第5話

 多くの入学者は、そもそも闘争など求めてなどいない。例に漏れず、俺もカタリもそうだ。カタリは、外の世界へと足を踏み入れる。俺は―――俺は、少なくとも人間相手に水晶を振り下ろす為に、ここに来た訳ではない。

「空気が重い‥‥何度入っても、私は慣れない」

「マヤカもか。俺も、そうかも」

「私は、機関やマスターの使いで何度も来たけど、あなたは今まで何回ぐらい、ここに?」

「‥‥確か――――」

 石造りの廊下に、ロウソクに見立てた電球。どこかの城の廊下のようにも見えるここは、事実として城であって要塞。けれど、誰かを迎え撃つ為ではない。ここは、ラビュリントス―――まさしく、迷宮である。ならば、想像が出来るだろう。

「前に、叩きのめした巨人を、ここに叩き込む時に潜ったから、あれで3回目」

 この城であり、要塞であり迷宮は、ここで眠っている遺物や人の手から離れてしまった何者か、もしくは―――力でねじ伏せて、実験をする為に運び込まれた化生の類や呪物を、できる限り安全に解析、分解する為の施設。

「入学時に一階層までは入り込んだから、あれで一回。それで、二回目は、アイツに呼び出された時」

「そう‥‥だから、彼女はあなたに手を貸してくれたのね―――わかった気がする。彼女が工房を貸してくれた理由が‥‥」

 長いエレベーターから、長い廊下、そして長い階段を降り続ける。人が降りる為に造られたというのに、石造りの階段はあまりにも反発が強すぎた。踵を伝って送られてくる痛みは、骨を直接傷つけているように、感じる。

「どうせなら、動く廊下でも作ればいいのに」

「それは、無理そう。ここを彷徨けるのは発掘学だったり、私達機関の所属、あとは限られた発掘学の知人達—――使う人が少ないのなら、予算が下りそうにない。それに、この景観を壊すのは、惜しい。そう思わない?」

「‥‥言われてみれば、そうかも」

 マヤカからの宥められて、諦めて足を酷使する事にした。毎日ここを歩いているであろう、彼女に聞けば、何かしらの手、具体的には近道のひとつでもあるかもしれないが、できる限り、もうここは歩きたくない―――。

「アイツの工房を借りたって聞いたけど、よく貸してくれたな。しかも、職人の真似事もしてくれたって。どうやって、交渉したんだ?」

「あなたが、困ってる。それに、彼があなたの工房から生まれた杖を使い続ければ、予算が下りるかもしれない。そう言ったら、意外とすんなりと」

「‥‥脅したりは?」

「ちょっとだけ‥‥本当にちょっとだけ。それだけじゃないの、機関の人間に恩を売れるとわかったから、手を貸してくれた。少なくとも、ここでなければあの合金の加工や細工は施せなかった。だから、私達は強気に出た」

 あそこから生み出された杖を使い続ければ、確かに評判は立つかもしれないが、向けた相手が自然学やこの街の権威、しかも国の重役の息子にそいつ自身。悪評ばかり立つ可能性もある―――いや、それはそれで構わないのだろう。

「相変わらず、ここの住人は―――浮世離れしてる」

 手を出されないようになる。しかも、自らの力も誇示できる。俺を広告塔にした理由は、こういう事だったのか。



「噂は知っているか?」

 講義終わり、教員姿の我がマスターは、俺とカタリ、無理やり残らせたロタと制服姿のマヤカを集めていた。

「先生ー、どの噂ですか?」

「ゾンビ、と言えば思い当たるかな?」

「—――死体歩きですか?」

 イッケイから数度、聞いた話だった。この秘境にゾンビ、死体がひとりで歩き回っているという噂。だが、それは所詮噂でしかなかった筈だった。

「あり得るんですか?それー」

「あり得る、かもしれないから、我らが捜査する。端的に行こう、発掘学の人間から要請が来た。数体、それに達してしまうものが消えてしまったそうだ」

「‥‥よりによって発掘学が。アイツら、自分達が扱ってる物、わかってないんじゃないの?」

 カタリが鳥肌でも立たせるように、肩を抱いた。その気持ちは、正直わかった。発掘学とは、その名の通り、何処かしらの遺跡や墓、または儀式場跡を発掘する学部でもある。でもあるだ、その理由は、考古学者のそれに似ている。

「自分達が真っ先に飛び込んで、全部盗んでいく癖に、ろくに管理すら出来ないなんて、どう言い訳する気?」

「その言い訳の為、私達に内密だが懇願してきたのだ。どうか、人の目に付く前に解決、回収してくれと」

「—――ゾッとしないな。魔に連なる者が、自分の不始末を人に頼るなんて、本当に自覚してないんじゃないか?‥‥それで、消えたっていうのは、なんですか?」

 発掘学からの要請であるのなら、断るに断れない。もし、そのまま放置し続ければ、この秘境全体の恥となる。それだけじゃない、魔に連なる者の世界の露呈にも繋がる。それだけは、避けるべきだ。

「驚くなかれ、ドラウグルらしいぞ」

 胸を張って言う我がマスターも、瞬時に頭を抱え始めた。無論、隣のカタリを始めとする、外部監査科の面々、全員がそうだった。

「ドラウグル、妖魔だ‥‥?正気じゃないんじゃないか?そもそも、どうやってそんな物、ここに運び込んだ――マヤカは、知ってたか?」

「—――いいえ、私も初耳‥‥ゾンビの話は聞いていたけど、ドラウグルなんて‥‥」

 マヤカはあまりの衝撃に手を口に当てて、瞳孔を開き続けていた。

「よし、空気を変えよう。カタリ君、ゾンビとは、そもそもなんだ?」

「はい、先生。ゾンビとは、元々は神として扱われていた筈の存在、救いの神とも言えるかもしれません。まぁ、もっと言っちゃうと『わからない不思議な力』をまとめて神の名で呼んでいたそうですけど」

「ああ、意見は分かれるだろうが、そうとも言われている。元はアフリカの一部で信仰されていた神だが、奴隷達の口伝を通って、西インド諸島では、『不思議で不可視の力を持つ神』が、ゾンビと呼ばれる刑罰に生まれ変わり、更に奴隷のように扱われ始めた存在—――マヤカ君?」

「はい、なぜ、そう生まれ変わったか、それは十字教と混ざり、改めて求められる物が変わったからです。『永遠に働き続ける不思議な奴隷』を農園に売り払う為に、またふたつの宗教の影響を受けたそれは、逃げ出した奴隷達の間で更に発展しました」

「ああ、そうだ。けれど、当の使用人側の教会は、奴隷達の宗教を邪教と弾圧した。伝道者は火あぶりに、神官や信者は、20世紀になっても逮捕、投獄された。それはなぜか?リヒト?」

「教典がないからです。教典がない以上、それは非合法の組織、いつの間にか生まれ変わった奴隷達の宗教は、十字教を装って、弾圧の目を誤魔化す土着信仰となりました」

 ふざけた話だ。過去、しかもつい最近まで続けていた文化となってしまった奴隷文明の中で生まれた、救いの祈りを、今の欧米は娯楽として消費している。しかも、それを自らを襲う敵として。皮肉が過ぎる―――遠くの世界で生まれたモンスターは、元々は自らが作り出したというのに、それをまるで知らない。

「だけど、消えたのはドラウグル、妖魔の類なんですよね?なんで、そこからゾンビに?」

「だからこそ、君達を無理に集めたのだよ。ロタ、単位を落とすぞ」

「—――わかりました」

 机の下で、スマホを両手持ちしていたロタに、必殺級の一言を叩きつけた。渋々、という形容詞が相応しい様子でロタがスマホをしまう。俺も決して他人事ではない攻撃に、寒気がした。

「話を戻そう。発掘学の人間は、消えたドラウグルをゾンビと言った。なぜだと思う?」

「‥‥そのゾンビを見つけ出す前に、発掘学を逮捕すべきかもしれない。ドラウグルを、奴隷とする為にゾンビに改造した。彼らは魔に連なる者達の中でも排他的だと思っていたけれど、あまりにも無法が過ぎる―――この事を機関は?」

「知っているのは、白紙部門のみだ。必要があれば、私から告発するよ」

「‥‥了解しました」

 立ち上がって教室から出ようとしたマヤカが、改めて座り直したが、まだ思うところがあるようで、落ち着きがない様子で窓の外を眺める。マヤカの心配はもっともだった。人間でなければ、いいと発掘学の人間がゾンビを造り出した。しかも、相手はドラウグル、妖魔と呼ばれる人外。しかも、まず話が出来る訳がない。

「ちなみに言っておくが、彼らの話をそのまま信じるのなら、ドラウグルは元からゾンビとして作られていた。何処とは言えないが、発掘した時から、そのようになっていたと。ふふ、さて、信じるに値するかな?」

 ドラウグルという、まず常人では勝てる筈のない存在の、しかも疑似的だが不死の可能性のある怪物の存在を聞いたというのに、マスターはどこか楽しげだった。

「マスター?」

「ん?何かな?」

「何か、思い当たる節があるんですか?」

「う~ん、そうだな。思い当たる節とは違うが、ちょっと気になる事がある。それに、君達に頼みたい事も―――ちなみに、拒否権は」

「私、パスで」

「私もでーす」

 カタリ、ロタが間髪入れずに断った。だが、そうなる事を想定していたらしいマスターは、僅かに口元を歪ませる。

「では、君達は私と外歩き、ドラウグルの証拠集めだ。そもそも―――あの迷宮には、ふたりしか入ってはいけないと言われていた」

 そう聞いた瞬間、カタリが立ち上がって俺の腕を引いてくる。

「私が行きます!!だって、ゾンビって嫌いだし」

「ふふ、もう遅い。それに下手に物色させない為に、ふたりだけと言われたのだ。諦めて、リヒトとマヤカ君に任せる事だ‥。見誤ったな?」

 カタリが舌打ちでもしそうな勢いで、マスターと睨み合い始めた。あの迷宮には、発掘学の人間しか触れられない、見る事も能わない物が、埃を被るほど揃っている。そんな宝物庫とも呼べる場所に、入れるとなれば、この学院にいる学生ならば、誰もが羨むだろう。

「その迷宮とは、一体なんですか?」

 静かにしていたロタが、ようやく口を開けた。

「どうして、そこまで―――そんなにも貴重な物をサルベージできるのですか?」

「サルベージ、どこからそんな言葉を知ったか知らないが、あそこにある物は、総じて持ち出し厳禁だ。だが、そこで生まれた物ならば、持ちだせる―――あそこは、まさしく我ら魔に連なる者にとって、これ以上ないほど便利な工房なのだよ」





「マヤカは何度も入った事あるのか、どうして?」

「忘れた?私は、機関の人間。この街で起った事件の抜根的な解決の為に、原因であった遺物や呪物の封印や解体の為に―――あ、これは秘密だった‥」

「俺も機関の人間だ。守秘義務を厳守しなくていいだろう」

「‥‥ふふ、そうだった」

「‥俺が心配?」

「—――ちょっとだけ心配」

 マヤカの嘘偽りない言葉に、肩を落としてしまう。だって、それは純然たる事実だからだ。強制や魅了の力に抗う術を、俺はあまり持ち合わせていない。あるのは、この白い血が宿る身体。ただの術式に負ける気はしないが、鎧がない状態では心もとない。

「だって、あなたは私の言う事なら、何でも聞くし、何でも信じるから」

「え、だってマヤカの嘘は」

「ふふ‥‥純粋な子—―私になら騙されてもいい?それとも、私に騙されたい?」

「‥‥だって、マヤカは」

 振り返って、何かを言おうとしたが、一段上にいるマヤカに、人差し指で唇を止められる。暗がりと言える石造りの階段の中でも、マヤカの鋭い目つきは変わらない。むしろ暗い中だからこそ、妖しい眼光に、言葉を失ってしまう。

「私に夢中なのもわかる。だけど、これは機関や外部監査科としてのオーダーでもある、なのに、どうしてあなたは私ばかり見るの?」

「‥‥マヤカが、そうした」

「私の所為?」

「マヤカが、俺をこう教育した」

「—――ふふふ、そう。私があなたをこうした。ようやく、わかった?」

 唇を撫でながら、言葉を邪魔してくるマヤカの指を、軽く噛んでみる。

「噛んでいいって、言った?私、そんな許可出した?」

「‥‥ごめん」

「ふふ、次は私が言ったら噛んで」

 噛まれた指を、マヤカが自身の口に含んで舐めとっていく。その光景が、あまりに刺激的で、それでいて―――マヤカとの事を思い出させて――声がまた出なくなる。

「怒ってないか?」

「どう思う?」

「怒らないで‥‥」

「なら、怒らない。さぁ、行かないと」

 マヤカに手を引かれて、位置が逆転する。一段先に、マヤカがいる光景、見慣れた長い黒髪が見える事に、安心してしまい。自然と笑みを浮かぶ。

「結構近づいてきたけど、彼女はどこに?」

「そろそろ待ち合わせ場所だと思う。今回の事を話したら、結構乗り気だったから、もう待ってるかもしれない」

 降りきった階段の先は、無人でこそあるが大きな図書館の受付のようだった。人ひとりを囲むような机、壁に本は勿論、展示品のようなガラスケースには石板やミイラのように包帯が巻かれた何かが、飾られている。見慣れなければ、異質な光景だろう。だが、ここは、決して図書館などではない―――ここは、危険な代物を確実に封じる為にある場所。

「やっと来ましたねぇー」

 心底気だるそうな声がひとつ。

「面白そうな話だと思って、待ってたのに‥‥で?責任者は?」

「私と彼は機関の人間、それでは不満?」

「‥‥まぁ、いいんですけど――――身体の調子はどうですかー?」

 正直言って、何かしらの薬でも打ってるのではないかと思わせる、けだるさ。めんどくさがりというよりも、森羅万象、全ての事に興味がない――どちらにしても同じか。

「まずは世間話でもしてみますー?お久しぶりです、私に直接、頼んでくるなんて‥‥いくら何でも働かせ過ぎではー?」

「だけど、悪い話じゃないって思ったから、話を聞いてくれたんだろう?ああ、久しぶり、ヨマイの工房で出来たこの杖、悪くないぞ」

「‥‥まぁ、私は場所を貸しただけですけどー。だけど、恩を売れたのなら、なによりでーす」

 未だに姿を見せないヨマイの姿を探していると、本が詰まった吹き抜けの二階から、足音がしてくる。この閉鎖的な空間だからこそ聞こえる微かな足音、それを探して目を向ければ、気だるさの権現のような声の主を見つける。

「前よりも、白くなったか?」

「最近、どこの誰か様の所為で、色々な工作をしていたので、あまり眠れていないんですよねぇー」

「土産がある。どうだ?」

 杖とは違う手に握っていた袋を持ち上げて、見せつける。

「—――ひとまず、私の工房にどーぞ」

 階段から降りてきたのは、病的な白さを持つ女生徒。なのに血が濃いとでも言うのか、肌の内側、血管だけが浮き上がり、頬や目元という顔周りばかり、桃色に染まっている。だが、決してゾンビ的とは思わない。むしろ、艶やかな色合いを感じさせる。

「ささーこっちでーす」

 持ってきた袋を奪い取って案内し出した為、大人しく背中についていく。

「こっちでいいのか?なんか、前とは違う道だけど」

「わざわざ正当な道を通ってきたんですよねー?お疲れ様でーす」

「近道があるのか?」

「むしろ、なぜ無いって思ったんですかー?あるに決まっているでしょう?」

 後ろのマヤカに視線を投げるが、やはり首を振られる。

 ヨマイの足取りは、速かった。発掘学の人間は、我ら異端学よりも外に出て、多くの学部の人間と交流をはかっている。自らのテーマの為、多くの情報、人脈を求めるからだ。そして、それ以外の学部の人間も、優先的に遺跡に入れる発掘学の人間と縁を作りたがる。だけど、このヨマイは、その例に入らなかった。

「どのくらい籠ってるんだ?」

「籠ってるって言われるのは心外でーす。置いて行っちゃいますよ?」

「食事とか、取れてるのか?」

「‥‥わかりました、そろそろ上に出ますよ。食事はとってますけど、あまり美味しい食事は取れていないので。だけど、どうか理解の程をー私達にとって、ここは寝食の優先順位を忘れるぐらい、資料が整って、探索のし甲斐がある領域、まさしく迷宮なので」

 ここは山岳地帯と自然学の間ぐらいにある発掘学の校舎そのもの。無論、地下であるが、発掘学の真の校舎とは、ここ地下迷宮と言われている。上にあるの、ただただ持ち寄られた品々の数を確認する事務所—――兼、出入りした魔に連なる者の救助をするに、必要な入山記録を提出する管理事務所。

「迷宮—――あなたは、普段ひとりでここを出歩いているの?」

 本の壁、ガラスケースの茂み、石板の柱、その中を潜り抜けて歩き続けていると、背筋に寒気を感じる。ここは迷宮、ラビュリントス。であるのなら、奥深くに何かがいるのは、当然の話だった。しかも、閉じ込めているのは、一体だけではない。

「ここは安全でーす。発掘学の学生だとしても、あまりにも危険な第5階層より下は、教授の同伴が必須なのでー。逆に言えば、5階層から上は、安全なんですよー、ていうか、なんで知らないんですか?その当事者なのに」

 ジャンキーなフード、略してジャンクフードを両手で抱きしめたヨマイが、振り向いてくる。おかしいのは、こちらと言わんばかりの反応に、マヤカと顔を見合わせる。

「もしかして、我らが発掘学のお歴々は、あの巨人の事もろくに話していないんですかー?だとしたら、ちょっとだけ同情しちゃいますねー」

「沼地の巨人の事か?」

 前、最初にマヤカと会った時に、襲い掛かってきた巨人の事だった。正直言って、あれが本物とは思っていないが、それでも巨大な怪物が襲い掛かってくる光景は、なかなかに見応えがあった。

「覚えてるじゃないですか、はい、その通ーりでーす。あれこそは、第5階層の主とも呼ばれた沼地の巨人。あれがいたから、第5階層も、去年までは一応は一年の学生は進入禁止だったんですけど。まぁ、ステゴロでボッコボコに殴られていたので、目覚める訳ないって思って放置されていたんですけねー」

「—――あれは、本物なのか?」

「巨人には、母親もいたんですよ?だったら、子供がもうひとりいても、おかしくなくなくないですかー?」

 ゾッとする―――俺は、実際に人を大量に喰らった怪物を、槍で仕留めたのか。だが、そうだと言うのなら、かの勇士は、2体まとめて素手で叩きのめし、1体は腕を、もう1体に至っては、撲殺していたのか。

「なんていうか、本当に何も知らない感じですねー私はてっきり、あの巨人が目覚めた理由に、思い当たったから、こうして私に頼ったと思ったのにー、まぁ、いいんですけどー」

 ようやく、ヨマイが二つ返事で案内を受けてくれた理由がわかった。ヨマイは、あの時に生まれた違和感を、ずっと抱えていた。なぜ、あの巨人が目覚めたのか、いや、なぜあの巨人が動き始めたのかを。

「ドラウグルのゾンビと、あの沼地の巨人、それは関係してるって思ってる?」

「私は、そう踏んでます。だけど、そうですねーちょっとだけ、飛躍していたかもしれませんねー、まぁ、それはこれから調べればいいのでー」

 図書館のようなエリアの最奥、工房エリアとは違い、発掘学の人間しか入る事を許されない巨大な両開きの門の前で、ヨマイが止まった。

「では、改めて――マガツ機関の捜査員、私が代表して、あなた達をこの秘境の暗部、いえ、暗部すら恐れ忌み嫌い、逃げ出した冥界を案内しましょう。そして、誰もが求めた現代の奇跡にして、誰もが求めきれずに終わった最悪の幻想たるきざはしに、迎え入れます―――ようこそ、ラビュリントス、別名エレボスへ」




「うーん、美味ー」

「良かった、それ新商品らしいんだ」

「これで私を、口説き落とした気ですかー甘々ですねー」

 自身の工房、正確には自身の研究材料を保管し、保存している蔵に迎え入れてくれた。どうやら、俺達が仕留めた唯一の憂いたる沼地の巨人を、完全に仕留めた為、第5階層を完全に解放、すなわち工房をふたつ持つ事が可能になったらしい。

「機嫌が良くなった‥‥?」

「だいぶ、気にいったみたい‥‥」

 マヤカと声を潜めて、社長室のような部屋の主たるヨマイの様子を窺う。客などほぼ迎え入れないと思っていたが、ヨマイの第二の工房には、計4人程がかけられる大きめのソファーがふたつ迎え合わせで並んでいた。しかも、中央にはなかなかにセンスのいい飴色の木製テーブル。その色と重厚な見た目からして、数十年は経っている。

「この甘い香りはなんですかねー。バーベキューソース?やはり、何事にも砂糖は必要ですねー。う~ん、この塩気と甘味、それらを絡ませながら、ど真ん中を突き抜けてくるスパイシーな香り‥‥このパテは、いいですねーこの分厚さ、私の意見書が通ったのでしょうかー?通ったに決まってますよねー」

 自分の世界に入ってしまい、しばらく帰ってこないと判断し、工房内を物色する事にした。

「これは、なんだ?」

 壁際のガラスケースには、一見するとここに相応しくないような宝石が飾られていた。異常な大きさ、とまでは言わないまでも、作り物のような大きさだった。

「マヤカ、これ」

「ええ、すごい綺麗‥‥だけど、ここにあるって事は」

「そうですよー勝手に触らなかったこと、褒めてあげまーす。流石に、そこは魔に連なる者、マガツ機関ですねー」

 想像通り、呪物の一種らしい。宝石は、ペンダントのように首飾りに付けられていた。だが、元は金だったらしいネックレスは、黒ずみ決して見た目がいいとは言えない状態になっていた。もしや、これは血の類か?

「聞かないでくださいねー私だって、眉唾物なんですからー。なぜ、童話たる青髭の鍵が、宝石になってるのか、なぜそもそも童話の鍵が、現実にあるのか」

「触れない方が良さそう。私達は、神を信じてる訳ではないのだし」

「そうした方がいいかとーまぁ、ここから出す訳にはいかなんですけどねぇー」

 一個目のバーガーを完食したヨマイは、次に手を伸ばす。特別空腹な訳ではないが、ここまで匂いが強い物を独り占めされていると、自然と目が奪われてしまう。

「さっき聞いた第5階層、そこってかなり広いのか?」

「広いからこそ、ここまで5階層より上を自由に使えるのですよ。だって、あの巨人さえどうにかできれば、すぐにでも開発していた5階層フロアを十全に使えるのですからーあなた達にはまた感謝しないといけませんねー」

 そんな言葉に首を捻るが、マトイが合点いったようだった。

「あれは、ここの財宝とでも呼ぶべき亡骸。それは、あなた達発掘学の人間は、破壊する事が出来ない。ここを預かる者として、求められたのは管理、制圧ではない」

 バーガーが口に溜まっている為、大きく頷くだけで済ませてきた。

「だけど、発掘学が、ここの管理を任されてるなら、外にああいうのが逃げないようにするのも役割だろう。あまりにも、監視が行き届いていなさ過ぎるんじゃないか?」

「私の知った事じゃないですよーだって、私達一年生が自由な使用を許されているのは、1階層とこの2階層のみ。それより下は、きっと有能な先輩方、そして教授といったお歴々。だけど、彼らだって万能じゃない―――あの巨人を取り逃がしてしまう程には、発掘学の網目は広いんでーす」

 教授だって万能じゃない。その評価には、大きく頷くしかなかった。

「納得して頂けて、このヨマイとても嬉しいでーす」

 心にもない事を、そう思ったが、それよりも気掛かりな事があった。

「‥‥ちょっといいか?」

「はい、なんですかー?」

「許されてるのが、1階層と2階層だけなら、俺達の目指してる5階層には、行けるのか?」

「可能ですよーだって、あの巨人が本当に最後の関門だったんでーす。あれさえ消えれば、全5階層を全て、自由にかつ安全に使えます。自覚ありませんかー?ないみたいですね。あなたは、発掘学が長きに渡って、苦虫を噛み潰したように睨みつけていた巨人を、ただの一投で破壊したのですから」

 ただの一投、確かに、あの状況を知らない者からすると、そう感じるかもしれない。だが、実際、俺達はあの場でまとめて死んでいたかもしれない程、危機的状況だった。マヤカから、自身の血肉を受け取らなければ、容易に死んでいただろう。

「ご馳走でしたー」

 バーガーを全て食べきったヨマイは、心底満足そうに微笑んでいる。ジャンクフード好きな理由は、ここを潜っている間は、そういった嗜好品とは無縁だからだ。あの化学調味料は、罪深い。

「少しだけ、お静かに」

 そう言いながら、自身の社長机に備え付けられていた受話器を耳元と口元に付けて、何処と話し始めた。だが、それも数分で終わる。

「はーい、了解でーす。では、また後ほど」

「何かあったのか?」

「ん?あなた方は、許可こそ貰っていますが、ここにマガツ機関が来ると告知されていなかったので、念の為、手筈を整えました。発掘学の学生は、機関が苦手ですから」

「そうなのか?」 

 マヤカにそう聞くと、眉間に指を添わせて、首を振り始めた。

「‥‥発掘学の学生が、一番ルール違反を起こすの。むしろ、私からすると、何故あれが許されるのか、不思議で―――そう、機関の目から何か隠す為に」

「正解でーす。だけど、恨まないで下さいね、ここはあくまでも私達の領域、ここのルールには、どうか従って下さーい」

「—――いい、わかった」

「ご理解頂けて、なによ――」

「外に出た時、まとめて取り調べをさせてもらう—――パトロールの打診もするかもしれないけど、いい?だって、もう安全なのでしょう?」

 マヤカの有無も言わさぬ迫力に、あのヨマイが、空になった紙袋を抱いて抗議の視線を送るしか出来ていなかった。





「‥‥告知したんじゃないのか?」

「どこからか、あなたが来ると知れ渡ったみたいでー」

「でーって、ヨマイしかいないんじゃないか?」

「まさかー」

 のらりくらりと、躱され続ける。2階層の保管庫エリアを進み続けていると、自身の部屋から出てきた学生達が、顔を見せてくる―――いや、顔を見てくるが、正確。

 先ほどの図書館のような巨大な廊下に、多くの扉が揃っている。これらすべてが誰かしらの部屋だとすれば、発掘学の学生は、どの学部よりも恵まれている。

「それで、第5階層には、どうやって行くの?エレベーターでもあるの?」

「このラビュリントスのエレベーターは、数が数えるほどしかないのでー、エレベーターは簡単には使えませーん。ですから、基本は徒歩でーす。ただ、流石に帰りは使えまーす」

 行きはダメだが、帰りはよいよい。5階分の階段を下るのなら、確かに楽かもしれない。もしくは、下る事にこそ意味があるこの迷宮では、自身の足で踏破する事の意義を学生に教え込んでいるのかもしれない。

「ねぇ、聞いていい?」

「ご自由ーにぃー」

「なぜ、あの巨人は5階層にいたの?そんなに、邪魔で危険であるのなら、もっと深層に眠らせておけばよかったのに」

「そうそう動かないと判断されていたからでーす。だって、事実としてあの時まで、一切の生命活動を持たなかったんですから。それに、深層に潜るのにも、多くの許可、この秘境全体の学部長達の許可が必要で、迷宮だって無限じゃないんです」

 ヨマイの話を聞きながら、迷宮を眺めてみる。開発する前の状態は、どのような見た目だったのかわからないが。一階層まで降りてきた時は、まるで違う見た目だった。ここは校舎のようだった、木製の天井に木製の壁、しかも、木製の階段で吹き抜けの二階まで作られている。床こそ石造りだが、これを作り上げる程の物資を、どこから運び込んできたのかと、想像してしまう。

「ここに初めて来た人は、みんなそんな反応しますねー」

「みんな、そうなのか」

「はい、みんなそうでーす。あんまり、そういう反応してるとーここにいる」

「おい」

「ほら、来たー」

 急に肩を掴んできた。振り返ると、発掘学というよりも、つるはしでも担いでいそうな見た目の学生だった。ヨマイのここでの生活水準は、高かったらしい。正直言って、汗臭い。

「‥‥なにか、用か?」

「お前、俺の工房を盗み見たよな?」

「どういう意味だよ」

 掴んでいる腕を、振り払って着ている制服を見せつける。白のローブは、機関の証、しかも俺の噂を知っているのなら、関わり合いになりたくない筈だ。

「お前の工房なんて知らない」

「いや、お前は、確かに俺の工房を盗み見た―――入り込む算段でも、考えてたんだろうが」

「ヨマイー助けてー、なんだよコイツ」

「こういう輩がいるんですよー自分の工房を持ったばかりの方々って、みんなこーで」

 振り払った腕で、今度は襟を掴んできた。目が据わっている――ヨマイもそうだが、なぜこうも発掘学の学生は、何かキメてそうな奴ばかりなんだ。

「今、なにか失礼ぇーな事、考えましたねぇー」

「自覚があったのか‥」

「‥‥否定できないのが、悩ましぃーいいですよ、やっちゃって」

 言われるままに、片手の杖を振り下ろす。鈍い音が、肩から鳴り、ようやく手を離させて、後ずさりをさせるが、未だに鼻息を荒くして、睨みつけてくる。

「流石に、見過ごせない――彼は、薬物でも?」

「さぁ?だけど、こーいう人って、よくいるんですよーここに入り込んだばかりで、こことの折り合いの付け方がわからない人って」

 マヤカが袖から短剣を取り出した時、ヨマイが俺と発掘学の学生の間に跳び出してくる。一瞬だけ振り返って、マヤカに手を出すなと伝えてきた。

「私達はーあなたの工房に入るつもりも、ましてや盗むつもりもありませーん。ですから、もう行っていいですね?ストレスばかり溜めているのなら、上で遊んで来ては?」

「ふざけるな‥‥ここで、田舎者の匹夫を見逃すと思うかよ!?」

 大男と言ってもいいガタイをした学生は、目を充血させながら腕を振り上げる。一体、なぜここまで怒り狂っているのか、その理由がわかった気がする。あまりにも、ここで長く住み過ぎて、一瞬でも自身の工房から離れられなくなっている。

「いいんですかー?あなた、ここで一週間以上潜っていますねー?」

「それがなんだ!?」

「一週間以上、ここで生活するのは、禁止でーす。忘れましたか?」

「俺の工房を荒らす奴がいるからだ!!」

 振り上げた腕に、陶器のような青と白の破片が集まる。元の腕の二倍程になった腕が、カラカラと軽い音を起こし始める。見応えがある光景だったが、あまり価値はない―――没だ。

「うわぁー助けて下さーい」

 抑揚のない声に、呆れながら杖に水晶を纏わせて槍とする。全力で振り下ろしてくる腕を、造り出した槍で叩き割る。陶器の硬度は想像を超えて、脆過ぎた。陶器だけを壊すつもりだったが、生身を逆の角度に折れ曲げてしまい、雄たけびを上げさせながら後ろに倒してしまった。

「ありがとうございまーす。流石、前に私のボディーガードを務めてくれただけはありますねー」

「—――そういう事か」

 こういう輩はコイツだけじゃない。ここを歩き続けるのならば、こうやって力を見せつけておくのも、必要だった。

「いやー助かりますよー、あの巨人を打ち倒したあなたを引き連れている私という存在を知らしめる事が出来るなんてー」

「それにどれくらいの価値があるの?」

「見た通りでーす」

 視線で吹き抜け二階の手すりや、一階の扉を見ながら教えてくれる。指を差しながら、俺が作り出した水晶の槍を見つめている。中には、何かしらを飛ばして来ようとする輩すらいた。

「あー消しちゃうんですかー?」

「見世物じゃない」

「ざんねーん」

 特別気にした様子もなく、杖にまとわせていた水晶を消した事を、嘆いてくる。それは、周りも同じだった。塵と消した水晶を見て、顔を覆って声を上げる学生すらいた。

「ボディーガード?」

「それは、歩きながらしましょー」

 少しだけ上機嫌になったヨマイが、腕を引いて石造りの床を歩かせてくる。後ろのマヤカも、わからないと言った感じに、真横に並んで首を捻ってくる。

「私はーちょっとだけ特殊でして、高等部に入学する前からひとつ工房を持っていたんですよー」

「その工房を守る為、雇われた?」

「ああ、ちょっとだけ資料を覗かせてもらう見返りで」

 ただ、1階層たるあそこでは、俺もカタリも目的にしていた文書にはありつけなかった。一晩使って、護衛や迎撃をしたというのに、これではただ働きだと、カタリと嘆いたのを覚えている。

「まぁ、あんまり役に立たなかったけど」

「その節は、ごめんなさーい。だけど、ちゃんと埋め合わせはしましたよー」

「‥‥そういう事もあって、工房を貸してくれたのね」

 一年越しの謝罪だったが、恩を売っておいて正解だった。今も握っているこの杖は、到底公に出来る代物ではない―――この迷宮に、収められてもおかしくないゴーレム。しかも、想像でしかないが、この迷宮に収められている何かを、使われている。ルール違反を起こしているのは、俺も同じのようだ。

「さぁ、そろそろ第3階層—―1年生である私では、なかなか歩けない場所ですよー」

 目の前に、ここに来た時とは若干違うデザインの扉が姿を見せた。あの自然学の校門の扉ほどではないが、これも特殊な力を宿らせているようだ。

「‥‥これは、檻か」

「檻、確かにそう言えるかもしれませんねー」

 片手を押して、開ける扉は、普段から人が出入りしているのが、わかるぐらい床との接地面が抉られていた、筈なのに―――。

「ここから先は歩けなかった、機関も降りたがらなかった理由がわかった気がする」

「わかります?ここから先、私達も出入り出来なかった理由が」

 ここはまだ安全だった―――1年生は、ここから先には出入り出来なかった。その意味がわかった―――空気がまるで違う。まるで手招きをされているようだった。ここから先に行けば、世界各地から多くを回収、封印してきた遺物がある。そんな知識がなくても、わかるだろう。ここには宝がある。ここには、隠されなければならない人類の英知がある。

「行こう」

 地下へと続く階段が舌のように感じた。




 おおよそ、全てを破壊し尽くした時、ようやく術者の工房を特定出来た。

「な、なんだよ!?」

「自分のした事を知らないのか?それともあの程度、なんて事もないって思ってるのか?」

 上級生の工房の扉に蹴りを叩き込んで、破壊し腰を抜かせる。既に、学部長の研究室や私邸に襲撃を仕掛けた自分からすると、物足りないぐらいだった。

「いくらここがあなた達の領域だとしても、してはいけない事がある。今後、永遠にこの迷宮には機関の人間が常駐すると思って―――罠なんて、以ての外」

「さ、さすがにそれはー」

「これは、あなた達が起こした事への責任。あなたも、自覚がないの?」

 直接的な被害者である、俺やマヤカに気圧されて、ヨマイは首を振りながら溜息をついた。これこそ流石に、機関の魔に連なる者へ意見など出来ないと悟ったようだ。

「—――なら、遠慮なく」

 マヤカが工房内の受話器を掴み上げて、機関へと連絡し始めた。

「まさか‥こうなる事も、想定していた感じですかー?」

「むしろ、こんな状況で機関の手が入らないって思ってたのか?ドラウグルのゾンビを、抜きにしても、ここは見過ごせないに決まってるだろう――いくら、魔道を志す者の身体が欲しいからって、あんな罠を仕掛けておけば、誰だって通報する」

「—――私も、外部ともっとコミュニティーをつくるべきですかねー」

 3階層は、石造りの城のような見た目に戻っていた。風景として、迷宮内をしばらく眺めながら散策していたら、城には城らしく、多くの罠が仕掛けられていた。

「自分の工房付近から人を払う程度ならいい。だけど、最初から人を取り込む為に作り上げられたあの構造は、許されない。一体、何人殺した?」

「し、知るか――わ、わかった!!まだ、誰も殺してない!!」

 マヤカが袖から出した銀のナイフを、先ほどまで学生が撫でていた書物に、軽く突き刺した時、書物の表紙がほどけるように、分解されていく。

「本当に?」

「こ、ここから先の工房は、まだ出来て日が浅い!!だから、俺もここから先の奴らも、まだ改造しきれていない!!こ、殺せるほど人も、俺の支配域に踏み込んできてない」

「だけど、私達のような何も知らない外部の人いる筈―――残念だけど、ここを始めとする、あなたの所有物は、全て機関の手に渡る。例外など無いと思って」

 そう言われた瞬間、長い髪を持った先輩は、頭を抑えて泣き始めた。哀れとは思ったが、同情などしない。マヤカの言う通り、ここは人を殺す為の罠ばかりが設置されていた。このまま放置すれば、何人死ぬか、わかったものではない。

「申し訳ないけど、私はここで機関の到着を待たなければならない、先に行く?」

「ああ、先に行って、また罠が仕掛けらていないか、調べる」

「わかった、お願い。あなたの判断で、逮捕してもいい」

 その発言に、隣のヨマイが声を漏らしたが、無視して外に出る。外には先ほど俺達に襲い掛かってきた呪物は破壊され、倒れていた。巨大な木偶人形ではあるが、持っている物は、ここで封印されていたであろう呪物。本来ならば触れたくもない断頭斧だが、襲い掛かってきた以上、壊すほかなかった。

「うーむ、あなた様の強さ、異常性は知っていた気でしたが、まさか床や壁ごと爆撃するなんてーその水晶って、爆弾にもなるんですねぇー」

「奥の手のひとつだよ。誰にも言うなよ―――言ったら、ヨマイの工房もこうなる」

「‥‥肝に銘じておきますとも」

 床から手に近い縄が姿を現し、俺達の足首を掴んできた。そして、どこからか卑屈な笑い声が聞こえたと同時に、壁が波打ち、石造の腕が身体中を掴み上げて、引き千切ろうとしてきた。

「いやーしかし、ははは‥‥これは、流石に‥」

「必要処置だ。それに、ここまで改造してる事ぐらい、お歴々とかなら知ってただろう。修理費用は、お前らの学部持ちだ」

「‥‥つらいでーす‥」

 仕方ない、そう思い込ませて、杖に水晶を纏わせて、モーニングスターのように振り回す。石造の腕の硬度は、せいぜいがただの岩程度。楽々と砕け、怯んだ隙に根本へと水晶の槍を投げ込み、破壊出来た。最後に、天井に擬態していた大質量を持つ木偶人形が上から落ちてきた。その上、質感は腐った肉、腐臭すら感じそうな見た目で、腹を引きずり、両手を斧に変えたまさしく怪物が迫ってきた。拘束など想像していない、殺す為だけの罠。

「こんなのが、まだまだあるのか?よし――」

 床に手を当てて、杖に水晶を纏わせる。

「あのーなにをする気で?」

「床ごと崩落させる。真下に行くなら、全部壊した方が――」

「ま、待って下さい!!」

 床に水晶の塊を埋め込んで、真上から杖で着火、起爆、このあたり一帯の床を爆発させようとしたが、ヨマイが床に突き刺そうとした杖を抱いて止めてくる。

「い、いくらなんでも沸点低すぎるのではー!?」

「あ?」

「リ、リヒトさん、そんな言葉を使う方でしたか!?もっと、こう、まともな方では!?あのカタリさん以上に、危ないって―――」

「あ?俺は魔に連なる者だ。まともな訳ねぇだろうがよ」

「ここここは!!ここは、発掘学の迷宮ですよ!?いくら、あなたが機関だからと言って、やっていい事と悪い事が!!少なくとも、あのマヤカさんにあなたこそ逮捕されますよ!?」

「—――それもそうか」

 ヨマイに説得されるとは思わなかった。流石に、やる事が短絡的過ぎると思い、腰を上げると、あのヨマイが顔を青くしながら、汗をかいていた。

「私にこんな役目させないで下さーい‥」

「ちなみに言っておくけど、ヨマイの事だって、俺は疑ってる」

「えー‥?なんでですか‥‥?」

「ヨマイが、俺達を罠にかけて口封じでも」

「あなたにそんな事出来る訳ないでしょー‥私だって、自分とあなたの実力の差はわかってまーす‥」

 上の階層にいたヨマイとは別人のように、額に汗をかいて、杖を抱きしめてくる。

「じゃあ、案内を頼むよ。何かあったら、まとめて破壊するから」

「‥‥ここは、この壁ひとつ取っても、封じる為のゴーレムや術式のひとつなのですよー‥そんな簡単に破壊するなんてー‥」

「俺をここに引き入れたのは、元々はヨマイだったじゃないか」

「—――知らないって、恐ろしい‥勿論、私自身に言いましたともー‥」

 妙な真似をさせない為か、杖を持った腕を抱いて廊下を案内してくれる。先ほどの工房の扉が見えなくなって来た時、隣のヨマイに話しかけてみる。

「もしかしただけど、わざと罠に」

「ですからー‥そんな事はしませんって、私だってここは数える程ですが、歩いてきたんですよー‥まさか、この数日、いえ、数時間で、ここまで私的に改造しているなんてー‥」

「一応は、ここは発掘学の全体の物なんだろう?なんで、ここまで自分の家みたいに」

「2階層の学生と同じですよー自らの工房に近づく者は、皆敵、一応はこういった罠を仕掛けないように、一週間という連続潜行期間を設けて、自室化にしないようにしていますが、ここから先の方々は、みーんなそんなルール、従っていませんからー」

 ヨマイも、本当に知らなかったようだ。第5階層までは、安全と豪語していたが、それは、ああいったある意味において魔に連なる者らしい連中にとっても安全、縄張りとかしていたようだ。

「あのー」

「ん?何?」

「機関の人間が常駐ってー」

「当然に決まってるだろう。ここは、秘境の中の施設だ。お前達の物でもあるだろうが、そもそもは秘境中の学生、全員の物だ。暫定的に、発掘学が管理を任されているみたいだけど、ここまで自由勝手に改築してるなら、お前達は全員、ここから追い出される」

 そうはっきりと伝えると、ヨマイは膝をついてへたり込んでしまった。そもそもX脚気味であった足で石畳に膝を突いた所為で、正直、痛々しかった。

「そ、そんなー‥」

「それが嫌なら、機関の常駐は受け入れるんだ」

「むぅー‥自由に使えるようになったと、喜んでいたのは、ぬか喜びだったのですねー‥」

「お前達が原因だろう。嫌なら、下の住人を全員、機関に突き出せ」

「‥‥いいですねーそれー」

 本心かどうかわからないが、そう言った瞬間、立ち上がって腕を引いてくる。

「ただ、こうなっている事は下の方々は知ったと思うので、工房の扉を消してるかもでーす」

「なら、それはそれで構わない。機関が怖いからって、姿を消す雑魚に、そもそも用はない」

「—――それ、聞く人が聞いたら」

「プライドで襲い掛かってくる雑魚なら、尚更用はない」

 なかなか腕から離れないヨマイを引きずって、城の廊下を歩き続ける。本来ならば、ここはただの地下だ。窓など飾り以外、何ものでもない筈なのに――ここの窓には光が差し込んでいる。それだけじゃない。青空が見え、新鮮な空気だって流れ込んでいる。

「なぁ、ここは―――」

 レイラインから影響を受けているのか、そう聞きそうになり慌てて口を閉じる。

「どーか、なさいましたかー?」

「—――人工の太陽でも作ってるのか?」

「ん?あれは、紛れもない空ですよ。ふっふっふっ‥ここを侮ってますねー?」

 ようやく腕から離れたヨマイは、ダンスでも舞うかのように、つま先で回転しながら、窓のガラスを叩く。

「あれは、普段あなたが見ている空で、普段吸って吐いている空気でーす」

「だけど、ここは地下だろう?なんで」

「そもそも、ここは―――迷宮になり得る土地に建てられた校舎ですからねー。では、問題です。なぜ、迷宮になり得ると思ったと思いますか?」

 先ほどの巻き戻しのように、戻ってきたヨマイが腕に再度しがみついてくる。目元のクマに、光が差し込み、顔を白と桃色だけにする―――厄介だ。ヨマイの美貌を忘れていた。外に出たヨマイは、多くの目を惹きつける程だという事を。

「‥‥そうだなぁ」

 廊下をふたり分の足音を立てて歩き続ける。迷宮らしく、多くの曲がり角があるが、そこはヨマイが教えてくれる。全て暗記しているのかと?そう思ってしまう程には、適格でナビゲーションとして、これ以上ない機能を持っていた。

「この秘境自体、大本はひとの目に触れない土地を作り出す名目で生まれた。どちらが最初に作られる想定だったのかは知らないけど、少なくとも、この西部エリアは、最初から秘境の為に生まれた筈だ」

「はーい、では、なぜ西部エリアの中でも、ここに迷宮が生まれたと思いますか?」

「—―――土地が、よかったから?」

「正解ではありまけどーちょっと勉強不足ですねー、だったら、最大級の権力を持つ自然学の校舎下に作ればよかったものを」

 数度めの曲がり角を曲がった時、ここまで降りてきた階段と同じ――巨大な扉が現れる。それを今度は杖で突いて開けると、扉は自重に従って独りで開いてくれる。

「ヒントは、この螺旋階段でーす」

 空気が吹き出した来た。ここまで降り来た階段とは桁が違う巨大な階段。手すりことついているが、石で削ったような手すりは、心許なくて仕方ない。

「—―――巨大な直列の穴があったからか‥」

「ではーなぜ、そんな巨大な穴があったと思いますかー?」

 螺旋階段を踏みしめる。一本ごとに重量が加算されて行くようだった。足先からつむじまで、何者かに侵食されていくような感覚、そんな不快感を全身で感じているというのに、足が止まらない。隣にいるヨマイが、自身の肉体を餌に、下へ下へと連れて行こうとしているからだ―――。

