第4話

「街の中って、意外と飲食店あったのね」

「そうか。カタリはほとんど外食した事、無かったか」

「そうよ。誘ってくれれば良かったのに」

 腕を組んでいるカタリが、不満そうに見つめてくる。少し歩き難い上、カタリの豊満過ぎる肉体が、腕に全て乗りかかってくるので、動けなくなる。

「ねぇ?どうしたの?」

 少しだけ口紅をしているカタリが、いつもと違って大人びて見える。制服やローブではない、私服を見るのも久しぶりで、気づかないうちに、緊張している自分がいた。普段とは違う雰囲気のカタリの私服は、肩と胸元を出した露出が少し気になるシャツで、スカートと制服より短かった。

「その服‥すごい可愛い。マヤカから習ったのか?」

「あ、わかった?そうよ、マヤカとロタに手伝ってもらって、やっと決めたの。似合うでしょ?」

「‥‥似合ってるし、すごい好みだ。選んでくれたのか‥」

 腕から離れたカタリが、軽く回転して、服を見せてくれる。カタリ自身は認めないが、幼い顔付きに大人びた肉付き、そしてそんな身体を余す事なく表現する服装に、俺どころか周りの人間達も見惚れているのがわかる。

「見てる見てる。そんなに私が見たい?そんなに、口を開けたままで?」

「すごい綺麗だよ。本当に、大人みたいだ」

「みたいじゃなくて大人なの。行こう♪」

 褒められて気分がよくなったカタリは、普段周りには見せた事のない上機嫌さで腕を引いてくれる。長い面倒くさい書類を片付けた後の、やっと出来た余暇だった。

「復学手続きって、あんなに面倒くさかったのね」

「結局、二か月近く休んでたんだ。それでも、マスターが講義してくれたお陰で、単位は大丈夫そうだけど。カタリは大丈夫だったか?」

「そもそも私は特待生だから、そうそう留年も落第もないよ。リヒトだって、先生の内弟子になったんっだから、特待生扱いして貰えばいいんじゃない?」

「それもそうか。今度、相談してみるか」

 これからも機関の仕事を続ける以上、俺は講義に出れない日が増えていくかもしれない。それだけならまだしも、定期考査にすら参加できなくなる日もあるだろう。

「‥‥異端学の奴ら、俺の事、何か言ってたか?」

「何か言われてるに決まってるでしょ。機関のローブを着て、教授の研究室に入って、あのビルを壊したんだもん。異端学どころか、みんな、知ってるんじゃない?」

 指を差して示してくれるのは、まだ改修工事が終わっていない自然学の校舎だった。あれはあれで、絵になるから、そのままでもいいと思うが、そうはいかないらしい。

「あ、それとイッケイ、アイツが何度か聞いてきたんだった」

「何を?」

「生きてるなら、顔ぐらい見せろって」

 忘れていた訳じゃないが、最近気の休まる時が無かったので、電話すらしてなかった。

「面倒だなぁ‥仕方ないか、今度昼でも誘うか」

「そうすれば?何かと心配してそうだったし」

 少し前ではあり得ない程、呑気な世間話をしているが、周りの目が気になってしまう。当然と言えば、当然かもしれない。

「俺は、死んだ筈なのに、生き返って機関のローブに手を通した人外」

「私は、一度機関に捕まっておいて、機関のローブに手を通した人間。見るなって方が、無理かもね」

「だけど、もう少し慎みを持って欲しい。これだから人間は――」

「人間は?」

「嫌いだ」

「そうね、私も嫌い。大っ嫌い」

 視線から逃れるように、走り出すカタリの後ろとついて行く、目的地であるレストランは、ホテルの中にあった。アマネさんに、「どこかいい店はないですか?」と訊いたら、両手を叩いて教えてくれた。カタリとのデートと言ったのが、良かったらしい。

「着いたけど、本当に、ここでいいの?」

「ああ、ここ。もう予約も支払いも済んでるから、後は入るだけ。どうだ?」

「‥‥意外とリヒトって、人脈あったのね。でもお金は?」

「機関からの報酬で、払ったよ。—――機関って、あんなに金あったんだな」

 スマホでモバイルバンクを調べた時、愕然とした。そしてマヤカに笑われた。自分の口座には、七桁が振り込まれていた。カタリの総資産には。遠く届かないが、今までの節約生活が帳消しになりそうだった。

「ふーん、じゃあ、入ろうよ。もう暑くてしょうがない!!」

「カタリ‥ちょっと近い‥」

「何恥ずかしがってるの!?いいから、早く行こう!!」

 我慢していたらしいカタリの首や髪から甘い香りがしてくる。苺の甘い香りなのに、どこか酸味のある爽やかな香りが、お互いを邪魔しないで漂ってくる。

 未だにカタリの身体と香りに呆けて、頭が動かない俺を、カタリが引っ張ってホテルの中に運んでいく。冷房の涼しさに意識を取り戻した時、従業員らしき男性が駆け寄ってくる。

「お暑い中、お越しくださり誠にありがとうございます。本日は、どのようなご用件でしょうか?」

「レストランを予約してる者です。確認して貰えますか?」

「‥‥か、かしこまりました。しばらくお待ちください」

 スマホの予約票を見せた時、青い顔をして男性スタッフが去って行く。その後、若い女性スタッフにホテルの待合スペースに案内されて、どこから運ばれてきたウェルカムドリンクをガラスのテーブルにおいてくれる。

 ハイビスカスティーというのか、酸味が強い味は暑い中歩いてきた喉に、心地よかった。

「なんか、警戒されてない?」

「やっぱり、カタリもそう思った?」

「うん‥なんて言うか、クレーマー的な扱いって言うか‥」

 遠目から様子を見らているのがわかる。敵意や殺意だったのなら、この場で殺していたが、向けられる目の種類が、大分違う。カタリの言う通り、クレーマーの次の一手にどう対応しようかと、考えているようだった。

「ねぇ、アイツって、ホテルでこの街に滞在してたのよね?」

「‥‥だけど、この街に高級ホテルなんて、いくらでも」

「でもさ‥」

「—―聞いてくるか。待っててくれ」

 ソファーから立ち上がって、フロントに駆け寄る。フロント担当の若い女性スタッフが肩をびくつかせるのがわかり、どう話しかけるべきかと、一瞬考えた時、先ほどの男性スタッフが戻ってきた。

「お、お客様。どうされましたか?」

「あーもしかして、俺の身内が何かしましたか?」

「い、いいえ‥」

「アイツに代わって謝罪させて下さい。一体何をしたのですか?」

 どうにも身内である俺には、言いづらいらしく口が重い。仕方ないと思い、マスターから受け取った銀の紋章を袖から見せる。

「機関の‥」

 外でも運営しているホテルだが、やはりこの街にいる以上、ただの人間ではないらしい。若い女性スタッフも男性スタッフも、目を開けて驚いている。

「‥‥では、少しお付き合いいただけますか?」

「少し待っていて下さい。今、連れに」

「何?私も付き合う気だけど?」

 振り返った時、カタリがすぐ後ろに立っていた。外されそうになっていたのが、気に食わないらしく、腕を組んでエイルさんのように仁王立ちをしていた。

「わかった‥ふたりでお願いします」

 無言で頷いてくれた男性スタッフに付いていき、エレベーターに案内される。俺もカタリも機関の人間だとわかった男性スタッフは、先ほどとは違う緊張感を持っているのがわかる。

「それで、何があったんですか?」

「‥‥あなた様の血縁者が、当ホテルのスウィートルームに宿泊しておられたのは、ご存知でしょうか?」

「この街のどこかに宿を取っていたのは知っていました。やはり、何かしたのですね?」

「—――ええ、その通りです」

「またぁ?アイツ、いてもいなくても迷惑かけるね。で、何したんですか?」

「‥‥その、私どもにもわからなくて‥確認すら出来ない状況でして」

 なかなかに口が重いと思ったが、それは違ったようだ。部屋にも入れない状況が続いているらしい。しかも、マキトがこの街に来て、既に十日は経っている。その間、スウィートルームが使えないとなると、ホテル側の損失は、目も当てられないだろう。

「アイツの所為で発生した損失なら、アイツの家に請求して下さい。俺の名前を出していいので」

「よ、宜しいのですか!?」

 救われたと言わんばかりに、振り返って祈るように手を組んでくる。実際、救われた気分なのだろうから、仕方ない。

 男性スタッフに構いません旨を伝えて、カタリとふたりだけでスウィートルームの階層に降りる。どうやら、問題なのはマキトの宿泊していた部屋だけらしく、他の高級客室については、今も宿泊客を入れているらしい。

「あんだけ危ないとか、言っておいて、普通に客を入れてるのね。これはこれで機関に伝えておけば?」

「そうしよう。まぁ、ここに宿泊してるのだって、まともな人間なんていないんだ。何かあっても自己責任とか言って、どうにか乗り切るつもりだったのかも。もしかして、今までそうやって乗り切ってたのかもしれない」

「もしかして、ここって‥‥そういうホテル?」

「かもしれな、悪かったって!!?冗談だって!!」

 銀の拳で、殴りつけてくるカタリを謝って、ここ最近覚えた業を使う。

「なんで、毎回持ち上げるの!?叩き難いんだけど!!」

 カタリを持ち上げて、腕に腰掛けさせる。近すぎる距離では、カタリの剛腕もうまく振るえないらしく、諦めて頬を撫でてくれる。

「言ったでしょう。ホラーとかは、苦手だって」

「だけど、評価とか見てもすごかっただろう?それに、ここに宿泊するのは、本当の貴族連中だ。マキトみたいな雑魚、そうそういない。そう思わないか?」

「‥‥まぁ、そうかも」

 落ち着いたカタリを降ろして、手を繋ぐ。これだけで不機嫌なカタリは悪くなさそうに誤魔化してくる。この顔が見られるのなら、怒られるのも悪くない。

「とにかく行ってみよう。‥‥ごめん、ランチの筈がディナーになって」

「別に、気にしてないから。それに‥‥ちょっとだけ、気になってから、怒ってないし」

 先ほどの男性スタッフと交渉し、ランチはキャンセルとなったが、秘密裏に解決してくれれば、ディナーを振る舞うと約束してくれた。

 顔こそを向けてくれないが、決して手を離さないで一緒に廊下を歩いてくれる。いつか、こうやって外の高級ホテルでも、旅館でもいいから一緒に旅行にでも行きたい。前々からそう話し合っていたが、思わぬ所で達成してしまった。

「ねぇ‥私達、どう見られてるかな?」

「恋人。それにしか見えないと思う。カタリは?」

「‥‥私も、そうとしか見られないって思う。ねぇ、私達さ、釣り合ってる、よね?」

「俺はカタリの神獣だ。それに、どっちも人間じゃない。人間じゃない同士で、十分釣り合ってる。カタリこそ、どう思う?俺の事、自分に相応しいって思ってくれるか?」

「‥‥うん」

「‥‥嬉しいよ」

 手から指と指を組んで、恋人のつなぎ方をする。背の高さは昔は一緒だったのに、もう俺の方が頭一つ分以上高くなっている。だけど、この胸の高鳴りだけは、あの時と何も変わらない。この赤い顔を見せてくれないカタリも、何も変わっていない。

「‥‥終わったらさ、部屋、借りない?」




「なかなかに積極的だな。ふふふ‥‥高校生同士でホテルに宿泊など、教師の私が見逃すと?」

「では、お邪魔しますか?きっと、リヒトなら全員愛してくれますよ」

「そんな事をしたら、カタリ君に生涯恨まれる。私も、まだ長生きしてリヒトと愛を育みたい」

 ふたりで休日を楽しみにしていたのは、既に知っていた。何より、カタリ君がマヤカやロタを引き連れてブティックを巡っているのも、承知していた。今までなら決して目に出来ない行動だった。

「それで、ロタ。自分から聞いた、自分を関わらせないという条件を元に話してくれたのに、一緒来てよかったのかね?マヤカ君も」

「私には、ふたりの保護者として、いえ、年上の経験者として見定めなければなりません」

「姉、ではないのかい?」

「姉では恋人になれないので」

 きっぱりと言い切った。過去、リヒトを紹介してくれた時、自分とリヒトの関係を姉弟の関係で紹介していたのに。変われば変わるものだ。あれだけリヒトには私がいないとと言っていたマヤカ君が、今はリヒト自身を自分の指針にしている。

「それで、この部屋はどうして?姉様方のどなたかのお持物ですか?」

 ロタが高い天井を眺めながら、テーブルの上のワインクーラーを突いて言ってくる。ボトルを奪って「未成年には飲ませられない」と告げると頬を膨らませて両手で叩いてくる。

「ふふ、ロタ、まるで届かないぞ」

 胸を張ってロタの拳以上の質量を誇ってみる。それだけで、ロタは呻き声をあげて睨みつけてくる。

「ここは、私の不動産のひとつだ」

 そう言った瞬間、ロタだけでなくマヤカ君も振り返ってくる。しかも、丁寧にグラスまで運んできてくれる。

「どうぞ、マスター」

「うむ、楽にしたまえ」

 ソファーに腰かけ、オープナーをボトルに突き刺す。心地良い手応えを感じながらコルクを引き抜き、しばしコルクに染みた香り楽しむ。そしてグラスに赤い液体を注ぐ。涼しい風の中、冷え切った果実酒の色を楽しむ。ここ最近では、出来なかった贅沢だった。

「ここは元々、あの教授の資産の内のひとつ。あの館をはじめ、あらゆる疑いが掛けられた資産が呆れる程ある。その中を、私が買い取り証拠として保存している訳だ」

「では、機関へ届く通報を無視しろと言われ続けていたのは」

「ああ、無論、私の命令さ。機関の中にも、自然学の教授や自称後継者様と繋がりを持っていた構成員がいるのはわかっていた。下手に人員を送れば、何かしらの証拠は消されていただろう」

「‥‥流石にせっかくの休日であるふたりに、対処させるのは、悪いのでは?」

「だから、こうして私が直接出向いたのだが、タイミングが悪かった。まさか、あのふたりがこのホテルを選び、私が訪れる日に休日を取っているなんて‥‥誰かに仕組まれているようだ」

 試しに、そう呟いてみるが、誰からも返事は来ない。マヤカ君もロタも首を捻って部屋中を見渡すが、誰もいない。

「大丈夫、言ってみただけさ。それに、我ら外部監査科を操れる者など、何処にもいない。人間であってもなくても」

「‥‥彼、便宜上マキトと呼ばれる男性の、このホテルから病院へと向かう道のりは、未だにわかっていません。本当に、どこからかテレポートや瞬間移動のように」

「そんなものは不可能だ。あの列車や船が無い限り。マヤカ君、君には言っただろう。もはや、巨人もドワーフもいないこの世界で、レイラインでもない現実世界の宇宙を歪める力を、人間が持つ事は出来ない。彼は剣こそ持っていたが、ただの人間だった。ロタ、君はどう思った?」

「はい、彼では不可能かと。あれは、リヒトであるから可能になった離れ業です」

 ロタの断言、マヤカ君はただ頷くしかなかった。その通りだからだ。我ら戦乙女の全力を使った羽衣であるから、可能になった異世界の技術だ。再現など不可能だ。

「それに、こちらにいる我ら戦乙女は全員、居所がわかっている。彼らに手を貸す、災厄を目覚めさせる、討伐するような愚か者など、何処にもいない」

「‥‥はい、マスター。では、彼はどうして?」

「言っただろう。列車はない、ならば船さ」

「でも、船なんて‥」

「恐らくだが、教授はそれを所有していた。まぁ、それが今どこにあるのか、わからないがね。大方、館のどこかだろう。結局、あの地下施設と館を繋ぐ回廊は、未だ見つかっていないのだろう?あの教授の事だ、列車に準ずる何かしらの手を持っていてもおかしくない」

