は太刀も拳銃も、その全てを自分ひとりに向けてくる。やはりと思った―――彼らに、この秘境は相応しくない。

「お前達はオーダーの傘下、負け犬でしかない」

「あまり侮辱が過ぎると、そちらでも逮捕するけど、いいんだね?」

「はっきり言わせて貰う。本当に、俺を逮捕出来るようオーダーに掛け合っているのか?」

 想像通り―――これ以上を先を言わせない為—――なんの躊躇もなく魔狩りを発砲する。瞬時に、あの弾丸を知っている者からテーブルの下に、地震に耐えるように隠れた。話し通りならば、あの魔狩りの銃を掠りでもしたら、毒が身体中を犯すと。

 けれど、こちら一点に対しての発砲など、恐るるに足らなかった。

 マキトの剣の檻の方が、余程殺傷力があると断言できる単調で直接的な攻撃。

「‥それが、君の力か」

 十数丁からの発砲の全ては、神域の水晶によって阻まれた。神の血を通す肉塊にも見える水晶の壁に弾かれた弾丸が、軽い音を立てて床に落ちる。

「―――軽い。所詮、人間に対しての武器、俺には通じない」

 壁と化していた水晶を身体の一部に、全て手に集める。

 身体を覆い尽くしていた水晶の壁は、鬼をも切り裂く長大な一振りを化す。人工の光、天の光にも勝る創生の彼岸の燐光、七色のプリズムを見ただけで、諸人が声を上げる。

「続ける―――もしお前らがオーダーから、この作戦を承認されているのなら、話の途中だ。失せろ」

 銃では効かないと想像した愚か者達が円を作り、どこぞの海賊のように身体中を突き刺そうとしてきた為、長大な刃を持った槍を振り回し、ただの一振りで半数を壁に叩きつける。

 直後に声を失い腰が引けた者から刃を振り下ろし、轢かれたカエルのように叩き潰す。

 幾つもの悲鳴が上がろうが、誰も止めなかった。既にこの身は神獣、人間とは似ても似つかぬ水晶纏う竜と成りつつあった。

「こ、これ以上は公務執行妨害で!!」

「出来るのか?手勢がだいぶ減ったが、まだそんな戯言を言えるのか?」

 ポーカーフェイスを崩し、冷や汗をかき始めた指揮官の焦りは伝播していく。自分達の上官の狼狽、青く染まっていく顔を見つめてしまった、席についていたスーツ組が慌てて立ち上がった時を狙い、上から槍を振り落とす。

 テーブルごと砕かれた肋骨の感触に、笑みを浮かべてしまう。

「‥悪くないじゃないか。的程度にはなるみたいだ、ああ、悪い続けよう―――お前らならわかるだろうが、俺はオーダーの一員でもある。なら何故、俺がここにいて、何の為にお前らを見張っていたのかも、わかる筈だ」

「‥一体、何の話だい」

「お前達がやってることは、この秘境への反抗。隠匿を目的とする魔導を志す者達をいたずらに逮捕、減らす反逆行為。オーダーが、こんな命令を下すとは思えないって言ってるんだよ」

 ハメられたと思ったのか、胸ポケットの手を当てたので、すぐ隣にいるもうひとりにも槍を振り下ろす。

「動くなよ。周りに迷惑だろう?―――俺は機関としてもオーダーとしても許された魔に連なる者。そんな俺を密偵とはいえ、オーダーであるお前らが逮捕する?後ろから刺し殺す?あり得ない」

「う、動かないで貰えるか?」

「動いてるのはお前だ。最後まで続けようか?お前達は、この街に誘い込んだと思ってるだけだ。元々、この街に来るつもりだった―――追い詰められている情報を敢えて流して」

 討魔局はゴミ掃除の最終段階に入ったと思っていたのであろう。自分達が追い詰めた『学究の徒』は、最後の手段としてこの秘境に望みを掛けた。ならば、後は塵を集めて逃げ込んだ彼ら諸共に、自分達に反抗、そして都合のいい技術を奪取する。

「自分を狙ってるかどうかなんて知ってるに決まってる。そして、お前達がこの秘境から『技術』と『知識』を盗み出そうとしてるかどうかも」

 この会話を理解する事を拒んでいる。あまりにも、自分にとって都合が良過ぎると、事ここに至ってようやく理解したからだ。討魔局の若武者は、顔ばかり苦くし、銃口を一切緩めない―――どうやら、プロのオーダーであるらしい。

「は、ハッタリだ‥」

「聞こえたか?目の前にいる討魔局は、この秘境から技術と知識を盗み出そうと」

「そんな事はあり得ない!!」

「いかがですか、マスター?」

「ああ、既に終わった」

 立ち上がったマスターが、指を鳴らした時、会場中のスピーカーからハウリングが響いた。続けて聞こえた声に、誰もが息を呑む。自分達は一体、何に巻き込まれているのだと、そう誰もが口を衝きそうになった。

「私達は、オーダー法務科—――この名に聞き覚えのあるのなら、そのまま座っていなさい」




「秘境にて己が研究テーマを果たさんとする方々、私は法務科異端捜査課の者です。訳あって皆様方に直接顔を見せる事が出来ませんので、声だけで失礼します―――時間がありません。端的に伝えさせて頂きます、あなた方の目の前にいるのは、討魔局を驕る物達。オーダー省に確認しましたが、このような命令下していないと」

 その瞬間、討魔局の偽物がスピーカのひとつを撃ち抜く。こんな事をしても無駄だと承知している。だが、その顔には信じられない物を聞いたかのようだった。

「‥‥あり得ない。皆さま!!あの声は、法務科を偽る」

「無駄な足掻きですね。その場に学院長がおられますね?私の声をお忘れになりましたか?」

「いいや、確かにこの声と――――はははは、この一切の容赦と遊びの無い雰囲気は、紛れもなく法務科の方だよ。私だけではない、この秘境で長く過ごしている者なら、誰もが覚えがある筈だ」

 苦笑いをしながら席に戻った学院長は、「諦めた方がいい」と伝えながらテーブルのグラスに口を付ける。けれど、そのグラスは撃ち抜かれ、袖口を蒲萄酒で染めてしまう。

「—――失礼」

「私も、教育者の端くれだ。君にはマナーを施してあげたいものだよ」

「冗談は、そこまでにして頂きたい。私は、紛れもなく討魔局のオーダーだ!」

 何故、あれほどまで逆上しているのか、甚だ疑問ではあるが老紳士たる学院長に向ける銃口は全く揺れてなどいない。

 けれど、どうやら、もはや周りを見渡す余裕すらないようだった。

「ロタ‥」

「はい、お任せを」

 頭の中だけの会話を終えた時、ロタの腕に触れる。今から起る『殺戮』は、微かに笑うロタと目を合わせる程の隙を作り出してしまった彼らの責任だった。

 ヴェールから造り出された花と草木の趣向を施された槍に、神の血を通した水晶を纏わせる――――不足、現時点では先ほど振るった槍にも届かない―――補強を追加、更なる硬度向上を推奨—――縄状に変えた水晶を巻き付け、水晶の崩壊を防ぐ。

「さぁ、こちらにも」

 差し出された左手にも指の一本だけ触れる。関節—―骨—―爪—―指紋、全てを通し血の一滴をロタの新たなヴェールに染み込ませる。血を受けたヴェールは瞬く間に透き通り、幾十もの糸に代わり、ロタは自身の力で『盾』として編み込んでいく。

「では、裁きの時間です」

 一瞬でドレスから変化した月色のローブを、目深にかぶったロタが今も壁で魔狩りと太刀を抜いていた『偽の討魔局』へ肉薄。一切の慈悲も一握の施しも与えないロタは、槍で上半身を消し飛ばすように薙ぎ払う。

「あぁ、殺しが出来ないなんて―――物足りません」

 槍を太刀で受けようとした『偽の討魔局』は、太刀を失い、魔狩りすらも手放して窓から外へと撃ち出される。砲弾にも届きうる速度で撃ち出された『偽の討魔局』へ、視線を向けた隙にロタは、それを何度も何度も続ける。

「あは♪どうしました?あなた方は、この世界の狩る側なのでしょう?」

 一定の技術を持っていた『偽の討魔局』は、周りに貴族や学生が居ようと狙いを外さずにロタへ銃口を向けて発砲するが―――所詮人間の動体視力、一定の技術程度では背中から『水晶の翼』を引き出したロタには、到底届かない。

「いつの間にあんな物を‥」

「その、ロタと‥夜に‥」

「ロタもロタで、君との子を望んでいたようだな。何よりさ」

 神速にも到達したロタが僅かに微笑んだとわかった瞬間、こちらの死角、ロタが対峙していた対角線上の壁へと、『ほんの一息』で到達。それが風で読めた自分とマスターが振り返った時、『偽の討魔局』のひとり―――声高に叫んだ少年の後ろから槍を首の動脈へと突き付けていた。

「動かないように」

「‥‥君もオーダーだ。殺人は出来ないのではないかい?」

「ん?ええ、それが。だって殺さなければいいのでしょう?」

 瞬時に理解したのが顔色でわかった。

 始めての本当の殺気、人外から人間へ、圧倒的に次元が違う神の娘からの裁定に首を垂れそうになった少年は―――逃走を選んだ。見えざる白刃の太刀を引き抜いた少年は、槍を持つ腕を切断にかかる―――けれど、盾で裏拳気味に太刀を容赦なく砕いたロタは、そのまま右の盾で僅かな休息を与える事もなく、打ち上げるように殴りつけて、テーブルまで弾き飛ばす。

「軽いですね。彼の水晶の方が、ずっとずっと怖くて恐ろしいというのに」

「‥比べる相手が悪いよ」

 直後の返答に、笑みを浮かべたロタが槍を振り上げて首から心臓に掛けてを袈裟斬りを仕掛ける。けれど、やはり彼は自称『討魔局』だけではなかった。

 顎への一撃を仰け反る事でインパクトを外した少年は、足元に転がっていたボトルを投げつけ、テーブルクロスをも投げつける。

「卑怯者がッ!!」

「オーダーに卑怯なんてないんだよ!!」

 黒のスーツからネクタイを振りほどき、未だ離さなかった魔狩りの銃で回りの魔に連なる者達をけん制、たったひとりで扉へと駆けて行く。

「良い足だ。彼は、本職だな。現場にも慣れている」

 マスターの評価に嫉妬しながら、少年が手を付けた扉に水晶の槍を投げつける。

 息吹とも言えない投擲でしかなかったが、人間ひとり分にも匹敵する水晶の槍が迫る音に、振り返った少年が床の絨毯に転がりながら一撃を躱す。

「良い判断だ‥」

 次弾の槍を造り出し、水晶の鎧を纏いながら一歩一歩、床にひれ伏す雑草に寄る。

 未だに壁で何もせずに立っていた『討魔局』の残りを、痺れを切らしたそれぞれの組織が自身の使い魔である鳥や豹、マーナのような狼で追い詰め、逃げ場を奪い去っていく。

「それで、どうする?」

「‥‥僕達は、この街の秩序を守る為」

 今更柔和な表情を造り上げて手を差し伸べてきたので、言葉の途中で床を踏みつけ、迷宮の時のような水晶の津波で空間を飽和、押し流して壁で失神させる。

 全くの抵抗、言い訳のひとつもしないで倒れた指揮官を見詰め、投降の構えを取った『討魔局』の人間達が、悲鳴を上げて使い魔達に貪られる。

「さて、そろそろ聞かせて貰おうか」

「勿論です、学院長—――しかし、ある程度は知っていたのでは?」

「あははは。相変わらず、君達に隠し事は出来ないようだ」

 背後から迫ってきた学院長にマスターが応対する中、腕の中に戻ってきたロタと見つめ合う。フードの中の髪を金に変えたロタが、紺碧の瞳を向けてくる。

「いかがですか?月色の私は」

「‥‥ずるい。ずるいくらい可愛い‥」

「当然です。このロタは、あなたの伴侶ですから」





「恐らくは、彼らも裏切られたのだろう」

「今までしわ寄せが、返って来たみたいですね‥」

 会場近く、マスター所有のホテルにて部屋を借りていた。そこでロタに薬を塗って貰い――――水晶の壁に肩代わりをさせていた『毒』の反動に耐えていた。

「無理のし過ぎだ。‥‥すまなかった。私も、あの場で彼らの動きを見るまで確証を持てなかった。まさか、あそこまで強行手段に出るなんて‥」

 ベットの上で、ロタに背中を向けている自分には、その心意を探れる余裕など持ち合わせていなかった。身体中を水晶で縛り上げていたつい先ほどまでの、怒りとも裁きとも言える人類の矛—――狩りに用いる『毒』が、血管や内臓を喰い荒らし、その場から立ち上がる事すら許さないと、首輪でも付けられているようだった。

「‥‥結論を言って下さい。アイツらは、なんのつもりで‥」

「彼らの狙いは、カタリ君の言った通り、秘境内で編み出された力を奪った『学究の徒』達の身柄を抑え、そしてそれをオーダーの名の元、横領する事だったのだろう」

「—――なんで、そんな無駄な事を‥」

「喋ってはいけません。また、背中が裂けてしまいます」

 背中から生暖かい液体—――体液が零れていく感触を、ロタが拭きとってくれる。湯で身体を拭いてくれているロタは、歯噛みでもするように声を出した。

「続けよう。討魔局が、真っ当な理由でこの街に来る事などあり得ない。それこそ君の言う通り、この街に放火しに来たと言われれば誰もが納得する。そして、彼らはただの狂人ではないのだから直接足を運び、火を付けたのなら相応の理由がある」

「では、何故リヒトの身柄を抑えようと?あのような場で、大袈裟に逮捕劇を繰り広げる必要なんてなかったのに。誰にも気付かれず、奪い去ってしまえば良かったのに」

「それでは夜盗と変わらないからだよ。それに、内心では自らの拠点を、この秘境に造り出そうとしていたのは嘘ではあるまい。さもなければ、彼らの敵しかいない街に来る筈がない―――下見のつもりでもあったのだろうね」

 マスターの推理には、頷くしかなかった。

 『彼ら』は、逮捕と言って魔に連なる者の身柄を抑えるという権利を、多く行使して来た。それは、確かにこの街でもあるのかもしれないが、それ以上に自分達の存在を知らしめるつもりでもあったのだろう。

「リヒトの身体にも興味もあった上、リヒトを取り巻く環境にも興味があった。自然学教授を打ち倒し、特務課の人員と繋がりがあった機関の人間をも逮捕、撃破した。そんなリヒトを捕縛すれば、自分達は未だ健在だとしたかったのだろうが‥」

「あの程度の実力、武具に頼っているだけの彼らが、リヒトを打ち倒そうとしていたなんて、どれだけ身の程知らずだったのでしょう?」

「前にも言っただろう?この街は、『秘境』だ。そうそう外の人間を迎え入れる事などしない。彼らにとって、魔に連なる者など拳銃と太刀で、どうにか出来る程度の心象だった――――あまりにも侮り過ぎだ」

 ロタの薬と手で、睡魔に落ちて来た。だから、最後に聞かなければならない。

「‥‥なんで、俺を、あんな理由で」

「問われたのなら応えるしかない。だが、きっとこれは君を苦しめる」

「‥もう俺は、ここまで」

 背中から腹、骨に内臓、血管—――全てを傷つけられ指一本すら麻痺して動けない自分は、最後に口だけを動かした。

「そうだな‥。リヒト、君はこの世界から忌み嫌われている事を知っているな?君が狙われた理由は、ただただ都合が良かったからだ。人外の代表とも言える君を逮捕出来れば、私達のような人外を、危険分子として逮捕できるから」

 どれだけ力を振るっても、どれだけ人間の利益になる結果を残したとしても、人間は自分以外の、言葉を話す命を認めはしない。例え、人間と寸分違わぬ姿形を持っていたとしても―――絶対に自分以上の力の持ち主を受け入れはしない。

「—――自分達で、俺を」

「ああ‥そうだね。自らが造り出した命を、責任だと言って始末しに来た‥。何故、これほどまでに君は世界に受け入れられない―――何故、こんなにも傷つける」





「‥何故、こうなるまで放置したのです?」

「—――これは」

 声を出す暇もなかった。

 この世界で、人外達専属の医者という立場を持った、女神としての機能を持たされた非創造物が、破壊の権化たらんと使命を受けた天使を、平手打ちにした。

「あの場で、私とロタが受けてしまえば‥いや、済まなかった」

「それを彼に伝えましたか?」

「‥まだだ」

 返す手で、再度頬を打たれる。頬を腫らした黒髪の戦乙女は、何も言わずに彼の背を撫でる。涙すら枯れたと宣言していた彼女は、眼を瞑る事しか出来ていなかった。

「彼は優しいと、あなたが言っていた事。彼の優しさに救われたあなたが、彼を盾としたのですか?それに、その身体は人形のひとつに過ぎません。身体を消耗せず、痛みだけで済むのなら、それを選択しなかった理由などない筈です。何故?」

「—―――言えない」

「あなたが傷つく光景を、彼が見たがらないと思ったからですね」

「相変わらず、容赦がないな‥」

 その言葉に一切の返答をしない彼女は、持ってきた薬瓶を取り出し、注射針を装着させる。そして、これも一切の躊躇もなしに彼の首元に突き刺した。

「静かに。大丈夫‥」

 針に苦しむ彼の肩に手を置いた女神は、すぐそばに座り声と体温を与え続ける。その声と針に脳を解かれ、痛みすら感じなくなった彼は死んだように眠り始める。

「湯を変えてきなさい」

「は、はい、わかりました」

 慌てて桶を掴もうとした瞬間、無言で手にとったもうひとりの天使が立ち去るように部屋から出て行ってしまう。後ろを追う訳にも行かず、自分も立っているばかりになってしまう。

 その後も、持ってきた薬を―――彼の傷を直接開き中に塗り込んでいく。意識を失っていなければ叫び声でも出しているとわかる処置に、顔とベットを血で染めていく。

「動かないで―――痛みますよ」

 彼が拳を作っているのがわかる。弾丸こそ中で止まっている訳ではないが、仕込まれた毒、病巣を素手で取り出すかのような光景に、視線を逸らしそうになった時、

「彼は―――彼と関係を持ったのですね?」

「はい‥」

「そう。それは何より」

 言葉の意図など、聞き返すまでもなかった。我ら戦乙女と結ばれた者達は、須らく死の運命に誘われる。それを誇り、それを運命と受け入れる人間達などこの世界にはいる筈がない―――だから、私達を伴侶として選ぶという事は。

「彼に、覚悟の程を聞きましたか?」

「—――彼は、全てを知った上で私を受け入れてくれました。だから、私も‥」

 腹部を抑えながら、そう返した時、視線を向けていた女神は何も言わずに彼に振り戻った。部屋全体が凍り付く――――身体どころか時間すら蝕む薬に痺れてしまったかのような空間の中、何らかの出来事が起こる事を待っていると。

「悪い子です」

 頬と引っ張る。

「え、」

「心を通わせられる相手が増やせるのは何よりですが、身体まで求めるとは―――幼いのは身体と顔ばかりで、心はれっきとした男性のようですね。いえ、幼いからこそ一度知ってしまった快楽を求めてしまうとは、自慰を教え込むべきでしょうか?」

「眠っている彼に、精通を教えたのは君だろう。それに、自慰を君が教え込むなど、それはそういった癖を彼が覚えてしまう」

「無責任に身体を与えるよりは、健康的です」

 湯気を放つ桶を持って戻ってきたヘルヤ様は、未だ頬を赤く染めていた。けれど、いつも通りの面持ちに戻った彼女は、彼を挟むように壁側のベットに座る。

「彼には常日頃から夜の作法を教え込んでいる。私の言う事ならば、全てを聞いているこの子の事だ。決して無責任に乱暴を振るうような事はしない。ロタ、そうだっただろう?」

「はい。とても可愛らしくこのロタを求めて、私の求めに応じてくれました」

 自分からの返答に、「ほらね」と言う天使は、女神を更に困らせた。まるで向こうの時を過ごしている今に、自分も口が軽くなってしまう。

「病院の時ではどうでした?毎晩先生先生と言ったのでは?」

「いいえ。私を求めるなど決してしませんでしたが――――看護婦達に代わる代わる甘えて‥。カタリさんが居なかったら、彼女らが部屋に入り浸っていたでしょうね」

「‥やはり年上ですか」

「ええ、やはり年上です」

 自分も彼に近づき、頬を突いてみる。聞こえるのは彼の呼吸ばかりだった。そしてそこから下を覗いた時、『白い骨』が浮き出ているのを見てしまう。

「これが、生命の樹‥」

「ああ、カタリ君、マヤカ君、私達が持ち合わせる技術と知識の粋を集めて作り上げた―――形を持つ命そのものだ。触れようなどと思わないでくれ、これが無くなってしまえば彼の乖離がまた始まってしまう。その時こそ、彼はこの姿を完全に失う」

「‥災厄のひとりとなるのですね」

 恐れる必要などない。人の中身など、既に知り尽くしている――――けれど、彼の中は到底人とは言えない物で埋め尽くされていた。

 形ばかりの臓物は、世界の一欠けら―――創生の彼岸にて、数多の命を喰い尽くした来た彼は、その身に生命のサイクルを造り出していた。大いなる巨人の時代、黎明たる神々の時代、極寒となる戦の時代、そして許された命だけが健やかに瞳を閉じられる楽園の時代。命を宿す臓物のひとつひとつで、彼に仮初の生命を与えていた。

「‥神獣リヒト。彼を求めていたというのに、人間はこれを理由にしていなかった」

 世界に求められた英雄の素質、星を救わんと許された規格外の力と、それを遂行するに足り得る錬金術師との関係。全ては―――世界を救うために造り出された決戦兵器。だというのに。

「—――やはり、人間とは分かり合う事は出来ない。世界が造り出した勇者を、人間は自分の都合で使い潰した。‥‥向こうの彼が、門を破壊しなければ、ふたつの滅びが同時に起っていた―――すべては人間の行い。淘汰されるべきは、やはり」

「ヘルヤ」

「‥わかっているさ。だが、ただね、自分の恋人たる彼を想う時間は許して欲しい‥」

 彼の命たる樹に触れず、顔に触れた天使はそのまま彼を連れ去ってしまいそうだった。





 何度目かの水晶の海から顔を上げた時、これも何度目かの笑顔を見つける。それは、幼く純粋ながらも女性としての妖艶さを無自覚に身に付けつつある、破壊と創生の神を喰らった竜だった。

「あ、笑ってくれた。うんうん、悪くない顔だよ♪」

「あなたも、笑ってくれるんですね」

「勿論!あなたがこっちに来てくれたから」

 手を引いて起こしてくれた白い神が、満面の笑みで水晶の浜辺に連れて行ってくれる。そこにはつい先ほど自身の身体で穿った穴が作られ、飛び込むように、誘われるように胸に抱かれる。

「どうしました?ご機嫌ですね?」

「うん!今日は、沢山美味しく作れたから沢山食べたの。珍しく、あの樹が私の期待に応えてくれた。あの樹を食べるのは、また今度にしてあげるって決めたの!」

 指を差して示してくれる方向に、胸の中から視線を逸らせば、もはや見慣れてしまった創生樹が、はるか遠くに佇んでいた。ただの気の迷いで世界を造り出す使命は喰い尽くされるとようやく気が付いたのか、白い神の仰せのままに、と言った感じに輝いていた。

「どう?私、綺麗になった?‥可愛いはあなたに沢山言われたから、もういいの」

「はい、勿論綺麗になりましたよ。それに、とても‥その‥大人っぽく‥」

「ん?やっぱり、ここが大きくなると大人っぽいの?」

 訝しむように、そして自慢するように腕で持ち上げる胸を見て聞いてくるが、それだけではないのは当然だった。丸みを帯びていた目尻は、鋭く変わり、目鼻立ちはハッキリとしていた。そして化粧などしていないというのに、口元を僅かに青く染めているのが、更に白い神を大人の表情に成長させている。

「‥さっきまで食べていたんですか?」

「うん。食べて飲んでた。あ、ごめんね。あなたが来るって気付かなかったから‥」

「いいえ、大丈夫です。今は満腹なので」

「そう?じゃあ、また今度ね♪」

 心底、自分以外の生命がこの砂浜にいるのが嬉しいのか、抱きつき癖のある白い方は強い信念の元、自分の胸から離してくれなかった。

「あ、そうだ。次は服にも気を使ってみたいの。あなたは、この服でも可愛いって言ってくれたけど、私も――なんて言うんだろう?あなたが喜ぶ格好をしてみたい」

「‥例えば?」

「私にはわからないけど、ああいうあんまり着ている意味のない、薄いの」

 それで痛感した。きっとこの眼で見ているものを、この方も見てしまっている。着ている意味のない薄いの。それは、マスターやロタ、マヤカにカタリがまず最初に見せてくれる―――、

「あの、俺のお願いを訊いてくれますか?

