第3話

「私に会いに来てくれたの?嬉しい‥」

 マスターに頼み、ロタの居場所を聞いた結果、異端学のカレッジにいると言われた。よって、久しぶりにカレッジに赴いてみたが、周りからの目が痛かった。

「聞こえてますか?みんな、あなたが死んだと思っていたそうですよ?」

 カレッジの同級生たちが驚きの声と共に、内緒話とも言えない声量で、勝手な憶測や推測を展開し始めた。「死んだ」を筆頭に、「機関の犬になった」「カタリと駆け落ちした」「講師の実験体になった」だの当たらぬまでも、遠からぬ答えを出していた。

「‥‥ロタ、入学したのか?」

「これは私にとっても不本意です」

 スカートと翻して一回りしたロタの姿は、俺やカタリと同じ紺色の制服だった。マスターやエイルさんと同じ雰囲気ながらも、幼い顔をしているロタに制服はよく似合っていた。

「私は講師になりたかったのに、あの人は、その見た目で講師は無理じゃないか?とか言って、私に無理やりこれを着せたんですよ」

「でも、よく似合ってる。今のロタ、悪くないぞ」

「‥‥まぁ、それならそれでいいですけど。だけど、少し恐怖を覚えますね」

 確実に後ろにいるマヤカを視線で差して言った。

「私に似合うのではなく、この服が好きなだけでは?」

「そうなの?」

 車椅子を押してくれていたマヤカは制服姿だった。しかも、かなりスカートが短い。そこまで面が割れている訳ではないマヤカの制服姿なので、誰にも指摘されずに済んでここまで来れたが、やはり、知っている人からすると、指摘せずにはいられない。

「自分で言っただろう。これは変装」

 言い切る前に口を閉じさせられる。

「ロタ、あなたに話があるの。付き合ってもらえる?」

「彼を連れて来れば、私が従うと思ったのですか?浅はかですね、人間‥人間?」

「そう。私はあなたや彼と同じ」

「‥‥わかりました。少しだけなら、話を聞きましょう」

 納得したらしく、ロタは「こちらへ」と言って講義室のひとつ、マスターが使っている部屋に招いてくる。中は無人、そこに日光が差し込む事で詩的な美しさを誇っていた。

「それで、あの愚か者の何が聞きたいのですか?私としても、あの愚か者を追い詰める事が出来るなら、協力を惜しみません」

「じゃあ遠慮なく、まず最初に、ロタがマキトを病院から連れ出したのか?」

「はい。私が彼を連れ出し、館まで運びました」

「その過程で、どこか別の場所に行かなかったか?」

「何を聞きたいのかわかりませんが、私はあの恐慌状態の彼を、どこか別の所に運ぶだなんて余裕はありませんでした。館に運ぶだけでも、暴れて、向こうでも指の治療で」

 相当の苦労があったらしく、ロタは聞いてもいない愚痴を始める。ただ、ロタの苦労もわかる。あのマキトの恐慌状態など、とても手の付けようがなかっただろう。

 俺も頼まれても嫌だ。

「それは、大変だったな‥。じゃあロタ、その前、病院に行く時はどうだった?」

「どうって‥私は病院から館に運んだだけで、それ以外は何もしてません」

「そうか‥じゃあ、館に俺とカタリ以外は来なかったか?」

「いいえ。あ、でも」

 薄い桃色の唇に手を付けて考えるロタに見惚れていると、マヤカから頬を突かれる。

「館の地下に、あの蛮人が入っていったのを覚えています。私も行こうとしたのですが、あの狂乱さで怒鳴りつけられたので、一度も行けませんでした」

「あのガラスのドームの下か?」

 俺の問いにロタは頷いた。驚いた、未だにあの地下、俺が散々暴れたあそこにまだ隠れていたのか。蛮勇というのか、それとも恐怖で動けなかったのか。

「まだいると思う?」

「いや、たぶんマキトは迎えに行って、どうにか外に逃がした。――多分、その時に何かしらの暗示をマキトにかけた」

「逃がした事すら忘れさせたって事?」

「下手に記憶を残すと、マキトの奴が何もかも話すかもしれないから。利用するだけして利用して、後は捨てて逃げようとした。向こうも向こうで魔に連なる者らしい性格か」

 むしろらしいという話かもしれない。義理人情で動く訳がない。あの教授も、腹にひとつもふたつも抱えている事を知って手を組んだのかもしれない。

 まぁ、それでもなお当てにしてなかったらしいが。

「戻ってきたマキトは、更に狂ってなかったか?」

「戻ってきた時の性格は、あなた方も知っている筈ですよ」

「苦労したんだな。よく殺さなかった」

「もっと褒めてくれてもいいですよ。いつ私の矛先が彼に向いてもおかしくなかったので」

 足を組んで、たたえる笑顔からは冗談という感情は見受けられなかった。事実、いつ刺してもおかしくなかったに違いない。

「私はこの事を機関に連絡して、地下に何か残ってないか調べて貰う」

 マヤカはそれだけ言って講義室から出て行ってしまった。

「彼女、マヤカさんでしたか?」

 急にロタが顔を近づけてくる。呼気が顔と鼻にかかるが、あまりの俊敏さに顔を背ける事が出来ずに返事をしてしまう。

「そ、そうだけど。気になるのか?」

「彼女は私と同類のようですね。よく、人間などに従っていられると、感心していました」

「‥‥やっぱり、マヤカは人間じゃないんだな」

 前々からそのような含みのある事を言っていた。ただ、出会った頃と比べれば、だいぶ人間らしくなったと思う。いや、むしろ人間から離れて行っているか。

「悲しい?」

「いいや、やっと確証を得られたって気分だ。マヤカが人間じゃなくてよかった」

「ふーん、そうですか」

 心底つまらなそうに息を吹きかけてくる。ただ、この息が――甘くて。

「ロタ‥何か飲んでる?」

「いいえ、でも、この身体は私の物ですから。あなた好みの香りや味を付ける事が可能ですよ。味わってみますか?」

 組んでいる足のスカートをつまんで元の身体に似た白い肌を見せてくる。やはり、マスター達よりも未成熟だが、肌の艶やかさは、人並み外れている。

「見てますね?そんなに私に夢中?あのマヤカさんやカタリさんよりも?」

「ロタが‥そんなに見せるから‥」

「私の所為?経験はあるのでしょう?なのにそんな初心な反応をして、私を惑わせる気ですか?」

「‥‥ロタも、経験あるのか?」

「勿論、だけど」

 車椅子に乗っている俺の足に手を付けて、制服の上から撫でてくる。強過ぎない、だからと言って弱すぎない。丁度、血の流れを促す摩擦を続けてくる。

「この身体ではしていません。この誰も触れていない綺麗な身体、あなただけの物にしたくない?あなたの手で、汚してみたくない?食べたくないですか?」

 膝の上に乗って身体を腿で締め付けてくる。その上、甘い呼吸を吹きかけてくる。痛みや不快感など感じない。今見えるのは、ロタの白い首筋。

「噛んでいいです‥」

 視線でわかったのか、許可を出してくれた。だから、容赦なく噛みつく。

 白いロタの首から、甘い香りがする。膨れている喉に舌を這わせて、顎の付け根にも歯を添わせる。残るは鎖骨だった。できる限り長くロタを味わう為、もう一度白い喉を口に含ませながら、鎖骨まで移動して、辿り着いた左右の鎖骨にも歯形を付ける。跡を付ける為、歯と口で吸い続けながら鎖骨の上に唾液を残し、口を離す。

「思ったより長かったですね。そんなに私が美味しい?」

「美味しい‥」

「私を食べたい?」

「食べたい‥」

「あはははは!!簡単、やはりあなたを堕とすのは簡単ですね。少し手間取りましたが、身体を造り変えてよかった。そうです。姉様方よりも私を選んで。そうすれば」

「そうすれば?」

 冷汗が出て、お蔭でロタの色香からも抜け出せたが、遅かった。

「マヤカに制服を着せて、ロタを膝の上に乗せてね。それも全部仕事?」

「カタリ、あまり怒らないであげて。これは私の変装。彼の意思じゃない」

「そう。じゃあ、ロタの制服は?」

「あれもマスターの意思」

 後ろからマヤカの助け舟が来たので、一息出来た。

「ロタ、今言った事は本当?身体を造り変えたって」

「人間程度に教える事はないです」

 膝の上から降りたロタが俺の方向を変えてから、カタリとマヤカに近づいていく。

「先ほど話した事が全てです。それと、薬は完成しましたか?」

「あともう少し。その為にロタ、あんたの知識が必要。さっき造り変えたって話が。付き合ってくれよね?」

「仕方ないですね。こうして自由に動き回れているのも、取引のお陰ですし。付き合わせてもらいます。どこに行けば?」

「ついてきて。マヤカはリヒトをお願い、そろそろ病院から連絡が来る筈だから」

「ええ、わかったわ。今日の世話は任せて」

 カタリがロタを連れて行ったのを見届けてから、マヤカが車椅子の後ろに回ってくれる。

「カタリとロタって、何かあったのか?」

「あなたの薬が完成するまで、協力をする契約があるの。司法取引というの」

「司法取引‥じゃあ、ロタがオーダーになったのも?」

「オーダーの首輪を受ける事になった。ロタは機関やオーダーの為に活動して、罪が消えるまで監視される。監視官は私とマスター。だけど、見ての通り、彼女は人間じゃないから、オーダーが私達、非人間族に任せてきたが正確。彼女は裁けないの」

 人間じゃない者を人間の法で裁く事は出来ない。見た目ばかり人間でも、そもそもの思考や思想が違う、異なる生物である以上、同じ非人間族に任せるしか出来ないのか。

「だからあなたもロタを見張っておいて。私達の常識と彼女の常識はまるで違う。ロタは否定するだろうけど、彼女はまだまだ現代的な生活を知らないから」

「お金とかの概念を教えたのは、マヤカか?」

「そう。ちゃんと使えてた?」

「問題なく。意外とロタ、今の生活を気に入ってるのかも」

 マヤカが車椅子を押して、講義室から廊下に移動させてくれる。学生達は既に消え去り、日も傾き始めていた。結局、今日一日を使ってようやく手にしたのは、あの館にはまだ何かある、という事だけ。

「館の方は、どうなってるって?」

「あなたが暴れたから、地下の防衛システムは破壊されてる。だから、あの生命の樹を量産していた施設だけは侵入出来た。だけど、今の所何も見つからないらしいの」

「そうそう何も見つからないだろうな。教授だって、自分が負ける事ぐらい想定済みだろうし」

溜息が出そうだった。機関はそれなりに働いてくれているが。やはりどこまで行ってもただの人間だ。館の探索が遅くして仕方ない。

「あの狼も手伝ってるのか?」

「いいえ、あの子は今、病院の防衛をさせてる。彼のような病院に襲撃を仕掛ける魔道を志す者が、いつまた現れるかわからないから」

「大変か‥?」

「少しだけ。でも、心配しなくていい。あの子は、ゴーレムにした」

「オートマタ。自動人形にしたのか?よく機関とかオーダーが許したな。もし暴走でもしたら」

「その時は私が破壊する。それに、マスターにも手伝って貰った。あの人以上に、ゴーレム操作が出来る人を、この秘境で見た事がない。だから、大丈夫」

 遠隔操作ではない完全な自律。見た目こそ狼だが、その中身は現代の電子演算器に等しい構造となったようだ。何を以って敵と見るかわからないが、敵対者にはあの牙や鱗を使っての攻撃をするとしたら、ただの人間では手も足も出ない上、数トン規模の車両の直撃すら防ぐだろう。

「それとあなたの耳に入れておきたい事がある。あの巨人の骨、あれが消えた」

「消えた?砕けたのか?」

「かもしれない。あなたの起こした落盤の下敷きになったのかもしれないけど、現在の所、破片ひとつ見つかってない。自動的にどこかへと去ったのかもしれない」

「マスターはなんて?」

「どこかへ去ったという話はマスターがしてくれた。カタリにも話して、同意してくれた。だから、やっぱりあなたに頼るしかない。マスターなら破壊できるけど、出来る限りそうはして欲しくない。私の狼も、勝てる可能性はあっても負ける可能性もある」

「了解。見つけ次第俺に連絡してくれ。この秘境にいるなら、どこからでも破壊する。今度こそ、完全に砕く」

「アレをするの?それは‥やめて欲しいのだけど」

「言ってる場合じゃないって思ったら、使う。いいか?」

「仕方ない‥その時はお願い」

 お許しが出たので、思わず笑ってしまった。

「始末書を用意しておかないと。杖は後で届けておくから、受け取っておいて」

 気苦労をかけて申し訳ないが、それはそれ。最悪の場合を考えて最善の手を用意しておくのは、基本中の基本。書類一つでマヤカが救えるなら、軽いものだ。




「本当に、たくましくなったのね」

「‥‥」

「ふふ‥」

「シャワーぐらいひとりで浴びれた。そんなに動けない訳じゃない」

「でも、私がいないとハンドルを捻られなかった。ごめんなさい、私が無理をさせたから」

 火照る頭をマヤカが後ろから撫でてくれる。俺が許可された病院のシャワー室は、透明なビニールシート状のカーテンが掛けられた、中が見えるタイプだった。誰もいないと思って長く使っていたら、いつからかマヤカに覗かれていた。

 しかも。

「だからって、勝手にカーテン開けるなよ‥」

「ハンドルを握って倒れ込むあなたを見て、仕方なく。それにあなたの身体を見たかった」

「‥‥もう傷は塞がってる」

 上から覗いてくるマヤカに見せる為、病院着の前を開けて縫い跡を見せる。整形でもしない限り消える事がないだろうが、それでも、もう痛みはほとんどない。

「あとは体力を戻せばそれで終わり。外に出て、リハビリの真似事だってしてるんだ。もう入院生活は終わる。いつまでもマヤカの世話にならない」

「寂しい‥困ってるあなたを見るのは、楽しかったのに。ふふ‥」

「‥‥かっこ悪いとこばっかり見せたくない。俺だって、マヤカに」

「私に?」

「‥‥マヤカに褒めてもらいたい。最近は、狼ばっかり褒めてる‥」

 あの狼型のゴーレムに嫉妬をしても仕方ない。だけど、最近、マヤカは狼ばかり褒めている。なのに、俺はマヤカに面倒を見て貰ってばかり。いい加減、情けない。

「そう、私に褒めて貰いたいのね」

「‥‥かっこ悪いな」

「いいえ、そんな事ない。気付かなくてごめんなさい」

 言葉では申し訳なさそうだが、撫でる頭はやめてこない。それどころか、撫でる手に拍車がかかっていくのがわかる。楽しくて仕方ない。それが手から伝わってくる。

 部屋に戻るまでそれが続き、自力で車椅子から立ち上がって、ベットに座る。

「巨人の事、まだ見つからないのか?」

「見つからないそう。一欠けらも。だから、ふたりの想像通りになりそう」

「—―厄介だ。機関の人間で、マスター以外であれに対処できる人間はいるか?」

「いるにはいるけど、彼らは館の探索に力を裂いてる。すぐには出動できない」

「結局、俺達がやるしかないのか。どうにか自力で歩けるようにならないと」

 試しに立ち上がって窓まで移動する。何か掴める場所があれば、歩行自体は問題ないが、それでも我ながら鈍いと思う。実戦では役に立たないだろう。

「明日はリハビリに専念する。一日、オーダーと機関の仕事は休んでいいか?」

「そもそもあなたは一介の学生。自分の事を優先して」

「明後日には、歩いてるから。出来たら褒めて」

「約束、ひとりで歩けてたら、褒めてあげる。ご褒美もあげる」

 やはり年下の男の子扱いをされている。決して悪い気分じゃないが、このもどかしさを言葉に出来ない自分が、悪いどころか嬉しい気分の自分が、厄介だった。




 カタリの手に合わせて、左右の足を交互に前に出す。車椅子に慣れた生活をしていたが、酸素マスクに頼ってさえいれば、意外な程歩ける。今日中にでも階段の練習が出来そうだった。だが、同時に加速度的に失われる体力も、また真実だった。

「はい、頑張って♪」

 元々サディスティックな気があったカタリだが、苦しんで頑張っている俺を見て、満面の笑みで応援してくれる。これはスパルタじゃない。絶対に、俺を苦しめようと、イジメて楽しんでいる。

「頑張れ頑張れ♪」

「そ、そろそろ休憩を‥」

「まだまだ♪はい、頑張れ~♪」

 カタリが座っているベンチに置いてある酸素マスクを取ろうとしたが、酸素缶が付いたマスクが一瞬で奪われる。空ぶった手をカタリが握ってくれるが、目の色が違う。

「顔が赤くなってるよ。私と手を繋いでるから?」

「‥‥そうかもしれない」

 確実に心肺的な話だが、カタリの言う通り、顔が赤くなっているとすれば、良い傾向だと言えるだろう。

 これで顔が白かったり、青かったりしたら、すぐにでもカタリは酸素マスクを渡してくれたに違いない。逆に、渡してくれないという事は、タイミングを計っている。

「もう少し頑張ってみるよ」

 振り返って手すりに手を伸ばす。ただし、完全には握らない。軽く指で触れる程度。

「そうそう。今のリヒトの状態は、健康的って言える。動ける時に動いて、歩き方を思い出さないと。少し車椅子生活が長かったし」

「長くなった理由はマキトだけど」

「あいつの名前を言わないでー聞きたくなーーい」

 頭を抱えて、あいつの事を忘れるように降り続ける。

「悪かったよ。ていうか、カタリ、講義はいいのか?」

「ん?それを言ったらリヒトもでしょう?まぁ、私の場合はまだゴールデンウィークだし、焦る必要はないかな?」

「そっか、今年は長いんだったな」

 だとすれば、俺のこの入院生活ももう少し続いても構わないのか。ただし、俺はゴールデンウイーク前も含めると、優に一か月近く休んでいるので。

「退院したら真面目に講義に出ないと」

 マスターに頼めば、少しばかりは恩赦が貰えるだろうが、あまりにも贔屓をしては、他の学生に示しがつかない。しばらくは真面目な学生にならなければ。

「やっと、高校生って生活が出来るね。しかも私と付き合ってる幸福な男子として」

「ああ、そうだな‥。自慢できる美人な彼女だよ」

「素直でいいね♪」

 自分の容姿を理解して、自覚がある美人は恐ろしい。どの角度やどんな物言いが自分の美しさを最大限に引き出せるかよく知っている。しかも、俺しか知らない俺だけのカタリでいてくれる。幼馴染のカタリは、こんなにも可愛らしい。

「ねぇ!退院したらどこに行く?」

「ん?そうだな。取り敢えずは、マスターとマヤカ、それにエイルさんにロタに退院の挨拶を」

「真面目ぇ‥その時には、私も付き合ってあげる」

 カタリの望んだ答えは出せなかったようだが、ギリギリ及第点だったらしい。

「そろそろお昼だね。戻ろうっか」

「もうそんな時間か‥」

 リハビリ室の壁にかかった時計を見て見ると、もう11時半過ぎだった。朝から続けていた結果、リハビリをもう3時間近くやっていた。

 カタリの指示により、車椅子を押すようにして廊下を歩く。自分の足を動かす必要はあるが、体重移動がまだ満足に出来ないので、これが最善という事だった。

「患者さん、少ないね」

「マキトが暴れた所為か?」

 帰り道で何度か顔を合わせた患者のひとりを見つけるが、それ以外誰もいない。一度に退院した訳ではなさそうなので、皆部屋に引きこもっているようだった。

「こんにちは。お加減どうですか?」

「ん?全然平気ですよ~」

 受付前の休憩エリアのソファーに座りながら、どこか間の抜け返事をしてくれるこの人は、俺よりも長く入院している学生だった。恐らく同じ高等部。

「はじめまして」

「はい、はじめまして~。あ、この方ですか?リヒトさんの彼女さんは~」

「そうです。彼女のカタリです」

 普段は人間嫌いだから挨拶程度しかしないのに、彼女かと訊かれたら、胸を張って肯定した。

「今日は患者の数が少ないですね。何かあったんですか?」

「え~と、病院側から必要最低限での退出しか、現在認めないって告知があったんですよ。知りませんでしたか?」

「‥‥知りませんでした」

「ふふ、ダメですよ。しっかり確認しないと」

 この人からしっかりと確認という言葉が出るとは思わなかった。ただ、長い茶髪をかけ上げて先輩らしく注意してくるが、それもどこかのほほんとした雰囲気だった。

「先輩は大丈夫なんですか?」

「私、明日には退院なので、ここでお世話になった方々にお礼をと思いまして~」

「あ、すみません。じゃあ、俺もう行きますね」

「ごめんなさい、お話できなくて。外で会ったらまたお話ししましょうね」

 カタリとふたりで軽く頭を下げて離れるが、「あ、待って」と止められる。振り返ると先輩が、胸に手を当てて困った顔をしていた。

「私、先輩じゃなくて高等部一年なの」

 と割と驚く事実を告げてきた。




「ありえない‥‥私よりも大人っぽい同学年がいたなんて」

 まるで自分が大人っぽいと言わんばかりの言い方だった。詳しく聞くと銀拳が炸裂するので、言わないが。

「それで、あの人とはどういう関係?」

「どうって、ただの入院仲間だよ。それ以外、ていうか名前だって知らないのに」

「そうなの?」

「聞く必要もなかったし、どうでもいいかなって?」

「‥‥前から思ってたけど、リヒトもリヒトで人間に興味がないね」

 ベットに上がって、カタリの言葉を首をふって否定する。

「人間に興味がないんじゃない。人間が嫌いなんだ。ただの暇つぶしだよ」

 実際、病院内にもう少し娯楽があれば、あの人ともろくに話さないで終わっただろう。

「それより、院内での徘徊制限って、やっぱりアイツの所為だよな?」

「でしょうね。でなければ、魔道を志す者に命令なんてしないし従わないでしょうね。自分達よりも危険な奴が入り込んだから、部屋にいろって正直に言ってるのが、効いてるみたい」

 当のマキトは既に逮捕済みなので、意味はないかもしれないが、避難訓練の一環とすれば、価値はあるかもしれない。

「やっぱり、何人か斬ったのか‥」

「気にしても仕方ないでしょう。それに、もうリヒトには関係ないんだし」

「‥‥それもそうだな」

 窓から外を眺めて一息つくと、ワゴンの車輪と扉をたたく音がしてくる。俺の代わりにカタリがワゴンを中に引き入れて、エイルさんこと女医さんがベット机に食器を置いてくれる。

「‥‥健康的な顔付きになりましたね。リハビリはどうでしたか?」

「余裕です!」

「それは何より、何かと言うと酸素マスクを手に取ろうとするぐらいには、余裕なようですね」

 見られていたようだ。

「カタリさん、あまりに甘やかさないように、それと同じく無理もさせないように」

「はい。任せて下さい」

「では、お願いします。失礼」

 短い受け答えの後、エイルさんは部屋から出て行ってしまった。

「知り合ったのか?」

「これだけふたりでリヒトの世話をしてるんだから」

「それもそうか」

 俺の担当医とカタリであれば、知り合うタイミングなどいくらでもあっただろう。それにカタリが度々持ってくる薬を、エイルさんは何も言わないで投与してくれる。もしかしたら、カタリと一緒に薬を精製しているのかもしれない。

「ひとりで食べれる?」

「もう出来るよ。箸だって持ち上げられる」

「そっか。じゃあ、ひとりで食べ終わったら褒めてあげる」

 そう言ってカタリは自身の昼は取らずに、座りながら、にやけて見つめてくる。

「その‥食べにくいんだけど‥外で食べてきてくれないか?」

 箸をおいてカタリに懇願するが、首を振ってしないと伝えてくる。

「どうしたの?食べていいんだよ」

「食べにくいって‥‥じゃあ、食べさせて」

 箸をカタリに渡して言って見ると、待っていたといった感じに箸で固形物になった米をつまんでくる。

「最初からそう言えばよかったのに、素直じゃないね」

 リハビリで疲れ切った俺に、カタリは嬉々としてイジメを再開してきた。



「そろそろ帰らないと」

 リハビリ終了後、カタリとテレビを見たりして遊んでいたら、時間がだいぶ経っていた。

「もう少し」

「私と一緒にいたいのはわかるけど、あんまりいると怒られるの」

 俺の着替えを取り出した事で、軽くなったボストンバッグを持ち上げたカタリと、別れと再会の口付けをする。

「じゃあ、また明日。何か必要になったら、言ってね」

「またな」

 帰るカタリの背中が消えるまで、見つめる。ひとりになった部屋は静まり返り、テレビの音以外、何も聞こえない。そのテレビの音だって、どこか寂し気だ。

「寂しいのは、俺の方か」

 あとを追いかければ、まだカタリはいるだろうが、わがまま過ぎるのも考え物だと、我ながら思う。だから、我慢する。我慢したいが。

「これもリハビリだ」

 ベットから起き上がって、杖を掴み、松葉杖を脇に挟んで床に足を付ける。疲れてはいるが、歩き方を思い出したというのがいい方向にあるらしい。歩行に不快感はない。

「急がないと」

 転ばない程度の早足で部屋から出る。夕飯前、消灯前な事もあり、俺以外の入院患者がお手洗いやシャワーに赴く為、廊下を徘徊している。

 急いでこの階の受付、エレベーター前に移動すると、扉の前にカタリが立っていた。声をかけて、カタリの後ろに付くと、振り返ってくれる。

「ん?ふふ、そんなに私といたい?」

 ボストンバッグを肩に下げているカタリが、指で頬を突いてくる。

「あんまり人前で私が好きって宣言しないでね。私、人目に付くのが好きじゃないから」

 エレベーター前にいるのは、俺とカタリだけだが、受付のソファーには数人の患者がいる。俺が追いかけて来た時よりも、カタリの勝利宣言の方が人目に付いた。

「外まで送るよ。リハビリとして」

「なに?リハビリがなかったら、追いかけてくれないの?」

「リハビリがなかったら、カタリを帰さなかったよ」

「い、言うじゃん‥。私だって、病院じゃなかったら、ずっと一緒に」

 エレベーターの扉が開いたので、カタリを連れて中に入る。言い終わる前に手を引いた為、頬を膨らませて不機嫌を伝えてくる。

「俺だってそうだ。退院できれば、早くカタリを一緒に暮らしたい。だけど、もうしばらく出来そうにないんだ」

「‥‥ごめんね」

「いいさ。カタリが連れ戻してくれたから、こうして一緒にエレベーターに乗れる。全部、俺が招いた事だから。それに、楽しみを我慢するのは、嫌いじゃない」

「‥‥ねぇ、ベット、ひとつでいいかな?」

 ボストンバッグを抱えて、カタリが聞いてくる。自身を大人っぽいと思っているカタリだが、この行動は、どう見ても幼馴染のカタリだった。何も変わらない。

「大きいサイズがあったら、それでいいよ」

「じゃあ、勝手に選んじゃうから。いいね?」

「いいぞ」

「‥‥じゃあ、そうする」

 上目遣いのカタリが、絞り出すように声を出す。だけど、急にボストンバッグで顔を隠してくる。

「‥‥でも、もう少し、このドキドキを感じてたいの‥。だから、まだ一緒のベットじゃなくて、リヒトが私のベットに来て。いつでも、受け入れてあげるから――」

 思わずエレベーターの壁に押し付けてしまった。ボストンバッグ越しのカタリの背中と腰を抱いて、上から見つめる。

「リヒト、大人の顔してる‥」

「子供っぽい顔が好き?」

「‥‥どっちも好き。リヒトが好き‥」

「俺も、カタリが好き」

 ボストンバッグを落としたカタリと目を閉じるが、急にエレベーターから異音がした。

「なに?」

 二人で天井を見つめる。その瞬間、白いライトが消えて、赤い非常用照明が付く。

「停電‥」

 口の中で呟いて、エレベーターの非常事態を知らせるボタンを探して押すが、通信が返ってこない。それどころか、無線を繋げる音さえ聞こえない。

 しかも、狼の遠吠えが聞こえた。

「マヤカの‥!!」

「ああ、あの狼だ」

 スマホを取り出して、マヤカに連絡をする。

「今どこ?」

「病院のエレベーターだ!マヤカは?」

「今そこに向かってる。5分で着くから待ってて」

 真上から音がした。完全に、重量を持った何かが落ちてきた。しかも、天井のふたをこじ開けようとひっかく音が聞こえる。

「狼は今どこに?」

「玄関近くで、人の形をした何かと戦闘中。そこのは私じゃない」

「‥‥俺とカタリで始末をする。マヤカはそいつらをどうにかしてくれ」

「わかった。終わったら、すぐ向かう」

 人の形をした何かとはなんなのか。しかも、あの狼が戦闘中と言った。まともな敵では歯牙にもかけない筈の狼がだ。あまり、悠長にしていられない。しかも、

「私達が目的‥?」

「可能性はあるけど、まだわからない。だから、吐かせればいい」

 真上からの音がエレベーター内に響く。響きが強くなるにつれて、揺れも強くなる。入ってくる寸前だった。

「リヒトは盾を作って、私が仕留める」

 カタリがボストンバッグから取り出したのは、銀の短剣。赤い光の中である所為で、刀身が赤に染まっているが、影の部分は黒に染まっているので、銀とわかった。

 言われた通り、カタリと俺の真上に傘のような水晶の盾を造り出す。降りてくる敵を盾ごと刺し貫く態勢を取るべく、カタリはしゃがみ込む。

「来る‥っ!!」

 全身のバネを使って、傘の真上に降ってきた敵に刀身を突き入れる。

 降ってきたのは黒い防弾服を着た人間の形をしたもの。カタリの銀の短剣は、傘を貫き、敵の腹を貫いた。だが、血が流れてこない。

「人じゃない!!」

 であるならば、容赦の必要はない。

 傘の先端、石突きの部分を鋭く伸ばす。天井に張り付かせた襲撃者にカタリは短剣を振り、腰から下を切り落としてくる。だが―――まだ、動いた。

 振ってきた下半身が蠢く。カタリがうめき声を上げて、床に銀の短剣で腿を刺し貫き縫い止めるが、なおも動いている。しかも、天井のそれもまだ手を伸ばしてくる。

「なんなの、一体‥?」

 下半身から離れるべく、壁に背を付けて嘆いてくる。

「これ、もしかしてアンデット‥」

「死体操りは禁止されてる。だけど、そうとしか見えないか‥」

 今も蠢いている下半身に、水晶の杖で服の一部を脱がすが、暗いうえ赤い光の所為で正直見えない。だが、腐乱臭はしない。

「‥‥スマホあっただろう。貸して」

 カタリからスマホを借りて、下半身を調べる。だが、一目でわかった。

「植物?」

「生命の樹、ではないみたいだけど」

 蔦や枝が絡んで、身体を造り出していた。カタリの斬撃や水晶の刺突が効かない理由がこれだった。ただ、今も蠢いているそれは植物というよりも、無脊椎動物のようだった。

「マヤカに連絡してくれ。俺はもう少し調べたい」

「う、よく触れるね」

「代わるか?」

「絶対、無理!!」

 俺の手からスマホを奪い取ったカタリは、蠢く下半身が見えないように背中を向けてくる。なので、遠慮なく分解する。

 蔦の種類は正直言ってわからない。だが、日本の建築物に巻き付いているような細い代物じゃない。熱帯のアマゾンや無人島に生息している鞭のようなものだった。

 防弾服をまとっている身体の表面は、蔦で出来た蛇腹状の肌。だが、身体の中身は葉や固い枝ばかり。恐らくこれらで骨を形作っている。教授の巨人とは若干違う。あれは樹で筋肉を造り出していたが、こちらは皮と骨だけ。省力化でも目指したいるのか?

