第6話

「美味しい‥」

 ほっと、胸を撫でおろす。

「‥‥良かった」

「だけど、良かったの?カタリ達とじゃなくて?」

「なんでだろうな‥‥戻ったら、みんなダウンしてた。マスターは二日酔いみたいんだけど―――カタリとロタは、なんだったか‥光に酔ったとかで‥マヤカこそ良かったのか?」

「あなたの世話をしている事?私の仕事は、あの人が引き継いでくれたから、少しだけ休暇を取った、だから平気」

 ナイフとフォークを巧みに使い、白身魚のポアレを切り分けている。また、皿を満たしているバターソース、オランデーズソースをフォークで掛けてから口に運ぶ。つぼみというには、艶やか過ぎる口元だ。真っ赤な舌を覗かせるマヤカが、ゆっくりと笑ってくれる。

「また、見惚れてるの?」

「見せつけてるのは、そっちだろう‥‥ごめん、車椅子のままで」

「ふふ‥まだ気にしてるの?大丈夫、何も問題ない」

 迷宮から脱出して二日目だった。病院の迎えに来てくれたマヤカが食事に誘ってくれたので、前々から気になっていたレストランに、向かう事となった。

 悪くない雰囲気だ――入店と同時に、スタッフがどこからともなく出迎えてくれて、窓側の車椅子でも優雅に空間を使えるテーブルまで、案内してくれた。惜しむべくは、マヤカを保護者、姉だと思ったのか?メニューを俺には渡さなかった事だ。

「ひとりで食べられる?」

「もう腕は動くよ、あとは毒を散らす為に、しばらく投薬を続けるだけ。エイルさんにも、良い兆候だって言われたし」

「あの方が褒めたくれたの?頑張るあなたを、気にったみたい」

 グラスを傾ける仕草にすら見惚れてしまう。顔を隠すような黒い滑らかな髪が、神秘的で、淫靡で―――先ほどからリラックスしているマヤカから目を離せない。

「どうかした?」

「‥‥それ、お酒?」

「ふふ‥ヒミツ」

 頬を染めているマヤカは、胸の前にグラスを置き、腕で隠してしまう。胸元に視線が行ってしまっている事に気付き、急いでマヤカの顔を眺めが、また笑われる。

 不思議な感覚だった。前々からそうだったが、マヤカを見るという行為が自然な普通の事のように感じる――――宝石に目が引き寄せられる、数時間を掛けて登り切った山頂から山林を見下ろす、そんな見なければならない、見るべきだ―――と誰かに言われている。

 そんな気がする。

「マヤカって」

「私って?」

「‥‥何でもない」

 人に見られる何かをしていたのか?そんな事を聞きそうになってしまった。

「大丈夫、怒らない。だから、言ってみて」

「‥‥なんていうか‥マヤカにとって人に見られる事って、普通なのか?」

「—――あなたは、どう思う?」

 想像通りの質問をしてきた、答えを教えるのは簡単だ。だから、俺の感性を問うている。そんな気がした。

「‥‥マヤカは、人に見られる為にいる――怒ったか?」

「いいえ、怒らない。だけど、あなたもそう思うのね。それは、人間の時から?」

「そうだったかもしれない。初めてマヤカを見た時から、そんな気がしてた。‥‥カタリもそんな事を言ってたんだ。あの人は、宝石を人間形にした感じがするって、俺もそう思ったんだ」

「‥‥あなた達にも、私の血は働いてしまうのね」

 隠していたグラスを口に運び、窓の外を眺めた出した。

「私は特別な―――そう、人形なの」

「人形‥」

「そう、比喩じゃない。私は、特別な人形」

 人形、魔に連なる者にとって、それは大きな意味がある。ひとつはゴーレム。マスターが使っているような、人間と寸分違わぬ人型のゴーレムの意味となる。人型のゴーレムは時代遅れと言われている、なぜなら完全に使いこなす事が不可能だからだ。

 だけど、もう一つ、禁忌的な世界もある。ホムンクルス。

「‥‥マヤカは、錬金術師の」

「正確には違う。だけど、そういう事になる」

 マヤカ自身は何でもないように言った。だけど、試験管の膣で生まれた人造人間だと、言ったのだ。自分で自分は人間じゃない、そう言った。

「妹達もそう。あの子達も、人間じゃない―――怒った?」

「怒るわけないだろう‥ごめん」

「ふふ‥また謝らせてしまったのね。大丈夫、ずっと黙っていて、ごめんなさい」

 目を細めて、微笑んでくれる。マヤカが人間ではない、そう聞いても不思議な感覚がしなかった。前々からそう言っていたのだから、違和感などない。改めて打ち明けてくれた。だから、安心してしまった。

「私は、あなたの言う通り人に求められている。人に求められて生まれたのだから、これはおかしな事じゃない。だから、あなたが私に一目惚れしたのも、正しい反応、ふふ、気付かないって思った?」

「‥‥一目じゃない、三目ぐらいだ‥」

「自分でも気付いていないのね――あなたは、私に一瞬で堕ちた」

 もう否定する言葉を持ち合わせていなかった。守るではない、むしろ敵として現れたマヤカの美の化身じみた姿に、言葉を失ったのを覚えている。

「年上の綺麗な私に出会ったのだから、恋をして当然。カタリ以外に免疫を持っていなかったのだから、尚更。‥‥そう、会った時に警戒心を持っていたのは、綺麗過ぎて驚いたから?」

「—――自分に自信があり過ぎないか‥」

「私の美を証明しているあなたが目の前にいる。だから、これは自明の理」

「マヤカに、勝てる気がしない‥」

「勝とうと思ったの?あなたは、ずっと私に勝てない」

 グラスの中身が無くなった所で、遠くにいるスタッフに視線を移し、同じ物を注文、いやボトルで持ってくるように伝えた。マヤカの深酒は、止められそうにない。

「マスターは、知ってるんだよな‥」

「‥‥ええ、知ってる。だってマスターが私を救ってくれた。生まれた場所から救い出してくれた―――あの人は私の恩人、親代わりと言ってもいい」

「そう言ったら、姉と言いなさいって言うと思うぞ」

「かもしれない。だけど、決して悪い気分じゃないと思う――あの人の前の娘は、オーダー街、もう遠くにいる。あの人は、まだ胸に穴が開いたまま。代わりになれるとは思っていない、だけど、傍にいる事は出来る。あなたとだってそう――」

「‥‥俺は‥そんなに、マヤカに甘えてばかりじゃダメだ」

 喉を濡らす為に水を飲み干す。次の言葉を紡ぐ為に、魚の油で喉を潤す。

「迷宮に降りてから、ずっとマヤカにばっかり甘えてる。いい加減、自分で歩かないと」

「ふふ、残念‥」

 運び込まれてきたボトルから白いワインが注ぎ終わるまで、話しを止める。ここは秘境内のレストラン。だから、下手に盗み聞きをするような奴は長生きできないし、逆に聞かせる訳にはいかない。

「甘えてくるあなたは、悪くなかったのに」

「もうひとりで食べられる」

「ひとりで歩ける?」

「それは‥‥まだ無理だけど」

「ひとりでお風呂に入れる?シャワーだけじゃ、いけない」

 結局、昨日の夜もマヤカに手伝ってもらったのだから、もう言い訳もできない。まだまだマヤカにいてもらわないと、何も出来ない。

「—――聞かないの?どこから来たとか」

「聞かない」

「どうして?」

「‥‥マヤカは、マヤカなんだ。それに、俺にも聞かないでくれた‥‥だから、いいんだ」

 なら、聞かない。俺が故郷の事を言いたくないと言ったら、それ以上は聞かないでくれた。どんな方法で、俺の事を詳しく知ったのか、わからないが、マヤカは直接言わないでいてくれた。

 それが、嬉しかった。

「本当に‥‥あなたは優しい。初めての異性があなたなら―――」

「マヤカ‥」

「‥‥ふふ、言い方を間違えた。あなたは、私にとっても初めて、本当よ?」

 グラスを更に傾けて、口が軽くなったと見せてくれる。

「信じてくれる?」

「信じる‥‥マヤカは、俺をいじめた事はあっても、傷つけた事はない。ずっと味方だった―――だから、信じる」

「‥‥ありがとう」

 誰にも聞こえない、頭に響いた声すらマヤカが口に出したのか、頭に直接語りかけたのか、わからないぐらい微かな声。だけど、確かに聞こえた。マヤカの確かな穏やかな意思が。

「‥‥俺、男の子っぽい?」

「そうね。まだまだ男の子、だけど、そんなあなたを私は好きになった。そろそろ口直しを頼む?」

 テーブルの上の鐘を鳴らして、マヤカが店員を出迎える。気付かなかった、既にシャーベットの準備は整っていたらしく、待ち構えていたように冷え切った甘い口直しを運んできてくれる。

「リキュールみたい。また、酔ってしまいそう‥」

「まだ酔わないで‥」

「ふふ、大丈夫、しっかり限界はわかってる。必ず一歩手前で止まって見せる」

 マヤカの固い意思が伝わった。例え、店員に勧められたからとはいえ、ワインがつがれた瞬間、誰にも気づかれないほんの瞬きの間に飲み切り、再度注ぐように命じたとは言え、きっとマヤカは自力で歩ける程度に抑えるつもりだ。

「ああ、そうだ‥近くにホテルがあった筈。だから、多少限度を超えても、平気だった‥」

 そうだ。きっとマヤカは固い意思の上で、再度飲み切り、追加の赤を注文したのだろう。




「ああ、素敵‥‥お菓子と果物だなんて‥」

 マヤカは踏み止まった。肉料理を食べながら赤を開け切った時、泥酔者を車椅子でどう介抱しようかと思ったが、ここの店員は聡かった、そして常識人だった。

「ひとり二本までっていう決まりがあるのかしら?いいお酒だったに」

「それ以上飲むと、料理の味がわからなくなるからじゃないか?」

「‥‥なるほど、確かにこれ以上お酒で舌が痺れていたら、この味がわからなかったかも―――次はマスターを誘って来ないと」

 その時、一体誰が迎えに来るのか?恐ろしかな、深夜帯は決してスマホを離すまいと決めた。カタリとロタがいれば、どうにかなるだろう。

「この桃、結構固いのね、だけどとても甘い‥」

「気に入った?」

「とても気に入った。どこでここを?最近出来た訳じゃなさそうだけど」

「前にカタリと行ったホテルのレストラン、そこの料理長が監修してるとかで、ホテル側から紹介されたんだ。向こうのディナーも美味しかったけど、ここは向こう以上かも‥」

 切り分けられたケーキに、フォークを突き刺す。築かれたスポンジの断層が、僅かな抵抗を手に残しながら、別れていく。見た目にも楽しい、飴細工の傘を被せられたケーキの装飾は、時間と共に溶けてスポンジをコーティングしていく。

「ああ‥酔う前に聞いておかなくちゃ‥‥ヨマイさん、なんて言ってた?」

「下の事か?意外と、機関も発掘学の学生も、手を取り合ってるって。だけど、機関は理想論が多くて、現実を知らないって嘆いてた――」

「そう、機関も発掘学は理想論、現状維持を言い続けるから困惑してるって言っていた。今までが自由過ぎたから、それを奪われるって思ってるみたい」

「地下にこもり続けてる学生は、優秀なんだけど、周りが見えなさ過ぎるのが‥」

 ヨマイは、あの中でもコミュニケーション能力が、高いと言い切れる側だ。外で多くの遺跡を巡っている学生達はトリリンガルなど当然らしく、ヨマイもそうらしい。

「—―――それで、あの貴族達は?」

「関わりがあったであろう貴族達は、あの件とは一切関係と言い切ってるみたい。だけど、一年前にあの巨人をひとりで解き放ったという可能性は、限りなく低い。いくら発掘学がわざと見逃したとはいえ、無謀な話—――」

「あの巨人を、そもそも復活させた方法だってまだわかってないんだろう?いくら、あいつが優秀だった、そもそも肉体があった、って言葉を使っても、あの教授でもないのに、操るなんて」

 マスターやマヤカが、当然のようにゴーレムを使いこなしているから、忘れてしまいそうになるが、あのような高性能な単一で運用可能な使い魔、ただの学生では不可能だ。いくら貴族、いくら迷宮の住人とはいえ、ただの人だ。

「あなたは、どう思う?」

「—――死にかけたから、正直に言いたい。一年前の巨人は、マーナよりも有機的だった。生物に近いというより、あれは生きていた頃そのものなんだと思う。復活させた方法は――わからないけど、あれよりも格上の血は、まずない‥‥俺を除いて」

 腕を一部を水晶、あの方の白い血に見せる。あいつが俺に求めた謝罪とは、この血なのだと思う。あいつも、一年前の性能に限りなく近づけたかったから血であり、文字を求めた。

「過去の力に近づける為、あなたの血を求めた。それと同時にあの時の巨人は、あなたのように、身体そのものに文字を刻み込んでいた、そう思ってる?」

「‥‥確信を持ってる訳じゃない。だから、そんな筈がない」

「いいえ、その可能性はある。それはカタリ達だけの技術じゃない」

 この身体に刻み込まれた文字は、カタリ達、遡るのも不可能だ。有史という存在の証を許されず、世界の裏に追いやられた賢者達の歴史そのもの。枝分かれした賢者の生き残りがカタリひとりだけとは思っていない。だけど、カタリ以外は技術を欲した愚か者達に消され、今もどこにいるかわからない―――だけど、その場合。

「当然、カタリの血筋が関わってるとは思っていない、もし、そうだとしても、それは望んで関わった訳じゃない」

「—―だけど、あれだけの技術を持ってる錬金術師は」

「カタリのいた大家しかない。あなたは勘違いしている」

 マヤカに甘い呼気を吹き付けられ、顔を上げる。

「錬金術師は、そもそも自身の研鑽、編み続けた技術は隠し通すもの。だから、カタリの家以外にも、それに匹敵する歴史を持っていても不思議じゃない。魔に連なる者たちの中でも有数の貴族なら、自身の為、錬金術師を抱えていても不思議じゃない」

 マヤカの黒い瞳から目を離せない。声を出す事すら許してくれない。ただ、マヤカの声が頭に突き刺さり、心臓の静寂を保ってくれている。

「落ち着いて、あなたは、想像した事を話して。ここはあなたと私、そしてお酒だってあった。もう、私はあなたを罠にもかけない、あなたは怖い怖い神獣。敵なんていない―――いたとしても、その槍を投げつけていい」

 そこで、マヤカは視線を外してくれた。手を差し出すように、皿の上の甘味を勧めてくれる。

「美味しい‥」

「ふふ‥甘いものが好き?」

「そうかもしれない―――ああ、可能性として錬金術師が関わってるかもしれないって、前から思ってた。あの時、無理にでもカタリを連れ去ろうとしたのだって、カタリの血筋を調べたからだって思った。カタリが作り出せる血には、文字の力が刻み込める―――ゴーレムじゃない、臓器に骨、血管を使って術式として使える」

「あれだけの巨体を持っていた巨人に、その文字の力を持つ血を使えば、あれだけ恐ろしくなる。そう思った?」

「‥‥思ってた」

「—――わかった。そう‥‥あれだけカタリを求めた理由は、そういう事情もあったのかもしれない。もしくは、暴走が止まらない巨人を抑えつける為に選ばれた」

 マヤカは、俺が危惧した事を、瞬時に理解した。カタリという錬金術師の大家の家宝を使いこなせる賢者の子孫。生前の巨人を再現だって可能な筈だ。

「機関も関わっていた。マヤカも、そう思うか?」

「むしろ全く関わっていないだなんて、思っていない。機関には過去にあのマキト氏やその父親のシークレットサービスとして従属していた人間もいる。分解された組織の人員配置に、逆恨みしてもおかしくない」

「‥‥機関も、人材不足か」

「ええ、こちらの世界を知っている人間は、数少ない。こちらの仕事が出来る者は、多かれ少なかれ傷を持った者が大勢いる。選んでいる暇がなかったのかもしれない」

 色の濃い紅茶を飲み干し、菓子も果物も終わったマヤカが、見つめてくる。

「槍でも投げつける?」

「投げていい?」

「ふふ、ダメ」

 意地悪な顔だ。端正な顔を歪ませずに、見下ろしてくるマヤカにいつも勝てない。

「先に言っておきたい。私はカタリを疑ってなんていない、だけど技術者としての側面を持つカタリには、話を聞かないといけない。近く、訪ねる事になる」

「ああ、俺から話しとく。カタリは、まぁ、怒るかもしれないけど。あんな猿なんて興味もないって。怒ったカタリは怖いぞ」

「なら、あなたが怒られて。私も怒った彼女は、とても怖いの」

「怒られる俺が楽しんじゃないか?」

 軽い調子で笑ってくる。最後のコーヒーが運ばれてきて、食事の終わりを告げてくる。

「私からは、終わり。あなたは?」

「‥‥そうだなぁ‥マヤカは、いくつだ?」

「あなたより、少し年上の魔女」

「—――そればっかりだ‥‥館の事を聞きたい」

「いいけど、何?」

「教授の使ってた、緋色の杖、あれはマヤカが回収したのか?」






「私にはわからないけど、まぁ、やろうと思えばできるんじゃない?」

「そうなのか?」

「ええ、だって―――そうね、リヒトならいいか。あの巨人、もう会わないと思ってたから言わなかったけど、なんとなくホムンクルスな感じがしたし」

 手に持っていたカップを落としそうになった。

「ホムンクルス?」

「そんな反応しそうだから、黙ってたの。それに、確証もなかったし、もうどうでも良かったし。直感だけでいいなら、あれはホムンクルス、人工生命体、ゴーレムとは違う生身を持った人形。そう言えると思うわ」

 なんでもないように言っているが、今のカタリの発言は迷宮の新たな歴史を作り上げたのと、ほぼ同意義だった。あの巨人はヨマイの言葉通りなら、かの勇士によって撲殺された沼地の巨人そのもの。であるならば、あれの母親は錬金術師か魔に連なる者という事になる。

「そんなに驚く事?だって、あれの母親が同じような化け物である、なんて誰も言ってない訳だし。巨人の生みの親、それは魔女、普通な可能性じゃない?」

「そうかもしれない―――誰にも言ってないのか?」

「昨日、話のネタとして先生とかロタには話したわよ。似たような反応されたけど」

 ここまでカタリが、簡単に話してくれているのは、まだそれは推測の域でしかないからだ。マヤカと別れた後、カタリと共に部屋に戻ってきた。

「結構、部屋、片付いてきたよね」

「カタリは、元々そんなに部屋を荒らす方じゃなかっただろう」

 夏場になったら、ふたりで引っ越そうという話になり、出来る限り部屋を荒らさなうようにという約束をしていた。俺など、そもそも部屋を散らかす程長く住んでいなかったので、片付けもすぐに終わった。

「で、マヤカが話を聞きに来るんでしょう?いつ頃来るって?」

「‥‥それが、少しかかりそうなんだ」

「え、なんで?せっかく寄ろうと思ってたお店があったのに」

 昨今、カタリは何かと言うとマヤカやロタを連れて、何処へと遊びに行っていた。カタリに友人という存在がいる事に驚き、嬉しい現象でもあった。

「—――教授が使ってた杖、あれが何処にも、誰も回収してないらしくて」

「杖?そんな物持ってたの?」

「ああ‥‥カタリ達が見たのは、樹の竜になってからだったな‥」

 マヤカから聞いた。マーナが到着して、映像を届けたのは俺が樹の竜になった教授と対峙した時かららしい。であるならば、それ以前出来事を事細かに知っていなくて当然だった。

「カタリだから言っておきたい。教授が使ってた杖は―――俺を奪った生命の樹だ」

 呼吸を忘れたカタリが、カップを落とした。

「‥‥そう、なんだ‥」

「誰からか聞いてたか?」

「—――あのリヒトの身体を作り上げたのは、私だから‥」

 カップを拾い上げようにも、何度も指で掴み損ねて、最後にはテーブルから薙ぎ落とした。

「—――考えないようにしてたんだ。そんな筈ないって思ったから。あれ一つがリヒトを生贄にして作り上げたなら、絶対に渡す筈がないって。そっか‥やっぱり、あれは二つ目、残った実の方だったんだね‥」

「‥‥カタリ達が使ったのは、二つ目だ。最初のひとつは、杖に造り変えられた。緋色の杖は、今もどこにあるかわからないらしいだ‥」

 あの杖の価値は、この秘境にいる者なら誰もが求め、血で血を洗うだろう。秘境だけじゃない、一端の魔に連なる者なら死ででも求める―――生命の樹の果実。新たな命や新たな世界を作り上げる力、過去の生命を蘇らせる力さえ持っている。

「—――私にもわからない。それが出回ってるなら、絶対どこかで聞いてると思う」

「マヤカもそう言ってた。巨人の骨と杖、どっちも回収出来ていないのは、流石におかしいって―――機関だけでそれが出来るとは思えない、何かが関わってる」

「機関だけじゃないって、どういう意味?」

「‥‥わからない。少なくとも隠し持てるものじゃない。横流しできる物じゃない――この秘境で力を持っている貴族か機関以外の組織が関わってる可能性があるって‥」

 俺も、マヤカと同意見だった。仮にも、機関は公の組織だ。それが個人的にこの世界の因果に手を伸ばせる杖を、持ち逃げする筈がない。

 —――――もしそうだとしても、持って逃げるような雑魚が、扱える代物じゃない。街のどこかで、己の力不足により自滅、何かしらの秘境の存在が外に漏れかねない事件を起こしている―――。

「‥‥それって、私の」

「それは、ないと思う」

「なんで言えるの‥‥だって、生命の樹の実なんだよ。今までの生活から、一気に表に浮上できる‥それだけじゃない、この秘境を牛耳る事だって出来るのに」

「あの人達は、そんな事しない―――だって」

「だって‥?優しかったからって言うの‥」

 テーブルの上で溜まっている茶が、カタリの伏せた顔を覗かせてくる。カタリは、何も悪くない、もし、そうだったとしてもやはり何も悪くない。悪くないに決まってる、カタリは誰も傷つけてなんかいないのだから。それは、あの人達も同じだ。

「カタリの家族は、間違った事なんてしてなかった」

「‥‥それが、なんだって言うの。もう何年も会ってないんだよ―――変わってるかもしれないじゃん。だって、無理やり訳わかんない理由でオーダーに逮捕されそうになって」

「たかがオーダーだ。それに、あの時にはもうみんな逃げて、隠れてた。ただの人間の集まりでしかないオーダーに、報復なんてしない――だって、カタリが言ってただろう。錬金術師は、何世紀も隠れて来たって」

「—―言ったね」

「それに、あの人達はこんなにわかりやすい事はしない」

 錬金術師は何世紀にも渡って、何世代も隠れ受け継がれてきた賢者の血筋だ。俺に気付かれるような隠し事をする筈がない―――隠者のルーツさえ言える錬金術師は、世俗から離れ、己が探究を魔に連なる者以上に、長く続ける。

 魔に連なる者が百年と誇るなる、錬金術師は千年を。五百年を欲するならば、既に二千年の見地を持っている。生命の樹というわかりやすい物を、今更もとめる筈がない。だって作ろうと思えば、可能だからだ。

「カタリの家だ、俺も信じてる。誰が命令しようと、復讐を忘れていなくても――」

「表だって動く訳がない。そんな物に価値なんて見出してないでしょうしね」

 落としたカップを拾い上げて、流し台に持っていく。

「そうよね。こんなにわかりやすくやる筈ないわね。だって、あの人達、人間じゃないみたいに、何されても平然としてたし。それに、リヒトのお爺さんが遊びに来るぐらいだったし」

 恐ろしい事に、我が家のじじいは俺が生まれる前からカタリの家と個人的に繋がりがあったらしい。しかも、カタリの家の家主と交友とも言える物を持っていた。

 家同士、特に俺の家側が錬金術師の家を嫌っていたが、誠に不快な事に俺やじじいは、悪いイメージなど持ち合わせていなかった。

「じゃあ、誰だと思う?杖を持っていった人って」

「それは‥‥これから調べるなりするよ。それに、あれを使いこなせる魔に連なる者なんてそうそういない。いたなら、顔でも拝んでやりたい」

「あはは!!いいね、それ。私も何やってる見てやりたいー。どうせ扱い切れずに頭抱えてるんじゃない?だって、所詮ただの人間だろうからね」

 カップに茶を入れ直したカタリが、ふきんを持って戻ってくる。カタリにとって、まだ生命の樹との関係は、まだまだ割り切れる物じゃない。いや、生涯、苛む事になる―――俺がいるからだ。

「平気か?」

「もう平気。あーあ‥リヒトに心配されるなんてね。私の方がお姉さんなのに」

「誕生日が2か月ぐらい早いだけだろう」

「だけど、私の方が大人じゃん。それに、顔だけ見たらリヒトって童顔な訳だし」

 手を伸ばして頭を撫でてくるカタリは、悔しいが大人びていた。今でこそカタリは年相応な見た目だとわかったが、向こうにいる時、カタリは確かに俺より大人だった。

「はい、面倒な事はもうナシ。今日も泊まるでしょう?先入って」

 後ろに回ってきたカタリが肩を貸して杖で歩かせてくれる。部屋の中でまで車椅子では、車輪の跡が残ってしまう。仮にも、ここは寮だからだ。

「洗ってあげようか?それとも、一緒に入る?」

「‥‥一緒に入りたい、って言ったら面倒?」

「良いわよ、別に。もう何度も入ってるし、それに中で倒れられたら面倒だから」

 最近、カタリとの時間を取り過ぎた弊害だった。俺ばかり顔を染めるのに、カタリは何も感じなくなっていた―――いや、違ったようだ。

「まずは‥‥そこで待ってて、先に私が」

「脱がしてくれ、出ないと入れないから」

「‥‥調子乗ってる。いいわよ、泣いても知らないから!!」

 引きずり込むように、涙目になったカタリが脱衣所から手を伸ばしてきた。


 


「杖か‥‥君の息吹で消し去った可能性は?」

「ない訳じゃなですが―――」

 だが、それならば破片のひとつ程度ある筈だ。だが、マヤカが知らなかった以上、そういった痕跡と言える物がない。生命の樹の実から生まれた杖だ、破壊を体現したあの方の力を受け取った息吹であったとしても、完全に消し去るのは難しいだろう。

「いや、すまない。君の危惧は正しい―――確かに、消し去ったから無視していい話ではないな。だが、どうして急に?」

「‥‥迷宮で思い出したんです。一年前の巨人は、操られていたように見えて、実際はただ暴走していただけ。だけど、規則性に近いものがありました」

「規則性?まずは座りなさい」

 マスターと共に、教諭控室でテーブルを挟んで話し合っていたが、マスターの提案に従って、モニターの前に設置されていたソファーに、並んで腰をかける。座っても、まだマスターの方が背が高い――それに、足も長かった。

「規則性と言ったね。それは一体?」

「‥‥力を求めているように、見えました。俺の水晶、マヤカの鎖、カタリの銀の腕

―――あの教授のように、俺やふたりの血や身体を求めているように見えました」

「‥‥魔に連なる者の身体をか‥もう少し詳しく聞いていいか?一年前の巨人は、君とカタリ君を追いかけて襲ってきたのだろう?マヤカ君も、狙われたのかい?」

「はい、だけど‥‥やっぱり、俺達個人というよりも、力を直接取り込む為に動いていたようでした。俺の水晶を握って、口に運ぼうとしたり」

 これを聞いたマスターは、片手を眉間に、もう片腕で支えるように肘に運ぶ。胸を腕で持ち上げているようで、真っ直ぐにマスターを見る事が出来なくなる――。

「連続稼働時間に、限界があるのか?だが、誰彼構わずエネルギー体を自身の力に変換できるになら、無機物、車両でもコンクリートでも出来る筈だ―――だが、君達、魔に連なる力を求めた。偏食でもあるのか?—――それは、君の水晶を?」

「食べそうになりましたが、不気味だったので、消しました」

「良い判断だ。もし、君の力を直接取り込んでしまっては、手の施しようがなかっただろう。あの教授、元教授も君の身体を苗床として求めた、あの巨人もそれに類するように見えて、アプローチが違うようだ」

 マスターは、落ち着いて考える為なのか、近くにあった薬瓶を手に取って明かりに当て始めた。赤だった色が、天井の光に当たった事で黄色に変わる。

「君達をただの食料として取り込み、自身の肉体で新たな力に変える。苗床は、巨人の身体自身、栄養や種、水を求めているのか?だが、それにしては一貫性がない――君達の力はそれぞれ方向性がまるで違う。土壌の汚染を起こして、終わりだ‥‥いや、今はどうでもいいか」

 薬瓶を近場のサイドテーブルに置いたマスターは、ローブで包むように頭を抱えて引き寄せ、抱きしめてくれる。甘いアルコールの匂いに、ほのかな紙の香り。

「‥‥マスターの匂いです」

「ふふ‥‥杖の話だったな。君の想像通り、あの教授と巨人の基本原理は似通っている。自身に足りない力を錬成せず、別の場所、別の身体から奪い取る―――誰かが、杖を求めて、盗み去った可能性は十二分にある。無視は出来ないな」

 離れようとするマスターを引き寄せて、ソファーに一緒に倒れ込む。袖の長いローブを握りしめて、抱きしめられた頭から腕を離そうないように操る。

「わがままな子だ‥。数日会えなかっただけだろう?」

「まだ独り立ちする気はありません――もっとマスターと抱き合っていたいです」

「—――困ったな。どうして、そうも君は私を苛むのだろうか‥‥。私にとってのパンドラになる気か?」

「箱は俺自身です。マスターは、傍にいていいって‥‥開け放ってくれたんですから――ダメですか‥」

 困ったように、鼻で笑ったマスターは、足を絡ませて逃がさない罠となる。

「ダメな訳がないだろう。いいだろう、今日は傍にいなさい。いや、命令だ、ここにいたまえ」

 サイドテーブルのスマホを腕を伸ばして掴み上げたマスターが、どこかへと連絡を始める。

「‥‥俺が前にいるのに」

「いるから、すぐに終わらせたいのだよ―――ああ、私だ。耳に入れておきたい情報がある――いや、違う。館の地下室を調べ上げて、緋色の杖を探してくれ。もし、ないのであれば探し出してくれ、そうだ――」 

 恐らく機関へと通話しているマスターは、片腕をスマホにしたままで、頭を抱き続けてくれる。背の高いマスターの身体は、ゆったりとしたローブに包まれる事で、より肉感的で優しく身体を受け入れてくれる。魔が差してしまった―――。

「マスター‥」

「ん?—――少し待ってくれ」

 身体を引きずりながら、マスターの胸を超える。そして口元にまで達した時、朗らかに、そしてやっぱりと言った感じにマスターが笑う。そんな手の中で転がされている感覚に、安堵しながら口に口を付ける。

 長い太い、そして熱い舌だった。スマホのマイクを指で抑えているとはいえ、きっと聞こえている。部屋中に、肉と粘液を絡ませる、叩きつける音と声を響かせる。凹凸のある舌と傷一つない口内に舌を這わし合い、唾液と呼吸を交換し続ける。

「そこまで‥‥ああ、今言った通りだ。では、頼むぞ――弟子を弄んだ借りを貸してもらう、まだまだ隠居など早い。また後で」

 スマホを切って、投げ捨てたマスターが、片手で耳を触ってくる。背筋を直接触られているようだ、鳥肌と同時に首元の血管が膨れて、湯を浴びている感覚に陥る。

「さて、マスターの大切な会話を途中で邪魔する悪い弟子には――お仕置きが必要だと思うのだが。どう思う?この耳と舌、私の物にしていいか?」

 唇に付けられた指を無言で口に入れる。微かに笑い、自分の指が舌で汚れるのを、マスターは足を絡ませながら見つめてくる。握りしめていた袖から手を離さず、マスター冷たい指を温め続け、口を離す。

 唾液で後を引く指を、ゆっくりとマスターは自身の口に入れて、唾液を飲み干す。

「まだ男の子の味かな。私好みに味付けする為にも、お仕置きが必要だ‥」

「‥‥お仕置きは、嫌です」

「ふふ、総じてお仕置きを受ける側はそういう物だよ――さぁ、まずは深呼吸を」

 頭を抱きかかえたマスターは、肺の上下を伝える事で、自分も興奮していると教えてくる。頭をふたつ分の質量を持ったマスターの胸に、浸かりながら目を閉じる。

「そう‥いい子だ。焦ってはいけない―――欲望のまま体液を混ぜるのも、わるくないが君にはもう少し大人になって貰いたいんだ。大人の時間を教えてあげよう――」

 マスターのローブから長い細い布がいくつも生まれる。それが、衣服の内側に潜り込み、ベルトの金具を鳴らしてくる。身体中を舌で撫でられているようで、声が漏れる。

「マスター‥」

「ん?何かな?」

「—―お仕置きは?」

「これがお仕置きさ。物足りないか?くくく‥‥一緒に手を握って寝室に向かう時は、私に引きずられていたのに、これは物足りないか。わがままな子だ――では、次に向かうとしよう」





 薄いアルコールで、火照っている頭をマスターは冷たい膝と指で撫で続けてくれる。先ほどの熱は既に過ぎ去ったらしく、甘い果実酒に伸びる手も、今は止めていた。

「私流のお仕置き、いかがだったかな?それとも、まだ物足りなかったかい?」

 普段マスターが口に付けている物とは比べ物にならないくらい薄い酒を、マスターが直接飲ませてくれた。熱いマスターの肌を伝ってくる酒は、マスターの汗と混じって匂いや味、そして見た目にも、惑わされた――それだけじゃなかった‥。

 ソファーに投げ出した身体を撫でる手もそのままに、口元に残ったものを舌で舐めとっていた。その音だけで心臓が高鳴るが、もう首を動かす気にもならない。

「私の計算通りの体力だったよ。よく、満足するまで付き合ってくれたね、それとも官能的な私に見惚れて、時間すら忘れたか?」

「—――次は、もう少し頑張ります」

「ふふ、では次はもう少しいい酒を用意して、君を追い詰めていじめるとしようか。可愛かったぞ?覚えているか?マスターマスターと次を求める君は、年下の少年だった。‥‥そろそろ彼女から連絡が来る頃か、そのまま休んでいたまえよ」

 黒い布一枚で身体を隠したままのマスターは、変わらずに頭を足と手で抱き続けてくれる。自分の呼気やマスターの言葉でも、また酔ってしまいそうだった。

「身体の中を空っぽにし、酒で満たすのは、悪くなかっただろう?—―疲れた?」

「‥‥少しだけ。だけど、マスターが美味しかったので‥‥また、して下さい」

「約束しよう。また君を晩酌にしてあげよう」

 晩酌?まだ、昼間だった筈だ――置き時計を見て、驚いた。マスターの言う通り、既に時刻は零時を回っていた。

「ふふ、悪い子だ。教師と日付が変わるまでカレッジで飲酒など、誰から習った?」

「マスターです‥」

「しかも、褥まで共にするとは―――ますます、君の指導しなくてはいけないようだ。手のかかる困ったわがままな弟子は好きだぞ。いじめ甲斐がある」

 下腹部に後頭部を押し付けて、ほのかに笑うマスターから甘い香りがする。汗腺からも甘いアルコールの匂いがして、寝返りを打たずにはいられなかった。

「強欲だな。また飲みたいのか?」

「マスターを感じていたいんです。マスターの所為だ‥」

 意識が朦朧としてきた。誰もいない、物音ひとつしないカレッジの一室でマスターと体温を分け合う。シャワーも浴びていない液体だらけの不浄な身体を見せ合い、重ね続けるという行為は、非倫理的で酒を手に取る感覚と似ていた。

「そうか‥私の所為か―――少し静かに」

 スマホを布で拾い上げたマスターが、声を出させないように、自身の身体に頭を押さえつけてくる。

「どうだった?—――まぁ、そうだろうな。もしあったのなら、もっと大ごとになっていただろう。ん?ふふ、気付いているだろう。君の大人なのだ、気付かないふりは止したまえ」

 スマホの向こうから、何かを言われているらしいマスターが鼻で笑いながら誰かと話し合っている。呆れているというよりも、自慢しているようだった。

「話の続きをしよう、杖は発見できず痕跡すら見当たらない。彼の息吹で消え去った可能性を差し引いても、何も残っていないのは違和感がある。そういう事だな?私も同意見だよ、あまりにも―――都合が良過ぎる、消え去って欲しい者にとって、これ以上有り難いことはあるまい」

 マスターの肌と顔との間には、薄い布ひとつしかない。しかも、隠し通せているのは下腹部のみ、傷ひとつない石像のような腹部は晒されたまま、残った汗の匂いと酒を漂わせてくる。

「彼はここだ。ふたりには、マーナやロタがいる。今、最も危険なのは迷宮の彼女や君だ。いくら警護が付いているとはいえ、油断はしない方がいい。少なくとも、この彼をここまで追い詰めた何者がいる‥‥」

 声が遠くになってきた―――誰に言っているのか、わからなくなってきた。窓を叩く風が強くなってきたが、それさえも子守唄に聞こえてくる。

「まぁ、君の心配はそれほどしていないよ。カサネ、君もそろそろ表舞台に出る時だ。嫌とは言わせない、君に操られた者がここにいるのだ。忘れるなよ、君にその椅子は似合わない―――ふふ、口説いている訳じゃないさ、丁度明日の晩酌を共にする相手を探していただけだよ」

 カラカラと笑うマスターの声が、耳に心地いい――マスターもその声を聴かせているつもりらしく、真っ赤に熱された耳に冷たい手を這わせて背筋を震わせてくる。

「マスター‥」

「我慢しなさい、耳を慰撫されただけで善がる弟子では、私を噛ませる事は出来ないぞ―――ふふ、良い顔だ。その耐える顔、ますますいじめたくなるじゃないか‥」

 耳から首筋に指を移動させて、甘い息を吹きかけてくる。心地良い酔いとなっていたものが、微睡へと誘い込む残酷な冬の女神として頭を抱いてくる。

「ん?そうだが?つい先ほどまで、彼に善導に努めていた所さ―――あははは、なんなら今すぐ来るかい?彼がどれだけ正しき道を歩んでいるか、見せる事が出来る。やはり、相手を選ぶのなら自分で模様も決めて、染める事の出来るまっさらな少年だと、よくわかるだろう‥‥」

 マスターの布が、再度身体を縛り上げてくる。声を出せ、そう伝えてくる。足から下腹部を指で徐々に握りしめるようにし、まだ抜けきっていない薬や酒が、操り切れない身体に無理やり血を流してくる。

「あはははッ!!何をそんなに驚いているんだ?言っただろう、彼と私は恋仲だと。場所を選ばず、そうなってしまうのはこちらの世の常だろう?まぁ‥こちらでも、そうだったが‥」

 潰すではない、感触を楽しむように布の形をした指を引き絞り、爪を立ててくる。

「それで、どうだった?ただ無い、という話ではないんじゃないか?ん?ああ、少年の声が気になるか。だけど、いいのか?若い男の子の甘い声など、そう聞けるものでは、ふふ‥では、そうしよう。悪魔使いが禁制など‥いや、それも君の癖か?」

 ようやくマスターが離してくれた。自身の冷たい指だけで頭を撫でてくれるが、同時に薬瓶も運んできて、口に注いでてくる。

「—――ほう。消えたのは人狼、巨人だけではない‥それがわかったのは昨日今日と。だが、杖が消え去ってから既に一か月は経っている―――ああ、私もそう思うよ。一年前逃げ出したのは巨人だけじゃない。これは秘密にしてくれ、彼が見たフードを目深にかぶった人物、それが今もどこにいるかわからず、エイルの病院から船を移動させた者もまだ見つかっていない。さて、君はどう思う?」

 マスターの声が遠くになってくる。耳に届く声はただの振動にしか感じない、言葉を理解する脳の部位が麻痺している。何かを考えるという事を、頭が拒否している。

「まさか、この秘境にまで手を伸ばすとはな‥‥いいや、むしろそれを疑わなかったのがおかしいのか。事実、マヤカ君がいるのだ、ヒトガタが潜入していても、不思議ではないか―――世界中に根を生やし、外への扉を求める研究機関か」

 何を話しているのか、誰と話しているのか、わかなくなってきた――。

「己が目的の為、手段を選ばず潜入、誰とでも協力、そして裏切る。我らが魔に連なる者が言えた義理ではないが、目的の為への最短最善手段だ。決して復讐されるとは考えていないのだろうな。いや、そもそも復讐などという事すら思いつかないのか―――おや?」

 窓ガラスが揺れた。風に叩かれた、というよりもカレッジの壁が身震いしたようだった。

「ふふふ―――私と彼の時間邪魔しにくるとは。お仕置きが必要のようだ」

 