「あなたからのお願い?いいよ、なんでも言って!いつも私のわがまま聞いてくれるお礼をしたかったの」

 と、胸の越しに満面の笑みで言ってくれるこの方に、自分の眼を見るなとは到底言えなかった。一度、胸の中で深呼吸、震える肌に微かに笑い声を上げる白い神に、新たな願いを告げる。

「このまま、もう少しこのままあなたとの時間を過ごさせて下さい。まだ痛むので」

 それ以上を告げる必要もなく、白い方は背中と頭を愛するように抱きしめてくれる。人間に対してだけの毒と侮っていたが、その実、あれは量産された武器—――多くの人外を貫く為に研がれた矛であった。

 人外を狩り、その身を引き裂く為に造られた罠に自分は囚われていた。

「背中、痛いんだね。うん、ちょっと待って」

 指を鳴らした。

 水晶の海、水晶の浜、水晶の樹。全てに響くその音に耳を澄ませ、静かに息を吐く。足と身体が海に沈むのがわかる、けれどやはり息苦しさや恐怖など感じない。 

 自分の血に溺れるに等しいというのに、人肌で包まれているように感じる。

「前の毒とは違うのね。きっとそれは、あなたを眠らせる為だけに造り出された―――『神の毒』を模したもの。とてもとても目障り‥あの蛇如きが」

 沈みゆく頭でも、その震わせは聞こえた。神の毒、蛇とこの方は確かに言った。

「いっそのこと食べてしまおうかしら。ふふ、だけどそんな事—――私が直接手を下したなんて知られたら、怒ってしまう。だけど、あなたばかり苦しめられるのは、やっぱり見過ごせない」

 静かに静かに海に落ちていく間、創生樹の根元、海の底に目が行った。

「ふふ、あれは見ちゃダメ。あなたは、私だけを見てないとダメなの」

 あの時のようだった。水晶の殻に包まれ、内に白の血が注ぎこまれる。神域の水晶と神の血に身体が溶けていく。けれど、今もしがみついている白い方が、腕で形はあるのだと教えてくれる。

「私達に居場所なんてない。私達の欠片は誰にも受け入れられる事はない。だけど、だけど―――だからと言って私達を排斥していい、あなたを傷つけていい理由なんてない」

「‥俺は、怒っていいんですか」

「勿論。あなたは怒らないといけない。世界があなたに求めた理は、もはや消え去った。だというのに、あなたが在るのが許せないなんて―――ならば、あなたは成らないといけない。神を喰らい、世界を喰らう、神喰らいの獣に。世界を選ぶ、世界を塵に出来る恐ろしい神獣に。どうか、あなたは恐れられて」



「認めた‥とは‥」

 あまりにも予想外の返答に、言葉を詰まらせてしまう。準備室の扉の向こうから、学生達の噂話が聞こえてくるが、それに気を回す暇などなかった。

「―――イミナ、それは何かの間違いか?それとも慣れない冗談か?」

「あなたのその立場こそ、何かの冗談であって欲しいと思っている私に、それを問うとは。冗談が過ぎます。たった今述べた通り、彼らの行いはオーダー本部、つまりは省庁から追認を得たという事です。以上」

 向こう側からの言葉の最後に、何か―――具体的には発砲音が聞こえた。そして続け様に聞こえる火薬の炸裂、トドメに銃身ごと壁に投げ捨てる音が響き渡る。

「‥‥流石に場所を選ぶべきではないか?」

「ここは私室です。誰の目を気にしろと?」

 向こうも向こうで気が気ではいられないようだ。法務科たる彼女が発言した、「オーダー省は認めていない」という明言を撤回させざるを得なくなったのだから。

 法務科が立証した発端、経緯、結末—―――それら全てを、オーダー省は己が都合で塗りつぶした。恐れられるべき法務科を軽視してなければ出来ない愚行であった。

「‥‥取り乱しましたね。私らしくもない」

「—――いいや、私だって同じだ。まさか、魔狩りを発砲するとは思わなかったのだから。資料は送った通り、重症者軽症者の大半は討魔局のオーダーだ。我が弟子を除けば、だがね‥」

「‥大丈夫ですか?」

 つい笑みを浮かべてしまった。彼女が私の心を思寄ってくれるとは――――彼女達をこの秘境から追放して以来だった。出来る事ならば、この想いに応えたかった。

「‥‥あまり穏やかとは言えない。あの討魔局とはいえ、殺人も辞さない、それどころか暗殺を仕掛けてくるとはな。我が弟子の力を恐れての事、一息で無力化したかったのだろうが――――随分とオーダーも変わったものだ‥」

「変わったのではなく、彼らが変わらない、が正確です。そもそも、彼らはこの国の人間以外であれば、オーダーが設立されるまで、生まれを理由に殺戮を繰り返してきた暗殺部隊—――いえ、部隊などとは言えないただの狂人」

「‥処刑人の系譜である彼女は」

「関係ないと断言できます。それに、彼女が本気であったのなら‥いえ、何でもありません」

 止まってしまった言葉に、僅かな沈黙が続く。それをかき消すように法務科の戦乙女が書類の擦れる音を鳴らす。

「彼らの目的は、その秘境を占拠する事—――けれど、それは結果的に叶えば、と望んでいる程度。彼らの言葉だけを信じるのなら、人間の肉体を使っての研究、探究を止める事。そし、彼を狙ったのは、これらの理由から」

「‥残酷な事だ。彼は徹底的に被害者、望まれずに生まれ落ちた新たな命だというのに。いや、望まれはしたのか―――その妄言を彼らはどこから入手した?」

「入手、ではなく創作したのでしょうね。討魔局は現在、オーダーの本筋からの忌避されている外れ者。いえ、あまりにも手段を選ばなかった結果、淘汰された部隊—――どうやら現為政者とは繋がりを持っているようですが」

「確信の無い事を、法務科の君が言っていいのか?」

「ここは私室、誰の耳を気にしろと?」

 デスクの引き出しを漁る音と共に、新たな火薬の炸裂音が聞こえる。昨今、彼女には再三に渡って頼っている上、彼女には彼女の子達を抱えている。その上、法務科としての立場を持ってしまっている。女神だとしても、あまりにも重労働だった。

「そろそろ自分の手下でも造ったらどうかな?」

「現在、造り上げつつあります。忘れましたか?私の元にはマトイと彼が居ます。そして、彼の『恋人』達は―――なかなかに使える者達ばかり。彼が造り上げ、伝播している狂気に発狂。人では到底跳ねのけられない魅了の力に、誰もが傅き‥」

 また始まってしまった。イミナが彼の事を高く評価しているのは知っているが、こうも自分の勇者自慢をされてしまっては、つい口を挟みたくなってしまう。

「そこまでの評価、ついぞ向こうでも下さなかっただろう。だが――――跪かせるという姿勢を強制する力なら、こちらも見劣りはしないぞ。何故ならば、彼の力は創生の彼岸にて産声を上げる筈だった、全てに通じる海から生まれ、命の始原を喰らった生命体。‥ああ、こういう事か」

「ええ、恐らくは」

 この話をさせる為に、自分の彼を誇ったのだとすればますます彼女らしくない。

 私の記憶の中にいる女神であれば―――いいや、それほど変わらない。

「私の彼は、こちらの世界にとってなんの類似品もない、深宇宙からの侵略者。けれどそれも既に塗り潰された――――他世界の先兵から混沌の中心に、足を踏み入れつつある嬰児。同時に、獣から生まれ変わろうとしている神であって魔王の候補。両極端の人外ですね」

「こちらのリヒトは、産まれる筈だった勇者。勇者候補ではあったのだろうが、この生き方を運命づけられた求められた世界の矛であった。けれど守護者としての命は、既に人間に奪われた。生まれ変わるではない、姿ばかり似せられた何者かであり、始まりを喰らい、世界を内に抱えた竜。始原と混沌か―――」

 どちらが始まりで終わりかなどという無益な問い掛けはしない。けれど、彼らがそう判断したという事は、どちらでも構わないのであろう。自らの手に、この世界の主たる自分達の手に収まらない、理解出来ない力を―――我が物とする為。

「‥許し難いよ。何故、こうも人間は我らから何もかも奪っていくんだ。私達はこの世界の守り手として己を律して、何度この世界の崩壊を防いだか知っている筈なのに」

「守り手たる私達が生きていては不都合なのでしょうね。人間は英雄など求めていない――――欲しているのは英霊のみ。次々と起こる崩壊を予見出来ないからこそ、仕事を終えた私達が何故この立場に就いているのか、理解出来ない。滅びの始まりは、全て全て人間だというのに」

 ついに弾丸が切れたのか、大きな溜息と共に重い物をテーブルに置く音が聞こえた。次いで聞こえる溜息に、彼女の心労を計ってしまう。

「助言とは、彼らを正規の方法で逮捕する為の危険性の立証。そして技術とは彼らを確実に仕留める為の『毒』を造り出す為の製法。使徒の力を借りられないとわかったのだろうが―――彼らも自分達が毛嫌いする人外だと知らないのだろうか?」

「そもそも人外の力を借りる事さえ避けたかったのでしょう。それならば、自分達が見下している魔に連なる者の力を使うと決めた。いえ、使ってやってもいいと判断した」

「‥彼らも変わらないな。再三、私達に敗北を喫したのがこれほどまでに気に食わないとは。‥‥そちらは大丈夫か?彼らの本拠地は、そちらに近いだろう?」

「所詮、敗北者達の末裔。中途半端に力を持った集団など、私達にとって餌でしかありません。こちらには、常に媚びへつらって―――従属の構えを取っています」

 近々彼女を労う何かを送るべきかもしれない。あちらの時のような言葉遣いに戻って来てしまった。

「そうだイミナ。そちらの街に、いい店があるのだろう?確かケーキを」

「それが何か?」

「何でもストレスの発散には甘味を食べるのがいいらしいぞ。しかも、その身体は既に完成している。つまりは、どれだけ砂糖を摂取しても体型が変わらないのだから」

「‥既に通いつめていますが、何か?」

 尾を踏んでしまったようだ。彼女の顔など見ていないというのに無表情のまま私を叱りつけていたあの頃を思い出し、こちらの街で出店している甘味を送ると決めた。




「‥なんでアイツらがいる訳?しかも、あんな恰好のまま」

「現在、この西部区画は未確認の事件、事故が頻発してしまっているから他所の区画からの人間は来ないの。それを良い事に下見と観光をしているみたいだけど―――こちらに取って重い意味を持つ『宴』を邪魔しておいて、ああも恥知らずでいられるなんて」

 機関の一員である彼女が、内部事情とも言えない彼らの腹積もりを知らせてくれるが、やはりどれもこれも納得出来ない。観光?下見?完膚なきまでに私達に敗北した彼らが、日の当たる道を歩けているなんて―――人間とはこうまで愚かだったか?

「ロタさん、どうかしましたかー?」

「‥宴のお酒が、なかなかだったのにあまり飲めなくて。食傷気味?」

「飲み足りなかったって言うのよ、それは」

 初夏になりつつある秘境の喫茶店で、涼みながら時間を過ごしていた。早い時間の内は、テラス席でもと話していたが、到底そんな余裕は日光が許さなかった。

「話には聞きましたがー、ロタさんとリヒトさんが暴れたとか。どのくらいでした?」

「彼らの実力?取るに足りませんでした。私とリヒトの槍のひとつも受け止められず、半分を窓の外に、もう半分を壁にめり込ませました。見てください、怪我をしているでしょう?」

 顎と視線で指示した方向、道端で何をするでもなく秘境の往来、学生達の姿を眺めている彼らは、自分の包帯に突き刺さる冷たい視線など意にも返さないでいた。

「本当信じられない。割と平和的になってきたこの街にわざわざあんな奴らを送り込むなんて‥しかも、リヒトを狙った襲撃、テロでしょう?」

「その上、襲撃に失敗、テロも防がれた彼らは見て通り敗北した。即刻機関に保護されるべき彼らは、どうやったかはわからないけどオーダーから承認を得てこの街で独自調査とやらを敢行している。愚かな彼らを優しく眺めてあげたい気もするけれど」

 それ以上の言葉を無用とばかりに、マヤカさんはカップで口を閉ざした。かなりの立場を持ち合わせている筈の彼女にすら、事の全容を説明出来ていない機関は、どうやら機関自身も何が起こっているのかわかっていないようだ。

「今の討魔局って、オーダーの一員なんですよねー?こんな暑い日にまで、あんな分厚い衣を纏ってである行かないといけないなんて。役所勤めも大変ですねー。—――リヒトさん、また入院しているんですよね‥?」

「‥はい」

 処置が早かったことが不幸中の幸いだった。けれど、彼の不幸はまだ彼の身体を蝕んでいた。腕の毒と魔に連なる者を狩る為の毒—―――このふたつが合わさってしまい、彼は自力で呼吸が出来ないほどに苦しんでいる。

「カタリ、」

「謝らないで。謝るならリヒトに言って、でないと―――怒るから」

 身を切り裂き、そのまま解体しかねない殺気。到底年相応の少女から放たれているとは思えない―――本物の怒りに、この私が身を凍らせた。巨人からも神からも向けられたに等しい死の覚悟を受けて、自分は顎を引く程度しか出来なかった。

「‥ごめん、私だって全部ロタに押し付けたのが悪いんだってわかってるの。リヒトの面倒なんて、ひとりで見切れる訳ないのに。それで、アイツらがリヒトを狙ってるって話は本物な訳?」

「はい、間違いなく。そして―――彼らの行いだけを見れば、生きているかどうかは些細な問題のようです。リヒトの身体を得る事さえ出来れば、それでいいと」

「‥誰の所為で、あのリヒトが生まれたのか、本当に考えてないのね‥」

 取り調べのつもりだろうか、数人で多くの木箱を運んでいる学生の前に盗賊のように踊り出て、肩を押した。かなりの勢いで突き飛ばされた学生はバランスを崩すが、制服の内側から尻尾のような金属光沢を放つ部位を呼び出し、地面に突き刺した。

「へぇ‥やるじゃん」

「あれは?」

「さぁ?だけど、いちいち前準備もしないで呼び出したって事は、実戦派の人間。毎回腰から銃とか刀を抜かないといけないなんていう悠長なアイツらとは、別物」

「なるほど‥」

 では、これ以上見物する必要も無さそうだ。同じように思ったのか、隣の席に座っていた機関の麗人も、新たなケーキの層を切り分けていく。

「でさ、私現場にいなかったから知らないんだけど―――討魔局の連中って、本当に太刀と銃だけで応戦してたのね?本当に、そういう物理的な得物だけ?」

「私にはそう見えました。‥どうやら彼らの武器はそれだけではないようですね」

 宴の夜から既に24時間以上経っている。だとしても、ここまで安易に、しかも彼らの姿が視認できる距離で彼らの惨めな姿について言及しているなど、誇りばかりが高い彼らからしたら激高ものだろう。

「—――陰陽方の話ですね。私は席を離れた方がいいでしょうか?」

「いいえ、ヨマイも聞いて行って。多分、ここのみんなに関係するから。討魔局には二種類いるの。ひとつがロタ達を襲った連中、今なんて呼ばれてるか知らないけど武家方って呼ばれてる連中。だから、もう片方が陰陽方—――」

 カタリの言葉に自分達ばかりではない、店内の他の客達すら呼吸を忘れる。

「いいのですか?ここで」

「ここにどれだけの戦力が揃ってるって思ってるの?その気になれば、リヒトの真似事だって出来るから。じゃあ、このまま続けるけど、陰陽方って言われてる連中は、基本的には銃とかは使わない―――使う必要がないから」

「必要?カタリが今言ったような、そんな悠長な事はしないというですか?」

「そんな感じ。でも納得、武家方の連中しか入ってないからこんな簡単に秘境に入れたのね。もし陰陽方がいるなら、」

「ええ、絶対に機関が許さなかった」

 この二人がこれ程までに気に掛けるとは、どうやら槍の振り甲斐がありそうな相手という事らしい。けれど、そんな感情が顔に出ていたのか、ヨマイさんが「ロタさん、穏便に」と窘めてくる。

「そんなに強い人間達なのですか?首から上を切り落としても、動いてしまう?」

「あり得る」

 これではリヒトの事をとやかく言えそうにない。また顔に出てしまった。

「ロタ、これは決して冗談ではない」

「大丈夫、わかっています。それでどんな方々ですか?神の血を引いた半神?ドラウグルの系譜?それとも巨人との」

「彼らは鬼を使う。どちらかと言えば、神を使役する人間という意味。迷宮にいたゾンビ達の司祭と重なる部分があるかもしれないけど、彼らと違って官職―――陰陽師って呼ばれていた人間達は、本来は力の行使者ではなく占い、地相を調べる」

「あ、地相とはー、単純に言ってしまえば、その土地の良し悪し。風の吹く方向に日が昇る角度に時間、そういった割と科学的な理由を使いこなして街や要人の家の設計する時に使いまーす」

「ん?では、どちらかと言えば技術者なのでは?」

「もっちろーん、そういった側面があります。むしろ五行思想に関わる天文学、暦学、時計、測量、学問を使いこなして朝廷運営に従事するのが彼らの役割です。それに一番最初はこういった本来の役割を果たす為、先進国の学者を陰陽師と位置づけていました」

 彼女らの話を聴いていても、やはり得心がいかない。そんな技術者達、どちらかといえば工房や拠点に籠る彼らを何故恐れるのだろうか?