「面白い‥」

「よくそれに、そんな感想言えるね‥」

「カタリも見ろよ。絶対面白いぞ」

「無理だって!!絶対見せないでよ!!見せたら、怒るからね!!」

 との事なので、分解していた身体の中身を戻して立ち上がる。

「マヤカはなんだって?」

「マヤカも面白そうだって‥できれば持ってきて欲しいみたい」

「なら、エレベーターを動かしてもらわないと。俺じゃあ、登れそうにない」

 穴の開いた天井を見つめる。ひと一人分が降りてきたので、人が通るには十分な大きさだった。試しにカタリを見つめると、全力で顔を振ってくる。

「それもそうだな。危ないし。外はどうなってるって?」

「病院中にこんな感じのがうろついてるみたい。だけど、まぁ、皆ただの人間じゃないから、どうにかなってるみたい」

「なら、これは陽動か」

「うん、私もそうもう。だけど、玄関も対処しないといけないみたい」

「無視できる戦力じゃないか‥」

 壁に背中を付けて、滑って座る。少し疲れてしまった。

「これ、先生が言ってた錬金術師かな?」

「多分だけど」

 スマホをしまったカタリが隣に座ってくるが、天井の上半身に床の下半身、しかもこの状況では遊ぶ気にはなれない。

「折角ふたりきりなのにね」

「流石にこれじゃあ‥」

 足で下半身を蹴って見ると、思い出したように動き出す。それがあまりにも非人間的である意味生々しい。死にかけの虫のようだった。

「疲れたでしょう。膝、使っていいよ。昔みたいに」

 伸ばした膝を叩いくるので、遠慮なく頭を預ける。柔らかい筋肉を包んだ張り付くような脂肪と肌が心地いい。しかも、カタリの甘い香りも楽しめる。

「でも、寝ちゃダメだからね」

「こんな状況で眠れる奴がいたら、会ってみたい。それより空腹」

「まだ食べてなかったね」

 寝返りを打ってカタリの腹部、制服に顔をうずめてみる。微かに鼻で笑うカタリの声が聞こえたが、何も言わないで頭を撫でてくれる。

「‥‥ねぇ、やっぱり、これさ」

「‥‥ああ、陽動にしろ、それは手段だ。確実に俺狙いだろう。—――人間は、やっぱり勝手か」

 病院中を徘徊しているこれは、この樹人達がその身も顧みず、あの狼を相手にしているから侵入が可能となった。しかし、このエレベーターに侵入してきた奴は、紛れもなく、俺を狙ってきた。いつから付けられていたか、いつからエレベーターの上にいたか知らないが、俺が乗ってきた時を狙って電源を落とした。それが事実だろう。

「人間‥人間人間人間!!!クソが!!テメェで俺を作っておいて!!?今更なんの用だ!?」

「落ち着いて、ここにその人間はいないから」

 カタリの香りとカタリの手によって、獣に寄っていた心が収まっていく。

「‥‥かっこ悪いよ、俺‥」

「いいよ。それに、私に甘えてくるリヒトも好きだし」

「‥俺も、甘えさせてくれるカタリが好き」

 膝の上で目を閉じる。カタリの背中に手を回して、身体に顔を固定する。

 また鼻で笑ったカタリは、本当にあやすように肩を優しく叩き続けてくれる。いつまた敵が来るかわからないここで、こんなに心休まる事はないだろう。




 数分の間、カタリと共にエレベーターで過ごしていると、下層から轟音が吹き上げてきた。十中八九、樹の巨人だ。そして、同時にカタリのスマホが鳴り響く。

「‥‥わかった」

 スマホに耳をつけて数秒で、カタリが答えた。

「マヤカからの連絡、お願いって」

「わかった」

 カタリから立ち上がって、天井を見つめた時、エレベーターが復旧する。

「上に運ぶから、屋上から撃ち落としてだって。今の身体で、使えるの?」

「同じ病院の敷地なんだ。距離だって、100m前後だろう?」

「うんん。病院から離れて今は行政地区で戦闘中だって。病院を守る為に引き離したらしいの」

 あの巨人が、病院から離れた?俺を始末するなり、誘拐するなりが目的であれば、それが達成するまで場を離れる事はない筈だ。本当に陽動だったすれば、何かしら邪魔になる機関を直接叩く気か?しかも、今真下から響いた咆哮は一体。

「少し狙いが外れるかもしれない」

「人にさえ当たらなければ、いいんじゃない?」

「それもそうか」

 エレベーターが、ボタンを押した通りに上へ上へと俺とカタリを移動させる。

 やる事は決まっている。けれど、頭の中をまだ疑問が渦巻いている。機関を直接襲う作戦に変更したのなら、マヤカが認めた腕の持ち主たちが黙っていない。しかも、そんな作戦変更をするのなら、当初から機関を襲えばいい。敵の考えが読めない。

「難しい顔してないで、やる事を思い出して」

「‥‥わかった」

 心を落ち着ける。放てるのは一度だけ。もし外せば、無理にでも巨人は逃げるだろう。しかも、再装填には時間がかかる。しかも、まずあり得ないが、杖が焼き尽きる可能性もある。

 エレベーターに運ばれていく。向かう先は闘技場などではない。だが、安全な狙撃ポイントでもない。魔に連なる者にとって、視界に入る地点はそのまま間合いとなる。いや、現代では、我らに限った話でもないか。

「屋上へ狙撃してくる可能性は?」

「この病院を狙撃できる地点は、全部機関が見張ってる。例外はないって」

「頼もしい。嫌味じゃないぞ?」

 気圧が変わった。到着したらしく、扉が開かれる。

 病院の屋上は、庭園となっている。涼やかな噴水や花香る庭。その上ベンチや自販機。噴水を中央とした花々と草木をかき分けて、遠くにある行政区、機関本部を見据える。

「あれか‥」

 見えたのは樹の巨人。機関本部の高層ビル群の中間広場で狼に肩を噛みつかれている光景が見えた。その周りから俺を捕えようとした鎖が数百本、束となった状態で巨人の首や腕に巻き付けている。だが、それも一瞬の内に、破壊される。

「あれも、生命の樹かな‥?」

「教授の館で量産されていたのは、全部焼き尽くした。まぁ、別にもあったって言われたら、それまでだけど」

 風を全身で浴びる。冷たい夜風も、夏の気候に近づきつつある庭園では、むしろ足りないと感じる。

「マヤカ以外も殺すか」

「ダメだから。乗らないからね?本気だったでしょう」

「当然」

「なら、絶対ダメ。いい?」

「‥‥仕方ないか。わかったよ」

 杖を持ち上げる。造り出すは水晶の槍、被せるは神の血を通した身体の一部。

 造形制作開始――全長3m—―神の血を崩壊寸前まで注入。どうせ、一撃だけしか放てない。壊れても構わない。むしろ壊さなければ、巨人殺しは望めない。

「俺は五つも石など持ってない。だが、剣と杖は持っている」

 羊飼いダビデは川の石と投石器、そして杖しか持っていなかったという。使い慣れない鎧や剣は歩けぬからと断ったからだ。だが、ダビデには力があった。それは投石器を使える腕力だけではない。イスラエルの戦列の神の加護。

「奇遇だよな。実は、俺にも加護がある。悪いが、人間程度の崇める神なんて低俗な概念じゃない。実在する破壊と創生の神だ」

 右腕を水晶で強化。ただし、腕力を上げる為ではない。

 右腕部補強―――不足、現時点では損傷の可能性80%――補強の追加。発射と共にパージ――さもなければ、水晶の崩壊の右腕まで巻き込まれる。

 槍の完成—―対象硬度—―仮定完了――他天体惑星――是、星穿つ神の槍なり――腕部の限界を確認、発射のカウント開始。神の血の最終注入—―同時並列、開始。

「巨人の匂いは覚えたか?なら、いいさ。確実に破壊する」

 この杖は、既に一度巨人を交戦してる。ならば、狙いを外す筈がない。

「俺の白い方。どうか、ご賢覧あれ、これが俺の本気だ‥」

 媒体の赤熱限界――発射を開始。



「もう少し頑張って‥!」

 私の狼が首に噛みつき、地面に引きずり倒す。そこに方々から鎖や槍、人の形をした騎士が殺到する。騎士の手に持つ武具の数々が巨人の肉体に突き刺さる。かに見えた。

「これが、生命の樹なの‥こんな硬度を、彼は打ち破った‥」

 樹の巨人の振るった腕に武具は勿論、騎士の身体は投げ飛ばされ、上半身が消え去る個体すら現れる。ただの術式でなければ、中身を晒していただろう。

「ダメ、逃げて」

 狼のゴーレムに命令して、巨人から飛び退かせる。その瞬間、首に噛みついていた狼が離れ、床のタイルが拳の形に打ち砕かれる。狼は威嚇こそするが、完全にその牙が届かぬと証明してしまった。機関の人間が、この光景に絶望したのがわかる。

「彼はいつ来るんだ!?まだ来ないのか!?」

「さぁ?」

 前にリヒトの背中に出血の一撃を加えた愚か者が、嘆いてくる。彼がいつか来てくれる。それだけでも感謝すべきなのに、先ほどからこればかりだ。

「死にたくなければ、巨人の邪魔を続けて。彼にしろ、白紙部門にしろ、まだまだ時間がかかる」

「白紙部門もまだ来ないのか!?」

「館での探索に支障を起こしたらしいから、まだ来ない」

 これも作戦だったのか。何を切っ掛けに始めたのかは知らないが、巨人がどこからか現れて病院に一撃を加えた。そして、私の狼が命令通りに迎撃を始めた。

「もしかして、私の子が?でも、その前にリヒトから連絡が、それに樹人達の襲撃が始まった。どの程度まで戦力を出すかを測ってる?」

 だとすれば、この状況こそ。何者かの目的。

「‥‥今は退く訳にはいかない」

 今も巨人は狼や周りの機関の面々を追いかけまわしている。今のところ凌げていると言えるかもしれないが、それももう少しで瓦解する。狼の敗北を切っ掛けにして。

「もう少し牙を長くしないと。それこそ神でも噛み千切れるくらい」

「何ぶつくさ言ってるんだ!?お前、オーダーなんだろう!?」

「機関の所属であるあなたが、オーダーに今更頼るの?あなたみたいな機関の恥さらしはいらない。誰に取り入ったかは知らないけど、生き残ったら、消えて」

「ふ、ふざけるな!!俺は機関に――」

 思わず足が出てしまった。数舜遅ければ、巨人に踏みつぶされていた。

 後方に大きく跳び、狼に受け止めさせる。そして入れ替わるように飛び出させ、腕を噛みつかせて、もう一度床に倒れ込ませる。

「腕力は拮抗してる。だけど、重量がまるで違う。やはり牙が必要ね」

 その瞬間、今度は破壊は諦めて、床に縫い付ける為の鎖が床のタイルから出現する。いまだにアレを捕える事が出来ると、機関の数人が思っているらしい。

「今だ!!何してる!?早くお前も拘束を!!」

「逃げて」

 遅かった。腕に巻き付いた鎖を床から引きちぎり、鎖が消える寸前にそれを振り下ろす。鎖は鞭のようにしなり、見覚えがないし、どうでもいい機関の一員らしき男性を捉える。だけど、死人が出ては、後々面倒だった。

「そのまま伏せていて」

 狼に鎖の一撃を防がせる為、真上に被せる。真上にいる狼に下敷きにされて、絶叫を上げるが、やはりどうでもいい。ただただ不快。

「このままじゃあ、いつか‥」

 いつまでもこの拮抗が続くとは思えない。もし続いたとしても、いつまで待てば終わるのか。やはり、彼が放つまで待つしかない。そう思っていたが、それは違った。

「全員、巨人から離れて」

 私よりも格上の人間にもそう言う。そして、それを聞いた瞬間、あの一撃を知っている人間から背中を見せて全力で逃げ去る。何も知らない素人は、それを見て自分もようやく逃げ始める。

「彼か?」

「はい、そろそろ来ます」

「‥‥また、借りを作ってしまったのか」

 騎士の姿を作り出していた私の元上司が、心底申し訳なさそうに言ってくる。

「あなたは対人専門です。彼だって、その事は知っている」

「だとしたら、それがせめてもの救いだ。私は部署室に戻る。始末書はこちらで用意しておくから、君は彼へ」

「‥‥もう部下でもない私の為に、ありがとうございます」

「構わない。私こそ、結局何も出来なくてすまなかった。妹さん方の事、祈っている」

「‥‥ありがとうございます」

 騎士を消し去り、本部に戻っていく。余裕のある人間から消え去り、もう一度見たい者は遠目から眺め始める。

「まだ巨人はいるのですよ!?一体どうしたんですか!?」

「ん、ああ、お前は知らないのか。外からの人間だったな」

 戻る上司の背中に、狼に救われた恥さらしが絶叫を上げて聞き出すが、返ってきたのは溜息ひとつだった。

「聞いた事はないか?リヒト君の話を」

「あんなガキが、今更なんだって言うんですか!?神獣なんて、どうせ嘘」

「なら、あの巨人の袂に戻るがいい。その身を以って、自覚するだろう」

 長い白いローブを揺らして、今度こそビルに消えてしまった。

 その瞬間、病院に星が生まれる。

 眩いでは、言い表せない七色の光線。それが屋上を中央に幾重にも伸びて、まるでオーロラのような現象を造り出す。それが回転し、光の渦、銀河が生まれる。

「逃げて、死にたくないでしょう?」

 狼の背に乗り、遠くに逃げる。逃げ遅れた数人がようやく危険な状況だとわかったらしく、転び、転がりなら逃げていく。その光景を見て、機関が敗北したと思ったのか、巨人は咆哮を上げて勝利の雄叫びを上げる。

「知らないのね。彼の主は、可哀そうに」

 狼の背の上で、見届ける。そして聞き届ける。銀河が空へ登り、同時に轟音を上げてオーロラの爆発を造り出す。見渡す限りの空に波紋を造り、一点だけの星を残す。

「そろそろ‥」

 星が巨大化する。だけど、それは違う。星が近付いてくるが正解。だけど、彼はあれを決して星とは言わなかった。

「星を撃ち落とす。それが、彼の研究テーマ」

 あれはその過程で生まれてしまった失敗作。彼はそう言っていた。だけど、それを聞いて、私をはじめとするあの場の誰もが、皆、彼に殺意を抱いた。

「星を落とすなら、もう完成しているのに、なんて‥‥欲張り」




 巨人の真上から光が降り注いだ。ただし落ちたのはただ一つの水晶の槍だけ。だが、光の奔流を引き連れて落ちてきたそれは、決して星などではなかった。

「竜の息吹か‥映像で残ってるなんて、なんて幸福な事だ‥」

 まだ何も到達していない時に、床のタイルが剥離、浮き上がる。そしてあまりの圧力に巨人は膝をつき、肉体が焼かれ続ける。可哀想だ。そう思ってしまった。

 単純な破壊力で言えば、完全に水晶の神獣となった息吹にも匹敵する一撃だと目算した。到達した槍は巨人の頭蓋を貫き、跡を引く竜の息吹で残りの身体を焼き尽くす。そして、最後に来る星をも打ち砕く衝撃で、残りの骨を粉々に粉砕、更に焼き尽くす。

「都市伝説の話だが、宇宙ステーションや人工天体からの大陸破壊兵器があれば、このような感じなのだろうね。最新の世代は、最新の兵器にも匹敵するか、ふふ、危険な可愛い弟子だ。ふふふ‥」

 人間嫌いと言っていたが、この一撃は人間が求めた究極の一射だ。だからこそ、人間は彼を求めるのもしれない。自らの夢を叶えてくれる神獣など、喉から飛び出る気分で、手元に置きたいだろう。事実、私もそのひとりの訳だし。

「外様のオーダーにすら危機感を抱かせた一撃。確かに、これならイミナが知らないのもわかる。こんなオーダー街を一方的に破壊し尽くせる一撃など、秘密裏にするしかない。—―ふふふ‥まだまだ、私達も知らない事があるようだな」

 目頭を押さえて、強すぎる光を一度防ぐ。

「しかし‥あの化け物に、どこまで通じるか‥全く‥今回の獣達は、度し難い」





「これ」

「これ‥なに?」

「あなたが破壊した窓や車両、そして逃げ遅れた人間達の治療費。けど、人間達については、どうでもいい。逃げ遅れた人達が悪い」

 見せつけられたのは書類束とは言い難い、書類山だった。

「人間社会は面倒だ。助けてやったのに、送ってくるのは文句ばかり。やっぱり、諸共に殺しつくすべきだった‥。それで、どれから目を通せばいい?」

「いいえ、これは私の元上司が終わらせてくれた。それで、身体は?」

「見ての通り、上々だよ」

 震える足で立ち上がって強気に振る舞ってみる。体力こそ使い果たしていたが、何もかも使い尽くした身体は、思いの外、悪くなかった。その代償として、また点滴生活に逆戻りになってしまったが。

「‥よく頑張ったのね。座って」

「もう少し頑張れる」

「そういう所が男の子。私の言う事を聞いて」

 こちら以上に強気なマヤカに従い、ベットに腰をかける。その瞬間、足に血が急激に通い、痺れを感じる。しかも、それが全身に伝わっていく。

「あなたが無理する時、いつも出る癖がある。私を騙す事は出来ないって思って」

「どんな癖?」

「秘密。私だけの秘密」

 マヤカに肩を押されて、ベットに倒れ込む。隣に座ったマヤカが手を握って見下ろしてくる。本当に、神か何かに手ずから作り上げられたのかと思う程、整った顔立ち。細い黒目を見ていると、吸い込まれそうな感覚に陥る。

「制服、気にいったのか?」

「‥‥これも秘密。私みたいな先輩がいたら、嬉しい?」

「嬉しいし、毎日、先輩の元に通うよ。誰にも取られないように」

「嬉しい‥。また、無理をさせてしまったのね」

 握っている手とは別の手で、頬を撫でてくれる。

「私が元気な姿を見せてっていったのに、ごめんなさい。私ばかり、あなたに無理をさせてる」

「マヤカだって無理してるだろう。俺がこうして自由でいられるのは、マヤカが何かしてるからだ。きっと、俺じゃあ、想像もつかない事をしてる。違うか?」

「‥‥やっぱり、あなたは私には優しい。そんなに私に夢中?」

「知らなかったのか?ずっと前からそうだよ」

「そうね、今更ね」

 ふたりで笑い合って、手を握り合う。冷たい、けれど、何度も俺を撫でてくれた優しい手。それに、俺を慰めてくれた愛おしい手。

「でも、約束を果たしてないから、ご褒美はあげない。だけど、褒めてあげる。よく頑張った。あなたのお陰で私はこうして生きてる」

「俺の事、好きになってくれた?もう男の子じゃない?」

「いいえ、まだまだあなたは男の子。だけど、一歩だけ、大人になった。保証してあげる。あなたはまた凛々しくなった」

 無理してマヤカを迎え入れてよかった。使い果たした体力の残りをかき集めて保っていた意識が刈り取られる。死んだように眠る。それはこの場に限り、比喩ではないのが、自覚出来た。

 



「ちゃんと見てたよ」

 海から引き揚げられた時、そう言われた。濡れている訳ではないが、思わず頭を振ってしまう。

「あんな事が出来たんだね」

「格好良かったですか?」

「うん!流石、私の眷属!!」

 砂浜から起き上がった俺の腰に腕を回して、胸に頬をこすり付けてくれる。だけど、違和感がある。何故だろうか。前に抱きつかれた時よりも、背が高く‥。

「大きくなりました?」

「気付いてくれた?嬉しい!!」

「わかりますよ。ずっと一緒にいたんですから」

 白い方の背中に手を回して、つむじに口付けをする。

「だけど、成長って思ったより難しいかも」

「そうなんですか?あなたは、世界を作ってるのに」

「う~ん、あなた好みの成長をする為に、自分を作ってるんだけど‥。思ったようにいかなくて」

 離れた白い方は、自身の下腹部から胸当たりを撫で上げるようにして、体型を見せつけてくる。それは、まだ少女のあどけなさを残してこそいるが、大人の色香を含み始めた美しいS字だった。しかも、俺の好みを知って成長しているのは、本当らしく、胸部がカタリ、ロタ並み、だが今はマヤカ未満となっている。マスターには遠く及ばない。

「あなたの言った通り、色んな世界の料理を見ながら、色んな人も見てきたの。だから、この身体は色んな世界を参考にした身体。どう、私、可愛い?」

「はい、紛れもなく可愛いです。それに、美しい。俺が保証します」

「やった!!」

 褒められた嬉しさと共に、ご褒美を求めて両腕を伸ばしてくる。望まれるままに、白い方に跪き、腰の下に腕を回して持ち上げる。腕に腰をかけた我が白い神は、満面の笑みで膝をばたつかせてくる。

 この美しさは世界規模のミロのヴィーナスのようだ。

「上から見下ろすのって、好きなの」

「ははは‥あなたには、それが相応しい‥」

 この方の正体や喰らった神の姿など、俺にはもはや知る由もないが、この方以上に、この言動が似合う存在は、ほとんどいないだろう。

 しかし、しかしだ。この腕に乗せられている臀部が、腕に沈み込む感触の所為で、気が気でない。その上、下から見上げると、下着をしないで白いワンピースのような出で立ちの白い方の胸部の所為で、顔が見えない。締め付けるものがないと、ここまで自由に揺れるものなのか‥。

「どうしたの?ずっと黙ってる」

「いいえ、思わず見惚れていました」

「姿を褒められるのも、嫌いじゃない!!」

 変わらず足をばたつかせて、笑ってくれる。しかも、頬に手を伸ばしてくれる。

 更に変わらないものがあった。この白い手だ。恐怖と怒りで狂った俺を、何度も鎮めてくれた。

「あ、そうだ。忘れる前にあなたとお話したいの」

 肩を叩いてくる合図に従って、白い方を降ろす。小さい足跡を水晶の砂浜に残して、海へと駆けるように離れていく。後を追って、海に足首から下を浸し、背中を見つめる。

「前にあなたに食べてもらったもの。覚えてる?」

「はい、勿論」

「あれ、結局使わなかったね」

「‥‥すみません。怒っていますか」

 白い方を背中から抱きしめて、顔を覗き込むと、隙を突かれ、唇を舌で舐められた。

「うんん、全然。むしろ、私はあなたに謝らないといけないの」

 腕の中で振り返った白い方は、背伸びをして耳に噛みついてくる。

「私は、あなたも、あのふたりも侮ってた。私の手助けがなくても、あなた達は強い縁で結ばれていた」

「‥‥そうかもしれません。だけど、あなたがいないと俺は向こうには戻れなかった」

 逃げないように、腕で固く身体を縛り付ける。

「俺は、結局、自分ひとりじゃあ、何も出来ないんです。あなたの果実に、カタリの薬、マヤカの鎖。それにマスター達、人外。俺はどこまで行っても、運命には逆らえない」

 ずっとそうだ。どれだけ逃げても、どれだけ力を付けても、まるで世界には歯が立たない。逆に、歯向かおうとすればするほど、世界は俺に牙を剥いた。

「人間の世界は、いつでも俺の敵でした。だから俺、あなたに感謝してます。人間から生まれ変わらせてくれて。新しい役目をくれて」

「‥‥これも運命。世界がそう望んだから。そう言ったら、あなたは怒る?」

「まさか。だけど、それは否定します。あなたが運命と世界如きに屈する筈がない」

「‥‥うん。私は世界の力程度に負けない。私は世界を選べる。だけど、あなたはずっと世界の敵となるのね‥」

 少しだけ大人びた声で、耳元で囁いてくれる。

「ごめんね。私が面白がって、あなたを私の端末にしたから。あなたの行く末を決めてしまった。私は、この世界の主。私の意思は世界の意思。やっぱり、あなたは世界に勝手に決められてしまうのね」

 頭の何処かで感じていた。俺は、どこの世界からも消耗品として使われる。人間の世界からは、苗床として。この世界から求められた役割は、ただの話し相手だった。

 きっと、この運命は変わらない。俺は、どこまでも何者かのルールに縛られる。

「私と接続した事、後悔していない?間違ったって、思ってない?」

 心配だから聞いているんじゃない。不安だから聞き返しているのではない。ただの疑問として、俺の意思を聞いている。それに、この方はわかっている。俺の答えを。

「いいえ。後悔なんてしていません。俺には、選択肢が無かったとしても、あなたと繋がった事、間違ったなんて思っていません。あなたのお陰で俺はここで生きている。人間の皮だって被れている。これは本心です。俺はあなたに仕えて、良かった」

「うん‥うん。なら、決めた」

 もう一度腕を叩いて来るが、無視すると、微かに笑って耳から歯を外してくれる。

「本当は、あなたに宿したふたつの力、ここで返してもらう気だったけど、上げるね」

「いいんですか?」

「あなたの言う通り、あなたは世界の決める運命には逆らえない。なら、少しだけルール違反をしても、良いって思うの。あなたばかり枷に縛られては、つまらない。こんな理不尽、私だって許せない。あなたは私の眷属。どうか、世界に負けないで」

 急に体重をかけてくる。だけど、成長したとは言え、細い身体。余裕で受け止められる。だけど、それが想像と違ったようで、不満そうに頬を膨らませる。

「むぅ‥私には押し倒されないの?」

「どこでそんな言葉を覚えたか知りませんが、俺は経験者です。そうそう負けませんよ」

「私の方が格上なのに!!」

 文句を言いながら、身体を無自覚にこすり付けてくる。この無邪気で、わがままな肉体のアンバランスさには、大人しく従うしかない。

「勝った!!」

 腰の上に座っての勝利宣言。楽し気で、妖艶。何から何まで、虜となる要素しかない。

「どう?私、人間の大人っぽい?」

「‥‥いいえ、いいえ。まだまだ女の子です」

 そうか。わかった気がする。俺はいつまでもマヤカやマスターから男の子と言われる理由が。

「だけど、俺もまだまだ男の子です」

 言われるのがわかっていたような余裕の笑みだった。最初に会った時よりも、ずっと優し気な顔。ここで共に、どれだけの時間を過ごしたか、もはや思い出せない。

 だけど、覚えている事もある。この方は、とてもつまらないそうだった。自分以外の存在など、なんとも思っていない。それこそ、つまらない存在がいる世界は喰らうレベルで。

「ふたつの力はゆっくりとあなたの中で溶けている。遠くない内に、あなたの中で目覚める。ゆっくり使いこなして。私は、あのヒトみたいにせっかちじゃないの」

「あのヒト?」

 聞き返してしまった時、白い方も無自覚だったのか、口を押えて周りを見渡す。

「‥‥よかった。聞かれてなかった」

「前に言っていた怖いヒトですか?」

「ダメーー!!」

 口を抑えられる。俺を抑えながら、再度周りを見渡すが、安堵感は感じないらしい。

「あのヒト、本当に怖いの。あなたの事は秘密にしてるから、絶対に言っちゃダメ‥」

「‥‥わかりました」

 一体何をされたのか。憎しみや怒りなどではなく、心底恐怖を感じているようだ。

「‥‥もしよかったら、俺が喰らってきますよ」

「ぜ、絶対ダメ!!また叱られちゃう!!」

 叱る、という単語がどういう意味かはわからないが、相当怖いらしいのは、よくわかった。もしかして、本当叱られるのが怖いのだろうか。

「何をされたんですか?」

「‥‥怒られた」

「具体的には」

「たまたま、ここにあのヒトが来て、お腹空いてから、ちょっとだけかじろうとしたんだけど。‥‥勝手に食べてはいけませんって、座らされて、叱られた」

 この方を座らせられたのも相当だが、大人しくそれに従わせられる程の力を持ったそのヒトは、確実に俺では牙が立たないだろう。そして、一抹の不安を感じた。

「‥‥もし、そのヒトに叱られなかったら、俺はどうなってました?」

「ん?勿論、食べてた」

「‥‥降りて、座って下さい」

「え!?なんで!?」

 我が白い神は、海の中で腰を浸けながら大人しく正座をしてくれた。どうやら怒られたのは一回だけではないらしく、正座をして怒られ待ちをしているその姿は、堂に入っていた。



「マキトが逃げた?」

「そう。逃げられた。やっぱり、あれは陽動だったみたい」

 寝起きの頭を叩き起こすには、十分な事実だった。

「ていうかアイツ、昨晩どこにいたんだ?」

「この病院で検査入院していた。あなたの言う通り、何かしらの暗示をかけられている可能性を考えて、その是非を調べていた。魔術的な暗示や薬物による幻覚。それと精神の洗脳。考えられる全ての可能性を調べ上げていた所、昨晩の襲撃が起こった」

 マヤカ曰く、昨日のあれは間違いなく襲撃の様相を呈していたらしい。襲撃は玄関は勿論、各階の窓からも。狼を通して見ていたらしく、この場にいたように話してくれる。

「最初はあの巨人、いなかったのか?」

「そう。だから私の子と数人の機関の人間だけで済んでいた。入院患者や病院の職員も手助けしてくれたし。だけど、少し経った時、あの巨人が現れた」

 本当に気にいったのか。マヤカは制服姿で、窓を開けてくれる。しかも、これも気に入っているらしく、だいぶスカートが短い。日本人離れした長い足を余すことなく見せつけてくれる。

「マヤカって、ハーフなのか?」

「いいえ、私は純血。人間の血なんて、一滴も入ってない」

「‥‥そうだったか。ごめん」

「いいの。私に興味を持ってくれて、とても嬉しい。本当よ?」

 マヤカの生まれは一体どこなのか。気になるには、気になるが、もう聞く気にはならない。マヤカも俺の家の事を、詳しくは聞いてこない。だから、俺もそうする。

「話しを戻す。マキトを狙った襲撃って事でいいのか?」

「私も機関もそう思っている。そして、襲撃には目的がいくつかあった。ひとつは被疑者の奪取、もうひとつはその為の陽動。そして、どの程度まで機関やあなたが動くかの確認」

「どういう意味だ?」

「そうね‥。私の狼がこの病院を見張っていたのは、知っている?」

「ああ、覚えてる」

 窓を開けたマヤカが、ベットわきの椅子に座って外を眺める。

「狼に、命令していたのは、この病院が何者かに襲撃を受けたら、該当者を襲え」

 ゴーレムが出来る事はひとつだけ。しかし、そのひとつだけは、絶対的にやりきる。それこそ、運命のように。

 教授は骨のままの狼を術式として使っていたが、それは腕に絶対的な自信を持っていたからだ。術式であれだけの骨格を動かすには、電子顕微鏡レベルでしか発見できない隙間を、ひとつひとつ埋める必要がある。

「該当者って、襲った奴か?それとも、襲っている中の誰かか?」

「襲った対象全員」

 そこの線を越えた者を襲え。術式でそれをやると、埃や微生物、果ては命令した術者自身すら襲う。だから、同時に多くの命令を下さなければならない。しかも、一から全てを書き上げなければならない。しかし、ゴーレムは違う。

「だけど、例外も作った。巨人が現れたら、巨人を襲え」

 ゴーレムは身体のどこかに書かれた文字こそが命とさえ言われている。それが存在意義にして、自己の性能。この場合、「襲え」が命題。この行動だけは、何があろうが実行する。そして徹底した定義付けが可能な上、過去の力を持つ文字が使える。

「あの狼、マスターに手伝ってもらったって聞いたけど、文字はマスターが?」

「そう。マスターに指示してもらった。—―あの人の土地の文字。だから、この世界にある文字では、出せない性能をあの子は持ってる」

 ゴーレムの性能は文字に依存する。俺はゴーレムの技師ではないので、何故ゴーレムに使う文字がそれほどまでに重要なのか、正直理解していない部分がある。

 だけど、言霊というものがあるように、文字や名前には力がある。アルファベットの起源とも言われるルーン文字は、そのひと文字で意味を持つ。そして、それら意味や力を持つ文字を体現するからこそ、ゴーレムは強力なのかもしれない。

「じゃあ、あの狼が巨人を病院から引き離したのか?」

「‥‥最初はそう思った。だけど、本気で私達を襲ってくるようになった巨人を見てわかった。私達は踊らされただけ。機関の目を、全て病院以外から話す為に、移動しただけ」

「マキトを連れ去る為か」

 病院内にも、あの樹人を入れた理由がそれか。マキトの奪取をする途中で、邪魔をさせない為、患者を守る必要性を造り出した。

「だけど、例外もあった。あなたとカタリを襲った事。理由は私にはわからない。あなたは?」

「‥‥確かに。送り込んできたのは、一体だけだった。あれじゃあ、俺を仕留められない。それに、そばにカタリもいた。本当に、ただ俺を襲いたかっただけ。もしくは陽動に現実味を帯びさせる為か?」

「その可能性が一番高そう。カタリはあの襲撃者達の事、何か言ってた?」

「あー、昨日の樹が、相当不気味だったみたいで、結局一度も見なかった。そうだ、帰りはマヤカと一緒だったんだろう?マヤカは、何か言われなかったか?」

「いいえ。私にも似たような感じだった。そんなに不気味だったの?」

「確かに、あの狭い中で赤い光に照らされた下半身は、結構不気味だったかも」

「‥‥不思議。私だったら、ワクワクしそうなのに」

 意外、という程意外ではないが、やけに楽しそうな雰囲気を持ち始めた。

「ホラーとか、好きなのか?」

「そうかもしれない。それに、ああいったストーリーが意外と面白いの。ホラーっていうアクセントがある世界観が好きなのかも」

 魔に連なる者であろうと、怖いものは怖い。職種柄、ある意味ただの人では見れない事を見てこそいるが、それでもある一点を極めた人間の造り出すものは、感性に訴えかけるものがある。マヤカの場合、それがホラーのようだ。カタリも同様らしい。

