第2話

 館は俺を拒んだ。鋼鉄製の門はいくら引いても動かず、触れた手に痛みを走らせた。

「毒か?—―カタリが入れた理由はこれか」

 あの手には人体に有害な毒物はほとんど効かないと自負していたのを思い出す。

 それでも、俺は一度入った事があるのに、門に触れる事さえ許してくれない。入った時は、自分の意思ではなかったからか、それとも実験体としてなら、入る事を許してくれたのだろうか。どちらにしろ、傲慢だ。所詮、ただの張りぼての分際で、俺を拒みやがった――壊してやる。

「‥‥仕方ないけど、門を壊すだけにして。館に傷一つでも」

「これから踏み込む場所を守れって、俺に言ってるのか?」

「‥‥私が怒らない程度に壊して」

 マヤカからの許可を得たので、意気揚々と杖を振り上げる。そして、放つ。

 鋼鉄製の門は余裕でひしゃげ、一本の道筋のを造り出してくれる。ついでに館自体の扉も破壊し尽くし、館内部の余計な防犯装置たる狼や熊などの猛獣の骨も大半を破壊した。

「これから探索を開始する。危険だと思ったら、館ごと壊すから確認してくれ」

「—―冗談として受け流す。何かわかったら、連絡して」

 連絡を切る前に大きなため息が聞こえた。破壊した時の音がしっかりと伝わったらしい。

 壊した門を踏み越えて、館内部に入り込む。地面や来訪者を迎え入れるように飾ってあった肖像画も粉々になっていたが、全体的な造形はそのままだった。威力をだいぶ落としたとしても、竜の息吹を喰らって、ここまで形が残っているとは、人間の術も馬鹿には出来ないようだ。

「—―覚えてる訳ないか」

 ここに来た記憶は無い、けれど、生命の樹を植え付けたのは、恐らくここだ。むしろ、この館以外の秘境内でそんな真似が出来る場所など、存在しない。

「機関が放置してた理由は、これが理由か。あの教授を逮捕するには、ここを見つけないとならない。だけど、教授を逮捕しないと、ここは見つけられない。俺が仕留めないと、機関も何も出来なかったのか」

 おおよその見当を付けて、玄関ホールを見渡す。この館は、あの教授の基地であり研究施設。だったら、俺を運び入れた研究材料の保管庫がある筈。

 十中八九、外のガラス張りのドームこそ研究材料の保管庫。であるならば、そこから調べるのが定石だろう――大人しく通してくれれば。

 全身を水晶の壁で守る。

「客に対してこの扱いか?」

 破壊し尽くせなかった絵画から、腕や槍が伸びてくる。肌で受けてもいいが、それをやるとローブが壊れる。

「このローブは高いんだ。量産品如きに触れさせる訳にはいかないんだよ――」

 杖を投げて、攻撃を一点に集中させる。あの絵画は高い確率で捕食対象を求めている。入ってきた外敵を館に取り込む為に。よって、価値ある杖も求めている。

「それもやらないけどな!!」

 水晶柱を手に呼び出す。宙で待っている杖を水晶の柱に閉じ込めて、長い槍を造り出す。槍に攻撃が集中している隙を狙い、水晶の槍を振り回す。

 襲ってくる絵画を横薙ぎに破壊し続ける。再度狙ってくる絵画の腕に突きを放ち、絵画ごと刺し貫く。迫ってくる槍を片方の手で握り潰し、絵画を壁から引きずり落とし、踏みつぶす。あらかた終わった時、マヤカに連絡をする。

「また何かやったの?」

「玄関を切り刻んだ。後で謝る」

「はぁ‥期待して待ってる」

 また溜息と共に、連絡を切る。

「襲ってきたのは、向こうだけど。まぁ、いいか」

 ここまで派手にやれば、館側も少しは大人しくなるだろう。意思を持つ館とは、面倒で仕方ない。本当に壊してやろうか?

「やめとこ。マヤカだけじゃなくて、先生にも怒られるし」

 玄関ホールを抜けて、外のガラス張りのドームに向こう。館を外から見た感じだと、ガラス張りのドームには館一階から渡り廊下で繋がっていた。

「見物ついでに歩くか」

 杖を手に戻して、ローブをなびかせる。先ほどの喧騒が嘘のように静けさを持った館は、あの教授の私物というところを抜けば、割と好みの見た目だった。

「取り潰しはしない。多分、機関が接収するって所か?」

 廊下に並んでいた絵画や蝋燭受けは、ただのインテリアらしく何もしてこない。もしかしたら、監視カメラの一種かもしれないが、それはそれ。震えて待って貰おう。

「自分のコピーを、いや、自分を長く生かせる為に、別の何かに魂を持たせるのは、不思議な事じゃない。館に命を移したかどうか知らないが、あれで終わる筈がない」

 あの魔人が、ただの一息で終わる訳がない。それに、あれだけでは怒りが収まらない。もっと、八つ裂きにして殺したい。

 長い廊下を歩いていると、また巨大な扉が見えてきた。方角としてガラス張りのドームの一つに繋がっている筈。だからこそ、守っているのかもしれないが。

「さて、壊すか」

 杖に水晶を添わせて、ドアノブを叩き壊し、扉の向こう側のノブも壊す。

 最後に蹴りを叩き込んで、扉を開け放つ。

「何もいないか‥つまらない」

 何が待ち受けいるのかと、期待していたが、扉の向こうはただの廊下が続いているだけだった。試しに、一歩踏み込んでみるが、何もない。

「ロビーで仕留められなかった事がないのかも」

 カタリという外敵に一度入り込まれた以上、二重三重の防衛を張るべきだが、もしかして全く気付かなかったのだろうか。だとすれば、いい加減、老いたな。

「魔に連なる者の誇りか‥。俺も、もしかしたら――」

 頷いていたかもしれない。望んで、あの身体を差し出したかもしれない。

 —――いや、あり得ない。

「カタリを一人にする訳ない。できる筈、ない」

 杖で廊下を叩いて歩いてみる。俺は今、機関の一員で、カタリの神獣。これ以上、誇るものはない。これ以上、誇らしいものはない。このローブの重みを、忘れる事はない。

「俺は、これから歴史を壊す。何百年も続いた誇りを、断ち切る」

 先生とマヤカから教えられた。あの教授の目的は、もう一度、魔に連なる者による世界を造り出す事。今のような、オーダーに首輪を付けられ、保護される前の世界。

 もう何十年、何世代も昔の話だが、あの老いぼれにとって、それはつい昨日の事なのだろう。急に生まれた若造に、命令されるのは、許せない。そう言っている。

「世界を造り直す――何も知らないんだな。それがどれだけ孤独か。孤独を恐れないあの方しかできない事なのか。やはり、あり得ない。今の世界に、魔に連なる者の居場所はほとんどない。老いぼれが、あのカレッジに引きこもってればよかったんだ」

 今のこの言葉だけで、どれだけの魔に連なる者の偉人が嘆くだろう。我らが切り拓いた道を歩く者として、許されざる言動だ。そう思うに決まってる。

「悪いな。俺は、人間じゃないんだ。人間程度の世界、いいように利用させて貰う」



 ガラス張りのドームの一つに入ると、外観と比べてだいぶ印象が変わった。巨大な樹木が出迎えると思ったが、中は発掘現場のように、地面にひと一人分の穴が開いていた。しかも、地下に続く階段にも、気になるところがある。

「やけに新しい。大理石の階段、にしても傷がない」

 館も古い印象をそれほど感じなかったが、地下へと続く白と黒の階段はつい最近作り上げたような印象を持たせてくる。正直、そこだけ浮いていた。

「増築してるにしては、センスがない――当たり」

 マヤカに連絡をする。

「地下への道を見つけた。カタリに確認を取りたい」

 マヤカは無言で、カタリに代わってくれた。

「大理石の階段、見つけた?」

「見つけた――ここに、俺がいたのか」

「‥‥私」

「言い難い事、言わせたな。大丈夫、俺は平気だから」

 外には、ガラス張りのドームはまだまだある。なのに、偶然、俺がいた場所に入ってしまった。引き寄せられてしまった気がする。生命の樹に――呼ばれている。

「—―探索の為だ。行ってくる」

「‥‥帰ってきて」

「約束するから」

 スマホを切って、階段を下りていく。大理石の階段は、固い高い足音を出してくれる。天井は、これも真新しいLEDだった。魔術でつくる光よりも、文明の利器に頼った方が便利なのだろう。魔に連なる者の世界など、これでは作れない。

「誇りなんて持ってないじゃないか。結局、ただの妄想か」

 かなり降りてきたが、まだ先は見えない。当然と言えば当然かもしれない。俺の抜け殻を山岳地帯である北部の最奥、地脈に頼らなければ入り込めない研究施設に連れて行ったのだから。館とあの研究施設はすぐ近くなのだろう。

「暇だ‥一個残しておくんだったな」

 口寂しい。何か食べたい。

「カタリーーお腹減ったーー」

「さっき食べたでしょう?我慢して」

「もうサンド残ってないー?」

「全部食べたでしょう?夕飯まで我慢して」

 取り付く島もないといった感じに、返答が帰ってくる。念話が可能という事は、そこまで離れている訳ではなさそうだ。

「結構降りてるけど、まだ着かないのか?」

「私の時も結構降りたから。気長に降りていって。それに、特別な足は持ってないでしょう?」

 カタリの術は、腕を銀に変える事だけではないらしいが、詳しくそれを教えてはくれない。手の内を知らないと、何かと不便ではあるが、同時に安心でもある。

 魅了や強制力のある力を使われた場合、全てを話してしまうかもしれないから。

「恐ろしいけど、これ、帰りは登るんだよな?」

 振り返ってゾッとした。一体何段あるのだろうか。

「そこは安心していいわ。地下にたどり着けば、楽に帰れる方法があるから、期待して待ってて」

「期待?」

「そう、だから、早く終わらせてきてね」

 得意げに言ってくるカタリは頼もしいが、やはり詳しく教えてくれない。エレベーターでもあるのだろうか?

「わかってるから。もう切るから、マヤカが真面目にしてって。じゃあ後でね」

 話し相手であるカタリからの連絡が切れてしまい、本格的につまらなくなった。

「魔に連なる者の所有する館の地下か‥。結構、また危ない事してる」

 誰に言うでもなく、呟いてみる。

 武者震いがしてくる。この先に通じているであろう地下室は、俺が殺された部屋でもある。それと同時に、十中八九、原樹がある。

 胸の疼きが早くなってくる。心臓の鼓動じゃない。身の危険を知らせてくると同時に、分かたれた枝葉が原樹に帰ろうとしている。リヒトというこの世界に刻まれた存在が、生命の樹に塗りつぶされた命が、帰ろうとしている。

「言われなくても帰るさ。一緒に燃やし尽くしてやる」

 原樹さえ枯れれば、この胸の疼きも消し去れる。そう感じる。

「何もかも終わらせる。俺の喰らった代償だ。全て、喰らってやる‥」



 地下へと続く階段の終点、そこにはとてもではないが、魔に連なる者の技術とは言い難い扉があった。光彩認証らしく、眼球ひとつ分を移し出す小さいモニターが扉のすぐ近くに設置されていた。しかも、丁寧に降りてきた階段を同じように、傷一つない大理石のような色合いとデザインの扉だった。壊し甲斐がある。

「通じるかな?」

 スマホを取り出すが、無論圏外だった。マヤカに連絡して壊していいか聞くつもりだったのに。

「カタリー?」

「はーい、なにー?」

「扉があるんだけど、どうやって入ったんだ?」

「壊せるでしょう?私だって、壊したんだから」

 カタリが壊して入ったからか、魔に連なる者では開ける事の難しい電子扉に変えたらようだ。

「もしかして、変わってる?」

「ああ、電子ロックがされた扉に変わってる。マヤカに聞いてくれないか?」

「ちょっと待っててね」

 念話を一度切って、カタリからの返答を待つ。長くなる事を覚悟したが、ものの数秒で返事が返ってきた。

「スマホのアプリを付けて、それで認証されるから」

「アプリ?」

 これはあの先生に渡された機種なので、あまり詳しくないが、画面に映し出されるアプリはひとつだけなので、すぐ見つかった。

「—―いいのか、これ」

「構わない。それは、オーダー自身が用意したもの」

 アプリは一瞬で立ち上がり、画面に眼球の呼び出すが、映し出される寸前に、オーダーの文字が浮かび上がった。てっきり、オーダーからの横流し品かと思った。

「あなたが思っている以上に、この秘境はオーダーと関係を持っているの」

「なら、便利に利用させて貰おうか」

 スマホ画面をモニターに付けると、電子音とともに、扉からいくつものロックが外れる音がする。カタリが破壊してから、恐らくは5か月は経っている。その間にここまでの設備を用意したとなると、思ったより、あの教授は顔が広かったようだ。

「ていうか、どうやって念話を?」

 これは俺とカタリの間だから出来る術なのに、なんの違和感もなしにマヤカが会話に参加している。

「あなたと私は肉体的に、強く繋がっているから。ふふ‥」

 鎖を残されているのだろうと、勝手に納得する。それ以上の可能性もあるが。

「ふふふ‥もうカタリだけの物じゃない。私の物でもあるの。覚えておいて――」

 首筋に指を這わされているのかと思う程、背筋がぞくりとした。

「‥‥とにかく、入る」

「そうして、ふふ‥」

 真面目にと言っておいて、自身は楽しそうで仕方ない感じだ。

 扉のロックが完全に外れた後、重い音を立てて、扉が開いていく、継ぎ目一つ見えなかった扉が左右に割かれていく光景は、不気味だ。

「‥‥チッ‥」

 わかった。ここで俺は殺された。

 白い扉から、黒い寝台が顔を見せる。それが舌のようで、吐き気がする。

「‥‥綺麗なもんだな」

 ここで俺に生命の樹を宿らせて、中身を吸い尽くした。そして、リヒトという存在を奪い取った。カタリが来た時には、もう遅かった。

「あの実こそが、俺だったのか‥」

 寝台に触れて、目をつぶる。あの時俺は、実を握り潰しそうとした。それは、文字通りの自殺行為だった。あの実こそが、もうリヒトという存在だったのだから。

「よくマヤカが許したな。新しい生命の樹を造り出すなんて」

 カタリが契約している存在は、どういうものなのか、全くわからない。けれど、高い確率で、それから知識と技術を得たのだろう。

「‥‥危ない橋、渡ってくれてたんだな。感謝しないと」

 寝台から離れて、部屋中を見渡す。俺に使ったであろう、メス替わりのガットフック。そして、無駄で邪魔な内臓を抉り取ったトングのような鋏。思い出してくる。

「よく‥よく、こんな部屋に、こんなところにいる俺を、止めてくれたな‥」

 大きく深呼吸をする。血生臭さなど感じない。消毒液と樹木の香りがする。

 だけど、これは全てが終わった後の部屋だ。樹を植え付けられて、死体となった俺がいる、しかも俺を改造し終わった直後の部屋など、長く耐えられる筈がない。

「カタリ‥‥会いたい‥」

 もう念話は届かないようだ。話しかけても、返事が聞こえない。

「甘えすぎか‥」

 寝台の奥には、まだ扉があった。近づくまでもない。あの奥にある。

 胸に手を当てて、確認する。

「その身体は、誰の身体だ?」

「無論、私だ」

 扉が一人で開け放たれる。

「入れ」

「立場がわかってないのか?」

 杖を引き抜き、開いた扉に先端を向ける。

「お前こそわかっていないようだな。ここは、私の手の上だ。愚かな‥くくく‥」

 地下室全体が震えているように感じる。だけど、それだけだ。

「自分の巣に引きこもってるモグラに、説教されるとは、思わなかった」

 寝台を杖で薙ぎ払い、壁に叩きつける。

「マガツ機関の命令できた。あんたを逮捕する」

「できるのかね?私の方が年上だが?」

 ただの脅しや張ったりではない。人間の寿命をとうに過ぎた長い年月をかけて、練り上げた魔術は、竜の叡智や鱗にも迫るだろう。だが、それは所詮、ただの竜だ。

「土竜如きが俺を脅す気か?」

 足音を立てて、寝台のある部屋を出る。そして。声のする部屋に入る。

「どうかね?」

「吐き気がする」

 光景が一変した。そこは遥か未来の箱舟のようだった。

 生命の樹と思わしき枝葉が、ガラス筒に保管されていた。しかも、一つや二つではない。どこまでも広い部屋一面に。それが並んでいる。青い液体に満たされているガラス筒は、それによって生命の樹の枝葉を腐らせないようにしているようだった。

「あれの中の一本が、お前に宿っていたのだぞ。同胞の気分は感じないか?」

 言い終わる前に、杖に水晶をまとわせて、一振りする。ガラス筒から流れ出る蠢く生命の樹を踏みつぶす。悲鳴のような声がした。だが、それはこの枝葉からじゃない。

「それにどれだけの価値があると知っている?」

「よく燃えそうだ」

「な、なな、な、何を!?」

 第三者の声がした。

「その樹には、私の半生がかかっているんだ!?それが燃える!?ふざけているのか!!」

「センスがない。見た目が悪い。こんなのに半生?あんたも見た目が悪いんだろうな」

 甲高い気色悪い声がひきつけでも起こしたように、過呼吸になる。どこから話しているか知らないが、忙しいことだ。

「そんなに大切ならしまっておくべきだ。頭もないのか?」

 生命の樹をこれだけ量産して培養出来ている以上、並みの頭ではないだろうが、それでもわかる。この声の持ち主は、ただただ馬鹿で愚かだ。

「もうこの館どころか、北部全体が封鎖されている。逃げられると思うな」

「‥‥まったく、やはり外部の人間などを当てにするべきではなかった」

 ガラス筒の影から、それが現れた。

「わかるか?この私が、一介の教授などという立場にいる甘んじている理由が?」

「教授の何が悪いんだ――」

 あの先生は、自身の教師という立場を重んじて、俺を救ってくれた。裏があるのは間違いないとしても、それでも、あの人は俺の恩師だ。

「あんたはそもそも教授や教師なんていう立場にも不相応だった。甘んじる?他に居場所がないから、無理矢理そこに留まってただけだろう」

「‥‥まるでわかっていない。やはり、愚かだ」

 見た目は教授のままだが、受ける圧力がまるで違う。これは――生命の樹。

「自分にも宿したのか‥」

「宿した?どこまで私を失望させれば、気が済む。喰らって造り出したのだ」

「お前、正気か?」

「我らは魔に連なる者だ。正気を疑う方が、正気を疑うがね?」

 向けてくる杖は赤ではない。緋色の、それこそ血のような色だった。傷一つない、つい昨日にでも造り出した真新しさ。あれも、生命の樹で造り出したのか。

「誰を捧げた」

「‥‥くくく‥」

 息を吸うように、笑い続ける。

 それが不気味で、改めてわかった。やはり、人間は理解できない。

「知らなかったようだな?これは、お前の命だ」

「‥‥なに?」

「機関にくれてやったのは、二つ目だ。もう既に、お前は果実を造り出していたのだよ。くくく‥まさか、気付かなかったのか?」

 あり得ない。生命の樹は、最低でも10人、しかもそれだって人類の宝とも言えるような魔道の天才達を運よく捧げられた場合だ。実際は、それの数倍は必要だ。

 しかも、マヤカの言葉では、あの樹でさえ、八割は完成していた。だというのに?

「自覚していないようだが、お前の身体は苗床として最高傑作だった。あの娘から奪ってやって正解だった。ふふふ‥我ながら、いい拾い物をした」

 ガラス筒を撫でて、指で叩く。固い音が耳に届き、我に返れた。

「冗談、じゃないのか?」

「己が価値を見据えるのも、魔に連なる者にとって必須だ。お前も言っていただろう?それに、私は魔術では嘘をつかない。お前は、本当に一人で果実を実らせた」

 喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。お前は、最高の生贄だと言われた。

「さぁ、次だ。その身体を調べさせろ。そして、次の果実を実らせ、私にもたらせ。そうすれば、お前の研究を完成させられ――」

 杖を投げる。ただの怒りを乗せた一撃は、教授の触れているガラス筒をたやすく貫通し、その余波で周りのガラス筒と生命の樹を切り裂いていく。

「やはり、わかっていないな。これらは、お前よりも長く生き、長く価値ある世界を造り出してくれる。お前の望みを叶えてくれるのだぞ?」

「その為にもう一度死ね。そう言うのか?」

「何事にも犠牲が必要だ。安心しろ、お前の後は私が」

「老いぼれ」

 そう言った瞬間、ガラス筒の影から人間とは思えない巨人の骨が、頭を掴んできた。ここまで接近されても気付かなかったなんて、俺は、やはり自覚が足りない。

「頭など不要だ――ここで潰してやろう!!」

 骨の軋む音が聞こえる――驚いた、痛みを感じる。

「それは北欧の巨人族の骨だ!!ただの量産品だと思うな!!」

「いや、所詮—―量産品だ」

 杖を手に戻し、軽く振る。それだけで腕が消し飛ぶが、身体は消えない。

 北欧の巨人。霧か山か知らないが、それらのどちらかだろう。

「貴様!!その骨に、どれだけの価値があるかわかっているのか!!?」

「俺の髪にも劣る」

 知能でもあるのか、失った腕を庇うように胸に当てて、下がっていく。

「ガキが調子に‥‥いいだろう。見せてくれる」

 部屋中からガラスが砕ける音がする。音の発生原は巨人の近く。巨人が残った腕を振るって砕いた。

 砕かれたガラス筒から生命の樹が零れ落ちていく。それらは意思を持ったように、巨人の骨に絡み付いていく。一本一本は細い枝葉が骨に絡み付き、血管や筋肉、腱を失った腕を造り出していく。それは、樹の巨人だった。

「これを見れる者は選ばれし者だけだ。これを見れただけでも、ここに逃げ込んだ価値があるな?」

 楽し気に伝えてくる姿は、ただのガキだった。

「創生の彼岸などという妄想に別れを告げる時だ。あの機関のガキから何を受け取ったか、どれほどか知らないが、これで終わりだ。では、さようなら――」

 うやうやしく頭を下げた時、樹の巨人の拳が迫ってきた。

 水晶を足元に呼び出し、自身を背後に弾き飛ばす。体調はいいが、それでも肉弾戦が出来るほど身体は操れていない。

 樹の巨人の拳は、水晶をやすやすと破壊し、地下室の床ごと砕く。ただの重量じゃない。神と血を分け、競り合い、その知識を死ぬまで求められた精霊達。それが北欧の巨人。あの一撃は、遠い世界で神に振るわれた一撃だ。まだ受けられない。

「その水晶も、前々から私にこそ相応しいと思っていたのだ。安心して預けれろ、私が育てて」

「抜かせ老いぼれ、若者がうらやましいだけだろう」

 怒りを巨人に伝えたのか、樹によって生まれた気道を使って、雄たけびを伝えてくる。そして、肩を使って突撃してくる。

 周りへの被害など無視した突撃は、直線上左右のガラス筒を全て破壊し、嵐のように迫ってくる。魔に連なる者にとって、使い魔を使っての戦闘は珍しくないが、それでも、ここまで場当たり的な攻撃には、違和感を持った。

「誰に使うつもりだった?何に使うつもりだった?」

 杖に水晶をまとわせて、巨人の足を貫き、床に縫い付ける。だが、それも数舜の時間稼ぎにもならない。息吹を使える隙もない。だけど――楽しい。

「チッ‥その顔も、ここで終わりだっ!」

 俺を迎え入れるように、巨人は両腕を開いて迫ってくる。

「多少は、物理法則を受けるのか。それに知能もある」

 足で地面を軽く叩く。水晶で身体を押し出し、巨人の脇を弾け飛ぶ。振るわれる樹腕を紙一重で通り過ぎ、ガラス筒を抱かせる。振り返られる前に、巨人を超える質量の水晶の腕を呼び出し、無防備な背中を捉えて、そのまま地下室の彼方へと飛ばす。壁につくまで水晶を呼び出し続けて壁に激突したのを見届ける。

「あの方の水晶の方が、格上か。所詮は巨人か‥」

 神が求め、恐れたとは言え、所詮は精霊の一種だ。神と世界を喰らった俺には敵わない。それに、向こうで似たようなものを食べさせられた。

「‥‥あり得ない」

「こっちに帰ってきてから、何度か言われたよ。あんたにも」

 向けられる目に、口を結ぶ。いまだ人間の姿をしている事が不思議に見えるているようだ。だけど、俺は選んで帰ってきた。

「もう終わりか?自然学の権威だろう。まだ、何かあるよな?」

「変わらぬな‥」

「は?」

「その目だ‥」

 部屋中からガラス筒が砕けると音がする。

「やはり、自覚がなかったのか。その目を、どれだけ我らが恐れたか」

 零れ落ちた樹々が、教授に向かって這いずっていく。巨人を造り出していた樹も骨から離れていく。

「あの巨人で死ななかった事、後悔させてやろう」

 杖を持ち上げ、かざすようにした時、身体中に樹木が絡み付き、完全に飲み込んだ。

 油断した――。

「この姿ならば、お前を殺せそうだ」

 振るわれたのは腕ではなかった。巨大な尾だった。

「竜の息吹。そう呼ばれていたな。確かに、現存さえしていれば、それぐらいの威力を持っていたのかもしれないが、それも今日までだ」

 巨大な顎が器用に、細かく操られる。樹で作られたとは思えない滑らかな動きだった。

「かつて、この姿の生物は世界を支配し、闊歩していた。であるならば、この姿には意味がある。人間が進化した姿と同じように。そして、あらゆる生物には遺伝子がある。その組み換えは、神を恐れぬ行いだと祓魔師どもは抜かしたが、私は違うと断言する」

 明滅する視界の中で、それは二足で立っていた。だが、想像とはまるで違う。

 太古の昔、誰もが思い描いたあの姿は、地上や海、そして空に至るまで、全てを蹂躙し、生きていた。確かに、その姿は今の人間に重なる部分もあるかもしれない。

「あの姿の生物は、まだ進化の途中だったのだと。遺伝子に組み込まれた姿は、まだ先がある。私は、その先が見たかった。人間のその先、この姿の先、それは一体どこへと向ける為の姿になるのか」

 水晶をまとった拳を鳩尾に叩き込む。意識を血反吐の代わりに取り戻す。

 その姿には翼があった。その姿には角があった。

「どうかね?私なりの答えは?」

「そっちこそ‥妄想は程々にしとけ‥」

 胸骨に肋骨、身体中の骨を確認する。先ほどの一撃で、いくつか折れた。

「まだ話せるか。くくく‥いい面だ‥」

 杖で態勢を維持するが、それも長く持たない。足が言う事を聞かない。

 片方の肩が上がらない。混乱して上げ方を思い出せない。

「‥‥厄介だ」

 背筋を伸ばして、息を整える。さっさと追撃を放てば良いものを。

「なぜ殺されないか、不思議に思っているな?」

「俺の中身が見たいんだろう‥」

 重い首を上げて、見据える。血が目に入って邪魔だ。

「その通りだ。それに、踊り食いも嫌いではないのでな。はははは!!」

 本体を探す気にもならない。おおよそ、弱点と言えるものは無いだろう。あったとしても俺が知る訳ない。

「機関の人間が、マヤカが全力で抗ったと言っても、見たいのか?」

 正直、その姿を見せる方法は、既に失われている。もう乖離が始まらない以上、俺にはその術がわからない。

「それに悪いが、もう出来ない」

「そうか、残念だ。ならば、あとで解剖させてもらおう」

 愚かだ。一部とは言え、機関の構成員が恐れた姿だというのに。

 いや――期待するだけ無駄だったのか。やはり、この世界の人間は、俺を受け入れる事はない。あったとしても、それは、俺の中身が見たいだけの、ただの獣。

 いや――それだけじゃなかったな。

「なぁ、最後に訊いていいか?」

「なんだ?元教え子として、質問を許そう」

 竜を偽ったそれに教えを乞うだなんて、屈辱的だ。

「なんで、俺を教室に入れた?」

「ん?そんな事か、お前が苗床として、価値があると思ったからだ」

「—―それだけか?」

「むしろそれ以外、何があると思っていた?」

「いや‥いいや‥」

 息吹には理由が必要。迷いがあってはならない。その条件、これで果たせた。

「俺は――多分、あんたに選ばれて、嬉しかったんだ」

 杖を持ち上げる。足りない部位は水晶で補助する。その瞬間、三本の鋭い爪が真上から振り落とされる。足の裏に水晶をまとわせて、滑るように回転して、断頭爪避けるが、前腕についている翼の風圧で吹き飛ばされる。

「で、あるならば、はやくその身体を寄越せ!!」

 マヤカに迫った狼とは比べ物にならない巨大な門が、襲いかかってくる。それを避けるべく、足元から水晶を呼び出し、宙に避ける。だが、やはり体積の関係で、風圧には抗えない。広い地下室の壁まで吹き飛ばされ、先ほどの樹の巨人と同じ立ち位置になる。

「終わりだ!!寄越せ――!!」

 終わりだよ。本当に――。

 杖を持ち上げる。水晶により固定された腕が重く、血の気を感じない。だけど、痛みも薄れているから好都合だ。

 対象の硬度を確認――測定不能。知らない事を調べる事は出来いないか。

 神の血を限界まで注入――もう腕に穴が開いているんだ。いくら入れても足りない。腕の形状を変更――完了――現在の強度では硬度不足――水晶を含めて仮定――完了。方角精度に問題あり――無視する。ここまで巨大だ。外す筈ない――。