「‥‥もしや、それが正しい入り方?」

 マヤカ君が、自身の顎に指を付けて聞いてきた。その姿に、懐かしさを感じる。

「まず、間違いなく。何も驚く事じゃない。あの館を、完全に踏破すれば、自ずと判明するだろう。ロタ、あのふたりは今どこに?」

「当該部屋の扉まで辿り着きました。やはり、私達も行くべきでは?」

 無断で設置させてもらったカメラを通して、廊下にいるふたりの様子を伝えて貰う。まさか、ここで監視されていると思わないのか、ふたりは気付かないようだ。

「その時は、私が指示する。仮にも貴族の部屋だ、もし全員で仲良く囚われてしまえば、エイルかイミナに小言を言われてしまう。今は、信じて待つ時さ」





「鍵がかかっているのは、間違いないけど、勿論マスターキーでも開かない」

 電子制御のカードキーを何度通しても、無反応。いっその事、壊れていると言われれば納得しそうだが、扉が妙だった。

「防弾壁を樫の木で挟んで、電子制御にしている。にしては、手応えがない」

「どういう意味?」

「そのまんまだよ。ここまで何度もマスターキーもスペアキーも差してるのに、警報ひとつかからない。普通、数回繰り返せば、いやでも通報される。だけど、そんな様子はない。わざと、電子制御を切ってるんじゃないか?」

「それって、あのスタッフが全部言ってないって事?あり得るかもね。秘密裏にって所が、胡散臭かったし。もしかして、ここ」

「俺達目当てじゃなかったとしても、入ってくる奴を捕える罠程度は、張ってるかもしれない。少し脅して話させるか?」

 電子制御盤にスラッシュしていた鍵を見つめて、カタリに渡してみる。

「でも、それやったら、アイツに負けた気がするから。却下」

「それもそうか。じゃあ、本格的に始めるか」

 水晶と化した腕で、ドアノブを捻る。

「アイツが、どれほどの相手を想定して罠を張った所で、これは所詮人間相手の罠。俺には届かない」

 ドアノブに流れる測定や判定の術式に、無理やり神の血を流し、回路ごと焼き切る。拒絶反応とでも言うべき反撃システムが発動する前に、魔法陣の円に見た立ててあったもう一つの回路に介入、圧倒的な純粋な力と物量で流し切る。その瞬間、手の中で、ドアノブが破裂し、軽い電子音と共に。扉が独りでに開く。

「軽い‥教授かあの爺さんが関わっていたら、手こずってたな」

 マキト自身が構築したとは思えないが、気分の問題で気持ち悪くなった手を振って、ドアノブの感触を払ってみる。

「じゃあ、今度は私が先頭で」

「いいや、俺だ」

「はいはい、わかってるって♪」

 カタリの手を引いて、部屋に入る。部屋の空気でわかった。ここは魔に連なる者の部屋となっている事に。

「これは、見覚えがある‥」

 玄関に飾ってあった絵画が視界に入る。しかも、これは、俺の実家、俺の家にあった色彩学の技術を使った絵画だった。

「本当、あり得ない‥。あれだけ嫌ってたリヒトの家の物を盗むなんて‥」

「‥‥ああ、だけど、感謝しないと」

 手を伸ばして、巨人に立ち向かう人間が描かれた絵から飛んでくる石を掴み取る。完全に殺すつもりで出力されていた一撃は、俺かカタリでなければ、楽々と頭部を抉っていただろう。だが、若干、狙いが甘かった。

「成程、入らなかった訳だ。毎回これで追い返されてたのか」

 石を握り潰し、絵画の枠を掴み床に力任せに引きずり落とす。

「少しでも魔に連なる者としての知識があれば、今ので入れないってわかったみたいね。だけど、なんでわざと外すような狙いなの?」

「狙いを付けられるように術式を編めなかったんだろ」

「‥‥呆れた。その程度も操作できないなんて。私、アイツの無能さ加減を侮ってたかも」

 そもそもの威力として、この絵画は巨人の頭を潰さなくては、その力を失う事はない。であるから、どれだけマキトが素人でも、威力を上げるという単純なあらかじめ想定されていた術式は編める。しかし、では、巨人の頭が無いのに、どこを狙うか?そこを操作できる力は無かったようだ。

「だけど、威力は本物だ。これみたいに、家から持ち出した物があるなら、マキト以上に厄介だ」

 あの剣を爺さんから盗んだと言っていたが、それ以外も持ち去っていたようだ。

「次期当主って、そんなに偉いんだ。これだって、家によっては家宝とかに並ぶ代物でしょ。‥‥ちょっと、厄介かも」

「マキト以上に、警戒していくか」

 そう言ってみたが、カタリと手を離していない所為で、緊張感の欠片もなく見えるだろう。玄関の正面にあった絵画を床に伏させたまま、リビングに入る。黒い巨大なソファーと巨大なテレビ。ガラスのテーブルに涼やかな毛足の短い絨毯。壁の端には観葉植物、天井にはシャンデリアという贅沢をひとつの部屋に押し込めたような内装の数々だった。

「これをアイツが?生意気ー、お金と頭は比例しないのね」

「基本的には、比例するさ。だけど、長く続いた魔に連なる者、しかもあのマキトだぞ。期待しても仕方ない」

 カタリが「言えてるー」と、シャンデリアを眺めながら言った時、蝋燭を模ったガラスの電球が、不自然に煌々と輝き始める。カタリを背中に引き込み、水晶のナイフとも言えない鋭い塊を投げつけて、天井と繋がっている鎖を断ち切る。だが、一歩遅かった。

「退くぞ!!」

 カタリを抱き上げて、背中を晒して玄関まで戻る。伸びる四本の光の槍から逃げ出し、玄関に蹴りを入れるが、びくともしない。完全に囚われた。振り返り、追ってくる槍を迎え撃つ為、壁を拳で殴る。狙い通り、水晶の槍が壁から生え、光の槍を横殴りに散らせるが、その中の一本を取り逃す。

「任せてねー」

 軽い調子で、銀の腕に変えたカタリが、槍を正面から掴み取り、握り潰す。

「‥‥思ったより、痛かったかも。これも家の?」

「ああ、本家とか純血の人間を守る為の設置する迎撃ゴーレム」

「ゴーレム?嘘でしょ!?」

 カタリが腕から降りて、リビングに走っていく。後を追いかけて、肩を両手で掴むが、砕け散ったシャンデリアを見て、俺自身も舌打ちをしてしまった。

「光の槍よ!?わかってるの!?あれは、光神の――」

「所詮、紛い物だ。それに――一度で使い切るものじゃないけど、家に帰れば、まだ三つある。大丈夫―――いいんだ」

「信じられない‥」

 カタリの怒りは、もっともだった。あいつは、異界、異海文書もゴーレムも一度きりで使い捨てた。砕けても構わないと思うような奴に、ゴーレムという世界中を探しても限られた数しかない宝とも言えるような代物が渡っている。これは、魔に連なる者の世界の許されざる損失だった。

「馬鹿なんてもんじゃない。アイツ、なんでこんな事すら知らないの?」

「‥‥俺が、勝ったから。—―多分、あの時から、マキトはお飾りの後継者になった。魔に連なる者の世界を学ばせない、期待しない。それが、あの家の選んだマキトの教育方針になったんだったんだと思う」

「‥‥だから、アイツは知らないの?あのおじいさん、あの馬鹿はこれを持ちだしてるなんて知ってるでしょ?それに、家の人達も」

「アイツは、お飾りだとしても、次期当主、後継者だ」

「—――初めて、アイツが可哀想って思った‥」

 俺自身も、心底アイツの事は嫌いだが、この程度も知らないのかと、改めてわかると、哀れに思ってしまう。ゴーレムや異界、異海文書は、使い方さえ間違わなければ、人間の寿命など気にせず、何世代にも渡って受け継がせる事が出来る。

「マキトの役目は、この剣を俺に届かせる事。それさえ果たせば、良いし、餞別のつもりで送ったんじゃないか‥」

 本家の敷居を、跨いだ事は何度もあるが、あまりにも保管していた秘宝や財の数が多過ぎて、全てを覚える事など不可能だった。あの爺さんからすれば、いくつもある中の一つを駄賃代わりに渡しただけなのだろう。

「‥‥そうね、じゃあ、まだ何かあるかもしれないのね。何か見覚えがあるのは?」

 カタリが部屋中を見渡すように、聞いてくる。

「—―わからない。少なくとも、俺が見た事あるのは、あのふたつだけ」

「そう。じゃあ、探索を続けよう」

 少しだけ不機嫌に、まだ家にいる時に近い雰囲気になったカタリが顔を見せずに手を引いてくる。冷静とは言えないカタリを引き寄せて、カタリの爪に胸を貸す。

「なんで‥なんで、あんな奴がここまで恵まれていて、リヒトは違うの?」

「わからないよ。これも、人間世界のルールなんだろう‥」

「でも、おかしいでしょ。リヒトが使えば、さっきの絵画で、確実に殺せるし、あの光の槍で誰も逃がしたりしなかった。なんで、あんな奴ばっかり、こんなに恵まれてるの?」

 この世界の理不尽さ筆頭たる事柄。そもそものスタートラインが大きく違う。生まれてから成人になるまで、そしてそれ以降さえ親の力がものを言う世界であるここは、マキトのように家に胡坐をかく奴がどうしたっている。皆が皆そうとは言わない。俺だって、間違いなく恵まれた家で生まれた。だけど―――奪われた。

「俺だって、納得できない。家も家族も、何もかも奪われて、身体さえ捧げられた。理不尽だよ‥。俺、何もしてないのに‥カタリにだってそうだ‥‥なんで‥」

「私は‥‥そうだね。私にも、理不尽だね‥。だから、この街に来たんだったね。本当に――この世界は、嫌いにしかなれない。それで良いって言ってる人間も」

 この部屋には、想像もできないくらい危険な代物があるかもしれない。だけど、カタリと共に抱き合う時間の邪魔はさせない。この時間だけは、誰にも邪魔させない。

「そうだな‥。だけど、気に食わないけど、そういう所も人間の強さなんだと思う。マキトもマキトの父親も、立ち回りが上手だった‥‥俺に足りないものを、あいつらは持ってた」

「たったそれだけで、ここまで差がつくの‥」

「今はどっちも牢屋行きだ。やっぱり‥俺は恵まれてる。外で、こうして自由に‥自由に―――カタリと会えてる」

「‥‥全然、自由なんかじゃない。そんなの、全然自由じゃない‥。リヒトにとってこの街どころか、世界全体が牢屋なのに‥それで、いいの?」

「前にも言っただろう。カタリが隣にいてくれるだけで、俺は‥」

 少し長くなってきた黒い髪に、顔をうずめて、背中を抱いてもらう。柔らかくて、滑らかなカタリの髪で目を閉じて、香りで夢に浸る。

「ちょっと‥いつまでするの?」

「ずっとしたい‥」

「私をお昼替わりにする気?」

 ソファーにカタリを押し倒して、晒されている肩に触れる。少しだけ抵抗こそしてくるが、白い傷一つない肌を、鼻で笑って触れさせてくれる。

「ふーん、そんなに私に夢中?ちょっと力、強いんだけど」

 言われるまで気付かなかった。慌てて、カタリの肩から手を離すと、腹筋を使って逆に押し倒してくる。腹部に跨られて、身動きひとつ出来なくなった瞬間、声を出す暇なく、舌を突き入れられる。舌の根本を抑えられ、カタリのなすがままにされる。

「本当に、私には優しいね。肩、全然痛くなかったから安心して」

「‥‥ごめん」

「本当だって、本当に‥自分以上に、私に優しくしてくれるね」

 ベルトに差していた薬瓶を取り出し、「直接飲むのと口移し、どっちがいい?」と聞いてくるので、薬瓶を受け取って、口の中に溜める。微かに笑ったカタリを引き寄せて、唾液と甘い薬を混ぜ合わせる。

「また気持ち良くなっちゃうね。癖になったら、どうするの?」

「もう癖になってる。もう無いのか?」

「そんなに欲しいの?部屋に帰れば、原液があるけど、少しずつ濃くしていくから、我慢して」

 カタリの緑の目が目に見えて、濃く輝いていく。髪が逆立ち、牙を見せるように笑いかけてくる。野生の本能でわかった。昼替わりにされるのは、俺の方だと。

「でも、まだあるから、やってみる?」

「‥‥欲しい」

「じゃあ、口を開けて。言っとくけど、これ、かなり強いから」

 脳が震える。ここは貴族の部屋で、いつどこから刃が飛んでくるともわからない危険地帯。だというのに、肩と胸元を見せつけるように服を下げたカタリの琥珀色のような薄い下着から目を離せない。それさえ見越しているカタリの指示に従って、口を開けて試験管のような瓶の薬を飲み干す。

「あーあ、飲んじゃった。どうするの?どうなるか、わからないよ?」

「カタリの薬なら、安心できる。それに、もう俺はどうにかなってる」

「強気じゃん。だけど、いつまで持つかな?」

 言いながら、唇に触れられる。その瞬間、脳髄に電撃でも浴びせられたかのような刺激が、全身にまで伸びる。カタリの手を防ごうと、手を伸ばすが、笑いながら首に触れられた時、意識が一度飛ぶ。

「これ‥すごいな」

「でしょうー?これ、リヒトの為に作った薬だから」

「カタリはどうなんだ?」

「こんな強い薬、まだ人間である私に使える訳ないでしょう。ちゃんと私には効かないように調整してるの。それと材料は聞かないで、二度と飲めなくなるから」

「—――それ、ホラーじゃないか?」

「わがまま言わない」

 叱りつけるように言われながら、慣れてきた頭でカタリの舌を受け入れる。舌をひと舐めするだけで、視界が白く、そしてカタリしか見えなくなる。だけど、慣れてきた頭はまだ刺激を求めてしまい。カタリのベルトに手を伸ばし、薬を探してしまう。

「ふふ‥」

 それすら見越していたようで、薬を握らせてくれる。

 一度息継ぎの為、カタリと口を離し、薬を一度で飲み干す。そのまま、何も確認しないでカタリと唾液の交換を再開し、カタリの腰と髪を撫でる。

 何もかもが溶けていく幻覚に染まっていく感覚がする。だけど、求めているカタリだけが、崩さそうで崩れない現実の中にいる。そして、舌の体力が尽きた時、しながら笑ったカタリに何もかも吸い出されて、吐き出される。

「あーあ、リヒト、溶けちゃったぁ。どうしよっかな?」

 口から離れた事で、体温は消えてしまったが、香りだけは残っている。暗い部屋に、カタリの真緑の目だけが輝いている。

「さっき、私には効かないって言ったけど、実はちょっとだけ効いてるの。意味、分かる?」

「‥‥まだ、足りない」

「そうそう。ご褒美に、続けて――」

 待ち構えていたように、リビングに繋がる寝室らしき扉が開かれる爆発音がし、急いでカタリを引き寄せる。カタリと共に、ソファーに寝転び、上を通っていく、いくつもの手が眺める。だが、その手があまりにもホラー、もとい死体のように青黒い長い手で、それらが重なるように、縄のように絡まっている光景を眺めた所為で、カタリが鳥肌を立てているのを、重ねている肌でわかった。そして、無理やり新たな薬を飲まされる。

「早く、どうにして!!」

「言われなくてもっ!!」

 カタリと共に床に落ちて、カタリの頭を胸に抑え付けて、水晶の刃で腕を切り落とす。それは、身体に落ちてくる前に空気に溶けて、消えていく。

「死者の腕、いや、どちらかと言えば、爪か?」

 死体の腕の爪は、青黒い肌よりも、真っ青、鉱石のようでもあった。本体は爪だと判断する。

「敢えて、爪を落とさずに埋葬された死体か?少なくともゴーレムじゃない。絵画か」

「そんなのどうでもいいから!!早く始末してきて!!」

 先ほどの官能的で扇情的なカタリとは打って変わって、堰を切ったように幼いカタリに戻ってしまった。そんな可愛いカタリが胸の上で、涙目になっている所為で、思わず、抱きしめてしまった。だが、それが気に食わなかったらしく、拳が飛んでくる。