「マスター‥?」

 窓の外はまだ暗かったがぽつぽつと光が見える。不毛な土地にある異端学のカレッジは、街明かりなどないのだから、あったとっしても月明かりだけだ。

「‥‥いない。マスター、約束したのに」

 ソファーから起き上がって、時間を確認すると、まだ一時間程しか経っていなかった。あの薬瓶には、眠りと同時に時間が経てば目を覚まさせる効能もあったらしい。

「邪魔って言って―――誰か、来たのか‥」

 マスターが残していった毛布に包まりながら、しわだらけになった制服を回収、身に付ける。名残惜しいマスターの香りがする毛布から離れて、杖に頼りながら控室から外に出る。暗い廊下に出て、一階を目指す。

「誰かを出迎えるって感じじゃなかった――」

 招かれざる客。そもそもあのマスターに親愛を持って訪ねる客など、まずいまい。いたとしても、それはあの容姿に―――いや、マスターの心根を理解した者ならば。

「‥‥いや、あのマスターに限って、そうそうないか」

 ひとりで廊下を歩くという行為は、どこか胎内めぐりを思い起こさせる。暗い道を通って、数珠や音を頼りに出口を目指す修行は、母体からの誕生、生まれ変わる事を意味するとされる。また、出口から見える一筋の光は―――。

「マスター」

 一階に続く階段の窓から下を覗く。そこには、黒い外套を纏い、舞うような足取りの妖しげな笑みを浮かべるマスターがいた。だが、外套から伸びる布から逃げ惑う、槍に見立てた漆黒の布を向けられる相手は、見覚えが無かった―――。

「‥‥グールじゃない!!」

 窓から飛び降りて、杖と身体に水晶を纏わせる。そのまま水晶の槍を振り下ろし両断を狙うが、それは霧のように揺れマスターと違い避けもせずに槍を透過する。

「起きたか、寝起きで済まないが手を貸してもらおう」

 軽やかに水晶の槍に足を乗せ、上に立ったマスターが踊るように槍の上で漆黒の槍を振り回す。布によって間合いをいくらでも変えられる槍は、マスターの意思のまま槍にも鎌にもなった。両端に刃を持った薙刀に変えた槍を、マスターは逃げ場を奪い、離れさせる事も反撃させる事さえ許さなかった。

「なんで‥」

 水晶の槍は避けもしなかったが、マスターの槍は全力で掠る事すら避けている。

「君の力が届かないという訳じゃないさ。これは、ちょっとしたルールだよ」

 言いながらも、決して攻め手を休まないマスターは、容赦なく腕を斬り飛ばした。それは決してグールなどでなかった。マスターとは違う黒のマントを身に付けたそれは、到底人間には見えなかった。

 かろうじて人間の形を保っていた腕も、斬り飛ばされると同時にスライム状の肉片へと戻ってしまう。

「それを実体化させるには、口にしなければならない言葉がある。わかるかな?」

 俺にとって、それはまだただの肉塊にしか見えない。だが、マスターには違う、手に取れる、斬りつける事が出来るという事は、マスターには実体が見えているという事。

 それが、こちら側へと手を伸ばすにはいくつか方法がある。魔除けを破壊する、外へと誘き出す、道を作る、そして招かれる。魔除けは、敵にしか力を発揮しない、ならば敵ではない客として招かれれば力は行使されない―――これは、ルールだ。

「ようこそ、我らがカレッジへ」

 そう言った瞬間、ただの肉塊としか見えなかったそれが、月明かりに照らし出され姿をさらす。だが、それはまだ肉塊から影に変わっただけだった。恐らく、これは俺のイメージがまだ定まっていないから。マスターのように、はっきりとして姿を見た事がないからだ。

「‥‥いや、十分だ」

 槍から跳ぶ上がったマスターが、ローブの足元を大きく晒して影に空から突撃する。片腕を失ったそれは、逃げ切る事が出来ず身につけていたマントに槍が突き刺さり、そのまま槍から伸びる布に絡み付かれる。

「さぁ、お帰りの時間さ!!」

 槍を掴んだまま地上に降り立ったマスターは、影を結んだままの槍を持ち上げて、矛先を振り回す。重量が先端に至り切った時、空へと槍を投げつける。

「では、共同作業の時間だよ」

 上がらない肩を布で引き上げてくれたマスターに頼って槍に血を籠める―――見上げるは月、だが堕とす訳ではない。狙い向けるは月だ、けれど月を打つ砕く訳でない。夜の支配者にして、信仰、神を忘れ、現世に悔いを残した元人間。

「安心しなさい、私が君を支えよう」

 マスターの声を耳に、この体調で求める態勢調整を全て無視する。杖に水晶を纏わせる、イメージはロタの槍にして、先ほどマスターが使っていた刺繍が彫られた神から授けられた槍――――肩部、腕部、槍、これらすべてに神の血を注入した水晶を纏わせる。背中から翼は呼び出さず、月へと向かっているそれを見据える。

 貫くは神への背信者—――ならば、こちらの世界にいる姿も見せない者ではなく、姿を持ち、思うままに世界を喰らい尽くすあの方の力にひれ伏させなければならない。

「格の違いを知れ」

 マスターに操られるように、腕を伸ばし、肩で槍を持ち上げる――発射シークエンスオールクリア――理由はなんだ?あれは、マスターを襲った。それだけではない――折角のマスターとの時間を邪魔した。塵すら残す気はない。

「失せろ―――」

 仮想敵対者を想定—――必要破壊硬度を逆算――夜の支配者にして霧の者、流水につまびかれしその名は、吸血鬼—――霧をかき消す、夢幻のそれを光に消す。

 余波だけで樹々を揺れ動かしながら轟音を立てて、布に頼りながら打ち出した赤熱化した槍は、自身の膂力だけでは出せない速度と正確性を持ち一切の歪みや無駄な力を許さず、槍は光のように―――吸血鬼へと打ち出される。

 空を焦がす槍は、月の中にいる吸血鬼を撃ち抜き、月へと運び光の中で消し去る。

「見事だ」

 後引く光の跡、プラズマが消え去ったのを確認して、背中のマスターに振り返って抱きつく。優しいローブに包まれた、優しいマスターの香りだった。

「マスター‥マスター‥無事でよかった‥」

「ふふ、あの程度の吸血鬼に遅れなど取らないよ―――ありがとう、また君に救われたね」

「—――約束しました。マスターの隣にいるって」

「忘れてなんかいないよ。約束しただろう。一度戻ろう、シャワーでも浴びないと」





「マスター、あれは?」

「ん?吸血鬼としか形容出来ないだろうな」

 マスターの胸と湯に包まれながら考えてみる。確かに、あれは吸血鬼としての機能や容姿を持っていた。スライム状の肉塊、招かれた者に対しては己が姿をさらす、外へとマスターをおびき出す。全て吸血鬼の特徴だった。

「マスターは、なんと言ったのですか?」

「私か?やぁ、久しぶりだ。一緒に中で弟子をいじめないか?とね」

「‥‥いじめられるならマスターだけが」

「認めたな?そうか、君は私にいじめて欲しいのだな。美人な教員で、年上の女性にいじめて欲しいなど、君は倒錯しているな。よろしい、次は見た目にもこだわるとしよう」

 きっと何を言っても逆手に取られてしまうので、今はマスターの胸に甘えて黙っていようと決めた。カレッジ内にあるシャワー室兼浴槽。元々は当直室だったらしいが、事実上マスターの私室となっているここは、マスターとの密会室となっていた。

「また無理をさせてしまったね」

 胸と腕で抱きしめてくれるマスターが、つむじに口づけをしてくれる。

「まだまだ本調子とは言い難いとエイルから聞いていたのに‥‥すまなかった」

「—――いいえ、俺が無理に介入したんです。こうなるってわかってました」

 マスターの身体を抱きしめている腕に、既に力は籠められなかった。マスターの布によって身体を湯に沈められているだけで、もう自分で湯舟に沈む力すらなかった。

「しばらく、君はひとりになってはいけない。必ず誰かの傍にいなさい」

「‥‥わかりました」

「ああ、これは命令だ。明日にでも君をカタリ君に送り届けるとしよう。少なくとも今日は私と一緒にいなさい。決して離れないように」

 マスターがそう言ったからには、俺は狙われているという事だ。あの迷宮から逃げ出した吸血鬼は削除したが、恐らくあれは最底辺の種族だ。本物のヴァンパイアは、そもそも姿など定まっていない―――。

「君が吸血鬼程度に負けるとは思っていないが、血の一滴でも奪われれば話は変わる。君の血を宿した怪物など生まれれば、私では手も足も出なくなる」

「—―それは、ありません」

 マスターの胸に揺れた。

「どうして、そう言えるのかい?いくら私を君が愛していようと」

「‥‥俺達の血は、誰も受け入れられない―――向こうでそう言われました。あの方が言っていたんです、私達はどの世界にも受け入れられない、全てから排斥されるって、誰にも、誰からも‥」

 心音が湯舟を伝わって聞こえてくる。そして湯で濡れた手で頭を撫でてくれる。

「そうか‥‥この身体は星の力そのものだったな。あの力を宿せる器など、作り出せる訳がないか。ふふふ‥‥では、試さなければな」

「マスター?」 

 抱かれていた頭が、更に抱きしめられる。

「君は誰にも受け入れられない。それは恐らく事実だ、だがそれだけで諦めるには、まだまだ実験や試行錯誤、回数が足りない。つまりは、まだまだ余地がある」

「‥‥俺を受け入れてくれますか‥」

「約束しよう、必ず君の血を受け入れ―――血を受け継がせるさ」



「もう、外に出られるようになったのか」

「収監されていたよーな言い方ですねー。上で取り調べを受ける為に、無理やり引き上げられたのですよー。ピックアップというよりも、サルベージのようなやり方だったのが、気になりましたがー」

「‥‥取り調べねぇ‥にしては、上での買い物を楽しんでるみたいじゃん」

 マスターによって車両で送り届けられたカタリの部屋に、意外な客が訪ねていた。その客は目の下のクマが酷く、両腕で紙袋を抱えるファストドラッグだった。

「マヤカから、言われたのか?」

「マヤカさん以外の機関の構成員でしたよ。取り調べの時、一度顔を見せてもらえましたが、忙しそうでしたねー。—――聞きましたが、迷宮から消えたのは、人狼だけではなかったとか」

「ああ‥そうみたいなんだ」

 カタリが用意してくれた茶を飲みながら、昨夜の事を話す。あれで仕留められたと思っているが、真にあれが吸血鬼ならば槍で消したのは、身体の一部に過ぎないのかもしれない。

「吸血鬼ねぇ‥ヴァンパイアって結局不定形な見た目なんでしょう?そのマント姿だってリヒトの漠然としたイメージが形になった可能性だってある訳だし。先生はなんて言ってた?」

「—――詳しくは教えてくれなかったけど、マントに槍を突き刺してたから、マスターも衣服は見えてたと思う。だけど、カタリの言う通り俺にはただの肉塊から影に変わったようにしか見えなかった」

「肉塊から影ですかー。人間の姿を持った肉塊は、言説通りではないですね。元々は形など持っていないから、別の何かに姿を変えているというのに―――ただ影に変わったというのは、聞いた話の通りですね。影に隠れるとは、むしろ想像通りかと」

 吸血鬼とは、男女問わず眉目秀麗、それは人間の男女を誘いその血を奪い去る為だ。そして、霧にも影にも動物、果ては虫にも変化できるとイメージだけならば、言われているが、それは人間から吸血鬼になったと言われる種族だけではないか?と言われていた。生まれた時から吸血鬼として生を受けた真祖は、おおよそ人間が計れる姿など持っていない。そう考えられていた。だから擬態として姿を変える。

「‥‥吸血鬼の血肉を喰らった人間じゃない。本物の吸血鬼は、ああなのかも‥」

「—――見た訳じゃないからわからないけど、リヒトはそう思ったの?自分と比べて、どうだった?」

「‥‥あれは姿こそ持っていたけど、霊体と実体の間にいるような幻獣とか精霊に近い感覚だった。招かないと触れる事だって出来なかったんだ、ルールに縛られてるって感じだった」

 吸血鬼としての生まれた者が世界にいる上で、必要な契約と言えるのかもしれない。生と死の間にいるからこそ、実体を持ったこちら側へは手を出せない。夜の王や支配者と言われてこそいるが、その実とても制約の多い在り方なのかもしれない。

「ただ‥あれが迷宮にいた証拠はないんだよな‥」

「迷宮から逃げ出した貯蔵品は、現在調べ上げ中だったっけ?流石に、その吸血鬼で正しんじゃない?だって、そんなふらふら出歩くものでもないでしょう?しかも、深夜とは言え、リヒトの水晶を避けもしなかったなんて」

 神域の水晶は、手に取る事が出来るがこちらにいる人外とは桁違いの格を持っている。だからこそ、圧倒的な質量と純度の力で魔に連なる者を圧殺できる。それが人間から離れているなら、離れていれば更に創生の彼岸の白い方の力が発揮する。

「‥‥あれは、もしかして―――マスターがいたから?」

 思い出してきた。そうだ、あの吸血鬼はマスターの槍と布に囚われた時にのみ、実体を持って水晶で力を加える事が出来た。それだけじゃない、マスターが手を貸してくれたから息吹も通じた、そう言える筈だ。

「リヒトさんの力が通じない吸血鬼ですか―――それは、本当に吸血鬼なのですか?」

「—―――外の力かもしれないわね。私とマヤカみたいに」

 俺に通じるとしたらカタリの銀の腕にマヤカの鎖、もしくはあの教授のように生命の樹を使い、同格にも匹敵する位を得た稀有な頭脳の持ち主。または、巨人。

「‥‥詳しくは聞きませんが、それは比べられる程類似品がある訳ではないのですよね?」

「ええ、そうね。これは――まぁ、他に似た物のない私達それぞれの独自の力。そう思っていいわ。‥‥帰ってきたリヒトを傷つけられる力は、神の一端を握ってる巨人とかそういうのだけ。逆に言えば、その吸血鬼も神かそれに類する力を持ってるんじゃない?まぁ、ここで考えても仕方ないんだけどね」

 その言葉が締めくくりとなり、三人で握っているカップをゆっくりと口に付ける。そして、ヨマイが今も抱きしめている紙袋を見つめる。

「ヨマイ、それは?」

「ああ、忘れる所でしたー」

 紙袋から取り出されたのはサボテンだった。手のひらサイズのそれはイメージ通りのサボテンで丸い青々とした緑色のそれを見て「可愛い‥」とカタリが呟いた。

「キンシャチと言うそうでーす。一目惚れをして購入しましたが、サボテンとはなかなかに繊細な植物らしく、季節によって時間を変えてしっかりと水を上げないといけないと」

「面倒みれる訳?ヨマイってずっと地下に籠ってるんでしょう?」

「ずっとではありませーん、が‥‥そう見られてもおかしくないですよね‥。だけど、これからはエレベーター付きの迷宮にグレードアップするので、毎日どころかお昼のたびに、外に出る事が出来ます!!」

 そうは言うが、エレベーターが完成までは時間がかなりかかるだろう。迷宮への穿孔許可は得ているようだが、多くの機材や専門家が必要な筈だ。

「あ、水やりの時間です」

 そう言って一緒に紙袋に入っていたじょうろを持って、水道へと駆けていく。迷宮外にいるヨマイもなかなかに新鮮だが、じょうろを持って歩き回っているヨマイは、なおの事、類を見なかった。

「‥‥ふーん、ヨマイの部屋ってこの近くだっけ?」

「はーい、そうですよー。近くの学生寄宿舎ですよー」

「‥‥暇だったら、サボテンの世話してあげてもいいけど?」

「あ、いいんですかー?どうしても外に出れない時は、お願いしますねー」

 どうやらサボテンの丸いフォルムに一目惚れしたのは、ヨマイだけではなさそうだった。ふたりで暮らすであろう部屋は、いつかサボテンだらけになってしまうかもしれない。

「それで、どうして今日は訪ねてきたんだ?」

「カタリさんに話がありましてー」

「私に?何?」

 じょうろとサボテンを持って日の当たる窓際で水をあげているヨマイが、背中を見せながら言ってくる。

「リヒトさんをお借りしたと思いまして。エレベーターを制作する上で、リヒトさんの力は必須条件なので。いいでしょうか?」

「リヒトを、別にいいけど‥‥なんで私に?」

「なんで?リヒトさんはカタリさんの物なのでしょう?なら、所有者に許可を取るのは当然かと」

「そうよね!!リヒトは私の物なんだから、私に許可を取るのは当然!!絶対必要事項よね!!ヨマイ、もし良かったら今日泊まっていく?お昼も夕飯もつけるけど?」

「お世話になりまーす」

 これを想像していたかどうかはわからないが、カタリとヨマイの仲はかなり縮まったようだ。そもそも似通った手段を選ばない部分があったから、気が合うとは思っていた。だが、当事者兼貸出をされる神獣には、選択肢はないようだ。

「エレベーターの話は聞いたけど、具体的には」

「秘密でーす。大丈夫、しっかりと私手ずから計測した道を掘って貰えれば、それでいいのでー」

 秘密主義というより、技術の漏洩を避ける、もしくは見てからのお楽しみと言った感じだ。

「それでヨマイ、どうしてリヒトは私の物だってわかったわけ?」

「どうしてもなにも、リヒトさんが俺はカタリの物だって」

 言っていない筈の言葉をヨマイとカタリが盛り上がりながら、繰り返している。本当に言ったとすればそれは人間リヒトの方だ。俺ではないが、俺が言った以上それに従うしかないようだ。

「そうよ!!いっつもリヒトってカタリカタリって、わがままばっかり言って、だからあなたは私の物になったら許してあげるって言ったら、じゃあそうなるって、カタリの物になるって」

「昔からカタリさんばかりだったんですねー。迷宮の中でも、カタリはどうしてるかな?って何度も言ってましたー」

「やっぱりねぇー、そうだと思った。ちょっとでも私と離れるとね―――」





「そろそろ昼じゃないか‥」

「それでねそれでね―――」

「小さい頃のリヒトさんですか‥」

 窓際のサボテンを見つめながら声をかけてみる。

「お前は優しいな。棘だらけだけど‥」

 自身の事を放っておいて俺の昔話に花を開かせている二人は、ついさっきまで話の中心にいたサボテンを完全に忘れていた。

「暇だ‥」

 杖をつきながらスマホを握ってテレビのある部屋のソファーに倒れ込む。

「イッケイ?今大丈夫か?」

「おーう、大丈夫だー。どうしたよ?」

「北部区画林間部の夜に、何かがいるって言ったのお前らの所らしいけど、イッケイは知ってるか?」

「知ってるぞ。こっちだとかなり知られてた話だった、危ないとか手に余るとか思った奴らは軒並み引っ込んでからな。俺もそのひとりな訳だしよ」

「見たのか?」

「んーや、俺は見てない。誰か探すか?」

 イッケイの色彩学は、発掘学とは違う意味で閉鎖的だった。己が内に宿る願望を、岩や草の油、または血すら絵の具として用いて風景画等に置き換える。それはゴーレムとはまた違う世界との契約。中には官能的な物も描く奴もいると言われている。そして、総じて色彩学によって描かれたものを飾る事は、一種のステータスとなっていた。理由は貴重で未だに貴族から抜け出せないから。

 よって、色彩学への糸口は色彩学に頼るしかなかった。

「いいや、大丈夫だ。直接的な被害者はいないんだよな?」

「ああ、俺の知る限りだとよ。まぁ、怪我を隠して引きこもってる奴がいないとは言い切れないのが、俺達だけどな―――やっぱし、なんかいた感じか?」

「いたけど、もう済んだ。後は好きに出歩いていいぞ」

「‥‥しばらくは大人しくしく。色々あって、今はどこの連中も睨みを利かせてるしよ」

 さもありなん。つい最近、寮からの一切外出を許さず、にカーテンも全て締め切り、長時間の通話すら許さないと機関から命令が来たからだ。街中で何が起こっているのか、知らない奴らからすれば、ここはいつ戦場になるかわかったものじゃない。

「お前も、しばらく大人しくしたらどうよ?また入院するぞ?」

「また通院生活をやってるよ」

「はっは!!そうかい、じゃあ言い換えるぞ、長生きしろ、またな」

 大丈夫とは言ったが、実際のところは決して暇ではなかったようで、一方的に通話を切られた。

「色彩学は、よく北部地域を出入りしてるし、目に見えての被害者がいないなら‥本当に身体の中で【眼球】を作り出してただけなのか―――わかりやすく誰彼構わず襲ってたら、身体を求めてたってわかったのに‥」

 どうやら、あれらの人狼は俺を含めた身内を狙って襲っていたらしい。巨人は、多くの中から俺達を選び取っていたように見えたから、マスターの言葉を借りるとアプローチの仕方が違うようだ。

「‥‥なんであの人狼だけ、外に出した?」

 命令内には、少なくとも二体いた。人狼とレイスだ。確かに貴重な身体をまとめて奪われない為に、分散化を目指したのならそれらしい理由にはなるが、一体外に出せらたなら、まとめて秘境の何所へ隠せばよかったものを。

「—――可能性があるとすれば、館か‥」

 あれだけの生命の樹の枝を保存出来ていたのだから、人狼の身体の中で巨人の一部を精製するインプラントのような手法だって、可能性な筈だ。

 人狼の身体に、樹を宿らせるように【目】を宿らせ、俺の身体のように保存。そして【実】を作り出す。種と苗床が違うだけで、やり方は同じだった。

「‥‥あの眼球、調べないといけないな」

 もしあの眼球には特別な、館を使わなければ作り出せない力を宿したのだとすれば、それは恐らく生命の樹が関わっている。それだけじゃない、自然学の秘儀とでも言うべき力さえ使わているかもしれない。そして、調べる理由は他にもあった。

「巨人のいたガラス管、あれは‥‥館の地下にもあった」

 




「悪い、付き合わせて」

「構いませーん。一宿二飯が決まっている以上、恩義を先払いするだけでーす」

 ヨマイとカタリと共に、館へと向かっていた。既に館の全貌は機関によって探索済みとの事だったが、それでも不用意に棚を開けられる程、まともな館ではないので、人はいるだけいいという話となった。

「確か、その館って林間部を超えて山岳地帯、山中にあるんでしたよね?」

「ああ、だから少しだけ遠いぞ。昼は、帰ってからだ」

「それを気にしてるのはリヒトだけでしょう。それより、よくあの機関がふたつ返事で許可をくれたわね。しかも、ヨマイは機関のローブも着なくていいなんて」

 マヤカに連絡したら、カタリの言う通りふたつ返事で許可が返ってきた。条件として俺とカタリは機関の白のローブを装着、そして決してヨマイから目を離さない事だった。

「私は、何度か機関に手を貸しているので専門家枠に入っているのかと」

「そうなの?」

「はーい、実はこのヨマイ、機関にはちょっとだけ顔が利きまーす、と言いたいんですけど、そう思っていたのは私だけのようですねー‥。マヤカさんには、顔すら知られていなかったようですし‥」

「俺達は特異な所属だったから、あんまり機関の本筋とは関わらないんだ」

 実際、マヤカもヨマイの事は工房を借りられる腕利きの学生、ぐらいにしか考えていなかったようだ。ヨマイ自身もマヤカに責任者は誰だ?と聞くぐらいには、接点がなかった。

「それで、自然学教授の館でしたか?私、詳しくは知らないのですが、どうしてそこに?」

「‥‥あのガラス管見ただろう?あれと同じか、似た物が地下にある」

 迎えに来た機関の車内で最低限の説明を行う。言える筈がなかった、俺を創生の彼岸、創生樹の袂に送った儀式場なんて―――。

「リヒトさん?」

「機関として言える事と言えない事があるの。そこは察して」

「‥‥わかりました」

 坂が見えてきた。道路を抉り、樹々をなぎ倒したままの坂道を越えれば、すぐに館。そして揺れる車内で口を結び、カタリからヨマイは館の説明が終わるのを待ち続ける。坂を登り切った所で、ロタが待っていてくれた。

「ロタ、暑かっただろう?無理して待ってなくても」

「さっきまで車の中で待ってたから、大丈夫です」

 杖を握った腕に抱きついてくるロタの顔を眺めながら、笑ってみる。

「大丈夫ですか?」

「‥‥ちょっと頼るかも」

「任せて、私はあなたの乙女だから」

 車から降りた二人は、それぞれ別々の反応をしてくる。

「館にはすぐにでも入れる?」

「はい。機関には話を付けておいたから、自由に出入りできると―――少しだけ中の様子を見てきましたが、変わった所はありませんでしたから、護衛は不要かもしれませんけど」

 腕から離れたロタが、カタリと話し合いながら館の門へと続く庭園を進んでいく。やはり二人は最近の付き合いのお蔭で、友人関係を造り出せていた。カタリの特異な出自と同じ位特別な生まれであるロタは、気があったようだ。

「あの方は?」

「同じ異端学の生徒で、同じ機関の所属。‥‥ロタも結構特殊な子だから、付き合い方には気を付けた方がいい‥」

「カタリさんぐらいですか‥?」

「そこは、察してくれ」

「了解でーす‥」

 戦乙女としてのロタが露呈する事は、そうそうないと思うが、もしもの時はヨマイに説明しなければならなかった。それは同時にヨマイに目的を失わせる事でもあった。

「行こう」

 ヨマイの手を引いて、ふたりの背中を追いかける。庭園にはあの時と変わらず大量のテントが設置されていた。なかには、有害なウイルスによる感染症予防、もしくは被爆汚染を洗い流す為のテントすら用意されていた。

 本来、ああいったところを通らなければ、街に降ろしたくないのかもしれない。

「へぇ‥‥ちゃんとセオリー通りやってますねー」

「何度か入ったけど、細菌兵器なんて」

「そういったものがあれば、なかなか面白いかもしれませんけど、あれは違う用途があります。あれはそれこそ細菌兵器になり得る何かを放出するかもしれない物を封印する為の設備です。聞きますか?過去に、ある国の地下で人間をカエルにするという呪物が暴走して」

「言わなくていい」

「残念でーす。地下で捜査をしていた方々は、みーんな頬を膨らませてゲーコゲコー。中には巨大なおたまじゃくしのような、精子のような―――」

 性格的な問題ではなく、デリカシー、配慮といった物が欠けているヨマイの悪い癖だった。

 ヨマイの言う通りなら、あれは人間の身体についた物を落とすのではなく、館内の品々の暴走を一時的にでも封印、表に出せる程度に毒素を薄めて、迷宮や機関本部で完全な解体を目指すのだろう。

「あれがあるとないとじゃ、だいぶ違うのか‥」

「まぁ、正直言ってしまうと、あれだけの設備でどうにかなる物なら―――いいえ、止めておきましょー。あれは大切な必須設備です。はい、あるとないとじゃ、大きく意味が違いまーす」

「‥‥本職のヨマイにとっては、そういう物か」

 庭園を抜けて、これも汚染防止の為のような白いビニール状のトンネルが門に設置されていた。派手に破壊した誰かの所為なのかもしれないが―――。

「外観的にも、これは問題があるわね。さっさと見れる物に変えばいいのに」

「これは人間の趣味ではないのですか?人間なんていう低俗な種族には、これがお似合いだと思っていたのに」

「前は、もうちょっと見れる門だったの。まぁ、正直ダサいけど」

 カタリもロタも、周りにこれを設置させた人員がいるというのに、ローブを揺らしながら、我が物顔で進入して行く。また―――カタリとロタが気が合った理由が、わかった気がする。

「う、うーん‥‥あのカタリさんと同じ位偏屈—――変わった子のようですね」

「—――ヨマイ」

「あ、あの偏屈と言ったのは」

 館に入る前、ビニールのトンネルの足を踏み入れる前に、ヨマイの肩に手を置く。クマを作った顔を傾けて、困ったように顔を向けてくる。

「俺の個人的な意見として言っておきたい。ヨマイも、ふたり同じ位には偏屈――変わってる」




「目指すのは地下でいいのよね?‥‥どうしたの?」

「あ、ははは‥‥いいえ、私も、自分が見えてなかったようで。ご迷惑をお掛けしました‥」

「はぁ?ああ、あの工房の防衛の事?別に、特別困った訳じゃないし、今更謝れるほど迷惑じゃないわよ。それに、あの巨人だってあの無能が逆恨みして起こした事件な訳だし」

「—――カタリさん‥」

 ヨマイがよろよろとカタリの両手を握って救われたような笑みを浮かべる。その意味がわからないカタリは、ただただ狼狽えながらヨマイが満足するまで手を渡すしかなかった。

「変わった人間ですね」

「‥‥だけど、いい子だ。ロタは平気か?あんまり、いい場所じゃないだろう?」

「ふふ‥確かに、腹立たしい館ですが―――あなたに告白された場所ですから」

 杖を握っている手を指で触って、ロタは笑いかけてくる。

「告白した場所はここじゃないだろう」

「どこでしたか?」

「ここじゃない地下とバー。そろそろ答えが欲しい‥」

「言われるまでもないのでは?あなたは、しっかりと私のリヒト‥‥愛しています」

 マヤカとは違う、まさしく神が手ずから作り上げた顔を持ったロタの微笑みに、魂が震えているのがわかる。踊るように杖から脇の下に腕を入れて、身体を支えてくれるロタが胸に手を当ててくれる。

「大丈夫ですか?顔色、よくないのに‥」

「‥‥大丈夫、って言い切れればよかったのに―――悪い、俺を守ってくれ」

「任せて。私のリヒトは、私が守護します。戦乙女の守護を受けられるなんて、感謝して下さいね」

「勿論」

 また踊るように離れていくロタが、その手に槍を造り出す。ヴェールから作り出された槍は、ただの鉄塊だけではなく、ロタ本来の趣味らしく花や草木が彫られた芸術的で頑強で洗練された刃となった。

「いかがですか?」

「いい感じだ。身体には慣れたか?」

「はい♪今なら、どんな巨人でも刈り取れそうで―――ふふ‥‥昔は槍のデザインなど、気にも留めませんでしたが、この不自由な身体のお蔭で一振りで首を刎ねるという楽しみを得てしまいました。忌々しいですが、人間の文化や技術、利用して差し上げましょう」

 槍で演舞でもするかのように、後ろ手に回した槍を投げてその場で一回転をし、落ちてきた槍を掴み取る。舞い上がるスカートやロタの身体を包んでいる白のローブが揺れ動いていた。

「いかがでしょうか?」

「—――ああ、流石俺のロタだ。だけど」

「だけど?」

「また、あのローブも見せて欲しい。月色のローブ、初めて会った姿でまた迎えに来てくれ」

「勿論、お約束しますね」

 槍をヴェールに戻し、顔を微かに覗かせるだけに留めたロタは、再度手を取って指を組ませてくる。白い指に、桃色の爪、骨すら美しく感じるロタが握力を強めて引き寄せてくる。

「案内致しますね。さぁ‥」

 ロタに引き寄せられるまま、館内の廊下を歩いていく。指同士で組んだ手を決して離さないで度々顔を覗いてくるロタと、顔が合う度に笑い合う。不思議な感覚だった、これはロタの夢に囚われた感覚を思い出させる。

「慣れてるな。もう何度か入ったのか?」

「あの方、ヘルヤ様の命令で忌々しいですが、ここに何度か使いに来ていました。獣の骨や鎧の傀儡、そして牙を持つ本の対処や狩り、そして分解して持ち帰れと」

「俺も手が空いてたら手伝うよ」

「まぁ‥‥ふふ、人気のない所を私で歩きたいのですか?」

「ロタと会った時も、初めて出歩いた時だって人気が無かっただろう?それに、人間嫌いなのは俺も同じだし、折角だから人がいない場所で歩きたい。ダメ?」

 そう言った瞬間、更に引き寄せる為なのか、予期せぬ腰を抱く腕でロタに肉薄させられる。目の色が違った―――狂乱一歩手前に近いロタの瞳を見ながら、ロタを片腕で抱く。

「ああ‥リヒト、私のリヒト‥。そんなに私を困らせて、どうされたのですか?」

「ロタを困らせるの、嫌いじゃないんだ。俺のわがままをいくらでも聞いてくれるだろう?」

「また私を追い詰めて困らせて―――約束します、必ずあなたと人のいない雪原を歩きましょう」

「次は夏だから、雪原じゃなくて草原だ。ロッジでも借りて湖にいかないか?」

「素敵‥」

 夏場の避暑地としての定番だった。湖畔に建てられたロッジを借りて日がな一日、水に浸かり、桟橋で風を感じる。夜には月明かりを頼りに、湖に映った顔を眺めて足でそれを乱す。時間や食事を忘れて、跳び込みを続けるのは楽しい時間だった。

「では、私達二人きりです。ふふ、湖で水浴びだなんて‥‥私の肌を見たいの?」

「え?水着は」

「私の正体を知っているでしょう?私達の水浴びは、何も纏いません」

「‥‥ロタの水着姿が見たい」

「ふふ‥初心な子。そういう所が男の子―――」

 腕から逃げ出したロタが、一度離れたと思わせて腕を取って肩を貸してくれる。

「少し疲れました?」

「平気!!」

「そうは見えません。少しだけ休まないと。ね?」

 正直言って車椅子で来なかった事を後悔していた。もしくは松葉杖でも持ってくればとも思っていた。そして、先ほどから背中に向けられている眼球には、そろそろ言い訳をしなければと思い出していた―――。

「ロタ、いくらリヒトがお子様でも、いじめるのはほどほどにして」

「だけど、カタリ、このリヒトは悪いとは思っていなさそうですよ」

「だからよ。所構わず甘えだしたら、面倒よ。二つ返事でご飯ご飯って言い出すからね」

「‥‥リヒトの食事の世話を、私はまだ見きれません」

 強気だった筈のロタが、一歩下がって肩だけ貸すようになってしまう。

「退院してたは、大変なんだからね。もしリヒトの為を思ってるなら、夕飯の手伝いをして」

「‥‥仕方ありません。私も刃物の扱いは慣れてきましたし。リヒト、終わったらゲームの約束を守ってね」

 両方から肩を貸してくれるカタリとロタが、夕飯の献立を話し始める。なかなか魅力的な話をしているが、未だに背中に向けられている目から冷ややかな物を感じてた。


 近場の部屋に連れ込まれて、豪奢な椅子に座らせてもらう。通院中という事を忘れてなどいられないぐらい身体中の骨が悲鳴を上げていた。毒が周り過ぎている。それだけじゃない、血が足りなかった―――。

「腕置いて」

 部屋の中央には、幾年もの時間を掛けて作り上げられた年輪を模様として磨かれ、柔らかい猫の足を彷彿とさせるロココ調特有のカーブを描いた足で天板が支えられていた。腕を置くだけでわかった、これは数百万はくだらない。

 正規のオークションに持ち込めば、マニアが数千万は出すだろう。

「ちょっと強めの打つから。ロタ、頭支えてあげて」

 ロタはもはや何も言わずに頭を抱いて、支えてくれる。もう何度となく世話になっていた。

「力抜いて―――そう、そのまま‥」

 テーブルに置いて腰のベルトから引き出した瓶に、同じくベルトから抜き出した針を刺した注射器で中の薬液を吸い上げる。空気が混じらぬよう、先端の薬液を少し押し出してから、針を肌に寝かされる。

「‥‥痛いんだよ、それ‥」

「我慢して。それに、注射器なんて何度もやったでしょう?リヒトの身体中の血管なら全部知ってるから。逃げないでよ、絶対に」

 アルコールスプレーを撒かれた左手の甲に針を刺される。手の甲への注射は筆舌に尽くし難い痛みに襲われる。それは神経が集中している部位に針を刺すという理由もあるが、同じように今注入されているのも、毒だからだ。

「—――まだ寝ないで、あと一回あるから」

 同じように用意していた注射器を、ほぼ同じ場所に刺される。カタリから何度も説明された事だった。最初の薬は、毒を低い濃度まで下げる抗生物質に近いその上、共喰いに近いと、だがそれは長くは効かない。よって次の注射器で一定まで下げた毒を長く抑え続ける。

「はい、終わり。しばらく休んで」

 テーブルの上の薬瓶を音を立ってて、ベルトにしまっていく音がする。視界は既に白く染まり、今も頭を抱いてくれているロタのローブの質感すら薄れていく。先ほどまで唇で感じていた繊維が、麻痺をした頭では温もりすらわからない。

「しっかり―――聞こえますか?」

 ロタの声が、洞穴から聞こえてくるように感じる。幾重にも反響した声が、更に耳の中で木霊する。これは―――ヨマイにも同じ事をされた記憶がある。

「この部屋は安全なのね?」

「はい、何度か使っていましたが、誰からも邪魔をされませんでした。不思議と、ここには何も寄り付かないようで。貴重な物でもあるのでしょうか?」

「しばらく動けないし、ヨマイ、適当に漁りましょう」

「は、はい‥」

 後ろで一部始終を見ていたヨマイが、立ち上がってカタリについていく音がする。床を踏みつける振動だけでも、頭が揺れる。だけど、それは感覚ではなく二人が離れていく間に、足元が浮いていく。

「横になって」

「‥‥ロタ」

「はい、ここにいます」

 ロタの胸に頭を抱かれたまま、背もたれに体重をかける。聞こえる心音に頭を預けて、未だ針を感じている腕を放置する。

「—――少し、休むよ」




「ロタ?」

「はい、ここにいますよ」

 気づいた時、座っていた筈の椅子ではなく、先ほどと同じかそれ以上に豪奢で身体を柔らかく沈めるソファーで、ロタをベット代わりにしていた。仰向けになったロタにうつ伏せで顔を身体にうずめている――昨夜のマスターとの入浴のようだった。

「‥‥ロタって、やっぱり年上だったのか」

「やっと気づいた―――はい、このロタはあなた好みの年上の女性です」

「—―良かった」

 ロタの身体に腕を伸ばして、逃がさないように抱きしめる。簡略化されたローブだが、頭を抱きかかえるシーツ代わりにするには、充分過ぎる厚みだった。しかも、ロタの体温も感じるので、なおさら離れられなくなってしまう。

「ふたりは‥?」

「先に地下へ向かいました。あなたにばかり、先頭を歩かせる訳にはいかないと」

「‥‥俺が前を歩けるのは、ロタ達がいるからだ――そろそろ行こう」

 ロタの身体から起き上がって、背筋を伸ばしてみる。だが、身体のジャイロがまだ狂っているらしく、自然とソファーに再度座ってロタに甘えてしまう。

「ロター」

「はーい」

「お腹減ったー」

「我慢して。わがままばかり言っていると、年上としてあなたを叱らないといけないから。私はあなたの戦乙女、あなたを正しく導くための恋人でもあるのだから」

「‥‥俺はロタと恋人になってたのか」

「不服?」

「—――いや、ロタが俺を選んだ時には、もう恋人だったんだな。早く素直に、ロタの手を掴んでればよかった‥‥」

 目を閉じた頭の前髪を撫でてくれるロタが、鈴を転がすような声で笑ってくれる。

「目は、まだ回ってる?」

「少しだけ―――いや、まだまだ回ってるからロタといたい」

「ふふ‥‥わがままばかり。私ならどんなわがままでも受け入れてくれる、そう思ってるんですか?」

「‥‥ちょっとだけ思ってる。だからロタも好きなだけわがままを言って」

 戦乙女の温もりに抱かれながら目を閉じている。それは死した者しか得られない快楽のひとつだった。死した戦士を館へと連れ、来たる戦へと赴く為、酒を注ぐ。同時に戦士の魂の救済、鎮める為の巫女でもあるロタに甘えて目を閉じるのは、正しい甘え方だった。

「眠りに食事に身体—――全てを得ようだなんて」

「それだけじゃない」

 一度ロタの身体から起き上がって、首をかしげるロタの頬を撫で上げる。

「ロタの心、魂が欲しい。いつか食べたい――」

「—――いつか、本当に食べられてしまいそう‥‥やはりあなたは人間ではないのですね。怖い怖い神獣であり、誰も逃さない暴食の竜。ふふ‥私に相応しいわがままな男の子」

 頭に伸ばされた腕を受け入れて、三度ロタの胸に落ちる。日はまだ昼には届かず、晴天の元、ロタを絡み合っていた。

「まだ時間じゃないから、ダメだ。学校はどうだ?気に入った?」

「まずまず。正直言って少年のひとりに溜口で話かけられた時は、首のひとつでも刎ねようかと思いました。だけど、人間程度の首、いくら揃えても無価値です」

「そのまま我慢してくれ。もうロタと離れたくない」

「—――素直になってきましたね。私も、あなたから離れる気はないから‥」

 逃がさないという意思表示を腕から伝わってくる力で、確認する。しかし、ロタに溜口で話しかける少年とは、一体どれだけの命知らずか。異端学教授のマスターが連れてきた不機嫌な槍使いの魔に連なる者など、異端学のカレッジでは誰もが道を開けるというのに。

「どこで話かけられたんだ?異端学のカレッジじゃないだろう?」

「ヘルヤ様のお使いで、機関本部に行く途中でした。だけど、無視して本部に到着してマヤカさんと仕事を終えて、帰る時、彼も同じローブを纏っていた本部内を歩いていたので、ただの学生ではないかと―――」