「無駄だ――!!!」

 咆哮を放って迫ってくる。吐き気がする。喉奥に教授がいる。

「いいぞ‥こっちだ‥」

 口角が上がる。狙いを付ける必要はない。あの顔を、外すわけがない。

「お前は間違えた。その姿は、俺達だけの物だ――」




 息吹は右半分を抉り取った。右の角、右の腕、右の翼。俺に喰らいつく前にガラス片と共に床を滑ってきた。中から教授の呻き声が聞こえる。

「マヤカに怒られるかな?」

 地下室の壁を崩壊させて、向こう側が見える。

「原樹か‥」

 投げ放った杖を手元に戻し、床を突く。ただの振動だけで、足が震える。

「‥‥動けないなんて、選択ないんだよ!」

 息吹の余波でついに折れた足を、水晶で補強する。痛みこそ感じるが、まったく動けないわけじゃない。何より、清々しい気分だ。

「終わった‥やっとカタリに‥マヤカに‥」

 しがらみは消えた。原樹を断ち切る。それで終わり。やっと戻れる。

「先生にも会いたいし‥夜食でも催促に行くか?」

 怒られるかもしれないが、それはそれ。俺に餌付けをして、味を覚えさえた事を後悔して貰おう。

「でも、最初はマヤカに――」

 また、油断した。

 残っている腕を振るわれ、床に顔を滑らせる。床に散らばったガラス片が顔に食い込む。血の味がするのは、喉からか、それとも頬を貫いたか。

「まだ‥動ける、のか?」

 杖を使って置き上がるが、もう目を向けるしか出来ない。

「この身体の生命力を舐めるな‥」

 抉った箇所は、完全に焼き切れて、修復は出来ていないが、樹としての強さを見せつけてくる。新たな腕を生やしていた。だが、それも体重を完全に支える事は出来ていない。這いずって近づいてくる。

「ようやく、ようやく手にした糸口なんだ‥見逃す訳がないだろう」

 這ってくるその姿は、欲望を捨てきる事の出来ないただの老人だった。

「さぁ、寄越せ‥さもないと」

「「さもないと?」」

 声が聞こえた。

「‥‥あなたは‥」

 天井や壁、這いずっている教授の後方。全てを見てもどこにもいない。

「どこに?」

「大丈夫、ここにいる」

 身体の内側から聞こえた。そう感じた時、身体が軽くなった。痛みなど感じない。

「よく頑張った。偉い偉い!」

「‥‥こんな姿でも、褒めれくれますか?」

「うん!あなたは頑張った。諦めないで、自分の息吹を信じた。私は、それがすごい嬉しいの!!」

 息吹には誇りを持っている白い神が褒めてくれた。それが嬉しかった。

「だから、少しだけ手伝ってあげる」

 水晶が、自分の意思とは関係なく身体を覆っていく。

 俺が自分で練り上げる水晶とは比べ物にはならない本物の神域の水晶が、身体を守ってくれる。足元がせり上がっていくのがわかる。そして、身体が――。

「その姿が見たいのでしょう?なら、見せてあげよう」

 造り変えられている。新たな肉体を、上から被らされて、融合している感覚。

「あなたの内側は、誰にも渡さない。あなたは、私の物」

 水晶が卵のようになった時、水晶の柱が胸を貫いた。だけど、痛みはない。ただの幻覚か。それとも、神経すら支配されているのか。どちらにしても、悪い気分じゃない。

「くくく‥悪あがきか?諦めて、私に寄越せ‥」

 這いつくばっている筈の教授は、卵の内側からは見えない。何か言っているようだが、声も消えてしまった。聞こえるのは、あの方の声だけ。

「それに、私は怒っている。あんな方法で私達を模すだなんて――この星程度の生物の分際で、私達を欲しがるなんて――身の程を知らせるべき」

 手足が伸びていく、それと同時に指の先端に神経が繋がるのがわかる。何も問題はない。だけど、更に伸びていく。しかも、背中や頭にも水晶が刺さり形を変えていく。

「これは‥」

 自分の内側から聞こえる自分の声と、外に伝わる声がまるで違う。咆哮だ。

「前に言った事、覚えてる?怒りを息吹に乗せるのも、悪い事じゃない」

「迷いさえなければ」

「そう!」

 牙が伸びていくのもわかる。そして、内臓も造り変えられていく。

「怖い?」

 これから起こる事がわかった。過去に一度だけ、それに――人間から変位したようだが、その時の記憶は無い。これから俺は、記憶と意識を持ったまま、変わる。

 別の何かに変わる事には、恐怖を伴う。だから、教授も、被るだけに留めた。

「いいえ」

 俺は、望んで人間の姿をしている。もう、人間の姿である必要などないのに。

「俺は人間の皮を被っているだけです。だから、本来の姿に戻るだけです」

「そう。あなたは、人間のフリをしているだけ、だから、怖がらなくていい」

 音を立てて、水晶の卵が膨張し、砕けていくのがわかる。巨大化し続けた俺の身体を留められなくなっている。

「見せてあげて。自分達が触れた存在がどんなものなのか――創生の神を喰らった竜がどれほど恐ろしいか、身を以って教えてあげて」

 最後に微かに笑って、送り出してくれた。

「‥‥任せて下さい」

 内側から卵を砕く。振るうは、白い血を通した水晶の腕。踏みしめるは、神を踏みつぶした水晶の肢。羽ばたくは神を跪くかせた輝く水晶の翼。そして、神を焼き尽くし、喰らった顎を開ける。

「あ、あああ‥」

 真上からいつか到達したであろう、偽りの竜を見下ろす。

「あああ‥ああああ――!?」

 頭を踏みつけ、胴体に牙を差し、固定する。そしてただ持ち上げる。

 天井を破壊し、全力を以って原樹の見える壁に叩きつける。樹の身体はそれだけで崩壊し始める。だけど、樹の生命力はまだ消えていない。

「それだ‥それだ!!私の物だ!!」

 跳びかかる力を失ったとしても、まだ叫べる。ならば、見せてやろう。

 本当の、竜の息吹を。

 咆哮を上げる。教授とは比べ物にならない、美しい水晶の海の声。

 身体中の神の血を肺と喉に集める――牙が赤熱化していくのがわかる。角と翼が輝き辺り一面を焦がし始める、足元から水晶が世界に広がるのがわかる。地上では、決して使えない神殺しの力にして、世界を造り出す創生の力。

「さようなら――」

 一息がどこまでも続く。杖の一撃では到底及ばない、同じ地平すら見れない、竜の怒り。異界の知識や生物の究極系では、決して届かない、創生にして破壊の力。

 教授の肉体を燃やし尽くし、原樹を一瞬で灰塵にしても、まだ終わらない。

 辺りの残っている生命の樹へと薙ぎ払い、火の海に変える。

「脆い」

 息吹を止めて、怒りを口に出す。咆哮は山を揺るがし、全てを平伏させる。

「もっと、もっと――喰わせろ――!!」




「平気?」

 カタリの背中に捕まりながら意識を安定させる。

「‥‥お腹減った」

「帰る前に何か食べて行こうね」

「‥‥でも、俺」

「機関の人間が飲食店使っちゃダメなんていうルールないでしょう。いい?」

「ありがと‥」

 地下施設で待っていたら、カタリの声がした。出口ごと俺が破壊したようで、一苦労だったが、どうやら荷物を搬入する為の外へと出れるトンネルがあったようだ。

「こっちは私達が固めてたの――また、リヒトを利用したね」

「いいんだ‥。俺は、いつだってカタリに守られないと、何も出来ないんだから」

 銀のバイクに跨って、トンネルを疾走する。帰りの楽しみとは、こういう事だったか。確かに、この体調でなければ、絶叫でも上げていたかもしれない。

「手離しちゃダメだから、怒るからね」

「やっと、会えたんだ。絶対、離さない」

 未だ身体中骨折しているが、水晶やカタリの銀でどうにかバイクの後ろに乗る程度は出来ている。それに‥カタリに捕まれて、悪い気はしない。

「ねぇ、戻ったらさ」

「ああ」

「‥‥一緒に、逃げない?」

 言うと思っていた。

「全部、見られたのか?」

「‥‥そう。私より先に、マヤカの使い魔がここに到着してたから、ずっと見てた。リヒトが竜になったところも。全部、皆で」

 いよいよ、居場所がなくなってしまった。実家に帰る訳にもいかないし、かといってここで暮らすには、俺は派手にやり過ぎた。だけど――

「どこに行くんだ?」

「‥‥そう、だよね。ごめん忘れて」

「‥‥いつも、心配かけてるな」

 秘境でここまで盛大に変化した俺を知らない魔に連なる者など、もうどこを探してもいないだろう。もし、カタリと隠者になるしたら、秘境の追手は勿論、魔道を志す結社にまで追われる事になる。もう俺は、秘境や機関に保護されるしか、道はない。

「やっとここまで逃げたのにね――やっと二人きりで、生活できる歳になったのに」

「なら、一緒に暮らそう」

 一瞬、バイクが揺れた。

「ほ、本気?」

「ああ、本気。カタリは嫌か?」

「嫌じゃないけど――うんん!全然嫌じゃない!!一緒に暮らそう!!」

 ようやく言えたし、返事が聞けた。

「じゃあさ!どこで暮らす!?」

「そうだな‥ま、結局卒業するまで、この街だろうな」

「なら男女で暮らせる広い部屋を借りよう!買ってもいいし!」

 カタリの財力は、軽く俺を跳びぬけているとは思っていたが、まだ16歳で、部屋を買うって、一体何桁持っているのだろうか。

「部屋はどうする?お風呂は広い方がいいよね」

「寝室は一つでいいから‥」

 今度こそ、事故でも起こすんじゃないかと思った。

「い、一緒に寝るの!?毎晩!?」

「別の部屋でもいいかもな。毎日、どっちの部屋で寝るか決めて。それとも、俺が夜にそっちに行こうか?」

「それって、夜這‥的な?」

「そうなるな。カタリが来てもいいぞ」

 カタリに負け続けな俺が、やっとカタリに勝てた。想像以上に、初心だった。

「ま、負けないから!!私だって、リヒトの部屋に行くから!!‥毎朝‥」

 カタリに起こされる光景を思うと、朝が楽しみで仕方ないが、それは――。

「いつも通りだ」

「いつも通りだね」

 そろそろ終わりなのか、出口の明かりが見えてきたので、お互いのヘルメットをこすり付けて、二人だけの時間を始める事にした。



「しばらく入院して」

「先生ー」

「すまないが、そこまで重症では、私よりも医療関係者に頼るのが正しい。大人しく禁欲生活を送りなさい」

 タンカーに横になりながら、身体中に使っていた水晶を解く。身体中から血が溢れてきそうな感覚に落ちいる。話すのも辛くなってきた。

「禁欲?‥ねぇリヒト、先生と何してたの?」

「ああ。心配する必要はない。彼は大人しく私に看病されていたよ」

 本体は帰ったのか、黒髪の人形だけが待っていた。

「‥‥そうよね。動ける筈、ないし」

 タンカーで横になっている俺の腕を掴んで謝ってくる。

「痛い?」

「少しだけ。でも、すぐ治る――下手に解剖でも始めたら、全員殺す」

 魔道を知っている医療班に緊張を走らせる。俺の映像を見ていた奴らが大半だったらしく、今も俺の身体をベルトで固定してくれている男性の額に汗が見える。

「病院を焼き尽くすのはやめてくれ」

「それは人間の態度次第です。人間の常識を、俺に押し付けないように」

「最もな事だ。はぁ‥」

 溜息をついて額を突いてくる。内側にアレを隠している俺にこんな事を出来るのは、世界でも三人ぐらいだろう。

「あなたの事だから、本当にやるかもしれない。だから、杖はこちらで回収する」

「それが無いと不便なんだけど?」

「松葉杖で十分。大人しく完治したら、返してあげる」

 本来の杖を使い方を知らないらしい――渡せる筈ないか。

「俺はどうなる?」

「私にはわからない。機関もあなたに判断を下せないでいる。あまりにも、強大過ぎた‥‥。少なくとも、ゴールデンウイークが終わるまでは、何もないと思う」

「ゴールデンウイーク?」

「ずっと部屋にいて感覚が鈍った?もう、長期休暇に入ってる」

 気付かなかった。もうそんな時期か。しくじった。

「あーあ、旅行、行けなかったか‥」

「また来年、それに夏休みもあるし、それまで我慢するしかないね」

 カタリと約束していた休暇旅行。適当にだが、計画も組んでいたのに。

 先ほどから俺を固定していた男性の救急班がタンカーと救急車の準備が出来たと、先生に伝えた。部屋の手筈も整っていたのか、一言二言で会話は終わった。

「では、私達はこれで帰るとする。君は大人しく休んでいなさい」

「見舞い待ってますね」

 適当に返事をして救急車に乗せられる。誰かひとりぐらい乗ってくれるかと思ったが、誰も付き添いをしてくれなかった。つまらない。

「暇だーー」

 



 病院についてからも、特別扱いはなかった。いや、ベットを最優先で開けてくれている事こそ特別扱いなのかもしれない。

 最低限の治療と包帯が済み、CTスキャンを受けて、内部の骨折や損傷を見られるが、妙な真似はされない。少しばかり覚悟はしていたが、俺は機関の一員。無理に解剖したりすれば、病院まるごと明日には消えているかもしれない。秘境内どころか国内で、こと魔の関係で、機関に歯迎えるものはほとんどいない。

「はい、では息を吸って――」

 窓ガラスの向こうから、手慣れた言い方で命令してくる。肺のふくらみを確認して、穴が開いていないか調べているらしい。

「そのまま維持して――はい、吐いて――」

 寝心地として最悪の部類であるが、疲れ切った身体には、機器のもたらす温かい空気がそのまま眠気を誘ってくる。

 息を吸っても痛みを感じない。多少は骨が痛むが、それも慣れたものだ。身体を内側から作り直される事に比べれば、どうとでもなる。

「‥‥大まかな構造は、人間と変わらない。薬や治療も、これなら通じるでしょう」

 変位したとしても、これは人間を模した身体だ。だったら、人間の薬が効くのも、不思議ではないのかもしれない。

「あなたは、機関の人間ですか?」

「喋らないように。私は、ただの医者ですよ」

 機関の人間ではない。なのに、いや、だからこそ、俺を調べられるのか。

「‥‥信用してもいいんですか?」

「信用しなさい。私が呼び出した」

 操作室から、講師の声がした。

「彼女は、非人間族専属の医者だ。頼ってくれて構わない」

 先生が用意した医者だったらしい。どうりで、俺とこの医者しかいないと思った。ガラスの向こう側は部屋としてはかなり広いのに、ふたりしかいない事に違和感を持っていた。せっかく俺の中身が見れるのに、これでは見せ甲斐がない。

 CTスキャンが終わり、医者の指示に従い診察室に戻る。ただし、先ほどから上着を着せてくれない。

「何か羽織りたいんですが‥‥」

「包帯まみれが気になりますか?でも、我慢するように」

 椅子に座った状態で、触診を続けてくる。何か探しているようだ。

「—―私も、あの映像を見せてもらいました。言っておきます、あなたはこのままでは、病院から追い出される。大人しくしておくように」

「ついさっき、機関が君に判断を下した。早い事だ。自分で仕向けておいて、手に負えないとわかったら、恐れるなんて」

「‥‥処分したがってるんですね。俺を」

 膝の上で、拳を作る。それだけで、拳の包帯が血に染まる。

「力を抜きなさい」

 拳の上に講師の手が置かれる。血で汚れる事も気にしないで、握ってくれる。

「ゆっくり深呼吸をして。私は君の味方だ。もし、秘境から追放されたら、私が保護する。だけど、完全に人間の敵となってしまっては、カタリ君とマヤカ君が責任を取らされる。ふたりを裏切ってはいけない」

「—―人間が、仕向けたのに‥‥」

「それでもだ。それに、私の為でもある」

 医者と俺の間に入って、真正面から抱いてくれる。耐えられない夜は、毎晩こうしてくれた。

「ふふふ‥もう恥ずかしがらないのかね?怖がっている君も可愛かったのに」

「素直になった俺は、嫌いですか?」

「まさか‥」

 黒髪に顔をうずめて、大きく息を吸う。伸びた牙や爪が人間のそれに戻っていく。

「よしよし。いい子」

 離れた講師は、褒めながら頭を撫でてくれる。

「年下の子には、もう慣れた?」

「無論、彼以外にはまだ慣れないとも」

 俺の肩に手を置いて、自慢してくれる。

「‥‥まぁ、いいでしょう。どちらにしろ、君は秘境全体から懐疑的に見られているし、私は医者としてこの病院に勤めています。他の患者を傷つけるような行為は許せないので、そのつもりで」

「向こうがしてきたら?」

「私を呼びなさい。患者を守るのは、私の務めです」




 一人部屋だった。そうに決まっているとは思っていたが、有難い。

「どのくらいで退院ですかね?」

「ゴールデンウイークが終わるまでが、目安だな。それまでは大人しくしていなさい」

 講師に手助けをして貰い、ベットに這い上がる。これだけで、いい運動になりそうだ。

「ようやく、ゆっくり出来るな。この数週間、良く頑張ったね」

 ベットに横になった所で、胸を撫でてくれる。本当にあやされているようだ。

「俺、どのくらい先生の部屋で暮らしてたんですか?」

「ん?そうだな‥。大体10日と言ったところか?長いと感じるかね?君の目が覚めない日もあったから、実際はそのくらいだな」

 10日も俺は先生と生活していたのか。それは、だいぶ迷惑をかけたようだ。

「お世話になってます」

「構わないとも。看病というのは、慣れているのでね」

「娘さんですか?」

 そう言った瞬間、額を強めに突かれる。

「あの時は娘と言ったが、それは言葉のあやだ。妹と言いなさい」

「妹さんは、病弱だったんですか?」

「‥‥ああ、そうだね」

 椅子を持ってきて、隣に座ってくれる。人形とは言え、組んだ長い足がローブから飛び出る光景は、何度見ても目を引き寄せられる。

「ふふ、足が好みか?君もなかなか多趣味だな?」

「‥‥そうかもしれません」

 素直にそう言うと、満足そうに鼻で笑ってくれる。

「今日は私がずっとここにいよう。安心できるかな?」

 返答する為に手を伸ばす。掴んでくれたところで、目を閉じる。

 あれだけ引き裂きたいと思っていた人形が、今はその人形に頼らないと眠れない程になっている。痛みこそ消えたが、怒りはまだ消えない。

「寝ぼけて人間を殺してしまっては困るのでね。大人しくしなさい」

「大人しくしますよ。あの部屋でだって、そうだったでしょう?」

「何度も私を求めておいてか?くくく‥顔が赤いぞ?」

「抱いて眠っていただけです‥」

「男女が同じベットで眠るのだぞ?それは求めると言わないかね?」

 頬を引っ張って遊んでくる。他人の顔で遊ぶのは、この人の趣味だった。

「ふふ‥遊ぶには程々にしておこう。君に愛想を尽かされてしまう」

 握っている手を撫でて、体温を伝えてくれる。それだけで、眠気が攻めてくる。その上、吹きかけられる息が心地よくて――もう眠り一歩手前だった。

「眠いかね?」

「‥‥質問があります」

「許すよ。何かな?」

「俺をこうなるように仕向けたのは、あなたですね?」

 握っている手は変わらない。だけど、ゆっくりと力を籠められる。

「あの館は、俺がカレッジの教授を逮捕しないと、見つける事は出来なかった。だけど、あなたは何度見ても圧巻されると言った、カタリをあの場所に送り出したのも、あなただ」

「そうかもしれないね」

「マヤカとカタリに命令して、銀の生命の樹を作るように言ったのもあなただ。異世界に飛ばされていたのは、あなただけだ。カタリやマヤカじゃない」

「だとしたら?」

 呼吸がすぐ近くから感じる。目を開ける事が出来ない。もう眠い。

「俺の内側を使うには、銀の生命の樹を作り、それを使うまでに追い詰められないといけない。あの教授を逮捕するには、俺を使うのが便利だと思ったんですね?」

 唇を塞がれる。長い熱い舌が歯を撫でてから、引き抜かれる。

「口止めですか?」

「ご褒美だとも。よく気付いたね」

 頭を抱くように腕を伸ばし、耳を触って、くすぐってくる。

「あの教授が生命の樹を造り出し、生贄を求めているのは、前々から知られていた。その上で、私達は泳がせていた。誰かに手を伸ばすのを待つために」

 病院着の前を開いて、肌と包帯を撫でてくる。

「君が選ばれるのは、想定済みだった。だが、あの教授はあまりにも早すぎた。私達の想定を超えて、生命の樹を量産していたようでね。正直、私ではもはや手の施しようがなかった」

「そこで、帰ってきたのが俺だった」

 顔をしかめる。傷を触ってきた。

「大丈夫、傷を拭くだけだ」

 血が溢れてきたのがわかる。包帯が緩んできたわけではないが、熱を伴う睡眠により血流が早く、血管が広がっていく。

「あの映像を見て改めて思ったよ。私達ではどうにもならなかった。樹の巨人の時点で、私達には死人が出ていただろう。一体いくつの人形が破壊されていたか、想像もつかない」

 やわらかい布がひとりでに身体を拭いてくれる。

「最初は、君に破壊工作でもさせるつもりだった。だけど、マヤカ君の報告を受けて、勝手ながら作戦を変更した。君の中を使って、正面からあの魔人を倒すと」

 あらかた拭き終わったところで、布が消えていく。人形が手を使って前を戻してくれる。

「恨んでくれ。私達は君を捧げる事で秩序を維持しようと企み、失敗した。挙句の果てに、帰ってきた君を苦しめて、使って、重症を負わせた。すまなかった」

 痛みに慣れ過ぎた。自分の質量の数十倍を持つ樹の一撃を二度も受けた。その結果、この全身骨折だ。全うな人間であれば、目を覚まさない事もあり得ただろう。

「彼女達へ復讐をする権利?どこまで行っても、私は愚かだ。私こそ、君の復讐を受けるべき愚か者だ――虎の威を借りなければ、何も出来ていないのだから」

 離れようとする講師の手を引いて、呼び戻す。

「何かな?」

「いかないで。一人は嫌だ」

「—―いかない。私は、君の傍にいるとも」

 もう限界だった。睡魔と先ほどのやわらかい布の所為で、意識が消え始めていた。



 目が覚めた時、講師はいなかった。書き置きだけ残して。

「私用で外に行ってくる。用があれば、連絡を、か。外って、街の外か?」

 学術都市と言われているこの街の外だとすれば、余程の用事なのだろう。十中八九、オーダー街。

「一体何者なんだろうな‥。忙しいそうだけど」

 もしかして、本当にスパイなのだろうか。だとしたら、一体どこのスパイか?

「どうでもいいか。どうせ、教えてくれないし」

 布団を蹴飛ばし、ベットから上体を起こす。異常な回復力だと自覚しているが、それでも昨日の今日で、しかも、あれだけの重量の攻撃を受けて、ここまで平気だと、怖くなってくる。多少はまだ痛むが。

「腹減ったなぁ‥結局、昨日食べ損ねた‥」

 病院食にさほども期待していないが、それでも何か胃袋に入れるべきだった。

「無理にでもカタリにお願いしてみるか?いや、止めておこ。カタリも真面目な子だし、下手に頼むと怒られるよな‥」

 それならこっそり出てみるのも一興だが、あの医者の先生に怒られそうだ。

「‥‥こういう事か。俺が病院に送られたのは。勝手に逃げないように」

「そうよ」

 扉の向こうから声が聞こえた。

「入ってもいい?」

「いいぞー」

 確認の声に返事をする。開けられた扉から、甘い香りがする。

「どうかした?」

 無表情のままだが、少し顔の角度が上を向いている。得意げな表情に見える。

「いい香り‥それ、好きだ」

「ふふ‥素直な子」

 扉を閉めて入ってきたのは、黒い丈の短いワンピースを着たマヤカだった。こちらに戻ってきて初めて私服を見たかもしれない。

「身体はどう?痛くない?」

「痛いけど、思った程じゃない」

「マスターに感謝して。無理して一晩中、世話をしていたようだから」

 治療をしてくれていたようだ。驚いた、あの人は、身体の修復も出来るのか。人形使いの技術は、万能のようだ。

「先生は?」

「外に出ていった。数日中に帰ってくるそう」

 昨日先生が座っていた椅子に座って、肩を押してくる。指示に従い、もう一度ベットに横になると、満足そうに頷いてくる。

「大人しくしてって、言った。なんで、言う事を聞かないの?」

「空腹だし、暇。病院に娯楽が少なすぎるのが問題だろう?」

「それもそうね。後で、あなたの部屋に行ってくるから、その時に本でも」

 容赦なく部屋に入ると言った。引っ越してまだ数日とは言え、魔に連なる者の部屋に、しかも思春期の男子の部屋に入ると言った。

「後で、イッケイに頼むから、どうか‥」

「あなたの部屋には、もう何度も入っているから、大丈夫。任せて」

 手を胸に当てて、言ってくる。わずかながら、顔が輝いた気がした。

 窓を開けると言って、立ち上がり、自身の香りを部屋中に振りまいていく。それだけでも目が引き寄せられるのに、体型を強調するような丈の短い黒いワンピースから伸びる白い足が、眩しくて。

 しかも、背伸びをするように窓を開けるから、なおの事—―。

「どこを見てるの?」

「ごめん‥」

「ふふ‥」

 これも作戦だったようだ。

 窓を広く開けて、風を通してくる。春の陽気にしては暑い気候を感じる。だけど、少し強めの風が、それを吹き飛ばしてくれる。

「今日は休みか?」

「そう、しばらく機関はお休み。あの教授に繋がっていた上層部の人間が、続々と逮捕されているから、私に構っている暇はないみたい。ふふ、きっと楽しいのに」

 サディズムな顔だ。影が差し、白い歯を覗かせるマヤカの数少ない表情の一つだった。

「オーダーが来てるのか。じゃあ、先生が外に出てるって事は――」

「そこまで。あの人は、ただの講師であり、教授」

 マヤカの冷たい細い指が口を閉ざしてくる。あの講師がオーダー所属である事は、公ではないのか。

「しばらくは、この街を彼らが歩き回る事になると思う。向こうも忙しいのに、仕事熱心な事」

「オーダーは、嫌いなのか?」

「ん?どちらでもないけど?どうして?」

 首を捻って聞いてくるマヤカは、少しだけ幼く見える。

「いや、なんとなく棘がある気がして」

「‥‥そう?じゃあ、気を付けないと」

 本当に無自覚だったらしく、自分でも不思議そうだ。

「それで、今日はどうして?何か用があるんじゃないのか?」

 マヤカがタダで来るわけがない。そう身構えたが、首を振ってくる。

「今日は私がお世話をする日。もうすぐ朝食がくるから、手伝ってあげる」

 言うな否や、預言通り、あの女医さんがワゴンに乗せて、朝食を運んでくる。想像以上に殺風景だ。見ただけでわかる、塩の無い粥に、出汁ばかりの無塩味噌汁。おかずとしてなのか?スクランブルエッグのような卵焼きが付いてきた。

「嫌な顔しない。私だって、この質素さには思う所のあるのですから。食べ終わったら、食器はそのままで」

 それだけ告げて、出て行ってしまった。決して暇ではないようだ。

「ね?だから、私が食べさせてあげる」

 ワゴンを受け取ったマヤカが、ベットのまで運んでくる。上体を起こして待っていると、マヤカはそのままスプーンを使って、粥を向けてくる。

「頂きます‥」

 口に含んでみるが、やはり塩などという贅沢な調味料は、一切舌に伝わってこない。米もつぶ感を感じないので、ただ白湯を呑んでいる気分になってくる。

「ふふ‥いい顔」

「マヤカだって、同じ顔になるんじゃないか?」

 スプーンを口で奪って、ワゴンの粥をすくう。

「これはあなたの食事」

「スプーン一杯ぐらい平気だ」

 粥を乗せたスプーンをマヤカに向けて、食べてもらう。長い柔らかい髪を押さえて食べる姿に、布団に置いてある拳に力が入る。また、布団を握ってしまう。

「‥‥そんなに悪くない」

「本当か?だったら、今度何か食べに行こう。もっと美味しいものがあるから」

「自然な誘い方—―期待して待ってる」

 約束をして、マヤカの口から離れたスプーンで粥を食べてみるが、やはりマズイ。

 その顔が面白楽しいらしく、手で口を隠して笑ってくる。

「外はどうなってるんだ?」

 受け取った味噌汁を胃に流し、なんとか胃を膨らませてみる。確実に身体に悪い食べ方だ。

「思ったより正常。こういう時、魔道を志す者しかいない街は便利。でも、自然学はしばらく慌ただしくなりそう。学部全体で、生命の樹の量産を認可していたようだから――しばらく、オーダー以外の組織も入り込むかもしれない」