「けれど、平安時代に入って陰陽師の求められる価値が大きく変わった―――ある事件を切っ掛けに当時の為政者が怨霊に怯え狂い、怨霊を恐れた為政者が首都を変えた事で、朝廷全体も怨霊の影を払う事を望んでしまった。そこから始まったのが陰陽師による怨霊退治に御霊信仰」

「急に非科学的に感じたでしょう?だけど、学問と宗教って元々かなり近い場所にいるの。元々、あらゆる学問を修めて行使してきた陰陽師に、古神道とかタオ的な学問って言うより、私みたいな錬金術師に近い知識が求められたのも不思議じゃない訳」

「‥‥えっと、タオって?」

「不老不死にする薬を造るとかそういうの。難しく考えないで、単純に勉強できる人間に一番偉い人があれこれ求めて、その中に重要な怨霊退治とか悪霊退散とか当たってだけ。だから、陰陽師には沢山の権力、立場が与えられたの」

 どの世界でも、為政者にとって有益な力を持つ者が重宝されるのは変わらないようだ。あのような小人どもが神と巨人に求められる程だったのだから。

「時の支配者に求められる人材が、ただの鴉の訳がありません。こちらの世界の過去はゲームでしか知りませんが、どうやら怨霊とやらは実在したようですね」

「それを確かめる術はないけど、彼らの実力は本物と思っていい。時の支配者たる人物が、自分の力ではどうする事も出来なくなったから求められた陰陽師は、それまでのただの官職とは一線を画す―――悪霊を払うとは亡者を斬り捨てるにも等しい行い、であるならば命を退散、奪う呪法を得てもおかしくない」

「それはそれは―――試してあげましょうか?」

「この世界から追放ーとかそーいー感じではありませーん。さっき話した通り、彼らは土地の地相を調べるのもお役目です―――つまり、土地の支配者、長らくその土地を恐怖に落としていた祟り神すら屈服させられる力を持った、侵略者です」

「楽しめそうですね‥」

 ヨマイさんが何故そうなるのかと、問うように肩を揺らしてくる。

「彼らの中で一番有名な陰陽師は、札一枚でカエルを潰したと言われている。それに宿っていたのが鬼の力、鬼神と呼ばれる見えざる力。言葉通り、神の力を自由に行使、命令できる。悪魔使いたるあの人にも匹敵する存在だと思って」

「これでわかった?陰陽方って、人間なのに人間以上の力を使いこなせる。自分はなんの消耗もしないでゴーレムにも近い力を使い続けられる。当時の世界のあらゆる技術とか呪術を使って編んだ力は、既にこの世界で『自然現象』として認知されてる。—――もし正面から殺し合うなら気を付けて、迷わないで力を使って」

「私は、嵐だって両断した事があります。楽しみたいですね」

 思わずここで槍を抜いてしまいそうになった時、いつの間にか注文されていた使いのケースが運び込まれてくる。これはいけない、そう自分に言い聞かせてフォークを手に取った。

「ちなみに言っておくけど、陰陽師は相手を呪う事も仕事のひとつだから」

「それは素晴らしい―――先ほどから私達を眺めていたアレは、そういう事だったなんて」

 こちらの視線に気付いたらしい窓の外にいる『角を持つ影』が、身震いをするようにこちらを眺める。あれは何処からか捕えて使役した鬼なのかと話の途中で考えていたが、たった今の反応で察してしまう――――あれはただの眼、操り人形だった。

「はぁ‥なんでわざわざ言っちゃう訳?せっかく捕まえて吐かせようって」

「えー?でもーせっかくだしー鬼と呼ばれる力を感じてみたくなったので、つい」

「確かに、そろそろ悠長に待ち続けるのも疲れて来た頃。アレがただの式神であるのなら、手加減はいらなそう。行って、マーナ」

 ビルの屋上からこちらを眺めていた鬼が、自分を見つめるマヤカさんに訝しむ視線を送り続ける。けれど、背後から足音を殺して襲い掛かったマーナに屋上から諸共に落とされる。

「どれだけあの鬼が人外じみた力を得ていようが、彼の水晶を心臓に、畏怖の眼を取り込んだマーナには敵わない。身体ばかり強力でも、中身が人であるのなら尚更」

 食い千切られた腕を受けた―――私達の捕獲班でもあったらしい討魔局の人間は、身体をくの字に曲げる。そのままただの余波で倒れ伏していく彼らは―――それをただの日常として眺めている学生に助けを乞うが、どこ吹く風と学生は過ごしていく。

「あの力は陰陽方?」

「違うみたいね。武家方も、力の一端を使ってるみたいだけど、本物はもっと強いから覚悟して」

「リヒトより?」

「リヒトの事知らない訳?あんな力を、私のリヒトに―――」






「‥‥ああ、またか」

 目を開けた時、最初に飛び込んできたのは純白の天井だった。見慣れた模様に見慣れた日焼け跡、そして痛み止めが吊るされたスタンドが視界の隅に収まっていた。

「—――誰もいない」

 短い言葉を口にしただけで、深呼吸をしてしまう。口を塞ぐ人工呼吸器を頼りに意識を手放さないように頭を動かすが、枕に根を生やした頭はまるでいう事を聞いてくれない。首が痺れている。その上酸素が足りていない脳と身体は指すら動かせない

「‥誰が運んでくれたんだろう‥ロタか?」

 枕元のナースコールを押そうにも、肩が動くだけの回路の切れた身体では、なんの役にも立たなかった。それだけならまだしも、暖かみも寒気も感じない。

「‥‥マズイ、死にかけてる。毒だ」

 自分の身体を水晶にし、全ての毒を無理に押し流そうとした時だった。扉の叩かれる音に脳髄が痺れる。咄嗟に声を出そうとしたが、喉を締め上げる事すら出来ない。

「あの‥起きてる?」

「‥ど、うぞ」

「じゃあ、失礼します」

 このタイミングで聞くとは思わなかった声に、僅かに喉が張れた。扉の車輪を動かして入って来たのは、肩を抑えつけて座らせたアマネさんだった。

「えっと、お陰はどう?」

 紙袋を手に、無理に造り笑いをして問い掛けてくれるアマネさんへ、笑顔ひとつ返せなかった。表情筋すら動かせない自分は、きっと不気味であろう。

「‥ごめんなさい。元気なんて言える訳ないのにね」

 純白の病室の中、どこか百合を思わせる整った顔立ちとすらりとした腰が印象的な少女が、音も立てずに椅子に座る。その身には丸椅子などではなく、重厚でありながらシンプルな安楽椅子が似合うと思った。

「今日は、あなたにお礼を言おうと思って。迷惑だった?」

 問い掛けに目元だけを振って否定する。

「ふふ、ありがとう。いつも優しいのね――――良かった、生きていてくれて。あのね、あなたのお蔭でこの通り無事です。椅子に座らせてくれたお蔭で、私は撃たれませんでした」

 立ち上がって、くるりと回転した姿に育ちの良さを感じた。身体の芯を外さない回転に、舞の片鱗を感じる。スカートが元に戻る瞬間、抑え込んで微笑む彼女に日が差し込む。

「あの、このお見舞いは‥私は迷惑だと思ったのだけれど、その‥友達が行くべきだって。あ、そうだ!しっかりお見舞いの品も持って来たの」

 何かを隠すように手を叩いて、おもむろに取り出したのは鉢植えだった。

「‥ごめんなさい、きっといい気分ではないかもしれない。だけど、私に出来るのはこれだけ‥」

 枕元のサイドテーブルに、淡々と設置してくれるアマネさんの顔は晴れなかった。

「あとね、これだけじゃなくてね」

 鉢植えに水を差し終わった後、再度椅子に座りながら手渡してくれたのはお守りのようだった。ようだったのは、痺れた手の感触でしか判断できなかったからだ。

「無理にとは言えないんだけど、出来れば受け取って欲しくて。わがままになってしまうのだけど、ここから退院するまではずっと持っていて下さい」

 渡されたお守りを握りしめるように、拳を作られてしまい返すに返せなくなってしまった。思いの外強引な自然学の才女に、呆れた視線を送ってみると、「悪い人。淑女からの贈り物よ。紳士として、謹んで受け取って下さい、何より私からあなたへの品なのに‥」と、不服そうにしながら拳を布団で被せてしまう。

「少しだけ私のお話を聴いてくれる?眠ってしまってもいいから」

 不思議な感覚だった。カタリ達とは違う筈なのに、アマネさんはこちらの頭を読み取り、心を見通すように言葉を掛けてくれる。それに、この優し気な声が耳に心地よかった。

「あなた達が討魔局の彼らを組み伏せた後、私達は学院長から説明を受けました。彼らの目的は、あなた―――ではないと。あなたという機関の所属たる有能な魔に連なる者を逮捕して、この秘境のパワーバランスを挫く事だと」

 どうやら学院長は、あの強行手段を想像していたようだ。そして真の目的を知っているからこそ、疑いの眼を機関ではなく討魔局に向けさせた。討魔局の目的のひとつに、副産物として秘境への侵略もあったのだろうが、それは所詮二次的な獲物。

 本来の目的は、『学究の徒』たる何者かと、『学究の徒』が得ようとしている知識。知識とはこの秘境で造り出された、門外不出の秘匿せざるを得ない禁術。

「あ、の‥」

「喋ってはダメ‥。あの場に居た人達は、納得したようだったけど―――私は違うと思う。彼らの目的は、最初から最後まであなた。私は、そう確信しています」

 植木鉢から香る花の所為だろうか、意識が沈んでいく。

 命の水たる創生の彼岸の海に、またも戻ってしまいそうになっている。あらゆる生命の始原であるあの海と、生命から生物に進化する為の過程、砂浜からその身体を晒す―――それを逆行していく。

「きっと彼らは、自分達が欲しい知識、啓蒙を授けてくれると思ったからあなたを求めた。そして―――彼らはあなたのような人外を、特別嫌っている。あなたを足掛かりに、私達人外、半人、半獣をオーダーから排除しようとしている」

 けれど自分は、全てに置いて異端であった。自分は実から生まれたのではない。

 リヒトが血を流した結果、残った殻に収まったのがこの自分だ。そんな自分が、形をようやく持ち始めた生物、世界を食い荒らした。知恵を奪って自分の内に留めた。

 世界を喰らった竜に、一体どれほどの情けが必要であるだろうか。

「それが悪い事、情け容赦のない酷い行いだと―――私には言えない。私のご先祖様は、大きな鬼に大きな蜘蛛、そして大きな竜を打ち倒した。彼らは皆、この国と連続して続く事象、過去、現在、未来—――そして天体間観測災害を押し留めた。‥私達のような災厄の子達の首を刎ねなければ、そこでこの世界は海に沈んでいた」

「‥‥ま、さか‥」

「だから、喋ってはダメ。怒ってしまうから」

 唇を指で撫でてくる彼女は、自分で始めておきながら顔を染めていく。

「‥‥自分から血の繋がらない男の人に触れたの、初めてかも―――ふふ」

 首元まで布団を掛けてくれるもうひとりの災厄の子が、これで終わりだと告げるように立ち上がってしまう。大きな黒い瞳には、何も変わらない余裕と自然体な色が灯っている。

「あなたのマスターにも伝わっていると思うけど、あなたには私が直接知らせて貰いますね。宴はまだ続きます、邪魔されたと思う?いいえ、あれは予定のひとつ―――学院長のお考えはわからないけど、こういったトラブルは付き物だから」

 そこで電気を消したアマネさんは、挨拶もしないで去って行こうとする。だから、叱られるのを覚悟で、声とも言えない響きを聞かせる。

「あ、だからダメだって。やっぱりあなたはわがまま言うのね」

 呆れながらも―――期待通りの言葉に笑顔になって戻って来てくれるアマネさんが、再度椅子に座ってくれた。




「投降しろ!!我らはオーダー省の名の元、秘境の秩序を保たねばならない!!」

「さて?それと私に向けられている太刀と、どう関係が?」

 私の扱いは、一応はこの街の学生と成っている。勿論、同時に機関の所属、そしてオーダーの外部監査科という特殊な席に付かされているらしい。詳しく知らない。

「既に一度我らに矛を向けた犯罪者に、情状酌量の余地などない!!諦めて我らに下れ!!」

「我々我々と、成長しない人間達。既に私でさえ収束から離れているというのに。それでは下賜系統に異常が発生した時、自分の使命を忘れて書き換えられてしまう」

 路地裏を通っている時だった。

 見計らっていたように検問を敷く彼らの視線を嫌い、歩き慣れた大通りから自分の縄張り外の道を通過している私に、両端の道を塞ぐように車両で壁を作られる。

「‥‥そのやり方はおすすめしません。もし、足元に地雷が在ったら横転して爆発、自他共に巻き込んでリスポーンしてしまい、折角のゲージを失ってしまうのに‥」

 なんの話だ?と言わんばかりに睨みつけてくる彼らは、どうやら現代の流行りを知らなかったようだ。それだけならまだしも、狭い道の挟み撃ちの状況で長物を引き抜くなど―――どうにも彼らは時代錯誤、見識の更新が出来ていないように感じる。

「もし私の言の葉を反映出来るのなら、あなた達の言葉の献上を許可するので伝達しなさい。あなた達の国は、どのような場なのですか?この摩天楼は初めて?」

「—――侮辱する気か!!」

 何故だろうか。年若い、戦士の雰囲気をようやく纏い始めた青年がこちらに駆けてくる。壁に太刀の先端と柄で火花を散らしながら、大きく振りかぶってくる。

「待て!!」

「頭から血のひとつでも流させれば黙るだろうが!!」

「違う!!そいつは―――」

 仕方ない。自分にそう言い聞かせて、袖口に仕込んでいた杯を取り出す。それは掲げるまでもなく自分の指と繋がり―――本来は尊き方にお注ぎする至高にして神性な酒を、器の中に造り出す。けれど、ただの人間にはまるで分不相応だった。よって、

「あなたには、ただの水でいいですね?」

 猛り狂う竜の如く、怒り狂ったリヒトが呼び出す水晶の洪水にも匹敵する鉄砲水を呼び出す。手に持つ器から呼び出されたとは到底理解出来ない―――『下界たるこの世界のルール』、質量が許さない数トンにも及ぶ水が、眼前の人間と呼ばれる汚泥を流し去って行く。同じく数トンに及ぶ車両共々、消え去ったのを笑んでいると、

「さぁ、あなた達も」

 振り返って、背中を見せていた人間達にも杯を差し向ける。何者許さない自然界の怒りにして、神の試練が愚かに逃げ惑う人間達を呑み込んでいく。

 この世界には神の裁定と呼ばれる大洪水が起こっていたらしい。それが実際に起ったのか、それともこれから起こるのか、蛇が薬を喰らったのか知らないが、そういう見解があるらしい。

「これはリヒトに上げる為に覚えたのに。勿体ない‥ふふ、勿体ないなんて。私、いつからこんな思考を持ったのでしょう。求めれば求めるほど、捧げられてきた―――捧げてきたのに、遅いですよ」

 独り言の途中で頭上から降ってきた槍の一撃を、半歩、頭ひとつ分だけ避ける。これで私の胸か腹でも仕留めたかったのだろうが、鼻息が荒かった所為で不愉快だった。

「人を刺すのは初めて?」

 問い掛けの返答など求めず、降ってきた人間に合わせてつま先で腹を蹴り上げる。

 思いの外高く上がった少年に、返答がない頭蓋にわずかながら気分を害する。

「私が呼びかけたというのに―――なんて不敬」

 杯から翼に持ち替え槍を造り上げる。間髪入れずに石突きで強く地面を突き、下界と別れを告げながら追随する――――いまだ意識を失っていない少年の眼へ拳を突き入れ、槍使いの格の違いを知らせる為に壁を蹴りつける。

「いつまで耐えられる?」

 背後に回った時、眼前に迫る壁に足を向け身を屈める。仮初ながらも自分の身を封じている身体は、自分の思うように動いてくれた。筋肉と内臓に血を通し、瞬間的な反発力を得ると薙ぎ払う為に構えた槍の柄を少年の背骨に叩きつける。

「私に連れ去られる光栄を、感謝しながら噛みしめて」

 背骨、腹、後頭部、顎—――そして腹を胸に押し込むように槍で撃ち上げる。

 ビルとビルの間を越え、空が近くなった時にトドメと薙ぎ払う。手すりに干されるように叩き落とした少年の意識の無さ加減に、溜息を吐いてしまった。

「リヒトならこんな脆くはないのに。何故、人間とはこうも愚かなのでしょう」

 人の垢が付いてしまったようで気分転換に槍をひとつ回す。手の内で踊る慣れた重量を思い出し、また笑ってしまった。そうだ、首を落とした時は常にこうだった。

「私—――やっぱり血を求めていたのね。穏やかにリヒトと愛し合うのも楽しいですが、激しくリヒトと愛し合うのも、このロタには必要。そして私のリヒトに、このロタの愛を捧げたかった。ふふ、一体何を迷っていたの?」

 彼だって求めていたではないか。このロタの命令を、このロタから受け取れる愛の証を。愛し合うという現象を理解し切れていない彼を、正しく導くのも彼を選んだ戦乙女を役目—――やはり捨てる必要などなかった。

「気は晴れたか?」

「ええ、迷いは晴れました。このロタは、使命を捨てるなど出来ません。忘れる必要なんてなかった、だけど嘆く必要もなかった。あなたの思い通りにはなりません」

「‥‥弱った。リヒトにもそういった手前、否定できないじゃないか」

「私、もうあなたの翼に隠れたりしません。このロタは羽ばたく運命を選びました。けれど―――この街での時間は得難い物でもあります。もうしばらく、あなたの翼を傘としましょう」

 眼下に広がる街を見れば、そこにはそれぞれの追手を振り払い、もしくは撃破した者達がこちらを見つめていた。焦げた衣のひとりから太刀を奪っている者、狼に衣のひとりの足を咥えさせて、じゃれさせている者。

 銀の腕から雷光を迸らせて、銀の剣を腕に戻す者。

「‥‥彼女らは、やはり」

「ああ、私達と並び立つ、並んでしまった人外達‥」

 手すりに背を預けている最上位天使が、視線も向けずに知らせてくれる。ただの人間から旧神の寵愛を受けた事で神の系譜に参列した者。尊き者の血を引き継ぎ、侵略者の力を守護者の力に変換した者。神獣の身体を解析し己が血肉と受け入れた者。

「だけど、まだヨマイさんはただの人間では?」

「これからリヒトと愛し合うんだ、ただの人間でいられるのは今この瞬間だけだよ」

「—――ふふ」

「向こうでだって、妻を多く娶っている者はいた。穏便に」

 この顔の意味をはき違えているようだ。

 この顔は、新たな獲物—――落とすべき者を見つけた神の娘としての誇りだった。




「私の声は聞こえているか?」

「‥‥はい」

「ああ、起き上がってはいけない。そのままで」

 腕を突いて上体だけでも、と思ったがマスターに胸を押されて横に戻される。既に窓の外は夜となっていた。これは主観の問題であろうが、自分の見えている現実と実際に自分を取り巻いている真実は恐らく何処までも違う。

「よしよし、いい子だ。マスターに素直なリヒトはいい男の子だぞ」

「‥‥いつになったら男の子から卒業出来ますか?」

「ん?少なくとも、目が覚めた途端に私に手間を掛けさせないでくれたら、だな」

 きっとそれはずっとずっと彼方の未来なのだろう。少なくとも目が覚めた時、マスターの顔を視認した途端に安堵してしまう自分は、まだまだ男の子でいられる。

「それで、この鉢植えと握り続けている御守り、それは誰からの見舞いの品かな?」

「‥‥覚えてません」

「—―――そうか。では、それで良しとしよう」

 あれが夢でなかったのは間違いない。このふたつの品が、あの逢瀬は幻ではないと告げていた。アマネさんの言った災厄の子と天体間観測災害とやらの話を、どれだけ信じられるだろうか―――どちらにしても、誰もいない時間に訪れた彼女は、誰にも聞かせたくない話をしたと判断する。

「けれど、その人物はあまり見舞いには慣れていなかったようだね。御守りと鉢植えを入院患者に贈るとは、この部屋に根を張らせる、入院期間が長くなるという俗説知らなかったと見える。それとも、気にしない人物だったのだろうか?」

 鉢植えにコップで水を注いだマスターが、御守りを取り上げて見つめ始める。あまりそれぞれ社殿で祀っている神々、御神体の力を知らない自分ではその行動の意味がわからなかった。

「‥‥なるほど国造りならぬ、星造り―――いや、それとも君だけに通じる身代わりだろうか?この植木鉢も、なかなかの一品だ。数秒ごとに成長、傷を癒す樹木を君の身体に見立てている――――気の長い事だが、ここまで確実で堅実な術式を編んでいるとは。どうやら矛盾した愛を捧げられているようだね」

「‥‥身体の回復を促進する術でもありながら、長く入院して欲しがっている」

「さて、相手は誰だか思い出したか?」

「‥‥言えません」

 叱られる覚悟で口にした時、僅かに笑う声が聞こえた。

「少しだけ大人になったと褒めてあげよう。この身体の君が相手を思いやれるなんて、なかなか出来る事じゃない。相手との約束、自分の誓いを全うするのはとても苦しいのだから‥」

 少しだけ苦しそうに微笑んだマスターが、頬に手を差し伸べて柔らかな口付けをしてくれる。乾いていた自分の唇が、マスターの唾液を吸い取り柔らかくて瑞々しい物に変わる。

「大人のは‥?」

「病人には刺激が強過ぎるから却下する。けれど‥思ったよりも早く退院できそうだね。顔色も良いし、意識もハッキリしてる。—――それに性欲もあるようだし」

「‥‥マスターが欲しいだけです。これは愛です」

「そう言ってくれると嬉しいよ。だけど、愛だけでは物足りないのが私だ。どうか若さゆえの激情を溜めておいてくれ―――退院した暁に、必ず空っぽにしてあげよう」

 いつまでも自分を、手のひらで弄ぶマスターに顔を背ける。その瞬間、安心したように笑いかけて謝ってくるマスターに不服だと表情で伝えると、再度口付けをしてくれた。

「これで満足したかい?」

「‥‥ひとまずは」

「では、これを送った相手を」

「教えません!」

「くくく‥では推理しよう。彼女、アマネ君ではないか?」

 知っていたのに自分の口から言わせようとは、マスターの悪い癖だった。更に不機嫌になった自分は出迎えるように両手を伸ばす。そこに飽きながらも応えてくれたマスターが、しばしの抱擁を許してくれる。

「私の胸の感触を確かめるのは結構だが、君はまだまだ毒が抜けきっていないんだ。あまり神経を使ったら後々苦しくなるぞ」

「‥迷惑ですか‥?」

「よし、しばらくこうしていなさい。好きなだけ私の身体、特に君好みの胸を好きに抱き締めなさい。そして今晩は君と一緒に眠ってあげよう、電子機器やここの看護師に甘える時間など与えない。このマスターを君の寝床としなさい」

 まくし立てるように、何もかも許してくれるマスターがベットに入り込んできた。温かな体温と何処まで沈む肉感的なマスターを抱き締めて、深呼吸を始めると頭を強く受け入れてくれた。

「機嫌は直ったか?」

「‥いつ気付いたんですか?」

「君に見舞いに来てくれる相手は、かなり限られる。そして我らが外部監査科のメンバーは全員出払っている―――ならば、相手は色彩学か自然学の学生達。だが、色彩学の彼であればこのような回りくどい行いはしない。単純に食べ物を差し入れる。つまりは、暫定的に見て自然学のご令嬢という訳だよ」

 初歩的な推理だよと言いたげに、胸を膨らませるマスターの肺を抱き締めて潰す。

 けれど、この態度が更にマスターを興奮させたのか、逃がさない檻や罠となった戦乙女の麗人が、足を絡ませて膝で股を突き上げてくる。

「ここで始める気か?そんな淫行をすればエイルから出禁にされてしまうじゃないか。挟むのも吸うのも、退院してからさ」

 どのような者であろうとも、自分の性癖や好みを暴露されるに敵う恥はないと断言できる。自分ばかり顔を赤く染めていく状況下で、マスターはただ淡々と言葉を続ける。

「君はあまり詳しくないかもしれないが、彼女は自然学の中でもひと際異才を放つ—―――いいや、これは彼女自身から聞きなさい。同じ轍は踏まないと決めた」

「‥ありがとうございます」

「ふふ、やはり君は優しいな。彼女がここに訪れたのなら、宴の話は聞いているな?」

 その問いかけに胸の中で頷くと、頭をひと撫でしてくれた。

「確か、宴はまだ続くと。何故ですか?もう顔見せも終わったのに」

「終わったからだよ。‥‥実を言うと、宴は数日続くのは習慣であり習わしだ。あの夜にいい関係を造り上げられた組織達が、それぞれの自分達の実力を見せつけて、更なる己が研究の発展を望む。場合によっては、己が実力を見せつけられる、今後を楽しみにしている者達だっている筈だ」

 どうやらいくら魔に連なる者達であろうと、自分の力を誇示したい―――もしくは技術を奪う、賭け事をしたいという闘争本能からは逃れられないようだ。

 更に言えば、己が立ち位置を見せつけたいという承認欲求に囚われている。

「俺達も、それに参加するんですか?」

「言ってしまえば、これは自由参加だ。参加するもしないも勝手だが、私達は招待状を受け取ってしまった。理由もなく断るのは、無礼に当たる」

「無礼の権化みたいな人間達の膳なんて、ぶちまけてしまっては?」

「ははは‥それも選択のひとつだが、どうかここは仕事と割り切って欲しい。それに君の祖父君から連絡を受けているんだ、古い友人の顔を立ててくれと」

 まるで保護者のような面をしているが、その実直接的とは言わないがあの爺様も、逃げ出す理由を造り上げた本人のひとりでもある。しかも、参加の理由が友人の顔を立てろとは――――今すぐあの家を灰にしてくれようか。