「それは‥それは―――わからない」

「ふふ‥ええ、そうですねーわからないと思います。ちょっとだけー意地悪しちゃいましたねー。リヒトさんも、迷宮の虜になって来ましたねーそんな事を考え初めてしまっているのですから。それとも、私が目的ですかー?」

「‥‥目的‥」

 頭がふらついている訳じゃない。高山病のような、酸素不足となっている訳じゃない。だが、この頭がゆだる感覚に一役買っているのは、このヨマイの筈だ―――だって、この秘境の中にある、この迷宮は―――多くの謎を残している。

「はい、目的でーす。わかりましたか?みーんなが、ここに居座っている理由を、灯台下暗しなんて、我ら魔に連なる者、しかも発掘学の面々が許す訳がない。何故かって?だって、理解できない物を理解、解析、分解する為に、理解できない物に住んでいるぐらいですからねぇー」

 灯台下暗しなど許されない。だが、そもそも我ら魔に連なる者は、消える筈だった音や流れて終わるだけだった筈の水を掴み取る、そんな力を使って己が血肉としている。ここは破綻している―――解析してしまっては、そんな力が消え失せてしまう。

「なぜ、ここには青空があるか。ここにいる人さえ知らない、考えない事柄ですがーそれは、ここは決して地中になど埋まっていないからでーす。この秘境は、巨大な穴を真っ直ぐに貫くように建てられた建造物。だから空だって雨だってあります。埋めてなんかいないんですからー」

「だけど‥俺とマヤカは、徒歩でここまで来た‥」

「それは、勿論その通ーりかと。だって、下へ下へと作り続けているのですからーいくら私達でも、空を飛んで資材を運ぶ事など不可能でーす、だから橋があります。真上に街など無かったでしょう?だって、そうでもしないと、巨大な蓋のゴーレムの邪魔になりますからねぇー溢れ出る欲望を抑えるには、蓋が必要でーす」

 地下へと続く階段を踏み続ける。足の底が、地下へと吸い寄せられる。暗い暗い深淵に飛び込むではない――――これは、自分の意思で、目的の階層へと目指しているだけ。俺の目的は、第五階層まで、なのに、だというのに‥‥もっと下に。

「これは、だい、だい、だーい秘密‥‥」 

 いつの間にか、耳元で、いや、既に耳に吸い付くようにヨマイが、声をかけていた。振り払う事が出来ない、暗い穴の中、隠された財宝のごときヨマイが、一際艶めかしく感じる。

「ここは、地下にある何かを調べる、追い付く為に作り続けられている巨大な採掘場。真下にいる者がなんなのか、それは誰にもわからない。だけど、真下にいる者の余波は、あらゆる危険な物品を大人しくさせる力がある。それと同時に、何者をも惹きつけてしまう力もある。あなた達を襲った彼らは、ある意味において正しい」

 いつ、ここまで降りただろうか。もしかしたら飛ぶ降りたのだろうか。あれだけ深かった筈の第4階層の床まで、あと一歩となっていた。

「彼らは、下にいる者を自分の物にする為、何者にも奪われない為に、ここにいる‥‥知っていますか?この迷宮は、まだ未完成。今も作り続けている‥‥下に下に、奥に奥に‥‥興味、ありませんか?」

 先にヨマイが、一歩降りていた。そのまま、両手で引きずり降ろそうとしてくる。

「私のテーマは、新たな世界の発見。それは地下であろうが、空であろうが、構わない。私とどこまでも、いってみませんか?」

「—――ああ、いいぞ」

 息を吸おう、そう思って口を開いた時、言葉が同時に生まれた。仄暗いひと段下の中にいるヨマイの顔が、一際歪む。その歪みを、触れたくなってしまう。

「ヨマイの為に、杖を振り下ろそう」

「はい、だから、一緒に」

「ここから―――」

 杖に水晶を纏わせる。ひび割れていくような音を立てて、腕に水晶の鱗が生まれていく。重みなど感じない、これは俺の血肉。ならば、痛みだってある筈ない。身体の内側から生まれる物に、不快感などある筈がない。

「あ、えっと」

「大丈夫だ‥‥俺は、壊す事には、撃ち落とす事には自信がある」

 降りきってきた螺旋階段をヨマイを連れて、登り戻る。既に、顔の半分程が水晶の覆われた―――想定硬度、地殻級—――破壊に必要な高度は、おおよそ一階層まで戻る頃には、十分となるだろう―――足りなければ、何度も撃ち落とせばいい。必要ならば、この迷宮ごと破壊してしまえばいい。だって、そうすれば邪魔者はいなくなる。

「あ、あの!!撃ち落とすって」

「大丈夫だ。任せろ、俺は、ヨマイの為に壊すから‥‥」

「こ、壊すって‥‥あの、一体何をする気ですか!?」

「大丈夫、大丈夫だから‥‥」

 槍が赤熱化してきた。空気を焦がす音を匂いがする。上に着く頃には、まず一投を放とう。そうすれば、真下にある邪魔な階層を、まとめて破壊できる―――きっといい風景が見える。

「じょ、冗談が過ぎましたから!!落ち着いて、真下には、そんなもの」

「大丈夫、全部壊せば、破片ぐらい見つかる―――見つけたら、すぐに」

「すぐに?」

 目の前にマヤカがいた。

「どうしたの?槍まで持ち出して」

「‥‥マヤカ」

「そう、あなたのマヤカ。あともう少しで4階層なのに、どうしたの?」

 腕や顔、杖にまとわせていた水晶がただの破片となって消えていく。

「ヨマイ、だったかしら?彼に、何をしたの?」

「え、えっと‥‥」

「彼は、純粋なの。彼を騙すのなら、後のことも考えた方がいい。この槍は、あなたがどこにいようと降ってくる」

 ふらつく頭を、マヤカが抱いて、耳元で何かを囁いてくれる。その瞬間だった―――頭の中で何かが弾けた。そう思った時には、螺旋階段は明るく照らし出されていた。マヤカの腕の中から天井を眺めると、ステンドグラスから明かりが差し込んでいた。

「‥‥冗談、ですよねー?」

「それは、彼に聞いて。私から言っておくと、彼は冗談が通じない」

 マヤカの心音が聞こえる。黒い髪からマヤカの香りがする。忘れていた呼吸を思い出し、ようやく自分の肺を取り戻せた。

「マヤカ‥?」

「そう、あなたのマヤカ。具合はどう?」

「マヤカに会えて、嬉しい‥‥」

「良かった‥」

 ひと段上のマヤカと抱き合って、体温を交換する。

「落ち着いたのね。さぁ、後ろを向いて」

「ああ」

 後ろにいるのは、無論ヨマイだった。

「あははーあのー」

「俺も、魔に連なる者だ。鏡界、他人の夢に入った事に気付かない自分が悪いって分かってるつもりだ」

「ご、ご理解頂けてー」

「だけど、許す理由にはならない」

 水晶など纏わせないただの杖を、ヨマイの頭上に向かって振り下ろす。軽く当てたつもりだったが、ヨマイは声も出さずにへたり込んでしまった。結構重量があるのを忘れていた。

「結構‥‥いたいでーす」

「俺を騙すのなら、同じ場所に次は二回振り下ろされると思っておいてくれよ。そら、行くぞ」

 へたり込んだヨマイの腕を引いて、階段を再び降りる事にした。




「意外と、すんなり行けたか?」

「そりゃーあそこまで、派手に立ち回れば、自分とあなたの力の違い程度、推し測れるかとーだって」

「だって?なんだ?」

「ここで暮らすって事は、そもそも隠者になる事を想定しての方々ですからねぇー。自らの力量程度、知っていなければ、生き残れませんってー」

「にしては―――平和だな」

 周りを見渡せば、わかる。ここは上のカレッジのようだった。正直言って、第2階層、第3階層と比べるまでもないぐらい、まともで多くの学生が闊歩していた。

「あ、あそこは休憩所なので、少しだけ休んでいかれますか?」

 ヨマイが知らせてくれたのは、大きな木製の両開きの扉。やはり、デザインが統一されているのか、それぞれの階層に降りる時に使われていた扉と似通っている。

「休憩所?そんなものがあるの?」

「意外と思われるかもしれませんが、ここの生徒にも秩序を愛する、暗黙の了解を重要視する方々って、結構いるんですよー。ここは、そんな方々の情報交換の場、そう思っていいかとー」

 振り返って、そんな事を言うヨマイの顔を見つめる。視線だけ動かして隣のマヤカと思案してみる。その結果、ヨマイの提案に頷く事にした。

「休憩所だったか?案内してくれ。ここが機関の駐屯地になるかもしれないし」

「—―――盲点でした」

 心底、無念そうに睨みつけてくるが、無視してヨマイの腕を引いて扉を開け放つ。中にいたのは、ヨマイの言う通り意外と真っ当な人間達だった。けれど、その人間達からしても、俺は奇異の目を向けるに値するらしい。

「適当でいい、静かに座れる場所まで連れて行ってくれ」

「はーい」

 割とぶっきらぼうに言ってしまったが、ヨマイは同じように腕を引いて巨大な休憩所、敢えて言えば学食に似た雰囲気の部屋の端まで連れて行ってくれる。

「どうやら、ここにある貯蔵品よりも、あなたの方が価値があるみたね」

「新しい物を見つめてしまう方々なんでーす。気にしなくていいかと?」

「なら、そうするか」

 丁度、4人掛けが出来るテーブルにつき、一息入れる。改めて周りを見渡しても、ここが地下深くであると言われなければ、気付かない程、窓から光が入っていた。天井を見つめても、新たな発見がある。シーリングファンだ、空気をかき混ぜている。

「快適だな‥‥ここは、誰の趣味なんだ?」

「さぁー?まぁ、お歴々の中でも、まともな思考を持っている方のようですねー」

「もしかしてだけど、それぞれの階層には管理人がいるの?」

「それは私達にとっても、重大な謎でーす。少なくとも私は知りません」

 ひとりテーブルから立ったヨマイが、「お茶を取ってきますねぇ」というので、その後ろをマヤカが付いて行った。先ほどの事があるからだ、何か仕込まれたら――。

「ヨマイを始末する事になる‥」

 決して間違っているとは、思わない。魔に連なる者が、協同で何かしらを成し遂げる事は、そもそも稀有だ。ならば、そんな中で裏切りや蹴落としが起こるのは、よくある事だ。よって、一度でも裏切った奴は、今後一切が敵となる。

「‥‥アイツ、俺に何させたかったんだろう?」

 初めて聞いたアイツのテーマ、それは新たな世界を見つける事。カタリと似ている気がするが、隔絶されたような違いがある。それは、逃げ込むか、ただの研究材料として消費するか。

「空でも地下でもいい―――アガルタでも探してるのか?」

 口の中、いや、もしかしたら頭の中だけで呟いたのかもしれない。確かに、自身の幻想を携えて地下に降りている、そしてあちらも偽物とは言え太陽の光が差し込んでいる以上、地下にそういったものがあっても、おかしくない。だが、それは、ある意味、タブーだった。

「カタリが、ここまで逃げて理由―――もしかしてヨマイも?」

 カタリが、家族から離れてでもここに逃げ出した理由だった。新たな世界を顕在化する。それは、この世界の在り方を歪めてしまう、ただひとつだけの世界という普遍性を破壊してしまう。そんな理由で禁止されたタブーのひとつ。

「‥‥今は、どうでもいいか」

 それよりも、先ほどから無礼など一切気にしないで、こちらを見つめてくる馬鹿どもが気がかりだった。あれで隠れているつもりなのか、コップの中身を飲む振りをして、ふたつの眼球を向けてくる。その中には先ほどとは違う、にこやかに近づいてくる奴もいた。

「な、なぁ‥君、君だろう?異端学から機関に所属したっていうのは‥」

「そうだけど、なんだよ?」

「あのさ‥あれ、力を見せてくれないか?」

 うわずった声に、気持ち悪さを感じたが、これも個性と流す事にした。だが、そんな俺の心情に気付かない男子学生は、真向かいに座ってろくに入浴をしていない身体から漂う臭いを、自身で吸って吐いてくる。

「力って、なんだよ‥」

 息を吸いたくないので、身体を離して小声で最低限の声で答える。

「誤魔化すなよっ!?わかるだろうが!?みんな言ってる!!」

 テーブルを叩き、あの生命の樹の技術者と同等か、幼くしたような声で叫んできた。なんだよ‥ここの奴らは、みんなこうか。そんな声が喉元から飛び出そうになっり、慌てて呑み込むが、その拍子に体臭を嗅いでしまい、咳き込んでしまう。

「落ち着け‥なんの話だ?」

「だ、騙されないぞ。知ってるんだ、その力があれば、俺は誰にも邪魔されないで」

「何を言ってるのか、知らないけど、俺はここに仕事で来てる。力を貸す訳ないだろう」

「え、なんで‥」

 心底わからない。そんな感情を携えた窪んだ目を向けてくる。

「当然だろうが」

「‥だって、じゃあなんでここまで、僕への謝罪の為じゃ」

「なんで、今会ったお前、上級生か―――どっちにしても、今日俺は、仕事で来てる。発掘学の学生個人の為に来たんじゃない。悪いけど、力を合わせたいなら別の学生とやってくれ。あと、悪いけど、そこ身内が座るんだ。どいてくれないか?」

 聞こえているのか、聞こえていないのか、言いたい事だけ言ったら充電の切れたラジコンのように、一切動かなくなってしまった。息を吸っているから、生きてはいるようだが、あまりにも精神的に脆かった。ここに長くいると、皆こうなるのか。

「ストレスでも抱えてるなら、上で遊んで来いよ」

 仕方ない、そう思ってテーブルを明け渡しマヤカ達を迎えに行く。試しに振り返ってみたら、今度はぶつくさ言って睨みつけてくる。

「文句でもあるのか?あ?いい加減、鬱陶しいんだ。用があるなら機関でも、それこそ自分の力でなんとかしてくれ。お前も魔に連なる者だろう?」

「ふ、ふざけるな‥僕は―――」

「僕は?何?」

 コップを持ってきたマヤカ達が戻ってきたが、座っている学生の様子を見て、尋常ではないと悟ったらしい。

「一体なに?」

「それが、力を貸して欲しいみたいなんだけど」

「あー、よくある奴ですよーこっちでーす」

 両手にコップを持ったヨマイが、新しい席まで案内してくれる。

「あれも、よくあるのか?」

「自分ひとりじゃあ、どうにもできない。だけど、もうひとりいればどうにかなる。そんな事がここでもよーくあるんですよー。そんな中、周りを見渡せば沢山の必要な手がある。だから、使えて当然、ここは閉鎖された空間ですから。どうにも自分本位になってしまう方々が―――まぁ、私もそうですが。解体や解析、それを元に再構成っていうのは、自分ひとりじゃあどうにもならない時が、誰しも来るんですー」

「だけど、それはよくある事じゃないの?」

 適当に座った席で、改めてコップに入った水を飲める。

「いえいえー、ここでと上とでは、大きく違います。何故かって?ここでの物資は、自分が持ち込んだ物を使い尽くしてしまえば、それでお終い。改めて上から持って来ようにも、その間、工房を空ける訳にもいかない。助け合いという概念がねじ曲がってしまった結果、ああいう助けられて当然という考えに至ってしまうんですよねー」

 ここでは、それが壁のひとつらしい。上でもそれは変わらないだろうが、すぐ手元に用意できる状況と、帰りこそエレベーターですぐ戻れるが行きは徒歩という手数を考えると、その壁は大きく越えがたい。ここに引きこもる理由が、わからなくもない。

「そこも、機関に言っておくべきね。このままではあの罠がまた襲い掛かってきそう」

「機関に、ですか?」

「ええ、すぐには難しいかもしれない。だけど、行きも帰りも使える程度にはエレベーターを用意すべき。このままでは常駐の妨げにもなる」

「助かりまーす!!私も、実はそう思っていたんですよー!!」

 変わり身の早い奴だった。マヤカと共に、溜息を吐いて窓を眺める。

「カタリ、どうしてるかな?」



「リヒト、平気かな?」

 涼しい車両の中で、口の中だけで呟いてみる。これでわかる筈もないのに。

「ドラウグルねぇ‥‥ロタは、見た事あるの?」

「何度かありますよ、だけど、特定の姿を持っている訳ではないので、ドラウグルと総称されている者を見た事がある、と言えます。カタリは?」

「んー、ドラウグルって呼ばれるかもしれない、巨人なら見た事ある」

「ああ、マヤカ君と出会った時の事だったか?確か、沼地の巨人だとか」

「はい、それです。先生も、見ましたか?」

「私が見たのは、頭蓋から胸までが灰となって亡骸だ」

 ドラウグルの証拠集め、それは予想通り難航していた。だが、これも予想通りだった。そうそう簡単には見つからないから、私達に要請が来たのだ、誰でもわかるだろう。

「それも、リヒトが?」

「ええ、そうよ。リヒトと私、マヤカで仕留めた――結構、危うかったけどね」

 沼地の巨人そのものとは、思っていないが、だけどそれに類する種族、迫力だと言えるだろう。なんと言っても、結局機関の面々が、何も出来なかったのだから。

「そうだ、先生、結局、あれはなんだったんですか?」

「ん?そうだな‥‥恐らく、もう潜っているリヒトなら知っているだろうから、君にも伝えておこう。あれは、沼地の巨人のもうひとりの息子だ」

「は?」

「私は、仮にも教師だぞ。は?はやめたまえ。まぁ、そう言いたくなるのも、わかるがね。正真正銘、あれは沼地の巨人、毎夜にひとひとりを喰らい12年間もの間、城を恐怖に貶めていた怪物だよ」

 想像していなかったとは言わない。もし、沼地の巨人がいればああいった感じだろう。そう思っていたが、まさか本物だとは思わなかった―――リヒトは、人を数千人も喰らっていた巨人を打ち倒したのか。

「なんで、そんな危険な物を!?しかも、よりによって外に出すなんて――あそこの学部、正気じゃないんじゃないの?」

「それは、我らが散々言った事だよ。だが、確かに、まだまだ言い足りないぐらいだ。ただあれが、表に出て暴れまわったというのに、死者が出なかったのは、奇跡と――いいや、この秘境にリヒトがいた事が、奇跡的と言えるだろうか」

 運転中の先生は、楽しげにしている。今思えば、過去の出来事と割り切れるが、まだ一年も経っていない出来事だ。しかも、最初に、あのマガツ機関は何も言わずに。

「リヒトが、心変わりしないで打ち倒してくれた事に、感謝しては?」

 肘掛けで頬杖をついてみる。

「‥‥ああ、まったくその通りだよ。私は、当時この秘境から離れていたが、残っている顛末書を見て、頭を抱えたよ。まさか―――真っ先に疑われたのが、君達だったなんて。いくらなんでも機関の目が節穴過ぎた」

「そうですよ、まだ2回しか、それも一階層までしか降りてないのに、私達が下りてあの巨人を奪ったなんて―――馬鹿過ぎるんじゃないの?」

 今思い出しても腹立たしい。そんな事をする必要も、出来る訳もない。あの巨体を知らなかったのだろうか?ただ直近で、私達が潜ったというだけで疑ってきた。

「ああぁぁぁ、むかつく。やっぱり、馬鹿なんじゃないの?ていうか、馬鹿でしょう?あんな肉の塊より、私とリヒトの方が価値あるってのに。あんな猿を盗むなんて無駄、この私がする筈ないのに――」

 リヒトと休日を楽しんでいる時だった。何も考えていないと顔付きでわかる機関の馬鹿が、馬鹿みたいに、馬鹿みたいな数を揃えて、馬鹿みたいな罪状で捕まえにきた。

「はははは‥だが、あの事件の中で生まれた怪我人は、君とリヒトの手によって生まれたと」

「訳わからない事叫びながら、私に掴みかかってくる馬鹿相手に、どう手加減しろと?当然の報いに決まってるでしょう?」

「‥‥せめて、敬語を‥いいや、その通りだ。あの罪状はいくらなんでも正気の人間が書いたとは思えない内容だった。しかも、それに従う機関の人間もだ。だが、マヤカ君は違っただろう?」

「‥‥まぁ、そうかもしれませんけど。だけど、マヤカだって最初は私達を捕まえにきた」

 忘れてなどいない。逃げる私達を、マヤカは鎖を使って掴んできた。だが、あれは会話をしようとしていたのだという事も、忘れてなどいない。だけれど―――だけど、紛れもなくあのマヤカは、私達を逮捕しにきた。

「誰だって、自分の意思とは関係なく、自分の目的の為に手段を選ばない事もある。カタリ君、君だって、覚えがあるだろう」

「‥‥そうです」

「別に機関や発掘学、マヤカ君を全面に許せとは言わない。特に、あの当時の機関のやった事は、決して許してはいけない。私も思ったよ、面倒だからか、それとも自分達の不始末の責任を、君達に押し付けようとする為なのか、いくらなんでも内側から破壊された扉を、外側から破壊されていると勘違いしたなんて、擁護のしようがない」

「あーやっぱり、そういう事だったんですねぇ」

「—――これは、秘密だった。ああ、こういう事だよ。物理的な現場検証に慣れていないとはいえ、どんな素人でもわかる事を見落とした、言い訳すら出来ない」

 そもそもやる気がなかったが、日が傾き夜に近づきつつあるこの時間、急激に無気力になってきた。今晩はどうしようか?そんな事ばかり考えてしまう。

「それでもなお擁護するとしたら、発掘学の教員達が、中にある物が動く筈がないと、言い切ったからだ。実際、今の今まで動くような事はなかったからな。消去法により、外からの簒奪者がいると判断しても、おかしくないのかも‥‥いいや、おかしいか」

 一応は、この先生も機関の所属らしいが、この呆れようだ。あの当時の機関は、やはりおかしかったと思っているらしい。実際、マヤカから言われたが、あの時の機関の人間は、早々にして取り調べと処分を受けたらしい。

「リヒト‥‥いつ戻ってくるかな?」

「君の頭は、リヒトばかりだな。先ほど、マヤカ君から機関に通報が入ったと言っただろう?下で何かが起こったようだ。明日の昼ごろまでは、かかるかもしれない」

 仕方ない、そう自分を言い聞かせても、この胸に穴が開いた感覚は消えてくれない。約束をした訳ではない、朝から仕込んでいた訳でもない、だけど、毎晩料理を褒めてくれるリヒトが今日一日中いない。そう思うと、なぜだろうか、腹立たしい。

「帰ってきたら、怒らないと」

「それは八つ当たりと言うのではないかな?」

「私に構ってもらえるんですよ?私のリヒトなら、喜んでくれますよ」

「うーむ、君達の関係には、やはりセーフワードが必要のようだ」

「もう、持ってますよ」

 帰ってきたら、どうするか?まず何を命令しようか?買い物か?掃除か?いや、そんな物よりも、もっとして欲しい事がある。

「夕飯、どうするか聞かないと」

「はぁ~私のリヒトは、いずこに~。せっかく新しいゲームの約束をしたというのに~」

 先ほどからタブレットでパズルゲームをしていたロタが、手足を投げ出して嘆いてくる。前者には同意するが、後者には眉をひそめる。

「私のリヒトは、まず最初にご飯を食べるの」

「私のリヒトは、私とゲームをすると約束してくれました。だから、必ず優先してくれます」

「リヒトの事、知らないの?何かにつけて、私の手料理を求めるんだから」

「—――確かに、その通りですね。じゃあ、食事が終わったら私と」

 ロタが言い切る前だった。先生が車を停める。しかも、急ブレーキだった。

「先生?」

「あれか」

 腕を銀に変える。隣のロタもヴェールを被り、臨戦態勢に移行する。

「ドラウグル?ぼかして言っていた意味が、ようやくわかったよ」

 その姿に、息を呑んでしまった。あの巨人を縮めたかのような姿だった。だけど、決して第三子という訳ではない。異様に長い手足に、誰しもが童話で聞いたであろう、長い鼻。そして、暗くなってきた夕闇の中、眩しく光る眼球に、寒気を感じる。

「人狼だとは、想像もしていなかった」

 西部寄りの山道をパトロールしていたが、それが正解だったようだ。一日使って得た情報である、「夜中の山に、何かいる」という戯言にすがりついたというのに。

「ここは、街の近く。しかも発掘学の校舎なんて直ぐ近くだ―――誰かが内緒で飼っていたか?それとも、手放したか?」

「悠長に何言ってるんですか―――仕留めるから、ロタ手伝って」

「—――いいや、やめた方がいい」

「は?理由は?」

「だから、は?はやめなさい。人狼が恐れられた理由を知らない訳ではないだろう?言っておこう、いくら君が全身を銀に変えられるとはいえ、あの膂力には敵わない」

「‥‥足手まといって言いたいんですか?」

 暗い座席の中で拳をつくる。ゾンビの習性なのか?それとも人狼としての本能なのか?誰もいない車道の中央で、光を遮るように腕で顔を隠している。

「勘違いしているな。何事にも相性がある、人間の腕力ではあの猛獣には勝てない」

「見逃すんですか!?」

 そう叫んだ時、人狼が顔を隠しながらだが、こちらに一歩踏み込んだ。ネコ科とは違う、順当な関節を持つ狼は、その長い指先を見せつけるように、動いた。

「動くなよ」

 それは、私に言っているのか、それともあの人狼に言っているのか――わからなかった。

「まだだ」

「どうする気ですか?」

「静かに、だけどヴェールは離さない事だ。無論、カタリ君もだ」

 タブレットを手放していたロタも、その命令に違和感を持ったらしく、声が漏れた。

「静かに‥静かに‥」

 ヘッドライトを受け続けている人狼が、確実に迫ってきている。こちらは車両の中にいる分、まだ幾ばくかの安心感こそあるが、ここは既に奴の間合いの筈だ。あれにどれ程の腕力があるかわからないが、人間大の狼の腕など、楽にガラス窓を破壊するだろう。

「そうだ。もう少し―――もう少し――」

 息を忘れる。まぶたが言う事を聞いてくれない。隣のロタもそうだ。既にロタも私自身も、自身の武器を顕在化していた。この銀の腕は―――リヒトの身体さえ断ち切った。ならば、この世界で血肉を持っている者ならば、斬れる筈。

「先生、私が」

「いいや、良い頃合いだ――――行きなさい!!!」

 最初に、何が起こったのか、わからなかった。車の頭上を巨大な影が通り過ぎた、そうわかった時には、銀の狼は人狼に跳びかかっていた。

「よし、いい子だ、マーナ」

 小さく呟いた先生は、楽しげに鼻で笑っていた。

 マーナと人狼の戦闘は、人間では到底真似できない、まさしく死闘だった。先手を取ったマーナは、容赦なく人狼の腕に噛みつき、その人を大きく越す重量を使って人狼を振り回す。確実に噛み砕いた。人狼の前腕、肘から先に力が込められていない。

「あ、助けないと」

「いいや、あのマーナを信じなさい。忘れたのか?彼は」

 人狼が残る腕で、鋭い爪でマーナの目を切り裂いた。目を覆う暇もなかった。けれども、覆う必要もなかったと、瞬時に理解した。血など流れる筈もない、血肉が飛び散る訳もない。ただただマーナの目元から火花が散っただけで、まばたきひとつしなかった。

「私とマヤカ君、そして君が提供してくれた金属から生まれた『大いなる神』だぞ?たかが人殺しの天才如きに、遅れを取る筈がない。それにあの牙は君が知っている時よりも、格段に力が増している」

 噛み千切った。振り回されていた腕が遂に破れ、巨木にその身をぶつけられる。

「逃がすなよ、それは『獲物』だ」

 照明は、ヘッドライトだけだった。だが、それで十分な程、白銀の狼は夕闇の中、誇り高く四肢で大地を踏みしめていた。そんな山の神と、見間違う姿をしたマーナを前に、人狼は逃げる素振りなど、一切しないでマーナに睨みつけて、牙を剥いた。

「‥‥やはり、ゾンビ、傀儡の類か―――あそこまで身体が損傷すれば、嫌でもバランスひとつ崩す筈なのに。仕方ない、マーナ、そのまま押さえつけろ」

 黒髪の先生の指示の元、マーナが腕を一本失った人狼のゾンビに、空間を無視する速度で跳びかかる。けれど人狼は、マーナから逃げるべく、爆発でもしたかのようなスピードで巨木を登っていき、そのまま枝葉の中に姿を隠してしまう。

「‥‥いい判断だ。勝てないと、悟ったか。だが、逃げられると思わない事だ。私達も追う、喋らないように――――」

 一体、このSUVにどのような改造を施していたのか。後ろを向いた片手で運転する先生も異常だったが、車両は今まで走ってきた山道を、バックで前進していた時と同じスピードで走り続ける。

「ちょっと先生!?」

「ん?何かな?」

「ちゃんと運転して下さい!!」

「うむ、教え子にこれ以上、悪い事は見せらないな。よろしい、そのオーダーに答えよう!!」

 言って後悔した。まるでスピードを緩める動作をしない先生は、鼻歌まじりに真っ直ぐに前を向き、ハンドルを握った。それに叫び声でも出そうになった時、車両が一回転、周りの樹々すら驚愕しているように見えた。車道を豪快に使い、完全なるノーブレーキで前後が入れ替わった。内臓が一瞬、浮き上がった感覚が冷めやらぬ中、先ほどとは比べ物にならない速度で、山道を駆け抜け始める。

「あはははは!!やはり運転はいいなぁ!!昔、暴れ馬を操っていた時を思い出すとも!!」

「その馬ですが、あれ以来あなたを拒否していましたよ!!」

「ははは、あの子も素直ではなかったな!!素直に、私の愛馬となればよかったものを!!」

 後部座席の手すりに、ロタとへばりつきながら、顔を見合わせる。

「昔からこうな訳!?」

「ええ、昔からこうです!!だから、あの人とは妹達も乗馬を拒否していたんですよ!!」

 私達の話など、一切聞かずに先生は甲高い笑い声を上げて山道を降りて行く。山道の外の樹々には白銀のマーナが駆け抜けているので、あの人狼が近くにいるのは、確かのようだが、先ほどから姿が見えない。それだけじゃない。ここから先は。

「先生!!このままじゃあ!!」

「ああ、わかっているとも。あの速度は予想外だが、こうなる事は予想の内だ」

「え?」

「狼でも、人間でも同じだ。傷を負い、勝ち目がなくなった者は、総じて逃げ帰る。では、何処に逃げ帰る?」

 最初から先生は、マーナに倒せとは言っていなかった。むしろ、逃げずに立ち向かってきた時は、仕方なさそうに、押さえつけろと言った。獣が逃げる時、何処に行く?それはハーレムの奪い合い、縄張り争いではない限り、自身の住処に逃げ込む。

「あれは、完璧なゾンビではない。もしゾンビであるのなら、神通力の一つでも使ってもおかしくない。恐らく、あれは失敗作。仕方なしとあの長所である爪や牙を使えと命じたのだろうさ」

「だけど、もしそうだったら、あの人狼は捨てられていたんじゃあ」

「先ほどの否定になるかもしれないが。それはない。あれは迷宮から奪取した貴重な標本、今後のゾンビ研究の為にも、あれだけの素体を捨てるような真似、出来る訳がない」

 徐々にマーナが近づいてくる。そんな光景が見えていた時、前方の樹々の間、猿のような影がヘッドライトに照らし出された。それに応えるように、口元を血で濡らしているマーナが、車両に並走してきた。

「良い子だ。このままついてきなさい。先ほどの続きだ、あの人狼がゾンビであるのなら、その行動には人から、もっと言ってしまえば主人からの命令がある筈だ。こういう事は考えられないか?お前には、爪と牙という力、獣としての本能を残すと」

 ゴーレムと似ているようで、大きく違う部分だった。ゴーレムは、当初、どのような命令を下すか、構想してから作り出される。だけど、あのゾンビは違う。元々の性能を残し、その長所を使えと命令できる。これが、ゾンビとしての強み――。

「なら、あれは人狼、狼としての本能という事ですか?」

「ああ、私はそう踏んでいる。よしんば、違っていたとしても、アレを放置する事はないし、私達も出来ない。あのゾンビは自らの手で作り上げた傀儡、住処に行かずとも、身体には癖とも言える術が刻み込まれている筈だ」

「その解剖、付き合わないといけないですか‥?」

「ああ、無論そうだとも。冗談だ、流石に無理強いはしない。だが、必要があれば君の知識を借りる事となるから、慣れておいてくれ。おすすめはスプラッター映画だ」

 想像もしたくなかったが、不思議とリヒトもマヤカも、ロタもそれに平気だったのを思い出す。

「はははは!!大丈夫、私も今晩は開けている、ロタはどうだ?」

「はい、私も平気です。カタリ、もしよかったら」

「なに?あ、もしかして初心者向けの」

「そういった類ならば、沢山持ってます。ガブガブする方もゲームがありますよ。勿論、R指定ですが―――私は大人だから、いいんです」

 それが映し出されたスマホ画面を投げられた時、先ほどの狼とは比べ物にならない寒気と吐き気を感じ、声を抑えられなくなってしまった。

 

「先ほどの人、やはりお知り合いなのではー?」

「‥‥覚えてないけど、それはないと思うけどなぁ‥。発掘学の知り合いなんて、ヨマイぐらいしかいないし。それに‥‥悪いけど、あんまり付き合いを持ちたくない雰囲気だった」

「私も同意しますねぇー。あそこまで、不潔ではいくら発掘学の学生とは言え、遠慮したいでーす」

 席を変えたというのに、先ほどの男子学生は、俺達が休憩所から離れるまで、睨み見つけて何かを呟いていた。発掘学への偏見かもしれないが、あの学生はこの秘境で、ひとり探究を続けるのが、相応しいのかもしれない。

「マヤカはどうだ。機関の仕事とかで、マヤカ‥?」

「ああ‥‥ごめんなさい。私も、彼には見覚えはない。それに、ああいった学生は、目に見える犯罪は起こさないと思う。もし、していたとしても、ここで細々とルール違反を犯す程度、補導をする類ではなさそう」

 自身の髪を指で巻いていたマヤカが、一瞬だが反応が遅れた。意外だ、あのマヤカが集中できていない。

「大丈夫か?」

「ええ、大丈夫。少しだけ疲れてきたのかも」

「あんまり休めませんでしたもんねー、それに、あの方は異性である私達からすると、だいぶだいぶ近寄りがたい雰囲気でしたから」

 第4階層の果て、2階層が、一年の縄張りであるなら、ここは二年の庭のようだ。先ほどから、違和感を持つぐらい学生達がごった返している。中には、商売でもしているのか、食料や物資を金銭や物々交換をしている学生もいる。

「‥‥ああいった個人での行為も、もう出来ないと思って」

「それならそれで構いませーん。だって、あの方々、すっごい足元見るんですもーん。あれらが駆逐されるのなら、こんなに嬉しい事もありませーん」

「色々と思惑があるのね。ここは、私達が思っている以上に、ひとつの社会、ここ特有のコミュニケーションが形成されている気がする。恐らくだけど、あなたが個人で所有していた品々ひとつずつ、全部一度調べ上げられると思う」

 それは、初耳だったのか。全力で振り返って、口を開けてくる。

「さ、流石にそれは‥」

「流石に?あれらは、本来はこの学院全体の所有物、あなた個人の物ではない」

「だ、だけど、あれは私が発掘学から依頼されて、解析、封印途中の物で」

「その依頼に、個人的な主義趣向、もっと言えば取引とかはなかった?勿論、あなたの腕は知っている。発掘学が、あなたに任せたのなら、それは正しい選択だと思う。別に、これはあなた個人に言っている訳じゃない。分不相応、精神的に相応しくない、そんな学生がここの貯蔵品を、個人的な理由で長期間、保持し続けていない?」

 マヤカは、淡々と正論を言い続ける。ここは一種の無法地帯、ダウンタウン、スラムの様相を呈している。いくら、ここが地下だとしても、むしろ地下だからこそ、正しいルールや、政治的な運用を導入すべきなのだろう。

「‥‥想像以上に、ここは私物化されていたのね。もしかしたら、それぞれの階層を、発掘学だけじゃない学部が管理し出すかもしれないから、覚悟しておいて」

「うー‥悩ましい。確かに、そういった方々には個人的に納得していない部分もありましたがー、仕方ないですね‥私だって、いち学生、校則には従いましょう」

「そう言ってくれると、有り難い。大丈夫、ルールに縛られるのは、あなただけじゃない」

 白のローブを着たマヤカの話を、多くの学生が聞いていたらしく、皆一様に静まってしまった。それだけじゃない、あわって自身の工房に駆けこんで、何かしらの隠蔽工作を図り始めたようだ。

「無駄な事を‥もし隠したってバレたら、ただでは済まないと言うのに」

「あははは‥やっぱり、バレますか?」

「機関を舐めるのなら、好きにしていい。だけど自身の腕を過信するのなら、それはそのままあなたの刑期になる。—―――冗談、さぁ案内を続けて、刑期を伸ばしたくないのなら」

「は、はい!!」

 ほとんど脅しと変わらない文言で、ヨマイに先を案内させるマヤカは、堂に入っていた。元々、命令を下す行為に慣れているマヤカの姿に、ヨマイは震えながら案内を再開する。なるほどと思った。こうやって工房を借りたのか、と。

「ふふふ‥私のリヒトを、狂わせておいてただで済むと思う?彼に命令できるのは、私達だけ。彼もそれを望んでいるの訳だしね」

「や、やっぱり、そういう関係でしたか‥‥」

「そういうって、どういう関係?」

「えっと‥‥恋人とか?」

「ふふ、あなたは勘違いしている」

 マヤカのその返答に、俺自身の声を出して足を止めてしまう。だけど、そんな俺を見越してマヤカは腕を引いて、歩かせてくれる。

「彼と私は、主従関係。私が上で、彼が下」

「‥‥マヤカ」

「大丈夫、嘘、本当は私とあなたは同じ。恋人なのだから、上下関係なんてない。心配した?」

 周りから人が消えた事を良い事に、マヤカは積極的に腕を抱きしめてくる。声が出なかった、カタリとは違う成熟し始めた、けれど女性ではなく女の子としての身体を押し付けてくるマヤカに、息を吹きかけられる。

「どうして、そんな顔をしているの?もしかして、私の下になりたい?」

「‥‥マヤカが、そう言うなら」

「嘘ばかり。あなたはいつも私の下なのに―――また、犯して欲しい?」

 最後の言葉は、耳元で誰にも聞こえない、俺自身にしか聞こえないような小声で言った。声を出す前に、マヤカが耳に息を吹き込んでくる。声が消えた事で、訝しいんだヨマイが振り返ってきたが、その時にはマヤカは既に離れて髪をかき上げていた。

「あのーここで、そういった事は、ていうか、私自身も」

「なぜ、振り返っているの?私を案内したくないの?」

「は、はい!!ただいま!!」

「ふふふ‥いい子」

 年下らしい見た目で、実際精神的にも実年齢にも年下のヨマイを、マヤカは自然と操っている。そして、ヨマイが案内を再開した時に、マヤカはもう一度、耳を噛んできた。

「次で第5階層なのよね?入口から目的地までは、遠いの?」

「いいえ、割とすぐ近くでーす」

「なら、今日中に帰れそうだな」

「ん?知りませんでしたか?もう夜中、10時を過ぎていますよー」

 慌てて圏外のスマホを取り出して、時間を確認する。時刻は、既に11時を回り、ヨマイの言う通り真夜中を巡っていた。

「いつの間に、さっきまでは夕暮れだった筈だろう?」

「時間感覚が狂ってきましたね。光を浴びない、外の空気を直接吸わない、それだけでこうなってしまうんでーす。彼らが狂ったのは、最初からじゃない、徐々に徐々にああなってしまったのですよ」

 最初から人は狂わない。時間を忘れ、作業と研究に没頭する。理性を構成する部位が徐々に削げ落ちた結果、ああなったのか。

「本当に、ここは迷宮なのか‥」

「ええ、そうですよ。それを忘れない為に、一週間という期限があります。どうしますか?戻って、一晩休みます?一応はここでも、宿泊できる場所もありますが?」

「だけど、それは多くの人がひとつの部屋に集まるのでしょう?」

 一瞬、一度眠って体感を取り戻そうかとも思ったが、マヤカがそれを拒否した。

「まぁ、ここは広いですけど、客人をもてなす場所ではないのでー」

「私は、彼とふたりきりじゃないと眠れない。彼もそうだし」

「‥‥ああ、俺もそうだな。一人部屋はないんだろう?」

「え、ええ。まぁ‥」

「ベットはひとつでいいけど、多くの人に囲まれて眠るなんて、私には出来ない。ヨマイさん、あなたはどう?少し疲れた?」

 出来ない、マヤカが自然とそう言った所為で、それがあまりにも生々しく、あのヨマイが顔を桃からリンゴ並みに赤く染める。

「い、いいえ。私は慣れてますから‥‥」

 少し早足になったヨマイが、こちらをチラチラと見始める。先ほどからだいぶ積極的になっているマヤカに、視線を向けるとマヤカ自身は楽しそうに顔を歪めている。

「あんまり、いじめてやるなよ。実際、世話になってるんだし」

「自分の立場を教えるのは、必要な事。ヨマイさん、あなたはどう思う?」

「‥‥すみませんでした、調子に乗ってましたー」

 一体なんの話なのかわからないが、ヨマイは申し訳なさそうに、謝ってくる。

「彼女が使った術、あれは危険な物だった。ここを出るまで、いいえ、ここを出る事を拒否するレベルで囚われる、傀儡にさせる術だった。あれを人に使ったのに、逮捕されないだけ感謝して欲しい。あれはここにある呪物を使える発掘学の学生だから、可能な事」

「‥‥そういう事か」

「‥‥ごめんなさーい」

 ヨマイに情けをかける必要はなくなったようだ。そう思っている角を曲がり続けていると、ついに第5階層の扉が見え始めた。校舎の中に突然、遺跡ような石造りの門が現れる。後ろを振り返っても、曲がり角のある普通の校舎。テクスチャーを無理に、貼り付けたような見た目だった。

「ここから先は、どうなってるんだ?」

「大まかには、現在は鋭意作成中の階層であり、おおよそここがこの迷宮探索の大きな拠点になる階層です。今まで降りてきた階層の中で、一番開発されている階層ですよ」

「安全、そうだな」

 重そうな扉をヨマイ代わりに押すが、想像以上に軽く拍子抜けしてしまった。

「まさかーむしろ逆、場所取りの真っ最中ですともー」

「場所取り‥そこでも工房を作り合っているの?」

「ええ、いい場所、人それぞれ目的があるので一概には言えませんけど、自分が欲しがるって土地は、他人も欲しがるって事ですから。自身の身分などを明かして、自分の一派の拠点にしようとしていますねー」

「貴族か‥」

 一歩踏み出して、先ほどと似た雰囲気の螺旋階段を降りていく。

「ええ、貴族です。こんな場所で、そんな物、どれほど役に立つかわかりませんが、それでも私は魔に連なる者であり、人間です。身分や偉功には逆らえませーん」

 夜となった事を伝える為か、天井のステンドグラスが若干暗い色となっている。ここでは、時間の感覚を取り戻させる目的もあるらしい。

「家から命令されてるのかもしれないな。ヨマイは、どうなんだ?」

「私ですか?私は、そもそもひとと何かするのは苦手なので、自由にやってますよ。ひとりとは身軽ですねー結構、あっさりと新たな工房を得る事が出来ました」

 長い階段だ。ヨマイに惑わされて、降りてきたからわからなかったが、本来の階層間を繋げる階段とは、ここまで長大な物なのか。

「工房って言うより、文字通りの拠点か。そんなに持って、整理できるのか?」

「ふふふふ‥よくぞ聞いて下さりましたー!!」

 踊り場についた時、ヨマイは一回転、スカートを翻してにやけて来る。

「実は、私にとっての都合のいい場所とは、私だけに都合のいい場所なのでーす!!」

  楽しそうに、新しい玩具でも見つけたように、ヨマイは軽やかなステップを踏んで、階段を降りていく。鮮やかだ、運動とは無縁かと思いきや、その足は引き締まった筋肉で成り立っていると、翻ったスカートの中身が伝えてきた。

「先ほど、エレベーターの話がありましたね。実は、私自身もそれを作ろうと思っていまして」

「エレベーター?個人で作っていいのか?」

「勿論、本来ならばダメですが、自身の工房内ならば自由にしていいと、発掘学から言質を取った程でーす。しかも、そもそもキャパ不足のエレベーターを私ひとりとは言え、使わなくなるのは発掘学からしても、望むところなのです!!」

 隣のマヤカに視線で伝えてみると、意外とマヤカは静かに聞いていた。階段も中ほどに達していた。地上の床絵が近づいてくる。

「不思議だとは思っていた。あなたの工房は中央から常に離れた場所にあった。しかも、真っ直ぐに直列に」

「お気づきでしたかー?はい、そうなのでーす。よって、1階層から2階層、そして5階層まで、直通で行けるのです!!まぁ、一応私はまだ一年なので、自由に5階層をうろつける訳ではないのですが‥」