「オーダー以外の組織か‥もう幾らか入り込んでるんじゃないか?」

「そうかも」

 涼やかな表情で、肯定した。どうやら、オーダーという公的な組織でない、反秩序的な組織が樹目当てに侵入しているようだ。

「今のところ、名称を断定できる動きはしていないけど、そう遠くない未来に何かしら動きはあるかもしれない。今じゃないけど」

 組んでいた足を組み替えて教えてくれる。見惚れて、病院着に粥が付いてしまう。

「あ、動かないで」

 首元についた粥を手に呼び出した細い布で拭いてくれる。やはり、あの講師と同じだ。

「それ、先生から習ったのか?」

「そう。知ってるの?」

「ああ、昨日それで傷を拭いてもらった」

 教える為に、前を開けて包帯まみれの身体を見せる。顔をしかめさせてしまった。

「‥‥悪い」

「いいの。それに、あまり目立たなくなってて、よかった」

 胸と腹にかけて、縫った跡が残っていた。

「カタリにも見せてあげて、ずっと気にしてた」

 傷跡を手で撫でてくれる。冷たいけど、柔らかい慈愛に満ちた手を感じる。目を閉じて、好きに触らせる。熱い傷を手が冷やしてくれるのが、心地良い。

「撫でられるのは好き?」

「‥‥かもしれない。続けて」

「なら、横になって」

 言われた通り、横になる。開けたままの前を、マヤカが撫で続けて、手と風が身体を冷やしてくれる。マヤカの香りを吸いこんで、肺を膨らませる。

「身体、大きくなったのね」

「もうそっちより背が高い。それに――」

「それに?」

「‥‥もうマヤカを抱えられる。もう、抱かれる側じゃない」

 少しだけ挑発してみる。だけど、まだマヤカが上だった。

 口を塞がれたまま、身体を撫で続けられる。被さってくる柔らかい髪が耳や首をくすぐってくるから、腕を使って髪をマヤカの背中にまとめる。

 口を塞いだまま笑ってくる。少しだけ負けた気分になる。

「髪も好きみたい。それとも、私が好き?」

「‥‥そう、かも」

「嬉しい‥」

 魔に連なる者の色恋は、死と直結する。騙し、奪う、そして捨てる。

 往々にして行われてきた歴史。魔に連なる者の身体は、いい素材になる。アンデッドが禁止されている理由でもある。人間の生身の実験体など、現代の倫理に反する。

「でも、おしまい。朝食を続けないと」

 マヤカの体温が離れてしまうが、空腹なのも事実。仕方ないので、起き上がる。

「この卵は意外と美味しい。ね?」

 スプーンと一緒に用意してあった箸でつまみ、手を皿にしてくる。

「‥‥味がしない」

「ふふ‥」

 期待させるだけさせて、肩透かしを喰らった俺をまた笑ってきた。



「あなたには選択肢がある。機関に手を貸すか、機関に与するか」

 朝食が終わった所で、マヤカが真面目な表情をしてきた。

「選べる選択肢か?」

「納得できる理由を、選ぶ事は出来る」

「度し難い」

「そう。度し難い。でも、ようやくあなたは選べる」

 手を握ってくる。真っ直ぐに見つめてくるが、目を合わせ続けられない。

「あなたは、ずっと人に翻弄されてきた。私にも。だけど、これからは違う」

「何も変わらないだろう。俺は、ずっと人のルールに縛られる。向こうでも、ここでも。人間じゃなくなっても」

 手を振り払おうとするが、許してくれない。

「‥‥どう折り合いを付けろって言うんだよ。どこからやり直せばいい?もう、やり直せる機会も時間も、俺は持ってない。全部奪われたんだから」

 マヤカの手を握り直して、ベットに横になる。目を閉じて、開けるが、何も変わらない。どこまで行っても、俺は人間の手の上にいる。

「人間は勝手。それを否定する気はない。私もそう思う――私も、そうだから」

 少ない朝食でも、温かい食事は身体を休ませてくれる。

「眠いの?」

「‥‥大丈夫。まだ起きてる」

「頑張って、そして、どうか聞いて。あなたは、もう自由。手を貸す相手を選べないとしても、あなたは立場を得た。この人間世界で、その立場は力になる」

「‥‥自分を切り売りしろって言うのか?」

「それも出来る。だけど、そんな事をする必要はない――思い出して、あなたに人間が向けていた視線を」

 ろくでもなかった筈だ。恐れおののき、道を開けて、必死に俺の視線から逃げていた。試しに脅しをしただけで、額に汗をかいていた――そうか。

「脅していいのか?」

「ふふ、言い方を間違えないで。有利な立場から交渉をするの。神獣と同等に、正面から取引が出来る人間なんて、どこにもいない。与するのではない、あなたの都合で力を貸してあげればいい」

 笑みを浮かべてしまう。そうだ。もう俺は何もかもが違う。身体も力も、思想も、全てが変質している。人間から大きくかけ離れている。忘れていた。

「人間を利用していいんだな?」

「気付いた?そう、人間を手のひらで遊んでいい。あなたが今までされてきたように。私はいつもそうしてる。たまにお仕置きもしてる」

 では、と思い。マヤカを引き寄せてみる。だけど、見越されていたようで、手から逃げられる。するりと抜けたマヤカの冷たい手が、恋しい。

「もう少し駆け引きを楽しんで。次は私を驚かせてね」

 椅子から立ち上がったマヤカが、額に口付けをしてくる。

「今はまだ、あなたは男の子。私をいつか満足させて」

「だいぶかかりそう‥」

 睡魔が襲ってくる。朝食を終わった後の二度眠とは、こうも贅沢だったか。入院も悪くないかもしれない。

「本当はこの後リハビリをする予定だったけど、仕方ない。わがままなあなたの所為で気分じゃなくなった。罰として、寝顔を見せて」




「なんか、起きてから顔が痛いんだけど‥何かした?」

「いいえ、何も。疲れただけじゃない?」

 帰り道の途中、車椅子を押しているマヤカが身の潔白を訴えるが、微かに伝わる揺れで嘘だとわかる。無表情のまま笑うとは、器用なものだ。

「鏡が見たい」

「落書きはしてないから、安心して」

「そうか、安心だ。いつかお返しするから」

「眠った私の顔を触るだけでいいの?意外と紳士的」

 何もかもを逆手に取られる。しかも、年上の余裕を見せつけてくる。何故こうも俺の周りは俺で遊ぶのか。そんなに楽しいのだろうか。

「俺は神獣だぞ。怖くないのか?」

「とても怖いわ。本当に。だけど、何者にも弱点がある。あなたの弱点は私自身。だから、怖くないの」

「勝てる気がしない‥」

 溜息まじりに額の汗をタオルで拭う。これからシャワーだが、マヤカの指示に従ってリハビリをしていると、体力の大半を使い切ってしまった。

「今日は、カタリはどうした?」

「あの子はあなたの薬の準備をしてる。カタリは正確には魔道を志す者ではないから、正直、私には何をしているのかわからない」

「‥‥錬金術師か。じゃあ、たぶん―――」

 ネクタル。そう言おうした時、目の前に人間が立ち塞がった。

「久しぶりだな」

「どちら様だ?とっとと失せろ」

 車椅子の肘掛けを握って答える。マヤカも無言で押して隣を過ぎ去ってくれるが、いびつな笑顔のまま、もう一度前に立ち塞がる。

「久しぶりに会えた次期当主様に向かってそれか?ここでは身の程をわきまえるって事も教えないのか?」

「一体なんの用だ?」

 仕方ないので、目を合わせる。厄介な事だ。もう、オーダー以外の組織と出会うなんて。しかも、病院で。

「俺はしばらく面会拒絶だ。要件があるなら」

「もう機関からの許可は取ってあるのだが?」

「俺には何も伝わっていない。無作法だが、血族として大目に見てやる」

 上から目線が気に食わないのか、舌打ちをしてくる。だけど、それだけだった。

「‥‥いいだろう。では、言葉に甘えてやろう。家に帰ってこい」

「失せろ」

 見計らったようにマヤカが車椅子を押してくれる。だが、間抜けはマヤカの肩を掴んだ。

「まぁ、ゆっくりし」

 長い廊下の床や壁、天井を覆うように幾十もの鎖が駆け巡り、繭でも作るように自称次期当主様を囲んだが、腕を振るうだけで、鎖が砕け散り、消えてしまう。

「機関と言っても、この程度か?」

 マヤカの二の腕を楽しむように、触り続けるが、次瞬、顔が蒼白に変わる。

 慌てて手を引くがもう遅い。握っていたマヤカの腕は鎖に変わり、間抜けの手首を締め上げる。自由な片腕を振って、鎖を断ち切ろうとしたが、その時には長い廊下を滑空していた。

 マヤカの腕に擬態していた鎖が腕に絡み付き、油断したところをブラックジャックのようにスイングして廊下の彼方まで回し飛ばす。前にやられた。

「とどめは任せろ」

 手を突き出して、水晶の槍を打ち出そうとしたが、止められる。

「ここは病院。魔に連なる者でも、ここのルールは守って」

「‥‥傷を治す場所での流血は、ご法度だった、か‥」

 上から被らされた手の指と指を絡ませる。

「そう、いい子」

 壁に激突したところで呻き声が聞こえた。

「あれは流血事件じゃないのか?」

「あれは打撲。それに自分の体重で怪我をしたから、事件じゃない。事故」

「物は言いようだな。今度使う」

 気絶したか、痛みで話せないか知らないが、呻くばかりで言葉を出してこない。周りの魔に連なる者兼看護師や医者、警備員が溜息まじりに世話を始める。

「試しに術で治療をすればいいんだ」

「それで失敗したら、彼が死ぬ。それに現代の医術の方が確実に傷の治療が出来る。後は任せましょう」

 見た感じ折れてはいないようなので、その場を後にした。




「厄介な事になったな」

 シャワーを浴び終わり、マヤカに夕食を食べさせて貰っていると、ふと思い出してしまった。実家から、当主云々の会合の話があった事を。

「どうしたの?」

「ん?あー面倒くさい話だから、いいや」

「そうなの?」

 味のしない肉ゼロ野菜炒めをつまんでくれているマヤカが、頭を捻ってくる。遠慮なしに箸を口に入れると、微かに微笑んでくれる。

「面倒くさい話だよ。次期当主争いの話だから」

「‥‥とても面倒くさそうね」

「とてもとても面倒くさいんだよ。もう俺には関係ないのに」

 カタリが面白半分に名代などと言ったが、頼まれたって帰る訳ない。

「いっそ滅ぼしてみるか?」

「でも、あなたの家は数少ない貴族の血筋なのでしょう?もし滅ぼしたら、その方が後々面倒。家宝の確認に、断絶の手続き、挨拶なんて数年規模で続けることになる。そんな事をしたい?」

「嫌だーー‥マヤカー助けてーー」

 頭を抱えて、ベットに横になる。だけど、いい案は浮かばない。

 家宝と言いつつ、俺はそれを見た事も、そもそもどういった物なのかもわからない。それだけならまだしも、長く続いた魔に連なる者の家の家宝は下手をすれば大量破壊兵器にも匹敵する危険性を持つ。だから、国レベルで保管しなければならない。

 それだけじゃない。よりによって、あの家は本家だった。

「分家だけで30って‥どんだけ血をばら撒いてるんだよ」

「血を絶やさない為に家々で家族を差し出すのは不思議ではないの。それが、長く続いた家ならなおさら。あなたの先祖も、断絶の煩わしさを考えた結果、今も続いているのでは?」

「真理だ。きっとそうだ」

 マヤカに起こしてもらって、夕食を再開するが、ただでさえ不味い食事がなおの事不味くなる。唯一の救いは、マヤカに食べさせて貰っている事だ。

「誇りも何も持ってないから、放っておいて欲しい。あいつ、機関の権限で追い出せないのか?」

「彼の言葉が本当なら、機関の許可を得て、ここに来ている。家の力を使ったようね。それに、あなたは機関の一員。拒否する理由はないみたい」

 気になっていたのか、野菜炒めを一口かじったら、頷いて向けてくる。

「これは美味しくない」

「言ってから向けるのか‥」

「私とのキスは好きでしょう?延長線上にあると思って」

「物は言いようだな‥」

 夕食を胃袋に処理した所で、マヤカがワゴンを押して、帰ってしまった。引き留めようとしたところ、「その身体では出来ない。元気になったら」と言って帰ってしまった。

「なんの話だ?あー暇だー」

 試しに水晶でお手玉をしてみるが、失敗した時の突き指のような痛みが相当だったので、大人しくスマホをいじる事にした。

「オーダー街内で大規模演習‥違法武装大量所持隠蔽の疑いねー。いつも通りだな、あそこも」

 こういったゴシップには事欠かない。年に数回テロの標的になるだけはある。

 あそこなら、秘密裏に俺のような人外を飼っていても不思議じゃないと今だからこそ思う。化け物じみた使い手の噂を何度か耳にした。恐らく、それは事実だ。

「明日はカタリか。早く会いたい‥」

 試しにチャットを送るが、既読もつかない。よほど急がせているようだ。

「俺の薬か。苦かったら嫌だ――やる事はないし、諦めて寝るか」

 最後にトイレに行こうとベットから起き上がる。車椅子のリハビリも受けていたので、問題なく転ばず一人で乗れて、ブレーキとハンドルを握れた。

 車椅子というのも、慣れると便利なものだ。最初はその重さに四苦八苦したが、今は手足のように操れて、病室の外に出れ、廊下を一人で移動できる。

 行きは良いが、帰りは怖い。暗い廊下は不気味ではあるが、魔に連なる者、しかも人外である自分がそんな事を言っていられない。

「‥‥帰ったら、カタリとホラーでも見るか」

 車輪の音しか聞こえない。自分で立たせているのに、むしろそれが、不気味さを増長させてくる。しかし、どうやら足はあるようだ。

「—―誰だ」

 確かに聞こえた。

「病院だからって、それらしく振る舞う必要はないんじゃないか?」

 車輪以外の音。車輪の音に混じって、足音が聞こえた。

「当主の話だったら、断るから勝手にしろ」

 片方のハンドルを操作して、振り返った時、息を呑んだ。

「誰だ‥」

 ただの人間じゃない。受ける脈動でわかる。これは、人外の力。

 長い槍に長い黒いローブ。あの講師のものとはまるで違う。窓から差す月の光を受けるローブは、鏡のように光を弾き返し、光そのものを纏っているように見える。

「‥‥なんの用だ」

 手元に水晶の槍を呼び出すが、まるで意に介さない。顔の見えないそれは、一言も発しないまま、この場を制圧している。死の恐怖を感じる。

「主は誰だ――?」

「—―もういません。しかし、迎えに来ました」

 短い声を耳にしただけで、身震いをした。人間物とは思えない、美しい調べ。

「さぁ、こちらに。あなたこそ、迎えるに相応しい」

 差し出された手には金の腕輪、そして、槍を軽々手の中で回し、自身の力を示してくる。まともな腕力をしていない。軽く2メートルはある槍を羽のように弄んでいる。

「行かない」

 車輪のハンドルを操作して、下がる。一息で首を取られる間合いから外れる。

「俺はここにいたい」

「—―我ら、いえ、私に選ばれるのは何よりの栄光の筈。なのに、断るのですか?」

「ここで待たないといけない人がいる」

 足に水晶をまとわせて、操り人形のように無理矢理立ち上がる。

 この身体では、息吹は使えない、杖も使えない。だが、逃げる事は出来る。

「私に勝てると?」

 床を破壊する衝撃を起こし、槍を肩に向けて突き出してくる。槍の切っ先を水晶をまとわせた腕で防ぎ、添わせる。確実にインパクトは外した筈なのに、骨のヒビに更に亀裂が入る。

「刺さないのですか?」

「ここでの流血は禁止らしい」

「この館では、そうなのですか?」

 興味深い疑問を持った子供のように、息がかかる距離で質問をしてくる。殺す気はなかったとしても、腕に水晶をまとわせていなければ、肩から先が無くなっていた。

「ああ、そうらしい。俺も今日気聞いた」

 平然を装うが、肩にも水晶をまとわせて、腕を固定する。腕の感覚が消えた。

「傷を癒す場所でも戦闘は禁止。覚えておきましょう」

 ゆっくりと槍を引いた襲撃者は、やはり興味深そうに言葉を発した。体格はカタリ以上、マヤカ未満。特別背が低い訳じゃないが、槍のお陰で背丈が低く見える。

「では――ここの制約に従いましょう。私はあなたを迎えに来ました。手を取って下さい」

「取る手はあんたに砕かれた」

 車椅子に座り、大きく息を吐く。戦闘の興奮で痛みこそ感じないが、明日の朝は地獄を見そうだ。

「勧誘以外に用がないなら帰ってくれ。俺はしばらく休暇中だ」

 言うだけ言って、背中を見せる。

「背中を見せて逃げるのは、敗者の証です。私を失望させないで」

「最初から武器を見せるのは臆病者の証だ。臆病者に失望されても、何も感じない」

 片腕だけで移動するのは、正直無理だ。車椅子が回ってしまう。

「—―私が、臆病者‥?」

「そうだろう。怪我人相手に槍を向けるなんて、それとも卑怯者の方がいいか?」

 相当自身の武勇に誇りを持っているのか、俺の言葉に怒りではなく後悔を抱えたらしく、自問自答を続けている。が、その間も車椅子が回ってしまう。

「何をしているのですか?」

「‥‥見ての通り、回ってる」

「いえ、そうではなく。何故、回っているのですか?」

 不審者でも見つけたような言い草だ。こちらも好き好んでやってる訳ではないのに。

「回転する事には意味があるんだ。これは、月と太陽を示してる」

「—―なる程」

「納得してくれて何よりだ」

 確実に冷たい視線を受けているが仕方ない。回るしか俺には出来ないのだから。

「今日はここまでにします。あなたも、本当に怪我をしているようですし」

 踵を返して、帰ろうとする勧誘者の背中に「その槍、素晴らしいな」と見え見えのお世辞を言うと、ローブを翻して振り返ってくる。

「わかるのですか!?」

「良い物は一目でわかるよ。それは、特別だ」

「‥‥やっと、それがわかる人に会えました」

 事実、持っている槍は俺の水晶に振動を伝えて、骨を破壊した。並みどころか、世界中探しても、そうそう見つからないだろう。どこかの由緒正しい家か結社の出だろう。

「やはり、あなたは私に迎えられるべきです。さぁ、手を取って下さい」

「その前に、してもらいたい事がある」

 背中を向けて、押し手を突き付けるがわからないといった感じに声を聴かせてくる。

「部屋まで押してくれ。卑怯者でも臆病者でもないなら、責任を取ってくれよ」

「—―あなたは戦士なのですね。いいでしょう」

 何かを覚悟したかのような言い方で、車椅子を押してくれる。だが、それが想像以上に強く早く押すものだから、割と怖い。

「もう少しゆっくり」

「ゆっくり?早く戻りたいのでは?」

「ゆとりを持つのも、この施設の目的なんだ。ゆっくりにしてくれ」

「‥‥まだ手も取ってないのに、私に命令なんて」

 不満そうだが、大人しく従って速度を緩めてくれる。意外と、誰かに仕えるという事に慣れているのか、俺の様子を見てスピードを調整してくれる。

「どこから来たんだ?」

「知らないのですか?私の姿を見ても?」

「俺は、あまりこの街から出た事がないんだ。不勉強で悪いけど、そのローブも槍も初めてみた」

 ローブはだいぶ旧式だ。ほとんど布をそのまま被っているのとそう変わらない。しかも、槍に至っては何世紀昔かも想像がつかない。分厚い槍先は、敵の頭を叩き割る事に特化している、そして、投げ槍としての機能もあるらしく、重心が前に偏っている。

「本当に魔に連なる者、しかも、人外の一人ですか?」

「なら、そっちも人外の血を引いているのか?」

「‥‥私は」

 車椅子が止まってしまった。

「言いたくないから聞かない。だから、部屋まで戻してくれ」

「‥‥わかりました」

 部屋まで運んでくれたところで、今日は帰ると言って本当に帰ってしまった。

「せめてベットまで運んでくれよ」

 折れた腕を使って、ベットまで這い上がるのは、いい運動になった。




「—―話だけ聞いてると、ワルキューレみたい。でも、あり得ないし」

「だよなぁ」

 繋がりがあったらしいカタリと女医さんが、朝食と共に水薬を持ってきてくれた。青いそれは、お世辞にも飲み欲を誘うとは到底言えない見た目だった。

「‥‥せめて、なにかに混ぜるとか」

「だめ。一気にとは言わないけど、原液のまま全部飲み干して」

 突いていた瓶を、カタリが真剣な表情で押し付けてくる。

「朝食が終わったら、飲むよ」

 無塩料理の乗ったトレイの横に置いて、後回しにする。

「それで、アイツの話なんだけど」

「ついに来たって感じね。いつかは、ここまで来るってわかってたし、いいんじゃない?追い出しちゃって。どうせ自慢しに来ただけでしょう?」

 腕が完全に折れて、首から吊って固定しているので、カタリに食べさせて貰っていた。女医さんが手当てをして、今後の侵入は許さないと約束してくれた。

「それが出来れば苦労しないんだよ‥どうやら、ついにアイツが次期当主になったらしくて」

 カタリがわざとらしく大きなため息を吐いた。同じ気持ちだ。

 一応は数少ない魔に連なる者達の貴族にして、次期とはいえ当主からの命令だ。拒否するには、それ相応の理由が必要だった。しかも、俺は順番的に第二継承権を持つ次期当主となってしまった。魔に連なる者の主義に従えば、格上には従うしかない。

「心底うざったい‥。あんなのが本当にあの家の当主になるの?おじさんは?」

「俺がここに逃げ込んだのを確認したら、向こうも向こうで隠れたらしいんだ。お家騒動に巻き込まれるの、昔から嫌がってたから」

「—―で、唯一本筋で、居場所がわかる若いリヒトの元に来たって事?あの馬鹿、リヒトよりも自分が格下扱いされてるの、わかってないんじゃないの?呼び出さないで、自分から来てるなんて」

 そういえばそうだ。アイツはお供もつけないで一人で来ていた。機関から条件でも出されたのか?

「現当主の指定なんだろうけど、アイツしかいないからって、ほんとに選ぶなんてな。あまりにも養子に出し過ぎたみたいだ」

「—―リヒトもそうなる所だったし、貴族って面倒ね」

「本当にな。自分から出て行くように、差し向けて、今更帰ってこいなんて、なんの用だ?後継者争いがしたいなら、俺の負けでいいのに」

 アイツことマキトは、現当主の孫である俺と同じで孫。だが、向こうの親は俺の両親の兄に当たり、マキトは年上。近く現当主たる爺さんが隠居するので、順繰りにマキトの父が次期当主。マキトが次次期当主となる。だが――。

「マキトの父親、オーダーに逮捕されてから一度も出所してないんでしょう?一個飛ばしで当主だなんて、あのおじいさん、そんなにボケたの?」

「かもしれないけど、本当に選択肢がないんだろうな。実際、マキトも当主になるしか、もう居場所を見つける事は出来ないだろうし」

「そんなに孫が可愛いならリヒトを――聞かなかった事にして」

「いいよ、それに、養子に出そうとしてくれたのは、俺の為なんだから」

 両親が消えて、なんの後ろ盾もなくなった俺は、あの家では孤独で居場所がなかった。見かねた爺さんが俺を他所に出そうとした時、カタリとここに逃げ出した。

「直接来る事に意味があるなら、もう帰って欲しい‥」

「うん、それで、アイツは?」

「マヤカが叩きのめした。どっかに入院でもしてるんじゃないか?」

 口を塞いで、笑いを誤魔化している。俺も、あの場にいなければあざ笑っていた所だ。

 カタリと軽く話していると、朝食が終わってしまい、薬の時間が来てしまった。無言で薬を渡してくるカタリから受け取る。嫌々ながら、カタリが数日かけて作ってくれた薬なので、蓋を開けて一口飲む事にした。

「‥‥味がしない」

 飲んでいる感覚は、確かに喉から伝わるのに、不思議なぐらい味というものが一切しない。だが、それはそれで気持ち悪い。

「ふふ、そうでしょう?リヒトがこっちに帰ってきてからずっと調合してた薬なんだからね。舌の違和感とか、何度か聞いてたでしょう?」

「ああ、カルボナーラの時の」

 確かに舌の違和感について聞かれた。全てはこの為だったのか。

「‥‥ずっと、世話になってるな、俺」

「いいの――あの時、救えなかったのは、私の責任なんだから‥」

「‥‥傷、見たがってるって聞いた」

 水薬を一気に飲み干して、前を開ける。包帯まみれの身体の中央、胸から腹にかけて縫った跡が残っている。カタリの手によって切り裂かれた傷だ。

「これ、戻してくれたのは、カタリなのか?」

「‥‥私は拾っただけ、戻して縫ったのはマヤカ。私、途中で‥見れなくなって」

 カタリの肩を抱いて、ベットに引き寄せ、肩に頭を置く。背中をさすって中身を誘い出す。

「俺みたいに吐いていい」

「平気。昨日から何も食べないようにしてたから」

「‥‥全部、俺の為か――髪、伸びたな」

 背中をさすっていた手を髪に伸ばす。ボブからミディアム程に伸びた髪を指ですくって聞いてみる。

「‥‥うん、リヒトが帰ってきてから、一度も切ってない」

「願掛けか?」

「気分じゃなかっただけ。それに、長い髪、好きでしょう?」

「‥‥好きだ。愛してる」

「私も‥」

 カタリを引き寄せたまま、ベットに横になりお互いの体温を楽しむ。ゆっくりとしたカタリの胸のふくらみが、柔らかくて、優しくて、眠りを誘ってくる。

「私を枕か布団にする気?食器を取りに、誰か帰ってくるよ」

「なら、こうすればいいだろう?」

 ベットのカーテンを引いて、外からは直接見られないようにする。だが、影の所為で、二人分の身体が重なって見えているだろう。正直、直接見るより、卑猥だ。

「少しぐらいは気を遣ってくれるさ」

「もし怒られたら?」

「一緒に怒られてくれ」

「追い出されたら?」

「帰ろう。一緒に」

 ゆっくりと目を閉じる。最後の時まで、カタリの顔が見れるように。




 寝ぼけている頭を、カタリが肩をゆすって起こしてくれる。

「そろそろ起きようよ、もうすぐお昼だよ?」

「‥‥昼か」

「その前に院内を一回りしに行かない?折角、私といるのに、ずっと部屋じゃつまらないでしょう?」

「かもな――」

 カタリを抱きかかえたまま起き上がって、膝の上に乗せる。なかなか降りないカタリと見つめ合って、胸に押し付ける。

「降りられないんだけど?」

「降りないのはそっちだろう」

「降りて欲しくないって、顔してたじゃん」

 胸の傷に顔を押し付けて、背中に腕を回してくれる。カタリの息遣いと髪と首元から香る花の香りに、楽しんでいると、また眠くなってくる。

「今度は私でトリップする気?」

「もうしてる」

 香りが幻覚を見せてくる。ベットも含めて辺り一面の花とその中心で、カタリを抱えている俺がいる。カタリが楽し気に笑っている。冷たい手で傷を撫でて、見つめてくれる。カタリの顔から視線を外せない。意識はカタリに集中しているのに、身体は冷たい銀の手を求めている。

「今のリヒト、すごい気持ちよさそう。そんなに私の身体がいい?」

 制服越しの身体を押し付けて、惑わしてくるカタリが恐ろしくて、それでいて愛おしくて仕方ない。しかも、俺が拒む訳がないという確固たる自信を持っている。

「身体だけじゃないよ。カタリがいい」

「そうでしょう?聞くまでもないよね。ずっと一緒にいてって、昔言われたし」

 懐かしい事を言われた。ここに逃げ込む時、使った言葉だった。

「‥‥俺は、もう帰る場所がない」

「うん、私もそうだから」

「だから、ずっと一緒にいよう。俺の帰る場所になって欲しい」

「じゃあ、リヒトも私を待っててくれる?」

 ベットから降りたカタリが手を伸ばしてくれる。カタリの手を握って、引き上げて貰い車椅子に座る。未だに微睡んでいる頭が、カタリを女神のように見せてくれる。

「待たない」

「どうして?」

「迎えに行くから」

「うん‥嬉しい」

 車椅子に座った俺を見降ろさないで、同じ目線で顔を髪にうずめさせてくれる。

 だけど、一時の微睡みは一時だけで終わってしまった。

「—―どなたですか?」

 聞くまでもない。この乱暴叩き方は、向こうでも何度もされた。カタリもそれを察してか、語気を強めに訊き返した。なのに、そんなものは無視して入ってくる。

「ん?まだ、その野良とつるんでたのか?」

「要件は?」

 カタリの前に無理をして出る。身体中の骨折や片腕こそ吊られているが、水晶を操る事には、何も問題はない。殺そうと思えば、すぐに首を落とせる。

「昨日も言った通りだ。家に帰ってこいよ。お前を俺の名代にしてやる」

 つい、鼻で笑ってしまった。振り返って、カタリと見つめ合う。

「どうする?資金援助、欲しいか?」

「それは欲しいけど、私は口を出すお金には興味がないの」

「同感だ」

 肘掛けを使って、頬杖を突く。ついでに足も組んでやったのが、相当気に食わなかったようで、こめかみにしわが出来ている。

「それで、負け犬、お前はなんて言われて俺の元に来たんだ?」

「負け犬‥?俺は次期当主だ!!負け犬はお前だろうが!?」

 いい加減切れたのか、指を差して地団駄を踏んでくる。年は向こうの方が二つ上だが、どうにも、マキトの近親者は怒り方も態度も子供っぽくていけない。

「もう少し次期当主っぽく怒れよ。怒り方が幼稚なんだよ。それで、爺さんはなんだって?」

「—―くくく」

「うわ‥気持ち悪‥」

 カタリがあまりの不気味さ、気味の悪さにあとずさりをした。俺もしたい。

「俺は選ばれたんだ。俺は、遺物に――」

 トリップをしているかのように、両手を開いて天井を仰ぎ見始めた。その異様さもさることながら、マキトの言葉にカタリが身を乗り出した。

「遺物!?家宝って遺物なの!?」

 前に出たカタリの手を引いて、正気に戻す。

「あ、ごめん」

「よりによって遺物か‥。一体どこから持ち帰ったんだ?」

 遺物とは世界を渡った証。向こうでの知識を持ち帰って造り出したのが生命の樹だとすれば、遺物は異世界の技術をそのまま持ち帰った証明。

 受け継がれて来たという意味であれば、家宝のそれと同じ意味を持つかもしれないが、魔に連なる者にとっての家宝とはカタリが渡してくれたあの本のように、代を重ねるごとに増やしていく経験だ。遺物を受け継ぐだけの家宝とは、代を重ねる事を誇りとしている魔に連なる者にとって、誇らしい事ではない。それに――。

「俺の先祖に、彼の地に呼ばれた戦士がいたんだ‥。ああ、俺も、その一人になれる。俺も、ようやく選ばれる。くくく‥はははは!!」

 あまりのヒステリックな雄叫びに、身がすくんでしまう。カタリも目のすわったマキトの叫びに耐えられなかったようで、背中に隠れて耳を塞いでいる。

「‥‥爺さんか、一体、何を使った‥」

 あの爺さんも、どこまで行っても魔に連なる者だ。この様子では、薬でも盛られていると言われれば、頷きそうな気分になる。

「何事ですか?」

「あ、先生—―見た通りです」

 俺の担当医たる女医さんが廊下から聞いてきた。後ろ姿だけでも、マキトがまともではないと察したらしく、目を細めてマキトの肩を掴む。

「機関からの通告通り、これ以上問題を起こすようなら、この病院を出て貰うと言った筈です。家までの旅費も含めて、こちらで用意しますから、早く」

「俺に触るな!!!」

 女医さんの手を振り払って、背中を受けてくる。

「俺は!選ばれたんだ!!あの家に!みんな僕がいいって、やっと僕が偉いって、凄いって言ったんだ!!」

「落ち着いて下さい」

「黙れ!!」

 頭を抱えて叫ぶそれは、もはや人間じゃなかった。妖魔、怨霊の類だった。しかも、武力行為禁止であるこの病院で――刃を造り出した。

 手元から細かい鉄片を呼び出し、それが鋭い一振りの剣となる。

「先生!!」

「仕方ありません」

 刃を振り上げて、女医さんに斬りかかった時、先生が懐から何かを取り出し投げつけた。それが刃によって切り裂かれる。だが、鉄鉱石らしかったそれは、二つに分かれるだけでなく、それが空中で、四つ八つと別れていく。