「そう怖い顔をしないでくれ」

「だけど、マスター‥。俺はマスターと抱き合っていられれば、それでいいのに‥」

「ドレス姿の私は嫌いではないのだろう?どうか、私に力を貸してくれ」

 ずるいヒトだった。呟くように懇願する何者をも虜にする美貌を持った大人の女性は、先ほどよりも優しくしてくれるが、同時に肯定するまで逃がしてくれなかった。

「‥エイルさんが許してくれたら」

「うーん、君も知恵を付けてしまったか。どうにかエイルを納得させられる理由を造っておかないと――――もし君の主治医が許可したら頷いてくれるか?」

「はい、マスターが望んでくれるなら」

 乾いた笑いをしながらも、受け入れてくれるマスターが「仕方ない」と起き上がって部屋を出ようとする。

「マスター?」

「エイルと話してくるよ。仕事もだが、君の体調についても話し合っておきたいのでね。後でまた来るから、静かにベットを温めていなさい。‥期待しているよ」

 背中から横顔を見せて出ていったマスターの最後の言葉を心臓で抑えながら、布団を被るにした。けれど、どう身構えようと何もかもを受け止めてくれるマスターが、普段の笑顔で受け入れてくれたら、何もかもを失ってしまうのが常であった。




「リヒト、私の話を聴いて貰えますか?」

「うん、勿論。何を話してくれる?」

 ロタがひとりで見舞いに来てくれた日、ロタは自分の様子を見に来ると同時に自分の疑問を知らせに来てくれた。どこか会った時の無表情にも似た姿、ロタ特有の突拍子の無さに驚いていた。

「リヒトは、誰からか教えを施される、師事するという扱いが不満になった事はありませんか?」

「‥俺個人の意見として言うなら、教師と教え子の関係に不満を持つのは常だった。正直言うと、先生って存在はそうでもないなって思う時はよくあった」

 納得した表情となったロタは、続きを促すように視線を向けてくる。

「なんでかって言うと、この街は自分にとって都合がいい学問を修めるのが目的なんだ。学問を求める理由は、自分の研究テーマを達成する為には誰よりも強欲に貪欲にならないといけない」

「リヒトの食欲を満足させられる人物はいなかったのですね」

「そう言えると思う。だけど、多分それは当然だった。星を撃ち落とすなんていう研究テーマ、誰も類似した勉強をしてこなかっただろうし、思いつきもしなかった―――だから、自分の畑違いの学問を求める俺は、向こうにとっても邪魔だった」

 この秘境には多くの学科、多くの学部、研究室がある。学生達はその中から自分にとって最も都合がいい学び舎を求める自由がある。だが、自由という事は自分で道を探究しなくてはならない。手探りなのは百も承知だった、期待などした方が悪い。

「では、リヒトにとってこの秘境は無意味なのでは?」

「少し前まではそう言えたと思う。カタリと入学した時は、期待して望みを掛けてけど‥‥見ての通りだ。誰もが自分の研究以外考えてなかった」

「‥復讐、果たさなくて良かったんですか?」

「—――これは秘密で。全員、焼いた」

 吹き出すように笑って口元を抑える仕草に目を奪われる。大人と自負しているロタは、顔ばかりはまだまだ幼く見える。けれど、その仕草には―――ふとした瞬間に、マスターやマヤカが見せる純粋な表情に映って見える。

「可愛い‥」

「当然ですよ、私はとても誇り高く美しいのですから。可愛いという表情も持ち合わせています。ふふ、それで焼いたとは?」

「アイツらの部屋とか研究室、後工房をしらみつぶしに焼いて、本人達もしばらく――まぁ、察して。今頃路頭に迷ってるか、実家に帰ってるんじゃないか?」

 自分もつい笑ってしまう。ロタにも気付かれていないという事は、マスターとマヤカ、カタリにも勘付かれていない。ヨマイと街を歩き回った甲斐があった。

「話を戻そうか。確かに、俺にとってこの秘境はあまり意味のない物だったかもしれない。実際、俺以上の質量を操れる魔に連なる者、全く理解できない力の持ち主は、いなかったんだから」

「‥そうですか。それは私に会っても変わらない?」

「いや、大きく変わった。ロタと一緒に過ごせる時間があるんだ、すごく楽しいし有意義になったよ。一緒に槍を振るのも楽しいし、料理も美味しい」

 満足したように微笑んでくれたロタが、振り返ってカーテンを開いてくれる。

「ロタはどうだ?先生って存在は」

「私達の世界にも、賢者はいました。教え導くに相応しい義理堅い方も神の娘を娶りたいという身の程知らずまで。けれど―――何故でしょうね、私は彼らの話を馬鹿馬鹿しく感じていました」

 振り返ったロタは、やはり遠い目をしていた。きっとロタが言った身の程知らずとは全てを知ると謳われたドワーフの事なのだろう。雷神、農耕神、そして戦神と呼ばれた神が不在中、娘に結婚を申し込んだが、戦神がそれを拒んだ。

 —―――そして戦神は、あらゆる問答をドワーフに繰り出したが、たちまち答えを返され続け、頷く他なくなった時だった。光を浴びたドワーフは石となる。

「確かに力と知識は同等、いえ知は力でもありました。戦神を苦心させ娘を差し出す以外の選択を取れなくなってしまう程に。けれど、彼らは誰も彼も勝者には成りませんでした―――我らが父でさえ力には勝てなかったのだから」

「‥‥ロタは、先生が―――マスターが嫌いか?」

「ええ、嫌いです」

 迷わず、頭ひとつ振らずに肯定したロタは、申し訳なさそうに笑った。

「私、」

「いいんだ。マスターは、我がままで本当の事を言わない。それどころかヒトを利用する事に躊躇いがない。‥‥そんな事をするから、あんなに悲しそうなんだ」

「‥ふふ、気付かれてしまったのですね」

 飛び込むように膝の上に乗るロタが、髪で首をくすぐってくる。ロタの温かな体温を求めて、長い間無言で抱き合い続ける。聞こえるのはお互いの呼吸音だけとなった時、沈黙に耐えられなくなったお互いが笑いあってしまう。

「私、きっとあの方の被害者のような振舞いが許せなかったんだと思います。いっその事、冷たく私を拒絶、同じ環境になっている我らが同型機にも力で排除してくれれば―――槍を振り下ろすのに、なんの躊躇いもしなかったのに」

「‥そうだな。俺も、マスターがもっと冷酷なら首を切り落とすのに感情なんか要らなかったと思う。だけど、もう出来そうにない。あのヒトは優しくて‥」

「好きになってしまった?」

「‥単純だ。しばらく食事と眠りの世話をして貰っただけで‥」

 昨晩のマスターとの時間は楽しかった。

 眠くなるまで会話を続けて、時たまマスターが繰り出してくる悪戯に身を震わせていると、意地悪な表情で抱いて宥めてくれる。

 そして気が付いた時には自分は眠っていた。起きた時には、口で知らせてくれた。

「朝はあの方と起きたのでしたね。あの方の胸から起床するのはいかがでしたか?」

「‥‥ちょっとだけ、世話をして貰った」

 そう告げた瞬間、ロタが頬を突いたり引っ張たりしてくる。何故だ?と問いかける時間も隙も与えぬ連続の攻撃に、成すがままになるしかなかった。

「お世話、朝のお世話ですか。それはそれは楽しかったでしょうね。昨晩も受け入れてもらい、朝の時間にも飲み込んで貰うなど―――リヒトは甘えん坊なのですね」

「‥‥注射器が苦手なのは、この世界なら万人共通だ。マスターが抱きしめてくれたから、エイルさんも落ち着いて打てたんだ。‥情けない、かな?」

「リヒトらしい‥ふふ、ごめんなさい」

 つい先ほどまで自分で引っ張って、赤く染めていた頬を気遣うように撫でてくれる。やはりロタは純粋な人外であった。人間の知識や感情を引き継いでいる自分では、戦乙女の心根を察する術がなかった。

「なんか、こっちもごめん。‥‥うん、だけど俺はマスターが大好きなんだ。多分、もう嫌いになる事はないと思う。嫌いになる事が在ったら、そこにいるのはもう俺じゃないと思う」

「では、私は?もしリヒトを激しく嫌いに―――大好きですから。私もあなたが大好きで、嫌いになる事なんてあり得ませんから。‥もう手間をかかせないで」

「だけどロタが‥」

「泣き止んで、お願いだから‥」

 もしもの話に意味はない。けれど、将来的な話であれば話は変わる。もし、何かしらが起って、それこそ天変地異ならぬ天地融合とやら、もしくはそれに類する何かが起った時—――ロタから面と向かって「嫌い」と言われた時、自分は自分ではいられないだろう。悲しみで世界を喰らい、星を砕き、命の灯を呼吸の度に消すだろう。

「ロタロタ‥」

「はい、あなたのロタはここにいますよ」

「ロタが大好きだから、愛したいから‥」

「はい、あなたの大好きで愛したロタはここにいますよ。何処にも行きません、私のリヒトを置いて、何処かに去る事などあり得ませんから。だから泣き止んで‥」

 先ほどまで自分がロタを抱き締めていたというのに、今は自分の頭をロタが抱きしめてくれていた。自分の服で涙を吸い取ってくれるロタは、困っていながらも笑い続けてくれる。

「困りました。どうすれば私のリヒトは泣き止んでくれますか?」

「‥‥今日は、今日は一緒にいてくれれば」

「ふふ、私の一日を独占したいと?自分の為に私を占領したいと?」

「もういじめないで‥ロタ‥」

 大きな溜息が聞こえた時、「はい」という小さな声が聞こえた。僅かな祈りが通じたと、わかった瞬間—――再度ロタに泣きついてしまう。

「困ってしまいます。このロタはあなたの物だというのに―――どうするべきですか?」

「しばらくそうさせてやって。それに、情けない泣き虫なリヒトをいじめたのはロタでしょう?先生はどう思いますか?」

「うむ、カタリ君に同意見だ。しばらくリヒトを受け入れて、私達の視線を感じていなさい。心の未熟な者を選んだんだ、彼を導くのも我らの務めだ」

「—――仕方ありません」



「はい、あーん」

「‥‥手は動くから大丈夫だよ」

「また溢して私達に手間を掛けさせる気?我がままなリヒトは悪い子です」

 有無も言わせないロタのスプーンを、諦めて口に含む。

 相変わらず塩気の無い食事だが、一周回って病院食の良し悪しがわかって来た気がする。今回の調理師、管理栄養士は魚でビタミンを取らせたがっているようで―――つまりは、カラカラに焼き尽くした風味だけがある炭の味がする。

「不味い‥」

「私も前々から不思議でした。入院、という物をすると食事で罰を与えられるのですね。はッ!もしやこれは、退院、という物をする試練!?」

「否定はしません。けれど、この味に慣れてしまったのなら由々しき事態です。多趣味なあなたの事ですから、味を求めて再入院を求めないように」

 不味いと言ったのが気に障ったのか、それともエイル様なりの激励だったのか、軽く頬を叩いてから出て行ってしまった。訝しみながら頬を擦っていると、カタリが大きく溜息を吐いた。

「そんなに年上が好きな訳?それとも胸?—――色々と言いたい事はあるけど、まぁ今の状態だから許してあげる。後で薬を飲んで貰うから覚悟しといて。で、さっきの話は分かった?」

「寝起きだったから‥それに薬も効いてたから‥」

「はい、じゃあもう一度説明してあげるから」

 この身体の事を知り尽くしているカタリは、呆れる様子も面倒くさがる様子もなく前髪を整えながら説明を再開してくれる。

「私達に接触してきた討魔局の人間は、全員武家方の一派だった。なんで私達を狙ったかは、考えるまでもない。リヒトの身体について詳しいのは私達だから」

「‥なんで、それをアイツらが知ってるんだと思う?」

「さぁ?それを気にするのは後でいいんじゃない?私達が考えた所で、アイツらを締め上げればそれで済む訳だし。‥‥もし想像するとしたら、」

 呟きながらマスターを眺めてカタリは、許可を取るかのようだった。

「構わない、言ってくれ」

「‥‥討魔局は、現在オーダーの管理下、一部署になり下がってるって事は知ってる?」

「検非違使としてだったな‥」

「そう。‥‥今のオーダー省大臣知ってる?そいつの生家が討魔局」

 毒に絆されている頭を抱えるには十分だった。オーダー省大臣とは、ただの一国の大臣ではない、ましてや内閣の一員程度では済まされない立場を持つ。オーダーという世界の秩序の護り手たる組織の代表の一席に付き、その一言が国内のオーダーの銃口の行く末を決める。そして、国家間の同盟すら個人で左右出来る存在。

 たかが『この一国程度』の利害関係、自分の支持層というだけで機密を渡すとは。

「‥信じられない、そう言えれば良かったのに。おかしいとは思ってたんだ、あれだけ派手に動いておいて、今も自由でいられるのはバックに大臣がいたからか――――この秘境へのテロ行為も、内閣が了承済みですか?」

「一概には言えないが、その筋が濃厚だよ。現在法務科と我々の本筋たる外部監査科本部が調べ尽くしているが、回答はなしだ。彼らが完全に敗北を認め、再起不能にしてしまわなければ、返答も撤回も望めないだろうか」

 なんの話か分からないであろうロタすら、現在の異常性を悟ったのか淡々とスプーンを捧げてくれる。どうやら―――学究の徒と大臣以下は繋がりがあったようだ。

「『学究の徒』の話はなんだったんだ。もうどうでもいいのか?」

「元々、どうでも良かったんじゃない?秘匿された魔術さえ奪取出来れば」

「‥なんの為に?」

「さぁ?盗めればどうでもいいんでしょう。状況から見て、秘境の技術を求めているのは大臣とそれに繋がりがある何者か。討魔局の目的はリヒトの逮捕。こんな所みたい」

 足を組みなおしたカタリが、腿に肘を突いて心底呆れたような無表情となる。あまりの事態と言うべきか、往々にして繰り返されてきた歴史と言うべきか。自分達にとって不都合であろうと好都合であろうと、技術の奪取は愚か者の要であるらしい。

「オーダーとこの国は秘境を解体したいんですね」

「オーダーとこの国の名誉の為に言うと、それを成そうとしているのは天上人と自分を勘違いしてる税の浪費者達だよ。片手で数えられる老いた人間達を、全ての人間として置き換えてはならない」

 半笑いで知らせてくれるマスターが、思い出したように封筒を見せてくれる。深紅の便箋と銀の封蝋、そして銀の文字でつづられた封筒は並みの風格ではなかった。

「状況が状況だけでに、頭を重くさせてすまないがこちらも思い出してくれ」

「‥こんな状況で宴とやらを続けるんですか?」

「こんな状況だからこそ、向こうの出方と学究の徒達の動きを探るべきだ。仮にも討魔局の目的は学究の徒なんだ、目の前で動きを見せてしまえば、彼らだって嫌々ながら動くだろうさ」

 どうやらマスターは、この宴を囮とすべきだと言っているようだ。それがもっとも効率的であるのは間違いなさそうだった。

「‥この身体の俺に、命令しますか?」

「大丈夫、君の身体の事だ。あと二日程度で完治する。—――取り決めを討魔局とこちらで造り出した。魔狩りは使わないと。『殺人可能な毒』を日本オーダー支部の一部署、しかも大臣と懇意にしてる部隊が使ったなど、問答無用で世界中のオーダーがこの国に攻め込んでくる事態など、彼らだって避けたい筈だ」

「‥何処まで向こうを信用出来ますか?」

「少なくとも素振りを見せ次第、取り決め違反で殴り倒していいぐらいだよ」

 全く信頼に値しないながらも、信用に値する取り決めは、こちらの動きを阻害しないという事だった。けれど、あまりにも理不尽な取り決めであるのは間違いない。

「流石におかしいのでは?向こうはこちらの命を好きな時に奪えるというのに」

「それはこちらだって同じだよ。素手の状態で常人の身体を貫通しうる魔に連なる力を行使出来るのだから。向こうからすれば、砲弾を放てる銃口を誰もが持ち歩いているのと、然程も変わらない。まぁ、毒を使うなどいう卑怯者には丁度いいハンデだ」

 話は終わったと言わんばかりに、「今日はゆっくりしてなさい」と告げたマスターは、軽く頭に手を添えて額に口付けをして出て行ってしまった。あまりの手慣れた仕草に、自分達はまるで応対を出来ずに終わってしまった。

「でさ、リヒトはどうする訳?また参加するの?」

「約束したから‥それに―――そろそろ首を落としたい」

 何もかもが向こうの思惑通りに動いている。それだけでも気に食わないというのに、この身体の痛みは向こうの毒によって造り出された。カタリ達が預けてくれた身体を、愚かなの人間が穢れた手で触れた。しかも―――カタリ達を襲ったと聞いた。

「ロタとカタリ、それとマヤカとヨマイにもアイツらが接近してきたんだろう?しかも投降しろって、犯罪者って―――首、いくつ落とせる?」

「落ち着いて」

「首だけじゃ足りない。目の前で肋骨でも引きずり出してやれば‥」

「だから落ち着いてって。それにもう私達に近寄ってきた人間は返り討ちにしたから」

「だけど、まだ手勢が残ってるんだろう。ならここからでも狙い撃ちに」

 当然の常識。当たり前の反撃に、カタリとロタが首を振り始める。真っ先に向こうがこちらへ毒を使い、仕留めようとして来た。しかも、毒の責任も負わずにのうのうと安全な場所で傷を癒している。二度と歩けないように、光を感じられないようにしなければ気が収まらない。

「少なくとも、この毒の分は与えてやらないと」

「そういう子供の喧嘩みたいな話ダメって言ったでしょう?ロタもなんとか言って上げて」

「リヒト、そんな残酷な事を言ってはいけません。あなたの手を人間の血で染める気ですか?」

 ロタらしからぬ宥め方に不服だと表情で伝える。けれど大人の対応をしてくるロタは、頬に手を伸ばして微笑んだ。その顔があまりにも美しくて言葉を忘れる。

「私のリヒトは、自分の使命を忘れません」

「だけど‥」

「ダメ、殺してしまっては使命を全う出来ません。どうか‥」

 両手で手を握ってくれたロタが、祈るように見つめてくる。

「‥わかった」

 返答を見届けて満足してくれたロタは、もう一度微笑んでくれる。けれど、やはり自分は納得出来なかった。向こうばかり好きに手下を繰り出せるのに、こちらからは反撃と呼べるものの一切を行えない。端的に言えばつまらなかった。

「はぁ‥そんなに殺したいの?」

「殺したい。殺してバラバラにしたい!」

「だからダメだって。‥‥だけどそうね、リヒトばっかり撃たれるのは不満よね。じゃあ、どうすれば向こうを始末出来るのか、もっと言えば出会い頭に刺せるかを考えてもいいかも」

「それは名案です。私も、彼らが手を出すまで待つのは暇だったの――――気が向いた時に狩りに行けるなんて、とても楽しそう!」

 口では穏便を目指していたが、ふたりとも討魔局への不平とストレスには我慢していたようだ。向こうがオーダー省直々にここへ駐在する事を許されたとはいえ、勝手が過ぎたようだ。

「でも、そんな事出来るのか?闇討ちが一番確実だと思うけど」

「そんな面倒な真似しなくていいじゃん。向こうが散々してた事なんだし」

 カタリの思惑がわからない自分とロタは、そのサディスティックな笑顔に渦巻く闇を暴くも浸るも出来なかった。そしてカタリも思い出したように、おもむろに薬瓶を取り出す。当然、腰のベルトから針と注射器も。

「ロタ、抑えてて上げて」

 




「また、お前に頼るとは」

 脇に挟みながら、勢いよく立ち上がるとそのまま頭蓋と背骨が何処かへ飛んでいく錯覚に陥る。これは危ない、そう確信した神獣は隣の戦乙女に頼りながらベットへ着地する。

「どうですか?」

「杖が届けば、どうにか動けると思う。悪い、また守って貰って」

「気にしないで。私はあなたのロタなのだから」

 引き寄せて立ち上がらせてくれるロタに、数度も頼りながら脛の上に膝を乗せる。骨だけで歩いているように見えるだろうが、これ以上の怠惰は犯せない。数秒でも早くカタリが用意してくれた薬を身体中に回さなくてならない。

「エイル様、またお怒りでおられましたね」

「‥先生、失望したのかな」

「まさか。ふふ、自分の手元からあなたが飛び立ってしまうのが寂しいのですよ」

 肩を貸して貰いながら、廊下を歩いていると件の先生が無表情で迫ってくる。叱られるのがわかっている自分は、ロタの影に隠れながら目をつぶって待っていると、頬を撫でられたのがわかった。

「はぁ‥。そこまで震えているとは、そこまで私が恐ろしいですか?」

「‥すみません、わがままばかり」

「あなたの師は、あのヘルヤなのです。弟子は師に似るものであり、藍は青より出でて藍より青し―――彼女の悪い部分を学んでしまったようですね。それとも、ただ私を困らせたいだけ?」

 無表情ながらも、震える程に整った顔立ちの医者は僅かに口角を上げて去って行った。お叱りの言葉を身構えていた自分からすれば、膝を突いてしまう出来事であった。肩透かし、と当時に九死に一生—――または仏の顔も三度まで。

「次に入院する事があれば―――考えておきます。ロタ、その時は手を貸しなさい」

「お任せを。必ずや、お役に立ちましょう」

「期限は二日後だとしても、しばらくは通院も続けるように」

 骨ばかりの首で何度も頷いて、再度口角を上げた医者は足音を立てて廊下を渡って行く。振り返りながら立ち上がった時、ロタが大きく息を吐く。

「伝えておきます。あの方は、私達の中でも有数の―――言うまでもないですね」

 これ以上の言葉は無意味と悟った自分とロタは、病院の中庭へと足を運ぶ。そこには、いつの間にか完成していた屋根付きのベンチ群が設置され、入院患者達の憩いの場となっていた。風に当たるのと同時にリハビリ、また待ち合わせの目的地だった。

「おぉー、魔狩りを受けたと聞いていましたがー、意外と元気そーですねぇー」

「そう見えるか?」

「はい、まさかロタさんに甘えながら登場するとは思わなかったものでー」

「見破られてしまうなんて‥。はい、リヒトは今日一日片時も私に離れないでくれと言って聞かなかったの」

 そこには紙と縄で縛られた長物を持って、手を振っているヨマイが立っていた。背の高さと杖の長さが合っていないというのに、一切杖に振られず振り回す姿は、流石工房主だと評してしまう。

「相変わらず、男の子ですねー」

「‥もう少しで大人になるからいいんだ。そっちは大丈夫だったか?」

「どうぞ座って下さーい。そしてお答えしますと、陰陽方もいないのですから、無事に決まってまーす」

 自分が座っていた席を預けてくれるヨマイに甘えて、場所を変わって貰う。日光は中天を捉えているが一日はまだまだ長かった。日光に視線を細めながらヨマイの顔を見つめると、目にクマのある美少女はふわりと笑った。