「ホラーか‥確かに、昨日下の階から聞こえた声は、ホラーぽかったかも」

「それは私も話しだけは聞いたけど、あなたにも聞こえたのね。でも、不思議。もうその時には巨人はここにはいなかったのに。もしかして、もう一体いる?」

「なら、もう一回撃たないと」

「その時が来ても、あなたは休んでいていい。私の狼、少しだけ強くしたの」

「頼もしいけど、本当か?」

「本当。もう同じ失敗はしない。それに、あなたの杖も修復中だし」

 威力を求めた結果、力を出し過ぎて、杖が破損したらしい。そして、現在修復作業との事だった。ただ、それをどこで行っているのか、それは教えてくれない。

「そろそろ行かないと。もうゴールデンウイークも終わるし」

「え、もう終わるの?」

「知らなかった?今日で終わりよ」

 カタリが来なかった理由はそれか。明日の為に、講義の準備をしているのだろう。

 俺も、いい加減復帰しないと単位が危うい。留年などすれば、カタリに愛想を尽かされてしまう。

「やばいかも‥単位が‥」

「それなら心配ないとも」

 ノックなしに扉が開け放たれる。そこには、黒いローブを被った我がマスターが立っていた。

「私が個人授業をしにきたぞ!」

「病院ではお静かに」

 マスターの後ろを女医さんが通り過ぎながら、小声ながらよく聞こえる澄んだ声で言った。

「エイルは遊びがないな。では、静かにするとしよう。マヤカ君、交代だ」

「はい、彼の世話、お願いします」





「では、今回はゴーレムについて、講義をしよう。そもそもゴーレムとはなんだ?」

「はい、マスター。ゴーレムとは、人為的な自然現象の発生方法です」

「その通り。ゴーレムとは、まさしく自然現象そのもの。それを我らにも見える形で落とし込んだのがゴーレム、と言われている人形たち」

 ゴーレムは強力だ。忘れそうになっていたが、北欧の巨人族の骨などという神話の残り香そのものと正面から殺し合える存在など、まずいない。であれば、こちらも自然現象、過去に精霊とされてきた力で対処するしかない。

「我がリヒトよ。君はゴーレムと呼ばれているものを、ひとつは持っているか?」

「俺の杖が、それですけど、今手元にはありません。破損してしまったので、修理に出しているそうです」

「そうか。では、どこが破損したと思う?」

「十中八九、文字かと」

「私も同意見さ。あの杖は君の投擲に幾度となく耐えてきた。今更君の全力に素材が負ける筈がない。が、刻みつけられている文字は別だ。カタリ君から少し聞かせて貰ったが、君はこちらに戻ってきてから力が異質になったと聞いた。そうだな?」

「‥‥はい」

 正直にそう言ったら、満足そうに頷いてくれる。

「正直で結構。では続ける。ゴーレムの文字とは世界との契約だ。世界に、このゴーレムとはこういう存在だと認識させる意味を持つ。であるならば、元は帰ってくる前の君の為に作り出された文字では、変わってしまった君の力を御せなくて当然だ」

 カタリは、待っていたんだ。人間リヒトが帰ってくるのを。だけど、今は違う。

 もう俺を選んでくれた。その為に、新たにチューニングしている。

「ゴーレムとは、見た目以上に繊細な技術。一度作り出してしまえば、用途はひとつだけ。しかも、それ以外の使い方をしようにも、ゴーレムは反応しない。こういう言い方をすると、誰もが使えるただの術式の方が便利に見えるな。どう思うかな?」

「誰もが使えるでしょうが、それこそあの巨人を動かすには、一度巨人という生物や精霊の成り立ちを仮定し、矛盾なく運用できるように、骨の一本一本まで術式を刻まなければなりません」

「しかも、彼らの性能を復元できたとしても、それが我らにとって有意義かどうかは、一度動かさなければわからない。あの巨人を意のままに動かすには、彼らの出来る事を理解、骨格の一片にいたるまで、余すことなく意味を知らなければならない。そこから、巨大な人間として扱うか、それとも巨人は巨人として扱うかを決めなければならない」

 気の遠くなるような話だ。巨人の身体の理解など、現代で出来る人間は、ほぼいない。あの教授を除いて。あの巨人の骨は神々と争った巨人族のひとりして扱われていた。それどころか。

「あの教授はギガースとして操り、しかも、樹の巨人なんていう自分だけの新たな巨人族を作り上げていた。生命の樹による力なのでしょうが、それでも‥」

「惜しい人だ。だが、偉大な魔に連なる者とは往々にして、あのような終わりを迎えるのが世の常さ」

 なんでもない、ただの常識のように言った。魔に連なる者とは、基本的に常識から外れた狂人だ。そして、その中でも、狂人のルールにすら馴染めなかった魔人が、あの教授。魔に連なる者にとって、あれほど相応しい人物もいないだろうが、現代では違う。

「オーダーの取り仕切るこの世界、この街では、魔に連なる者にも秩序を求められる。一度混沌を知ってしまうと戻れないのだろうな。隠避するという当然の常識すら忘れて、オーダーに宣戦布告でもしてしまう程に」

「あの人の事、知っているんですか?」

「私だって教授のひとり。他学部であろうが、この学院を権威と言われた人間を知らない訳がないだろう。また忘れたな」

 腕を伸ばして頬を突いてくる。試しにそれを噛もうと口をずらすが、当然のように引き戻される。

「君にとって私は食料かなにかなのか?私を食べては、もう二度と手料理を食べれないようになってしまうぞ」

「‥‥でも、少しは反撃を」

「そういう所も、まだまだ男の子だな。いつか私が食べてしまうぞ?」

 足を組んで、舌なめずりをしてくるマスターに、見惚れていると、再度頬を突いてくる。

「君は本当にわかりやすい。わかりやすくて不安になってしまう程だ。そんなに可愛く私を夢中にさせてどうする気かな?そんなにまた攫って欲しいのかな?」

「その時は、食べ物の準備をお願いします」

「うむ。前言撤回だ。君の食費の事を、忘れていた。何も無くなれば、私の人間でも差し出さなければな」

「マスターひとりいれば、俺は充分です」

「実際に言われるまで、その言葉には意味がふたつあるなんて、知らなかったよ」




「よくこれだけで、君が満足するな。本当にこれだけか?」

「お陰で毎日空腹ですよ。マスターのお粥が恋しいです‥」

 ようやく塩気を感じる粥となってきた。だが、あまりにも無塩料理に慣れ過ぎて、この舌に感じる塩気は、もしや幻覚なのでは?と思ってしまう。

「まったく‥文句こそ多いわりに、退院する気がないように感じますが?」

「俺じゃなくて、オーダーとか機関に言って下さい」

「では、抗議文を双方に送っておきます」

 流れるように、冗談かどうかわからない事を言って、エイルさんは病室から出て行ってしまった。試しにマスターを見つめるが、マスターも首を振ってわからないと伝えてくる。

「すまないね。彼女も、気が立っているのだよ。再三この病院が襲撃を受けて、患者たる君や他の人間に頼ってしまい。時間があればエイルに感謝を伝えてくれないか?きっと喜んでくれる」

「‥‥俺、あの人の事よく知りませんが、それで喜ぶ人なんですか?」

「無論、本当は君が元気に退院する姿を見せるのが一番だが、患者からの感謝も、喜ぶ人だ。言葉を使って彼女を思いやってくれ。君の心配をしていたからな」

「‥‥そうですか。優しい人なんですね」

 俺はあの人の言いつけを、入院してからほぼ聞けていない。それどころか、何かあるたびに入院期間を伸ばしている。だが、感謝の言葉程度で、俺への心配が少しは減るのであれば、いくらでも声をかけよう。

「わかりました。毎朝、ちゃんと起きて、感謝を伝えます」

「ふふ‥きっと喜んでくれる」

 その為に、例え不味かろうが、病院食を残さず食べる必要がある。箸を掴み直し、やけに苦い野菜炒めに突撃する。これも自分の為、延いてはエイルさんの為。そう思って飲み込むが、不味い物は不味い。しかも固い。その上、不味い。

「ふふ、つらそうな顔だ。残念ながら、私はロタのように優しくないぞ。夢で酒など飲ませないからな」

「お酒じゃなくて、お粥が、鶏肉が‥」

「我慢したまえ」

 俺から箸を奪って、野菜をつまみ上げてくる。手を器のように差し出してくれるので、大人しく食べる。

「食べ終わったらリハビリをするとしようか。私にも、頑張っている姿を見せてくれないか?」

「‥‥頑張ったら、褒めてくれますか?」

「抱きしめて褒めてあげるよ。だから、早く食べきってしまわないか?」

 マスターの抱擁という何もの勝る甘い対価が待っているとわかり、急いでマスターの手で食事を続ける。最後に茶で胃袋に流し込んだが、口に残った野菜の苦みだけがいつまでもつづいた。

 


「それで、アイツが逃げたってどういう事ですか?」

「どうもこうもないとも。何者かの手によって、検査入院中の彼が逃げ出した。監視についていた機関の人間は、樹の襲撃者により、持ち場を離れてしまった。それだけだよ」

「‥‥役立たずが‥」

 踏み台の昇り降りを続けて、階段のテンポを取り戻す。

「そう言わないでやってくれ。彼らは患者の身の安全も守っていたのだぞ?まぁ、己が役目を果たせない以上、役立たずと言われても仕方ないがね」

 擁護とも言えない擁護をして、割と他人事のように言っている。

「マスターはいいんですか?被疑者が逃げ出したっていうのに」

「所詮、もはや何も出来ないただの脱走者だ。彼の資料を、マヤカ君に頼んでみせて貰ったが、あまりにも何も出来なくて、この街のどの学部からも受け入れられなかったらしいな」

「え、マキト、この街に来ようとしてたんですか?」

「そうらしいぞ。ただ、君やカタリ君と違い、自身の研究テーマは勿論、実力的にも何も基準に届いていなかった。可哀想だが、そういった秘境への進学が叶わない魔に連なる者とは、間々ある事だ。彼だけじゃない」

「‥‥知らなかった。俺は、魔に連なる者の家にさえ生まれれば」

「その無自覚さは敵を作るぞ。君は特別だ。自覚しなさい」

「はい、マスター‥」

 深呼吸をして次の踏板に足を伸ばす。骨が軋む感覚こそ薄れてきたが、次々と足を踏み出すという行為を、脳が処理できない。しかも、足に命令しても思うように動かない。水晶の方が大人しく従ってくれる。

「彼の事はこちらで処理、と言いたいが、恐らく君を狙ってくる」

「そうでしょうね‥」

「考えればいくらでも思いつく。剣を取り返す、君を超えて、今度こそ次期当主の収まる、ロタに選ばれて真の戦士となる」

「アイツには悪いけど、全部無理ですね。唯一、俺に届く剣だって手元にある」

 水晶に変えないが、左手を見つめてみる。使い方も知らないが、確実に俺の手にあの剣が埋まっている。欲しいならくれてやるが、また斬られては堪ったものではない。

「でも、マキトを無理にでも連れ出す必要があると思ったから、昨日の襲撃があった。なんでと思いますか?」

「‥‥それこそ、挙げればキリがない。だが、おおよその判断は付く」

 そろそろ休憩にしようと言ってベンチを叩いてくる。酸素マスクを受け取って点滴のスタンドを運び、マスターの隣に座る。

「彼の能力については、今更語る必要はない。知能についても同じだ。あの館の書物をあれだけ使い減らして、君達に傷ひとつ合わせられないんだ。はっきり言って彼からは将来性の欠片も感じない。別の道で開花するのを、待った方がいい」

 能力、知能、将来性。その三つとも魔に連なる者としての価値はない。それはわかっていた。だが、であるならば、マキトの価値であろうものが、限られてくる。

「それ以外、彼自身ではなく彼の近辺の方には価値がある。まず人脈、それに資金、または家での経験。まぁ、これもどこまで価値があるか。脱走犯、しかもオーダーや機関に追われている彼には、どれもこれも無い状態だ。ならば、ただひとつ」

「価値はない。だけど、知られてはマズイ事をマキトは知っている」

「それに限られる。マヤカ君から聞いたが、何かしらの暗示で夢と現実の区別がつかなくなっていたらしいな。君も見たのかい?」

「はい、見て話してきましたが、そう感じました。‥‥正気、ではなかった気がします。質問に答えてはならない。だったら、答えられては不味い事がある」

 恐らく、マキト自身はそれに気付いていない。何も知らないからこそ、ついうっかり口から零れてしまう可能性がある。マキトに暗示をかけた奴は、たぶん地下で話した生命の樹に半生をかけたと言った、あの甲高い声の男。

「‥‥そうか。生命の樹を」

「何か、思い出したか?」

「マキトに暗示をかけたのは、生命の樹の技術者。だったら、樹を使ったかもしれません」

 マスターはなる程と呟いて、自身の首に手を当てる。マスターにも、思う所があるのか、考えているというよりも、ゆっくりと思い出している様子だった。

「生命の樹を乱用か‥これが現代であってよかったよ。もし、何も規制がない混沌とした時代であったなら、魔に連なる者の歴史が変わっていた所だ。いや、これは混沌の時代への幕開けかもしれないか」

 長い金髪をなびかせて立ち上がったマスターは、ローブを翻して振りむいてくる。

「やはり、君は我ら魔に連なる者の歴史の分岐点に立っているようだね。もし、捧げられたのが君でなければ、帰ってくる事も、あの教授に勝利する事さえ出来なかっただろう」

「‥‥でも、マスターなら」

「私はどこまで言っても外部監査科。機関でさえ、オーダーでさえ、それに人間の世界でさ他人だ。私が下すのは人形のみ。君は例外だがね、私のリヒト」

 滑らかな金髪を手に取って、差し出してくる。マスターの髪を受け取り、頬に付けて目をつぶる。取っ掛かりひとつない、人間の物とは思えない作りもののような肌触り。

「マスターは、つらくないんですか‥。俺は居場所が無かったから、ここまで逃げたのに‥。人間の事なんて無視して大切な人の元に、行こうとは思わないんですか‥」

 鼻で笑われた。だけど、髪はそのままに頭を撫でてくれる。

「居場所を探すのは、もう飽きたんだ。追いかけるのもね。それに居場所を探す事よりも、居場所を守る事の方が、今は大切でね。私の愛しいリヒト、どうか君は自由でいてくれ。居場所などいつでも作れる。だけど、君の自由はいつ奪われるかわからないんだ」

「‥‥俺の居場所はマスターの隣です。俺は自由でマスターの隣にいます」

 髪を離し立ち上がってマスターに抱きつく。いくら体重をかけても、受け止めてくれる。頭から背中にかけて、手を伸ばして撫でてくれる。

「俺は魔に連なる者です。だけど、人間ではありません。人間の歴史など、知った事じゃありません」

 何か言われる前に、腰に回した腕に力を込める。

「それでも歴史の分岐点なんかに、俺が立っているなら、俺は自分の為に今後の歴史を食い潰します。人間の歴史など、知った事じゃありません」

 どこまで行っても、人間は俺を利用しかしてこない。しかも役に立たないと思ったら排除しようとしてきた。危険だと思ったら、怪我人であろうが、襲い掛かってきた。

「人間は俺の事なんて、何も考えてない。だから、俺も人間の事なんて無視します。ただの消耗品、量産品どもの歴史なんて、どうでもいい‥」

 嘘偽りない、本当の言葉だった。別の種族である人間の事など、俺が知る筈がない。ただただ、人間は俺の敵。それだけだった。

「困ったよ‥。どうにか、君を人間世界でも生きていられるように育てるつもりだったが、それは無理そうだ――それでいい」

 撫でている手を頭に付けて、胸に引き込んでくれる。

「自由に生きていいなどと言って、すまなかった。君に生き方を押し付けていたのは、私自身だったのね。無理やり人間世界に追い込んで、ごめんなさい」

 マスターのローブで呼吸をする。息苦しさこそ感じるが、不快感など欠片もない。

「ひとりは嫌だ。君はいつも言っていたのにね。君は、ひとりでは生きられない弱い子だ―――共に考えよう。私の隣にいたいのなら、何も言うまい。どうか、私を君の居場所にしなさい。私も、君の隣を守ろう」

 



「マスター」

「ふたりきりなのだ。ヘルヤと呼び捨てでも構わないよ。お望みなら、ヘルヤ様でもいいぞ?」

「‥‥ヘルヤ様」

 その瞬間、口を塞がれて微かに笑いながら首を振ってくる。

「今のはいけない。ああ、いけないとも。そんなに私を年下好きにしてどうする気かね?君が16歳だからいいが、それより下だった場合、私はこの世界でいうところの異常者になってしまう。私を誘惑するのも程々にしなさい。マスターからの命令だ」

 矢継ぎ早に紡がれる我がマスターの言葉は、それだけでマスターは異常者だと証明しているようだった。そして同時に気になった。マスターのこの身体は、一体いくつなのか。

「マスター、マスターと俺はそれほど離れていません。決して異常者などでは」

「10は離れていると言っただろう?十分離れて‥‥いや、10程度なら、些事ではないか?いやあの子と同年代の子に、この気持ちを持っている時点で‥‥」

 なにやらマスターは遠い彼方へと思考を飛ばし始めたようだ。いくら待っていても、帰ってこない。そんな混乱中のマスターを眺めていると、扉が叩かれる。

 ワゴンの音がするので、確認もしないで許可を出すと担当医さんが入ってくる。

「エイルさん、我がマスターは一体何をお考えで?」

 視線でそれを示すが、眉間に指を当てたままのマスターは、まだ帰ってこない。

「はて?私には如何ともしがたい思考実験です。私にもあなたにも、どうでもいい事ですよ」

 ステンレスのワゴンで運ばれてきたのは、やはり粥だった。しかも無塩そのもの。濃い味付けが好みの訳ではないが、それでもこうも無塩無塩では、血圧が足りなくなるのでは?

「そろそろ醤油などは‥‥」

「カタリさんが用意している薬には、私も関わっています。よって、あの薬の効果を阻害しないように献立を立てている訳です。文句を言わずに食べなさい」

「‥‥はい、先生」

「‥‥ヘルヤの悩みがわかった気がします」

 呟いた言葉の意味を理解する前にエイルさんは出て行こうとするので、慌てて声をかける。

「全部食べて、またリハビリに行きます。だから夕飯もお願いします。早く杖なしで歩けるように頑張ります」

「—――では、カロリーがあるものを用意しましょう」




「おお‥‥」

 肉がある。小さいベーコンだが、畑の肉などではない。まごう事なく、食肉だった。箸でつまんで口に入れると、塩気を感じた。その上、胡椒か何かで焼かれているのか、歯応えがある上、味付けもされている。

「‥‥エイル様‥‥」

「餌付けでもしている気分になってきました。食器はそのままで」

 相変わらずのクールさで、病室から出て行ってしまった。シャワー終わりの身体で、肉も食べれる。マスターの部屋で生活していた時と同じ事が出来ただけで、こうまで感動できるものなのか。

「言っただろう?エイルは、頑張る患者には優しいのだよ」

 汚れていたらしい唇を、マスター自身の力で編んだ布で拭いてくれる。これぐらいは出来る。そう言おうとしても、強気な笑顔は変えずに拭き続けてくる。

「まだまだ君は男の子なんだ。大人しくしなさい」

「俺は、まだまだ頑張れます」

「ひとりでシャワーひとつ浴びれない君が言うのかな?君の仕事は、リハビリだ。それが終わったら、このマスターに頼りなさい」

 マヤカとは比にならないレベルで、シャワーの世話になってしまった。着替えから湯あみまで、何から何まで手伝ってもらった。だが、マスターには、散々肌を見せているので、今更気恥ずかしさは感じなくなっていた。

「マキト、彼の情報が入ってきた」

「どこですか?屋上から消し炭にしてきます。食事が終わったら」

「では、その食事で山ひとつ消せるカロリーを造りなさい」

「‥‥余裕です」

「冗談に聞こえない冗談は、言うべきではないぞ」

 髪をかき上げて、真面目な表情で言うマスターは、美しかった。

「北部区画。覚えているな?私が君を迎えにいった場所を」

「‥‥なんで今更、それにあそこはもう機関の管轄でしょう?」

「いいや、今あそこに踏み込めるのは、私と君、それとごく限られた人員のみ」

「どういう意味ですか?」

 箸をおいて、真剣に聞き返す。オーダーと機関の縄張り的な意味であれば、面倒だ。もしくは別の意味、例えば、あそこにあった星の結晶が原因であったならば、それはそれで面倒くさい。しかも、後ろめたい事もある。

「君が暴れたお陰で、今あそこは封鎖されている。それに君自身は知らないだろうが、機関を始めとするあらゆる組織、オーダーも含めてが、今もあそこに星の結晶があると思っている。ふふ‥さて、どうする?」

「‥‥俺と一緒に逃げましょう」

「それはそれで楽しそうだが、却下とする」

 別にバレた所で、誰からも咎められない。咎めてきたら皆殺しにするが、カタリやマヤカがそれで不利益を被るとしたら、面白くない。

「‥‥で、俺はどうすれば?」

「私と一緒にあの地下施設の捜査。結晶については、どうにかするさ。そこは心配しなくていい。無論、私の言う事を聞けばだがね」

「それはいいですが、どうやってあそこに?それに目撃情報って、どこから?」

「さっき言った通り、あの地下施設は限られた人員しか入れない。彼がどうやって入ったかは現在わからない。先に言っておく、あの列車での侵入は、本来の行き方ではない。おそらく正式な入口から入ったのだろう」

 そうか。マヤカに連れられて行った事しかなかったが、確かにあれは機関の保持する列車だから可能な荒技だ。恐らく、マスターの言う通り、正式な入り方がある。

「それと、目撃情報だが、単純に北部区画で彼らしき人物を機関の人間が発見したというだけだ。目下のところ探索を続けているが、どこにもいない。よって、この仕事は私の個人的な推測さ」

 マスターの考えは正しいとわかる。カタリと話し合った、異端の技術である生命の樹の量産や研究が可能な施設など、あそこ以外ないだろう。見落としていた。

「よって、明日君と私で、秘密裏にあの施設に向かう。準備をしておきなさい」

「わかりました。出発はここから?」

 椅子から立ち上がったマスターは、変更がなければここだ、と言って上から見下ろしてくる。やはり、俺よりも高い背だからか、威圧感がある。

「それと、ここ最近の状況を鑑みて、機関の人間やオーダーの人間が、ここに常駐する事となった。端的に言えば、君が退院するまで、ここは騒がしくなるが、我慢してくれよ」

「信用に値する連中ですか?俺の気に障る事があったら、殺しますよ」

「ふふふ‥少なくとも、君よりは弱いが、まぁ、信用していい人間達だ」

「期待しないでおきます」

 






「やぁ、よく眠れたかい?」

 マスターの声が聞こえる。だけど、腕の中に暖かい布団がある所為で、なかなか起きる気にならない。それに、頭を抱いてくれている。ゆっくりとした心音が安心感と同時に、蠱惑的で中毒的な惰眠を貪らせてくる。

「そうか、そうか‥。あれだけ昨日私に甘えておいて、これか。ふふふ‥」

 マスターの声以外にも、耳元から聞こえてくる。鈴を転がすような、甘い囁き。このまま眠ってしまいましょう。そんな声が聞こえる。

「私との約束はどうする気かな?北部区画の地下に行くと言っただろう?」

「この方は、このまま私と溶け合うのです。この身体と、元の身体を差異を調べるのに、丁度良いかと‥外も中も‥」

「—――北部区画での仕事を終えれば、私の粥を振る舞うぞ」

「はい、マスター。もう行きますか?」

 ロタの腕から脱出して、起き上がる。横になったままのロタが、マスターと俺を恨めしそうに見てくる。

「いいや、まずは朝食の時間だ。エイルがそろそろ来る。ロタ、エイルが来る前に一度隠れた方がいいぞ」

「‥‥では、そうします。リヒト、あとで続けましょうね」

 制服のスカートとYシャツだけとなっていたロタは、椅子にかけてあったブレザーを掴んで病室から出て行った。その後ろ姿を見ていたマスターは、溜息ひとつ。

「一体いつ忍び込んだのか。エイルが全力で力を使っているというのに‥‥まぁ、いいさ」

 黒髪ではなく、金髪のマスターは椅子に座り、病院着の崩れている俺の世話を始めてくれる。肩やボタンを直し終わった時、丁度エイルさんが入ってくるので、朝の挨拶と共に。

「ちょっと外に出てきますけど、戻ってきたらリハビリをします」

「そう。それは結構」

 やはり、変わらずの冷徹感で出て行ってしまった。

「怒ってますよね‥」

「ふふ、そう思うかね?大丈夫、いずれわかる」

 マスターは、箸を掴んで朝食の米をつまんでくる。驚いた。ついに米に変わっていた。しかも、だいぶ薄いが醤油らしきものが、豆腐にかかっている。

「マスター!塩があります!!」

「‥‥塩だけで驚くか。いつかの人間はスパイスで感動したと聞いたが――それほどまでに、ここでの減塩生活が苦しかったか‥。退院したら、何か作ってあげよう」

 遠い目をしながら、マスターは米を食べさせてくれる。噛みしめて、米の味を楽しんでいると、マスターは袖で目元を拭き始めた。

「どうされましたか?マスター」

「いいや‥‥いいや‥‥遠慮せずに食べるといい。私は、眺めているだけで十分さ」

 マスターが微笑みを湛えていると、ロタが戻ってきた。マスターの様子に、ロタは一瞬驚いた顔をしたが、俺の顔を見た瞬間、ロタもロタで微笑んでくれる。

「ヘルヤ様、このロタも感動しています。食事とは、こうまで‥‥」

「ああ、ロタ。食事とは、これほどまでに重要だったのだな‥」

 しばらくマスターの手から食事を楽しんでいると、思い出したようにマスターがスマホを見せてくれる。

「マキト‥」

「ああ、間違いなく。ロタと君がそう言うのなら、恐らく正しいのだろう」

 箸をロタに渡して、食事当番が交代する。

「ロタ、もうひとりで食べれるから」

「私とこの人を区別する気ですか?いいから、食べて下さい」

「‥‥わかった。頼むよ」

 マスターと同じぐらい強気さで、食べさせてくれる。もう腕も動かせるのだから、今更誰かに手伝ってもらう必要はないのに。それにロタという同級生に世話をされると、気恥ずかしさを感じてしまう。

「ロタも、一緒に来るのか?」

「誤魔化してますね。はい、私もお付き合いさせてもらいます。多少ですが、私にも責任はありますし。それに、私もあの顔には、恨みがあります」

「—――痛くなかったか?」

「‥‥少しだけ」

 マキトにはたかれた頬をさすって、伏し目がちなる。だけど、すぐにロタは笑い出した。

「嘘です。あの程度で痛がるほど、私は人間みたいに脆弱ではありません。しかし、怒りは覚えます。少しだけですけどね」

 マスターに視線を移すと、頷いて返してくれた。少しだけではなく、大分怒っているらしい。しかも、握っている箸が震え始める。

「そ、そういえば。箸、使えるんだな。すごいじゃないか」

「あ、やっと言ってくれましたね。私、努力したんですよ」

 少し慣れなさそうだが、手の中で箸を動かすロタは、どこか自慢気だ。

「マスターから?」

「いいえ、人間の映像で勉強しました。PCとは便利ですね」

 これも人間社会を勉強するという事か。確かにパソコンひとつあれば、現代社会を学ぶ事が可能だろう。だが、一体だれが買い与えたのだろうか。疑問は尽きない。

「食事と着替えが終わったら、すぐに出発だ。今の写真は、夜明けのものだが、今もいるという確信がある訳ではないのでね」

「写真はマキトだけですか?」

「ああ、そうらしい。まぁ、その写真は機関の人間が渡してきたものなので、彼らが繋がっていないと言えない訳だがね」

「‥‥人間って、面倒ですね」

「違いない。では、私は準備とエイルに話しがある。終わったらロタと共に来なさい」

 本来、ロタも敵であったのに、ここ何回かふたりきりにされる。それほどまでにロタは安全な性格なのか。一番最初は、槍を向けられたのに。

「ロタ」

「添い寝ですか?」

「‥それは、また今度‥。それより、ロタはいいのか?一時だけど使命に」

「私は、あの人に止められなかったら、ひとりで復讐に行ってました。むしろ私から志願したんですよ。せめて、一度でいいから殴らせてくれと。わかりましたか?」

「‥‥頼もしいよ」

「任せて下さい。私、戦士でも勇士でもない、ただの人間には決して負けませんから」

 心の底から憎んでいるらしく、握っている箸が折れそうになっていた。




「もう車椅子はいいんですか?」

「今の所な。それに今日は調子がいいから、平気だ」

 杖と松葉杖こそ使っているが、列車にもひとりで乗れた。階段は使っていないが、エレベーターにもひとり立ち続けられた。

「何度か危うい場面があっただろう。ロタ、彼は危なくなったら容赦なく私達に抱きつく気だ。心の準備を」

「‥‥なるほど」

 あまり仲が良いとは言い難い筈だった二人だが、こういう時だけ、手と取り合ってくる。

「向こうには誰かいるんですか?」

「いいや、誰もいない筈だ。だから、目に付く動くもの全てが敵さ。因みにだが、写真を送ってきた機関の人間も、既に退避している。遠慮なく暴れたまえ」

 敵がマキトだけという話ではないが、仮にあの甲高い声の男がいたとしても、問題ないだろう。姿こそ見たことはない筈だが、確実に技術者。戦闘とは畑違いだろう。

「本来、私と君で探すつもりだったが、三人もいるんだ。ひとりは列車の護衛に回す事にした。私がここで待っているから、君とロタが彼を探しなさい」

「構いませんが、いいんですか?俺、また落盤でも起こすかもしれませんよ」

「君はそんな事をしないさ。私は、信じてる。ふふ‥」

 卑怯だ。そんな事を言われては、大人しくするしかないじゃないか。

「それに、彼は剣の腕以外、特に何も持っていないと調べが付いている。新たな武器を持っている可能性もあるが、君とロタなら問題ないだろう」

 元気づけられているような、体よく利用されているような、そんな気分だが、仕方ない。事実、マキトを仕留めるのを他人に任せるのは嫌だった。

 慣れてきた列車の振動に揺られながら、待っていると、あのレイラインではなかった。窓の光景が変わったのがわかり、外を眺めると、白い廊下が映っていた。

「毎回あのレイラインの上では危険なのでね。手を施して直接乗り込めるようにした。これは秘密だ。誰にも言わないように」

 列車の扉が開かれ、ロタと共に降りると、そこは確かにあの地下施設だった。マスターに連れられた白い廊下はそのままで、列車とは別の壁にはあの休憩室があった。

「マスター」

 振り返ってマスターに呼びかけようとしたが、そこはもうただの壁だった。

「大丈夫、すぐそばにいるとも」

「‥‥わかりました」

 廊下に響く声に返事をしていると、ロタが手を握ってくる。

「少し話しがあります。どこか休める場所はありませんか?」

「なら、そこにあるから、少し話そう」

 マスターの溜息が聞こえるが、現場にいるのは俺とロタなので、無視してあの休憩室に入る。俺が破壊した自販機は撤去されていたが、椅子と机はそのままだった。もしかしたら、捜査をしている機関の人間が使っているのかもしれない。

「話って、マキトの事か?」

「いいえ。あなたの事です」

 予想外の答えに首を捻る。

「あの男、マキトという人間が言っていました。あなたは、彼を恐れて逃げた。あなたは卑怯者だと。しかも、この街に来る権利すら、あなたに奪われたと」

「言いたい放題だな。それ、信じてるのか?」

「私は片方の言い分しか聞いていないので、なんとも言えません。違うのですね?」

「大部分は、はっきりと言える。違う。だけど、逃げたって話は、合ってる」

 ロタは、未だ自身の使命から抜け出せないでいる。そもそも抜け出す気などないのかもしれない。自身の使命を忘れれば、忌み嫌うただの人間になってしまうから。

「あなたは、戦士ではない。無論人間でもない。だけど、逃げた臆病者には手を貸せません」

「それが、ロタの誇りか?」

「はい。だから、どうかあなたを誇らせて下さい。あなたを選んだ私を、誇らせて」

 椅子に体重をかけて、天井を見つめる。

「俺の家は、本来ひとりの子供しか育てないんだ」

「一子相伝の秘儀や受け継ぐべき家宝があるのですね」

「ああ。たぶん、魔に連なる者の家なら、大方そうだ。だけど、俺の家は伝えるとか受け継がせるとか、そういう話じゃない。ひとりの子しか、そもそも育てないんだ。俺は元は別の家に引き渡されて、お互いの血を絶やさないようにする道具だったんだ。だけど、届けられる筈だった家は消えた」

「消えた?抗争か何かですか?」

「わからない。そこに、俺の両親も先に言って挨拶とかしてたらしいんだけど、みんな消えた。俺だけ生き残ったんだ。最後の日は、カタリと過ごしたいから、最後まで家に残ってた」

 何が起こったのかわからなかった。カタリと共に過ごし、一緒に夜明けを見た日、最後の別れと再会を誓った日に、全てが変わった。

「だけど、俺が家を出る日に、爺さんから家に残れって言われたんだ。そこからだ。俺が家から逃げ出したくなったのは」

「なぜですか?家に、カタリさんと共にいたかったのでは?」

「‥‥俺達、魔に連なる者の家は血統が尊重される。それに、偉大な親の存在と繋がりも。自慢じゃないけど、いい両親だったよ。本当に、大事に俺を育ててくれた」

「‥‥親が消えたから、あなたは家での居場所を無くしたんですね」

「‥‥ああ、元々、親がいてくれたから、俺は居場所があった。親父とマキトの父は兄弟。本来なら、兄であるマキトの親がとっくに家督を継ぐ筈だったけど、親父は偉大な人だったんだ。力を持った分家とかから、親父を後継者に、家主にすべきだって推す声が多かったらしいんだ」

 弟の方が、魔に連なる者の世界で開花してしまい。マキトの親は表側、政治の世界で生きる事にした。だけど、いくつになっても、マキトの親は後継者を諦める事が出来なかった。