 その間の3・4階層に手を出さなかった理由がそれなのだろう。一年であるヨマイが、あそこで幅を効かせていては、上級生の心象が悪くなる。だが、真っ先に5階層に工房を持つという偉業を持ったならば、それも幾ばくか軽減される。

「面白そうな話だな。だけど、その間の階層間もぶち抜くのか?」

「勿論、そのつもりですよー。5階層の話を聞いた時から、最初からこうすると決めていたので、頑張って頑張って、慎重に計測して誰にも迷惑をかけないように、心を砕いていたんですからねー!!」

 先に降りていた階段を、数歩駆け上がって腕に抱きついてくる。少しだけ汗の香りがするヨマイに抱きつかれて、言葉を失ってしまう。甘くて、酸味があって、それでいて清涼感があって。温かかくて―――引き締まった身体を持つヨマイは、腕力を使って腕をホールドしてくる。

「‥‥だから、俺に頼ろうとしたのか」

「わかりましたー?あの巨人を打ち破る力を持っているのなら、迷宮の壁だって打ち抜ける筈でーす。まぁ、勿論、お返しに」

「いいぞ」

「え?」

「別に、そのくらいならいいぞ」

 時間が止まったように、動かなくなったヨマイを引きずって階段を降り続ける。階段の残りが2割となった時、ヨマイが正気に戻る。

「い、いいんですか?私の為に?」

「自覚がないのか?ここまで俺の世話をしてくれて、この杖の為に工房まで貸してくれた。いい加減、貰い過ぎだって思ってた所だ。それに、俺は壊すのがテーマなんだ。壊すだけでいいなら、いくらでも壊すぞ」

「—――驚きで‥す」 

「彼は、こういうヒト」

 気付かなかったのか、最後の階段を踏み外そうしたヨマイの腕を引いて、杖を持った腕で抱くと、ヨマイは逃げるように離れて、第5階層の始まり、床絵を踏みつけていく。

「ほ、本当にいいんですか?」

「もう少し素直に頼むべきだったけど。いいぞ」

「ま、まだ私の術が」

「かかってない」

「本当は、嘘だって」

「短い付き合いだけど、俺が嘘をついたか?それとも俺への頼みは嘘か?」

 脱帽、そんな形容詞がここまで当てはまる事もない。そう言い切れる程、ヨマイは5階層の扉に背中を付けて、黙ってしまった。なんて声をかけるべきか、そう悩んでいたらマヤカがヨマイの肩を揺さぶる。

「戻ってきて、彼が困ってる」

「は、はい‥‥いいんですね?何も、渡さなくて」

「そんなに渡したいなら、受け取るけど、ひとまずその頼みならいくらでも叶えてやるよ」

「‥‥本当に、神獣なのですね」

「そう、この子は神獣。あなたの願いや望みを叶えてくれる神の使い」

「おう。俺は神獣だ」

 もう一度視界の焦点を失ったヨマイが、肩を揺さぶられる、慌てて扉から退いてくれる。マヤカと軽く笑い合ってから、扉に手をつけて、少しだけ開ける。

「覚えておけよ。俺に願うって事は、本当に起こるって事だから」

 



「いかがですかー?驚きません?」

 ヨマイが強気な顔で聞いてくる。事実として、今の光景に口を開けないように耐える事しか出来ない自分がいた。隣のマヤカも同じようで、声を漏らす。

「ここは‥‥元々開発が進んでいたとは聞いたけど、一年でここまで?」

「ふふふー、きっとここの皆々様、あなた方に感謝してると思いますよー?だって、ここまで邪魔者も、巨大な巨人にもびつくかないで、自由に自らの探究を進められるなんて――――勿論、私も感謝しておりまーす」

 眼下に広がる第5階層は、ひとつの街となっていた。高い天井に、どこまでも広がる空間。ここは迷宮であるならば、むしろここまで広いキャラバンがあった方が正しいのかもしれない。ホテルのような建物は勿論、飲食店に、雑貨店、配達員なのか?窓口に紙切れを渡して代金を払う学生もいた。それらだけじゃない、ひとつの校舎すら広がり、そこから呪物らしき品々を中心に、学生達がどこかへと運んで行く。

「ああやって、上から運び込まれてくる、降ろされてくる発掘品をどこかの工房かだったり、本格的な封印をする為、改めて穴を掘ったりするんでーす」

 今までの階層は、開けた場所こそあったが、それでも広い廊下としか言えない空間だった。だが、ここはそんな廊下の壁を全て破り、天井も爆破でもしたかのようなドーム状だった。しかも、そのドーム状の天井は、ガラスのような物で造られており、今は夜だという、実際の夜空で伝えていた。

「これは‥‥凄いなぁ。マヤカはどう思う?」

「—―――これは、もしかしてレイラインの上に?」

「おー気付かれましたかー。その通り、ここは巨大なレイラインを足場に造られた、ここでしか成り立たない街です」

 それを聞いて、足元に顔を向けてしまった。階段から降りて扉を開けた時、そこも階段で、街から見れば、ここは高い台のように感じるのだろうと思った。

「勿論、レイラインが消え去る事などあり得ませんし、もしあったとしても、ここは既にこの三次元の現実に結ぶ付けているので、まず崩落などあり得ませーん」

 機関やマスターの列車が船であるのなら、ここは強大な空母に近いのだろう。星の血の奔流の上という星が終焉を迎えるまで、消える事のない力を掴む巨大な碇を降ろし、元からあったここの邪魔な岩盤を押しのける形で、この街を浮き上がらせる。

「‥‥マヤカ」

「元々、レイラインは機関の物という訳じゃない。それに、ここはレイラインの上に造られたというだけ、もう現実世界にこうしているのなら、列車でここまで来れると思う」

「マヤカがそう言うなら、いいんだけど‥だけど、ここまで私物化っていうか、街と造り出してるなんて」

「上での闇商売のような物じゃない。ここは、この迷宮を管理する上で自然と生まれた社会のように感じる。勿論、機関の人間も不義がないか調べるだろうけど、ここは必要な施設」

「ん?なんのお話ですかー?」

 聞こえないように小声で話していたマヤカに、ヨマイが近づくが、マヤカは俺の腕を取って高台の下へと連れて行こうとする。

「街の様子が気になる。目的地までの過程だけでいいから、案内してもらえる?」

「もっちろーん、もしよろしければ、軽く食事も取れますよー。あの上の方々みたいに足元を見ない、豪快な物資搬入が可能な一派が商売をしていますからー」

 マヤカとは違う腕に抱きついて、街まで一緒に降りてくれる。どうやら、ヨマイの通達とはここまで届いていたのか、白のローブをまとった俺とマヤカを見て、発掘学の学生達が指を差してくる。どこか砂の街を思い浮かべるキャラバンは、見た目以上に清潔で、降りてすぐ近くにある広場には噴水まであった。

「物資搬入って、徒歩でか?」

「みーんな、考える事は一緒って事でーす」

「‥‥もう、私物化が止まらないみたいだな」

「あははははー違いないですね」

 既にエレベーターを実用化している一派、貴族連中がいるらしい。だが、それは正しい選択なのだろう。この迷宮には、世界中の公に出来ない呪物や遺産、中には秘宝とでも呼ぶべき品だってあるのだろう。それを真っ先に調べられるなんて、これ以上のアドバンテージはないだろう。

「食事が可能、と言った?」

「ええ、勿論。よろしければ宿泊だって、お金はかかりますが」

「そこは」

「も、勿論‥‥シングルもダブルも‥‥」

「素敵‥‥」

 わざとらしく舌なめずりをするマヤカの息が、耳の中に入ってきて身震いしてしまうが、それをかき消すべく、こちらもわざとらしく声を出す。

「食事をしよう。もう2時過ぎてるけど、開いてるか?」

「開いてるかと、だって、ここの方々は昼夜逆転なんて当たり前ですのでー」

 知ってる店があるのか、ヨマイは迷いなく広場から真っ直ぐに5階層を貫く大きな通りを歩いて、砂の壁で出来ているひとつの建物まで連れ込んでくれる。入ってわかった、ここは飲食店だ。食べ物の匂いが充満している。

「ここには、案内してくれるウエイトレス様なんていませーん」

「ヨマイがいるだろう?」

「チップ、いただけますか?」

「なら、今日一日分のチップとして払おうか?」

「もう!!大好きでーす!!お金払いのいい方って、どうしてこうも先に相手がいるのでしょうー」

 心底、金銭が貰える事が嬉しいようで、舞い踊るように腕の中で回り、軽やかな足取りで窓近くのテーブルまで連れて行ってくれる。

「お金払い?」

「‥‥ヨマイを指定するにあたって、いくらかだけど」

「そういう時は言っていいのに。機関の費用として」

「もうマスターに伝えた」

「抜かりない、そう、こういう事も出来るようになったのね」

 壁に杖を立てかけた終わった時、隣に座ったマヤカと共に、店の雰囲気を楽しんでいると、ヨマイはひとり立ち上がって「適当に注文してきまーす」とカウンターに行ってしまった。

「追いかけなくていいのか?」

「彼女は、もう裏切らない」

「なんで?」

「私には、わかる。大丈夫、何かあったら私が逮捕する」

「‥‥任せるよ」

 椅子に体重をかけて、4階層では取れなかった疲れを手放す。湧き上がってきたあくびを噛み殺し、腕を伸ばしてリラックスをする。

「ちょっと、疲れた?」

「ちょっとだけな。マヤカは?」

「私も、ちょっとだけ。ここでの駐在の命令が来ても、拒否するかも」

「断ってくれ。マヤカとはずっと一緒にいたい」

「嬉しい‥‥」

 テーブルの下から手を取ってくるマヤカが、肩に頭を乗せてくる。長い艶やかな髪が頬に当たり、肺一杯にマヤカの香りを吸い込む。それが音でわかったのか、マヤカが鼻で笑ってくる。

「困った子、そんなにわかりやすくするなんて―――また、怒って欲しい?」

「‥‥怒らないで欲しい。怒らないで、マヤカ‥」

「ふふ、そういう所も、まだまだ男の子。だけど、今日のあなたはちょっとだけ格好良かった。彼女とはどういう関係?」

「ヨマイか?昔、雇われただけの関係だよ。ヨマイの工房に、守らないといけないものがあるから、一晩警備してくれって、言われたんだ」

 あの夜は、結局肩透かしとなってしまったが、いい経験が出来たと思う。元々、破壊一辺倒だった力の使い方を、守るという方向に開拓してくれたのは、ヨマイのお蔭かもしれない。

「そう、だから直近であなた達の名前があった‥‥怒ってる?私の事を――」

「怒ってない、だってマヤカのお陰で機関の誤解が解けて、アレを倒せたんだ―――マヤカこそ、怒ってないか‥‥俺に」

「いいえ、怒ってなんていない。あの時、真っ先に私を迎えてくれたのは、あなただった。私、実はあなたと同じくらいシンプルな時があるの。迎えに来てくれて、嬉しかった」

「‥‥よかった」

 もう声なんて不要だった。店の中にいる学生達も、ここでが気が抜けているのか、俺達がいても誰も気にしない。ただただマヤカの体温に頼って目を閉じていると、扉が乱暴に開かれた。

「無粋な事‥‥」

「研究で疲れてるんだ。放っておこう、それより今日の俺は、どうだった‥?ちょっと格好良かっただけ?」

「そう‥もっと私に甘えたいの。今日のあなたは素敵だった‥だけど、やっぱりまだまだ男の子」

「マヤカの男の子だ‥‥全部、マヤカの所為だ」

 マヤカの頭に頭を重ねて、同じ空気を吸い合う。それだけで、ここまでの道のりの疲れが抜けて行く気がしていると、異臭が漂っているのがわかった―――これは、4階層の休憩所で感じた。

「うっ‥」

 隣のマヤカが声を漏らした。急いで、握っている手を口元まで運び、手放す。袖で口と鼻周りを塞いだマヤカと共に後ろを振り向くと、先ほどの男子学生が立っていた。真後ろという訳でもないのに、ここまで汗臭いとは――いや、汗だけじゃない。

「ミイラでも‥いや、ゾンビ‥」

 腐臭だ。男子学生の身体が腐っているのかどうかは、わからない。だけど、汗だけじゃない。腐った肉からこぼれ落ちる腐った体液、それが汗と混ざりあって、不快な臭気を造り出し、嗅覚を破壊してくる。真っ当な人間から漂う物じゃない―――。

「おい!!ここは俺の店だ!!とっとと失せろ!!」

 この店に相応しいエスニックな姿をした店員の学生が、腐臭が漂う学生に、怒号を浴びせるが、男子学生はぶつくさ何かを呟くだけで、聞こえていない様子だった。

「ヨマイ、こっちに後ろに来てくれ」

「は、はい!!」

 杖を持ち上げて、マヤカとカウンターから走ってきたヨマイを背中で守る。あまりにも異常な光景だった。呼吸こそ出来ているが、目が映ろで、正気とは言い難い。それだけじゃない、彼が歩いてきた道筋に残る足跡が、尋常ではなかった。

「‥‥お前、人じゃないのか」

「かぎ爪―――」

 残った足跡を見て、マヤカも立ち上がり、腕に鎖を絡み付かせる音がする。ただの革靴である筈の足跡には、巨大な獣のかぎ爪、超重量の残りが、砂のレンガで造られた床に、穴を穿っていた。




「いいぞ、そのまま誘い込め」

 既に山中から離れ、今は発掘学の校舎が間近に見える場所まで到着していた。深夜という事もあり、出歩いている学生は見当たらないのは、不幸中の幸いか。それとも、これで造られた現場なのか。

「いいんですかッ!?」

「ああ、これでいい。元々、山中にゾンビがいるとしたら術者、この場合は司祭の喉元まで案内させるのが目的だ。それに、彼らからは『誰の』ひと目につかないようにとは、言われなかったのでね」

 元からこうなると想定していたとすれば、やはりこの教員は腹が読めない。今、発掘学の校舎には機関の人間達が揃っている。マヤカとリヒトが呼んだ治安維持の為の部隊だ、あの迷宮に襲撃なみの捜査が可能な腕利きが揃っている筈だ。

「もしかして、リヒト達が通報する事も?」

「さてな。私としても、上手く事が運び過ぎていると、自惚れてしまいそうな今だよ。万全のマーナ、全員が揃っている我ら外部監査科、完全装備の機関の部隊。これで取り逃す事があれば、それは何かしらの『未知なる力』が働くという事だろう」

「‥‥なんですか、それ?」

「ふふ、さぁな?」

 ミラー越しの教員の顔は、やはりどこか楽しげだった。外部監査科とは、本来はオーダーの組織らしい。ならば、あの殺人も辞さない人狼のゾンビが学院内を闊歩しているなんて、オーダーとしても機関としても、許せない事の筈なのに。

「そろそろ着くぞ。ロタ、機関には?」

「通報済みです。けれど、マーナが追いかけているとはいえ、人間達が死ぬのでは?まぁ、どうでもいいのですけど」

「ロタ、機関を舐めているな?確かに、昨今の機関の不甲斐なさは目に余るが、それでもこの秘境が誕生して以来、一度も誰も取り逃がさず、何者の隠蔽も許さなかった腕利き達がいる。ふふ、いや‥その中のひとりなど腕利きなんて言葉では到底表せない、悪魔使いだぞ?」

 背筋が凍りそうだった。今、確かにこの講師は悪魔使いだと言った。その名は、我ら魔に連なる者にとって、最終到達点のひとつ―――。

「悪魔使い‥?」

 声が我慢出来なかった。舌を噛みかねない状況という事も忘れ、呟いてしまった。

「彼らの役割は、この秘境を口外する者を許さず、逮捕する事が使命だ。オーダーの傘下として組織された彼らが、まともな訳がないだろう?あの世界最強と名高い武力組織オーダー、その一角をなす日本支部が、この秘境を任せるに値すると判断したのがマガツ機関だ。悪魔使いがいたとしても、おかしくない、そう思わないか?」

 悪魔使いとは、悪魔と契約が成功した人間達の事だ。それは、ゾンビという間接的な神を使役する者とは、一線を画す存在。なぜなら、それは―――悪魔と証明から殺し合い、屈服させた事を意味するからだ。

「ふふ、君達はどうかな?あのマーナすら越える力を持つかもしれない悪魔と、まともに殺し合えるか?ああ、勿論、冗談だ。絶対に本気にしないように」

 力が抜けていく。私のあの方にも匹敵する、もしくはそれをも超えるかもしれない超常の存在、別次元の何者かと殺し合い、打ち勝った者が、人類にいるなんて。

「なぜですか?悪魔、と呼ばれる者は私達も見た事があるのに」

「ゾンビと同じか、それ以上に神そのものが、悪魔なのだよ。デウスが語源の存在など、真っ当な人間では決して勝てる筈がない。言っておこう、あの者は、一体だけではない、多くの悪魔と契約している。ふふ‥決して、機嫌を損ねるような事をしないように‥」

 そんな危険な人物、もはや人物とも言い難い契約者がいるというのに、それを話した人形の講師は、どこか楽しげで、プレゼントを待ち望む子供のようだった。

「先生‥その人と知り合いなのですか?」

「‥‥ああ、何度か話した。だが、未だにその片鱗しか見せてくれなくてな。今現在は――自身の弟子に、悪魔の力の一端を預けて隠居をしているつもりらしいがね。だけど、迷宮からの通報となれば、いい加減重い腰を上げるかと思っているのだよ」

 先ほどから楽しそうにしている理由は、それだったのか。講義中など、そんな様子は一切見せなかったというのに。だが、一抹の不安があった。

「‥‥その悪魔使い、リヒトに興味を持っていたり、しませんか?」

 リヒトは、その人物が契約している悪魔よりも貴重な存在の筈だ。リヒトと繋がりを持っているのは、創生の彼岸にいる、創生と破壊の神を喰らった竜。恐らく、その悪魔よりも格上。悪魔が生まれた理由は、私にはわからない。だが、悪魔だって生まれた経緯がある筈、ならば悪魔を生み出したのは創生の神だ。

「リヒトを、無理矢理」

「それはないし、私が許さない」

 斧でも振り下ろしたようだった。

「あの人物は、そもそもリヒトと似通った人生を送った術者だ。リヒトのここまでの過程は、きっと耳に届いている。私としては、リヒトには、あの悪魔使いと会って話し合ってもらいたかった」

「‥‥なぜ、ですか?リヒトはもう人間との接触は」

「彼女も、もう人間ではない。だからこそ、人間との付き合い方を学んで欲しかったのだよ。彼女が経験してきた事は、いつかリヒト自身も経験する」

 忘れてなどいない。忘れる筈がない、この人はリヒトの教師だ。必要な人物と必要な事を話してもらう。同じ視点を持っている者である、その人との対談は、リヒトにとって今後の為になると思った。楽しそうにしていたのは、リヒトの為だったのか。

「初めて、先生っぽいって思いました」

「ははははは、カタリ君にも言われるとはな。私も、ようやく教員が板についてきたかな?うん‥‥ああ、嬉しいよ、そう言ってくれるか‥」

「はい、やっと先生を先生って思える気がします」

「‥‥そうか‥‥」

 ハンドルを握る手を一瞬、目元に運び、影を作った。私にはわからない、この人がどれだけの決断をして教員や教授をしているなんて。だけど、それには大いなる覚悟を持っての事だったのだろう。

「彼は、喜んでくれるだろうか‥‥」

「忘れたんですか?あなたも、リヒトの恋人でしょう?私達がリヒトの事を想ってしてあげる事を、喜ばないって思ってるんですか?」

「‥‥ふふ、リヒトとの時間は、君に一日の長があるか。ああ、そうに決まっているか」

 並走するマーナがいるというのに、こんな話をするなんて、思ってもみなかった。だけど、決して悪い気分ではなかった。リヒトを待つ楽しみが、また増えた気がする。

「その人も、迷宮に潜るのですか?」

「潜る可能があるだろうな。あの迷宮での事故に、戦力を出し惜しみするなんて悪手、彼女自身が許すまい」

「‥‥私も、話してみたいですね。リヒト以外にもいる、この世界から解放者なんて。ふふ、ちょっとだけ試してあげましょうか?」

「ははは‥‥やめてくれ‥‥温和な人だが、恐ろしい人だよ。恐らく、ロタ自身には何も言わないだろうが、私に意見書が来るよ‥」

 この教員が恐れるなんて、一体どれ程の人物なのだろう。私自身も興味が出てきた。悪魔との契約者、その人間性にも興味がある。

「おっと、世間話をし過ぎたか。着いてしまったよ、降り準備を」

 発掘学の敷地である生け垣で造られた壁、庭園へと乗り上げる。真上から見れば、庭園など一部に過ぎない。その全貌は、巨大な丸い石畳の陣。これは、一瞬の観光名所となっており、秘境への入学者である魔道を志す者達が、一度は見る場所だった。

「マーナはそのまま行きなさい。私達はここから徒歩だ」

 扉を蹴り破るように、三人で車両から飛び降りて、庭園の生け垣に飛び込んで行った人狼と、後ろを追うマーナを追いかける。

「総員!!構えろ!!それが、目標だ!!」

 生け垣の庭園を抜け、校舎の眼前であり、迷宮への入口でもある扉の前で人狼と睨み合っているマーナを発見する。石畳の床の中央をふたりで囲み、どちらが先に仕掛けるか、タイミングを計っていた。

「予想通り、あれはラビリントスが逃げ込もうとしていたか」

「‥‥中に、アイツの主人がいるって事ですね――」

 左腕を銀に変え、何者をも拒む事を許さない刃とする。この腕は、星が作り出したリヒトの身体すら切り裂いた。例え、神の一種であるが、切断できる。

「恐らくな、もし私達を罠に誘う為だとしたら、彼の術者は相当の切れ者だ」

「その可能性はありますか?」

「いいや、無いだろうな。ロタ、前に出過ぎないように」

「‥‥わかりました」

 ヴェールを槍に変えたロタに、先生が肩を掴んで後ろに下がらせる。片腕を失ったとしても、あれは人狼。しかも、もう血は流れていない。人狼としての再生力を保持し続けているとしたら、あれは一撃必殺の力が必要だった。

「魔力を持つ毛皮、ね‥。狂戦士としてなのか、それともそうあれかしと望まれた呪いか‥どちらにしても、ゾンビとして扱っていい代物ではないでしょうね」

 優しげではあるが、芯の通った声だった。

「ヘルヤ、久しぶり」

「久しぶり、という程でもないだろう?ロタの身体を受け取った時以来だ」

「だけど、もう一か月は経ってるでしょう?だから、久しぶり!!」

「‥‥ああ、久しぶりだな」

 ひときわ豪奢な白のローブを纏った赤毛を持つ女性が、長いスカート状のローブを翻しながら、近づいてきた。年齢は先生と同じ位の筈だ、だけど若干幼く感じるのは、言葉遣いの所為だろうか。

「あの狼は、あなたの弟子の?」

「ああ、私の弟子、マヤカのゴーレムだ。どうかな?」

「とっても素敵。‥‥そうね、そろそろ話す時が来るとは、思ってた。あなたのもうひとりの弟子とも。彼は、今どこに?」

「彼は、迷宮にいる」

 今もマーナ達は、睨み合い一触即発の緊張感を持っているというのに、当人たちは待ち合わせをした友人同士のような風体で話し合っている。

「先生、真面目に!!」

「ああ、そうすべきだな。後で話がある、今はアレをどうにかしたい」

「どうしたいの?あれは、いくらあなたの弟子たちでも、私の部下でもただでは済まない。できるだけ、ここで仕留めたいのだけど?」

「聞くまでもないだろう?迷宮の門を開けてくれ」







「死にたくなければ下がれッ!!」

 水晶の槍と化した杖で、胸元から首へと切り上げる。水晶の刃は、ただの刃物ではない、いくつもの刃が折り重なり傷口を広げ、一振りで深い傷をつける。フランベルジュと呼ばれる波打つ刃を持つ剣がある、その特殊な刀身により、縫合手術を困難とさせる。死傷を与える事を筆頭とした、殺人の為の兵器。けれど―――。

「—――っ!!」

 確実に捉えた、なのに、その確実に致命傷を与える為に放った一撃は、ただの皮膚で受け止められる。否、傷はつけた血だって流れている。なのに、傷が消える。

「戦えない奴からとっとと出て行け!!邪魔だ!!」

 店内にいる学生にそう叫ぶ。無差別だった、俺を目当てに来たというのに、肩を掴んで追い出そうとした店員に、振り向き様に見えないかぎ爪で袈裟斬り。マヤカがその爪が心臓に達する前に腕を止めなければ、即死だった。

「リ、リヒトさん‥」

「カウンターに隠れてろ!!俺が始末する!!」

 ヨマイは、戦えないひとりではなかった。けれども、眼前にいる男子学生は、まともじゃないと悟り、カウンターに傷を負った店員を引き寄せたマヤカと共に下がってくれる。

「ここにだって拘束が出来る奴はいるだろう!!誰でもいい!!連れて来い!!」

 こういう時に、魔道を志す者である学生達は、都合が良かった。ここで暴れられると自身の工房が襲われるかもしれない。それだけは避けたいと、大人しく命令に従って、出て行ってくれる。

「巨人の力じゃない‥‥。これは、ゾンビの力、神通力なのか‥」

 マヤカとカタリが言っていた通り、ゾンビとは本来、神の名が語源だ。『理解の及ばない、人知の及ばない不可視の力』、神とはおおよそそう言った具体的言語化が出来ない偶像だ。けれども、かの宗教においてゾンビとは人が操れる神の力。人が扱う事の出来ない力、この世界との契約を権利を行使できる、まさしく神通力だ。

「聞こえるか!?お前が、いくら人外の力を持っていようとこの街に所属、庇護下にいる以上、勝手な真似は出来ない!!大人しく―――」

「—―――――あああぁぁぁぁ」

 理解が出来ない。あれは、もはや神としての一端を垣間見たのか?それとも、ゾンビはゾンビらしく、思考する為の臓器を操れないのか‥。

「ゾンビであるなら、術者がいる筈‥‥マヤカ!!」

「私は、手がふさがってる!!この傷は、放置できない!!」

 あの傷は途中で止まったとは言え、天井まで血が噴き出していた。縫合が出来るマヤカでも、あそこまで深い傷の治療には、時間がかかる。

「ゾンビとの持久戦か‥足でも切断して」

「それはダメ!!彼は、まだ人間の可能性がある!!殺してしまう!!」

「—――わかった」

 水晶を纏わせた杖から一部を取り除き、槍から杖本来の形に戻す。仕込み剣の鍔、ガードとナックルガードに水晶を籠め、魔術師の杖として作り直す。

「俺達に、理性など不要だ。だけど、世界への反抗の為には倫理感がなければ、ならない。さもなくば魔術は使えない。肉体を強化するのなら、それは手段だけにしておくべきだ」

 両手を前に突き出し、映画やロタのゲームのような跳びかかりを用いてくる。悪臭を吐きながら、黄ばんだ歯をむき出してくる姿は、ゾンビという以外、形容できる言葉がなかった。

「思考を捨てるな、なんの為に、ここにいる」

 白のローブに水晶を纏わせ、薄い装甲を作り出す。あの方から受け取った神の血を流した神の血肉たる水晶をマントとし腕に被せ、首に巻き付ける。迫りくる不可視の爪を迎え撃つ。どれほどの体重があったなど、測る暇もなかった。足が地面に埋まる、関節を中心とした身体中を水晶で補助しなければ、腕のひとつでも飛んでいただろう。

「爪だけで終わりか?」

 幅のある刀剣で、自身以上に頑丈で重量のある岩石を殴ったように、爪で襲い掛かったゾンビは、腕から弾かれ、全身を無防備に晒したまま、後ろに仰け反る。

「失せろ」

 先ほど、ヨマイの目の前で起こした爆撃、装甲車が激突してきたロケットランチャーに対して用いる爆発反応装甲のように、水晶のマントの表面を破裂。そのままつぶてを奴に浴びせる。こめかみ、頬、耳、首、二の腕、胴、腿、脛、手の指、それぞれ全てを破片が切り裂き、突き刺さる。

「殺してはいけない!!」

「今のじゃあ、死なない」

 服を貫き、壁まで吹き飛ばされる。そのまま破片諸共、壁に縫い止められた学生は、痛みで雄たけびを上げて、辺り一面に自身の血や唾液を迸らせる。

「そのまま、動くな」

 最後に作り出した水晶の槍を、奴の首元、襟を壁で突き刺し、動けを完全に止める。未だに、血肉でも求めるかのように、呻き声を上げて焦点の合わない眼球を向けてくるが、無視する。

「厄介だ‥‥気絶でもしてくれれば、良かったのに――――マヤカ、そっちは?」

 マヤカとカタリ、店員の学生が隠れているカウンターの裏を覗き込むと、マヤカは袖からか取り出した銀の短剣で、服を切り裂き、ヨマイはマヤカから受け取ったであろうと白の手袋と店のナプキンで、傷口を抑えていた。

「終わったの?なら、店の裏からアルコール度数の高いお酒を」

「いや、俺がここを見てる。マヤカが、探してきてくれ」

 ローブに常設されている白の手袋をつけて、ヨマイの手に手を被せる。ヨマイの腕力では苦し気だった止血処置に手を貸す。

「俺より、マヤカの方が酒はわかる。ヨマイは、外から治療が出来る奴を探して、連れてきてくれ。機関からの命令だって言えば、誰でも手を寄越すだろうから」

「は、はい」

「わかって、任せて」

 血まみれの手を引き抜くヨマイが、手袋も外さずに外へと駆けていく。マヤカと目で確認をし合い、店の奥へと向かうマヤカの見送る。倒れて傷を負っている学生は、そもそも頑丈だったようで、気絶こそしているが息は既に落ち着いてきている。すぐに止血が間に合ったのが、良かったようだ。

「こういう時、傷を負った奴って、ゾンビになるんだよな‥」

 自分で言って、縁起でもないと思い、口を閉じる。ゾンビと呼ばれた者たちは、光を恐れ、水を嫌ったとされる。その症例は、ある感染症と重なる部分がある。それは狂犬病だ。日に当たる事を嫌い、錯乱し、もがき苦しんで死んでいく。ペストやコレラといった疫病の知識がない当時の人間からすれば、それは悪魔や狼に憑かれたとすら見えただろう。

「血が止まらない‥傷の場所が悪い。止血するには、抑える事しか出来ないか‥」

 そもそも死体が腐るという光景がどういう意味を差すかもわからない人間は、それは何者へと変化するようにも見えたのだろう。しかも、吸血鬼として起き上がったのではないか?そう思った人間達は、腐りきった墓から死体を掘り起こしたとされる。なおさら、感染症が進んだだろう。

「マヤカと、ヨマイか‥」

 店の奥からマヤカが起こしている酒瓶をぶつける音が聞こえてくる。その上、ヨマイが人を連れてくる音もするので、ようやく一息つけると思い、息を吐く。

「こんな事が、ここでは日常茶飯事なのか?厄介で、度し難い‥‥ここに常駐する奴ら、毎日大変だろうな」

「彼の様子は!?」

 酒瓶の音をさせながら、戻ってきたマヤカに振り返る為、首を回した時、丁度ヨマイも医者らしき学生を連れ戻ってきた。らしい格好なのは店員だけではなかった、何故か研修医のような姿をしている。

「急げ、まだ血は止まってない」

「その酒瓶を床においてくれ。君達は、毛布でも探して」

 ヨマイと共に、店内に入ってきた学生と思わしき研修医から指示を受けていた時だった。壁に縫い止められていたゾンビが、再度唸り声を上げてくる。全員で、その光景を見て、声を失った。先ほどまで、確かに4階層で言い掛かりをつけてきた男子生徒だった少年が、眉間から皮が裂けていく。

「動かないで!!」

 床に酒瓶を落としたマヤカが、鎖を袖から呼び出し、壁の少年だった何かに向けて放ち、水晶の上から身体中を縛り付ける。けれど、その身体が徐々に膨れ上がっていき、鎖が軋むような音を鳴らせる。

「僕の専門外だ、任せる。怪我人を置くに」

「え、ええ。わかった‥リヒト」

「‥‥どうにかする」

 マヤカと研修医姿の学生が、店の奥へと怪我人を引きずっていき、残されたのは俺とヨマイ、壁のゾンビだけとなった。ゾンビの姿は、やはり異常だった。縫い止められた服だけではない、その皮すら脱ぎ、拘束から抜け出そうとしていた。

「ヨマイ、どう思う?」

「‥‥これはゾンビの力、そう言ってしまえば、簡単かもしれません。だけど、これはおかしい‥‥。いくらゾンビだとしても、人間だった時の片鱗が無さ過ぎます」

 皮が脱げていく光景は、むしろ自然だった。狭い服を脱ぎ去るように、その身体本来の質量が解放され、元の太い腕や頭がさらけ出されていく。

「これは、人じゃありません‥‥あんな爪の力、人間の身体で持っている筈がありません。無理やり持たせたのなら、こんなに非効率な方法、取らせる訳がない。人に見立てる為に、皮を被らせただけの傀儡‥‥」

「ドラウグルのゾンビか‥まさか、潜伏しているなんて‥」

 もう解放は間近だった。既に、マヤカの鎖の拘束は皮を脱いだ事により外れ、床に落ちて塵となっていく。

「皮を被るという行為、狂戦士の如き膂力に耐久力‥‥そして、傷を負って瞬時に回復する力‥これは、人狼‥」

 人狼、またの名を狼男。満月の夜にただの人が狼となり、人だった時の記憶を忘れ、友人や恋人、近隣の人間を無差別に襲い殺す。その起源は、旧約聖書、初めての症例としてはローマ帝国にまで遡る。ギリシャ神話ではかの主神ゼウスが、人の王を狼に変身させたという伝説すらある。また狼の今の姿には、スラブ系民族の戦士の姿があるとされ、彼らは成人の儀式として狼の皮を被ったとされているからだ。

「皮を脱ぎ捨てる‥‥いや、皮を変える事に意味があるのか‥人を被っていたのは、人として紛れ込む為か。ドラウグル?はっきりと言えば良かっただろうが‥放置すれば、死人が出るってよ!!」

 杖から水晶の槍を造り出し、赤熱化させる。ここで仕留めなければならない。

「あの人格が、人だった時なのか、術者に遠隔から操られていたからか知らないが、ここで破壊する―――ヨマイ、離れてろ!!仕留める!!」

「だ、ダメです!!」

 槍を持ち上げて、息吹を使う為、神の血を槍に流していた時だった。ヨマイが身体にしがみつき、ローブを握りしめてくる。

「どうしてだ!?」

「こ、ここは沢山の貯蔵品が!!」

「ここで仕留めないと、次は誰が狙われるかわからないだろう!?」

「ここだけはダメです!!ここには、あの狼男と比べられるぐらい、危険な物が揃っています!!壁ひとつでも、崩落させれば、ここにいる皆も巻き込まれます!!」

 ヨマイの言う通りだと思ってしまった。失念していた、ここは秘境内でも比べる物がない程、危険な土地。迷宮内での破壊活動など、どれだけの被害が出るかわかったものではない。

「なら、どうすればいい!?あの身体には、ろくな攻撃が効かない!!もうすぐ拘束だって、外れる!!」

 言いたい事はわかっている。発掘学の学生からしても、しなくても、ここを破壊するという事は、これまでこの秘境が世界中を巡って集めてきた品々を傷つける、封印を解くという意味だ。それは、この迷宮とも冥界とも揶揄される場所から繋ぎ止めていた怪物達を解放するという意味。だけど、今、目の前にいるのは人狼、狼男だ。

「あれの危険性は、わかるだろう‥。俺は機関としてだけじゃない。この秘境で暮らす魔道を志す者としても、あれは捨て置けない」

 もう時間がない。身体から伸びた腕が、身体に突き刺さっている水晶を引き抜いていく。それだけじゃない。もう片方の腕が、壁を殴りつけ、壁ごと破壊しようとしている。

「任せてください―――私に考えがあります」

「考え‥?」

 芯の通った声だった。壁にいる殺人の天才よりも、腕の中にいるヨマイに目が惹きつけられる。クマの深い目から感じられる力強さは、上で感じた適当さじゃない。真に、あれを安全に打ち倒す為の算段を持っている、そう感じられた。

「‥‥時間がない、手短に」

「はい、ここではその力は使えません、だけど、外でなら」

「外まで連れ出すのか‥ああ、無理じゃない。だけど、エレベーターに大人しく乗せる余裕なんて」

「いいえ。わすれましたか?ここは、迷宮であり冥界、であるならば、門があります」


 


 壁からの拘束から逃れたゾンビから、跳びかかれると構えていたが、狙いが外れた。当のゾンビは真っ先に背中を見せて逃げ出した。俺を狙ってここまで来た、それは違ったのだろうか?そんな無意味な思考ばかりが、頭を渦巻いていた。

「何処に行く気だ!?」

 ヨマイを抱えたまま、水晶の柱を足場に、跳ねて追いかけ続ける。もう散々、周りどころか秘境内で見せているので、隠者としての感覚が薄れてしまっているのかもしれない。ひとつの巨大な樹氷の如き水晶を呼び出し、枝葉を伸ばしながら、その上を跳ねながら進む。街に落下する前に、七色に反射する水晶は塵と消えている為、周りからすると、雪か氷にでも見えるだろう。

「こ、こんな事も出来たんですねぇ‥」

「そうそう見せないから、よく見ておけよ。次は、いつになるかわからないからな!!」

 水晶の樹から、生まれ続ける枝に葉は、今も街の屋上を足場に逃げ続けるゾンビを追いかける。足場だけじゃない、あそこまで人外としての力を見せつけているのだ、串刺しにしたとしても、問題などない。そう思い次の枝、次の枝へと足をかける度に杖で枝葉を撫でて、火花を起こし操っているというのに、まるで捉えられない。

「あの動きは異常だ‥‥」

 もう既に、水晶の樹は、水晶の巨人と化している。ドーム状の天井まで達した身の丈をもってして拳や指を振り下ろしているというのに、人狼をその手で握る事が能わない。正確な時速など図らずともわかる。既に、生物としての限界を超えている。

「身体を腐らせながら、進んでる‥それだけじゃありません‥。空を飛んでます‥」

「神の一種か‥」

 神通力とは、そもそも不定形の力だ。あのゾンビに、神通力としての意識があるのかどうか知らないが、あのゾンビが現在使っている力は、まさしく6つの力の内の一つ―――神足通。自由自在に、自身の望むままに空を飛び、水の上を走り、果ては壁のすり抜けすら可能とする。しかも、それだけじゃない。神足通には、もうひとつ力がある。

「望むままに姿を変える‥」

「あの皮は、神通力のひとつかもしれません。だとしたら、人狼はあれだけじゃない、成功個体があれだけとは思えません」

「‥‥厄介だ」

 水晶の腕は、もう既に第5階層全てを呑み込み始めている。天井に街に根を生やさせ、樹としての頑丈さを見せつける。根を張れば張る程、樹木は頑丈に、かつその強さは伐採されたとしても続く。樫の木など、かのヴァルキュリー作戦で、狙われた人間を爆発反応から守ってしまっている。厄介だった、あの教授の真似をしている。

「マヤカから連絡は?」

「まだですッ!!」

「—――まだ時間を稼がないと」

 あのゾンビが、望むままに姿形を変えられるとしたら、一種でも人波に入ってしまえば見逃してしまう。匂いで探せばいい?そんな悠長な事をしている間に、不可視の爪で狙われれば、即死する。少なくとも、俺以外を狙わせる訳にはいかない。

「ヨマイ、やっぱり下に降りた方が」

「今更何言ってるんですか!?もし見逃した場合、リヒトさんだけで探せますか!?」

「‥‥言っておくけど、ここだって安全な訳じゃない。俺の傍は、危ない‥」

 現在の所、人狼のゾンビは街に降りたつ前に、水晶の枝で邪魔を続け、屋上や壁から一瞬も逃がさないようにしている。けれど、逃げ場がなくなった時、あのゾンビはこちらを狙ってくるかもしれない。その場合、今の俺ではヨマイを守り切れない。

「忘れましたか?ここは、元々危険な場所です。自惚れないでくれます?私だって、発掘学の学生、それに私がいないとタイミングも伝えられない、違いますか?」

「‥‥なら」

「なら?」

「もっと強く捕まってろ!!それから、後から舌噛んだとか言うなよ!!」

 腕にまとわせていた水晶を、更に分厚く強固にする。ヨマイと一体化するように、ヨマイの身体も呑み込む。まだ遠慮して距離と取っていたヨマイの頭を口元まで引き寄せて、髪に呼吸を当てる。

「狙いは、あの階段、それまで奴の逃げ場を奪い続ける。それでいいんだな!?」

「はいッ!!あなたの息吹、アレを使える場所は階層間の階段しかありません!!」

 先ほどと真逆だった。上に登って真上から撃ち落とそうとしていた槍を、今度は上に向かって放つ。階段の真上にあったステンドグラス、あれがこの迷宮では門と呼ばれているらしい。

「目安でいい、いつまで待てば?」

「あの門の開閉には、本来なら発掘学のお歴々、教授達と機関、それに他学部の許可が必要です。だけど、ここはまだ5階層。ここより下であるならば、手の施しようがなかったかもしれません。だけど、この街にいる貴族の子息子女達ならば、5分とかかりません」

 ヨマイの作戦だった。あの人狼を階段まだ誘い込み、門を開く。そこで自身で上がるか、撃ち上げるかは未定だが、逃げ場を無くした人狼を息吹で撃つ抜く。あそこまで直列に並んだ階段からならば、絶対に外さない。

「教授連中だけじゃない、真上には人がいるんじゃないか!?」

「街の学生達が、手を貸してくれています。真上、階段から避難しろと」

「それは、頼りになるなッ!!」

 この街の住人は、全て己が欲望を満たす為だけに、この迷宮に住んでいる。ならば、己の工房や呪物が破壊されるかもしれない、そう思った連中がこぞって手を貸している。

「動くなッ!!」

「はいッ!!」

 狙いは当たっていた。徐々に逃げ場を無くしていた人狼は、遂にこちらを狙ってきた。振り返った人狼は、水晶の枝に足を付け、俺とヨマイの頭を噛み潰そうと四つん這いになって走ってくる

「ただの殺人鬼が。俺を狙う気かよ!!」

 水晶の杖を宙に放り、奴の視線をずらす。その一瞬の隙を狙い、拳に纏わせた水晶を最高硬度まで引き上げる。あの方の白き血を、通わせた拳を突き出し、破れかぶれとなった人狼に突き出す。あれに表情があるのかどうかはわからない。けれど、ほくそ笑んだ。そう感じられた。

「どうだ?自慢の牙が負けた感覚は?」

 噛み砕く、噛み千切る。そう意気込んで拳を頬張ったというのに、人狼の牙は水晶の拳には敵わなかった。いくら神通力、いくら神の一種とは言え、創生の彼岸にて、神を喰らったあの方の血肉には到底届かない。

「終いか?」

「お終いですか?」

 腕の中のヨマイと共に、そう人狼に告げる。次もわかった、確実に怒り狂った。あの男子学生の性格を引き継いだのか、情緒が不安定な血走った瞳を剥き、かぎ爪を振り下ろしてくる。だけど、それは寸前で止まる。違う、寸前で腕が千切れる。

「何度も使えると思ったのか?」

 宙に放った杖が、振り下ろされる前に人狼の腕を突き千切った。関節が逆になるように裂け、飛んだ腕を有り得ない物を見るような目で、人狼が呆けている。

「ただの人間って―――思ってたのかよ!!」

 牙を砕き、拘束するものが消え去った口から引き抜いた拳を、奴の顔面に叩き込む。人狼の体重は想像以上だったが、足場が悪いなかで受けた最高硬度の拳は、奴を仰け反らせ、足場の枝に突き刺さった杖を引き抜くまでの時間を与えてくれる。

 杖を手で回転させ、水晶の枝に火花を起こさせる。樹の巨人すら押し流した水晶の奔流を呼び出す。質量を持つ者ならば神の血すら引く巨体であろうと、容赦なく流し去り、視界に入った者を等しく、消し去る津波。

「退去の時間だ。思考ができないのなら、お前に文明は相応しくない」

 巨大な水晶の手が折り重なって生まれる水晶の波は、ゾンビへの壁であり、弾幕、そして思考する事を忘れ、堕落に落ちた白痴の人々を滅ぼす洪水である。声すら忘れた屍を掴み、押し流していく。決して逃がさない、水晶の枝を伸ばしながら、波を流す。

「行くぞ」

「どこまでも」

 洪水の一握りに足を乗せ、ゾンビを運ぶ波と共にあの高台を目指す。

「死ねると思うなよ」

 このまま壁に押し付けて、圧殺すれば楽にだろう。けれど、こいつは真っ当な方法では殺せない。殺すという考えが、そもそも間違っているのもしれない。ゾンビとは神であって、力という概念だ。ならば、それを消し去るには、神をも越える力が必要だ。