「メランコリーですねー」

「メランコリー?」

「憂うつとか、そういう感じ。杖の調整がどうだ?」

「もっちろーん、上手く完成しましよー。マヤカさんに手を貸してもらったんですからー」

 包装を解いて見せてくれた杖は一見すれば何も変わらないが、僅かに杖の先端部分に重量を合わせた物に調整してくれていた。槍のような重量に頼って薙ぎ払う、投擲時にも重要な重みを肩と腕に関係する人体工学に基づいて、増幅、軽量化してくれていた。

「リヒトさんの注文通り、重みの中心点は引き抜いた剣の鞘に移動させています。これで貫く、引き抜く、滑らせるに重点を置いたレイピアと成りました。‥同時に少しだけ扱いにくい物となりましたが、いかがですか?」

「ヨマイが造って計ってくれたんだ。完璧に決まってる」

 流石にここで剣を引き抜く、水晶を纏わせる訳にはいかないので松葉杖と銀に変わった杖で立ち上がって歩き回ってみる。意外と杖とは下に重量が在っては使いにくいので、グリップ部分や先端に重みがある方が扱いやすいのである。

「いい感じだ。手間かけたんじゃないか?」

「少しだけですけどねー。だけど、あの先生さんがスポンサーと成ってくれているので資金も潤沢、迷宮にも専用のエレベーターが貫通したので、良いこと尽くめ!!こけら落としとして、申し分ないお仕事でしたー」

 勘定には一切の抜け目がないヨマイは、資金という悩みの種が消えた事で満面の笑みと同時に、深く濃くクマを造ってい。

「睡眠不足は仕事の大敵だろう。休んでくれ」

「リヒトさんが添い寝して下さるのなら、考えてもいいですよー」

 腰に下げていたランタンとナイフも、装飾を変えたらしく一段と輝いて見える。最後に見た時よりも青々とした光が強く、装飾は拘束だと言うようだった。

「杖の先端、剣の柄の輪はなんですか?」

「‥ほんとだ」

 ロタに言われるまで気が付かなかったが、確かに杖の先端部分にあたる柄に輪っかが作り上げられていた。疑問の答えを求めてヨマイを見つめると、待ってましたとばかり立ち上がって杖を奪っていく。そして、軽く一回転をしてみせる。

「よくぞ聞いて下さいましたー!!これは、このヨマイの技術の粋を集めた機構—――見て下さい!!」

 周りに人がいる事も気にせず、高く掲げた杖の先端にはランタンが付けてあった。

「‥なんの為?」

「わかりませんか?このランタンはリヒトさんの力を引き出す為に増幅回路をふんだんに使って形とした、結晶工学変換光力式投影機一九!!」

 長々とした誰も知らない正式名称を、天にも届けと叫ぶヨマイは杖を地面に差して更に一回りする。その結果、想像通りに腰のナイフを姿を消している。

「つまり見ていて下さい!!」

 引き抜いた水晶の短剣は想像以上に青く光輝いていたが――――起動したランタンの光を受けた短剣は、館の時よりも冷酷な青の刀身を造り上げて行く。

「ヨマイ‥?」

「では、ご覧あれ!!」

 既に元の刀身の数倍どころか数十倍にも達した剣は、ヨマイの身長にも匹敵した時ようやく光の供給を止めた。否、もう満たす必要がないという事だった。

 完成した刀身はそれが星そのものだと言うように、光を強く放ち続ける。

「その光は‥」 

 創生の彼岸、水平線の彼方までプリズムに冴え渡る海の輝きのひとつにして、七色に輝く水晶の腕が放つ—――あの方の光のひとつをその身に収めた剣だった。幾百もの光の中のひとつだったとしても、到底未だ人間であるヨマイが使いこなせる力の片鱗ではなかった。

 けれど、それを否定するかのように燐光を落とすヨマイの剣は、紛れもなく自分の使う水晶の槍と重なる光を持つ―――神域の水晶の欠片だった。

「二度目ですが、いかがですか?」

「‥信じられない。どうやって」

「この杖は、常にリヒトさんの力を受けた事で自身の在り方を自ら書き換えた―――成長するゴーレム。ただの人間が使っていただけでは、ここまで精製される事はなかったと思います。けれど、存在の半分を常に彼方の海に浸しているリヒトさんならば、こうなるのも必然です。常時、力の更新をしているのですから」

 頭上で軽く回した瞬間、中庭を覆い尽くす程の燐光が姿を見せる。その荘厳さ神聖さ、そして非現実感に多くの患者、看護師達から声が上がる。類似する物だけならあるかもしれない力だったとしても、その身と杖とランタン、ナイフだけで造り出したとは思えない大質量が永遠と続き、病院ごと切断すら可能な力を感じ取る。

「‥美しい。これは、ヨマイさんだけ?」

「誰でも使える汎用的なゴーレムこそが今のトレンドです。まぁ、リヒトさんの杖がなければ使えないのが難点ですが―――もしロタさんも」

 けれど、流石に派手にやり過ぎた。ようやく我に返った所でヨマイの肩に手を置いて呼びかける「そろそろやめた方がいい」と。そこでヨマイも視界が広がったのか、慌てて光を閉ざす。けれど、時すでに遅し。無表情で鋼のような先生が立っていた。

「あ‥先生‥」

「あ、先生。はい、私は医者、先生です。その先生の病院で力のお披露目会とは、ヘルヤの生徒達はなかなかに聡明な事で。どう思いますか?先生?」

「そうだろう。今の術はかなりの物だった―――すまない」

 聡明に乗って自慢して流そうとしたマスターの作戦は失敗した。僅かに瞳孔を開いたエイル様に、我が愛しのマスターは跪くように顔を下げる。

 完成されたパワーバランスに静かにヨマイを差し出そうとするが、「リヒトさん‥」と悔しいぐらいに愛らしい声を上げて背中に隠れるヨマイと、いつの間にか消えていたロタの代わりに自分に視線が注がれる。

「まさか、これほどまでに早くあなたに教えを説くとは思いませんでした」

「‥先生は、先生でもあるのですね」

「私は医者です。患者の問題行動を嗜め、退院後の生活を健康的にかつ正道に促すのも役割です。そして選ばれた者に手を差し伸べられるのなら、これほど導き手冥利に尽きる仕事もありません―――全員、付いてきなさい。隠れているあなたも」

 あの時と同じように石を取り出した戦乙女は、視界外にある筈の病棟内一階の窓に石を投げ込み、ひと一人分が倒れる音を響かせる。

「まったく‥手間ばかり造らせて。彼女の苦労がわかりました」





「徘徊禁止に今日一日、進入禁止。これは警告だと言っていましたね」

「あれだけ絞られたんだ‥。ヨマイもしばらく大人しくするだろう‥」

 あの場では徹底的に被害者であった自分が最も叱られた。ヨマイ達は早い段階で解放されたというのに自分はお叱りも長かった上、その上シャワーにも連れ込まれた作業のように洗われ、一切の寄り道も許さずに病室に運ばれた。

「—――だけど、だいぶ派手にやり過ぎた。外であんな力を振り回してたら、喜び勇んでアイツらが来ただろうな。ロタは、カタリの話はどう思った?」

「個人的には限りなく成功するかと。それに罠を仕掛けられているのはわかりきっています。彼らの罠を踏みつぶしてこそ、真の勝利と言えるかと」

 カタリから聞かされた作戦は―――秘匿された技術を盗み出そうと、もしくは盗み出した討魔局を外部監査科、兼マガツ機関所属である自分達が正面から逮捕する。

「それに彼らはあなたに発砲した。あの弾丸は、人間であれば掠るだけで死に絶える代物だと聞いています。殺人を是としないオーダーでありながら、殺人を可能とする武具を装備、矛を向けた。—――これは紛れもなく私達の使命に該当します」

「強盗犯による殺人未遂。ああ、これならこっちが強制捜査をしても問題ない。法務科から許可であるまで時間はかかるだろうけど、最悪無理やり言質を取ればいい。あれだけいるんだ、誰か口の軽い奴がある」

 杖と松葉杖で部屋中を歩き回りながら、会話を続ける。リハビリ室にすら出入り出来ない以上、ここで身体を慣らすしかなかった。けれど、途中でロタが止めに入る。

「せっかく汗を流したのですから、今日はここまで」

「わかった。そうする」

 杖達を放り捨てるように腰を掛けた時、ロタが手を取って寝かしつけてくれる。ふと瞬きをした瞬間、既にその姿は月明かりに照らされた、月色のローブとなっていた。透き通るような眩い黄金の髪に、海を思わせる紺碧の瞳—――全てがあの夜と同じだった。いや違う。あの時ロタは、ここまで運んでくれなかった。

「また見惚れています。それほどまでにこの姿は気に入った?」

「‥ロタは、」

 それ以上の言葉を許してくれなかった。

「はい、このロタはあなた以外の勇者を館に導いた過去があります。死した戦士の魂をあの方の元へ召し上げ、必ずや来ると予言されてきた最後の戦を迎える為に」

「‥恋人、だったんだよな」

 僅かに微笑んだロタは、月を見上げてながら首を振った。

「—――いいえ、あの人にとって私はきっと妹や娘、生徒だったのでしょうね」

 フードが零れるように落ちた時、ロタの素顔が露わになった。そこに幼さなど欠片もない、けれどそこにあるのは確かに未熟な少女の顔だった。祈りが通じた、自分は間違っていなかった、けれど自分は正しかったのか―――この顔には覚えがあった。

 そうだ。この顔はカタリも持ち合わせていた。初めてこちらで目を開けた時、初めてカタリを見上げた時、自分に返してくれた笑顔そのものだった。

「私が救う筈だったのに。私は救われてしまった。人間が嫌いであるのに、このような使命を受けて、勅命として魂を拾い上げに行った―――ふふ、所詮人間でしたが」

「‥‥だから、嫌だった」

「はい、とてもとても嫌でした。顔を見るのも嫌だ、手を差し伸べるのも嫌だ、翼で導くなんて汚らわしい。‥‥汚い手で触れて欲しくない、こう言ってしまいました。ならばそれでいい―――こう言われてしまった」

 手を伸ばした時のロタの顔を想像してしまう。きっと今のロタの素直な心はその人物によって形作られた―――ならば、その時の顔は健やかで優し気であったのだろう。けれど、その心を隠す不純を行えなかった。それに気付いてしまった。

「自分に嘘を、自分の誓いを挫く卑怯を出来なかった私に、あの人間はそれでいいって、変わる必要はないって。素直でいられるのならそうであるべきだって。ふふ、やはり私はあの人間を導く事なんて出来なかった。けれど、連れ去ってしまった」

「ロタ達の世界にいた人間にとって、誇らしい事だったんだろう。‥‥ロタが責任に思う事なのか」

 吸い込まれるように隣に座った黄金の髪を持つワルキューレは、僅かに首を捻ってこちらを見てくる。その目に何が映っているのか、自分には到底計り知れない。自分に相応しいと手を差し出した相手は、今もベットで休んでいた。

「‥‥情けないな。なんで俺はこんなに脆いんだ」

「あなたが脆い?まさか――。あなたは傷が無さ過ぎる。純粋でいられる筈のないこの世界に囚われているあなたは、それでもなお純粋であるべきと運命づけられた神獣リヒト。狂う自由を許されない。けれど穏やかでいられる程、この世界は広くない」

「—――そうだ。俺に自由なんてなかった。あの家に居られるほど余裕なんてなかった、逃げ出した事が悪いなんて思ってない。だけど、この街は――この世界は!!」

 自分の腿に自分の爪が喰い込む。

「なんなんだこの街は!!自分の為なら何をしても許される?この街に住む者の責任?いつから俺は責任を押し付けられる程、自由になった!!一度も俺に自由なんてなかった!!家の生贄、街の生贄、世界の生贄‥?—――気に食わないから排除する‥だったら産まなければ良かっただろう。一度でも俺が頼んだかよ!!」

 いつの間にかロタの手が自分のかぎ爪の上に被されていた。

「ロタ‥俺は、俺には救いがあったのか‥」

「‥‥いいえ。きっとあなたは何処に連れ去られようと、救い手も導き手もいなかった。いるのは私達のような、あなたの力を求めて切り分けに来る使いばかり。カタリも言っていました―――あなたをこの街に連れて来て、正しかったのかと」

 見上げた時、そこには涙を流したロタがいた。

「あなたの苦しみとは比較にならない。だけど、カタリは苦しそうでした。自分は安全な場所でばかりあなたの帰りを待っている、手を引けたのは偶然に過ぎないと」

「‥‥だけど、俺はカタリがいないと帰って来れなかった。俺こそただ待っていただけだ。やっぱり俺は臆病者なんだ。ひとりだと何も出来ないのに、嘆いてばかり‥」

 月の後光を纏ったロタが、肩を抱いてくれた。

「あなたは今も死の苦しみから抜け出せないでいるのですね。可哀想なリヒト、ずっとあなたは自分の淀みを吐き出せず生き続ける。純粋でなければいけない、そうでなければこの世界に腰掛ける事すら許されないリヒトは、誰にも救えない」

「‥‥救ったら、災厄に成り果てるからか」

「はい‥」

 ロタは嘘を吐かなかった。つく必要などないとわかったから、救われたから。救い出す筈だったのに、自分の光を見出したロタは既に完成していた。未熟など自分の性能を表現しきれていないからだ。周りの評価が未熟なのなら、それは見る周りが未熟なだけだ。自分とは次元の違うロタを――――理解出来ていない。

「‥‥言ってくれたじゃないか。俺は俺のままでいいって、俺を名乗っていいって」

「私達の手の中にいるリヒトでなければなりません。‥‥ああ、けれど」

「ロタ‥?」

 肩から顔を話したロタが、瞳を瞳で射抜いてくる。

「あなたが消えてしまっては、私は悲しくて苦しい―――あなただった者の最後を見届けるのは、私には耐えられない。どうか私のリヒトでいて。どうかこのロタのリヒトから離れないで。どうか変わらないでいて」

「—――それがロタの望みか」

 焦る必要などなかった。怒り狂う必要などなかったではないか。このリヒトは、元々カタリの想像から生まれたリヒト。人間リヒトとは同じ姿かたちを持っているだけに過ぎない――――恋人に求められた姿こそが、神獣リヒトであったのだから。

「‥リヒトを求める必要なんてない」

「リヒトは元からいないからですね」

「ああ、リヒトはもういない。多分ロタの求めたリヒトは元からいなかったんだ。だけど、それで良かった」

 わからないと首を捻るロタに、フードを被せる。

「俺は神獣リヒト。カタリの想像と創生の彼岸の果実、そしてリヒトの血から生まれた神獣。ロタとカタリ、マスターとマヤカにヨマイ、皆みたいに使命と願望、研究テーマも持ち合わせてなかった。この街が期待外れで当然なんだ、だって俺には何もないんだから」

 きっと今の自分はただ逃げているだけだ。この秘境に訪れるのは自分の望みを、秘匿された魔道に掛けるに相応しいと許された者達だけ。

「だけど、ロタがこのままでいて欲しいって言ってくれるなら俺はこのままでいる。ロタの望むリヒトとしてここにいる―――焦る必要なんてなかったんだ、恋人が望むリヒトがそもそも俺だったんだ。俺は俺のままのリヒトでよかったんだ」

「‥‥きっと厳しい道筋ですね。そう、カタリの愛したリヒトこそが私の思い描いた勇者だったのですね。もう努力はやめてしまうの?」

「‥‥うん、決めた。リヒトの事を調べるのも、カタリの言うリヒトを振る舞う必要もない。きっと、こういう考え方がリヒトだったんだと思う。だからロタ、もう一度俺を誘って欲しい」

 フードを握って顔を隠したロタが、舞うように立ち上がって目元の見えない顔で口を開く。

「あなたを迎えに来ました」

「何故俺なんだ?」

「あなたこそ、私が探し求めた神獣。人に怖れられ、人に望まれ、人に貴ばれる――そして人と袂を分かつと決めた清らかな神の使い。あなたこそ私が手を差し伸べるに相応しい‥」

 槍を持たない白い手を差し伸べられる。多くの戦士達に愛され、多くの戦士に恐れられた死の運命。世界を越える権能を振り下ろす戦乙女に、あらゆる神々の頂点に立つ主神の元に連れ去られる宿命を誰もが光栄と唱えただろう。

 けれど本当にそれだけであったのだろうか。

「さぁ、私の手を」

 月色のローブから手を差し伸べる姿に、自分が認められたという誇り。そして自分を認めた巫女の姿を視認した時、あまりの美しくに膝を折った事だろう。

 比類なき純白の女戦士は死が見せる幻覚の走馬灯—――けれど、その手は確かにあった。屈強なれど人間から離れられない、肉の身体から逃れられない戦士は、こう考えた筈だ。—――やっと死から逃れられる。この迫りくる死の恐怖から救われる。

「ワルキューレ、ヴァルキュリアよ。この俺は人間ではない。神獣としてこの世界に根を降ろしている。あなたの手を取る事は出来ても、羽ばたく自由など持っていない」

「ならば私も共にその制約を受けましょう。既に救う意味などないこの世界で出来るのは、あなたの元であなたを癒す事だけ。いつか必ずあなたを救います」

「‥‥光栄です。どうかこの神獣リヒトを救って下さい。その代わりに、必ず俺はあなたの求めた人外でいます」



 

「法務科からは?」

「まだ許可が下りない。けれど、それも時間の問題だ」

「つまりは、今すぐ始めても構わないという事ですね」

「ふふ、違いない‥」

 松葉杖と銀の杖、双方を操って足を前に出し続けるが、それだって時間の問題で瓦解する。病院からは仮退院として認められたが、宴が終わり次第即刻再入院という条件付きだった。

「けれど、始まって早々に事を荒立てるのは避けるべきだ。こちらが宴を妨げる邪魔者として見られてしまう」

「上等ですよ。残らず断ち切ってくれる」

 行政地区近くでのホテルを借り切っていた前パーティーは、我が水晶と戦乙女の力で損害を与えてしまった。具体的な額を聞く気にはならないのは、窓から討魔局の人間が降ってくるという前代既聞ながら、そうそう起こらない事態を起こしてしまったからだった。無論、前回シャンデリアを始めとした犯人はこの自分であった。

「ははは、そういう話は自分の席に付いてからするのだよ。足はどうだ?」

「人間を始末する程度には、順調ですよ。それに何度かここは歩いています」

「‥‥頼もしい限りだ」

 自然学カレッジの第三棟、そこをマスターとロタを背後に控えた自分は、動脈を思わせる深紅の絨毯を踏みつけている。先ほどから向けられる嘲笑に、これ以上の弱みを見せる訳にはいかなかった。

 あの場では勝利したと言っても過言ではないが、どこからか流れた噂には自分が致命的な負傷をしたから、時間を見ていたという戯言がまことしやかに呟かれた。

「もしリヒトの話が真実だったとして、自分達はリヒトひとりよりも低く見られていると何故気付かないのでしょうか?自分など特別扱いされていないと」

「ここにいる事こそが、自分が要人だという誇りを補強する物なのだろう。それにしても―――つい数日前拳銃ひとつに怯え震えていた人間が、何故ああも純粋な顔を出来るのか。私としてはそちらの方が疑問だよ」

 マスターの言葉が気にかかり、軽く周りを見渡す。傷一つない美しい壁に囲まれた長い廊下の端、そこに自分は塵芥だと宣言するかのように佇んでいる貴族達は、今もこちらを冷ややかに笑っている。

「機関のガキか‥ここまで堂々とは、随分真面目なようで‥」

「自分達は敗北などしていないと、アピールしにきたんだろう?好きに歩かせてやれ」

 あれで声を抑えているとしたら、随分と温室育ちだったようだ。

 年若いと言っても既に高等部か、もしくは卒業したであろう彼らは内緒話のひとつも出来ていない。自分以上に格上の家と出くわさないように、家の父母が大事に大事に育てたようだ。

「‥‥貴族のひとりやふたり、消えても」

「消すのなら、準備のひとつやふたつをしておくべきだ。どれだけ塵と化しても塵が残ってしまう。ここの従業員に迷惑だよ」

「‥わかりました」

 僅かに顔を伏せながら過ぎ去ったのが、それほど腹を撫でたのか一切の抑えを解いた少年達が手を叩いて高笑いを始める。どうやら自分達を恐れたから、顔を合わせなかったと判断したようだ。

「何故なの?あれほどリヒトは、自分を嘲笑う学生達を始末し続けているのに」

「それが耳に届かないぐらい、彼らは家から出ないんだよ。どこかで仕入れた情報だけを頼りに、自分の眼では確かめない。ヨマイ君を見習うといいのだけどね」

 今も震える腹を抑えて笑い、こちらを細めた目を向けている彼らは自分の姿が見えていない。背中を笑い、自分は背骨を曲げているなど、無様と評価するしかない。

「まぁ、彼らの事が後にしよう。それより―――」

 一歩前にでたマスターと共に肩を並べる。

「やぁ、お加減はどうだい?」

 肩と松葉杖を一呼吸も無しにぶつけて、尻餅を突かせる。完全なる不意打ちなどこの街で受ける訳がないと高を括っていたのだろうが、生憎と自分は喧嘩は苦手ではなかった。むしろ―――銃器に頼り続けている放火魔よりも、白兵戦では上だ。

「どうした、足でも悪いのか?いつまでも座ってないで退いてくれ。邪魔だ」

 立ち上がろうとした所を銀の杖で胸を刺して、そのまま乗り越える。息を詰まらせて胸骨と内蔵を庇う少年に対して、向ける視線など持ち合わせていない。

「やってしまったか‥」

「何をですか?俺は跨いだだけですよ」

 手を貸す事など一切しないマスターとロタも、今も咳で喉を詰まらせている少年に一瞥もくれないで背中を追ってくる。同時に呆れながらも間違ってるとは言わない。

 方々から驚きや愕然の息を吐かれるが、そんな汚い息吹から逃れるように足早に去る。

「最初からこうしていれば、良かったのでは?」

「ああ、最初からこうしていれば良かった。今更、誰の目を気遣う必要があったんだろう。面白半分に俺に触れてきた罰を、とっとと振り下ろせば良かったんだ。―――挑発には槍で答える。ずっとそうしてきたんだから‥」

「仕方ない子だ。今ので完全に宣戦布告と成ってしまったぞ。数百年どころか、数えさせすれば1000年にも及ぶ歴史の裏で暗躍、もののけを狩ってきたのは彼らだ―――リヒト、君に1000年の怨念と責務を背負う覚悟はあるか?」