「拘束」

 女医さんの声に従い、無数に分かれた石片が、マキトに網のように被さる。

 何も起こらない。そう思った瞬間、石片が磁石のように結着し幾つもの鎖となる。

「束縛」

 最後にはマキトの内臓を吐き出させるのではないかと思う程、鉄鉱石で作られた鎖がマキトの身体を締め上げて、床に横たわらせる。だが、なおも正気に戻らないで暴れている。

「しばらくそのままでいて下さい。あなた方は怪我をしていませんか?」

 白衣を翻し、マキトを側を跨いで近づいてくる。

「驚かせてしまいましたか?しかし、私も魔道を志す者の一人、この程度の荒事、慣れています」

「いいえ、ありがとうございます。怪我は大丈夫、してません」

 本当は立ち上がって頭を下げるべきだろうが、座ったままで失礼する。

 マキトに目線をくれるが、今も暴れている。声は喉を縛り付けている縄のお蔭で静かになっているが、持っている刃で自身を傷つけそうになっている。

「彼はこちらで保護します。あなたは彼の近親者でしたね?彼には、こういった障害が?」

「—―持っていたのかもしれませんが、詳しくは知りません。あまり親しくないので」

「‥‥そう。わかりました」

 事実として、こいつの身体の事など知る訳ないし興味もない。強いて言えば、家族一同、こんな感じに癇癪持ちで両親を失った俺へ嫌悪感を隠しもしなかった。

「家に連絡するなら、俺からやっておきましょうか?」

「いいえ、大丈夫です。私達にとっての家の意味、それもわかっているつもりです」

「助かります」

 その後、待っていたように警備員や研修医らしき人間達が暴れているマキトを押さえつけて運んでいく。その間も刃を振り回すものだから、だいぶ荒っぽく手首を捻上げらて、その手から刃を奪われていた。

「なんか、気分じゃなくなったね」

「今日は大人しくするか」

 カタリに手伝ってもらい、三度、ベットに上がる。徐々に慣れてきてしまった。

「あの剣、見た事ある?」

「いいや、始めてみた。次期当主って事で、家の秘儀でも受け継いだのかもな」

 あの馬鹿は馬鹿ではあったが、それでもそれなりの剣の使い手ではあった。決して無能という訳ではないが、頭が無いという意味では、無能かもしれない。

「見た事ないの?」

 肩に手を置いてゆっくりと思い出してみる。魔に連なる者にとって術とは常に秘するもの。それは親戚どころか家族にすら適応される。それでも、一定の方向性はあると思うが、やはり、知らない。

「あの家は―――あの教授みたいに、過去の遺産を操るのが家訓みたいな事があったから、あれもそれの一つなのかもしれない。だから、もしあれが遠い過去の遺跡からの出土品なら、不思議じゃないと思う」

「ふーん、詳しくはリヒトも知らないんだ」

「俺は、まぁ、元々そんなに歓迎されてなかったからな。俺も嫌いだったし」

 唯一、俺を歓迎してくれたのは親父の弟に当たる叔父さんだった。後、爺さんも良くはしてくれたけど、それでも魔に連なる者の一人として接してきた。

「それもそうね。何かというと私に会いに来てたもんね」

 片目をつぶりながら、額を指を押してくる。

「今もそうじゃないか?」

「ふふん♪」

 カタリの手を引いて、もう一度膝の上に乗せる。骨に少し響くが、それを見越してカタリもうまく足の間に納まってくれる。髪の甘い香りを楽しみながら、カタリの背中に手を添える。

「私の髪、そんなに好き?」

「前から思ってた。本当に、綺麗な黒髪だ‥」

 カタリの髪を指ですくって垂らしてみる。ハリがあるのに、滑らかに滑り落ちていく。その上、手の熱で温められた事により、甘い香りがいつまでも漂っている。

「髪を褒めてる所、すごくいいよ。でも、褒める所は髪だけ?」

「料理が美味しい」

「もうひと声」

「目が綺麗」

「終わり?」

「俺を愛してくれる所、本当に好き」

「そんなに私が好き?呆れちゃう♪」

 もうすぐ昼が届くというのに、離れる気にならない。さっきまでずっと一緒眠っていたのに、カタリのぬくもりが愛おしくて仕方ない。それに、カタリも受け入れてくれる。ここに来るまでは、ずっと一緒にいた所為だ。カタリがいないと、不安になってしまう。

「やっぱり、家が怖い?」

「‥‥嫌いだ」

「それでいいと思うよ。私も嫌いだし、帰らないでね」

「カタリこそ、もうどこにも行かないでくれ」

「いかない、もうリヒトを一人にしないから」

 カタリが見上げてくるのに、合わせて、ゆっくりと目をつぶる。

 いつもそうだ。する時は向こうからしてくれる。タイミングはカタリが主導権を持っている、するのは口付けだけじゃないからだ。髪の香りに胸元からの香水。

 俺が泣きついてくるのをなだめる為なのか、いつも好きな香りをさせてくれる。

「やっぱり、上手くなった。誰と練習してるの?」

「‥‥マヤカ」

「と、先生もじゃない?年上が好きなのはわかるけど、リヒトは私の物!!忘れないでね!」

 両肩と手と体重で押したして、容赦なく舌を舐めてくる。背中を抱き寄せるとカタリの胸が邪魔してくるが、こちらも容赦なく潰す。カタリの口から唾液が漏れる。

「ちょっと痛いんだけど?」

「でも、嫌いじゃない」

「そんな訳ないでしょう!?」

 腹に跨ったカタリが両頬をつまんで睨んでくる。

「私は!!いじめるのが好きなの!!いじめられても嬉しくないの!!」

 何度かカタリに反撃をしてきたが、決して悪い顔はしていなかったと思ったが、カタリの言う事も嘘ではないのが、長い付き合いでわかる。いつも俺で遊んでいた。

「ちょっと優しくしたら、調子に乗って。いいよ、改めて、立場を教えてあげる」

 得意げでサディズムな笑みを浮かべるカタリが両足で身体を固定してくる。だけど、カタリは気付くべきだった。カーテンを閉めないで始めてしまった所為で、観客がいた事に。しかも、それが三人もいた事に。




「教師として言っておこう—―場所を選びなさい」

「次発見した時は止めさせて貰います。どこまでしていようが、止めますので悪しからず。では、私はこれで」

 昼を置いて女医さんは出ていってしまった。何度か見かけた事があるのか、ため息もしないで、淡々と告げてきた。ならば、何故先ほどは止めなかったのか。

「私はいいでしょう?前に見られたのだから」

 先生の隣で、昨日とは別のデザインの黒いワンピースを着ているマヤカが足を組んで言ってくる。それを聞いた先生とカタリが、それぞれ違う反応をしている。

「ほう、見せながらしたのか。我が弟子はいい趣味をしている」

「あ、あれは‥!その‥あれは――止めるタイミングがなかっただけで!」

 そういう割にベットから降りないカタリが言うのだから、あまり説得力がない。だけど、お願いしなくても、昼を口に運んでくれるのだから、降りるようにと言う気にならない。

「話は聞いた。君は、存外色々な物を引き寄せるらしいな」

 黒髪の人形が、楽しげに微笑んでくる。

「どこまで聞きました?」

「君の家は、数少ない現代まで続いている貴族の家だという事。まぁ、そこはどうでもいい。だけど、貴族にはお家騒動が付き物だ。しかも、後継者争いなど、貴族の花じゃないか」

「まさしく、後継者争いはお家騒動の花です。しかも、匂いがきつくて。いくら洗っても洗っても匂いは取れない。後々まで禍根や爪痕も残しますよ」

 本当にいい性格をしている。当事者である俺の口からそれが聞けて、楽しくて仕方がないと言わんばかりに、誤魔化しながら、肩を震わせている。

「でも、家を捨てて、カタリと駆け落ちしたのでしょう?なのに、何故あなたを呼び戻すの?」

「それは俺が聞きたい。本当に、何も思いつかないんだ。これは聞いたか?元々、俺は養子に出される予定だったって」

 マヤカや先生には初耳だったそれは、ふたりを座り直させる程衝撃だったらしい。

「まぁ、それこそどうでもいいんだけど。もう終わった事だから」

 血を永らえさせる為に、いらない子供は他所の家へと送り出す。受け入れる側も、新たな世継ぎを造り出せる養子を重宝する。上手く出来た制度だ。

「だから、俺を今更欲しがる筈なんて無ないんだ。元々、家から追い出す予定だったんだから」

 カタリに食べさせて貰いながら話す。だいぶ自堕落光景だろうが、仕方ない。

「それで、何故昨日より怪我が増えているの?」

「折られた」

「—―彼に?」

 怒るのではなく、驚いたように聞いてきた。

「そんな訳ないだろう。昨日の夜、槍を持った奴に襲われた」

「只者ではなさそうだな。どんな姿だった?」

 事細か、というほど装飾があった訳ではなかったが、身に着けていた槍の見た目やローブのデザインを話してみる。あそこまで年代物というか、骨董品のような見た目ならば誰かしら心当たりがあるかと思い、正確に思い出して話し続ける。

「‥‥ほう」

「知っているんですか?」

「いいや」

 講師の反応からして、心当たりがあるようだ。それに、マヤカも口を閉じている。

「知ってるなら話してくれませんか?」

「—―高い確率で、それは君を誘いにきたヴァルキュリアだ」

「冗談ですよね?」

「前にも言っただろう?私は、魔に関係する事には、嘘をつかない」

 冗談を言っている雰囲気ではない。本心で、彼女はヴァルキュリア、ワルキューレだと言っている。

「マヤカ君、ヴァルキリー、ワルキューレとはどういった存在かな?」

「戦士たちの恋人。戦場で死した者達を主神の館に連れていく役割を持ちます」

「カタリ君」

「館に連れていかれた戦士の魂は、来たる終末戦争に備えて館で蜜酒を与える役割も持ちます」

「では、ヴァルキュリアは元々どういった存在だと言われているかな?リヒト君」

「元は戦場で死した者達の果て、戦死者がなる精霊ではないか?と言われています。また、今のような姿は、アイルランドの女戦士、盾の乙女が重ねられた姿であり、その過程で精霊という概念が薄れて、戦士たちの恋人という、より人間らしい姿に固まっています。だいぶ詩的な話の方が好まれたようですね」

「そして、死を運ぶ、人の運命を決めるという強力な立場により運命の女神ノルンとも混同されるようになった。似たものだと、ヴォルヴァと呼ばれる女性のシャーマン、預言者と言ってもいいかな?やはり巫女という立場には神聖で超現象的、そして最後の処刑や儀式を執り行うという役割、最後は特別な美しき女性に看取ってもらいたいという願望があるのかもしれないな」

 なぜだろうか、最後に少しだけ自嘲気味な乾いた笑いをしてきた。

「でも、別に今更戦士を求める訳ではないんじゃないですか?それに、リヒトは戦士じゃないし」

「彼は立派な戦士だとも。槍を持ち、敵を薙ぎ払い、しかも見せかけだとしても竜を打倒した。竜殺しを成し、自身も竜や神獣である彼が戦士でなければ、もう世界には戦士と呼ばれる存在はいないだろう?」

 そう言われると、頷いてしまうかもしれない。確かに、俺は巨人を打ち倒し、竜のような姿をした教授を撃ち殺した。自分を戦士の王と自称する気はないが、竜殺しを成した俺はヴァルキュリアに選ばれても、おかしくないのかもしれない。

「だけど、俺はまだ――」

「うんん。リヒトはもう死んでる」

「それにしばらく魂だけの存在にもなっていた。選ばれるべくして選ばれたのかも」

 まるで本当にヴァルキュリアが現れたような状況になってきた。

「でも、終末戦争なんて」

「ふふ‥全て私の推測だ。今更ヴァルキュリアなど現れる訳がないだろう」

 コップを持っていたカタリが手を滑らせる。

「あ、ごめん!」

「いいよ、着替えればいいから」

 病院着に一杯分の水を浴びてしまい肌に張り付いてしまった。

「ふふふ、では、面白い話も聞けた事だ。私はカレッジに戻る。病院には警備の強化を頼んでおくから今夜は安心して眠りなさない――眠れなければ、私が夜伽を」

「年下好きもいい加減にして」

「私は、彼が好みなだけよ。たまたま年下なだけさ」

 全て言い切る前に、食器を回収にきた女医さんが講師の腕を掴んで出ていってしまった。あっけに取られていると、マヤカが「あの先生とマスターは同郷なの」と教えてくれた。




 日課にすべきとのマヤカの助言で、カタリと共にリハビリ室に来ていた。だが、リハビリにどうしても集中できない。あのヴァルキュリアもそうだが、それ以上にマキトと家の事がどうしても気になってしまう。

「少し疲れた?」

 車椅子も杖も何もない状態での階段の昇り降りを、身体が拒んでいる。それだけじゃない。カタリにいい所を見せようと無意識にしている所為で、身体に無駄な力が入ってしまう、体力をすり減らしてしまう。

「ちょっとだけ」

 差し出された水を受け取って口を潤す。急に喉に含むと胸焼けを起こしてしまう。

「私、もしかして邪魔?」

「まさか!」

 ベンチから立ち上がって否定したが、続く言葉が出てこない

「フラフラしてるよ。少し休もう、ね?」

 肩に手を置かれて、座らせられる。カタリが心配そうにしているのに、自分の本心がわからない。マキトの事なんて、どうでもいいのに。気になる事がある。

「カタリが気になるだけじゃないんだ」

 隣に座って顔の汗を拭いてくれる。包帯から血がにじみ出ているのがわかるが、それよりも、今はあの家が気になる。

「今更どうだっていいんだ。もう叔父さんもいない訳だし」

「でも、気になるんでしょう?別におかしな話じゃないんじゃない。何が目的かもわからない親戚に無理やり連れて行かれそうになるって、私達にとってこんなに危険な事はないでしょう?」

「—―そうかも」

「そうだよ。それに、身を守る為って大事な事じゃない?」

「何から何までお見通しか‥。めんどくさくて、ごめん」

「そう思うなら、今日のリハビリを終わらせて、連絡すべき。違う?」

 自分の腿に両腕で肘をついて顔を覗き込んでくる。しかも、いたずらな笑顔じゃない。泣いている俺を慰める、懐かしい優しい笑顔で。

「子供扱いしてるな?」

「でも、嫌な訳じゃないでしょう?」

「‥‥ありがと」

 立ち上がって、リハビリ用の階段に足を付ける。せいぜいが20センチ前後、だがそれがあまりにも高い。しかも、それを無意識に交互に続けなければならない。階段の昇り降りとは、高等な技術だ。二足歩行が出来る人間だけが思いつき行動できる。

「ふふー♪頑張れー♪」

「おう、見ててくれ」

 カタリの視線を背後に受けながら、手すりをしっかりと握ってから階段の昇り降りを続ける。誰かに見守っていられるだけで、力が湧いてくる気がする。しかし、間違いなく筋肉痛が起こるようなので、覚悟する事にした。

 

 リハビリの時間が終わり日が傾き始めた頃、カタリに車椅子を押してもらいながら外に出る。院内で連絡が出来る休憩室では、話せない内容だからだ。

「暑っつ‥」

「もう夏って感じ。冷房が恋しいね」

 ただでさえ身体が火照っている身体を、春とは到底思えない夏の先駆けが風となって首元を過ぎ去っていく。いっそここで水を浴びれば、気持ち良かったかもしれない。

 カタリに押されてきた場所は喫煙所。だが、この気候という事もあり、喫煙所には誰もいなかった。そもそもここに入院するのは学生が多いので、吸う人間は少ないのかもしれない。

「じゃあ、私は向こうで見張ってるから」

「戻っててもいいぞ。暑いだろう?」

「そう?じゃあ、そうする。終わったら呼んで」

 既に上着を脱いでいたカタリは、Yシャツの一番上のボタンも外していた。無理して付き合ってくれているのは、目に見えてわかっていたので、これ以上の無理強いはしてはいけなかった。

 スマホを取り出し、覚えている番号へかける。何度か目かのコールで、年の割にはハリのある声がしてくる。

「久しぶりだな。そろそろ来ると思っていたぞ」

「どんな内容だと思ってるんだよ?」

「ひ孫じゃないのか?カタリちゃんとの」

「墓前に三人で行ってやるから、それまで待ってろ」

「ふっふっふ。楽しみにしていよう」

 俺が出て行って既に4年近く経っている。なのに、まるで変わっている気がしない。時間をさかのぼって過去に連絡してる気になってくる。

「本題に入る。俺になんの用だ?」

「孫の顔が見たくなった。では、納得しないか?」

「追い出そうとしたのはそっちだろう。今更何言ってる」

 どこに飛ばされる筈だったか知らないが、少なくとも一度養子に出されれば、もう二度と家の敷居は跨げない。離婚など許されない上、もしすれば消されかねない。

「俺を使って何をするつもりだ。俺はカタリと一緒に暮らすから、放っておいて欲しんだけど?」

「それは無理な話だ。お前だって、そんな事はわかっているだろう?まさか、本当にマキトが次期当主の器だと思っているのか?」

「少なくとも俺よりもあるだろう。俺は家から逃げ出したんだから」

 日光が雲によって遮られる。だが、湿度の高さでひと雨来るのが肌と鼻でわかる。

「外で長く勉学をする、家の外の人間との付き合い方を学ぶというのも、後継者にとって必要な事だ。儂も長く旅をしてきた経験がある」

「俺が逃げ出すのは想定の内か?なおさら帰る訳にはいかなくなった」

 スマホの向こうで、大きな高笑いが聞こえる。隠居間近とは到底思えない。

「追い出す気は最初は無かった。だが、想像以上にあの夫婦がお前を目の敵にするのものだから、放置できなくなってな。あのままいれば、儂より先にお前が墓に入っていただろう」

「そこまでわかって、俺を放っておいたのか?」

「だから、養子に出そうとしただろう?儂なりに気を使った気だったが、ふっふっふ要らぬ世話だったようだな。まさか、あの歳で駆け落ちとは」

 本当に心底楽しそうに、嬉しそうにしている。そんなに孫が逃げ出したのが嬉しいのだろうか。

「悪く思わないでくれ。お前の父も同じ事をしたから、懐かしいだけだ。謝ろう」

 あの教授も魔人と呼ばれていたが、この爺様もその中の一人だと声だけでわかる。俺を育てる為に、俺を捨てる。生き残っていたら嬉しいが、そこでくたばったら仕方ない。前々からそうだったが、人間とは思えない思考の持ち主だ。

「笑わせてくれた礼だ。少し話してやろう。巫女には会ったか?」

「—―てめぇの差し金か」

「くくく、話は本当だったか。一体何になったのだ?」

 どこから話を仕入れたか、考える気にもならない。きっと無数にある家々から伝わったのだろう。

「質問に答えろ。あの槍はお前の」

「後継者になる覚悟がまだ無いのなら、それまで待とう。そうだな‥100年ぐらいでどうだ?おっと、そろそろ日課の散歩の時間だ。ではな。ひ孫、楽しみにしているぞ」

 言いたい事を言うだけ言って切りやがった。しかも、あの言い方だと。

「色欲爺が‥てめぇが自分で子供を作れ」

「変わらないね。あのおじいさんも」

 傘を持ってカタリがすぐ近くまで来ていた。空を見上げると、降る寸前のような雲空だった。

「おじいさん、なんだって?」

「あのワルキューレは爺さんの差し金らしいけど、それ以上は教えてくれなかった」

「ふーん‥え、それだけ?」

 カタリが傘を差した瞬間、待ち構えていたように雨が降り始めた。傘に当たる雨粒の大きさが、音で伝わってくる。

「迎え、ありがとう。ずっと世話になりっぱなしだ」

 車椅子は勿論、傘まで差してくれる。あまりにもカタリに世話になり過ぎている。

「明日から車椅子は使わない。だから」

「悪いって思ってる?」

「だって‥」

「めんどくさい事言ってないで、早く戻ろう」

 心の底から面倒だと思っているようで、無言で車椅子の速度を速めてくる。

「本当にそれしか、教えてくれなかったの?孫なのに?」

「孫だからこそ、教えたくないらしい。‥‥だけど、後継者の事は少し教えてくれた。やっぱりマキトを後継者に選んだわけじゃないらしいんだ」

「まぁ、そうだろうね。向こうでも一番弱くて、家の人にばっかり頼ってたし」

 喧嘩、というわけではないが、それでも子供同士の付き合いの中、そういった小競り合いは往々にして起こる。しかも、それが魔に連なる者の力を持つ子供同士であれば、規模も期間も長くなる。それが巡り巡って、大人になった時、修復不可能になるような溝が出来てしまう。そういった事を避ける為、家の人間が間に入るのは普通ではあるが――。

「最初から最後まで親に頼るなんて、一人で話ひとつ出来ないって、恥ずかしいとか、格好悪いとか、一切思わないのかな?よくこの街歩けるよね。絶対、顔見知りとかいるのに」

「家の力が自分の力だと思い込んでるんだろうな。アイツの父親にいたっては、国の金は自分の金だと思い込んで、逮捕された訳だしな」

「そもそも当選したのだって買収と術で、最初、不起訴にされたのだって買収と術だったんでしょう?あの顔、今も覚えてる。親子揃って恥知らずって感じ」

 よくある事なのかもしれないが、それが公になってしまった以上、責任を負って表舞台から去るべきなのに、マキトの両親はそれを選ばなかった。しまいには、魔に連なる者としての立場まで使って、自分に反抗する者に襲撃を命令するほどだった。

「—―もしかして」

 あの背広、黒服達は――。

「どうかした?」

「思い出した。もうひとつ言われたんだ」

「—―私が聞いていい話?」

「ああ、カタリにも関係してる」

 車椅子の止めて、雨粒の中、話声をかき消す。

「それって、やっぱり私じゃ釣り合いが」

「ひ孫の顔を楽しみにしてるって」

 その瞬間、銀の腕が後頭部に炸裂したのは言うまでもない。




「そう、気付いたの」

 不機嫌なカタリが一人で購買に行っている間に、マヤカに聞いてみた。あの背広達は、マキトの関係者なのかと。そして、その推測は正しかった。

「私達の誰かに聞く前に、自分で辿り着いたのね。やっぱりあなたは」

「俺は?」

「私を落とした男の子」

 足を組んで首を傾ける仕草に、官能的な感情を覚えさせ、しかも、先ほどより胸元を強調してきた。カタリよりも年上の余裕ある雰囲気が血を高ぶらせてくる。

「私に落とされた男だろう」

「ふふふ‥」

「それで、正しいのか?その情報は」

「ええ、間違いなく。あなたが始末した端から逮捕したけど、皆一様にそう言っていた。俺達は――ただ命令されて回収に来ただけ、今すぐ解放しろ、だそうよ」

「‥‥間違いないな」

「間違いない。あの時みたいにあっさり、自分達の雇い主を話したから」

 マキトの父親の命令で、一般人の政治職に襲撃をしかけたシークレットサービスとでも言うべき警察関係者達。機関の人間が秘密裏に逮捕して全て吐かせた結果、今回と同じようにあっさりと吐いたのは、暗黙の事実だ。

「機関を舐めるのも結構だけど、負けたらすぐ誰かの所為にする。プライドが高い官警は全員そうみたい。ふふ‥それで許されると思っているのかしら?」

「殺したのか?」

「まさか。二度と魔に連なる力が使えないように、手錠を掛けただけ」

「—―恐ろしいな」

 俺達魔に連なる者は、よく恨みを買う。しかも、同胞からは特に。

「大丈夫、オーダーと合同で逮捕して拘束してるから、身の安全は保証する。大人しくしている内は、だけどね」

 あの背広達が、我が家の関係者であるのは間違いないようだ。回収しにきたのは、十中八九生命の樹だろう。教授は外の人間に頼ったと言ったが、何かしらの取引があったのだろうか。

「生命の樹を回収に来たんだろうけど、なぜ今更あの馬鹿が来たんだ?」

「それは私にはわからない。彼らに訊いても、知らないらしい。生命の樹以上に価値ある何かの為、本丸が直接乗り込んで来た気がする。本当に自分の手で掴みたい何かがあるんじゃない?」

 ベットに座っている俺を真っ直ぐに見つめてくる。

「—―どこまで行っても、人間は変わらないか。やっぱり、血縁者全員焼くか?」

「その場合、あなたの子孫もその対象になってしまう。ふふ‥私も楽しみにしているのに」

 自分の腹部を撫でながら片目をつぶってくる。

「だいぶ先の将来だろう」

「そう?来年にはそうなっている気がしないでもないのに」

「なんの話?」

 カタリが着替えとタオルを前に抱えて病室に入ってくる。いつまで入院するか、正直わからないが、軽く2週間分はありそうな布製品の山だった。

「彼が機関に正式に入るのは、いつかって。もう機関は彼を迎え入れる気だから」

「‥‥そうね」

 カタリがクローゼットに買ってきた衣服をしまっていく。申し訳なさそうな横顔が見える。

「恨んでなんかない。それに、便利な立場だ。悪くないさ」

「—―怒ってない?勝手に決めて」

 ベットに座って背中で話しかけてくる。少しだけ、背中が小さく見える。

「全然。むしろ感謝してる。ありがとう、居場所をくれて」

「本当に?」

 振り返って聞き返してきた。

「本当に。俺を狙ってくる奴全然焼き尽くせる権力なんてそうそうない。しかも、それを率先して出来るんだ。それに、機関の仕事って事は金も貰えるんだろう?」

「勿論。それに必要な機材があれば、機関が補填する。金銭でもなんでも」

「どうだ?便利だろう?」

 カタリの手を取ってみたら、やっと笑ってくれた。

「俺も、もう面倒くさい事は言わない。だけど、カタリと一緒にいるには障害を消し去らないといけない」

「うん‥」

「その為に、マガツ機関の力が必要なんだ。後悔なんかしないでくれ。俺は、望んで機関に所属する」

 折れている腕を使って、震えながらカタリの涙を拭う。熱くて、優しく――それでいて柔らかい。だけど、もうカタリを泣かす訳にはいかない。

「ひとりになんかさせない。だから、一息ついたら一緒に暮らそう」

「‥‥ふふ、背伸びしてる」

 伸ばした手で耳を撫でて、そのまま頭を引き寄せて抱いてくれる。

「でも、嬉しい」

 カタリの髪に顔をうずめて目を閉じる。カタリの呼吸だけが聞こえる。だけど、

「私がいるの、忘れてない?」

「今日のリヒトは私だけの物。そう決めたでしょう?」

「じゃあ、仕方ない。このまま見せてもらう」

 嫉妬や困惑ではない。むしろ、ふたりの成長を見れて、喜んでいるように感じる。

 本当に、マヤカにとって俺は男の子なのだろう。

 長い抱擁が終わった時、お互い手を取り合って笑い合ってしまう。

「恋人みたい」

「恋人だ」

「うん、うん!—――あのね、全部終わったら、話したい事があるの」

 おおよその予測は付く。だけど、話してくれるとカタリが言うのなら、俺もそれまでに覚悟を決めなければ。こちらに戻ってきてから、ずっと待っていた真実を。

「わかった。俺も話したい事がある。それに、やりたい事も」

 息を呑む音が、カタリからした。

「—―わかった。私も準備しとく」

 カタリの手が硬くなるのがわかる。だけど、決して拒否している訳じゃない。むしろ、掴んでいる手の握力が強くなっている。

「そろそろ行きましょう。もうすぐ夕食の時間」

「‥そうね。また明日」

 夕飯を運んできてくれた看護師さんが来たのを見たマヤカが、カタリの肩を掴んで帰るべきと勧める。本当はどちらかに食べさせて貰いたかったが、それは出来なかった。

 ふたりの後ろ姿を見ながら食器を迎える。だが、同時にふたりの話声も聞こえた。何かを習うだ練習するだ。マヤカの経験をカタリに教える様子だった。



「あのふたり、いつの間にあんなに仲良くなったんだ?」

 魔に連なる者として、何かを教え習うという事はそれこそ師や講師、教授といった特殊な関係でしか行われない。なぜなら、自分の手の内を明かす事になるからだ。

「俺の知らない間に、死線をくぐったのかも――いいや、俺を解体したのか」

 恨んでなどない。ああしなければ、俺は確実に災害になっていた。この秘境諸共、魔に連なる者の世界もそして人間の世界全てを焼き尽くしていただろう。

「‥‥よく俺を放置してられるよな。なんでだ?」

 講師が言うには、マヤカが俺の飼い主的な扱いになっているらしい。マヤカの立場がどういったものなのか、今以ってわからないが、それを許されるという事は、やはり只者ではない。

「もしかして、俺よりも危険な人間なのか‥‥そもそも、マヤカ」

 気になってしまった。違和感はあった。こちらに戻ってきてから、感じていた脈動とでも言うべき力を。俺が人間ではなくなったから、受ける感覚が変わったのかと思ったが、違う気がする。いや、色濃くマヤカの中身を感じるようになった。