「邪魔だ!!失せろ!!」

 物見遊山の野次馬、研究と自称する盗撮魔達、その双方に叫び、ゾンビ諸共水晶の波で高台を目指す。ようやく今、自分が立っている場所に気付いた馬鹿達が早々に逃げ始める。慌てて建物の上に逃げ去る者、高台から飛び降りる者、様々だが待っている暇はない。だから、容赦なく水晶の枝と水晶の波で進み続け、高台近くの噴水広場まで押し流す。

「マヤカはいるんだな!?確認する暇はないから、このまま突っ込むぞ!!」

 全力で目をつぶり、首と肩に抱きついて頷くヨマイを確認し、波で押し流されているゾンビ共々、階層を繋ぐ階段のある扉へと突っ込む。石造りの扉を波とゾンビの身体で破壊し、円状の巨大な螺旋階段へと到達する。

「急いで扉を!!」

 既に到着していたマヤカの叫び声に応え、破壊した扉を水晶の扉で上書き、補強する。それと同時に、ヨマイを腕から下ろし杖をゾンビに投げつけ、波を破壊、中央で流されていたゾンビの胸に突き刺す。そのまま壁に縫い付け、自由を奪う。

「門は!?」

「まだです!!まだ、4、5階層の門が、開いてません!!」

 降ろした瞬時に、背中に付き、真上を確認したヨマイが叫んだ。壁のゾンビを12時の位置にいるとして俺とヨマイは6時、マヤカは3時の位置にいた。

「マヤカ‥上はどうなってる?」 

 一度落ち着く為、深呼吸をして肺を冷やす。その間にマヤカからの返答を待ったが、何も答えが返ってこない。更にマヤカに繰り返すが、マヤカはこめかみから汗を流すばかりで、何も言わない。

「マヤカ?」

「‥‥わからない。ここに来るまでに、上にいる筈の機関に呼びかけてるのに、何も答えない。未だに返事が来ないなんて―――発掘学の学生達も、おかしいって言ってた。上の校舎から何も返事が来ないだけじゃない、第1の門が既に―――」

 壁の人狼が、胸の杖を引き抜き、床に叩きつける。杖を手元に引き寄せ、螺旋階段の床絵、中央に移動する。ゾンビとは言え、人狼の筋力を獣と正面から殺し合うなんて、無謀だ。

「時間がない。最悪、門を無視して撃ち殺す。それでいいな?」

「‥‥ええ、それが正しい」

「私も同意します‥あれは、長引かせてはいけない‥」

 マヤカの鎖の音と、ヨマイが隠し持っていたいた無線機の音がする。あれは、ここの貯蔵品を経由して通話をする違法の塊のような代物。ヨマイが、逃げずに腕の中にいた理由のひとつだった。

「聞こえますか!?許可なんて取っている暇はありません!!急いで、門を」

 ヨマイの叫びに答えたのか、ようやく真上の門が徐々に開き始めるが、時間はまだまだかかりそうだった。上の門はステンドグラスだけじゃない。隔壁のように、何重もの門と呼ばれるゴーレムが、ゆっくりと動き始めただけだった。

「マヤカ‥」

「ええ、任せて。必ず捕える」

 螺旋階段に幾百もの鎖の音が反響する。嗅覚は見た目通り、知覚も狼並みだったのか、頭から生えている外耳がマヤカの方向を向くのが見える。異常だと悟った、腕の爪から音を鳴らし、マヤカに視線を向けた。

「無理はしない。だけど」

「無理なんてさせない。俺が手伝う」

「‥‥良かった」

 杖に水晶を纏わせる。ロタの槍を模したその姿には、マヤカに向けていた眼球を引き寄せるに相応しいらしく、一歩、後ろに下がった。

「あの方が授けてくれた力で模した神の槍だ――。まともに受けられると思うなよ」

 一歩踏み込む。比べるべくもない。向こうの骨格、筋力を持ってすれば人間の姿である今の俺では、肉眼で確認する暇もなく絶命する。試す必要などない。自然によって造られた捕食者として当然の権利だった。だけど、捕食者とて決して最上位の存在ではない。

「避けてみろ」

 樹の巨人は神に負けた。おおよそ格という扱いがあるのなら、この人狼のゾンビの方が上なのかもしれない。だが、これもまがいなりにも神のひと塵であるのなら、あの方とは比べ物にならない。

「良い判断だ」

 全身に水晶を、そして足元からも水晶を呼び出し、勢いをそのまま受け取る。加速と呼ぶべき力は想定外だったのか、自分の意思とは関係なく距離を狭めてきた水晶の人外に、人狼は退きながら爪を降ろす。先ほど受け止めた時に、腕力は確認した。

「ここまで好き勝手して、逃げる気かよ?」

 水晶で包み込んだ腕、爪を持ち竜の手で人狼の肩を掴み、爪を食い込ませる。せっかく頭に水晶の竜の頭蓋を呼び寄せたというのに、目が合った瞬時、ゾンビの強みなのか、人狼は肩周りを自分の意思のように腐り落とさせて、壁まで逃げてしまう。

「どうした?お前が狙ってきたんだろうがよ?」

 手に残った肉を投げつけて、威嚇をする。だが、向こうは先ほどから誘いに乗って来ない。この退き際の良さは、獣としての本能か?殺してやりたい―――。

「終いか?なら、死ね」

 赤熱化した槍を携えて、肩から先を切断する一撃を繰り出す。それを迎え撃つように、内臓を抉り出す真横からの一撃を準備してくるが、一度恐怖を受け付けられた所為で、人狼の動きは遅かった。腕の付け根を構わず切り落とす。一瞬で塵となった腕を見て、人狼は背中を見せて大きく逃げる。振り向いた人狼は両腕を失ったというのに、腐っている肺と気管を使い、大きく咆哮を上げる。

「臭いなぁ」

 決して誇り高い姿とは思えない。顔が腐り落ち、腕を失った傷跡からは、血の一滴も落ちない。既に滴る新鮮な血など持ち合わせていないのか、零れるのは緑と黄色、そして紫の死臭が漂う消化液のみ。

「そこまでしてくれれば、十分。任せて」

 鎖を作り出していたマヤカが、機関のローブを翻し前に出る。指の一本一本に多くの鎖が絡み付き、片方の手には銀の短剣が握られている。

「油断しないで、まだ数本だけど牙がある‥」

「私が心配?大丈夫、だからそんな泣きそうな声を出してはいけない」

 後ろからマヤカの声が聞こえてくる。あの時とは逆だった。俺がマヤカの背中に守られていた。

「あなたは準備を、腕こそ無くなってるけど、いつ再生するかわからない」

「‥‥気を付けてくれ」

 マヤカに任せて、一歩下がる。それを見た人狼は、マヤカなら勝てると思ったのか、腐った口を使って笑ってきた。

「そう、あなたも私を侮るの。どうして、こうも人間の血が混じっている者達は」

 人狼が、足だけの身体を使って飛び出てくる。砕けた顎とはいえ、その咬合力はマーナにも匹敵するかもしれない。それは、いくら人間ではマヤカでも、頭蓋骨を潰されるという事だった。

「私達に頼っておきながら、愚弄するの?どれだけ自分の姿が見えていないの?」

 マーナと同じだった。マヤカの血肉を求めて、本来の開閉角度を大きく超えた門のように迫るが、その顎や残った牙に鎖を絡み付く。しくじった、後悔した表情。人狼に表情があるのなら、万人がそう名付けるだろう。

「それはプライド?それとも、自らの至らなさを隠す為の現実逃避?どちらにしても、あなた達は私の敵。もう私は人間の犬じゃない。だけど、狼でもない」

 螺旋階段中にマヤカの鎖が張り巡らされる。人狼は顎だけじゃない。足や首は勿論、マヤカがあ普段から使っている銀の短剣を模した刃物が、人狼の脇や背中、腿など残っている全身に刺さり、身体を奪い取る。

「私は、魔女。人間を嘲笑い、あなた達獣を手足として使い捨てる。恐ろしい魔女」

 螺旋階段を鎖が削る音が聞こえる。金属製の双方が、火花を上げてゆっくりと人狼が門へと引き上げていく。その頃には、天井の門も8割が開閉を終えていた。

「あなたは美しくない。私のマーナとは比べ物にならないぐらい醜い。そんなあなたを、これ以上視界に入れたくない。それに‥私のリヒトを狙った?爪を振り下ろした?あまつさえ、その原因は逆恨み?—―――リヒトが手ずから消す事すら許し難い‥‥許せない、許せない許せない許せない許せない許せない―――」

 マヤカの全身の鎖が、浮き上がっていくのがわかる。震える鎖が、マヤカの怒りを現している。マヤカの妹達を愚弄した奴がいた。そいつに対して、マヤカは同じ事をした。磔の力は、元かの聖人に対して行われ、その後はかの聖人の教えに背くとされた魔女に対して行われた拷問のひとつ。巡り続ける拷問が、いま魔女の手によって取り行われている。

「最後の時、二度と動かないで」

 最後にマヤカが両手を上げて、その身にあった鎖を放ち、人狼の首を締め上げる。人狼からは何も零れない、零れるような気管は全てマヤカ締め上げている。

「良い姿‥‥リヒト」

「ああ、もう十分‥ヨマイを頼む。外に連れ出してくれ」

「ええ、わかった。そっちはどう?」

「え、はい!!大丈夫、です‥‥だけど」

 歯切れが悪いヨマイを、マヤカが水晶の扉を前まで連れていく。負荷となる為、既にひと一人分以上の道を開けていた。

「どうかしたの?」

「‥‥もう、上の門が既に開かれていたそうです‥‥なんで‥‥」

「開かれてるなら都合がいい。学生達が気を回したんじゃないか?時間だ」

 マヤカは、まだ何かを言おうとしているヨマイを連れて、扉の外へと走り去る。それと同時に、全力で扉に水晶を纏わせる。

「お前だって、そうなりたくて成った訳じゃないだろう。呪いか、生まれた時からそうだったのか‥いや、なんにしろ、それは呪いか‥‥」

 今も呻き声を喉から響かせている人狼を目で捉える。既に、ここ一帯は俺の支配領域となっている。杖を床絵に突き刺し、水晶で覆う。氷ではない、人狼越しの暗い光を吸収した鉱石としての水晶が、逃れる者を一切許さず、全てを明るみに出す。

「処刑人だなんて自惚れるつもりはない。銀の弾丸だって持っていない――――喜べよ、苦しむ暇なんて与えない‥」

 突き刺した杖を引き抜き、床を覆っていた水晶を全て杖に集める。俺以外、この部屋にいてはいけない理由、それはこの光に身体が焼かれるからだ。全身を水晶で覆い、全てを焼きつかせる赤熱化した槍を奴に向ける。

「最後の時だ。潔白の証明なんて許さない―――お前は、いらない」

 何を狙う?無論、あの人狼だ。人を殺すという一点において、何者の追随を許さない圧倒的な人類の敵。では、なぜ殺す?言わずもがな、あれは俺を狙ってきた。そして、マヤカを鼻で笑った。呪いを受けた哀れな生き物のふりをしていれば良かったものを――――槍を持ち、伸ばした腕部と肩部を砲台へと変換する。腕の全てを、高射砲、対航空機砲とする。質量不足を通達—――では、更に水晶で囲み、腕から肩、そして床へと水晶で一直線に延長、固定、突き刺し、根を植え付ける。まだ足りない。

「喜べよ、ここまでの威力、あの方から力を受け取った時と同等だ‥‥」 

 補助を追加、右腕を添えて照準が外れないように安定化、まだ足りない。更に背中に翼を作り出し、羽の一本一本を床や壁に固定。

 槍に水晶を加算。8.8cm砲に、赤熱化した竜の息吹を追加。ようやく求めた威力に到達―――否、否否否、忘れるな。あれは人狼にしてゾンビ、神の一種。

「息吹には理由が必要‥いいや、大丈夫。放つ理由ならある」

 門が完全に開いた。光が上から差し込む。光を受けた神の槍は、何者をも浄化する。

「マヤカに褒めてもらう。それで十分だ‥‥」 

 神の血の注入、最終フェーズ開始―――完了、発射へと移行する。オールクリア、是、神穿つ竜の息吹。




 深い七色の海から、顔を出す。急いで水晶の浜辺へと泳ぎ、這い上がる。そこには、普段と変わらず、俺の白い方が浜辺に腰を降ろして足を海に晒していた。

「どうだった?」

「どうでした?」

「うん!!あれなら、文句なし!!正しい息吹の放ち方だったよ!!」

 這い上がった時、ようやく一息つけるかと思ったが、白い方にもう一度海へと押し倒される。白い髪に、白いワンピースのような出で立ち。笑った時、目を開けた瞬間に七色の瞳が輝き、そしてまた胸に顔をうずめてくる。

「偉い偉い!!褒めてあげるし、もっと好きになってあげるからね!!」

「嬉しいです‥‥良かった」

 腕の中の白い方と抱き合って、海に身体を浸からせる。身体を浮き上がらせる海の感覚が、心地いい。息苦しさなど一切感じない。海のさざめきだけに、耳を任せて、しばらく浮力を楽しむ。

「このまま眠る気?私、もっとお話したい!!」

「俺もです、じゃあ、失礼しますね」

 海の中で立ち上がって、白い方を持ち上げる。腕に腰をかけた白い方は、肩に手を置いて再度笑ってくれる。この笑顔を見れるのなら、多少の無茶や無理をしても、まるで苦ではない。

「ちょっとだけ、重く――」

「大きくなったの!!成長したんですっ!!」

「可愛くなりましたね」

「そう!!そう言って!!」

 禁忌に触れてしまったらしく、両頬を掴んで引っ張ってきたので、急いで口にレンガに見立たストップをかけて、方向転換を行う。

「ふっふっふっ!!私の事また褒めてくれたね」

「喜んでくれますか?」

「うん!!あなたに褒められるのが、一番嬉しい!!」

「良かった‥」

 砂浜に到着した瞬間、腕から降りた白い方は素足の足跡をつけていく。しばらく進んだ後、振り返ってまた微笑んでくれる。こうやって何度も海から砂浜へ、砂浜から海へと往復させられた事を想い出す。その度に、こうやって笑ってくれた。

「ちょっとだけ疲れた?そんな顔してる」

「そうかもですね。結局、朝から一睡も、それに夕飯もまだでしたから」

「あ、お酒ならあるよ」

「う~ん、何も胃袋に入れてない時に飲むのは‥」

「そうなの?じゃあ、また今度ねぇ!!」

 海から巨大な腕を呼び出そうとした白い方に待ったをかけて、酒はまたの機会にする。それに、ここで酒を入れてしまっては、聞きたい事を忘れてしまう。

「質問があります、いいですか?」

「うん。いいよ、何が聞きたいの?」

「あの人狼、どう思いましたか?」

 そう聞いた時、白い方は唸りながら海岸へと歩み、足で波を蹴り始めた。両手を後ろで組んで波を蹴る様子に、自然と微笑んでしまうが、本人はいたって真面目そうな表情で、顔を曇らせている。

「そんなに、危険な奴だったんですか?」

「えーとね、うーとね」

 長い沈黙の後、白い方は真っ直ぐにこちらを向いて、七色の瞳で胸を射抜いてきた。その清らかな唇が開いた時、息を呑んだ。

「‥‥美味しそうじゃない、かな?」

「‥‥はははははは」

「あ、笑った!!褒めてくれる?」

「ええ‥‥流石です」

 海岸線から駆け寄って抱きついてくれる白い方を持ち上げて、また腕に腰をかけさせる。楽し気に目を細めて頬を撫でてくれる白い方は、ただただ平和だった。

「あれは、いくらお腹が減ってても、食べないかな?だって、もっと美味しい物知ってし、それにお酒にもなりそうにない。あなたは?」

「俺も、あれは勘弁して欲しいですね‥‥。もうあんまり視界にも入れたくない」

 よくアレを俺は真っ直ぐに見てられたと思う。腐りかけの身体からこぼれ落ちる肉や毛、そして血ではない液体の数々。それだけならまだしも、マヤカと俺は、正面からあの人狼の口の中を見てしまった。思い出すだけで、吐き気がする。

「なんでだろう?人って、ああいうのが、好きなの?私は、もっと綺麗で美味しそうなのが好きなのに‥‥あなたはわかる?」

「ああゆうのが好きな人って、一定数はいるんですよ」

「人間って不思議」

 腕の上で、首を捻り人間への不理解感に思いを飛ばしている。カタリが嫌う理由は、よくわかる。あれは、なかなかのきつかった。ロタならいざ知らず、マヤカもあまり好ましい光景とは思っていなさそうだった。

「もしかして、食べたいのかな?」

「‥‥むしろ、あれの食べる光景が見たいのかも」

「ん?どういう事?」

「人間は、不思議で不可解って事です。どうか、それでご理解の程を」

「あなたが、そういうなら。そうなんだと思う。うん、わかった」

 素直に納得してくれた白い方が、また頬を撫でてくれる。だが、同時にまた謎が浮かんだ。この方は、ここから見える巨大な創生樹から成る青い果実を喰らっている。正直言って、あの実から零れる中身は、あのゾンビと似た者もあった筈だ。

「あれは、マズそうでしたか?」

「うん。だって、余計な物が混じってる気がする」

「余計な物‥」

 その言葉に、思い当たるものがあった。あのゾンビは、人狼のゾンビという例外やアブノーマルの塊のような姿をしていた。

「味が均一じゃないって事ですか。何が混ざってるように見えました?」

「んー、なんだろう。あれは、誰かの好みに味をつけられてる気がしたの。私の好みじゃない、私はもっと邪魔な物がない、それだけの味。あの樹の実も、たまにそういうのがあるから、好きなの」

 誰かの為に造られた?あの人狼のゾンビが?魔に連なる者としての知識を稼働させれば、わかる。あれは、失敗作かもしれないが、消耗できる代物じゃない。あれを使えば、雑多な魔に連なる者達ならば、楽に屠れる。それだけじゃない。人狼としての回復力に頼ったから、あそこまでの不死身とも言える身体と、元来の性能を出せた。

「生贄にするつもりだった‥‥あれだけの素体を盗み出しておいて‥」

 理解が追い付かない。迷宮から人狼の身体を盗み出し、自力で動けるようにゾンビとして復活させた。それだけでも、一角の魔に連なる者と言える筈だ。

「あの上級生、何を考えてる‥」

「どうしたの?困った顔してるよ。もう降ろしていいよ」

「すみません、ちょっと考え事をしてました」

 腕から降りた白い方は、胸の前に両手をおいて、不思議そうに見つめてくる。

「もしかして、私が困らせちゃった?」

「いいえ、ありがとうございます。あなたのお蔭で、わかった事があります」

「褒めてくれるの?」

 それに応える為に、小さい肩と頭を抱いて、髪を撫でる。小さく笑った白い方は、静かに同じように背中を抱いて撫でてくれる。人智どころではない、おおよそ地球上のあらゆる神と呼ばれる者達でも到底届かない力と叡智を持った竜神であるこの方は、こんなにも可愛らしくて、愛おしい。

「どうしたの?今日は、ずっと抱きしめてくれるの?」

「‥‥はい。俺が満足するまで、今日はこのままで‥‥わがまま、聞いてくれますか?」

「うん!!勿論!!今日、ずっとこうしてよう。私も、そういう気分になったから」

 細い小さい、けれど先ほどこの方が言った通り、確実に成長し俺と同年代ぐらいとなった身体が腕の中にいる。清らかな声と雰囲気と同等に、この方に対して心臓が高鳴るのがわかる。

「抱きしめるだけで、終わりなの‥?」

 腕の中にいる白い方をつい見てしまった。憂いの瞳じゃない。同じ興奮を持っている訳じゃない。ただただ俺のわがままは、ここで終わりなのかと興味を持っている。

「受け止めてくれますか?」

「うん、だって、いつも私のわがままに答えてくれてるもん」

 いいながら砂浜に背中を付けて引き寄せてくる。そんな白い方が、ただただ愛おしかった。



 その光は何者をも許さぬ浄化の権現—―――竜の息吹と呼ばれし極光は、神の一席にいる死肉を呑み込み、塵とした。影すら焼き尽くした竜の怒りは、天へと上る。

 ――――まだ足りない、浮き上がってくる時間は、ほんの一瞬、瞬きの間に終わった。だが、その時、誰も瞬きなど出来なかった。光に目が焼かれようと、その身に人狼の灰が降ろうと、否、違う‥‥人狼に灰など無かった。

 ただただ塵となって消えた。

 当然だ、あの神獣が願ったのだ。あれを消すべきだと‥‥息吹に理由を添えて――――神獣の怒りに触れたのだ、この世にいたという形跡すら消え去るが道理だ。未だこちらの肉体しか持っている者では、遠く及ぶまい。

 そして、そんな光景に直面。この世界から完全に消去される光景は、壮観だった。

「終わったの?」

 迷宮に対しての捜査機関である白紙部門の所属達が、腰を抜かし、言葉を失っていた。おおよそ私だってわかっていた。いくらリヒトの力を知っていたとしても、今の今まで姿は勿論、顔すら見せていなかった彼ら彼女らは、リヒトの実力を侮っていると。それが、これだ。釈然としない。そんな文字が顔に刻まれている。

「‥‥あははは」

 つい、声を出してしまう。土埃なんていう汚れではない。塵となって消えつつあるリヒトの力の片鱗を浴びて、恐怖で動けなくなっている。なぜだろうか、これほどまでに美しいのに。どうして人間は、彼の実力、宿っている力を認めようとしないのだろうか。

「‥‥あーカタリ君、ロタ、無事かな?」

「はい、先生」

「ええ、無事です」

「それは、何よりだ。よし、マーナも無事だな‥」

 門が開き、人狼が迷宮の底に落ちていく寸前、マーナが何を見たのか、私達の元に戻ったと思った瞬間、身体を使って守る態勢を取った。この状況を一番正しく見通していたのは、このマーナだった。銀の毛皮を使い、吹き上がってくる衝撃に耐えてくれた。

「君には、助けられてばかりだ。いい子だな。今日は、ゆっくりと休んで欲しい」

 先生が、空から降ってくる水晶の塵を浴びながら、マーナの頭を撫でている。手の感触がわかるのかどうかはわからない。けれど、当のマーナはそれが嬉しそうに、頭を押し付けて目を閉じている。

「よし‥だけど、後で最後にもう一仕事頼むから、ここにいてくれよ。どうだ?彼の力は」

 そう聞かれた悪魔使いは、打ち上げられた竜の息吹に見惚れて、声を出せずにいた。その様子が楽しくて仕方ない、そう顔に書いてある先生は、改めて周りを見渡す。マーナに最初から最後まで世話になっていたが、どうにか人狼をあの『門』と呼ばれる場所から動かさずに努めていた。

 その結果、上手く迷宮に落とす手筈が整い、真下に人狼を落とそうとした瞬間、リヒトの竜の息吹が地下深くから突き上げてきた。その結果、人狼は目の前で散り散りに、あの腐った身体は正直見たくもなかったが、目の前で浄化されていく光景は、見応えがあった。

「マーナは見えたとしても、どうしてわかったのですか?私のリヒトが真下にいるって?」

「あ、そうです!先生が叫ばなければ、巻き込まれてたかも‥」

 最初、マーナの行動は不可解だった。門は開いた、そのまま迷宮に落とすという目的は達成出来ていた。だけど、マーナはその寸前には、人狼から離れていた。マーナは恐れて逃げる筈がない。そう思っていた矢先の行動に、ここの人間全てが目を疑った。

「さっき言ったように、既に下の門が開かれていた。最初は話を聞いた学生達が無理にこじ開けたのだと思ったが、大人しくそんな命令、しかも自身の工房に危険を持ち込むという自殺行為を、あの発掘学の学生が行うとは、到底思えない。ならば、開けるだけの理由がある筈だ」

 先生が開かれた門まで近づいて、下を覗き込んだ。予想通り、そして先生が叫んだ通り、真下にリヒトがいるらしく、いつもの微笑みを浮かべる。

「まったく‥こんな光景を他の組織にでも見られてみろ?ミサイルサイロでも持っているのかと、疑われる所だ。‥‥人狼のゾンビか、あそこまで出力を上げなければ、消し去る事が出来ないなんて―――無理をさせてしまったな‥」

「‥‥リヒト!!」

 滑り込むように、門へと駆け寄る。遥か彼方、数十メートルはある地下の中央に、マヤカに介抱されているリヒトを見つける。もはや自力では動けないだけではない、意識すらない。呼吸をしているのかさえ、わからない。

「先生!!私、今から下に」

「ここまで派手に階段を吹き飛ばしたのだ。迷宮全体に何かしらの影響が出ているかもしれない、今はマヤカ君に任せよう」

「なら、やっぱり急いで下に行かないと!!」

「大丈夫だ。落ち着きなさい」

 校舎にある本来の入り口に走り去ろうとした瞬間、先生に肩を掴まれて引き寄せられる。真っ直ぐに向けてくる視線に、声を忘れていると静かに声をかけてくれる。

「ゆっくりとでいい。呼吸をしなさい」

「だけど‥‥」

「彼の傍にいるのは、マヤカ君だけではない。私など、歯牙にもかけない存在がついている。大丈夫、リヒトは死んだりなんかしていない。今は休ませてあげよう」

「—――はい」

 先生の黒のローブに身体を預けて、目を閉じる。リヒトが何かにつけて先生に抱かれていた理由がわかった。こうまで、心が休まるとは思わなかった。

「それでいい。リヒトが目覚めた時の為、私達は私達の仕事をしよう。すまないが、力を貸して貰うぞ。聞いた通りだ!白紙部門の人間達よ!まずは、迷宮の探索に行ってくれ!!」

 未だに我に返れずにいた人間達に、声を放ち意識を取り戻させようとするが、あまりにも現実離れした光景を目の当たりにした所為で、誰も彼もが再起不能となっていた。

「まったく‥部下の訓練がなっていないんじゃないか?」

「あれほどの力、格の違いを見せられれば仕方ないのでは?だって、所詮はただの人間ですし‥‥はぁ‥」

 ロタが、これ以上ない挑発を送ったというのに、人間達は未だに動けずにいた。これが白紙部門、先生と同じ所属だと思うと、やはりどこまで行っても所詮は人間だと思ってしまう。

「はぁ‥私もそう思う‥‥仕方ない、私が行きます。正気になった者からついてきなさい」

 唯一動ける悪魔使いだけが、声を発し門を覗き込む。

「彼が、あなたの?」

「ああ、我が弟子であり、恋人のリヒトだよ。どうかな?」

「神獣リヒト‥‥確かに、機関が目の仇にする筈ね。今までこの国最強の魔に連なる者を気取ってた自身の立場は、目の前で崩されたのだから。しかも、今の竜の息吹を何度も見せたとか?」

「ああ、今のが竜の息吹と彼が、いやあれを見た人間達が名付けた一撃だよ。ちょっと自慢しておこう、あれは彼に取って毎日数度も放てる一撃だ。まぁ、今のは全身全霊だったらしく、見ての通りだがね」

「‥‥私達の時代から見ても、あれは異質ね。もう求められる事はないと思っていたのに」

「時代は変わったが、人は変わらない。それだけだよ、それに時代は巡るものだ」

 今の言葉にどれだけの意味があったのか、ふたりにしかわからない会話を交わして悪魔使いは立ち上がり、ひとりで校舎まで入っていった。迷宮を探索するつもりらしい。

「あの人、ひとりで大丈夫なんですか?」

「ああ、問題ないだろう。というよりも、彼女が問題だと思ったのなら、ここで伸びている連中では、邪魔にしかなるまい。後はプロに任せよう。さぁ、君はこっちだ。ロタ、リヒトの薬を持てるだけ持ってきてくれ」

「はい、わかりました」

 車両に積んである薬を持ってくるべく、ロタは駆け足で車両へと戻っていく。なら、私も私の仕事をすべきだ。

「階段が修復されるまで、彼には下にいて貰うしかない。即席でいい。今の彼の為、腕の毒を抑える薬を用意してくれ。恐らく、今晩は苦しめてしまう」

「即席?言われなくても、とっくに用意してありますよ」

 白のローブの下に、既に試験管を用意してある。薬類をまとめたベルトを外し、マーナの身体に括り付ける。後は数日分の薬が収められてあるアタッシュケースをロタが持ってくれば。

「ああ、その前に。マーナ、先ほどのゾンビの血肉を出してくれ」

「え、あ、ちょっと待って!?」

 そんな声も虚しく、マーナは言われるがままに先ほどのゾンビの欠片を先生の造り出した袋の中に吐き出す。口に近づけられたとは言え、その血肉そのものを眼前で見させ付けられ、腐臭も肺に取り込んでしまい、吐き気がぶり返す。

「うぅっ‥‥」

「あーすまないすまない」

 それほど悪いと思っていないらしい先生は、袋の中を覗いてうなづき始める。気が知れない―――私はそう思ってしまうが、本人は至って真面目な顔だった。

「ゾンビか‥‥名前を付けたのか、粉を仕込ませたのか、それとも別の血を流し込んだのか‥。何にしても、ここではわからない。これが終わったら、私は一度カレッジに戻る。何か用があれば、訪ねてくれ」

「う‥‥はい、わかりました」

「—――ちなみに、今日、カレッジで映画鑑賞をしてもいいのだぞ?実物が目の前にいるのだ、いい演習にもなるぞ。何と言っても、4Dでは味わえない実際の腐臭を」

 思わず、先生の腹部を殴ってしまった。やってしまった、そう思ったが後悔はしていない。くの字に曲がった先生は、生徒から手を上げられるとは思わなかったのか、笑顔が引きつっている。

「謝りませんからね」

「‥‥からかい過ぎた。今のは謝ろう」

「ようやく、素直に謝るあなたを見た気がします。マーナ、これを」

 アタッシュケースを持ってきたロタが、マーナから外れないように、首元の樽のように固定する。山岳救助犬の体を成したマーナは、どこか誇らし気に一言鳴くと、門から飛び降りて、迷宮の底へと降りていく。

「下はマヤカ君とマーナに任せよう。私達は、こいつを調べなければならない。すまないが、カタリ君、やはり君の知識が必要になりそうだ。ある程度、耐性を付けてくれ。ロタ、任せるぞ」

「‥‥あなたからの命令は、嫌ですが、これもリヒトの為。カタリ、最初はコメディーから入りましょう。大丈夫、笑って泣けるゾンビ映画があります」

「泣く?笑えるって‥」

「大丈夫、任せて下さい。明日にはゾンビ達の頭を撃ち抜けるようになります。だから、手伝って。私ひとりではクリア出来ないステージがあるの!!」

 両手を握ってくるロタから受ける圧力に、頷いてしまった時。真後ろの先生が、微かに笑ったのがわかった。





 腕に鋭い痛みが走る。目をきつく縛って口を閉じる。針だ。腕に入ってくる異物に不快感を感じる。

「動いてはいけない。任せて‥もう終わる」

 温かい手だった。腕を握る手に縋りついて心を預ける。

「そう、そうのまま」

 針の異物感は終わらなかった。だけど、痛みは一瞬で終わった。安堵の息を吐いて、目を開ける。だけど、部屋の明かりに目が慣れない。地下深くだというのに、この光量。文明とは、憎らしい。

「マヤカ‥」

「そう、私はマヤカ。安心した?」

 額に口づけをされる。マヤカの息遣いを感じたのは一瞬、すぐに離れた呼吸を求めて首を上げると、肩を押されて動きを止められる。

「動いては、いけない。どうして、言う事を聞かないの?」

「マヤカが、何処に行こうとするから‥」

「そう。私の所為なのね。やっぱり、あなたは私の男の子‥わかった、どこにもいかない」

 その証明として、マヤカが手を額のかかった髪を撫でてくれる。冷たいマヤカの手が心地いい。熱を持った頭蓋骨が不快で仕方ない。目を閉じたというのに、目が回る。

「これは、薬か?」

「いいえ、これは点滴。美味しい?」

「‥‥全然、塩気が欲しい」

「わがままばかり。また私を困らせたい?」

 鼻で笑ってくるマヤカが枕元に座ってくる。長い黒髪は鼻先をくすぐり、マヤカの甘い香りを漂わせてくる。そして、少しだけだが湿り気も感じた。

「シャワー、浴びたのか?」

「わかるの?ふふ、ソムリエみたい。それとも私だから?」

「マヤカの事なら、何でもわかるよ。どうなったんだ?」

「今は何も考えないで。全て私達に任せて」

 枕元に座っているマヤカが腕を撫でてくれる。腕の針さえなければ、このまま引き寄せていたというのに。そんな願望を、ベット近くのスタンドが許してくれなかった。

「身体はどう?」

「‥‥お腹が減った」

「そうね。だけど、もう少し我慢して。内臓が弱ってるあなたでは、消化しきれない」

「度し難い‥‥身体は平気だ。だけど、ちょっと腕が上がらないかも」

 ちょっとというレベルではないと、俺自身がわかっている。マヤカの手や針の感触こそ感じるが、腕自体はほとんど上がらない。せいぜいがずらす程度だった。

「よく点滴なんてあったな。ここには病院でもあるのか?」

「上からマスター達ば物資や医療器具を降ろしてくれてる。あなたの薬は、マーナが届けてくれた。おいで、マーナ」

 扉を開ける音と四つの足音が聞こえてくる。人間の気配ではないマーナの雰囲気を感覚で辿って、手を伸ばす。そこに冷たい鼻先が届く。

「冷たい‥」

「濡れてる方がいい?」

「それもいいかもな。また、世話になったみたいだ‥」

 鼻を押し付けてくるマーナを、しばらく撫でると飽きたかのように、そそくさと出て行ってしまう。

「いい奴だ」

「そう、マーナはとてもいい子。私とあなたの警護をしてくれてる。安心して、眠って」

 あの巨体を持つ銀の狼が扉の前で、守ってくれている。そんな恐ろしい光景、そうそうないだろう。あの人狼のゾンビだって、震え上がるに違いない。

「今のあなたは、力を使い切って自力で回復出来なくなっている。だから、その熱と無気力感がある。薬と点滴に任せて。竜殺しの毒に油断してはいけない」

「ああ‥この熱、剣か‥」

 腕が動かない理由も、この剣だった。神経毒でも打たれてかのように、言う事を聞かない。だけど、この程度で済んでいるのなら、マヤカが急いで治療してくれたに違いない。

「お喋りは、ここまで眠って。それまで、一緒にいるから」

「マヤカがいないと、言う事を聞かない‥」

「私がいてもいなくても、あなたはわがままな男の子」

「いやだ‥そばにいて。言う事、ちゃんと聞くから」

 マヤカに対してのわがままが止まらない。元からそうだったかもしれないが、今日は特別マヤカへの想いが溢れてしまう。溜息を吐いたマヤカが、頬を撫でてくれる。

「‥‥ええ、わかった。あなたに傍にいる。だから、眠って。私の為に」

 やっと、マヤカからその言葉を引き出せて、安心して眠れる。身体の上の薄い毛布の温かみを、ようやく受け入れられる。冷たいマヤカの手を、ようやく噛める。

「また噛むの?美味しい?ふふ‥そう、美味しいのね」

 音を立てて、マヤカの手を吸って歯を立てる。冷たい手を火傷させるつもりで、舌で転がす。鼻で笑ってくるマヤカは、指を曲げて舌を掴んでくる。

「ちょっとだけ、反撃‥‥ふふ、良い顔‥」

 指を引き抜いたマヤカが、指を舐めながら微笑んでくる。既に、ここはマヤカの夢、まやかしの世界となっていた。先ほどの頭蓋骨がゆだるような熱も、左腕の神経を犯す毒も感じない。静かに死ぬように眠れる。

「今日は、私の身体はあげない。欲しいのなら、身体を治して」






「あ、おはよーうございまーす‥」

「そんな、小声じゃなくていいよ。そっちはどうだ?」

「リヒトさんが、あれだけ守って下さったんですよー?無事に決まっているでしょうー」

 水差しを持ってきたヨマイが、出来る限り音を立てないで入ってくる。傍らにマーナがいるのは、警護か、あるいは監視か。頼りになって仕方ない。

「お水を持って来ました。飲んで貰いまーす」

「ああ、喉が渇いてた所だ。それと、腹も減った」

「食事は、まだだとマヤカさんからのお達しでーす。見越していたようですね」

 サイドテーブルで、ガラスのコップに水を注いで渡してくれる。ただの水だが、この水が身体の火照りを冷ましてくれる。マヤカに、また甘えたい気分になってくる。

「外はどうなってる?」

「人狼が出たのですから、みーんな、取り調べ中でーす。あれだけ煩わしかった機関の面々に、感謝する事となるとはー。迷宮も変革の時に来ているのかもしれませんねー」

「機関は嫌いか?」

 もう一杯水を注いでくれるヨマイが、傍らの椅子に座ってる。

「嫌いというより、苦手です。勿論、向こうにだって理由があるのは重々わかっていますともー。だけど、私達には私達のやり方があります。法やルールでは、どうにもならない呪物がたーくさんあるんでーす」

「そうか‥」

 窓のカーテンを開けて、外を眺める。どこかの建物の3階らしく、窓の外から第5階層の街を見下ろす事が出来る。通りの路には白のローブを身に付けた機関が検問をひいている。意外と思った、発掘学の学生は自然と機関に従っている。

「ルール違反が多いって、言われてる割には、大人しいな」

「それは、そうかとー。だって下手に逆らったら工房への立ち入り検査が待ってますから。それに、相手が人狼である以上、身の潔白を証明できない者は発掘学的にも、信用する事は出来ないのでー。まったく、魔女狩りならぬ人狼狩りを、この時代、こんな場所でするなんて‥」

「まぁ‥調べられる側からすれば、気に食わないか」

 狙いはあの発掘学の学生、汗臭い男子学生だが、恐らくこの階層にはいまい。いたとしても自身の工房に引きこもり、過ぎ去るのを待つだけだろう。

「ヨマイはどうだ?取り調べ、受けたんだろう?」

「勿論ですよー。ただ人狼への取り調べ方を知っているのか、草で出来た紐で手首を絞められて、千切って見せろと。あれは、トリカブトなのでしょうか?」

「手首を絞めるか‥‥犯罪者扱いだな」

「あー、別に両腕ではないですよ?あれは絞めるというよりも、ミサンガみたいに、軽く縛る程度。私自身、あれでいいのかなーって思う程です」

 恐らくヨマイの言う通り、トリカブトの一種だろう。だが、それではもう意味がない。人狼がいたとしても、術者は見つけだせまい。あれは、所詮傀儡のひとつ。

「それにしても、あなたといると飽きませんねー。まだ会って数える‥‥どうしましたー?」

「いや、ヨマイと世間話をするなんてって思ってさ。どうだった?そうそう見れる光景じゃなかっただろう?」

「強気ですねー。私だって、人並みに見れないものは沢山見て来ていますよ?」

 着替えた紺のブラウスの胸元を張って、微笑んでくるヨマイに日が差し込む。目のクマは相変わらずだが、桃色の頬を白く染めるヨマイは、想像以上に大人の女性的だった。

「見惚れてますね?私だって、毎日制服じゃないんですよー?」

「良い物が見れたよ。あの人狼の事は、どう思った?」

「どうもこうもないですねー。だって、動く人狼というだけでも、目を疑った上、あれはゾンビの一種。実際に見るまで、信じられませんでしたが、あれだけ切り裂いても腕を落としても、平気そうな生物なんていませーん」

 間延びした声のヨマイは、普段の無気力な調子に戻ってしまった。秘境の中でも輪をかけて異常な土地である迷宮住まいのヨマイが、ここまで言うのだ、あれは他に類を見ない代物。つまりは、発掘学のお歴々曰く、元からゾンビとして改造されていたとは、十中八九、嘘だ。

「似た物も見た事ないのか?」

「もっちろーんでーす。いずれ復活したらいいなー?っていうミイラならまだしも、あそこまで精度の高いゾンビやキョンシーなんて、そうそうお目にかかれないかとー?だって、死体操りなんてこの街だけではなく、世界中で禁忌とされているものですからー。あれでは、いい身体を求める為に、いつか殺人鬼となってしまいまーす」

「どうせいるんじゃないか?上にも、そういう奴いただろう?」

「う~ん。ああいった狂人もいるので、否定する事が出来ませーん」

 口ではそう言いながら、首を振る姿は、正直他人事だ。実際、その通りなのだろう。ああいった事は、この迷宮では日常茶飯事ではあるが、いちいち構っているのも無駄。そんな感じだ。

「どうして、ここではあんな罠なんてかけるんだ?頑丈に戸締りすればいいだけなのに」

「ん~?それは、誰だって、いえ、特にここにいる方々はプライドだけは高いので、自分の部屋である工房へと入り込む余地のある方々は、絶対に許さない。しかも素体も欲しいのだから、こっそり奪えるのなら、自分の為にその身体を使う。勝手に住んでいるくせに、気が短いのですよ」

「勝手な連中だ‥‥。正気を疑う方が、正気を疑うとは言われるけど、あれじゃただの獣だ。餌が欲しいのなら、墓場から掘り越せば‥‥」

「ええ、掘り越せばいい」

 人を殺して素体にすれば、足がつく。最悪の場合、返り討ちにされる。しかも、人狼は人間よりも性能が高い。あの学生が、ここにいるのは、そういう事か。

「しかも、ここにはお手製のゾンビパウダーを作るのに、相応しい毒や生物の化石、もしくは血がありますからねー。あまりにも都合が良過ぎたのかと」

「‥‥ヨマイなら、作れるのか?」

「私ですか?出来ますけど、あれだけで、終わらせる訳がないでしょうー?」

 椅子から立ち上がったヨマイが、窓に近づいてカーテンを大きく開ける。

「あれは、助走でありジャンプ、そして次は着地へもしくは、羽ばたきへと移行。あの人狼は捨て駒、と言ってもいいのではー?何故かって?ここは、そういう土地だからでーす」

 己が欲望を持ち込み、奇跡を起こす。だが、総じてそれらは失敗、誰もが求めきれずに終わる最悪の幻想のきざはし。皆が皆、踏み間違えるとは、わかっている、いや、踏み間違えている事など重々承知しているから、ここにいる。

「—―――あの人狼が餌か」

 壁に立てかけてある杖を握りしめて、力を籠める。だけど、腕に刺さっている針の所為で力が腕にいき渡らない。

「餌、それは思いつかなかった発想でーす。確かに、あの人狼の中で、それっぽく言うとウィルスを熟成、繁殖、共食いをさせて強靭化。人狼以上に、強い生物に植え付けても、不思議ではありませんねー」

 ならば、尚更力を籠めなければならないというのに、ヨマイが杖を奪って一歩下がってしまう。

「この事を早く伝えないと――」

「それは、お任せを。忘れましたか?私は、あなたの案内人。ここではパートナーとして信頼していただけませんでしょうか?」

「‥‥言っとく、これは危険だ。俺を狙うだけじゃない、ヨマイまで」

「舐めないで頂けます?私も、魔に連なる者。それに、工房への襲撃、リヒトさん達だけで凌げた訳じゃないですよね?」

 ヨマイからの依頼である工房の防衛。当初から貯蔵品の解析と巡って喧嘩をした先輩方から守ってくれ、という話だった。所詮、後輩に負けた雑魚だと侮っていたが、それは違った。一派の人間が、徒党を組んで襲撃してきた。しかも、ここの呪物を惜しげもなく使い込んで。

「あなたが、何者をも許さない異海の矛ならば、私は何者をも見逃さない異界の探究者。人狼なんていう浅い歴史を使うだけならば、私は地表の文明を大きく超える歴史を使って追い詰める。忘れないでくれますか?私は、まだ何も諦めていません」

 先ほどと同じ場所に、杖を置いて試してくる。また、俺が杖を取るのか、どうか。

「どうしますか?」

「‥‥どうもしない」

 枕の位置を治して、目を閉じる。

「見ての通り、空腹だ。体力を取り戻したいからマヤカに内緒で、何か持ってきてくれ」

「はーい、お任せをー。行こう、マーナ」

 いつの間にか手懐けたマーナを連れて、ヨマイが去って行った。




 機関の取り調べを、俺自身も受ける事となった。一度でも例外を作ってしまえば、それがほころびとなり、発掘学の学生達の不満を叶える口実となってしまう。マヤカを抜いた機関の人間達が部屋へと入り込んできたが、先ほどから一言も話さない。

「検査するんだろう?なんで、そこで突っ立って?」

「‥‥本当に、あなたなのね」

「何がだ?」

「ああ、ごめんなさい。手首を出して、すぐ終わるから」

 この場に相応しくない、というよりも機関にいる事自体が、らしくない朗らかな笑顔で、手首にミサンガを付けてくる。

「‥‥トリカブト?」

「わかるの?そう、トリカブト。だけど心配しないでね?それは、人間に対しては毒性が低い種だから。食べても平気なぐらい」

「俺を人間じゃないって知って言ってるのか?」

「ふふ、ヘルヤの言った通りね」

 ミサンガを引っ張たり、見つめたりして遊んでいたが、無視できない言葉が聞こえた。しかも、ヘルヤと呼び捨てにした。

「‥‥マスターのお知り合いですか?」

「そうよ、あの人とは古くからの知り合い‥‥。ヘルヤから言われてきたの、あなたと話してくれって」

 そう言った豪奢なローブを着た女性の指示に従い、後ろのさすまたのような槍を持った機関の面々が下がって行った。全員が部屋から出て行った時、傍らの椅子に座る。

「それ、千切れる?」

「千切れますよ、この程度」

 言われるまでもない。そう思い、指で緩く結ばれたミサンガを引きちぎる。元から切れ込みだも入っていたのかと、思う程、ミサンガはあっさりと切れる。残った残骸をサイドテーブルの上に乗せて、溜息を吐く。