「何してるの!?早く、始末してきて!!」

「その間、ひとりになるけどいいのか?」

「一緒に行くから、リヒトがどうにかして!!」

 強きさ捨て去れないカタリが、涙目で腕にしがみついてくる。腕こそ収まったが、直後に少なくとも人では出せない嘶くように、高い鳴き声が聞こえてくる。再度、カタリが鳥肌を立たせたのがわかる。

「猶予は、無さそうだな‥」

 カタリごと持ち上げるように、立ち上がり、震えているカタリを背中に隠す。片手に水晶の杖を造り出し、それと同時に迫ってくる腕と爪に壁で対抗する。先ほど切り落とした事で、ある程度の識別情報は確認出来ているので、触れたと同時に、ドアノブと同じように、力を送り、回路を焼き切る。

「止まったの‥?」

「どうかな。だけど、隙は出来た」

 絵画に収められている偶像よりも、圧倒的に格上の創生の彼岸の神の力を逆流させた。それだけで砕け散ってもいい筈だが、まだ確認出来ていないので、何とも言えない。

「とにかく確認してこよう。ついて来るか?」

「うー‥行かなきゃダメだよね‥無理行ってついて来たんだから‥」

「無理だったら、言ってくれ」

 背中で隠れているカタリと共に、開け放たれた寝室に入る。思った通り、だが、違和感があった。そこは、想定通り死者の爪で出来た巨大な船、宇宙船とでも形容するしかない、夜空に描かれた船だった。

「おかしい‥これに、腕を伸ばすなんて力、ない筈だ‥‥」

「‥‥私には、見えないけど、それってわざとじゃない?」

「壊れてもいいから、本来の使い方から変えて、運用していた、か‥」

 とにかく、急いで絵画を壁から外す。しばらくはなんの反応もしないだろうが、腕が生えた状態で床を這いずり回りでもしたら、カタリでなくても身の毛もよだつだろう。だから、額縁から絵画を外して、解体しようとした時、裏板から何かが落ちた。

「なに?これ」

「手紙っぽいな?」

 カタリと共にベットに座り、封蝋がされている手紙を裏返す。そこには、マキトではなくリヒトへの文言が書かれていた。

「これ‥おじいさんの?」

「‥‥嫌だなぁ。このまま捨てたい」

「ダメ。ほら、はやく開ける」

 心底嫌だが、ここ数日間で何度か世話になってしまった以上、そしてわざわざこうして届けられた以上、開けるしかないのは、わかっていた。




「壊れてもいいから、本来の使い方から変えて、運用していた、か‥」

 ふたりの入った扉にマイクを付けて盗聴していた。あまり褒められたやり方でないのは、重々承知していたが、身内を捜査しているリヒトには、こうした方法を取らざるを得なかった。

「成程、船か‥。しかも、死者の爪で出来た船。攻め込む為に使う強襲艦だとそれすれば、どこへでも、それこそ別世界にでも届きうる力。そういう事か、マヤカ君、見つかったというもうひとつ船、それは確かに力を失っていたのかね?」

「はい、ただ、船というよりもミサイルのような見た目だったと」

「一度きりの使い切り。そもそもあの船だって、一度使えれば、それで構わなかったのだ。死者の軍勢と巨人を運ぶ、箱舟、運ぶという意味では、必ず成し遂げる力をを持っていた訳か」

「皮肉な話ですね。そもそも彼は、私のリヒトに剣を運ぶ事が役割。自身の目的と、使った船の役割が同じなんて、なんて、哀れなのでしょうね。ふふふ‥」

 心底、頬を叩かれたのが気に食わなかったらしく、キーボードを叩きながら、笑うように嘆いた。いや、違う。嘲笑った、が正解だろう。

「私の推測だが、死者の腕とは、船を作る上で無用になった残り物。使える爪と使えない爪を選別した時に残ったのだろう。成程、本来の役割を失ったから、残った腕を伸ばすように書き換えた訳か。どうやら、これは」

「恐らく、リヒトの御爺様。上位四番目の魔貴族」

「私も同じ考えさ。だけど、その場合、ここからエイルの病院に跳んだという事になる。では、おかしくないか?誰が、館まで船を運んだ?しかも、ひと一人が入れる大きさのミサイルのような見た目の船を。ロタではないだろう?」

「はい、私は彼を運んだだけです。翼が疲れました」

「‥‥まだ、誰かがいる」

「いや、恐らくもういないだろう。それに、どうやら、その人物は生命の樹ではなく船の方に興味があったようだ。本体ならば、九つに切り分けられた世界の壁を超える力をもった船の方に」

 世界の壁を超える力に興味がある。手段こそ違うが、テーマは同じだった。そして、リヒトは偶然とは言え、異世界に飛ばされ、逸脱した生命として帰ってきた人類の反逆者。では、そうなるように、仕向けた星の結晶とは、何処から現れた?

「自ら行くか、向こうから引き寄せるか。過去では、自ら赴く事に重点があったようだが、現代は違うようだな。生贄か、そうか。彼も見方を変えれば、生贄とされる所だった。‥‥どこまで行っても、全て人間の欲望、災厄が生まれて当然か‥」

「マスター、一体なんの話をされているのですか?」

「なぁに、神の血に酔った妙齢の麗人の戯言さ」

 マヤカ君とロタが首を捻ってくるので、酔っている者の特権を使わせて貰う。

「酔った勢いで言ってしまおう。マヤカ君、妹さん達に会いたくはないか?」

 時間が止まったようだった。立ち上がったマヤカ君の頬を涙が濡らし、それがいつまでも続いてしまう。最初こそ無表情だったが、言葉の意味がわかった瞬間、笑ってくれた。

「‥‥やっと、やっと見つかったんですね」

「ああ、そうだとも。こっちに来なさい」

 倒れ込むように胸に頭を押し付けてくる、そんな見た目よりも幼い弟子を迎え入れる。

「今、どこに‥」

「オーダー街さ、だが、見つかった過程がまずかった。現在、ふたりはオーダー法務科に逮捕されている。—――大丈夫だ。少し取り調べを受ければ、それで済む」

「いいえ、いいえ、いいんです。ふたりが無事なら、それで‥‥もう会えなくても」

 弟子を抱きしめて、「それはダメだ」と告げる。

「我ら魔に連なる者、そしてオーダーの世界では、家族とは、いついなくなるかもしれない存在。それに、いつ敵になるかもしれない。会える時会いなさい」

 長かった。マヤカ君が私の元で師事されていた理由がようやく終わる。

「それで、私は君に問わなければならない。まだ、私をマスターと呼んでくれるか?」

「はい‥‥私のマスターはあなたです。あの成育者達とは比べ物にならないぐらい、あなたは私のマスターです」

「ふふ‥嬉しいよ。では、リヒト共々、今後も私をマスターと呼びなさい」

 ロタは、何も言わないでコンソールを叩いている。部屋にマヤカ君がすすり泣く声だけが響いている。

「じゃあ、今すぐに」

「すまないが、それは出来ない。先ほどああ言ったが、ふたりは触れてはいけない者に触れた」

「責任なら、私が」

「前にも言ったが、そうやって自分を捧げる行為は許せない。言い方を変えなさい。私も責任を負うと。それと、被害者を受けた側はすぐに許すと言ったそうだ。しばらくは会えないが、罪を償えば、すぐにでも会える」

「それはいつですか?」

 自然と笑ってしまった、気が早いのも、変わらないようだ。

「正直言って、私にもわからない。だが、必ず会える。それもすぐにさ」






「なんか、気分じゃなくなったんだけど。薬も使い切ったし」

「‥‥もしかして、今日使う事になるって、思ってたのか?」

「—――そんな訳‥ないじゃん‥‥」

 カタリは運ばれてきた前菜であるサーモンと野菜のテリーヌに、舌鼓を打って外を眺めてしまった。それに習い、いつの間にか外は暗くなり、煌々と光る秘境の街明かりを夜景として楽しむ事にした。あの彼岸とは違う、人間が偶発的に作り出した自然の夜光。悪い見世物ではなかった。

「それより、いいの?」

「何が?」

「‥‥私に構ってる暇あるのって?」

「どうでもいい事だよ。それに――俺にとって、カタリよりも大事な事なんてない」

「‥‥そうね。そうよね。リヒトは私に惚れてるんだし、私が大事に決まってるよね」

 やっとこちらを向いてくれたカタリは、ドレスコードに従って赤いナイトドレスに身を包んでいた。スリットの露出が気になるが、昼間に着ていた服と露出の具合は、さほど変わらないかもしれない。

「そのドレス、すごい似合ってる。本当に‥綺麗‥‥」

「当然でしょう?私が、リヒトの為に買ったんだから。まぁ、そんなに高くなかったけど。それと、リヒトも悪くないじゃん。私と釣り合ってるって、言ってあげる」

「—―嬉しいよ」

「‥‥ごめん、ちょっと調子乗ってた。リヒトもすごいカッコいい。大人になったんだね」

 少しだけ胸を張って、タキシードを自慢してみる。黒一色のブラックタイはホテルの洋品店で購入した。少し前の自分では手が届かなかった代物だが、やはり良い物は良い物だった。布地に取っ掛かりはなく、いつまでも触れ続けられる滑らかさを感じる。

「カタリも大人になったな。だけど‥‥ちょっとだけ」

「なに?他人に私が見られるのが、そんなに不満?」

 上から見下ろすように笑い、白い足を組んで見せつけてくる。どこに行ったのかと思ったら、髪やメイクなどを全て終わらせた状態で既にレストランで待っていた。

「仕方ないでしょう?私って、やっぱり美人だし、美人のドレス姿って、誰もが見るんじゃない?」

 先ほどから、さほど歳の変わらない末端の貴族らしき面々がカタリを眺めている事に気付いていた。自身の身体や見た目に絶対的な自信を持っているカタリは、それらを余すことなく自慢している。

「‥‥なんて言うか、ちょっとだけ」

「リヒトが綺麗だって思うなら、人間程度でも綺麗かどうかぐらいわかるんじゃない?それに、私は全然気にならないから。ただの人間程度の視線なんて」

 先ほどからカタリは、まるで声を抑えずに聞かせるように言い続けている。カタリも向けられる視線に高揚しているのか、肌が徐々に赤くなっていく。

「それで、いいのね。聞きに行かなくても」

「‥‥100年は待つって言われたんだ。すぐに行く必要はないよ。それに、爺さんだって今は忙しいだろうし」

 マキトの寝室で見つけた絵画類は、紛れもなく我が家のそれだった。また絵画を壁から外し床に降ろした時、見つけた物があった。それは手紙だった。

「—――人間世界で生きるのなら、後を継ぐしかない。か‥さもないと、何もかもまた奪われる。まるで」

「必ず、リヒトがここに来るってわかってたって感じね。それに、一番最初にリヒトが見つけるって。ねぇ、あのアマネって人、あの人も貴族なんでしょう?何か繋がりとか、あるんじゃないの?」

「‥‥わからない。だけど、あの爺さんがそんな分かりやすい事はしない。それに、他人に頼るなんて、下手を打つ訳ない。あの爺さんは、本気になれば、何処へでも行ける」

「死者の爪で出来た船ねぇ‥。本当は、それを持ってるんじゃない?」

「まぁ、たぶん持ってるだろうな。レプリカだろうけど」

「冗談に聞こえないわね」

 ポタージュスープとパンが届き、カタリはスプーンで静かにかき混ぜる。

「もしさ、まぁもうリヒトしかいなんだけど。引き継いだら、どうするの?」

「どうもしない。どうしてもって言われたら、名前程度は貸すけど、すぐに隠居してあの家と縁を切るよ。それに、分家に、かなりの腕の奴がいるみたいだし。もしかしたら、俺以上の」

「そんな訳ないでしょう?いい加減自覚したら?リヒトは、特別な魔に連なる者。人間のスペシャリストじゃあ、まるで届かない、それこそ神域にいる神獣。リヒト以上の腕の持ち主なんて、まずいない。術の腕だけならいても、リヒトの拳ひとつに勝てない」

 パンでスープをすくうようにして食べ続けるカタリは、言葉こそ普段通りだが、食べ方は正しい手順に従っている。

「人間に期待するのはやめたら?もう」

「‥‥それもそうか。このスープ、結構美味いな」

「いいお店であるのは、間違いないみたいね。オードブルもなかなかだったし、これなら期待できるかも。ふふ、もしかして私、矛盾してる?」

「いいんじゃないか?人間が作り出した、料理にだけは期待しても」

 ふたりで笑い合う。だが、先ほどから気になる三人がいた。

「私も大人です。なぜ、私だけお酒を」

「だから、見た目として無理だと言っただろう?私には、監修の役目もある。少なくとも、この場では諦めてジュースで満足していなさい。それと、マヤカ君、いささかピッチが速くないか?」

「ああ‥あなた達に兄弟できるの。男の子‥それに、近いうちに甥か姪が出来るの‥でも、そうしたらあなた達は叔母さんと呼ばれてしまうのね‥」

 カタリと人の目を二分するかのように、遠目でも美人だとわかる三人がテーブルについていた。ロタは白、マヤカは黒、マスターは紫。それぞれデザインこそまるで違うが、Vライン、胸元を大きく開けた物だった。しかも、マスターに至っては、腹部まで裂けている上、スリットが足の付け根当たりにまで達している。

「‥‥ちょっとだけ不満だけど‥‥やっぱり、あの三人、すごい美人よね」

「カタリだって負けてない。いつからいたんだろう?」

「さぁ?でも、ディナーにいるって事は、さっき来たんじゃないの?それと、目移り禁止。今夜は、私だけを見なさい」

 魚料理が運ばれてきた時、カタリは年相応な膨れた顔で不満を知らせてきた。





「結構満足だったかも。リヒトは?」

「いい感じだ。ルームサービスもあるし」

「まだ食べるの?まぁ、いいけど。どうする?飲み物でも開けてみる?」

 部屋に備え付けられていたボトルを差して行ってくる。

「いいや、止めておこう」

「なんで?別に飲んだ所で、誰にも注意されないんじゃない?」

「止まらなくなる」

 カタリを引き寄せて、ソファーに二人で座る。鼻で笑ってくるカタリを膝の上に乗せて、首筋を吸い合う。白い喉に口を移動させて、歯形を付ける。視線を移せば、まだドレス姿の胸元が見える。拳ひとつ分以上の質量をもつ谷間からカタリの香りが色濃く感じる。

「積極的ね。‥‥まずはシャワーからにしない?」

「‥‥カタリも積極的だ‥‥いいのか?」

「そこで聞く?頑張って言ったんだから、手を引いて連れ込んで!!」

  差し出された手を引いて、シャワー室へと歩く。長い大きな部屋は、マキトの部屋よりもグレードが高いロイヤルスウィート、いつの間にかカタリが予約していた。

「こうなる事も、想定済み?」

「‥‥本当はランチが終わったら、ずっとここにいる予定だったの」

「‥‥怒ってる?」

「全然‥だって、あんな部屋の近くで、寝泊まりなんて、リヒトと一緒になんて‥出来なかったし‥」

 顔を向けないで、ネクタイを投げ捨てる。Yシャツの一番上のボタンを外しながら、脱衣所に入る。そこは俺やカタリの部屋とはまるで違う、ガラス張りで奥のジャグジールームから、全てが透けている部屋だった。床の大理石が冷たくて、それでいて甘いココナッツの香りが充満していた。