「—――俺達と同じような奴がいるのか‥‥」

 魔に連なる者は徹底した貴族主義である。血は水より濃いという言葉通り、どれだけ親しい間柄であっても血こそが最上位の関係、選ばれし血を重宝するのが必然だ。だが、機関は話では血と同時に冷酷な実力主義とも言われていた。

 それは血という最上位の理由を、時に超えるレベルで求められる力があるからだ。

「実力者なのは間違いなさそうだ。なんて言われたんだ?」

「家はどのくらいだ?っと。ふふ‥私の家は神の膝元だというのに―――これだから無知な人間は嫌いです。血がそんなに知りたいなら、教えてあげるべきでしょうか?」

「神の娘なんて言ったら、なおさら人間に指を差されるぞ。嫌じゃないか?」

「—――確かに、そんな事をされたら本当に首を取ってしまいそう‥」

 恐らくロタにそう聞いた奴は、出身校はどこだ?と同じニュアンスで聞いたのだろう。馬鹿馬鹿しいと思えるのは、もう俺が関係ないからだ。だが日夜貴族同士で支配域争いをしている貴族達からすると、いつ敵になるかもわからない相手の下調べには、手を抜けない―――それが身に染みてしまっている。

「この秘境で一緒に暮らすから、言っておきたい。貴族間の争いにはあまり関わらない方がいい」

「どうしてですか?所詮、数だけの血肉袋なのに‥」

「血肉袋だからだよ。切り裂けば腐った血をまき散らして、汚物を浴びる。見た目にも汚いし、匂いもずっと残る。気に入ってる店に、汚物まみれで入る訳にはいかないだろう?—――魔に連なる者の貴族は、長く相手を呪って生活できる場所を奪っていくんだ。気に食わないから、商売相手にするな、食料を売るなって」

 俺の家は、むしろそれを振りかける側だった。時たまぶちまけてくる連中もいたが、それは本家の爺さんや分家の人間達が須らく始末した。それが日常であり、抗争に負けて没落していく家々を見つめる。盛者必衰は常だった。

「—――身内でもあってもですね」

「ああ‥‥ああ、そうだ――むしろ身内だから容赦なく芽を摘んでくる。ロタがやった無視は、場合によっては睨まれる事になるかもしれない」

「‥‥間違ってましたか?」

「—――どうだろう‥いや、間違ってない。脅かす気なんて無かったんだ、ごめんな‥」

 ロタにまだ歪む笑顔を向けて、安心を試みる。

「貴族はメンツを貴ぶんだ。人前で異性へのアプローチに失敗するなんて、これ以上ないくら滑稽で言い訳のしようがないくらい無様なんだ」

「どこの貴族でも、交尾にしか興味がないのですね」

「—――もし誘われたら言ってくれ、撃ち落とすから」

「忌憚なく告げますね。‥‥私、次はどうすべきでしょうか?」

 この世界での生き方を模索するロタに、また笑みが零れてしまう。人間嫌いで、人間に興味がないロタが、人間世界での在り方を考えている。決して悪い傾向ではなかった。

「躊躇う必要はないよ。貴族の相手がいる、こう言えばいい。流石に、貴族の婚約者には手を出す魔に連なる者はいない。ただの学生なら、これでいい」

「それでも、腕を掴まれたら?」

「私の相手は魔貴族のひとりだって言えば、正気の相手なら逃げる。それでもダメなら槍を使って格の違いを見せて、エイルさんのいる場所に叩き込めばいい」

「なる程‥覚えておきます。相手がいる、興味がないから関わるな。これでいい?」

「完璧だ」

 そろそろ身体の痺れが取れてきた。起き上がりながらロタに手を差し伸べて二人でソファーから立ち上がる。杖とロタの肩に頼ってソファーから起き上がる、立ち眩みは感じない。

「どのくらい前に行った?」

「20分?くらい前かと」

「家探しは終わったのか?」

 部屋の本棚や棚は全て開け放たれていたが、気に入った物はなかったらしく品々や書物放置されていた。錬金術師と迷宮の住人だというこうを抜きにしても、あまりにも目が肥え過ぎていた。

「‥‥凄いな、これ‥」

「どれがですか?」

 無造作にテーブルの上に置かれていた物達の中から杯を手に取ってみる。金属片と共に焼かれた青のガラスで作られたそれは、ただの飲料水を注ぐためではない。日に当てて、透過してくる日の輝きで時間を測る時計だった。日時計というには、あまりに無駄な装飾がされたそれは、ロタのランタンに近しかった。同時に―――。

「—――信じられない。なんだ、これ?」

「ん?結局、それはなんなんですか?」

「‥‥想像出来るのは、別の主神に捧げる酒と薬の器だろうか‥‥太陽に近しい位にいる者への供物。主神へ給仕役がいなくなった時に、拐われた人間へ贈り物。神への粗相がないように、相応しい物を作り上げた―――こんな物、どこで‥」

 主神の娘が、かの英雄の妻として迎え入れられた時、代わりとして捕らえられた王の子がいた。何故捕らえられたか?それはその子が、主神すら陥す美少年だったからだ。囚われた少年は、その後永遠の若さと不死が与えられた。そして王には代わりに、神馬、もしくは黄金のぶどうの樹が与えられた。

「あの教授、まともじゃないと思ったけど、神への捧げ物すら奪い取ったのか‥」

 この世界において、神とは既にただの自然現象にとって代わられた摂理の事だ。火が付けば風が吹き、雨が降れば氾濫が、統治者が死ねば革命が起る。おおよそこのガラスの器は、そういった不可視にして不可侵の力、自然現象となる前に作り上げられた神々の存在の証明—――信じられない。あの教授は神代の世界の証明を奪った――しかも、それを解明する為に―――自然学として己が内の宇宙を解明しようと。

「‥‥神性の解明か―――破綻してるにも程がある。生物のその先、惑星間飛行を単体で行うつもりだったのか?それとも、魂だけで星に成る予定でもあったのか?理解できない‥」

「リヒト?」

「ああ、悪い‥」

 ロタが肩を揺らしてくれなければ、この杯を握り潰していた。

「それは貴重な物なのですか?」

「ああ、貴重で代わりのない唯一無二の器だ」

「なら―――」

 そう言ってロタは、青の器を手に取って槍と杯の二刀持ちとなった。

「そんなに貴重であるなら、ここで埃を被らせるのは宝の持ち腐れです。せっかく見つけたのですから、私が人間如きに変わって有効活用させて貰います」

「‥‥いいのか?それは、ロタ達とは違う神々の」

「私達と同列の筈がありませんから。所詮、他所の土地神、星々や太陽、生命を造り出し、戦によって楽園を造り出した私達には敵いません―――」

 誇らしげに、そして悲し気にそう言ったロタが杯を胸で抱いた。

「—―ああ、その通りだ。いいように砕けるまで使ってしまえ」

「はい!!」

 ローブの中に杯を入れたロタに、手を引いて貰い部屋の外へと出る。廊下の絨毯には足跡ひとつ無かったが、確かに誰かが通ったらしく廊下の明かりが点灯していた。

 縁があるらしくロタとふたり、無人の廊下を歩くのは何度も経験していた。そして度々ロタが顔を覗いてくるので、同じように度々目を合わせると、朗らかに顔を染めて笑いかけてくれる。

 ロタの姿は、やはり自然学教授の屋敷にある装飾家具と見比べても見劣りしないほど、よく出来過ぎた容姿を持っていた。それだけじゃない、纏っている神性と表現すべし雰囲気は、何よりも神秘的で儚げだった。だが、手に持っている槍がそういった指向性を破壊に変換、麗しい畏怖へと変えていた。

「ロタって‥‥」

「はい、先ほどから何度も一目惚れしている私になにか?」

「—――気づいてたか」

「あ‥‥。ふふ、あなたもでしたか。それで、なに?」

「可愛いな‥」

「嬉しいような子供扱いされているような‥‥どう可愛い?」

「怖いくらい可愛い。声をかけられたんだよな?—―ロタなら仕方ないって思って」

 腕から手を離して、先ほどよりもローブを翻すように舞ったロタが、また胸に戻ってくる。

「当然ですよ。私は、我が主神によって作り上げられた究極的な美しさの体現、切り分けられた九つの世界を巡っているのですから、全ての世界にとって通ずる美麗の果て、美しさの窮極そのもの―――あなたが、何度も見惚れてしまって当然‥」

 胸の中のロタが、顔を染めながら妖艶で蠱惑的笑みと舌で口を奪ってくる。甘いロタの舌が唇を濡らし、香りで顎の力が抜けていく。また麻痺した口元をロタが口で閉じて、隠してくれる。

「あはは‥‥実は、この身体では始めての口づけです‥。二度目でも始めては、勇気がいりますね‥」

 そんなロタの女性と乙女の間に反応を見て、杖と腕で逃げ場を失わせる。二の腕と前腕でロタの顔を挟み込み、顔を背ける事すら許さない。

「―――どこでこんな手管を?私の可愛いリヒトは‥」

「ロタから習った‥ロタの所為だ‥」

「そうですか‥私が‥ふふ‥あなたの本能に教えてしまったようですね」

 次は、こちらからロタの顎を開かせる。頭と腰を預けているロタが、頭ひとつ分背が低くなり、されるがままになってくれる。体液を前の自分に近づけたのか、ロタの言う通り本能を直接くすぐるような味と香り、ロタの血の気が上っている肌に呼吸が荒くなる。

「‥‥ロタ、何か飲んでた?」

「もう気付いたの?あなたが好きな蜂蜜酒ですよ」

「—――今度は、原液で飲ませて。酔い覚ましは?」

 無言で試験管を渡してくれるロタの手から直接飲み干す。それだけで廊下の天井や絨毯、壁のランプの正確に位置がわかるようになる。そしてロタの温もりも。

「一度酔わせて、気付け薬を飲ませた方が頭が冴えると―――」

「薬漬けに酒漬けか‥‥段々、慣れてきたよ」

 ロタを胸から離して、空気を大きく吸い込む。甘い樹の香りを肺に溜め込んで、酒の残り香を全て吐き出す。どうやら起きた時から千鳥足だったらしい。

「起きた?」

「やっと。行こう」

 今度は俺がロタの手を握って歩みを始める。もう既にあの地下への道はわかっているので、迷わずにロタへ背中を見せられた。




「そうだ‥‥この階段があったんだ‥」

 失念していた。このガラスドームの地下に行くには、大理石の階段を降り続けなくてはいけない。

「‥‥諦めて降りるか」

「ああ、それなら心配は無用ですよ」

 言いながらロタが、ガラスドームの外、新たな庭先へと連れ出してくれる。ガラス扉の外に出た時、庭というより林に近い小川が流れる庭園の中央に井戸のような物を見つける。

「あれです」

「井戸?」

「簡易的なエレベーターです、なかなか便利で迫力もあります」

 何度か使った事のあるらしいロタが、警戒もしないで遠慮なく近づく。やはり、見れば見るほど井戸に近い。カタリが絶対に見たがらない映画にも出てきそうな形状だった。

「エレベーターか‥」

 確かに言われてみれば、井戸に使う筈の滑車近くに命綱に使ういくつかのカラビナがついていた。またスケートボード並みの大きさの板が縄梯子のように並び、鉄骨で組み上げられている。確かに人ひとりを余裕で運べそうな見た目だった。

「どうやって使うんだ?」

「はい、では見ていて」

 胸を張って手慣れた様子のロタは、カラビナから伸びる縄の輪を被って両腕の脇の下で挟み、もうひとつのカラビナを腰に装着。後は想像通りスケートボードを井戸に置き、上に乗って板と滑車を結ぶ

「こうやります。一緒に乗る?」

「安全性を取って一人ずつ行こう」

「残念、またリヒトと抱き合えると思ったのに―――では、お先に」

 井戸本体とカラビナから電動モーターのような音を鳴らして、滑車と板と繋ぐロープを掴んだロタが井戸へと吸い込まれて行った。上から見降ろせばロタが手を振って下へ下へと落ちていく。

「‥‥迫力がある、か」

 ロタの真似をして縄を身体に巻きつけてスケートボードの上に乗る。どう起動するのか?そう思っていたが、スケートボードと滑車を繋ぐロープを掴むだけで、モーターが起動して下へと運んでくれる。道中は確かに迫力があった。鼻先が無くなるほど狭い訳ではなく、むしろガラスか何かで壁は守られているらしく、エレベーターに乗っているような快適性すら感じた。

 だが、それまでに多くの動物や植物の化石が地層に埋まっているのも見えた。

「‥‥発掘の為に、ここに移設したのかもな‥」

 ひとり太古の歴史へ思いを馳せていると、徐々にスピードが落ちていくのがわかった。もうすぐ最下層に到着するようだった。

「二度目か‥」

 まだ数か月ほども経っていないが、俺はここで一度死んだ。そして、もう一度ここで殺されそうになった。ここで偽りだが、いつか到達し得る遥か未来の竜体と対峙し、あの方から力を借りた。決して届かない偽りの未来への欺瞞と欲望を携え堕落した爬虫類と、全ての始まりを喰らったあの方とでは、比較などするべきでもない。

「—――もう一度、来るとは思わなかった」

 唐突に光に包まれ、目を細める。ガラス管に包まれたエレベーターの終わりが見えてきた。巨大なドーム状の天井が真一文字に引き裂かれ、壁という壁は全て破壊されていた。箱舟の素養すら持ち合わせていたそれは、もう見影も無かった。またそこは既に瓦礫こそ撤去されていたが、保存用に設置されていたあれらは、撤去されずにそのまま野放しだった。

「お疲れ様です」

「ロタも、お疲れ様。結構アクティビティとしていいかも」

 ロタから手を借りてスケートボードから降りると、自然と電動モーターが再度起動してスケートボードが床へと吸い込まれていく。エレベーターと言いつつ実際はエスカレーターに近いのかもしれない。

「カタリとヨマイは?」

「姿が見えませんけど、恐らく近くかと。探しましょう―――大丈夫?」

「大丈夫、じゃないかも‥‥ロタ、守って」

「はい♪」

 ロタを先頭に、燃え尽きたガラスの林を通り抜けて、部屋の中央へと向かう。灰すら残っていない生命の樹は、いちいち見るまでもなかった。中の青い液体、確実に星の結晶を液状化にしたそれすら全て蒸発しており、参考になりそうなものは無かった。

「‥‥参考としてきたけど、あんまり」

「大丈夫、安心して。まだこれに類する物が地下にあるから」

「まだ下があるのか‥‥慎重というか臆病というか―――負けることも考えてたんだろうな」

「もしくは、あの技術者の目を盗む為なのかも。思ったよりも思慮深くて懐疑的なようで」

「違いない。誰も信じてなかったんだろう‥」

 今更あの人間の顔も思い出したくないが、魔に連なる者としてあれは参考にすべき思想と思考を持っていたのだろう。ただひとつの失敗は、外の雑魚と結託して俺を生贄とした事—――そして生命の樹の実を喰らった事。

「喰らった実を杖に造り変えたか‥‥」

 ロタにも聞こえないように、口の中だけで呟く。

「あ、いました」

 ロタが指差す位置に、カタリとヨマイがいたが、様子がおかしかった。

「—――銀とランタン。ロタ」

「はい」

 ロタがヴェールを槍に戻し、背後に回ってくれる。杖に水晶を纏わせてロタの槍をまた模して、花や植物の装飾を水晶の槍に施す。

「カタリ―――」

「わかってる、動かないで―――」

 頭の中だけで呼びかけて、敵がいると伝えてくる。

「何が襲ってきた?」

「わからない。顔も姿だって見えてないの―――」

 ガラスの林は大半が既に破壊され、隠れる場所など無い筈だった。だけど、カタリとヨマイは背中合わせとなりそれぞれの死角を潰し合い、臨戦態勢となっている。

「囮になるなんて言わないでよ。ここで怪我でもさせたら、なんでこの人数で来たのか、わからなくなるから」

「—――わかった。守ってくれ」

 カタリはそれに、口元を歪ませるだけで答えてきた。

「ロタ‥」

「何も感じません。神性や魔性、ましてや巨人でもないかと。こちら側の何者かかと?」

「余裕そうだな‥」

「最近、同じような物ばかり狩っていたので、つまらなくて―――ふふ、ようやく楽しめそうで」

 槍で床を傷をつけて音がする。挑発と同時に武者震いに近い行為をしたロタが、一歩躍り出た―――忘れていた、ロタは槍を振るのが好きだったと。

「さぁ、こちらに‥」

 片手を掲げるように、差し伸べたロタへ振り返った時、杭のような何かが振り下ろされる。ロタは、鼻で笑いながら槍の先端でなんの狂いもなく止め、ハウリングに近い鉄の音を起こす。

「ロタ!!」

 水晶で槍で振り下ろしてきた何かを弾き飛ばす。手応えこそあったが、確かに何も見えなかった。姿が見えない、使い手がわからない。同時に掴む腕の感触すらなかった。

「これが吸血鬼?」

「わからない――」

 顔の手を当てるという緊張感がほぼないロタは、つまらなそうに顔を捻る。

「姿が見えないというのは、つまらないですね。私の槍よりも短くて、軽かった。色は、赤というか緋色?あの方、自称神の使っていた剣のようで、自動的に飛び襲い掛かってきたようでした」

「今更、力を求めてるのか」

 始めてこの屋敷に足を踏み入れた時と同じだった。絵画や襲い掛かってきたが、杖を宙へと投げ捨てた時、狙いを変えて取り込もうとしてきた。どうやら、今までお眼鏡に叶う餌が無かったようだ。もしくは、丁度いい獲物が現れなかったか――。

「砕かないでくれ」

「了解しました!!」

 やはり楽し気に躍り出るロタに、教授が作り出した杖が襲い掛かる。それは一直線にひとりとなり、隙を見せたロタへと迫りくる。だが、当のロタはこういった手合いとは慣れているのか、舞い踊るように槍を床に押し当てて、火花を散らし、弓が反り返るように力を籠めて弾き返す。瞬間、杖の全貌が姿を現す。

「見えました!!」

 すかさず質量を持ったランタンの光が、杖を弾き飛ばし床に軽い音を立てて転がる。更にロタは、槍で高跳びでもするように舞い上がり、転がった杖を踏みつける。

「おしまいですか?」

 槍と足で杖を押さえつけてロタが微笑む中、駆けてきたカタリが銀の両手で杖を掴み、浸食するように杖を銀に変えていく。

「大人しくして!!もうめんどくさいから!!」


 カタリの手によって、緋色の杖の震えが徐々に静まっていく。ロタが足を外しても反撃の機会を窺って来ない―――本人が消えても、杖だけで魔に連なる者達の理想郷の復活を目指そうとしていたようだ。

「—――少し待って、まだ抵抗してる」

 カタリが額から汗を流している。それは疲労による物だけじゃない、この杖の誕生の時を読み取ったからだ。

「‥‥ごめん」

「なに謝ってる?もうリヒトは、ここにいるでしょう?これ以上、つまらない事言ったら、怒るから」

「任せた」

「はい、任された」

 ランタンを振りながら走ってくるヨマイが、カタリの押さえつけている杖を見つめて、しばし声を忘れてしまっていた。

「それ‥まさか‥」

「なに?」

「—――いいえ、詮索はしません」

「あっそう。迷宮生活って伊達じゃないのね、どこで知ったわけ?」

「‥‥迷宮には、錬金術師が残した写本も残っているので」

 それ以上は、ヨマイもカタリも何も言わなかった。杖とのせめぎ合いはカタリに軍配があった、徐々にだが、確実にカタリの銀が全貌を包みつつある。

「ロタ、説明してやって」

「では―――見えますか?あれが、地下室へと続く扉です」

 ロタが指差した壁は、ヨマイとカタリの背中側にあり、周りとは違い崩壊しておらず息吹の波から免れたようだった。そして扉と言った通り、壁には壁紙でも切り取ったかのように、長方形のまさしく扉代の暗い穴が開いていた。

「最近見つけたのか?」

「はい、つい先日、気になったので少し突き崩してみたらああなりました」

「‥‥向こうの技術か?」

「そう言えるかと、あの地下施設と同じでした」

 俺の抜け殻を風見鶏として使っていた地下にも、隠し部屋が残っていた。どうやら、ロタにはそれを感知する術があるらしい。

「ヨマイ達は入ったのか?」

「いいえーおふたりを待つべきだとー。お体の調子はいかがでー?」

「絶好調とは言えないけど、取り敢えずは足手まといにはならない程度には」

「それは何よりでーす。にしては、ごゆっくりでしたねー?ごゆっくりしてきたのですか?」

「察してくれ」

 自分で聞いてきたのだから、想像はしていたのかと思ったが、この返答は予想外だったらしく、元から桃色の頬をリンゴ並みに染めてしまう。

「‥‥カタリさん、よろしいんですかー?」

「向こうでも、似たような感じだったから、今更言ってもねー。それに、どうせロタが誘ったんでしょう?」

「—――はい、このロタが誘いました」

 その言葉に嘘偽りはないのに、ロタが片目だけで振り返り舌なめずりをしてきた。

「‥‥この話は今晩にするから。ロタ、せっかくだから付き合いなさい」

「ええ、勿論。リヒトとは今晩の約束もしてますから」

「へぇ――自分の機能に、随分自信があるのね?いいわよ別に、また気絶するぐらい薬でいじめてあげるから。だって、楽しいでしょう?私も楽しいし。それで?」

 未だ杖を床に押し付けているカタリが、無表情で見つめてくる。だけど、それはただの無表情ではない、腰のベルトを揺らし今晩の薬は、どれが好みか聞いてきた。

「‥‥その時になったら、決める」

「優柔不断ね。なら、勝手に決めちゃうから」

 このやり取りを理解できないヨマイは、ひとり置いてけぼりになってカタリやロタに視線を送るが、誰も何も答えなかった。

「ヨマイ、ここは初めてか?」

「‥‥はーい、私は始めてです。リヒトが、これを?ひとりで?」

「まぁ‥‥正確には違うけど、俺がやった」

「—――想像以上に規格外ですねー。いくら機関とは言え、これはやりすぎでは?まぁー詳しくは聞きませんが。それで、本当にここはあの教授の持ち物だったのですか?」

 砕けたままにしてあるガラス筒の林だった物を視線で差してくる。ヨマイなら、一目で見抜いただろう。これは、あの巨人が収まっていた物よりも幾分も小さい。ならば別の、それも大量のなにかを納める為に造られたと。

「ああ、これはアイツの個人的な館だ」

「私も魔に連なる者の端くれ、この館の異常性と過剰性には気付いていまーす。一体、何をしたくてここまで過食気味になったのですか?どこかと戦争でもする気で?ここにある品々だけで、ちょっとした国を作り出せますよ?」

「‥‥なる程、国か。手始めに、それを目指していたのかもしれないか。答えを言うと、アイツはこの秘境を巻き込んでオーダーや機関に宣戦布告でもする気だったらしい。そこで打ち勝って、魔に連なる者の理想郷、過去を再現しようした」

「あり得ませーん。だって、不可能でしょう?」

「それを、目指す為の施設が、ここだ」

 額に手を当てて、ふらつくように一歩下がった。ヨマイも魔に連なる者の端くれ、その意味に思い当たる節があった。オーダーへ魔に連なる者が宣戦布告するということは、現在の庇護下でどうにか生き延びている魔に連なる者全体を道連れにすると、ほぼ同意義だからだ。

「‥‥リヒトさんを生贄にして、そんな事をしようと―――まったく、理解できません。いくら秘境の住人でも、世間知らずにも程が――」

 杖に水晶を纏わせて、地面を大きく叩き貫く。四人を囲むように生み出した水晶の壁が、ヨマイの背後の隠し扉から生み出された樹々の腕を阻み始める。

「意思でもあるのか?主を貶されて、襲ってくるなんて―――」

 一体下で何を飼っていたのか、水晶を通して見つめた扉から、大質量の樹の塊が出て来れ切れていない。扉や壁の頑丈さに感謝する訳ではないが、身動きが出来ないという事は、見物するに有難かった。

「あの技術者の術じゃない―――あの巨人の身体に近い。今更なんで動いた?相応しい餌でも見つけた、もしくは―――館を荒らしたからか?」

 あれは生命の樹の枝葉だ。であれば、それを罠として起動させたのは、間違いなくあの教授の筈だ。それ以外では扱えない、もし出来たのであれば、即刻空席となっている自然学学部長に座らせられる。

「あ、もしや」

 俺も思い当たる節があったが、ロタはローブで隠されたとは言え、カタリにも匹敵する胸の内から青の杯を引っ張り出す。

「これを取ったのが、気に食わなかったのでしょうか?」

「ロタ!?なに、勝手に持ち出してるの!?ここは、あの魔人の館なのよ!!」

「えぇーでもー、所詮人間ですし、良いかなって?」

 床で杖を抑え続けているカタリが、ロタに跳びかかりそうなほど叫ぶが、それには俺も一枚噛んでいた。

「俺が勧めたんだ、怒るなら俺だ」

「それ!!私も狙ってたのに!!」

「考える事は、みーんな同じですねー。私も競り落とす気でしたが」

 ランタンの光源を強めるヨマイが、今も迫りくる樹木の波に光の発射口を向ける。

「いいですかー?」

「ああ、頼む」

「了解でーす」

 言うな否や、水晶の壁に向かって発射されたランタンの細い光が、壁を握りしめていた樹木の手を貫通、白煙と灰に変えていく。ランタンの熱線に競り負けた樹は自身の質量を更に増やしヨマイのランタンと拮抗状態を作り出す。

「ほほーう」

 楽し気に、そして興味深そうにつぶやいたヨマイが、ランタンを調整し、更に光を強力な物に変えていく。壁を通して照射される一条だけだった光は、水晶の壁を通す事で分散化、四つの光の槍に別れる。虫を針で貫くように穴だけにしていく。

「久しぶりに、ここまで操れます。威力が威力なだけに、無暗に使えないのでー」

「ここに持ってきたのは、いい判断だ。違和感はないか?」

「ぜーんぜん。何も変わりませんよー」

 途絶える事のない光に、樹木が攻めあぐねているのが、見て取れる。だが、未だに向こうも余裕があるのか、様子見と防御に徹し始める。

「終わりが見えないか――カタリ、大丈夫か?」

「‥‥あれを呼び出したのは、多分この杖。死んでた防衛機能を復活、呼び起こしたんだと思う。どうする?砕く?」

「—――いいや、回収しよう」

「いいの?別に、誰にも見つかってないんだから、壊してもバレないと思うけど?」

「別に、機関に献上する訳じゃない。それは俺の責任だ、俺が始末をつける」

「そう‥」

 既に7割近くが銀に変えられていた。カタリも幾分か余裕が出来たのか、会話が可能となっていた。

「なら、さっさと片付けて」

「よろしんですかー?」

「誰が止めるとか、思ってるの?どうせ、誰にもバレやしないし」

「では、そうしましょー」

 ヨマイが取り出したのは、あの時渡した水晶のナイフだった。ナイフは、ヨマイ好みに装飾済みで、どこかスチームパンクな見た目、金の歯車やパイプのような物で柄と鞘が出来ていた。

「ではーリヒトさん、お願いしまーす」

「無理はするな」

 ランタンの光を解き、壁も解く。樹木はそれをどう感じ取ったのかわからないが、瞬時に抑えていた樹の腕の数を増やし身体全体を無理やり扉から引き出し、ヨマイに突撃してくる。

「そうそう、自分から来て下さいねー」

 言い終わった瞬時、ヨマイは水晶の短剣を宙に投げる。丁度樹木の塊の頭上、そこにナイフの切っ先がギロチンの刃のように下を向く。

「では、お疲れ様でしたー」

 ナイフに向けてヨマイがランタンの光を発射する。光と樹木の移動スピードでは、比べるまでもない、光速そのものがナイフを掴んだ瞬時――ナイフの刃が巨大化する。樹木を真上から突き刺す――それだけじゃない、水晶内で幾重にも光が反射され続けナイフが赤熱化、熱が光にも伝わり星を穿つ槍にも匹敵する輝きに到達する。

「ふふーん♪」

 動きを止められた樹木を無視して、更にランタンの照射を続ける。ナイフはそれを受け取り続け、刃の数を更に増やし光の檻を築いていく。徐々に地面に近づいてくるナイフは、決してこちらに刃を向けずに樹木のみを焼き切っていく。

「フィナーレ」

 ナイフが照射し続けていた光は、ただの余剰、排気でしかない。増幅された光はまだ消費されてなどいない。楽し気にランタンの光を切ったヨマイが、こちらに振り返って腰の手を当てて、にやつく。

 ほぼ同時に、ナイフが樹木の塊を通過、床に音を立てて落下した瞬間、広い箱舟にも匹敵する天井に光の柱が生まれる。塵一つとして残す事を許さない地底からの一撃に樹木は苦しみもがく時間すら与えられず、光に消えていった。

「これが私の奥の手でーす」




「なにが、私の奥の手よ。全部リヒトの力でしょう?」

「それを使いこなしているのは、この私でーす。つまりリヒトさんを一番理解、使いこなせているのは――この私。そう言えるのではー?」

 杖の浸食が終わったカタリが、俺の後ろにいるヨマイと睨み合っていた。あまり親しい所を見た覚えのないふたりは、しばらく館を歩き回っていた事で、親しくなってくれたようだ。

「杖は大人しくなったか?」

「見ての通りよ。ただ、上辺だけをコーティングして固まらせただけだから、近いうちにどうにかしないと、まだ勝手な真似をするだろうけど」

 カタリが片手で持っている杖は、白銀に覆われた別物と化していた。カタリが普段使っている杖よりも、幾分か大きくて装飾が少なかった。

「それでだ、あの樹の塊が這い出てきたのが、秘密の地下室なんだな?あれも、保存されてたのか?」

「あそこまで何もかも絡み合っていた訳ではありませんが、全て合わせればあの質量分はあったと思います。まぁ、もはや塵もありませんが―――」

「それはいいさ、仕方ない。だけど、間違いなく這い出てきた、なら地下にもある筈だ。休んでる暇はないかもしれない、ロタ、頼む」

 ロタが槍を呼び出して先導をしてくれる。カタリとヨマイが、それぞれ俺の左右で睨み合っているのが如何ともし難いが、放置しよう。

 ロタが扉型の穴に吸い込まれていく、ヨマイがランタンの光を強める事で、中の様子が見れた。暗い理由は単純に明かりが一切ないからだった。暗い廊下の中、真っ白なロタがひとり佇む姿は、絵画じみた非現実感があった。

「ロタは、何度か入ったんでしょう?この人数で入れるぐらい広いの?」

「ええ、余裕です。先ほどの部屋と同じか、それ以上かと」

 暗い廊下を更に暗くしたような扉らしき闇をロタが槍で押し開ける。光が零れる先にロタが真っ先に入って手を伸ばしてくれた。

「あなたの真似をしてみました。いかがです?」

「‥‥ロタの方が頼り甲斐がある気がする」

「ふふ‥大丈夫、あなたの手もとても素敵だから」

 ロタに連れられて入った先は、床中を青い液体が覆い大量のガラス片が飛び散っていた。長方形の部屋に壁を隠すようにガラス筒が並んでていた。匂いこそしないが、部屋中のガラス筒から何かが這い出てきたという想像を起こさせるそれは、否が応でも不安感をあおってくるに十分だった。

「これは―――これが、今までの部屋全体に?」

「ああ、これが部屋中に並んでた」

 破壊された中でも、まだ全形を保てているひとつを、ヨマイが駆け寄って素手で撫でる。もはや何も入っていない以上、問題ない筈だ。

「それと、足元のそれもだ。どう見る?」

「間違いなく、これであの樹々を保存、育てていたのでは―――そうですか、あれが生命の樹‥‥現物は始めて見たかもしれません」

 カタリが使っているような試験管を取り出したヨマイは、液体を収めて興味深そうに眺める。

「似た物を見た覚えは?」

「それこそ、あの5階層の部屋かと。ただ、あちらよりも純度というのでしょうか?色が濃いようです。やはりただの保存ではなく、急速に育て上げる為の栄養でもあったようです」

「栄養ねぇ―――それがあれば、あの巨人も動かせる訳?」

 カタリが、部屋の物色を始めるが、めぼしい物は全て破壊され残っていた書物も水浸しとなっていた。つまらなそうに視線を送ってくるカタリに、こちらも頷く。

「何あったとき用の破壊工作、そんな感じだな」

「リヒトもそう思う?私も同じ。だけどさ、これってどれほど意味がある?ロタが入ってるって事は、もうサンプルは取ってるんでしょう?」

「どうなのでしょう?私が見つけたというのに、最初は追い出されてしまって――ふふ、マヤカさんがいなければ、青じゃなくて赤の海になっていたかも」

 これほど簡単に許可をくれたのは、もう見るべき物は取り尽くしたからかもしれない。ロタの杯も原因かもしれないが、それ以上に機関に荒らされたのが、気に食わなかったのかもしれない。

「先ほどのカタリの質問にお答えしますと、可能かと」

「—――あり得るの?」

「確かに、ここと5階層のとを比べると純度がいくつも下かと思いますが、むしろそうやって長く強固に、樹木のように育てる事であれほどの破壊力を作り出せたのかと―――これは錬金術の業だけではありません。恐らく‥‥キメラの」

 キメラ。ヨマイは確かにそう言った。

「私見を過分に含めていますが、間違いないかと」

 キメラと聞いて、誰もが想像が出来る姿がある。蛇の尾に獅子の頭に山羊の身体。それは現在の魔に連なる者の禁忌一歩手前だった。なぜならば、それは生ある形を無理に変化、繋ぎ合わせる事になる―――いつか、人間にも手を伸ばしかねない。

「6階層の彼がどれほど有能か知りませんが、もしかして―――あの巨人の正体にいち早く気付いたのかもしれませんね。もしく沼地の巨人が収められた時から彼らの一派はそれに気付き、ここの主と取引でもしたのかもしれません」

「‥‥キメラには、この液体が必要なのか?」

「身体を繋げるという事は、同時に拒絶反応との戦いでもあります。それは腐敗との競争、放置すれば数秒単位で腐り落ちる。それを防ぐため、この液体で保存、接続を緩やかに時間を掛けて同化、腐らせるではなく溶かして結び付ける物にした―――別々の獣の身体を使って巨人を動かせるように」

 苗床は巨人、土壌は人狼、水はレイス、そして恐らく種は吸血鬼の血だ―――マスターと俺がいるカレッジに訪れたのは、俺の血を求めての物だったのかもしれない。

「それを、もう一年前には完成させていたって言うの‥?あそこまでの力を持った巨人を?」

「どれほど前から作り上げていたかはわかりませんが、動かしておふたりを襲わせる、という命令には従えていたようです。むしろあの巨人が収められた時間を考えれば、遅すぎるぐらいです。彼らも苦肉の策として手を取り合ったのかと」

 ヨマイの話で納得している自分がいる。確かに、あれほどの膂力を持った巨人がマーナがいるとは言え、機関本部に、もしくはこの地下で襲い掛かっていたら状況は大きく変わっていたかもしれない。

 あの教授が巨人に拘ったのは、いい素体がいたからか。

「キメラ―――ホムンクルスとゴーレムの」

「というよりも、ホムンクルスが使えるように手を施した術式とゴーレムを使った。そう言えるのでは?」

「あんた‥気付いて?」

「これでも迷宮に住まう者ですよ。ある程度は見当がついていました。それに、カタリさんがこれほどまでに力を貸してくれている理由も、想像していました」

「‥‥ただの世間知らずじゃなかったのね」

「もうあの時の私ではありません。リヒトさんに選ばれた、神獣の従者です――冗談ですよー」

 カタリが無言でヨマイの襟を掴んで振っているのは、親愛の証と見る事にした。

 ヨマイの言う通りならば、巨人はそもそもはホムンクルス、だがそれは既に死していた、よってそれを復活させる為、迷宮内の貯蔵品でキメラ化、復活を企む―――だが失敗し、あの教授から力を借りてどうにか形にした。けれど、俺達が破壊した。

「恨みが積もり積もっていた訳か―――」

「お話は終わりましたか?ではリヒト、私を構って。先ほどから暇でした」

 先ほどから部屋中を見て歩き回っていたロタが、飽きたかのように、ローブを摘まんで引っ張ってくる。その仕草が可愛らしくて、幼くて―――。

「キメラとはなんですか?」

「そうだな‥ゴーレム技術の境地のひとつって言えると思う」





「ゴーレムの中に、もうひとつのゴーレムを結び付ける?なんの為に?」

 休憩所代わりの部屋に戻って、ロタと共に荒らした部屋を元に戻す。バレても逮捕などされないだろうが、後々面倒になるとの事だった。

「ゴーレムの身体に、新たな文字を刻み込んでゴーレム化させる。腕を刃みたいに変えたりさせるんだ―――確かに、なんの為かわからないかも」

 ロタが首を捻っている。事実として、キメラはほぼ無意味な技術と言えるだろう。

「マスターが使ってる人形に、新しい文字を書き足して身体の一部を武器にする。だけど、そんな物にどれだけの意味があるか、実際、意味はない」

「言い切れるのですか?」

「ああ、言い切れる。無理やりパズルのピースを追加させるような物だ。そもそも入らないし、もし埋め込んだとしたら、双方の干渉によってどちらも壊れる。なら、最初からゴーレムをふたつ用意した方がいい」

 確かに、夢のある話かもしれない。身体中に別々の文字を刻み込み、全身を武器化させる。あの悪魔使いと同じように、不可視の力を大量に同時に扱う。

 そんな技術が確立されれば、大きくゴーレム技術は進化、飛躍するだろう。

「そして、もうひとつキメラには求められた技術があります―――体に文字を刻み込み、無手の状態でゴーレムを操る生体兵器。大体が、それは人体を仮定していますが」

「人体を‥‥それは可能なの?」

「不可能、とは言いません。それに近しい事を出来ているおふたりがいますから」

 言いながらヨマイが、テーブル上の物品を元の位置に戻していく。何がどこにあったのか、全て覚えているらしく迷いがない。

「私達は術式、血管を使ってゴーレムよりも自由で、三次元的な陣を作り上げてるからちょっと違うけど―――動けないなら、座ってて」

「‥‥任せる」

 先ほどから杖もなしに歩き回っていた弊害が出てしまった。言われた通り、大人しく座って待つ事にした。

「結構、そういう話はあったの。指の骨一本一本に文字を刻んで同時にゴーレムを使うって、まぁ、やっぱり意味がないんだけどね」

「どうしてですか?」

「そんな危険な真似をするなら、全部の指にゴーレムの指輪でも付けた方が安全だから。指に彫れるぐらいなら、いくらでもゴーレムなんて用意できるでしょうし。それに、ゴーレムの技術って日夜進化してるの。いくら気に入ったゴーレムがあったからって、時代が変わったらもっと強力で自由度の高い物が生まれるかもしれないのに、使い続けるって無様じゃない?」

「上位互換があるのに、使い続けなくてはいけない。確かに、それは無様でつまらないですね」

「そう、だから動物の身体に文字を刻んで爆弾みたいに使うって話もあったんだけど、そんな事を皆が皆したら―――まぁ、これはどうでもいいわ。こっちは終わったけど、そっちは?」

「滞りなくー」

「終了しました」

 無造作に放置してある杖を拾い上げたカタリが、腰に手を付けて二人に呼びかける。カタリもヨマイも、気に入った品があったらしく、自身の人並みを超える膨らみを使って何かを隠し持っていた。

「見過ぎなんだけど?何、文句でもあるの?」

「‥‥ないけど」

「けど?」

「ちょっと‥刺激的過ぎるって言うか‥」

 ふたり揃ってなぜか胸に隠していた。そこが一番確実に隠し持てるからだ、と言われれべその通りかもしれないけど、そもそもの大きさを際立たせる質量になった所為で―――。

「‥‥もうお二人で一緒にお風呂に入ってるんですよね?なのに、こんな初心なんですか?」

「こういう所は、昔から変わらないの―――まぁ、お蔭でいじめ甲斐があるんだけどね」

「カタリ、幼いリヒトをいじめてはいけませんよ」

 後ろからロタが、頭を抱きしめてくれる。だけど、肩に自身のそれを乗せている所為で、意識が一瞬跳びかけた。

「幼くて初心なリヒトだから可愛いんですよ?ちょっと肌を見せるだけで、ふふ‥」

「—――ロタ、もういじめないで」

「ふふ‥ごめんなさい。さぁ、立って」

 肩を貸してくれるロタが、椅子から引き上げてくれる。だが、既に杯を隠し持っているロタが、真横に並んでくる所為で襟から青の器を挟んでいる谷間が見えてしまう―――驚いた、ロタはもしかしてカタリを超えているのかもしれない。

「リヒト、前々から思っていましたが、そういった視線ってすぐにわかりますよ?マヤカさんやヘルヤ様に送っている視線、あのふたりは楽しんでいるって知ってますか?」

「—――送ってない」

「たまに、そして今だって私をそう見ているでしょう?そんなに見たい?」

「‥‥最近Yシャツで歩き回ってるのは」

「ああ、あれは無自覚かと」

 昨今、手段を選ばないと思っていたロタのこれは、むしろ俺からの要望に応えた物だったと、今更ながらわかった。マヤカにマスター、それにカタリが自然と見せていた四肢は、見せつけていた物だったらしい―――。