「これでも、この街の為に、ここまで働いたんですよ。俺まで疑うなら、あなた達もやったんですよね?」

「うん、勿論。ここにいる機関の所属は私を含めて全員が受けたから。あまり意味はないかもしれないけれどね」

「‥‥そうでしょうね。あの人狼を今後も使う事はあっても、それだけです」

「同じ考えね。あの人狼は、どこまで行っても小手調べ、もしくはポーン。プロモーションすら出来ないただの兵士でしかない。あればかり逮捕しても、術者にはまだ届かないって、わかってる。癖を調べてはいるけど、それだって派閥や学閥を見つける程度」

 あれらは傀儡として蘇った心無き人狼、人の言葉を解するならば、無理やり死体に喋らせる事は出来ても、そもそもあの人狼は既に死んでいた。禁忌を犯してでも、やる価値はないだろう。

「マスター達は?」

「ヘルヤは、人狼の断片を調べてくれている所。ふふ、これは内緒‥機関には、人狼は跡形もなく消えたって言ったからね」

 顔を寄せて、口元に指を押し付けてくる仕草に、息を呑む。赤毛に近い髪を持つこの人の顔はマスターやマヤカとは違い、幼さを感じさせる童顔と言ってもいいのかもしれない。だけど、恐らくマスターとそうは変わらない。

「人狼が、上にもいたんですか?」

「そうよ。まったく同じ種族かどうかはわからないけど、毛皮が生えて二足歩行を可能にした骨格を持っていたの。マヤカさんからも聞いたけど、似ているようね」

「‥‥無事、なんですよね?」

 心配する必要なんてない。上にはカタリやロタ、そしてマスターがいる。いつの間にかいたが、マーナだって昨日は上にいたのだ。人狼如きに、襲撃される筈がない。だが、あの骨格は人間では勝てない。重量だけ見ても、熊にも匹敵するだろう。

「無事よ。それに、真上の校舎まで追いやってくれたのが、あなたのマスター達。安心して、みんな無事」

「良かった‥」

 窓に視線をやって、息を吐く。殺人の天才、そう呼ばれている人狼と正面から殺し合うのなら、同じぐらいの牙や爪が必要だった。カタリやロタが、いくら並外れていても、口で聞くまで安心出来なかった。

「上は、どうなってますか?」

「ここみたいに検問は敷いてないよ。恐らくだけど、術者はまだこの迷宮にいる。あなたのマスター達が人狼を撃退した時、真っ直ぐにここへと駆けこんで行こうとしたから」

「飼い主が、ここにいるって事ですか‥」

「私達はそう考えているの。あなたはどう思う?」

「‥‥それに、間違いはないと思います。マヤカから聞きましたか?最初の人狼の姿を」

 そう聞きながら、顔を向けると、機関の人間は大きく頷いた。それに留めるしかないのだろう。下手に多くの人に伝われば、混乱を生む。

「その人については、私達が調べてる。だけど、あまり芳しくないの」

「もう逃げている可能性は?」

「それもあるけど、あなた達と被疑者が出会ったのは、10時頃。そこから先、人が入る事はあっても、出る事はなかったから」

 機関とは思えない程、手際がいい。あの馬鹿みたいな捜査で追い掛け回してきた馬鹿とは、中身が馬鹿と月ほど違うようだ。こういった役に立つ人が、常に陣頭指揮を取ればいいものを。機関の人員配置は、まだまだ練度が足りないようだ。

「意外と役に立ちますね」

「あ、ふふふ、お褒めに預かり光栄よ。‥‥聞かせて貰ったの。あなた達を、機関が逮捕しようとしたって。それは、本当?」

「二度、逮捕しようとしてきましたよ。機関は、濡れ衣を着せるのが得意みたいですね」

「—――はっきり、言うのね」

「俺は被害者だ。被害者の言葉を信じないで、テメェの至らなさを隠す気かよ?」

 思わず、あの時の怒りを振り返ってしまった。話など一切聞かないで、話は機関で聞くとしか言わずに、追いかけまわしてくる変質者達。カタリの腕を握って、無理に抱きしめた馬鹿には、水晶と銀の拳で両の頬骨を叩き割ってやった。

「‥‥隠す事なんて出来ないわ。だって、もうあの事の顛末は多くの機関の人間、オーダーにも知れ渡っているから。彼らには、相応しい罰が降ろされた」

「だけど、どうせまだ機関にいるのでしょう?」

「‥‥ええ、そうね」

「俺が、あなたの立場なら、さらし首にでもしています」

 ベットに座っていた身体を、滑らせて横になる。面談のつもりで来たのかわからないが、こんな言い訳にもならない事を言いに来たのなら、そうそうに見限るべきかもしれない。

「あれも秩序維持の為、そういうのなら身内をまず切って疑って下さい。あの人狼を外に出したのは、あの術者だけとは、到底思えない。誰かが手引きしたのでは?」

「‥‥誰だと思う?」

「それを調べるのが、あなた達だ。ここに降りてきた機関の人間が、何かしらの証拠を隠蔽に走ってる可能性もあるのでは?」

「そこまでにして」

 扉を開けて入ってきたのは、マヤカだった。

「マヤカ‥」

「その人は、あの時の人間とは関係がない。だから、もう許して」

 横になりながら、マヤカと睨み合う。あの場で唯一、マヤカは罪状や現場の違和感に気付いていた。濡れ衣なのでは?最初にそう言ってくれたのが、マヤカだった。

「‥‥わかった。だけど、もう疲れたから、出て行ってくれ」

「‥‥うん、わかった。またお話しましょうね」

 豪奢なローブを纏った女性が、椅子から立った時、マヤカが足音を立てて近づいてくる。

「いいえ、話してもらう。これはマスターの意思」

「マスターが‥?」

「そう。だから、話してもらう」

 窓側の壁に立ったマヤカが、頭を抱きしめるように肩に腕を伸ばして座らせてくれる。上から見降ろしてくるマヤカが、頬を撫でて、もう一度言い聞かせてくる。

「気に食わないのは、わかってる。だけど、誰彼構わず攻撃的になるのは、おかしい。わかって」

「‥‥マヤカが、そういうなら‥」

「いい子‥」

 マヤカとベットに座りながら抱き合って、頭を切り替える。冷たいマヤカの手が、頭を冷やしてくれる。

「マスターと知り合いなんですよね?どんな関係なんですか?」

「そうね‥‥古い友人?っていうのかな?」

「マスターの事、どれぐらい知っていますか?」

「あの人は、こちらの住人ではない事を知ってるって言えば、わかってくれる?」

 ただ者ではないようだ。戦乙女としてのマスターを知っているのなら、古い友人という意味が、どれほどの重みかわかる。マスターにも、人間の友人がいたのか。

「マスターが友達を作れるなんて‥」

「私もそう思う。私達のあのマスターに、友人がいたなんて‥‥」

「あははは‥‥やっぱり、ヘルヤはそう思われているのね‥‥」

 困った笑顔をしながら、胸に手を当てるその人も、この気持ちがわかるようで、決して否定はしなかった。

「マスターと友人という話は、信じます。だけど、今日はなんの為に?検査だけの為じゃないんですよね?」

「ヘルヤから言われた、ってだけではないの。私自身も、あなたとは話したかった。あなたの事を聞かせて貰いました、生命の樹に宿られて、一度死んだって。生命の樹に宿られて死ぬとは、肉体的な死ではない。魂という概念を失い事と同意義なのに、あなたは帰ってきたって」

「随分詳しく調べをしているようですが、敢えて言っていない部分があります、俺はあなた達機関に餌にされた。あの教授を吊り出す為に。魔に連なる者なら自分の身を守るべき?都合がいいですね。自らの失態を隠す為なら、全力で」

「リヒト」

「‥‥で、結局何が言いたいんですか?」

「‥‥私も純粋な人間ではない。私は、悪魔使い」

「嘘だ。悪魔使いなら、使い魔でも飛ばす筈だ。それに、悪魔を使役しているのなら、人狼なんて楽に刈り取れる。中途半端な実力を持つ悪魔となんて、契約なんて出来ない」

 悪魔との契約。そういったほら吹きは、今までの歴史で腐る程いた。当然、そういった連中は、大半が悪魔なんて見た事もない。この世界にいる契約が出来ると言われているは悪魔とは、デウスと同意義。神の座から貶められた悪魔とは名ばかりな過去の神々。居場所がなくなったとは言え、その力は人間など遥かに凌駕する。

「お願い、この人の話を聞いて。私とカタリを保護してくれたのは、この人」

 窓から吹き抜けてきた風に運ばれたマヤカの言葉が、顔を振り返らせた。

「‥‥ふふ、約束、破っちゃったのね」

「‥‥ごめんなさい。だけど、これは伝えておくべきだって、思いました」 

「カタリとマヤカを保護‥‥?」

 ふたりが保護された。いつだ?いや、考えるまでもない。俺がマスターの部屋で誘拐されている時だ――――マヤカとカタリが俺を、切り裂いた時に、機関に保護されていた。マスターは、そう言っていた。

「よく聞いて。この人は、私とカタリを保護、信頼できる機関の人員に話を通して、守ってくれた。それだけじゃない。私達が新たな生命の樹を造り出したというのに、オーダーに逮捕されないように、私達の力を説明してくれた。私達しかあなたは信頼していないって」

「はい、そこまで。それに、その事について沢山の証拠を示してくれたのは、あなた達のマスター。それに、彼がオーダー本部で裏切り者の逮捕に尽力してくれたから、あなた達の力が今後の秩序維持に役に立つと判断されたの。だから、私は聞く耳を持たせるようにしか言ってません」

 朗らかな顔のまま、息が詰まるような事を言ってきた。血統主義かつ身内には、徹底的に甘い機関に、耳を貸すように言った?悪魔使いという話、それだけで信憑性がある。

「‥‥悪魔使いかどうか、それはまだ信じてません。だけど、すみませんでした」

「いいの。それに、あなたを使って逮捕しようとしたのに、結局何もかもをあなたに押し付けて‥。全てひとりで解決したあなたに、弁明する余地なんてない。ごめんなさい、悪魔使いだなんて名乗っておいて、役に立たなくて」

 深く、その人は頭を下げた。日が差し込んだ時に見えた。この人の目は、魔眼だ。

「魔眼‥」

「あ、すごいね。もうわかったの?」

「宝石を仕込んだような目、話でしか聞いてませんでしたけど、本当に‥‥」

 カラーコンタクトでも仕込んでいるのか?黒一色かと思われた目が、日に当たった事で実際の色を映し出した。そして、瞳の異形も。六角形の瞳は、他に類を見ない魔眼の特徴。しかも、それをこの人は両目に持っていた。

「ふふ、これも内緒なの。ごめんなさい。内緒話ばかりで―――ちょっとだけでいいから、私と話してくれる?」

「‥‥はい。マヤカの傍でいいなら」

「—――勿論。まずは、私は白紙部門の所属。書類上はヘルヤと同じです」

 マスターの所属である白紙部門とは、その名の通り、白紙にする事こそが役割。現在の人間社会で、不要、もしくはあってはならないと判断された物を白く塗りつぶす。そして、その為ならば誰であろうが、容赦しない。決定事項として、役割に徹すると聞いた。

「白紙‥どうして、ここに?マヤカが呼んだのか?」

「いいえ。限定的にですが、迷宮からの通報には私達が呼ばれる事があります。それに、ドラウグルが奪取されたという話は、ヘルヤから届いていたから最優先で私達がここに派遣、駐在する事となったの」

「迷宮での問題は、学院で起るトラブルの中でも、ずば抜けて危険性が高いの。一旦は安定していると判断されて、貯蔵された品々の暴走を解決、破壊するのも白紙部門の役割。派遣される事自体は、不思議な事じゃない。マスターもこの事は知ってる」

「俺達が何かしらの通報をする事も、予測してたのか‥」

 相変わらずの秘密主義、いや秘密好きだ。またマスターの手の上にいたようだ。

「マスターはなんと?マスターの事ですから、何か頼まれたのでは?」

「あ、わかるの?ふふ、ヘルヤの言った通り、恋人なんだね。はい、そうです。私はあなたとマヤカさんと話して欲しいと、言われてきました」

 後ろのマヤカに振り返って、視線で聞くと、ただ頷いて教えてくれた。それだけしか、まだされていないと。

「マヤカは、もう話したのか?」

「私の為に、時間を割いて沢山話しを聞いてくれた。マスターとは違って、とてもいい人。ふふ‥」

「マスターよりいい人か‥」

「ヘルヤと比べられるなんて‥私って結構悪い人って思われるのかな‥」

 マスターの古い友人という関係は嘘ではなさそうだ。心底、あのマスターと比べられて落ち込んでいるのがわかる。どことなく、ロタやエイルさん、オーダー街で会った人と反応が似ている。

「あなた達にとってヘルヤは、どう映ってるの?」

「マスターですか?いじめっ子で、わがままで、たまに子供っぽくて」

「重要な事もあまり話してくれなくて、それでいていいように私達を使って、いつも誤魔化して、本当の事を言わなくて‥ふふ、本当に大切で優しいマスターです」

「俺の恋人で、大切な人です」

「—――そう、良かった。やっと見つけたのね」

 悪魔使いと名乗ったその人は、大きく深呼吸をして微笑んでくれる。悪魔とは似ても似つかない、マスターとは違う別の大人の女性だった。


 


「あなたの話は、ヘルヤから聞かせてもらってます—――あなたは、今後人間世界との折り合いの付け方に苦しむ時が来ます」

「‥‥必ず、ですか?」

「はい、必ず来ます。耳を塞がないで聞いて、折り合いの付け方に失敗してしまった人達を私は知っています。そういった人達を、私達白紙部門が逮捕、場合によっては力の封印処置を施す事になっています。その後は、ずっと保護、いえ軟禁しています」

 顔を背けそうになった時、マヤカが両手で顔を動かさないように、固定してきた。

「マヤカ‥ひとりは嫌だ」

「こっちに」

 マヤカのローブに顔をうずめて、頭を抱いてもらう。意識を失いそうだった。心臓と眼球の脈動に、脳が破裂する。必死に目を閉じて、血管の暴走に抗い続ける。

「ひとりは嫌だ‥‥嫌なんだ‥」

「わかってる。もうあなたに人間の都合に従わせる気はない。だけど、私達と生きる事を望むなら、どうか聞いて。もう逃げても、投げ出してもいけない」

「もう嫌だ。また、人間に殺される‥」

「落ち着いて。ここにあなたを殺せる人はいない、私を信じて」

 震える手でマヤカのローブを握りしめる。指と指の間から溢れる汗が気持ち悪い。ローブの布地がぼやけて見えなくなってくる。カーテンを流す風すら、恐ろしくなってくる。

「また、俺の所為にされる。また居場所を無くす‥また‥」

「—―すみません。今はもう」

 マヤカが後ろの女性に向かって、声をかけた。女性は、それに声で返事をしないで出て行った。

「ほら、もう大丈夫。私とあなたしかいない」

「まだいる‥まだ‥」

「もういない。もう敵の人間なんていない。もう何も奪われたりしない」

 呼吸が整わない。過呼吸となり、吐くばかりで息を吸えない。白いマヤカのローブが、赤黒く染まっていき、握力すら抜けていく。後ろに倒れて――。

「大きく息を吸って。自分と私の息を吸いこんで。温かいでしょう?」

 倒れる寸前で、マヤカが胸で頭を抱いてくれる。マヤカの吐いた息と自分の吐いたばかりの体温が残っている息を吸い続ける。肺を使いこなせない俺の為、背中を叩いてタイミングを教えてくれる。

「無理をさせてしまったのね。ごめんなさい」

 頭を抱いたままのマヤカが、横に倒れさせてくれる。柔らかい枕が頭を包むまで、ゆっくりとマヤカが胸で抱いてくれた。

「‥‥ごめん、俺、まだ‥」

「いいの、ごめんなさい。あなたの事を何も考えてなかった。何か食べる?」

「‥‥今はいい。だけど、傍にいて」

「わかった、どこにもいかない。私はここにいるから」

 マヤカと手を繋いだまま目を閉じる。だけど、一度冷え切った身体では、震えを止める事が出来ない。それに、まぶたの前にいるのは、俺を殺したひとりだった‥。

「マヤカ‥マヤカ‥」

「ここにいる。やっぱり怖いのね‥私でいいの?」

「‥‥ごめん、だけどマヤカがいい。マヤカに抱いて欲しい‥」

「わかった」

 隣に添い寝をしてくれたマヤカに、しがみついて声を止める。呼吸すら止めてマヤカのローブに涙を吸わせる。マヤカは自分のローブが汚れる事も気にしないで、頭と背中を抱いてくれる。

「きっと、あなたは私とカタリへの恐怖は拭えない。ずっとそれを持ち続ける」

 胸に手を当ててきたマヤカを、突き飛ばしそうになる。だけど、寸前の所で止まる事が出来た。ようやく迎え入れる事が出来たマヤカの体温だったから。

「前にあなたが言った事、覚えてる?まだ少しだけ私の方が高い」

「マヤカはブーツを履いてるからだ‥俺の方が高い‥」

「ふふ、言い訳ばかり。認めて、私の方が高いって」

 薄い折り重なった白のローブに、息を当てて温める。ようやく肺を取り戻し、考える事も出来るようになってきた。だけど、マヤカを握力だけは、手放す事が出来ない。

「ほら、やっぱり私の方が高い。まだまだ、あなたは男の子‥」

 足を絡ませてきたマヤカが、頭を抱いた腕に力を籠めてくる。もうマヤカから逃げられない。恐ろしい魔女が捕まってしまい、逃げ出す事すら出来なくなった。

「リヒト、あなたは間違えた、あなたが選んだ相手は、この怖い魔女。魔女に魅入られたあなたは、もう引き返せない。心に刺さった欠片は決して溶かせない。私が怖い?だけど、諦めて―――あなたは私の物」

 




「‥‥ごめんなさい。いきなりあんな話をされて、怖かったよね」

「‥‥はい」

「そっか‥もう怖い話はしないから、大丈夫だから。だけどね、あれは本当の話。例外はないの。力を奪われた人達がいるのも本当だから‥ごめんね」

 もう一度傍らのマヤカと抱き合って、目を閉じる。

「続けて下さい‥」

「‥‥あなたは人間との付き合い方を覚えないといけない、考えないといけない。そうしないと生きられない。私達は捕まえる事は出来ても、導く事は出来ない‥自分で考えるしかないって思っていて」

 前に何度もマスターから聞いた話だった。人間世界でマスター達と共に暮らすのなら隠者になり、自分の身分や在り方、力を隠さなければならない。だが、機関やこの世界は、それを許さない。俺に力を使わせようと煽り、責めてくる。

「‥‥俺に居場所はない」

「そんな事」

「ないんですよ‥向こうであの方から言われました。俺達に居場所なんてない。世界の力が、俺を排除しようとする。だけど、この身体は星の力‥だから、苛んで、苦しめてくる‥」

「‥‥そうなんだね‥」

 自分の居場所?そんなものを期待していたのか?あの方からも、この世界からそう言われた。居場所なんてない、俺を受け入れるような枝葉は、どの世界にもない。

「俺は、もうこの世界に期待しません。だからあなたの教えてくれた事も、多分聞けない。そんな人間だけの論理、俺に当てはめる事は出来ない。そんな平穏、俺には無い。あなただって、そうだ。こうして俺から平穏を奪いにやってきた‥‥ごめんなさい」

 マヤカは、もう何も言ってくれない。ローブと手で抱きしめて、何も言わずに宥めてくれる。人形のようだった。

「私からの話は、これでお終いです。きっと私が経験してきた事とは、毛色が違うし、比べ物にならないんだと思う。ごめんね、力になれなくて」

「‥‥いいえ、話を聞かせてくれて、ありがとうございました‥‥すみません、俺」

「謝らないで、私、きっと舞い上がってたの。私も、この世界との付き合い方には苦労してたから、あなたと同じ目線で話が出来るって。だけど、結局、私はあなたの為じゃなくて自分の為に来たの。それがいけないんだと思う。また、今度はゆっくり話そうね」

 先ほどと同じように、椅子から立ち上がって出て行こうとする。マヤカから振り返って、その背中を見つめてしまう。何か言うべきだ、そう思っても声が生まれない。マスターから言われただけじゃない。きっと俺との会話を楽しみたいからここに来てくれた。見舞いに来てくれた。なら、それだけは伝えないといけない―――。

「マヤカ‥止めて」

「待って下さい」

 去って行こうとする背中をマヤカが止めてくれた。

「彼が、まだ話したがってます。だから、もう一度‥‥」

 魔眼が大きく開かれる。椅子に座らず、扉の前で振り返ってくる。

「どうかした?」

「さぁ、頑張って」

 マヤカに背中を叩かれる。マヤカから離れて深呼吸をする。そしてベットの傍らにある杖を握って無理やり起き上がる。感触の無い足が言う事を聞かず、倒れてしまい、魔眼の女性が慌てて肩を貸してくれる。

「ど、どうしたの‥?まだ動ける程」

「俺こそ、結局自分の為に、ここに来ました」

「は、話なら聞くからベットに戻って」

「いいえ、このまま聞いて下さい。でないと、あなたは去ってしまう」

 杖で床を貫くぐらい力を籠めて、無理やり立ち上がり、腕を貸してもらう。倒れる訳にはいかない、残り少ない体力を使って足を水晶で固定。膝が曲がる事を防ぐ。

「俺だってそうです、自分の為に力を使ったからここにいる。居場所なんて無いって、ずっと昔からわかってました。だから歯向かったんです。何もかもに、だけど、その結果がこれです。胸に樹を植えられて、切り裂かれて、オーダーにも機関にもいいように使われて。挙句の果てに、言う事を聞かなければ牙を抜いて、首輪をつけるって」

「‥‥ごめんね」

「謝らないで下さい。きっとそれが正しいんですから、俺は、ずっと昔からあぶれ者なんです。誰かに言われたからじゃない、ずっと昔からそうだから、わかったんです。そもそも俺に居場所なんてないって。ないからみんな俺を追い出そうしたって」

 自然学にいる時からそうだった。学部長たるあの教授の元に通う俺が気に食わない連中が、よく手を出してきた。ついぞ最初から最後まで雑魚しか突っかかって来なかったが、あれが人類の答えだ。異常な物を追い出し、その席を空白にしようとする。

「考えるまでもない、もう慣れてますから」

「もう戻って‥足だけじゃない。身体中が震えてる‥限界なんでしょう‥」

 薄くしか張れなかった水晶が剥がれていく。女性が後ろのマヤカに視線を投げるが、マヤカは何もしないで見守ってくれる。

「なら、静かに聞いて下さい。これで最後です、俺はあなた達の言う事を聞く訳にはいかない。どうせ、また俺をいいように使い切った後、捨てられる」

「そんな事、もう」

「いいえ、します。経験してきたから、言い切れます。だから、もし俺が白紙にするに値する。そう思ったなら、いくらでも来て下さい。俺は、あなたの望んだ通り、人類の敵、神獣として振舞いますから‥」

 限界だった。膝をつく事すら出来ない。薄いシャツのまま床に倒れ込んで、虫の息となる。

「なんで、そうな事が言えるの?」

 床に倒れた俺の手を取って、嘆いてくれる。やはり悪魔使いとは到底見えない。

「最初から最後まで、あなたに責任なんて無いのに。あなたは、ただ帰ってきただけなのに‥」

「忘れましたか?俺は、自分の意思でこの世界を選んでる。白紙だけじゃない、機関やオーダーが全面的に俺に矛を向ける事ぐらいとっくに承知してます。今更なんですよ、あなたが言った事なんて‥」

 この世界に戻ってきて、後悔などしていない。この世界には、カタリとマヤカがいる。それに、マスターやロタがいた、捨てるに値する世界だが、どうしてだろうか、まだ俺はこの世界を捨てられずにいる。なら、世界から排斥されるのなんて、諦めるしかない。

「つらいですし、理不尽な事ばかり。だから、もう諦めるしかない―――運命には逆らえない。なら俺がやる事は決まってます‥‥誰からも手を出されない、恐ろしい神獣になる事。敵は徹底的に壊して、味方にも恐れられる。そんな自分になるしかない―――ありがとうございました。決めさせてくれて‥」

 ようやく視界が揺らいできた。折角マヤカが奪い取ってくれた熱が、また戻ってきた。それだけじゃない、ようやく蓄え始めた体力も、また使い切ってしまった。

「最後に聞いていい‥‥この世界、人間の為の世界は、嫌い?」

「嫌いです」

 


 ようやく容態が落ち着いてきた。先ほどまで、胸でも掻きむしるように、爪を立てていたので、腕に原液を打って強制的に体内の毒素を薄めて散らした。それが功を奏し、今は汗も引き始めた。カタリからはあまり勧められなかったが、環境の所為もありストレスにも苦しめられていたリヒトは、薬の副作用でようやく眠ってくれた。

「‥‥これで、休んでくれる」

 額に残った汗を拭き取ると、泥のようにタオルを汚す。どれほど毒で苦しめられていたのか、想像もつかなかった。それだけじゃない、この迷宮という場所の土地柄である逃げ場がないという状況で、機関の人間と会談するなんて、今思えばどれほど彼の器が広かったか――――感謝しかなかった。

「熱は、まだ下がりませんか‥」

「はい‥‥だけど、普段通りなら、これで」

 身体が拭き終わり、脱がしていた服を元に戻す。それだけで痛みに顔を歪ませる彼は、やはり優しかった。毒は身体の表面すら蝕んでいた。

「こんなに苦しんでたのに、無理をさせちゃったのね」

 悪魔使いと名乗った白紙部門の女性が、髪を撫でている。風になびかされているように前髪が、揺れ動くが、それもすぐに汗で張り付いてしまう。肺を上下に動かす為に使う体力すら、彼にとっては重労働だった。呼吸の所為で、汗が舞い戻る。

「彼は、前から?摘出を考えないの?」

「‥‥力を使い過ぎると、こうなります。だけど彼の身体を抑えるには、この剣が必要。彼の怒りは、この世界に害を成す。怒りを抑えて、心の平穏を与えるには、この毒が必要なんです」

「—――そう‥」

「彼には静かな時間が必要です、外へ」

「‥わかりました」

 彼をひとりにするのは、不安だが、ここまで眠っているのだ、そうそう起きない。そう思って白紙部門の女性を外へと連れ出す。この迷宮にも病院があった、ただ病院というにはベットの数が少ない。診療所と言ったところだった。

「彼をお願いします」

「ああ、任せてくれ。ここで死人など出したら、僕のいる意味がなくなる」

 白衣を着た研修医に、部屋を任せる。そして。

「あなたもお願い」

 マーナに頼んで、部屋の警護を頼む。部屋の中に入ったマーナは、部屋の隅でとぐろを巻くように、横になって警護をしてくれる。研修医は特にそれを訝しむ事なく、扉を閉める。

「すみませんでした。彼が、無礼な事ばかり」

「ふふ‥‥いいえ、私だって彼を何度も試した。話し以上に、彼は怒りを鎮められていて、とても嬉しかった。—――ここで刺される事も覚悟していたのに」

「‥‥彼を、もう」

「大丈夫、ヘルヤの弟子であり恋人である彼を、これ以上苦しめたくない。あなたにも、謝らないといけないね。ごめんなさい、毒で苦しんでいる事は、あなたから聞いていたのに、無理に時間を作らせてしまって」

「私も‥‥あの子には、あなたとの会話が必要だと、思っていました。行きましょう」

 診療所の中は、機関の人間や先ほどの研修医と同じような姿をした学生が歩き回っていた。首から下げる聴診器と薄緑のマスクが、嫌悪感を呼び起こす。

「彼はどうするの?狙われているのが、彼なら私が外まで運び出すけど」

 それは頭を下げてでも、受け入れるべき提案だった。彼の体調がいつ回復するか、それがわからない以上ここに彼を置いて、探索を継続するのは危険だった。何より、彼が狙われているのならば、外へと避難させ狙いを外へと向けさせるべきだ。

「—――少しだけでいいので、時間を下さい」

「機関の所属として言わせて貰います。戦えない負傷者をここで放置する訳にはいきません。次々に運ばれてくるかもしれない人員の為、まだ余裕のある内に病床を空けておくべきです。重ねて聞きます、彼を外に連れ出しましょうか?」

 あくまでも、提案のひとつとして言っている。まだ、弁解の余地があると教えてくれている。

「元々は、彼と私に任された捜査です。それに、彼の力は代えが効かない」

「それだけですか?彼ひとりいなくとも、私達とあの銀狼で事足りるのでは?」

「あの人狼がまた襲い掛かってきた場合、私達では苦戦します。苦戦するという事は、時間と取られるという事、それは怪我人が増える事。彼の瞬間火力に頼らなければ、時間ばかり浪費してしまいます。この検問も、いつまでも続く」

 彼の能力を、この女性は知っていた。知っていたという事は、恐らく上で見たのだろう。ならば、彼の力には代えが効かないという言い訳は、これ以上ないぐらいの説得力を持つ。いくら悪魔使いだとしても、彼の一撃を超える事など不可能だ。

「今後、事態が悪化する事が、必然的であったとしてもですか?」

「帰ってきた彼の資料を見ましたか?事態の悪化なんて話じゃない。この秘境全体が仕掛けた策略すら、跳ねのけた。私達総員は、彼に負けています」

「—――負けている、ですか‥‥。そうだったね、私達は彼に一度として勝てた事がない。それだけじゃない、彼は毒を侵されていたとしても常に理性的だった―――わかりました。猶予をあげます」

 まだ油断できない。彼女は、マスターの言う通りなら悪魔を複数使役している。マーナすら越える力の持つ悪魔が、強制的に彼を外に運び出したら、止める事は出来ない。

「一日、彼の為にこの病院を保護します。彼は貴重な戦力であり、唯一人狼と対峙し仕留めた優秀な魔道を志す者です、だけど明日までに彼が、もう一度あの一撃を放てないのであれば、彼を外に連れ出します」

「まだ、彼は毒が回ってる。動かすのは危険です、それに―――」

「それに?」

 これが最後にして、私自身も気を揉んでいた未来像。彼はそもそも機関にはいいイメージなど持ち合わせていない上、マスターからの頼みを達成できないとなった場合。

「彼の気は誰よりも短い。怒り狂った彼の制御を出来ますか?」

 周りにいた機関の人間達が、総じて動きを止める。彼の実力を見たからだ。あんな力を乱発する彼が怒りに身を任せれば、集団ではない、個人に息吹を向けてくる。比喩表現でもなんでもない、どこにいようが関係なく、星を穿つ一撃が降ってくる。

「え、えっと‥‥それは‥ヘルヤとマヤカさんなら‥」

「彼は見ての通り、とてもわがまま。私の言う事を聞くのは、私の目が届いている時、マスターにしても同じです。彼は、こっそり、そう言いながらこの迷宮を狙い撃ちにしてくるかと」

「冗談、だったら‥嬉しいのだけど‥あははは?」

「‥‥私も冗談だったら嬉しいです。もし、彼を上に連れていくなら、私も避難します。あなた達も退去する事を勧めます。彼は気が短くて、一度なったらとても大雑把、ここに術者がいるのなら、取り敢えず崩落、皆殺しにすればいいと考え――」

「ストップストップ!?そんな短絡的な思考を持ってるの!?」

 つい最近、似た反応をされた。彼と一年近い付き合いを持ったからわかる。彼の内心はとてもめんどくさがりや。私達の為ならば、それも我慢できるが、私達の内、誰も関わらないとわかったや否や、すぐに彼は作業に取り掛かる。

「あの一撃が頭上から数度じゃない。数十度、それも体力が回復する度に、三食がそれぞれ済む度に振ってきても、耐えられますか?」

 決して冗談ではない。実際、彼は事が済むまで、挨拶のように息吹を用いるだろう。彼の息吹のルールは、彼から聞いた。まず理由が必要、そして確固たる意思、また怒りがあるのなら尚更結構。全て揃っている。

「私もマスターの数少ない友人であるあなたが、消し炭にはしたくない。だけど、彼はそう嘆きながら放ち続けて」

「わ、わかりましたわかりました!!いいでしょう!!例外的に、あの部屋は彼が独占的に使う事を許しましょう!!ええ、二言はありません!!」

 似合わない腰に手を付けて、人差し指を向けるポーズを取って宣言してくる。誰が見ても破れかぶれとなった様子だったが、ようやく言質を取れた。実際、私自身も彼を止める事は出来ても、マヤカマヤカと甘えられたら、その意思が揺らぐ所だった。

「—――はぁ‥言っちゃった‥。ヘルヤの年下の恋人だというのだから、簡単にはいかないとは思っていたけど、まさかそこまでなんて‥」

「彼を侮るのなら、好きにして下さい。だけど、それはそのままあなた達の死期となります。どうか、長生きして下さい、マスターのただひとりの友人を失わさせる訳にはいきません」

 白紙部門の悪魔使い。その肩書きには、きっと想像もつかないぐらいの経歴があるのだろう。だが、そんな彼女が頭を抱えてふらついている。悪くない光景だった。

「マスター想いの弟子ばかりで、ただひとりの友人として、誇らしいばかりです。はぁ‥」




「あ、マヤカさーん」

 深い濃いクマを付けた少女が、駆け寄ってくる。その手には、ファストフードではない白い紙で出来た弁当箱がふたつ分。気を使わせてしまったらしい。

「これ、どうぞ。昨日から食べられていなかったようなのでー」

「ありがとう。頂きます」

「いえいえー。こちらにどーぞー」

 待ち合わせてしていた広場から脇道に逸れて、一番近い壁に案内してくれる。道中でも、やはり街は清潔だった。探究の街という事で、誰も彼もが清潔な服で出歩き、ゴミによる空気の汚染とは縁がなかった。

「綺麗な街」

「当然でーす。だって、もしここで疫病でも流行ったら大変ですからー」

「みんなで街の掃除でもしてるの?」

「まっさかー。上から空気を取り込んで、街全体に風を行き渡るようにしてるんですよー。発掘学の本領のひとつでーす。長くキャラバンとして生活するのなら、快適で清潔な街造りは必須な事ですから。みーんなで掃除ではなく、みーんなで設計したんですよ」

 一から街を作るなんて途方もないぐらい手間がかかると思っていたが、その実、測量や観測、観察、実証実験の場が常に提供されている発掘学ならば、思いつくままにレイラインの上で街を作り出せていたのかもしれない。

「いやー私自身は関わる事は出来ませんでしたが、貴族様方が、自身の工房の技術を見せつけるように、建造していく様は、見応えがありましたとも」

「‥‥見たかったかも」

「次ある時は、見物料でもとって外部から人を招き寄せればいいんですよー。さぁ、そろそろですよー」

 そこには隠れ住んだ修道者達が作り出したような見た目の窓と扉があった。岩肌を削って出来た階段に、それぞれの工房の扉があり、ここより上の階層で襲い掛かってきた人間達とは違うコミュニティが形成されていた。

「‥‥襲われたりしないの?」

「ここに工房を持てるって事は、そういった事をしないって事ですよ。それに、上で粋がってた方々は、こんな光景を見たら卒倒するかと」

 岩肌の一室。ヨマイさんの工房に案内される。そこは工房というよりも、書斎のひとつのようだった。発掘品は置いておらず、あるのは書類ばかり。本当に、ここから真上を貫くつもりだったらしく、部屋の真ん中の大きめの机には迷宮の模型すら用意されていた。

「机の椅子を使って下さーい」

 書斎机にひとつ弁当を置いた彼女は、ベット代わりでもあるらしいソファーに、跳ねるように飛び乗った後、足を組んで近場の本を机代わりに膝に乗せる。本の上で開かれた弁当には、やはりエスニックな料理だった。ここでは新鮮な野菜は高価で、穀物と肉類からビタミンを摂取するらしく、五穀米やレアの鶏肉が入っている。

「ここでの生活は長いの?」

「長くはないかと。私だって、ずっとここにいる訳じゃないのでー。戸締りはあの一件依頼、得意になったのでー」

 濃い目の味付けが好きだとわかっている彼女は、楽しそうに鶏肉を頬張っている。

「あの一件‥カタリとも知り合いって聞いたけど」

「はーい、そうでーす。カタリさんにもお願いして、工房の防衛をお願いしたんですよ。1階層とはいえ、物資を一番溜め込んでるあの工房だけは、絶対に手放させなったので」

「‥‥一体、何を守っていたの?」

 なかなか辛くていい味を出している。刺激物には、それほど興味はなかったが、このスパイスは目が覚めるようだ。しかも、レアでありながら、しっかりと火の通った鶏肉の柔らかい繊維が、歯に心地いい。

「アダマンタイト」

 目が覚めそうな言葉だった。

「アダマンタイト‥‥本物?」

「ではと呼ばれている鉱石、ダイヤにも似ています」

 アダマンタイトとは、創作物の中でしか語られていない鉱石のひとつだ。創作物の中にあるのだから、存在する筈がない。だけど、アダマンタイトは実在すると、前々から言われてきた伝説級の鉱物である。どこにあるか?それは、天空か、もしくは地下深くの街。

「だけどダイヤではない。というよりもただのダイヤの筈がない。とてもとても秘密で、口が裂けても、身体を縛り付けられても言えない場所から発掘された品です」

「‥‥なぜ、それがアダマンタイトだってわかったの?」

「それらしい名称を適当につけたってだけでーす。うーん、刺激が足りません」

「これ以上は舌が鈍る」

「‥‥その通りですね」

 立ち上がって何かしらの調味料を取りに行こうとしたヨマイさんを止めて、ソファーに縫い付ける。

「だから、それはアダマンタイトなのか?それとも他の鉱物なのか?それを調べる為に、私が競り落としたのですがー。ふふふ‥‥それが気に食わなかったようでー」

「だから工房の死守を求めた」

「まさか、死守まで行くとは思わなくてー。どうせ理詰めで奪い取ろうとしに来る

だろうー的に、構えていたのですが‥‥流石に一派まとめてくるとは想像もできなくて‥‥貴族の一席にいる筈のあの方々が、あそこまで恥知らずとはー」

 貴族間の攻防など、よくある事だ。しかも一般人と嘲っている一般生徒に狙っていた品を競り落とされたのなら、どれほど屈辱的だったが、笑ってしまう程わかる。

「一派って、どれくらい?貴族って言ってたけど、何位?」

「取り調べみたですねーカタリさんを思い出します‥‥総勢20人ぐらいで、順位は確か15位ぐらいでしたか?」

 15位。かなり格式高い家だ。そんな家が20人の取り巻きを連れて、一年生でもなかった少女の工房に襲撃を仕掛ける。この迷宮でなければ、恥知らずと罵られるて、生涯、家は笑い者となっていただろう。愚かな当主は、意外といるようだ。

「リヒトとカタリがそれを防いだのね。貴族で10位台なら、それなりの腕だったのでは?工房を投げ出して逃げたりとか、考えなかったの?」

「私もカタリさんも、そう言ったんですが‥リヒトさんが‥あの程度の雑魚に逃げたくないと。あははーだけど、その選択は正しかったんです、強がってましたが、向こうは散々リヒトさんの水晶に私達の術が降り注がされて、虫の息、トドメにリヒトさんの家を教えたら、逃げ出していきました」

「第4位の魔貴族。上位3貴族の座をいつでも狙えて、3貴族を相手取っても勝てると言われた力を持つ当主。15位程度じゃ、逃げ出すでしょうね」

 哀れだ。自分が手を出した相手が、魔に連なる者を体現するかのような力を持つ魔人の一族。逃げ出せただけでも、褒めるべきかもしれない。

「いやー持つべきものは、ご縁ですねーあれほどの方が、身分を隠して入学してるなんてー。私自身、知りませんでしたから」

 弁当を食べ終わたヨマイさんが、中央の机にある円柱状の迷宮の模型で、遊び始めた。迷宮を一直線に貫く赤い糸が、エレベーターの予定座標らしい。

「だけど、どうやって出会ったの?だって、始めて会った訳ではないから、彼らを呼べたのに」

「あーそれは」




「耐性がついて何よりです。私も指南した甲斐がありました、まさか、ふたりプレイならこうも難なく行けるなんて」

「それは‥あれだけ付き合わされればね。こういうゲームでは、我慢できるようになったけど‥なんでだろう?映画とか、あとムービーが入るとダメなのは変わらないのよね」

 ゾンビを撃ち殺すというよりも、ゾンビを避けてマップを探索するゲームを昨晩中ずっとロタの指示の元、付き合っていた。お蔭で寝不足だが、睡眠不足の高揚感が腐肉の不快感を跳ねのけてくれている。そう思い込む事にした。

「こういうの好きな訳?」

「最初の内は、私もあまり好ましくないと思っていましたが、慣れてしまうとこういったデザインの良さがわかってくるんです。端的に言えば、物足りなくなる?」

「‥‥ふーん」

 ふたり分のコントローラーを鳴らす音だけが響く。データをサーバーに移行させたとかで、何処ででも同じデータでプレイできるとか、なんとか。よくわからない。

「リヒトが、たまにやってる奴は剣とか魔術だけど、これは銃ばっかりね。目線って言うの?その場にいるみたい」

「はい、一人称視点のゲームです。慣れない?」

「まだ、難しそう」

「私として、リヒトがやってるゲームの方が難しいのに‥」

「あーやっぱり、そうなの?」

 たまにリヒトが「こんなの勝たせる気ねぇーだろう‥」とか、昔の言葉遣いをして嘆く時があった。あまりにも強大な巨人や竜に、剣一本で挑む方が間違っていると思うのに、これが正しい戦法とか言って絶対に変えない。

「先生、遅いわね」

 教員控室に、初めて入ったが想像以上に個室の体を成していた。ここを先生は、ひとりで使っていたのかと思うと、我ながら長く騙されていたと思う。あの私情など一切挟まない正しく人形のような教員は、その実、すこぶるプライベートを愛する自由人のようだ。

「ていうか、ここ、なに?」

「あの人の講義準備室?だとか」

「だからって、このお酒の数は異常じゃない?それにゲームにモニターに。あと、あの薬類もだし。それに剥製と、羅針盤?自由過ぎない?」

「昔からの癖で、収集癖があるんです。前も、こんな感じでしたよ。因みにモニターとゲームを持ち込んだのは私です」

「ロタも先生に似てるみたいね」

 言われるまで気付かなかったのか、コントローラーを握る手が縫い付けられたように止まって、呻き声を出す。あの人の事は、詳しくないがここ最近の言動を見ていると、その反応もわからなくもない気がする。

「だけど、最近先生人気だし、悪い意味じゃないからね」

「不思議です。なぜ、あの人は人間達に好かれるのでしょう?」

「あれだけの美人、こっちの世界にはそうそういないの。今まではずっと男か女かもわからない服着てたけど、リヒトに言われてから化粧とか大人っぽい服着だしたし」

 あの胸を潰したような黒のローブ、もしくは法服のような肌や体型を一切見せない服で淡々と授業を行う姿は威圧的だった。その上、あの整い過ぎた綺麗な顔に、誰も近寄らせない圧倒的な雰囲気も放っていた。

「まぁ、授業中は結局スーツかローブだけど―――元々怖いぐらいの美人に、あの胸が」

「‥‥やっぱり、そこしか見ていないのですね。私だって、見た目なら‥‥」

 特注品だと言っていたスーツ姿の先生は、見た目だけならどこも欠点の無い完璧な美人だった。しかも、ジャケットには胸を収めるポケットのようなカップが、その上、慣れないだキツイだと言って、最近は常にカレッジ内をYシャツで歩き回っている。あれでは、誰だって目を引き寄せられる。

「見た目もそうだけど、先生、だいぶ話しかけやすくなったって評判だし。ロタが来る前の先生って、すっごい常に不機嫌だったの。個人的な相談なんて出来ないぐらい。今は不思議なぐらい変わってる」

「私にとって、それこそが不思議です。常に不機嫌で誰も近寄れなかったなんて、どこかで入れ替わったのでは?」

「言えてるー。いつ変わったのかな?」

「講義終わりに、ここに戻ってる時では?ここで、数本お酒を開けてから」

「だいぶ好き勝手言っているな?」

 真後ろから聞こえてきた先生の声に、振り返りながらソファーから転げ落ちる。完全に油断していた。それはロタも同じだったようで、ヴェールを抜く暇すらなかった。

「昼間から数本開けられるような生活、入れ替わって出来るなら、私も望むところだ。講義にはもう一人の私が行き、この私は酒瓶を片手に、リヒトに命令をして、膝や胸に甘えさせる。うむ、悪くないな。だが、そうした場合、リヒトとの時間が向こうにも取られてしまうのが難点だ。よってその推理は破綻している。以上だ」

 身体のメリハリがわかるようになった簡略化されたローブを着ていた先生は、それだけ言って部屋の中央テーブルに、持っていた袋を乗せる。重みと液体が満ちているらしい物体を内包した袋が、粘着力のありそうな音を立てる。