「‥すごい‥大人な部屋だね‥」

「‥‥俺達は、もう大人だ‥‥脱ごう」

 カタリに背を向けて、ベルトに手を付ける。カタリも何も言わないで衣擦れを音をさせるが、後ろから大きな布地がまとめて落ちる音がして、思わず振り返ってしまった。

「な、なに‥」

「‥‥そ、そうか‥だって、ドレス一枚だった‥」

「そ、そうよ!!それに、これから全部見せるんだから‥これぐらい‥」

 振り返った瞬間、カタリは背を向けて身体を隠した。琥珀色の肌着からドレスの上からでも跡が見えないようにするコルセットのような物に着替えていたのがわかった。そして、それすら勢いのまま取り外し、後は腕しかなくなってしまう。

「はやく、行こう‥」

 普段から強気なカタリが、何も身に付けないで身体を腕で隠した。その瞬間、本当の意味でカタリ以外見えなくなった。カタリに見せつけるように、顔を向けながら、全て脱ぎ捨てるつもりになったが、Yシャツの途中で手が止まってしまった。

「先、行っててくれ‥」

「いいの。見せて」

「—――平気か?」

「もう何度か見たもん。だから、平気‥」

 カタリが手を伸ばしてYシャツを脱がしてくれる。そこには、カタリが切り裂いた傷とマヤカが縫った跡が残っていた。恐らく、もうこれ以上は消えない傷跡だった。

「酷いね‥」

「いいんだ‥これは、俺を守ってくれた証なんだから」

 カタリは、何も言わないで冷たい大理石の上を歩いて、胸に触れてくれる。だけど、自分でもどうする事もできない反応、僅かにしてしまう。一歩下がってしまう。

「‥‥やっぱり、怖がってる。‥‥そうだよね」

「‥‥ごめん」

「いいの。それに謝らないで。私こそ、自覚が足りなかったんだから」

 誤魔化していた訳じゃない。忘れていた訳でもない。むしろ、決して忘れられない現実だった。カタリに胸を切り裂かれ、中身を全て見られた。あれは、怪我や傷なんて話じゃなかった。破れた袋のようだった。胸から腹部にかけて開かれた身体から噴き出す血の所為で身体中が加速度的に冷えていく。質量をもった内蔵が、身体から圧力の所為で弾かれるように噴き出ていく感覚も、覚えている。そして、中身がなくなった身体に刃が突き立てられる感覚すら。

「‥‥やっぱり、私じゃダメだよね‥。だからさ、先生に」

 何か言わせる前にカタリを胸に入れる。逃がさない為に、肩と背中を抱く。

「‥‥すごい震えてるよ。本当に、いいの?」

「‥‥忘れてなんかいないんだ。忘れられる訳がないんだ‥‥だって、これはカタリに救われた跡だから。—―これしか、なかったんだから」

「そうよ‥‥これしか、なかった。乖離があのまま進んだら、もうリヒトから人間の姿すら消えてしまっていた。私の世界から完全にリヒトが消えちゃってた」

 震える腕で、カタリを抱き続ける。お互いの体温が床に伝わり、暑苦しさなんて感じない。むしろ、これだけ抱き合っても汗ひとつかかないで、全て甘い香りで包み込んでくれる部屋に、感謝してしまう。

「私ね、どうしてリヒトには生きていて欲しかった。‥‥怒ってる?」

「怒ってなんかいない。怒れる訳ないだろう‥‥俺も、カタリと一緒にいたかった」

 お互い何も着ないで、カタリと向き合って笑い合う。

「これからも一緒にいてくれ。俺の為に、俺を救った責任を取ってくれ。でないと、俺は多分‥‥完全に人間の敵になる。災厄になると思う。災厄になったら、一緒にいられないんだろう。俺は、最後までカタリと離れたくない」

「うん‥そうだね。きっと、あの人は災厄になったリヒトを許さないと思う、やっぱり、リヒトには私がいないと。‥‥うん、だから、責任を取らせて」

 カタリに手を引かれて二人でシャワー室に入る。そこはジャグジーとシャワーがあり、ふたつを遮るのは、ガラス壁だけだった。

「ふたりで浴びようよ」

「狭いけど、いいのか?」

「今更、何言ってるの?いいから」

 肌で抱き合ったお陰で、この程度では動じなくなってしまったカタリに連れられてシャワー室に入る。そのまま、何も言わないでハンドルを捻り、お湯を浴びながら傷を洗ってくれる。

「傷口はいつも清潔に、先生に言われたでしょう?」

「‥‥もう少し優しく」

「あ、ごめん‥‥痛かった?」

「くすぐったくて」

 お湯で髪を降ろしたカタリに、壁の大理石に押し付けられて口を奪われる。

「よーくわかった。リヒトには遠慮をする必要がないって、もっと厳しくいじめていいって」

「カタリだって、たまにいたずらすると悪くないって顔するだろう?」

「してないから!!私は、リヒトとは違うの!!いじめるのが好きなの!!」

 シャワーを止めて、ジャグジーに向かう。ジャグジーの縁に片足を乗せて、なんの慎みを持たずに、下半身を見せながらボタンを操作して、泡を吹き出させる。

「カタリ‥‥その‥‥」

「何よ?見たかったら、見ればいいじゃん」

「‥‥ごめん」

「なんで謝るかな?はい、一緒に入ろ」

 手を引かれて、俺を先にジャグジーに入れて、上に乗ってくる。後ろの泡を俺が独占し、前から噴き出てくる泡をカタリが独占する。

 背伸びをするカタリが、「気持ちいい‥‥」と言いながら、頭を俺の肩に乗せてくると同時に、濡れたカタリの髪から、甘くて酸味のある苺の香りがしてきた。

「どう?リヒトは気持ちいい?それとも、私に夢中?」

「‥‥カタリにはいつも夢中。‥‥気持ちいい」

 ジャグジーの縁には柔らかいシリコン状の枕があり、それが頭を支えてくれる。

「ジャグジーのある部屋って、あるかな?」

「どうだろうね。まぁ、なかったら買えばいいし」

「‥‥冗談だから。—――前から気になってたけど、一体どれくらい資産があるんだ?」

「ん?さぁ?私だって、全部の口座を常に見てる訳じゃないし、まぁ、少なくとも自家機でも買わない限り、目減りはしないかな?」

 なんの感慨もなく、簡単に言い放った。前に聞いた事がある。本当の資産家は、自身の総資産額を把握しきれていない。一年で払う税すら、一日の収入で払い切れてしまうから。

「まぁ、どうでも良くない?今気にする必要はないから」

 両腕を伸ばして、手を重ねているカタリは横顔でもわかる満面の笑みだった。

 そして、この開放感を心底楽しんでいるカタリは、腕の間から零れ落ちている胸を気にもしないで、湯に浮かせている。

「一緒のお風呂って、久しぶりだね」

「‥‥そうか、何度か洗ってもらったけど、一緒に湯舟は久しぶりだったな」

「そうよ」

「誘ったら、入ってくれた?」

「ん?リヒトに、そんな気概があれば、とっくに一緒に入ってたでしょう?」

「悪かったよ、弱くて」

「いいの、こういう弱いリヒトが可愛いんだからね。男の子♪」

 湯の腕で、身体を裏返して、肩に耳を乗せて至近距離で笑いかけてくる。湯で体温が上がったカタリの赤くなった顔は、あまりにも艶やかで、心臓が高鳴るのがわかる。視線を移すと、白い臀部が湯に浮かんでいるのが見えて、慌てて天井を見つめる。

「見たければ見ればいいのに。そういう所が男の子なんだからね」

 頬を指で突いて、また鼻で笑われる。

「カタリを傷つけたくない」

「優しいリヒトも、好きだけど。ちょっとだけ怖いリヒトも好きなんだからね。まぁ、どうしたって私には勝てないけど」

 足先でボタンを操作して、泡を止めるカタリは、人魚のように湯に沈んで俺の身体に跨って両腕を肩に回してくる。目の前にカタリのサディスティックな笑顔に身体が固まってしまう。そして求めるように目を閉じた時、優しく唇を重ねてくれる。

「大人のは、後で。そろそろ出よう。後片付けも、今はいいよね」

「ああ、また入ろう。出るか」

 先にジャグジーから出たカタリに連れられて、湯から出る。濡れた身体のままで脱衣所に向かい、そこでカタリに拭かれるので、代わりにカタリの身体を備え付けのタオルで拭く。

「いいタオルだね。生地が柔らかいし。薬塗ろ」

「ああ、頼む」

 病院から渡されていた薬をカタリに渡して塗ってもらう。しばらくは、塗り続けてくれと言われたいた物だった。—――この縫った跡の事は、先生も知っていた。

「気持ちいい‥」

 カタリの柔らかい手に身体を任せていると、それだけで先ほどのジャグジーと同じくらいの快感を得てしまう。

「もう水薬はないけど、いいよね?」

「大丈夫だよ。それに、カタリの香りがあるから」

「—――だいぶ、倒錯してる。いいよ、ベットの上で好きなだけ吸って」

 薬を塗り終わり、カタリと共に脱衣所のドアノブに触れようとした時、ひとりで開いしまう。そこには、髪を上げて何もまとっていない――—マスターがいた。

「ん?おや。部屋にいないから外で出たのかと思ったが、そこにいたのかい」

「マスター‥‥」

「今日はカタリ君の日だ。いくら私が魅力的でも‥ふふ、仕方ない。手ほどきをしてあげようか?」

 骨格だけ見れば、震える程、均等の取れた肉体だった。だが、胸や臀部がアンバランスさが更に脳を震わせてくる。姉妹たちの中で、一番の肉体と自負していたが、それは紛れない事実だと理解出来た。突き出すような胸は拳ひとつどころか二つ分は軽くありそうなのに、まるで重力に反するように立体的で、膨れ上がった臀部は細い長い足をまるで邪魔しないで、己が肉付きを誇っている。

「マスター‥」

 その瞬間、真横からカタリの拳が横腹に突き刺さり、マスターの身体に倒れ込む。豊満過ぎる身体で、鼻で笑うように抱きかかえてくれる。

「先生!!言いましたよね!?」

「すまないね。これについては、私も想定外だ。私達の使っている部屋では間に合わないと思い、すまないがベットを使わせてもらっている。そして君達にも緊急にだが、話があった。それと、私はこれでも教員だ。渡すものが」

「それだったら私だって持ってます!!それに、薬だってあります!!」

 遠ざかる意識の中、マスターから引き離されて、カタリの耳元で何かを叫ばれるが、それすら子守唄に感じ始めていた。



 バスローブを着ているマスターが、マヤカを寝かせた部屋から出てくる。隣の不機嫌なカタリと上機嫌でワインを眺めているロタも謎だが。誰が着せたかわからない病院着のような寝巻も気になっていた。

「それで、話ってなんですか?」

「そう邪険にしないでくれ。では、まずカタリ君から。君は正式にマガツ機関、並びにオーダー外部監査科への配属が決まった。つまり、今後は私の配下に入る」

「はーい」

「すまなかった。今後は、このような事のないよう、君とリヒトとの時間を取れるように」

「結構です!!あと、そう思うなら部屋には入って来ないで下さい!!どうやって入ったんですか!?」

「私は、このホテルのマスターキーを持っている。理由は伏せるが、そこは察しなさい」

 驚いた。マスターはこのホテルの支配人か筆頭株主でもあるようだ。

「部屋に入った理由は、見ての通り、マヤカ君がダウンしたからだ。私達の部屋にはここからまた渡り廊下を歩く事になるので、寝室を使わせてもらっている」

 先ほどのドレスと同じか、それ以上に胸元が別れているバスローブに、見惚れているとカタリとロタから肘を喰らう。

「ふふふ、見惚れてしまうのもわかるが、程々にしまえ。では、次だ」

「カタリ、ひとついかがでしょうか?」

「‥ありがとう」

 グラスを出してきたロタが、赤ワインをついでカタリに渡す。カタリはそれを無言で受け取って、一息で飲み干す。そもそも薬や毒には並みをはるかに超える耐性を持つカタリは、次をロタに求めてグラスを差し出す。

「目の前で飲酒か?まぁ、オーダーであれば場合に限り許されている事だ。‥‥まったく、余計な知識をどこから仕入れたのか。ロタ、私にも」

 ロタも相当飲んでいるらしく、命じられるままに朗らかに酒の準備をしている。

「で、君だリヒト。君にも話がある」

「どっちの話ですか?」

「機関とオーダーのふたつからだ。端的に伝えよう。君には、名がつけられた」

 その意味がわからないでいると、片手を頭に付けたマヤカがリビングに入ってくる。

「マスター‥それは本当なのですか?」

「本当だとも、だがマヤカ君、君は眠っていなさい。もしくは、カタリ君?」

「マヤカ、これ飲んで」

 言われるままにマヤカに薬の入った小瓶を渡して、口に含ませる。それだけで真っ赤だったマヤカの顔が白く戻っていく。だが、頭痛は収まらないらしく、頭を抑えながらテーブルにつく。

「我が弟子たちは、酒との付き合い方を知らないらしく、何よりさ‥はぁ‥‥。では、改めて言おう、君には名がついた。オーダーや機関にとっての名がつけられるとは、君には監視の目が付く、更に言えばいつ指名手配されてもおかしくない状態に置かれる事。それだけじゃない、君はマキト氏と同じか、それ以上に危険存在として見られている」

「‥‥オーダーには、特定の人物に独自の名をつけて監視、場合によっては逮捕や拘束をするという制度がある。そういった作戦が悟られないようにするのが、名前」

 頭を抱えながら重い雰囲気でマヤカが教えてくれるが、自分は未だに事の重大さがわかっていなかった。何より、矛盾を感じる。

「だけど、それは俺に知られては、マズイんじゃ」

「本来ならば。だが、例外というものがある。そこで、本来とは違う意味合いで使われる事になった。わかっていると思うが、君は既に人間ではない、その精神すら別の何かに変質してしまっている。—――君は、創生の彼岸から帰ってきた、唯一人間という楔から解放された神獣。そして唯一、生命の樹から生還を果たし、果実をその身体に宿した存在。オーダー並びに機関は、秩序に反する獣だと判断した。理由はわかるかい?」

「‥‥あの方の眷属になったから」

「その通り。君は、我ら魔に連なる者の歴史の最終到達点に達したとしても決して届かない神と出会い、その力を授かった。すまないが、ここにたどり着くまでの全ての情報、あの教授との戦闘や受けた被害、そして当主争いの表と裏、全てを話してきた」

 マスターは機関とオーダーのふたつの立場でここにいる。ならば、全て包み隠さずオーダーや機関に話す義務がある。当然の話だった。

「あの方を、オーダーと機関は危険だと判断したのですね‥‥」

 拳をテーブルの下で作ると、顔を背けたままのカタリが手を重ねてくれる。

「君の身に宿る神の血とその身体は、やはり人間では辿り着かない、まさしく神域だ。エイルは私の指示で、君の身体のサンプル、血に唾液、精液に至るまで全てを取り、両組織に渡した。その時点で、君は両組織から懐疑的に見られた」

 三番目のサンプルを聞いた瞬間、微かに神の血が高鳴った。だけど、カタリとロタが手を握ってくれた事で、落ち着く事が出来た。

「彼女を恨まないでくれ、これは」

「わかっています。こうしないと、俺はこの場にいられない。続けて下さい」

 深呼吸をして、天井を眺める。

 わかってはいた。このまま束の間の自由を楽しめる筈がない。近いうちに、ふたつの組織は俺に牙を向けるだろうと。人間が、俺をここまで追い詰めたというのに。

「それらサンプルから得たDNAは、この世界の人間では持つ事のできない情報を示した。そして向こうでの経験の元、君は正式に人間ではないと判断された。星の結晶を喰らい、決して触れる事の出来ない神と血をわけ、生命の樹すら乗り越えた。人間の姿こそしているが、霊長類という枠からすら離れた神の眷属。私でさえ届かない高次元の存在となった。はっきりと言おう、君は人類の敵になると裁定が下された」