「‥‥年相応ですねー」

「子供っぽいでしょう?だから皆から男の子男の子って言われるの」

「迷宮でも、構わずマヤカさんを見てましたねー」

「ああ、やっぱり‥‥場所を選ばないでしょう?ヨマイも気を付ければ?」

 仕事は終わったを言わんばかりに、カタリとヨマイが真っ先に扉に向かっていく。ロタが肩を貸してくれるが、襟は整えずに目を引き寄せてくる。

「いえ、ここまでわかりやすなら前払いとして払っても」

「‥‥自覚ないのね。ヨマイも、リヒトと同じくらい無自覚だから」

「え‥?」

「え?じゃないから、本格的に夏場になったら気を付ければ?前に会った時、ずっとリヒトが見えてたから」

 



「見つけたの?どうやって‥」

「向こうから襲い掛かってきたから、回収したんだけど―――何かあったのか?」

「異端学のカレッジが吸血鬼と思わしき何かから襲撃を受けてだけでも、大事だったのに。生命の樹から生まれた実を使って精製された杖なんて―――到底私の持つ権限では始末をつける事は出来ない。ひとまず、ここで待つ事しか出来ない‥」

 白いローブに劣らない白い顔をしたマヤカが、額に手を付けて顔を振ってくる。見つかったとしても、精々が欠片程度だと踏んでいたのに、実際には杖そのものが見つかってしまった。

「—――あの樹の巨人に、樹の竜を生み出した杖なんて‥‥御せる人物は限られてしまう」

「御せるって言っても、別に使いこなす必要はないんだろう?マヤカが保管しておけば」

「それを求めて、一体どれほどの結社や貴族が動くか、想像もつかない。—――場合によっては魔貴族すら動いてしまいかねない」

 機関の車両で本部に訪れた時、マヤカが出迎えてくれた。杖発見の報告を既に受けていたマヤカを始めとする機関の面々が、銀に包まれていたとは言え、この秘境や学院の権威や魔人と呼ばれていた狂人の遺産を見て、顔を蒼白に彩っていた。

 カタリ達にも任意同行を求められたが、「今度はなにする気?変質者」と、正論を吐かれた結果、任意での取り調べを拒否した。一年前の杜撰な己を知っている連中は、それを止める事が出来なかった―――。

「これはいつまで持つ?」

「しばらくは、って言ってけど。あんまり時間が無さそうだ‥」

 銀のコーティングが、宙を舞い空気に溶けて浮き上がっていくのを見て取れる。カタリは仕事は終わったと言って、「後はそっちでどうにかすれば?この程度も自力で処置できないアンタ達の面倒見る気なんてないから」と、ロタとヨマイを連れて帰ってしまった。

「‥‥私から頼んで、カタリに」

「もしもの時は、俺が握り潰すよ―――どれぐらいこの杖の事を知ってる?」

「どれくらいって‥‥この杖は生命の樹の実。あなたを苗床にして作り出した【実】から生まれたって」

「—―これを他所に言うかどうか、マヤカに任せる。それはあの元教授が喰らって造り出したって言った。どう受け取るべきか、俺にはわからないけど、確かにそう言った」

「—――実を、喰らった?」

 あの教授の目的を、やはり機関達を筆頭にマスターすら知っていなかったようだ。生命の樹は、新たな命を作り出し、新種なんて程度の低い話ではない。霞を喰らう何かすら生み出しかねない―――俺のように、人の姿をした何者かを作り出せる。

「‥‥あなたが灰にして良かった。あれはただの人形、肉片の片割れじゃなくて紛れもなく新しい生命体。存在しない生命を作り出してるなんて―――単一で革命を起こすなんて真似、あり得ないと思ってたけど、歴史を変える事が可能だったのね」

 杖を撫でるマヤカが、椅子に座って深呼吸を始める。

「あなたじゃないと勝てないと思っていたけど、事実として私達では牙も手も足も出なかった。あの場には、生命の窮極系と始原の生命体、二つの果てがいた―――神話にも匹敵する場面を、私達は無自覚に引き起こしてしまったなんて‥‥」

「生命の窮極系なんて大層な称号、アイツに相応しくない。アイツはただの盗賊、自分で何も作り出せないから、盗んで事件を引き起こしただけの素人だ」

「—――だけど、私達はその素人に今も苦しめられている。報告は聞いた、山岳地帯にいた人狼はあの館に出入りしていたと、それは事実?」

 マスター譲りの精神統一なのか、自身の鎖を呼び出して手の中で遊び始める。足を組んで知恵の輪のような鎖をいじるマヤカが、少し可笑しかった。

「事実だと思う。眼球にどれだけ情熱をかけてたか知らないけど、ただ視界を得る為の臓器じゃないみたいだ。あの館、確実に杖を使って何かをしていたぐらいだから。眼球はマスターが持ってるって聞いたけど、マヤカは見たのか?」

「ええ、見せてもらった。解析も解剖もマスターがしてくれると言ってくれた」

 ハンドスピナーに近い役割を持った鎖いじりを、マヤカはなかなか止めない。むしろそれが楽しくなってきたようで、視線も向けてくれなくなった。

「‥‥あなたはどう思う?」

「どうって、何が?」

「—――巨人は打ち倒した。人狼もレイスも吸血鬼も始末した。そして杖も回収、ひとまずは全てが終わった。だけど、これで終わったと思う?」

「終わってないから、吸血鬼がカレッジに来た―――そう思ってる」

「‥‥あなたも」

 ようやく全てのピースが集まった。ようやくキメラを構成する身体の破片を見つけ出す事が出来た。ようやく階段を降りきった所でしかない筈だ。

「そもそも―――あの吸血鬼だって、完全に始末出来たとは思ってない。だからマスターは昨日、俺を守り続けてくれた。あの巨人が俺の水晶を取り込もうとしたのと同じで、まだ【求める価値】があるから襲ってきた。また襲ってくる筈だ」

 俺の考えを聞き終わったマヤカが、視線を向けて頷いてくれる。

 過去にマキトの調書を見せてくれた一室で、マヤカと共に意思を固める。恐らく、また迷宮から何かが這い出てくる。あの巨人と同じ力だとは思えない、ヨマイの言う通り、樹木は長い年月をかけて強固に生まれ変わり続ける。

 たった一年という期間だが、迷宮から這い出てきた沼地の巨人は、あの元教授が手を貸した短い期間で生前にも匹敵する力を持って復活していた。ならば―――

「ヨマイの水晶、あれを回収したのはこうなるって予測してたのか?」

「—――予想とは違う。狙われるとしたらあなただとは、思ってた。別にあなたが狙われるっていう情報を得ていた訳じゃない。だけど、狙われる理由を考えると、あなたが一番多い‥ふふ‥」

「ずっと、マヤカに守って貰ってたのか。マヤカ、約束したい」

「危険だと思ったら、あなたに必ず言う。約束する」

「じゃあそれは約束だ。俺はマヤカに誓いたい―――必ずマヤカを守るから。必ずマヤカを迎えに行く。マヤカを一人にしない。一緒に妹達に会いに行こう」

 一年前、マヤカが手を貸してくれた理由だった。妹達を一緒に探し出す。取って付けた、あの場限りの口約束に過ぎない。だけど、俺にとって始めて秘境でカタリ以外のヒトとした約束だった。俺の力を信じてくれた、守ってくれたのがマヤカだった。

「—―誓ってくれる?」

「うん、誓う。信じてくれるか?」

「あなたは、いつも約束を守ってくれた。信じないなんて選択、私には出来ない」

 鎖を消したマヤカが、テーブルを挟んで座っている俺の手を取ってくれる。

「私もあなたに誓う。必ずあなたを信じる―――他に誰でもない、私の為に息吹を捧げてくれた神獣リヒトに、私の心を捧げる。どうか、この人形に竜の息吹を――」

 細い白い、そして冷たい指だった。大人と少女の間にいるマヤカの長い指と指を絡める。爪が皮膚を刺してくるが、それはマヤカの意思の強さと感じ、嬉しかった。

「顔が赤い、どうして?」

「‥‥マヤカの指」

「私の指がどうかした?」

 頬杖をついて、目を細めて笑うマヤカに声を忘れる。長い柔らかな黒髪に首を隠された魔女の容姿に、魂を奪われる。繋いでいる指から体温や生気を奪われていく。

 雪に覆われた極寒の森の中、既に死んだ頭が見せる白の衣をまとった魔女の幻に心を囚われる―――魔女の指先ひとつで魂を操られる。だけど、それが何よりも心地よかった。

 魔女以外何も見えない、いつだったか―――マヤカの声を求めた時があった――。

「教えて、私の指がどうかしたの?」

「マヤカの指—――ずっと綺麗だった」

「そう、私の指が綺麗なのね。綺麗だと思った私の指をどうしたかった?」

 真っ白な顔で真っ赤な口を真横に切り裂いて、恐ろしい魔女の顔を覗かせてくる。恐ろしさに心臓が白に染め上げられる。命を奪う事に、なんの躊躇もない微笑みに、心拍すら操られる。

「聞かせて、私の綺麗な指をリヒトはどうしたかった?どうされたかった?」

「‥‥マヤカに―――マヤカに」

「私に?」

「そろそろいいかい?」

 扉を叩かれて、身体が跳ね上がってしまった。杖を付かなくては歩けないと思っていた足は、思いの外大人しく従ってくれた。そして、扉に視線を移すと鎖で締められてドアノブを発見する。

「—――マスター、気付きませんでした」

「嘘を言え、気付かない訳がないだろう?」

「ふふ‥」

 鎖を消した時、マスターが呆れ顔で入室してくる。黒髪の人形が、実際にはマスター自身ではないと承知しているが、紛れもなくマスター自身が呆れていると伝わる表情だった。

「場所を選べ、とは言わないが、その後の部屋に入る者への気遣いを忘れないように。痕跡を消し去る、形跡を消す、その重要性は真っ先に教えた筈だが?」

「匂いや痕跡など、許した事はありません。だって、機関にもマスターにも気付かれませんでした―――全て舐めとりましたから。ふふ‥」

 舌なめずりをしながら、爪で刺してくるマヤカの舌に、身震いをしてしまう。マヤカに翻弄されている俺を見て、マスターは大きな溜息を吐いて頭を撫でてくる。

「食べたい食べたいと言っておきながら、弄ばれてどうするのかな?年上に翻弄されるのは自然の摂理だが、たまには反撃する事も覚えなさい」

「リヒトは、マスターには反撃するのですか?」

「たまにしてくるがが、まだまだ少年の手管としか言えないかな?まぁ敗北に繋がる反撃など、絶対に許さない。ベットでは、私が上だと教え込んでいる」

「ふふ‥道理で。上に乗らないと」

「マスター、どんな御用でしょうか?」

 ふたりで頬を突いてくる年上の女性に、笑われながら質問を貫く。

「眼球について、何かわかりましたか?」

「どうにか、糸口に繋がる物は発見した、が。私では限界だから専門家に頼ろうと思ってね」

「専門家?カタリなら、もう帰ってしまいましたけど‥」

「カタリ君には、後で追々尋ねる事にするよ。私が言った専門家とは、別の人間だ。迷宮で会った、悪魔使いの事だよ」

 そう言われて俺も、マヤカもマスターの真意がわかってしまった。あの悪魔使いに眼球の話を聞きに来た―――であれば、十中八九、あの六角形の瞳が関係している。

「まさか‥魔眼?」

「かもしれないから、聞きに来た訳だ。訪問する途中で君達もいるというから、一緒にと思ってね。いい機会だ、彼女がこの機関で何をしているか、見るべきだ」

 言いながら腕を引いて立たせてくれるマスターが、胸で身体を受け止めてくれる。未だ、ただ立ち上がるだけで躓いてしまう体調に気付いていたようだった。

「肩は貸すが、出来る限り自力で歩きなさい」

「わかりました、マスター」

 肩は貸す、そう言ったが肩しか貸さないとは言わなかったマスターは、腕を引いて体重をかける方向を教えてくれる。やはり―――マスターは、看病やリハビリが慣れている。

「あの人がここにいるのですか?私は、数度、対面での会話を求めたのに」

「白紙部門の中でも、更に特異な立場なのだよ。それに、新たな使命も受けてしまった。しばらくは、彼女もようやく忙しくなるだろうか」

「‥‥私も同行しても」

「その為に来たのだよ、遠慮など彼女には無用さ」

 俺とマヤカの腕を掴んで、扉を蹴破る。廊下を長い髪と白いローブを流して颯爽と歩くマスターは、凛々しくて誰よりも自由だった。そんなマスターの背中に守られている、そう感じられる今が、幸せだった。髪から漂うマスターの香りに、笑みが浮かぶ。

「さて、どう出てくるかな?」

「どうって、友人なんですよね」

「そうさ。だけども、彼女はこの機関で悪魔使いという立場だけで生き残ってきた訳じゃない。彼女の手腕はなかなかだぞ?理由は【私達】がこうして自由に歩き回っていられる事だ。オーダーと機関に、同志こそいたがその実彼女は、ただひとりで交渉し勝利した」

 交渉ごとが正直なところ、得意とは見えなかった。だが、白紙部門の中隊、確認出来なかったが大隊規模を率いているとするならば、機関内での立場は上から数えた方が早い。それはそのまま、オーダーが言う事を聞くレベルの戦力を指示できるという事だった。

「彼女を崇拝しろとは言わないが、感謝はしてもいいかもだぞ?知らず知らずのうちに、我ら非人間族は彼女の恩恵に受けて生活している。まぁリヒト、君はそう感じないかもしれないが、マヤカ君は自覚があるのではないか?」

 隣で、同じようにマスターに手を引かれ杖を握っているマヤカが、頷いて見つめてくる。

「私の種族は、決して少なくないの。そんな私達を保護してくれる組織は、オーダーだけ。他にもいるかもしれないけど、扱いとしてはこれ以上いい場所はない。そう言い切れると思う」

「‥‥妹達も」

「ええ‥‥保護されたのが、オーダーで良かった。だから、あの人は私に妹達、そして多くの同胞を救ってくれている。私は、あの人に感謝してる」

 マヤカがここまで言い切ったのは、今の自分の立場を俺以上に理解しているからだろう。俺は、ただ命じられるままに生き残るしかないが、マヤカは違う。生き残るには、自分で考えるしかない。考える猶予に空間、恐らくそれを作り出してくれているのが、あの人だ。

「だけど―――俺はあの人達に殺されるように仕組まれて、殺された‥。帰ってきてからも同じように殺されるように膳立てをされた―――また殺されそうになった。挙句に、オーダーに所属しなければ、殺す、そして見世物扱いにするとも言われた―――感謝なんかできません。殺されないだけ、感謝して欲しい‥」

 これは間違ってない。隙など見せる訳にはいかない。それによって崩落していった家々の多くを見てきた。感謝はそのまま貸しになる、貸しがあるという事は、弱みがある、弱みはそのまま隙になる。

「—――それでいい」

 断言するように、空気を噛み切った。

「そうだったよ‥‥殺した相手に感謝しろなんて生者の理論、押し付けてすまなかった。どう見ても、君は被害者で死者だ、狂ったの殺人集団に頭を下げる必要なんてない」

「‥‥すみません、俺」

 振り向いてくれたマスターが、胸で抱いてくれる。

「付き合い切れないか?」

「—――まだ言い切れません」

「そうか‥‥感謝すべきは、私達だったのにね。君ひとり救えず、君ひとり分の仕事も出来ないのが私達だ。罠から帰ってきた君が、復讐をしないから忘れるところだったよ」

 胸から離してくれたマスターが、真っ直ぐに見つめてくれる。

「その視点を忘れないでくれ。どうか、そのままの君で私達に裁定を下してくれ」




「昨日の今日ですまないが、要件はわかっているか?」

「ええ、ゾンビと化した人狼の身体から生み出された眼球の事よね」

 マスターに案内された部屋は、この人の私室なのか、マスターが使用している準備室に似た書斎のような部屋だった。趣味なのか?ステンドグラスの盾やランプ、そして窓ガラスすらステンドグラスだった。

「ここは‥‥知りませんでした、白紙部門にも本部に私室があったのですね」

「うーん、ちょっと説明するのが難しいけど。ここは特別なの、無理を言って用意してもらった部屋。だから、マヤカさんの思っている通り、白紙部門は―――」

 俺には無関係な内輪の話を始めてしまった。本来は関係しているのだろうが、どうにもつまらない。

「マスター‥」

「ん?どうかした?」

「‥‥手、握りたいです」

「人前だぞ―――断ると思ったのか、さぁ‥」

 マスターの大人の長い指と絡め合って、肩と肩、腕と腕を付ける。マスターの香りを肺に取り込んで、身体の角度を変える。ギリギリ、バレない程度にマスターと抱き合って目を合わせて、笑い合う。

「マスター、お腹が減りました」

「カタリ君が待っているから、それまで我慢しなさい。わざわざ昼食を送らせて待っているのだから」

「マスターもですか?」

「いや、私はこのまま仕事だ―――また、夜のカレッジに来なさい」

 ローブの下腹部を、僅かに上げた膝で撫でてくる。背筋が震える刺激を受けて倒れそうになっている所を、マスターは腕を貸しながら牙をのぞかせ、品定めをしてくる。マスターの腕に頼りながら、襲ってくる甘い痛みに身を任せる。

「刺激が強すぎるか?ふふ‥‥あれだけ」

「それで、ヘルヤ、品はどこに?」

「ああ、ここだ」

 マスターの膝を止めた時、一歩前に出てローブの胸元から黒い袋を取り出した。なぜ、誰もが自身の胸元に入れるのだろうか。男性である俺には計れない。

「見せて貰います」

 デスクについたままの悪魔使いが、袋から眼球を掴み取る。清楚な見た目に反して、人のそれを大きく超える血走った眼球を鷲掴みにする光景は、目を見張る物があった。

 それからも悪魔使いは、レンズやペンライトのような物を取り出し眼球を覗き、立ち上がって本棚の中からランタンに似た器具を取り出し、眼球をその中に入れて下から光を当てて、頷く。

 果てはなんの血液かもわからない代物を、眼球に針を押し入れる。

 スプラッターとはいかないまでも、相当な生々しい行為を見た気分だった。

「—――違ったようね」

「そうか‥」

「ええ、これは確かに魔眼の一種と言えると思う。だけど、彼らの血は混じっていない。純粋なこちらだけの陣を模って作り出された魔眼、生命の樹やその杖を使ったのなら、これは当然の結果かもしれない。純粋な新たなゴーレム」

「魔眼なんですよね?」

「うん、魔眼だよ」

「彼らって」

「それは人の為に造られた訳じゃない、そうですね?」

 マヤカが言葉を遮るように、死人の為の魔眼を視線で指差した。

「はい、恐らくこれは巨人の為に調整されたゴーレムです。魔眼とは言ったけど、これは火を灯したり、過去や現在を見る千里眼ではありません。沼地の巨人という在り方を更に強固にする為作り出された【畏怖の目】、そう言えると、思います」

「畏怖の目—――人を恐れおののかせ、震え上がらせるか‥。であるならば、精神汚染の類か。巨人というホムンクルスの役割は、それだったのか‥」

 マスターと悪魔使いが、頷き合って何かを感じ取っていた。マヤカに視線を移しても、何も答えてくれない。ロタの気分がわかった。

「マスター、暇です」

「ん?ふふ‥そうだな、君は知らなければならない。畏怖の目と言ったが、それを聞いて君はどう思った?」

「—――1年前の巨人は、確かに恐ろしかったです。巨人の姿を見た機関の人間は、それだけで逃げ出していましたけど、背中を見せて逃げ出すなんて」

「それは、君が元から純粋な人間から離れつつあったからだろうな。マーナの背丈の2倍程はある巨人が、人間の頭ひとつ分の眼球で睨んでくれば誰だって恐ろしい。当時の人々も、そうだったのだろう」

「当時?発掘される前の」

「ああ、巨人が生きていた頃に襲われ続けた人々の事だ。直観でしかないが、元々、あの巨人は魔女の領地に城を建てられたから襲い掛かってきた、土地を荒らされたのが気に食わなかったのだろうな。よって人々を恐れおののかせ、人体を回収する事にした」

 人体の回収、それは俺が散々、そして迷宮でもされそうになった魔に連なる者の習性だった。そうか―――巨人の母も、自分の支配域に足を踏み入れられたのが、許せなかったから、その代わりに人体を喰らって回収していたのか。

「巨人は、順序良く人を殺して回収するに相応しい手段に過ぎないって私も思います。目を通して人の脳神経を操り、巨人という姿をなによりも恐ろしい姿として投映する。これは、あなたとヘルヤに襲い掛かってきた吸血鬼の姿に似通っていない?」

「‥‥巨人を造り出した母親は、それを参考にしたのですか?」

「そこまではわからない、だけど迷宮で巨人を操っていた貴族達も、吸血鬼の生態に似ていると思ったんだと思う。私も、そう思った訳だしね」

 出来過ぎた、いや、世界中の公には出来ない品々を集めて封じている迷宮に相応しい素体だったのだろう。事実として、巨人の復活など迷宮でしかできまい。

「外にわざわざ一体だけ、人狼を外に出していたのは、どうしても館に行かせて眼球を完成させたかったから。だけど他の人狼やレイスは、研究の為に傍から離す事が出来なかった―――吸血鬼は、必要な身体や血を回収する為の足、こうですか?」

「正確なところは、まだわからないが、それが答えだ。だいぶ勇み足な計画だが、そこは君達への怒りで補い、目をつぶった。怒りで巨人を作り出し、殺し回った母と同じだな。まさか撲殺、刺殺されるとは思わなかったのだろう」

 厄介な事、この上ない。沼地の巨人という眼球を作り出さなけば完成しなかった未完成にして腐りかけの毛皮を、二度も使ってけしかけてきた。

 ロタにも言ったが、汚染された血肉袋は、切り裂けば禍根を残す。

 もう関わりたくない。

「助かったぞ、カサネ。感謝しよう、今晩は楽しみにしていてくれ」

「あ、ふふ‥楽しみに待っています。エイルさんも来るのよね?」

「なんとか、口説き落とした。現在入院している非人間族はいないのに、律儀な事だよ。エイルを呼んだらどうだ?君が呼べば、溜息まじりに来るんじゃないか?」

「試しに、声をかけたんだけど‥‥エイルも自分の子達に忙しいみたいで」

 マスターもマスターで、身内の話を始めてしまった。手持ち無沙汰になってしまったので、マヤカの手を引いてみる。呆けていたマヤカは、一瞬驚いたように身体を震わせたが、手を握り返してくれた。

「マヤカ‥大丈夫?」

「ええ、大丈夫。ごめんなさい、心配かけた?」

「マヤカは、俺が守るから、マヤカの隣には俺がいるから。だから大丈夫」

「—――ふふ、心配する必要なんて無かった。年下の恋人であるあなたに頼りたい、何かあったらまた迎えに来て」

 手の骨を、お互いで砕くように強く握り合う。マヤカの冷たい手に血が通って、温かい肌に変わっていく。薄いピンクの爪が、赤く染め上がっていく。

「また私の手で、いじめられたいの?」

「‥‥次は、俺がマヤカをいじめる」

「とても楽しみ、ふふ‥きっと出来ないけど、頑張って―――疲れたら言って、私が抱いて眠らせてあげるから」

「うん、疲れたらマヤカと眠りたい―――」

 マスターと悪魔使いカサネさんの会話が終わり、三人で頭を下げて下がろうとした時、背中に声をかけられる。

「リヒト君とも話したのだけど、ちょっとでいいから」

「わかりました。待っててすぐに行く」

 マヤカとマスターが示し合わせたように、外で出てくれる。扉の前で待っていてくれるのが、足音でわかった。

「待ってね、椅子を用意するから」

「ちょっとぐらい頑張れます」

「エイルからも聞きました、大人しく年上の先生の言う事を聞きなさい」

 立ち上がったカサネさんが、手でピアノにでも使われていそうな椅子を運んでくる。悪魔使いなのに、手で何もかもをするカサネさんには、やはり顔を捻ってしまう。

「はい、座って座って」

「はい、先生」

「‥‥今のは不意打ちだったかも」

 肩に手を置かれて、前に立たれる。どこか説教でもされそうな雰囲気だった。

「皆は、どう?優しいかな?」

「‥‥皆優しくて、良くしてくれます。ずっと傍で守ってくれます」

「そっか‥。後悔してはいない?」

「—――わかりません」

「わからない、か‥。うん、それでいいと思うの。ヘルヤもマヤカさんも、あなたの事を大切に思ってる。勿論、私も―――」

 後悔していないか?そう問われると、俺にはれっきとした答えは出て来ない。だけど、向こうで教えて貰い、こちらで再確認できた事実があった。

「後悔は、していないのかもしれません。だけど、俺‥わかった事があります。俺、ずっとこの世界に期待し過ぎてたんです―――それは間違ってました」

「‥‥もう期待してない?」

「‥‥はい」

 人間の世界には期待しない。俺は期待を持ち過ぎていた、力を示せば必ず報われる。必ず、受け入れられる。だけど、それは違った。力を示せば示す程、俺は人間に利用された。それを秩序維持の為と言って、大義名分を以って押し付けた。

「迷宮でも言ったかもしれません。俺は、もうそんな事をわかってました。向こうに行く前から、ずっと―――ここに来てからも。力を示せば示す程、利用される。利用されて中身が無くなったら捨てられる。期待なんかしてません、だけど捨てられない物もあります」

 椅子に体重をかけて、一息で立ち上がる。不安そうに手を胸においていたカサネさんに手を伸ばして、自重の一部を任せる。

「後悔は、多分今後もしない。だけど期待もしません、俺を始末しにくる手と息吹は続けてくる、世界や運命は、絶対に俺を受け入れない、許さない。だけどここには大切な人達がいます。あの人達と一緒にいられるなら、期待は持たなくていい―――」

「—――君は、それでいいの?」

「いいんじゃない。もう選んだ、俺はこの希望も持てない世界を選んで、ここにいます。あなたは、どうなんですか?この世界に期待してるんですか?

「期待か‥‥そう言えば、そんな物持ってないからここにいるんだったかな」

 手を強く握って胸に押し付けて、目を閉じている。祈るではない、怒りに震える身体を噛みしめて耐えているようだった。

「うん、私も期待してないから君に頼ったんだった―――もうひとつ聞いていい?私に力を貸してくれる?」

「一度約束した事です。必ず力を貸してみせます、だから」

「だから?」

「名前、聞いていいですか?」

 そう聞いた瞬間、笑ってくれた。

「はい‥‥では名乗らせて貰います。私はマガツ機関、白紙部門所属のカサネです。神獣リヒト、今後白紙部門に何か用があれば、私に頼って。私は今後は非人間族の保護の為、オーダーとも機関とも手を取り合って、たまに黙らせて言う事を聞かせてみせます」



「どう思ったかな?」

「意外と、好戦的なのかなって‥」

「当然だろう?機関に彼女の為に、一席設けさせるようにオーダーが推奨し、機関が従った。オーダーにも機関にも顔が利く、命令を下す事が出来る。決して常に温厚などではない彼女は私が会ってきた人間の中で、もっとも強かな女性だよ」

「マスターよりも?」

「敵に回したくない人のひとりだよ」

 マスターがここまで言うのなら、ただの武力では計れない――いや、ただの武力だけを切り取って評価しても、オーダーと機関が無視できない実力者だという事だ。

「まぁ、君は特別のようだがね。そこまでの年上を堕とす手管を、一体どこで学んだのだ?私も、撃ち落とされた者として、聞いて起きたのだが?」

「マスター、このリヒトは自身の年下としてのアドバンテージを使って、怒ったり甘えたりしてくるのです。可愛らしい抗えない復讐の波状攻撃には、私達は成す術を持っていません」

「なるほど‥‥復讐だから受け入れるしかなく、我らは成す術がないのか―――良いだろう、今後も甘噛みをする事を許してあげよう。新たな反撃を思いついたら、真っ先にこのマスターに言いたまえ。弟子の為、私が身体を張って受け入れよう」

 マヤカの運転する車両で、寮を目指していた。早朝から昼過ぎまで歩き回っていた所為で既に頭は眠りこけている。だが、先ほどからマスターとマヤカの話題には、耳を澄ませておくしかなかった。

「甘えてなんかいません!!」

「だけど、先ほど私やマヤカ君に構ってもらっていただろう?随分と楽しそうだったが?」

「‥‥マスターとマヤカが、俺を放っておくのが悪いんです―――ふたりばかり話して‥」

「ふふふ‥ごめんなさい」

 後ろの席にいるマヤカが、手を伸ばして首を冷たい手で触れてくる。マヤカの手に噛みついて、反撃を繰り出すがマヤカはただ笑うだけでダメージは無かった。

「甘える反撃か‥私の髪に噛みつくのも、それの延長線上だったのか‥‥」

 ハンドルを操るマスターが、鼻で笑いながら冷静に観察をしてくる。既にマヤカもマスターも、そして俺自身のローブから制服やスーツに着替えている。もう今日の仕事は終わり、これからカタリ達の待つ寮への帰路についていた。

「マスターは、まだ仕事があるんですよね?なぜ、もうスーツに?」

「君の好みだと思い、着替えたのだが――どうかな?」

 信号待ちとなった時、マスターが若干足を開いてタイトなスカートに影を差し込んでくる。ネクタイもしていないマスターの胸部はワイヤーを仕込んでいたとしても、その質量を抑えきれずにいた。例え人形だとしても、マスターの身体だった。

「淑女に衣服の感想を聞かれたのだ。紳士として、答えなさい」

「‥‥マスターは、いつも綺麗です。何を着ても‥」

「合格点だ、素晴らしいぞ。単位とベットを温める権利を上げよう」

「マスター、青です」

 マヤカからの進言に、頬を掴み上げて唇を舐めるだけに留められた。

「好み云々は、実は嘘だ。これから学部長同士が集まって行う会議があるのでね、教員として相応しい姿に着替えた、が正解だ。あのローブでは、機関としての立場を目立たせてしまうからね」

「—――今後の迷宮の扱いですね」

「ああ、その通りだ」

 周りの車と紛れながらも、幾分か急ぎながら運転するマスターの車が、カタリの待つ寮とマスターのこの後の仕事への期待と不安を煽っていた。

「封鎖の可能性もあるんですか?」

「どうだろうな。それは、この後の会議にて決定するだろうか‥‥既に決まっている可能性もあるがね」

「‥‥一年前の巨人の暴走で、機関に虚偽を伝え、脱出の手引きすらしている疑いもあります。それを証明するように人狼の脱出にも手を貸していたのは間違いない―――自分達のスポンサーへのプロパガンダにしては、あまりに従順過ぎる」

 マヤカもマスターも、その可能性を否定しなかった。事実として、迷宮の管理をしているのは発掘学だ。だが、それを差し引いても怠慢という評価しか与えられない。確かに、管理をしている責務の対価として多少の私的利用も、誰もが目をつぶるかもしれない。だけど、それらを無視できる範疇を大きく超えていた。

「迷宮の封鎖、無論その可能性もあるが、迷宮の分割管理が現実的かもしれない―――まぁ、なんにしても発掘学の学生達は良い顔はしないだろうがね。彼女、ヨマイ君はなんと言っていた?」

「‥‥あまり話題にはしませんでした。ヨマイ達も手探り状態みたいで――ただ、絶対に受け入れられないって感じではありませんでした。ヨマイ達、発掘学の学生も6階層の扱いに、手をこまねていたようで―――下の物品に、何かが起る事を恐れていたようでしたから」

「—――そうか、プロである彼女達がそうなのなら、迷宮管理は、分割と現状維持とで意見が分かれるだろうな」




「辛い―――美味しい‥挽肉が香ばしい」

「挽肉には手を入れたからね、当然でしょう?」

 カタリお手製のキーマカレーに、スプーンが止まらなかった。昼が待ち遠しかったのは、俺だけではなかったようでロタとヨマイ、マヤカすら無言でスプーンを操り半熟卵を崩していた。

「おふたりが返ってくるまで、絶対につまみ食いを許さないと言われー、もう匂いが良くて良くて―――」

「挽肉をスパイスで炒めてるだけで、寄ってきたの。手間がかかって仕方なかったのよ?」

「だって、あれは‥‥ゲームの手が止まるぐらい‥ずるかったので‥」

「下手に手伝わせるとつまみ食いされそうだから、締め出してたの。いい?次狙ったら食べさせないからね?」

 カタリの作るキーマカレーを待ち続けた、常人を超える忍耐力を持つ二人には感服した。マヤカや俺も部屋に入った瞬時、そして卵が茹るまで待つだけでもつらかったというのに。

「どう美味しい?」

「美味しい!!」

「当然よね、帰ってくる時にあわせて作ったんだから。はい、動かないで」

 やはり、カタリは俺を子供扱いしていた。自分で拭き取ろうとした口元を、拭き取ってくれる。少しだけ気恥ずかしいが、変わらないカタリからの優しさに触れられて、嬉しかった。

「まだ食べたいけど、ある?」

「まだあるから。食べていいからね」

「カタリは?」

「なに、食べさせて貰いたい訳?めんどくさいけど、仕方ないわね」

 スプーンを使って、俺の皿から引き上げたカレーを突き出してくる。食べさせて貰いたかった訳じゃないが、意地悪そうに口元を歪ませるカタリには、勝てなかった。

「美味しい?」

「美味しい!!」

「もう私がいないとご飯ひとつ食べれないんじゃない?まぁ、いいんだけどさ」

「いつもこーですか?」

「隙あれば」

「ああやって、突き出せば大人しく食べると、覚えておきましょう」

 やはり、大型犬の世話の話でもされているような気がする。だが、事実として俺の今の姿は、それに類してしまうのだろう。

「それで、杖はどうしたの?」

「マスターが持っていった」

「あっそう。じゃあ、いいんじゃない?あの人なら制御できるだろうし」

 マスターが持って行った、というよりも機関すら保持を拒否しそうな雰囲気だったので、マスターが隠し持つという形での処置が落としどころとなった。カサネさんの元に行く前に、マスターがどこかへと運んで行っていた。

「あの杖の話ですか?誰にも扱えないのなら、砕いてしまえばいいのでは?」

「それも悪くないけど、下手に砕いたら何が起こるかわからないんだ。それに、あの杖にはいくらか借りがあるから、ただ砕くだけじゃあ、俺が許せない‥‥砕けるまで使い潰さないと」

 杖の出自を知っているカタリもマヤカも、何も言わないでただ聞いてくれていた。

「確かに‥‥私もそう思います。あれも、それぐらい厳しく扱わないと」

 白のローブから制服に着替えていたロタが、サボテンの隣に並べてあった青の杯を視線で示している。それを見て、マヤカは咳き込んでしまったので、背中をさする。

「い、一体どこから‥‥」

「あの館からです。見た目が気に入ったので、献上品として回収しました」

「—――使うのなら、隠し持って。私は、見なかった事にするから」

「何が、献上品よ?私が見つけて、準備しておいたのに」

「見つけたのは、この私でーす」

 魔に連なる者らしい三人の思考を知り得る事が出来たマヤカは、遠い目をしながら日に当たる器を眺めている。マヤカもわかったのだ、あれに一体どれほどの価値があるのか。あれは、カタリやヨマイが求める別世界の存在を確証してしまう代物だと。

「‥‥カタリ、あなたに話があるの」

「わかってるわよ。巨人の在り方でしょう?結論から言うけど、あの巨人はホムンクルスの一種、断言できる。まぁだけど、あれが人を超える叡智を持ってるとは思えないわね。頭じゃなくて肉体に叡智を集わせたって感じ?」

「あなたも、そう思うのね―――」

 あなたも、マヤカは今確かにそう言った。

「それと同時に、一年前の巨人はゴーレムの技術を使って文字の力を刻み込んだ血を流し込んでいた。それで生前と同じぐらいの性能を得たって言えると思う。迷宮に潜ってないけど、マヤカ達が見た巨人は、失敗作。必要なパーツが揃ってないから、着ぐるみとして被った。そう言えるんじゃない?ヨマイもそう思うんでしょう?」

「はーい、このヨマイもそう思いまーす。ふたりで話し合った内容を付け加えると、巨人が浸かっていたあの液体は、保存や培養、そして同時に力を刻み込んだ血でもあるのかと。人狼達の身体を使って、キメラ化、合成、縫い合わせて腐らないように細胞を溶かしてから、強固にしていたのかとー」

 ファストフード好きかと思っていたが、目の覚めるようなスパイスの味が好きらしいヨマイは、カタリのキーマカレーの虜になりながら会話に参加していた。

 二人の言う通り、あの液体ならば、文字の力を込められるだろう。あの結晶は星の力そのもの、絵の具の色を一切薄くさせない水とでもう言うべき触媒だった。

「わかった―――あなた達の判断が正しいと思う。手間をかけてしまうけど」

「報告書ですねー。お任せくださーい、解剖・解析報告書、並びにレポートや始末書は、私の得意分野でーす」

「頼もしい限り」

 真面目な生徒とは思っていなかったが、得意分野と言い切るレベルで、描き慣れているらしい。

「私はパス、だってめんどくさそうだし」

「わかった。だけど、連名であなたも名前を書き記して欲しいの」

「ヨマイー、後頼んだわよー」

「了解でーす。先ほどのお話通りに記しておきますねー。書き終わったら精査の程、お願いしまーす」

「はいはい、お願いね」

 普通、機関への報告書など全ての学生が忌避しそうなものなのに、ヨマイはむしろ嬉々として受け入れた。手を貸せと言われないのだから、どうでもいいのだが、気になった。

「ヨマイ、報告書とかレポート、好きなのか?」

「私が好きですよー。発掘学の学生にとって解析報告書なんて寝ながらでも書かないと終わらないものですから。私は、自分の力量を証明できる報告書を書くのが好きなので、決して嫌いではありませんよー。だって、受け取った機関の方々が頭を抱えて悩ますの、楽しいじゃないですかー」

「頼もしいよ‥‥ヨマイからの報告書を読む時があったら、覚悟して受け取るから‥」

「リヒトさんでしたら、私が隣で説明させて頂きまーす」

 Yシャツ越しの胸元を、暑い暑いと言いながら指でつまむヨマイから目を離せない。サイズではカタリよりも若干だが、劣る。だけどやはり肌の色が白くて、桃色で愛らしいヨマイの谷間から、目を引き離せない。

「そこの子供は放っておいて。それで、もう一度潜るの?」

「私には、まだ何とも言えない。今後の迷宮がどう扱われるか、今マスター達学部長が集って意見を出し合ってる」

「先生が?先生は、どの立場な訳?」

「封鎖は極論過ぎるって言っていたから、現状維持か各階層の分割管理とで意見が割れそうって。ただ――現状維持と言っても、機関の人間が常駐するのは間違いなさそう」

 恐る恐るヨマイを見ると、目が合った瞬間、また指でつまんで見せつけてくる。目の下のクマはそのままだが、だからこそ友人ともまだ言い切れないヨマイからのアプローチに、息を呑んでしまう。

「ふふ、男の子ですねー。また誘惑してしまいますよー?私なら平気でーす。実際問題として、迷宮の封殺などしたら、困るのは学院、秘境側です。私達は自分達の腕に自信があるから、あのラビリュントスにいるのです。私達の代わりが出来るなら、見せて貰いたいでーす」

「これ以上ない正論だな。ヨマイ達を迷宮から追い出したら、今までの経験が消え去るって事か。エレベーターもまだだし、また一緒に階段を降りないと」

 あれだけ自分で欲しい欲しいと言っていたヨマイに、そう伝えただけで、救われたように微笑んでくれた。




「このユーザー、容赦ないな‥‥」

「こんなにゾンビを呼び出すなんて‥物量攻めなんて非道—――勉強になります」

 ロタと共にオンラインゲームをしていたが、協力してあと一歩になった瞬間、ヴィラン側が今まで溜め続けたコストを使い切って邪魔をしてきた。これも戦法と言われれば、その通りだが、あまりにも容赦—――遊びが無かった。

「計算してやってるのか、だとしたら相当のプロだ。息切れしないように、こっちもリソースを温存すべきだったか‥‥ロタ、もう一戦するぞ」

「はい!!私も、まだ物足りませんでした!!」

 ロタと共に、新たなステージに赴く。食卓にはカタリとヨマイ、マヤカが揃って何かを話していた。マヤカは、迷宮帰りという事で、しばらく休暇を取っているらしかった。

「最近、とても忙しかった。結局館と地下施設での3件以来、ほとんど休む暇がなかったから」

「なら、後は先生達に任せて休めばいいんじゃない?マヤカだって、一応は異端学の学生扱いな訳だし」

「‥‥そうね。しばらく学生という立場にいる事にする。それに、機関も私に構っていられるほど、手が空いてる訳じゃないでしょうし。迷宮の扱いに、私が口出し出来る事はないから、しばらく彼らの奔走を眺める事にする」