 問い掛けは、理路整然としたものだった。

 彼ら討魔局は発足時から多くのもののけ、妖怪や猩猩達を打ち倒してきた。土蜘蛛と呼ばれる怪僧がいた、その妖怪はマラリヤの根源、病魔の類とされ源氏筆頭たる源頼光を病で苦しめ、捕らえようと画策した。

「たった1000年がなんですか?」

 京の姫、若武者が次々と姿を消す神隠しが起こった。その原因は何かと調べた陰陽師安倍晴明は大江山の鬼達の仕業、その頭目たる酒呑童子が関わっていると突き止める。

 これ以上の狼藉は許されないと平安の守護者が立ち上がり、山伏に扮して根城に赴いた。

「彼らは、本気で君を狩りに来る。どれだけ君が人間を超越する神獣であろうと、あらゆる手段を使って―――打ち倒しに来る。そこに誇りこそあるが卑怯などという外聞は一切気に留めない。一対多数、毒、甘言に妄言、これらを駆使してくる―――」

「それが何ですか。俺は、元々ひとりでした。卑怯で臆病な人間達は恐ろしいこの神獣と正面から目を合わせる覚悟も力もない。この国で1000年間隠れ住んできただけの雑兵が、一体何を繰り出すと。毒も刃もこの身には効きません―――全て洗い流しましょう」

 きっとこの顔は既に人間を模せていない。

 牙などない、眼はいまだ横開きだ。けれど何もかもが人間から程遠い。

 それを覚悟という人間もいるだろうが、そんな雑多で矮小な物などでは決してない。これが自分という存在の証明であり、求められた役割であった。誰もが振り返り、誰もが眼前から逃げ去る。腰を退く、あるいは壁に背を付ける。

 けれど、自分と自分以外という違いを明確に理解出来ない愚か者は多くいる。

「あ、なんだよ、結局負けたのか?弾丸一発に‥お前やっぱし弱いんじゃねーか」

 角を曲がった時、あのホテルスタッフだった。マスターが直接解雇を伝え、身に余る金額を叩きつけられて家への帰還を勧められた愚か者は、肩を押してくる。

「あれもあの女の力だろう?後ろの女達に守られてないと、ろくに歩けないのか?」

「‥‥そうだ。俺はマスターとロタに守られてないと、この世界では息も吸えない。杖がないと歩けないのに、こんな所にまで引きずり出された。‥‥この力だって、授かった物でしかない――――ああ、結局俺は元から何も持ってなかったんだ」

 もはや抑える必要などない。この身に抑えられた星の加護と世界と成る筈だった開闢の力は、到底人を模した身体で押し留めるなど不可能だった。

 何を恐れる必要があっただろうか、何を我慢する理由があったか。

「既にこの身は、捧げられた借り物にして与えられた創造物。同じ位に立つ必然なんてなかったんだ」

 脛、膝、腿、骨盤—――全てを己が身の中、外に造り出した水晶で支え持ち上げる。

「人間、お前にはわからないだろう。小さきものの言葉を理解する為に、頭を下げて耳を貸す辱めを。与えてやった時間に対する侮辱を―――愛している人の心を疑わなければならない悔恨を」

 背骨、胸骨、首—――自身の骨と共に神域から借り受けている水晶で頭を支え、顎を持ち上げる。世界はこんなにも浅く、薄かった。何も発掘するに値しない。

「人間、俺が何に見える?一体、お前は何を俺に求める?」

 肩、腕、肘、手—――ふたつの杖を握りしめ、世界を見通す自分は一体今何を模している。世界を憂う求道者か?人々を救うべく導く聖者か?世界の発展、星々へ手を伸ばす為に己が知見を広げる賢者か?—―――そんな小さい物である筈がない。

「何言ってるんだよ?負け続けて、おかしくなったのか?」

「おかしい?何言ってる、お前ら人間が俺を理解出来る訳がないだろう?では死ね」

 振り被った二つの槍は、数舜後には人間の首を落とすだろう。極寒の地獄に咲く紅蓮の花の如く、儚くたおやかに花弁を落とす。きっとそれは新たな見識を見せてくれる。

「ま、待て!!」

「形を崩すも与えるも俺が決める。お前には、形など不要だ。諦めて海に戻れ」

 肘を突き出す必要などない。この槍達は触れるだけで首の骨を両断する。求めるは健やかな死、与えるは痛みを知らぬ獣への恐怖。双方とも死を迎える人間には必定だった。—――けれど、その双方とも自分には自由に見出せなかった。

「止まれ」

 眼前に唐突に表れたのは、生まれて初めて見た魔人だった。

「気が短いのは相変わらずのようだな」

「‥‥爺さん」

「我が孫リヒトよ、否、リヒトを被る者よ。一体何を求める?」

 賢者を思わせる出で立ち―――自分よりも簡素ながら到底杖に相応しいとは思えない材質のそれは、記憶が正しいのならオニキスであった。

「首だ‥」

「変わったな。お前が求める物は、星を撃ち落とす、ではなかったのか?」

「—―――そうだったな」

 全身の水晶を解いた時、ようやく周りが見えてきた。自分の首にはマスターの槍が、胴にはロタの槍が。ふたつの槍によって一歩も前に出れないよう押さえつけられていた。けれど、それも僅かに触れた水晶の槍に砕かれてしまう。

「久しぶりだ」

「くくく‥相変わらず可愛げのない。昔は、ああも甘えてくれたものを」

「こう変えたのはあんた達だ。それで、今日は首を捧げに来てくれたのか?」

「儂の首が欲しければ、いくらでもくれてやろう。翌日には返してくれるのならの話だが。首なく生活をするのは、手間ばかりかかる‥」

 軽い調子で白い髭に触れる帽子の老人が、過去に教えてくれた会話だった。皇帝になる人間に教えを説いていたが、何が気に食わなかったのか首を落とされたと。

「それで、なんの用だ?」

「聞いていなかったのか?久しぶりに孫の顔、悪友の顔を眺めに来ただけよ。まさか、会場に入るまでに孫を見つけるとは思わなかったが――――どこかの孫ふたりが勝手に私の名を使ったもので、このまま知らぬ存ぜぬは張れなくなったのよ」

「暇人め」

「老人は暇なのだよ、呼び出されれば何処へでも駆けつけてしまう」

 言葉の最後を訊くまでもなく、老人の真横を通り抜ける。今も腰を抜かして廊下の端でうずくまっている人間を蹴飛ばしながら、絨毯を踏みつけると、

「そこのお二人はどなただ?」

「俺の恋人」

「かかかか!!いいぞ、やはり血は争えぬか‥」

 首だけで振り返って、帽子の奥底からこちらとロタ達を眺め笑う老人と目を合わせる。この瞬間、この二人の間に誰が入り込めるものか。世界の壁を越え世界を喰らった神獣と、時を越え時を思うままに咀嚼できる魔人の間合いには、何者も視線すら向けられない。殺気ではない、ましては怒りでもない。あるのはただの興味。

「ふたりは俺の物だ。触れるな」

「孫の恋人にそんな目を向けるものか、馬鹿者」

 儂を一体何と勘違いしているのか?そんな問い掛けをされそうな視線をマスター達に向けた老人は、声ばかりは優し気に挨拶を始める。

「初めましてと言わせて貰い得ます。私はリヒトの祖父。先生、リヒトはどうですか?」

「初めまして。私はリヒト君の講師、そして師範をさせて貰っています。お孫様は素晴らしい素質とたゆまぬ努力を出来る優秀な学生です。必ずや将来は―――素晴らしい魔に連なる者となるでしょう」

 マスターと爺さんの面談が続く中、ロタを手招きして一足先に会場に入ろうとするが、ふたりの言葉に振り返らざるを得なかった。

「そしてもうひとつご報告が。この私、ヘルヤと恋仲であるリヒト君は、将来私との生活を望んでいます。申し訳ありませんが、彼を家に帰す訳にはいきません」

 それはマスターから魔人への宣戦布告だった。気に食わない者は総じて始末し、あらゆる術や財宝、ゴーレムといった至宝を思うままに集めた強欲の魔人に、戦乙女が挑んだのだ――――けれど、魔人は。

「その話ですか。私は一向に構いませんとも」

 と、あっけなく俺の手放した。

「構わないのですか?」

「あの孫は、あれでなかなか責任感が強い。だというのに気が短いものだから厄介でね、今のリヒトを家に連れ帰ろうものならリヒト以外が死に絶えてしまう。流石に、まだ我が一族を途絶する訳にはいかない」

「と、言いますと?」

「せめて槍を抜かないように、教えてやって下さい。その話はそれからでも」

「‥‥構いません。そしてお任せ下さい」

 顎を引いて爺さんは、その後軽く挨拶を済ませて去って行く。腰こそ曲がっていないがその両肩はどうみても老人の物に見える。カタリが言っていた通り、自分以外にはただの祖父として振舞っているのだと、改めて理解した。

「あ、私も」

「ロタさんだったかな?学院長から聞いていると、リヒトが手間ばかりかけるだろうが、どうか見放さないでやって下さい。リヒトは、ひとりでは何も出来ないのだよ」

 軽く振り返りながも、歩みを止めない老人は今度こそ廊下の曲がり角に消えていった。

「‥‥普通のお爺様」

「そう思うなら、あの爺さんは人外との会話にも慣れてるって事だよ」

 





「なかなか、緊張させて貰ったぁ‥。けれど、リヒトのお爺様と言うのだから短気な方だと覚悟していたが、話の分かる人だったね。それとも、あまり興味がないのか」

「仮にも未だに貴族の席へ座れている老人ですから、話が通じないとここにいません。それに興味がないんじゃなくて、興味もないんですよ。あの爺さんは、死んでも死ななくてもどうでもいいし、気にも掛けない人なので」

 100年という期間を与える程には、この自分は家にとって保険でしかないのだろう。多くの可能性にベットする魔人だからこそ、気まぐれでここに訪れた。

 本当にただ『顔』だけを見に来ただけなのだろう。

「‥‥リヒトは元々人間離れしていると思っていたが、血は争えないというのは本当のようだ。だけど、良かったのか?本当に軽く話さなくても」

「あれで十分です。どうせ俺が老人になるまで放っておいても、あのままですよ」

 オペラ劇場とでも呼ぶのだろうか。馬蹄形の劇場は自然学に所属している時の記憶を辿れば、既に敷居を跨いでいた。数多くある中から、自身の所属する学科や研究室を見定める為、催された発表会に使われた施設だった。

「この位置が気に食わないようですね。多くの人間に見られています」

「悔しいなら帰ればいいのに。それにこうなるのはわかりきってただろうが」

 自分達の席は、歌劇場、オペラハウスでいう所のボックスシートの中でも二番目に広い席を三人で使っていた。無論、いくつかの隣に位置してあるロイヤルボックスにはふたりの老体が足を組んで、出し物を待ち続けている。

「それにあの位置は本来、最も好まれる席だ。音が一番聞けて迫力もある。何が不満なのか俺にはわからない。ロタ、あんまり前に出たら危ない‥」

 手すりから身を乗り出していたロタを隣に座らせながら、自分も覗き見る。

 一般の学生と自称貴族が一階のバルコニー席に収まっていた。

 学生らは正直気にした様子でもなかったが、腹ばかり肥やした貴族モドキは自分ではなく、我ら異端学カレッジの位置が気に食わないようで、肉で細くなった目を向けていた。誇るものがない没落貴族は、ただただ哀れだ。

「マスターは、ここに来た事が?」

「数える程だが何度かね。教授会の過程で、何かしら理由を付けて見せつけられていたよ――――ははは‥不毛な土地にある異端学カレッジには、無用の長物だとね」

 どうやら自然学の元教授、講師陣に自慢されていたようだ。

 ただし、この会合だってその延長線上にあった。本来秘匿すべき魔に連なる者の研究成果を発表するなど『自慢』としか言いようがない。

「力を見せつけたいのですね。我らの世界でも何度かそういった催しはありましたし、ある程度知恵を得た種族は己が力と誇りをはき違えているようです」

「真理だ。そうに違いない‥ロタもそうなのか?」

「私ですか?ロタは、槍を振る相手は殺す時のみと律していたので。ふふ、大丈夫、もう気にしていません。だってロタのリヒトと離れ離れになってしまいますから」

 肩に寄り掛かってくるロタと目をつぶり合っていると、身震いする寒気を感じた。

「来てしまったのね」

「‥‥すみません、怒ってますか?」

「いいえ、あなたの事だからと想定していたけれど―――ふふ‥そう。そういう所を見せつけてしまうなんて。リヒト君は、このアマネさんに叱られたいのかしら?」

 歯車が合わさっていない首に油を差さず、無理やり振り向いた所、身体のあらゆる機関が凍り付いてもおかしくない極寒の水を、生身ひとつで受けてしまう。

 これはコキュートスか、どうやら自分の行った『裏切り』は、最下層の地獄に引きずり込まれるに相応しい罪であったようだ。

「リヒト君、私はどうしてここにいると思う?」

「‥無理に退院したから」

「はい、正解」

 満面の笑みで、背もたれの上から見降ろしてくる顔に背筋を立たせる。

「私があなたに送った術、もしかして効かなかった?」

「‥いいえ、とても上手く作動していました。お陰で傷も毒もすぐ消えました。—――やっぱり俺をここに来させたくなかったんですね」

「ごめんなさい」

 立ち上がって顔を見つめた時、深々と頭を下げてきた。らしくないとは言わない、けれど天真爛漫でいつも人の中心にいるこの人に頭を下げさせてしまったと思うと、心ばかり空虚に傷んでいく。

「リヒト、この方は―――敵ですか?」

「‥まだ」

「そう」

 短い返事で席に体重を預けたロタが、舞台に視線を戻す。

「まずは私の弟子であり恋人でもあるリヒトを救って、身を案じてくれた事、ここに感謝しよう。君も座ってくれないか?—――そちらにも都合があるのだろうが」

 親しみを持たせながらも一切の容赦がないマスターは、敵の一員足りうるアマネさんをここに捕らえると言った。既にふたり悟っていた―――この人から感じ取れる敵意に。すぐさま自身の術を手に、斬りかかってくる可能性を予見していた。

「‥‥あのね」

「話は全部終わってから。少なくとも、あなたにはただ見ているだけで居て欲しいんです。必ず約束は守りますから。俺にあなたを斬らせないでくれ」

 アマネさんから劇場の舞台に顔を戻して、話は終わったと告げる。余りにも無礼な物言いだとは理解している。快復の促進という、現代では稀に見る―――現代医術に匹敵する術を授けて、見送ってくれたというのに。

「‥わかりました。またお話してくれる?」

「はい、勿論」

「‥うん、わかった」

 ロタと共に挟む様に座ってきたアマネさんの顔は、晴れてなどいなかった。自分は何故ここにいるのか、なんの為にここに踏み入ってしまったのか。

 いつまでも続く自問自答と自己嫌悪、そして役割を果たさないでいいのかという焦燥感—――全て知っていた。この顔には覚えがあった。鏡を見たようであり、つい最近ロタから全てを吐露されていた。

「ロタ。ロタは、もう後悔していないか。隣にいる自分に嘘はついていないか?」

「いいえ、何も。私は役割を新たに証明しました。ロタはリヒトを見極めて、正しき道に導きます。やはり私は導くという役割を放棄出来ません―――それにどれだけの価値があろうとなかろうと、私は神獣リヒトの望むまま、恋人でいます」

「‥‥ありがとう」

「迷いは晴れました。例えあなたが人間でなかったとしても、それを理由に導かないという選択肢はありません。私は、あなたを愛してるから隣にいます――――嫌いである理由は、既に捨てました」

 腕を引いて、髪を頬に擦りつけてくるロタと静かに舞台の幕が上がるのを待つ。

 ただ眺められるのは、この場にいるアマネさんのみ。

 ここにいる全ての貴族、学生、人外が参加者たるこの宴は―――仕組まれた罠であった。顔合わせなどただの理由付け。真の目的は争いを目撃する事。

「リヒト、既にこの宴は我々教授陣でも止められない。これは人間達が作り上げた血の酩酊そのもの。どうやら討魔局すら操られていたようだな―――学究の徒達に」




 舞台上で見せつけられる自身の手を使って解明された新たな探究は、粛々と進む。

 本来、どれだけ幼い―――否、いかに年齢が低かろうが、己が見ている世界は己が手でしか解明できない、無論そこから離れる事も。

 よって秘匿すべき研究成果を発表するなど、自身を形成した各貴族が血道を上げて作り上げた世界を越える橋—―――積み重ねた代、死体の数を見せつけるに等しい。

 あるいは所属している工房の一大技術、永遠の地下世界アガルタを実際に造り出しかねない上、人界を破壊、天界の創生すら可能となりうる―――今後の魔に連なる者達の世界を変える技術を漏洩するに他ならない。

 もし、この程度ならば他所に見せていい、こんな末端ならば自分の研究室のその先には勘付かれる事もないだろう―――そう思っての事なら、脱帽してしまう。

 そのような魔貴族、あらゆる魔に連なる者を束ねる強大なカレッジの代表としてここにいるなら――――それ以外の観客と、同じ人間の血が通っているとは到底思えない神秘の数々での、暴力を目の当たりにているに違いない。

「阿頼耶識‥。いや、自分達で作りたくて造っているのだから、単純にドレスコードとでも言うべきか。魔に連なる者に相応しい風格を備えた者達が必然的に、ここまで集まるとは――――中途半端な物など、ただの恥の上塗りだ危惧していたのに」

「リヒトは緊張しているでしょうか」

「まさか‥」

 ロタの緊張感のない台詞に、乾いた唇を撫でてしまう。それに気が付いた時、自分も苦笑いをする。観客席で腰を降ろしている自分が何を気を張る事があるか。もし、このボックスシートを砲撃された所で自然学カレッジが誇る、自動迎撃と自動防衛の樹木がこの身の傷を一切許さない事だろう。

「‥‥ダメだな。彼の力をよく知っているのに、心配ばかりだ」

 緊張などする筈がない。彼は創生の彼岸で生まれ落ちた神獣リヒト。身体ばかりは人間のそれを真似ているが、彼の身体と意識を構成しているのは世界と成る筈だった肉片達。人間の片鱗など、性欲や食欲ぐらいしかない彼から、緊張などという余分を見出せる訳がない。

「幼いのは見た目と模している性格だけなのだから、過去のリヒトが知らないリヒトの心象を、模せる筈もない。—――悲しいと思うか、都合がいいと思うか」

「私のリヒトはどちらでもないと思いますよ。むしろ期待しているかと」

「ほう。その心は?」

「上手く出来たら、ご褒美にひとつだけわがままを聞いて上げると約束したので。ふふ、一体どんな欲情をこのロタで発散、ぶちまけるのでしょう?まぁそれはそれとして、また頂いてしまうつもりですが」

「‥‥ロタ、前にも話したが無理な成長はしていないだろうな?」

「ええ、していません。けれど、やはりこのロタはリヒト好みの大人の女性なので」

 そこで思い出した。すぐ隣に、まだリヒトと親しく成り切れていない少女がいたのだと。仮にも私達とリヒトは、教師と学生、現代の倫理観を無視した関係を造り出している上、こんな話をされるなど――――と思ったが、なかなかに予想外だった。

「年上‥そうなの。年上の女性が好みなのね‥」

 笑うでもない、ましてや嘲るでもない彼女は口元に指をつけて、何かを思案している。

 いや、何かと言いはぐらかすのは、彼女にもリヒトにも無礼だった。

「倒錯しているだろう?わがままばかりの彼は、自分を叱ってくれると同時に仕方なしと呆れながら甘えさせてくれる相手を求めているんだ。彼の性分から言って、それを年下の求める訳にはいかない。責任感ばかり強いからね」

「‥‥年上の余裕と身体。物理的にも精神的にも包み込んでくれる相手を求めている。母体回帰の願望が強いの?それともそう見せかけて自身の種を植え付けるに相応しい子宮を探し求めている?だとしたら、リヒトさんは‥」

 この学院にいる学生達は千差万別の研究テーマを持っている。当然だ、類似品こそあるだろうが、皆見えているものが違うからだ。世界との調和であれ混沌、破壊、創造だろうと、それが―――自分の求める魔であるのなら、それがどのような結果を弾き出そうが、この秘境は受け入れる。だが、もしリヒトが自分の子を産んでくれる相手を探しに来たのだとすれば―――頷けてしまった。

「いや、流石にそれはない。‥‥彼から自分の研究テーマは聞いているか?」

「え、いいえ‥。だって、そんな内容だったら人には‥それに相手にカタリさんが‥」

「うむ、君の中にいるリヒトは一度リセットして赤ん坊に戻したまえ。リヒトは、確かに大人の女性が好みだが、彼は責任感が強いんだ。欲望のまま快楽だけを求める事は決してない――――彼がただの享楽で人を弄ぶように見えるか?」

 一拍遅れながらも、頷いた彼女は「だけど」と言葉を紡ぐ。

「彼がそれにさえ気づいていないとしたら―――リヒトさんのお話は、私の耳にも届いています。あの先生が、彼の身体を使って生命の木を造り上げようとしたと。今も原樹も種の出所、そしてそれらを長蔵していた星の結晶の発生源もわからないって――――もし、もしもあのリヒトさんが無自覚に、いえ、ただいるだけで混沌をもたらせているなら」

「ロタ、落ち着きなさい。アマネ君—――それは君達の都合に寄り過ぎではないか?」

 思い立ったように顔を上げた彼女は、そのまま嘔吐してしまいそうなぐらいの後悔、自己嫌悪、自家中毒。このまま気絶してしまいたいと告げているようだった。

「そちらが自分の都合だけで彼を寸評するのなら、私からも君達に批評を与えよう。君達こそ、ただここにいるだけで魔に連なる世界、延いては彼に混乱と混沌をもたらしているのではないか?自分達の手足にならない、もしくは自分達以上に力を持つ彼を羨ましたがって、そのような醜い価値観を彼に押し付けているのではないか?」

 つい彼の口調がうつってしまった。出来る限り冷静にと自分を律し、「失礼」と告げてみた。自分にも私にも断罪されたアマネ君は、胸を抑えて舞台を睨みつける。

「全ての都合は私達以外の人間であり、切っ掛けも同じだ。そもそも分不相応な欲情さえ持たなければ、彼をあそこまで追い詰めることも、殺す事もなかった―――そうでなければ彼がこの街に来る事もなかったとしても」

「‥‥家との縁を切ったと、前に彼から聞かせて貰いました」

「であるならば、ある程度は察しがついているだろう。—―――彼に選択肢などなかった。ただ生きたい、ただ学びたいと言って、この街に望みを託した彼の信頼を、人間は裏切った。その結果が今の彼だ。身体を蝕む腕の毒に弾丸の毒、精神を苛む視線に環境、全て全て人間が始まりだ。再度言おう、選択肢などなかった。—――ここに来ようが来まいが殺されていた彼の今が、望んで生きていると思うか?」