「ふざけ」

「ふざけないで!!」

 俺の代わり、カタリが叫んでくれた。

「ここまでリヒトを追い詰めたのは、人間でしょう!!?なんで、そんな判断が出来るの!?なんの為に秩序維持なんて偉そうに語ってるの!?なんの為の組織!?全部人間じゃなくなったリヒトの所為にして、全部終わらせる気!!?卑怯にも程があるでしょう!!」

「‥‥ああ、その通りだよ。私達、機関やオーダーの者は全てをリヒト、ひとりの責任にしようとしている。—―わかっているんだ。私達も、この街への襲撃や侵入、生命の樹の量産などという事件や場合によっては戦争になりかねない事象、すべてを彼の所為になど出来ないと。だが、人間は常に生贄を求めている」

「だからなに!?たまたま白羽の矢が立ったのは、リヒトって言いたいの!?どう考えても都合よく生き残ったリヒトに―――すみません。リヒトの守ってくれたのは‥」

「いいや、私だって自分の都合で、彼を引き取っただけさ。それに、彼へ向けられる疑いの目を助長させてしまったのは、間違いなく私だ。—――続けよう」

 最初に一口飲んだだけで、色を楽しむに留めているマスターの顔がどこか物悲しかった。

「君があの教授に放った息吹、そして普段から君が使っている一撃は、至秘と呼ばれるオーダーのトップシークレットにも含まれていない、類似品さえない君だけの力。それに加え、至秘にも書かれていない、異海文書にしか描かれていない神と出会い、力が変質してしまっている。君の力が、今後人間世界にどう影響するかわからない」

 まるで核兵器と同じような扱いだった。半減期と呼ばれる一定周期で、放射線は半減する。だが、決してそれがゼロになる事はない。そして、それがどのように影響するかもわからない。あの方が言っていた、俺達の破片は、決して受け入れられない。

「俺は‥消えた方がいいんですか‥」

「ふざけているのかい?」

 始めて、マスターの怒りが感じた。

「‥‥君は私の傍にいてくれると約束した筈だ。反故にする気か?」

「俺だって、ここにいたいけど」

「君が傍にいたからと言って、人間達が直ちに死する事はない。それに、この場にいるのは全員、ただの人間ではない。もし、何かしらの不都合が人間に起きたとしても、君が気に病む必要はない。所詮、人間などという弱小種族だ。数人でも数百人でも消えた所で、何も問題はない」

 本心で、言っているのがわかった。まるで迷いなく早い口元から紡がれたその言葉は、今までの積み重ねによって、生まれたのがわかった。マスターも人間に、愛想が尽きていた。

「こっちに来なさい」

「マスター‥でも、俺は」

「いいから」

 立ち上がったマスターに命令されて、言われるままにマスターのいるテーブルの向こう側に行く。ただそこに行くだけの距離で、足取りが重くなっていくのがわかる。カタリもマヤカも、ロタも何も言わないで見守ってくれる。

「マスター‥」

「よく頑張ったね」

 柔らかいバスローブ姿のマスターに抱きしめられて、呼吸を思い出す。

「自分を誇りなさい。君は、いつだって正しかった。いつでも、君は勇敢で優しかった。大丈夫。目に見えない人間達がどんな事を言おうと、ここにいる者達は、全員、君に救われた。みんな、君の味方さ」

「‥‥すみません。だけど、俺、このままここにいていいのかって、ずっと思ってました。だから、俺に理由を下さい―――俺に意味を下さい」

「いいだろう。リヒト、どうか私達の為に生きてくれ。私やカタリ君、マヤカ君にロタ。全員、君がいなければ生きていけない。君は、私達の為に、そしてやっと君自身の為に生きられる。これで十分かな?」

 マスターの心音がする。人形だとしても、この身体から聞こえる音は、黄金の髪を持つマスターの音と体温と同じだった。

「さぁ、自分の席に戻りなさい。カタリ君、彼の先導を」

「仕方ないですね。はい、こっち自分の足で歩いて」

 カタリに連れられて、元の席に戻る。本当に子供扱いされている気になってくるが、それが同時に守られて、ひとりではないというのが、わかった。

「最後に、君に付けられた名前を教えておこう。どちらから聞きたい?」

「オーダーからで」

「では、オーダー本部並びに法務科から付けられた名前を教えよう。ファーヴニル、ファフナー。これはあまりお勧めしない。我らにとって特別な意味こそあるが、正直言って気に食わない。イミナに抗議をしておかなければ」

 それは正しく邪竜の二つ名。それは抱擁する者の意味を持つが、抱擁しているものは限定される。それは黄金だ。

「‥‥そう、私がいるからその名前なんだ。黄金をつくる技術が、そんなに羨ましいのかな?なら、経済壊すつもりで作り続けるけど」

「それは勘弁してやってくれたまえ。たかだか、17万トン程度しか発掘できないこの世界の住人にとって、金の暴落とは死に直結する。—――その時が来たら言いなさい、私も手を貸そう」

 ふたりがどれだけ危険な事を言っているか、マヤカはわかったらしく二重に頭を抱え始める。金の総量は23万トン程度と言われている。だから金は高い。だが、錬金術師が人間世界を崩壊させるつもりで金を造り続けたら、あらゆる機器の価値さえ暴落する。だか、ロタは「金とは捧げられる物です。そんなに価値があるのですか?」とわかっていない様子だった。

「マガツ機関は?」

「機関からはベルヴェルク、禍を引き起こす者という意味だ。ふっ‥あの方の名を受けるだなんて、運命を感じるよ」

 その名を聞いた瞬間、ロタが手に持っていたグラスをテーブルに置いた。その意味は、俺にもわかった。ベルヴェルク、それは戦乙女であるマスターの主人。巨大な狼に喰い殺された槍を持つ神の別称だった。

「で、君はどちらが好みかね?言った通り、前者はお勧めしない」

「後者、ベルヴェルクで」

「では、今後そうしよう。ベルヴェルク殿」

「‥‥なんていうか、機関もオーダーも絶妙に―――」

「言わないでくれ。私だってそう思っているが、後者の名に言及する事は、私には出来ない。—――話は終わりだ。ふたりとも、そろそろ帰るとしよう」

「別にもういいですよーそんな気分じゃなくなったし‥」

 テーブルに肘をついたままのカタリが、絵にかいたような不機嫌さで嘆く。実際、カタリに殴られたお陰で、そのような気分になれないのも、事実だった。

「では、代表して私が相手をしよう。ふふ‥三人では満足できない技術を、君に捧げてあげようか」

 自身のバスローブに手をかけたマスターの胸元が一瞬見えた。何度かみんなに言われたが、俺はまだまだ子供らしい。マスターの肌が見えた瞬間、感じていた鈍痛が一気に消えた。

 だが、それより先が見える寸前で、隣のマヤカが手で止めて、ロタとカタリが俺の目を塞いでくる。あまりにも鮮やかな連携に関心していると、マスターが「君は自分の価値に気付くべきだ。君は貴重な生命体。そんな君は、将来の為に血を残す必要がある。というわけだ。私という貴重種と共に、血を混ぜて」、そこから先を言う前に、声が止まった。と同時に、マヤカの「マスター!!」と叫んだ。

「大丈夫、冗談さ。私だって初夜はふたりきりで」

「先に私です」

 忘れていた。マヤカも十分酔っていたのだったと。目が見えない以上、何が起こっているのか探っていると、「何ぼさっとしてる!?」とカタリとロタが目を隠しながら、外に連れ出してくれる。最後に我がマスターの高笑いと共に「いつでも来たまえ!」と教えてくれた。



「ロタはこれからどうするんだ?」

「諦めて、いち学生として生活します。それに、この生活はなかなかに得難いものですから」

「へぇー意外、何か気に入ったものがあるの?」

 三人でホテルのバーカウンターについていた。無論、目に見えての未成年である自分達三人では、アルコールの類は一切提供してくれなかった。だが、甘いノンアルコールカクテルも、なかなかどうして、悪くない。

「ゲームです。私達の世界をイメージした世界もいくらかあって」

「懐かしいのか?」

「いいえ、まるでなっていないので、運営会社の方に抗議と正しい知識を提供して差し上げています。私には、それらを通して、我らの正しい世界を伝える義務があります」

 色々言っているが、気に入ったからアップデートのお願いをメールとして送っているらしい。いくらロタの知識が正しかろうが、ゲーム会社の方は、話半分で信じやしないだろう。

「ねぇ、聞いていい?ロタの世界って、私達が想像してる世界でいいの?」

「細部は違いますが、大まかには変わらないかもしれません」

 即答したロタは、甘いカクテルを一口含む。ロタも悪くないと思っているのか、二度三度と続けて口に含み、「私のミードの方が上」と呟いた。

「—――厳しい世界だな‥」

 ロタで住んでいた世界は、そもそも巨大な人、まさしく巨人によって造られた。だが、それはその巨人が自身の意思で作ったのではない。事実状、自身の孫にあたる三人の神によって殺害され、その死体を使い天地や海、星に月と太陽、更には昼と夜、そして人を造り上げた。巨人と神々の争いが絶えない世界では、人間は神々に庇護されなければ、生きていけない弱い種族だった。

「いいえ、あの程度の冬を越せないようでは、そもそもあの世界に生きる価値はありません。我らの世界は、弱い者が生きられる程、広くはありません」

「でも、人間は」

「確かに、人間は弱い種族でした。けれど、私達を始め、巨人に我らの神は、人間を恐れ、また期待していました。理由はわかりますね?」

 かの主神が自身の娘とも言えるロタ達に命令として、館とも宮殿とも呼ばれる場所で、酒や戦を終末が訪れるまで宴として続けるように言い渡した。それは、人間に期待したから、そして巨人の側に着かないようにと恐れたから、とも言えるかもしれない。

「‥‥英雄か、そんなに英雄って強かったのか?」

「ええ‥すごく。—――あなたが打ち倒したあの竜は、私では歯が立たなかった」

「それは、今のロタだからだろう。本気になれば」

「いいえ。断言できます。私では、勝てない。きっと、あの英雄達かあなたでなければ、決して勝てない」

 暗いレストランの脇にあるバーカウンターで、異世界の話をしてしまっている。先ほどからグラスを拭いているバーテンダーも、魔に連なる者のひとり。けれど、何も聞こえていない風を装ってくれている。

「同じのを」

「こちらを、少し席を外させてもらいます」

 それだけ告げて、同じ物を渡してくれた男性は、カウンターから離れていった。

「—――この剣の持ち主。マスターの‥」

「ええ、あの人の昔の勇者。‥‥とても、仲が良さそうでした」

 嫉妬などした所で意味などない。既にロタとマスターの世界は焼き消えている。ならば、その勇者だって、死している。他世界の死者へ憎悪を送る事など出来ない。

「強かったよな‥‥きっと、俺よりも」

「言わせてもらいます。今のあなたでは、数秒と持ちません。けれど、それは私も同じです。それに、彼は強い勇者ではありましたけど、彼と同じ位にいる使い手は、多くいました」

 ロタが慰めるように、言ってくれるが、気休めにもならない。こんな子供の俺とは、比べ物にならない戦士達。その中でもマスターが選んだ勇者。あの美しく、気高いマスターと釣り合いが取れる真なる勇者。急に自分が小さくなっていく気がする。

「‥‥ねぇ、リヒトの中の剣って、もしかして」

「いいえ、違います。我らが主神が預けた剣とは、違う物です」

 やはり、ロタは断言した。

「あの剣は、もはや私でもどこにあるかは、わかりません。きっとヘルヤ様にエイル様でも。恐らく、あの方—―姉様が‥‥口が滑りましたね。その剣については、私は語れません。この世界に留まる条件として、言い渡された事です」

「そっか‥‥じゃあ、どうやって来たかも」

「言えません」

 既にロタ達の世界は消えている。だけど、ロタは勇者を探していた、いずれ来る終末に備える為。それは、この世界の終わりに抗う為だったのだろう‥‥。

「—―ロタ‥後悔してないか?」

「あなたを選んだ事ですか?」

「‥‥最初は、勘違いだったんだろう」

「確かに、あなたが剣を持っているのだと、思い。あなたを誘いました。けれど、あなたは剣を持っていなかった。それどころか、あなたは一度斬られた」

「‥‥ごめん」

 謝った瞬間、ロタが鼻で笑って抱きしめてくれた。

「前にも言いました。私は、あなたを戦士と勘違いしていた、そんな私は戦士でもないあなたに勇者、英雄の役割を押し付けようとした。間違っていたのは私の方です。だから、謝らないで、あなたは人間などという枠に収まってはいけない」

「だけど、俺は人間が怖い‥‥人間よりも弱い‥‥」

「忘れましたか?巨人も神も、人間を恐れたのですよ。それに邪竜すらも。だから、あなたが人間を恐れたとしても、決しておかしくありません」

 背中にいるカタリは、何も言わないで傍にいてくれる。

「泣かないで。あなたは、人間などとは比べ物にならないくらい貴き方。そんなあなたは、怖い人間から逃げないで剣を手にした。あなたこそ、私の神獣。私はあなたの乙女。笑って、私の為に」

「‥‥泣いてない」

 涙をロタの髪に吸わせて、顔を向ける。震える唇と目元を見て、笑ってくれたロタは、もう一度抱きしめてくれる。

「‥‥いい香り‥‥ロタの香りだ‥」

「気に入ったの?」

「‥‥好きになった」

「ふふ‥やっと、選んでくれましたね。カタリ、私も彼に選ばれましたよ」

「そうみたいね。まぁ、泣き虫なリヒトの世話をひとりでするなんて、難しかったし」

 ひとの目を感じ始めてしまったので、ロタから一度離れる。

「そのドレス、すごい綺麗だ。似合ってて、可愛い」

「やっと言ってくれましたね。そうですよね?だって、あなた好みのここ、良く見えるでしょう?」

 白い清楚な生地であるのに、ロタのやはりマスターやエイルさん譲りの身体を遺憾なく表現している。それに、ロタが指を差した胸元は、大きく裂かれ若干だが、腹部すら見えそうになっている。それに長い白い足が、バーカウンターの白い明かりに照らされ、艶めかしくも肌が輝いて見える。幼い顔付きのロタの顔も、化粧をしているのがわかった。唇が普段よりも柔らかそうだった。

「口が好き?そんなに、私に食べられたい?」

 唇に触れながらそういったロタから、視線を逸らした時、待ち伏せしていたようにロタの顔が追いかけてきた。

「どうしたの?目を合わせてくれないの?」

 見開かれた瞳が、いじわるそうに顔を見てくる。ロタの顔を見るだけで、顔が熱くなるのがわかる。泣きそうになりながら、どうにか声を絞り出す。

「‥‥もう、許して」

「ふふ、仕方ありません」

 満足そうに呟いたロタは「そろそろマヤカの酔いも冷めた頃かと、カタリ、あなたはもう少し私に付き合って」と言った時、カタリに背中を押されて、椅子から下ろされる。

「さぁ、早く言って。みんなリヒトに話があるらしいから」

「‥‥わかった。今度は、ふたりきりで来よう。約束してくれるか?」

「仕方ないから、約束してあげる。ふふ‥昔みたい。さぁ、早く行って」





「怒りました?」

「ん?この程度で、怒ったりしないから。前からリヒトは、こうだったし」

 意外、という程ではなかったが、興味が湧いてしまった。

「私のリヒトは、前から女性と?」

「そうよ‥‥昔から、あんな感じ。まぁ、いいんだけどね」

「どうして?」

「リヒトは、私を愛してるから。当然でしょう?」

 カクテルのグラス越しにリヒトの背中を透かして見ているカタリの横顔は、絶対的な自信と同時に、誰でもわかるほど、その背中を愛しているのが、わかった。



 あの状況では、ろくに動けないだろうと思い、俺とカタリの部屋に戻った所、マヤカが出迎えてくれた。だが、顔色は先ほどよりも、よくなったように見える。

「平気か?ベットに戻ろう」

 マヤカの手を引いて、寝室に連れて行くとマヤカが微かに笑ってくる。

「すごい積極的ね。そんなに私に、また溺れたい?」

「‥‥ごめん」

「なぜ、謝るの?ふふ‥ごめんなさい、いじめ過ぎた。水を飲みに行きましょう」

 次はマヤカに手を引かれて、リビングに戻る。水差しとグラスを出来るだけマヤカの顔を見ないように用意していると、またマヤカの笑い声が聞こえる。

「マスターは、連絡する所があるから、少し席を外してる」

「あの恰好で‥」

「いいえ、ドレスに着替えてから。流石にマスターでも、バスローブのままでは出歩かない」

 昔からよく知っている口振りが、気になってしまった。グラスに水をソソギながら、さりげなく「いつからの知り合いなんだ?」と聞いてみた。マヤカは、その問に唇に触れながら、考え始めた。