「—―カタリも、ただの人間から離れていってる気がする。だけど、マヤカはその比じゃない。もしかして、元から人間じゃない‥」

 この時間ではスマホは使えない。だけど、休憩所に行けば連絡は許される。

「‥‥いや、いらない。マヤカは、俺の――初めての人だ。それに‥信じてるんだ。生まれなんて、どうでもいい。俺も人間じゃないし」

 もしマヤカが人間でなくても何も問題はない。そもそも人間という異種族を恋人にしているんだ。人間以外が恋人であっても、何も問題ない。

「あーでも、声を聴くっている言い訳にはなったかも。カタリにも電話したいし、先生にも会いたい‥。暇だーー」

 腕を吊りながらベットで転がってみる。思いの外、身体が動いている。全身骨折をしていた筈なのに、夜を越える度に身体が修復されている気がする。

 これが神獣の生命力なのか?だとしたら、便利だが恐ろしくもある。

「怪我を恐れる必要がないって、結構危険かも」

 目が冴えてしまった。それに、そもそも眠る時間ではなかったのだから、暇を持て余して当然なのかもしれない。マヤカが持ってきてくれた本もあらかた読み終わってしまった。

「【年上の誘い方】ねぇ‥マヤカ、俺に不満があるのかな‥」

 渡してくれた本の中に、指南書が混じっていた。マヤカの正体より、マヤカの真意が気になる。

「どうにかしないと。ここ最近、ずっと無様だ」

 起き上がって車椅子を引き寄せる。もう明日には乗らない気なのだから、今晩中に乗り回しておこうと思った。

 外に出ると、まだ廊下は明るかった。俺のように暇を持て余している入院患者が彷徨ている。それに、そんな面倒な患者の世話をする為に、看護師さんが叱っている。

「俺も気を付けないと」

「何をですか?」

 冷や汗が噴き出た。

「あ、先生‥」

「あ、先生。はい、私は医者、先生です。その先生に何も言わず、どこに行く気ですか?」

「購買に‥」

「明日ではいけないのですか?」

 白衣をまとった女医さんがそこにいた。俺の担当医である純白の麗人は、いっそ鋼で出来ているのではと思う程、真っ直ぐに仁王のように立っていた。

 そんな人がゆっくりと車椅子を押して、部屋に戻してくる。

「あなたも年頃、しかも院内であのような事をする程には欲を持て余している。欲求不満なのはわかりますが、少なくとも、この院では大人しくしてもらいます」

 俺の講師と同郷の人という事もあり、医者というよりもそれこそ教師のように振る舞ってくる。

「欲求不満って、そんな風に見られてたんですか?」

「私は見ていました。それに、ここの看護師たちも。それで、何を汚しましたか?」

「え、汚す?」

 別にただ暇だから一階の購買に行こうとしただけで、何も汚してなんか。

「布団ですか?服ですか?それとも下着?誰か代わりに行かせますから、正直に言いなさい」

 俺をベットに運んでから、矢継ぎ早に聞いてくる。確かに寝汗でそういったものは汚しているが、すぐに取り換える必要はないだろう。

「大丈夫です。それに、もう明日にはどうにか自力で歩くつもりなので。俺、頑張りますから」

「はぁ‥言いたくないのなら、しなければよいものを。布団の代えを用意しますから、勝手に動かないように。いいですね?」

 そういった事は看護師さんがするのでは?そう思った瞬間には、女医さんは扉を閉めて出て行ってしまった。もしかして、俺ってそんな危険な存在と思われているのだろうか。

「人なんか喰わないのに。もし食べるとしても俺にだって選ぶ権利がある」

 取り換えてくれるらしい布団出来るだけ畳んで待つ事にした。

「—―俺は危険か。外に出たら、俺、どう見られるんだろう」

 もう機関に所属した事は知れ渡っているだろう。この秘境で一番の規模を持つ自然学の街と人間に機関のローブを着ているのを見られているのだから。

「気にしても仕方ないよな。もう選んだんだから」

 窓枠に頼って月を見上げる。あともう少しで満月になる、だが、少しだけ欠けた不格好な月も嫌いではなかった。カタリと逃げ出した時も、このぐらいだった。

「相変わらず、月には縁がない」

 しばらくの間、月を肴に過去を振り返っていると、扉が叩かれる。

「どうぞー」

 振り返らずに許可を出すと、向こうも返事もしないで入ってきた。やはり、俺は自覚が足りない。また油断した。だが、今回は気付けた。足音が違った。

「今更なんの用だ」

 水晶の槍を造り出し、マキトの剣を切っ先で押し返す。マキトの雄たけびが部屋中に木霊する。もはや正気とは言えない姿だった。

 髪を振り乱し、瞳孔を開き続け、握っている刃をコントロール出来ていないのか、自身ぼ手から血が零れている。暴走寸前だと、一目でわかった。

 そして、刃を使ってきたことも、血で濡れた刃で想像出来てしまった。

「‥‥お前、ただじゃ済まないぞ」

 この病院での戦闘は御法度。これは、秘境内の協定であり、魔に連なる者の暗黙の了解。そんな鉄の掟を破り、ここの職員に術を振り落とした。

 家に何かしら罰が下りる事になるだろう。

「おい。もう一度言うぞ。お前、ただで済まなくなる。わかってるだろう?はやくここから出て」

「黙れ‥」

 マキトの喉から出ている声とは思わなかった。しわがれているのに、甲高い声。壊れた笛のようだった。

「ああああああ!!!」

「何があったんだ‥」

 殺してやりたいぐらい嫌いな奴だったが、ここまで狂っていると、もはやあのマキトとは思えない。しかも、怪我をする事を誰よりも恐れた奴が、自身の血を気にもしていない。槍に押されて徐々に刃が手を裂いていくのに、気にも留めていない。

「じじいに何を言われた‥。お前が成ればいいだろう!!当主なんか、俺にはどうでもいいんだ!!カタリと俺はここで暮らすから、お前も勝手にすれば」

「俺だって、そうしたかった!!だけど、選んだのは俺じゃない!!オマエダロウガ!!」

「選んだ‥?」

 マキトから寒気を感じる。ヒステリックな声が、首筋を凍らせていく。

「なんで、早く言わなかった!?あ!?ここまで来て、俺は俺は!!」

「よせ!!」

 水晶の切っ先を押し上げるように柄を失った刃を振り上げた。槍を消さなければ、指が落ちていた。実際、落ちる寸前だろう。

「もういい!!何が望みだ!?」

「何も‥もう何も無いんだよ!!!」

 腕に水晶の鎧をまとわせて受け取る。だが、血が流れた。マキトのじゃない。

 狂いそうな痛みだった。視界が歪む。声が出ない。それどころか、立っていられない。背中を窓と壁に押し付けて、落ちていく腰を支える。

「マキト‥なんだ、その刃は‥‥」

 腕から毒でも回っているようだ。折れていない腕が腱を切られたように動かなくなる。心臓にまで毒が回っているように感じる。鼓動が安定しない。

「ほら見ろ。俺の方が強いじゃないか――どうだ!!リヒトを、俺は殺せるぞ!!これでもリヒトを選ぶのかよ!!?」

 誰に言っているのか片耳が機能を失った俺にはわからない。片目も、もう見えない。

「選ばれるのは俺だ!!この剣を使えるのは、俺だけだ!!」

 片目でもわかる。褒められたい、強く見られたい一心で動物や虫を殺している本当に子供のような欲望。無邪気さする感じるそれが、あまりにも恐ろしい。

「は、はははは‥そうか。そうだよな。殺さないと、殺さないと、選んでくれないよな?ああ、いいぜ。殺してやる。この手で、神獣を殺してやる」

 もはや誰の物かもわからない血で染まった刃を鼻先に向けてくる。

「俺はお前とは違う。殺せる人間だ。お前みたいなガキとは違うんだよ!!」

 振り上げられた時、頬からまぶたまでを切り裂かれた。幸い目は失っていない。だけど、髪に冷たい刃を感じる。

「くくく‥最初からそうだった。俺は特別、俺は偉い。俺が選ばれるべきなんだ!!」

 振り下ろされる音を聞きながら、頭の血が全て凍り付いた。

 そして、同時に振ってきた数本の指を見て、血の気が引いた。

「遅れました」

「無事か!?」

 腰を床に降ろして、見上げる。そこには、指を失ったマキトの手と鎖に巻き付かれて静止している刃が眼前まで迫っていた。

 鎖の発生源を見つめた時、マキトの身体が真横のベット諸共壁に叩きつけられる。

「先生‥」

「無事じゃないか‥すまない」

 冷たい自分の顔から、講師の暖かい血の気が通った手を感じる。月明かりに輝く髪は、神々しかった。

「遅れてしまったの。ごめんなさい、あなたを優先すべきだったのに」

「なんか、先生じゃないみたいです‥」

 講師に身体と頭を預けて、月色のローブに顔をうずめる。柔らかい艶やかな布は講師の体温に温められ人肌のようだった。

「私は、先生になれないみたい。危険だとわかっていたのに、結局私自身を優先してしまって」

「そこまで。早く手当を」

 後ろから女医さんの声が聞こえる。だけど、姿が違う。あの髪とローブは、先生と同じ――。




 ゆっくりと水面に上がる。水底に何がいるか知らないが、こちらに来るたびに輝いているのを思い出す。気になるが、早くあの方に会いたい。

 砂浜に上がり、水晶の海に足を浸して待っている白い神に縋りつく。

「痛かったね」

「はい‥」

「でも、耐えた。あのまま斬られたら」

「‥‥斬られたら?」

 脳裏に冷たい血を感じる。今も、頭の血が凍り付いているようだ。

「しばらく目を覚まさなかったかも」

「—―死んでいたんですか」

「少し違う。でも当たってる。あれはあなたの内側を眠らせる力がある」

「神獣殺し‥いや、竜殺しですか」

 白い服と白い腿に頭を乗せて、呟く。

「あなたの世界は見た目や形に拘るのね。そんなに私達の形をした者の首が欲しいのかな?」

 心底不思議といった感じに聞き返してくる。確かにそうかもしれない。

 一体、人間は俺達に何を求めているのだろうか。殺した所で、形は得られないのに。

「称号や誇りとして、欲しいみたいです」

「ふーん。人間程度に負けるような生命にそんなに特別性を見出しているなんて。意外と、人間って暇?」

「‥‥かもしれません」

 腿の上で寝返りを打って、空を見上げる。常に虹やオーロラがかかって降り注いでいると考えれば神秘的だが、あの空の向こうは別世界がある上、つまらないと感じたら、容赦なく喰らい尽くされる。料理の上にかかったベールと言えるだろう。

「‥‥なんか、つまらないそう」

「‥でも、」

「大丈夫だよ。それに私だって選ぶ権利がある。つまらないだけなら食べるか捨てるするけど、あれはあれで美味しそう。もう少し見ていたい」

 美味しそうだから食べない。それは、今は肥え太らせているという意味ではないだろうか?

「大丈夫?」

 急に顔を撫でてくれた。それに、水を身体にかけてくれる。

「震えてるの?」

 かけられる水の量に比例して、凍り付いていた頭や身体が溶けていく。

「あの剣は、怖かった?」

「‥‥怖いし‥痛かった」

 向こうに帰って腕が無くなっていたら、俺は正気でいられるだろうか。それどころか、俺の身体は生きているだろうか。考えれば、考える程、身体の震えが止まらない。もう二度と人間の姿が取り戻せないかもしれないと、考えてしまう。

「ここでは痛くない。そうでしょう?」

 震えている俺の手を取って、息を吹きかけてくれる。骨が軋む程強く握っていた手を解きほぐしてくれる。

「ここには敵はいないよ。いたとしても、私が食べてあげる。だから、弱くなっていい」

 その瞬間、何かが砕けた。取ってくれた手を胸に付けて、目をつぶって泣き耐える。きっと無様な姿だ。膝の上ですすり泣く眷属など、醜くてしかない。

「あなたは私の眷属。だから、あなたが一人で苦しんでいる姿は許せない」

「‥‥こんな無様なのに‥負けたのに‥」

「苦しんでいるあなたは無様なんかじゃない。それに、人間には負けてない」

 目を開けて、顔を見上げる。

「あなたはそもそも負けた訳でも、まして死んだ訳でもない。あれではあなたは殺せない。だけど、眠らせる事は出来る。毒って言うの?それが身体に入ってる」

 毒という響きに、やはり恐怖を感じる。これはまだ人間としての感覚が抜けきっていないからか。

「俺の身体は、どうなってるんですか?」

 もう一度寝返りを打って、海を眺める。

「あなたの身体?ふふ‥大丈夫」

 髪を撫でながら、囁いてくれる。

「人間の姿をしていたとしても、あれだけ力を持ったあなたの身体では、命を落とす程ではない。それに、あの乙女達がいる」

「‥‥先生達は、やはり」

「うん。人間じゃないよ」

 違和感はあった。見た目こそただの人間ではあるが、俺の内側を知っておいて、まるで気にもしていなかった。あれは、自分もそうだからだ。

「あの人の世界は、」

 そこで口を手で塞がれた。それと同時に水を飲まされる。

「気にしたとしても仕方ない。気にしたところで意味がない。でも、あなたに嫌われたくないから、言うね。私は、彼女達の世界を食べてない。捨ててもいない」

 意識が途絶え始める。白い方の声が、子守唄のように聞こえてくる。

「彼女達の世界は、もう滅んだ。あなたや私が焼き尽くす前に、焼き尽くされた」

「‥‥焼き尽くす‥?」

 世界を焼き尽くし、滅ぼす。それは、まるで――。



 目を開ける。ゆっくりと拳を作り、シーツを掴む。それだけで、骨が削れるような痛みを感じる。確実に、しっかりと感じる。幻肢痛じゃない。

「—――帰ってきたのか」

「帰ってきたな」

 顔に影がかかる。そのまま、金色の髪が顔にかかり、薄い色の口が額に押し付けられる。数秒もない接触なのに、それだけで安心して、もう一度目をつぶれる。

「口に欲しかった‥‥」

「怪我人には刺激が強すぎる。完治すれば、それ以上をあげよう。‥‥君が私に愛想を尽かさなければだがね」

 椅子の軋む音がする。隣から安堵の息が聞こえる。

「ここは?」

「無論、病室だとも」

「あなたの部屋がよかった‥‥」

「また食料を食べ尽くす気か?その時の為、備蓄しておこう」

 微かに笑いながら、首から耳にかけて冷たい手で撫でてくれる。身震いしそうな冷たさと滑らかさ。そして、カタリやマヤカとは違う。指の長い大人の手だった。

「あれからどのくらい経ちました?」

 離れようとする手を引き寄せて、逃がさないようにする。

「今度は逃がしません。絶対に‥‥」

「ふふふ‥それは、恐ろしい。君が眠ってから、まだ数時間といった所だ。カタリ君にもマヤカ君にも、話していない。安心した?」

「はい‥もう、心配も迷惑もかけられません」

 講師の手に頼って、起き上がろうとしたが力を抜かれて、またベットに倒れてしまう。

「眠りなさい」

「‥‥でも、俺はマキトを」

「救いに行くのか?」

「殺す」

「‥‥そうだ。君はそうだったね」

 目を開けて今度こそ立ち上がろうとしたが、講師が身体全体を使ってベットに押し付けてくる。同時に首を吸って力を抜かせてくる。血を抜かれている気分になってくるが、それが気持ち良くて。何より、わずかに聞こえる講師の声が耳に入り、力が入らない。

「これ以上すると、跡が残ってしまうな」

 動けなくなった俺の唇を指で撫でて、鼻で笑ってくる。

 試しに当てられていた首元を触ってみると、ほんのりと湿っている。湿り気を口に運ぼうとしたが、その手を止められる。

「流石にそれはやめてくれ。少しだけ、気恥ずかしいよ」

「‥先生、可愛いですね」

 来ると思った。額を少し強めに突かれる。

「そういう事は、もう少し私を知ってから言いなさい。年下のくせに、生意気だぞ」

 マヤカよりも、手慣れた様子で顔で遊んでくる。引っ張る頬も、突く額も、心底楽しそうに続けてくる。そんな先生の顔が、本当に幼く見えてくる。

「先生‥」

「ん?もう眠いかな?」

「先生は、俺の先生ですよね?」

 そう聞いた瞬間、自分の口を抑えながら笑ってくる。しかも、それが長く続く所為で、過呼吸になっている。だが、それでも息が出来ないようで、自分の胸を抑え始める。

「き、君は、君は私を殺す気かい?」

「殺す気はありません。俺に落ちてくれますか?」

「主導権は私にある。気長に待ちなさい—―では、質問に答えよう。そうとも。私ことヘリヤは、君の教師であり、君の先生だとも」

 自分の名前を高らかに言い放ち、劇場にでもいるかのように片手を胸に当てて、もう片方の手を高く掲げる。ただでさえ金髪の美人が、ひときわ美しく見える。

「ヘリヤ‥」

「先生をつけなさい。もしくは――いいや、先生と」

「マスター。そう呼んでもいいですか?」

「‥‥取り敢えず、その心を聞こうか」

 自嘲気味に笑った講師は椅子に座り、足を組んでくる。あの時見た月色のローブではない。普段、講義室にいる出で立ちだった。

「私は、君のマスターになれるほど、長く過ごしていない。その上、マスターの役目はただ物を教えるだけではない。弟子を守ることも、マスターの役目だ。なのに、私は、散々君を利用した。今回の傷は訳が違う。本来、守れた筈の傷なのに」

 痛みを我慢して、折れた腕と斬られた腕で上体を起こした時、講師が肩に手を置いて来るが、今度こそ無視する。

「傷が開いてしまう。頼むから」

「じゃあ、俺に無理させないで下さい。どこにもいかないで」

「‥‥自分の命を人質か。卑怯だな」

 諦めた講師は、背中に腕を入れて手伝ってくれる。すぐ近くから吹きかけられる息が首元にかかり、ますます眠気が覚めていく。

「マスターと呼ばれるのは、嫌ですか?」

「—―私は、そもそもマスターなどという器ではないんだ」

「でも、マヤカが」

「彼女は勝手に、それに便宜上そう呼んでいるだけだ。—―全く、わがままな子だよ」

 椅子に座りながら、真上を見つめる。口ではそう言いながら、決して悪い気分ではないように見える。

「私は、あまり子供や年下との付き合いが得意ではなくてね。この教員や講師、教授といった仕事だって、たまたま、気の迷いで受けてしまっただけなんだ」

 半笑いでつまらない話としたな、と言った。

「君にキャリアの話をしても仕方ないな。私はやはり」

「いいえ。それでも、あなたは俺のマスターです」

 水晶を腕にまとわせて、無理やり強度を上げて、手を取る。力任せに手を引いて、膝の上に乗せる。そうする事がわかっていたのか、呆れたように笑って、従ってくれる。

「俺にとって、マスターと呼べる存在は今まで一度もいませんでした」

「君の家は大家だ。帰れば、私よりも」

「いいえ、いません。全員、雑魚ですから」

 吹き出すように笑った。

「そうだろうね。だが、それを言ったら、私も」

「あなたは俺よりも強いのではないですか?」

「—―なぜ、そう思う?」

 腕の中にいる講師が、背中に腕を回して聞いてくる。

「あなたは、人間じゃないから」

「それだけで、君に勝てると」

「神の血を引いてますね?」

 今度こそ驚いたのか、青い碧眼を開いて、息を忘れている。

「それに、あの女医さんも。だけど、あなたは一線を画している。人間の身体に収まらない力の所為で、あなただけ、この髪のままだ。それに、この髪はあの時の俺が噛んでも切れもしなかった」

 今度こそ手に取ってみればわかった。この髪は、人間どころか純粋なこの世界の物でもない。その理由は、神獣として噛みついた俺の牙を物ともしなかった。

「まったく、ただの性癖かと思っていたが、その実、私は見透かされていたのか」

 先ほど顔を好きなだけいじられていたので、お返しとばかりに髪を触り続ける。カタリの黒髪は、長く触ると怒られるが、先生は余裕ぶって触らせ続けてくれる。

「いい香りです‥」

「女性の髪を褒めるのは、高得点だが、私の髪はおもちゃじゃない」

 頭を振った時、手から零れてしまった。去っていく髪もやはり悪くなかった。

「それで、君はどうして、私をマスターと呼びたがるのかな?強い女性が好みならばマスターと呼ばずにご主人様と」

「俺の主人はもういます。だから、あなたはマスターです」

「—―主人か」

「はい、それにマスターと呼べば、あなたの隣にいる事が出来ます。そうすれば、もう俺を放置できない」

 師弟関係というのは、現代での在り方は過去のそれとは離れている。

 現代では、この学院のような教育機関の教室に所属すると、そこの教諭を師となる。であるならば、別の教室に所属すれば、移動した教室の教諭が師となる。

 だが、今の講師やマヤカのような関係も存続している。

「マスターは嫌ですか?俺を内弟子と迎えるのは」

「‥‥全く、君は私目当てだろう。ふふ‥私達の内弟子は女性と決まっている。諦めてくれ」

「じゃあヘルヤと呼ばさせてもらいます」

「うむ。却下する。それ以外で呼びなさい」

「わかりました。マスター」

 溜息を吐いた後。膝の上から出て行こうとするマスターにしがみついて、そのままベットに倒れる。

「もう逃がしません。もう――ひとりにしないで」

 わがままな子供に根負けした気分になっているのか、布団を二人で被り、胸に引き入れてくれる。俺よりも背の高いマスターは、長い足を絡ませてくる。

「君が勝手に動かないように、見張ってくれと言われていたんだよ。これで、逃げられないな」

 後頭部を撫でながら、頭に口付けをしてくれる。

「ふふ‥気まぐれに君を引き取らなければよかった。こんなに私を求めてくるなんて‥‥。私を年下好きにした罪は重いぞ‥」

 頭にマスターの息を感じる。それに、落ち着いてゆっくりとした心音も聞こえた。





「‥はぁ‥何をしているのですか?」

 思わずため息が出た。

「ふふ。そう言わないでくれ。久しぶりに会ったというのに」

「つい最近会ったばかりです。—―彼は?」

「見ての通り。私の教え子だよ」

 そう言いながら、顔を見せないように頭を強く抱きしめている。

「まさか、マトイの目すら誤魔化して運転手役などしているなんて――。何が目的ですか?」

「忘れた?私は外部監査科で、オーダー内の危険分子を排除するのが目的。君の所の彼が一番その可能性が高いと思ったのだけれど?」

「—―はぁ、思ってもない事を」

 またため息が出てしまった。昔からそうだ。この人は、人で遊ぶ癖がある。厄介な癖だ。マトイのあの性格は、この人譲り。しかも、悪びれない所も似てしまった。

「それで、鍵まで渡して、彼を弟子にでもする気か?」

「そんなつもりは毛頭ありません。あれはただの監視の為」

「マトイとの仲を見張る為ではないかな?車の中でも相当だったぞ?」

 思わず舌打ちが出てしまった。しかも、それを見て薄く笑っている。

「あなたもマトイの育ての親、あそこまで二人で抱き合って――いいえ、失礼」

「ふふふ‥」

 今の姿を見させている訳がそれか。これぐらいなんでもないと言っているつもりなのだろう。

「私も見ていたが、彼にはマトイが必要だ。もし無理やり引き離せば、君どころか私まで殺される。もしそうなったら、私の彼が正常ではいられない」

 先ほどから抱えている少年を差して言っている。久しぶりに見た。しかも、館での力をマトイ以外に使っている。だけど、隠しきれていない。この子がまるで――。

「どこで拾ってきたのですか?それとも、いままで隠して?」

「君も、私に子供がいると思っている口か?そんなに年上に見られているのかな?」

「答えなさい。その子は」

 問いただそうとした所で、胸の中の子がうめき声を上げた。

「あまり大きな音は出さない方がいい。彼に殺されるぞ。くくく‥」

 受け入れている当の本人は、その危険な子を胸に収めるながら、口に指を立てている。ふざけた態度こそ取っているが、うめき声でわかった。彼は苦しんでいる。

「—―何があったのですか?あなたがいながら、そんなに苦しめて」

「‥‥その通りさ。私は自分の血を優先してしまった。危険だとわかっていたのに、放置して血を流せた。それに、我らが妹まで来てしまった」

 首筋にひびが入る気がした。

「‥‥あの子が、未だに囚われているのですね‥」

「ええ、あの子も選んでしまった。もう我らの誓いも役目もとうの昔に消え去ったというのに。まだ、夢を見てしまっている。夢は夢を消し去ればいいものを」

 本当に大事な子だというのが、抱えている頭を撫でる手つきでわかる。マトイと同じように愛している。

「—―私が、話を」

「いいえ、あの子の生真面目さを知っているだろう。彼自身の決めさせるしかない。それに、君は自分の燕を優先した方がいい。遅かれ早かれ、彼の所にも行くだろう」

「‥あの子は燕などでは」

「だが、大切な子だ。救い出そうとしたのに、遅かった。私もそうだ。罪滅ぼしにもならない、殺されたって文句は言えない。けれど、我らの血が原因の可能性がある以上、我らは守らなければならない。私は決めた。この子は私の恋人にする」

 姉妹達の中で、唯一器に収まり切れなかった神格を使って答えている。それほどまでに、彼が大切だと。ある意味においてマトイ以上に、大切だと。

「マトイは、あなたに会いたがっています。謝りたいと」

「私も同じさ。だけど、その前に私もしなければならない事がある。ふふふ‥前に言われた事を覚えているか?」

 幼いマトイが無邪気に訊いた過去を思い出す。私達全員、持っていた食器を落とし、必死に言い訳をしたのを覚えている。まるで、乙女のように。

「‥‥いい人はいないのか‥」

「であるならば、マトイを安心させる為、私は相手を連れていこう♪」

 思わず口が開きそうになった。私がいるというのに、額に口をつけて胸を押し付けて楽しんでいる。むしろ起こそうとしているのは、向こうではないか?

「君にわかるかな?先生先生と甘えに来て、そばにいて先生じゃないと嫌だとわがままを」

「私が見た所、そのような事は言ってません」

「エイル、水を差さないでくれるか?彼はまだ寝ているぞ」

「点滴の交換に来ただけです。久しぶりですね」

「お久しぶりです」

 もう一人の我らがそこに立っていた。だが、点滴など持っていない。

 それを不審に思っていると、ヘルヤの胸にいる彼を奪い去って人形のように抱き上げる。あの子も相当だと思ったが、ここまで動かされても起きないとは。

「そろそろ時間です」

「残念だ。寝起きの甘えん坊な彼を楽しめると思ったのに」

 ベットから降りてきたヘルヤが改めて彼を受け取り、ベットに寝かせる。

「‥‥まさか、私達がここまで集まるなんて。昔のようですね」

「それほどまでに、世界が変革しているという事かな?しかも、あの時とは比べ物にならない人外達だ。此度の戦争回避は、なかなか骨が折れそうだ――」

 眠っている顔を撫でて、もう一度口を付ける。その瞬間、起きたのかと思う程の速さで腕を伸ばしヘルヤを引き寄せる。そこでわかった。腕の傷が。

「—―それは‥」

「彼の家の家宝だ。全く、忌々しい程、世界は狭いらしい」

 腕の傷でわかった。この子の中身が、そして気付いた。どうしてヘルヤが彼を選んでいたのかを。




「それで、マキトは?」

「すまない。彼は逃がした」

 朝食を食べさせて貰いながら聞いていた。

「逃がした?あいつを?」

「危険ではあるが、彼の狙いはどこまで行っても君だ。邪魔さえしなければ、彼は暴れやしないだろう。悪いね、彼は私達の都合で、捕まえる事は出来ない」

「俺がやるしかないって事ですか。どこにいると思いますか?」

 試しに斬られた腕を動かしてみる。やはりあれは夢ではなかった。麻痺毒、という程ではないが、動かしているのにどこか他人の腕を操っているようだ。感覚が鈍っている。

「マスター、あれは」

「私にはわからない。だが、あの剣は危険だ。軽く撫で斬られただけでそれだ、貫かれないように気を付けなさい」

「‥‥怒ってますか」

 マスターが箸を音を立ててトレイに置いた。少しだけびくついてしまった。

「すみません――俺」

「すまなかった」

 首を捻ってマスターを見た時、既に頭を下げていた。手を伸ばそうとしても、それは折られた腕だった。

「何から何まで、私が原因なんだ。私はどこまで行って、人間のふりなど出来ないんだ」

「俺も人間じゃありません」

「だとしても、私は君に優しくしたかった。人間らしく愛を育みたかった」

 頭を上げた金髪の麗人は、ひどく苦しそうだった。

「マキト、もしかしてマスターまで」

「いいや。これは私自身の問題さ。君が気に病む必要はない」

 斬られた腕を伸ばして、手を取る。震えてなんていない、だけど、力がこもっていない。

「ふふ‥ダメだな。君といると弱みばかり見せてしまう。それに傷つけてしまう」

 片手で髪をかき上げると同時に、握っていた俺の拳に口を付けてくれる。

 謝り続けてくれるマスターは、真相を話してくれない。無理やり聞き出そうとすれば話してくれるかもしれないが、痛々しいマスターを問いただす気にはならない。

「やはり、君は優しいな。私だったら無理に聞き出そうとしたのに」

「教えてくれますか?」

「無論、出来ないとも」

「なら、良いです。いつか話して下さい」

「傷つくな。私に興味がないのかな?」

 少し伸びてしまった俺の髪をかき上げて、耳に沿わせてくれる。

 それが終わった時、目が合った瞬間、ふと笑いかけてくれる。やはり俺のマスターには余裕のある大人の表情がよく似合う。それだけじゃないこの手が気持ちいい。

「言っておきますが、俺にも秘密があります。マスターと同じくらい」

「ほぅ、それは興味深い。何かな?」

「俺がどれくらい、あなたに感謝しているか、知っていますか?」

 何故か、もうほとんど完治している身体の骨をねじってマスターを引き寄せる。体格も背の高さも、マスターの方が上だが力任せに抱きしめたら、少し驚いてくれた。

「それに、俺がどれだけあなたを――想っているかも」

「ふふ‥それぐらいはわかるさ。私だって」

「いいえ、わかってません」

 肩に頭を押し付けて、耳元で話す。

「俺を踏み止まらせてくれたのは、あなたです。正直に言います。俺は、カタリとマヤカを殺していたかもしれません」

「‥‥そうか。‥‥そうだったのね」

 頭を撫でながら聞いてくれる。俺を受け入れてくれる。

「ふたりの事は、きっと嫌いになんてなれない。だけど、殺さない理由にはならない」

 好きな、あれだけ好きだった二人が俺を殺した。生きながら身体を切り開かれた。あの時の痛みと恐怖は、もう生涯消えない。ふたりを見る度に。胸が痛む。

「もう消えないんです。もう、忘れられない。見たくないから、殺していました」

「私は、私はいいの?私も君を」

「あなたが傍にいてくれた。だから、俺はまだ正気でいられた」

 夜を越えるのが怖かった。眠るのが怖かった。目を開けた時、カタリとマヤカがいたら、自分を抑えられる自信がなかった。だけど、眠る時も起きる時もこの人がいた。

「あなたとの生活は楽しかった。ずっと続いて欲しいって、思ってました」

 何も言わないで聞いてくれる。何も言わないでただ頷いてくれる。

「人間としての生活をあなたは教えてくれた。もし俺が優しいなら、それはあなたが教えてくれたから。俺の身の上を知った上で、あなたは抱きしめてくれた」

「‥‥ふふ、意外と君は単純なのね。抱きしめられただけで、私を?」

「あなたも自覚が足りません。自分の容姿を知らないんですか?」

 肩から頭を離して、改めて顔を見つめる。金髪碧眼の傾国級の美女。それに人形の雰囲気と少しだけ違って、幼く見える。なのに、身体は俺を軽く抱き入れられる程豊満で艶やか。