 例えどれだけ望まれ愛されて再誕したとしても、既に世界の席を失った彼に居場所などない。カタリ君が呼び出したリヒトは、一体何者なのか。

 創生の彼岸に流れ込んだ彼の実数を元に、必然的に形を持ったのが彼なのか。それとも創生樹の実のひとつとして、神を喰らった竜が見出した偶然の産物なのか。

 きっとあのリヒトはリヒトたらんと己を見ているに過ぎない。カタリ君が望むままに振る舞っている神獣は、カタリ君がリヒトと名付けたからなのだろう。

 もしカタリ君がリヒトを怨念、復讐者として名付けていれば―――きっとこの世界は既に灰と化している。その後の事など何も考えず、ただ形あるもの全てに裁定を下し、この世界と星に求められた約定通り、災厄のひとりとして顕現する。

 その先にあるのは、ただの崩壊。『だった』者達の亡骸すら残るまい。

「彼が、自分から人間を攻撃した、だから当然の権利として彼を排除、彼が自ずとここを去るように仕向ける、その為なら彼を殺したっていい、だって彼が悪いんだから―――もし君の本筋達がそう思っているのなら、君も早々に見限られる。次に斬り捨てられるのは、君だ」

「‥‥リヒトさんは、私の事を」

「見た通りだよ、まだ信じたいと思っている。—――聞いたぞ、君がマキト氏の使っていたホテルのレストランを勧めたとね。そして君が去ったあの廊下で私達は襲撃を受けた。これは偶然か?それとも」

「‥‥私は、彼がいるから事が起きているんだと思っていました―――だから、リヒトさんを別の場所に移動させてた、だけど彼はどこに居ようと狙われる。だけどそうだったのね、排除したい方々が彼を追い詰めて、追いかけていた」

「—――そうか、君は」

 もはや言葉はいらなかった。数度しか話していない、特別親しい訳でもないと思っていた彼女は、リヒトの為に身を割いていた。

「聞いてもいいかい。何故リヒトを気にかけているんだ?」

「‥‥可哀想に見たから」

 答えは簡素な物でありながら、その実、いかにも人間が答えそうな理由であった。

「始めて会ったのは病院でした。これは間違いなく―――だけど、あんなに幼くて可哀想な子を生贄に捧げて、それでもまだ追い詰めるなんて‥‥」

「どうか、それをリヒト自身に言わないでやってくれ。哀れみと命令は、彼が最も嫌う人間特有の概念だ。君であろうと首を飛ばされるぞ」

「だけど‥‥」

 舞台を埋め尽くす青の雷光と天井を貫きかねない轟音に、誰もが感嘆の声を上げる。それはある絵画から飛び出した物だった。

 例え絵画の中であろうと、天空に映し出された影に力が与えられる。

 色彩学の本領である絵画の中の現実には、天空の神—――特に雷の神としての力を彷彿とさせる稲光が描き足されていた。その名はユーピテル。

 ローマ神話の主神ユーピテルは、時たまゼウスと同一視されるがそれは後の話であり、共に発祥はインド神話、または古いヨーロッパ語神話である。しかも恐ろしかな――――起原たるその神話の流れを汲んでいるとされている我らが世界のテュールも、それが元では?と述べられていると聞いた時、言葉を失ったのを覚えている。

「‥‥すごい。あんな力を、一体に?」

 天空神とは――――正直な話あまり活躍しない。何故ならば宇宙創成だけを目的とされた機械仕掛けの神だからだ。我らを天高く見下ろす至高の存在であるのは間違いないが、やはり何もしない暇な神であった。無論、多くの世界で信仰される神ではあるが、それは彼らの既に終えた権能の尊さに『感謝』しているに過ぎない。けれど、そこに雷光が足されるのであれば話しは大きく変わる。

 この国に稲妻という言葉がある通り、雷は生活に大きく関係する。

「順当に考えるのであれば、土地を豊にする為かな。稲妻の語源は、稲の夫。音ばかり残って夫から妻に変わってしまったが、稲の実時、夫の役割が始まり、雷の多い年は豊作だからだと古来から語り継がれてきたが――――それは事実だと立証された。まぁ、長くなるのでここでは割愛するがね」

「豊かにするのは土地だけではないかと。我らが雷神も豊穣の神ではありましたが、当然戦神としての側面も持ち合わせていましたし、部分的に鍛冶神としても」

「恐らくは戦神としての側面を求められている。あの雷神ユーピテルは守護神としても神殿に祀られていたが、その実一騎打ちの神としても崇拝されていた」

 ならば次を考えるまでもない。当時のローマなど戦と隣り合わせ、友として傍らに置いていた歴史がある。問答無用で崇拝されるべき神として、当該頃の皇帝など自らを神の子と宣言して、首を垂れるように強制していたぐらいだ。

「そして今の雷鳴を聞いて、何も抱かない者がいるか?あれは心を高揚させる為に吹き鳴らす、あるいは響き渡らせる歌声だ」

「恐怖心を煽る、じゃないのですか?」

「それもあるだろうが、あれはローマ市民が我らが神と頭を下げられてきた主神だ。それは敵対者ではなく味方にのみ知られ、愛国心を奮い立たされる。恐怖を味方に出来るなんて、これほど頼もしい力はない――――リヒトの力を思い出してくれ」

 両隣の少女達は、それで全てを知り尽くしたようで、痛感した顔で表現した。無言の時間が進む中、自身の研究成果を見せつけるという語外の圧力を徹底的に成功した学生達と教授は深々と頭を下げて舞台から去っていく。

「恐ろしいかい?あれが排他的な我らが学院の中でも、輪にかけて表に出ない色彩学の一端だ。同時に私達の深奥は、この程度ではないだと宣言している。—――更に付け加えよう、ああいった力を見せつけてもなお、この秘境の権謀術数パワーバランスは、まるで変わらない。ランク付けなどという無意味な事は好ましくないが、あの彼らでさえ下層に位置しているのだよ」

 その言葉にふたりは何を見るだろうか。片や他世界からこの星に降り立った我らが妹、戦乙女として多くの死と別離、裏切りと清濁と越した戦に身を置いた天使。

 もう片方は―――この秘境の頂点に位置すると言っても過言ではない、否、彼らがいるからこそ『秘境』が成り立ち、そのなかでも令嬢と呼ばれ次期後継者とも謳われる姫君—―――正常な世界から逸脱した彼女達にとっても、この光景は異質だった。

「ロタ、君は直接見ていないだろうが、雷神は力の欠片も発揮できずに倒れたのだよ。毒に身を蝕まれながらも絞め殺したかの者の力、理解してくれたか?」

「‥‥自己愛と傲慢と酒乱と暴力だけしか取り柄がないと思っていましたが」

「あははは!!それは私の傍に居過ぎた所為だ。うむ、だが今と成っては我らが主神の前で殴り倒し、不意打ちに腹を立てて下界に叩き落としたのはやり過ぎだったな。—―――あの頃は私も若かった。あの髭面を血で染めるなんて‥」

 つい首を振って懐かしい思い出を話してしまったところで、大いに後悔した。

「あー聞き流してくれ」

「‥‥おふたりの主神って、それに雷神をって―――一体、どれだけの」

「お忘れなきように。私達はあの方が手ずから作り上げ、必ず訪れる戦の備えにと生まれた神の使い。当然、神の位に位置する、もしくは神すら越える力を与えられて当然です。殺戮の名を持つこの方を侮らないように」

 自分の事のように誇るロタに涙腺が緩みそうになったが、言葉を発する事で波を食い止める。けれど、ここに影が差してくれていた事に、こうも感謝するとは思わなかった。

「因みに言っておくが、私は第二機構。第一機構の長姉達の中には、私など歯牙にもかけない素体もいた。後継機たる私達はあくまでも、勇者英雄を探し出し、魂を鎮める事項を優先されて製造された。くくく‥病院のエイルなど第一機構の一機だよ」

「だとしても、ヘルヤ様は私達の中でも最も力を持った!!」

 なかなかに折れないロタを宥めるべく、頭に手を伸ばして髪を撫でるが一度始まった戦乙女自慢は終わり知らず、アマネ君を置いてけぼりにしてもなお続く。

「さて、そろそろ次の演目だ。私の食指が動くものがあるか、楽しませて貰おう」

 



 何故自分達がこの社交界に赴いたか、それは学究の徒と呼ばれる人体を使って研究、探究を行う者達が、この秘境に侵入したからだ。彼らの目的は、この秘境から技術を盗み、何かを起こそうとしている。誰から聞いたか?外部監査科の本部からもたらされた確かな筋を持つ情報との事だった。

 何故このタイミングか?憶測に過ぎないが、この社交界があるからだ。

 では外部監査科からの指令がなければ、会場に踏み込まなかったのか?その可能性は大いにある。そもそも異端学カレッジは、どれにも分類出来ない異常者達を、暫定的にまとめているに過ぎない。これから発表する力が、どれだけ世界の法則から離れた魔術、異端だったとしても――――意味がわからなければ、意味がない。

 けれど、それを理由に異端学カレッジは、この秘境に何ももたらさない無価値な施設として取り潰されると決まったなら、異端学カレッジの総員が悪鬼羅刹となる。

「マスターは知らないみたいだけど、結構皆あのカレッジを気に入ってる‥‥」

 誰にも理解できない不可解な力を持って、自然学カレッジのビルはねじ切られ、発掘学の迷宮は白亜の山となるだろう。無論、その時には機関も動くだろうが、真っ当な判断が出来る管理職が居れば――――異端学カレッジの意のままに動く。

「ただの異常しか知らない健常者なら、カレッジの異端さに気付いた時、逃げ出して震える。魔に連なる者が、何も理解出来ないなんていう恐怖を知ったら、何も出来ないで首を振るだけになる――――あそこにまともな人間は、誰一人としていない」

 少し話しただけでわかった。彼らは、既にこの世界から逸脱した知識を手にしている。神に敗北し火口に落とされた怪物と交信した者、夢の世界で人々と会話、向こうの世界からこちらの自分を見つめた者、厳寒の海の先にある世界の果てに落ち、帰ってきた者—――どれもこれも信じるに値しない戯言だが、彼らにとってそれは現実だった。そしてその証拠に、どの学部からも恐れられた異端達だった。

「下手に放置すると、この街のどこかを異界にしかねない―――そう思ってるんだろうけど、そんな真似をしないと自分の研究を完成出来ないなんて、あり得ないだろう。‥‥あの学生達は、まだこの世界に期待してるんだから」

 彼らは、どちらかと言えばこの世界の守護者となり得る存在だった。自分の生きる世界を守る為なら自分の研究を曝け出せる善人達。その上、それが直近で起り得る可能性もあると知り尽くしていた。限りなく、この神獣と相対する存在だった。

「誰からも理解されないで、救われた英雄達。‥‥俺もそう成れたんだろうか―――そんな筈がないだろう。今更、何に期待してる」

 自分ひとりの控室で、無意味に黄昏ていた。

 少しばかり緊張をするかと我ながら興奮していたが、なんの事も無い。ただ自分の手足を伸ばすに等しい水晶の操作に、何を緊張するか。カタリのように料理やピアノの披露するのとはレベルが違う。こんなにも楽では、マスターに溜息を吐かれてしまう。

「‥‥どうすれば褒めてくれるかな。腕だけだと俺もつまらないし、今更槍を見せたとして次は?とか言われそう。何か造ってみるか?だけど造形も創作も、色彩学にはセンスで敵わない。派手にやっても結局宝石には負ける―――宝石にマスター達が満足したらどうしよう‥‥」

 きっと何を見せても、ロタもマスターも褒めてくれる。元々、今回の舞台に異端学カレッジの名はなかったのだ。何を見せても―――驚かれるに決まっている。

 けれど、招待状を受け取って参加してしまったのだから義務を果たさねば自分のプライドが許さない。隠れていそいそと仕事を励むなど、皆が救って褒めてくれた神獣として納得できない。何より!!ロタが何でもわがままを聞いてくれると言ったのだ。

「‥‥ロタに恥をかかせられない。それにロタに褒めて貰いたい!!」

 ロタに手放しに褒めて抱きしめて貰いたい。自分がロタに求めるわがままはただ一つ。頭を撫でて抱きしめて褒めて、「私のリヒト」と呼んで欲しい。

「‥‥あれ、これだとあの方を同じか?それに四つもある?」

 口を衝いて疑問が生まれた瞬間、扉を叩かれた。まだ自分の時間ではなかった筈と訝しみながらも、扉を叩かれた以上、嫌々ながらも応対しなければならない。

「はーい、どうかしましたか?」

 我ながら幼い声を出してしまったと、慌てて口を閉じる。けれど、それは既に空気を震わせ終わっていた。しかも、扉の向こうの人間にも届いてしまっていた。

「ははははッ!!今の聞いたかよ?やっぱしガキじゃねーか」

「つーか、本当にいるなんて。どうせ見せる物なんてないんだし、とっとと消えればいいのによ」

 聞き覚えのある声だった。それもその筈、先日の会場では挨拶と同時に薄気味悪い笑みを浮かべて「俺の方が年上だ」と、見れば誰にでもわかる現実を絶対的な壁だとでもいうように誇ってきた人種だった。

 重ねた齢しか取り柄の無い純粋な少年—――と同時に、先ほどの廊下でも高笑いと共に、口を閉じた以上自分が勝利したのだと誇った少年でもあった。

「おい、聞こえるか?目障りだから消えてくれよ。どれだけのもん見せようと、どうせ異端学の評価が上がる訳でもないんだしよ」

 決定的な違いに気付いてしまった。

「‥‥周りの評価の為に、秘境にいるのか」

 入学当初から感じていた違和感だった。彼らと自分では環境も関係も全てが違う。当然だ、自分は―――逃げ込む為、そしてカタリと一緒に居たいが為にここに来た。

 そして、星を撃ち落とす為。

「あ?何か言ったか?」

「—――ひとつ聞きたい。どうして、俺がいると目障りなんだ?自分と比べられるのが、そんなに嫌なのか?」

 鍵を掛かっている扉のつまみが回った。ともすれば、扉を蹴り破るように開かれるのも必然だ。よって扉を楽に開けないように水晶で補強するのも可能だった。

「痛っ!?まだ鍵があったか!?」

「鍵開けがお前の研究テーマか。悪いくないチョイスだ、一体なんの扉を開けたいんだ?」

「‥‥はぁ?」

「はぁ?じゃないだろう、お前の探究はどこを見ているのかって聞いてるんだ。早く答えてくれ」

 水晶を解きながら扉を開けると、足首を庇うように顔を伏していた少年の顔が目に入る。余程痛かったようだが顔が見えた瞬間、血走った眼を向けて怒りで我を忘れた少年が襟首を掴み上げてくる。

「‥‥掴ませれば答えてくれるのか?それで、答えは?」

 なんの力も宿らせていない拳で目を潰すべく、眼孔に指の関節を突き出して放ってきたが―――それが仇と成って指が手の内に入り込む事となった。

「悪くない音だったじゃないか。折れて外れた?」

 襟を掴んでいた手が離れ、廊下の壁に背を押し付けて痛みに悶え始める。

 その様子に溜息を漏らしてしまう。この様子では研究テーマのひとつ、鍵開けの方法すら聞き出せないではないか。

「どうして人間は誰も彼も、俺の顔を殴りたがるんだ。殴らせる筈ないだろう」

 自分の顔を覆う仮面を取り外して、軽く投げてみる。仮面は今も壁に倒れている少年の額に当たって塵と化していった。この燐光は評判が良かったのに、声ひとつ出さないとは――――なんとも不憫な人間だ。見せ甲斐の無い。

「どうでもいいか。それで結局なんの用だったんだ?」

 思い出したように少年のひとりが握手でもするように、もしくは指令でも下すように指を伸ばした手を振り落とした。何が起こるのかと身構えていたが、軽く頭を小突かれる程度の衝撃しか感じなかった。

「‥‥終わり?」

「—――はぁ‥‥?」

 襲撃を仕掛けてきた本人がもっとも驚いていた。それだけでも無様だというのに、数秒の沈黙を続けてもまだ動かずにいる。思わず肩を手で押してしまうぐらい。

「あ、おい」

 崩れ落ちるように倒れた少年は、天井を眺めながら目のフォーカスを開けっ放しにしている。一体なんだったのか?仕方なしと廊下から出ると、そこにも数人の学生達が立っていた。

「チッ!!所詮、没落すら出来ないにわか貴族かよ!!」

「‥‥お前達、自分よりも格下の家を使って襲撃しに来たのか」

 貴族間での諍い、争いなど特段珍しくもない。それが我が家魔貴族であったのなら尚更だった。家にあるゴーレム、財宝、いつの間にか買っていた恨み―――そういった毒々しいながらも人間臭い理由から、前々構築していた屋敷の占拠作戦、第四位の首と魔貴族の地位といった貴族らしい物理的な権力闘争まで、ありとあらゆる理由で狙われ続けていた。けれど、それらは全て自らの手で行われていた。

「貴族の誇りとかはどうした?それに俺の首を狙ったところで価値なんてないぞ」

「お前みたいな奴が、秘境を歩いているだけでも気に食わねぇんだよ」

 だから他人の手を頼って追い出そうとしたとは――――この神獣の眼を持ってしても予見できない事象であった。誇りというものは、家々で違っていたようだ。

「まぁいいさ。おい、お前のカレッジ、随分扱いがいいみたいじゃねぇかよ」

「俺は家の代表としても招待されてる。文句なら学院に言え」

「チッ‥‥相変わらずのガキがよ。そんな無様、俺達がする訳ないだろうが」

「だから、数を揃えて襲撃か。討魔局と変わらないな」

 ちょっとした挑発のつもりだったのに、上着の下から針のような短剣スティレットを抜き出した。ヨマイがこの場にいれば、憐れみの目を携えていた事だろう。

 スティレットは本来、鎖帷子の普及によってサーベルでは致命傷を与えられなくなった戦士や騎士に向ける―――慈悲の名も持つ必殺の武器であった。

 殺傷能力は極めて高く心臓を一突きする事で、痛みもなく即死させられる。

「細いな。それでどうする―――」

「こうだよ」

 なんの躊躇もなく繰り出した刺突に―――反応が出来なかった。

「教えといてやるよ。お前のカレッジの席から女をひとり呼び出してやった。お前の名前を使ってな―――確か‥‥ロタとか言ったか?」

 腹に深々と突き刺さったスティレットは、歪みながら顔を映していた。

「お前と婚約してたんだろう?いいよな?魔貴族のお坊ちゃまはよ!!」

 部屋の中に押し入れるように、スティレットを腹に押し付け続ける。勢いに負けて倒れそうになった時、首に腕を回され無理やり立たされる。

「すごい美人だったじゃないか?それにお前の講師、あの女も。くくく‥恋仲とか言って、どっちもお前の家に興味があるだけだろう?どうせ自然学じゃやっていけなくなって、噂を流したんだろうが―――家がデカくて良かったじゃないか」

 頭が凍り付いていく。

「異端学とかいう名前だけのカレッジなら、自分でも幅ぁ聞かせるとか思ったんだろう?おい、行って来い。女を待たせるのは貴族失格だろうが」

 軽く後ろに振り返った少年が、手下に指示を下す。ぞろぞろとした手下達の足音の直後、堰を切ったように壊れた笑いを上げて廊下を駆け始める。

 心臓が冷たく、身体を巡る血さえ凍てつくのがわかる。

「可哀想だね~、とか言われて調子乗ってたんだろうが―――お前はこの程度だ。ナイフ一歩に勝てないんだからよ。ははは、諦めてさっさと帰れば良かったんだよ」

「‥‥お前」

「喋るのかよ?なら声でも上げてみろ、全員追い払ってやるから」

 耳をつんざく高笑いが真横から聞こえているのに―――音の意味を理解する機能が脳によって排斥されている。人間の言葉を、ただの騒音としか感じない。

 ロタの言葉を思い出した。この神獣リヒトは自分の姿を見てはいけない、何故ならば自分の姿を認識してしまった時、自分は人間とは違うのだと理解してしまう。

 その時、人が蟻を理解できないのと同じように、人を理解出来なくなると。

「おい、聞こえてるか?声のひとつでも上げて見ろって―――言ってるんだろうがよ!!はははははぁ!!もう痛みすら感じないかよ?誰も来ない部屋で死んで――」

 そこで気が付いたのだ。自分の剣は、そもそも刺さってなどいなかったと。

 半端に文字の力を付与されていたゴーレムは、歴史も格も次元も違う相手に向けられた自分を憐れむように使い手の意に反して、懺悔でもするように刃を消していたと。柄だけをブラックタイに押し付けていたと気が付いた少年は、床にゴーレムを落とす。金属の軽い音がゴーレムの悲鳴のように感じた。

 それとも――――使い手であった少年への最後の助言か。

「な、なぁ‥冗談だろう?一人芝居とか、そういうつもりでな‥」

「—―――—―――――」

 受け取る対象のいない言葉を、自分に言い聞かせるように紡ぐ。

 もしかして、これは望まぬ形の再会だったのだろうか。目の前の人間は過去にリヒトへ出会っていたのかもしれない。けれど人間リヒトは、この人間を意識の内に宿してなどいない。だから神獣リヒトも知らない。

 与えられた席に座った自分が、リヒトさえ知らない真実を知る筈がない。

「ロタ‥‥」

「そ、そうだ!!今すぐ呼んできてやるから‥‥ま、待ってくれ!!」

 腕の骨がそのまま手のひらを突き破ってきたようだった。



「どうだった?」

「ダメだ。全然繋がらない、どうしたっていうんだ?」

「‥‥アイツが頼まれたんだろう?張本人が居なくて話聞けるのかよ?」

 数人の少年が首を捻りながらも、軽い雰囲気であった理由は明白である。

 それよりも優先すべき事項が確かに存在しているからだ。

 それは男性としての欲望のいくつか――――本能的な性欲であったり、他人の物を奪うという征服欲、拳を振り下ろせる優越欲。社会的地位が認められる承認欲。

 もしかしたら初めての経験が出来る事への希望と不満であったのかもしれない。

「あのガキ、今頃どうなってると思うよ?未だに救急車ひとつ来ないって事は、死んだんだろうが」

「石だったか、なんだったかの使い手なんだろう?刺された場所ぐらい硬化出来るんじゃないか。まぁそれさえ出来ない無能って可能性もあるけどよ」

 このような言葉遣い、生家やカレッジでは決して使わない。

 仮にも彼らは自分の家を背負う事が運命付けられた選ばれし者達だからだ。無論、自分の意思とは関係なく生まれたという部分こそあるが、彼らはそれに応えられる実力を持っていた。ならば第一印象の次、言葉というアクセサリーについては、家々の教育係に叩き込まれたという実績と経験がある。