「言い難いなら、別に」

「いいえ、正直言ってあまり覚えていないの。私も、長い間マスターに看病されたいたから。もしかしたら、一年以上、あの部屋で過ごしていたかも」

「マスターの私室か‥じゃあ、俺はマヤカの寝てたベットに」

 そう思い出すと、顔がまた熱くなる。あのいい香りはもしかしてマヤカの香りでもあったのかもしれない。

「なんで、その程度で赤くなってるの?あなたの初めては、私が貰ったのに」

 改めて、面と向かって言われると顔をまた背けてしまう。そんな反応が、まだ酔いが冷めきっていないマヤカは、楽しくて仕方ないらしく、手を引いて、自身の腿に触らせてくる。

「マヤカ‥まだ酔ってるのか?」

「そう思う?大丈夫、ちゃんとカタリの薬は飲んだ。これは、私の趣味」

「やっぱり、酔ってるだろう」

 手に促されて、隣に座る。その瞬間、マヤカが肩に頭を乗せてくる。

「まだ、少しだけ私の方が高いのね」

「明日には追い抜かすよ。だから、待っててくれ」

「じゃあ、期待して待ってる。だけど、もう私の腕の中にいたあなたではないのね」

 自身の腿に置いた俺の手に、マヤカは手を重ねて逃がさないように指を指の間に入れてくる。

「前は、私の腕に抱かれていたのに」

「‥‥俺は、そんなに変わってないよ。まだマヤカに抱かれてないと、何も出来ない。—――わかってるんだ、ずっとマヤカに守って貰ってたって」

「そう‥だけど、私は助言をして、自分の売り込んだだけ。あなたの世話を出来るのは私達だけ。あなたの力があったから、私はあなたを守る事が出来た」

 俺は、この街であれば自由に歩ける。ひとりで歩く事が出来る。監視の目からは逃れられないが、それでも好きなだけ買い物も食事も、誰かと繋がる事も出来る。

 あり得ない話だった。俺は、人類の反逆者になったのに。

「名前が付けられたって、言ってたよな。それって、俺が思ってる以上に」

「そうよ。この世界、今生の間はあなたは自由になれない。みんな、あなたを監視する。私もマスターも――カタリも」

 触れているマヤカの腿から手を浮かせて、手を返す。マヤカと指と指を組んで見つめ合う。

「恋人みたいね」

「‥‥俺は、そう思ってる。マヤカは、子供は嫌か?」

「いいえ、あなたは私の恋人。年下の恋人」

「‥‥よかった」

 寄り掛かってくるマヤカを受け止めながら、髪の香りを楽しむ。前は違った。力を使い切って、一歩も動けなかった俺にマヤカは自分の血肉を分け与えてくれた。自分の身体で受け止めてくれた。見下ろされていたのは、俺だった。

「あの巨人を仕留めたあなたは、あの時から私のリヒト。私はあなたのマヤカ。何も間違ってない。—――よかった、やっと会えて、帰ってきてくれて」

「‥‥ずっと、待ててくれたのか。ずっと、探してくれてたのか」

「当然‥。あなたは、人間の中で唯一の私の理解者だった」

「‥‥ごめん。勝手にいなくなって。挨拶にも行けなくて」

「いいの。私こそ、ごめんなさい。結局、私はあなたを守れていない」

 樹の巨人を見た時、さほど驚かなかった。当然と当然だった。巨人を見たのは、初めてではなかった。最初に見た巨人は、ただの人間を殺し続けた沼地の巨人。持つ圧力も腕力も、何もかもが違った。樹の巨人の方が、恐ろしかった。けれど。

「私は、結局一度もあなたを守れていない。あの巨人にも、手も足も出なかった」

「それは、違う‥」

 手に力を籠める。

「マヤカがいないと、俺もカタリも生き残れなかった。手も足もでなかったのは、俺の方だ‥マヤカが‥力をくれたから、勝てたんだ」

「そう言ってくれるのね。‥‥嬉しい」

 




「妹さん達、見つかったのか‥‥」

「そうよ、本当に良かった‥‥ふたりとも無事だそう‥」

 マヤカの安心しきった声が、真上から聞こえる。頭を撫でられながら、笑いかけてくれるが、それは俺に向けられた笑顔ではない事は、わかっていた。

「どうしたの?」

「‥‥ごめん」

「大丈夫、どこにもいかない。いつか二人に会い行こうと思ってるけど、ずっとあなたの傍にいる」

「‥‥ごめん‥」

 マヤカの腹部に頭をうずめて、柔らかいドレスに涙を吸わせる。着替えてくれたマヤカの黒いドレスは、マヤカの雰囲気によく合っていた。どこか不思議で、いつも優しくて、それでいていじめっ子で。だけど、厳しくて。いつも俺の守ってくれていた。

「このドレス、すごく似合ってる。マヤカの髪みたいで、すごい綺麗‥」

「ありがとう、嬉しい‥」

 マヤカの足に頭を預けてながら、見上げる。マヤカの顔が突き出された胸に半分以上隠れて見えない事に気付き、また顔を背けてしまう。そしてまたマヤカに笑われる。

「そんな可愛い反応しないで、また食べてしまうから」

「‥‥今度は俺の番だ」

 マヤカから起き上がって、露出している肩を押し倒す。マヤカの胸を覆い被さった身体で潰して、抱きしめた腕で逃げ道を隠す。マヤカも滑らかなドレスにしわが付くのも無視して、抱きしめてくれる。

「このままで、終わり?」

「‥‥もう少し、このまま」

「そう‥あなたのペースに合わせるから、ゆっくりでいい」

 お互いの耳元で話しあって、呼吸を整える。

「ふふ‥胸の鼓動でわかる。緊張してる?」

「‥‥ごめん、リードして」

「任せて」

 背中を叩かれて、マヤカから起き上がって、逆に倒される。そのまま息継ぎをする間もなく目を開けたままのマヤカに口を付けられる。目を合わせたまましている事に気付き、目を閉じた時、また笑われる。口中の唾液を全て舐めとられて、歯と歯を擦り合わせてくる。マヤカの歯が舌に当たるが、その部分を優しくマヤカが舐めとってくれ、最後に水っぽい音を立てて、舌が引き抜かれた時、目を開けて笑い合う。

「まだまだ男の子ね。どうだった?」

「‥‥マヤカの口、甘かった。また飲んだのか?」

「大丈夫、少ししか飲んでない」

 小休止の為に、俺の胸に頭を置いて、マヤカは深呼吸を始める。その吐息だけで、胸が熱くなるのを感じる。反撃と落ち着く為に、マヤカの耳に触れた時、マヤカから艶やかな声がして、思わず手を離してしまう。

「痛かった?」

「ふふ‥全然。だけど、ちょっとだけ驚いた」

 言いながら、起き上がったマヤカは真横に横になってきて顔を見つめてくれる。

「今度は、ゆっくり触るから」

「そうね、優しく触ってね。だけど、私が命令したら、乱暴に触って」

「それは、命令か?」

「そう。私からあなたへの命令。いい?」

 答える為に、マヤカの胸に顔を入れて頷く。何も言わないで、マヤカも頭を撫でてくれる。

「もう俺はマヤカの物か‥マヤカがいないと、何も出来ない」

「知らなかったの?あなたは、元々私がいないと何も出来ない。私が、そうあなたを教育した。だから、あなたは私の物」

「‥‥魔女みたいだ」

「魔女だもの。私は、魔女」

 マヤカの心音と香り。これも香水なのか。普段よりもマヤカの香りと体温を強く感じる。ドレスと同じくらい滑らかな肌に頬を付けてると、耳を触られる。

「お返し。そろそろ続きをする?」

「‥‥いいや。行く所がある」

「その口で言うのね。ふふ‥あなたは、いつも優しい。はやく、マスターを迎えに行ってあげて。ちょっとだけ、乱暴にするけど、いい?」

 全て言い切る前に、耳の中に乱暴に指を入れられて、先ほどのマヤカの気持ちがわかった気がした。




「‥‥あんまり飲み過ぎないように」

「大丈夫、私は自分の限界を知っている。限界までは飲まないようにする」

「‥‥後で、迎えに行くよ」

 マヤカ好みの銘柄を見つけたらしく、ワインセラーがボトルを一本とグラスを持ちだしていた。止めた所で、もう我慢する気のないらしく、好きにさせる事にした。

「‥‥今までありがとう。それに、これからもよろしく。今日はゆっくりしてくれ」

「ええ、今までの分まで楽しませてもらう。マスターと連れて戻って来てね。後で続きをしましょう」

 扉を閉めながら、もう既にほろ酔い状態のマヤカに手を振る。未だ、ロタもカタリも戻ってくる気配はないが、マヤカがいるので問題ないと考えて、扉から離れる。

「マスターは‥‥最上階か」

 マヤカが言っていたが、どこかへ連絡を終えたら、最上階の会員制クラブで、酒を嗜んでいるとの事だった。しかし、そんな会員権など持ち合わせていない自分が、入る事が出来るのだろうか?それに、何より。

「‥‥やっぱり、マスターは大人か‥なのに、自分はまだまだ子供‥」

 隣にいると誓い合った仲だが、それはマスターとふたりだけの約束。しかし、それは人間世界では、奇異の目で見られるだろう。あれだけ美しいマスターの隣にいる男が、自分という昨日今日小銭を手にした子供では。

「このブラックタイも、着せられてるみたいだし」

 廊下前の姿見を見て、肩を少し張ってみる。鏡に映るのは、年相応よりも幼く見える自分の顔。高級なタキシードに、子供の顔を無理やり乗せているようだった。

「—――でも、マスターに会いたい」

 肩で風を切る。革靴で廊下の絨毯を踏みつけて、天井のLEDを浴びて、影を移してみる。少しだけ髪型を変えた方がいいだろうか?どうすれば、あのマスターの隣にいても、釣り合えるだろうか。

「背も足りない。着くまでに、もう少し成長してくれないかな?」

 背骨を伸ばして、頭から踵までを、一直線に伸ばしてみる。それだけで、少しは背が伸び、大人になった気分になった。けれど、エレベーター前に到着した時、扉が開かれる。

「子供か‥邪魔だ」

 肩に手を当てて、退かされる。そこにいたのは、高い背とコロンをまとった大人の男性だった。そして傍らにはマスターには到底届かないが、美人と呼ばれる美しい大人の女性。だけど、顔付きが悪かった。見下ろしている俺を、舌打ちで、更に退かしてくる。

「君、ここがどこかわかってる?」

「どこって‥」

「こ・こ・は、貴族にしか許されてない、本当の上流階層。もしかして、君も貴族?」

「やめてやれ。少なくとも、ここに出入りできる貴族の子供を、私が知らない筈がない。どうせ、どこかのおこぼれで入った迷子だろう?君、悪い事は言わないから、早く自分の階に戻りなさい。次見れば、ホテルのスタッフを呼んでつまみ出すぞ」

 子供として相手にしている俺に対して、毅然と接してくる男性を満足気に見ている女性にも、殺意が湧き、同時に自身に向けられる視線と俺を制している自分に酔っている男性に、殺人衝動が湧く。

「わかったら、はやく降りなさい。丁度、下に降りるエレベーターだ」

 自身は一切退かないのに。後ろに指を差して乗れと命令してくる。

「返事はどうした?‥‥まったく、君も少しは貴族の血が入っているのだろう。名前を言え、直接親に抗議を」

「止す事だ」

 その声に、顔を上げて笑ってしまう。もうひとつのエレベーターがいつの間に開き、濃い紫のドレスを着た戦乙女が立っていた。並みの貴婦人など、その身だけで跪かせる美貌、そして肌で感じる圧力に、身体が揺れるぐらい喜んでしまい、駆け寄ってしまう。

「よく我慢した」

「‥‥褒めて、くれますか」

「ああ、褒めてあげよう。君は自身の侮辱に屈しないで、無礼な言葉を受け流した。怒りも飲み込み、耐えた。よく頑張った、泣かない君はかっこよかったぞ」

 手を取って褒めてくれるマスターに抱きついて、息を整える。マスターの香りだった。甘い花と同時に、大人の女性の清廉でありながら、蠱惑的なまどろみを感じる。

「ふふ‥すぐ私を求めるところは、まだまだ子供だな」

「‥‥すみません」

「謝らないでいいさ、すまなかった。私を迎えに来てくれたのに、傷つけてしまって」

 マスターの胸に抱かれながら、頭と背中を撫でてもらう。もう、それだけで無礼な人間に対する怒りも殺意は消えうせてしまう。今はただマスターと一緒にいられればよかった。

「‥‥も、申し訳ありませんでした。この子は、あなた様のお連れですかな?」

 その声でわかった。俺のマスターを異性として話しかけた。

「さて、では行こうか。最上階の景色は、なかなかの物だったぞ」

「はい、俺も見たいです。一緒に行ってもいいですか?」

「無論だとも、では共に、静かな夜を過ごそうか」

 マスターと手を繋ぎ、エレベーターに乗ろうとした時、背広の男性が開かれたエレベーターの枠に片手を突いて、笑いかける。一緒にいた女性はマスターの姿に見覚えがあるのか、何かをぶつくさ言い始めた。マスターの立場に気付いていないのは、この場で、この大人の男性のみだった。

「お初にお目にかかります。わたくしは、序列10位の魔貴族でして、失礼ですが、お名前を伺っても?」

「—――ほう、私の名を聞くか」

 男性の問に、マスターは一瞬で無表情になった。

「無礼をお許しください。しかし、この場で会ったのも、あなたと私の特別な関係があったから、少しだけでいいのでお時間をいただけませんか?勿論、その子を部屋に送った後でいいですとも」

「‥‥時間がない、失礼させてもらえるな?」

「では、せめて部屋番号をお教え頂けますかな?でなければ、私はここから動けませんので」

 強気な顔だった。自身の立場に絶対的な自信を持ち、断る者など存在しないと言わんばかりだった。事実、上位10位という嘘でなければ、絶対的な地位は、それを可能にしても、まだ足りない権力だった。

「いかがですか?その子とよりも、私と共に夜を過ごしませんか?」

「お誘い頂き、感謝しよう。だが、私は弱い者には興味がない」

「—――お間違えですかな?私は、上位10位の」

「数字で強弱を計るつもりはないが、貴殿は彼の足元にも及ぶまい。—―二度目だ、退け」

 マスターが、男性の肩を払って退かそうとした瞬間、男性がマスターの手に触れた。

「やはり、美しい手だ。わたしは、美しい女性の手には目がなく」

 水晶の槍を造り出し、男性の鳩尾に突き入れる。エレベーターの扉から離すように、絨毯に転がらせる。そして、水晶を消しながら男が触れたマスターの手に手を伸ばし、両手で手を繋ぐ。