「まさか、一目惚れかな?」

「‥‥かもしれません。いいえ、そうです」

 そう言った瞬間、口を口で塞がれる。

「君はずるい。本当にずるい。私をどれだけいじめれば気が済む」

 口を付けた時の香りを残して、朝食の箸を取る。

「決めたぞ。やはり、君は私の物にする。マスター権限だ、君の全てを私の物にしよう。カタリ君とマヤカ君に遠慮するのは、もうやめた。覚悟したまえ、君が夢中にさせたのはただの人外じゃない。魂まで私の物だ」

 



 散歩がてら院内を歩いていると、看護師や研修医達が慌ただしく走り回っているのがわかる。殺した訳ではなさそうだが、入院患者を斬ったとすれば、やはりただでは済まないだろう。もうあの家にも居場所はない。

「なんか、病院内がざわついてる気がするんだけど、何かあったの?」

「マキトが少しな」

「‥‥本当に、あり得ない。ここで暴れる?もう正気じゃないんじゃない?」

 それだけで何があったか想像してくれた。秘境内での小競り合いは仕方なしと多少ならば目をつぶられるが、あいつは場所を間違えた。

「—――ああ、アイツ、もう正気じゃないかもしれない」

 あの立ち姿はもうはや正常とは言い難い気がする。実際、言葉がどれだけ通じるか想像もできないし、言葉だけで落ち着かせる気は、もうない。

「どうするの?」

「追いかけるか、来るまで待つか。でも、この病院の先生にはずっと世話になってるから、出来るだけ騒ぎは外で起こしたい。それに、当てもある」

 マスターから聞いた。やはり、自然学の教授と繋がって背広達をこの街に侵入させたのは、マキトだった。ただあの教授の言い方だと、それほど頼りにしていなかったようだが。

「あの教授の館あるだろう」

「でも、あそこは今機関の管轄でしょう?」

「だけど、全部じゃない。まだまだドームは残ってた」

 あの館はあの魔人の住処。中に何があるのか調べるには安全性を確保してからでないとあの機関でさえ手出しが出来ない。まだ全てを調べられていない。

「それに、あれだけ地下が広大なんだ。多分、まだ部屋がある。後でマヤカに連絡して行こうと思ってるから、付き合ってくれるか?」

「それはいいけど‥。身体は大丈夫なの‥?」

「—―どうにかする」

「そう‥」

 もう松葉杖で歩く事が出来る上、身体中の骨は、もう大方が治っている。無理をして怒られるかもしれないが、仕方ないと受け入れよう。だが、最大の問題が両腕だった。片方はアームホルスターで吊ったまま、もう片方は毒でも使われたように感触が薄い。それに、まだ心配事はある。

「でもリヒトを襲った奴、あれから現れてないんだよね?邪魔しに来る可能性もあるんじゃない?」

「かもしれませんけど、仕方ない。マキトを始末しないとゆっくり眠ってられないんだ」

「—―何かされたんだ‥。わかった、私も手伝う」

「‥‥ありがとう」

 何も聞かないで助けてくれる。やはり、俺はカタリに甘えてしまう。

 本当なら全て話すべきだが、話す事は出来ない。話せばカタリを泣かせてしまう。

「外出許可は取ってるの?」

「‥‥いいや」

「はぁ‥そこは自分だけで頑張ってね」

 




「怒られた‥」

「くくく‥怒られるだけで済んでよかったじゃないか」

 人形が運転する車内で、カタリに顔の汗を拭かれる。病院の外に出た瞬間、あれほど万全だった体調が、崩れていくのがわかる。空気が変わった所為だろうか。

「大丈夫なの?倒れないでよ」

「大丈夫大丈夫。思ったより外が暑いだけだから。それに、ずっと病室にいるより、たまには北部の自然の中にいるのも悪くないって事で許可を出してくれたんだ」

「‥‥無理してるって、わかったらすぐに連れ帰るから。わがままは聞かないから」

「その時は頼む」

 実際、自分でもいつ倒れるかわからない。腕の毒がうずいていくのがわかる。確実にマキトの刃に近づいて行っているからだ。方向は合ってる。

「マヤカは向こうにいるのよね?話は通ってるって事でいいのね?」

「ああ、これを着て行けば通してくれるらしい」

 俺専用にカスタムされた白い薄いローブとマントを掴んで見せる。しかも、カタリも似たものを着ている。

「まさか、私まで着る事になるなんて」

「何かと便利だからだ。一目で敵かどうかわかるなんて、向こうにもこっちにも都合がいい。それに、意外と涼しい」

 一体どんな技術で編んだものなのか知らないが、恐ろしいぐらい風が通る。袖や首、それに足首といった穴から風が通り身体中を冷やしてくれる。このマントも暑苦しさなどほとんど感じない。

「カタリはどうだ?」

「んー、許されるならもう少し自分で改造したい、かな?全体的なデザインは悪くないけど、私には少し装飾華美過ぎ。このマントももっと短くていい」

 カタリや俺のローブのマントは、両肩に取り付けられている。風になびかせればそれなりに見れるものだが、確かに少し長すぎる。はっきり言って邪魔。

「後で切るか」

 近づいてきたらしく、マントをしていない白いローブの機関の人間が槍やさすまたのような武器を手にしている。まだ館近くに何かが潜んでいるらしい。

「本当に基地みたいだ」

「というより、唯一憩いの場だったんでしょうね。絵画とか骨格とか、それに剥製とかも、ただただ趣味の物って感じのもあったし。家の防犯のつもりなんじゃない?」

「物騒な防犯だ。ほとんど戦力と変わらないや」

「行き過ぎた警察力を武力や戦力と呼ぶのだよ。そういう意味では、我らの秘境もオーダーも行き過ぎた警察力を言えるかもしれないな」

 マスターが教育者、というよりも哲学者のような事を教えてくれた。確かに、その通りかもしれない。この秘境は、本来、少なく弱くなってしまった魔に連なる者を保護し教育、育成するのが目的だ。だが、あの教授や俺は、紛れなく戦力だ。

「いつの間にか膨れ上がったんだろうな。守る為の力を、自分のわがままを通して守る為に外に向けるのは自然な事なのかもしれないな」

「私もそう思うよ。あの教授の目的が、自身の研究や魔に連なる者の復興だったのだから。まぁ、どうでもいい訳だが」

 そうだ。どうでもいい事だ。そんな理念、俺にとって取るに足らない些末な事だ。アイツは俺を殺して、俺を解体した、ただの狂人だ。だったら、復讐するのが俺の目的。そして、それは果たされた。それだけだ。

「そろそろ降りる準備をしてくれ。マヤカ君が見えた」

 身体を前に乗り出してフロントガラスを覗き込む。そこには銀色の狼をそばに置いた白いローブ姿のマヤカが立っていた。お利口そうに座っている狼が睨んでくる。

「あれ、マジで使ってたんだ」

「知らないの?あの狼、すごい活躍してるのに?」

 そうなのかと、カタリに振り返ってみると驚いた顔をされた。

「あの子よ。リヒトの居場所を映像で教えてくれたのは」

「‥‥へぇ」

 松葉杖を使って車から降りて近づくと、座っているのに俺の身長を軽く越している。しかも、毛皮が銀の鱗のようなので、触れるだけで手が切れそうな見た目をしている。

「よくあの黒服ども、これを相手に出来たな」

「ええ、蛮勇かもしれないけど、そこは評価したい。ふふ‥褒め言葉が聞こえるか、疑問ではあるけど」

 これを相手にして生きているんだ。俺はそこも評価したい。

「それで、館の内部はどうなってる?」

「はっきり言ってほとんど調査は進んでない。あなたが一人で行った地下室にもここからでは誰も到達出来てない。今この子を一人で歩かせてみたけど、危険だから戻ってきてもらった」

「そうか‥。じゃあ、もう一回行ってくるよ」

「私も行く」

 背後にカタリとマヤカ、それと狼を連れて、ひしゃげた門をくぐる。外から見てもわかったが、広大な中庭に、機関のテントやその中に多くの機材が運び込まれていた。意外と中庭は安全なのか、リラックスしている機関の人間がちらほら見える。

「今動かせる機関の総力を以って中庭だけは占拠した。自慢じゃないけど」

「自慢していいと思うぞ。俺も、結構危なかった時もあったし」

「ふふ‥見直した?」

 俺は容赦なく杖の一撃で門を破壊して入ったが、あれは誘い込まれていたのだろう。だが、機関の人間は違う。主を失いブレーキが完全に効かなくなった館の防衛装置と直接対決して、中庭を占拠した。俺一人では、手間がかかっただろう。

「ああ、見直した。ただの人間にしては、見どころがある」

 俺の言葉に空気が凍り付いた気がしたが、気にした事じゃない。

「背後からの不意打ちで、俺を仕留められなかったへっぽこ暗殺者には、丁度いい評価だろう」

「敵を増やすのが好きね。私も同意見」

「へっぽこ?」

 カタリが不思議そうに声を出した。

「ああ、俺を捉える為かどうか知らないけど、後ろから何かぶつけられた」

「それでリヒトに頼ってるの?なんて言うか」

「恥知らず。私もそう思う。あそこで少し休みましょう」

 マヤカに腕を引かれてテントの一つに入る。壁が無いテントは風通しが良くて、場違いではあるが、緑が多い山でのハイキングのように感じられる。

「入る前に少し話がある。休みながら聞いて」

 カタリと俺を座らせて、それに対面するようにマヤカが向かいのベンチに座ってくる。俺達がテントに入った瞬間、休んでいた機関の人間が全員去り、人払いが自動的に済んだ。

「今の館は私達が知らない間に、別の主を迎えたらしいの。だから、中はあなたが入った時の比じゃないレベルで危険。もう捉える事はしてこない」

「入ってくる人間は全員敵。自分以外の敵は全員殺して排除すべきって思ってるのね。想像を超えた馬鹿ね」

「それだけじゃない」

 後ろにいた狼を呼び寄せて、背中を見せてくる。背後から受けた一撃が背中の鱗に残っている。狼自身は気にした様子はないが、かなり深い。

「この子は私が使っている鎖と同じ。だけど見ての通り、傷を付けられてる」

「館にいる間は、その狼より強いって事か」

「それに、この子より凶暴」

 傷を撫でながら、伏し目がちに言ってくる。

「館にはこの子を弱体化させる術はかかってない。だから、もし常時、この子を超える力を持っているとしたら、私では敵わない。カタリはどう思う?」

「‥‥悔しいけど、私も同じだと思う。もしリヒトと一緒に行ったら、邪魔になる」

 本来、ふたりとも戦闘の専門家ではない。カタリは錬金術師で、マヤカは戦闘というよりも拘束捕縛のスペシャル。だが、使われる鎖が容赦なく切り裂かれるなら、出来る事は少ないだろう。それは、カタリも同じ。

「わかった。俺ひとりで行ってくる」

「うん。お願い、でも一人では行かせられない。この子を連れて行って」

「有り難いけど、断るよ」

 ベンチから杖を使って立ち上がる。

「でも、」

「大事な子なんだろう。それに怪我をしてる。俺も、見た目だけでも動物が怪我をしてるのは見たくない。その代わり、」

「これね」

 マヤカがベンチのしたから杖を渡してくれる。もはや見た目はレイピアのそれだった。だが、レイピアよりも長いので、松葉杖と鉛色の杖で安定して歩ける。

「気を付けて、それと、ありがとう」

「ああ、行ってくる」

 館の扉に向かって歩き始めた時、カタリが前に出た。

「大丈夫、無理はしない」

「そうかもしれないけど、私も行く」

「いいのか?危険だぞ」

「あの狼よりは、弱いけど、少なくともあの馬鹿よりも私は賢いから」

 思わず笑ってしまった。カタリも胸を張って笑ってくれる。

「ああ、そうだ。行こう。いい加減、アイツとの縁は切る時だ」

「私も、あんなのが親戚になるとか、絶対やだ!!」

 俺の背中についてくれたカタリが肩に手を置いてくれる。背中を守ってくれる。

 白いローブの下を鎧か甲冑のような物を着た戦闘専門職の間を通って、既に破壊された館の扉替わりに使われているビニールのカーテンの向こう側に行く。そこは外とは打って変わって、完全に無人だった。だが、機材らしきライトスタンドやノートパソコンが放置されている。外と中を隔てているのは、あの薄いビニール一つなのに、誰もここに入れないでいる。

「出迎えもなしかよ」

「怖がって引きこもってんじゃない?」

 カタリの声が聞こえたのか、館全体を震わせる低い風の音が聞こえる。洞穴の前に立っているようだ。

「確認する。アイツのメインは剣、昔通りなら、それ以外なにも使えない。手下はいるかもしれないけど」

「いる訳ないじゃん。前から自分の取り巻きにも見捨てられるぐらい馬鹿だったし」

「‥‥そうかもな」

 俺やカタリが自分の力で何かを編んで遊んでいると、それが気に食わないらしく、いつも邪魔をしにきた。今でこそ、それほど気にも留めないが、子供時代の二歳年上は、体格や体重がまるで違う。ただ体重をかけた拳一つで骨の一本が折れていた。

「それに、剣が得意とか言ってたけど、それだって、リヒトに」

「黙れ!!!」

 玄関ホールに雷でも降ったような怒号が飛んだ。だが、姿は見えない。

「黙れ黙れ黙れ!!黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!」

「用はわかってるな。大人しく姿を見せろ」

「俺に命令するな!!!」

 俺が引き裂いた玄関ホールに繋がる扉という扉が開かれる。そこには動物の骨や機関銃を持った防弾装備に身を包んだ肌を一切見せないただの人形が入ってくる。

 だが、それらの一つが躓き、身体が崩壊したのを皮切りに入ってきた諸々が全て崩れていく。もう一度マキトの怒号が聞こえるが。嘆きに聞こえる。

「無駄だ。お前は前々からそうだっただろう。慣れない事はやめろ」

「俺には!!俺には力がある!家も立場も!!俺が後継者だ!俺がマキトの名を引き継いだんだ!!」

「‥‥そうだ。お前がマキトを引き継いだ。それでいいだろう」

「それでいい‥?ふざけるな!!!」

 最後の悪あがきとして、猛獣の頭蓋骨が一つだけ飛んでくる。鋭い、首に噛みつかれれば一種で動脈を食い破る顎。だが、それを真後ろにいるカタリが躍り出て拳で粉砕する。一瞬、カタリの腕に噛みついた頭蓋骨の牙は瞬時に欠けて、砕かれた。

「マキトの名前を奪ったのに、まだ足りないの?」

「黙れ!!野良が!!俺は、正当に名前を!!」

「私もリヒトも聞いたし知ってるから。あんたの両親が無理やりおじいさんにマキトの名前を譲り受けたって。本当はリヒトがその名前を受け継ぐ筈だったって」

「—――っ!!」

 もう声も出ないのか、マキトの名前を引き継いだ人間は、ただの響きだけで威嚇してくる。

「マキトの名前だけで満足してとっとと出て来い。ぶっ殺してやる――」

「ふ、ふふふふ‥俺に負けたお前が!!俺に勝つだと!?お前こそ、ぶっ殺して」

「あれで勝った思ってるのか?調子に乗るなよ?一体お前は俺に何度負けた?」

「俺、俺は‥負けてなんか‥」

「忘れてるなら、それでいい。前みたいに叩きのめしてやる」

 そう言った瞬間、天井から俺を斬った剣が大量に降ってくるのが見えた。カタリを引き寄せて水晶の盾を呼び出し、収まるのを待ち続ける。容赦なく俺の腕を水晶ごと斬った筈の剣は、ただの質量しか伝えてこない。

「こうやってあの狼を襲ったのね」

「不意打ちばっかりだな」

「みんなリヒトみたいに強くないの。不意打ちも、人間の知恵よ」

「卑怯だな」

「それが人間よ。それに、私からの不意打ちは嫌いじゃないでしょう?」

 確かにそうだった。引き寄せたカタリが口を舐めてきた。

 こんな状況でする事ではないが、それはそれ。昼替わりとして悪くなかった。



「止んだ?」

 カタリが水晶の傘から出て、上を確認する。資源か力か知らないが、全てを使い切ったらしく館は大人しくなった。足元に転がっていた剣も、砂のように消えていく。

「止んだみたい」

「完全に殺す気だ。やっぱり、カタリは」

「行くから」

「‥‥わかったよ」

 今までもそうだが、カタリの方に主導権がある生活が進みそうだ。

「だけど、条件がある。絶対に俺の後ろにいる事。いいな?」

「あ、なんか、男の子っぽい」

「ぽいじゃなくて、そうなんだよ。それに、もう男の子じゃない」

 盾を消して、腕の毒がうずく方である玄関ホールを見下ろす階段を登っていく。カタリも強気な俺に従って、背中に隠れてついてきてくれる。

 俺が引き裂いた絵画が今も壁に飾られているが、まるで違和感がない。あの教授が保有していたから、恐らくは由緒正しいと思われる館は、例え引き裂かれた絵画であろうが、それもアンティークの一つとして見せつけてくる。

「気に食わないけど、見た目はいいよね」

「ああ、悪くない。趣味も、そこまで外してる訳じゃないみたいだし」

 木製の壁に手を触れてみる。身を守る為だったとはいえ、本来は傷一つない光沢を放っていたこの樫の木を、傷つけてしまった事に後悔をしてしまう。それほどまでにただの木が比類なき輝きと美しさを持っている。黄金とは違う、長い年月を誇っているように感じる。

「でも、住んだとしたら、掃除が大変そう。それに、夜は結構ね」

「不気味そうか?」

「何が動き出すかわからないし、それに昼と夜とじゃあ、見た目どころか館全体が消えるかもしれないじゃん」

 確かに、もし嘘だとしても、夜中はこの館は姿を消しますと言われても驚かないかもしれない。それどころか、本当に消えるとしても決して不思議じゃない気がする。

「でも、それもそれで悪くないかもしれないぞ」

「えー、私、深夜の買い出しとか、結構好きなんだけど」

「朝が来るまで、誰にも邪魔されないで、ずっといられるんだぞ。悪くないだろう?」

「‥‥そうかも」

 自然な動作で背中に手を置いてきた。

「あのね。話があるって言ったの、覚えてる?」

「覚えてる。今、話したい?」

「聞くだけでいいの。聞き流して」

 階段を登り切った所で、カタリが玄関ホールを見下ろす。手すりに体重をかけて黄昏るカタリは、飾られているどの絵画よりも、絵画らしかった。

「私、リヒトの身体を使って実験してた。ずっと昔から、リヒトが消えちゃうまで、ずっと」

「そうか‥」

「そうだよ。一緒の部屋で寝る時なんて、リヒトが寝てるのを良い事に、色々してたし。聞きたい?」

「教えて」

「そっか‥。‥‥私の目的は、薬を造り出す事。不老不死とかそういうのじゃない。前にも話したよね?」

「覚えてる。別の世界を覗けるようになる薬だったな」

 カタリの目的は、意識を肉体のある世界から飛ばし、魂や心といったものだけになり、世界の垣根を超える事。だが、向こうに行くのだから、それ以上がある筈。

「そう。私が錬金術師から魔に連なる者に鞍替えした理由は、この世界以外の力に触れる為。だから、リヒトの誘いに乗って、ここまで逃げてきた。だから、リヒトの身体を造り変えてきた。だから、リヒトの身体で、薬を作り続けた」

 あの教授が目を付けた理由は、やはりカタリが原因だったか。俺の身体は、あらゆる異端を収集した家の正当後継者であるカタリが作り上げた触媒。あの教授は、横取りし、生命の樹の苗床として、その方向性を変えた。

「なんで、そんなに他の世界に興味があるんだ?向こうに行きたいのか?」

「そうよ。こんな世界、捨てて向こうに行きたかった。誰も私の邪魔をしない、誰も私の物を奪わない、私だけの世界。でも、諦めた」

「いいのか?」

「だって、私のプライドより大事な物、この世界にあるもん」

 手すりに腰を預けて、振り返ってくる。

「私、ずっと迷ってたんだ。リヒトを一人にしていいのかって、どうにかしてリヒトだけでも連れていく方法はないのかなって。でもそれも全部、消えちゃった」

「‥‥俺が、教授に」

「うん、そうだよ。リヒトの中身は全部、あの老人に奪われて、全部生命の樹にされっちゃった。私が、リヒトと出会った12年、時間をかけて作り上げた私だけのリヒトはもういないの。もう、神獣として帰ってきたリヒトしかいない」

「俺じゃないのか‥」

「うん、私のリヒトは、もういないの」

 顔が上がらない。あれだけ軽かった足が、全身に毒でも回ったかのように、重い。

「—―俺は、でも」

「わかってる。あなたはリヒトで、私の恋人」

 顔が上がった。その時には、カタリのいじわるそうな笑顔が目の前にあった。

「あなたは私と一緒にいたリヒトじゃないかもしれない。だけど、あなたは恋人のリヒト。私と愛を誓ったのは、リヒトだよ」

 胸を指で押してきた。カタリの指に勝てず、そのまま倒れてしまう。

「また私の勝ち。立って」

「‥‥カタリは、いいのか」

「何が?」

「俺、偽物なのに」

 腕に力が入らない。腰が根を生やしたように、床のカーペットから上がらない。

「俺さ。ずっとカタリが好きだった。カタリとさえいられれば、それでいいって、そう思ってた。でも、この気持ちは人間リヒトの物なんだと思う」

「ふーん、それで?」

「資格、俺にはあるのか‥‥?」

「私と一緒になる資格?」

「‥‥好きになる資格」

 俺は誰だ。あの時、星の中で出会った俺こそが、この世界のリヒトの筈だ。この俺は、何から何まで借り物で、偽物だ。血も身体も、能力も、全てリヒトの真似をしているに過ぎない。

「資格がないって、思ってるの?私が好きなのに?」

「‥‥でも、カタリは、俺を殺した」

「‥‥うん、そうだね。—―私が怖い?」

「‥‥言いたくない」

 嫌いになる事なんてない。だけど、忘れる事もない。

「前の俺の感情と、今の俺の感情、どっちも嘘じゃない。だけど、こんな嘘ばかりの俺じゃ、きっとカタリを」

 手を握られて、無理やり立たされる。あれだけ重かった身体が軽くなった。

「それの何が問題?私を好きになるのに、好きって認めるのに、いちいち言い訳しないといけないの?」

「—―嫌いになりたくない。カタリに嫌われたら、俺は」

 口を塞がれる。引き寄せるように乱暴にその先を言わせてくれない。

「あなたは、私を嫌いになる?」

「‥‥ならない」

「なら、私に嫌われないように頑張って」

 転ばないように、背中を支えてくれる。カタリの身体に頼って震える足で立ち続ける。

「自分がリヒトじゃないって思うなら、勝手にして。でも、私が好きなのはリヒト。なら、あなたはリヒトじゃないといけない。私を好きでありたいなら、リヒトとして私の隣に立っていて。できるでしょう?」

「—―俺はリヒトだ」

「それだけ?」

「俺はリヒトで、カタリの恋人—―この心は、俺の物」

「なら、それでいいんじゃない?」

 床に落ちている杖をふたりでしゃがんで拾い上げる。

「自分がリヒトとして自信がないなら、努力してリヒトでいて。私も、リヒトとしてあなたを扱うから。言っておくけど、私の知ってるリヒトって、結構」

「厳しいのか?」

「情けないから。あなたにそっくりでね」

 つい笑ってしまった。腕を貸してくれるカタリが、嬉しそうに顔を撫でてくれる。

「大丈夫。自信を持って。あなたは、もう私のリヒト。私だけのリヒト。この私が認めてあげる。あなたは、間違いなく、リヒト」

「人間じゃなくてもいいのか?」

 情けないリヒトらしく、カタリの肩に頭を乗せてみる。カタリは軽く溜息をして、頭を撫でてくれる。

「でも、愛し合う事は出来るじゃん。それに、前にも言ったでしょう。私、人間なんて大嫌い。リヒトが人間じゃなくなるなら、こんなに嬉しい事はないよ」

「‥‥人間じゃない俺が好き?」

「大好き」

「わかった――じゃあ、そうなる」

 一度カタリから離れる。緑の瞳を見つめて、カタリに誓う。

「おれはリヒトだ。それ以外の何ものでもない。それに、人間でもない。だけど、カタリがそれを望むなら、俺は今の俺でいる。神獣リヒトとして振舞おう」

「そうして。私のリヒトは、人間なんて枠にいちゃダメ。それで、手始めに何をするの?」

「決まってる。マキトなんていう人間の呪縛、切り捨ててくる」

 マキトの名を捨てる。それは、完全にあの家との縁を断ち切る意味でもある。

 それがどうした事だろう。今更、戻る気なんてさらさらないんだ。いらないから捨てる。それだけだ。

「行こう。あのマキトにも、じじいにも、別れを告げたい」




「なんで、僕よりアイツの所に行ったんだ‥」

「あなたより相応しいと思ったからです」

 その瞬間、首元に刃を突き立てられる。背後にあった本棚や本が砕け散る。

 ただ突き刺しただけで、壁ごと崩壊する。やはり、これは間違いなく。

「ふざけるな!!この剣に選ばれたのは、この僕だ!!」

 この人間は、本当に何も知らない。自分が砕いたこれらの本は、この人間は勿論、私よりも長く生きていた。そして、まだ知らないのか。その剣は悪竜を殺す為にある。私の想像通りなら、あの彼はそれに該当する。

 この力は、彼が近づいているから剣が応えているに過ぎない。

「見ろ!!この力を!!僕が使いこなしてるから、剣が主と認めたから!!」

「そのようですね」

「ようやく、認めたか。くくく‥これで僕は、選ばれたんだ‥」

 今の世界に期待などしていない。力を持っていたとしても、この人間のように遺物に溺れているか、この館の主人のように、身の程も知らずに力と知識を求めるだけの屍。やはり、この世界の人間など、この程度なのだろうか。前からそうだった。

「本当に、あなたが彼に勝利したのですか?」

「そうだ‥そうだ!!!いいだろう、聞かせてやる!!俺が、どうやってアイツに勝ったのかを!!」

 これで何度目だろうか。まだ満足しないのだろうか。どうして、こうもこの人間は偽りの勝利に、与えられた勝利に酔っているのだろうか。いつになったら気付くのだろうか。どうして、私はこの人間しかいないのだろうか。

「あの夜、俺はあいつに宣言した。俺はお前とは違う。俺は、お前みたいな覚悟が足りない半端物じゃない。俺こそマキトの名前を正当に受け継いだ――」

 あの剣がどうして、このような人間の手元に流れ着いたのか、私にはわからない。ようやく見つけたと思った矢先に、この人間の手元に渡ってしまった。

「どうやって、その剣に選ばれたのですか?」

「‥‥チッ。俺が、この剣を選んで、この剣も俺を選んだ。それが真実だ。何度も言わせるな」

「元々その剣は」

 ローブ越しとはいえ、人間の手で頬を叩かれるとは、なんて屈辱的だ。

「うるさい黙れ‥俺は‥俺は!!!」

「奪って逃げたのですね」

 振り下ろしてきた剣を槍で突き止める。やはり、まるで使いこなせていない。これでは、彼の水晶の槍には敵わない。なりふり構わないで襲ってきたら、この人間では塵も残らない。

「僕の剣に触るな!!」

「失礼しました」

「いいか!!傷一つ付けるなよ?この価値は知ってるだろう!?」

 盗品にどれだけの価値があるだろうか。だが、後がないかのように、振る舞っていた事だけは、偽りではなかったようだ。

「この程度で、その剣は傷など付きません。あなたこそ、その剣も価値を知らないのでは?」

「口答えするな!!お前は僕を選んだんだろう!?だったら、僕の言う通りしていろ!!僕の力が欲しいんだろう!?」

「その認識は――いえ、その認識で構いません」

 もういい。諦めよう。これ以上、剣の誇りを汚す事は出来ない。

 剣さえなくなってしまえば、もう何も出来ないなどという事実は、剣本体が知っているだろう。仮だとしても、今の主を貶す事はしたくない。

「よし‥俺の後ろには、乙女がいる。だったら、負ける筈がない。調子に乗るなだと‥いいだろう。今度こそ、剣で終わらせてやる‥」



 館の廊下だという事を忘れそうだった。比喩表現なしで、美術館のようだった。飾られている絵画に石像。首だけの剥製に至るまで、まるで手抜きがない。つい昨日にでも手入れがされているようだった。もう帰らない主を待って、館だけで、呼吸をしている。

「ここ、やっぱり機関に接収されるんだよね?」

「そうなるだろうし、そうにしかならないだろうな」

「なんか、その‥」

「もう人の目を見ない事になると思うと、少しだけ勿体ない」

「うん‥」

 丁度そう思っていた。だけど、それは避けようのない通過点だった。

 この館は、あまりに危険だ。俺のような奴が、俺だけという確証はない。そして、マキトのような手を組んで、館に潜んでいる奴が、今もいるかもしれない。

「ごめんね。ここ、嫌いだよね」

「—―好きじゃない。だけど、館には罪はないって思うよ」

 ただの学生として、ここを歩く事が出来れば、どれだけ幸福だっただろうか。どれもこれも魔に連なる者達の遺産、中には至宝と言える物さえあるだろう。

 だけど、それはもう叶わない。

「だけど、主の責任は取らないといけない。望んだかどうかわからないけど、この館はあの教授を選んだんだ。選択肢がなかったとしても、俺に牙を剥いた。なら、裁いてやる。これが俺にしか出来ない事だって思うんだ」