 健全なる精神は健全なる身体に宿る。デキムス・ユニウス・ユウェナリスの詩だ。

 単体で見てしまえば、精神が健全ならば身体さえも健全である。その逆もまた真なり――――そう感じ取って噛みしめてしまうだろうが、大いなる誤解である。

 この詩が生まれた時代は古代ローマ。この詩は痛烈な当時の批判だという説が有力である。具体的には身を滅ぼす願い事、欲望持つべきではないという戒めの詩達の中のひとつ――――更に言ってしまえば原典は『健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである』という慎ましやかな身体の健康だけを祈るべきだという意味。

 けれど、これさえも厳密には違う。ではなにか?端的に行こう、誘惑に打ち勝つ強靭で勇猛果敢な精神を求めているだけである。

 何故忘れたのか?第三帝国らが軍国主義を掲げて、前述のように改竄した意味を使って愛国を促したからである。その後も、スポーツの祭典でも使われたからだ。

「にしても―――簡単過ぎだ、あの女。どれだけ貴族の名前に飢えてんだ、あのガキが呼んでるって言えばすぐに来るなんて。しかも、ご丁寧に言いつけ通りひとりでなんて」

「上昇志向が強いんだろう?ほんとかどうか知らないが、魔貴族の一員の婚約者だなんてよ。くくく‥‥俺達の仲間入りをしたいんだろうが、下手に身籠ったら消されるって知らないんだろう――――無理やり孕ませてやるか?」

 経験こそあるようだが、それ以上の経験を持たない少年が、ご自慢の武勇伝のひとつを引き出した。知らないのは少年の方だった、下手に自分の種など芽吹かせようものなら自分達の一族の汚点を造り出すと同意義である。

 その時、消されるのは相手だけではなく自分だというのも、また常識であった。

「簡単に部屋に連れ込めるし‥‥どうやら、あのガキじゃあ満足できないみたいだな。淑女を待たせるなんて、貴族失格じゃないか。そろそろ俺が構って――――」

「待てよ、俺が部屋を提供したんだろう。それにまだアイツが戻って来てない」

「それがどうした?アイツだって、まだ無傷の筈がないってわかってんだろうが」

 光沢のある布地のスーツを高質な皮の椅子に擦りつけながら立ち上がった少年のひとりが、戦乙女が待つ部屋へと踵を返す。けれど、いまだ自分達の精神的にも立場的にも上の少年を待つべきだと、数人の学生達が壁として立ちはだかる。

「ふざけんな、退けよ」

「待てって、今連絡がきた」

 侯爵—――今でいう都知事クラスの家の少年が、手で諍いを止めた。

「なんだ、アイツじゃないのか。—――なんだ?今、取り込み中なんだけどよ」

「あ?そりゃ悪かったな。お前ら宴の途中だろう?何やってるんだ?」

「はぁ?決まってるだろう、お楽しみ中だよ‥‥しかも、他人の女でのな」

 支配欲?征服欲?強奪欲?往々にして、そういった趣味嗜好があるのは世界が認める所であるが、未だ指一本として触れられていない相手に対して使うのは、些か先走り過ぎだった。まだ車に触れてもいないのに、今日の愛車を決めるのと変わらない。

「‥‥いるのは貴族とカレッジの代表、あと教授達だろう。そんな奴らの女なんて―――生きて帰れるのか?」

 スピーカーの向こうにいる相手は、至って冷静であった。過去に痛い目を見たのか、それとも現在進行形で冷遇を受けているかの、もしくは双方であった。

「問題ねぇよ。相手は殺した、今頃死体の処理でもしてるんじゃないか?」

 今も、足を組んで背もたれに身体を預けている少年も冷静ではあったが、それはトロッコ問題の被害者達のひとりと相違なかった。第三者のただの気の迷いで傍観者にも生贄にもなる――――どちらの被害者であるかは、ここでは述べない。

「殺した‥‥自然学カレッジでやったのか!?正気か!?誰をやったんだよ‥‥?」

「焦んなって、まずは一服程度」

「いいから言え!!」

 耳が割れかねないハウリングに、懐から出した乾燥植物を落としてしまい舌打ちのひとつをした少年は、汚れた巻紙を踏みつけて心底不機嫌にこう言った。

「自称第四位の魔貴族のお孫様だよ、それがどうした?」

 唐突に切れた通話に、電子機器を潰しかねない力で握り答える。そんな握力など持ち合わせていないのは少年自身も承知していたが、次の番号に連絡する程度には憤っていた――――無論、相手は自分の父である。

「父上、お耳に入れた事が」

「—――なんだ?」

 声だけで笑みを浮かべてしまう。少年の父は侯爵であった、侯爵とは現代で言う県知事—――それは必要とあらば隣の土地、新たな県を接収、平らげられる程の権力と物理的な力、そして何物をも寄り付かせない術式とゴーレムを操れる貴族のお手本のような人物であった。積み重ねた歴史がものを言う魔に連なる者の世界にとって、勝者とは重ねた場数ではない――――家々の齢そのものであった。

「我が家の傘下のひとり、預けている資産の管理を行っている家の息子が私に無礼な態度、話の途中で逃げるという貴族にとってあるまじき行為を」

「話はわかった。我らの庇護下にいながらそのような態度、決して見過ごせない。話は私から通しておく。お前は謝罪を受け入れて―――わかっているな?」

「はい、相応の責任は取って頂きます」

 これで終わった。そう確信した少年はようやく懐から薬草を取り出す、と同時に自分の父の言葉に耳を傾けていた。少年にとって父とは特別であった、勇猛で強靭、そして義理堅くて偉大。礼儀を重んじる大人に少年は憧れを胸に―――便利な機械としても使っていた。

「お前も、もうすぐ18だ。そろそろ相手選びをすべきじゃないか?」

「ええ、いい関係を結ぶに値する令嬢達がこの秘境には多くいます。そうだ、父上—――実はですね、この会場に第四位の魔貴族とかいう老人が」

 空気が変わった。それにいの一番に気が付いたのは少年であった。

「父上?」

「‥‥お前、あのお方に無礼のひとつでもしていないだろうな‥‥?」

「え―――」

 つい見てしまった。自分達が騙して連れ去り、酒で酔わせた少女の事を。

「‥‥まさか」

「い、いいえ。本人は決して」

「本人には‥‥?」

 スピーカーの向こう側から聞こえる奥歯を震わす音に、少年は冷静ではいられなくなっていく。周りの少年達も同じだった。通話先の相手は侯爵のひとり。例え姿を見せられずとも背筋と襟を伸ばすに相応しい相手であるのは間違いなかったからだ。

「な、なぁ。お前の家は侯爵なんだろう‥‥?」

「うるせぇ、黙ってろ――――父上。この私は決して義にもとる行いなど。確かに魔貴族の孫を騙る未熟者には制裁を下しましたが、私はあくまでも貴族の」

「正気かッ!!?」

 つい今しがた、耳朶から脳髄へと叩き込まれた言葉をもう一度耳にする。

「お前‥‥自分が何をしたのか―――あの方の血族に何をした‥‥」

「む、昔から親しくしていた侯爵のご子息と共に、貴族の誇りと彼自身の不義を剣で貫き」

「—―――な、馬鹿な‥‥それだけの理由で、他には何もしていないな‥‥」

 絞り出す、地の底から響き渡る声は、比喩などではなかった。

 実際に貴族の手本殿は重厚で弾丸を数発受けた程度では傷ひとつ付かないデスクに隠れ、受話器を抱えて震えていた。思い出したのだ、あの老人の恐ろしさを、そして時も場も無視したあの地獄とも天界とも言い表せない――――魔人の世界を。

「か、彼の婚約者を、」

「世継ぎを奪ったのか!!?しかも、その為に孫を刺した!!?ふざけるな!!!あ、あのお方の孫のひとりは既にオーダーに捕縛され、今も出所などしていない筈――――も、もしや、その相手は‥‥あのベルヴェルク‥‥」

「ベルヴェルク?まさか、そんな名をあんなガキが」

「—―――」

 やはり通話が切れてしまった。

 その意味を知らない少年はきっと幸せであった事だろう。魔人ではない魔神の名を授けられた少年が、この隠し部屋を発見するまで、職人が自身の寿命と研鑽をかけて作り上げた至高の椅子に座り続けられるのだから。




「それは儂の知った事ではない、自分の息子の不始末だ。ご自身で我が孫を止めてみてはいかがか?もしそれが叶ったなら、孫も多少なれど耳を貸しましょうぞ」

 過去に自分の祖父が命を狙った相手に許しを請うとは、魔に連なる者の貴族世界も随分と様変わりしたようだ。しかも、この子供が貴族の誇りを、『つい先ほどまで掲げていた』のだから―――――今後の世界に思いを馳せるという慣れない真似をしてしまった。

「し、しかし、我らは共に魔に連なる者の世界にて」

「それはこの国に限っての話だ。自分を誇るのは見苦しいかもしれぬが、そちらが貴族でいられるのはこの国が閉鎖的であるからだ。‥‥儂と貴様を同列に語るな」

 ダメだ、そう思ってかぶりを振るが、既に悪友の耳には届いてしまっていた。

 これでは孫の事をとやかく言えないではないか、それどころか自分はあの時から何も変わらないと宣言してしまった。冷ややかな苦笑いほど、老体の骨身にこたえる物はあるまい。

「改めて聞かせて貰おうか、この連絡は儂から停戦要求を孫へ飲ませろという命令でいいのか?おっと失礼、交渉であったな」

「め、滅相もない!!し、しかし、今後の魔に連なる者の世界の発展の為、我らが事を荒立てるのは貴族にあるまじき姿かと――――ここはあなたからお孫様へ、そして私から愚息に」

 話にならない、そう思い受話器を戻そうとした時、仕方なしと今一度耳を貸す。

「最後に伝えておこう。此度は直接手を下す事はしない。けれどあの孫は誰よりも気が短い、この儂よりも。だが貴様の息子が今まで生きて来れたこと、ひとえに我が孫の温情があったからだと理解しているな?」

「も、勿論です‥‥」

「では、裁きの日が来たのだと諦めて受け入れよ。だが抗う事は出来るかもしれぬぞ――――それが可能かどうかは、人外の我らにはあずかり知らぬが」

 首を振って受話器を元に戻す。なかなかに仕込まれている自動人形であった、もうよろしいのか?と僅かな時間の滞空を用いた後、頭を下げながら個室から下がっていった。

 けれど、見た目がよろしくない。何故、面を付けているのか。

「異端学カレッジは最後だ。まだまだ時間もある、それまでに終わってくくればいいのだが」

「リヒトの婚約者も、この学院の生徒だ。婦女子が暴行を受けているやもしれぬ状況で、お前が動かないのか?仮にも教育者、聖職者であろう」

「全てのカレッジに私の眼がある。何が起こっているか程度、分かるに決まっているだろう。—――老いたな」

「くくく、お前もな」

 僅かにまぶたを開けた時、隣の学院長と呼ばれる鬼のひとりが咳で胸を抑える。

「なんのつもりだ?入学でも望む気か?」

「それも楽しいかもしれぬが、今更学生の真似などするものか。叶うのなら、今一度教育者としての道を選ぶわい。‥‥相手は選ばせて貰うがな」

「誰が認める物か―――相変わらずお前は気まぐれだな」

「互いにな」

 ただの老人同士の会話に過ぎぬ今を、諸人は何と謳うだろうか。望まざるを問わずに下された名は、上位4番目の貴族たる自分と、秘境にて学院長の名を冠する古い友人の会話など。

 けれど、そう思っているのは自分達だけなのであろう。

「見ろ、シッポウ。あれが我らに向けられている目だ。儂達は、いつの間に畏敬の念を含む目を向けられるに値したのだろうな。ただ気ままに現世であれ常世であれ歩いてきただけに過ぎないというのに」

「そう言うな。私とて、この立場は預かり知らぬうちに与えられた席だ。だが、きっとこれこそが我らの裁きなのだろう。慎みも懺悔もなく、ただ思うままにここまで生きてしまった亡者の末路よ。―――彼、リヒト君をどう見る?」

「どうとは?らしくないな、歯切れが悪いぞ」

 与えられていたグラスを傾け、唇に刺激を与える。

「――――――必要が有れば、彼は私達の手で別れを与えなければならない」

「その時の覚悟、とでも言うまい。儂の所感を告げておこう。死なずに生きてきた人外達を集めようが、今のリヒトひとりにも敵わない。あれは触れてはならない何かに触れてきた神獣、神の使い。到底、この世界から観測しか出来ない我らなど背伸びしても届くまい」

「災厄の子達か。ここに彼らが訪れるなど承知していたが、此度は彼処まで世界の理を崩落させる在り方とはな。見よ、この星を、この世界を。彼らの誕生など知り尽くしていると豪語していた創造主気取りが、新たな人間の文明一つ抱えきれずに霧散しつつある。それにトドメでも刺すように『星そのもの』、『喰らい手』までもが生まれた。飽和したこの世を解消するには」

「リヒトら災厄の子達を排除する、か。自らの行いで人間をここまで自惚れさせておいて、なんたる体たらくか。黎明すら未だ迎えずにいるこの時代に、敵を作り出し己の不備を隠すとはな、終ぞ、あれらは変わらぬようだな。もはや神の席など与えられも、存続もできぬというのに」

 あらゆる種族を踏み潰すという行いは、人間以外がこの世の支配者であってはならんという閉鎖的な世界を創造したのと変わらない。人間の脳と心こそが、自らの存在を確立、証明、分け与えた残滓だと理解しているからこそ手放す事を許さない。

「消えるのが惜しいのか、それとも今更怖気づいたのか。あれほど愚昧だと嘲笑っていた人間を最後の寄る辺にするとは、人間に崇拝された来た者が今は人間を崇拝するとは――――人間の力を抑えきれなくなったと吐き出せば良いものを」

 みなまで言うな。首を振る友人は、そう伝えるように次の演目を指差した。






「ロタ‥‥」

 既に身体の中に血など通っていない。否、血こそ通っているが、それは人間の呼ぶ、認識する所の血ではない。神域にて神が用いている純白の地脈。自分の身体は星が加護した器であるのだから、この身体に大地が生まれていても不思議ではない。

「‥‥どこだ」

 数分前、確かにあの人間達が去っていった廊下をこの爪で歩いていた。

 絨毯を握るように踏みしめる爪は、温柔な布を貫通して床板にまで達している。けれど、やはりここは自然学カレッジであり外部の魔に連なる者を招く会場。争いごとなど慣れたものと言わんばかりに、物理的に穴が開いた絨毯は自動的に縫い戻る。

「—―――ロタ、ロタも俺を置いて行くのか」

 気まぐれに視線を腕へと移す。そこにあったのはもはや腕ではない、水晶と化した腕であったものは指も爪もない――――時間と環境、そして吹き抜ける風によって偶発的に造り出された鍾乳石にも似た水晶の塊、奔流であった。

「なんで‥‥なんで、皆奪っていく。なんで、俺ばかりひとりにさせる」

 自己の姿を認識できるかどうか、それこそが獣と人の分岐点なのであろう。

 脳で神秘を解析できるだろか。心で真理を悔い改められるだろうか。ああ、きっとそれこそが人が望んで止まぬ知恵なのだ。汝自身を知れ―――自分の姿を認めよ。

「ロタ―――俺は、真に人から離れているのか?」

 この身体は端末に過ぎない。真なる力を解放したマスターでさえ焼き尽くせる席に座している自分が、足元に在る世界を見渡せる筈も、耳を貸せる訳もない。

 だから生まれたのがこの身体であった。神獣リヒトに楔を打つ、精神と肉体の乖離を防ぎ、繋ぎ止める為にカタリ達が造り出してくれた樹であった。

 生命の樹—―――それは人間リヒトの命を奪っておきながら、神獣リヒトの命を―――人間から見れば命を繋ぎ止めている白銀の樹。けれど、それだけではない。

「人間の姿—――きっとこの身体を持っているから、俺は人間の中でも生きて行ける。だけど、俺がこの姿を持っているから人間は同族だと驕る。ああ、なら―――」

 水晶の塊に過ぎなかった腕が、神獣のそれに近づいていく。きっと竜などあの方が、俺でも理解できるように言い換えてくれた言葉。あの方と俺の在り方は、神喰らいとしか言い表せない――――多次元の獣。

「ああ、だけど――――何もかも捨てた俺をロタは‥‥受け入れてくれるのか」

 深紅の絨毯と美しい栗色の床板が揺れていくのがわかる。数匹の肉塊が、こちらに向かってくるのがわかる。やはり人間は、この神獣を求めて止まない。

 だから――――欠片の容赦も与えない。

「いたぞ」

 どのような作戦、いや、作戦など検討するしていないのだろう。一騎打ちを望んでいる貴族崩れが、こちらの姿を視認した後、悠々と上着に手を入れる。

 どのような順序で、このリヒトを殴りつけるか、それだけは決めていたようだ。

「侯爵のお坊ちゃんはどうした?逃げ切ったのか?」

 一派の人間だったらしく、同じ短剣のゴーレムを引き出したが――――水晶を纏わせた杖には刃渡りも重量も比べ物にならなかった。瞬きの隙に、ほんの一息で壁にめり込み血を吹き出す身内を見て、喉を締め上げるが続けて声は出なかった。

「ロタ‥‥」

 動くでも倒れるでもない素人を、槍と化した杖で突き刺し天井まで持ち上げる。こぼれ落ちる血を浴びてようやく正気になった人間が、破れかぶれになりながらもゴーレムの刃を伸ばし、腕ぐらいの刀身とする。

 構えはフェンシング、フルーレ、エペ。心臓、肺、肝臓、眼球、脳、それぞれを一息で殺す事を念頭に置いた、けれどもどれもこれも実践には不向きな構えだった。

 だって―――

「え、」

「退け」

 槍には届かない。そして重量を持った杖の一撃にはあまりに脆過ぎる。

 突きを放ち身体を貫通する一撃を目論んだ愚か者の刃が届く直前、頭ひとつ分—―――槍を振り下ろし、ゴーレムを握った肩が身体から外す。自分の視界から消えた腕と切っ先を探している悠長な温室育ちの真横へ、松葉杖で地面を突き刺し、起点と支点と伴った回転を行い――――ゴーレム諸共水晶の塊を握った杖で撃ち放つ。

「どこだ‥‥」

 今もゴーレムを持っている人間達は、ようやく気が付いた。自分が何を見ているのか、相手はただの少年ではないと。人間の身体を被っているだけの人外だと。

 何故人間は敢えて危険な生物を飼うのか。それには本人にしかわからない支配欲があるのだろう。人間の指など息を吸うように食い千切る危険な爬虫類を飼っている自分は、きっと危険な生物を蹂躙、支配した。そう優越感に浸り、拳を振り下ろす。

 けれど、本当にそうなのだろうか――――それは神獣を求める人間と同じだ。

 危険な獣の皮、骨、たてがみを金銭で買う事で、弱い自分を大きく見せている。

「ふ、ふざけるな!!」

 いつかホテルで見た古式の拳銃。巨大なデリンジャーを思わせる短筒を握った未熟者が、歪んだ顔から牙を覗かせ引き金を引いた。それにどれだけの歴史、血が流れたのか自分には計り知れない。火を起こし、弓を造り、毒を携え、鉄を鍛える。

 全ては人間よりも強大で、須らく人間よりも知能の低い獣を狩る為の武器。

 けれど――――それは格下、または同格に扱うべき棍棒だった。

「魔貴族なんて大した事ねぇだろうが!!」

 銃身そのものが起爆したのかと思わせる爆音と共に、火薬の煙を吐き出した短銃の鉛玉は本来の性能とはかけ離れた直線を描いて、空気を突き破る。現代では話にならない銃であるのは述べるまでもない――――けれど、その巨大な銃弾は現代の装甲を持ってしても用意には弾き返せず、生き残る事など不可能であった。

 けれど、それは所詮人間に対しての石でしかない。

「‥‥はぁ?」

 銃弾は眼球を捉え、側頭部ごと肉片とした筈だった。けれど、弾丸がその身の代わりに持ち去ったのは頭蓋の皮一枚。毛髪と頭蓋骨を分ける人間の証が削げ落ちた。

「お、お前—――人じゃない‥‥ッ!?」

 もはや隠す気にならなかった。皮を作り直す事もしないで、水晶の頭はそのままに息吹を構える――――仮定対象人間—――測定硬度人体—――必要範囲視認—―――可能投擲質量、星穿てずの槍と同等。削減を推奨、拒絶する。現時点から神の血を飽和限界まで注入、赤熱化開始—――節制を推奨、推奨を消去する。推奨—――在り方を思い出せ、これは星を撃ち落とす為に造り出した己が使命、己が存在意義。

 ここで息吹を損なうつもりか?

「—―――ロタ」

 思い出してしまった。ロタに言われたではないか、私のリヒトは使命を忘れない。

 あの方にも言われた筈だ、息吹には意味が必要。怒りに任せるのも悪くはない、けれども理がなければ息吹は容易に防がれる、これが真実。

 息吹は、私達の存在意義だと。

「‥‥血は使わない。角度を計測」

 注入途絶、排斥開始。同時に振り被っていた槍の質量を削減—――8割減少を確認—――頭蓋を皮で覆い、爪となっていた足を人間のそれに再構築、構築後に絨毯を踏みつけ片足を一歩下げる。人体の構造を以てして投擲可能域まで創造終了。

「これでもお前達には惜しい一撃だ。噛みしめて消えろ」

 次瞬ごとに槍から燐光が零れ落ちる。赤熱化の片鱗すら浮かべない槍の飽和領域を水晶の奔流が溢れ超え始めた。けれど、ただの人間にはこれで事足りる。

 最後のあがきだろうか、それぞれが短銃やナイフを用いて腕を奪い取ろうとするが、それらは全て身体に届く前に塵と成って消えていく。

「次元が違うんだ、届く訳がないだろう―――眠れ」

 —―――告げた時だった。背筋に僅かな熱を感じた。これは自分の力によって起こされた余波でない。赤熱化を使わないと決めたのだから、この身を焦がす空気などある筈がない―――そして、これは権能でも行使でも、ましてや支配でもない。

 紛れもなく、この空気に直接呼びかけるが如く震わせは―――命令。

「現時点を以て、異端学カレッジ所属リヒト氏を、殺人罪、兼誘拐犯として逮捕する。隙を見せるからだよ―――」

 余裕の笑みを響かせる新たな組織に、忘れ去ろうとしていた神獣の鼓動が舞い戻る。やはり人間は嫌悪すべきだ。一切の容赦を捨て、存在意義をかけて塵とすべき。

「まずはお返しとするよ」

 振り向く暇もなかった。既に命令は放たれていたからだ―――大地を踏み慣らす禹歩と共に視界の隅を、ドーマン符が敷き詰められる。

「「「急急如意令!!」」」

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