「マヤカさんって、一体どんな立場なんですかー?」

「あなた達よりも、少しだけ年上の先輩。マヤカ先輩、マヤカお姉様、そう呼んでも構わない。本気よ?」

「勝てそうにありませーん」

「マヤカ姉でも」

「マヤカさんで、統一しまーす」

「残念」

 前にマヤカから、同じような事を言われた。「あなたは、特別に私を姉と呼んでもいい」と言われたが、終ぞ、そう呼ぶ事はなかった。もうマヤカも姉と言って来ないので、カタリと共に呼び捨てで統一していた。

「‥‥ひと目を誤魔化す為にと言って、私にもああ言って来ましたが、もしかして姉と呼んで欲しいのでしょうか?」

「マヤカには、妹達がいるから、呼んで貰ったら嬉しいんだと思う」

「そう呼んでみては?」

「マヤカを姉って呼んだら、それ以上の関係にはなれない気がするから、呼ばない事にしてる。マヤカは、俺の年上の恋人なんだから」

「ふふ―――私の事を」

「ロタはロタだ」

「ふふ‥残念」

 肩に頭を乗せてくるロタと、次の一戦に挑む。悪くない所感だった、武器も弾薬も、何よりチームメイトの腕がいい。協調性がある経験者ほど、頼り甲斐のある仲間はいなかった。

「ロタも、ラビリュントスに行ってみたいか?」

「興味がない、とは言いませんが、理由がないのに入ろうとは思いません。そんなに、私と暗がりに行きたい?」

「‥‥いつか、行きたい、かも」

「あなたからの誘いなら、いつでもいいのに。そうですね、いずれ行ってみてもいいかも。さっき言った通り興味がない訳ではないので」

 息を吹きかけて、微笑んでくるロタの体温と香りに抗ず、呼吸を荒くしてしまう。

「今晩でも、ふたりで抜け出しますか?」

「あんまり体調が良くないから、遠慮するよ。ロタには迷惑ばかりかけてる」

「迷惑を迷惑って思ってるの?まだまだ男の子ですね」

「どういう意味?」

「さぁ?それがわかったら、男の子から一歩、いえ半歩前進ですね」

 ロタの語外の意味がわからず、顔を見つめるが「ほら、ゲームを見て」と指示されて、大人しくロタと肩を合わせるだけに済ませる。首をくすぐるロタの黒髪を横目に、画面が暗転する度に細い白いロタの顔が映るのを、待ち望んでしまう。

「そうだ、あのホテル」

 カタリが、思い出したように声を発した。

「確か先生の持ち物なんでしょう?」

「マスターの、というよりも‥‥いえ、マスターが筆頭株主だから、マスターの物と言える」





「こ、これが貴族の私生活ですか‥」

「私生活って程じゃないぞ。ヨマイだって、並みの家じゃないんじゃないか?」

「‥‥ここに来るまで、そう思ってましたけど、本当のお金持ちを知った気分です」

 マスターへ連絡したところ、レストランの個室を一言で予約してくれた。カタリもここの料理が気に入ったらしく、一応の依頼成功の打ち上げをしようとの事だった。

「先生も来るんでしょう?いつ頃来るって?」

「会議が終わったらしいから、もうすぐ来る」

 壁際で待機しているスタッフにカタリが視線で指示して退室させる。カタリも、貴族に類する家の出自なので、人に指示するとやり方を心得ていた。

 レストランの個室、と言いつつここはマキトが借りていた一室の更に上に位置するロイヤルな特別室。やはりとは思っていたが、この階層にも調理室が設置されていて、レストランのからコックを派遣してくれた。

「別にこれが貴族の私生活って事じゃない。この部屋にもあれだけのキッチンがあるんだ、旅行とか入ったら、普通は家にいる料理人を連れてくるもんだろう?派遣のコックなんて、久しぶりだ」

「—――家に料理人がいるんですか?」

「普通の貴族にはいると思うけど、ヨマイの家にはいないのか?」

「お手伝いさんはいましたが、料理人は‥‥」

「なら、その中にいたんじゃないか?」

 ヨマイも、意外と世間知らずだった。他所はどうか知らないが、我が家にはお抱えの料理人が、どこに行ってもついてきていた。爺さんの趣味らしくある料理人の一派のうち、誰かが常に家々にいた。

「リヒトとカタリの家は、これが普通なの。私も、最初は驚かされてばかりだった」

「これが魔貴族に錬金術師の大家‥‥住んでいる世界が違うのですねー‥」

 マヤカとヨマイが何を言っているのかわからないので、カタリと共に視線を合わせるが、カタリもカタリでわからないと言った感じに首を捻っていた。

「ロタさんは、いかがですか‥」

「私ですか?私は、取り敢えず席につけば食事を用意されました。ただ、寝食の場もこの館よりも規模が大きかったので、移動だけで一苦労でした‥。それに姉様方はそれぞれ王妃や王女でもあった為、会いに行くだけで、大変で、あの時は気付きませんでしたが―――」

 俺やカタリよりも、世界が一回りも二回りも違う話をされて、ヨマイは声を失っていた。しかも、ロタはその気になれば世界の壁を一人で通過できるので、各世界に館があったらしい。

「あと、こちらに来て驚いたのがない物が沢山あって」

「ないって‥‥具体的に何がないと‥?」

「まず湖です。普通、館には湖があるのでは?」

 ロタの少し曲がった館認識を聞かされて、ヨマイは椅子に背を預けてしまった。だが、確かにそれぞれの寮に庭園のひとつでも在ってもおかしくないのでは?と、前々から思っていた。

「それと――」

「ロタ、その辺で。料理が冷めてしまう」

「わかりました‥?」

 マヤカが口元を拭ってくれたお蔭で、ロタが姉のひとり、王妃の話を止めてくれた。

「‥‥王族が姉にいるなんて。ロタさんはロイヤルファミリーのひとりなのですね」

「その話は追々にしたまえ」

 人形ではない金髪のマスターが扉をスタッフに開けさせながら登場した。纏っている服はスーツではなく、あの時よりも露出を少し減らした黒のドレスだった。背中を大きく開けたマスターが上座、誕生日席に座りながら行った、髪をかき上げる姿に俺もヨマイも見惚れてしまう。

「すまない、遅れてしまったな。私は、これでも総支配人なんだ。周りへの示しという事でドレスコードがある。着替えに手間取ったよ、下がり給え」

 視線も向けながらに自身の開かれた背中に見惚れている若い男性スタッフにチップを渡して下がらせた。

「お酒のご用意を」

「不要だよ。すまないが、ごく個人的な会話をするんだ、退室をしてくれ。それと、私は身を固める予定がある――これは、返しておこう」

 チップを渡したと同時に、ナンバーが書かれた名刺を渡されたらしく、それを突き返した。苦虫を噛み潰したような顔をした身の程知らずは、足音を立ってて去っていった。

「—――若いからと言って、私を誘うだなんて。私以外にもしているのであれば、彼はこのホテルの沽券に関わる真似をしている。下働きに戻して自身の立場がわかるように、命じなければ」

「マスターが直接指導しているのですか?」

「いいや、それは支配人室、事実上の経営陣に任せているよ。彼は、そうだな‥‥私の趣味ではないというだけだよ。趣味でもない男性からの口説き文句ほど、身の毛がよだつ物はない。それに、私の彼は君だろう?私のリヒト‥」

 足を組んで笑いかけてくれるマスターに、頬が落ちてしまう。だが、それをカタリが指でつまんで喰い止めてくる。

「甘やかすのも、程々にして下さい」

 小声で笑うマスターに、マヤカが酒を注いでいく。受け取った酒を一口含んだマスターが、マヤカに着席を促す。普段通りの光景を見て、ヨマイは声を出さずに絶句している。

「君がヨマイ君だね?私達に手を貸してくれて、感謝している」

「い、いいえ‥」

「謙遜は良くないぞ。話は聞いた、リヒトとマヤカ君の世話をしてくれたと報告を受けている。君は優秀な学生で、穏やかな心根を持った稀有な才女だ。ありがとう、私の弟子達を守ってくれて」

 この場の主とでも言うべき空気を纏ったマスターが、立ち上がって頭を下げてくれる。心からの感謝を態度で示されたヨマイは、同様に立ち上がって慌て出してしまう。

「マスター、ヨマイが困ってます。そろそろ」

「ああ、わかった。すまないね、気を使わせてしまって」

 座り直したマスターが、ヨマイを見つめて子供のように微笑む。それだけで、ヨマイは緊張が抜けて自然と座ってしまう。

 向けられた訳でもないのに、心臓が止まりそうな笑みだった。金髪碧眼の麗人からの幼い笑顔というギャップに、骨抜きにされた。

「こ、この方がリヒトさんのマスター、恋仲の先生ですか‥」

「その通りだ―――。私は、リヒトの恋人にしてマスター、同時に時たま噛みついてくる生意気な少年の手綱を引き、正しき道、具体的には年上の女性には絶対従順という善導に連れ込みつつある年上の女教師‥‥ああ、私はリヒトを組み敷く者さ」

「—――ああ、やっぱりそういう趣味でしたかー。胸もリヒトさん好みに」

「マスター、迷宮の扱いはどうなるそうですか?」

 肘で脇を突いてくるカタリとヨマイの視線に耐えながら、声を絞り出す。

「では、新たな現地妻には後々正式な挨拶をさせてもらおう。単刀直入に言おう、発掘学の学生達は、このまま現状維持。君達ほどの経験を持った学生の代わりはいないという結論となった」

「‥‥良かったです」

「と、同時に報告通りの罠を仕掛けていた学生達は、預けられた品々を返却、工房の取り潰しとなった。彼らも新たな工房設置を認められているが、多くの審査が必要となっている。現在、問題が報告されていない工房は、そのままだ―――何か身に覚えはないかな?」

「ありません!!」

「結構、では後ほど機関の人間を送って調べさせて貰おう、言っておくがこれは本気だ」

 どこまで本気かわからないマスターの宣告に、ヨマイは冷や汗をかき始める。試しにマスターを見つめるが、「無論、例外はないさ」と片目をつぶって念押しをしてくれた。

「締め出した理由は、これか‥‥本当に前々から決まっていたんですか?」

「稟議書、とまではいかないがある程度の選択肢が述べられたものは回っていた。いち学生である君達にも秘密にしなければならなかったので、こういう報告となった。まぁ、君程の才女ならば見られてマズイ物はあるまい?」

「え、ええ‥」

「流石に鍵を破壊して侵入する事はない。預けられた品々を元に、必要があれば立ち入り検査があるというだけだよ」

 注がれた酒を手に持って、マスターが遊び始めた。アルコールを入れなければ、話せない内容に入ったという事らしい。

「でだ、君達が最も知りたいであろう内容、発掘学があの人狼騒動や巨人解放にどれだけ関わっているか、それを話す時が来たよ」

 


 

「結論から言おう。発掘学は、わざと巨人を始めとしたドラウグル達の奪取、及び脱出を見逃した。更に言えば、リヒトが迷宮内に入った時、その旨を伝えるという手駒としての働きもしていた」

「自白したのですか?」

「その通りだ。まぁ、やったのは発掘学の教授陣ではなく、いち事務職員が自発的に行ったと言い張っていたがね。あれだ、圧力をかけておのずと動くように慮らせるというアレだよ。どうやったかは、まだ吐かせられていないが――関わった、とはっきり言ったよ」

「逃げられないと思って、部下の所為にしたのね。アイツの父親みたいな真似—――」

 グラスを傾かせて、吐き捨てるカタリは、思ったよりも優し気だった。内容としては、最上級の侮辱と諦めの極致だったが。

「それで、先生はどうしたんですか?」

「私達の立場は、総じて決まっていた。発掘学から迷宮を取り上げる」

「まぁーそうでしょうねー。私自身、今の発掘学の管理する迷宮で、どれだけ安全にいられるか想像していたので」

「と、言いはしたが、実際迷宮管理のノウハウやいろは等は、発掘学にしかない。それもわかって、関わったと暴露したのだろうが、一歩考えが及ばなかったようだ―――発掘学への出資金は、全て機関が管理。更に言えば、近く出資者との関係は、全て切断する」

 発掘学は、多くの外部組織と関係を持っている。それは迷宮への貯蔵という、品々の提供を始め、長く、場合によっては永遠に契約という名の解析権利を得るからだ。それを行うには、やはり金銭が物を言う。

「—――全てですか」

「元々、不透明な金の流れがあったが、それも迷宮管理の為という大義名分があったから、誰もが目をつぶったいたのだよ。その迷宮管理は、人狼どころか巨人の意図的な脱走の手助け、そして巨人を使っての機関構成員への襲撃、並びに虚偽の助言。更に言えば、巨人という契約品の勝手な改造を黙認した疑い―――これら全て、また諸々の理由により、真っ当な管理が出来ていない、この秘境の目的である学術の探究、魔に連なる者の秘匿的教育に反するとして、発掘学という学部に、手錠を掛ける事となった」

 流れるように、つい先ほどまで行われていた会合の真意を話してくれた。本来、マスター達学部長陣は自らの学部さえ守れれば、それでいいという排他的な関係だ、授業によっては他学部への出張や、学生の移動も行われるが、せいぜいがその程度。

 けれど、この件は秘境全体の問題として取り上げられた。よって、発掘学というこの学院を構成する組織のひとつへ、同じ立場の学部が介入したという事だった。

「先ほど、君達学生はそのまま変わらないと言った理由がわかるかな?」

「はーい、だって御上がどれだけ金欠で喘ごうが、私達には関係ありません。身銭を切ってでも迷宮の管理をしようという気概がないのであれば、もう誰も従いません―――ふふふ‥‥頼みの綱の私達が、自らの懐を悩ます重荷となったのですねー」

「強気に出た理由って、他人の財布に頼ってたからなのね。無様ね、結局、最初から最後まで自分達だけじゃあ真っ当な管理が出来てないって、大手を振って宣言してたもんだし―――それを聞いて発掘学はなんて?」

 ヨマイと共に、並べられていた皿の肉を、ソースに浸して食べるカタリが、「なかなかじゃない?ヨマイはどう?」「なかなか‥‥ってレベルではないかと‥」というやり取りをしながら、マスターの返事を待っていた。そんなカタリの姿を見て、満足気に頷くマスターが、ワインで唇を潤す。

「想像通りだよ、話が違う、それとこれとは別問題だ、とね。面倒な事になりそうだから、全ての学部長で言いたい事を言って切り上げて来たよ。あれ以上は見るに堪えないのでね」

「自分で、関わった、見逃した、と宣言した以上、今更撤回も出来ない。自らの隙を牙城を作って誇大に持ち上げた結果、足元が見えなくなっていたのね―――切断という事は、もう出資者は判明しているのですか?」

「候補はあるが、確定しているのはひとりだけ。リヒトとマヤカ君を狙ってきた学生の家だよ。15位というそれなりの立場を持つ貴族の本家。まぁ、10位以下の家など、どれもこれも実力など高が知れているが」

 ロタと共に、マスターと、マスターの隣で共に酒を酌み交わし始めたマヤカから、グラスを取り上げて、まだ酔わせる訳にはいかないと無言で伝える。ふたりから溜息を受けたが、無視してグラスとボトルを回収する。

「そこは工房という側面を切り取ると、かなりの規模でね。今は、君達によって崩壊させられたが、未だ一派の学生は多くいる。下位の貴族達も、未だに一派のコネクションを求めて入会しているぐらいだ」

「だから、発掘学への出資も出来ていた。想像を超えて、発掘学の個人に献金をしていたのですね。どれほどの規模を想定して切断する気ですか?」

「さてな。私自身、献金という甘言を囁かれた事がないので、どれほどの縁が出来ているか、想像もつかない。それはリヒトこそ知っているのではないか?」

 マスターから意見を求められたが、正直言って俺自身も想像がつかない。何故ならば―――。

「俺の家は、献金をされる側だったから、あまり詳しくは‥‥」

 そう正直に言ったら、カタリとロタ以外に頭を抱えて溜息をつかれる。求められた意見と少し違ってしまったようだ。

「俺が思うに、いち学部、それも迷宮を抱える発掘学に命令できるような献金なら、ある程度は想像できます。多くの貴族と繋がり、学生達とも縁あるのなら個人が持っている呪物や土地の類への口利き、または次の品への伝手とかでは?」

「金銭よりも、優先すべき物があったと‥‥いや、金銭も含めてか―――実績だけでは物足りないというのも、魔に連なる者らしいな。今更魔貴族への道が開かれる筈もないのに」

 油断した。マヤカとマスターの造り出した布が、ボトルとグラスを奪い取って手元に戻される。鋭い横目で笑いかけてくるマスターとマヤカに、不服を表情で伝えるがマヤカが頬を撫でるだけに留めてくる。

「ロタ、君も昔のように撫でてあげようか?」

「あなたに褒められるという事は、他の姉様方に叱られるという事です。前から気になってましたが、貴族と魔貴族とは違うのですか?」

「そうだったな、ロタにはその辺り伝えてなかったか」

 ロタと共に席に戻って、ようやく料理に手をつけ始める。不作法かもしれないが、順番という物を無視したメインディッシュの数々に手を伸ばして取り分ける。既にカタリとヨマイは、聞きたい事は聞けたと言った感じに舌鼓を打っていた。

「端的に言えば、魔貴族とは3位以内と4位の位にいる貴族達の事だ。9位以内の貴族も、魔貴族と名乗る事もあるが、それは自称と頭に付けられるから気を付けなさい」

「3位以内と4位?4位以内とは言わないのですか?」

「元々は、3位以内にのみ魔貴族という称号が与えられていたのだよ。だけど、目の前のリヒトの祖父、いや正式にはわからないが、現当主は―――」

「あの爺さんは、協調性って呼ばれるものが皆無で、魔貴族を決める宴を断ったんだ」

「では、魔貴族とは言えないのでは?」

 ロタの言う通りだった。そうだ、我が家は本来、魔貴族とは名乗れない。だが、魔貴族と呼び、名乗るのに最も相応しいと言われているのが我が家であり、あの爺さんだった。

「‥‥俺が生まれる前に、ちょっとした諍いがあったんだ。貴族間の宴に、一切参加しない爺さんを諌める、というか反抗の意思がないと確認する為の訪問が」

「そこで、リヒトのお爺さんが当時の4位から9位の当主だったり代表者を全員殺して、誰も返さなかったの。そこで止まれば良かったのに、魔に連なる者の貴族の誇りとか言って、1位から3位の当主陣が襲い掛かったんだけど、結局全員殺したって」

 あの爺さん自身、あまり我が家の存続という物に興味はないのかもしれない。養子や分家の話だって、仕方なく形式的な儀式でやっている感じだった。膨れ上がり過ぎた自身の家や家の人間を路頭に迷わせない為、断絶する訳にはいかないと。

 だけど、それだって別に情だけでやっている訳じゃないのは、間違いなかった。

「殺したって‥‥見てきたような言い方ですねー‥」

「だって、そう言ってたし。昔、リヒトとお爺さん、私のお爺様と一緒に出歩いた時に話してくれたの」

「—――あの家の当主と話せるなんて‥」

「そんなに驚く事?諍いって言っても、もう100年ぐらい前の話よ?お爺さんだって、儂もあの時は若かった。ちょっとだけ気が短かったって反省してるみたいだったし。リヒトもその気があるから、見張って叱ってやってくれって」

 知らなかった。ぎょっとして右隣のカタリを、向かいの席にいるマヤカや主賓席のマスター、左隣のヨマイとで見つめるが、カタリは何でもないように食事を続けている。

「普通の人間じゃないのは、間違いないけど、話せば普通のおじいちゃんよ?」

「‥‥爺さんも、カタリには甘かったな」

「うん、リヒトと遊んでると、よくお菓子とかお小遣いとかくれたし」

 カタリの家と我が家の関係を知ったのは、カタリと出会ってしばらく経ってからだった。それまでも、爺さんは「カタリと遊んでくるー」と言ったら、ふたつ返事で送ってくれた事もあった。

「魔貴族って、貴族の中でも特別なの。そんな魔貴族を全員まとめて殺したお爺さんの為に設けられた席が、4位の魔貴族って訳」

「まぁ、今でこそもうだいぶ老いてるから、全員まとめてはもう無理だって、言ってけどな」

 口が汚れてしまったので、ナイフとフォークをテーブルに戻すと隣のカタリが拭いてくれる。試しにカタリの皿の上の牛肉のローストビーフを見つめると「調子に乗らない」と軽く頬を叩かれて前を向けさせられる。

「—――やはり君達は、この異常な世界でも更に異質だよ。4位の魔貴族の家に、錬金術師の大家、作られたような関係だな‥」

「作られた?確かに、そう言えるかもしれませんね。だって、私とリヒトは結ばれる運命にあった訳だし―――何か言ってよ‥」

「言うまでもないだろう。俺は、カタリと結ばれる為にここにいる」

「‥うん」

 次は、こちらがカタリの口を拭いてみる。特段、汚れている訳じゃないのに、大人しく唇を拭かせてくれるカタリと見つめ合って、こちらの皿のローストビーフを口に運び、カタリからもローストビーフを口に運ばれる。

「‥‥私の勝ちだからね」

「カタリのお蔭でここにいる。だから、カタリの勝ち」

「うん‥」

 椅子に座っているお蔭で、普段よりもカタリとの背の高さを確認する事が出来る。肩の高低差も含めて、昔の顔を見せてくれるカタリと見つめ合えていた。

「—――帰ってきてくれ」

「先生、空気を呼んで下さい」

「カタリカタリ」

「はいはい、食べたいのね」

 カタリへの催促とカタリからの溜息と共に差し出されるローストビーフを口に入れる。柔らかくてソースの濃淡が絶妙だった。癖になるような強烈な忘れられない味は、高級レストラン特有の、高級レストランでしか出せない――――思い出の味と脳に刷り込まれる。

 客を虜にするという言葉だけの表現は、決して上辺だけ在り方ではない。

「話が逸れた―――発掘学は、間違いなく一年前の巨人騒動に関わっている。並びに此度の人狼暗躍事件も、わざと見逃していた。理由は、自ら暴露したからだ。この期に及んで嘘はあるまい。裏取りも済んでいる、スポンサーの愚息の実験に手を貸す為だ」

「どこの国の父王も、我が子が大事なのですね」

「違いない。何にしてもこれで、人間達が起こした事件の始末はついた。これから始まるのは―――死人夜行だ」




「では、後はゆっくりとしていてくれ。私がいては話せない事もあるだろう。また後で合流――いや、迎えに来てくれ。人を出迎えなければならない」

 食事が終わった時、マスターが外へと出て行ってしまった。どうやら、マスターにしては酒をあまり取っていなかったのは、泥酔状態で人を迎える訳にはいかなったかららしい。

「—――緊張しましたー」

「他学部の学部長と始めて会ったのが、こういうカジュアルな場だとな」

「ここがカジュアルですかー‥‥。それもありますが、想像を絶して綺麗だったので」

「当然だろう?俺のマスターだ」

 ホテルの一室という事実の密室だが、一応は店という場でもあるので、未成年グループは飲酒はしていなかった。だからこそ、マヤカが残った高級酒を浴びるように、飲み始めていた。

「マヤカは、着いて行かなくて良かったのか?」

「マスターは、これから同窓会?とでも呼ぶべき場に出向いたの。私がいては気を遣わせてしまう。それに、マスター達だけで話し合いたい場でもあったようだし」

「マスター達だけ‥」

 そう言えば、昨日の夜中、マスターの膝の上で休んでいる時だったか。通話相手と何かを話し込んでいる様子だったのを覚えている。件の学部長会議を、誰かに報告するのだろうか。

「それとも、あなたが行きたいの?あの場には、マスターの友人達が揃っている。マスターにエイル様に、カサネさん―――年上の麗人たちは、きっとあなたを全員で可愛がってくれる」

 マスターの友人達。マヤカは、冗談混じりに言ったが、それはきっとマスター達の世界に関する話し合い。やはり、マスターはまだ俺に話していない事がある。

「何、想像してる訳?私じゃ不服?」

「‥‥カタリは、いいのか?聞きに行かなくて」

「私は、自力で辿り着きたいの。望んで求めた施しなんか、受け取る筈ないでしょう?」

 テーブルに肘をつき、視線を外しながら手を握ってくる。少しだけ朱に染まったカタリの横顔を見つめて、謝ってみる。「ごめん」と、カタリは何も言わなかった。

「気にし過ぎ―――手段を選ばずって、もうやめたの」

「わかった‥‥カタリ、こっち見て」

 隙を突く。不機嫌そうにテーブルから腕を離して、振り返ってきたカタリの唇に唇を重ねる。お互いの油が残っている唇は、荒れておらず、拒絶など一切ない吸い付くような感触だった。

「心配、かけた‥‥せめて一度でいいから連絡すべきだったよな‥」

「何勘違いしてるか、知らないけど受け取っておいてあげる。それに、いい機会にもなったし。彼氏がいない夜に、友達と一緒にゲームしたり、ご飯作ったりするのって―――ごめんね、迎えに行く事も出来なくて。はい、もう終わり」

 胸に手を付けて押してくるカタリが、席を立ってしまう。カタリの腕を引いて、逃げないでくれと伝えるが「ちょっと席を立つだけ。大人しく待ってて」と上から再度唇をつけられて、腕を離される。

「ヨマイ、ロタ、話があるから付いて来て」

「え、えっと」

「はい、行きますよ」

 カタリとロタに、引きずられて外に出るヨマイが幼く感じたが、本人は訳もわからずどこかへと連れ去れるという、処刑人もかくやという場面に狼狽えていた。

 残ったのは俺と一部始終を微笑みながら見ていたマヤカだった。

「カタリとロタの事、どう思う?」

「‥‥いい関係だと思う。いや、いい友達同士になってくれた。マヤカは、どう思う?」

「良い友達だと私も思う。—――彼女、ヨマイさんはどう?」

「どこまで話すかは二人に任せたい」

「そう‥」

 ヨマイの研究テーマは、新たな世界を発見する事。それは別世界の証明とでも言うべき、禁忌的なテーマだった。新たな世界の発見は、この世界の唯一性を乱す因果を崩壊させかねない代物、とされていた。

「俺達がいる事が、もう別世界の証明になってる。ヨマイの研究テーマは、もう証明が終わった過去の命題なんだ‥‥目的を失うって、つらい事だと思う――」

「彼女は、私達の為に自分の術を見せてくれた。—――黙っていては無礼だと思う。それにカタリとロタは、もう別の事に関心を持ってる。ふたりは、もう呪縛から解放された‥。ヨマイさんの事は、ふたりに任せるべき」

 研究テーマとは、この秘境にかける現実にすべき幻想。その為に、生涯を投げうつ。あの元教授のように、自分以外の全てを敵に回しても、なおも届かない最悪のきざはしだった。それを、他人の手によって奪われる―――正気でいられるだろうか。

「だけど、あなたは行かなくて良かったの?」

「‥‥あの方の事は、まだ話せない」

「‥‥そう。こっちに来て」

 マヤカに望まれるままに、杖で立ち上がってマヤカと共に寝室に入って行く。ベットに腰掛けたマヤカが、腕を伸ばして自分の胸に引き寄せてくる。

「私もあなたも、もう疲れ切ってる」

「‥‥俺は、半分以上眠ってただけだ」

「いいえ、あなたは眠っていても私達の為に戦っていた。本当なら、もう休むべき。だけど私もあなたも、まだやらなければならない事がある――だから、今は眠ってもいいと思う」

「—――そうかも‥」

 マヤカの膨らみが、呼吸をするたびに頭を包んでくれる。温かい血と心音が、疲れを思い出させてくれる。結局、俺もマヤカも休みという休みを、まだ取れていなかった。

「覚えてる?始めて、あなたとこうした時も、そんな顔をしてた‥」

 不思議な感覚だった。マヤカが前髪を撫でる度に、まぶたが重くなっていく―――マヤカが呼吸を吹きかけてくる度に、肺が温まり頭全体が湯に浸かっているような感覚に陥っていく。

「ふふ‥‥だけど、あの時みたいに身体は固まってない」

「もう緊張してない‥‥もう経験者だ‥」

「そうなのね‥ふふ、それにしては目を合わせてくれない。こっちを見て」

 マヤカの手を顎を撫で上げてくる。今見れば、戻ってしまう。またマヤカの胸に抱かれる子供に戻ってしまう。そう言い聞かせて、マヤカの胸の上で抵抗を続ける。

「ふふ、ほら固まった。まだまだ男の子」

「マヤカの所為だ‥」

「私の所為?なら、やっぱりまだ男の子」

 意思を持つように薄い毛布が、マヤカと一緒に身体を包んでくれる。毛布に覆われた所為で、マヤカの香りから逃げられなくなり、硬直していた筋肉が緩んでしまう。

「諦めた?諦めたのね。なら私に身体を預けて」

 長い足を絡ませたマヤカの心音が、恐ろしい速さで頬を叩いてくる。もうマヤカの顔を見れなくなってしまった――恐ろしい冷たい魔女の目を感じた。

「鍵は閉めた。三人は、まだまだ帰って来ない。ふふふ‥‥あなたは囚われた、もう逃げ場はない。諦めて諦めて諦めて。あなたは、私の物」





「不思議な感じ‥。お酒とは違う‥」

 白い方を膝の上に置いて、水晶の柱を背もたれにしていた。振ってくる七色の水晶の塵と砂浜に囲まれて、心地いい重みを感じながら、白い髪を手で解かす。なんとなく髪が乱れている気がしたので、伝えてみた。

「痛くないですか?」

「全然。だって、あなたが私の為にしてくれるんだから、嬉しいに決まってる。それに、すごく気持ちいい‥‥なんて言うんだろう。頭を撫でられてるのとは、違うのね‥」

「頭を撫でるのも、悪くないですか?」

「‥‥うん、嫌いじゃないかも」

 だいぶ寝ぼけているようだ。ここに来た時、何度か頭を撫でていたが、一瞬は悪くない顔をするのに、思い出したように手を振り払ってしまわれる。その度に怒られるが、一瞬の愛らしさに勝てず、何度も繰り返していた。

「眠いんですか?」

「‥‥お腹いっぱいなの。あなたと分け合っていた時の量に慣れたみたいで、前の量まで食べたら眠くなっちゃって‥‥それに、料理も覚えたから少しだけ味も良くなったし‥」

「なら、いっぱい寝ないといけないですね。いっぱい食べていっぱい寝たら大きくなりますよ」

「—―今、子供扱いした‥」

 膝の上で器用に振り返った白い方は、両手の拳を振り下ろしてきた。そうだ、この不機嫌な顔もまた可愛くて、何度も頭を撫でてしまったのだ。

「眠らない!だって、せっかくあなたがいるのに、眠ったらつまらないもん!」

「‥‥俺もです。あなたの寝顔は可愛かったけど、一緒に話したいです」

 拳を降ろし続ける白い方を、抱きしめて背中を撫でる。大人しく宥める事に成功した白い方の位置を戻して、椅子に徹する事にした。

「あなたは、私の端末。つまり、あなたは私の眷属で従者。あなたは私に絶対従順じゃないといけないの、だって私の方が上位種、偉いんだから」

「はい、俺はあなたの従者です。また、わがまま言って下さい―――髪、綺麗ですね」

「‥‥うん、見た目を褒められるの嫌いじゃない‥」

 やはり、だいぶ眠いようだ。体温が高くなっているだけじゃない、呼吸もゆっくりと深い物になっている。長い輝く白い髪を根本から溶かしていくと、大きく伸びをして肩に頭を乗せてくる。息を呑んでしまう、丸い目が半分塞がっていて、溶けているようで――――大人びていた。

「何か話して‥‥このままだと眠っちゃう‥」

「そうですね―――吸血鬼に、俺の力は通じていないように感じました。あれは、何故ですか?」

「えっとね‥‥あれはそもそも味がないの」

「味?」

 白い方の髪を触りながら、その意味を測る。味がない、それは実体がないという意味でもあるが、それと同時に水のように、無味だという事でもある。

「味がないからつまらない。噛み心地もあんまり良くないし‥‥無理やり形を作ったように見えたけど、まだまだ手探り。自分にとって便利な形を探してるみたいだけど、味がないから意味がない‥」

「つまらない、ですか‥」

「うん、食べる気にはならない。それに、目障り‥」

 底冷えしそうな声だった。この愛らしい身体の内側から発せられたとは思えない、恐ろしい竜としての声だった。

「彼女も、望んでいた訳じゃないけど、それにしたって目障り。もし私の目の前にいたら叩き潰して塵にしてあげる。諦めて帰れば良かったものを―――ああ、目障り‥」

「美味しくないんですね‥‥前に、同じ物を見た事があるんですか?」

「あれに近しい物なら、何度か近づいてきたから全員殺した。だって、私の事を標本にしに来たとか。接触した以上、ここは我らの物だとか、言ってくるから。弱いくせに私の世界に入ってくるの‥。料理を知らなかったから、何度か食べたんだけど全員まずかった」

「—――創生の彼岸に辿り着いた?」

 いくら吸血鬼だとしても、この世界に足を延ばすような真似、創生の彼岸に干渉出来る程の力の持ち主がいるのだろうか――いや、あり得ない。ここは終わった世界の辿り着く墓にして、新たな世界が生まれる海岸。であれば、目障りな何者かは、創生の彼岸とは関わりのない世界からの侵略者。そうとしか言えない。

「それは、あなたがかじろうとした――」

「ダメー!!」

 跳ね起きた白い方が、口を閉ざしてくる。

「ダメダメダメ!!怖いから、あのヒト!!」

「—――す、すみません」

 先ほどの眠気が完全に覚めたのか、重そうなまぶたが消え去り、目が丸く開かれている。自身の牙を一切隠さずに、鼻息を荒く膝の上で震える白い方は、まさしく必死だった。

「あんなのと同じ扱いにしたら、あのヒトにまた叱られちゃう!!」

「怖い人なんですね」

「‥‥うん、すごい怖い」

 生き死に、殺し殺されという物と無縁な白い方だからこそ、更に恐怖を加速させられているらしい。カタリの嫌いなホラーな要素と同じで、怖い先生といった概念なのかもしれない。

「その人は、どうしてここに?」

「—―気になったから来た。観光?そんな事を言ってた気がする」

「観光目的で、ここに?」

「それ以外にも、私の水晶と前にあなたに上げた石が気になっていたみたいだけど、思ったものじゃないとかで。だけど、勝手にここを荒らして、お腹が減ってたから‥‥ちょっと食べようかなって」

 やはり、怒られるべくして怒られた。そんな感じだ。

「あんまりあのヒトの事は話せないの‥‥怒られるから」

「わかりました‥‥。俺が吸血鬼だと思っていたものは、吸血鬼じゃないんですか?それとも、吸血鬼とは元から―――そういう物なんですか?」

「うん、そうだよ。あなたが塵にしたあの肉塊は、そもそもあなたのいる世界の住人じゃない。吸血鬼、って呼ばれてる物がどういう物か、私にはよくわからないけど、あれは間違いなく別世界の住人。それも、ここで生まれた物でもない」

 驚きが止まらなかった。簡単に、教えてくれた事実は、今まで俺がいた世界の理を大きく崩壊させる物だった。新たな世界の発見どころではない。当然のように別世界が存在していると言ったのだ。

「似た物は、何度か作って食べたけど、あれは知らない、食べた事もない――どうかした?」

「いえ、ちょっと驚いてしまって」

「そうなの?ここ以外から新しい世界と命が生まれた、それだけだよ」

「‥‥そうですね」

 膝の上で心配そうに顔を覗いてくれる白い方の手を取って、笑ってみる。こんなに優しい俺の主が心配してくれているというのに、心臓の高鳴りが止まらなかった。

「‥‥よし、あの巨人はどうですか?」

「ん?あれは、あなたの世界の住人であって、ここから生まれた物。繋ぎ合わされた物だから少しだけ変質してしまっているかもしれないけど、それでもあなたの力のは届かない。私の鱗の一枚にも満たない雑多な雑種」

「容赦なく言いますね‥」

「だって、マズそうなんだもん。マズイ物を褒める事は、私には出来ないもん」

 マズイ物は、興味がない。怖いぐらいわかりやすい、恐ろしい方だ。それに、マズイ物は褒められないという事は、美味しい物は褒めるという意味だった。

「俺は、美味しそうですか?」

「うん、美味しそう。だから、大事にいっぱい褒めてあげる!!」

 抱きついて胸に頬を擦りつけてくる我が白い神の背中を撫でてみる。たったそれだけで満面の笑みを向けて、鼻歌まじりに腰にしがみついて膝の上で横になってしまう。

「あなたが危惧してる事は、起こらないから安心して」

「—―いっぱいありますよ」

「大丈夫、全部起こらない。だって私達は、誰にも受け入れる事は出来ない」

「そうですか‥‥」

「だけど、例外もある。ふふ‥大丈夫、あなたが求めているものは、必ず手に入る。私がそうだったもの―――」



「じゃあ、行ってくる」

 戻ってきた三人とマヤカが、玄関ドアに集まっていた。料理皿は既に回収されており、部屋に残るのは自分ひとりだけだった。

「屋内ナイトプールなんて、始めて行きまーす」

 4人が行く事となったのは、屋上の屋内プールとの事だった。まだ夏とは言えない時期であるが、今年の熱波は既に秘境を直撃しており、急遽開催となったらしい。

「私は毎年リヒトと一緒に入ってるけどね」

「ナイトプールですかー?」

「当然でしょう?昼間は日に焼けて嫌だし―――お留守番出来る?」

「出来るに決まってるだろう。俺は、この足だから無理だけど」

 杖を付いている身体を見ながら、そう伝える。もし溺れでもしたら神獣の溺死などという不名誉な死因をエイルさんに書かせてしまう。並びに戒名まで、頭を悩まさせる事となるだろう。

「せめて水着で椅子に座っていては?」

「そういうのは、基本禁止なんだよ。盗み見てるんじゃないかって、疑われるから」

「ん?私なら、いくらでも見ていいんですよ?」

「知らない人間が、無言でずっと水着のロタを眺めてたら不気味で、殺したくならないか?そういう心配をかけさせない為のルール。水浴びにまで、人の目を気にするなんて、馬鹿馬鹿しいだろう?」

「‥‥なるほど」

 ロタの納得が、出発の合図となった。カタリから「暇だったら出歩いてみれば?ここ、プールバーとかもあるから」と知らせてもらった。4人の後ろ姿と水着姿を見れない事を惜しみながら、部屋へと戻る。

「プールバー‥‥ビリヤードか‥」

 リビングルームの巨大なソファーに座って、少し考えてみる。

「もし―――巨人の片割れがいるなら、もう片方もいても不思議じゃない。それどころか‥‥母親だっていてもおかしくない」

 これはもはや推理とは言えない、推測の類だった。沼地の巨人の片割れ、歴史どころか伝説でも語られなかった兄弟巨人の片方がここにいた。それが五体満足で襲い掛かり、上半身を消し飛ばした。だから、あの発掘学の学生は人狼達、素体を求めた。

「‥‥マヤカが仕留めたのは、片腕の皮」

 もし、もしもの話だ。あれこそが伝説に語られた恐ろしき巨人。片腕を引き抜かれ、退却という選択肢をとった生物らしい思考を持つホムンクルスだったとしたら。

 であれば、マヤカ、ヨマイとで見た巨人と、マヤカ、カタリとで見た巨人は別物。

 いまだ、下半身だけの巨人がいるのではないか?