「私の褒め言葉ならば、いくらでもするといい。なぜならば、私はそれに相応しいぐらい美しいのでね。ああ、だが、その美に触れる事が出来るのは私のリヒトのみ。早く帰ってマスターマスターと甘えてくれないだろうか」

 このわざとらしい演技も、この美貌を持ってすれば幾千の演者にも勝るように見える。実際、嘆き悲しむように肩を抱いた仕草に、リヒトはいつも見惚れていた。

「で、何かわかったんですか?」

「勿論だ。でなければ、昨日深夜まで連れ回した君達を呼び出したりしない。ロタ、単位を落とすぞ」

「‥‥わかりました」

 早速ゲームに戻ろとしていたロタを、先生が必殺の一言で止める。学期中に入学したロタは、まだ取得単位が定まっていないので、先生の使いとしてコキ使われ単位取得に奮闘していた。

「と、言いたい所だが、その前になかなか興味深い事を話していたな。ヨマイ君だったか?彼女との出会いについて、私にも教えてくれないか?」

「ヨマイとですか?別にいいですけど‥」

 正直言って、あまり話したくない。しかも、それを聞いているのが先生だからだ。

「私とリヒトは、最初、入試でこの街に来たんです。その時に、ヨマイと会いました」

「発掘学と異端学、自然学とではカレッジがまるで違うだろう?どこで、会った?」

「—――デ、デートのつもりで、発掘学のカレッジに」

「ほほう」

「それで、その‥ちょっとぐらい迷宮が見えないかなーって」

「駆け落ちしたばかりの二人が逃げ込むチョイスとしては、手放しで褒める事は出来ない。発掘学は、縄張り意識が他に類を見ないぐらい高い。高等部一年でもない君達が、出歩いていい場所ではない。もう少し考えて行動するように。そこで会ったのか‥リヒトの力もそこで?」

 椅子に座って足を重ねてくる先生は、口では諌めていたが、ただの過去として流してくれた。それよりも興味深い事がある。そう言っているようだ。

「はい‥‥ヨマイが、どの派閥に所属するかって迫られてて」

「さもありなんか。新人勧誘兼新人潰しだったのだろうな、邪魔になる芽を摘む常套手段だが、それでも程がある。機関に言って、止めるように指示すべきだ。それで、どうして助けたんだ?」

「その‥‥昔のリヒトって、結構気が短くて‥あんまり精神的にも安定してなかったって言うか‥たまたま、勧誘をしてる生徒の肘が、私に当たって」

「‥‥その学生には同情します」

 隣のロタが顔を手で覆って首を振る。先生も先生で、その光景が簡単に想像できたのだろう。渇いて笑いをしながら、机の肘をついて頬杖を始める。あの時からだったかもしれない。リヒトが一目置かれ始めたのは。まだ年齢的に13程度のリヒトが、迷宮を出入りしている高等部の学生を、ひねりつぶしたのだから。

「当時からあの水晶を使ってか?」

「‥‥正直、昔の方が容赦なかったかも‥」

 最上位貴族間の殺し合いに慣れているリヒトは、同じ感覚で槍を振るい、ただの一振りで、リヒト自身、解せないといった感じに首を捻っていた。彼らには悪いが、リヒトが外での身の振り方や手加減を覚えたのは、あの一件のお蔭だったと言える。

「だが、そこまで派手にやったのなら、他のそれこそ学閥や一派の学生が溢れるだろう。よく私の耳に届かなかったものだ。今以上に容赦がないリヒトの槍なんて、正面から受けられる者などそういまい。全員、皆殺しにした訳ではないのだろう?」

「—―――色々あってヨマイに手引きしてもらって、逃げ出したんです」

「その色々の中には、本当に色々ありそうだが、まぁいいさ」

 視線を外しながら、言った所為で見破られたようだ。だが事実として、本当にあの数時間の間に色々な事を巻き起こして逃げ去ったのだから、嘘ではない。

「昔のリヒト‥そんなに気が短かったんですか?今だって、結構子供っぽいのに」

「‥‥あれでも、大人になったの。昔なんか毎日自然学の学生相手に喧嘩して、返り討ちにしてたんだから――で、しばらく経ってヨマイから連絡が来て、だいたい‥一年ぐらい前に迷宮に招かれたって感じです。工房防衛の対価として、書庫に案内するって。私自身はヨマイとは、そんなに話してませんけどね」

 偶然と言えば偶然的な出会い。そもそも、ああいった勧誘は発掘学では普通なのだろうと見逃す筈だった程だ。だが、運命のいたずらか、勧誘という名の傘下への加入命令をしていた学生の肘が、顔に当たってしまった。

「‥‥なるほど、理解した。確かに、それは運命的な出会いのようだ。では、やろうか。世間話で緊張感はほぐれたかな?まだなら、心したまえよ。さぁ、お待ちかねのゾンビの解体、意見交換会だ――」

 止める声を一切無視した先生は、木製テーブルの天板に、それをぶちまけた。転がって出るそれを見て、吐き気などしない。ただ目を開く事しか出来なかった。

「見なさい。これが人狼のゾンビの正体、ゾンビなど仮の姿でしかなかったのだ。人狼の身体を宿木に作り出されていた物の正体が、ようやく分かった。心して聞きなさい、術者は、人狼の身体に肉片を宿らせ、怪物を造り出そうとしている」

 先生が、放り出したものを見て、思い出してしまった。そうだ、この血走った眼球は、あの怪物に宿っていたものだった。



「これが、あの人狼の中に?」

「ああ、運が良かったのか悪かったのか。それとも、これは残った断片が急速に成長した姿なのか、定かではないがね。ただ、これは紛れもなく残った人狼の腕に埋め込まれていた物だ」

 袋の中からこぼれ出した眼球は、今も息づいているかのように瑞々しかった。これが人狼の中にあったのなら、違和感があった。だって、リヒトの槍が頭を消し飛ばしたからだ。

「カタリ君、これを見てどう思う?君の記憶の中の巨人と比べると」

「変です。確かに、この目には見覚えがあります、でも、あの巨人はリヒトの力で頭から胸、上半身のほとんどを亡くしたのに。目なんか残ってる訳がないです」

「なるほど‥私は実物を見た事が無かったから、判断が付かなかったが、当事者たる君がそういうなら、そうなのだろう。ああ、気を悪くしないでくれ、私自身まだ憶測すら出来なかった持てなかったのでね」

 先生自身、これがゾンビの腕から飛び出して驚きを隠せないようだ。そして、残っている人狼の腕も袋から取り出して机の上に乗せる。毛皮に覆われた腐肉には、人間の人差し指一本分の長さ、親指一本分以上の太さを持つ爪を、しっかりと5本持っていた。

「なぜ、これをその巨人の目だとわかるのですか?似た物ならいくらでもあると思いますけど?」

「ああ、ロタ、その通りだよ。第三者視点からして、なぜ、これが巨人の眼球と言えるのか?という当然の疑問を口にするのは、重要な事だ。単位をあげよう。では、一から考えるとしよう。この眼球は、先ほど言った通りこのゾンビの腕から出てきた」

 そう言った先生は白いゴム手袋をつけて、ゾンビの腕に指をつける。両手で開かれたゾンビの腕には、確かに眼球ひとつ分の穴が開いていた。

「これはまだ勘だが、あのゾンビには眼球を作り出すという盟約を与えていたのだろう。ゾンビという神に、目を作り出してくれと願ってな。よって身体の9割を亡くしたとしても、それだけは決行したという事だろう」

「だけど、片目だけですね。カタリ、その巨人は片目だったの?」

「違うわ。確実に両目があった。それに、こうもっと大きかった筈よ」

 あの血走った巨大な眼球を使って上から見下ろしてくる威圧感は、忘れる事はないだろう。生物的な嫌悪感、捕食者として最上位にいる思考無き巨人は、世界中で恐れられている。そういう意味では、巨人と人狼は似ているのかもしれない。

「使う筈だった身体の大半を失ったんだ、不完全でも仕方ない。だが、もしかしたら片目なのは、他にも人狼かそれに類するものがいるかもしれないが、ここでは考えないとする。では、次だ。なぜそもそも眼球を求めたか?それは眼球が必要だったからだ」

「‥‥それはその通りですけど、だけどそれって普通の話じゃないの?」

「じゃないの?もやめなさい。これは重要だ、だって必要だから作ったという事は、他に代わりが無かったから、だという事だ。わかるか?目が無かったから、欲したのだ」

 ここまで言われたようやく生物がごく当然の事を言ったのかがわかった。人狼という数少ない素体を使ってでも求めたものが眼球、であれば、眼球がないからこそ求めたという事だ。

「では、少なくとも人間以上のここまで質量を持つ眼球を何に使うか?それは、無論巨人と呼ばれる者に使うからだ。目が無い巨人というのなら、該当するのはリヒトが打ち倒した巨人しかいない。当然の帰結だ、でなければ、そもそも求めたりしない」

 目が無い巨人は、リヒトが塵としたからだ。それに、あの沼地の巨人は身体の上半身こそ失ったが、まだ下半身は残っている。今、どのような姿で保管されているか知らないが、まだ迷宮にいるのは間違いない。

「勿論、他にも目のない巨人がいる可能性もあるが、いくらここが秘境だと言っても、目のない巨人が他にもいて溜まるものか。よって、この眼球はかの沼地の巨人の片割れの物だと判断する。ここまでで質問はあるかい?」

「はい、先生。上半身を求めたのなら、まだ腕だったりそもそも胴体だったりがある筈です。いくら何でも眼球だけ作り出すのは、非効率では?」

「ああ、その通りだ。だからと言って目を蔑ろにする訳にはいかない。それに、恐らくだが胴体自体は、そこまで精製に難易度は高くない。なぜなら、下半身が残っているからだ」

 そんな事を真顔で言う先生に、顔を歪めてしまう。いくら教員、同性だからと言ってここまで慎みも無く、あっさりと言うものか?これも大人の女性の余裕か?

「というのは冗談だ、いや半分冗談だ。忘れたか?人狼のそもそもの姿は、皮を被る事で狂戦士となった者達だ。中身が足りなくとも、巨人の皮さえ被る事さえ出来れば、姿だけなら巨人になれる。それだけじゃない、人狼に被せればそれに届くだろう」

「人狼に?そんな事出来るんですか?だって、もう皮を被ってるから、狼の姿になってるんでしょう?」

「昨夜話した通りだ。下にいた人狼は、人の皮を被っていた。人狼本来の身体を、狭い人間の身体に隠す事が出来ていたそうだ。であれば、腕を伸ばす事だって可能だと言えるだろう。勿論、可能性の話だが、ちょっとした確証もある。リヒトだ」

 また顔をしかめてしまう。あの館の地下で、確かにリヒトは水晶の竜となった。しかも、それは無理やり皮を被らされた訳じゃない。今のリヒト自身がそもそも皮を被っているから人間の姿でいられる。ならば、その逆も、また逆の逆もしかりだ。

「下の人狼は、そもそもリヒトを狙ったって聞きましたけど‥‥リヒトを欲しがってるって事ですか‥‥」

「否定はしないが、肯定もしない。この事を知っている者は、本当に限られた者達だ。下手にちょっかいでも出されて、リヒトをその気にさせれば、ここが滅びる。神域の神獣は、私達に任されたのだ。機関はあの情報を、全力で隠蔽している」

「なら、いいんですけど‥‥だったらなんで―――いえ、そもそもあの巨人は」

 思い出した。そもそもあの巨人だって私達を狙ってきた。機関に追われて、逃げ場所が無くなりつつある私達に、あの巨人はトドメでも刺すかのように、襲い掛かってきた。

「思い出したか?そうだ、あの巨人は君達を狙っていた。今のリヒトと同じように」

「‥‥最初は機関が追手として使ったのかと、思いましたが、違ったんですね」

「はははは‥‥確かに君達の目から見れば、そうなるか。それは機関側も感じていたようだったぞ、何と言っても追い詰められた君達があの巨人を解き放ったと、当初の報告には述べられていたからな。まったく‥‥許し難い手抜きと責任転換だ」

 そもそも機関に私達が狙われたのだって、向こうの手抜き捜査が原因だ。さっさと機関が己が失敗に気付いて、巨人の居所を見つけ出していれば、あんな事も起こらなかった。

「では、その巨人を目覚めさせた者達と、今回のドラウグル奪取、人狼の襲撃の犯人達が関わっていると?」

「関わっているどころか、確実に首謀者だ。そして、確実に同一犯だ」

「なんで、そこまで私のリヒトとカタリが、狙われているのですか?私は、人間の心なんて唾棄すべき不燃物の事をよく知りませんが、そこまで狙われたのなら相当の恨みがあるのでは?」

 ロタが、なぜと首を捻った。私も、それには同意する。

「そうよね。なんで、そんなに私達をここまで目の仇にするのかしら?そんなに恨みを買われた記憶ないんだけど?だって、リヒトの身体は、こっちに戻ってきてからで、発掘学の学生とも知り合いなんてヨマイぐらいしかいなかったし」

 恨まれているのなら、それはそれで仕方ない。いつの間にか恨まれているなんていう理不尽さはよく知っている。リヒトなんて、その最たる例だ。あの実力に恨みを持っていない者など、いない筈がない。

「はははは‥」

「どうしたんですか?週末の二日酔い中のような声を上げて」

「どんな声だ。そんな声を出しているのか?以後気を付けよう。というか、気付かないのか?」

 肘掛け椅子に戻った先生が、髪をかき上げながら呆れたような顔を向けてくる。気付かない?一体なんの事だ?

「‥‥流石にあり得ないんじゃ‥だって、あの程度で?」

「自身の一派を引き連れて、負けたのだぞ?しかも、想像通りならヨマイ君にはプレゼンテーションでも負けている。防衛には勝てず、件の品の解析にはヨマイ君の方が相応しいと判断された。後先考えず、無謀にも巨人を解き放ち、敗北。発掘学は何も答えなかったが、誰が犯人かぐらい知っているだろう」

「—――貴族だから、見逃された?」

「恐らくだが、この学院の運営にも関わっている貴族達だったのだろう。もう20程しか正真正銘の貴族と名乗れない中の一席ならば、己が跡取り息子の汚点など、全力で消しにくる」

 信じられない。もしそうだというのなら、このドラウグル奪取事件にも、発掘学が関わっている可能性すらある。もっと言ってしまえば、あの山中にいた人狼の脱走手引きすら行った事となる。

「‥‥信じられない。怪我人どころ死者すら出るかも、いえ間違いなく死人が出る人狼を見逃したの?頭おかしいんじゃないの‥‥」

「—――あのドラウグルの発見時はマーナがいたからこそ、被害が何も起こらないで済んだのは明白です。あのまま山中にしかいなかったとしても、いつかは誰かに見つかったかと。その時は口封じの為、誰であれ殺していた。マーナに感謝しましょう」

 権謀術数渦巻く学院内のパワーバランスやヒエラルキーなど、ほとんど知らないロタが、ここまで断言した。誰の目から見てもその通りだ。スポンサーの意向に従って虐殺にも匹敵するこの世界の規律違反を見逃した。

「だけど、なぜドラウグルの確保を私達に?だって、人間同士仲良く密会をしているのに」

「完成したから――は、ないだろうな。事実として巨人の眼球はまだ不完全だ。内部告発のつもりか、それとも別の理由があるのか、何にせよ、第二の自然学カレッジ封鎖案が浮上しそうだ。迷宮封鎖など、他に類を見ない事件となるだろう。機関へ学生締め出しの言い訳、文言を考えておくべきだと伝えておこう」

 先ほどの心せよという意味は、こういう事だった。ゾンビの解剖、意見交換会とはすなわちそれを造り出した背景の解析、分解だった。発掘学が巨人解放に手を貸し、犯人逮捕に全力で抗い、その上今回の人狼のゾンビ化、迷宮外へと出引きした。

「‥‥しかも、これはまだ過程でしかないって‥人狼を使って、あの巨人を復活させようとしてる?本当に、あり得ない‥。この事をマヤカは?」

「確証は、持てないと言って伝えたよ。機関の悪魔使いにもな。だから、ふたりともそれに勘づかれないように、動いている。ただの一瞬しか動けなかったとしても、報告通りの剛腕を振るわれたら、今のリヒトでは確実に敗北する。どう動くかは、彼女達に任せよう」




「リヒトさん‥‥まだ目覚めないんですよね」

「ええ、だけど大丈夫。上でもこういう事が何度もあったから。そろそろ夜ね」

 薬で眠っているリヒトを守るには、私達が早々に巨人の居場所を探し出すしかない。マスターの話ならば、巨人には眼球がない。つまり不完全だ。なぜこの状況で発掘学が私達に頼ったのかはわからないが、チャンスがあるとすれば、今しかない。

「本来はあの巨人への案内だったのに、大変な事になりましたねー。これは私達にとっても由々しき事態です。いくらここが迷宮とは言え、これは異常です」

「こういう事は早々にないの?」

「こういう事が起こらないように、私達がいるんですよ。そして同時に6階層へ攻略の糸口を得る為に」

「そう言えば、なぜ5階層までしか行けないの?だって、ここから地下へ呪物だったりを降ろしているのでしょう?」

「危険な物をランク付け、危険であるのは間違いとしても、直ちに封印する事が出来ない代物を、ここより下に運び込んでいるのでーす。5階層までなら、有効活用が出来るから封印せず、その技術を解析するという真似出来るのですが、ここより下は話が違います」

 テーブルの上の模型に指を差して教えてくれる。上に行くほど広く浅くなっているが、下に行く過程でそれぞれの階層は狭く高くなっていく。だが、ここ5階層から下は一本の塔となっている。

「誰も手を出せない、誰も分析なんて事が出来ない本当に危険な物を送って取り敢えずひとの目に付かないようにしているのが、6階層から下なのです。知らなくてもおかしくないと思います。だって、機関にはその危険性を軽度に教えていますから」

「‥‥なぜ、それを私に?」

「緊急事態ですからね、だってここにいる住人にとって人狼よりも恐れているのが、地下にある品々が暴走、上の階層へと溢れる事ですから」

 もしもの時は、発掘学の暗黙のルールを機関にも報告、封印の手助けをして貰うつもりのようだ。何も間違っていないが、やはりどこか都合のいい考えをしているのは、この学生特有のようだ。

「やはり、機関をここに常駐させるべきかもしれない‥‥」

「あははは‥‥私もそう思います。だけど、もっとマヤカさんって融通が利かない方かと思ってました。私が個人的なエレベーターを作ると言っても、この街の様子を見ても何も言いませんでしたから」

「そんなにおかしい事?だって、上の学生達は個人的な理由で罠だったり商売をしていた。だけど、ここは公的な理由で改築工事をしている。これは迷宮運営にとって必要な施設。確かにあなたのエレベーターは、個人的だけど呪物解析にとって必要な改築。何もおかしくないと思うのだけど?」

 不思議な事を言ってきた。この程度、誰だってわかると思う。確かに、上の住人だって解析の為に必要な動きかもしれないが、彼らは自身の城を守る為、彼女は外見上は迷宮の為、ならば認可するのは不思議ではない。

「おお‥‥ついに、機関からも認められました‥‥」

「だけど、エレベーターを作るのなら機関の人間の目の前で作ってもらう。不必要な穴を開けたら、即逮捕。取り調べとしてあなたの持ち物は全て没収、覚悟しておいて」

 外を眺める為に、窓へと近づく。眼下に広がるのは砂の街の夜。四角形の建物に、四角形の窓が開き、煌々と光が灯されている。屋上には観葉植物なのか、それとも緑のカーテンなのか、巨大な植物が植えられているものもある。ここが地下とはやはり思えない。星空こそ見えないが、異国にも着てしまったのかと思うほど、新鮮な風景だった。

「素敵な街‥‥いつか、行ってみたい」

「わかりますか?だけど、実際はここまで整っていませんよー。ここは、発掘学の工房一派や貴族の派閥がこぞって腕を見せつけて作り出した街なのでー」

「そう。これは偶発的ではなく、欲望の通りに造り出した街なのね。だから、こんなに美しいのね‥‥あの子達にも、見せてあげたい」

 忌々しい。そう吐き捨てれば楽だろう。そう言って、この街を火に帰せば、どれだけ美しいだろうか。行き過ぎた文明を求めた人類への罰として、私達人形が人類の望んだ通りに人類を滅ぼす。きっと、逃げ惑う人間は、美しい――そう、例えられないぐらいの絶頂を感じるだろう。それをリヒトの腕の中で感じられれば、どれだけ。

「マヤカさん?」

「ちょっとだけ彼の様子を見てくる。あなたはどうする?」

「あ、私も行きまーす。戻って来てから、寝る準備をしましょーね」

 手慣れた手付きで、扉の鍵を開けて外に飛び出していく。リヒトに会えるのが嬉しいと顔に書いてある。リヒト自身は、それほど親しい訳ではないと言っていたが、実際は違うようだ。もしくは、今日一日で、そうなってしまったのか。

「リヒト‥‥本当に、あなたが人間でなくて良かった‥」

 後ろを追って外に出ようした時、彼女が戻って書斎机のランタンを手にする。

「暗いので、気を付けましょう。まだライフラインは整い切ってないので」

「ありがとう」

 恐らくランタン以外にも意味がある。あれは、護身用の何か。だけど、何も説明しないで彼女は、岩肌の階段を降りていく。確かにエレベーターを求めた理由がわかる、この階段は、角度が悪い。

「エスカレーターでも欲しいところね」

「それでは、この街の景観が崩れてしまいまーす」

「ふふ、そうね」

 階段を降りきった時、機関の人間から敬礼をされる。よく仕込まれているが、実力が伴っている訳ではなさそうだ。こちらからは視線を送って応える。口で言わなくても、伝わったらしく自身の役割、見張りに戻る。

「凄いですね‥マヤカさん、一体どういう立場なのですか?」

「秘密」

「‥‥聞かない方が良さそーですねー」

「そう、聞いてはいけない。言えるとしたら、私はリヒトの恋人にして、彼の初めてを貰った魔女―――覚えておいて、彼は年上が好み。もう少し余裕と背が必要」

「‥‥あと、胸では」

「ふふ‥」

 少しだけ胸を張る。マスターには届かないが、徐々にそれに近づいてこの重みを、彼はいつも目で追いかけている。先ほどだって、これに甘えてくれた。彼を惑わせる手練手管は、誰にも追随を許さない。

「も、もう起きましたかね?」

「さぁ?だけど、起きたとしたら、真っ先に私に甘えると思う」

「そ、そんなに欲望に忠実なのですか!?」

「すぐお腹が減ったと言って、困らせるの。ここまで空腹を口に出さない彼は、とても珍しいけど、そろそろ食事を求めると思う。この街の食材で足りるかしら‥」

「‥‥そう言えば、あの時もカタリさんに、ご飯ご飯と言ってましたね」

 昔からこうだとカタリは言っていたが、事実のようだ。燃費が悪いと弁護出来ないが、あれだけの質量を持つ一撃を放てる力は、他に類を見ない。

「だけど、逆に言えば食事さえ与えれば」

「あなたはまだ知らないかもしれない。だけど、彼の腹八分目は標準を大きく凌駕する。勿論、あの力は他を凌駕するけれど、それ以上に特に退院後は――食費が、そしてちょっとでも食事の質を落とすと、わがままになる‥‥」

「一体どれだけ‥‥」

「少し前の退院の後に、私達の上司が食事に連れて行ったのだけど‥‥ふふ‥」

「き、聞かない方が良いみたいですねー‥」

 そう。あれは聞いてはいけない。マスターがひとり数万円取る食べ放題に連れて行った所、彼は値段の有無を無視して、あるだけ食べ尽くした。竜は世界を喰らい尽くす。竜の胃袋とは、どれだけ底なしなのか?そんな論文がひとつふたつ書けそうなぐらいだった。

 夜道の世間話とは不思議だ。夜の街という不気味で涼やかな風を感じさせる筈のテーマを忘れさせ、時間すら狂わせる。既に足は診療所への一本道となっていた。

「あともう少しですね」

 ランタンを持ったヨマイの後頭部を見つめながら、胸をなでおろす。ヨマイが共犯者の可能性がある。自身への恨みを流す代わりに、リヒトを売り渡す。その可能性を考えていたが、それはなさそうだ。むしろ彼の邪魔になってはいけないと身を引き、マーナとも良好な様子だった。

「リヒトの事を、どう思っている?彼を操った理由は、どうして?」

 暗い道の中で、一点の光を持つ彼女にそう聞いた。そう聞かれた彼女も私も歩みを止める。時間にして数秒も経ってない。だけど、振り返る時に揺れる髪すら止まって見えた。クマを持つ整った顔は、決して赤くなってはいなかった。

「‥‥そうですね—――アダマンタイトを競り落とした時、私、自惚れてたんです。文句を言ってきた方々に、言ったんです。これが実力だって‥‥それが、あの襲撃なんです」

「そんなに激しい攻防だったの?」

 ランタンに照らされた所為で、クマが無くなった彼女は、石像のようだった。

「はい―――到底、私ひとりでは手に負えません。震えました‥‥勝てないって。総勢20人以上の完全武装の貴族達ですよ?勝てる筈がないって」

「だけど、さっき聞いた。彼が逃げる事に反対したって」

「‥‥何も知らない私は彼の実力も侮っていたんです。彼がやると言ったら、カタリさんは溜息をしながら、それを認めました。攻撃の主軸?そんな筈ないんです。だって、結局彼はひとりで、あの槍を持って立ち向かって、8割を倒して、残り2割をカタリさんが―――私もすこしは役に立てていたら、いいんですけどね」

 ランタンを両手で持った彼女は、壁に背中を当てて、夜空を見上げる。

「いやー‥圧倒的でした。水晶の鎧に水晶の槍、ただ拳を振るだけで、向こうの使い魔を破壊、ただ握るだけでメイスを砕いて‥‥また震えました。どれだけ、危険な方だったのかって‥‥二重に絶望しました。貴族の一派からの襲撃に、それを上回る力を持つ水晶の騎士、いえ水晶の獣に‥‥片手で敵を振り回すリヒトさん見て、欠伸をしてるカタリさんにも、震えましたね‥」

「私と同じね。何も知らない私も、彼の力を見て震えた」

 機関の人間を殺すなと言ったら、拳で叩きのめし、槍を薙ぎ払うだけで小隊を壊滅されていく彼を見て、絶句した。どれだけ危険な人間に手を出したのか、私も向こうにいたかもしれない。そう思ったら、震えてしまった。

「彼をどう思ってるか?怖いと同時に、欲しくなりました。あの力があれば、強い自分でいられるって、それに、彼は笑いも呆れもしませんでした」

 ランタンに照らし出されている顔は、涼やかだった。砂の街に吹き抜ける風のように、乾いていて、不快感など一切感じさせない。揺れる前髪にすら見惚れてしまった。

「彼だけでした。アダマンタイトと呼ばれる石かもわからない何かを、恨みを買ってでも手にした私を見ても。みんなに言われたんです、本物の訳がないって――なのに、彼だけは無駄じゃないって、真面目に話を聞いてくれたんです―――始めての理解者が彼でした」

 同じ理由だった。忘れる事はない、私にとっても彼は唯一の理解者、初めて想いを持ってもいい人間だった。機関の所属である私を向かえに来てくれたのは、私の願いを叶えると言ってくれた彼だった。その場限りの約束だと思っていたのに、彼は忘れなかった。

「リヒトさんの事をどう思っているか?それは‥‥正直分かりません。欲しいとは思ってましたが、まさかふたつ返事でいいと言ってくれるなんて‥‥本当に神獣なんですねー」

「そう。彼は神獣リヒト、そんな彼にあなたは何を願う?」

「決まってまーす、エレベーターです。それまでは彼から恨みを買うつもりはありませーん。いかがですか?信じるに値しますかー?」

 気付かれていたようだ。隠す気がないにも、程がある。そう言われてしまうだろう。

「‥‥ええ、信じてあげる。彼に部屋に行きましょう」

「はーい」

 ランタンを持った彼女が、隣に来て腕を引いてくれる。背の低い彼女の頭に、あの子達の面影を感じる。あともう少しで会える、忘れられている妹達に。

「—――止まって」

「え」

「下がって」

 ランタンを揺らす彼女の肩を掴み、後ろに掴み飛ばす。何をされたのかわからない、どうして自分は掴まれたのか、理解できない。そんな声を出して背後に座り込んだ。

「動かないで」

 鎖を飛ばし、曲がり角から現れた人間の胴ぐらいはある腕を掴み取る。人間相手ならば抵抗されても殴り殺せると思ったのか、自由を奪われた襲撃者はうわずった高い声を出して、鎖から逃れようと音を鳴らす。

「聞こえなかった?動かないで」

 銀の鎖で手首を締め上げる。魔獣ならば何も者も逃がさない退魔の鎖、人外であるのなら人外であるほど鎖は皮膚を焼き焦がす。表面をあぶられる痛みに耐え兼ねて、腰を抜かしながら腕を引き抜こうとするが、そんな真似許さない。

「このまま腕をあなたの身体から引き抜いてもいい。これで三度目、動かないで」

「離せよッ!!」

 聞くに堪えない。奇声に近い雄たけびは、街中に響き渡った。近場の機関の人間達の足音が聞こえる。

「リヒトが出るまでもなかった。ここであなたを捕まえる。ヨマイさん」

 立ち上がったヨマイさんがランタンの光を向ける。火の明かりを受けた襲撃者は紛れもなく4階層で、リヒトに言い掛かりをつけていた男子学生だった。だが、そうわかったのは顔がようやく照らし出されたからだ。異常な光景だ、左腕だけ人間じゃない。

「これは‥‥」

「間違いない。あの巨人、グレンデルの片割れの腕」

 人狼は人間の肉を引き裂く為、細く鋭い爪、柔軟な関節を持つ人間の腕二つ分の長さを持っていた。だが、これは違う、腰が引けて鎖から腕を引き抜こうとしている卑怯物は、顔ばかり幼稚だが、腕は自身の胴にも匹敵する筋肉と汚らしい毛皮の塊だった。

「なんだよ!?離せよッ!!」

 この期に及んで自身は被害者のような叫び声を上げている。誰が見ても、どちらが襲撃を受けたか、誰でもわかるだろう。だというのに、幼さ特有の癇癪を続ける彼は、この痛みは理不尽だと訴えている。

「痛い痛い痛いッ!!離せよ!?なんなんだよ!!」

「諦めて。あなたの負け」

「負けってなんだよ!?ぼ、俺はなにもしてないだろう!!」

 あれだけの襲撃事件を起こしておいて、未だこんな事を言っている。貴族とは、どれもこれも同じなのか?最初はリヒトの事を子供っぽくて気が短い世間知らずだと思っていたが、彼は比べ者にならないくらい話がわかり、理知的だった。

「機関の本隊が到着するまで、我慢して」

「ふざけるなよ、取れよ!!」

「人ひとり、いえ虐殺でも起きかねない事を企てたあなたが、そんな事を言うの?これだから人間は嫌い―――これ以上動くなら」

「マヤカさん!!」

 ランタンを携えた彼女が、腰に飛びついて押し倒してくる。何が起こったのかわからなかったが、直後に来る振動で身の危険を察した。倒れながら、ランタンの輝かす光に当てられた真後ろの壁が崩壊、もう一本の腕が飛び出てくる。

 危うかった――音に気付かなければ頭蓋骨を掴み、そのまま潰していただろう。

「私から離れないで――」

 頭を押し付けて目をつぶる彼女を腕で守り、倒れながら真上の腕を鎖で掴む。視界の中のあらゆる建物、窓枠に鎖を飛ばし、街に腕を固定する。腕と鎖の接触位置から煙があがる。毛皮が焼け、肉を焦がす。皮を被っているだけの学生とは違う、正真正銘の怪物。銀の鎖の力が最大限に効いている。だというのに、拳を作り影を落とす。

「―――!!」

 倒れた状態で、頭の真上を確認する。銀の短剣を先端に取り付けた鎖を砂の壁、診療所に突き刺し、道からヨマイさん共々脱出する。寸前で拳から逃げきれたが、拳の余波だけで息が詰まる。生物的な恐怖、自身より巨大な物への原始的感情に、呼吸を忘れる。

「早く外せ!!」

 腕だけの怪物にそう伝え、真っ先に自身の鎖を握らせる襲撃者を視界の隅に入れ、出来る限り距離を取る。暗がりの路から大通りまで二人で飛び出した時、土埃と共に現れた私達を見て、矛を持つ機関の人間達が前に出る。

「ダメ‥下がって‥」

 声が弱々しかった。酸素や窒素の全てをいつの間にか無くしていた肺では、これが限界だった。勇ましく前に出た人間達は、あれを知らない。あの巨人は人間に対して絶対的な力、殺人権を持っている。

「退いて!!」

 聞いた事もない甲高いヨマイさんの声に、機関の人間が一瞬だが身体を止める。ほんの数舜後、巨人が投げたと思わしき壁の一部が、機関の人間達の腹部寸前まで迫る。だが、それが一瞬光ったと思ったら、砕けて塵となる。

「え‥」

「間に合いました――さぁ立って!!」

 立ち上がったヨマイさんに手を貸されて、ランタンを持つ少女が誰よりも前に出る。ただのランタンの訳がない。そう思っていたが、それは今まで見た物の中で、群を抜いて異質だった。

「なに、レーザー‥?」

 ランタンから飛び出した光は、正しくレーザー光線のように一条の輝く道を造り出し、岩石を破壊した。粒子であり波である光ならば、対象に当たれば確かに熱を伝え、部分的にだがエネルギーを伝える事が出来る。だが、それでもこの大気圏内ではエネルギービームなど、不可能な筈だ。だけど、今の光源には見覚えがある。

「正確には違います。詳しく説明する暇はありませんが、これは帰ってくる前のリヒトさんの力です」

「—―――彼の」

「はい、だからただの岩石程度、怖くありません。あの巨人を一度でも打ち倒したリヒトさんの力なら、通じる筈です!!」

 ランタンの光量を上げて、暗い脇道を照らし出す。そこには既にあの学生の姿こそなかったが、壁から現れた腕の持ち主が、確かに立っていた。それは人狼というには、あまりにやせ細った身体、浮き出る脇腹から覗かせる内臓の形が確認できる。

「グール‥‥舐めるな!!」

 槍を持つ機関の片割れが、矛先を向けグールに鎖を向け放つ。それに続き、もう一人も鎖を放ち、片腕ばかり太い不格好なグールの動きを止める。ようやく機関の本隊が到着した。悪魔使いこそいないが、この時点で中隊クラスが揃った。

「動きを止めろ!!」

 ヨマイさんの物よりも簡易的なランタンをグールの足元へと投げ捨て、建物の屋上から顔を見せて機関所属の部隊に姿を示す。自由を奪う鎖は増え続け、あばらが見えない程となった。

「確保するまで油断するな!!相手は、ドラウグル!!知性が残っている可能性がある!!」

 ランタンを向けていたヨマイさんも、息を吐き振り向いてくれる。砂ぼこりをふたりで叩きながら近づき、一息を付く。未だ先ほどの恐怖が拭え切れないのはお互いのようで、どことなく表情造りが下手だった。

「逃げられてしまいましたねー」

「仕方ない。だけど、腕一本でも確保できたのだから、勝利と言うべき」

「意外とポジティブですねー私も同意見でーす」

 ランタンの光量を低めて、診療所を指差すヨマイさんと共に、ひとまず中に入りたいと近場の人間に説明し、すぐ目の前だが護衛を求める。

「了解しました。ただいま人員を割きま――」

 眼前で、たった今まで話していた人間が真横へと飛んで行った。怪我の有無など確認する暇はなかった。何かが通り過ぎた時に起る、風が一瞬消え去る音を聞き届ける前に、姿勢を下げてもう一度土埃にまみれる。

「なんだ‥ただのグールじゃないのか‥?」

 未だ脇道にいるグールの腕を抑えていた鎖は引き千切られ、壁の一部を握り掴んで破壊していた。あり得ない握力だった、砂の城を握り潰す感覚で、壁を掴み取っていた。しかも、誰かが口にする時間すら与えない一瞬で投げつけていた。

「退いて下さい!!」

 ランタンを手にしたヨマイさんが、再度前に出てレーザー状の光をグールに発射、光は確かにグールの胸を貫き、傷口を熱で焼く。焦げ付いた傷口からは血の一滴も流れないが、確かに心臓を穿った。なのに、また腕が上がる。

「伏せて!!」

 先ほどの繰り返しのようだった。身体でヨマイさんを押しつぶし、銀の鎖で腕を掴み取る。それと同時に腕を掴んだ鎖を、近場の建物に巻き付けて完全に自由を奪う。だというのに、巻きつけられた鎖がひとりでに解けていく―――。

「グールじゃない‥‥あれは――」

「ワイトかレイス、悪霊が身体に憑りついたもの、って言ったところかな?」

 悪魔使いの声がした。倒れながら真後ろを見る、頭上を過ぎ去る岩石の残す耳鳴りを後に、つい――微笑んでしまう。もう土埃にまみれる必要は、無さそうだ。

「軽い」

 その声を共に、音速にも匹敵しかねない速度で飛来した岩石を、拳ひとつで砕く少年がひとり、車椅子と共にそこにいた。悪魔使いに後ろを押されて、車輪の音と共に無言で近づく少年は、無理をしながら手を伸ばしてくれる。

「マヤカ、無事か?」

「ええ、無事。ヨマイさんに助けてもらった。あなたは?」

「‥‥ちょっと不満だ。起きた時、マヤカがいなかった。約束したのに‥」

「ふふ、ごめんなさい‥」

 頼りない手を掴みながら自力で起き上がる。頬を膨らませる彼が、愛おしくて仕方ない。病院着のまま、風に当たる彼は、誰よりも弱々しいのに、誰よりも恐ろしかった。こんなに恐ろしい彼が私を求めている。

「私も食事を取っていたの」

「‥‥俺は、食事中だったのに。ここの病院食もあんまり美味しくないんだ。――だから、尚更機嫌が悪い‥‥誰なら撃ち殺していい?」

「—――アレ」

 指で差し示す。腐っている借り物の眼球でもわかったのだろう。格が違う。悪霊というアストラル体だからこそ感じられる圧力に、身体が張り裂けそうになっている。あれだけご機嫌に使っていた身体から逃げ出そうとしている。

「—―来い」

 肘掛けの腕が合図をした時、診療所の窓から杖が飛び出す。それが視覚出来た時には、既に彼の手元の少し先、地面に杖が突き刺さっていた。

「約束があるんだ。ここでは息吹を使えない」

「そう、不服?」

「不服だ‥。もっとマヤカに褒めて貰いたいのに‥‥もっとマヤカに」

「もっと?」

「‥‥とにかく、マヤカに‥」

 頬を膨らませながら下を向いてしまった。車椅子だから尚更背が低く見える彼が、両手を伸ばしてくる彼が、可愛くて仕方ない。だが、先ほどから立ち上がれない機関の人間には、同情する程の圧迫感を感じる。街に地震か寒波でも来たのか思いかねない、逃れる事の出来ない災厄が少年の姿をして座っている。

「あの‥そろそろいいかな?私としても、ずっと見てたいけど、いつまでも続くと」

 伸ばしていた両手を、戻しながら見つめてくる。心底、空腹な上、機嫌が悪い。だから私で我慢しようとしいたのに、それすら邪魔された。また一段と機嫌が悪くなった。

「ごめんなさい。だけど、私もあれには困ってる。だから」

「わかったよ。あの死体を片付ければいいんだよな‥‥ヨマイ、それ貸して」

「あ、はい‥」

 立ち上がったヨマイさんのランタンを受け取ったリヒトは、後ろの悪魔使いにこう伝えた。「あの道にいる全員を避難させて下さい。さもなくば、全員殺す」と。

「そ、総員、対象から撤退!!これは最優先事項です!!」

 そんな悪魔使いの嘆きを他所に、リヒトはランタンを分解、中の光源たる水晶を取り出し、ヨマイさんに投げ渡す。何をするのか?私にもわからない中、リヒトは同じ大きさの水晶を造り出し、ランタンの中に入れる。

「貴重だから取っておけ」

「は、はい‥えーと、一体なにを?」

「息吹は使うなって言われた。ならば不本意ながら俺がやる事はひとつに決まってる。焼却じゃない爆破処理だ」

 不機嫌なまま杖を掴み、車椅子を悪魔使いに動かさせてゆっくりと路に近づく。リヒトが近づいただけで魂が潰れていく。創生の彼岸にいる竜神の使いの怒りの捌け口となった事、光栄と思って貰う他ない。

「悪霊を払うなら、依代を滅却し、自然と魂が消え去るまで見張る事。だけど、そんな面倒な真似くれてやるか―――望み通り、光に帰してやろう」

 杖で地面を叩き、水晶の地表を作り出す。七色の地表は、死体の足元ごと包み込み、路全体に広がる。そこだけ別世界の輝きを造り出し、死体を光の中に包み込む。

「砕けろ――」

 もう一度水晶の地面を叩く、それだけで地面が砕け浮き上がった水晶の破片が死体は勿論壁に突き刺さる。だが大半は直接は視認できないが、パウダースノーのように舞い上がった水晶が、七色に輝く。

「あ、あのー」

「ええ、見応えがありそう―――私は見物するけど、あなたは?」

「うわーカタリさんと同じ事言ってますね‥‥どうせ、どこに逃げても聞こえるでしょうし。折角ですから、私もお供しまーす」

 ようやく何を起こそうとしているのかわかったリヒトの見て、退避と言われた機関の人間達がようやく逃げ始める。逃げても、無駄だ。起るであろう轟音と地震からは、誰も逃れられない。

「必要最低限にして欲しいのだけど‥?」

「人間レベルで言ってるなら、どうかご理解の程を。これが俺の世界です」

 濃厚な力を受けた水晶の塵が、まばらに光輝く。ただの粉塵ではない、あれは限りなくクラスター爆弾の中身に近い。ひとつひとつが彼岸の力を持った別次元の爆弾。空間すら重力で歪ましかねない力を、いや、空間を歪ませる事で光に帰すと言ったのだ。

「—――着火」

 ランタンの光を、力が満ち満ちとした路へと向ける。照らし出された水晶の塵が、光の到達点に沿って真っ白に爆発、それが連鎖的に反応し、呼吸半の時間で路が真っ白に染め上がる。空間爆破の飽和限界を迎えるが、巻き起こった爆風は収まらず5階層のガラス天井まで光として吹き上がる。ほぼ同時5階層全体を揺るがす地震が巻き起こった。




「どう?美味しい?」

「美味しい!!」

「もっと食べる?」

「食べる!!」

 マヤカが手ずから作ってくれた鶏肉の手羽先煮が甘酸っぱくていい―――いつか見た圧力鍋で短時間しか掛けていないのに、口に入れるだけでほどけるように鶏肉が裂けていく。味付けも完璧だった、消化を気にしてお酢が入っているのが、なおいい。

「骨が鋭いから、気を付けて」

「子供じゃないんだ。鶏肉ぐらい食べたことあるよ」

「ふふ‥‥舐めて」

 マヤカが味見として食べた時に付いた煮汁が付いた指を突き出してくる。遠慮なしに指を頬張って、舌で転がす。公然とマヤカの指を食べる機会を期せずして得てしまった。

「‥‥美味しい‥」

 口から引き抜いた唾液だらけの指を、マヤカが口に運ぶ。たったそれだけの仕草なのに、カタリやロタ、マスターとも違う蠱惑的な女性像をマヤカから感じる。喉を鳴らしたマヤカを見つめると、目を細めて、笑ってくれる。

「お箸は使える?」

 先ほどから鳥の手羽先を指で食べているのが、気になったようだ。

「行儀が悪いかな?」

「いいえ、だけどまだ左手の動きが、しびれて見えたから」

「‥‥うん、そうかも。だけど右手でも使えるし」

「大丈夫、私が食べさせてあげる」

 深夜だというのに、一食分の食事を用意してくれたマヤカは、米や汁物も用意してくれた。汁物なら食べられるが、米は正直掴み切れなかった。

「だけど‥人に見られてる‥」

「今更?大丈夫、恥ずかしくなんてない。さぁ‥」

 箸でつまんで米を運んでくれる。二人分の眼球を無視して、口に入れる。先ほどの食事と同じ米だが、粥ではないというだけで、ここまで味が違うのか。噛めるという行為が楽しい。日本人独特の口中調理は、見た目には悪いが当人的には幸せだ。

「美味しい?」

「美味しい!!マヤカ、次」

「ふふ‥はい」

 次に運ばれてくる米を口に入れて、鳥の手羽先を噛み千切る。無様な光景かもしれないが、何度もマヤカには食事の世話をして貰っていた。徐々に、羞恥心というものが、消え去っている。

「口が汚れてる‥‥綺麗になった」

 口付けでもされるのかと思った、ほぼ無音で顔を近づけてきたマヤカは、息を吹きかけながら口元を拭いてくれる。拭き終わった時、鈴を転がしたような笑い声を響かせて、下がっていく。

「期待したの?—――大丈夫、帰ったらゆっくりと」

「あの‥‥そろそろいいかな?」

「マヤカマヤカ」

「ん?なに?」

 この世界の創造の神がいるとしたら、その神に誰よりも時間を掛けて作り出されたような整い過ぎた顔の持ち主が、朗らかに笑いかてくれる。マヤカはそれに気付いているのだろうか?いや、気付いているに決まっている。少なくとも、俺がマヤカの顔が好きな事は知り尽くしている。