「‥‥そうだね。うん、私もそう思う」

「変じゃないか?俺、おかしな事、言ってない?」

「全然。だって私もそれが正しいって思うから。私を信じて」

「‥‥よかった」

 歩むスピードは変わらない。だけど、この長い廊下がいつまでも続いてくれればと思う。腕の毒の鋭い痛みがもう少し鈍化してくれればと思ってしまう。

「そろそろだ。背中から出るなよ」

 背筋を伸ばして、肩幅を広げる。もう俺はカタリを守れる。

「会話だけで済ませる気は」

「ないから。私も痛めつけるから。いいよね?」

「わかってるよ」

 軽く2mはありそうな巨大な門が、曲がり角の先、廊下の突き当たりに見えてきた。それだけならまだしも、あの子がいた。だけど、槍は持っていない。

 それに、ローブの色がまるで違う。白銀だった。あの暗い色は廊下の色の照り返しだったのか。

「用があるなら、後にして欲しんだけど?」

 両方の杖に水晶をまとわせる。完全な威嚇行動をしても、フードの勧誘者は物怖じひとつしない。

「あなたは怪我をしてる。そんなあなたに、武器を向ける事は出来ない」

「—―それは誇りか?」

「はい――これが、私の誇りです」

「なら、通らせてもらう」

 邪魔をしないのを良い事に、カタリと共に真横を通って門に手をつける。

「俺はマキトを逮捕、その前に軽く遊んでやるつもりだけど。邪魔をするか?」

「いいえ。私には、これ以上あなたの傷つける権利がない。それに――」

 一瞬、背中のカタリが身構えた。だが、何もしないという自信と信頼があった。

「俺とマキトを天秤にかけてるんだろう?」

「‥‥誰から聞いたんですか?」

「戦士を求めている。だけど、マキトは選ばれなかったと言っていた。じゃあ、戦士として迎えられるのはただの一人。その枠に俺は最初選ばれたけど、断った。あれだけマキトが狂ってたのは、自分が最初選ばれなかった上に、俺の後釜として選ばれたから。プライドが高いアイツの事だ、これをそのまま言われたから、ああなった」

「—―まるで、見ていたようですね」

「ひとつ忠告だ。人間の戦士を求めているなら、相手の誇りを推し量れ」

 扉を開けて、中に入る。そこは書庫のようだった。円を描くように造られた部屋は、壁際の本棚が中央に向けて中の本の背表紙が見えるように並べられている。しかも上の階と吹き抜けとなっているので、天井に巨大なシャンデリアが飾られているのに、それでもなお天井が遠くに見える。

「油断しないで」

「もうしない。思いやりも捨てる」

 カタリと共に、中央に移動する。あの子も入ってきたが壁際に背をつけて動かなくなった。

「邪魔したら殺すから」

「不要です。私が邪魔するなんて、あり得ない」

「介入出来ないって事?なら、そこで大人しくしてて」

「言われなくても」

 何が起こるのか知っている。それを、俺がどう対処するのか、見定めている。使命としてなのか、それともこれこそが誇りなのか。戦士を見定めて連れていく存在。

 本当に、ヴァルキュリアのようだ。

「見ればわかるだろうが、お前は完全に包囲されている。交渉も譲歩もする気はない。大人しく俺に負けて、無様に逮捕されろ」

「ふふふ‥そうよ!!あんたは負ける!!ここでリヒトに負けて、マキトの名前も取られる!!全部、あんたが選んだ結果よ!!自称後継者を名乗った代償にしては、小さいって思わない!?」

 カタリに背中を預けて、背中合わせになる。仕込んでいた銀の杖を取り出したらしく、固い音が床から聞こえる。

「家に誇りを持ってるなら、早く出て来い!!お前はよく戦ったってじじいに言っといてやるよ!!」

「黙れ!!!」

 ようやく反応したが、こんな挑発に負けている以上、あいつは魔に連なる者には向いていないどころか、どう考えても後継者にはなり得ない。

「黙れ黙れ黙れ!!!黙れ!!俺はマキトだ!!」

「後ろ!!」

 純度を高めた水晶の松葉杖で振り返りざまに、しゃがんだカタリの上を薙ぎ払う。

 飛び降りながら体重をかけて振り下ろしてきた剣を、松葉杖で受け止めるのは質量的に不可能。だけど、受けると同時に鉛色の杖で床に突き刺しインパクトを逃がす。岩か鋼鉄でも叩いたように、降ってきたマキトは態勢を崩し、背中から落ちる。

 鈍い声と音がした瞬間、カタリが倒れているマキトに銀の杖を突き込む。やぶれかぶれか、それとも偶然か、床に縫い付けようとしたカタリの杖を剣で弾いて、勢いを使って床から跳ね上がる。

「結局不意打ちか‥!!」

 跳ね上がったと同時に横薙ぎに振って剣を、松葉杖で防ぎ水晶を散らせる。

もう一度弾き返され、完全に無防備になった腹にカタリが銀の手刀を突き入れようとした時、カタリを抱えて後ろに跳ぶ。

「ありがとう――もう油断しないから」

「お互いにな」

 正直驚いた。剣を使いながら、本棚から剣を呼び出しカタリの脇腹に狙撃してきた。僅かな紙の擦れる音が聞こえなければ、カタリは貫かれていた。

「あれも絵画、色彩学の一つか」

「うんん。全然違う」

 飛んできた剣をマキトが受け取り、二刀で構えてくる。

「あれは本の力を使っただけのただの罠。あいつ自身は何もしてない‥。あり得ない、貴重な書物の力を、あんな事で使い切るなんて」

 それを聞いて絶句した。ここの本一冊一冊が、世界中の至宝とでも言うべき蔵書だという事。しかも、あまつさえコイツは、それをただの武器として使い切った。

「私が生涯かかっても手に出来なかった異界文書を‥許せない!!」

「これだけあるんだ?俺が少し使っても問題ないだろう」

「—―信じられない。あの家にいたのに、それしか言えないなんて」

 本当に、マキトはこれらの蔵書をただの武器としか見ていない。もし、先ほどの雨のように降ってきた剣の一本一本がこの中にあった書物の数々だしたら、それはもう世界規模の損失だ。

「わかってるの!?あんたが使った本の中に、永遠に水を生み出す苗、世界中を照らし続ける星を生み出す力を持った異世界の知識があったら」

「黙れ!!僕に説教するな!!!」

 カタリがふらついた。後ろからカタリを支えて、声をかける。

「止めよう。アイツは、やってはいけない事をした」

「—―うん、決めた。アイツに自分のした事を教えてやらないと」

 復讐以外にもマキトを始末する理由が生まれてしまった。こいつは、長く培われた魔に連なる者の歴史を食いつぶしている。しかも、それに気づいてもいない。

 何も知らないマキトは、カタリが絶望したのが嬉しいのか、笑顔を見せて剣の一本を頭より高く掲げてくる。

「僕は選ばれた。剣に選ばれて、リヒトを倒して、後継者にも選ばれた。僕は特別なんだ」

 掲げた剣を振り下ろした。その瞬間、書庫中の本の紙が焼けそうなぐらい震え始める。カタリが悲鳴を、壁にいる子が胸に手を当てて祈り始めた。

「自分の手でするなんて、僕が弱いみたいじゃないか。みんな死ね!!」

 その瞬間、壁中の本棚から剣が迫ってきた。数を数える暇もない。

 出来るのは、全力で杖を床に突き刺し水晶の殻をカタリと共に被る事だけだった。

「本当にあり得ない‥本当に本当に、信じられない!!」

「‥‥ここまで馬鹿だったなんて。じじい、始めてあんたに同情するよ」

 今も水晶を削り続けている剣の一本一本が、世界のいずれ訪れる終わりを少しだけ未来に出来る力を持っているかもしれない。だというのに、その力はただの剣として使い潰される。本来の能力が、一体どれほどなのか、想像もできない。

「どうだ!?これが、これがマキトの力なんだ!!そこでずっと引きこもってろ!!」

 水晶越しにマキトが絶叫の元、挑発してくる。自分が何をしているのか、まるでわかっていない。カタリの生涯の命題を、目の前で燃やし尽くしていく。

「チッ——こんな使い方でも、本物か‥」

 徐々にデザインが簡素になっていく。最初の剣のデザインから変わっていく、今はもうただの鉄杭のように見える。だが、それでもまとっている力は、確かだった。

「さっきのとは比べ物にならない‥。そろそろ限界だ――」

 水晶が削られていく。しかも、先ほど本物の剣の一撃を受けた松葉杖の水晶は砕ける寸前。かけ直すには、殻を解かなければならない。

「‥‥もう少し頑張って。そろそろ、本が尽きる」

「いいのか?」

「もういいの。もう、諦めたから」

 カタリが目をつぶって、胸に顔をうずめてくる。もう見たくない。そう言っている。

「おい!!今の状況、わかってるんだろう!!止める気はないのか!?」

「—―私には、権利がない」

「助けを求めても無駄だ!!こいつは僕を選んだ!!それより、他人に助けを求めたって事は、お前、負けを認めたって事だよな‥?」

 汚い顔の口元が歪められていく。本当に、何も考えられないのか。

「やっと認めたな!!俺の勝ちだ!!」

「もういい、解いて」

 カタリの指示に従い、殻を解く。そして瞬時に松葉杖へ水晶をかけ直す。

 飛んでくる剣の数は格段に減っている。だが、未だにそれは殺意を持ってこちらへと迫っている。右目を狙ってくる剣をカタリが寸前で握り潰し、カタリを左耳から串刺しにしようとする剣を逆手に持った鉛色の杖で砕く。

 砕いたと同時に床に杖を突き刺し、態勢を安定させる。後方から迫ってくる杭を右手の松葉杖で薙ぎ払い、背中をカタリに預け、剣の砕けていく音を耳にする。

「も、もう限界だろう。だって、壁を解いたんだからな」

「伏せろ」

 カタリにそう囁き、杖を軸にして回転。松葉杖でふたりに同時に迫っていた剣の数々を粉砕。それが終わった時、カタリの銀の杖が真上から襲ってきていた剣を突き砕く。

「まだまだいけるよね!?」

「休んでもいいぞ」

「冗談!!」

 カタリと腕を組んで、床に突き刺した鉛色の杖にふたりの体重を任せる。四方八方から迫り続ける剣から完全に杭に変わった鉄塊を、二人で回転して弾き続ける。

「美しい‥」

「見世物じゃないんだけど?そう思うなら、支援して。金銭で!!」

「考えておきます」

 確実に本の数が尽きてきた。迫ってくる杭の速度すら減少してきた。しかも、それを確証出来るものもある。先ほどまで腕を組んで笑って眺めていたマキトの顔が歪み柄を握り始めた。

「クソ‥」

 二階から降ってくる杭を迎え撃つため、カタリと手を握る。迫ってくる杭に合わせて飛んだカタリが遠くに行かないように、手を握り続けて、下からすくい上げる杖で杭を弾き返すのを見届ける。

「クソクソクソ‥!!」

 円を描くように、真上から戻ってきたカタリの勢いを使い、水晶で槍のように伸ばした松葉杖で地面すれすれに飛んでくる三本の杭を滑るように回転して下段で薙ぐ。

「いい加減倒れろよ!!お前!!怪我してんだろうが!?調べは付いてんだぞ!?」

「知ってて、倒れるまで待ってたのかよ」

 最後の一本を杖を握った水晶をまとわせた拳でマキトの方向に打ち返す。

 少し驚いた。完全の無音と完全の無準備動作で、杭を地面に叩き落とした。

「この館では強くなる、だったか?」

「違う‥俺の本当の実力が、これだ!!」

 気付いていたが、指が再生していた。この館には人体再生技術まであるようだ。それとも先ほどの蔵書の中の一冊なのか。どちらにしても、今までの常識は通じそうにない。

「さてどうする?」

「タイマンじゃないと、納得しないだろう?叩きのめすから、待っててくれ」

「オッケー」

 拳を鳴らしていたカタリは引き下がる。カタリと代わるように、一歩前に出る。

「その剣が、家の家宝なんか?」

「家から出ていったお前に教える義理はない」

「そうか。ならいい」

 割と興味がないので、そっけなく言ってみた。だけど、それが気に食わなかったようだ。

「お前にはわからないだろう?俺がこれを手にするまで、どれだけ苦労したか。あのじじいの目を盗んで、剣を屈服させるのに、どれだけ時間をかけたかを」

 恍惚の表情で、本体の刃を眺めている。主人はどちらか。マキトの方が魅入られている。それに選ばれたという言い方により、マキトよりも剣の方に主導権があるようだった。

「どうだ、この光沢‥見れただけじゃなくて、この俺の手によって斬られた。真なる後継者である僕に斬られた。この価値がわかるか?」

「お前が使い切った本の方が、価値があったよ」

 偽物の剣が飛んできた。松葉杖でそれと叩き落とし、杖で床ごと貫く。

「口答えするな!!俺に負けておいて。いいだろう。もう一度、斬ってやる」

 ようやく自分でやる気になったマキトは、手に持つ家宝を向けてくる。

 改めてみると、ただの剣ではないのが、よくわかった。しかも時代錯誤だ。刀身の長さは1mは軽くある。床に刺していた時でもマキトの鳩尾近くまであった。しかも分厚い。単純な目測でいいなら、10キロは越えている。ほぼ鉄塊だ。

 だが、両刃の刀身に使われているのが鋼ではない。そもそも金属かどうかも怪しいい。

「青、いや紫か」

 刀文とでも言うのか、練り込んである数種類の金属の一つであろうものが、青紫色に輝いている。ジルコニウムの可能性も捨てきれないが、通電などしていまい。

 しかも鍔が特徴的だ。刃と一体化したしている。青紫色の輝きも放っている。

「砕く、いや、元々砕けてたか」

 水晶をまとわせた松葉杖で床と突き、鉛色の杖を持ち上げる。

 懐かしいと思ってしまった。忌々しい、勝ったら親に言いつけて、わざと負けたら、辺りにいる人間全員に言いふらす。可愛げなど皆無だった。ただただ、不気味だった。

「来てみろよ。年上として、勝った者としてハンデを」

「なら、そうする」

 杖の水晶を長大化させて槍のように造り変える。壁際のヴァルキュリアが声を出して。デザインの原型は、彼女の槍だからだ。けれど、長さが違う。

 3mはある水晶の槍を真横に、首を狙って薙ぎ払う。マキトが迫ってくる槍を全身の筋肉を膨らませて剣を叩きつける。それで叩き割るつもりだったらしいが、簡単には許さない。

「な、なんで」

 なんで?それには、端々まで神の血を通している。竜殺し、獣殺しの逸話は持っていたようだが、神殺しの伝説は持っていなかったようだ。教えないけど。

「なんでだよ!!夜は斬れたじゃないか!?」

「見間違いだろう?本当に、俺を斬ったのか?」

「嘘つくな!!」

 貧血気味の頭には、マキトの甲高い絶叫は、ただただ不快だった。

「うるせ黙れ」

 足に水晶をまとわせて固定する。松葉杖も持ち上げて、杖とで鋏を作るように横に払う。迫るもうひとつの水晶の刃に雄たけびを上げて、後方に転がる。

「惜しかった。あと一歩遅ければ、首が飛んでたのに」

 バレないように、急いで松葉杖で床を突いて態勢を安定させる。

「これでも忙しいんだ。さっさとくたばってくれないか?」

 跳ね上がったマキトが、俺の言葉に逆上していくのが顔色でわかる。なりふり構わず、両手で持ち、肩まで持ち上げるように構えて突撃してくる。

 やはり、何も変わらない。

「軽い。気のせいか?」

 松葉杖を床に刺し、杖で受け止める。腕に違和感が生まれるが気にしても仕方ない。

「二本なんて卑怯だ!!」

「あれだけ何百本も使っておいて何言ってる」

「卑怯者!!お前は、卑怯者なんだ!!」

「見えてるものが違うみたいだな」

 松葉杖に体重をかけて、杖から力を抜く。何も考えずに体重をかけたままのマキトの剣を杖に添わせて、滑らせる。望み通り前に行かせてやる。

 俺が消えた事で体重の行き場を失ったマキトは、ようやく状況が理解できた。前方に転がって出来るだけ遠くに逃げようとしたが、もう遅い。松葉杖を軸に回転、体重を水晶の刃にかけて薙ぎ払う。払った刃の後を追うように血がついてくる。

「き、斬った、斬ったな!?」

「お前だって斬っただろう」

 背中から血が流れている。スーツが血に染まるが、黒を基調にした物なので、あまり気にならない。

「痛い、痛い痛い!!」

 斬られた場所は手では届かない場所だった。傷を求めて手を伸ばし、何度も回り続ける。

「あなたみたいです」

「あれと一緒にする気か?原因は、あんただろう」

「そうですね」

「何話してる!?はやく、はやく治せよ!!」

 何も考えずに俺の真横を通って、壁にいるヴァルキュリアに近づき背中を見せる。

「早く治してくれ!!血が!!」

「今私は天秤にかけています。どちらかに与するつもりはありません」

 ローブのヴァルキュリアがうめき声を出した。

 マキトが振り返りざまに手を上げた。

「ふざけるな!!お前の為にやってるんだろうが!?責任とって俺を援護しろ!!」

「‥‥それは違います。私は」

「また他人に頼るのか?相変わらず、人に頼らないと何も出来ないんだな」

「こいつは俺の物だ!!俺がどうしようが、俺の勝手だろう!?」

「そいつは、俺も天秤にかけてる。なら、俺の物になる可能性もある。俺の物に手を出したな?」

 杖と松葉杖を持ち上げる。耐えられて数分。

「こいよ」

「一度斬った程度で‥調子に乗るな!!」

 傷の治療を忘れて、また何も考えずに突き殺そうと迫ってくる。松葉杖で剣をはたき落とし、床に切っ先が届いた瞬間に水晶の靴で踏みつける。

「離せよ!?」

「あとで治してもらえ」

 マキトの握っている手の指。夜に無くなった筈の指をもう一度切り落とす。

 杖で撫でるようにしただけで、血が噴き出た。

 マキトの絶叫が聞こえる。剣が血に染まる。落ちた剣をカタリのいる後ろに踵で蹴りつけて回収。仕事は終わった。が、俺個人の問題は終わっていない。

 手を押さえてうずくまっているマキトに水晶の先端で一突きをしようとした時、そこに槍が邪魔をした。

「介入しないんじゃなかったのか?」

「見定めさせて貰う」

 剣を呼び出したマキトのように、ローブの袖から槍を飛び出させた。やはり自身の身の丈よりもある槍を軽々使っている。それどころか、確実に俺よりも、上手だった。

「あなたは戦士ではないように見えます。それどころか、私が想像していた人外でもない。あなたは、誰ですか?」

「ろくに知らない相手を連れて行こうとしてたのか?職務怠慢だ」

 完治していたと思っていた身体がついに軋み始めた。病院から出た時から補強していたが、それも限界に近い。いや、はっきり言って限界だった。汗が止まらない。

「その通りです。それに、あなたも限界が近い。だから、私は誇りを持ちたい。あなたを選んだ、自分の目が嘘ではないと。付き合ってもらいます」

「—――厄介だ」

 槍の軽い一振りで、杖が返される。戻ってくる杖の勢いを大げさに使って、すくい上げる松葉杖の一撃で槍を跳ね上げさせる。驚いた様子ではなかったが、興味深そうに槍に従って後ろに下がる。

「ま、待って!!」

「うるせどけ」

 鋭さをなくした鈍器に造り変えた松葉杖で、マキトを指共々壁の本棚まで叩き飛ばす。

「死なれちゃ困る」

「嫌よ。アイツの手当てなんて――わかった。血止めぐらいはあげる」

 カタリが懐から薬を投げ渡す。慌ててマキトがそれを拾い上げて手に塗っていく。

 それを見届けた所で、もう一度槍が振るわれる。頭を叩き潰す一撃を受ける程余裕はない。だが、止める事は出来る。

 水晶を落とした杖で槍の矛先より下。持ち手の少し上を狙い突く。てこの原理のように杖を支点に、矛先が頭に届く前にその勢いを失わせて空振りをさせる。

「俺は戦士じゃない。術者だ」

 床を削りながら松葉杖で槍を叩き上げる。後追いで地面から呼び出し水晶で槍を更に上げて、一瞬だけコントロールを奪う。無防備になった身体の脇にハンマーの形にした杖を叩きつける。無論、この程度で終わるとは思っていないが、それなりに効いたらしい。

 一瞬ハンマーから逃げて、インパクトを外させて掠らせた。これだけ有利にいるヴァルキュリアが逃げた。しかも、後ろに跳んだ。

「逃がすか!!」

 ハンマーから槍に作り直し、振り抜くように後を追わせる。

「甘い!!」

 甲高い鉄の音を出させて杖を弾き返す。明後日の方向に跳んでいく杖を無視して、松葉杖で直接殴りに行く。もう一度地面を削りながら、アッパー気味に横薙ぎの槍と打ち合い、お互い数舜ひるみ、お互い勢いを殺さず回転気味に更に武器を叩きつける。

「あなたは戦士ではない。けれど、戦士よりも誇り高い!!」

「戦乙女に言われるか!!これ以上誇らしい事はない!!」

 その時、ローブが剥がれる。マスターと似た金髪碧眼。顔付きすら似ている。

 やはりと思った。あの人も。

 回転を続けて松葉杖で何度も槍と打ち返す。想定外の猛攻に槍の膂力が負け始める。そして、それは三度目の打ち合いで崩壊する。槍を打ち返し、完全に態勢を崩させる。

「取った!!」

 〆の四度目で胴を薙ぐ。実行に移そうとした時、その瞬間、足元から透明な石が生まれる。

 左顔を薄く真っ直ぐに切り裂き血が噴き出る。構わず石ごと振り抜き叩き割る。だが、石に邪魔をされて勢いが殺される。その隙に手元に戻した槍で松葉杖を受け止める。

「甘—―」

「取ったって言っただろうが!!」

 自由な片手を上に掲げる。そこに先ほどの杖が、レイピアとして戻ってくる。目が開かれるのが見える。驚いた、油断した、だから、それを全て粉砕する。首と肩の間を叩き打つ。膝から力が抜け、倒れるヴァルキュリアを支える。

「終わったか‥」

「まだだ!!」

 半分以上意識が薄れている中で、声が響く。

「まだ勝てる!!トドメだ!!」

 遠のく意識に、空気を切り裂く鉄の音が連続的に聞こえる。今更杖を使う気力もない。だから禁止されていた水晶の腕を使い、ヴァルキュリアを抱えたまま掴み取る。

「いい加減にして!!」

 カタリの声と鈍い音が聞こえた。そのまま、目と閉じて床に身体を預ける事にした。



 見慣れてきてしまった天井を見て、安堵した。試しに眼球だけ動かして枕の上にある窓を眺めてみる。何日経ったか知らないけど、完全に夜の帳が下りている。

「—―点滴は、美味くないな」

 手首についてあるチューブを触って溜息を吐いてみる。仕事の報酬としては、味気ない。実際、味はないし。

「今何時だ‥」

「午前2時です。どこかに行きますか?」

「‥‥何か飲みたい。休憩室に行こう」

 手を引かれてベットから上体を起こすが、身体全体に鉛でも仕込まれているように感じる。それどころか、自分の身体を操っている気すらしない。

「動かない‥」

「あの方々ですね。あなたが勝手に動かないように、鎖をかけられているようです」

 重い頭を、肩で持ち上げられた時、何かが砕ける音がする。心なしか腕が動くようになったが、それでもなお身体は動かない。

「首、大丈夫?」

「まだ少し痛みますが、それだけだから。さぁ、頑張って」

 槍を持っていた手に頼って、ベットから足を降ろす。冷たい床が、それだけで意識を取り戻させてくれる。そして、今の自分を振り返ってみる。

「なんだ、この恰好」

 一瞬、裸になっているのかと思った。上半身は何も身につけていないが、下半身は袴でも履かされているようだった。それに全身に電極が張られている上、管が刺さっている。

「—―ひどいな」

「ごめんなさい‥」

「かっこ悪い」

「‥‥ふふ、そうですね」

 電極も管も全て引き抜く。血が流れていく気がするが、不思議と痛みは感じない。身体の鈍化が良い方向に出ているようだ。それどころか、どこか快感すら感じる。

「気持ちいい‥」

 警報の音がする。心拍を確認する装置も引き離したせいだ。だけど、それすら他人ごとのように感じる。自分とは違う、外の出来事のようだ。

「‥‥なんでも、食べれそう」

 口の端から牙が生えてくる。爪や手の形が変わっていく。視界すら広がっていく。

「腹‥減った、かも」

「落ち着いて」

 変異しつつある手の上に手が重ねられる。

「ゆっくり息を吸って」

 震え始める手を押しつぶしように、ただの腕力で押さえつけてくる。

「痛い‥」

「我慢して。でないと、あなたは戻れなくなる」

「‥‥戻る‥?」

 首元から冷たい風がかかる。身震いするほどの冷風に意識が完全に覚醒してくる。

「手を見つめて、あなたの手はどうなってる?」

 重ねられて手を見つめる。それは――人間の手に戻っていた。

「‥‥普通」

「そう、普通の手。あなたは人間の姿を捨ててはいけない。でないと」

「でないと?」

「味がわからなくなる」

 深呼吸をして肺に冷たい風を溜める。そして、ヴァルキュリアのものらしい香りを楽しむ。花のような甘い香り、それに、薬のような中毒感。いつまでも吸ってられる。

「いい香り‥」

「そう?—―多分、このローブ、ですね」

「綺麗だ‥」

 月明かりに当たっているローブは、やはり月色に染まっている。後ろのヴァルキュリアを見上げると、髪の色と重なって神々しさを感じる。

「何度も言われた事があります」

「言わない男はいない」

「あなたは、男の子ですけどね」

「年上?」

「さぁ?行きますよ」

 車椅子がゆっくりと発進する。部屋を出て廊下を行き続けるが、誰とも会わない。それどころか、廊下に見覚えがない。

「どこだ、ここ‥」

「私の鏡界。夢の世界です」

「‥‥囚われたのか。綺麗な夢‥」

 宮殿のようだった。白い柱に白い壁。金糸と緑の長い絨毯、灰色の石像と金の壁画。樹木を表しているのか、大木が金で描かれている。だが、石像はほぼ裸の俺には刺激が強すぎる。全部、女性の裸婦像だった。しかも、見覚えがある。

「マスター‥」

 近づいていく石像は、俺のマスターの姿をしていた。何も身にまとわなければ、あんなにも豊満なのかと脱帽してしまった。あれをローブで締め付けているとしたら、どれだけ苦しいだろうか。

「マスターに会いたい‥」

「後で会えます。‥‥私を抱きかかえておいて、真っ先にあの人ですか」

 後頭部を突かれる。この仕草にも、マスターとの縁を感じる。

「名前、聞いてもいい?」

「ロタ」

「ロタ‥ロタ‥」

 意味もなく何度も口にしてしまう。夢の世界に囚われた所為で、意識がまた曖昧になってきた。今、どこにいるのかもわからない。本当の俺は、まだベットで横になっているのかもしれない。

「ロタ‥」

「はい、なんですか?」

「ロタとマスターは、どんな関係なんだ?」

「—―言いたくありません」

「なら、いいや」

 無理に訊き出す気にならない。ロタの言葉には、確かな拒絶の意思があった。

「‥‥ありがとう」

「でも、これは聞かせてもらう。どうしてマキトなんかを選んだ」

「あなたが、断ったから」

「質問を変える。どうして、俺を選んだ。巫女よ」

 車椅子が止まった。そこには、ロタ自身と思われる石像が立っていた。

 見上げていると、後頭部を今度は完全に殴られる。

「行きますよ。いいですね?」

 理不尽だ。そう言おうとしたが、自分の本能が全力でそれに抗った。触らぬ神に祟りなし。神獣の危機察知能力は、人間のそれとは比べ物にならない。

「あの剣を持っているのが、あなただと思っていたの」

「じじいに言われたのか?」

「いいえ、使いこなせるとしたら、あなたぐらいのもの。とてもじゃないけど、あの愚か者では、振るう事さえ出来なかった筈、本来なら」

「クソじじいが、わかってて渡したのか‥」

 俺が後継者を断るとわかっていたから、無理にでも俺が自分の意思で取り上げるように仕向けたのか。どこまでじじいの計画か知らないが、自分の家の評判を落としてまで、マキトを暴れさせたのか。

「あなたもそう思いますか?私も、あの人間では、盗むだなんて慎重な事、出来ないと思っていました。—――ふふ、あの蛮人はあなたに剣を届けるだけの渡り鳥だったのですね」

「それで、あの剣はどこにある?」

「ん?不思議な事を言いますね。持っているというのに」

 慌てて剣を握った左手を水晶に変える。白い血管の間、丁度骨に当たる部分に鉄片のような鈍い輝きを放つものがあった。

「‥‥ふざけやがって」

「私も、まさかただの一握りで一体化するとは、思いませんでした。ふふ‥」

「楽しそうだな。なんでだ?」

「あの者よりも、あなたの方が強い。その剣に相応しくて、私に選ばれるべきはあなたです」

 心底嬉しいのか、微かな笑いが止まらない。鈴を転がすような音に心地よさを見出すが、家宝を受け継いだという事は、俺はあの家の後継者になった事を意味する。

「どうしました?溜息なんて」

「ロタに連れていかれたら、この世界のしがらみから縁が切れるのか?」

「はい。と言いたい所ですが、それは出来なくなりました」

 今度は少しだけ悲しそうな声を出した。

「私は、もうやめました。この世界にもう戦士はいない。それに、終末に備える必要もありません。元々、私の役目は、終わっていたんです」

「俺みたいだな」

 車椅子が止まった。

「‥‥俺は、役割が無くなった時、捧げられた。この身体は全部借り物、俺の物じゃないんだ。ロタが俺を見込んできたのなら、それは間違いだったんだ。選ばれるほど、俺は俺を持ってないんだから」