「マスター、平気ですか?」

「ああ、君が助けてくれたお陰だ。‥‥やはり、君は優しいし、頼りになる。君を選んだ私の目に、狂いはなかったよ‥」

 優しく笑ってくれるマスターの顔に笑顔を向けて、応える。それと同時に先ほど転がした男性が肩を掴んでくる。マスターと手を離し、振り返った瞬間、顔面を殴られるが、痛みなど感じなかった。

「痛っつ!?ガキ!?お前、何しやがった!?」

「見ればわかるだろう?」

 殴られた顔を向けて、口元を歪ませる。水晶の仮面を被り、拳を逆に傷つけた。

「やれやれ、どこの世界も底辺貴族というものは、気が短い。すぐに拳が出るな」

「マスターの世界でも?」

「まぁ、向こうではすれ違いざまに斬りつける貴族もいたから、比べ物にならないがね」

 痛めた拳を庇いながら、肩を掴んでいた手を襟に移動させ持ち上げようとしてくるので、お返しとして水晶を纏わせた拳を顎に叩き入れる。想像を超えた痛みを拳と顔に受けて、手を離し一歩ずつ後ずさる。だけど、それは魔に連なる者であればよくやる手だった。

「調子に乗るなよ!!?」

 懐に手を入れ、飛び出させた歯車を水晶の槍で突き砕く。弾けるように自身の胸の前で消え去った歯車を見て、ようやく腰を抜かし動かなくなる。

「な、なんだ‥‥その力‥‥」

「自分で考えろ。そら、連れが逃げたぞ」

 先ほどいた女性は、自身のヒールを脱ぎ手に持って逃げ出していた。ようやく、自身の男が何をしていたのか、思い出したのだ。

「一応は名乗っておこう。私は、書類上はこのホテルの主、そしてマガツ機関所属、白紙部門の所属だ。以後、覚えておくように」




「知りませんでした、機関の白紙部門だったのですね」

「ん?言わなかったか?—―そもそも、白紙部門とは、どんなものか知っているのかい?」

「マヤカから何度か。この街は勿論、国外も含めて、禁忌や禁断に触れようとしている魔に連なる者の逮捕、技術の封印を主な仕事にしているとか」

「正解だ。そうか、マヤカ君は、白紙部門にも興味があったのか」

 昇るエレベーターに、内臓が浮き上がる感覚を受けながら、マスターの手を握る。エレベーター内の鏡を見てもわかった。これでは、マスターが保護者にしか見れなかった。しかも、そんな様子に気付かれたらしく、マスターは笑いかけてくれる。

「‥‥待っていて下さい。あと、もう少しでマスターに届きます」

「期待して待つとするが、私を年下好きにしておいて、そのアドバンテージを捨て去る気か?私に可愛がって欲しければ、あまり伸ばし過ぎないように、気を付けたまえ」

「悩ましい‥‥だけど、これは俺のプライドです。必ず、マスターを抱きかかえて見せます」

「ふふ‥私にとっても、それは悩ましい所だね」

 繋いでいる手に力を籠める。エレベーターの終わりが、残りのふたりきりの時間を電工パネルが示してくる。あと数階で終わってしまう。だから、無理に引き寄せる。

「どうかしたかな?」

 腕を伸ばして、マスターの肩を抱く、細いけれど艶やかな大人の肉体を持ったマスターを、片手で抱くには長さが足りなかった。だから、少し乱暴に壁に押し付けて、顔を見上げる。

「マスター‥」

「良い顔だ。だが、まだまだ子供の顔だな。この後を、考えているのかな?」

「‥‥目を閉じて下さい」

「いいだろう」

 顎を下に向けて、こちらの口に高さを調節してくれる。それがマスターの優しさと共に、自分の情けなさを感じてしまい、感じるコンプレックスを忘れる為に、マスターの口に入り込む。マスターの口は暖かかった。人形とは思えないぐらい、甘美で柔らかくて、それでいて優しく舌で受け止めてくれた。マヤカから習った技を使って、少し暴れてみる。

「どうでした?」

「なかなかさ、あとは練習あるのみ。—――後で、私の好みを教えてあげよう」

 扉が開く寸前、最後に唇を舐められて、崩れたドレスやタキシードを整えて外に出る。エレベーター前で待っていた貴族かそれに類する人間達の間を縫って、受付に向かう。マスターと腕を組んで、外に出た時からわかっていた。皆、マスターしか見ていない。そして、戻ってきたマスターを見た受付の男性スタッフは、朗らかに笑った瞬間、俺を見て鼻で笑う。

「マスター、殺していいですか?」

「構わない、とでも言うと思ったか?君、少しいいかな?」

 マスターに呼ばれた男性スタッフが、身を乗り出すように応対し始める。

「私でよければ、何なりとお申し付けください。今回は、どのような?」

「次、彼に舐めた態度を取れば、明日にはこの街で仕事は出来なくなるから、忘れないように。ふたりで入場だ。早く対応してくれないか?」

「し、失礼しました‥‥では」

 マスターが渡したカードを受け取った瞬間、キーボードに何かを打ち込んでから、男性スタッフが入店を促してくれた。その時間や3秒もなかった。

「あ、あの、ご存知かと思われますが、未成年には」

「私はこのホテルの総支配人だ。何か用事があるのならば、支配人に言ってくれ。君が直接な?では、行こうか」

 返事など一切受け付けないと言わんばかりの矢継ぎ早な言葉を使って、腕を引いてくる。そんな格好いい大人のマスターに従って、会員制クラブに入る。

「クラブ‥‥始めて入りました」

「思っていたのと違うだろう?ここは教授の趣味らしい、彼は魔に連なる者だけでなく、コーディネーターにでもなればその道でも開花しただろう」

 マスターと共に入ったクラブと呼ばれている場所は、床を黒い大理石が敷き詰めて、強すぎ淡すぎない青いライトに照らされたピアノがあるバーだった。下にあるカタリ達と共に座っていたバーカウンターは、木目調の落ち着いた雰囲気を纏っていたが、ここは黒いガラス状の長いカウンターテーブルだった。

 そして、ピアノを伴奏にした歌声、歌姫が己が美声を響き渡らせていた。

「彼女に見惚れるか?では、少し離れている席に行こうか」

 場の雰囲気に飲み込まれていた俺を連れて、クラブの端、ソファーとガラステーブルが設置されている個室のような場所に連れて行かれる。その場には、黒いタキシードを着た男性が、マスターの帰りを待っていたらしく、「お待ちしておりました。では、失礼します」と告げて、頭を俺にも下げて足早に去っていく。

「‥‥子供扱いされませんでした」

「本当のプロとは、差別などしない。その人物の背景や、この場にいるという事実を鑑みて、対応してくれる。君も、真に客と判断されたらしいな」

 ソファーにふわりと座った時に起ったマスターの香りに、また呆然としていると、狙っていたらしく髪をかき上げて、手を引いてくる。引かれた手に促され、マスターの隣に座った時、髪をかき上げた時に残った香りに、また翻弄される。

「君が私の香りが好きなのもわかるが、場所を選びたまえ」

「‥‥マスターが、罠にかけたのに」

「そうとも、私が罠にかけた。ふふふ‥君は、いじめ甲斐があるよ」

 去った筈の男性スタッフが、シェイカーや果実酒を乗せたワゴンを押して戻ってくる。その中の数本を紹介するように、手で指示した物をマスターが頷いて、シェイカーやグラスに注ぎ、目の前でカクテルを作ってくれる。

「失礼いたします」

「うむ、感謝しよう」

「どうぞ、あなたにも」

 マスターにはアルコールを含めたカクテルを、テーブルを滑らせるように渡し、俺にはジュースのノンアルコールカクテルを、再度滑らせるように渡してくれる。

「あ、ありがとうございます」

「何かありましたら、お申し付けください」

 決して冷血ではないが、必要最低限の対応だけで、出て行った。

「彼は良い腕だ。対応もいい。どこかで修行してきた本職だろうな」

「—――大人ですね」

「そうとも。彼は大人だ。大人が選ばれた客の対応をするという事は、失敗は許されない。その為に培った業だ。もし、この街にいる貴族に不手際でも起こそうものなら、彼は夜を越えられない」

「戦場にいるみたいですね‥」

 甘いノンアルコールカクテルを、口に含んでみる。決して手抜きなどされていない、渋みやえぐみなど、一切感じない。だが、ほのかな酸味が心地よさを知らせてくれる。これが、あの人の武器なのだろう。

「他人事のように言っているが、君は彼以上に戦場にいる。今もそうだろう?」

「人間程度、いくら集まっても俺の敵ではありません」

「傲慢な事だ。まぁ、事実なのだろうがね」

 長い足を振り上げるように持ち上げて、組む。その光景だけで多くの人間、男女問わず、誰も彼もがマスターに心を奪われるだろう。

「どうかしたのかな?今日の私は、君の物だ。いくらでも独占していいのだぞ?」

「‥‥俺、ここにいて迷惑じゃないですか」

「なぜ、そう思うのかな?」

「‥‥マスターと不釣り合いだと、思って」

「—――こっちに」

 マスターが腕を引き寄せて、膝の上に倒れさせてくれる。

「少し、疲れさせてしまったかい?」

「いいえ‥いいえ‥。俺が勝手に混乱しているだけです」

 いや、マスターの言う通り、確かに疲れているのかもしれない。休みの筈の一日を、結局マキト絡みの後始末で使ってしまった。カタリは気に留めていない様子だったが、それでも俺個人の問題として、精神を使ってしまった。

「マスター、これを家から受け取りました」

「‥見せてもらってもいいかな?」

「はい‥見て下さい」

 マスターに後ろポケットに入れて来た手紙を渡す。俺を膝の上に乗せたまま、マスターは無言で手紙を読んでくれる。そして、読み終わった頃に、頭を撫でてくれる。

「よく見せてくれた。頑張ったね」

 応える言葉が見つからない。こんな脅迫まがいの、もう答えが出ている物を見せた所でどうしろと言うのか。もしここでマスターが新たな選択肢をくれた所で、何も変わらないのに。

「なにもかもとは、なんの事だと思う?」

「‥‥この身体と、みんなです」

「では、誰に奪われると思う?」

「次期当主になるという事は、家の権力を盾にしないといけない状況になる事。この街だけじゃない、魔に連なる者全てに狙われる」

「わかっているじゃないか。それと、今と、何が違うのかな?」

 鼻で笑うように、髪を梳いてくれる。毛づくろいとでもいうのか、マスターの温かい手で頭を撫でられて、髪を甘く引かれる。眠気すら誘うマスターの体温が、更に意識を遠のかせてくる。

「それに、魔に連なる者だけではないのは、わかっているだろう?君にとって人間全てが敵だ。その中の魔に連なる者という狭い種族が、改めて敵だとわかっただけ。たったそれだけじゃないか」

「‥‥俺、怖いんです。マスター達が、どこかに消えるんじゃないかって‥急にみんな消えたら、俺‥多分」

 俺は、今後どこにいようと狙われる。ならばそれはそれでいい、受け入れて、敵であろう者も含めて、全員根絶やしにすればいい。けれど、本来俺に向くべき手が、俺の大切なもの。また、大切な思い出や品が目の前で、砕かれれば、立ち直れない。

 ただちに、この世界を見限ってしまうかもしれない。

「私達は、そうそう負けやしない。それに、私達に危害を加えられるような人間など、まずいない。安心しなさい。決して、君をひとりになどしない」

「‥‥だけど、マスターだって死なない訳じゃない。傷だって追うはずです」

 マスターの夢の中で、俺はマスターを殺せそうになっていた。本来、鏡界の中では、術者は特権的な力を持ちうる事が出来る。実数を持たせず、曖昧なエーテルを思うがままに操る事だって出来る。

「心配性だな。—―いいや、君や誰よりも優しい。本当に、私達の事を、いつでも想ってくれている。‥‥その通りだよ。私だって、常に強者の立場にいられる訳じゃない。私以上の使い手だっているさ」

「‥‥そんな奴が、マスターを奪ったら、俺‥本当に災厄に――」

「好きにしたまえ」

 その言葉に、身体を上げようとした時、上から抑え込まれる。

「言っておこう。私だって、何も好き好んで、この世界の守り手に甘んじている訳じゃない。ただただ、そちらの方が私には都合がいいだけさ」

「‥‥マスターも、この世界が、人間の世界が嫌いですか?」

「そんな祈るように、言わないでくれ。当然に決まっているだろう?」

 安心してしまった。同じ物が嫌いという心理的な安堵感では成り立たない、生命として、同じ指針を持っている事に、喜びを感じてしまった。

「私はね、どうしたって、他人を愛する事が苦手な女さ。確かに、今までの生命活動期間で、愛してきた人間達がいたのは間違いない。けれどね、私はどこまで行っても、人間などという庇護されなければ生きていけない下等生命を、愛さなければならない理由がわからない」

「‥‥それは、マスターの創造主に――」

「その通りだよ。私は、あの方に命令されたから、人間を愛す事にした。‥‥確かに、人間達の世界というものは、悪い物ではなかったさ。だが、どうすれば私という高等な生命体は、次元がひとつもふたつも違う血肉袋を愛せるだろうか」

 マスターから、力を感じる。これは、マスターが捨てる事の出来なかった脈動。人間の身体では、人形の姿では抑え付けられなかった、戦乙女の力。

「ふふ‥言葉が過ぎたな。だが、私自身、そう思っていたんだ。生まれてからずっと隠していた矛盾さ。—―――良い人間ばかりではなかった‥‥あの人を、売り払った人間、君を慰んだ人間‥‥マヤカ君やカタリ君、それにロタをあそこまで追い込んだ人間の世界など、愛す理由を探すのは、なかなかに難しい」

 俺の頭から片方の手を動かし、グラスを持ち上げる。カクテルを一口含んだ吐息を、顔に吹きかけてくれる。甘い、蠱惑的な香りに、目を閉じてしまう。

「いい香りです‥‥マスターの香り‥」

「ふふ‥もし、もしこの香りを楽しめなくなる、私どころか、誰も彼もが君の元から消え去ったのなら、この世界など捨て去って構わないとも」

「どうでもいいからですか?」

「そうさ。私や私が守るべき、愛すべき者達が消え去った世界に、未練など無い。それに、世界のひとつふたつ消えるなど、よくある事だよ。知っているだろう?」

 創生の彼岸で、何度か聞いた話だった。あの方がつまらないと思った世界は、消え去り、楽しいと思った世界は残る。だけど、この世界の話を聞いた瞬間、あの方はつまらないと一蹴した。この世界は、そもそもあの方の目から零れた量産品。

「だから、君は君の思うままに、英雄や勇者の真似事など、君には似合わない。神や巨人の操り人形になど、なってはいけない。無論、人間の人形にもな」

「だけど、それには責任が生まれる」

「そう。君は、ただの魔に連なる者ではない。常日頃から隠者を心掛けなさい」

 ようやく、自分の求めていた答えを見つけた気がした。マスターの膝から離れて、マスターと見つめ合う。

「マスターを好きになって良かった。本当に、心から愛しています」

「それでいいのです。むしろ、そうすべきです。私を愛し、私に愛される者など、この世界に数える程もいません。誇りなさい、あなたは私の恋人」

 頬を撫でながら言ってくれるマスターの髪が、輝くのがわかる。黒から金に変わっていく。

「マスターは、本物のマスターだったのですね」

「若干違うが、そう思ってくれて構わない。この身体は、私。この身体なら、君の血を残す事も可能だぞ?君が望むのならば、私の人形達全てで、相手をする事もやぶさかではないのだが、どうかな?」