「後でシャワーを浴びたい」

「なら、後で頼んでおかないと」

「あ、シャワーでしたら私の工房で」

「あの!!そろそろいいかな?」

 仕方ない。それほど親しい訳ではない、親しい訳ではないからこそ、ある程度は誠心誠意、真面目に付き合うべきだ。マスターの友人というのなら、それも理由となる。

「はい、なんですか?」

「やっと、こっちを見てくれた‥‥まずは、さっきの事について言っておきたいのだけど、いい?わかってる思うけど、流石にやり過ぎです。天井こそ破壊しなかったけど、爆風と衝撃波が5階層中に響き渡りました。その事について弁明はありますか?」

「近所迷惑ですか?だけど、俺はその近所の住人に、散々付け狙われたんだ。しかも、なんの許可も出してないのに、罠すら使われた。いい加減立場を教え込む必要がありました。それに、あなた達が悠長に来てる間に、ここで人狼の大捕り物がありました。今更ですよ」

「う、う~ん‥悠長‥そう言われると言い返せないよ‥‥。だけど!!機関の所属であり、直接の上司ではないとはいえ、階級は私の方が上です!!ならば、私に従う事に異論はないのでは!?」

「上司面するのなら、一度でもいいので、魔に連なる者らしい事を見せて下さい。遅いんですよ、あなたの足って」

「—―――マ、マヤカさん‥‥」

「ごめんなさい、リヒトに代わって謝らせて貰います。どうか、私達非人間族特有の思考と呑み込んでいただけないでしょうか」

 何を言われようと知った事じゃない。事実として、何もかも終わった後に、彼女らは来た。狙い澄ましたかのように、あらゆる事象を終えた後に、悠々現れた上、この期に及んでまだ俺に言っていない事があるようだ。

「リヒト、私達がここまで自由にいられるのは、この人の働きがあるからなの。マスターの友人というだけで、疑ってかかるのは仕方ないけど、もう少し敬意を払って」

「‥‥わかりました。それで、マスターからなんと言われたんですか?」

「少しも敬意を払ってくれない君には教えられない話です。忠誠心を払えとは言いませんが、機関に歯向かう意思を持っている以上、あなたには何も言えません」

「おそらく、あのゾンビは臓器か命令する為に身体に流す薬を保存、熟成させる為に貯蔵庫、依代のひとつ。誰の為か?あの巨人の為、そんな所でしょう?」

 考えるまでもなかった。だって、あのレイスの腕は、紛れもなく巨人の毛皮だった。細部までは思い出せなくても、あの腕で壁まで殴り飛ばされ、車両を投げ飛ばされたのだ。

「気付かないと思いましたか?あれは、俺達を襲って殺そうとした凶器だ。現場にいた俺達だからわかる、確率なんて計る必要のないぐらい死ぬに決まってる体験だった。なら次はないように、調べるのは普通です」

 残りひとつとなってしまったマヤカの鳥の手羽先に手を伸ばす。

「人間だった頃の俺が、消し炭にしたのは上半身まで。マヤカから力を受け取ったけど、使いこなせなかったから、全身を消すには至らなかった。あのレイスの腕は、上半身を失った巨人の部品にする為に生まれた」

「—――いつから、気付いて‥」

「俺をひとりだと思わないように。俺には主がいる」

 創生の彼岸にて、ただひとりで世界の判別を続ける創生の神を喰らった竜。あの方はあらゆる世界を舌で味わう権利がある。ならば、世界を見通す権利だってある。

「それに、俺には役に立つ知恵袋がいます。ここをどこだか忘れましたか?ここは、この秘境内で最も多くの欲望、知識が集まる迷宮にして冥界。上にいなくとも、知識が手に入ります」

「‥‥また、侮ってしまったのね。知恵袋とは、ヨマイさん?」

「頼りになるランタン持ちの道案内人ですよ」

 ランタンを抱えたままのヨマイの顔が、光でも差し込んだように輝く。

「そこまで気付いているのなら、あなたを狙った理由はわかりますね?」

「上で断ったのが、まずかった。あれが起爆ボタンになったみたいですね。だけど、不思議です。あいつが巨人を解き放った奴なら、なんで俺達を狙ったんですか?」

 確かに4階層では強めに断ったが、あれは向こうがそもそも無礼だった。魔に連なる者に、人の道など説く気はさらさらないが、何もない所で怒りなど湧かないだろう。しかも、あれは1年前、そんな昔では俺とアイツとでは接点などない。

「レイスいえ、人狼とここでは言いますけど、あれは一朝一夕で完成するものじゃない。具体的にいつ頃形になったかは、分かりませんけど‥‥どうした?」

 ヨマイが声を漏らして、マヤカを見つめている。そんなマヤカに至っては、溜息まじりに頬を撫でてくれる。よくわからないが、悪くない。

「リヒト、よく思い出して。彼に1年ぐらい前から恨まれる覚えはない?」

「‥‥ないんじゃないか?」

「マジですかー」

「ヨマイはあるのか?」

 ふたりして大きく溜めて息を吐いている。悪魔使いに至っては、マヤカに助けを求めた時の涙目を忘れ、呆れたような顔をした直後、微笑んでくれる。

「えっとね、リヒト君」

「は、はい‥」

「確かに、あなたの実力は知っています。あなたからすると雑踏を踏みつけた程度の感覚かもしれないけど、あなたの足は人間ひとり踏みつぶせる大きさなの。わかってもらえるかな?わかってくれたら、嬉しいのだけど」

「ん?人間は、小さくて矮小って事ですか?言いますね」

「あははは―――ヘルヤに言うべき事がまた増えちゃった‥‥答えを言いましょう。あなたがねじ伏せた学生貴族達、そのひとりがあなた達を恨んであの巨人を解き放ちました」

 マヤカとヨマイを見つめて、あり得るのかと視線で問う。ふたりは視線を外さずに、頷いて返してくれた。背筋が凍り付きそうだった。あの人間リヒトと同様の意識を持っているが、大きく次元を超えたこの神獣リヒトが、人間の恨みに恐怖を持った。

「あの」

「程度、なんて言わないように。あなたの言う通り人間は小さくて矮小。だけど、その人間にあなたは一度破れた。腕の毒だって、そう。人間の策略によってあなたは今も苦しんでいる」

「リヒトさんにとってあの人間は、ただの人間でしかない。当時からしても格下の下級貴族です。だけど、彼らは紛れもなく人間社会、特に魔に連なる者達の世界に大きく食い込んだ選ばれし貴族です。人間の怨念は終わりがありません、こんな迷宮が求められたぐらいに」

 あの時にやった事は間違っているとは思っていない。さもなければ書庫どころかカタリにヨマイ、俺自身すら危険にさらしていた。上で罠を仕掛けてきた奴と同じように、魔に連なる者の身体を自身の研究の為、消耗品にしていただろう。

「だけど、元々はあの人間達の逆恨みだ。応えてやる義理もない、あんな雑魚に」

「リヒトさん‥‥」

「あの人狼を見ろ。貴族連中を叩きのめさなければ、ああなってたのは、俺達だ。理解してやる価値もない。もう俺は人間の消耗品にも、苗床にもなるつもりもない」

 そうだ。何も間違ってない。だって―――あそこで抵抗しなければ、俺だけじゃない。カタリもヨマイも、苗床となっていた。あの苦しみを、身体が内側から奪われる感覚を、ふたりも感じる所だった。

「あの人間が変わらずに、俺に襲ってくるなら話は決まってる。俺が仕留めて、俺が吐かせる。巨人のいた場所には、もう何もないんだろう」

 三人共何も答えない。答えは知らないかもしれない、だけど、あの腕を作り出せる程には正確な図面とも言えるDNAを持っているのなら、残った下半身は既に消えているだろう。もしくは、肌の一部でも剥ぎ取っている。

「明日になったら、巨人がいた場所まで案内してくれ。下半身だけだが、あの巨体だ。無理に動かせば人の目に触れる。きっとある筈だ。この5階層近辺に」

「—――6階層にある可能性も、言ってるんですか‥」

「当然だ。5階層までなら、比較的安全に出歩ける。ならここより下の6階層には、人の出入が極端に少ない、いや、ほぼない。そういう話だったか?」

「え、ええ‥‥リヒトさんの言う通り、6階層はまだまだ品々を封印、解析は出来ていません。確かに、あの巨人を隠すのなら6階層の方が、あり得るかと」

 ヨマイが自信を持って頷いてくれた。ならば、明日もう1階層下がる事となりそうだ。本来、あらゆる学部からの許可を得なければ、足を踏み入れる事が許されない魔窟に、発掘学の学生よりも先に堕ちる事になりそうだ。

「許可をお願いします」

「‥‥もし、取れなかったら?」

「無理やりにでも、押し入ります。あの巨人がもう一度襲い掛かってくるなら、完全に復活する前に仕留めないといけない―――あの時は、奇跡だったんですから」

「—――わかりました。機関として最大限の助力をしましょう。だけど」

 傍らの椅子に座っているマヤカの肩に、悪魔使いは手を置いて、立ち上がらせる。立ち上がったマヤカとヨマイに、視線で出て行くように伝える。

「彼を一人には出来ません」

「ごめんなさい、命令です。退室しなさい」

「‥‥私の上司はあなたじゃない」

「マヤカ、俺もふたりだけで話たい。待ってて」

「—――わかった、失礼します」

 マヤカは納得し切れていない様子だったが、それを踏み越えてヨマイと共に、マーナが待つ扉の外へと出てくれた。確認が終わった悪魔使いは、椅子に座って微笑んでくれる。優し気だった、また同時にどこか人間離れした雰囲気、視点を持っている。

「マヤカさんとは、どういった関係?」

「‥‥大事なヒトです」

「どのくらい?」

「‥‥‥マヤカは、マヤカは俺を叱ってくれたんです。ここに来て初めて怒ってくれたのが、マヤカでした」

「ふふ‥怒ってくれたから、好きになったの?」

 ただの興味で聞いている様子ではなかった。マヤカの正体を俺以上に知っている様子の悪魔使いは、人外同士の関係、どうやって関係を造り出したのかを聞いている。

「彼女から聞きました。あなたとの出会いは散々だったと。幼馴染のカタリさんの事以外誰も信じない、誰とも信頼関係を作り出そうとしない、狂犬のようだったと」

「‥‥ああ、マヤカから昔そう言われたかもしれません。だけど、俺を狂犬に仕立てたのは」

「はい、私達です。私達があなたを追いやって、追いかけた。あなたに責任があるなんて思っていません。誰だって武器を持つ人間に分けもわからず追いかけられれば、人間から離れてしまう。狂犬になってしまう」

「‥‥どのくらい顛末は聞いてますか」

「全部です。全部聞きました―――あなたの唯一の味方であるカタリさんを、重点的に襲い、あなたを孤立せさようとした。本当に、卑怯者だね‥」

 やはりか。あの時、俺とカタリを追いかけまわしてこそいたが、俺には矛先をカタリには手や鎖で掴み、奪い去ろうとしていた。変質者達だと思っていたが、その実あれは作戦だったのか。

「‥‥なぜカタリを誘拐しようとしたのですか?」

「カタリさんの技術によって、迷宮の扉に破壊されたと思ったからです」

「なら、俺を殺そうとする必要はない。はっきり言ったらどうですか?カタリが欲しかったから、あの人間達はカタリを自分の物にしたかったからだって」

 あの目や唾液が零れ落ちていく顔を忘れる事はない。15歳だった時のカタリは、既にその美貌が完成され始めていた。未完の幼いカタリは、ただただ愛らしかった。

「あなたは、あの変質者の身内だ。信用できない」

 マヤカは、あの時の人間を断罪し、逮捕をしてくれた。そして俺やカタリに、謝罪もしてくれた。あんな奴はひとりだけ、どうかそこだけは理解して欲しいと。機関が有耶無耶に究明から逃げている間に、真っ先にひとりで来てくれた。

「俺に首輪をつけたいのなら、勝手にそう思ってろ。密猟者気どりの奴隷商が」

「‥‥本当に、容赦ないね。その事をカタリさんは?」

「言ってません。カタリだって、ここに望みを託して来たんだ。これ以上、カタリを傷つける事は出来ない。カタリに近づくなら、覚悟しろ‥‥バラして売ってやる」

 握っているベットの毛布が、水晶に覆われていく。それどころかベット全体、足から床にまで神域の水晶で呑み込まれていく。悪魔使いだと言った、それが本当ならば、今の体調では瞬時に首が落ちる。だが、その時は上半身は貰っていく。

「もし、もしカタリさんを誘拐する作戦に、マヤカさんが率先して関わっていたら」

「そんな卑怯な話をしたかったのか?」

「答えて―――」

 真っ直ぐに目を向けて、口を結んでいる。自身のローブにしわを造りながら、俺の答えを持っている。何を考えている?マヤカを盾にすれば、何でも言う事を聞くと思っているのか?

「まだ一度も会ってない時のマヤカなら、俺は槍を振り下ろしてた」

「もし、既に同じ関係だったら?」

「—―――答えたくない」

 目を逸らしてしまった。慌てて目を戻した瞬間、水晶を踏む軽い音が聞こえた。

「お願い、答えて。これは、あなたが今後必ず経験する事態だって言い切れる。これはあなたが自分の意思で選ばなければならない、どちらに味方をするか、どちらの立場に行くか、迫られる時がくる。だから、お願い。答えて―――」

 わざと俺の間合いに入ってきた。先ほどの爆破を見ればわかる筈だ、俺の映像を見たのなら足元から身の丈程の刃が生まれる可能性だって察しがつく筈だ。なのに、今この人は頭を両手で挟んで見つめてくる。

「私は、ずっとこれで苦しんでる。同じ苦しみを持った人も沢山知ってるの、だってそんな人達を、私は逮捕、痛めつけてるから。牙を抜いて、監禁。あなたの言った通り、密猟者気どりの奴隷商‥‥それが今の私。昔の仲間を売って、機関に取り立ててもらう――――もし、カタリさんとマヤカさん、ヨマイさん、ヘルヤ、それ以外でもいい。その内、どれかを選べ、誰かしか守れない、それ以外をあの変質者に渡せと言われたら、あなたはどうする?」

 何を聞きたかったのか。マスターが話せと意向を示した理由が、ようやくわかった。この人は、元はただの人間の筈だ。マヤカやマスター、ロタとは違う。ましてやヨマイとも違う。俺と同じだ。人間という枠組みから大きく離れてしまった人外。人間だった時の関係であるカタリと、縁を切れるか、そう聞いている――――。

「卑怯で、汚らしい事を聞いてるのは、私もわかってる。だけど、一言でいいから」

 どれほどの覚悟があったのかなんて、俺にはわからない。この手は一体どれだけの同胞達の血で汚して来たのかなんて、わかる筈がない。今後、どれだけの血で汚すか――――選ぶ時がくる。それはきっと、真に人間から別れを告げる時。

 なんだ、わかりきってるじゃないか―――そんな問い、もう答えは出てる。

「皆殺しです」

「—――気に食わない人間を全員?」

「それだけじゃない。邪魔をするなら、全員殺す。何も変わりません。俺は、こっちに帰ってきてから、ずっとこう考えてきました。もうこの思想は変わらない。あなたにどれだけ痛めつけられようが、変わりません。だって、所詮は未だに人間から離れる事を恐れている半端者があなただ」

 手を重ねて水晶で覆う。悪魔使いの足も水晶で覆い、逃げ場所を亡くす。

「人間が嫌いだから‥‥だけど、人間の時に出来た関係を全部捨てられるの?」

「何言ってるんですか。俺は、もうとっくにそんな物奪われます。あなた達が全て奪った。全て踏みにじられた―――忘れましたか?誰が俺をここまで壊したのかを」

 やはり、わかっていない。この人とマスターでは隔絶された違いがある。なぜ、悪魔使いと言われる程の力を持っているというのに、迷っていられるのか。

「あなた達は、俺がどうなろうと知った事ではない。そう思ったから放置した。だってそうでもなければ、あそこまでお膳立てはしなかったでしょう?帰ってきた俺にしても同じだ。死んでもいいから、俺で始末したかった。諸共死んでくれれば、これ以上有難いはない。機関の総員の意思でしょう?これが」

 あの教授は言っていた。機関と取引をした。ならば、これが答えだ。おとり捜査なんて生易しい。確実に俺が狙われる状況を作って、放置。今か今かと待ち構えて、椅子の上でふんぞり返っていた。これが答えだ。

「そんな汚い真似しか思いつかない、お前らに、何を遠慮する必要がありますか?言い切れる、あなたは汚い。卑怯で、臆病で、身内贔屓の腰抜けだ」

 顔の手を離して、突き飛ばす。足が水晶で覆われている所為でバランスを取れず、床に倒れ込む。そんな痛みよりも、先ほどの言葉の方が強く効いたらしい。声も上げない。

「あなたの言葉を借りて、ここで決めよう。選んでやる、あなたをここで殺すかどうかを」

「‥‥私は」

「質問した事だけ答えろ」

 杖を掴み、足元に切っ先を落とす。

「ようやくあなたに持っていた違和感に気づいた。そもそも人狼にしても巨人にしても始末する気なんて、なかった。そうですね?」

「あの巨人の力は、私達にも振り下ろされた。あなた達の力も大きく非常識だったけど、あなた達は絶対機関には与しないと判断が下された‥‥だから」

「まだ言う事を聞かせられるかもしれない巨人を求めた。人の物を見ると欲しくなる子供と同じですね。教授の樹の巨人を見て、馬鹿みたいな幻想に憑りつかれた―――あなたは、どう思いましたか?」

「‥‥信じられない。あんな思考を持たない巨人を飼いたいだなんて、私には理解出来なかった‥‥なら、今まで私がしてきた事はなんだったって、どうして今まで私は」

「そんなあなたの背景には、興味はない。あなただって、興味がないから俺を放置したんだ。さっさと答えだけを言え――――なんだ、その顔は?」

 剣を抜き出し、肩まで振り下ろす。肩の布が切れ、白いローブをわずかに赤に染める。

「拷問は、私達でもオーダーや裁判所から許可された時しかしないのに‥‥」

「俺は一度殺された。殺す許可をオーダーと裁判所は下したんですか?さっさと答えていただけませんか?」

「‥‥不可能だと思った。あれだけの力を持つ巨人を、十全に支配する事は、彼らの母でもない限り不可能だと思う。言う事を聞かせる自信がないから、狙いをあなた達だけにして迷宮から解き放った。そんな単純な命令しか、実行できないんだと思う」

「なぜ、機関は巨人を求めている?」

「‥‥あの巨人の血が必要だから。あの巨人は、特別な存在なの」

「曖昧な答えだ。何が言いたい?」

「—―――これは機関だけじゃないオーダーでも本当に、秘密裏にされている事‥だから、これだけは言えない。これは私の意思でもある、だから、諦めて」

 今だに剣を肩に当てられているというのに、身体中を水晶で奪われて一切動けずにいるのに、絶対的な言葉で拒否してきた。

「悪魔との契約ですか?」

「いいえ、私の誓いです」

「—――いいでしょう。ならあなたは機関の命令で、巨人共々人狼の回収に来たのですか?」

「私の目的は、当初は人狼を捕まえて、犯人の弱みを握る。そこで巨人を戦力として使えるか、判断、もし出来たならば迷宮から引き揚げて機関に連れ帰る事」

「打算的だ、あり得ない。こうじゃないのか?俺を巨人と共に始末しろ」

「それこそ打算的であり得ないよ。あなたの力はよく理解してる。ヘルヤのお蔭で言う事を聞いているだけで、いつ歯向かうかわかったものじゃないって言うのが、機関の判断。だけど、あなたの言う通り巨人を連れ帰るは嘘です。正確には、確実に巨人を封印、もしくは完全なる破壊。二度と動かないようにする事が目的です」

「なんで、嘘をついたんですか?」

「だって、ちょっとぐらい君を困らせたくなったから。ダメ、かな?」

 つまらない冗談を誤魔化す為に、愛想笑いをしてくる悪魔使いは、マスターとどことなく似ていた。気の合う筈だ、冗談の方向性が似通っている。

「マスターによく似てますね」

 そう言った瞬間、演技ではない本気で涙ぐみ始める。袖で目元を隠して、すすり泣く。一体どれだけあの人は、あんな感じなのか。人を困らせる事について、類を見ない。

「私だって、大人だし、プライドのひとつぐらいあるのに‥君ったら、全然敬ってくれないんだもん。ヘルヤから年下の恋人はいいぞーって聞いてから、どんな子なのかなって考えて、エイルから年上が好きだって聞いたから可愛い子なんだと思ったのに‥‥」

「狂犬だって、前情報は聞いていたでしょう。何を期待してたんですか‥」

「だって、ヘルヤが自慢してきて。確かにあの人は美人だけど、ヘルヤに先を越されるなんて‥」

 段々、話が逸れてきた。だがわかった事がある。マスターは昔からマスターだったようだ。あの天真爛漫なわがままな性格に振り回された被害者が、ここでもいたようだ。

 剣を戻し、杖をベットに奥。そして水晶も解き、手を差し伸べる。

「マスターが、迷惑をかけたみたいで―――俺も気が立ってました」

「‥‥ああ、君もヘルヤに振り回されたんだね」

「毎日、振り回されてますよ。最近なんて胸元を開けてYシャツで歩き回るので、カタリとロタと一緒に、せめてジャケットは着てくれって」

「うっ‥‥そんないい子達がいるのね‥あのヘルヤに」

 手を握って起き上がった悪魔使いは、また涙ぐみ始める。一体どんな評価なのか、聞き出したくなる。

「さっきの続きです。あなたは巨人を完全に消去しに来た。だけど、あなたは消極的な行動しかしていない。さっきだってわざわざ俺を連れていく必要はなかったでしょう」

「うーん、ちょっと言い難いんだけど、お姉さんの秘密って所で、どうか」

「マスターと同い年なのでしょう?お姉さんというより、先生では?」

「—―――答えを言いましょう。私にはスパイとしての役割があります。巨人から血を抜き出し、渡すように言ったきた人を捜査、逮捕する事です。あわよくば、巨人を引き連れろとも、言われましたけどね」

 やはり現実的じゃない。自分で言って、自分で呆れている。現場をろくに知らないか、ここに来て日が浅い愚か者のようだ。恐らくオーダーからの出向か。

「もし、私が失敗したとしても完全に巨人を灰にしてしまえば、二度と血を求める事は出来ません。よって私自身では手を下せませんでした。それと、先生は悪くないかも‥‥もう一回、先生って」

「先生は、なぜそんな回りくどい事を?あなたがその気になれば、令状なしで逮捕、情報を吐くまで叩きのめす事だって出来た筈です」

「あ、先生‥先生か‥もうお姉さんじゃないけど、先生‥先生ね‥」

 やはりどこかマスターに似ている。マスターもこうやって何度か帰って来ない事があった。それともこれぐらいの女性は、こうやって帰って来ない事があるのか?

「先生?」

「あ、はい、回りくどい、うん、確かにそうかもしれないね。だけど、これには理由があります。そもそも、あなた達が捜査する事となったこの件は、私達が独自に捜査、なんとか尻尾を掴めたから実行する事となった捜査です。なぜ、それをヘルヤの部下、あなた達に回ってきたのかと言うと―――あなた達ならば、確実に襲われると思ったからです」

 また囮にされた訳か。俺達が機関を呼んだ理由は、この迷宮があまりにも好き勝手に改築、罠を仕掛けていた事が原因だが、確かにあの人狼は俺達に差し向けられていただろう。であれば、通報する事も想定内か。

「あの、ごめんね。だけど」

「だけど?結局、腰抜けですね。俺が狙われるとわかっていたとしても、あなた達がさっさと巨人の有無を調べれば、それでいくらでも捜査出来たでしょう」

「‥‥うん、そうだね。だけどね、外にいた巨人や人狼の事だったり、あの杜撰な捜査結果だったりがあったから、機関の中にも手を貸している人員がいるんじゃないか、という判断を下したの。だから、下手に大がかりじゃなくて、通報されたって体で実行したかったんだけど‥」

「あっそうすか」

「うぅ‥‥だけど、あなただって原因なんだよ。機関からの再三の出頭命令に従わなかったでしょう?」

「誰が従うか。散々、俺を利用して、あわよくば首輪をかけるような罠を仕掛けて、カタリを人質にしようとするようなクズどもを―――どこを信用しろと?毎日、槍を投げつけないだけ感謝して欲しい。それと、あそこ遠いんだよ。車でも回して来い」

「‥‥はい」

 この件の全容が見えてきた。

 司法取引かどうか知らないが、発掘学からの捜査依頼は―――俺をここへと誘い込む為。そして、その依頼は、機関の所属であるこの人からの命令に従った発掘学の一人からの告発。

 また、俺が襲われたと通報を受けた瞬間、ここへと押し入り捜査、巨人を求める。だが、それは演技でしかなく――――本当は人狼を使って巨人を復活させようとする貴族連中やそれに手を貸していた機関や発掘学の人間を逮捕。いいように使われた。

「巨人の血を求めた理由は言えないんですよね?なら、誰が求めているかも?」

「はい、言えません」

「‥‥マヤカが関係しているんですね?」

 息を呑む音がした。

「それで、隠している気でしたか――――どうでもいい」

「どうでもいいって‥」

 後ろのドアへと振り返って、聞かれていないか確認し始めた。

「いません。マヤカは、約束を破った事はありません。‥‥どうでもいい、マヤカの生い立ちも経歴も、どこで生まれたかもどうでもいい―――だけど、俺に言う事を聞かせたいのなら、マヤカに頼んで下さい‥‥全部をマヤカに話せ」

「それは――出来ません」

「では、死ね」

 剣を抜き、首を飛ばす。本気で飛ばすつもりで斬りつけたというのに、刃は首の一本手前で止められる。腕だ。黒い腕が影から生まれ出て、刃を血を流しながら掴んでいる。

「‥‥それが悪魔か」

「本気で、殺す気だった‥?」

「殺された事がないから、そんな事が言えるんですよ。人間は、面白半分で殺す、集団であればある程、簡単に殺す。誰も殺せる度胸なんてない、だから、そんなに他人事みたいにしてられる。俺はあなた達に殺された。これは―――復讐だ」

 剣を引き抜き血を部屋中にぶちまける。黒い血を浴びて、ベットの上で膝立ちとなり振り下ろす。影から生まれた腕が再度掴んでくるが、そんな事、想像していた。

「シネ」

 残った杖の切っ先で喉を狙う―――だが、悪魔使いは伊達ではなかった。

「複数と契約している‥‥」

 ローブの中から次は絹糸のような繊維が生まれ、それが杖の切っ先を絡めとる。だけど、こちらの方が確実に格上だ。繊維が一本一本裂けて、剣にも黒い血が流れていく。

「待って!!お願い落ち着いて!!」

「それは、半年前の自分に言っておけ、ここでシネ」

 部屋全体を水晶で覆う。床も壁も扉も窓も、全てを覆い、逃げ場を奪う。ここは俺の口の中だ。牙を生やし、咀嚼して、飲み込む。吐き捨ててもいい。ここで息吹を使ってもいい。神獣の顎からは、誰も逃がさない。

「私は―――」

「落ち着く事だ」

 マスターの声だった。

「マスター‥」

「ああ、君のマスターだ。訳あってそこにはいないが、私は君のマスターで、年上の恋人だ。信じてくれるかい?」

「‥‥はい」

「よし、いい子だ。従順な弟子は好きだぞ。話は聞かせて貰った、そこの悪魔使いの始末は私に任せてもらえないか?」

「—――出来ません。放っておけば、また」

 今もじりじりと杖と剣で頭蓋を目指されている悪魔使いは、苦々しい顔を向けてくる。なぜ、ここまで被害者ぶれるのか、なぜここまで人間の味方が出来るのか、理解できない。

「ああ、また君にしろカタリ君にしろ、手を出してくるだろうな。しかも今回は、わざわざ迷宮に足を運ばせる程の手の入れようだ。次、似た事をしないという確証はない。だけど、そこの悪魔使いを始末したとしても、何も変わらない。違うか?」

「‥‥だけど、マスター‥」

「私だって、そうさ。君を使って、罠のひとつとして放置した。しかも、その結果として君は殺され、創生の彼岸にまで流された。帰って来てからも、これだ。もしそこの女性を殺すのなら、私も殺さなければいけないのではないか?マヤカもだぞ」

 その論理は正しかった。マヤカもマスターも、機関の所属で、俺を生命の樹の苗床にする作戦程度、知っていただろう。知っていて放置した。だけど―――。

「マスターは、帰ってきた俺を迎えてくれました。マヤカもそうです、俺の為に血肉を分けてくれました。俺に居場所をくれた‥‥ひとりにしないでくれた」

「ふふ‥‥君は優しいな‥。先ほど、そこの女性から言われただろう?誰の味方になるか決めろと、私達はよくて、そこの女性はダメか?—――言い方を変えよう、そこの女性は私の唯一の友人だ。私の数少ない身内を勝手に奪う気か?」

「‥‥だけど」

「どうか、矛を納めて、彼女の話に付き合ってくれ。そこで気が変わらなければ、私が手ずからそこの首を、君に捧げると約束しよう。必ず、君の前でだ」

「‥‥チャンスは次で終わりです」

「よし、では、いやそのままでいい―――後は、自分でどうにかしてくれよ」

 そこでマスターの声が止んでしまった。剣と杖は一度降ろす。だが、部屋中の水晶は消さない。ここで確実に始末しなければならない理由は、まだ晴れていない。

「俺の言いたい事は、さっきので終わりです。この迷宮探索を続けるつもりでも、あなたを依然として放置する訳にはいかない。いつ裏切るか、わかったものじゃない」

「‥‥私には目的があります。だから、ここであなたを裏切るつもりは、ありません。今後もそうです、あれだけの力を持ったあなたの心証をこれ以上悪化させる事はない―――これは私の誓い、約束します」

「口では、なんとでも言えます。続けろ」

「私は―――あなたが欲しい。何者にも脅かされない力を持った神獣が欲しい‥‥お願いします」

 足が水晶に囚われた状態で、頭を下げてくる。

「どうか、私に力を貸して‥‥あなたを裏切る事と、あなたの力を天秤にかけた時、もう誰が見ても明らかなぐらい、結果は出てる‥‥。二度とあなたを罠にも、道具にも生贄にもしません。だから―――願いを聞いて‥‥これは彼女達の為」

「彼女達‥‥マヤカも含まれているのですか?」

「‥‥ええ。マヤカさんだけじゃない、彼女の妹達も」

 —――――マヤカの妹達の事を知っている。それだけで、俺と同じかそれ以上の知識を持っている。しかも、マヤカという人外達の為だと言った。

「‥‥俺を使ってマヤカを」

「彼女だけじゃない。これは彼女達の―――ごめんなさい、これ以上は言えない」

 頭を上げた悪魔使いは、影からもローブからも何も出さないで、拳を胸に付けて祈るように、見つめてくる。これは俺の為に祈っているんじゃない、マヤカ達の為に、祈ってる。

「—――私の首が欲しいなら、後で上げる。だけど、その前に私はやらないといけない事がある。神獣リヒト、どうか私を殺さないで――そして、どうか私の為に」

「俺は機関の犬になる気はない。そんな物を求めてるなら、下から腐った巨人でも引き上げて、謀反でもなんでも勝手に起こしてろ―――言い方を変えて下さい」

 水晶を解く気はまだ起きない。まだマヤカを餌に俺を騙そうとしている可能性がある。

「俺に頼るという事は、人間では力不足だから神獣リヒトを求めた。ここで決めて下さい、人間と決別すると」

「‥‥私はまだ」

「あなただってわかってる筈だ。—―人間は俺達には遠く及ばない、弱いから仲間だ集団だと抜かして狩りにくる。しかも、それでも勝てないとなると、人質に嘘、罠を使う。それが力だと言う恥知らずに、なぜ俺が力を貸さないといけない」

「—―――わかってるよ、私だって人間に与する事に、もう意味はないって。だけど、まだ人間だった時に作った時間は、捨てられない」

「それは、人間に与しないと守れないのか?」

 ようやく気付いてくれた。いや、わかりきっていたんだ。だって、この人は人間なんて信頼していない。信頼していないから、俺を求めている。

「人間に手を貸す気なんてさらさらない。それが、あの卑怯者達なら尚更だ。自分だけ何も差し出さないで、力を貸してくれ、殺さないでくれなんて抜かす人間に送れる物は死だけだ。決めて下さい、人間として死ぬか、こちら側の住人となるか」

 マスターの真似をする。手を差し出す。先ほどまで殺そうとした手だが、それを掴めるような勇士なら、生かす価値がある。見極めよう、殺すかどうか。

「—――ふふ。ヘルヤが選んだ理由が、わかった気がする。そうね、あなたの言う通り、私は卑怯者。卑怯で下劣な人間に染まり過ぎていた―――失礼します」

 白い手だった。片方の袖が流れないように、ローブを抑えて差し出してくる手は、やはり悪魔使いとは思えないぐらい清くて優しい手だ。

「ああ‥‥ふふ、男の子の手って感じだね」

「‥‥男の手です」

「あ、ごめんなさい。だけど、この手は男の子の手です――」

 不満だが仕方ない。だってこの人とほぼ同じかむしろ小さいぐらいだった。ならばと思い指に力を籠めるが、見越していたように片手を添えられる。

「はい、まだまだあなたは回復しきってません。だから力を抜いて下さい、いいですね?」

「もう治りました!!」

「あはは、エイルが言っていた通りだね。我慢して強がる男の子、あなたはまだまだ治りきってませんし、無理をさせる訳にはいきません。諦めて先生の言う事を聞きなさい!」

 添えていた手の指で額を押してくる。不服だ、だけどこの美人の笑顔には、抵抗する気を失わせる何かを感じる。これが悪魔と契約した者の魅了の力なのか?

「お風呂に行くんでしょう?一緒に行こうか?」

「それは私達が」

 扉を叩いてマヤカが、声をかけてくる。

「マスターから言われました。あなたの事だから本当に殺してしまうかもしれないって。様子を見に来て正解でした―――私と話してもらえますか?」

「‥‥そうね。話す理由が、出来てしまいましたね――耐えられる?」

「—――それは聞いてから聞きます」

「わかりました。では、私の知っている事を話せるだけ話しましょう」

 握った手をそのままに水晶を決して、部屋中に散らせる。一瞬で空気からも消したが、それが我ながらなかなかいい風景だった事もあり、見惚れてしまう。

「うわぁ‥‥今のいいね」

「気に入りましたか?」

「うん。また見せてくれる?」

「勿論」

「年上が好きなのは知っている。だけど、言う事を聞きすぎだと思うのだけど、あなたはどう?」

「いやー私に、そんな気を持っているんではーって思ってましたが、結局年上というステータス、そして胸ですか?」

 マヤカと共に入ってきたヨマイが、目の下のクマを影で更に強めて車椅子を押してくる。ヨマイに手伝ってもらい滑り乗るが、背後の冷たい視線がつらい。

「私の工房でと思いましたが、ここの入浴台を使わせて貰える事になりましたー」

「なりましたーって、そうなら別に俺ひとりでも」

「エレベーター代の前払いですよ。任せて下さい、私は人の身体を洗う事には慣れています。さぁ、行きますよー」

「それは――死体なんじゃ‥」

 こちらの返事など一切聞かないで、ヨマイが部屋の外へと押していく。マヤカに助けを求める視線を送るが、手を振って送り出してくれる。

「先生‥」

「はーい、君の先生だよ。しっかり洗ってきてね」




「これが風呂か‥」

 そこにあったのは身体を洗う事だけに特化した浅いもはや容器とでも言うべき浴槽だった。これこそ死体を洗う所ではないのか?そう思わずにいられない遊びのない入浴台だった。

「はい、とっとと入りますよー」

「あの‥‥なんか怒ってる?」

「まっさかー。それと前を隠しても意味ないですよーだってとっくに見てますから」

 先ほどまで身体を洗うと言ったヨマイに全力で抗ったというのに、マヤカと共に既に身体を拭いた事があると言われてしまい、抵抗をする意味がなくなった。

「‥‥見慣れてる?」

「言った通りでーす。男性の局部?見慣れてるに決まってるでしょう?それだけを瓶詰にしたりしてる物も、見た事ありますし、勿論触った事もありまーす。まぁ、血の気が通っているのは、初めてでしたがー」

 一切顔を染めないでそんな事を言うヨマイは、俺が思っている以上に大人だった。既にタオルしか身体を隠す物のない中、ヨマイはせっせと風呂の準備をしてくれる。

「シャワーだけでも」

「人間の身体はシャワーだけでは洗い切れないから、アルコール槽があるんでーす。わかったらわがままばかり言わないで、入って下さい。因みに、タオルを浴槽に付けるのは却下します」

「‥‥ヨマイ‥」

「ダメでーす」

 ついにヨマイの手によってタオルが奪われて、浴槽に落とされる。溺れる深さではないが、浴槽に落とした腰が思いの外効いてしまい、動けなくなる。それを諦めと受け取ったヨマイは、奪ったタオルで腕を洗い始める。

「まだまだ男の子の腕ですねー。人種的な理由もあるでしょーが、細いというより幼いです」

「ヨマイだって‥‥子供だろう」

「洗って貰ってる相手に、感謝ひとつ言えないで抵抗し続けるあなたよりは、大人ですよ」

「‥‥ごめん。ありがとう‥」

「良しとしまーす」

 諦めて身体を預ける。腕や胸をタオルで拭いて、油や砂埃を洗い流してくれる。それがかなり手慣れていた。段々眠くなってくる。

「気持ちいい‥」

「それは何より。身体が動かない事に感謝をして下さーい、こんな美人に身体を洗ってもらえるなんて、そうそう体験できないかとー」

「‥‥そうかも」

 横目でヨマイの姿を見つめてみる。身体を洗うために、腕を巻くって髪をまとめているヨマイは、カタリとは違う少女像を見せつけてくる。目のクマこそ変わらないが、色白なのに頬の桃色さがひと際目立ち幼さを捨てきれていない。

 また雰囲気だけ見ればダウナーな装いだが、それは違う。目的の為、あらゆる手を使う有能な勤勉家—――――知的なヨマイは、麗しかった。

「え、冗談ですよ‥私はマヤカさんやカタリさんとは―――」

「—――そうか‥」

 眠くなってきた。だから力を籠められてわかった、ヨマイは不要な力を使って身体を湯船に沈めてきた。息が出来ない、だが、口元まで湯に浸かる感覚は悪くない。

「苦しかった‥」

「あ、ごめんなさーい」

 押さえつけられていた身体が湯船から浮き上がる。胃の食料がまだ熱を持っている。しかも、ヨマイが身体中を洗い続けてくれるので、汗の不快感が消えていくので、尚更快適に快楽に溺れていく。

「さっきのランタン‥‥まだ使ってたのか」

「勿論でーす。だって、ここにある貯蔵品と比べてもあなたの水晶は見劣りしないどころか、ここに収められてもおかしくない価値があります。もしかしたら、最下層にまで届きうるかも‥‥」

「そんなに価値はない―――ごめんな」

「なんで謝るんですかー」

「だって‥本当はただの道案内だったのに、こんな世話までして貰って」

「つまらない事言ってると、置いて行っちゃいますよー」

 心底そう思っているみたいで、あらかた洗い終わった身体をもう一度、湯に沈めてくる。ヨマイの柔らかい手が心地良い―――胸を撫でながら、声をかけてくれる。

「気持ちいいですかー?」

「気持ちいいよ‥‥偶には上に戻れよ」

「戻ってますよ」

「最後に戻ったのはいつだ?」

「‥‥秘密でーす」

 少なくとも一週間の期限とやらをヨマイも守っていないようだ。それだけならまだしも、ヨマイ自身、この迷宮に囚われているようにも感じる。

 ここは迷宮。迷わす為の神殿。ここから出る事が出来ないように壁で覆われているだけじゃない、外に出る事を忘却させ、何もかもを掴んで離さない。

「だって、上に行ってもつまらないんですもん」

「色々あるぞ。新しいファストフードとか」

「‥‥例えば?」

「数十秒が賞味期限のハンバーガーとか」

「なんですかそれ!?気になります!!」

「なら、上に出ないと。せめて週末はここから出ろ」

 悪くない感触だ。賞味期限が一瞬で過ぎてしまうハンバーガーという、それだけでは何も思いつかない化学調味料の塊に、思いを馳せている。胸を撫でる手が早くなってくる。

「ここには機関が常駐するんだ。戸締りさえしておけば平気だろう?」

「う、うーん‥だけど‥」

「植物でも育てたらどうだ?サボテンとか」

「‥‥サボテン‥植物ですか。何かを育てるって、やった事ありません」

「なら、挑戦しないと。新しい発見があるかもしれないぞ?」

「新たな発見‥‥これも探究‥‥サボテンってどこで売ってますかねぇ‥」

「外にだって悪くないものは沢山あるんだ。しかも、今後エレベーターが出来るんだから、好きな時にここまで降りれて、好きな時に上まで上がれる、考えてみたらどうだ?」

 ヨマイの手を塗れた手で掴んで、見つめてみる。天井の明かりをバックにしたヨマイが影が差していても、わかるほど顔が赤くなっていく。クマはそのままだが。

「エ、エレベーター‥忘れてなかったんですね‥」

「当然だろう。この神獣に頼んだなら、何でも叶う―――ヨマイは、俺の為にここまでしてくれてるんだ。なら、応えないといけない‥俺じゃ力不足か?」

「いいえ!!ええ、あなたがそう言ってくれるなら、何でも叶います!!ええ、だって、あなたは私を守ってくれた、工房だって傷ひとつ付けないで守ってくれました!!—――約束です、私の願いを叶えて下さい」

「ああ‥‥任せろ」

 たったそれだけの願い、たったそれだけしか言っていないのに、ヨマイは祈るように濡れた手を抱いてくれた。





「彼はどうだったかな?心配になって急いでマヤカ君を送ったのだが?」

 少しだけ挑発気味に言ってみる。少しばかりの反撃を想像したが、返ってくるのは溜息ばかり。まぁ、それはそれは構わない。むしろ楽しいと思い鼻で笑う。

「どうだったって‥‥まさか、あそこまで‥」

「くくくっ‥少しばかり想像と違ったかな?」

「‥‥私だって、実力で言えば最上位だと思ってたし、油断なんかしてなかったの‥。だけど、手も足も出なかった―――私の契約者達も、満足に力を引き出せないでいた‥‥格が違い過ぎた。あれが創生の彼岸にいる神の力なの?」

「無論、それもあるさ。だが、あれは災厄のひと柱であり、この星や世界にもっとも忌み嫌われた人類の敵対者、望まれた破滅の力に、君の力が通らなくて当然だろう?次いで、更に言えば彼の身体は星そのものだ」

 絶句した訳ではない。むしろ想像通りと言った感じに息を呑んでいる。自身達が面白半分に触れた彼が、どれだけ世界に求められて生贄とされたか、いつから自身の意思が世界の意思に乗り移られていたか、ようやっと思い当たったらしい。

「我が弟子の無礼、ここに謝罪しよう。だが頭は下げないぞ、私すら騙して彼を更に生贄にしようとしたなど、首を落としてもまだ足りない。だが、それは不要そうだな」

「‥‥その気になれば、彼はいつでもできるから?」

「わかってきたじゃないか。言っておくが、それは私でも同じだ。彼の逆鱗に触れれば、彼の槍が頭上から容赦なく降り注ぐ。週末ならぬ終末が訪れるだろうな」

 決して冗談のつもりなんかではない。そんな世迷言を言える程、私にも余裕はない。彼が私の求めに応じているのは、彼の理解者が数える程しかいない、その中に私がいるというだけだ。またあの水晶の竜となった場合、一息で消えるだろう。

「—――どこまで想像通りなの?」

 また鼻で笑ってしまう。ダメだ、これだから弟子達に呆れられてしまう。

「さてな。私自身、君とリヒトを会わせてやりたいとは、前々から思っていたが‥‥彼の怒りに触れる事になるとは、想像もしていなかった。運が良かったな、マヤカ君を言い訳に出来て」

「彼はあなたの弟子なのでしょう?あなたが止めれば」

「あっはははは。ああ、そうだとも彼は私の弟子であり年下の恋人さ。だが、それで私の言う事ならば全て聞くとは思わない事だ。彼は、この世界の全てが敵だと思っている。実際その通りだ。その内に、無論私も加わっている。たまたま、私を気に入って愛してくれている。それだけだよ」

「‥‥そんな関係で、よく彼を繋ぎ止めていられるね。あの力は、この世界の力じゃないのは勿論、いいえ、この宇宙の始原にも通じかねない波動そのもの。向こうの彼がこの宇宙外の力なら、リヒト君は宇宙の始まり、わかってるの?彼は」