「そんな親父が消えて、母さんも消えた。後継者はマキトの親しか継ぐ者がいなくなったんだ。酷い扱いだった‥昨日まで、俺の家だった場所が、マキトの物になって、俺の‥俺の大事にしてた物とか、全部目の前で砕かれた‥」

 カタリとの思いで、両親との最後の記憶。それを形にした品々。全部、燃やされた。

「‥‥その日食べる物とか、全部消えた。どうにか爺さんのいる家のお手伝いさんから食事をもらってたけど、数日で、貰えなくなった。俺、まだ10にもいってなかったのに‥全部自分で用意しろって」

「‥‥そうですか」

「ああ、風呂だってそうだ。寝る場所だって、どこにもなかった――」

「では、カタリさんに」

「‥‥あんな格好悪い事見せられるかよ。着る服すらないんだ。寝る所も、本家の納屋だぞ。—―あんな無様、見せられる訳ないだろう。‥‥でも、見つかった」

 数年続けてはいたが、ついに隠し通せなくなった。俺の様子がおかしいとわかったカタリに跡を付けられた。その結果、あの物置暮らしが見つかってしまった。

「では、カタリさんの家に保護は?」

「されなかった。俺とカタリの家って、あんまり仲が良くないんだ。それに、カタリに納屋暮らしが知られた日に、カタリの事がマキトの親に知られた。決して、カタリに助けを求めるなって、言われたんだ‥」

 反抗できる訳がない。親父と同い年ぐらいの大人で、あの家の次期後継者で、昨日まで味方だったお手伝いさんからも、無視されるようになった。まだ子供だった俺が、そんな力を持った人に、反抗できる訳ない。

「だから、逃げ出した」

「—―カタリさんと」

「そう。カタリと一緒に。カタリと一緒に、この術を作ってな」

 白い機関のローブの腕を巻くって水晶の肌を見せる。

「この秘境には一芸が必要だって、カタリから聞いて二人で作ったんだ。カタリの家の家宝を使って」


「家宝‥そうですか。それは、魔に連なる者の家宝の力」

 今思えば、だいぶ危険な事をしている。魔に連なる者と錬金術師の家に育てられたふたりだとしても、子供が二人で、国レベルで危険指定される代物を使い、自己の身体を造り変えるという自殺行為どころか、人間じゃない何かを生み出してしまう手術を秘密裏に行っていた。成功したのは、奇跡だっただろう。

「言っとくけど、全部家宝のお陰じゃない。カタリの薬に、俺の身体、それと家宝の術式。これでも、貴族の身体だからな。並みの人間の性能じゃないんだぞ」

 肌を水晶から人間の物に変える。これはカタリの薬を使って全身に刻み付けた術式の力。汎用的でゴーレムとは違う、広い力。だけど、ゴーレム以上の性能を出せる。

「つらくはなかったのですか?身体を別の物に変えるなんて。あなたは、まだ人間だったのに」

「あの家から抜け出せるなら、軽いものだよ」

 心底そう思う。死ぬ気はなかった。だけど、あそこで死ねれば、どれだけ楽だったっだろうか。だけど、カタリはそれを許してくれなかった。

「それに、カタリの腕は当時から一流だったんだ。死ぬほど苦い薬も飲まされたけど、その分、効果もあった。まぁ、流石に三回連続で気絶したのは、つらかったけど」

 だけど、カタリの薬によって苦しむなら、安いものだった。あの卑怯者達の手によって受ける痛みとは比べ物にならないくらい、楽しかった。

「何度もカタリに泣きついたよ。もう少し、それこそ砂糖とか入れてくれないかって。全力で拒否された。ここに砂糖なんて入れたら、飲んだ瞬間、胸が爆発するって」

「冗談では、なさそうですね」

「多分だけど。まぁ、苦しんだ甲斐があったよ。これを見せた瞬間、即合格。カタリも同じだった。あんまりにも肩透かしだから、魔に連なる者の家出身って言えば、誰でも合格するのかと思ったぐらいだ」

 だけど、それは違ったようだ。マキトもどうやら受験していたらしいが、不合格だったとマスターは言っていた。

「多分だけど、街に来る権利って、俺が勝手に受験して受かったのが悔しかったんだろうな。自分の枠が無くなったのは俺の所為って。あいつが受けたのなんて、少なくとも、俺が受ける二年は前なのに。これも多分だけど、あの剣術を見せたんだと思う」

「‥‥あの剣術は、館にあった書物の力を借りたからです。彼はどれほどの使い手だったんですか?」

「俺と五回やって一回、あいつは」

「負ける?」

「まさか、四回負けたんだよ。あの家から逃げる前に、分家とか集めての試合があったんだ、魔に連なる者の腕と単純な剣術を使っての。もう身体とか、模擬刃刀を水晶にする術も持ってたから、見せつけてやった。そしたら、最初は三本勝負だったのに、アイツの両親が五回勝負だって、マキトが二回連続で負けた時に言い出して」

 ロタが無表情のまま震え始めた。目の浮かぶのだろう。無様に年下の男の子に負けたマキトを庇って一方的なルール変更をしてきた。

「それでそれで?」

「あいつ、手加減したとか花を持たせたとか言って、次からは本気だとか言ってきたんだけど、また二回連続で負けたんだ。最初はさ、俺もまだ何か隠し持ってるんだとか、思ってたんだけど、四回勝ってわかったんだ。本当に何も持ってないんだなって」

 次期後継者の息子を、分家や繋がりを持った貴族の家の人間の前で、叩きのめした。誘う動き以外での反撃を一切許さない、模擬刃刀と水晶の剣の二刀持ちで勝ち続けた。忘れていた、二本なんてずるいと言ったのは、あの時を思い出したからか。

「清々しかったよ。昨日まで俺を俗物として扱ってた家の人間どもが俺にタオルとか水を渡してくるんだ。もう俺は明日にはいないのに、次期後継者はあなたしかいないって言って。本当に、楽しかった。カタリとここにくる列車に車が。一緒に遊んで、一緒に眠って、一緒に‥抱き合って」

 早めの入学は少しだけ寒かった。だけど、カタリの体温は、温かかった。

「だからさ。やっぱり、俺は逃げたんだ」

 負け犬と言われたが、事実そうなのだろう。自分がやった事の責任を取らず、なにひとつ弁解をしないで逃げ去った。期待という名の呪いや重りを、全て捨て去った。

「いいえ‥いいえ」

「ロタ?」

 急に頭を振って、何かを否定してくる。

「あなたは、逃げたんじゃない。飛び立ったんです。足ばかり引っ張りあう汚い人間の檻から飛び立った勇者」

「‥‥そう言ってくれるのか」

「はい、あなたはやはり凡人共の中にいるべきじゃなかった。人間だった頃のあなたは紛れもなく勇者。私の勇者様です」

 面と向かって言われると、少しにやけてしまう。「そういう所が男の子」と指を差されて言われてしまい、反撃のつもりで手を取って頬に付ける。

「でも、もう俺は人間じゃないぞ。そんな俺でも選んでくれるか?誇ってくれるのか?」

「勿論。それに、私は元々人間が嫌いです。私が選んだあなたが人間でないのなら、これほど誇らしい事もありません。私は、私の感性を誇れます」

 救われたような笑顔を向けてくるロタが、頬を撫でてくれる。その顔は、ロタは嫌がるだろうが、それでも思ってしまった。俺のマスターのような、優しい慈愛に満ちた女神だった。



「書類が落ちてますね。なぜですか?」

「俺が変化した時、焦って逃げたらしい。覚えてないけど、だいぶ怖がられたみたいっぽい」

「ぽいではなく、怖がられたのでは?」

 鉛色の杖と松葉杖を使って廊下を歩く。真っ白い廊下の床には白い書類が散らばっている。しかも、あの時から誰も踏み込んでないらしくろくに揃えられていない。

 それとも現場保存のつもりか。

「そうかも。だけど、俺自身は変化した俺自身を見た事ないから、何とも言えないんだよ。マスターが見せてくれなくて」

「それは見てはいけません」

 立ち止まったロタに振り返って聞き返す。

「なんで?」

「自覚してしまうからです。あなたのその姿は皮を被っているだけ。あの姿に慣れてしまっては、人間の姿を忘れてしまう。その時こそ、あなたは真に人間から離れてしまう」

「‥‥完全に離れたら、どうなるんだ」

「人間の姿をした者の見分けが付かなくなる。そもそもあなたと人間は別の種族、その身体は人間と会話が出来るように作られた端末でしかありません。蟻の意思と行動がわからないように、あなたは人間が理解できなくなる」

 言い終わった時、ロタは腕を取って廊下を歩かせてくる。艶のある黒髪を眺めてロタと共に歩き続けていると、見覚えのある両開きの扉が見えてくる。

「‥‥ここだ」

「では、入りますよ」

 ロタと共に足を踏み入れた場所は、あの時と変わらない、天井や壁は勿論、技術者が使っていたらしいコンソール類が破壊されている部屋。高い天井は、あの時にあった星の結晶を収めるのに必要な構造だった。

「何もありませんね」

「‥‥いや、違う」

 破壊した後と前を知っている俺だからわかる。あの時はまだ破片が残っていた筈だ。

「誰かが使ってる。結晶の破片が消えてる」

「‥‥星の結晶。何に使ったと思いますか?」

「—―生命の樹」

 俺を、あの人間リヒトを破片を、また苗床に使ったのか――

「ここに入れる人間は限られてる‥。教授か、自然学の講師陣。もしくはあの生命の樹の専門家――コロス。俺をまた使う気か‥また使い捨てる気か‥」

 瞳孔が開いていくのがわかる。杖を掴む手に力が込められる。

「人間の分際で‥‥また俺を使うのか!!?また奪う気か!!?」

「落ち着いて。あれはあなたじゃない」

「違う!!あの欠片は、俺だった!!また俺を!!」

「ここにいるのは誰?あなたは、捧げられた人間じゃない。あなたのマスターとカタリさんがそう言っていたでしょう。だから、落ち着いて。あなたじゃない」

 ロタが胸を撫でて、宥めてくれる。心拍が収まっていくのがわかる。

「‥‥ごめん」

「いいの。あなたの怒りは正しい。もうあなたは、人間に使われてはいけません」

「‥‥復讐だ。マキトも、あの人間も、全員叩き潰す」

「手伝います。だから、独り占めしないで。私にも残しておいて」

 天井を見上げて息を吐く。呼吸を整えて目を開ける。そして眼前のロタを見つめる。目の前にいるロタは哀れみでも、恐怖でもない。ただ楽し気だった。

「凄いな、ロタ。俺が怖くないのか?」

「私は人間ではないので。それに、もっと凶暴な人間も見た事があります。ふふ、あなたよりは、安全でしたが」

「人間なんかと比べるなよ。俺は神獣だぞ」

 マスターの宣告通り、ロタに頼って抱き合う事となった。静寂を戦乙女と共に過ごしていると、入ってきた扉が閉められるのがわかった。電子音が鳴り響く中、ロタと溜息をつく。

「人間って、間が悪い」

「仕方ありません。所詮人間です」

 抱き合っていたロタが床にしゃがみ、迫ってくる蔦を俺が全て引き受ける。ロタ諸共捕まえる予定だった蔦は、ロタを諦めて、俺の首や腕の巻き付き縛り上げてくる。

「動かないように」

 しゃがんだロタは、袖から飛び出した頭にかぶるようなヴェールが槍の形となり、蔦を切り裂いてくれる。

「‥‥あの槍じゃないのか?」

「本当に忌々しいですが、この身体では使えません」

 俺の首に突きつけたマスターの刃と似た素材の槍を両手で持ち上げて、蔦が飛んできた方向を見つめる。そこは隔壁とでも言うのか、頑丈な扉がわずかに開き、暗闇が顔を覗かせていた。

「私が前です」

 本来の姿と同じ雰囲気を微かながら纏ったロタは、巨大な槍の切っ先を向けて扉に歩いていく。杖を持たなくとも性能は変わらないつもりだが、ここはロタに任せる。

 なにより、今のロタの空気には抗えない怒りが感じられた。

「あともう少しで、私の物になる所だったのに‥許せない‥」

 先ほど切り裂いたにも関わらず、更に蔦が姿を見せて、迫ってくる。それら全てをロタが器用に槍を振り回し、蔦の腕を切り落としていく。

「‥‥これは、動かないのか」

 落ちた蔦を踏みつけてみるが、反応はしない。しかし、消えていかない。これは魔に連なる者の力ではない。実体を持った別の力らしい。

「キリがないですね」

 渾身の力で迫る蔦の全てを切り裂き、一刻の猶予を手にしたロタは、槍を片手で持ちその場で回転する。回転しながら槍の柄の末端を握ったロタは、遠心力を伝えた槍を扉の隙間に放ち、蔦を切り裂かせながら、槍を闇の中に突き進ませていった。

「ふふ‥」

 闇の中から声がした。この甲高い悲鳴には聞き覚えがある。

「さて、どうしますかね?」

 槍を闇の中から引き戻したロタは、鼻歌まじりに扉に近づく。だけど、そんな楽し気なロタの肩を掴んで振り向かせる。

「どうしました?続き、もうしたいんですか?」

「俺が前に出る。ロタには、かっこいいい所、まだ見せてなかっただろう」

 松葉杖に水晶を纏わせて、ロタの前に出る。微かに鼻で笑ってくるロタは大人しく従ってくれる。

 扉の前に立つ、ギリギリひとり分は入れる隙間に身体を差し込む。だが、当然そんな無防備な俺に蔦が絡まってくる。

「よ、ようやく捕まえた‥私が捕まえたぞ!!」

 そのまま身を任せて、部屋の中央まで引きずられる。

「‥‥こんな部屋があったのか」

 部屋はサーバールームと言うべき機器を取り揃えた様子で、巨大なサーバーや情報収集の為らしいスーパーコンピューターに類する物もあった。見方を変えれば、どこかの天文台にありそうな部屋だった。

「わ、私はこの部屋の」

「生命の樹専門家だろう。その不気味声、聞き覚えがある」

「不気味だと!?」

 喉に何か仕込んでいるのかと思う程、甲高い声が部屋中に響き渡る。

「私はこの学院きっての魔に連なる者であり、自然学の重鎮であるあの方に選ばれた秀才、現代の錬金術師とまで謳われた」

「名乗りが長い。しかも、現代の錬金術師?悪いけど、俺の身内にひとりいる」

「‥‥なに‥?」

「何驚いてるんだよ。お前以外に錬金術師がいただけだろう」

 少し思った反応と違った。俺を捕まえた事よりも、自分以外にも錬金術師がいた事に心底驚いているようだった。その上、身体の震えが蔦を添って、伝わってくる。

「‥‥あり得ない。残りの錬金術師共は、あの方が手ずから」

「—――お前か」

 身体中から水晶の刃が生えて、蔦を切り裂いた。

「お前らが、カタリの――」

 刃はそのまま鎧となり、翼となり、牙、爪となった。

「な、なんだ‥なんなんだ!?」

 松葉杖に水晶をまとわせ、巨大な剣として持ち上げる。だが、後ろから現れたロタが前に出て、頬を撫でてくる。

「落ち着いて。怒りに飲まれていけない」

「‥‥ロタ」

「使命を忘れないで。それに殺してはいけない」

「でも、殺したい」

「ダメ。私の勇者は、使命を忘れない。どうか‥」

「‥‥わかった」

 水晶の鎧を消し去り、松葉杖の水晶も必要最低限に抑える。見届けたロタは、撫でる手を続けて、微笑んでくれた。

「いい子です――私達は、機関の名の元にあなたを逮捕、拘束する。大人しく従えば無用な傷を作る事はありません。投降しなさい」

「誰が‥機関などに従うか!!」

 再度ロタ諸共捉えるべく、部屋中から蔦が伸びてくる。だが、サーバー類から一切伸びてこない、むしろ守るように蔦で檻を作っているようだった。

「不気味ですね。彼の水晶とは、比べ物にならない」

 正面からの蔦の矛先は槍の切っ先で振り払い、真上から来る杭のような蔦は、松葉杖で突き返し、勢いがなくなった所を掴み取り、引きちぎる。

「伏せろ!!」

「はい!!」

 松葉杖を振りかぶり、姿勢を低くしたロタの頭上を振り払い、蔦を切り裂く。そして再度頭上から襲い掛かってくる蔦には、ロタと手を握り空へと飛ばす。そしてロタが遠くに行かない為の楔として手を使う。

「嬉しい‥」

 四方八方から襲い掛かる蔦を切り裂くが、対処するには面倒、飽和状態になった時、ロタを引き寄せて、入ってきた扉近くまで松葉杖で床を叩き飛ぶ。

「何が?」

「私も、カタリさんのように、あなたと一緒にいます」

「最近いつも一緒だろう」

 腕の中のロタと共に、追撃する為に作り出された蔦が絡まって出来た巨大な腕には水晶を纏わせたロタも槍を共に突き出し、海を断ち切る十戒のように切り裂き続ける。

「綺麗‥」

「気に入った?」

「はい、とても素敵‥」

 褒められると調子に乗ってしまうのが、この神獣の悪い点であり、良い点でもあった。ロタを強く胸に連れ込み、抱き合う。今も切り裂かれた腕の残骸が壁にぶつかり、洪水を作り出しているが、槍の水晶を巨大化させ、安全地帯を作る。

「ふ、ふざけるな!!?これは、私の研究成果の集大成だぞ!?わかっているのか、生命の樹とは」

「所詮、人間の技術だろう」

 水晶の矛先を伸ばし、蔦の洪水を切り裂き、術者の鼻先まで迫らせる。鼻先から頭蓋までを貫く寸前で倒れながら避けられた。だが、ギリギリで避けたと思ったらしいが、それは違う。

「見て、ロタ。殺さなかったぞ」

「はい、見ていました。よく我慢しましたね」

 頬を撫でて褒めてくれるロタと笑い合いながら、床に水晶を振り下ろし、更に逃げさせる。思いの外いい動きをする技術者は、床を転がる勢いを使って跳ね上がり、背中を見せずに後ずさりをしていく。

「お前らなんなんだ!?ただの人間なら、もうとっくに死んでる筈だ!!なぜ私の樹に倒れない!?神獣なんていう、ただの畜生風情が、なぜ生きてられる!?」

「ただの人間?」

「畜生風情?」

 抱き合う腕を離し、ふたりで無言で近づく。

「ロタ、今こいつなんて言った?」

「さて、私には、どうか痛めつけて下さいって、聞こえました。あなたは?」

「俺には、どうぞ首を落としてくれって、聞こえた」

 ロタと共に握りしめた槍に水晶をまとわせて、振り上げる。やはり、腕はいいらしい。まとっている威圧感を肌と目で感じ取り、腰が引けているのがわかる。

「最後の機会だ。諦めて投降しろ」

「ふ、ふふはははは!?お前ら、オーダーの犬だろうが!?どうせ、私を殺せない。だけど、私はお前らを殺せる!!わかるか!?私には、何者にも適わない、権力があるんだ!!」

「そうか」

 一息で振り下ろす。地下施設の壁を軽々引き裂き、奴の頭上の寸前まで届くが、止まってしまった。

「だから、ダメですよ。本当に、私がいないとダメですね」

「でも、ロタ」

「わがままはふたりの時だけ。それに、こんな人間畜生にあなたが手を汚す必要はありません。下々の人間に任せればいい。違いますか?」

 振り下ろす槍をロタが止めていた。ロタにここまで言われては、引き下がるしかなかった。

「‥‥わかったよ。聞いての通りだ。ここで俺に殺されるか、人間に捕まるかどっちか選べ」

 まさか本気で下ろされるとは思っていなかったのか、完全に床に座り込む、見上げてくる。

「ふ、ふふふ‥‥私は、殺されない。逮捕もされない。あの方がいる」

「マキトか?」

「まさか‥あのガキじゃない。私には、国が後ろにいるんだよ!!!」

 真後ろから音がした。ロタと共に扉の直線上から逃れ、迫ってきた衝撃から逃れる。隔壁はひしゃげ、扉は無理やり開け放たれていた。そして、技術者の前に立っている対象を見つける。

「‥‥ヨトゥン」

 ロタが呟いた。

「霜の巨人か‥下がってろ」

「いいえ。知りませんでしたか?巨人狩りは得意です」

 立っていたのは枝と蔦で出来た身体を持った人間大の巨人だった。一目でわかった。あれは巨人だ。紛れもなく、精霊そのものだった。

 霜の巨人、ヨトゥンと言われている精霊の一族。それはかの二つの神族と敵対こそしていたが、その実、婚姻といった交流をしていた。よって、その血には、神の血さえ宿っている個体すらいた。その上。

「巨人狩りだと‥不可能だ!!!そうだ!!こいつは霜の巨人の骨を持つ人工精霊!!肉体を持っているお前らには、決して敵わない!!」

 巨人とは自然そのものである。それは現代の敗北者と同意義。霜の巨人は神々に敗北したとされているが、それは神こそが文明そのものだと謳われているからだ。

 消える筈だった音は捉えられ、一瞬で終わった命は医療により永らえる。

「技術と自然の合成‥。わかるか!?現代に復活した、質量をもった精霊など、人の形をしたお前らには、傷ひとつ付けられない!!お前らの負け。私の勝ちだ!!」

「そうですね。人間では、出来ないでしょうね。だけど、私達は違います」

「ああ、そうだ。ロタと、ロタに選ばれた俺は違う」

 ヴァルキュリアが勇者を館に運ぶ理由は、ただひとつ。いずれくる終末戦争の備えだとされている。そして、連れて行かれた勇者は神の側に立つ。では、敵は誰だ?

「巨人を打ち倒すのは、二度目だ。それに竜殺しも、既に終わってる」

「知らないようだな!!?それは橋を渡らなかった個体。神との関係がより深く」

「私は神の娘です」

「俺は神の眷属だ」

 ロタより一歩前に出る。今度こそ水晶の鎧をまとい、松葉杖を巨大な剣に変える。揺れる身体を使う振り向いてくる樹の巨人は、顔の無い頭を向けくる。

 その瞬間、ロタの槍が側頭部から発射される。だが、巨人はそれを片手で弾き、あの樹の巨人と同じように、だが、スピードが比べ物にならない勢いで迫ってくる。

「ふふ、この私では無理そうですね」

 松葉杖を叩きつけ、防ぐ腕を叩き割る。だが、枝の腕はすぐさま復活し、むしろ腕から伸びる蔦で松葉杖を絡み取ってくる。

「楽しそうだなっ!?」

 松葉杖から水晶を剥がし、ロタと左右に分かれて飛ぶ。

「ええ、楽しくて楽しくて仕方ありません。久しぶりに巨人を倒せます」

 再度袖から生み出した槍を持ち上げて、巨人に向ける。あの槍ではまるで届かない巨人を目の前に、やはりロタは楽し気笑っている。

「‥‥マスターに怒られるぞ」

「では、一緒に怒られて下さい」

「仕方ないか。いいぞ」

 一瞬、ロタの口が真横に割けた。ただの一瞬でわかった。目の前にいる巨人よりも更に上がいる。それは思考を持たない樹の巨人すら感じ取り、全力で狙いをロタに向ける程だった。

「では、失礼♪」

その瞬間、黄金に髪が染まり、制服の上から自身の力で編んだ白銀のローブを纏う。そして、あのロタの槍を手にしていた。槍の中ほどを握ったロタは、軽い雰囲気で刃を巨人に振り抜く。ロタに向かっていた巨人は、ロタに腕を伸ばしていたが、ただの一振りで腕が塵と消えた。

「あなたと同じですね」

「そうだ、ロタと一緒だな」

「はい、一緒です」

 腕を失った巨人は、胸で無くした腕を抱えて後方に跳び、咆哮を向けてくる。だが、それすらロタは心地いいらしく、目を閉じて涼やかな微笑みを浮かべている。

「懐かしい‥でも、向こうの方が、もっと」

 腕を無くした筈の巨人は、腕の断面を胸に押し付け、引き抜いた。そこには先ほどロタが消した筈の手が戻っていた。

「ふふ、そこまで正確に再現していたなんて、全く‥忌々しい!!!」

 槍を投げた。俺の水晶の槍よりも重量を持つ鉄塊の槍は巨人の身体を突き刺し、壁まで吹き飛ばし、縫い付ける。

「例え真に巨人の力を宿していようと、純血である私には勝てない」

 巨人から槍を手元に取り戻し、未だ壁に背中を付けている巨人の首に槍を振るう。

 一瞬で自身の目の前から背後に現れたロタに恐れをなし、専門家は何も出来ずにただ立ち続けていた。

「死にたくなければ、伏せていなさい」

 巨人の首への一撃は、消滅覚悟の腕で防がれた。また、ロタの一撃の勢いを借り、距離を取って、足のバネを使い、跳ね返ってくるようにロタに迫る。

「良いでしょう。好きに使いなさい」

 巨人の手にあったのは、斧だった。だが、一目でわかった。ロタの槍とは比べ物にならないと。

 斧を受け止めたロタの槍は、石突きで巨人の側頭部を殴りつけて、位置を変更、入れ替わり様の一回転目で背中を切り付け、それが胸まで達する。そして二回転目で首の骨を叩き斬り、頭を持ち上げていた首から力を失わせる。

「良い手応え。背骨が媒体でしたね」

 ロタの推測は当たっていた。背骨を二度、ほぼ同時に傷つけられた事により、樹の巨人は膝をつき、先ほど見せた再生力を行使できなくなった。

「うそだ‥」

「いいえ、嘘ではありません」

 膝をついている巨人の頭を、上から踏みつけて、背骨を絶つように、胴に真横に槍を突き刺す。巨人狩りには慣れていると言っていたが、それは真実だった。

「能力の再現性は高かったですが、身体的な性能はまるで届きません。まぁ、でも、ただの人間如きには丁度いいのでは?はい、よく頑張りましたね。さっさと捕まってくれません?」

 あまりの物言いに、今度こそ技術者も膝をついた。脱帽という言葉がこれほどまでに相応しい姿も、そうは無いだろう。

「では、失礼しますね」

 ロタの袖から飛び出した布が、技術者の手首に絡み付き、締め上げる。

「終わりました。いかがでした?」

「完璧。流石俺のロタだ」

「まぁ‥ふふ、やっと私を選んでくれましたね。いつか、本当に連れて行きますから、お覚悟を」

 楽し気なステップで、黒髪に代わりながら傍に来るロタと、軽く抱き合いながら、逃がす。そのまま扉に駆けていく、ロタは「報告に言って来ます。あなたは見張りを」と言って出て行ってしまった。今だ疑われているロタを残す訳にはいかないと、わかっていたらしい。

「嘘だ、嘘だ‥あんな性能‥人間の姿じゃあ‥」

 マキトと繋がりがあった癖に、ロタの事を知らなかったようで、まだぶつくさ何か言っている。

「おい」

「私は、スペシャリストで‥‥真の錬金術師で‥‥」

 手元に呼び出した水晶の槍を、奴の足元に投げつける。水晶の砕ける音と受ける破片で正気に戻った奴が、慌ててこちらを見てくる。

「錬金術師の話はいずれ話してもらう。その時までに、ゆっくり思い出しておくんだな。まず、お前に聞きたい。マキトに暗示をかけたのは、お前か?」

「暗示‥くくく‥やはり、機関は何も知らないのだな。知る筈がないか、あの薬は私自身の手で」

 もう一度槍を投げつけて、黙らせる。

「お前だな?」

「‥‥そう、です」

「解く方法は?それと、マキトは今どこにいる?」

「言える筈がないだろう‥」

「—―あの方が、関係しているんだな」

「‥‥」

 何を知っているのか、わからないが、どうやらあの方とはマキトの事ではないようだ。その上、国家権力を使う立場を持っている。場合によっては、機関やオーダーにすら匹敵するなにか。

「言ってやろう。マキトの父親じゃないか?」




 昔、叔父さん。父の弟さんが言っていた。俺達の長男であるアイツは、どこまで行っても無能だった。しかも、それに気付こうともしなかったと。ただそれを教えてくれた叔父さんは、とうの昔、まだ十代の頃に継承権を放棄していた。

「まさか、あの人が‥本当に?」

「あの樹の専門家の言う事をそのまま信じるならの話だけど。たぶん、正しい」

「‥‥そう。叔父さんに連絡すべきじゃない?」

「あの人は、俺をあの家から連れ出す代わりに、一切自分の事を話さないって条件だったから。まぁ、気づかれないように何度か忍び込んでるみたいだけど」

 継承権を放棄した、とされたあの人は俺やカタリの前に、何度か姿を見せていた。しかも、爺さんにも。そもそも継承権を放棄、抹消しよう言い出しのは、マキトの父。後継者争いに、十代の頃から力を注いでいたとしたら、やはりあの人は無能だ。自らの力を磨くのを、諦めていたのだから。

「マキトの証言、まったく外れてた訳じゃなかったのか‥‥」

「やっと出れたとか、国が認めた、とかだっけ?国が認める程の功績なんて、あの人が出来るの?」

「無理だ。決まってるだろう?それに、認められてたら、牢屋になんか入ってない」

 もしかしたら、未だに牢屋の中なのかもしれない。塀の内側から何かしら指示を出している可能性がある。

「おかしいとは思ってた。いくら、あの家の次期後継者、当主であるマキトでも、国の組織を動かせる程の力を持っている筈ないんだ。マキトも操られてたんだ」

「でも、あの人が今更なんの為?誰にも気づかれない内に、脱走出来たなら、普通大人しくしない?」

 帰って早々にカタリに報告をしたら、すぐに病室に来てくれた。

「いや、そもそも脱走出来てるかどうかも怪しい。—――外に出る為に、何かを求めてる気がする」

「何かって?」

「ただの生命の樹じゃないのは間違いない。あれだけ量産出来てたんだ。今更求める訳がない。‥‥教授なら、あるいは」

「—―確かに。そっか。あの教授が手を組んでたのって、アイツの父親だったんだ。あり得るかも。外に出れたあかつきには、魔に連なる者の世界を作ろうとか、言ってたのかもね。この事、先生達には?」

「取り敢えず、マキトの父親が関わってる可能性が高いとは、伝えた。この事にも、もう気付いてると思う」

 ロタとマスターは、俺を病院に置いて、あの生命の樹の専門家を連れてどこかへと行ってしまった。ロタはよくわかっていない様子だったが、マスターは事の重要性に気づいたようだった。

「ただ、大人しくあの教授が答える訳ない。それに、今更何を求めてるなんて、どうでもいい。この街に潜んでるのは、後マキトだけ。だったら、アイツひとり捕まえれば終わる。他にもいるなら、やっぱり是が非でもマキトを捕まえるしかない」

「拷問でもする気?その時は呼んでね。私も参加するから」

 八割方本気であろうカタリは、鼻歌まじりに持って来てくれた着替えをクローゼットに運んでくれる。だけど、カタリにはまだ話がある。

「あのな」

「どうしたの?」

「‥‥あの樹の技術者が言ってたんだ。他の錬金術師は、あの方が手ずからって」

「‥‥そう」

 何事も無かったように、カタリはクローゼットの扉を閉めた。

「他には?」

「‥‥それだけだった」

「わかった‥‥私、行ってくるね」

 ボストンバッグを持って出て行こうとするカタリの手を引いて、ベットにふたりで座る。なんの抵抗もしない、人形のような反応だった。

「あの方って、アイツの父親だと思う?」

「‥‥わからない。だけど、そうだと思う」

「—―うん、私も、そうだと思う」

「気付いてたのか?」

 何も言わないカタリと、抱き合って横になる。瞬きひとつしないカタリが、ゆっくりと目を閉じる。

「言ったよね。私は、もう錬金術師とは関係がない。リヒトとここに来た時から、私は魔に連なる者。こっちの方が都合が良かったから、ここにいるだけ」

「でも、みんな優しかった――出ていった俺達の為に、資産だって残してくれてる」

「‥‥そうだね。私も、今も愛してる。ずっと愛してる」

「あんなに優しい人達だったのに、国家への反逆なんて、おかしかったんだ。罪状だって―――」

 何か言われる前に、カタリが口を重ねてきた。

「いいの。それに、みんな逮捕される前に逃げ出したから」

「‥‥でも、もうあの家には」

「だからいいの。あそこには、沢山大事な物はあるけど、私のリヒトは目の前にいる。それに、錬金術師って、魔に連なる者よりも逃げたり隠れたりするのが得意なんだよ。一体何百年隠れてきたと思ってるの?」

 元気づけるように、慰めるように、頭を抱いてくれる。

「‥‥俺、許せないんだ」

「本当に、私の事になると、本気で怒ってくれるね。私よりも、私を大事にしてくれる‥」

「‥‥認めたくないけど、アイツらは俺の身内。それに、未だに連絡ひとつ出来ないなんて、やっぱりおかしい‥何かあったんじゃ」

「そうだね‥。多分、何かあったんだと思う――きっとね‥」

 カタリの背中に腕を回して、引き寄せる。鼻で笑ってくるカタリは、遠慮なく求めてくる俺は受け入れてくれる。

「もしかして、責任とか感じてる?」

「‥‥違うなんて、言える訳ない。俺が、カタリに」

「自分の所為で目を付けられた。そう思ってるの?」

「—―おかしな話じゃないだろう」

「うんん。おかしな話。リヒトが、責任を感じてるのだって、おかしな話」

 つむじに口を付けながら、言葉を紡いでくれる。

「錬金術師は、元々表にも裏にも顔を出していい人種じゃないの。だって、生命の樹は錬金術師の技術、それにホムンクルスだってそう。人体を使ったり、作ったりする私達は、現代でも居場所がなかった。今までが、とても幸福な事だったの」