「—――5階層にいたのは、どっちの巨人だったんだ‥‥いや、どっちでも構わないか」

 ソファーから起き上がって、一歩、前に出て見る。だけど革靴と絨毯の摩擦と脚力が足りなくて、滑ってしまう。落ちるようにソファーに戻る身体に、溜息を吐いて杖を持ち上げる。

「まだまだ足りないか‥」

 本来ならば、杖に頼ってばかりではいけない。どうにかスロープや手すりに頼って自力で足を上げなければならないが、本人的にはそれは理想論に過ぎなかった。

「プールバーか‥‥なんで、わざわざ勘違いしそうな名前付けたんだろう?」

 ビリヤード台のポケットに、ボールを溜めていく―――プールする事からプールバーと呼ぶらしいが、正直現代日本では聞く者の大半が、勘違いしそうな名だ。

「‥‥取り敢えず動くか」

 粘りつくような身体とソファーとの関係を断ち切って玄関へと向かって、ドアを開ける。そこには、つい最近知った顔がいた。だけど、俺が目的ではなかったらしく、目に見えて舌打ちをしてきた―――確かに、ホテルの沽券に関わる。

「‥‥何か?」

「何かって、人の部屋の前で何してるんですか?」

「だから、何かって聞いたんだ。総支配人はどこだ?」

 身の丈にも匹敵しかねない杖を付いている魔に連なる者である俺を見て、この言葉使いだ。外から来た素人か、もしくは余程の自信があるバイトか。

 何にしても学部も、お里も知れる。

「マスターに、何か御用ですか?」

「マスター?ああ、やっぱし機関のそれなりの立場でもあるか。あの女とふたりで話したいだけだ、さっさと話せ」

「機関の仕事でここにいる」

 たったそれだけの言葉、誰でも想像が出来る理由を言っただけで、顔が引きつっている。そうだ‥‥思い出した。こいつ―――自然学の学部で、襲い掛かってきた。

「あの人と話したいなら、機関に自首したらどうだ?あの元教授と他の学生みたいに逮捕されて」

 どうやって逃げ出して、ここで働いているか知らないが、随分と落ちぶれたようだ。自然学の学部は、この秘境で最も規模が巨大で、血を貴ぶ。自然学の学生を辞めて、ホテルの一従業員として働いていると家が知ったら、どれだけ嘆くだろうか。

「なんの話だよ‥‥自首なんて。俺は、ただ言われた通りにしただけで‥‥まさか、逮捕されそうになるなんて‥」

 誰に対しての言い訳か知らないが、無様だ。俺の胸に生命の樹を宿した時に見えた顔じゃない以上、こいつはただの手駒、いや手駒でもなかったのだろう。

「機関は、一度捕まえると決めたらどこまでも追ってくる。このまま逃走生活を続けてもいいけど、身の振り方を考えたらどうだ?」

 杖で廊下をつきながら、年上の肩に肩をぶつけて押し通る。考えないようにしていた事実だったようで、年上の男性は何も言わないで、独り言を続けていた。

 エレベーターに乗って、カタリから教えて貰ったプールバーに向かう。あの時と同じような下級貴族どもが、卑しい目を向けてくるが、それに留まっている。

「まぁ‥この杖があればな」

 杖と持つという事は、常に武器を持っているという威嚇行動でもあった。これもこれで不作法だが、雑魚が襲い掛かって来ない以上、持つ意味がある。

「マスター‥どこかな‥」

 同窓会と言っていたが、実際は違うだろう。マヤカも、それがわかっていて教えてくれたに違いない。学部長という立場と白紙部門の最上位の位にいるふたりと、多くの立場と名を持ったオーダー所属の非人間族専属の医師。

「そろそろか‥」

 杖に頼りながら、エレベーター内を歩く。嫌がらせなのか、一切動かない貴族達を肩にぶつかりながらどうにか、外に脱出する。せせら笑いが木霊する人の濁流を抜けた時、自然と深呼吸をしてしまう。

「爺さんの気持ちがわかったかも‥‥あんな奴らとは、関わりたくない」

 当時、一体何人の人間と始末したか知らないが、あんな連中が味方になれだ、貴族の誇りだと抜かしてきたなら、面倒になって全員殺してしまってもおかしくないのかもしれない。

 時代が許したのだろうが、元教授が昔に憧れた理由が、理解できなくもない。

「取り敢えず行くか‥」

 この階は、音楽鑑賞も出来る、遊びが目的のアミューズメント施設とでも言うべき場所。貴族の宿泊階から離れているとは言え、歩いているのは貴族やその子供ばかり。身なりのいいのは間違いが、あのエレベーターに乗っていた大人を思うと、関わり合いになりたくなかった。

「あ、こんばんは~」

 学生の波を縫って駆けてくる顔にも、見覚えがあった。

「アマネさん、今日はどうして?」

「ん?ここにいるのだから、勿論遊びに来たの。ふふ♪相変わらず、ちょっとだけ‥ふふん♪」

 鼻を指で軽く叩いて、笑いかけてくる。天然、とでも呼びたかったらしいが、そこで止まってくれた。後ろの取り巻きらしい男女の学生が、こちらを睨みつけてくるが、無視してアマネさんの指を受け入れ続ける。

「ごめんなさい、皆は悪気はないの。だけど、ちょっとだけ気が立っていて‥」

「‥‥今の自然学なら、仕方ないですね」

「うん、そうなの。最近、先生達も機関の取り調べで、何度か告知のない休講だったり、私達も機関に聞き取りをされてしまって。ああ、でもね、機関の方々が悪いなんて思ってないのよ」

「大丈夫です。俺は気にしてません」

「あ、ふふ‥ありがとう。あれは、あの教授が悪いのだから、機関の方々が時間を掛けて捜査してくれているという事は、私達の為でもあるって、わかってるの。ふふ、ありがとうございます」

 両手で手を握って、笑いかけてくれるアマネさんに癒されていると、顔が歪んでしまう。そんな顔を見て、「ダメよ、そんな顔をしちゃ。ふふ‥そういうお顔は、カタリさんに、ね?」と、頬を持ち上げるように冷たい手を伸ばして、叱ってくれる。

「ごめんなさい、そろそろ行かないと。こちらから話かけたのに、慌ただしくて」

「‥‥そうですね。もっとアマネさんと話したかったのに。もう終わりですか?」

「あ、いじわる‥‥。ふふ、もう終わりだけど、どうして欲しいの?」

「次は―――そうですね。食事でもどうですか?」

「まぁ‥‥素敵。ふふ、お誘い待っています。またね」

 未だに付けられている手を名残惜しそうに引いて、アマネさんは他の学生達の元へと戻ってしまう。想像していたが、絶対的な血統主義である自然学の学生を取り巻きにしているアマネさんは、やはり並み以上の家や実力者らしい。

「あ、あの方」

「あの方?」

 去って行く前に、振り返ってくれた。

「カサネさんによろしくね」

 笑顔でそれだけ告げて今度こそ、去ってしまった。




「‥‥白紙部門の人間と知り合いか。もしかして同じ家なのか?」

 ようやっとプールバーの入口に到着した。黒い看板で名前が彫られていたが、崩し過ぎて読みにくいから、読まない。流石に、ホテルという民間の施設である以上、下手にトラブルは起こせないが、それを良い事に嫌がらせをしてくる下級貴族は多くいた。

「いい準備運動になった」

 振り返って、水晶の塊で窒息、失神させた連中を見下ろす。「杖をついて邪魔だ」と、抜かしてきた連中にただの岩石として水晶を打ち出す。ただの質量としても抗えない水晶に、成す術なく身体の中央で受け入れて、倒れていった。

「も、申し訳ございませんが―――」

「何か?」

「いいえ‥」

 先ほどの一件を、ほくそ笑みながら見ていた連中、スタッフのひとりから許可を得てバーに入る。賭けでもしていたらしいが、大損だろう。

「へぇー‥結構、広い‥」

 敷地面積としては、最上階のクラブにも匹敵しているかもしれない。ここも、あの元教授の趣味なのか、黒い大理石の床が気になった。だけど、それ以上に気になった事があった。誰もいない。だけど、ひとつのビリヤード台に数人がいた。

「マスター‥」

 口の中で、そう呟いた時、振り返って笑いかけてくれた。

「ふふ‥やはりか」

 キューを置いたマスターが、スリットで足を晒しながら寄ってくる。いくらが嗜んでいるのか、肌が赤く染まったマスターを向か入れる為に、数歩前に出る。

「先ほどの音、聞こえていたぞ?」

「‥‥すみません、マスターのホテルで」

「客を選べないというのが、ここの古くからの悩みだったのだよ。君のお蔭で、対応したくない客の皮を被った貴族達を締め出せた、感謝しているとも」

 柔らかい滑らかなドレスで抱きしめてくれるマスターに、身体を任せて目をつぶる。いくらか呼吸が整ったのを、感じ取ったマスターが離してくれる。

「ふふ‥まずは座りなさい」

 手を引かれて、カウンターの背の高い椅子に運ばれる。ビリヤード台にいたのは、三人の麗人だった。エイルさんにカサネさん、そしてもうひとり、目隠しをしている女性—――確か、オーダー街にいたのを覚えている。

「すみません、邪魔ですか‥」

「いいえ、構いませんよ。足はどうですか?」

 カウンターに座った時、エイルさんが膝を折りながら腿を撫でて見上げてくれる。マスターよりも鋭い目つきをしたエイルさんが、少しだけ表情を作って診療をしてくれる。マスターよりも肌の露出がないドレスを着た大人の女性に、腿を撫でられて言葉を失ってしまう。

「何か?」

「‥‥くすぐったいです」

「感触は、あると。いい傾向ですね――どうしました?」

 エイルさんも、多少飲んでいるのか、腿から上。骨盤近くまで手を伸ばしてくる。

「もう‥そろそろ‥」

「ふふ‥まだまだ子供ですね」

 キューを握り直したエイルさんが、下半身を見せつけるようにビリヤード台に向かってしまう。直接見てしまった成熟されて臀部を見た時、首だけで振り返っていたエイルさんと目が合ってしまう。

「子供ですね」

 壁になるように白いドレスが、間に入ってくる。そのまま先ほどのマスターよりも強く抱きしめてくる。カサネさんだった。

「男の子で、遊ぶのは見逃せません!!」

「それもそうですね」

 仕事は終わったと言わんばかりに、ビリヤード台から少し離れたカウンターに座って置いてあったグラスに手を付ける。マスターとは違う、大人の女性像だった。

「いい?何かあったら、先生に言いなさい」

「‥‥はい、先生」

「す、素直になったのね‥‥うん、そうだよ。君の先生だよ」

 素直にそう言ったというのに、カサネさんは怖がるように離れてしまった。顔を見てわかった。この人もいくらか飲んでいたようで、冷めた頭で、先ほどの自分の大胆な仕草を思い出したようだった。

「‥‥いつまでも続くのですか?カサネ、年長者として示しを付けなさい」

「年長者じゃないから!!三人の方が、年上でしょう!?」

「いや、事実として私達はそうは変わらない筈だ。むしろ、この身体の起動時間を考えれば、イミナの言う通り君が最も年長者で――」

 こういった事を続けていたとすれば、カサネさんの心労も思いやれる。

「さて、世間話はこの辺りにしようか。それで、どうやってここにいると知ったのだ?貸切にこそしていたが、いつ行くとは伝えてなかったのに」

「どうって、カタリから暇なら行けばって」

「—――これが、一日の長という事か。余裕がある、見習うべきか‥‥4人は全員プールに行ったのか?」

「はい、俺は足がこれなので。溺れるかもしれないって」

「いい判断だ。神獣が溺れるなど、見出しにもならないからな」

 キューを磨きながら、背中を晒すマスターが、楽し気に笑ってくる。先ほどのエイルさんと同じような恰好になったマスターは、磨いたキューでボールを付いてポケットに幾つものボールを溜めていく。手慣れているが、確実じゃない撃ち方にギャンブラー気質が見て取れる。

「イミナ、そう怖い顔をしないでくれ。次は、君の子を連れてくればいい」

「彼は、子ではありません。経験こそまるで足りませんが、れっきとした男性です」

「ふふ‥そうか」

「彼は、マトイの為に監視や盗撮の覚悟をして、法務科の仕事を受けています。昨夜の聖女の件でも、彼はたったひとりで薬の在り処を見つけ、件の彼女に一切傷も負わさず救い出し、本部の有象無象を跳ねのけ」

 子ではなく男性。そう言われた彼の自慢話が始まってしまいマスターが、呆れながらも話を大人しく聞いていた。また手持ち無沙汰になってしまった。

「お酒が入ると、イミナはあんな感じになるの。ごめんね、聞いてて上げて」

「‥‥確か、弟子とか?」

「弟子、というよりもお互いが生きる為に手を貸した貸して貰たって関係なの。確かに、形式的は弟子かもしれないけど、どっちかって言うと協力関係かな?」

 確かに、先ほどから感じる空気は師弟関係というよりも同じ立場で、お互いの技術を教え合ったといった感じかもしれない。実際、上下関係という物もなさそうだ。

「確かに、彼は気ままでマトイを困らせるダメな少年です。けれど、踏み込むべき領域という物を、しかと心得ています。ただ―――最近、あのふたりは近すぎて」

「良い物じゃないか。あのマトイが、君以外に心を曝け出せる。心を受け取れる相手が生まれたというのだから。イミナ、君だってマトイには良い相手がいればと常々」

「マスターも、乗ってしまったようですね」

「あはは‥‥うん、そうみたい」

 カサネさんとマスター達に背を向けて、無人のカウンターに腕を乗せる。

「先ほど、アマネさんと会ってきました」

「え、あの子に?もしかして友達なの?」

「同じ入院患者だったので、それ関係でたまに話してます。血縁者ですか?」

「あー、うん、それはそうなんだけどね‥」

「言い難い事なら、大丈夫です。俺達にとって、身内とのトラブルほど恐ろしい事もそうそうありませんから」

 カウンターに放置されていた水差しとグラスを使って、言葉を呑み込む。それを見ていたカサネさんは、「うん、ありがとう」と言ってくれた。

「トラブルって程じゃないんだけど‥‥私は、白紙部門にいるから、色々あって‥」

「‥‥わかりました」

「あ、でも、あの子が悪い訳じゃないのよ?とっても良い子だから。‥‥そっか、あの子とも知り合っていたんだね。入院してたのは、知ってたけど―――」

「彼女の主治医は、私ではありません」

 先ほどから黙々とスコッチを飲んでいた、否、飲み干したエイル先生は、カウンターの裏に入って幾つものボトルを手にした。何をするのかと思った時、銀色のシェイカーを取り出し、イメージ通りの動きを始める。

 絵になり過ぎていた。鋭い切れ目を流し、長い指―――小指と薬指、そして手のひらで包まれた銀のシャイカーから、小刻みな心地よい音が断続的に鳴り響く。

「‥‥かっこいい」

「光栄です。何か、飲みますか?」

「彼は、未成年です!!ヘルヤが許しても、私が許しません!!」

「痛みを取る為、アルコールの摂取をするのも過去にあった医療行為です‥‥ただ、そうですね。未成年を無理に酔わせるのは、避けるべき。ノンアルコールを用意するので、待っていなさい」

 戦乙女達は、やはりアルコールという化学物質に呑まれているようだ。ロタも、マスターにも隠れていくらか瓶を貯蔵しているようだし。

「カサネさんはいいんですか?俺の事なら、気にしなくていいので。何度もマスターの介抱をしてるので、もう慣れてますから」

「‥‥やっぱりヘルヤには、いい子がいるのね‥。エイル、私にも」

「わかりました。では、これを」

 淡々とカウンターの主となったエイルさんは、一言、そう答えて先に完成した自分のカクテルを、カサネさんに渡してしまった。よくある事らしく、カサネさんも何も言わなかった。

 エイルさんが用意してくれた甘いノンアルコールカクテルに驚いていたら、軽く笑って元いた席に戻り、また黙々とひとりで飲み始めた。よく見なくとも、震えそうだった。視界の中にいるのは、魔性を体現したかのような美女のひとりだけだった。

 たくし上げられた髪によって晒される細い白い首に、ほのかに染まった耳から視線を逸らせないでいると、一瞬目が合って、鼻で笑われる。

「私に見惚れるのも、わかりますが、そろそろ部屋に戻りなさい。男の子は、もう寝る時間ですよ」

「子供じゃありません!!自分で寝る時間ぐらい決められます!!」

「私は、あなたの主治医です。その私に逆らう気ですか?これは、命令です。年上の先生の言う事には従いなさい―――いいですね?」

 抗い難い横顔に、口元を歪ませて命令されてしまい、次の言葉が出て来なくなる。助けを求めるようにカサネさんを見るが、同じように「うん、そろそろ時間かな?」と言われてしまった。

「マスター‥」

「うん?ああ、時間だな。送ろか」

 と、マスターらしくない事を言って手を差し出してくれる。少しだけ不服だった。もう少し先生達と一緒にいたかったのに。だけど、マスターは少しだけ膝を折って見つめてくる。

「ふふふ‥‥私達大人に囲まれて、いい時間を過ごせたか?君は、まだ病み上がりなんだ、美人に囲まれて嬉しいのはわかるが、先生らしく君の身を案じさせてくれ」

「‥‥わかりました、マスター‥」

「ふふ‥君がもう少し大人になったら、ここに招かせてもらうよ」

 マスターに引き上げられながら、カサネさんから杖を受け取る。最後にエイルさんから、眼球運動を確認されてカウンターを離れる。普段よりも顔を近づけた診療だった所為で、甘い香りのする吐息に心臓が高鳴ってしまった。

「エイルを口説くのは、骨が折れるぞ。大体が、向こうからの誘いだったのだから」

「‥‥あの人も、そうですよね‥」

「ああ、ここにいるカサネ以外の者は、全員が他所から来た者だよ」

 イミナと呼ばれた女性が、入れ替わるようにカウンターに座ってしまう。確実に避けられている。それは、こちらにとっても望むところだった。あの人は、俺を脅し、自分の配下になれと言ったのだ。あまり関わりたくない。

「どうか、イミナを恨まないでくれ。彼女は、本来私達全員が追うべき重荷を、一身に背負っているの。彼女と親しくなってくれとは言わないが―――すまないな」

「‥‥いいえ。俺がマスターの傍にいられるのは、あの人も関わってる。それだけでいいです」

「‥‥ありがとう」

 感謝すべきなのかもしれない。こうしてマスターと手を繋げているのは、自分ひとりの力だけじゃない。多くの人に助けられている、その中にあの人がいる。それだけで十分だった。

 マスターと共にプールバーを出て、既に掃除されていた廊下を踏みつける。やはり、まだまだマスターの背には届かない。マスターの横顔を見るふりをして、身長の差を確認するが、出るのは悔しさばかりだった。

「マスター‥‥俺は、マスターに相応しいですか‥」

「何を今更、相応しいかどうかなんて心配をしていたのか?」

「‥‥だけど、背が」

 止まったマスターと抱き合って、呼吸を合わせる。

「私の隣を歩めるのは、君しかいない。私の隣は、君しかいない。わかったかな?」

「‥‥もう少しマスターと張り合いたいです」

「くくく‥それは、楽しい未来像だが、今しばらく待っていなさい。さぁ、行こう」

 エレベーターを目指して、一緒に歩みを再開する。だけど不思議だった、先ほどまであれだけ貴族達が歩き回っていた廊下を、マスターとふたりだけで歩いている事に。

「いい演出じゃないか。そうだ、ゾンビと言えばこういう感じだ」

「これは、マスターが?」

「—――いいな、ホテル全館を使って、こうしたアクティビティをしてみるか。いや、だけどそんな事をすれば古くからの客を失ってしまう。この案は却下だ」

 緊急事態という事は、火を見るよりも明らかなのにマスターは、やはりどこか飄々として、今を楽しんでいた。確かにロタと共にプレイしたゲームには、こういった演出は付き物だった。

「あの人達が‥」

 振り返ろうとした瞬間、背中を押されて前を見せられる。

「大丈夫さ、彼女たちは私の身内。姉妹だ」

「‥‥マスターの身を優先します」

「ああ、そうしなさい。私も、君の身を優先しよう」

 杖に水晶を纏わせて、一歩前に出る。足や膝、そして背筋にも水晶を纏わせて、無理やり態勢を整える。身体の痛みこそないが、未だに脱力感や痺れといった物は、残留していた。

「入念な事だ。どうやら、どうしても君が欲しいらしい」

「マスターが欲しいのでは」

「あり得るな。もし、私が奪われたら、どうする?」

「マスター以外、全員殺す」

「あははは!!—――うむ、絶対に捕まってはいけないようだ」

 真上から影が降ってきた。人ひとり分の影を、水晶を纏った杖で弾いて先手を防ぐ。だけど、手応えこそあったが、軽いそれは天井を掴むように杖から逃げ出し、進行方向の先、エレベーターの前に降りてくる。

 けれど、その瞬間、廊下の明かりが消えて全貌を見れなくなってしまった。

「‥‥あり得ない」

 マスターが、そう呟いた。

「—――あれは、吸血鬼ですか?」

 一歩前に出て、杖からレイピアを引き抜く。レイピアと杖に纏わせた水晶に白い血を流し、ヨマイの真似事をする。微かに照らされた影の顔を見てしまう。

「‥‥違う」

「マスター?」

「信じられない。あんなものを貯蔵していただと?—――しかも、あの身体は」

 影が踏み込んでくる。ただの腕だと思い、レイピアで手の平を刺し貫こうとするが、固い手応えと共に、火花を散らし弾かれる。先ほどと重量こそ変わらない筈なのに、身体が浮き上がり、腕が痺れる。

 影の襲撃者に、顔など無かった。黒の肌に、黒の腕、そして黒の無貌—――表情と思わしく物どころか目や鼻など、一切ない不出来なマネキンが黒のヴェールを身にまとい、迫ってきた。

「キメラ!?」

 腕を刃に変えてきた。黒の一刀に胴を薙がれるが、杖での防御が間に合った。けれど、その身体からは想像もできない膂力に壁に叩きつけられ、息が噴き出る。

「舐めるな!!」

 壁に激突したと同時に、弾かれたレイピアを長大に造り変え、黒い何かの身体をこちらと同等以上に、壁へと叩きつける。確実に捉えた、だというのに手応えがない。

 甲殻を持つ艶めかしいマネキンとしか形容出来ない感覚を無視して、床へと飛び込み元の位置へと戻る。

 既に身体中は水晶で覆っている。そして、向こうの一撃に水晶は絶対的な硬度を見せた。ならば、仕留められる―――。

「止まりなさい!!」

 杖を赤熱化、身体を二等にしとうとした時、マスターに腕を布で掴まれる。

「マスター‥?」

「あれには、手を出してはいけない!!下がりなさい!!」



「リヒトさん、大丈夫でしょうか?」

「先生も、何かあればすぐに行くって言ってたし、大丈夫じゃない?それに、リヒトが全力で仕留めるって言ったから、私達がここにいる訳でしょう?」

「そう、私達がいては邪魔になりかねない。彼は、否定したけど事実として、無差別にあの力を振り下ろせる環境に置くことこそ、彼の為になる」

 ふたりは、決してリヒトさんの心配をしていない訳ではない。むしろ、彼の事を案じて身を引いている。彼との付き合いでは、私も決して短い訳ではないが、私以上に共に死線を潜っているのは、間違いなかった。

「そんなに心配な訳?」

「心配というか‥‥私は長く迷宮で暮らしているので、彼以上に異質な存在がいるのも、理解しているので」

「‥‥そうね。私はリヒトの中身を全部知ってるけど、迷宮を知ってる訳じゃないしね―――ちょっと、連絡してくる」

 予約していた席、四人分のソファーから離れたカタリさんが、プールに飛び込んで更衣室を目指していった。軽やかだった、磨き上げたとしか形容出来ない長い四肢を見せつけながら、強気な緑の瞳をした彼女に誰も彼も、男女問わず目を奪われている。

「‥‥綺麗な人ですねー」

「そうね。リヒトがあそこまで言う事を聞くのは、あの容姿も理由のひとつでしょうね」

「まぁ‥そうですよね。—――もしかして、マヤカさんがあそこまでリヒトさんをいじめるのは」

「勿論、私は私の容姿に自信を持っている。カタリとは違う、彼好みのこの肉体と顔を使えば、彼はふたつ返事で言う事を聞いてくれる。未だに、赤い顔をして最初は嫌々って感じに、渋るけど、それもそれで可愛いから、いじめたくなってしまうの‥」

 怖いもの知らず、と同時に怖いもの見たさ、と言った感じだった。黒のビキニを付けて楽し気に、周りを視線を送っているマヤカさんは、ただただ恐ろしかった。

「あのーそんなに、視線を送ったらまた‥」

「大丈夫。もう本気にはさせない。ふふ、私の視線を与えて、一夜の夢を見せるだけ」

「‥‥わかりましたー」

 一時、若い学生達が、貴族問わず話しかけてきた。その度に、カタリさんやマヤカさんが追い払ったが、追い払う度に次から次へと、迫ってきた。

「マヤカさんが挑発するからー」

「挑発?ふふ、勘違いしてくるのは向こう。私は、ただ景色を楽しんでるだけ。ただの景色がどれだけ本気にしようが、私の知った事ではないの」

「—――リヒトさんが、夢中な訳が、わかった気がします」

 その言葉が、何よりも嬉しかったのか。先ほどから既にカクテルを水のように、飲み干していたマヤカさんが、用意させたスコッチに再度手を伸ばし始めた。

 先ほどの視線を受けた男性諸君が、近寄って来ようとするが、こちらに近づいてくる青のフィットネスで使うような競泳用水着を着たロタさんと、視線を二分してしまう。

「いい気持ちでしたぁ。やはり、水浴びは楽しいです‥」

 今も視線を受けているというのに、彼女も彼女で、ただの景色としか見ていないのか、男性たちの間をかき分けて近寄ってくる。手から呼び出したヴェールを腰に巻いてパレオにする仕草に、また多くの視線を集めてしまう。

「あれ、カタリは?」

「リヒトに連絡をしに行った」

「私も誘ってくれれば、良かったのに‥」

「後で、その姿を見せればいい。きっと固まってしまうから」

「ふふ、そうですね。あの男の子に、私のこの姿は刺激的過ぎるでしょうから、きっと楽しい反応をしてくれますね」

 ソファーの背もたれに、両手を付けて逆立ちをするように、乗り越えて席に座る。下も水着なのだから、見ても仕方ない。それはわかっていても、やはり広がるパレオを見てしまうのは、男性のサガだったようだ。

「あれ、私のお酒は?」

「ロタ、あなたはまだ未成年として扱われてる。だから、あの一杯で終わり。それに、もう既に飲み干していた」

「いつの間に‥‥残念‥」

「ロタさんは、アルコールが好きなんですか?」

「私にとって、甘いアルコールは武器であると同時に、リヒトを善がらせる媚薬でもあります。こちらの酒類を知る為に、自ら実験しているのです」

「—――嫌いではないのですね」

「勿論♪良い言葉を知りました。好きこそ物の上手なれ―――人間にしては、良い事を言います」

 諦めた、と思いきやマヤカさんのスコッチに手を伸ばすが、その瓶には既に中身は無く、軽すぎる瓶を疎ましそうに睨んでしまった。この浴びるように甘いアルコール、特に蜂蜜酒を求める点で、話通りの存在なのだとわかってしまった。

「どうかしました?」

「‥‥こちらの事は、昔から知っていたんですか?」

「ええ、勿論。私の姉妹達の多くは、既にこちらへの介入を始めていましたから」

「私は―――」

「もう、向こうには戻れない。もう帰る事など、不可能なのです。既に燃え尽きてしまったので‥‥もう、私の役目は消え去り、意味を持たないの―――」

 新たな世界を発見したい。カタリさんの力の事は、いくらか聞いていた、手掛かりになるかもしれない。リヒトさんの身体を調べ上げれば、わかるかもしれない。そう思っていたが、それは無意味だった。目の前に、私の求めた物があったのだから。

「—――つらくない?」

「つらくなんてありませーん‥‥。いいえ、本当はつらいです‥‥私の研究テーマは、もう誰もが結論を知っていたのですね。もう意味がないですね」

 甘いノンアルコールカクテルのグラスを手に取ってみる。不安定な程、細い足に不格好な広くて浅いスタンド。だけど、決して形を崩さないで、更に不安定な液体を支えている。私は、ずっとこれだったのだ。不格好な姿で、理論や知識で頑丈に身体を固定していたが、中身は少しでも傾ければたやすく零れてしまう。

 そして、その味はもう誰もが味わっていたのだ。知らなかったのは、守っていた私だけだった―――何も知らなかったのは、迷宮に引きこもっていた私だけ。

「マヤカさんも、どこか別の所から来たんですか?」

「‥‥説明するのは、とても難しい。外の知識を知ってこそいるけれど、私はずっとここにいた。外の遺物がなければ、私は生まれていない―――言えるのは、ここまで」

 そう言って、プールに戻ってしまった。カタリさんよりも、長い手足と豊満な身体を水で打ち付けて、去ってしまった。残った甘い香りを肺に溜め込んで、ガラス天井を見上げる。

「ふふ‥」

「ロタさん?」

「ごめんなさい。だけど、リヒトがあなたを頼った理由がわかってしまって。似ている気がするの。私のリヒトと」

「私は‥‥私もリヒトさんみたいに」

「水晶を操れば、彼と一緒になれる?ふふ、それはあり得ない」

 立ち上がって、手を引いてくるロタさんに、声を失ってしまう。戦乙女という戦士達の救いの女神にして、看取りの巫女。わかった気がした、人間が彼女達に連れて行かれる事を、待ち望んでいたのを―――。

「彼にも、もう役目がない。いえ、役目はあるのでしょうけど、もう人間だった時の彼とは別次元の在り方となってしまっている。私は、まだまだ彼と出会って日が浅いいけど、彼が何をしているか、わかっているの」

「なんの話か、よくわかりません‥」

「彼もそうなんだと思う。わからないから、自分のこの世界での在り方を探っている―――決して逆らえない運命に翻弄されているからこそ、臆病に人を訝しんでいる。そんな彼が、あなたには頼った」

「‥‥なぜ、ですか?」

「ふふ、さぁ?一緒に泳ぎましょう」




「マスター!!」

「そこで止まっていなさい!!」

 ドレス姿のマスターが、黒の槍で襲撃者の首を狙い、薙ぎ払うが、避けもしなかった。壁に叩きつけられが、肌の亀裂など一切走らない。跳ね戻るように、マスターに腕の刃を振り下ろすが、マスターは槍で刃を受け止めて一瞬、襲撃者と同じ方向へ身体を向け、槍を布に戻す。衝撃を逃がしたマスターは、再度人形の首に槍を打ち付けて床に叩きつける―――そのままシューズ底で踏みつけて動きを止めた。

「—――信じられない。一体、どこで‥」

 呟いた隙を狙われた。襲撃者は、人間の骨格を無視して背中に腕を伸ばし、再度刃をマスターに向けた。間に合わない、そう感じた時、腕が動いた。

「動かないで!!」

 刃がマスターの顔に届く寸前、レイピアで刃と切り結び、そのまま切り落とすつもりで水晶の刃を打つ付けたというのに、その勢いを使われ、マスターの足から逃げられる。壁に張り付いたと思った瞬間、測定でもするように腕を床に突き刺し、腕力だけでエレベーター前まで戻った。

「マスター、あれは‥」

「私達では、あれは仕留められない。仕留めてはいけない―――」

「でも、俺なら」

「そうじゃない、そうじゃないんだ‥」

 前に出ようとした時、マスターは腕を使って下がるように、指示してくる。

「想像はしていたが‥‥一体、誰が呼び出して、誰が運び込んだ―――そして、誰が、あの人形を造り出した―――誰が、埋め込んだ‥」

 マスターの使っている言葉の意味が、なにひとつ分からなかった。だけど、呼び出した、その意味には思い当たる物があった。

「悪魔‥‥カサネさんを呼んできます!!」

「カサネだけじゃない、イミナも」

「聞こえていますよ」

 振り返った瞬間、何かが身体を追い越し、三本の不可視の刃や腕に近い物が襲撃者を殴り飛ばす。エレベーター前の窓を突き破って、高層階の外へと打ち出した。

「追いかけないように、あなたでは勝てない」

「無事!?」

 走り寄ってくるカサネさんに、抱きしめられた時、廊下の電気が点灯した。

「カサネ、安否を確認するのなら、まず最初に私ではないかな?」

「あなたの心配をしても、取り越し苦労ばかりで、最後にいつも笑って帰ってくるじゃない」

「はははは――違いない。無事だったか、リヒト」

 白いドレス姿のカサネさんから、変わって黒紫のドレス姿のマスターに抱きしめられる。ここまで心配されなくても平気だというのに、少しだけ不服だった。

「子供じゃないです!!」

「ふふ、そうだったな。無事でなによりさ」

 振り返ったマスターが、一歩ずつ窓に近づき外を眺める。既に逃げられたのか、マスターも含めて、誰も武装を呼び出していなかった。

「どう思うかな?」

「あなたの想像通り―――ええ、まさか、そのものがいるなんて。しかも、あの人形は」

「やはりか‥‥彼らが、ここに来たという形跡は?」

「噂程度なら」

 イミナと呼ばれた法務科の戦乙女が、一切視線も向けずにマスターに近づいていく。ふたりで窓際で話し始めるが、やはり何も理解できない。呼び出した、と言ったからカサネさんを、と思ったが、マスターが望んだのは彼女の方だった。

「‥‥マスター、俺」

「ふふ、失敗、そう思っているのか?」

 足音を立てて戻ってきたマスターに、怯えていると、再度抱きしめてくれる。温かい優しいマスターの匂いだった。目を閉じて背中を抱いてくれる手に、身を任せる。

「失敗などではない。あれは、私達がしくじったのだよ、君のお蔭で私は生き残れた。ありがとう、私の為に戦ってくれて―――後で、話そう。カサネ、頼めるか?」

「ええ、部屋に送ってくる。任せて」

「リヒトも、それでいいかな?」

「‥‥嫌です、マスターとも」

「わがままばかりでは、いけないぞ。さぁ、行きなさい」

 マスターが離れた時、カサネさんに手を引かれる。振り返ってマスターに目を向けると、手を振って微笑んでくれる。

「ヘルヤなら大丈夫。それより、一度エイルの所に行こうね。身体の具合を見て貰わないと」

「‥‥はい」

「うん、いい子‥」

 カサネさんと共に、バーに戻った時、飛びつくようにエイルさんが、長いソファーまで案内してくれる。柔らかいクッションに包まれたソファーに身体を任せた時、膝や胸に手を当ててくれる。

「気分はどうですか?」

「‥‥ちょっとだけ、息苦しいです」

「呼吸を忘れたようですね。服を緩めます」

 シャツのボタンとベルトといった身体を締め付ける物を一度全て外して、今も感じていた緊張感から解放してくれる。呼吸を思い出した、そう感じた時、胸に手を当てて肺を温めてくれる。エイルさんの温かい手を感じていると、目を閉じてしまう。

「疲れた?」

「ちょっとだけ‥」

「焦らなくていいから。ちょっとだけ、休んで行こう」

「‥‥ごめんなさい」

「謝っちゃダメ。いい?」

 やはり子供扱いされている。先ほどから頭を撫でて、前髪を整えてくる。

 こうなる事は、想定済みだった。マスターも含めて会議した結果、俺はひとりでホテル内の歩き回り、襲撃を待つ。ホテルという閉ざされた場所ならば、巨人を使って襲撃してくれば、嫌でも察知できる。そう思っていたが、あれは別格だったらしい。

「あれは、一体‥」

「あなたの常識外にいる別の何か。ごめんね、秘密ばかりで‥」

 あの方が言っていた、外からの襲撃者。そう思って水晶を振り下ろしたというのに、全く傷ひとつ付けられなかった。俺の常識外にいる別の何か、あれはマスターと俺を襲った吸血鬼の一派なのだろうか―――。

「あれが、カサネさんの力なんですか?」

「あははは‥‥見ちゃったよね。うん、そうなんだけど、出来る限り他言無用で、お願い出来るかな?あの力は、無暗に見せちゃダメなの‥‥あ、笑ったね」

「—――ごめんなさい‥わかりました」

 つい、笑ってしまった。寝転んでいる少年相手に、心底申し訳なさそうに謝る姿が、可笑しかった。カサネさんと話している間も、女医さんは身体の関節や首元に手を当てて、脈や痛みを確認してくる。

「別に、痛めつけられた訳じゃ‥」

「—――詳しくは言えません。だけど、あなたが関わった存在は、目が合っただけで精神を汚染しかねない物。あなたには無用な心配かもしれませんが、もし、また会ったのなら私の所に―――返事は?」

「は、はい‥」

「はい、あなたは、いい患者です。先生の言う事に素直に頷いておきなさい」

「‥‥はい、先生」

 酔いが完全に覚めているのか、医者として俺を診てくれる先生に戻っていた。

 しばらくエイルさんから施術を受けて、呼吸も整ったところで起き上がらせてもらう。最後に眼球を見て貰い、お許しを受けた。

 エイルさんがいるバーを後に、カサネさんと先ほどのエレベーターとは違うエレベーターに乗って、部屋を目指す。気圧の問題なのか、耳鳴りを感じるが、無視できる程度だった。

「ヘルヤが心配?」

「‥‥心配ですし、会いたいです」

「ふふ、ヘルヤが心の支えになってるのね。うん、その気持ちを忘れないで」

「忘れません。俺を留まらせてくれてるのは、マスター達です」

「そっか‥‥さっき、怖かった?」

「‥‥いいえ。いいえ、怖かったです‥‥だけど、マスターがいたから平気です」

 先ほど、マスター達が人形と言った何かから、感じられた圧力とでも呼びべき空気は、これまで会ってきた者達の中で、最も異質だった。だけど、同じ匂いを感じた。

 あれは―――あれは、マヤカと―――。

「カサネさん‥」

「ん?なぁに?」

「‥‥ごめんなさい、何でもありません」

「うん、わかった―――」

 マスターよりも背が低いが、俺よりも背の高いカサネさんから手を離さないで、目的の階を待つ。やはり、悪魔使いとは思えない柔らかな空気に頼りながら、指の熱を感じ取る。汗で濡れ始めた手を決して離さないでくれたまま、階に到着すると―――そこには、髪を濡らしたカタリ達がいた。そこでようやく背筋を貫いていた緊張がほぐれて、息を吐いてしまう。

「‥‥やっぱり、何かったの?」

「少しだけ‥」

「取り敢えず、部屋に戻ろう」

 カサネさんから変わって、カタリが手を引いてくれる。巨大な杖をついているというのに、誰かが手を引いてくれなければ、自力で動けなかった。




「恐らく、あれはサブプランだ」

 戻ってきたマスターが、元いた席に座って声を出してくれた。

「マスター、言葉が足りません」

「ん?ああ、すまないすまない―――では、最初に何が起こったのか、そこから話すとしようか。いや、カサネから聞いているだろうから、割愛させてもらう」

「リヒトを狙って、襲ってきたゴーレム、でしたか?—――リヒトにも先生でも仕留められないなんて、一体‥‥」

「‥‥恐らく、あれはもう来ない」

 既に、カサネさんは部屋から去っていた。マヤカが、詳しい事を代表して聞いていたが、当事者である俺と同じ位の経過しか、聞く事は出来なかったようだった。

「来ないと、言い切れるのですか?彼の力が通じないという前例を作ったのなら、容赦なく投入してくるかと」

「一度、退かせたという前例を作ったからだよ―――あんな物を使ったというのに、私達に姿を晒し、撤退を余儀なくされた。あの人形とリヒトの断片を天秤にかけた時、いや、かける事さえ本来は避けたかったに違いない」

 マスターは、言葉を慎重に選びながら話していた。だけど、要領を得ない、抽象的な言葉ばかりで、説明されている所為で、理解が出来なかった。

「すまない‥‥これは私の権力を大きく超えた問題だ。この件は、私達に任せてくれ―――どうか‥」

 立ち上がって、頭を下げるマスターに、全員で顔を見合わせる。先ほど、ヨマイに感謝した時とは違う、外部監査科の長としての立場を以って、願ってきた。

「‥‥取り敢えずは、わかりましたよ。だけど」

「必ず話させてもらう―――話を変えよう。私達の作戦は、一度放棄する。リヒトを狙いにきた巨人か、別のドラウグルを返り討ちにするという案は、無かった事にしたい。あの襲撃者が、来る事はもうないだろうが、もう悠長に待っている暇はなさそうだ」

「はい、私もそう思います―――サブプランではない、本筋が来るという事ですね?」

「ああ、それも恐らく私達が想像している物を、大きく超えた力と思うべきだ。術者を失い、最後まで残った術式やゴーレム、ホムンクルスの暴走かと思ったが、それは違ったようだ――少し話しておこう、敵と呼べるであろう者達を」

「敵?私達にとって、味方と呼べる者などいたのですか?」

「ふふ、違いない。だが、私達魔に連なる者と違って、彼らはオーダーと二分する公の秩序の為、という名目で大手を振って―――誰に対しても弾丸を放てる連中だ。しかも、街中で射殺、無許可で拷問を行っていた。結論を言おう、元は公安と呼ばれていた組織、現在を特務課と名称された部署だ」

 わからない、と言った感じにロタが顔を見てくる。

「警察はわかるか?」

「はい、オーダーとは違う人間で、外にいる蛮族を捕えるとか」

「公安も、やる事は変わらないかもしれないけど、現場が違う。端的に言えば、警察は刑事――いや、何か起こってからが仕事で、公安は警備、何か起る前に解決する部署だ。解体されていたんでしたね」

「ああ、オーダー創設時に、まとめて解体、その後も息のかかった部署の全てもだ。それぞれ別の組織に配属されなおし、中には自身の居場所を奪ったオーダーに飛ばされた者もいる。そして同時に、機関にも」

 マヤカを全員で見ると、グラスを握ったまま頷いてくれた。

「マヤカ君‥」

「はい、マスター」

「出来れば、この場では―――」

「マスターが、言われますか?」

「‥‥続けよう。公安と言っても、公安の一枚岩だけにいた訳じゃない。公安の別部署があった。ふたりなら、よくわかるだろう。マキト氏やその父親に付き従っていた彼らだ。そして、名を変え、特務課として生まれ変わり、自然学の教授と取引をしていた疑いを持たれている」