「言われるまでもないさ。あの力があれば、私の世界を復元できるかもしれない。だが、それがなんだ?」

 どれだけ望もうが、再会を渇望しようが、もうそれは終わった話だ。帰る事どころか振り返る事すら出来ない。そんな事、わかりきっている。

「もはや、どうでもいいのだよ。ロタだってそうだ、ここで自分の在り方を見つめ出している。仮にだが、イミナがこの事を知ったとして、彼女はどう答えると思う?」

「‥‥そうですか、これで終わりでしょうね」

「ああ。エイルはとっくにこの事に気付いているのに、何も言わない、つまりそういう事だよ。もはや、どうでもいい事だ。だって、終わった話だからだ―――散々、君に力を借りて、イミナに至っては直接の弟子、目まで受け取っておいて、この仕打ちだ。恨むかい?」

「まさか‥私だって自分のしてきた事はわかってます。ロタさんに身体こそ提供しているけど、彼には何も出来ていない。それどころか、散々の仕打ちに、何も対価も渡さないで問答無用で力を貸せだなんて‥‥殺されなかった事に感謝しないと」

 自分に言い聞かせている訳じゃない。心底、彼の顎の前に放り出された事に恐怖を覚えているようだ。それはそうだった。だって、あんな根源的恐怖、生涯感じられないと思っていただろうに。

「大変だね‥‥災厄の子達の導き手だなんて‥私もそうなる可能性を考えてたけど、あんなに怖いだなんて――向こうの彼はどうなのかな?」

「比べられないだろうな。あの狂気の塊、イミナ以外適任者はいないだろう。ああ、勿論、あの憤怒の塊も、私以外適任者はおるまい。だが、意外ともうひとり近くにいるかもしれないぞ?」

「あははは‥‥もしいたらわかるよ。だってあの子達ほど‥‥ねぇ‥知ってるの?」

 ゲームのし過ぎで、寝静まっているふたりを見降ろしながら、グラスを傾ける。カタリ君のホラー嫌いは、一朝一夕ではどうにもならないようだ。

「私に、そう聞くという事は、君だって思い当たっているんじゃないか?私には、わからないよ、確証ではなく推理でもない、ただの妄想さ」

「‥‥そうね、私も胸に留めておくだけにしておく。彼はどうする?」

「君に任せるとも、大丈夫だ。彼は一度して約束は、最後まで守る。君が、また裏切らない限り、絶対に君は無事で出られる。彼がそう決めたのだからね」





 やはり、マヤカの手料理には遠く及ばない。なぜなら、向こうは大量生産のひとつに過ぎない。だが、マヤカは俺の為に時間を掛けて、作って、運んできてくれた。美味で当然だ。好みに作ってくれたのだから。

「不味い‥」

 米ひとつとってもこれだ。洗剤で洗っているのではないか?と思ってしまう程、不味い。ただただ不味い。どうにか味を誤魔化せる調味料でもあれば、話は違うだろうが、そんな物はない。化学調味で恋しい。

「起きた?」

「マヤカ」

 食事と格闘していると、マヤカが朝日に差されながら、部屋に入ってきた。

「マヤカ‥ご飯があんまり美味しくないんだ‥」

「そう、それは大変。だけど、頑張って、美味しいだけが食事じゃないの。薬だって苦いのだから、身体に良い物は総じて美味しいものではないから」

「‥‥」

「そんな顔をしてもダメ」

 鼻で笑うようにして、額に口付けをしてくれる。顔を寄せた時に髪から漂ってくる香りに当てられている隙を狙って、行われた。

「上はどうなってるんだ。なんか、上にも人狼がいて、校舎に誘い込んだって聞いたけど」

「ああ、あなたには言ってなかったのね。あなたが門に向けて放った息吹は、人狼を二体葬ったの。気付かなかった?」

「‥‥知らなかった」

 一体いつもう一体を巻き込んだのか。あの時は必死で、水晶を作り上げていたから、周りに気が回らなかった。どうにも、油断が過ぎたようだ。

「門の上にいたのか‥‥また見られた」

 マスターから隠者となる事を心掛けよと言われたのに、この様だ。どれだけの人の目についたか、もはや数えるのも無駄だ。

「だから、最低でも計3体のドラウグルが歩き回っていたって事になる。全部でどれだけの個体が歩き回っているのか、もう私達にはわからない。だけど、襲撃を仕掛けてくる事はないと思う。あの巨人を除いて」

「‥‥計3体の肉体を消し去ったんだ、もう無駄に出来る身体はないって事か‥」

「レイスは腕の一本、真上の人狼は眼球、もう一体は‥‥これは秘密、ヨマイさんに腕を預けて、牙のひとつだとわかった―――なんにしろ、これ以上の肉体をすり減らす筈がない。可能性としてバラバラに襲ってくる道もあるけど、それでは戦力の小出しと変わらない。どれだけ愚かでも、あなた相手にそんな真似をして追い詰められる事だけは避ける」

 マヤカがこれだけ言っている以上、そんな無駄はしてこない。それに、人狼一体を様子見、もしくは癇癪として用いて消滅、マヤカ達への襲撃も失敗に終わり腕の一本を無くすという失態を晒している。これ以上はプライドの問題で仕掛けて来ない。

「なら、今日中に巨人のいる場所に行かないと」

「‥‥本当は、今日一日はあなたには休んでいてもらいたい。まだ、動けないのでしょう?」

「迷惑かけるけど、車椅子で押してもらえれば平気だよ‥。それに、早く場所を確認して、いないって事を知っておきたい。あれが完全に復活する可能性はもうないけど、出来る限り早く始末した方が再生してる部位が少なくて済む」

 朝食を続けながらカーテンを揺らしてくる風で、髪を揺らす。身体の毒は、まだ消えきっていない。この熱を冷ますには、心配事は出来るだけ排除すべきだ。

「それに―――正直に言いたい。この体調で、万全な奴とやり合ったら、俺は勝てない。マヤカ達がいればどうにかなるかもしれないけど、どうにかなるってだけだ。守り切れない」

 先ほどから左手の感触を感じない。箸も湯呑も右手で不格好だ、それだけならまだしも肩すら上がらない。不慣れだが、右手でどうにかするしかない。

「私では力不足?」

「—―違う、違うんだ」

「わかってる。もう、私に無理をさせたくない。違う?」

 膝の上の食事を取り上げて、マヤカが膝に座ってくる。そんなマヤカの顔を見れない、無様だからだ。こんな身体で人の心配などしている暇はないとわかってる。

「きっと私とマーナだけでは、取り逃がしてしまう。その時、私はまたあなたに願ってしまう、また身体を捧げて――私の血肉はもういらない?」

 またマヤカに抱きしめられる。柔らかい髪に柔らかい息づかい、それにマヤカの体温に目をつむる。何も変わらない、優しく導いてくれた始めての人だ。

「‥‥マヤカの事は、大好きだ。だけど‥もう無理はさせたくない、またマヤカを守れなかったら、もう―――」

「‥‥ふふ‥困った。あなたがそこまで言うなら、もう無理も無茶も出来ない―――どうか、私を守って。私も、もう自分の物だけじゃない私を傷つけたくない。約束してくれる?」

「‥‥する」

「もっと大きな声で」

 大きく息を吸う。風に負けないよう、マヤカの耳元で息を溜める。

「守るから‥マヤカの為に、息吹を使う‥‥マヤカの為なら巨人も怖くない。必ず迎えに行くから‥守ってみせるから。だから、ずっと一緒にいて‥」

「—――ふふ、婚約の誓いみたい。わかった、今度こそ一緒にいる、必ずあなたの傍にいる」

 無理をして身体中を筋肉で固めていた限界が来た。背中からマヤカと一緒にベットに倒れ込み、胸の上にいるマヤカが鼻で笑ってくる。

「また私が上。そんなに、上に乗ってもらいたいの?」

「‥‥マヤカが上に乗るのが好きなんだろう‥」

「なら、たまには上に来る?」

「‥‥今はいい‥マヤカにリードして欲しい。まだ‥出来そうにないから‥」

 マヤカを片腕で抱きかかえて、呼吸を整える。その間もマヤカが上着に手を入れて胸の間に指を這わせてくる。冷たくて、恐ろしい。心臓の熱を冷ましてくれる魔女の手だ。

「任せて――」

 身体を擦りつけるように、登ってくるマヤカが手で胸を撫でながら迫ってくる。

 首にうなじ、最後に頭を抱かれて、喉に舌を這わせてくる。手とは違う、熱いやけどしそうな唾液を塗ってくるマヤカの舌がようやく口まで届く。

 口をすぼめて舌を吸い取り、舌と舌の凹凸を合わせて擦り続ける。これが自分の限界だというのに、マヤカは舌だけではない、頬の内側に口蓋まで舐め続けてくる。

「まだまだ教え足りない」

「‥‥頑張るから、教えて」

「だけど、この物足りなさも嫌いじゃないの。もうしばらく男の子のままでいて‥」

 




 押される車椅子の振動に、尾てい骨を痛める。快適性など求めていなかったが、それでももう少し使う側の事を考えて欲しい。

 そう愚痴を思いながら、振動を受け続ける。

「やっぱり、結構大きいな‥」

 尻尾を振って先導をしてくれるマーナとヨマイを見続ける。

「マーナの事?‥‥そうかも、私も最初にマーナを作り上げた時、大きくなり過ぎたと思ったのを覚えてる。だけど、大きな子って私は好きなの。あなたは?」

「俺も、マーナの事、好きだよ」

「ふふ、良かった‥」

 車椅子を押されながら、マヤカと見つめ合って笑い合う。ここではないどこかで、マーナとマヤカと共に草原でも走る事が出来れば、どれだけ楽しいだろうか。だけど、確実にそんな平和な光景を見る事も体験する事も出来ない。

「だけど、ここまでデカいと‥‥街中で散歩は出来そうにないな‥」

「そう?」

「そうですかー?ここまで大きくていい子なら、何処を歩かせても恥ずかしくないと思いますよ?」

「普通に歩いてるだけで、ヨマイの身体の半分ぐらいあるんだぞ。ここならまだしも、上だと流石に―――いや、どうでもいいか。マーナはいい奴な訳だし」

 どうせ秘境内しか歩かせる事はないんだ。秘境にも草原はある、いつかそこで好き勝手に走らせるのも悪くない。それが無理でも列車で運んで誰もいない場所に行けばいい。

「そう。マーナはとてもいい子‥‥だけど、不思議、機関本部でたまに連れ歩くと、人によっては逃げられてしまう。中には、頭を撫でて褒めてくれる人もいるのに‥」

 だいぶ意見としては二分されそうな見た目ではあるのは、間違いなさそうだ。だが、マーナの顔付きはひいき目に見ても穏やかとは言い難い。こういった顔が好きな人がいるのは間違いないが、苦手な人からすれば、恐怖の権化だろう。

「マヤカ」

「ん?何?」

「確かに、マーナはいいやつだ。だけど、中にはイヌ科が苦手な人もいる。それに、マーナはこれだけ大きいんだ。万人に受けいられる訳じゃない、俺達と同じでマーナも傷つけられるかもしれない。連れ歩くなら、マーナの為にも場所は選んだ方がいい」

「—――ええ、その通りね。思い当たらなかった‥‥」

 元々からだいぶ抜けているとは思っていたが、これは嫌味でもなく、本心から思い当たらなかったようだ。並大抵の嫌がらせなど、物ともしないだろうが、それでもマーナ自身がつまらないと思うかもしれない。

「それでヨマイ、もう少しかかるのか?」

「はーい、一旦は街の中央、それから第6階層近くの扉にある壁まで移動します。だいぶ移動する事になりますが、平気ですか?」

「だいぶって言っても、午前中に戻れる距離だろう?それに、俺はどうとでもなる。マヤカは平気か?」

「ええ、平気。それに何かあったらマーナに乗って移動する。この子なら2人分は運べる」

 それは本当に最終手段となりそうだ。そう言われたマーナが、一瞬振り返って鼻息を鳴らしてくる。ゴーレムの筈のマーナは、褒められた自分が誇らしいかのように、見つめてくる。器用な足取りだと思った、四足歩行のマーナは、機械的ではなく大型のイヌ科特有の一歩ずつ踏みしめるように、地面に足を置いていく。

 銀の毛皮でなければ、本物の狼のように見えただろう。

「リヒトさん、腕はいかがですか?先ほどから‥」

「ああ‥‥見ての通り、あんまり期待しないでくれ。悪いが、何かあれば頼むぞ」

「わかりました。任せて下さい」

 明かりのついてないランタンを揺らして、振り返ってくるヨマイも、どこか誇らし気だった。あのランタンには、ヨマイがこれまで培ってきた技術や素材を真似た物が大量に仕込まれている。しかも、それは俺の1年程前の記憶に過ぎない。

「‥‥ねぇ、ヨマイさん、聞いていい?」

「あーごめんなさい。流石に、ここでは‥」

「いいえ、気にしないで」

 人の通りがまだまだ多い通りでは、自身の術を明かすような事は出来るだけ避けるべきだった。あそこまで派手に力を見せつけている俺は、やはり異常だった。

 街の中央に位置する校舎のような建物に到着した、雑多な宮殿とでも言うのか?大きさこそかなりの物だが、まだまだ創意工夫が足りないようで、デザイン製が発掘学らしくない。ただただ四角い壁で出来ただけに見える。

「一応は、ここで報告するのが義務となっています―――まぁ、どれだけ意味があるか知りませんが」

 ヨマイがマーナより一歩前に出て、校舎に入っていく。二階建てらしい校舎は、一階はほぼ壁が取り除かれ柱ばかり、だが外と比べて中はかなり作り込まれている。壁にはこれまでの階層の見取り図、ガラスケースには貯蔵品、中央に受付が設置され、運び込まれてくる品々の報告窓口となっていた。

「ちょっとだけ待っていて下さい」

「わかった。マーナ、あなたも行って来て」

 マヤカの指示の元、マーナと共に受付へ向かっていくヨマイは建物の雰囲気によく馴染んでいた。本来の校舎とは、もしかしたらこちらなのかもしれない。

「マーナと仲が良いのか?」

「ええ、マーナも気に入ってる―――私達が狙われた理由、わかる?」

「‥‥あのランタンだ」

「そう‥‥あなたもそう思うのね」

 あの男子学生が、どれだけ俺の力を理解しているか知らないが、発端はどうあれ俺とは関係のないマヤカとヨマイを狙ってきた。であれば、俺に関係する何かをふたりから感じ取ったからだ。確実に、あのランタンだ。

「あれには、あなたの水晶が収められていた。知ってた?」

「知ってた―――それに、それを知ってるのは、俺達だけじゃない。向けられた側も知ってる事だ‥‥。悪い、言ってなかった‥」

「大丈夫、それにあのランタンのお蔭で無事でいられた。何かあった時の為に、マーナには常に彼女につかせてる。それに、今更彼女を狙ってくる可能性は低いと思う」

「なんでだ?‥‥まだ、持ってるんだろう」

「いいえ、今は私が持ってる」

 そう言ってマヤカは袖の中から鎖に覆われた水晶を見せてくれる。

「彼女には悪い事をしたと思ってる。だけど、これは渡せない、帰ってくる前のあなたの力は、今のあなたと同じくらい異質—――それに、もしこの一件が過ぎ去ってもまた彼女が狙わるかもしれない。それは避けるべき」

「‥‥ああ、そうだ。ヨマイはここでやりたい事があるんだ、もう邪魔はしてくない」

 今も受付で何かの許可を得ているヨマイは、本来ならばここで別の作業を行っていた筈だ。エレベーターが必要だと言うかもしれないが、本当は手助けなどそもそもしないだろう。

「いい子だろう‥」

「ええ、とてもいい子。頼りになって、腕もある‥‥私達が関わっていい子じゃない」

 マヤカが肩に手を置いてくれる。機関と懇意にしているなど、今後の為にもならないだろう。ヨマイとは距離を取るべきだ。

「だけど、きっと彼女はそれを望んでいない」

「それはエレベーターの為だろう?」

「‥‥ふふ、そうかもしれない。だけど、それだけじゃない――きっと、もっとあの子とマーナは仲良くなる‥‥マーナも喜んでくれる」

 マヤカが向けている視線と、俺が向けている視線は違うようだ――やはり、マヤカは人間じゃない。生まれた時から人間じゃない。

「マヤカは――マヤカは、大丈夫か?」

「そうね‥‥ちょっとだけ疲れてきたかも。ふふ、きっとあなたの所為」

「‥‥ごめん。俺はマヤカがいないと、ダメなんだ‥」

「あ、ふふ‥‥また甘えたくなった?」

「別にそうなんじゃない‥‥マヤカは、俺とは違うから、わからない所で苦しんでんじゃないかって―――俺、マヤカの事何もわかってないだ‥」

「—―――いいえ、何もわかってなんていない」

 マヤカに顎を指で上げられる。

「そんな事を言ってくれる人、あなたで二人目だった。あなたは、確かに私の事をまだまだわかってないかもしれない。だけど、不器用なあなたは、私を愛してくれてる。それが、とても嬉しい‥‥大人になったのね」

「‥‥本当か?俺、マヤカみたいになった?」

 立ち上がろうとしてしまった。ろくに足に力が入らないとわかりきっていたのに、マヤカを求めて膝に力を籠める。だけど、結局何も変わらない。

「ふふ、褒められただけで私を求めるなんて。私の勘違いだった、あなたはまだまだ男の子—――」

「‥‥不服だ‥」

「そういう所もね」

 柔らかいマヤカの手が後ろから頬を撫で上げてくれる。冷たい手だ――。

「お待たせしましたー」

 ヨマイが戻ってくる寸前で、マヤカが手を離してしまう。

「どうだった?」

「はい、許可はもう取れているとの事で、報告だけで済みましたー。それと、念のため最後の許可申請を調べてきましたが、最後はここへと戻した時だそうでーす」

「なら、一歩も動いていない筈―――早速いかないと」

 マヤカの声に従って、ヨマイは入ってきた扉とは別の扉へとマーナと共に先導してくれる。不思議に思ってマヤカを見るが、わからないと言った感じに顔を振ってくる。

「ヨマイ、こっちでいいのか?」

「では、ご説明しましょー。この街も上に学院と同じよーに、いくつかに区分されています。先ほど、私達がいた場所は工房兼宿泊施設、飲食店、商売が盛んな商業地区と言える場所でーす。そして、これから向かう場所は、第6階層へと通じる地区」

「これから向かう場所には、工房とかはないのか?」

「あるにはありまーす。だけど、そこは工房と言いつつ、実際は、砦とも呼ばれる武器庫です。なぜそんな物騒な物があるか、わかりますか?」

「‥‥物騒な物を向ける、より物騒な物がいるからだろう」

「正解でーす。まずない、というか、現在そんな事は起きていませんが、真っ先に砦が作成され始めました―――はっきりと言ってしまいます、この街、キャラバンは砦の為に造られた、商業地区は砦の一部と言っていいかと思います‥」

 発掘学の学生は、想像では武闘派な連中は少ない。強いて言えば、ヨマイこそ武闘派と言っていい程だ。あの罠を使ってきた事から考えて、非力だから罠を使ってくると考えていい筈だ。

「勿論、ここ以外にも危険な地区はあります。だけど、ここはレベルが違います。教授や最上級生たちが連隊を組んでいなければ、進入を許可されない場所の入り口、油断はここで置いて下さい―――」

 ヨマイの顔を見た扉を守るようにしていた学生達が、顔を見合わせて扉の鍵を開ける。自ら押せ、そう無言で伝えて道を開けてくれる。

(いい腕ね‥)

 マヤカが念話で伝えてくる。

(いいや、雑魚だ。俺達レベルで考えるべきだ)

(ふふ‥そうね)

 発掘学のイメージよりは強そうだが、ランタンを持ったヨマイよりも劣るだろう。

「私はいつでも行けます。どこかへ連絡しますか?」

「いいえ、私達もいつでも行ける」

「あはは‥‥ここ、多くの発掘学の学生達が恐れおののく場面ですよ―――無用な事を聞きましたね。私も、最後の役割をするとしますか‥‥まだここは5階層ですが、向こうはもう6階層の息遣いが聞こえると思って下さい。では、行きましょう」

 

 


 門をくぐり、一面灰色の廊下を歩き続ける。先導をしてくれるヨマイの足取りは何も変わらないが、先ほどから一言も話さない。マヤカもそうだ、ただただ無言で車椅子を押してくれる。

「あともう少しです‥」

 空気穴ひとつ見つからない城のような廊下には、多くの扉がついていた。それらの一つ一つにどれだけの価値があるのか、どれだけの人間が求めたのか、想像もつかない。この迷宮の存在意義は、ただ危険な品々を封印、使えるものは解析する事だけが目的ではない―――危険だから、回収し、隠す。まさしく冥府の門の如き役割がある。

「こんな道をあの巨体が通って来たのか?」

「—――不明です。確かにあなたの言う通り、確かにここを通らなければ外へは出れません。だけど、当時はまだここまで第5階層は、発展してなかったので、砦もあそこまで強固ではありませんでした。‥‥きっとどこかに抜け道があるのでしょう」

「その抜け道は、恐らく貴族達、そしてこの発掘学も関わっている。そう思った方がいい――私達の敵は、私達以外全て‥」

 容赦ない言葉だった。そして、その私達以外全てとは本当に俺とマヤカ、ヨマイ、マーナ以外全てだ。ヨマイとは取引をしている、であれば、裏切りはしないだろう。

「あの機関の方々もですか?」

「だから、俺達だけでここにいる。そもそも、ここは罠だったんだ‥‥もう既に、裏切られてる。罠にもかけられてる、敵は敵だ。味方じゃない」

「‥‥ええ、その通り」

 もしかして、カタリが迷宮に入ろうとしたのをマスターが止めたのは、こうなる事を予測したからだろうか。可能性の問題として、幾ばくかは想像していたかもしれない。

「突き当りが見えました。気付きましたか?ここ、ぐるっと回ってきたんですよ」

「そう、やっぱり‥‥ここは5階層の外周、近くにあなたの工房、あの岩肌があるのね?」

「はい、正確には私の工房は既に通り過ぎましたが、マヤカさんの想像通り、ここはあの岩肌の更の奥にある地点、まっすぐに感じたかもしれませんが、後ろを見て下さい」

 ヨマイの声に従って、後ろを向く。今まで通ってきた廊下の壁が視界の半分をおさめている。帆船が水平線から現れる時、初めて見えるのは帆の一番上の旗から見える。それは地球が丸いからだ。ここもそれに近い構造をしているらしい。

「元々は、ここが一番最初に造られたのですよ。5階層の街は、後から押し出す形で生まれた場所、まさしくキャラバンです。気をつけてくださいね――6階層は、すぐ近くです」

 マヤカに頭を撫でられて、ヨマイのいる前を向く。ヨマイの顔付きでわかった、ここは安全とは口で言っていたが、その実、危険な場所であるのは、間違いと。

「行きましょう‥‥あれです」

 ヨマイが指を差しながら、歩き始める。マヤカと共にヨマイを追って、マーナの尻尾を見つめる。扉が眼前になった時、ヨマイが手を扉につける。

「ヨマイ、マーナを先頭にしてくれ」

「平気ですよ」

「頼む‥」

「‥‥ふふ、そんなに私が心配な感じですかー?マーナ、先にー」

 鍵を開けたヨマイは、マーナに扉を身体で開けさせて、そのまま先に入らせる。中からマーナが歩き回る爪の音こそ鳴るが、それ以外何も聞こえない―――。

「俺達と一緒に」

「はいはい、わかってますよー。クライアントには従いまーす、まぁ、こんなに可愛いクライアント様、なかなかいませんしー」

「‥‥ヨマイだって、俺と同じだろう‥」

「不満になったら、頬を膨らませるようなあなたは、まだまだ男の子でーす。カタリさんが言っていたとーりですよ」

 マヤカと同じ位置、俺の後ろに回ってきたヨマイが頬を撫でてくる。マヤカとは違って暖かい手は、それだけでヨマイの幼さを感じさせるのに―――この香りは大人のそれだって。甘い花ではない、むしろ目が覚めるような、酸味を感じる香り。

「ふふ、行きましょう」

「はーい」

 マヤカとヨマイが、何かしらの合図を送り合ったようで、不満なまま扉へと運び込まれる。中は、暗くなく、今まで歩いてきた廊下とは、またひと時代変わっていた。

「‥‥似てる」

 マヤカもそう思ったようだ。そうだ、ここはあの教授の地下、箱舟に似ている。だが、あるガラス筒はひとつだけ。巨大な巨人の身体に合わせて作り出された青い溶液を溜める物だけだった。

「‥‥いませんね」

「想像通りだ。6階層への許可の後押しになる‥」

 そこには何もいなかった。内心、どこか期待に近いものを持っていたが、それは空振りに終わった。青い溶液入りのガラス筒は、何も納めておらず、何者もいない部屋はどこか寂しげだった。だが、しっかりと、ここにいたという証拠は残っていた。

「足跡じゃありませんねぇ‥」

 ヨマイがランタンの光で指し示す床には、足跡ではなく、車輪に近い後がタイル状の床の上に残っていた。車輪が原因なのか、それとも運んだ下半身が原因なのかはわからないが、誰かが、ここで超重量の何かを運んだのは、間違いなさそうだ。

「どう思う?」

「見た通り、って言いたいけど―――」

「ええ、まだまだ調べ足りない。足跡がない以上、あの巨人が復活した証拠にはならない。むしろ、あの巨人も人狼たちと同じ運命をたどっているかもしれない――」

「‥‥あんまり、考えたくないよな」

 もしここで、それはそれはわかりやすく巨大な足跡、もしくは人狼の解剖跡でも残っていれば話は単純だったが、あれを別の何かに捧げる餌に変えている可能性もあった。

「部屋を見て回りたい」

 マヤカの手から離れて、ひとりで部屋を回る。ガラス筒の裏には、巨人を腐らせない為に、細胞を固定、防腐処理のホルマリンでも注入しているのかと思ったが、どうやら違ったようだ。

「ヨマイ、これは普通の光景か?」

「あ、どうなんでしょう‥。正直言って、私にもわかりません。この扉の前までは来た事もありましたが、中に入った事はなかったので―――これ、初めて見た訳じゃなさそうですね」

「‥‥まぁ、少しだけだけど」

 ホルマリン?そんな筈がない。だって、この色を忘れる筈がない。これは、紛れもなく生命の樹を保存していた液体と同じだった。忘れる筈がない。だって、俺はこれの純度を最大限にまで高めていた結晶に、囚われていた。

「リヒト‥平気?」

 ヨマイが離れた時、マヤカが頭の中で話かけてくれた。

「‥‥平気だよ。あれと同じ物がある訳ない、俺が喰らったんだから」

「‥‥そう。なら、もう聞かない。言いたくなったら、教えて‥」

「ありがとう―――」

 三人がかりで、部屋を調べても車輪以外何も見つからない。見つからないという事は、ここにはいない、だが近場にいるという事だった。なんの痕跡もなしに外へ出せる訳がない。

「どうしますか?」

「‥‥このまま6階層まで行こう」

「遂に―――」

「行けるか?」

「行けます、って言えたら良かったんですけど――」

 車椅子に近寄ってきてくれたヨマイは、乗り気には見えなかった。

「5階層までは安全、そんな簡単な気持ちで来たんですが、ここは既に私の知っている迷宮から大きく様変わりしてしまっています‥。上の罠だったり、人狼だったり、レイスだったり―――あまりにも罠が多過ぎます」

「ヨマイ―――それは、俺が」

「だとしても、これは異常です。だって、あなたがそんな姿になっても、まだ上がいる―――案内人として進言します。あなたは帰るべきです。怖気着いた、そう思いますか?あなたがいるから、私はこの仕事を受けたんです、だけど頼みのあなたはゾンビ一体にこの姿。あなたに頼られたヨマイとして言わせて貰います、今すぐ迷宮から出てベットに戻るべき、カタリさんやマヤカさんに温めてもらうべきです」

 拳ひとつ握れない。車輪を動かす程度の摩擦力はあっても、もはや全力で槍を投げつける力はない。もしここに巨人が鎮座していれば、話は違っただろうが、今の俺では勝てない。ヨマイは、正論しか言っていない。

「‥‥そう思うか」

「はい、失望しましたか?」

「それは、こっちが聞きたい。俺、弱くなったか?」

「—――昔のあなたの方が、容赦がありませんでした。それに、もっと冷静でした」

「‥‥そうか」

 無理して持ってきた杖が細く見える。傍らに来てくれたマーナが、無言で守ってくれる。今のこの場で守るべきは俺だ。そう言っている。

「わかっているつもりです。このランタンだって、結局あなたの力を模しただけの偽物、そんな物に頼っている私が、どの口で言っている。だけど、車椅子を取り上げられたら、何も出来ないあなたでは」

「—――悪い、だけど、何も出来ない訳じゃない」

 水晶の塊、ナイフに模した物をヨマイに差し出す。

「忘れたか?そのランタンだけじゃ、あの時の光は生み出せない。中の欠片だけじゃ出来ない―――案内人ヨマイに頼みたい、最後まで連れて行ってくれ」

「‥‥言っておきます。私だって6階層を知り尽くしている訳じゃありません。むしろ、私でいいんですか?帰れと言った、裏切り者に頼って」

「ヨマイは一度も裏切った事はないじゃないか。それに、案内人、パートナーには信頼関係が必要だろう?今のヨマイなら信じられる――俺の為に怒ってくれたヨマイなら、背中を預けられる。‥‥魔に連なる者として、自覚が足りないかな?」

 途中からヨマイが、一言も話さない、焦点も合わなくなってきた―――。

「ヨマイ?」

「‥‥自覚がなさそうですが‥‥それは――――いえ、わかりました‥‥」

 大きな溜息とマヤカの押し殺すような笑いが響く中、ヨマイがランタンの光を強くする。

「任せて下さーい。このヨマイ、危なっかしいあなた様の為ー、衣食住、並びに入浴、道案内、夜のお手伝いまで全てをしましょー。ここまで私に世話をされておいて、途中で帰るとか、止めて下さいね?私の経歴に、傷をつけないよーに」

 溜息から鼻で笑うような声になったヨマイが、車椅子を押してくれる。扉から出ようとした時、マーナが真っ先に外に出てくれる。

「そう、夜の‥‥一緒のお風呂は楽しかった?」

「ここから行けるのか?早速行きたいんだけど」

「ええ、行けます―――」

 マーナが完全に外に出た瞬間、扉が閉まり、向こうから爪で扉を引っ掻く音がする。マヤカとヨマイが、車椅子を挟んで背中を見せてくる。

「入室制限でもあるのか?」

「あるかもしれませんがー、だからと言って閉じ込めるなんて罰、聞いた事ありませーん。ここまで、目に見えて邪魔をしてくるなんてー、ここは公共の地区なのにー」

「想定内だけど、ここまでわかりやすい行動を起こすだなんて‥‥もう動ける程になったと思う?」

「残った腕にのみ心血を注げば、可能かもしれないけど―――」

 仮に、あれがマーナと分断された俺達を狙ってきているならば、電撃戦でも仕掛けてくる筈だ。マーナというこの人数の中で、最大の耐久性、あの巨人にも匹敵する膂力を持ちうる存在を恐れているという事だからだ。扉を蹴り破る前に、仕留めにくる。

「マーナは無事か?」

「‥‥ええ、無事」

 体当たりを始め出したマーナが、こちらに来るのは時間の問題だ。同時に地割れでも起こすかのように、真下から何かが付きあげてくる振動も伝わってくる。

「マーナは、このまま扉を破る事に専念させる―――」

「いや、6階層に行かせて、ここの真下に向かわせた方が早い。いい加減、あの人にも働いて貰おう。マスター!!聞こえているのでしょう!?」

「ああ、うん、今‥‥えっと、ああ‥今何時だ?」

「起きたなら、あの悪魔使いに言って、マーナと下に行けって」

「‥‥すまない、頭痛が‥」

「—――――!!!!」

 咆哮という物が自分にも出来たのかと、自分でやっておいて驚いた。俺は、こちらに戻ってきて神獣、あの方の血を受け取って竜となっている事に、改めて自覚した。

 この人間の身体の気管では到底出させない咆哮を受けて、マヤカとヨマイ、真下の何かすら動きを止める――――。

「わ、わかった!!わかったから、その雄叫びをやめてくれ!!ひびが入る!!」

 頭の中だけなのか、それとも声が実際に響いていたのかは、わからないがマヤカも状況が飲み込めたらしく、マーナの体当たりが止み、どこかへと去って行く。

「ひ、ひぇー‥。人の声じゃないですよー‥」

「—――これが、神獣の力なのね。格が違い過ぎて、マーナも下のも動けなくなっていた。あなたのそれがあれば、ここの探索も簡略化できるかも」

「かもしれないけど、俺はマヤカとヨマイの為にしか使いたくない―――動きが止まったなら、都合がいい‥‥」

 杖に神域の水晶を纏わせる。ここは迷宮、人が作り出した絶対的な防壁にして、何者をも通さない封印の巌窟—――俺のような人間の命令を効かない気に食わない奴らを閉じ込めるのが、本来の役割。だけど――そんな物に付き合ってやる必要はない。

「動くなよ‥‥諸共に砕けるぞ」

 突き刺した床一面に水晶を広げる。

「確認だ、行けるか?」

「もちろんでーす」

「あなたに任せる‥」

 迷宮の壁は、危険な呪物を納める為にある。だが、真下の存在のように、押さえつけきれない力もいる。格とでも言うべき力がある、神性、神秘性、魔性、言葉にすればいくらでもある。だが、この世界にあるものは、所詮この世界から生まれた力でしかない―――ならば、あの方とは比べ物にならない程、矮小で卑屈な力でしかない。

「これが格の違いだ‥潰れろ」

 突き刺し床に、もう一度杖で刺し貫く―――内部から破裂、外見上は水晶と均衡を保っていた床は、ただのひびだけで握り潰される。よってそのまま床は砕かれ、真下へと落ちていく――――。

「話さないように、舌を噛む」

 マヤカが鎖で車椅子を壁や落ち続けている5階層の部屋に固定してくれる。蜘蛛の巣でも作るかのように、編み込まれた鎖が足場、落下を緩やかな物に留めてくれる。

「—――あれが、沼地の巨人‥」

 ランタンの光に照らし出されたヨマイが、息を呑む。

 その姿は、あの時を彷彿させる醜い毛皮の巨体―――あの牙は機関の装甲車すら噛み砕いた暴食の権化。あの腕は、何者をも逃がさない強欲の園。殺人という領域において人狼すら追随を許さぬ絶対的な権限を持つ巨人―――グレンデルの片割れ。

「相変わらず、醜いな‥」

 醜い巨人には、咳き込む腐臭が相応しい。当然かもしれない、この身体はまだ人間の形態を持っている。ならば、人間を数えるのも無駄な程、食い散らかし死臭を漂わせた巨人など、嫌悪感を持ってしまうのは、正しい反応だ。

「覚えてる?」

「ああ、覚えてる。だけど、あんな顔じゃなかった‥」

 確実に射抜いた。人間リヒトの記憶だが、あの時の手ごたえ、マヤカの献身、カタリの助力、全て覚えている。忘れる筈がない、死の恐怖を今も背筋で覚えている。

「‥‥あの顔—――馬鹿が‥」

「被ってしまったのね‥」

 だが、記憶の中で得たあの醜悪な顔は、あんなに不愉快な笑みを湛えてなどいなかった。




「聞こえたかい?」

「ええ!!勿論!!まさか、こんなに早く動くなんて!!」

「ならば急いでくれよ―――6階層は君達大人じゃなければ、後々、我が弟子が災難を振りかける」

「振りかける?降りかかるじゃないの?」

「まさか‥‥そもそも人間に興味がない彼を、ふんぞり返って、無意味に責めてみろ、君が危惧した事が起こる―――具体的には、機関本部に風穴が開く」

 軽い口調で言ってこそいるが、それが紛れもない預言だという事は、身に染みてわかっている。未だ早朝と言ってもいい時刻、待機という作戦行動中なのだから、何も問題なく現場に急行できる―――だが、それらを差し引いても、動きが早すぎた。

「まさか、発掘学の学生が迷宮を破壊するなんて―――」

「それほどまでに、君たちが、いや、彼が追い詰めたのだろうな。昨夜のレイス騒ぎだって、彼がいなければ君が対処していただろう?」

「‥‥ええ、何も手がなければ―――また、彼を囮にしてしまった」

「その程度、わかっているに決まっている」

 駆ける足代わりに熱が帯びる。心臓が裂けるよりも、恐ろしい事を無自覚にまたやってしまった。何もかもを彼に任せれば、何もかもが彼を狙うに決まっている。

 この程度の事を、彼はわかっていた。わかっていて、あの身体で動いてくれた。

「罪悪感など持つなよ。全てわかっていて、今、襲われている」

「—――情けない大人ね‥」

「何も出来ていない大人なら、ここにもいる―――情けない大人達だよ。結局、私もそこにいないのだから――――マヤカ君に感謝してくれよ」

「ええ、わかってる。彼女がいなければ、私は昨日のうちに塵になってる」

 彼女が彼を諌めてくれた。彼女だって精神的に安定しているとは言い難い事実を伝えたというのに、マヤカさんは彼の傍らにいる事を約束してくれた。

「‥‥どうして、私達は彼を」

「この世界、星の意思、そう言ってしまえば楽さ―――ああ、私達は星に狂わされた」




 車椅子から跳ぶ降りて、水晶の槍を振り下ろす。片腕なのだから、それで防ぐしかない。だが、当の巨人は大きく下がり毛皮で覆われた胸を上下に歪ませている。

 何度も振り下ろせない―――水晶で足や関節を補助しているとはいえ、たった一回の着地だけで、肺に亀裂が走る。左腕が内側から切り裂かれる。

「あの時の巨人だろうが‥‥なんで―――」

 狂戦士としての在り方か、声すら出さずに片腕で笑い続ける。その目には確実に怯えを湛えている。毛皮と眼球がちぐはぐだ。恐ろしい毛皮を纏い、測るのも馬鹿らしい体格を持っているというのに、先ほどからこの巨人は消極的だった。

「自滅するまで待つ気か‥」

「いいえ、違う。あなたが恐ろしい、だから逃げている」

 マヤカが鎖で腕を引いて、背筋を伸ばしてくれる。たったそれだけで膝や肺の脱力感を補ってくれる。未だにマーナも機関も来ない、まだまだ、トドメを刺せない。

「どれだけ恐ろしい着ぐるみを被っていても、中身までは変わらない。人間の集団心理に頼らなければ、あなたと向き合う事が出来ずにいる―――理性を捨てきれず、獣にもなり切れない。哀れな人間―――」

 マヤカが銀の鎖で、巨人を追いかける。だが、巨人はその巨体からは想像もできないぐらい俊敏だった。壁や天井に飛びつき、猿のような身のこなしを見せてくる。

「逃げきれる、そう思ってる?」

 広い部屋だった。降りてきた5階層の部屋とは大きくかけ離れた外観だった。一言で言うならば宇宙船、ドーム状の部屋は5階層のキャラバンを縮めた見た目だった。だが、それだけではない。ここは祭壇だった―――。

「‥‥なんだ、ここ‥‥ヨマイ」

「—――わかりません。だけど‥‥ここは異常です、だって、ラビュリントスは封印、解析の為にある。確かに工房だってあるんですから、杖を作る事だってある‥だけど―――つなぎ合わせるなんて‥」

 魔女の館、そう言えるのかもしれない。館に迷い込んだ、誘い込んだ人間を巨大な釜で煮詰めて薬とし、永遠若さを求める。そして、自身を狩りにくる勇士を返り討ちにする為、怪物を作り出す。ここは迷宮の貯蔵品を分解、繋ぎ合わせる外科手術室。

「怪物の母親を気取ってるのか――」

 残った皮の破片やすりつぶす前の爪や骨、そして石化し石像のようになったかぎ爪の腕、人間の身体がないのが不思議だった。ここはドラウグル達を潰し、新たな怪物を作り出す工房。異端学の範疇にも足を踏み入れた禁忌にも届く魔獣の檻。

「ここは封鎖しないといけなくなりそう。真似でもされれば、もう手の施しようがなくなる―――」

「はい‥‥ここはあってはいけません。ここを探究や究明ではなく、おもちゃにしています。焼き払うべきです」

 部屋中から四方八方から追いかけられている鎖を、腕の爪で弾き返した所に、ランタンの光が降り注ぐ。一条の光は一瞬で毛皮を焼き、煙を上げるが、それ以上の効果は与えない。しかも、失った筈の毛皮は一瞬で生え戻り、傷すらつけない。

「再生力が異常です!!人狼や巨人だけじゃない、何か仕込んでいます!!」

「‥‥厄介だ―――脱がせるか、塵にするしかないか‥」

「マーナが来るまで耐えて、塵にするのはその後でいい」

 袖から銀の短剣を出したマヤカが、片腕で鎖を操り続ける。鎖は確実に巨人を追いかけ、逃げ去る場所を奪っていく。巨大な手術台の上へと飛び乗った巨人は、手術台を犠牲に、こちらに飛び込んでくる。何も考えていない突進は、あの樹の巨人とは比べ物にならない程、単調だった。

「ようやく決心出来た?」

 一歩前に出るマヤカに、ヨマイが声を上げる。俺達から離れるように、動いたマヤカは口元だけ笑みを浮かべて、巨人の突進に身を晒す―――巨人の道筋に躍り出たマヤカは、腕を広げて迎え入れる。

「ふふ‥卑怯って思う?だけど、あなたがやった事」

 跳ね上がった手術台が巨人の後頭部、にやけて始めての殺人に高揚、怯えている眼球が飛び出る程の衝撃を受けた巨人は、マヤカを通り過ぎて手術室の壁まで飛ばされて、背中に手術台がめり込む。

「さぁ、まだ動ける?」

 手術台を部屋中の鎖で操ったマヤカは、その身を翻し手術台を引き寄せて、手で撫でる。翻した速度を手術台に伝えて、再度巨人に発射する。

 壁から起き上がった巨人は、大きく真上に跳び手術台から逃れる―――けれど、壁にめり込む筈だった手術台は巨人に向かって意思を持つかのように追いかけ、天井に巨人を押し止める。

「まだまだ」

 手術台に巻き付いていた鎖が巨人を捕えて、自由を奪う。手術台で磔となった巨人は悲鳴を上げながら、床へと自身の体重と手術台の重量、そして重力にマヤカの力で加速され床へと叩きつけられる。轟音などではない、肉が叩きつけられ、はじけ飛ぶ生々しい音を落とす。ヨマイが、その光景を見まいと車椅子の後ろに隠れた。

「マ、マヤカさんも、魔に連なる者なんですね‥」

「知らなかったか?マヤカは、魔女なんだ。容赦なんかした事ない」

「カタリさんも怖いと思いましたが、やはりあなたの周りは恐ろしい事ばかりです‥」

 白のローブを纏ったマヤカは、白い歯を見せて頬に手を付けている。数度マヤカがやっているのを見たが、それはきっとマスター譲りの仕草だ。怒り狂ったマヤカも恐ろしいが、天井から零れる光に照らされた中、あの仕草をするマヤカは妖しくも美しかった―――カタリにも劣らない、誰もがその容姿に見惚れ、手を伸ばす程だった。

「終わりました‥?」

「いいえ、まだ動いてる」

 そう言うな否や、マヤカは床に押しつぶしていた巨人を、再度手術台諸共、壁に叩きつける。その光景を見たヨマイは、顔を見なくとも青くなっているのがわかる。酷使された手術台は、砕け散り、巨人に破片を被せるに終わる。

「リヒト。私のリヒト、私にもお願い」

 床を杖で突いて、水晶の塊を作り出す。今座っている車椅子と同じ大きさ程度の水晶を鎖で掴み上げたマヤカは、高く頭上まで掲げて、巨人に呼びかける。

「聞こえる?その皮を脱いで、投降しなさい。そこまで痛めつけたのだから、もう意識は取り戻せている筈。いくらあなたが狂戦士として目覚めたとしても、夢から覚める時。まだ誰も殺していないようだから、命令している」

 意にそぐわぬ事を言えば、撃ち落とす。これは提案でも、脅しでもない。ただの命令。拒否すれば更に痛めつける。頷くまで続ける。水晶を振り下ろす。そう言っている。

「‥‥なんで、こんなに‥」

 ようやく声を出した。

「お前が、悪いのに‥‥逮捕なんか、変だ‥」

「それはこちらが言いたい。あなたは、何もしていない彼や彼女を襲って」

「だって、僕何も悪くないじゃないですかッ!!そこの奴が、僕に謝ってくれないから、こうしてるのに!!」

 その見た目には相応しくない言葉使いだった。声こそ毛皮越し、洞穴から話しているように聞こえるのが、それらしく聞こえるが、年上とは思えない幼い早口だった。

「あなたには最低でも三つの疑いがある。5階層での殺傷、山岳地帯での危険な使い魔の放置、そして迷宮内の貯蔵品の無許可での改造。全て無視できる範疇を大きく越えている。諦めて手首を晒して。あなたに、迷宮を闊歩する権利はない」

 鎖で掴まれた水晶が光を吸い込み、月を掴み上げているようだった―――ほぼ同時に壁が破壊され、マーナが飛び込んでくる。後ろには悪魔使いに白紙部門の人間達。

 逃げ場はもうなくなった。

「ぼ、僕は‥‥こんなに力を持ってるのに‥」

「最後に言わせてもらう。あなたが被っている巨人は、もっと強く恐ろしかった」

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