 錬金術師には居場所がない。昔、カタリが教えてくれた歴史だった。

「前にも言ったでしょう。今も昔も、正しくて強すぎる知識は権力者には邪魔なの。しかも、それが権力者の求めている思想からかけ離れているのなら、尚更。未だに天動説を信じてる人たちがいるのと一緒。今の秩序を反転させるかもしれない私達は、危険な集団だから」

「でも、それはカタリ達錬金術師の所為じゃない。何も考えずに、ただ力だけしか興味がない連中がいる所為だろう‥」

「いつの時代の人間も、みんなそう。誰だって力を求めてる。私達だって一緒。正しく使いこなせる人なんて、ほとんどいない。だから、私とリヒトの関係があったからって話はおかしいの。遅かれ早かれ、こうなってた」

 何もかも、俺の怒りすら飲み込んでくれるカタリの胸に頼って目を閉じる。

「それでいいの。私は、リヒトに責任を取って貰おうなんて、思ってない。ごめんね。私が言わなかったから、責任を感じてくれてたんだね」

 怒りと罪悪感で震えていた身体が、大人しくなっていく。

「だけど、されるがままは、私嫌いなの」

「‥‥俺も」

 カタリの顔を見上げて、確認し合う。

「私、信じてるから復讐とか敵討ちって、感じじゃないの。だけど、私の家を奪い去ったのがアイツなら、こんなに楽しい事はないって感じる。どう?私の反撃に付き合う?」

「やる‥付き合わせてくれ。俺も、やられっぱなしは嫌なんだ。やっと反撃が出来るんだな」

「そうよ。やっと殴り返せる。あの馬鹿息子みたいに、叩きのめそう。私と一緒にね」

 




「全て黙秘。ここまでやり甲斐のある仕事も、なかなか無いと思う」

 言い終わると同時に、大きな溜息が聞こえた。

「自分の自慢をする時は、よく動いていたのに――やはり、人間とは」

「人間全てを一括りにしないでくれない?それに、リヒトも元人間だから」

「‥‥そうですね。見どころのある人間がいる事は、認めましょう」

 閉められたカーテンの向こう側から、三人の声がする。行政地区に近いからといって、ここを作戦会議室にするのは、ほどほどにして欲しい。俺がエイルさんに怒られる。

「あの子は?」

「捜査とリハビリで疲れ切って眠っているようです。もうシャワーには?」

「私が洗ったからもう大丈夫」

 まるで犬の世話でもしているような言い方だった。

「それで、向こうではどうだったの?顔写真は見せてもらったけど、私は見覚えがなかったわ」

「星の結晶の欠片が、全て回収されたようで、消え去っていました。あの錬金術師がいた場所には、サーバーというものが乱立しているのを見ました」

「それは、私達が回収する事になった。何か証拠に成ればいいのだけど、話によれば数十はあったそうね。全て調べるには、数か月はかかると思う」

「結局、無理やり口を開かせるか、足で探すしかないのね‥。マキトの調書、私にも見せて、何かわかるかも」

「なら、後で機関に来て。持ち出し厳禁だからここにはないの」

 話こそ進んでいくが、マキトの足取りについては、全く進展していないのがわかる。もしかしたら、アイツがどこにいるか、わかる人間はいないのかもしれない。

 あれだけ狂った様子だったのだ、誰かれ構わず、この街の誰かに喧嘩を売ったとしたら、もやは命はない可能性だってあり得る。逆に保護する人間はいないだろう。

「私、実は彼から家での話を聞きました」

「そう。話したんだ。どう思った?」

「彼は、やはり人間の世界で居場所はないのですね」

「‥‥うん。昔からそう。ずっと、リヒトには居場所がないの」

 声がこちらに向いた。カーテン越しの曇った声が、聞こえてくる。

「マヤカはどう?どこまで聞いた?」

「‥‥私は、彼を機関に迎える上で、必要な個人情報を取り寄せたから‥」

 心の底から申し訳なさそうに言っている。そんな申し訳なさそうに言わないでくれ。そう返事が出来れば、どれほど良かったか。だけど、出来ない。

「起きたら、直接話してあげて。きっと、怒らないから」

「‥‥ふふ、よく知ってるのね」

「当然でしょう?私とリヒトは、ずっと愛し合ってるんだから」

 胸を張って言ったカタリの声に、マヤカとロタが微かに笑うのが聞こえる。だけど、それは嘲笑うものではない。祝福のそれだとわかる。

「マヤカだってわかるでしょう。リヒトと会って、もう一年は経ってるんだし」

「そうね。もう一年経ってるのね。‥‥ふふ、でもあの時から変わらず、男の子のまま」

「それ、リヒトに言ったら、怒るよ。まだ男の子のままなんだから」

 付き合いのあるふたりがふたり揃って俺を子供扱いしてくる。言われるまでもなく、俺はきっとまだまだ男の子のままだ。だけど、少しは成長したという自負がある。

「ロタはどう思う?」

「ん?言われるまでもなく、彼は男の子です。そうでなければ、あんなに私達の前でばかり、大人ぶる事も、格好つける事もありません」

 今度は三人揃って肯定した。そんなに子供っぽいだろうか。

「やっぱりわかる?地下だとどうだった?」

「俺が前だ、俺が前だって言って、身体を張って。あれでは、大人というよりも‥‥ふふ」

「あ、ロタにもしたんだ。私にも館で言ってきた。マヤカは?」

「そうね‥‥。機嫌が悪そうに言ってきたけど、やっぱり私の背中に隠してきた」

 そうか‥良かれと思ってやっていたが、あれは子供っぽいのか。誰も言ってくれないから、気付かなかった。多分、こういう所が子供っぽいのだろう。

「そう!彼、私のリヒトは、昔からあんなに食事が好きなのですか?」

「‥‥そうよ。昔から、私のリヒトは、食べるのが好きなの。昔からご飯ご飯って、言って私を困らせたんだから。リヒトの好みだったら、私以上に知ってる人なんて」

「私は知ってる。私のリヒトは、ここが好きって」

 どこを差したのか知らないが、カタリとロタのふたりがうめき声を出す。

「‥‥私だって、マヤカぐらいの歳になったら‥‥そもそも、マヤカって、今いくつ?」

「あなたの先輩と言ったところかしら?ふふ‥」

 具体的には言わないが、それだけでわかった。マヤカが差した部分が。

「それに、私はもうひとつ知ってる。彼は年上が好みだって」

「‥‥では、私もその中に」

 ロタがそう言いかけた時、マヤカもカタリも、「それは違う」と声を揃えて言った。

「私は見た目よりも大人です!!」

「そうは言っても、見た目が‥」

「‥‥私だって、姉様方よりも、私達の中で幼い方だとは思ってました。だけど!!」

「ロタ、諦めて。あなたは、たまに彼と同じくらい幼く見える時がある」

 マヤカの一撃がだいぶ効いたのか、椅子から立ち上がった筈のロタが、大人しく座った。ロタには、何故、そんなダメージを受けたのか、後で聞かなければならない。

「私だって、この身体に慣れれば、あとで改造だって」

「残念ながら、そんな事は許せない。必要な処置だったとは言え、そうそう許されないから覚悟したまえ。諦めて身体の成長を待ちなさい。それに、どれだけ努力しようと、私には届くまい、ふふ‥」

 マスターの声がした。そして、三人の感嘆の声もする。

「それで、一体なんの話だ?年上、ここのサイズ、性格、どれを取っても私こそが彼の好みだという話かな?」

「‥‥私だって、もっと成長すれば」

「ふふ、マスター、今はその地位に甘んじていて下さい。私は、まだ成長中です」

「姉様。私は、あなたを超える事、決して諦めていません」

 三人の反撃を物ともせず、我がマスターは、三人の中に躍り出て、カーテン越しでもわかる肉感的な身体を一回りし、見せつける。圧倒的な暴力とでも言うべきカーテンの影が、揺れ続け、その度にカタリとマヤカの息を呑む音、そしてマヤカの余裕の鼻で笑う声が聞こえる。しかし、マスターは全てを意に介さない。

「ふん、好きに目指すといい。だが、因みに言っておこう。私に挑むという事は、我ら戦乙女を全て超える必要があるという事だ」

 あまりの衝撃に、三人が脱帽したのがわかった。当然と言えば、当然だった。我がマスターはそもそも人間ではない。しかも、そんな人外達の頂点にいると言ったのだ。カタリにマヤカは勿論、ロタすらその事実は、衝撃的だったようだ。

「ふふ、ロタ。私を模した像こそあるが、あれでは私の半分も表現できていないのさ」

 ある意味において、誰よりも子供のような自慢をしてくるマスターだが、その実、力を持つ者の自慢とは、紛れもない警告の意味を持つ事になるらしい。





「単純にマキトの父親以上の権力者の言葉だ」

 二度目の訪問。少し前にマキトが囚われていた牢屋に、そいつはいた。地下区画で会ってまだ一日どころか、20時間も経っていないそいつは、足を組んで意気揚々と顔を歪ませていた。当初の目的である種すら持っていない役立たずの割に、強気なやつだった。

「いるの?そんな人」

「いる。この番号だ」

 スマホを渡して、画面を見つめさせる。あのマヤカが目を開いて驚いた。

「‥‥本当に直通?」

「少し前にかけたから、実証済み。俺から話すから、貸して」

 マヤカの手からスマホを返してもらい。通話ボタンを押す。数コールした後、軽い返事と共に老人の声がしてくる。本家の館の奥底にいる魔人。現代を生きる魔の血族。もはや人間ではない何かであり、俺の祖父。

「そろそろ来る頃だと思っていたぞ。それで、今回はどうした?」

「マキトと、あんたの息子の所為でその家の評判は地に落ちてる」

「褒め言葉だ。それでこそ、魔に連なる者の世界の貴族。評判のいい貴族など、飾り物にも劣るわい。ふふふ、だが、孫からの心配であるのなら、受け入れるとしよう。それで、儂は何をすればいい?」

「今から話す奴に、命令しろ。全部話せって」

「くくく、いいだろう」

 何を話しているのか、わかっていないながらも強気の姿勢を崩さないそいつにスマホのスピーカーを向ける。

「聞こえるか?私は、お前の雇い主の家の現当主。上位4番目の貴族だ」

 スライディングでもするかと思う勢いで、生命の樹の専門家はスマホに駆けてきた。

「は、初めまして!!私は、あなたのご子息と、お孫様の」

「あー話は聞いている。ご苦労だった。お前の働き、私の耳にも届いている」

 懇願するように檻から顔を無理やり出すようにして、声を絞り出すその姿に、一種の生命の輝きを見つける。本当は、これ程までに不安だったのかと思うと、同情してしまう。

「私は全て、あなた様の一族、延いては魔に連なる者の世界の」

「—―あまり調子に乗るなよ。ガキ」

 スマホ越しでもわかる悪寒。しかも、それを一身に受けた専門家が凍り付いた。

「貴様如き人間が、我ら魔に連なる者の代表を奢る気か?たかが、私の息子に仕えた風情で、語るなよ。次はその息、二度と吸えなくしてやろう。覚悟しろ」

 あまりの迫力に、マヤカする凍り付く。しかも、この爺さんは次期当主だった男を軽んずる言葉を使った。やはり、この魔人も魔に連なる者だ。家などといった小さいコミュニティーよりも、魔に連なる者全体を尊んでいる。小の事など興味もないらしい。

「そして言っておく。そこの孫は、私以上に気が短い。死にたくなければ、聞かれた事に全て話す事だ。魔に連なる者の世界、法や倫理如きで測れると思うなよ」

 そこで通話が切れる。切断の電子音だけが残り静寂を作り出す。

「全部話して、しばらく牢屋に入っておけ。あの爺さんは脅しはしない」

「わ、私は‥魔に連なる者の世界の‥」

 水晶の杖を手元に呼び出し、喉を突く。苦しそうにせき込むそいつの襟を掴み上げて、最後の警告を伝える。

「次は無いって言っていた。忘れたか?お前に死なれると、面倒なんだ。最後だ。死にたくなければ、質問にだけ答えろ」

 唾液が零れる顔のまま、何度も頷かせて手を離す。せき込む事さえ忘れて、見上げてくる。

「まず最初に、マキトはどこだ?」

「‥‥あの地下施設の奥」

 マヤカが備え付けの電話を耳に当てて、どこかへ連絡し始めた。

「具体的には?」

「わ、私にもわからない。私は、ただあそこに生命の樹を届けるように言われただけだ‥。それだって、あの教授が使ってしまい、私は、また一から‥」

「教授が生命の樹をあの場で使う事は、想定外か‥」

 もしそうなら、教授はそもそも生命の樹を渡すつもりはなかったのだろう。場所を提供する。金銭的援助もする。しかし、実った果実は誰にも渡さない。魔に連なる者らしい倫理感だ。

「一から作った生命の樹の材料は、あの星の結晶か?」

「そうだ‥だけど、あったのは破片ばかり‥あれでは、私の求める性能には、まるで届かない。だけど、お前の身体さえあれば!!もう一度、作れたんだ!!」

「‥‥マキトが俺を求めた理由もそれか」

「そうだ!!もう一度、お前の身体が使えれば、私はこんな所にはいなかった!!今度こそ、金とデータを持って、私の研究成果として‥。寄越せ!!」

 思い出したように、腕を伸ばし掴みかかってくるが、水晶の杖で鳩尾を突いて、もう一度転がす。まるでこちらが悪役と言わんばかりの目で睨んでくる。

「らしいって、言えばらしいか。だけど、お前らみたいな人間に、何度も利用されるのはごめんだ。それで、その失敗作をマキトは持ってるのか?」

「わ、わからない。回収する前に、お前らに逮捕された。お前の身体を手に出来れば、もっと精度と性能が、完成した樹が作れた‥」

 目の前に犠牲にしようとした奴がいるというのに、本当に自分の事しか考えていない。本当に殺してやろうか。

「生命の樹については諦めるんだ。まだある。そもそも、何故生命の樹を求めた?」

「私は、ただデータと金銭せえ受け取れればよかったんだ‥詳しくは知らない」

「嘘だ。何に使うかどうか程度は知っている筈だ。次はない、言え」

 杖の先端を鋭く分厚くして、ロタの槍を造り出す。

「こ、ここ殺せないだろう?」

「この街には死体使いがいる。意味はわかるな?」

 死体さえあれば、全てを聞き出せる。そう告げると、ようやく俺への舐めた態度が消え始める。

「それで、マキトでもマキトの父親でもいい。なんて言われたんだ?」

「わ、私だって半信半疑だったんだ!!せ、生命の樹は、新たな生命を作り出せる。それをそのまま、身体に埋め込み、新たな生命としてよみがえり、新たな人間として、生きると‥」

「マキトもか?」

「も、もう許してくれ‥」

 土下座をして許しを求めたきた。どうやら、本当に言えない事に触れたらしい。

「私には、もう言えない‥言ったら、外でも牢屋でも、休める場所が‥」

「少なくとも、答えなければ、ここで永遠に休む事になる」

 水晶の杖かた槍に造り変え、薙ぎ払う。鎖状の鉄格子は砕け散り、破片をまき散らす。

「これで、俺はお前をいつでも殺せる」

「う、嘘だ!!だって、お前は機関の人間だ!!殺せる筈がない!!」

「なんで、死ぬお前が、殺した後の俺を心配してるんだ?」

 何も言わないマヤカを無視して、腰を抜かしながら後ずさりをする専門家を追いかけて、首元に切っ先を向ける。

「答えろ。それとも頷く方が楽か?マキトもマキトの父親も、自分に生命の樹の果実を使えって言ったんじゃないか?」

 気絶でもするように首を落とした。だが、まだ聞く事がある。そう、まだまだ。

「生命の樹を使うには、苗床が必要だ。俺以外で仮定していた苗床はどこだ?誰に植え付けるつもりだった?」

「そ、それは‥あのガキにする予定だった‥」

「それだけで足りる訳がないだろう」

「ま、まがいなりにも、あのガキは貴族の身体だ。魔貴族の身体など、そうそう得られる物じゃない。しかも上位4番目。いつでも三貴族を狙え、三貴族をまとめて相手取っても勝利できるとさえ言われたあの方の血族だぞ。苗床としては、これ以上は望めなかった‥」

「最初に白羽の矢が立ったのが、俺だったのか。そこまであの教授と繋がってるとは‥」

 何もかもが都合が良かった訳か。教授は、この秘境と学院の権威。土地や金には困らない上、俺という丁度いい苗床も入学していた。作れたような偶然が重なったのか。

「もういいだろう‥もう許してくれ‥」

 体力の限界に来たらしく、今度こそ気絶してしまった。

「—―どう思う?」

「嘘、は言ってないと思う。だけど、まだまだ聞きたい事がある」

「なぜ、そもそも生命の樹に頼るつもりだったのか。新たな人間とは。それと、何故彼自身が直接出向いたのか」

 俺を生命の樹の苗床として、もう一度使いたければ、マキト自身ではなくプロを雇えばいい。魔に連なる者でもオーダーでも。だけど、それをしなかった。

「考えられる直接出向いた可能性としては、父親へ果実は渡る前に、自分に使うつもりだった。だけど、それだって」

「ああ、人を使えばいい。わざわざ、ここに乗り込む必要はない」

「‥‥確かに、あなたはあの背広達を打倒、私達も逮捕した。なら尚更、彼は待てば良かった。ほとぼりが冷めるまで、それこそ新たな果実が完成するまで」

「他の考えられる可能性としては、俺に勝てる自信があった。俺を倒し、果実を作り出すつもりだった‥‥」

「彼は勝てると思う?帰ってくる前のあなたには」

「無理だ。むしろ、この剣なら人間だった頃の方が、楽に勝てた」

 槍を消して、マヤカの元に戻る。そしてそのまま、マヤカに体重を預ける。

「‥‥人間は勝手だ」

「そうね。ずっと、いつまでもあなたを苦しめる。やっと、ここまで来れたのにね」

「‥‥笑わない?俺の事、卑怯だって言わないでくれるか‥」

「絶対言わない。あなたは、勝利してこの街に来た。勝ち取った権利を使ったまで」

「ありがとう‥」

 マヤカの黒髪に頼って目を閉じる。背中と頭を撫でてくれるマヤカが、本当に優しくて、楽しそうで。大好きだった。

「何もかもがおかしいんだ。アイツが、どれだけ自分の腕に、剣に過信してたからって、ここまで来る筈がない。だって、ここに来る意味が‥」

「本当に?あなた以外、生命の樹以外で、ここを訪れる可能性は?」

「‥‥わからない。だって、ホテルから病院に行くまでの道筋だって、まだわからないんだ。それに、選ばれたのだって‥」

「選ばれた?それは、何に?」

 マヤカから離れて、疑問に答える

「ロタだよ。ロタは最初、俺を選んで、断ったからマキトの方に」

「それは聞いた。だけど、いつ選ばれたの?本当にロタの事?」

「だって、ロタは巫女で、あの家から戦士を選んだって」

「違いますよ」

 マヤカの背後にある扉から、ロタが顔を出していた。

「違うって」

「私は確かに、巫女と呼ばれている時代もありました。だけど、あなたの家から勇者を連れて行った事などありません。きっと、私以外の姉妹かと」

「でも、だったらなんで、俺達に」

「私があなたとあの男を選んだのは、その剣を持っていたからです。‥‥そう。なるほど、あの男が私を見て驚かなかったのは、そういった話があったのですね」

 一瞬、倒れている専門家を眺めるだけで、すぐさま視線を戻してくる。

「‥‥じゃあ、マキトの言ってた、選ばれたって‥」

 彼は私達の都合で捕まえる事が出来ない。マスターは、そう言っていた。

「‥‥ロタ、マスターも連れて行った事があったのか?」

「ありますよ。今のあなたと同じように」

 




「隠していた訳ではないさ。もう数えるのも呆れる程の過去だ。それに、正確には君の家ではなく、その剣の持ち主のひとりというだけ」

 カレッジにいる黒髪のマスターと対面していた。この場でマスターと出会うのは、約一か月振りだった。懐かしいという感情すらわいてくる。

「怒っているかい?」

「いいえ。だけど、少しだけ」

「やっぱり、怒っている?」

「‥‥嫉妬しているかもしれません」

 袖で口元を抑えて、笑いかけてくる。

「だが、私の遍歴を聞いてどうする気かな?樹の専門家を訪ねたのではなかったのかい?」

「マキトの狙いは、巫女。あなたに連れて行かれる事だ。それと生命の樹と、どう関係してると思いますか?」

「それは私にもわからない。だが、そうか‥彼の狙いは私だったのか‥‥」

 真面目な表情で、口元を隠した。

「何か、思い当たる事が?」

「いいや、彼は私の趣味ではない。それに、私にはもう君がいる」

「‥‥嬉しいです‥‥マスター‥‥」

 絞り出すように声を出したら、鼻で笑ってから頬を撫でられる。人形でも変わらないマスターの柔らかい優しい手を、顔で感じる。

「さて、誤魔化すのはやめにしよう。いかにも、私は過去に、その剣の持ち主たる使い手を館へと連れ去った事がある。だが、その剣が何故、君の家へと流れついたのかはわからない。そして、私達に連れ去られるのが誇りと思っているのなら、悪くない気分だが、生命の樹を求め、君を襲い、この秘境全体に襲撃を仕掛ける程の危ない橋を渡る理由もわからない」

「今も館はあるのですか?」

「ん?無論、無いとも。当然だろう?もう終末に備える事など出来ないのだから」

 ロタに聞いても教えてくれなかった。だから、試しに聞いてみたが、あっさりと答えてくれた。

「まぁ、この話はいいだろう。問題は、魔に連なる者である彼が、なぜそれほどまでに私達に選ばれたがっているのかが問題だ。彼は剣の腕に、どれほど自信を持っていると思う?」

「それしかないので、自信を持つしかないんだと思います。だけど、襲撃が失敗し、正面からやり合うと負けるってわかったので、あの教授の館を使ったのか‥と‥」

 頬に付けていた手を移動させて、手を繋いでくる。細い綺麗な指だった。隠せないマスターの女性としての魅力が、肌の端々から感じる。

「ふふふ、実際に殺されかけておいて、君も強気だね。彼の事を侮っているのかい?」

「‥‥アイツは、本当に何も出来ないんです。剣も失って、襲撃のチャンスすらもう無い。マスターの言っていた通り、別の道を目指すしか、もうないんです――俺は昔、アイツを親族や分家の前で、四回連続で叩きのめしました。自慢にもならないぐらい、雑魚でした」

 反撃のつもりで、手を引いて座席に連れて行こうとしたが、力が入らずむしろ引きずられていく。

「なるほど。彼が、後継者や戦士として選ばれたがる理由が、わかった気がするよ‥‥」

「プライドですか?でも、その程度で」

「やはり、君はどこまでも自覚が足りない。そこは直すべきだと、マスターとして言っておこう」

 教室の外を出て、誰もいない夕暮れの廊下を肩を並べて歩く。手を繋いでいるというだけでも、心臓に悪いのに、指まで絡めてくる。

「私も君の調書を読ませてもらった。なぜあんな納屋で生活していたんだ?カタリ君と共に生活する事だって出来ただろう」

「‥‥マスター」

「先に謝っておく。すまない。勝手だが、機関の人間を使って、詳しく調べさせてもらった。—――この事は、一部ではあるが、機関とオーダーの人間も知っている」

 怒りなどではない。ただ、どうしようもない過去の記憶が苛んでくる。絡めている指に力が入ってしまった時、マスターが振り返って抱きしめてくれる。

「ごめんなさい。あなたを、陥れるつもりはなかった。過去を暴く事は、誰だって許せない。‥‥また、傷つけてしまったのね」

「‥‥酷い、酷いよ‥‥」

「そうね‥。私は、とても酷い事をした。‥‥だけど、泣かないで。どうか、乗り越えて‥」

 ローブに涙を染み込ませて、すすり泣く。自分のローブが汚れる事を気にせず、頭と身体を引き込んでくれる。

「リヒト、私はあなたの自尊心を傷つけた。それだけじゃない。そんなつもりはなかったとしても、機関にもオーダーにも、君にいい感情を持っていない者に、恰好の餌を与える事になってしまった。どうか、怒って下さい」

「マスター、俺‥‥やっと、逃げたんです‥‥やっと、自由になったのに‥」

「はい。あなたは、ずっと戦っていた。誰にも頼らず、戦ってきた誇り高いあなたを、ただの人間達は慰み者として使い捨てた。‥‥私も、その中のひとりです」

 もう杖は不要だと思っていたのに、膝に力が入らなくなったきた。マスターと共に床に座り込み、頭を抱き続けて貰う。

「なんで、なんで、あなたなんですか‥。他の人間だったら、まだ‥‥」

「私は知らなくていけない。私は、あなたのマスター‥‥」

 過去の出来事や歴史、それらを知る事で、正しく導く事が出来る。マスターは、俺の導き手として、正しい事をしたまでなのに。なのに、どうして、こんなに。

「これは‥‥プライドなんかじゃない!!」

「‥‥そうですね」

「これは‥これは俺の!!」

「これはあなたの墓。置いてきた枷。だけど、まだこの枷は、まだあなたを掴んでいる。まだ、あなたは墓に囚われている」

 呼吸が出来ない。暴れる血が、肺を鷲掴み、身体の中に水晶の刃を作り出す。

「俺は!!もう捨てた!!いらなかったんだよ‥‥最初から‥‥なんで、人間は‥」

 どこまで逃げても、人間の手のひらから逃れられない。世界は、いつまでも俺を責め続ける。どこで何をしていようが、誰を愛していようが関係ない。世界は、全てを奪い去っていく。

「‥‥あなたはやはり、あの教授と、人間達と似ている」

「そう思いますか?」

「俺を殺し、俺を苦しめる‥‥俺を利用する事しか考えてない。‥‥俺を苦しめて、俺の過去を知れて、そんなに楽しいですか‥‥」

「‥‥あなたは、聞かなかったのにね。私は、無理矢理、掘り起こしてしまった。どこまで行っても、私は愚か者です。どこの世界であろうと、これだけは変わらない」

 無理矢理引き起こして、歩かせてくる。囚人を連れる執行人のように、ただ無言でどこかへと運んでいく。

「マスター‥‥」

「どうかした?」

「大好きです‥‥本当に、心の底から‥‥」

「‥‥そう」

 床に涙がこぼれていくのがわかる。目から涙が別れていく所為で、前が見えない。深い海にいるようで、マスターの声すら伝わって来ない。

「俺‥やっと、やっと、誇れる自分に成れるって、誰にも邪魔されないで、思い描いた自分に‥‥」

 マスターは何も言ってくれない。だけど、組んだ腕はそのままに付き添ってくれる。

「いつもこうなんです‥‥。やっと、報われるって、自由に成れるって思っても、いつも邪魔される。世界は、いつも奪い去っていく。だから、もう‥‥」

「頑張って、どうか」

「‥‥もう出来ません」

 いつの間にか変わっていた固い床に膝をつく。マスターの手が肩に添えられるが、思わず振り払ってしまった。

「‥‥もう、疲れました。もう、あなたと話せない」

「—―ごめんなさい。でも、私は」

「失せろ!!」

 床に拳と叩きつける。マスターがいようと構わず、身体中から水晶の刃を呼び出し、ただ自分を守るだけの鎧を作る出す。

「いつもそうだ!!この世界は、いつも俺を苦しめる!!」

 爪が伸び、腕が人間のそれから離れていく。背中から骨が浮き上がり、開かれる。

「どうして、こんな‥‥こんな事ばかり、俺を勝手に産んでおいて‥‥そんなに、俺が憎いか!?」

 声が変わり始める。肺の質量変換が完了してしまった。もう、いつでも放てる。

「ダメ!!戻って!!」

「今更なんの用だ!!あなただって、俺を苦しめて楽しんだ!!」

 白い方の声が頭に響いた。だけど、自らの咆哮と床を引き裂く爪の音で、掻き消えてしまう。

「星を撃ち落とす‥‥星とは、この世界の—―!!」

 最初からこうしておけばよかった。もう、俺にはそれが出来る力がある。何者も粉砕できる、焼き尽くせる力がある。何もかも、塵にしてしまえば‥‥。

「いけない!戻って!!災厄になってしまう!!」

「世界が、俺にそう望んだ。何が問題なんですか‥‥」

 完成した首と眼球を使い、世界を見つめる。起き上がって、見下ろす。黄金の髪が一際輝き、人の姿をしていた俺では同じ空気すら吸えないであろう圧力を感じる。だが、所詮、神の血を引いただけの存在。ただの息だけで、吹き返せる。

「これが、世界の理‥‥望まれた滅びか‥」

「そうです、この姿こそ、この世界が望んだ力‥‥」

 声を響かせるのではない。俺の意思が理解できる、同じ位に位置する存在にのみ伝わる波を届かせる。

「‥‥すまなかった。これ程までに、君を追い詰めたのか‥‥」

「苦しかった‥‥」

「ああ、私が苦しめたのだな‥‥」

「もう、俺は、どこにも居場所がない。あなたの隣にも、いられない」

 空を見据える。そこは既にカレッジではなかった。高い石室、端が見えない程、広い廊下だった。そして壁や天井には、金で樹が描かれ、人や巨人、そして神々が描かれた壁画が樹を囲んでいた。

「綺麗な場所ですね‥」

「そう言ってくれるのか?」

「はい‥だけど、これで、見納めです」

 翼を輝かせ、羽ばたき、マスターの夢の破壊を始める。

「ここでの事は私達しか知らない。今ならまだ間に合う。戻ってくれ、私の元に」

「‥‥あなたの事は、好きです。だけど、もう俺は苦しみたくない。逃げないといけない。人間などと戦う気には、もうなれない。あなたとも」

「‥‥卑怯だが、言っておく。その姿の君は、もはや誰からも理解されない。いつか心すら無くしてしまう。優しい君が消えるのは、許せないんだ‥どうか、許してくれ‥‥」

 ただの人間であれば、灰燼に帰す熱風に耐えながら、水晶の腕に触れてくれる。今すぐその気になれば、一瞬で分解できる。だけど、どれほどマスターに苦しめられても、出来ない。

「‥‥出来ません。もう、俺は‥‥耐えられない。あなたに知られたくない」

「オーダーや機関の事など無視して構わない。彼ら人間の事など、私に任せればいい。だから」

「それでも、永遠に人間の世界を俺を苦しめる。あなただって」

「—―そうかもしれない。いや、そうだ。だけど、私は君にいて欲しい。私にも、もうリヒトしかいない。やっと、見つけたんだ。だから、私をひとりにしないで」

 その言葉は。その言葉は、俺が使ったものだった。

「エイルか、ロタから聞いただろう。私の周りの人々は、いつも私を置いて何処へ消えてしまう。私も君と同じだ。もうひとりは嫌なんだ」

「‥‥俺は、マスターのように強くは、なれません」

「前にも言っただろう。君は役者になる必要はない。君は君らしく振る舞いなさい。だけど、それには責任が付きまとう。これも前にも言った、魔に連なる者であれば、隠者である事を優先しなさい。‥‥すまなかった。私は、もう君がいないと‥」

 羽ばたかせていた翼を、いつの間にか止めていた。立ち上がっていた足を床に降ろし、マスターの手に目を閉じる。

「俺が、怖くないんですか‥」

「怖いさ。だけど、君は弱虫で、まだまだ男の子。私の愛しい年下の恋人‥」

 マスターの手が左腕に触れた。そこには、俺を眠らせる力を持った剣があった。マスターの手から何かが流れ込んでくる。徐々にだが、身体が竜のそれから人間に戻っていくのがわかる。目を閉じたまま、身体の変換される痛みに耐える。

「苦しいか‥?だけど、大丈夫。私がいる」

「はい‥隣にいて下さい‥」

「いるとも。決して、君を離さない。ずっと一緒にいよう」






「抱きつき癖がついてしまったか?仕方ない」

 椅子に座るマスターの足に縋りつく。撫でられる頭から、まだ感じる違和感が消えていく。

「それより、良かったのか?ローブのままで。君が望むなら、素足でも」

「このローブの感触、結構好きなので‥‥」

「‥‥ローブに負けるか。君の多趣味加減には、呆れる。‥‥‥どうにか、私好みに変えてやる」

 マスターと共に到着した場所は、長く世話になっていたマスターの私室だった。それ、そのものなのかはわからないが、枕元の水薬には見覚えがあった。

 しかも、この粥の香りも。

「さて、そろそろ食べないか?冷めてしまう」

 マスターから軽く肩を叩かれ、マスターの足から離れてベットに座る。隣に座るマスターがサイドテーブルの鍋から粥をひとすくいしてくれる。

「美味しい‥‥」

「良かった‥。味に違和感はないか?」

「いいえ。マスターの味です」

「うむ、なかなか意味深な言葉だが、褒め言葉として受け取っておこう」

 無遠慮に粥を食べさせて貰う。懐かしい味とすら感じる、マスターの味だった。

「‥‥謝りたいことがあります」

「言いなさい」

「‥‥俺、ロタとマヤカには、少し話したんです。家での事」

「そうか。よく、頑張ったね」

 スプーンを鍋に戻して、また頬を撫でてくれる。

「‥‥なのに、俺、マスターに」

「自分のペースというものがあるさ。それに、直接家にまで人形を行かせて調べさせるなんて、陰湿さ、怒り狂って当然だ。私は、結局君の事を何一つとして考えてなかった。カタリ君に偉そうな態度こそ取ってしまったが、その実、私こそが一番子供っぽかったのだね。‥‥いや、子供ですらないか」