「—――信じられない、事実上のテロリストじゃないですか‥」

「創設時の理念は、素晴らしい物だったのだよ。これは嫌味ではない。まぁ、ただ、そういった場には傷を持つ者、今の自分達の扱いに不服を持つ者達が集まるものなのでね、腐敗が腐敗を呼び込み、オーダー街と秘境に攻撃を仕掛けてきた」

 マヤカがグラスを手放さない理由がわかった。あの秘境への侵攻は、機関の人間が手引きしたという意味でもあったからだ。そして―――。

「あの人狼の眼球、それにも関わっているって事ですか‥」

「多分ね。言い切れる訳ではない、けれど、そう思っていい筈だ」

 ロタが発見した部屋を、彼らが知っていたかどうかは、今となってはもうわからない。だけど、人狼だけ館に向けた所で、杖や生命の樹を使って【畏怖の目】を作り出せるとは思えない。あの技術者がいない現在、別の専門家がいる。

「先生、なんで言わなかったんですか?」

「言えなかった、が正解だ。彼らの名や存在は、我らが暮らしているこの国の根元に位置する。無暗に、例え君達であろうと、言えなかった。下手に、その名を外で言えんば何処から弾丸やテーザーが飛ばされるか、わかったものじゃない」

「今も機関には、元公安の人間がいる。彼らの多くは、大半が逮捕されたけど、全員じゃない。姿を消した者もいる。術の腕としては、無視しても構わない程度だけど、彼らは銃器の扱いに慣れてる。弾丸は、私達にも通じてしまう‥」

 心情的に言い難い感じではなかった。俺達の身を守る為に、まだ言えなかった、そう言っていた。カタリも、それに納得したのか、肘をつきながらだが、水を飲み干すにとどめた。ロタに至っては、そもそも興味などないようで、スマホで遊んでいた。

「ロタ、単位を落とすぞ」

「はーい。だけど、私達にとって敵は敵以上の意味はありません。敵なら首を落とせばいい、答えを聞かなければいけないなら、指でも腐らせればいい。人間など、その程度。今すぐにでも、息の根を止めにいけばいいのでは?」

「それも、答えのひとつだが、この世界にも支配域がある。侵略には意味が必要なのだよ。それに、侵略戦争中に足元をすくわれるなどという醜聞の極み、許す訳にはいかない。取り調べも済んでいない訳だしな」

「それで、先生、私達はこれからどうするんですか?」

「明日明後日も使って、迷宮に強襲を仕掛けて貰う」

 想像していたのは、俺達だけではなかったようだ。それを聞いたヨマイも、息を呑んだのがわかった。だけど、途中から鼻で笑うような声が聞こえた。

「迷宮に、襲撃ですかー」

「ですかーって、いいのか?」

「あそこは、私達の工房群とでも呼ぶべき場所です。そこには、必要最低限の安全性は確立されるべきです。私も、悠長に待っている時間はないと思います。トドメを刺しに行きましょう」

「‥‥敵を作ってもいいのか?もう、俺はヨマイのクライアントじゃないのに―――無事で済まないかもしれない。貴族の一派を完全に敵を回すぞ」

「何を今更―――私の敵は、私の邪魔をする者達です。それはそのまま、発掘学全体の敵です。数を連れて、競り落とした呪物を奪い去りにくる下級貴族の末端など、発掘学全体の敵です。トドメを刺せれば、むしろ喜ばれるのではー?」

「排他的で願ったりだ。私が許そう」

 マスターの方を向き、視線で心意を問うが、当のマスターは微かに笑うだけだった。

「私は、この学院の教員。勉強をしたい、実験をしたい、そんな学生の為、安全な机を用意するのは、私達の役目だ。事実としてヨマイ君の力を借りなければ、迷宮の廊下ひとつ歩き切れない。私がクライアントとなろう、迷宮の道行きを頼みたい」

「頼まれましたー。お任せをー」

「よし、では、迷宮でのリヒトの世話を頼むぞ。君がいなければ、彼のわがままを聞き切れなかったとマヤカ君から聞いているのでね」

 マヤカを睨みつけた瞬間、グラスで顔を隠してしまった。続いてヨマイを見るが、鼻で笑ってくるだけだった。

「マスター、なんと言われたんですか?」

「食事の質が悪いだ、湯を浴びたいだ。そしてひとり寝は嫌だ、一緒に風呂に入らないと身体を洗わないだ、とね。ふふ―――どうやら、全く違うといった訳じゃなさそうだな。君の世話役を常にひとり常駐させなければならないようだな」

 否定したい事は山ほどあったが、肯定しなければならない事も、谷を埋める程あった。

「‥‥俺は、マヤカに夕食を作ってもらって、ヨマイに身体を洗ってもらって」

 口に出せば出す程、カタリが溜息、ロタがスマホに何かを入力し始めた。

「それに、上に帰ってきたらあれだけ私に甘えに来たじゃないか?食事、酒、薬、身体、湯あみ、そして眠り。ふふ‥言われてみれば、君の世話というのも―――」

 



「マヤカ、少し話したいんだ」

 念のため、今日はホテルから出ないで、この部屋で夜を明かすべきだと言われた。襲撃された場所でこそあるが、この闇夜の外に逃げて、隙を見せる訳にはいかないと、誰でも想像できる事だった。

「どうかした?」

「‥‥マヤカ」

「—――誤魔化して、ごめんなさい。座って‥」

 カタリ達が寝静まった頃、待っていたようにリビングでグラスを傾けていたマヤカが、頬を撫でて席に促してくれる。だけど、マヤカの手を握ったまま、動けずにいた。

「嫌だ」

「どうして?」

「座った隙に、どこかに行く気だろう‥」

「そう思う?」

 寝巻であるルームバスローブのまま、足を組んで笑いかけてくるマヤカの肩を抱いて、黒髪に顔をうずめる。甘い香りのマヤカが、本当に夢の住人のように感じてしまう。手を離せば、そのままどこかへと消えてしまう。夢現のまま、俺だけの幻想の恋人として、そもそもいない―――そんな、夢そのもののように――。

「泣き虫なあなたを置いて、どこへも行かない。もう、誰も置いて行きたくない。だから平気‥‥あなたを一人にしない。これは、私の誓い。信じて‥」

「マヤカの事は、信じてる。だけど、またどこかに‥マヤカだけ、連れて行かれる‥」

「ふふ‥困った」

 冷たい指を使って、髪を撫でてくれるマヤカの髪に、涙を吸わせる。

「常に一緒に、私といたいの?」

「いたい‥」

「そう―――私も同じ。私は、誰かに依存して生きてきた」

「今は、違うのか?」

「もう依存できなくなった。成長したから、大人になったから、じゃない。私は、人の望むままに生まれて、生きてきた。そうでなければ、生きて行けなかった。生きて行かないと、生きられなかった。私は、自分の意思で、人に身体を預けてきた」

「つらくなかったのか?」

「わからない。興味もなかった、それよりも私は生きたかった―――姉妹達の中で、一番私は狂っていた」

 髪から顔を離して、隣の席に座らせられる。隣のマヤカに視線を向けるが、当のマヤカは、何も言わないで手を握ったまま、視線を真っ直ぐに向けている。

「狂ってなんかいないだろう‥‥」

「いいえ、狂っていた。本来狂う事こそ、私達の在り方だった。狂った人間に造られたのだから、私も狂わなければならなかった―――狂わないと、見れない幻想、狂乱の夢の扉として、私は生まれた。だけど、私の狂気は、人の求めた狂気ではなかった――自己保存の原則なんて、人間は求めていなかった」

「生きたいって、思うことは狂ってるって事なのか?—――それが、普通なのか?」

「私の妹達は、そこに疑問なんて持っていなかった。人間達の為、骨に爪、内臓、腕に足‥‥それに倫理観だって、捧げていた。私には、それが生きる為だと、思い込む事をしていた。だけど、そんな心の矛盾、人間達は許さなかった」

 手が真っ白になるぐらい、マヤカは手を握ってくれていた。掴みかえしても、マヤカはなんの反応もしない。グラスすら無視して、ただ真っ直ぐに目を向けている。

「私の生きる意味は、人間に身体を捧げる事。それが生まれた理由だった―――生まれたばかりの鳥が、羽ばたきの練習をするように、私は人間の為に、人間に依存していた―――だけど、生まれる意味を達成する時、私は迎えられた」

 そこで、ようやくマヤカはグラスを手に取って、酔いを再開した。真っ白だった手を離しそうになった時、こちらから掴み返す。

「ふふ、逃げない」

「マヤカと、こうしていたい」

「困った―――マスターにも、そう言われた」

「‥‥マスターが、救ってくれたって言ってたな。マスターが、迎えてくれたのか?」

「そう、私は‥‥よく生きた。人間の寿命は、知っていたけど、私達の生きるべき時間は、もう過ぎ去った。だけど、マスターが救いに来てしまった。私は、自分の為に逃げ出した。あの子達を置いて、私は、完全に狂ってしまった―――ヒトガタとしての在り方を、自分で放棄してしまった」

「ヒトガタ‥」

 それが、マヤカの種族なのだろう。ホムンクルスのヒトガタとして、マヤカは生まれた意味を放棄した。それは、人間にとっての使命なんて、安い話じゃない。

 生きる為の、食事、睡眠、快楽―――そういった生きる為の行いを、マヤカは焼き切った。人形として、壊れるまで玩具にされるべき運命から、逃れてしまった。

「もう私には意味がない。マスターの元、マガツ機関のマヤカとして生きてこそいるけど、私はもういてはいけない。だって、もう破棄されるべき、切り落とされるべき枝葉だった、そして罪を犯したのだから。だけど、マスターが水を与えてしまった。私は、根を持ってしまった」

「それは、いけない事じゃないだろう‥‥もうマヤカはひとりで立てる―――依存しなくても、自分で日を浴びれて、水だって吸い上げられる。それは、悪いことじゃない‥」

「それは、別の種族としての理論。私達は、人間の手の中で生きなければ、生きていてはいけない。ふふ、大丈夫、怒った訳じゃない‥‥知らなかった?私は、あなたの次に危険な種族。求められれば、星を滅ぼす役目を遂行する――星の侵略者の血族」

 それが答えだった。襲撃をしてきた人形から感じて、脈動、感じられた異質な声とでも形容すべき空気の震わせ。あれは、時折マヤカからも感じられた物だった。

「マヤカ‥」

「どうかした?ふふふ‥‥声に出さないと、私にはわからない」

「怒らない‥?」

「怒って欲しいの?大丈夫、怒らない」

 マヤカの手を握って、横顔を見つめる。鋭い刀剣のような目に、月の光が差し込み。三日月をそのまま取り込んでいるように感じた―――マヤカは、月の住人だった。

「あのゴーレムから、マヤカと同じ物を感じた」

「そう」

「あのゴーレムは、なんなんだ‥‥一体、誰が作り上げた?—――マヤカを作った錬金術師と、同じなのか?」

「‥‥その人自身かは、私にはわからない。だけど、屍を繋ぎ合わせるという技術を持っているのなら、あの人の右に出る者を、私は知らない。【悪魔】‥‥私達は、そう呼んでいた―――カサネさんと同じという訳じゃない。彼女は、紛れもなく人間を体現した真人間」

「‥‥この秘境にいるのか?いるなら、俺が‥‥」

 マヤカの手諸共、拳を作った時、ようやくマヤカがこちらを向いて、拳の上に手を重ねてくれた。真っ直ぐな、貫かれそうな視線に息を吐いた時、薄い、けれど柔らかな唇を、額に付けてくれた。

「‥‥もう子供じゃない」

「ふふ‥‥これは親愛の証」

「親愛だけじゃ、嫌だ―――愛するがいい‥」

「そうね‥‥、ええ、あなたの言う通り―――愛するリヒト」

 目をつぶったマヤカが、微かに唇を下に向けて待ってくれた。首と背筋を伸ばした、待っているマヤカを迎えに行く。まず最初に唇を浸した甘いアルコールが、舌を覆った。それだけで脳がぐらつく。だけど、決して不快などではない。

 マヤカの唇を貪るように、息を止め続けた。

「必死ね。やっぱり、まだまだ男の子‥」

「マヤカが困らせるからだ」

「困ったあなたは、とても可愛いの」

 不服を顔で表現するが、それすら愛おしいと言うように、頬を撫で上げながら耳たぶを触ってくる。白い顔を真一文字に切り裂く、真っ赤な口から目を離せない。

 愛する者を強欲に、ただの京楽の為、噛み砕く恐ろしい魔女の顔―――。

「魔女みたいだ‥」

「知らなかった?私は、魔女。人間という材料を、すり潰して薬に、年下の少年を食べてしまう、恐ろしい魔女。‥‥ええ‥そして、人間にいつか狩られる愚かな魔女‥」

「マヤカは、狩らせない」

「どうして?」

「マヤカを守ってるのは、この神獣だ」

 もう一度首を伸ばして、次は大人の口づけをする。少し乱暴に、マヤカの肩を引き寄せて、閉じられた口元を舌でこじ開ける。舌を傷つける鋭い歯を越えた先の、甘く熱せられたマヤカの自身の味を求める。例え、血を流したとしても、いや、血の味すら愛おしい。

 魔女が身体に仕込んだ薬の虜となっているこの神獣は、既に魔女の僕だった。

「‥‥やっぱり、まだ男の子」

「男の子は、嫌か‥」

「いいえ、男の子の味は、決して嫌いじゃないの――さぁ、こっちに」

 腕を引かれて、ゆっくりと立ち上がる。何も言わない、けれど微笑んでくれる魔女の望むままに、部屋の中を歩いてみる。マスターは、既にどこかへと行ってしまい、今部屋で起きているのは、ふたりだけだった。

「お風呂には入った?入ってないのね、仕方ないから入れてあげる」

「‥‥ああ、入ってない」

「困ったリヒト、私に入れてもらう為に待っていたなんて‥‥手のかかる、悪い子」

 既に、入ったという事実を有無も言わさず捻じ曲げる魔女に連れられて、バスルームへと赴く。やはり、大人のジャグジーだった、ガラス窓で透けた更衣室に入った時、マヤカが腕を伸ばしてくる。迎え入れるような仕草に、首を捻るながら、抱きついてみる。

「まずは、落ち着くため?」

「違った?」

「ふふ、いいえ」

 マヤカの考えが読めなかったが、いい匂いのする髪は、悪くなかった。

「さぁ、私を脱がして」

「‥‥そういう意味だったのか」

 一度、マヤカを強く抱きしめてから離れる。首から胸元まで開かれたローブを、一度確認して息を止めるが、手が伸びなかった。

「どうかした?」

「‥‥無理そう‥」

「頑張って」

「楽しんでないか?」

「気付いてしまったのね‥ああ、私のリヒトは少しだけ大人になったのね」

 もう十分楽しんだのか、背中を見せたマヤカは自ら腰のベルトを緩めて、留め具を外す。それにより、マヤカの身体を抑えきれなくなったローブは、若干肩幅が膨らんだように見える。

「せめて、これを降ろして」

「‥‥出来ない」

「どうして?」

「‥‥恥ずかしい」

「ふふ‥自分が脱ぐ訳でもないのに―――待ってるから、はやく来て」

 デザートとばかりに、最後に俺で遊んだ魔女はバスローブを投げ捨てるように、棚に放り込んでんジャグジールームに入っていく。だけど、すりガラスにもなっていないガラス窓では、中で包み隠さず晒しているマヤカの宝石の如き裸体と妖艶な笑みを、まるで隠せていなかった。



「もう、俺は入ったんだけど‥」

「なら、どうして言わなかったの?やはり、私と入りたかったからでは?困った甘えん坊で、手がかかる‥‥ああ、私も、もうシャワーを浴びていたというのに‥」

 マヤカの声が真後ろから聞こえる。ジャグジーにふたりで重なるように入っているのだから、それが聞こえても不思議じゃない。だけど、この状態は、不服だった。

 マヤカを椅子代わりにして、マヤカから抱き枕代わりにされていた。背中と胸辺りに回されている腕から感じる、滑らかな肌に息を止めてしまうが、それと同じくらい、今の状況は不本意だった。

「俺は後ろでも」

「私よりも背が高くなったら」

「‥‥もう少しで、越せるから」

「楽しみに待っている。来年には、同じくらいにはなれるかも」

 まるで期待していないマヤカからの同意に、頷くしかなかった。泡を吹き出す湯舟は、既に巻き付いているマヤカの身体を、更に押し付けるように吹き付てくる。

「聞かないの?」

「聞かない―――マヤカが、どこから来ようと、どんな種族だろうと、関係ない」

「どうして?」

「俺の方が異質に決まってるから」

「‥‥そうね。ええ、その通りね―――なら、聞き流して、あなたが不愉快にならない程度の子守歌にするから。私は、遠くから来た。私自身もわからないぐらい、遠くから‥‥だけど、連れて来られた。どうして、そんなに遠くにいたのに、機関とかオーダーのいるこの国に来たのか。それは、恐ろしい彼らがいるから」

「彼ら‥?」

「そう。とても恐ろしい組織。秩序の側でありながら、外道に落ちた人間を狩り取る世界の番人にして、守り手。私達を生み出した人間も、彼らには勝てない。魔に連なる力を操る者は、彼らは天敵、世界の果てを目指す者にとって、彼らは監視官でもある―――だから、ここに来た。彼らは、ここを恐れているから」

 秩序の側、と言われて思いつくものはやはりオーダーだった。機関も、オーダーの傘下であるのだ、同じ扱いとなっているのだろうか?

「機関が怖いから、【彼ら】は来ないのか?」

「ふふ、まさか‥‥私達では、【彼ら】には決して勝てない。これは世界の理、言い訳を挟む余裕なんてないぐらい、嘘みたいに負けてしまう。だけど、彼らも恐ろしい者達がいる。たったそれだけの話。【彼ら】の手から逃れる為、私達は、ここに来た。だけど、私は生きたかったから、生き残ってしまった――マスターに救われた」

「捧げられるのが、嫌だったから‥‥マスターはどうやって?」

「わからない―――だけど、気が付いたらあの部屋にいた。そして、あの人の顔を見た時、なによりも安心してしまった。だから、あの人の弟子となった。マスターは、嫌そうだったけど、ふふ‥どうにかマスターを折った」

 いつの間にか泡が止まっている湯舟から、ふたりの心臓や肺で造り出した波の音だけが木霊していた。温かくて柔らかい波の音に、マヤカの心音、そして声に、目元が重くなってくる。

「マヤカも、強引な時があるんだな‥」

「そうよ、知らなかった?」

「‥‥マヤカはいつも優しいから、いつも俺のわがままを聞いてくれるから」

「可愛い年下の恋人のあなたには、優しくしてしまう。同時に、いじめたくなってしまう」

 首元を舌で撫でてくる。口から発せられる卑猥な音に、髪が逆立つが、それは襲い掛かってくる眠気と同じ方向、緊張していた身体をリラックスさせる物だった。

「マヤカ‥眠い‥」

「そう、それは大変‥‥」

 口元が湯舟に浸かりそうになった時、マヤカの布が身体を返して、年上の魔女に身体を預ける格好になってしまう。背中だけでは感じられなかった繊細な肌に身体の凹凸、そして身体の敏感な部位を押し付ける快楽に、頭が呑み込まれていく。

「怖い?」

「‥‥少しだけ」

「諦めて、私は怖い魔女だから」

「マヤカ‥」

「ん?」

 背中を撫でながら抱いてくれるマヤカの腕と肩に、頭を預けて髪に噛みつく。傷ひとつない肌にと髪の舌触り、噛み心地を楽しみながら、下腹部に膝を押し付けてくるマヤカの耳を見つめる。

「どこにもいかないで‥」

「うん、行かない。もうどこにも、あなたを決してひとりにはしないから」







「久しぶりに入るわ。こんな感じだった?」

「まぁ、あれから一年近く経ってますし、多少は変わってるかもしれませんねー。毎日通っている私からすると、昨年の迷宮の姿の方が違和感があるかも」

「‥‥これは、なんの匂い‥?」

「恐らく迷宮の壁が剥がれた事による、障壁の建材の匂いが漂ってるいるのだと思う。人体には影響のない物だから、気にしてなくていい」

 マスターと抜き、ヨマイを追加した外部監査科で今も封鎖されている迷宮に、ゲリラ的な捜査を行っていた。目指す場所は、6階層のあの部屋。

「ていうか、なんで発掘学の学生が、迷宮で貯蔵されてる物の事を知らない訳?」

「言い訳にしようがありません‥‥だけど、迷宮はそもそも呪物や公に出来ない品々を隠匿する為に、作られた施設です。私達が知らないぐらい、公にできない物があっても、不思議ではないかとー」

「‥‥そういう事ね」

 先頭を歩いている銀の杖のカタリと、ランタンを持ったヨマイが、学校帰りのようなノリで話している。ここは、秘境内でも群を抜いて危険な迷宮という事を、忘れそうな光景だった。

「—――ねぇ、ここには遺物だってあるんでしょう?」

「はい、勿論」

「‥‥ヨマイの研究テーマは、新世界の発見だったんでしょう?怒るかもしれないけど、もうわかりきってたんじゃない?ここ以外にも」

「カタリ―――」

 声を出して、カタリの言葉を遮るが、ヨマイから帰ってきた反応は想像とは違った。鼻で笑うような、今更何を言っているのか?そして、嬉しそうな声だった。

「勿論、そんな事はわかってまーす。ロタさんや、カタリさん達の知っている別世界がある事ぐらい、遺物の有無でわかります。だけど、私は発見したかったのは、もっと別の世界です」

「どういう意味?」

「この世界にある別世界—――地続きの別世界を発見したかったんです。地底や海中、上空にレイライン、そして人の中の世界、そういった世界です」

「やっぱり、アガルタでも探してた訳?流石に――」

「あり得ませんか?だけど、皆さんの話を聞いて確信しました。世界は、思ったより近くにある。新世界の発見は、もう成されていた」

 一歩前に出たヨマイが、軽やかにステップを踏んで白のローブで舞っていく。

「私の目的は、もう終わってしまっていました。知らなかったのは、私だけ。気付かなかったのは、私だけ。アダマンタイトに似通った物こそ、競り落としましたが、それだって結局発見者がいるから、掴めただけ。きっと、知っている人達がいる。私が知らないだけで、向こうから来た人がいる‥‥」

 ランタンを後ろ手に持ったヨマイが、天井を眺めるように顔を上へ上へと向ける。気が付いた時、全員が歩みを止めていた。

「じゃあ、その人達を探すの?」

「そんな事はしません。言いたくないから、言わないんだと思います。なら、それでいいんです―――だって、いるって確証してますから。それで終わり」

 カタリだけが足音を立てて、ヨマイに近づいていく。カタリと同じだった、ヨマイも、その手段があるのに、諦めた。自身の研究テーマを諦めて、希望と幻想を捨て去ってしまった。

「これからどうするの?」

「どうもしませーん。変わりませんよ、だって、この秘境には興味深い事がまだまだ、研究テーマを言い訳に見逃していた物があるんですから。私は、死に体になる気はありません。次に、知的探求心を向けるだけですよ」

「‥‥たまになら、上を案内してあげる」

「私も、たまになら迷宮を案内しまーす。その代わり」

「はいはい、サボテンの世話ね」

「リヒトさんをお借りしますね」

 カタリが何かを言う前に、軽やかに振り返って廊下渡りを再開してしまった。ヨマイを追いかけていくカタリを見て、ロタも走り寄っていく。持っている物が、皆物騒だが、やはりこの光景は、日常の学校生活だった。

「追わなくていいの?」

「今は、マヤカの隣にいたい」

「‥‥そう」

 一言しか発しなかったが、マヤカは嬉しそうに隣のマーナの頭を撫でていた。

「身体の調子はどう?」

「‥‥すごくいい」

「そう、昨日頑張った甲斐があった。ふふ、なぜ赤くなってるの?頑張ったのは、あなたもなのに」

「‥‥また、マヤカにリードされてばっかりだった」

「恥ずかしい事じゃない。まずは、慣れないと。真っ直ぐに見れるぐらいに」

「‥‥わかった」

 隣の初めての人が、顔を覗いてくるが真っ直ぐに目を合わせられない。マヤカの力のひとつだった。自身の免疫とでも言うべき生気を注いで、眠りに誘う。眠りに誘う方法は、他にもあるらしいが、あれが一番効果と即効性があるとの事だった。

「マヤカ‥‥初めてじゃないんだよな‥」

「いいえ、私も初めて。私の初めては、あなたに捧げて、私も貰った。肉体的な相性が良かったから、あなたを喜ばせる事が出来た。ふふ‥悶えさせたが、正解?」

 顎を指一本で引き上げられて、声を失う。遠目でも、近目でも、震えそうな美人だった。

「心配しないで、比べている相手なんていない。私の初恋は、あなた。さぁ、行かないと」

 遠くになってきた三人を追って、マヤカに手を引かれ迷宮を歩き続ける。学生達のいない、ほぼ無人の廊下に、三人の声しか響いていない。足音すらかき消す声に、マヤカと隙をついて唾液を交換する。

「‥‥どこかに、少しだけ隠れる?」

「今はいい。だけど、帰ったら褒めて」

「—――わかった、ご褒美をあげる。期待して待ってて」




「邪魔者がいないと、こんなにあっさり降りれるのか‥」

「まぁーその通りかと。と言うか、おふたりを案内した時が、やはりおかしかったんですよー。あそこまで堂々と喧嘩を売る、罠をしかける、襲撃を仕掛けるなんて―――疑うべきだったでしょうか‥」

 既に、4階層の休憩エリアに到着していた。もうすぐ5階層なのだから、ここで休む必要などない。そう瞬考したが、この4階層だからこそ、休む意味があるのだと、わかった。言っていたではないか、ヨマイは、第5階層は砦であると。

「‥‥なんか、殺風景なところね」

「この迷宮にも、風光明媚な場所はありますが、観光はまた今度でー。いかがでしたか?なにか、役に立ちそうな物とか」

「あるにはあったけど、おいおいでいいかな?それよりも、今は5階層に行ってみたいかも。もうすぐなんでしょう?」

「はい、もう少しでーす。—――よく、平気ですね‥」

「はぁ?何が?」

「何がって、こんなに機関の方々は歩き回ってる迷宮で、なぜこうむのびのび出来るのかと‥」

「どうでもよくない?所詮、雑魚だし」

 カタリの発言に、近場の白のローブ達が咳払いや睨みつけをしてくるが、それをカタリは一瞥もくれないで、嘲笑うように鼻で笑う。その様子に、マヤカはもはや何も言わなかった。

「この程度の挑発でもない事実に、いちいち反応するような雑魚なんて、相手にもならないって言ったの。だって、実際雑魚じゃん?ロタは、どう思う?」

「私に人間を評価しろと?どれもこれも取るに足りません。頭蓋を盃にですれば、趣が生まれるかもしれませんが、所詮は有象無象です。足元すら見る価値ありません」

「ほら?」

 ランタンを抱きしめるながら、目を虚ろにするヨマイに、カタリは勝ち誇ったように笑う。実際問題、ここでたむろっている機関の構成員では、取るに足らないと思っていた。

「マヤカさん‥」

「カタリ、ロタ、言葉を謹んで」

「えぇーでもさぁー」

「人間は、生まれた時点で特別な存在なんていない。カタリやリヒトも、元はただの人だった。いくら、あなた達が人間という呪縛から解き放たれているとは言え、守るべき規範はある。人間から脱せられない時点で、取るに足らないという評価しか与えられないのは事実だけど――――どうかした?」

 割と容赦のないマヤカの本心に、ヨマイは乾いた笑いしか出て来なかった。

「まぁ‥‥私と皆さまでは、隔絶された性能差があるのは、間違いですね‥」

「ん?あなたも、もう人間の呪縛から解き放たれていると、思っていたのだけど?ねぇ、リヒト‥」

「ああ、ヨマイは、もうただの人間じゃないと思うぞ?」

 そう言われたヨマイは、一瞬呆けた顔をしたが、思い出したように口元を笑みに染まらせる。ヨマイは、この迷宮にかける幻想を手放した。何者を踏み台にしてでも、掴み取りたい清らかな欲望を捨てたヨマイは、もうただの人間じゃない―――。

「俺達といて、違和感なく話せてる。ヨマイも、十分人外に染まってきたな。しかも、あの館を普通に歩けてた、真っ当なただの人間だったら、そもそも歩く事すら出来なかったぞ」

「‥‥ふふ、そうかもしれませんねー」

「そうなんだよ。あの樹を見ても、焦りもしなかっただろう?それに、俺の力をあそこまで使いこなせてる。ただの人間じゃあ、触れる事ができない力を使えてるって事は―――」

「もう私は人間じゃない。ですか‥‥ふふん♪いいですねー」

 誇らしげに、そしてどこかカタリと同じように人間を嘲笑うかのように、笑むヨマイの顔は、もはや人間の兆しはなかった―――迷宮で、多くを見つめ過ぎたヨマイは、もう既に人間から離れつつあると、わかっていた。

「数ばかり、そして自力ではどうにもならないから、人から奪う―――ええ、人間は卑怯で、己が行いは顧みないで、正当化する。—――ええ、人間は取るに足らないですね‥」

「そうそう、やっと気付いた?人間は、ここで殺して人外になれば?」

「お疲れ様でした、ようやく私達と同じ境地にいると、認めましたね」

「こんな勧誘方法、聞いた事もないかもだけど、ようこそ、外部監査科へ。一時とは言え、あなたは、オーダーの外部監査科であり、マガツ機関の構成員でもある。人間として倫理観は、ここに置いて行って」

 人間は捨てて、新たな境地、新世界の住人となれ。危険な勧誘で、歓迎会ではあったが、それが俺達には相応しい。既に、身体を捨ててしまった俺がいるのだ、人間の思考など、いくらでも捨てられる。捨てなけばならない―――そもそも、ヨマイは人間世界での在り方に、迷いがあったのだから。

「どうしましょう‥‥私、迷宮どころか人間をやめた方が、楽しいって知ってしまいました‥」

「何も、問題なんかないだろう?ヨマイは、元から違和感を持ってた。違うか?」

「—――いいえ、そうですねー」

「だけど、人外が人間世界で生きるには、制約がある。隠者になる事を、心掛けよって話が」

「あなたが言いますかー?」

 ランタンを抱えたままのヨマイが、寝転がっていても手が届く巨大な銀狼の頭を撫でる。先ほどから、俺の傍を離れないマーナは、やはり意思があるのか、気持ち良さげにヨマイの手を求めて、頭を押し付けている。

「そうですね‥人間の世界には、もう飽きていた所です。そろそろ、新たな世界に、踏み出す時が来ましたかね―――」

 


「巨大な階段ですね。ここまでのは、久方振りかもしれません‥」

 ロタが、何かを思い出すように呟いた。5階層への最後の階段、巨大な螺旋階段に差し掛かっていた。降り方は、若干違うが‥‥。

「迷宮のエレベーターって、こんな感じだったのね」

「ガラスのエレベーターか‥」

 釣り上げられたガラスの部屋が、ほぼ無音、無振動で真下に落とされていく。釣られている、と言えば聞こえはいいが、実際はミノムシのそれだった。けれど、快適性で言えば、普通のエレベーターとは比べ物にならない。

「本来は、地上からでも行けるのですが、リヒトさんが大半を破壊してしまったので、長い間全階層を通す使用されるよりも、短い4階層から5階層までを細かく使う事にしたようですねー。まぁ、なんにしても唯一、破壊を免れたのがこの一機だけのようでー」

「尚更、ヨマイ専用のエレベーターが必要になったか」

「はーい、迷宮に引きこもったままの生活は、改めようと思いましたが、まーだまだ、迷宮は利用価値があります。それに、ここは私達にとって校舎でもあるので、校舎からは離れられませんねー」

 どうやら、ヨマイはこの迷宮が気に入っているようだった。利用価値も勿論あるだろうが、それと同じくらい愛着に近い感情も同伴しているのが、横顔でわかった。

 ガラス壁に手を付けたヨマイが、眼下に近づく5階層の床を眺めている。動きとしてはゆっくりに見えるが、実際、俺達が歩いて降りているよりもずっと早いのだろう。

「5階層って、どんな所?」

「ちょっとした街があるんだ。結構、驚かせてもらったぞ」

「‥‥ふーん、街か‥」

「まずは、あなたの工房で話をしたいのだけど、構わない?」

「構いませんよー。見られて困る物も、見られて危険な物もないのでー。ああ、それと、5階層では、基本暴力沙汰は禁止です。学生達は、完全に出払っているでしょうが、マナーの問題で、他人の工房を傷つける訳には行きませーん」

 5階層初めてのカタリとロタに、ヨマイがふり返ってそう告げた。

「‥‥なんで、私達に言うの?そのくらい、わかるけど」

「—――あの防衛事件で、リヒトさんと同じくらい恐ろしかったカタリさんが、聞き返しますか?」

「‥‥わかったわよ。大人しくしてればいいんでしょう?」

 あのカタリが、大人しく聞き入れた。その様子に、ロタとマヤカは、驚いたように息を呑む。だけど、それが気に食わなかったようで、カタリは外を見てしまった。

「一体、どれほどの事を起こしたの?」

「襲撃者達の始末が、あらかた終わった時、三人でくつろいでたんだけど、最後に使い魔を使って忍び込んできたんだ。流石に使い魔を爆弾代わりにしたのは、許せないから、カタリと一緒に向こうの工房の一室に襲撃しかけただけ。向こうもやってるんだし、構わないと思って」

「襲撃ってレベルではないかと‥‥未だに、ちょっとした戒めとして放置されてますよ。工房間の紛争で、負けた側はこうなるって。それに、彼らがあそこまで離散したのは、居場所である工房を破壊し尽くされたからだと、もっぱらの噂です―――まぁ、私も参加した訳ですがー」

 懐かしいと同時に、あれはやり過ぎたと自負してしまう。あそこまで盛大に破壊したのは、生まれて初めてだったかもしれない。

「だけど、ここの貯蔵品までは破壊してないから、安心してくれ」

「‥‥あなたが、人気だった理由、わかった気がする。その事は、発掘学の学生なら全員?」

「いませんね、断言できます」

「そう‥」

 それ以上なにも言わなくなったマヤカが、近づいてきた床にいるマーナを眺める。自力で降りきっていたマーナは、やはり利口そうに座って待っていた。それを見て、マヤカも和んだらしく、微かに笑うに留めてくれた。

 5階層に到着した時、マーナは意思があるかのように、マヤカに飛びつき頭を押し付けていた。固い頭蓋を押し付けられているというのに、優し気に撫でる顔は、なおの事、和んでいる。

「学生達は、みんないないんだよな?じゃあ、今5階層にいるのは、全員機関の人間か?」

「そういう事になるかとー。それに、私達も、下から何が這い出てくるかわからない以上、長いはしたくても出来ないですしー。‥‥まぁ、最後まで抵抗していた方々はいましたが‥‥迸る知的探求心に、邪魔者は許せず―――はい、言い訳など出来そうにありませんでした」

「それはどうでもいいけど、いる機関の人間は、信用できる訳?」

「それを調べるのも、私達の役目」

 マーナを先頭としたマヤカの背中を追って、全員で崩れかかった扉を潜り抜ける。マヤカとふたり、既に見慣れた光景であるが、やはりこの光景には一度は足を止めてしまう。カタリは勿論、ロタさえ声を漏らして一歩一歩、街に近づいていく。

「‥‥これが、レイラインの上に建造された街‥‥ちょっと見直したかも」

「初めて見る街並みですね‥‥こういう街も、存在するのですか―――」

 人間を須らく見下しているロタが、声を震わせているのがわかる。試しに、ロタへ「悪くないか?」と、聞いてみる。慌てて振り返ったロタは、言葉が出ずにもう一度振り返って、街を眺めてしまう。

「人間は、嫌いです―――だけど、見るべき物はあるようですね」

 誤魔化すように、腕にしがみついてくるロタと共に、高台の階段を降りて行く。上から見降ろしてわかったが、やはり白のローブが目に入った。全員、決して街を荒らしている訳ではなく、杖や槍を持って街中をパトロール、通信機を使いながら走り回っている人員も目に付いた。

「忙しそうですね。なぜでしょう?私達がいないのだから、襲われる事もないのに」

「人狼の恐ろしさを、知識だけでも持ってるからだろうな。姿は人間なのに、まばたきしたら狼って事もあり得るから‥」

「内に獣を宿すなんて、普通では?やはり、人間は弱いですね―――人間とは比べ物にならない獣を宿しているリヒトが目の前にいるのだから、そう思ってしまうのかも」

「ロタだって、宿してるんじゃないか?」

「ふふ‥‥我ら戦乙女は、獣ではなく清らかな鳥と勝利です‥‥ああ、でも、私のリヒトに獲物として襲われるのも、乙女としての使命なのでしょうか‥」

 数人からの溜息を、前後から受けながら中央広場である噴水まで到着した。せわしなく動き回っている機関を横目に、全員で円を作って会議場を作り出す。

「私は、少しだけ行く所があるから、先に工房へ行っていて」

「いいけど、どうしてだ?仕事なら、俺も」

「これは、私だけが行える仕事。大丈夫、後で会いましょう」

 マーナを連れたマヤカは、振り返らずにキャラバンの通りを歩いて行ってしまっう。一瞬、追いかけようとしてしまったが、カタリに腕を引かれて止められる。

「カタリは、知ってるのか?」

「ええ、知ってる。マヤカも言ってたでしょう?後で会えるから、待ってて」

 それ以上は、何も言わないでカタリとロタに引きずられるが、最後にマヤカに声をかけて、水晶の一部を投げ渡す。それを鎖で受け取ったマヤカは、微笑ん去ってしまった。

「心配性ね‥」

「‥‥しつこいかな?」

「別に、いいんじゃない?マヤカも、嬉しそうだったし」

「リヒトさんも始めてでしたねー、はぐれないようにしっかりついて来て下さーい」

 ヨマイを先頭にした陣で、俺を中央に逃げないように岩肌まで連れて行かれる。どうやら、4人で、いやマスターも含めた5人で話し合った物があるらしい。

 だけど、仲間はずれは嫌だった。

「俺には秘密か‥」

「そ、そんな事言わないでよ‥‥わかったから、工房についたら話すから、ね?」

「‥‥ひとりは嫌だって、言ったのに」

「はいはい、ごめんなさい。ちゃんと言うから、待ってて。お願いだから」

「約束だ‥」

「そう、約束。だから我慢して」

 昔から約束は、絶対に守ってくれたカタリが、言ってくれたのだから、信じられる。それは、わかっているが―――やはり、何も言わないで連れて行かれる、離れ離れにされるのは、嫌いだった。

「マヤカの事、信じてないの?一度でも、私達が勝てた事あった?」

「‥‥そうだけど」

「なら、マヤカを信じないと。こっちに来て、一番最初に私達を理解できた魔に連なる者なんだから。自分の年上の恋人を信じてみない?はい、返事」

「‥‥信じる」

「なら、自分でしっかり歩く」

 カタリとロタから腕を離れた時、一瞬、振り返りそうになったが、構わずにヨマイのランタンを追いかける。それを見て、ふたりから安堵の息を吐かれたが、無視する。

「ヨマイ、もう少し歩くのか?」

「少しだけ歩きます。休みますか?」

「いや、工房で休みたい」

「そうですね。お茶を出すので、ゆっくりしましょう」

 代わるようにヨマイが、腕を抱いて案内してくれる。ヨマイの身体の柔らかさと呼気の甘い香りに胸が高鳴ったが、周りの白のローブを見て、マヤカの後ろ姿を思い出してしまう。

「マヤカさんの事、大切ですか?」

「‥‥大切で、大好きで、愛してるヒト」

「そうですね‥‥リヒトに、そこまで想われてる方なのですから、安心していいのでは?—――神獣の加護を受けた魔に連なる者なんて、まずいませんよ」

「そう、かもしれない‥」

「そうですよ。大丈夫、マヤカさんはリヒトさんより、大人です。かっこいい大人の女性を信じてましょう」

 ヨマイの工房は、本当に岩肌に張り付くように扉が設置され、岩肌に埋没するように作られていた。外観は、決して悪い物ではなく限られた空間を、偶発的ではなく計算高く飾った寺院のようだった。

「良い部屋だな」

 一歩足を踏み入れて、真っ先目に付いたのは中央テーブルの迷宮のミニチュア。実際に足を使って歩いてきたのだからわかるが、寸分違わず繊細に造られた縮小図だった。

「ちなみに、男性を私室に招き入れたのは、リヒトさんが初めてで、これで二度目でしたよー?」

「光栄だ‥‥たまに、厄介になってもいいか?」

「勿論、だけどベットはひとつなので、ふたり一緒が条件でーす」

 工房の奥の一室に入ったヨマイを見届けて、適当に壁際に置いてあったソファーに座る。隣にロタが座ろうとしてきたが、飛び込むようにカタリが座り、俺の足の上で長い足を組んで降ろしてきた。「負けた‥」そう呟いたロタは、大人しく一人掛け用に椅子に座るにとどめた。