「それは、またいつか。だけど、今したい事があります」

「ん?なにかな?」

「外を見たいです。約束しましたよね?」

 マスターの手を引いて、ソファーから立ち上がる。強気な俺が珍しいのか、それとも喜んでくれているのか、マスターは満更でもないように笑ってついてきてくれる。紫で扇情的なドレスに身を包み、黄金に輝く髪と、深い海を思わせる碧眼。そんな美の化身じみた姿のマスターを連れて、継ぎ目ひとつない巨大な窓に走り寄って、声をかける。「異端学のカレッジは見えますか?」「どうだろうな、我らのカレッジは何分、不毛な土地にあるものでね」「では、探しましょう。方向的には西部の最西端なのですから、何もない土地にポツンとある筈です」「‥‥不毛な土地に、感謝する時が来ようとはね、はははは‥」

 後ろから感じるマスターを覗き見る眼球と、俺を邪魔者として見つめる無礼な視線。姿ばかり着飾っても、中身は所詮、隠し切れない欲望を携えた人間ばかりだった。

「マスター、俺、釣り合ってますか?」

「言うまでもないだろう?私の隣は、君しかいない‥」

 今、向けられているマスターの視線や姿を独占できるのは、自分だけだった。暗いクラブを奏でる歌声の中、窓から差す淡い月明かりに輝きくマスターは、俺しか見ていない。マスターの隣にいられるのは、自分ひとりだけだった。






「大丈夫だったの?なんか、すごい音がしたけど」

「ん?俺は、別に。マスター、何かありましたか?」

「ははは‥無自覚に、反撃したのか‥‥それとも、本当にもう忘れているのか‥」

 部屋にマスターと一緒に戻った時、カタリが不思議な事を聞き、マスターも遠い目で誤魔化してくる。エレベーターからこの部屋に戻るまで、何があったのだろうか。

「本当に忘れているのですか?これを見ても?」

 ロタが自身の物と思わしきノートパソコンを持ってきて、動画を見せてくれる。そこには、部屋前の廊下を俯瞰で見下ろした監視カメラ映像のような物が映っていた。

「これは?」

「いいから、見ていて」

 ロタが画面に触れて、映像を速める。画面端から現れた男には見覚えがあった。エレベーターに乗る前に、俺を貶した男だった。傍らには先ほどの女性はいなかった。

「あー、この人は知ってる。何かしたのか?」

 ロタにそう聞くが、何も答えずに無言で映像を示してくる。そこに、マスターを連れた俺が現れる。カメラ越しでもマスターの髪は美しく、カタリもそれを見て「やっぱり地毛って違うのね‥」と呟くように言う。だけど、ロタが見て欲しい箇所は違ったらしい。

「これ、俺がやったのか?」

 男が持っていたのは、時代錯誤な古式な拳銃。巨大なデリンジャーとでも言えば通じるかもしれない、一発限りの鉛玉を発射する大砲のような銃口だった。

 それを迷いなく俺に向けた後ろ姿は、手を腰に付け、勝利を確認したようだった。けれど、次の瞬間には拳銃は銃口から刺し貫かれ、バラバラに破裂していた。破裂した銃の破片で、手を切った男がひるんだ時、銃を破壊した水晶の槍は、男の首を掴む手のように変形し、画面の外に押し出して行った。そんな光景に気付かない俺は、マスターに夢中なまま、部屋に入っていく。

「‥‥きゅ、救急車‥」

「もう手配している。それに、彼も魔貴族のひとり、あの程度では死なない。—――死ななかったら、いいのだが‥」

 押し出されていく男を映像で見たマスターは、誤魔化しながら願望を口にした。

「そ、それでマヤカ君は?‥ロタ、その映像は消去しなさい」

「言われなくても‥」

 目に見えた証拠隠蔽に、安堵したカタリは寝室を目で差してマヤカの居場所を教えてくれる。飲み過ぎるなと言ったつもりだったが、聞き届けてくれなかったらしい。

「カタリ君、すまないが明日まで響くようなら」

「手持ちを使って、最後の酔い覚ましを作った所です。明日の朝にでも飲ませれば、流石に大人しくなるんじゃないですか?」

「世話になりっぱなしで、すまないな。単位をやろう」

「言って下さい。いつ、どこで、どれだけ、どんな薬が必要ですか?」

「そうだな‥先当たっては、マヤカ君の深酒を防止する薬。問題は根本から断つべきだ。まぁ、最近は無理をさせ過ぎたから、たまにはハメを外すのもいいが」

 マスターが、頬に手を当てながら困り顔を誤魔化してくる。あれではいつか問題を起こす。しかも、見た目は未成年に近しいので、なおの事問題だった。

「あとは、私のリヒトの薬。エイルと共同で精製しているのだろう?」

「はい、私みたいに接種し続ければ腕の毒を抑える事が出来る程度には」

「‥‥本当に、世話になりっぱなしだな」

 そう呟いた瞬間、左腕をカタリが掴んでくれる。

「いいの。それに、前にも言ったでしょう?リヒトは、私の神獣。ご主人様が配下の身体の安否を確認するのは、当然でしょう?いい、もうそういう面倒な事は言わない」

「わかった‥わかったよ。ありがとう、俺を見ていてくれて」

 カタリと手を握り合って、笑い合う。けれど、後ろからロタの視線を感じて、背筋が冷たくなる。

「—――私を選ぶという言葉は、嘘でしたか?」

「選ぶというか‥好きと言ったけど」

「言いましたね?私が好きだと。はい、では許してあげます」

 振り返ってロタに、釈明をしていると、次はカタリからの視線に首筋が冷たくなる。

「へぇー私の目の前で、ロタを口説くんだ」

「‥‥マスター‥助けて‥」

「カタリ君、ロタ、あまり彼をいじめないように」

 後ろから首を抱きしめるように、マスターが腕を回してくれる。そんな優しいマスターに、安堵して一息つくと、「そういえば、カタリ君。先ほど、君が使おうとしていた薬、私に貸してくれないか。リヒトと約束したのでね」と、言った。

「ふーん、そう。そうなんだ。そうだよね、私よりも経験がある先生と初めてはすべきだよねー。私よりも、大きいし」

「‥‥カタリ、薬って何?」

「そ、それは秘密‥」

 思いがけず弱気なカタリが現れて、なおの事、首を捻ってしまう。だけど、その反応さえマスターは、想定済みだったらしく、後頭部に胸を当てて、カタリに自身の武器を自慢している。

「カタリ君、君が求めるならば、君の目の前で実習をしてもいいぞ。無論、リヒトを相手にして」

「大丈夫です。リヒトの喜ぶ事は、私が一番知ってます」

 いいながらマスターから奪い取るように、首に腕を回してくる。マスターよりもサイズこそないが、慣れ親しんだ温かさに頭がまどろんでいくのがわかる。だが、次の瞬間には、カタリに勝るとも劣らない冷ややかな肌を感じる。ドレスの前を少しだけはだけたロタが、冷たい息吹を使って首に腕を回してくる。

「気持ちいい‥」

 マスターとカタリの肌から受け取った火照りを、ロタが冷やしてくれる。

「今、彼が欲しがっているのは、私のようですよ。まず、私が彼の緊張を取るので、おふたりはゆっくりとご観覧下さい」

 そのまま、ロタの胸に頭を落としそうになった瞬間、回されているロタの腕をカタリが掴み、無理やり引きはがしてくる。

「ロタ、あんたとはそろそろ話を付ける必要がありそうね」

「もう決着はついているのでは?」

「なら、リベンジよ。今度こそ、どっちが大人か教えてあげる。まぁ、見た目はマヤカも言っていたけど、私の勝ちだけどね」

 その瞬間、ロタから黄金の輝きを感じ、それに応えるようにカタリの腕も銀に輝く。マスターから小声で「逃げたまえ」と言われ、腕の間から頭を引き抜き、急ぎテーブルの下に逃げて、人と神の戦を始める寸前のふたりから離れる。そして、マスターはふたりを宥め始める。

「ここで、終末を始める気かな?」

「そうですか、私は力を発揮する時は、今だったのですね」

「私だって、あの人と契約した理由は、ここだったのね」

「まぁ、好きにしなさい。ただし、勝負方法は私が決めさせて貰おう。こんな面白‥世紀の決戦、見逃せないのでね」

 三人から逃れる為に、もうひとつリビング、テレビが置いてある部屋のソファーに倒れ込む。そこには、先ほどまでマヤカがいたらしく、酒の入っていたボトルとグラウが放置してあった。

「これだけ飲めば、倒れるに決まってるだろう。次は止めないと」

 寝返りを打って、天井を見つめる。ふたりの喧騒とマスターの楽しそうな声、そして何をしているのか知らないが、細かいながらも激しい遊戯にでも勤しんでいるらしい音がする。

「‥‥カタリ、いい友達を持てたな。嬉しいよ‥」

 長く友人と呼べる存在がいないカタリが、見た目と精神的に同年代なロタとあれだけ付き合えている。純粋な人間から離れつつあるカタリは、もうロタやマスター、マヤカの方に傾いているようだ。気が合うのも、わかる気がする。

「ロタも、いい子だし‥もっと話したい――そうだ、なんで、俺よりも子供っぽいって言われて、ショックそうだったの、聞かないと」

 そう呟いていると、ふらつくマヤカが三人の喧騒に変わりつつある部屋を通って、ソファーの上の俺に被さってくる。あまりの自然な動きに身動きひとつ取れないが、一言、声を出そうとした瞬間、唇に指をつけられる。

「静かに‥今、三人は私達に気付いていない」

「‥‥マヤカ、まだ酒が抜けないのか?」

「お酒を抜いてはつまらない。大丈夫、まだ少しだけど理性は残ってる」

 Yシャツのボタンを、身体を押し付けながら外してくるマヤカには、抗い難い雰囲気を感じる。あの時はまるで違う、溶けたような顔に、マヤカから女性以上の何かの魅了を受けてしまう。

「さぁ、続きをしましょう」

 最後にまだ甘い酒の残りを口に含んだマヤカに、口移しで酒を飲まされた。





「どう?ちょっとは、私も勉強したの」

「美味い‥」

 材料にしたであろう果実については、詳しく聞かないが、水晶の器に注がれる青いみがかった酒らしき何かは、舌に染みわたるように、その甘みを示してくれる。酸味や苦みを一切感じないのは、この方の趣味らしい。

「そうでしょう!!だって、私が用意したのだもん!!」

「はい、とても美味しいです。あなたは、本当に万能な方なのですね」

「そうなんだよ!!もっと、褒めて♪」

 膝の上に倒れ込んで、楽しそうに手足をばたつかせてくる。そんな子供のような反応に反して、成長を止めたが、それでもなお成熟した身体を押し付けてくる所為で、動けなくなってしまう。どうにか、手を動かして頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めてくれる。

「私、世界以外でも作ったり、壊したり出来るようになったんだよ。すごい?」

「‥‥はい、あなたは、本当にすごい方です。—―本当に、ありがとうございます」

「またお礼を言ってくれるのね。嬉しい‥」

 膝の上で、器用に寝返りを打って、起き上がり肩を押し倒してくる。優しくて、か弱い腕に従って、水晶の砂浜に背を付けて、プリズムの波に身体を浸す。

「気持ちいい‥それに、綺麗ですね‥」

 何度、この世界の空を見上げても、溜息が出てしまう。虹色のオーロラとでも言うべき光帯が、世界を包み、細かい水晶の雪を降らしている。身体中が満たされるこの感覚は、この身体のあるべき場所は、ここだと言っているようだった。

「私の飲むね」

 海から遣わされる二本の水晶の腕によって、ロタが使ってくれたような器の形をした水晶に、青い酒が注がれる。それが零れる寸前まで並々と注がれ終わった時、白い方に口に運ばれる。しばらく、俺の上で酒を嗜んだ後、被さるようにして口の中の酒を飲ませてくれる。

「甘いね」

「あなたの口が甘いんですよ」

「あなたの口も甘いよ。いつ、味わっても甘いまま」

 少しだけ頬を朱に染めた白い方は、盃を砂浜に置いて、身体を預けてくれる。胸の上で息をしている白い方の頭を撫でて、腰を引き寄せる。

「前に、言ってたよね。愛したいから知識が欲しいって、今も、探してるの?」

「‥‥そうですね。自分以外の存在を愛するというのは、難しいですね」

「なら、諦めちゃったの?」

「いいえ、まだまだ勉強中です。—――だけど、わかった事もあります。俺は、恐れていたんだと思います」

 理解できないといった具合に、胸の腕で首を捻ってくる。その様子が、幼くて可愛くて、それでいて、優しげで、つい口を求めてしまう。優しい俺の主は、わがままな俺の舌を、微かに笑って受け入れてくれる。

「これが学んだ事?ちょっとだけ、上手くなったね」

「‥‥比較する相手が、いるんですか?」

「うんん。私の気分の問題。あなたの舌、気持ちよくなった。それに、もしあなた以外の存在が私を求めでもしたら、その舌、噛み千切っちゃうかも」

「そうして下さい。あなたは、俺の主。俺だけを見て下さい」

「勿論!!あなたは私の物。誰が邪魔したって、絶対渡さない」

 盃から手ですくった酒を、口に運んで飲ませてくれる。甘い酒は、白い方の手によって、味と香りが更に自分好みとなっている。そして、飲み干した手を最後まで舐め取って、唾液の糸を伸ばす。

「これが、俺が学んだ事です。ずっと怖かった‥‥世界は俺を裏切る。目の前で、何もかも奪っていく。—――信じて積み上げた力すら、踏みにじっていく」

 俺には、やはり何もなかった。決して失う事はないと思っていた身体や命すら、奪われた。この精神だって、創生樹から生まれた、人外の何か。

「‥‥あなたに残った最後の精神は、私が喰らってしまった。—―怒ってる?」

「いいえ‥いいえ。あなたは、俺に残った最後の理性を取り払ってくれた。あなたのお陰で、人間の枝葉から離れることが出来た。感謝しています。あなたのお陰で、人間の運命から離れる事が出来ます」

「—―そうだね。あなたに降りかかる運命は、もう人間のそれではない。きっと、人間では耐えられないから、あなたはここに流れついてしまった。もうあなたは、人間として死んでしまっている。だけど、これからは、人間の比じゃない運命が、あなたを襲う。それに、あなたは耐えられる?それでも、私を愛してくれる?」

 胸の上にいる白い方の体温を、肺で感じ取る。ふたりで海に浸かりながらお互いの心音を楽しむ。—――きっと、俺は狂っている。耐え難い運命に押しつぶされた所為で、もはや人間の精神から完全に離れてしまっている。

「その前に、あなたに‥‥聞かないといけない事があります」

「なぁに‥」

「俺を、愛していますか?俺と共に、運命を受け入れてくれますか?」

「—――誓いましょう。私は、あなたと共に、世界の運命に浸かりましょう。けれど、浸かって従うだけではつまらない。私達は世界の理から外れた神喰らい、世界の運命があなたを苛むのなら、私はあなたを苦しめる全てを喰らいましょう」

「俺も、あなたと共に喰らいます。運命には従うしかないとしても、奪われるままではつまらない。世界が俺の敵ならば、俺は世界の敵となります。俺が得た知識は、世界に牙を剥いても構わない、世界を敵と判断する視点」

「きっと、つらい旅路だね。でも、大丈夫だよ――私がいるから」

 水晶の波が、浜にその身を打ち付けてくる。遠くに見える水晶の樹が、空のプリズムに照らされて、自身の存在を訴えかけてくる。何もかもが、俺の味方だった。決して俺の拒まず、自身の在り方を知らせてくる。俺は、人間の世界の敵。

 だけど、それだけじゃない。俺は、この世界の加護を受けている。

「‥‥よかった」

 ふたりで手を握り合って、目と閉じる。濡れる髪や肌に不快感などある筈なかった。俺は――この世界から生まれたのだから。

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