 あの時と同じ。妹をこの街から追放したと話した時と、同じ自虐的な笑みだった。

「‥‥そんな顔しないで下さい。俺は、」

「いや、私を怒ってくれ。私こそ、まるで自覚が足りなかった。優しくするという事を、まるで理解出来てなかった。ふふ‥ダメだな。君好みの女性に、これでは程遠いか」

「‥‥次は、俺から話します。だから、もう少し俺に付き合って下さい」

 頬の手を取って、目をつぶる。

「俺こそ、自分の事しか考えてなかった。‥‥断ち切ったつもりだったんです。あの家の事なんて、逃げた時から」

「‥‥どこまで行こうと、生まれからは、逃げられない。すまない、言わせてもらおう。君は、世界に幻想を持ち過ぎている。—――本当に、酷い世界だ」

 鍋のスプーンを、もう一度向けてくれる。少しだけ冷め始めた粥だが、例え冷えたとしても、マスターの手料理は、いつまでも美味しい。それに、マスターが手ずから食べさせてくれる。

「だが、残念ながら君が生まれた世界とは、こういった世界だ。受け入れて、乗り越えなさい。たまになら、怒りに身を任せるのは構わない。だが、相手を選びなさい」

「‥‥もう、怒りません」

「不可能だ。これはロタとマヤカ君から聞かせてもらった。君では、怒りが抑えられない」

「俺が、まだ子供だからですか‥」

「いいや、抑えられる程の軟い怒りではないからだ。世界から目の敵にされた君の怒りなど、どれほどの存在でも、抑え込む事は不可能だ」

「‥‥あの方にも、酷い事を言いました」

「そのようだね。声は聞こえるか?」

 先ほどから念じるように、祈るように呼び掛けているが、反応をしてくれない。怒らせてしまっただろうか。それとも、失望させてしまったか。

「そう暗い顔はしない方がいい」

「でも、俺は」

「あの存在が、真に怒るか、絶望したのなら、この世界はすぐさま滅ぶ。少なくとも、私がこうして生きている訳がない。きっと、待っている」

 食べ終わった鍋にスプーンを放り込んだ時、マスターが横になるようにと、手で身体を押してくる。真上から被さってくるマスターは、髪を垂らし、唇を撫でてくる。

「彼女は、君の主なのだろう?元気づけてきなさい」

「はい‥‥」

「大丈夫、長く向こうで過ごしていたのだろう。それに、あの存在と分かり合えるのは、君だけだ。君が救うんだ。では、眠りなさい」

 喉にマスターの指が沈んだ。そうわかった時、視界が暗くなっていた。





「あのね」

「はい」

「‥‥えっとね」

 海から砂浜に上がる手伝いをしてくれたが、先ほどから目を合わせてくれない。

「俺から、いいですか」

「‥‥うん、お願い」

「‥‥さっきは、すみませんでした」

 水晶の砂浜を見つめて、ただ謝る事しか出来ない。

「俺は、あなたにして貰った事を忘れて、酷い事を言いました」

「‥‥うんん。違うよ、酷い事をしたのは、私の方」

「それこそ、違います」

 自分の胸を両手で抑えている白い方を抱きしめる。

「あの時、あなたがしてくれた事は、俺にとって試練でした。あの時の試練を超えなけれ、俺は向こうでもすぐに死んでいた筈です。あなたのお陰で、俺は帰れたんです」

「‥‥私のお話、聞いてくれる?」

「勿論です。また、一緒に話しましょう」

 腕の中にいる白い方と共に、砂浜に寝そべり、波に足を晒す。

 しばらく、そうしていた。白い方の息遣いを胸で感じながら、波の音と感触を楽しむ。長くここで暮らしていた時、幾度となくしてきた事だった。だけど、あの時とは違う事がある。

「笑って下さい。俺は、あなたの笑顔が好きなんです」

「うん‥知ってるよ。私がわがまま言って、あなたを困らせた時、いつもあなたは私の好きな顔をしてた。それを見るのが好きで、私、いつも笑ってた。あなたも、私を見て、笑ってくれた」

「はい。あなたのわがままは、いつも大変でしたけど、楽しかった。その度に、あなたは笑ってくれましたね。‥‥だから、笑って下さい。俺の為に」

 顔は見せたくないと、回される腕と胸にかかる息でわかった。だけど、微かに、波の音を重なるように聞こえた微笑が、胸を弾ませてくれる。

「ふふ‥あのね、私、あなたが楽しんでくれてるって、思ってたの。始めてあなたがここに流れ着いた時も、きっと喜んでくれてるって、思ったの」

「‥‥はい」

「それでね。私、ずっとあなたをいじめて、あなたを喜ばそうと思ってたの。だけど、違ったんだね。私の事、嫌い?」

「いいえ‥‥いいえ。嫌いになるなんて、あり得ません」

「本当?」

「言い切れます。あなたこそ、俺を嫌いになりませんか?」

「絶っ対ならないもん!!」

 ようやく見せてくれた顔は、膨れた不満そうで、笑顔とはまた違う白い方だけが出来る顔だった。それが、可愛くて、思わず抱きしめてしまう。しかし、それがなおの事、不満だったようで腕から抜け出して、上に乗ってくる。

「もう!!私、言いたい事とか、いっぱいあったのに!!全部忘れちゃったじゃん!!」

「忘れっぽいですもんね」

「むぅ!!もしかして、私の事そう思ってたの!?」

 拳を振り上げて、何度も振り下ろしてくる。手加減しているのか、それとも力を籠めるのを忘れているのか、まるで痛みは感じない。ポカポカという音だけが聞こえる。

「わがままって自覚はあるけど、忘れっぽくなんてないもん!!」

「忘れっぽい人は、忘れた事さえ忘れるんですね」

「私、人なんかじゃないもん!!」

 怒るのはそこなのか。いや、人間と一緒くたにされるという評価は、我慢できないようだ。

「すみませんでした。あなたは、人間なんて下等生物じゃないです」

「そうだよ!!私は、人間なんていう下位生命体じゃないから!!」

「はい、常に人間以上の結果を出す方です」

「そう!!その通り‥‥あれ?私、人間以上に忘れっぽいって事‥‥あれ?」

 腕を組んで考え始めた白い方の隙を突いて、脇の下に手入れて持ち上げる。そのまま立ち上がって砂浜に着地させる。この大人しく従ってくれる所が、幼く感じる。

「背、大分伸びましたね」

 胸ほどの高さだった白い方は、今は首元にも達する高さとなっていた。

「あ、わかった?私、あなたの好みになってきた?」

「俺の好みは、あなたそのものです。それと、もうあまり背を伸ばさないで下さい」

「ん?なんで?」

「‥‥背を抜かされると、少しだけ悲しいので」

「うん?わかった。これからは、あなたの背に合わせる。でもいいの?あのヒトみたいな背の高い人が好きなのではないの?それとも、上から見下ろすのが好きなの?」

 どう言ったものか。人間でなくなったとしても、背の高さという見た目や数字の上での優劣に拘りを持っているなんて無様、知られたくない。

「いいえ、そう言う訳じゃなくて。上から見るあなたが、とても可愛いので」

 そう言った瞬間、白い方が抱き着いて砂浜に押し倒してきた。

「嬉しい‥‥私の事、可愛いって言ってくれた。私の事、褒めてくれた。あなたも、上から見下ろすと、とっても可愛いよ」

「あははは‥‥ありがとうございます」

「うん!!お礼を言われるのも、嫌いじゃない!!」

 なんでも知っていそうで、どこか抜けている白い方の頬を撫でてみる。最初はまた不満そうに睨んでくるが、しばらく続けていると、気持ちよさげにされるがままになってくれる。

「でも、身体はもう少し成長させるね。私も大きくなるのが楽しくなってきたから。それに、なんでだろう‥あなたがあの金色の講師に向ける視線は、少しだけ‥‥」

「少しだけ?」

「うーん、羨ましい?腹立たしい?とにかく、私も頑張って成長するね」

 その意思を、身体を振るわせて伝えてくる。揺れる身体が、視覚と体感で確認できてしまう。楽しげに弾む笑顔と、肉体のアンバランスさに何もかもを奪われる。

 今もカタリ、ロタ並みの身体を持っているこの方が、マヤカを超えて、マスター並みとなった時、俺は理性を保てるだろうか。ただでさえ、本当に好みなのに。

「ゆっくりと大きくなって下さい。時間を楽しむのも、いいものですよ」

「そう?じゃあ、そうする」

 素直に頷いて、また笑ってくれる。俺に笑いかけてくれた。だったら、答えないといけない。

「改めて、謝らせて下さい。ずっとあなたの世話になっているのに、俺は‥‥あなたに」

「うんん。私もあなたの事を、もっと知るべきだった。それに、あなたも私の事を、もっと知るべきだった。お互い、まだまだ知らない事だらけだね」

「‥‥はい」

 腰の上に座っていた白い方が、被さるように胸の上に顔を置いてくる。細いけれど、会った時よりも成長した身体を抱いて、波にふたりで身を任せる。

 空を見上げれば、どこまでも続く虹色のオーロラが見える。俺がつくり出すそれとは、まるで比べ物にならない美しさと儚さ。一瞬一瞬が移ろうが、また新たなプリズムを起こし、また消える。ここは、空さえ刹那主義らしい。

「本当に‥綺麗な場所ですね」

「ありがとう。私も、ここは気に入ってるの。あなたがそう言ってくれて、とても嬉しい‥‥。だけど、それだけ?」

「あなたも綺麗です。本当に、こんな綺麗で優しい方、初めて知りました」

「ふふふ‥‥私も、こんなに私に優しくて、私を知ろうとしてくれる存在、初めて知った。私が怖くないの?」

「怖いです。だけど、もうあなたがいないと俺は生きられない。俺をいつも見守っていて、それとたまに一緒に話して下さい。この彼岸での時間は、俺にとって特別です」

「‥‥うん。私も、あなたとの時間は、特別‥」

 長い白いまつ毛を閉じて、寝息を立て始めた。この柔らかい砂浜と柔らかい波に晒されて眠る時間は、俺にとっても特別だった。

「あなたは、俺にとっての特別です。本当に‥‥心の底から」




「無断外泊に、無許可の食事。自分の身体を過信しましたね」

 マスターと共に、翌朝病院に帰ったら、エイルさんからのお叱りの言葉を頂いてしまった。反論の余地もなく、ただただ聞き入れるしかない。隣のマスターも。

「カタリ君に続いて、エイルにもか‥‥」

「何か言いましたか?」

「彼にシャワーを、昨日は身体を拭く事しかしていないので」

「‥‥わかりました。もうひとりで行けますね」

 何か言おうとしたが、マスターに手で口を塞がれてる。マスターの顔に頷いて、クローゼットから着替えを持ち、廊下に逃げ出す。

「何もかも、世話になってるか‥。戻ったら、お礼を言わないと」

 既に着替えた病院着で、廊下を歩く。もう冷房でもかかっていいのではないかと、思う程の熱気が廊下を漂っている。人の少なさが、唯一の救いだった。

「おはようございま~す」

「おはようございます‥‥どうされたんですか?」

 先輩かと思っていたが、実は同年代だった女生徒が廊下に立っていた。

「もう退院されたのでは?」

「え~と、あの騒ぎがあったせいで、入院が延長しちゃいまして」

「‥‥すみません」

「ん?大丈夫ですよ。怪我なんてしてません。聞き取りと、検査の為に入院が少しだけ伸びただけですから。あの‥‥なんでしたっけ?」

 何を思い出そうとしているのか、わからないが、口元に指をあてて、悩み始めた。

「あ、そうそう。あの襲撃はあなたが関わっているのですか?」

「‥‥言えません」

「ふふ、大丈夫。責めている訳ではありませんよ。それに、私、これでも凄いんですよ~!!」

 両の手で拳を作り、自身の強さをアピールしてくる。病院着の上からでもわかったが、もしかてマヤカ並みではないだろうか。

「それに、機関や病院の方々が守ってくれたので、怪我ひとつありませ~ん」

「‥‥良かった。じゃあ、今日こそ退院ですか?」

「はい、そうですよ。これからシャワーですか?」

 そう聞かれて、はい、と頷いたら、「では、そこまでご一緒しませんか?」と手を叩いて誘ってくれた。断る必要もないのでふたりで歩く事にした。だが、ただ一緒に並んで歩いているだけなのに、やけに上機嫌だった。退院が、そこまで嬉しいのだろうか。

「寮までは、遠いんですか?」

「ん?私は、近くのマンションで暮らしてるんですよ♪今度、カタリさんと一緒に遊びに来てくださいね」

「‥‥もしや、貴族の」

「あれ?私、お話ししましたか?」

 心底不思議といった感じに、首を捻ってくる。わかるに決まっている。この近くのマンションという事は、行政地区の住居。機関の人間を始め、外部からの客人を迎えるホテルが乱立している高級住宅街と呼べる地区。そこに、一介の学生である筈のこの人が住めている。つまり、守られる立場という事だ。

「もしかして、あなたも?」

「えー、まぁ、はい」

「まぁ!今後も仲良くさせて下さいね」

「‥‥俺は、もう勘当されているので、貴族って訳ではないんですけどね」

「それでも、大切なお友達ですから。退院したら、ぜひ遊びに来てくださいね」

 いわゆる愛想笑いなどではなく、本心から誘ってくれている。魔に連なる者を自身の部屋に、誘う。魔に連なる者の部屋に、人を誘う。どちらにしても、危険である事は変わらないが、まるで気にしていない。そこまで、腕に自信があるのだろうか。

「じゃあ、必ず行きますね。どこの学部なんですか?」

「私は、自然学ですよ。あなたは?」

「‥‥異端学です」

「異端学ですか。では、あなたが、機関に所属したという肩ですの?」

「‥‥はい。そうだと思います」

 やはり、知られていたか。直接は言わないが、この人が知っているという事は、学院や秘境の人間全てに知れ渡っているという事だろう。

「素敵♪」

 思わず聞き返してしまった。「何故ですか?」と。

「だって、私と同い年のあなたが機関に、その実力を認められたという事なのでしょう?とても、凄い事ではないかしら?本当なら、機関に所属するには、多くの試験や試練を受けなければならないのに。あ、気を悪くしないでね。そういったテストを受けなくても、機関はあなたを求めたという事なのでは?」

「‥‥いいえ、機関は俺に」

「俺に?」

 顔を覗き込んでくる。長い茶髪をかき上げて、見つめてくる瞳を見返せないでいると、ふと、笑ってきた。

「ごめんなさいね。だって、同い年なのに年下みたいで」

「カタリにも、何度か言われました。そんなに下に見えますか?」

「ふふ‥ごめんね。実は会った時から、年下だと思ってて。だって、車椅子に乗っているせいだとしても、自動販売機とエレベーターのボタンが押せないなんて、本当に子供っぽくて。ふふ‥♪」

 初めて会った時だった、慣れない入院生活に、慣れない車椅子生活のお陰で、不便な生活を強いられていた。

「もう杖がなくても歩けます!」

「うん、そうみたい。それに、カタリさんと一緒にリハビリをしていたのでしょう?少しだけ、覗かせて貰っちゃいました」

 もしかして、俺のリハビリは一種の娯楽となっていたのだろうか。エイルさんにも、前に覗かれていたらしいし。

「意外と、いたずらっ子ですね。子供みたいです」

「あ、言いましたね。ちょっとだけ怒っちゃいますよ」

 怒り方に余裕がある。見た目は雰囲気、性格もそうだが、俺よりも数段大人っぽい人だ。

 気付いた時には、既にシャワー室の前だった。まだ名前も知らない同級生に、軽く会釈をしてから、離れる。

「じゃあ、次は外で会いましょうね」

「はい、あ、名前、聞いていいですか?」

「そう言えば、まだ言ってませんでしたか。私は、アマネ。よろしくね」




「マキトの調書と、あの自称錬金術師の音声データ、見せてもらったよ」

「どう思った?」

「まだまだわからない事だらけだけど、嘘は言ってないと思う。私達じゃあ、わからない、アイツらにしかわからないを話してる気がする。それに、あのお爺さんが言ったんでしょう?だったら、嘘なんて付けないよ。リヒトはどう思った?」

「俺も、嘘だとは思わない。あの場で、今更嘘をついた所でどうしようもないし、何より、あいつはどこまで行っても、ただ雇われただけの他人。自分の命まで差し出して仕える必要はない」

 シビアな話だが、事実だ。逃亡生活と罪を償う生活なら、圧倒的に後者の方が楽だ。永遠と続く逃亡生活に耐えられる人間など、そうそういない。

「それで、マヤカはなんだって?地下の事は」

「それが、どこを探しても見つからないらしいの。もう逃げたか、まだ見つかってない部屋があるのか。種だってまだ見つかってないのに」

「レイラインに身投げでもされたら、面倒だ」

「それならそれでいいんじゃない?言ってたんでしょう?あいつに家督を継がせる気なんて無いって」

「俺も継ぐ気無いからだよ。あいつを牢屋の中にいようが、無理やり継がせてやる」

「言えてる。お爺さんには悪いけど、リヒトは私と一緒に暮らす訳だし♪」

 ベットに座っている俺の隣に座って、腕を取ってくる。カタリの呼気と香り、それにブレザーを脱いだYシャツ越しの感触に、安堵する。

「前に名代とか言ってただろう。いいのか?」

「お金には興味あるけど、やっぱり喋るお金は、いらないの。それに、私には錬金術師が残した資産があるわけだし。わかるでしょう?時代時代を超えて、次世代の為に残し続けた錬金術師の遺産。言っとくけど、並みの額じゃないから」

「わかるよ。だって、何か欲しければ、自力で生み出してただろう。俺は直接見せて貰えなかったけど。—――やっぱり、金とか、あるのか?」

「気になる~?いつか教えてあげる♪それより、それで誤魔化してるつもり?」

 カタリが鼻で笑ってきた。胸に沈む腕の感覚を感じ取っていたのが、バレてしまったらしい。だけど、これは仕方ない。

「‥‥なんか、カタリ。やっぱり」

「やっぱり?」

「成長した‥‥そうだよな。カタリも、もう高校生だし‥」

「そうだよ。もう高校生」

 ここに来る前から、ずっと一緒にいた幼馴染。そして、ずっと愛を誓いあっていた恋人。今もその気持ちは変わらない。それどころか、更にその気持ちが強くなった気さえする。

「いつまでも子供じゃないんだよ。‥‥昨日、先生から連絡が来て、謝られたんだけどさ。大丈夫だった?」

「‥‥そうか。マスターが‥。俺は大丈夫だったよ。だけど、マスターには、酷い事言った」

「そう‥‥。だけど、先生も、リヒトには酷い事をしたって、言ったって。何、言われたの?」

「—―言いたくない」

 カタリをベットに押して、胸の上に頭を乗せる。カタリの心音を聞いて、目を閉じる。何も言わないで、頭を抱いてくれるカタリは、決して笑わないでくれる。

「笑わないし、誰にも怒らないから、話して。ダメ?」

「‥‥少しだけ、家を探られたんだ。使ってた納屋も」

「そっか。見られちゃったんだ。‥‥よく頑張ったね」

 カタリの静かな心音と肺の上下に合わせて、頭に渦巻いていた鋭い痛みが取り除かれていく。

「褒めてくれるのか‥‥」

「うん。リヒトは、凄い頑張った。マヤカとロタ、それに先生にも知られたのに、ちゃんと話した。あなたは、誰よりも誇り高い。それに、かっこいい‥‥」

「‥‥カタリが、そう言ってくれるなら、嬉しいよ」

「そう、私を信じて。私は、もうリヒトを裏切らない。騙したり、傷つけたりしない。あなたは私の恋人。ずっと一緒にいる、あなただけのカタリ」

「だけど‥‥俺は」

「それでも、あなたはリヒト。私の恋人。その痛みも、苦しみもあなただけの物。他の誰でもない。リヒトの痛み。耐えて、乗り越えて。他の誰でもない、リヒトしか感じられないその痛みを、どうか呑み込んで」

 ゆっくりとカタリの香りを肺に溜める。少しずつだけど、胸からせり上がってきた汚濁が浄化されていくのがわかる。ただ、消え去った訳ではない。

「カタリの事は、信じられる。だけど、また人間に‥っ!!」

「それでいいよ」

 カタリに被さりながら、掴んでいたマットレスに爪を立てる。

「今更、人間の事なんて気にしなくていいから。邪魔してくるなら、叩き潰していい。私もそうするから。リヒトを傷つける敵は、私が許さない」

「俺以上に、俺の為に怒ってくれるのか?」

「当然じゃん。だって、私は‥‥リヒトが傷つくの、もう見たくない。恋人が苦しむのは、もう見たくない」

「‥‥俺も、またカタリが傷つけたくない。一緒にいよう。ふたりで、守ろう」

「ふふ‥‥守られるのは、リヒトでしょう?それに、いいの?私と一緒にいたら、また意地悪しちゃうよ?」

 頭につけていた手を頬に移して、つまんでくる。試しに噛みついてみるが、カタリは何も言わないで、自信ありげに舌を触ってくる。

「厚いし、温かい。いつも、これで私を舐めてるんだね?」

 声を出せない。どうにかカタリの指を振り払って顔を見つめる。少しだけ不満をそれで伝えてみたが、それさえ、カタリは楽しんで、唾液まみれの指を口に入れる。

「何、その目?私の方が、偉いのに」

 唾液を舐めた事で、カタリが興奮していくのがわかる。逃がさないように、足と足を絡めて、Yシャツの一番上を開けてくる。カタリの形のいい鎖骨が顔を覗かせてくる。

「また見てる。ねぇ、言ってみて。どこ見てるの?」

「‥‥いじめないんじゃなかったのか?」

「でも、リヒトの困ってる姿って、すごく面白いんだもん。みんなそう言ってるよ」

 最近、マヤカもロタも、マスターもそういう風に扱ってきたのは、そういう事か。

「なんでだろう。昔からそうなんだよね。リヒトの困ってる姿って、悪くないの。それに、私達のいじめられるの、悪くないでしょう?」

「そうかも‥‥いや、違う!」

「あ、そう。じゃあ、降りて。もう用はないから」

「‥‥ごめん、一緒にいて」

「ほら、私の方が偉い♪」

 心底、嬉しそうに頬と頭を撫でてくる。しかも、下腹部に肘をつきつけて、痛めつけてくる。呼吸の苦しさを解消すべく、大きく息を吸うとその度にカタリの香りと呼気を吸ってしまう。

「また私でトリップしてるでしょう。どう?この香り。リヒトが気持ちよくなるように作ってきたんだけど」

「‥‥気持ちいい」

「ふーん、どう気持ちいいの?」

「カタリしか見えなくなってきた‥‥カタリ以外、考えられない‥‥」

 ベットやカーテン、それに壁さえ見えなくなってきた。何もない白い空間に、カタリとだけ放り出された感覚。何もない冷たい世界を感じる。そして、そんな世界に、ただひとり、強きでサディズムな恍惚の表情をしているカタリに、抱かれている。

「私しか見えない?ふん、私がそんなに好き?」

「好き‥‥」

「じゃあ、許してあげる。ほら、頑張って上がってきて」

 言われるままに、カタリの身体をよじ登って顔に達する。そこでカタリと唾液を交換して、声を吐息を出し合う。いつもよりも水分が多い舌に、舌の付け根や口蓋を貫かれる。

「どう?甘いでしょう?」

「‥‥酒みたい」

 甘い果実を熟成させて味が、カタリの唾液からしてくる。味どころか、顔に吹きかけられるだけで、意識が薄れて、尚更カタリしか見えなくなる。

「夢みたいだ‥‥口移しで、飲ませてもらってる‥‥」

「まだまだ夢は続くよ。じゃあ、次はどうする?」

「もう少し、飲みたい‥」

 確認も取らずに、カタリに縋りつく。しばらくカタリと共に体温を感じ合っていると、唇に指を付けられる。

「はい、もう終わり」

「なんで‥」

「あんまり長くすると、今日一日廃人みたいになっちゃうから」

 突然、カタリがどこからか水薬の入った小瓶を取り出し、口に含み、また口で飲ませてくれた。だけど、飲まされる薬が喉を通るたびに意識が覚醒していく。視界は開けていく。

「どう?楽しかった?」

 疲れ切った俺を、自身の身体で休ませてくれる。息も絶え絶えな俺を、鼻で笑ってくれる。

「‥‥夢?」

「そう。夢」

「でも、口は」

「口は本物。少しだけ、その唇と心を敏感にさせたの。楽しかったでしょう?」

「‥‥またしたい。でも、待たせる訳にはいかない」

 カタリから起き上がって、時間を確認する。そろそろだった。手を差し出して、ベットからカタリを引き越して、クローゼット内の白いローブを取り出す。

「誰か来る前に着替えちゃおう」

 カタリも自身のボストンバッグからローブを取り出し、腕を通し出す。

「サイズ、合わせたのか?」

「そうよ。内緒で」

「今度、俺のも見てくれ。もうちょっとデザインを変えたい」

 病院着を脱ぎ、白いボトムスを履く。最近は目の前での着替えに慣れてしまい、気恥ずかしさというものがだいぶ薄れていた。それは、カタリも同じらしく、何も言わないでクローゼットから上着を取り出してくれる。

「どう変えてみる?」

「この立った襟が気に食わない。それに、マントが長い。この袖も、これから暑くなるのに分厚過ぎる。それと」

「はいはい。終わたら、全部まとめて面倒見るから。後にしよう」

 前のボタンと肩のマントを金具で接続して、振っても落ちないようにしてくれる。

「う~ん、子供顔なリヒトには、少し大人っぽ過ぎるかな?」

 ローブや襟、袖を引っ張ってしわを無くしてくれるが、俺と同じくらい童顔なカタリには、言われたくなかった。

「そんな不満そうな顔しないで、事実でしょう。ほら、行こう」

 手を繋いで、廊下へと向かってくれる。

「杖はマヤカが持ってきてくれてる筈だから」

「カタリの杖は?」

「私も、もう列車に送ってるからいいの」

「順番万端か。‥‥うん、行こう」





「少し、変わった感じか?」

「そう。少し変えた。知り合いに、腕利きがいるの」

 やけに近い距離、拳どころか紙一枚入らないぐらい腿をくっつけて座っているマヤカから修理した杖を受け取る。もともと既にレイピア風だった杖は、完全にレイピアとなっていた。

「仕込みレイピア?」

「そう言うの?」

 試しに鉛色の鞘からレイピアを引き抜いてみたら、白銀と言ってもいい程の光沢を放った刃がそこにあった。鞘に戻せば、一応は杖の景観を守ってこそいるが、もともとの杖の長さに加え、グリップとガードが長大化された為、かなり長い。

「使いこなせるでしょう?あんな長い槍を使ってるんだから」

「まぁ、そうかもしれない。いや、使えるさ」

 杖の切っ先で床を突いて、音を出す。その音にロタが微かに笑い、カタリも頷いてくれる。

「感謝してよ。それの金属、私が提供したんだから」

「‥‥錬金術師の遺産か。よくオーダーが許したな?」

「—―ええ」

「‥‥聞かない方が良さそうだな」

 恐らく、不許可だろう。

「そもそも、オーダーと機関は同列。別にバレたところで、何も問題はない。それに、オーダーだって大した事ないってわかったでしょう?」

「それなりの人はいたみたいだけど、所詮ただの人間の寄せ集めだ。俺達の足元にも届かない。鉛と火薬が無いと何も出来ないなんて、この俺達の街だと一日も生きられない」

「言えてる。後、数がいないと何も出来ないところとか。手が足りないなら、こういう子を作ればいいのに」

 カタリが銀の腕で、座っている銀の狼を撫でる。だが嬉しいとも腹立たしいとも、感じていない狼は、何も言わずに床に伏せた。

「その子には名前が付いた。マーナガルム。マーナと呼んであげて」

「いい名前ですね。私への当てつけ?」

「いいえ。オーダーが勝手に付けたの。私は、もう少し可愛らしい名前がよかったのに」

 本心で、別の可愛らしい名前が良かったらしく、ふたつの座席の真ん中にいる白銀の狼の頭を撫で始める。その光景に、ロタも牙を抜かれたようで、溜息ひとつしない。

「でも、マーナという名前も少しだけ可愛いから、そのままにした。ダメかしら?」

「いいえ。言われてみれば、悪くないですね。おいで、マーナ」

 その声に反応したマーナは、頭を上げてロタの手に頭を任せる。

「ふふふ‥あの巨人を、呼びつける事が出来るのは、悪くないかもしれません」

 マーナガルムとは、月を追いかける狼の別称と言われている。しかも、狼の姿をした巨人の一族中最強とさえ謳われた巨人。あらゆる死者の身体を喰らい、天と地を血で覆い太陽の光すら奪う。ある意味において、太陽すら越えると言える。

「マーナ、いい名前かも。こっちよ、マーナ」

 ロタとカタリが、ふたりして狼を呼びつけて、頭を撫でる。ゴーレムのできる事はひとつだけ。具体的に、何を命令させているのかわからないが、本物の動物のように言う事を聞いている。

「狼って言うか、犬っぽい?」

「ガルムの名を付けられたのは番犬の意味も持たせるため。だけど、私も今のマーナは嫌いじゃない。あなたも撫でてあげて。きっと喜んでくれる」

「ゴーレムなのにか‥」

 試しに背筋を撫でてみる。取っ掛かりの無い滑らかな銀が撫で心地の良さを伝えてくる。だが、戦闘中は、これを逆立てていたのを思い出し、血の気が引く。

「まさか、教授も自分の手駒が、ここで撫でられてるなんて思ってないだろうな」

「そうね。だけど、良い拾いものをした。ひと目で気に入って、あなたに運んでもらったけど、その甲斐はあった」

「それは、頑張った甲斐があったよ。それで、マキトの話、間違いないのか?」

「機関とオーダーはそう思ってる。この秘境中を探し回っても、どこにもいない。であれば、残っているのはあの写真とあの錬金術師の証言のみ。どうにか口を割らせて、種子の持ち主も話させた。当該人物、マキトらしい」

「俺が探すしかないって事か。いいじゃないか。ぶっ殺す‥」

 揺れる床に杖を突いて、覚悟を決める。

「にしても、マキトひとりに過剰じゃないか?」

 列車内を見渡す。そこには、杖をそれぞれ持った俺とカタリは勿論。狼を連れたマヤカに、誰が用意したか知らないが、矛先こそ細いが長い槍を持ったロタ。しかも、治療車両には、エイルさんが待ち構え、列車の番の為、マスターが人形を揃えて、別の車両で待ち構えていた。

「それだけ、彼は恨みを買っているという事。あなたもそうでしょう?」

「そうだ。俺が仕留める」

「その前に、一発殴らせて、うんん。何発も」

「では、その後、私が貫きます。特に頬をね」

「次は、この子に噛ませて。少しだけ牙を伸ばしたから、人ひとり噛み千切れるか、調べたい」

「その辺にしておきなさい。我ら外部監査科が、猟奇殺人など起こそうものなら、オーダーに‥‥いや、むしろ望まれるか?」

 扉を開けて入ってきた金髪のマスターは、考え事をしながら頭を撫でてくる。

「望まれるって、ついにマキトにオーダーから殺人許可が下りたんですか?」

「だとしたら、彼は大量破壊兵器か、大陸破壊兵器のスイッチを持っている事になるだろうな。オーダーは彼を真にこの国に仇なす犯罪、テロリストとした」

 それを聞いた瞬間、マヤカと狼の目つきが鋭く、俺ですら底冷えしそうな圧力を感じる。

「本当なのですね?マスター‥」

「ああ、本当だとも。少し前に、オーダー街に襲撃を仕掛けた馬鹿者は、廃人となってしまったから、残る証言者は彼ひとりとなった。この話はいつかゆっくりしよう」

 何の話か分からなくなったが、それを答えるように、頭からずらした手で耳に触れて、話してくれる。身震いする感覚を見て、微かに笑ってくる。

「ふふ‥ここの快感は始めてか?ますます、いじめたくなってしまうよ‥」

「先生、真面目に」

「では、真面目にいこう。彼はかならず生かして捕えろ。だが、この街には死体操りが出来る人間がいる。せめて、口が動かせるレベルで、原型を留めさせたまえよ。そして言っておこう。彼は魔に連なる者でありながら、我ら魔に連なる者とそれ以外の人間の関係、調和を乱す反逆者ともなった。彼を捕えるは、私達の存在意義だ」