「もうちょっと待って、ヨマイが来たら教えてあげる」

「‥‥うん」

「だから、そんな顔しないで―――仕方ないなぁ、もう‥」

 カタリに抱きつかれて、そのまま一緒ソファーに倒れ込む。カタリの身体と優しい鼓動に抱かれながら目を閉ざして、前髪を整えてくれる手の温かみに、息を止める。

「本当に、大きな子犬でも抱いてるみたいね。うん‥‥でも、これがリヒトよね」

「カタリ‥」

「うん、なに?」

「ずっといて欲しい‥」

「言われなくても、どこにもいかないから。マヤカも言ってたんでしょう?リヒトを、ひとりになんかさせないから。はい、約束ね」

「‥‥約束」

 目を完全に閉じて、ロタとカタリの鈴を転がすような声で耳を喜ばす。体温に包まれている感覚が、昔から好きでカタリには、寂しくなったら頼んでいた恰好だった。

「お待たせしましたー‥眠ってしまいました?」

「少し放っておいたら、起きるから、大丈夫よ」






「その後、彼はどうだ?」

「完治、とは言い切れないまでも、もう自力で歩ける程には」

「‥‥僕は、正式な医者ではない。ただ、この役目が回ってきただけでの研修医崩れだ。だが、そんな僕でもわかる。彼は、一体何者だ?あそこまで、身体の中身を使い果たしてしまえば、人間は自力では回復を出来ない。体液を注げばいい、なんていうレベルではない―――なぜだ?」

「彼は、特別。それしか言えない」

「僕が迷宮で過ごしている間に、上で事件が起こったらしいが、それに関係しているのだね。‥‥このカルテは、渡しておこう、無論、コピーなどしていない」

「‥‥ありがとうございます。彼の事は、他言無用、彼の体液や血液が残った器具は」

「既に焼き払った。例外はない」

「—――あとで、機関の人間が来ます。彼らにも、説明をお願いします」

「わかった。覚えておこう」

 回収すべき品々は、全て戻った。彼の情報は、迷宮だとしても放置できない―――彼に、これを見せる訳にはいかない。まるで、彼を汚物扱いしているような扱い、決して許せなかった。だけど、誰かが、私がしなければならなかった。

「あと、彼らの加減は」

「それなら、心配無用だ。見て目通り、血の気が多かったのでね」

「そう、ではこれで」

 ファイルひとつ分しかないカルテを手に持ったまま、診察室から出る。それを皮切りに、扉の前を囲んでいた機関の人間が、私の周りを囲んで見つめてくる。

「これは、私が回収しました。だから、私が運びます」

「それは、認められない。君と彼が、近しい間柄なのは、知られている事実だ。渡しなさい」

「彼と私の間が近しいと、一体どのようなの問題があると?それに、私は彼の監視をオーダーから任されています。彼の動向は、私に一任されている」

「本来、それは彼と無関係な者が選ばれなければならない」

「あなたの一存と、オーダーの指令、どちらを優先すべきか誰でもわかるのでは?」

 私の元上司にして、対人戦闘において、無類の制圧力を持つ機関の戦闘専門職。この距離で、手下を引き連れている以上、私でも荷が重い―――彼は、人を狩れる者だ。

「彼は、あなた達によって自然学教授の素体として、消費された。彼と近しい関係にあるというなら、あなたもでは?あなたなのでしょう、彼をあの教授に伝えたのは」

「それは、誤解だ。私は、非類できない実力を持つ入学者達の情報を、秘境との締結通り学院に渡したに過ぎない。確かに、それを見て彼を選んだ可能性はあるが、一概にはそうは言えまい」

「では、なぜそれを誰にも伝えなかったのですか?」

「—――君に、伝えなかっただけだ」

 痺れを切らしたらしく、手下達の持つ槍の矛先が、揺れ始めた。彼が選ばれた理由は、その身体が錬金術師の大家によって作り上げられた、概念を煮詰めた釜に近いから。いくら、自然学教授とはいえ、そんな彼個人の出自にも関係する、魔貴族の家の事など、知り尽くせるとは思えない。

「彼の出自と、彼女との関係、機関だからこそ入手できる情報の数々—――出所がひとつしかあり得ない情報は、簡単に人へ渡さない方が良いかと」

「‥‥私が、機関の裏切り者だと、言う気か?」

「既に、自然学の教授が生命の樹を作り出していると、当時から機関は掴んでいた。私すら知っていた情報を、あなたが見過ごす筈がない。なのに、あなたは彼の身体を、詳しく伝えていた―――彼を狙え、そう言う為に」

「リヒト君が選ばれたのは、彼が自分から師事する事を選んだからだ」

「それ、彼の前で言えますか?」

 たった、それだけの言葉に、私を侮って槍で遊び始めた手下達が声を漏らす。言える筈がない、彼の力を知っていれば知っている程、彼の顎の前に身を晒す事だけは、避けるに決まっている。勝てるイメージすら出来ないだろう。

「彼は、この秘境に望みをかけて来た。私達は、そんな学生達に規範を示すのも役割のひとつです。もしかして―――あなたは、あれが秩序維持の為だと思っているのですか?」

「我らはオーダーではない、魔に連なる者だ。魔貴族の一族として、こちら側に身を浸している彼は、自覚が足りなかった。ただそれだけの話だ、裏切り者呼ばわりされる謂れはない。話は、ここまでだ。マヤカ君、それを渡しなさい」

「出来ません。あなたよりも、オーダーの方が強大だから」

「そうか‥‥残念だよ」

「ああ、良いかな?」

 後ろの扉を開けて出てきた研修医に、元上司の男性が目を見開いた。

「いくら、ここでなら逃げ場がない。そう思っても、これで私の診察室を占拠出来ると思っているなら、舐めないで貰いたい」

 兜だけとなった騎士の頭蓋を、足元に転がす。それを見た手下達は、今度は息を呑むが、その時には廊下の影から飛び出したマーナが突進を繰り出し、廊下の果てまで全員を弾き飛ばす。突然、空間から這い出てきたように見えたマーナに、誰も反応出来なかった。

 廊下の突き当たりから心地いい肉と骨のひしゃげる音を出し、マーナはひとりを咥えて戻ってくる。身体を膨らませたマーナは天井まで届く背丈で、再度呼び出される騎士を腕の一撃で壁にめり込ませる。

「ここは傷や心を癒す施設だ。乱闘を起こしているのなら、機関に通報させてもらうが、いかがかな?」

「はい、お願いします―――番号はここで」

「ああ、承知した」

 用意してあったメモを渡すと、診察室に戻っていった。

「元からあなたは、機関とそれ以外という見識がありました。ここは、秘境の中でも更に危険な土地、迷宮です。上で小細工をしていたあなたでは、勝てなくて当然かと」

「—――改める必要があると、認めよう。だが、カルテを渡さないという理由にはならない」

 手の内から呼び出した騎士の剣は、腕を鎧で包み、そのまま胸当てにも達する。

「通報したとしても、ここに呼び出されるのは私の部下であり、君の同僚達だ。同僚に逮捕、取り調べはされたくはないだろう。君を疎ましく思っている者、容姿に惹かれた者がいるのも、知っているな?」

「あなたこそ、部下に取り調べ、尋問されるのは避けたのでは?もう、逃げられませんが」

 笑みが零れてしまう。安い脅しをかき消した突然起こった衝撃は、地震ではない地ならしだった。マーナに胴を咥えられた手下が悲鳴を上げる。思い出したのだ、この振動を―――この衝撃を自分の意思で、巻き起こせる神獣の怒りを。

「逃げますか?背中を見せるのなら、お気を付けを。彼もマーナも、背中を見せた得物は、誰一人逃がしません―――追って」

 剣を腕に纏わせたままの男性を追いかける為、マーナが廊下を削りながら疾走していく。邪魔と言わんばかりに捨て去った手下が、床を這いずり回り噛みつかれた腹を抑えているが、手助けをする気にはならない。

「あなたには権利がある。黙秘権と弁護士を付ける権利が―――だけど、それは一般の表にいる人間だけが行使できる権利。魔に連なる者に身を沈めているあなたには、そんな物はないと思って」




「もっと早くこうすべきだった!!!」

 水晶の槍で、剣を持つ裏切り者を地表に叩きつける。相当の腕だと思っていたが、自身の体重すら越える一撃を受けたというのに、軽い受け身をした男性は噴水まで距離を取ってくる。

「逃がすかよ!!」

 槍の石突まで手を滑らせて、胸から下を切り落とすべく真横に槍を振るう。男性が持っている剣とは比べ物にならない質量を持った水晶の槍が、唸り声を上げて男性に届く。剣の硬化は想像通りであった為、剣は真っ二つに叩き折る事に成功したが、その時には剣を既に捨て去って、更に距離を取っていた。

「話を聞きたまえ!!私は、この秘境、延いては君の恋人であるマヤカ君の為」

「その為に、俺を殺したか――」

「必要な事だった。魔に連なる者の世界を、君ひとりの犠牲で秘密に出来るのなら、誰であろうと選んだ筈だ。我らの世界に、犠牲がないなど、あり得ない」

「なら、お前が犠牲になればよかっただろう」

 ロタの真似、水晶の矛先を地面に火花が散るまで弓なりに押し付ける。同時に槍にひびを入れて、槍だった破片類を弾丸として放つ。質量と硬度、そして弾幕と呼べる力を得た水晶の破片は、同時ではない、コンマ一秒の間に、それぞれの破片が人ひとり殺せる質量のまま男性に殺到する。

「初めて見る力だ―――」

 避ける事を止め、腕の鎧を盾の形にした男性は、全身を縮めて耐える事を選んだ。身体の端を切り裂かれるが、一切の身動きをせず耐え続けていた―――ただの的だ。

「死ね」

 身体の力を抜くのが遅れた――男性の盾を突き破り、身体の中央、わき腹を貫通した水晶の槍によって噴水に縫い止められ、最後の抵抗をしようとした腕を、二本目の槍が射貫き、完全に動きが止まる。

「犠牲が欲しかったの間違いだろう、血が見たかっただけだろう。自分の血を見たくなかったから、他人に流させた。機関の名にどれだけ拘りがあったか知らないが、お前は―――ただの人間でしかない」

 噴水の水が、血に染まる。吹き上がっている血と水が混ざりあって男性のローブを更に赤に染めていく。死にはしない。傷口は既に焼き付き、血を流す穴は消え去っている。

「ち、違う‥‥私は―――」

「外の組織に情報を売った下人か?」

「‥‥私は、騎士だ」

「騎士って、この程度だったのね」

 後ろからカタリとロタが欠伸をしながら近づいてきた。

「本当は、もう少し泳がせる予定だったけど、リヒトがうるさいからマヤカに連絡したのよ?予定を早める為に、今すぐカルテを回収してって」

「せっかく、ここまで来たのに―――所詮、人間でしたか‥」

 血の迸る噴水を目の前にしても、心底つまらなそうなふたりは一瞥をやっただけで、近場の壁に背を付けてしまう。持ってきた杖や槍すら邪魔そうだった。

 マヤカと計画していた作戦だったらしい。騎士に近い使い魔を有限ではあるが、人と遜色ない背格好で操れ、消す事が出来るこの人間が、迷宮に騎士を送っている可能性がある―――迷宮内で消した騎士の代わりに、人間の姿をとれる人狼を外に出す。暫定的に考えて、それが唯一の手段としか考えつかないと。

「人間も人間、昔の世界が懐かしくて、あの教授どころかマキトとかいう雑魚達と手を組んで、一般人に襲い掛かっていた人間のひとりよ。証拠不十分とか、実力があったとかで機関にそれなりの立場で迎え入れられたみたいだけどね」

「昔の地位に返り咲きたかったと、どこの世界でも落ちた下人の末路は変わりませんね。他人に寄生しないと生きて行けないくせに、他人を犠牲にするのが好きなんて―――ええ、人間とは所詮獣よりも低俗ですね」

「違いないわね」

「違う‥‥私は、秩序の為、我らがこの国を掌握する。それが、この国の‥」

 うるさい口を閉ざす為、わき腹の槍を蹴りつけて、腕に突き刺さっている槍を掴み、ひねり回す。どれだけの激痛が走っているのか知らないが、白目を剥いて気絶してしまった。

「金魚鉢で覇権争いしか出来ない雑魚共が‥。痛みで気絶出来て、羨ましいよ‥‥目が覚める事のありがたさに感謝して、牢屋に入ってろ―――ヨマイは、どうだ?」

「予定通り、案内するふりして白紙部門のいる貯蔵室に連れ込んで、鍵を閉めたそうよ。スリリィーングー、とか言って楽しかったみたい」

 部下の数には自信があったのも、マヤカは想像していたらしい。カリスマ性というホモサピエンス特有の概念を使って操っていた部下—――迷宮に事実上の侵攻をしていた特務課と繋がりがあった機関の人間は、カサネさん率いる白紙部門に、まとめて制圧されたようだ。

「まさか、本当にこの迷宮を使って秘境に革命を起こそうとしてたなんてね。自分の実力、わかってないんじゃない?5階層の巨人に、手も足も出なかった癖に」

「操れる自信があったのか‥‥あのゾンビの術者とも、繋がりあったんだろうけど」

「向こうも向こうで、裏切るつもりだったみたいだし、無様ね。自分は全然騎士なんか出来てないのに、他人には騎士みたいな倫理観を求めるなんて」

 気絶している噴水の男性に近づいたカタリが、ローブを調べる為、杖で突き始める。銀の杖が血で汚れる度に「きたなぁーい‥」と呻いている。

「もうすぐ白紙部門が来るそうだから、リヒトはマヤカを迎えに行って。それと、謝ってきて。せっかく私達が立ってた作戦を崩して、わがままを聞いてくれたのはマヤカだから」

「‥‥行ってくる」

「はい、行ってらっしゃい」

 杖で男性を突いているカタリからの激励の言葉を噛みしめて、ロタに軽く視線を向けてからマヤカのいる診療所へと走る。先ほどの攻防の余波で、建物のいくつかが瓦礫と化しているが、そこは機関の財布に頼ろうと決めた。

「それよりマヤカだ。マーナが傍にいるなら、平気だろうけど‥」

 マーナの役目は、これを追い出して俺の元に追い立てる事。本来は、俺とマーナで仕留める予定だったらしいが、それさえ変更してマヤカは、マーナを側に置いているとの事だった。




「あなたは、ここで待っていて」

 表情というものは、卑怯だ。ただの影の当たり方に過ぎないというのに、そういった概念を経験で知ってしまっている以上、マーナが悲しそうに座っているように、見えてしまう。

「大丈夫、私を信じて」

 冷たい身体を抱いて、首の後ろを撫でてみる。何も言わないマーナが肩に顎を乗せて、耳を押し付けてくる。決して柔らかくない無機的な耳だというのに、仄かな温かみを感じてしまう。

「—――私も、覚悟を決めなければならないの。どうか、私に時間を‥‥いい子」

 頷いた訳ではない。納得どころか、理解した訳でもないだろう。だが、獣特有の香りを一切させないマーナは、満足したかのように、肩から離れてくれる。

「彼を連れて来て」

 命令ばかりしてしまう私に、マーナは何も言わないで従ってくれる。マーナはゴーレムなのだから、術者である私に従うのは―――当然だ。そう、当然でなければならない。

「‥‥従うのは、当然。従わなければ、生きられない。生きたければ、従わないといけない。私が、使ってしまうなんて―――」

 振り向いて、地下へと続く巨大な扉へと手を付ける。冷たい風が吹きつけてくる隙間へと、飛び込む。冥府の手に捕まれた、そのまま下へ下へ引きずり込まれるように、足が階段を降りて行く。

「何も怖くない。今更、何を恐れる事があるというの?私は、一度分解された。私は捧げられて、貪られた。—――あそこから、逃げ出せた、生き残った私が、人間如き、恐れる筈がない――――人間では、あの狂気には耐えられない」

 ひと踏み如く、爪が身体を突き刺してくる。胸に頭、腹に膣。だから、今更なんだというのだ。人間では、耐えられなかった祭壇。目を覆い、嘔吐する人間達を、私は見降ろしていたのだから――――ああ、やはり、私は魔女だ。魔女でなければ。

「そう、私は魔女。私の誕生種は、究極の門。与えられた名前は、【魔女】、何者にも届かない門を宿し、いずれ来る鍵を受け入れる肉塊。やはり、人間は愚かだった‥あの程度の鍵では、私は開けられない」

 人の狂気は、底を知らない。欲望と同じだからだ。狂わなければ、求められない。狂わなければ、知る事が出来ない。ああ、だというのに、振り返ってしまうのが、人間だ。掴み上げた手など、無視して咀嚼すればよかったものを。

 爛れ落ちる皮膚も、増えていく指も、口を持つ手のひらも、見なければよかったものを。

「ふふふ‥‥彼の咆哮が、まだ木霊してる」

 しじまに包まれている6階層は、何を恐れているのか。扉の裏、壁のうろ、そこかしこから聞こえる。怯え震え、歯を揺らし、自分を縛り付ける事すら出来なくなった人類の狂気たちが――――そう、神獣の怒りが訪れる事を、恐れている。

 当然だった。正気を失い、怒りすら呑み込んだ。そう思っていたというのに、そう信じたというのに、彼の怒りには、到底届かない。人の世界が求めた窮極の贄に、自縛すら出来ない単一の人間如きの作り上げた狂気が、直視できる筈がない。

「創生の彼岸の神の従者にして、呼び出された神獣。創生の神すら喰らった神の元、世界を食べてきた彼を取り込もうなんて、なんて、愚かで無知なの」

 完全に6階層に到達した。言われなければ気付かないぐらい、殺風景な城の廊下。灰色の石柱に囲まれた道は、まだ開拓が済んでいないのか?それとも、そうそう人が訪れる場所ではないから、快適性など求める必要はないのか。

「—――体を繋ぎ合わせる技術を持っているのは、あの人間だけ。【悪魔】‥‥だけど、悪魔は消えた。もし訪れれば、私が見逃す筈がない」

 目的の場は、あの工房。祭壇であり、手術室。白紙部門から代わって、あの男達が引き継いだ現場に、未だに私は踏み込めていない。白紙部門は、強襲的な捜査は可能だが、現場検証や現場の封鎖は、本筋の機関構成員が行う。

「‥‥もし、マスター達が、これを想定していたのなら、必ずいる。彼らが、【研究所】の人間達が」

 



「マーナ‥‥マヤカは?」

 診療所の前で、ひとり待っていたマーナの頭を撫でて、聞いてみる。一瞬、目を閉じて手に身を任せたマーナは、手を振り払って歩き始める。揺れる尻尾を眺めていると、振り返って目を見つめてくる。

「そっちなのか?」

 マーナを追いかけると、見知った建物へと入って行く。ヨマイに、案内された下層への許可を取る為の建物だった。既に、人気は無く彼女達の行った作戦が、成功したという事を、暗示していた。けれど、全くの無人ではなかった―――。

「あ、お疲れ様でーす」

「ああ‥‥マヤカは?」

「あれ、一緒ではなかったのですか?」

 ヨマイとカサネさんが、何か話し込んでいた。

「マーナに、案内されたんだけど―――」

 ふたりの事を無視したマーナが、6階層へと続く扉の前で座り込み、扉を開くのを、待っているだようだった。視線で、ふたりに聞いてみるが、首を振るばかりで何も知らなそうだった。

「そっちなのか?」

「ひとりで6階層に?流石に、それはあり得ないのでは‥」

 ランタンを持ったヨマイが、真っ先にマーナの元へ駆け寄り扉に手を付ける。軽く押すどころか、手を当てただけで扉は、大きく開き6階層へと続く砦への道を、見せてくれた。

「‥‥開いてます」

「待ってるんだ‥」

「待つって、誰をですか‥」

 マーナとヨマイの間を通って、砦と呼ばれる区分の中に、踏み込む。足跡がある訳じゃない、だけどマヤカが6階層へと向かったと、わかった。そして、誰にも言わなかったという事は、ひとりで行かなければならないからだ。

 同時に、マーナを遣わせたという事は、俺を呼んでいる――。

「行こう、マーナ」

 そう呼びかけた時、マーナも飛び込むように門をくぐった。今更誰の許可を取る必要も、つもりもない。そして、止められる者もいない。

「待って下さい!!6階層は、学部全体の許可を得ないと」

「邪魔するなら、学部全体を叩き潰す。自然学を滅ぼしたのを誰か、忘れたか?」

「‥‥私でも、案内は出来ないんですよ」

「だけど、マヤカが行ったなら、場所は想像できる。あの手術室だ。6階層には、マヤカも行ったことがないって言ってたから、わかるのはあそこだけの筈」

「心配なので、私も行きますね‥‥」

「助かる。他所の学部へには、秘密で―――」

 既に、知っていたようなカサネさんは、何も言わないで背を向けてくれた。ヨマイが扉を閉めたのを、確認した時、マーナを先頭に砦を走り抜け、5階層の貯蔵庫の扉に殺到—――そのまま扉に体当たりするように、岩肌の中に飛び込む。

「開いてます!」

「通ったって事か。マーナ、導いてくれ」

 弾けるように、駆ける銀狼の姿がほんの数舜で消え去る。ヨマイを引き寄せて、地面に杖を突き刺し、水晶の奔流を呼び起こす。人の足では表現できない滑らかさと浮遊感、向こうのプリズマの海を模倣した波を足に、マーナの後ろ姿を追いかける。

「便利ですねー」

「これをやったのは、ヨマイが始めてだ」

「‥‥私だけのリヒトさんなんですね。自分で操作するって所、大人っぽいですよー」

 そう言われたら、つい笑みが零れてしまう。けれど、ようやくマーナの後ろ姿を捉える距離になったというのに、あの身体で走り続けるマーナには、到底届かない。それどころか、時たま後ろを振り向いてくる余裕があるマーナには、頭が上がらない。

「マーナ、まだまだ余裕がありそーですね」

「マーナが本気だったら、もうとっくにマヤカの元に付いてる。余裕じゃない、気を使われてる―――まだまだ子供だ」

「ふふ‥‥そうですねー」

 隣のヨマイが、胸に顔をうずめてくる。一瞬だけ、そのヨマイの顔を見た時、言葉を失ってしまった。すごく―――悲し気だった。

「マヤカさんは、私達より、ずっとずっと大人なんです。私なんて、結局リヒトさんが隣にいないと、こんな大胆な事はできません」

「‥‥俺もだ。誰かが傍にいないと、何も出来ないんだ。まだまだ、マヤカが隣にいてくれないと、何も出来ない。ひとりで食事も出来ない―――子供なんだ。だから、マヤカが遠くに行くなんて、許せない。マヤカには、ずっと傍にいて欲しい」

「‥‥子供ですねー」

「—――少しだけ、これでも大人になったんだ。ちゃんと、マヤカの言う事を聞けるようになったし、わがままだって減った」

 マーナの跡を追えばわかる、ここは確かにカーブを作っている。まるで呪術や魔術の時に用いる、力の地図―――必要な属性を書き記す陣の縁をなぞるように。

「気づきませんでした。あれで、わがまま度が減っていたんですねー」

「気付かなかったのか?」

「だーれも、気付いていないと思いますよー。昔のまま、カタリさんにご飯をせがんでいた時と、何も変わりませんー。また、私にもご飯をせがみますか?」

「まだ夕飯じゃないから、大丈夫」

 正直にそう言ったが、ヨマイは胸に鼻先を擦りつけて、呆れたように嘆いてきた。

 マーナの尾が振り終わった時、目的の扉が近づいてきた。俺達が6階層に落ちたのは、イレギュラーな事故だった。本来、あの扉を越える事で、この迷宮に認められたと言っていい筈だった。

 近づいてくる黒の扉に、ヨマイが寒気を感じているのがわかる。身ぶるいするほどの雰囲気は、冥府の扉もかくや、いや、まさしく、あれこそが現代の冥府の扉なのだろう。何者も逃がさず、何者も拒む事のない、見える死の淵。

 けれど、ああ、けれども―――この神獣には、通じまい―――既に、死した。そしてこの身体が砕けた時、向かう場所は、決まっているのだから。

「マーナ!避けろ!!」

 言葉が通じたのか、それとも首筋に寒気を感じたのか、マーナが月を描くように天井に身を翻し、数秒もの時間、天井で時を過ごす―――だけど、数秒もの時間、不要だった。杖から溢れ出る水晶の波であり、神の腕が扉を殴りつけて、冥府の扉を強引にこじ開ける。

 扉を潜った時、見えた物は想定通りだった。巨大な仄暗い螺旋階段—――天井から降りたマーナと共に、螺旋階段を飛び降りる。どこまでも続くように、そしてどこまでも吸い込まれる巨大な闇に、ヨマイが笑い出す。

「ああ‥これこそ、これが私が求めた―――いいえ、いいえ‥‥幻想に過ぎないただの闇—――」

 何者も触れる事を許さない光を放ったランタンが、螺旋階段の全てを照らし出す。掲げるように、投げ捨てるようにランタンを底へと向けた時、冥府の闇が完全に消え去る。そこにいたのは、魔女だった。

「マーナ!」

 螺旋階段の側面に四肢を付け、全体重を完全に掴み取る。階段と一体化するかのように、縮こまった―――そう見えた時、マーナは真下の巨人に牙を剥いて激突する。

「行けるか?」

「どこまでも」

 水晶を呼び出し、受ける重力の量を劇的に加算させる。だからと言って、落ちるスピードが変わる事はない、だからと言って、いち早くマヤカの元にたどり着ける訳ではない。だけれど、真下の巨人、殺人の為に生まれた、殺人の巨人に立場を教えるには、相応しい―――。

「殺人しか脳の無い愚人が!!マヤカの視界に入るな!!」

 ヨマイのランタンに照らし出された水晶の矛、巨人にも匹敵する身の丈を越す、赤熱化した神殺しの槍を前に、巨人は背中を見せて逃げ出す。けれど、片腕を切り落とし、肩と落とした腕を灰にする事に成功する。

「動かないで」

 槍は螺旋階段の底を溶かし、切り裂いていく途中でマヤカの鎖に、受け止められる。腕を失った事でバランスを崩した巨人を放置し、俺とヨマイを引き寄せてくれた。

「無事ですか!?」

「ふふ‥‥それは、こちらが言いたい。ええ、無事よ。そっちは?」

「リヒトさんが、お冠でーす」

「そう、それは大変。またご飯を上げないと」

 やはり、大型犬か何かと同じ扱いをされている。

「マヤカ、約束したのに」

「ふふ、ごめんなさい。だけど、約束は破っていない。私が、あれに負けるって思った?」

「‥‥寂しかった」

「困った子—――」 

 撫で上げられる頬から感じるマヤカの温もりに、目元が緩んだ時、真横から巨人の咆哮が届く。髪を揺らし、円柱状の螺旋階段を震わせる声に、寒気を感じた。

「気に食わない。音が割れてる、抑揚がない、震わせばかりで声が聞こえない。没だ―――レストランで出てきたら、二度と行かない」

「同感ね。私も、いくらか渡して、バックヤードに追い返す所」

 腕を失ったとしても、その姿は人の神経を掴み取るに相応しかったようだ。隣のヨマイが、ランタンを向けながらも鳥肌が立っているのがわかる。そうだ、あれこそが正しい沼地の巨人。だけど、それは見かけばかりだという事がわかった。

「腕が‥」

「毛皮で、誤魔化してるだけだ」

 切り落とした腕や炭化した肩を、胴や胸の毛皮が覆っていくのがわかる。爪も皮膚なのだ、失った筈のそれさえ生え揃う。人の胴程度、やすやすと両断できる長さまで伸び続ける。

「うっ‥」

「下がってろ―――」

「気持ち悪いです‥‥あんな物がいる5階層から下に、私は思いを寄せていたのですか‥」

「それも、今日限りだ」

 螺旋階段の底を二分していた槍を砕き、巨人に水晶の欠片や塵を振りかける。それの意味がわかったのか、ヨマイは言われるまでもなく、ランタンの光を巨人の毛皮に向ける。

 巨人に到達する前から、純白の爆発が巻き起こり、連鎖的に爆発が累乗していく。ほんの数秒の間で、光の破裂は巨人を覆い、辺りの水晶の破片が起爆する。

 光に目を焼かれまいとヨマイもマヤカも、目をつむり、マーナが爆風の盾となる。光の柱が消え去った時、いちはやく、巨人の姿を見つける。

「絶対的な殺人の権利か―――」

 違和感は、最初からあった。なぜ、巨人をそのまま使っているのか。なぜ、あの教授は、樹の巨人ではなく樹の竜を造り出したのに、あの術者は巨人に拘っているのか、それがこれなのだろう―――そこにいたのは、竜だった。

「教授が、手を貸したから完成したか。教授にとって、実験のひとつだった‥‥」

 汚らしい毛皮が剥がれ落ちた時、巨人とは似ても似つかない黒の鱗に覆われた二足歩行の竜人が姿を晒す。翼を持たない原始的な姿で、巨大な尾を持つ竜人は、巨人とほぼ同じ体格を持っていた。

「‥‥人の先、この姿の先、進化の途中だった―――ドラウグルの先も、これだと抜かすのか‥」

 水晶の槍を造り出す。腐敗した体を紡いで、作り出したとは到底思えない光沢すら感じる鱗に、槍を投げつけて、マーナと共に踏み出す。竜人は槍を受ける事を避け、こちらに視線を向けた瞬間に、巨大な剣と化した杖で、竜人の身体を薙ぎ払う。

 捕食者としての余裕か、竜人は避けもせずに自身の身体で刃を受け入れる。けれど、これも生物としての勘か、僅かに、自身の鱗が裂かれながら焼き焦がされるだけで、大きく飛び退く。

「所詮は、紛い物だ。侮ったなトカゲ―――」

 あの時に見た【畏怖の目】そのものを受けるが、あれよりも恐ろしい眼差しなど、既に知っている―――死角からマーナが首筋の噛みつき、地面に押し倒す。

 伸びた強靭な爪を受ける寸前、銀狼は竜人の体から離れるが、振るわれた腕に胴を殴りつけられ、そのまま壁まで飛ばされる。

「舐めないで」

 螺旋階段から伸びた鎖が、マーナの足場となり、再度竜人の首へと噛みつく。

「体が‥‥」

「あれが、マーナ本来の大きさ。普段は、小さくしてるの」

 骨格こそ変わらないが、その身体は巨人にも匹敵する質量に変化していた。膨れ上がった体で、竜人に組み付き、顔や首、肩を噛み千切り続ける。最後に、完全に肩を噛み千切った時、マーナは再度月を描くように逃げ去る。それと同時に、先ほど俺が投げつけた水晶の槍が、鎖に操作されマーナの体をかすめかねない距離で、竜人の胸に振り下ろされる。

「逃げられる、そう思った?」

 槍が胸に突き刺さる直前、竜人は雄たけびを上げて地面を殴りつけ、姿勢を変えて槍の矛先から逃げ出す。けれど、脇を深く切りつけられた事で、上半身と下半身の動きが、ズレ始める。

「私なら、勝てる。そう思った?」

 音もなく前に出たマヤカに、竜人が暴風のように爪と拳を振り下ろしながら迫るが、笑みながら半身となってマヤカが袖の中から―――渡した水晶の破片を眼球に投げつける。怯んだ、とは決して言えない、けれど、僅かな瞬きの間にマヤカの真後ろから、マーナが飛び出し、再度首に牙と突き刺す。竜人の体の真上を通り抜け、空中に体を晒させる。逃がさない、その意思を体現するように、水晶の槍が胸に突き刺さる。

「ヨマイさん」

 呼ばれた案内人は、ランタンの光を水晶の槍に当てて、竜人を内部から燃焼させる。

「良い姿、やはり死に方は、捧げられてこそ美しい‥」

 絵にも描けない恍惚の表情をしたマヤカが、頬に手を付けて、もう片腕で自身の身体を抱き始める。刹那の内に、目を閉じた瞬間には、首が無くなるかもしれない状況で、興奮しているマヤカの官能的な艶姿に、魔女の片鱗を感じる。

 確実に胸を貫いた。だけど、それだけで動きが止まる筈がない。あれは、自然学教授が手を貸し、自身の研究の為作り上げた竜体だ。止まる筈がない。

「まだ、動くんですか―――」

 胸の中を焼かれ続けているというのに、竜人は槍を胸から引き抜こうと、煙を上げながら掴み取る。それだけならまだしも、確実に槍が動き始めている。

「見た目こそ、竜だけど、中身は死体の寄せ集めだ―――完全に、焼き尽くすしかない」

 杖に神域の水晶を纏わせる。腕さえ水晶化さえ、白の血を透過させる。左胸まで水晶に変えて、床に突き刺す。広がる水晶の領域を見ても、もはやヨマイは驚きもしない。

「ヨマイ、手を貸してくれ」

「はい、お任せ下さい」

 水晶を踏みつけて、胸の中に入ってくるヨマイと共に、ランタンを揺らして光を収束させる。マヤカも自身の役割がわかってくれた―――マヤカの袂に呼び出した水晶の塊を鎖で持ち上げて、レンズに見立ててくれる。

「マーナ、あなたは―――そう。あなたにも寂しい思いをさせて、ごめんなさい」

 絶対に離れないという意思の元、マーナはマヤカに背を明け渡し、乗るように伝えてくる。

「あなたにも、もう少しだけ頑張ってもらう―――私を守って」

 主である魔女を背に乗せたマーナは、何よりも冴える、聞いた人間にその姿を思い出させ、狩られる側だという証明を呼び起こす遠吠えを起こす。迷宮の螺旋階段の手すりを飛び乗り、瞬く間に視界の端に消えていく。

「私達も、帰りましょう」

「ああ、帰ろう‥」

 肩にしがみつかせたヨマイを強く引き寄せて、杖に下げたランタンを高く掲げる。マヤカによって捧げられた水晶に、ランタンの光が吸い込まれ続ける。

 それは月だった。清らかなもの以外、何者も許さない。見上げることすら、首を垂れることさえ、受け入れない。ただ跪く、その身の真実を晒す事でしか、光を浴びる事を許さない。

「充分です」

 ヨマイの声が合図となった。杖を床に突き刺し、足元から水晶柱を呼び出す。光を受け続け、もはや形すらわからなくなりつつある月の真横を通って、上へ上へと目指す。ようやく、胸から槍を引き抜いた竜人は、身体の再生を優先し、肩膝を突き、見上げてくる。

「さっさと、逃げればよかったものを」

 どれだけの人外の身体を使って、作り上げられたか、俺にはわからない。もしかしたら、5階層よりも下のあらゆる呪物を使い、組み上げられた進化の果てだったのかもしれない。だけど、骸は骸だ。光に帰らなければならない。

「光が‥」

 動き始めた竜体が、その四肢に力を込めた瞬間、両手足が切断される。血すら流れない、焼き切られた胴体を使い、蛇のように蠢く。月の裁きの余波を受けただけで、あの様だった。月の身の中で無限に反射し続ける熱が、光線として漏れただけだった。

「これから、6階層はどうなると思う?」

「‥‥しばらく、封鎖は間違いでしょうねー。少なくとも、あの月が消え去るまで、誰も近づけません―――だけど、下からの脅威に怯える日々とは無縁になりそーです」

 月に消えてしまった竜人に、もはや視線も向けずに5階層へと続く扉、零れだしている光を見上げる。開け放たれた扉には、ふたつの影があった。ひとつは膨れた銀の毛皮を元に戻した銀狼。そして、もうひとりは―――光に包まれていたとしても、決して侵されない、闇を体現したかのような魔女の背だった。

「マヤカ‥」

 水晶柱から足を降ろし、扉の前に降り立った時、背後から光の奔流が生み出される。螺旋階段を突き刺すように上った光は、終わる事を知らない。触れれば、一瞬で灰となる月の裁きに、微かに笑いかけるマヤカとマーナと共に、扉を潜る。

「これで、あの技術は消え去った。あの竜の身体も、跡形もなく消えた」

「6階層への道も、しばらくは封鎖されまーす。つまり、これで迷宮の秩序は維持され、前回よりも強固な檻が作られた事になります。いつまで続くかわかりませんが、リヒトさん以外、誰もあの階段を降りることが出来なくなりました」

「登ってくる事も、出来なくなった訳か‥‥」

 扉をマヤカの鎖、神域の水晶で封じた事で、魔女と神獣以外、何者も開錠出来なくなった。忌み嫌うべきゾンビの技術も、それを狙う何者かも、これで始末できた。

「だけど、ここまで派手に封印する事になるとはー」

「後は、白紙部門に任せよう。正直、機関だ、他学部だの言い訳には興味がない。どうでもいい」

「違いないですねー。私自身、ただの学生ですから、発掘学のお歴々が面倒な事を言ってくるでしょーし、しばらく隠れ続けますかー」

「そうした方がいい。ここでの事は、他言無用、機関の人間にも話さないで。技術の一端を握っていると思われたら、どこから手が伸びてくるか、わからない―――しばらくは、私達と行動して」

「了解でーす」

 発掘学という骨をうずめるに値する学部からの学部変更を是とした。あっさりと頷いたヨマイの顔を見つめるが、ヨマイ自身は深刻な表情などしていなかった。

「いいのか‥」

「発掘学は、そもそも二分された学部です。外での遺跡巡りなど、最たる例でーす、そろそろ私も外で見るべきものを、見出す時―――それに、発掘学を辞める気はありません。講義だって、勝手に顔を出せばいいだけですからー」

「—――異端学にも、珍しいものがあるんだ」

「例えば?」

「数秒で気体になるアルコール」

 




「マヤカ、俺は、誓いは果たせた?」

「ええ、誓い通り―――私を守ってくれた。迎えに来てくれた」

「マヤカも、果たしてくれたな。俺を、信じてくれた」

 マヤカと共に、帰りの列車の座席に揺られていた。オーダー本部にて、事の顛末の報告、そして五月蠅い口を閉ざさせる為でもあった。秘境の存在意義とも言える迷宮の6階層以下の閉鎖など、秘境の在り方を問われる程との事だった。

「—――アイツ、どうなるって?」

「彼の事?機関の構成員として、かなりの功績を上げていたけど、迷宮への占領作戦の首謀者、実行犯として囚われる事になった。全てを証言したとしても、魔に連なる者としての力は、封印されると思う」

「それだけ?」

「そう、それだけ。オーダーも機関も、とても甘い。事の重大性を、まるで理解できていない―――やはり、人間は人間には甘いのね。身内贔屓ほど、見苦しいものなんてないというのに」

「秘境の存在意義は、隠匿された教育機関なのに‥‥人狼だ、巨人だを表に出しといて、力を奪うだけなんて―――何考えてる。なんの為に、俺がオーダーの傘下に所属させられてるんだよ‥」

 外部への隠匿の為、そして身の潔白の為、俺はここにいる。だというのに、あの人間は、それら全てを破り、魔に連なる者の世界を露呈させる計画に参加していた。

 ただ力を奪われるだけ?どれだけ、人間は日和見なんだ―――。

「付き合い切れない?」

「‥‥わからない。本当に、それしか手が施されない筈がない―――司法取引か‥」

「あなたも、そう思うのね」

 一体、どれだけの組織がこの計画に賛同していたのか。所詮、アイツは使い走りに過ぎないという事だった。手先をいくら奪ったところで、いや、アイツは手先どころか爪の端ですらないのだろう。

 現場での執行者など、その場で舌を噛み切ってもおかしくない。

「マヤカは、わかるのか?取引した内容」

「‥‥私にも、わからない。思いつく事は、沢山ある。だけど、どれも現実的じゃない―――あの竜体に比べれば、どれもこれも些末な事。意味がない」

「‥‥オーダーと機関は知ってたのか。あれがいるって」

 迷宮の竜。あれこそがラビリントス、秘境がが作り上げられた理由のひとつなのかもしれない。進化の先を目指していたかどうか、それはもはや些末だ。

 問題は、あれを使って何をしようとしていたか。材料が足りなければ、他所から取ってくるかもしれない。

「私達に始末をさせた。私達でなければ、始末が出来ないと判断した。あの男性を逮捕出来るのも、私達だけ。神獣であるあなたしかない―――私達は、操られたのかもしれない」

「‥‥誰に」

「わかりきってる」

 妹達と顔を合わせた魔女は、列車の窓からレイラインを眺める。

「人間。人間に、狂わされ、人間に操られた。だけど、同時にそう仕向けられたのは、私達。あの子達の在り方を、私が歪めてしまった」

「‥‥良かったのか」

「—――ええ、いいの」

 妹達は、マヤカの顔を覚えていなかった。マヤカによく似た容姿を持ったひとりと、マヤカを幼くしたような雰囲気のひとり―――どちらもが、マヤカは、同じ種族だと頷いたが、それ以上は答えなかった。知らない、ふたりとも同じだった。

「名乗れば、良かっただろう‥‥」

「これでいいの。顔を見る事が出来た、顔を見せる事が出来た―――それに、兆しはあった」

「兆し‥」

「そう、あの子達はいい人で出会えたようだった。それだけで、いいの」



 あの先生の人形がやった。

 俺の血という創生の彼岸で生まれたあの方から創造された血と、



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