「外部監査科‥確か、オーダーや魔に連なる者の犯罪者、裏切り者を始末するのが役目でしたね」

 今度は頬を撫でて頷いてくれる。

「その通り、そして、今度の敵は君の身内だ。改めて聞こうじゃないか。君に、人間をしかも身内を狩る覚悟はあるかい?」

 わかっている。魔に連なる者の親族しかも次期当主を始末、逮捕するとしたら、親族全てを敵に回す。その上、俺の親族は全て元から敵だ、あの爺さんも例外ではない。邪魔こそしなかったから、何もして来なかった奴らすら、完全に敵となる。

「あります」

「上位4番の貴族の家を、敵に回す覚悟もか?三貴族全てを、敵回すよりも危険かもしれないぞ」

「勿論です。それに、俺は―――人間の全てが敵だ」




「ふっ」

 笑ってしまった。

「ば、馬鹿どもがよ‥」

 この震えは恐怖などではない。これは怒りだ。しかも、正当な憤怒だ。

「あいつらは、次期当主である俺に怪我をさせた‥。俺を捕まえて、牢屋に入れた。俺は、負けてなんかいないのに。俺は、偉い‥俺は、剣でも魔術でも、なんでも出来る‥」

 家の奴らは、みんな何もさせてくれなかった。俺は次期当主なのだから、剣を振るう必要も、術やゴーレムを使う必要もない。そう言った。

「俺は、あのガキよりも強いんだ。だって、みんなそう言った。一度も負けてなんかいない。試合では、俺が4回勝った。最後の1回は、棄権してやった、与えた勝利だ‥」

 そうだ。俺がアイツの卑怯な二本の剣を打ち砕いた。叩きのめしてやった。

「頭も胸も腹も腕も。全部打ってやった‥あれだけ痛かったんだから‥」

 そうだ。俺がリヒトを何度も床に叩きつけた。あれだけいる分家の目の前で、叩き潰した。

「いつも通りだ‥‥。毎日、毎日、叩きつけてやったんだから。飯を目の前で踏みつぶして、床に這いつくばって喰うアイツを、踏みつけたんだから‥」

 今思い出しても、震えてくる。あの汚いボロ屋で寝るアイツを見ると、どんな事があっても楽しかった。笑えて、仕方なかった。そうだ、あれは怖かったんじゃない。

「俺が強かったんだ!!そうだ!!これがあれば、これさえあれば、俺の勝ちだ!!」

 振り向いて拳を叩きつける。痛みさえ忘れる美しさがある。分厚いガラス筒の中にある、樹に刺さる剣だ。

「俺が何も知らないって思ってるんだろう。そう思ってるんだろう!?知ってるぞ、お前は、ただの人間じゃなくなった!!どうせ、俺に対抗する為だろう!?卑怯がよ!!」

 あとは引き抜くだけで完成する。

「勝てる。勝てる勝てる勝てる勝てる!!!これさえあれば、これさえあれば!!俺は今度こそ!!‥今度こそ?何言ってるんだ。俺は、負けてなんていないのに‥」

 何かがおかしい気がする。だけど、何も問題ない。だって、俺は次期当主だから。

「あの剣も返してもらう。あれは、俺しか使えない。お前みたいな卑怯者じゃ無理だ。お前みたいな、二本も剣を使うやつじゃあ」




「さて、では私達はここで待機する。なにかあれば連絡を」

 短い会話を交わした後、四人と一匹で外に出る。機関の人間が既に何人も廊下を歩いていた。マヤカを先頭に、廊下を歩く姿は、まるで統一感がなく、堂々と闊歩する姿に見えただろう。しかも、巨大な狼が殿にいる為、廊下に端に寄ざるを得ない。

「機関も、いよいよ本気か?」

「見ての通り。仮にも敵は私達の世界の反逆者。逃がしでもすれば、私達の理が世に出てしまう。忘れないで、ここまで自由に私達が歩けるのは、秘境が常人には知られていないから」

「マキトがここの事と、自分の家の事を表で話すって思ってるのか?流石に、アイツでも、そんな事は――」

「思い出した?対象の親族は、元議員。しかも、あの公安を、今で言う所の特務課を使って、表の人間に襲撃を仕掛けた。表裏のバランスを崩す事を躊躇わない人間は、現在、彼ぐらいしかいないと思ってる」

 確かにマヤカの言う通りだと思った。だけど、それ以上に、聞き返してしまう事があった。

「公安‥そうか、そう言われたのか。だけど、特務課って何?」

 全て言い切る前に、マヤカが首だけで振り向いて、自身の口元に人差し指を置いた。ここで話せる事ではないらしい。

「ここでの私達の役割は、知る事ではない。ごめんなさい」

「いいさ。全部終わたら、聞かせてもらうから」

 一歩前に出て、マヤカの隣に行く。胸の疼きが強くなってきたのがわかる。

「どうやら、樹を使って何かを始めてるらしい。種子を使ってる気がする」

「そう‥‥。ごめんなさい、あなたに、また見せる事になるのね」

「それこそいいよ。もう、決めた。それに、これが終われば、この痛みも消える。最後まで責任を取る。だから、トドメは俺にさせろ」

 マヤカよりも一歩前に出る。三人から鼻で笑われるが、それすら誇らしい。

 白いローブを着た雑魚共をかき分けて、俺がいた部屋に入る。そこには、俺が暴れた痕跡と共に、壁に叩きつけた人間達が、あの時と同じように立っていた。

「邪魔だ。出ていけ」

「聞いた通り。ここは私達が捜査する。あなた達は別の場所を探して」

 俺の言には、恐怖と共に、怒りが滲み出る顔を向けて来たが、マヤカに対しては、ただ恐怖だけを感じたらしく、大人しく部屋から出て行く。俺が変化した姿を忘れたのか、舌打ちをして通り過ぎていくので、水晶で背中を突いて、叩き出す。

「緊張感がない。自然学だと一日も持たない。機関の人間は、みんな仲が良いようで、何よりだ」

「そうね。みんな自分をエリートだと思ってるから、敵はいないと思っているの」

「会う人間、会う人間、全員が自分に頭を下げるって思ってるのね。リヒトが疎まれてる理由がわかった気がする。自分以上に実力と期待を持たれてる年下なんて、気に入らなくて仕方ないのね」

 カタリが、結晶があった台座に備わっていたコンソールを操作し始めた。何も言わないで操作しているが、マヤカもその事には、特別言及しない。

「カタリ、何調べてるんだ?」

「ん?あの自称錬金術師さんの調書に、結晶の破片を使ったってあったから、何かわかるんじゃないかって。例えば、どこに送ったか?とか」

「カタリにはそのまま調べて貰う事になってるから、あなたは足で探して」

「了解。ロタ、行こう」

 マヤカとカタリはここで調べるらしいので、ロタと共にサーバールームに入る。そこは、無人ではあるが、タブレットやノートパソコンと言った機器が、折りたたみデスクの上に並び、現在進行形でデータを調べ上げているらしかった。

「どう、何か感じますか?」

「‥‥少しだけ、痛い」

「平気?」

 槍を持たない手で、ロタが胸をさすってくれる。ロタの手に手を重ねて、少しだけ笑ってみる。

「捕まえた」

「捕まりましたね。私が捕まえる方なのに。外に出ますか?」

「いいや、大丈夫。これぐらいなら耐えられる」

 ロタと共に、痛みが強い方角に歩く。そこはあの錬金術師と樹の巨人がいた地点。ロタが床に縫い付けた傷がある場所だった。だが、あるのは壁ばかりで、強いて言えば冷房が効いているだけだった。

「前に入った時から感じてましてけど、どうしてこんなに寒いの?」

「サーバーはよく熱を出すのに、熱には弱いんだ。だからこうして、冷やさないとデータが飛ぶ」

「‥‥それは、大変。せっかくのセーブデータが」

 一体誰に教わったのか。PCかコンシューマーか知らないが、そういう知識を仕入れたらしい。感じていたが、徐々に世俗に染まって来ている気がする。

「手分けしよう。ここはサーバールームだから、ろくに調べてないだろうし」

「そうなの?」

「サーバーは、衝撃にも弱いんだ。だから、解析が完了してない現時点では、ろくに調べられてない」

 正確伝わったかどうかわからないが、自分なりに咀嚼出来たらしく、頷いてロタは部屋を探し始めた。

「‥‥何もない。だけど、これはなんだ」

 壁にはロタが付けた深い傷が残っている。それしかないからだろうか、目が離せない。それだけじゃない。触れたくてたまらない。

「なんだ」

 指でなぞってみる。そしてわかった。指が吸い寄せられた。空気を吸っている。

「‥‥向こうに部屋がある」

 その瞬間、固い音がした。音のした方向、ロタが槍の石突きで同じ壁を叩いていた。

「音が反響しません。吸収されています」

「ロタもそう思うか?」

「はい、それに見た目通りの素材ではないようです」

 槍で傷をつけながら戻ってきたロタが、改めて壁に矛先を突き入れる。そこには穴が開くが、一瞬でそれがふさがる。艶めかしさではない。穴の周辺が塵となって穴を埋めていく。だが、ロタが戦乙女の時に付けた傷は、そのままだった。

「どうやら、私の神格には敵わないようですね」

「だけど、何も持ってない訳じゃない。これは‥」

「わかりませんね。当然です。これは、私達の世界の技術」

 ロタが壁に触れて、さすり始める。敵意こそ持っているのがわかるが、それ以上に、懐かしさのような物を感じる。

「全く‥本当に‥‥忌々しい!!!」

 一瞬だけ黄金の髪に戻ったロタが、その槍で壁を引き裂いた。思わず絶句してしまった。壁は俺やロタは勿論、二人合わせても足りない程、長大な穴が開いた。

「なる程、巨人族を復活、再現したというのも、あながち嘘ではないようですね。まさか、技術を盗み使うなんて。ふふふ‥その技、私達の為に使えばよかったものを」

 黒髪に戻ったロタが、槍を持ったまま、口を押さて笑い始める。

「どうかした?」

「何、なんの音?」

 マヤカとカタリが、何事かと入ってくる。そこには、穴とも呼べない強大な門の前に立ったロタが笑う光景だった。ふたりとも、門よりもロタを見つめている。

「色々あったが、部屋を見つけた。どう思う?」

「そうね。丁度いい。私達も情報を見つけた」

 狼を連れたマヤカが、カタリと共に近づいてくる。ロタの肩に手を置いて、揺らすと「はっ!」と独特な驚き方をして、正気に戻ってくれた。

「あの、私」

「完璧だ。流石、俺のロタ」

「そ、そうです!!私は完璧なあなたのロタ!!やっと選ぶべきは私だと、気付きましたか?」

「もうとっくに選んでる。少し休もう」

 ロタの手を掴んで、ふたりを迎える。だが、カタリが走ってもう片方の杖を握っている方の手を掴んでくる。

「ロタ、交代」

「‥仕方ありません」

 大人しく離れていくロタを変わるように、カタリが腕を抱きしめてくれる。ローブの上からでもわかる巨大なカタリのふくらみを振り払えずに、黙っていると、カタリが鼻で笑ってくる。

「どうロタ?これが私のリヒトよ。リヒトの好みを一番知ってるのは私」

 そんなカタリの文言に、ロタは槍を抱きしめて不満を顔で表現してくる。

「そ、それで、得た情報って?」

「結晶は樹に使われたのは、間違いない。だけど、結晶をここから別に運び込んだ。勿論、どこからか運び込まれた。そのどちらもない」

「つまり、まだマキトはここにいる。結晶の欠片がここにあるって事は、少なくとも樹と種子はここにある。まぁ、逃げ出してる可能性も、無くもないけどね」

「ここに届けたって言ってたけど、それは結晶の破片を使う前の段階か‥。質問の仕方を間違えた。ここで作って、ここで使うつもりだったって事か。樹をどこかへ運んだ可能性は?」

「それは無い。教授も自称錬金術師さんも、結構乱暴に生命の樹を使ってたけど、本当は凄い繊細な代物なの。結晶を使いながら、成育しているとしたら、まず、動かせない」

 カタリが断言した。であれば、事実だ。また、家宝を使わせてしまったらしい。

「‥‥世話になってる。情報ってのは、他にもあるのか?」

「あるけど、それよりもこちらの方が重要、かもしれない」

 マヤカが狼を引き連れて、壁の門に触れる。向こう側から覗ける部屋は、教授の地下室に似通ってこそいるが、若干違う。あそこは大量生産という風だったが、ここは向こうのガラス管よりも巨大で、柱のようだった。それが数本、数が少ない。

「この子も通れそう。先導して」

 狼は、マヤカの叩く手に従って、傷を潜り抜けていく。

「話に集中しない程度に行きましょう。次はあなた」

「言われなくても」

 狼の尻尾に続いて傷に入る。気圧が変わるのがわかる。何より、不気味な感覚、そして虚無感を感じる。ガラス筒には、何も入っていない。いや、恐らく何か入っていたが、正解。

「一時だけど結晶が収められていた台座で、生命の樹が育てられていた」

「‥‥いい苗床だからか」

「そうだと思う。だけど、私達が思い描いていた生命の樹とは、違った」

 マヤカに手を伸ばして中に引き込む。胸に飛び込んできたマヤカが次を待つように指示してくるので、カタリ、ロタとそれぞれ手を伸ばし、胸を貸す。

「違うって?あと、ロタ、そろそろ‥」

「もう少し、私、不安で‥」

「仕方ない、って言う訳ないでしょう」

 なかなか離れないロタをカタリが引き離す。これだけの傷を作ってロタに対しても、変わらない扱いをするカタリも、相当な人外だった。

「生命の樹は異物を嫌うの。だけど、あの台座で精製されていたのは、異物を取り込んでた。具体的に、それがなんなのかはわからないけど、なんていうんだろう‥剣みたいな?」

「剣?なんの為に?」

「武器が欲しいのか、それともあれこそがアイツの狙いなのか、それはわからないけど、あのやり方はおかしい。あれじゃあ、巨人でも模した方がいいって感じ?」

 カタリも、マキトの狙いがわからなくて混乱しているようだった。だけど、樹に剣が突き刺さっている光景があるとすれば、思い当たる事がある。これは、儀式だ‥。

「ロタ‥」

「可能性はありますが、あなたが思っているような出力など出ません」

「私もそう思う。だって、あれは主神がリンゴに突き刺したから、常勝の剣になった訳だから、あの自称錬金術師とアイツじゃあ、どっちも取るに足らないでしょう?」

 俺が思い描いたそれはカタリの言う通り、常勝の剣だった。主神に施され、主神に折られた剣。それを持つ者は、必ず裏切りによって命を落とすとされている、まさしく魔剣だった。

「だけど、油断しないように。まがいなりにも、特別な実を成す特別な樹に突き刺さった剣を引き抜くという儀式をするという事は、彼は剣を持っている限り、戦士達の王になり得る。また、あなたに対して、毒と言えるものを使ってくる」

「‥わかってるよ。それに、もう俺の腕には、毒が仕込まれてる」

 左腕を見つめる。カタリの薬とマスターの力で、痛みや違和感などまるで感じないが、また毒が身体中に回った時、耐えられるかわからない。それどころか――。

「リヒトの身体は、既に毒が回ってる。今耐えられるのは、毒と毒で均衡を保ってるから。もし、違う毒が身体に入ったら」

「入ったら?」

「死ぬほど痛いと思う。でも、絶対死なせないから、安心して♪」

 俺を殺させないという自信と、死ほど痛いという確信を持ったカタリは、何よりも楽しそうだった。



「おかしい‥」

 しばらくガラス筒の林を歩いていたが、何も感じない。

「どうかした?」

「種子を感じない」

 胸に手を当ててみる。だけど、受けるのは、樹に近づいているという疼きだけ。もうこの痛みにも慣れてしまった。

「前にロタとここに入った時から、ここにマキトがいたとすれば、尚更おかしい。本当に、思った程じゃない」

「‥‥まさか」

「ああ、種子を潰した可能性がある」

 カタリが地面を強く踏みしめた。

「本っ当にあり得ない‥。あり得るの、それ‥」

「そもそも生命の樹を使うには、何かしらの生贄が必要。教授やあの技術者なら、何かしらの横紙破りをしてたかもしれないけど、マキトは違う。アイツは、ただの素人だ」

「‥‥ごめん。複雑、だよね‥」

「いいさ。仕方ない。だけど、少しだけ機関とかオーダーに叱られるかも」

 俺を殺した樹の大本にして、回収せよと命じられた目標。見たくもなかったが、見ざるを得ない。だけど、消えてしまって喜ぶに喜べない。複雑な話だ。

「マヤカ、始末書の書き方教えて。もしくは、提出を求める奴を始末する方法」

「どちらも教えてあげる。お勧めは――言わないでおく。ここが行き止まり?」

 先頭の狼ことマーナが壁を引っ掻いて、振り返ってくる。今度はただのコンクリートらしきそれは、マーナの爪で傷がついたまま、消えない。

「何か感じる?」

「‥‥ああ、近くにいる気がする」

 疼きが少しだけ強くなる。心拍が上がっていくのも、感じる。

 マヤカがマーナの名を呼んだ瞬間、狼の毛皮が逆立ち、全身に銀の刃が浮き出る。だが、ロタもカタリも杖や槍を軽く握っただけで、背伸びをするだけに留める。

「もう少し緊張感を持ってやれよ」

「誰に?もしかして、アイツに?あり得ないでしょう?だって、どこまで行っても、ただの雑魚じゃん。ロタはどう思う?」

「カタリに同意見です。私だって、彼が真の戦士であるのなら、実力不足でも本気でお相手させて頂きます。けれど、彼では、ねぇー」

 カタリとふたりして、「ねぇー」と合唱した。どうやら、ロタを世俗に染まらせたのはカタリのようだ。だいぶ会った時の印象が変わってきた。

「それに、リヒトだって言ってたでしょう。これじゃあ、戦力が過剰だって」

「そうですね。あなたひとりどころか、私達の内ひとりでも充分」

「そうね。私もマーナのデビュー戦だから気合いを入れて来たけど、あの程度では」

 真後ろ、しかも俺ではなくロタに背後に、ガラス筒に隠れていたマキトが斬りかかってきた。だが、微かに笑ったロタは振り返りざまに、槍の矛先をぶつけて、マキトを弾き返した。

「お久しぶりです」

「俺を馬鹿にしたな!!!?」

 弾かれたのも構わず、ロタに刺突を繰り出してくるが、真横からカタリの銀の腕が剣の中ほどを掴み、動きを止める。

「久しぶりじゃん。相変わらず、弱いよね。年下の女の子に襲撃を仕掛けて、また負ける気分はどう?」

「離せよ!!野良女がよ!!!」

 片手を剣から離して、カタリの顔に拳を叩き入れようとしたが、正面から拳と拳をぶつけられて、マキトの拳がいびつに歪むのがわかる。

 言葉にならない悲痛な声を上げて、カタリが離した剣こと後退りをする事が出来た。それと同時に今度こそただの素手で顔面に拳を叩き込み、後ろに殴り飛ばす。

「う~ん、ちょっと物足りないけど、まぁ、満足」

「私はまだ満たされません。さぁ、まだまだ続けましょう」

 マキトが起き上がったのを確認し、槍を振り上げたロタは、振り上げた槍の勢いを使って、柄の端を掴み上げる。そのまま大上段から振り下ろした。だけど、ロタは少しだけ目を開いた。

 半テンポ遅れたとは言え、マキトの剣は確かにロタの槍を受け止め、足腰をバネにして押し留めた。

「くくく‥どうだ、どうだ!?これが、俺の実力、戦乙女にも引けを取らない剣聖だ!!」

「剣聖?そう、この世界の剣聖は、この程度なのですね」

 マキトは、ただ力を込められたと思っただろう。ただの腕力でロタは剣を押し返し、マキトを跪かせる。ただ、マキト以外には見えていた。一瞬で、一息で、ロタは槍を剣から浮かし、もう一度叩きつけた。刃ではなかったとは言え、顔面に槍を叩きつけられて、鼻から血が噴き出る。

「ひ、卑怯だ!!?槍なんて、こっちは剣なんだぞ!?」

「剣聖と自負したのなら、この程度跳ねのけなさい。まぁ、無理でしょうね」

 膝をついたマキトの脇腹に、ロタのつま先が抉り込み、ガラス筒に背中を叩きつける。息が出来ないのか、やり方を忘れたのか、唾液を流しながら、咆哮を向けてくる。

「私の事は覚えてる?」

「‥‥機関の女だ。俺が目を付けて、寄越される女だ‥‥」

「そう。あの愚人が、私を呼び出していたのは、そういう事だったのね。—――どこまで行っても、私達は人間に消費されるのね。‥ソソギ、カレン‥」

 小声で、ふたりの妹達の名を告げたマヤカは、後ろに狼であるマーナを連れて、銀の鎖と短剣を持ち出す。あれは、一時俺に向けられた武具だった。

「‥そうか。はははは‥やっと俺の意図が伝わったか。そうだよなぁ!!!俺こそ、魔に連なる者の未来と世界を背負う後継者!!そうだ!!お前は、俺の元で、人間の未来の為にその身体を捧げる!!手始めだ‥‥リヒトを殺せ!!」

「とか、言ってるけど、どうする?」

「あなたはどうして欲しい?また、縛って貰いたい?」

 それを聞いた瞬間、カタリが顔を赤く、ロタが微かに口元を歪ませた。

「別に好きな訳じゃない‥」

「でも、悪くもない。そう。じゃあ、その為にも、彼を逮捕しないと」

 狼の頭を撫でた時、狼はマキトの頭上を軽々越えて、逃げ場を無くす。あまりの狼の運動性能にマキトは声も出さず怯え、一歩前に出たマヤカに切っ先を向ける。

「私はマガツ機関の所属、そしてオーダー外部監査科にも所属している。両組織の名の下に、あなたを逮捕する。抵抗は自由にして、あなたにそんな賢い選択、期待していない」

「ふ、ふざけるな!!なんで、俺の価値に気づかない!?俺こそ、人間の未来の為にいる英雄だぞ!!?そんな卑怯者なんかとは、比べ物にならない人間としての価値が」

「人間であるあなたがそう言うなら、そうなんだと思う。だけど、なんで、私が人間如きの未来を案じないといけないの?」

 無防備に伸ばした腕から、マヤカの手の形を模した鎖が現れる。それだけじゃない、現在進行で鎖が音を立てて腕に、一本だった銀の短剣が爪の数だけ増える。

「私に人の道を説こうとするなら、意味がないからやめて。私は、人間の事なんてどうでもいいの」

 完成したのは、長い爪を持った魔女の手だった。

「だた便利だから、そして私のリヒトがいたから付き合っていただけ。だけど、もう私のリヒトは人間じゃない。なら、もうどうでもいい」

 そこにいたのは、まさしく魔女だった。人間の雰囲気など消え去り、目が赤く染まった人外。怒りや憎しみ、そんな直接的な敵愾心など感じない。人間の事など、ただの肉会としか見ていない、恐ろしい魔女だった。だが、そんな魔女から離れる事を、配下の狼は許さない。威嚇と床を引き裂く爪と牙が重なり合う音。

「残念だけど、私は直接は手を下せない。だけど、逃げたら、コロス。さぁ、あなたの番」

 振り返らずにかけられる音に頷いて、杖から刃を抜き出す。それと同時に刃に水晶と神の血を添わせる。刃が震えるのがわかる。やっと、自らの存在意義を、世界に刻まれた権利を行使できる。だけど、少しわがままなので、握って黙らせる。

「静かにしとけ‥」

 血を求めて、震えていた刃が静かに従ってくれる。

「いいぞ‥大人しく従え」

「何ぶつくさ言ってるんだよ!!?卑怯者!!こんなに数呼んで、恥ずかしないのか!!?」

「あれだけ手下を使ってたお前が言うのか?」

「俺は自分の力を使ったまでだ!!だけど、お前みたいな何も持ってない奴が‥卑怯な真似するんじゃねーよ!!!」

 どこか遠くの世界のように感じる。マキトの言う事は正しかった。そうだ。俺は、何も持っていなかった。何も持っていなかったから、身体を使った。杖でも剣でもゴーレムでもない。自分の血肉しか持っていなかった。

「‥‥そうだ。俺は、何も持ってない。全部、奪われた。誇りも力も何もかも」

 抜いたレイピアの鞘にも水晶をまとわせる。逆手持ちのそれに、更に水晶をまとわせ、錫杖に近い槍を造り出す。

「だから、逃げた。お前から、お前の家からも」

「そうだ!!やっと認めたか!!?お前は弱くて、卑怯で、それで雑魚だ!!」

「‥‥ああ、結局、俺は誰かの手を借りないと、ここで立つことすら出来ていない。このローブも杖も、人間世界での振る舞いだって、何も持ってなかった」

「なら、ここでシネよ!!死んでくれよ!!俺の為に、人間様の為によ!!」

「‥‥抜かせ。ただの人間」

 マキトの剣を十字に切り裂く。左手のレイピアを上から下に、右手の槍を左から右に――マキトの剣は、確かに強力だった。俺がただの竜であれば、ただの剣圧で身が引き裂かれていたかもしれない。だけど、俺はただの竜じゃない。

「人間様、違うだろう?」

 無防備になったマキトの腹に膝を叩き込み、もう一度ガラス筒に叩きつける。

「人間なんていう、何も知らない無知な生物に、慈悲をくれって言うんだろう?」

 伸ばした槍で、マキトごと振り払いガラス筒を切り裂き。だけど、やはり得物がいい。マキトは水晶の槍に運ばれて、次のガラス筒にぶつかり、止まる事が出来る。

「お前らただの人間は、どうしようもないくらい弱い。その領域でしか生きられない。跳び出す勇気も、触れる気概さえない、卑怯な種族だ。—―俺もそうだ。そうだった」

 槍を元の流さに戻し、ガラス片を被るマキトに近づく。

「だけど、人は数ばかりいる。だから、生贄を選べる。しかも、選んだ当人は、それを誇りなどと抜かす。選ばれた者の事なんて、まるで考えない怠惰な思考しか持っていないくせに」

 ローブに水晶をまとわせる。翼と鎧をまとった時、側頭部に剣が跳んでくる。まだ、書物を隠し持っていたようだ。

「ど、どうだ!?死んだか‥?」

「死ぬかよ。俺は、もう生贄に捧げられた。わかるか?もう俺には、自由なんて選べない。もうこの世界では、多くの人間の為の生贄としか生きられなし、死ねない。だけど、残念だったな」

 無言で剣の切っ先を向けて駆けてくるマキトに、レイピアを向ける。剣の切っ先とレイピアの切っ先を合わせて、均衡状態を作り出す。

「俺は多くの人間に、世界に、そしてあの方に選ばれた神獣リヒトだ。お前みたいな、誰にも選ばれていない人間が、勝てる訳ないだろう?」

 槍を剣に作り直す。そこに現れたのは、片方を細身の剣、片方を逆手持ちにした剣にしたあの時の俺だった。衆人環視の元、ただの人間を叩き伏せた姿。

「さぁ、あの時のやり直しだ」

 腕を広げて迎え入れる。だけど、マキトの様子が妙だった。だけど、わかった。

「ふ、ふふふふふ‥やり直し?そうか‥やっと、負けを認める気になったか‥」

「—――ああ、そうだ。俺は、お前に、人間に負けた。だけど、今は違う」

「違う‥?」

「お前ら人間には、わからないだろう。ここから先は、人間では見れない世界だ」

 二本の剣を床に突き刺す。突き刺された傷を始点に、部屋中に水晶の世界が広がる。美しいプリズムの樹木が乱立し、まだ残っていたガラス片を水晶の柱として取り込む。カタリやマヤカ、ロタの足元さえ俺の世界が取り込み、包む混んでいく。

「綺麗‥これが、リヒトの世界‥」

 マヤカが呟いた時には、壁など既に消えていた。ここは俺の鏡界、俺の夢だった。

 空は白いオーロラが輝き、世界を照らし出す。雲一つない世界に、太陽など感じさせない白い光が、更に水晶を輝かせる。

「この光景を見れるのは、選ばれた者だけだ。人間にも、世界にも、神にさえ選ばれた俺だけが、作れる俺だけの世界。‥‥構えろ、行くぞ」

 一歩踏み込む。水晶の破片をまき散らしながら、レイピアでマキトの剣を突きあげる。もう何度も見せた攻撃だというのに、まるで進歩していない。

「覚えてるか?」

 逆手から順手に戻した鞘でマキトの首を打つ。それだけで、水晶の地面に膝をつけさせる。そして鞘を持った手で、襟元を掴み引き上げる。

「わかるか?こうやって一回、お前は負けた」

「おれ、俺は負けてなんかいない!!!」

 剣など使わずに、完全なら拳を振り下ろしてくる。それが届く前に突き飛ばし、先を丸めたレイピアで鳩尾を突く。骨を避け、直接内臓にダメージを与えるカタリから習った一撃。それに、二回目を再現する。胸を抑えてマキトは、うめき声を上げて、更に膝を付く。

「もうわかるか?」

「何がだ‥俺は、まだ負けてなんか‥」

「‥‥悪かった」

 頭を下げない。だけど、俺は、マキトを向き合って来なかったから、こうなったのだとわかった。

「お前に、花なんて渡すべきじゃなかった。最後の試合。覚えてるか?」

「はっ!!決まってるだろう!?負け続けたお前に、俺が棄権してやって、最後ぐらい勝たせてやろうって」

「ああ、そうだ。お前は、みじめな顔をしていた」

 襟を掴みあげて、目を合わせる。本当に、何かしらの暗示をされているようで、あの時の記憶を改竄されているようだった。自分の記憶を、一切疑っていない。

「だから、これで終わりだ」

 起き上がらせて、背中を見せて距離を作る。そして、間合いを作ってやる。

「これから、俺は一度だけ攻撃する。避けてみろ、そうすれば、負けたと認めたやる」

 レイピアと杖を戻し、水晶をまとわせた一本の槍にする。

「やっぱりオマエは卑怯者だ!!俺は、剣で、お前は槍か!?なら、また見せてやる‥今度こそ、負けを認めさせてやるよ!!!」

 せっかくの距離を詰めてくる。ならば、見せたやらなければならない。完膚なきまでに、負けさせたやらないといけない。

「お前は負ける。可能性なんて、感じさせない。今度は、お前が逃げろ」

 右腕部を水晶で補強—――固定開始、脚部固定完了――仮想敵対者—―人間。

「お前は負ける。誰にも、言い訳も、慰めもさせない。今度こそ、お前に勝つ」

 角度、方向、演算終了。対象は回避しないと選択—―砲身仮定推察完了――擬似精製終了。槍と腕部、肩部に神の血を注入――槍の硬度、星撃ち落とせずの槍と同列化、完了――槍の赤熱化をカウントダウン開始—―3・2・1—―達成。

 その瞬間、足元から更に水晶が広がる。完全なら神獣と化した時と同じだった。だが、それの数舜後、槍を発射した。轟音だけで、地面の水晶を削り、過ぎ去った圧だけで、周りの水晶の樹々や柱をなぎ倒し、一直線にマキトの元に向かう。

 あまりにも力を持たせ過ぎた。俺自身の力で放った竜の息吹は、世界を歪め、空間を焼き切る。過ぎ去った跡に残る水晶の破片すら、後を追う程だった。

 そして、やはりと思った。マキトは、現実が見えていない。迫りくる竜の息吹が、見えていなかった。

 


「殺されかけた身内相手に、この程度でいいなんて。君は優しいな。少しばかり、優しすぎないか?」

 マキトをタンカーに乗せたところで、マスターは訝しむように、少しだけ不満そうに聞いてきた。

「左腕の火傷。しかも、掠った程度だから、これでは完治してしまう」

「‥‥そうでしょうね。本当なら、毒でも仕込むべきだったかもしれません。だけど、もういい。俺は、マキトに勝てた。それだけで、充分です」

 手元に戻した杖で床を叩いて、機関の人員に運べと命令する。数回、力を見せた事により、以前とは比べ物にならないくらい従順になってくれた。

「認められたようですね」

「嬉しいかい?」

「まさか、気味が悪いですよ」

「ふふふ‥違いない」

 マスターとマヤカは、この場を調べると言って留まる事にしたらしく、残った機関の人員と部屋中に散開し始めた。残るは、カタリとロタだった。

「じゃあ、帰る?」

「そうしようか。少し、疲れた」

「では、そのように」

 カタリとロタを背中に引き連れて、切り裂かれた壁から、身を乗り出す。そこには、幾人もの機関の人間が、サーバーにコードを繋ぎ、何かしらを話し合っていた。

「種子、結局取り戻せなかったね」

「仕方ない」

「結晶も、ありませんし」

「仕方ない。それにどっちにしろ、俺が困る事でもない。後は、任せよう」

 微かに笑うふたりを背中に、サーバー室からも出る。俺達の話が聞こえていらしい機関の面々が、結晶の話だけではなく、種子の話も初耳だったらしく、声や肩を掴んでくるが、睨みつけて黙らせる。

「邪魔だ、人間」

 肘を軽く突き入れて、話させて、俺だった物がいた部屋すら通り抜ける。

「でさ、これからどうする?」

「そうだな。取り敢えずは、退院手続きと復学手続きか‥面倒くさそうだし、マスターに任せるか」

「良いと思います」

 ロタが後押しをしてくれるので、そうする事にしよう。

「じゃあ、病院にある荷物、全部持ち帰っちゃおう」

「全部じゃなくていいよ。シャツなんて、そもそも使い捨てを前提にした物だってあったし。それに、結局一か月近く入院してたんだ。かなりあるぞ」

「そうね‥。じゃあ、そうしよっか」

 ひとり、一歩前に出たカタリが、ローブを翻しながら、振り向いてくれる。やっと肩の荷が下りたのは、俺だけじゃない。カタリもそうだった。

「これで、樹を使った罪は帳消しか?」

「‥‥気付いてたんだ。どうして、わかったの?」

「人間嫌いのカタリが、大人しく機関に従ってるなんて、おかしいって」

 無言で銀拳を打ち出してきたカタリは、目に見えて不機嫌そうに、背中を見せてくる。

「まぁ、そうだけどさ‥。うん、これで私は自由になったの。まぁ、元々監視なんてされてなかったけど」

 ロタに肩を貸してもらい、先に行ってしまうカタリの後ろを追って、列車に向かう。いくらカタリが優秀な学生だとしても、生命の樹を造り出し、しかも、それを使った。

「源樹と種は、機関に渡したのか?」

「そんな物持ってないけど?だって、使ったのは先生が持ってった生命の樹だし‥」

「‥‥ああ、あの残りか」

「‥‥そう。万が一拒絶反応でもあったら、大変だから、リヒトのを使ったの」

 一体いくつのルール違反をしたのか、想像もできない。カタリは技術を、マヤカは立場を、先生は知識を、全て捧げてくれた。そうしてやっと、俺はここで立っていられる。いくつもの手助けをして貰っていた。

「怒ってる?」

「全然」

「本当に?」

「本当に」

「そっか‥なら、いいや」

 カタリは先に行ってると言って列車のある廊下に駆けていった。休憩室近くの方が便利だが、今回はレイラインから入り込む形となっていた。本当なら追いかけるべきだが、ロタに肩を貸してもらっているので、それは出来なかった。

「お疲れ様です。身体はどうですか?」

「‥‥少しだけ、疲れた。氷が食べたい」

「はい、どうぞ」

 口に氷を放り込んでもらい。熱い身体を冷やす。

「後は、カタリに任せて、私達は休みましょう」

「ずっと世話ばかりされてる訳にはいかないだろう。ロタにも」

「因みにですが、これが終わったら、あなたの世話を頼むと言われていました」

「何もかも計画の内か‥じゃあ、世話してくれ」

「はい、お世話します」

 ロタと共に、あの休憩室に入り、椅子に体重を預ける。そこは、他の機関の人間も電子機器を持ち込んで何かしらの報告を受けていたが、休憩室としても解放されていたので、遠慮なく一息つけた。

「何か飲みますか?」

「蜂蜜酒」

「では、今夜でもお邪魔しますね。少し待っていて、コーヒーを用意してきます」

 確かに、機関が持ち込んだらしいコーヒーメーカーがあったので、任せる事にした。

「リヒト君、少しいいかな?」

「‥ええ、大丈夫です」

「では、失礼するよ」

 目の前に座ったのは、初老にも届かないまでも、長く魔に連なる者として生きた、一度、マヤカと共に俺を捕まえにきた機関一員だった。

「いいんですか?俺に構っていて」

「ああ、問題ないさ。それに、ここでの調査も勿論重要だが、私としては君の方が重要だと考えている。単刀直入に行こう。君は、機関に対して、どのような考えを持っている?」

「雑魚」

 その場にいた数人が、振り返ったが、無視して続ける。

「それ以外何かありますか?」

「私も、その中のひとりかい?」

「その通りです。俺にとって、人間は全員雑魚です」

 足を組んで答える。

「俺を散々苦しめておいて、使い切って、やっと終わったと思ったのに、帰ってきてからも俺に頼る。殺した相手に助けを求めるような愚鈍な種族に、何を期待しろと?」

「‥‥違いない。その通りだ。私も、一度は君を逮捕しようとした者。そんな私が、君に頼るなんて、無様は話だ。だが、わかっているだろう。君は、もう既に我ら魔に連なる者の世界の歯車としての役目を持ってしまった。それに、魔に連なる者とは、人間だけではない。君のような、人外になった者もその中のひとりだ」

「‥‥俺を一括りにする気か‥。人間と同列だと考えてるのかよ!!!?」

 杖に神域の水晶をまとわせ、首筋に突きつける。

「ふざけるなよ人間!!!テメェらが、俺をここまで狂わせたんだろうが!!?この期に及んで、まだ人間様の為に、その身を捧げろとでも、抜かす気か!!?」

「落ち着いて、さぁ」

 ロタに、目の前の机にコーヒーが置かれる。その瞬間、休憩室の空気が安らぐのがわかる。ロタのお陰で、俺が大人しくなると思っているようだ。だけど、それは違う。

「まずは話を聞きましょう。気に食わなければ、殺してしまえばいい」

 ロタの発言に、更に空気が凍りつく。見た目こそ人間ではあるが、ロタは真正の人外。人間の事など、露とも思っていない。

「‥‥わかった。続けて下さい」

 杖を突きつけたまま、促す。

「我らにとっての敵とは、魔に連なる者でありながら、自身を隠避しない無法者だ。君の敵はなんだ?」

「俺を求める人間達」

「それは、我らにとっても敵だ。いくらこの街にいる魔に連なる者であろうと、守るべき規範、秩序がある。だが、君を求めるという事は、それらを破る事に他ならない」

「それは、お前、失礼‥。あなた方も同じだ。俺にとっては、あなた方も敵だ」

「だが、私達にとって、君はただいるだけで、表裏のバランスを崩しかねない存在だ。君の目的は、君を求める敵を倒す事、私達が君に求めるのは、表側に身を晒さない事。目的が一致していないか?どうか、今後も我らに手を貸してくれないか?」

 飲み終わったコーヒーの紙コップを握りしめて、立ち上がる。

「くだらない。行こう、ロタ」

 ロタは、一言返事をしただけで、付いてきてくれる。

「君の答えは?私は、自身の目的を語ったが?」

「最初から決まってる―――人間は、俺の敵だ。だから、あなた方も敵だ」

「では、機関と敵対するか?」

「所詮人間だが、殺せばマヤカ達に手間をかける。俺の邪魔をしなければ、見逃してあげますよ」




「全然、休めませんでしたね」

「‥‥ごめん。俺が出ようとって言ったから」

「構いませんよ。あんなに人間が大量にいる部屋でなんて、休んだ気にならなかったでしょうし‥何か、あったのでしょうか?」

 外に出た瞬間、廊下を走る機関の人間が目に入った。俺やロタの事に目もくれず、機関とマスターの列車が方向へと駆けていく。そんな背中を見送った時、珍しくマヤカに大声で、呼びかけられた。

「どうした、何かあったのか?」

「説明してる暇はないの。すぐに来て――!!」

 腕を引かれるまま、マヤカと共に廊下を走る。

「マキトか!?」

「恐らく!!ロタ!!カタリは、計画通り!?」

「ええ、そうです!!だけど、一体何が!?」

「ごめんなさい、だけど、急いで!!」

 見た事もないマヤカの全速力の疾走と並列して、呼びかけるが、マヤカは答えてくれない。廊下に機関の人間が増えてきたが、それぞれどこかへと連絡をしているらしく、鬼気迫る状況であると伝わってくる。

「列車を占拠でもされたか!?」

「わからない。だけど、機関と外部監査科の列車に一切連絡が取れなくなった!!もし、列車が無くなったら、私達はここから出れない。足止めをされて、逃げられてしまう!!それに、カタリとエイル様が!!」

 限界に来ていた足の筋肉をすり減らし、マヤカの前に出る。機関の人混みを飛び越えて、レイラインに通じる機関のゲート扉に手を付くが、完全に閉鎖され開けられる気配はなかった。

「ここ以外に出口は!?」

「わからない。だけど、正式な出口がある筈。探して!!」

 後ろにいる機関の面々に命令して、散開させるが、ここで長く調査をしている機関が未だ見つけられていない。今すぐ見つける事は、ほぼ不可能と嫌でもわかった。

「チッ!!天井を、」

「ダメ!!ここで、落盤でも起きたら、私達の事が表に露呈する!!」

「ここでも、隠避が優先か‥!!」

 振り上げた杖に、マヤカが抱き着いて止めてくる。

 だけど、マヤカだってわかっている筈だ。被疑者であるマキトを、オーダーがテロリストの首謀者と判断し、機関が魔に連なる者の世界の反逆者と断定したアイツを逃がせば、何が起こるか。

「ここは、北部区画、そうだな?」

「え、そう。だけど‥」

「生命の樹の専門家、アイツはマキトによってあの館から逃がされた。だけど、そこからの足取りは、まだわかってない。そうだよな?」

「‥‥だけど、ここと館が繋がってるなんて」

「可能性はある筈だ。‥‥わかってる、今更そんな事がわかった所で、意味がないって。だけど、あの館にはマキトが使い潰したとしても、教授の財産がある。あの列車を追いかけられるものが」

「今から探す気か?それは、気長過ぎではないか?」

 後ろからマスターに声をかけられる。

「だが、いい着眼点さ。その通り、あそこには列車に追随できる代物がある」

「何か、策があるんですね?」

「ああ、あるとも。これがね」

 隣にいたロタが息を飲むのがわかる。そして、振り向いたマヤカも俺も息が出来なかった。エイルさんが、そこにいた。しかも、ふたりともあの夜に見たような黄金の髪。そして、白い翼があった。だけど、それは羽ではない。白い布、羽衣のようだった。

「ふふ、見惚れているな?どうだ、君の恋人である」

「ヘルヤ、その辺りで。カタリさんが待っています」

 一歩前に出た先生の美しさに、身じろいだ。芸術的とは言い難い、自然的な儚さと、鋼鉄のような芯を持った肉体。見つめるだけで、吸い込まれそうだった。

 呆然としている俺の頬に、白衣姿の先生が手を当ててくる。合わせた目を逸らせない。

「エイル、私の男の子を奪う気か?」

「さぁ?それは、彼に任せます。時間がありません。ロタ、あなたも」

「‥‥わかりました」

 頷いたロタは、ふたりの戦乙女の間に入り、髪を黄金に輝かせる。そして、ふたりと同じような神格さえ感じさせてくる戦乙女となる。この姿で、挑まれれば、俺は敗北していたかもしれない。一目でわかった。あまりに、次元が違う。

「話は後だ。我らの羽衣を使い、カタリ君の元に飛ばす。準備はいいかい?沈黙は、是と受け取るぞ」

 首から背中へと伸びていた布を、伸ばし、三人で俺だけを包んでくる。この布は、普段マスター達が使う布とは訳が違う。紛れもなく、神々の世界のそれだった。

 ワルキューレが描かれる時、同時に描かれるものがある。それは、騎乗する馬。だが、それはワルキューレ達が、世界中の英雄たちの元に乗り込む為の力を示す。であるならば、馬以外でも描かれるものもある。それが翼。それが、羽衣だった。

「我ら三人の戦乙女が送り出すのだ。敗北は許されない。リヒト、君への命令はひとつ」

「マキトを殺せ」

「頷きそうになってしまっただろう?違う、被疑者を確保しろ」

 その命令に頷き、三人の翼に身を任せる。羽衣が白い繭のようになり、外が見えなくなった時、狼が走ってくるのが聞こえた。だけど、マヤカは「あなたはダメ」と言って動きを止めたのがわかる。その後、周りを歩き始めるのも聞こえてきた。

「残念だが、君の質量は無理だ。諦めなさい」

 聞こえない筈の落胆の声さえ聞こえてきそうだった。

「マヤカ、ロタ‥騙したな?」

「良い演技だったでしょ?」

「勇者を誘うのです。私も、少しはごっこの真似事は出来ます」

 ふたりとも、急いで俺をここに運び、機関の面々に必死に走っている俺を見せつける。これこそが、作戦だったのか。

「列車の中では、秘境やオーダーの法や秩序は介入しない。わかっているかい?君は野放しにされたのではない。君は―――」



「これが、戦乙女の力か‥」

 レイラインを超え、物理的な列車の外壁すら越えて。列車の内部に押し出される。

「わかっているさ。俺は、自由になった訳じゃない。一時の余暇を与えられただけだ。この時間で、俺は何をするか、見たいんだろう」

 この列車を使えば、何処へでも行ける。何処にでも逃げられる。

「機関に敵対しないか‥」

 杖を握りしめて、水晶で錫杖のように伸ばし、床を突く。

「今更、俺に何を期待してるんだ。人間の味方になる訳ないだろう」

 人間は、ずっと俺の敵だった。ここまで逃げれば、きっと上手くいく、カタリと一緒に誰にも邪魔されないで暮らせる。だけど、違った。何処まで行っても、何処まで逃げても、俺が自由でいられる場所はなかった。

「人間の世界は、人間の為の運命が回る。元々、俺に居場所なんてなかったんだ。生贄に一度選ばれたら、ずっと生贄だ。家の生贄、学問の生贄、人間の生贄‥わかってたさ。もう、逃げられないって」

 どうする事もできない。この列車を使ったって同じだ。だから試されている。俺は、モルモット以下の扱いをされている。

「期待に応えるつもりはない。俺は、自分の為に居場所を守る」

 マキトは確実に先頭車両にいる。そうでなければ、この列車を盗むなんて真似できない。

「知らなかったよ。何も出来ないって思ってたのに、運転は出来たのか」

 車両内を歩き、扉を開ける。揺れる車両に耐えながら、座席や手すりを掴みながら、進む。

「今度はお前が逃げる番だ。お前は、負けた。俺に」

 これで終わる。家との縁は残るかもしれない、だけど、マキトとの縁は完全に断ち切れる。もうあの可哀想な顔を見ないで済む。もう罪悪感に苛まれないで済む。

「お前に感謝してやる。今日、この時間で、俺は人間と決別できる」





 長い列車を端から端まで歩いてきたが、カタリはいなかった。安堵感と共に一抹の寂しさを感じてしまう。だけど、悪くない気分だった。

「帰ったら、待っていてくれる。悪くないよな」

 最後の一枚。列車の機関部である先頭車両に到着した。生意気にも鍵がかかっていたので、錫杖で叩き壊し、蹴りを入れる。いつか見た扉の散弾銃を車両にばら撒く。

「よう」

「‥‥なんのようだ」

「‥‥お前、マキトか」

 違和感を感じた。ここにいるのはマキト以外いない。ズボンも黒と紫が混ざったようなスーツのままだった。ジャケットは脱いだのが、サスペンダーと白いYシャツだけだった。

「気に食わん。ようやく外の光景を見れると思ったが、一番最初は貴様か、劣化者」

「‥‥そうか。お前」

「お前?」

 滑るように、膝を突き出し迫ってきた。受けるには体力を使ってしまい過ぎたので、自分から後ろに跳ぶ。それに、ここでやり合う訳にはいかなかった。

「ふん。マキトを倒したが、所詮子供か。大人の力には、まるで届かないか、ふふ」

 マキト並みに馬鹿だとは思っていたが、もしかしてそれを超えるかもしれない。

「牢屋にいて、考える頭を無くしたか?」

「何?」

「そこは機関部。やり合う訳がないだろう。それとも、また別の誰かがやってくれるって思ってるのか?」

 今度は無言だった。つま先でわき腹を突き砕くように迫ってくるマキトの父親を後列両に誘い出す。だが、息吹を使った所為で、避ける体力は残されていなかった。

「くくく‥いい感触だったぞ」

 直撃を喰らってしまい、肋骨に違和感を感じる。だけど、教授にされた全身骨折とは、ほど遠い。まだまだ耐えられた。

「お前の父親は、無能だった。どうやったか知らないが、卑怯な真似をして私から当主の席を奪おうとした。表でも裏でも、顔を利かせていた私を差し置いて」

 思わず笑ってしまった。笑いながら、杖を使って起き上がる。

「親子揃って不気味だ。失せろ、私こそ真なる貴族。貴様のような劣化者とは違う」

「親父もそんな事言ってたよ。あんたは、あんたの言う通り、真なる貴族」

「少しは、考える頭を持っていたか。あの愚弟は」

「あんたみたいな奴が、本当の貴族の純血種。そんなあんたが、こんな暴力すら出来ないんて、本当に貴族っていうのは、もう終わりか」

 次の瞬間、今度はチェーンで編んだような手袋をした拳が顔面に跳んできたが、水晶をまとわせた拳で正面から打ち返す。これは想定外だったのか、目に見えて、後ろに大きく跳んだ。ここまで肉弾戦が得意だとは思わなかった。

「調子に乗るなよ。その力は、あの小娘の」

「小娘?」

 足の裏の床から水晶を呼び出し、前方に跳び出す。目を見開く事すら遅い、対応しようと上げる拳は、完全に手遅れだった。

 マキトのように、杖で肩を打ち、一瞬ひるませ、膝を叩き込み身体を『く』の字に曲がらせる。中身が出ないように掌底で喉を叩き、身体の中で済ませる。

 白目こそ向かないが、確実に意識を失ったところに、杖をハンマーの形に作り直し、回転しながら列車の壁に叩きつける。

「よく知らないけど、その力は手袋とサスペンダーのお陰か?どうせ自分で作った訳じゃないだろう」

「‥‥黙れ」

「黙れじゃなくて、誰に作って貰ったんだ?俺は機関の人間として、知らないといけない。隠すと為にならない。ほら、早く言え。誰から、貰ったんだ」

「黙れ!!!」

 身体すら借り物の人間は、倒れながら跳びかかってくる。ハンマーから戻した杖を支点に避けて、逆の壁に顔を打ち付ける。

「なんなんだ‥。なんで、まだ立っていられる!?」

 鼻から血を流したまま、気にも留めずに立ち上がってくる。

「なんで、まだ私の前に立っていられる!!?わかるか!?私は、真の魔貴族。この世界に、数える程もいない本当の」

「だからなんだ」

「は?」

「だから、なんだ?」

 壁に背を付けているマキトの父に近づき、間合いを詰める。

「お前、ただの人間だろう?そんなに、貴族っていう称号が大事か?」

「馬鹿が‥死ね!!」

 この間合いなら、討ち取れると思ったのか、チェーンの手袋を使い、眼球を狙ってくる。やはり、もしやと思ったがマキトより馬鹿だった。

 持ち替えた杖の先端で、腕の付け根、脇の下を抉り、拳の威力を抑える。そのまま顔で拳を受け止めてながら、杖で壁に押し返し、水晶の拳で顔面に一撃を入れる。

「まだマキトの方が、文明人らしかったよ」

 背中を壁で擦りながら、倒れていくマキトの父を見下ろし、レイピアを抜く。

「お前は、この場で俺が逮捕する。マキトを使った犯罪の幇助、並びに教唆。そしてこの列車を使った脱獄計画、また列車の強盗容疑。疑いはまだ腐る程あるが、一言で済ませる。お前は終わりだ。もう二度と、表にも裏にも出れると思うな」

「‥‥私は、この国の魔に連なる者の未来を思って」

「そんな言い訳は通じない。したければ、人間にしろ。俺は、もう人間じゃない」

 襟を掴み上げて、水晶の刃を首元に当てる。

「わかるか?俺は、もう死んでる?お前が殺したんだ。お前らが俺を造り出した」

「そ、そんな事がなんだっていうんだ‥。私は!!そんなひとひとりの命などという些末な事に動揺しない、私こそ正しき」

「講演なら、他所でやれ!!」

 真上から声を吐き出し、水晶の刃を分厚くさせる。

「お前の所為で、お前の所為で、俺は死んだ!!わかるか!?しかも、些末な事だと?お前は、どれだけ俺を殺せば気が済む!?お前の所為で、食事も風呂も無い生活を何年も続けた!!カタリに嘘をつき続けるのが、どれだけつらかったかわかるかよ!?何回、俺は自分を殺したかわかるか!!?」

腕や顔に水晶の鎧が勝手にまとっていくのがわかる。

「人間をやめて、やっとわかった。どこまでいっても人間は、自分の為なら何でも出来る。一度俺から全てを奪ったお前は、何度でも俺から奪える。何度でも捧げられる。知らないと思ったか?俺とマキトの試合、剣の長さも鋭さも全部違ったよな!?」

「し、しらない‥。私は、あれはマキトが‥」

「知らない訳ないだろうがよ!!‥‥ここで死ね」

 レイピアを首元に当てる。微かに流れる血が、水晶を朱に染めていく。

「こ、この身体はマキトの物だ‥‥!!この身体を殺しても、私には」

「知らないようだから、教えてやる。俺は、お前のいる牢屋ごと破壊できる」

 嘘でもハッタリでもない。紛れもない真実だ。

「殺せない!!お前は、機関に所属したのだろう!!?なら、殺せやしない!!」

「なら試してやろうか」

 襟を離し、床にひれ伏させる。そのまま手を踏みつけて、うめき声を出させる。

「シネ、ここでシネ!!マキトも、お前も、俺の敵だ。俺を殺した、ただの人間だ。だからシネ。今シネ。二度と、その面を俺に見せるな!!」

 頭蓋骨に切っ先を突き付ける。これでマキトは死ぬ。次は、こいつの父親だ。

「わ、わかった。マキトは好きにしろ。だが、私はもう二度とお前に顔を見せない。どうだ?お前の望み通りだろう‥?だから、列車の強奪も、全てマキトの責任にしてくれないか‥?」

 この顔が、あの時の顔を思い出させる。俺から家を奪い、食事を奪い、カタリとの関係も全て捨てろと言ったあの時を顔を。そして、マキトを叩きのめした時に見せてきた使用人共の顔を。全ての薄汚い人間の顔を――。

「ダメだからね」

  

 振り向いた時、頬を叩かれた。そして、襟を掴まれる。

「言ったよね。殺さないって、もう忘れた?」

「‥‥でも、俺は」

「これも言った。そんな人間みたいな反応しないで」

 マキトの父から足を退かして、レイピアから水晶から取り除く。それを見て、マキトの父がほくそ笑んだ瞬間、カタリが代わりに手を踏みつける。

「何逃げようとしてんの?」

 かかとを使って手の甲を踏み割り、悲痛な声を出させるが、それでもカタリは無表情なまま、続ける。

「良かったね。自分の身体じゃなくて、それに殺されなくて」

「ど、退かせっ!!私は、この私を誰だと!?」

「前科持ちの中年でしょ?息子の身体を使って学院に忍び込む、気持ち悪い趣味を持っているただの犯罪者。二度と、私を見ないでくれる?」

 手から足を退かした瞬間、つま先をマキトの鳩尾にすくうように突き入れて、意識を奪う。

「でさ、どうする?」

「‥‥帰ろう」

「どこに?」

「秘境に、俺達の街に帰ろう。手伝ってくれるか?」

「ふふん♪仕方ないなぁ~」

 腕に抱きついてくるカタリと共に、制御盤がある機関部に入る。そこは電車の運転室というよりも、入った事がなくてもわかった。ここは、機関車の運転席だった。けれど、それそのものではないのは、一目でわかった。制御盤らしき黒い箱には、サイコロの目のように、それぞれの面に文字が刻まれている。

「基本的にゴーレムによる自動運転。だけど、ちょっとした技術さえ持っていれば、操れる」

「ちょっとした?俺、そんな技術持ってないぞ」

「私が持ってるからいいの。ほら、手伝って」

 箱の文字を撫でるカタリの指示の元、何かしらのメーターが付いているハンドルやレバーを握っていると、カタリが制御盤らしき巨大な黒い箱を開けた。引っ張るように開けた箱の中から、長い黒いパイプのような物が出てくる。

「使えそうか?」

「当然でしょ?だけど、少しだけ時間がかかるから、待ってて。一旦停止させるね」

 言うな否や、列車にブレーキがかかったように体感スピードが徐々に落ちていく。だけど、慣性力を感じないので、本当に帆を畳んだ船のようだった。

 カタリから許可をもらい、レバーとハンドルを離すと「後ろを向いてて」と言われた。

「なんでだ?」

「いいから、早く。言っておくけど、これって機関の秘中の秘なの。もし、リヒトが覚えたら、捕まっちゃうから」

「わかったよ。じゃあ、何かあったら呼んで」

 部屋から出ようとしたが、カタリに腕を掴まれる。ここにいろ、という意味らしい。扉の前に立ち、カタリに背を向ける。

「どうかしたか?」

「—――いいの?」

「何が?」

「これ列車があれば、何処へでも行けるよ」

「でも、すぐ見つかるんじゃないか?」

「私を舐めてるの?生涯、誰にも見つからない所に行けるよ。これって、私の研究テーマなんだけど、どう?付き合う?」

「‥‥もし、行ったら、どうなる?」

「ここには二度と戻って来れない。みんな私達の敵になる」

 恐らく、カタリの言うみんなとは、本当にみんなの事。目に映る人間全てが敵となる。ならば、人間のいない誰にも見つからない場所に行けばいい。

「私、結構本気なんだけど?リヒトも言ってたでしょ。私とさえいられれば、それでいいって。私もだよ。ずっとリヒトとさえ一緒にいられれば、それでいい。どう?」

「いいかも。ずっとカタリと一緒で、二人きりで生活して、いつか家族も増やしてさ」

「でしょ?機関とオーダーにさえバレなければ、家族みんなで旅行とか遊びに行ってね、それでいつか私達の家に戻ってね。それでね―――」

 そんな生を謳歌出来れば、どれだけ楽しいだろうか。ふたりに似た子供と、どこかの家で一緒に暮らし、誰にも邪魔されないで、何処へでも行ける。きっと、楽しい、今までの人生なんて、経験なんてすぐに消え失せる幸福を見つける事が出来る。

「わかってる。わかってるんだ。そんな事、出来ないって」

「‥‥うん。そうだよ、もう私達には―――自由なんてない」

 例え、最初の内はそれが出来ても、いつか見つかってしまう。世界の壁を超えるには、この肉の身体はただの重みとなってしまう。だけど、身体がなければ、一緒にはいられない。身体を持っている以上、自由にはなれない。

「ずっと機関、ずっとオーダー。死ぬまで、ずっと監視される。わかってたんだ。きっと、私達はこの街に来た時どころか、家出した時から、ずっと監視されてたって」

「‥‥そうだ。ずっと俺達は誰かに見られてた。逃げた所で、目から逃げる事なんて出来ない。街にさえ逃げれば、実力さえ見せればって思ってたけど、そんな物、ただ逃げただけなんだ。酷いよ‥ただ、カタリと一緒にいたいだけなのに‥」

「泣かないで‥、私だって、そうなんだよ。リヒトと一緒にいる事が、そんなに罪深い事なのって、何度も思った。‥‥好きな人といるのって、すごい大変なんだね」

 黒い箱での作業を終えたらしく、カタリが蓋を閉めた音がした。

「はい、夢を見るのは、これで終わり。ちゃんと帰らないとね」

 カタリが背中から抱き着いてくれる。背中に、カタリの息を感じる。ローブ越しの体温と鈴を転がすような微笑が聞こえる。

「帰ったら、何する?」

「挨拶周りと、復学と、退院届けと」

「それじゃ、つまんない!!!」

「じゃあ、外食でもするか?」

 振り返って、カタリと抱き合う、ギリギリ合格ラインだったらしく、しばらく唸った後、胸の中で頷いてくれた。

「‥‥ていうか、それ、リヒトが食べたいだけじゃないの?」

「そうかもしれない。だけど、久しぶりのふたりだけの食事が、どっちかの部屋ってつまらないだろう?」

「‥‥なんか、誤魔化された気分。店は選んでおいてね」

 回転するように離れたカタリが、黒い箱の文字を撫でる。それだけで列車が動き、秘境に引き返し始めたのがわかる。

「この列車、錬金術師の技術なのか?」

「そうみたいだね。まぁ、私は初めて乗った時からなんとなくわかってたけど」

 機関部や制御盤を撫でるカタリは、どこか懐かしい物を見るような遠い目をしている。過去、ここに来た事があるよう、触った事があるよう、そんな雰囲気を持つ。

「でも、錬金術師って表にも裏にもそうそう顔を見せないのに、こんな大きい列車、何処の一派が」

「多分だけど、私達の一族だと思う」

「‥‥誰からか、聞いたのか?」

「まさか、これさえ見ればわかるよ。これは、あの人達の技術。向こうで寝てるアイツが、列車を操作出来たのは、きっと私達の技術を盗み見たから。多分、合ってる」

「やっぱり、アイツだったのか―――コロス」

 杖に水晶をまとわせた時、カタリが頬を撫でてくれた。

「この列車が、いつからあるのかは、分からない。だけどさ、きっとこれは少し前に整備されてる。この意味、分かる?」

「生きてる‥‥」

「そういう事。だから、いいの」

 カタリの家族に疑いを着せて、逮捕しようとしたのは、マキトの父だった。考えれば単純だった。カタリの家は、数百年は続く錬金術師の大家。その知識や術は、途方もない価値がある。この列車は、それらの一端でしかない。

「ずっと近くにいたのか‥‥ずっと」

「うん、そうだと思う。だけど、顔を見せる事は出来ないんだと思う。まだ、指名手配は続いてるし。だけどね、いいの。手配を撤回させる術、見つけたの」

 カタリが、これだけ機関やオーダーに手を貸していた理由が、ようやくわかった。俺の為でもあるのは間違いない。だけど、それだけじゃない。きっと家族の為。

「どう?私、魔に連なる者らしいでしょう?」

「‥‥ああ。それに、錬金術師らしい」

「そうよ。私も決めたし、わかったの。どうしたって家からは逃げられない。リヒトを救うには、家宝とか薬に頼るしかないって。だったら、都合よく使ってやればいいって。リヒトも、いいように使ってあげるからね」

「好きにしていい。俺も、カタリに恩を返したい――俺も決めた。家を使ってやろう」

「いいの?強制はしないよ?」

「面倒になったら、焼けばいい」

「ふふ、人間じゃないみたい」

「もう人間じゃないから」

 背中を向けているカタリの背に、胸を貸して肩を抱く。見上げるように、真緑の瞳をいたずらっ子ぽく細めてから、目を閉じてくる。いつまでしていただろうか、顔を向けてくるカタリの唇と舌に唾液を含ませて、機関室中に二人の声と、二人分の粘度のある唾液の音をさせる。いつの間にか抱き合い、背中と髪を撫でていた。

「あなたも私も、もうどこにも居場所はない。もうここしかない」

「‥‥世界は、狭いな」

「うん‥世界は、この世界は私達が思ってる以上に、ずっとずっと狭い。あなたは、きっとこの世界には狭いんだと思う。私もそう。倫理観とか、秩序とか、大事なのはわかる。そんな人間にとって都合のいい、この世界には正しいってされてるルールがある。私達は、ルールに縛れるしかない」

「‥なんでだろうな。俺達は、ずっと頑張ってきたのに。どこまで行っても、人間に決められる」

「‥うん。でもね、それが今の世界の支配者、人間の選んだ世界。私達を犠牲にして、やっと成り立てる、私達を犠牲にしないと、成り立たない残酷で正しい世界」

 カタリは、ずっと見ていた。世界の理不尽を。錬金術師という世界の表裏を見つめる立場で、ずっと見通していた。だから、俺をこの秘境に誘ってくれた。

「カタリ‥俺は、この世界が嫌いだ」

「私も‥こんな世界ずっと嫌い。それが、リヒトの研究テーマだったね」

「星を撃ち落とす。まだまだ、遠いけど‥」

「いつか叶うよ。だって、リヒトは私の神獣なんだから」

 二人で目を閉じて抱き合う。二人だけの心音しか聞こえない。機関部の音さえ、俺達の世界には介入出来ない。神獣と召喚者の世界には、誰も手を伸ばせない。

「だけど、俺は、この世界は誇れる。俺の世界には、カタリがいる。カタリが隣にいてくれる世界があるから、俺はまだこの世界を選んでいられる」

 あの方が言っていた。私達と似た種族がいる世界もある。多分、長く幸せに生きるのならば、そこを選ぶべきなのかもしれない。だけど、そこにもいつか限界が来る。きっと、また世界から排除される。

「俺にとっての世界は、カタリがいる場所だ。カタリ、ずっと俺の世界でいてくれ。ずっと、カタリの隣にいたい」

「ふふ‥また告白された。じゃあ、私のお願い聞いてくれたら、いいよ」

「またお願いか。いいぞ、なんでも叶えてやる。この神獣に願ってくれ、何がいい?」

「決まってるじゃん。ずっと私の世界にいて下さい。ずっと、私の為に生きて」

 列車が元のレールに続く風を掴んだらしく、金切声を上げて、車体を揺らしてくる。

「じゃあ、帰ろうっか。私達の街に」

 顔を赤く染めたカタリは、久しぶりに見る懐かしい満面の笑みだった。








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