「—―私は、戦士を見る目には自信があったけど、既に曇っていたのですね」

 後ろから頬を撫でてくれる。頬の手を取って、目をつぶる。

「あなたのマスターと、少し話しました。あなたの中身も含めて、全て聞きました。その上で言えます。あなたは、戦士ではない。まして、勇者でもない。あなたは、紛れもなく災厄の一人。私達が備えるべき、終末そのもの」

「俺が?」

「‥‥口が滑りました。忘れて」

 わざとだとわかった。咳払いひとつしないで、車椅子を押してくる。

「俺が終末なら、始末しないでいいのか?」

「私一人では、あなたを抑える事は不可能。私だって、無為に死にたくないし、そんな事をすれば、私が災厄を引き起こす事になる。それだけは避けたい」

 よくわからないが、終末とやらを回避したいという熱意を持っている事は伝わった。終末という意味もわからないが、災厄の一人という意味もわからない。俺以外にもいるのだろうか。

「俺の他にも、災厄はいるのか?」

「私から聞いたという事は言わないように。あなた以外にも数人います。これ以上詳しくは言えません。これは、私からのあの人達への復讐と思って下さい」

 十中八九、マスターの事だろう。一体どんな恨みを買ったか知らないが、血縁であろう者に、いや、血縁者だからこそ、ここまで恨まれているのだろう。

「マスターは、苦しんでるんだ。自分を何度も愚かだって言って。だから、もう許して欲しい—―怒った?」

「‥‥少しだけ、腹立たしい。だけど、それを説明できる言葉を私は持っていません。許す気はありませんが、態度は変える事にしましょう」

 思わず安堵の息を吐いてしまう。

「それで、どこに向かってるんだ?」

「飲み物がある場所です。あなたが言ったのですよ」

 




 連れていかれた場所は、どこかの食堂のようだった。通ってきた廊下とは少し違う。木製のテーブルや木製の椅子に合わせた落ち着いた板張りの床に、絵画だった。石像はない。

 俺をテーブルに着かせたロタは、壺のようなポットと金の盃を手に戻ってくる。

 何も言わないで金の盃をテーブルに置き、それに甘い香りの液体が注がれる。

「蜂蜜?」

「のお酒です」

「俺、未成年者なんだけど」

「ここは夢ですよ?何をしても、咎める者はいません」

 黄金色の酒が、金の盃に注がれる。思わず震えた。酒の色に加えて、金の輝きが重なり、この世の物とは思えない神秘さを見せつけてくる。金をそのまま飲むかのようにも感じる。

「さぁ。まずは一口」

 盃を持ち上げられ、頭も支えられる。勧められるままに、口を付ける。カタリの部屋で、多くの薬を口にしてきたが、ここまで甘くて、味を楽しませる物は始めてだ。

「舌で楽しんで」

 返事もせずに舌で楽しむ。アルコールは強く感じないが、舌で転がすたびに頭が火照っていく。甘さの所為でアルコールを感じないようだった。

「もう一口、いかがですか?」

「飲みたい‥」

 手を伸ばせばひとりで飲める。だけど、ロタが微笑んで優しく口に含ませてくれる。それだけじゃない。ただの一口だけなのに、蜂蜜酒を飲んだ俺をロタが頭を撫でて褒めてくれる。

「気持ちいいですね」

「気持ちいい‥」

「楽しいですか?」

「楽しい‥」

 揺れる頭をロタが胸で受け止めてくれる。柔らかいローブが、マスター譲りの身体を余すことなく伝えてくれる。もう何も言わないで蜂蜜酒を胸の中で飲ませてくれる。

「まだまだありますよ」

 全て飲み切った所で、さらに酒を注いでくれる。俺が口寂しくなるたびに、甘い酒を口に含ませてくれる。初めての酒が、こんな飲み方では、もうひとりでは飲めなくなる。ロタを側に置かないと、大人になれない。

「どうしたの?」

 盃を手で防ぐ。ロタの腰と背中に腕を回す。

「どうしたの?酔いが怖くなった?」

 ロタの胸に頭をうずめて目を閉じる。ここは危険だ。ロタの捧げる酒は、この神獣を惑わせる。それだけじゃない。このままでは、ロタの言いなりになってしまう。

「私はあなたが思っている以上に大人。私に任せて、蜂蜜酒を飲みながら、楽しみ――」

「そこまでだ」

 肩を引かれる。そのまま後頭部を柔らかいローブに沈ませる。

「‥‥マスター」

「そう、私はあなたのマスター。酒は嗜む程度にしなさい」

「‥‥はい」

 振り返ってマスターに身体を預ける。頭を撫でながら、抑えてくれる。

「復讐のつもりか?彼は私が保護すると決まった筈だが?」

「それはあなた方が勝手に決めただけ。彼が私を選ぶ可能性だってある」

「ほう。ロタ、君が彼を庇護すると?」

「それだけ安定している彼なら、私だって」

「不可能だ」

 マスターが頭を強く抱きしめてくれる。だが、その態度がロタは気に食わなかったらしく、持っていた盃をテーブルに叩きつける音がした。

「あなたなら、可能だと?」

「—―いいや、私ひとりでは無理だ。君が取るに足らないと言ったあの二人に頼らなければ、保護できない。それに、この子には、私達を歯牙にもかけない本物の災厄がいる。あの存在を刺激する事は避けなければならない」

「もし、本当にいるとしたら」

「いるよ」

 マスターの身体が固まったのがわかった。

「あんまり私を呼ばないで欲しい。うっかり、食べてしまうから。そんなに美味しそうに嘆かないで。私のリヒトに怒られてしまう」

「どこ、ですか‥?」

 声に従って手を天井に伸ばす。空を切る。だけど、空振りに終わった筈の手が下から持ち上げられる。

「ここにいるよ」

 マスターの胸から引き寄せられる。白い身体が頭を更に包み込んでくれる。

「むぅ、もっと豊満の方が好み?」

「‥‥いいえ。あなたが好みです」

「気を使われた気がする‥。もう少し待って。あともう少しであなた好みの肉体を作れるから」

 背後にいるマスターが一歩ずつ下がっていくのがわかる。高い足音が寂しく感じる。それに、足音でわかる。心底、目の前にいる白い神を恐れている。

「本当は、ルール違反。だけど、むやみに私を知る者を増やす訳にはいかない。ここで私に食べられる?」

 足元が崩れていく。床板が分解され、その下から水がわき出してくる。この部屋全体が海に沈んでいく。それに、この足を濡らす感覚を覚えている。

「あなたの海だ‥」

「そうだよ。私の海、私の泉。そして、あなたが流れ着いて、あなたが生まれた水」

 水が足を沈めた時、懐かしい砂浜が顔を見せてきた。砂浜がせり上がり、崩壊しつつある部屋が海面に打ち上げられる。酔い覚ましに七色に輝く空を見上げる。白い方の笑顔を見つめてから、周りを見渡す。もう椅子もテーブルも、先ほどまで飲んでいた蜂蜜の酒すら創生樹のある沖まで流れて消えていた。

「ここがこれだけ賑やかになったのは、初めてかも。宴を開くには、丁度いいかも」

 舌なめずりが聞こえる。だから、白い方を抱きしめて止める。

「マスターとロタを食べないで」

「—―冗談だよ、安心して」

 冗談の間ではなかったが、俺のわがままをいつも聞いてくれていた白い方がそういうなら、信じられる。

「‥‥あなたが、私の教え子を救ってくれたんだな?」

「ん?私、話しかける許可、与えた?」

「失礼。私はヘルヤ。リヒトの教師であり、マスター。私は彼の身内だ」

「そうなの?じゃあ、話してあげる。何?」

 酔った頭でもわかった。全力で抱き着いていなければ、ひと呑みだった。

「私のリヒトを助けてくれて、感謝します」

「お礼を言われるのは、嫌いじゃない!!うんうん!でも、それについては彼を褒めてあげて。彼が、私の眷属になるに相応しいって、示してくれたの」

 自分が褒められたのに加えて、眷属である俺を自慢できて、だいぶ機嫌が良くなってくれた。それに、俺自身も長く住んだ土地を踏めて、だいぶ酔いが覚めてきた。

「もういいの?」

「あんまり甘えてると。離れられなくなるので――」

「私は常にあなたを見てるよ。だから、いつも一緒」

「誇らしいです」

 白い方から立ち上がって、両手で握りあう。

「すみません、マスター。少しだけ、調子に乗り過ぎました」

「次は言われる前に気付きなさい。でなければ、いつまでも男の子だ。まぁ、それでも私は一向に構わないのだけれど」

 首だけで振り返ってお叱りを受ける。過去の魔に連なる者の師弟関係にも、飲酒を咎めるという光景はあったらしい。マスターとの繋がりが増えた気がする。

「ここが創生の彼岸‥‥まさか、本当にあったなんて‥‥それに、ここは」

 ロタが呼吸を忘れて自分のいる場所を目に焼き付けている。特に、プリズムが地平線まで続く海と、海底から突き出ている創生樹から、目が離せないらしい。

「ヘルヤ様!!ここは」

 ロタが続きを言う前に、マスターが口を押えた。

「ああ、似ているかもしれない。だけど、違う。私達の世界は、既に燃えつけている」

 目を見開いているロタが手を跳ねのけるが、続く言葉が出てこない。

「ここは一時の幻想。私達では、もう二度と見れない、ただの夢だ。割り切りなさい」

「—―だけど、ここがあれば」

「私の許しもなしに、何を話してるの?」

 ロタが胸を押さえた。口が言う事を聞かないロタは、眼球だけで白い方を見つめる。これ以上目を合わせる訳にはいかない。そう確信した俺は、白い方の前に出て、抱きしめる。マスターもロタを白い方の間に入ってロタを抱きした。

「もう‥私に命令する気?わがままな子‥‥」

 言いながら、胸を顔で撫でてくる。少しだけ猫のように感じる。

「ロタ、意識をしっかり持ちなさい。ここでの欲望は、世界を滅ぼす」

「—―ヘルヤ様、だけど、私は」

「もう終わったのです。私達は、終末に備える事は出来ないし、意味がない。ただ過ぎ去るか、回避するしかない」

「はい‥」

 落ち着いたらしいロタの声が聞こえてきたので、白い方から離れる。

「もう終わり?」

 だが、胸の中に入ってくる白い方の瞳と顔が、ただただ愛らしくて、もう一度抱いてしまう。

「私達はこれで失礼する。美しい世界を見せてくれて、感謝します」

「もういいの?ただ見る程度なら、許してあげるのに」

「いいえ、もう十分堪能しました。ロタ」

「はい」

 振り返ってマスターとロタを見送ろうとしたが、既にふたりの姿はなかった。

 この世界が、というより、この世界にあるものが夢のように感じる。

「ん~、なんでだろう。私、あの人、嫌いじゃないのに」

「気に入りましたか?」

「うん、あなたを守ってくれてる。だから、気に入った」

「そうですね‥‥」

「それに、あのふたりも」

 白い方が指を差した。その方向には、創生樹がある。

「あの子達には、感謝してもしきれない。あなたを癒して、見守ってくれてる。私、ここまで人間に感謝したのは、始めてかもしれない」

 指の先、創生樹の青い実、そこには実がふたつあった。

「あのふたりは、少し危ないの。あなたを向こうの世界に引き寄せる為に、自分を使い過ぎた」

「—――このままだと、ふたりはどうなりますか?」

「鎖の子は、きっと何も言わないで消えてしまう。薬の子は、危ないものと契約してる」

 マヤカとカタリだ。やはり、ふたりとも無理をしていた。俺を救う為に、自分を捨てていた。世界を飛び越えて俺を呼び戻すなんて、無理な話だとは思っていた。

 きっと、このままではふたりは代償を払わされる。世界を裏切った対価を。

「どうすれば、俺に出来ることは」

「ふたりに会って」

「—―それだけで、いいんですか?」

「あれを食べてから」

 言い終わった瞬間、指を鳴らした。前にも見た光景だった。水晶の樹の枝が砕け散り、波を起こして実を海面に着水させる。

「あれは正確には世界じゃない。私がふたりの為に作り上げた力。あなたの世界にはない、外の力。あなたの世界では、あれには対抗できない」

「‥‥危険な実なんですか?」

「ふふ」

 樹を見上げていた視線をこちらに移して、微笑んでくれた。

「あなたより安全。私が保証する」

 忘れていた。俺は、失敗作とはいえ、いくつもの世界になり得る果実を全て平らげた悪食の獣だった。

 果実が水晶の腕によって運ばれてくる。あの海底に輝くものから生えているのだろう。少し気になるが、今は忘れる事にした。

「相変わらず、マズそうですね」

「‥‥私もそう思う。でも、仕方ないって思ってね。美味しそうな世界は、だいたい成功しちゃうんだもん」

「我慢してるんですね。すごいと思います」

 褒めたら、自分の胸に手を当てて誇らしく笑う。年下ではない筈なのに、こういう態度を取られると、幼く見えてしまう。

 流れ着いた実は、あの時と同じように砕かれる。だけど、あの時とは違う。中身は奇怪な肉塊ではなかった。ましてや、青い液体だけでもなかった。

「これは――石?」

「そう見える?」

 誤魔化している様子はなかった。だが、確かにこれは、緋色の石だった。手のひらに乗る程度の大きさに、角ばったカット前の原石。琥珀に血を流し込んだら、こうなるのかもしれない。だけど、受ける脈動が以上だった。

「怖い‥」

「未だに形を持っている知的生命体の叡智は、私達も傷つける。私も、少しだけ彼らを見直した。だから、これは食べて。覚悟して。それと、もうひとつ」

 ふたつ目が砕かれる。青い液体が飛び出て中に残ったのは、奇怪な肉塊そのものだった。だけど、姿が少しだけ形作られていた。狼、そう見えたが、違う。

「なんですか、これは――」

「形だけ真似ただけ。だから、これは彼らの主じゃない」

 彼らの主。その意味は俺にはわからない。だけど、ただの形だけで、神獣としての本能が恐れを抱いているのがわかる。神とは違う。だが、紛れもなく神に通じる存在。

「ふふ‥あの人が忙しくてよかった。バレたら、怒れちゃう」

「—―急いで食べた方が良さそうですね」

 座り、まずは石に手を伸ばすが、巨大な水晶の腕が石も狼も取り上げられる。

「私だって、学んだ!それに、折角あなたにあげるものだもん。美味しく食べて欲しいの」

 取り上げられたふたつが海に沈んだ。数秒で戻ってきたのは、巨大な卵か繭のようなものだった。透けて見える卵の中には、狼の肉体と石の色が溶けつつあるのが見える。

 まだ丸焼きにした方が、見た目としては良かっただろう。

「どお!?」

「‥‥もう少し他所の世界の料理を、学んだ方がいいかと」

 褒められると思っていたのに、辛口な評価が帰ってきて、凹んでしまわれた。

「—―次来るまでには、あの液体を作っておく。さっきの美味しかったんだよね?」

「お願いします。だけど、少しだけで十分ですから」

「そう?だけど、沢山作りたい!私も飲んでみたいから」

 この見た目で飲みたいと、言っている。止めるべきなのだろうが、人間ではないので、問題ないと納得しておく。

「楽しみに待ってます」

 溶けてシェイクされた卵が砂浜に置かれる。上部が砕けて中の赤い液体が空気に晒されるが、やはり匂いはない。

「頂きます」

 水晶の腕に手伝ってもらい、卵の盃の中を身体に流し込んでいく。熱い液体が身体中に染みて行くのわかる。先ほどの比ではないレベルで、身体と頭が火照っていくが、飲み続ける。

「ふふふ‥美味しい?」

 倒れそうになった所で、背中を支えて貰う。逃がさないという意味らしい。

「苦しい?でも、平気。あなたは私の眷属。私の試練を乗り越えて獣になった生命。どうか頑張って。それに、苦しんでるあなたは、とても可愛いの」

 もうひとりでは立てなくなった。椅子でも造り出せばいいものを、俺を砂浜に寝かせて、膝を貸してくれる。

「ほら、もう終わるもう終わる。あと少し。あと少しで終わる。だから、もっと苦しんで」

 腕が上がらない。いつの間にか握られている手に力を込めて、指を絡ませる。

「—―ちょっと、嬉しい、かも」

 余っている手で頭を撫でてくれる。髪を梳くように指で弄んでくる。

 卵の中が目に見えて少なくなってきた。既に呼吸は出来なくなっている。肺にも赤い液体が溜まっている。だけど、全て飲み切るまで、腕が許してくれない。

「身体が熱い?」

 自然と頷いた時、海が胸までせり上がってきた。上からも下からも溺れていく。

「良い顔‥なのに、まだ飲み続けるの?」

 冷たい白い手で、こめかみを撫でてくれる。

「こんなに苦しいのに、まだ足りないんだ。本当に私も食べる気?」

「—―食べたい」

 全て飲み切った。役目を終えた卵が海に流れていく。

 それを見届けてから、倒れたまま身体を返す。丁度、白い方の身体に重なるように砂浜に押し倒す。

「怖い顔‥‥でも、その顔、私見た事ある」

「だれですか?俺以外にも、こうした奴がいるんですか?」

 ロタに止められた牙と爪の変異が進んでいく。俺の白い方に被さった奴、八つ裂きにしても足りない。喰い殺してやる――。

「ん?ここにいた神。もう私の中」

 自分の腹部を撫でて、楽しそうに微笑んでくる。

「でもあなたの方が怖い。きっと、私、あなたになら抵抗できない」

 言われる前に赤い唇に重なる。冷たい白い肌でも、中は熱かった。赤い液体で火照っている俺よりも熱くて、深い。どこまで沈む感覚は退廃的な快楽を感じる。

 それに抱きしめている身体が冷たくて、心地いい。

「あなたの血、私と同じなのに。これじゃあ、新しい生命は生まれないよ?」

「でも半分は星の血です。きっと新しいものが生まれます」

「‥‥そうかも!」

 気づいた瞬間、細い身体で俺を抱えたまま寝返りを打った。腰の上に座って舌なめずりをしてくる。

「あなたの世界、興味深いって感じてる。そっか、じゃあ、新しい生命を作るには、あなたと重なればいいんだね」

 迫ってくる白い神は、首や喉、それに口を吸ってくる。

 歯と歯が当たっても気にしないで、無邪気に強欲の歯茎を舐めてくる。呼吸を必要としていないのか、息継ぎなしで舌で口蓋を舐めきり、唾液を全て奪いさり、代わりに自身の甘い唾液を残していく。

「んーだけど、まだ、その時じゃなさそう」

 先ほどの液体と白い方の体温で、意識が朦朧としている。

「それに、残念だけど時間みたい。あの子達が呼んでる」

 腕を引かれて砂浜から起き上がる。軽やかに跳ねてながら、海に連れていかれる。

 腰まで水晶の海に沈んだ時、白い方がもう一度抱きしめてくれる。そして、ふたりで海に身を投げる。息も出来る、目も開けられる。だけど、わかる。

 もうすぐ俺は眠る。

「可愛いあなたにはご褒美をあげる。眠るまで、ずっと一緒にいてあげる」

 口で口を塞いでくる。生気が口に座れるように、目が閉じていく。

 微睡みと絡みつく舌を感じながら、海に沈む。向こうでは感じる事が出来ない、死ぬほどの快楽だった。


 

「あの狼、どうなった?」

「傷の事?大丈夫、あの子はとても丈夫。傷はもう塞がってる」

 車椅子を押されながら、病院の中庭で風を浴びる。風と太陽光だけで体調が加速度的に回復していくのがわかる。

「それで、どうしたの?」

「ん?何が?」

「なんて言うの‥二日酔い?」

「‥‥そんなとこ。マヤカはした事ある?」

「私?私を酔わせたいの?」

 質問を躱された。しかも、逆に質問で俺をいじめて微かに笑ってくる。

 朝食が終わり、食後の散歩としてマヤカに世話になっていた。傍らに置いていたあの狼がいないので気になったが、そもそも生物ではないので、気にしても仕方ないのかもしれない。

「病院で飲酒なんて、悪い事を覚えたのね。そんな事を誰から習ったの?」

「あまり声に出さないでくれ。夢の中で、少し嗜んだだけだよ」

「‥‥あの、ロタという子?」

「話したのか?」

「少しだけ」

 中庭のベンチにたどり着き、マヤカに抱きついて車椅子から立ち上がる。

 だけどベンチに座ろうとしているのに、腰を下ろさせてくれない。抱きついたまま、離れてくれない。

「マヤカ?」

「—―私、言わないといけない事があるの」

「‥‥どこかに行くのか?」

「カタリから聞いた?」

「答えてくれ」

「‥‥そうなる」

 マヤカの腕から力が抜けるのがわかる。ここで離れたら、本当に生涯会えなくなる気がした。だから、マヤカを抱いたままベンチに座る。

「ふふ‥私と離れたくないの?」

 言葉に出来る感情じゃない。行動で示そうにも、抱き締めるしか、選択肢がない。

「どうしてだ‥俺が、悪いのか?」

「‥‥例えばの話、私とあなたは、これ以上一緒にいたら、お互いがお互いを傷つけてしまうとする。それは、もう撤回できない、世界のルール。私は、もうあなたに首輪をかけたくない」

 離れようとするマヤカを逃がさない為に、無言で抱きかかえる。

「大丈夫、すぐには離れない。それに、カタリとマスターがいる。私には」

「マヤカの代わりはいない。それに、どうしたって俺は機関に首輪を付けられる。なら、俺はマヤカにかけて欲しい」

「‥‥それは告白?それとも、将来の誓い?」

「好きに受け取ってくれ。俺は、マヤカの鎖に繋がれたい」

 マヤカが消える。影からずっと俺を見守ってくれていたマヤカが、消える。そんな今後の人生、受け入れられない。

「俺の中の生命の樹、機関に話したのか?」

「私には報告する義務があるの。だから、これは妥当な処分」

「嫌だ。なら、俺は機関を」

 それ以上先を言わせない為に、マヤカが首を噛んできた。

「それは言ってはダメ。それ以上言うと、私はあなたを殺さないといけなくなる」

「—―それも、機関の命令なのか‥」

「そう‥」

 想像はしていた。生命の樹の使用は、オーダーの傘下にいる者いない者問わず魔に連なる者達の条約で禁止されている。マヤカは取り締まる立場にいながら、それを破った。しかも今も使い続けている。

「だから、これでさようなら。私はあなたを傷つけたくない、これでいいの」

 マヤカが離れしまう。もう耳元で囁いてくれなくなる。

「すぐにはいかない。それまでに、私達の証を作っても」

「根絶やしにする」

 牙が生えてくる。目が鋭く裂けていく。頭から水晶の角、そして翼が生えてくる。

 一度の羽ばたきで中庭に面するガラスが震えて砕け散る。ガラスからこちらを覗いて者達から悲鳴と緊急要請を求める無線への叫び声が聞こえる。

「あれで隠れていたつもりだったのか‥」

 マヤカが肩に手を置いてベンチに座らせようするが、水晶で補強した腕でマヤカごと抱き上げる。腕の中のマヤカは、こうなる事をわかっていたように、頬を撫でてくる。

「困った事をした。わかってる?」

「所詮、人間程度のルールだ」

「その通り。浅ましい人間程度のルール。だけど、この星の支配者は人間、私達非人間族は、人間程度に従わないと生きていけないぐらい、弱い生命」

「なら、生態系を変えればいい」

 砕けた全ての窓から鎖が飛んでくる。それが、俺の首や腕、翼、足に絡み付く。

「残念ながら、説得には至らなかったか。本当に、ただただ残念だよ」

 中庭の入り口から優雅に歩いてくる人間がいる。見た事のない顔だが、後ろに従えている機関の人数で、その立場がわかった。偉いようだが、手下がいないと何も出来ない雑魚だ。

「大人しく私に従えばよかったものを。人間じゃない君には、わからないかね?」

「偉い人?」

「‥‥ノーコメント。それで察して」

「マヤカ君、直属の上司である私に向かって、まるで厄介な人物のような言い方」

「私はそもそもあなたの部下じゃない。せめて一度でいいから働いている姿を見せてから、話しかけて。それと、あなたが使ってる部屋、臭いの。二度と私を呼び出さないで。あなたの皮脂と精液の匂い、ただただ不快。二度と誘わないで」

 決めた、コロス理由が出来た。

「—――そんな事を言っていいのか?私は、今後の君の人事権を握っているのだが?」

「ふふ‥」

 マヤカが俺の胸に顔をつけて、笑いを我慢している。

「あなた、本当に知らないのね。私はもうただの機関だけの所属じゃない。オーダーにも正式に所属した」

「そうなのか?」

「そうよ」

「聞いてないぞ!!?どういう事だ!?私に無断で、一体何をした!?」

 オーダー所属と聞いて、先ほどまで優位に立っていた自称上司と後ろに控えていた手下達の顔色がみるみるうちに青くなっていく。それを通り越して白くなっている者もいる。

「オーダー所属って事は、機関より上か?」

「オーダーは外面に拘るの。だから、書類上は同じ立場。ふふ‥」

 確実に嘘だった。魔に連なる者は今や希少という部分さえ抜いてしまえば、オーダーに保護される価値がなくなる。つまり、マヤカは今後、機関を保護する立場になる。そんなマヤカに歯向かうとなれば、オーダーから保護されなくなる。

 この秘境から追放される。

「う、うそだ。だって、お前は」

「お前って言えるの?私、あなたを逮捕できる立場なのだけど?」

 腕の中にいるマヤカが恍惚の表情で、目線を送っている。一番後ろにいる手下の人間達がわらわらと散っていく。

「一度‥一度帰って確認を」

「帰る部屋があるって、思ってるの?」

 思い当たる節があったのか、残っている人間達が病院の棟に振り返った時、俺の担当医である女医さんと病院の職員たちが待っていた。

「機関から通報がありました。あなた方が、当院の患者を誘拐、暴行を働こうとしていると。よって、ここにあなた方を拘束します。抵抗の代償は、わかっていますね?」

 俺の身体に、繋がっている鎖のいくつかがほどけていく。院内での作戦など、するべきではなかった。逃げ場もない上、向けられる人員に限度がある。

「わたしは!!私は機関の命令で!!」

「あなたに命令を下したあの、なんて言ったかしら、あの人はもうオーダーに逮捕されて、もう移動させられている筈よ。それも知らなかった?」

「は‥‥?」

「次があれば、命令書はよく確認しておいて。特に日付をね」

 あっけに取られているのは、向こうだけじゃなくて、俺もだった。だが、マヤカが胸を叩いてくれたので、正気に戻れた。

「さぁ、やって。敵はあの人間」

「どのくらいまでやっていい?」

「殺さなければ、何をしてもいい」

 その冷酷なマヤカの裁定に、腰を抜かす者が現れた。

「なら、そうしよう」

 翼を一振りして、身体に残っている鎖を全て断ち切る。未だに窓から俺を捕えていた人間の数人が、窓から落ちる。鈍い心地いい肉と骨のひしゃげる音がいくつも響く。

「人間分の際で、俺を捕えようとしたな?」

 思わず顔が歪んでしまう。逃げ場を失った獲物が目の前にいる。しかも、マヤカからの許可も得た。であるならば、もう我慢する必要もない。

「ふふ、私にも残しておいて」

 マヤカが口笛を吹いた時、屋上から白銀の狼が出口近くのベンチを踏み砕いて降りてきた。ベンチが爆発したかのような轟音に、耳を押さえて自称上司がうずくまった。

「後で弁償して貰います」

「機関に好きな額を送って下さい。ベンチだけじゃなくて、日差し避けも注文しても構いません」

「—―そうします」

 降ろしたマヤカと女医さんが楽し気に話しているが、間の人間達は気が気でない。前門の神獣に後門の銀狼。それどちらもが、マヤカに手綱が握られている。

「私のリヒト、あなたに教えてあげる。私をこの秘境から追い出そうと、そしてあなたに首輪を繋いで、いいように使おう言い出し始めたのは、あの人間」

 跳びかかる。腕の一振りで手下が壁にめり込み、狼の突進で集団が崩壊する。

「そうそう。それと、オーダーから正式に辞令が下ったの。今後、あなたを監視する役目を担う事になった。だから、ずっと一緒。あなたは、ずっと私の物」

 水晶で造り出したかぎ爪で、頭を押さえつけていると、心から震える言葉が聞こえてきた。



「はい、背中見せて」

 上着を脱いで腹ばいになる。汗をかいてしまった身体を、カタリは嫌な顔ひとつしないで鼻歌まじりに拭き続けてくれる。タオルが柔らかくて、暖かくて、何よりカタリの手が気持ちよくて眠気を誘われる。

「気持ちいい?」

「‥‥うん」

「久しぶりに聞いたかも、リヒトのうんって。ふふ‥子供っぽい」

 色々と言われているが、あまり気にならない。ランクが上がった病院食と朝早くからカタリが面倒を見に来てくれた嬉しさのお陰で、全てがどうでもよく感じる。

「だいぶ身体にハリが戻ってきたね。まぁ、病人とは思えないぐらい食べてるんだし、回復するに決まってるか」

「カタリのご飯が食べたい」

 顔をずらしてカタリに懇願する、食料はないが頬に口づけをされる。

「これで我慢して。あともう少しで退院できる筈だから」

「待ち遠しいなぁ‥」

「私もだよ。これから、一緒に暮らすんだから」

「—――嬉しい」

「私も――」

 拭き終わった背中にカタリが被さってくる。抱かれた肩が暖かくて更に眠気を誘ってくる。

「ねぇ」

「ん?どうした」

 離れたカタリが身体を返すように手で指示してくる。カタリに従って、胸を天井に向ける。持っているタオルで胸や腹を拭いてくれるが、顔を髪で隠して表情が読めない。

「何かあったのか?」

「‥‥私ね。ちょっとだけ、遠くに行くかもしれないの」

「—―ちょっとだけ、無理させたんだな」

「うん‥」

 危険な存在と契約している。所詮、この世界にいる奴だ、あの白い方ならば歯牙にもかけないだろうが、カタリという人間は違う。きっと人間を軽く超える、それこそ神のような存在なのだろう。

「だからね、私の事」

「こっちに来て」

 上体を起こして、カタリの手を握る。震えている手を包み込んでベットに引き寄せる。二人でベットに重なり、抱き合う。

「大丈夫だよ、きっと数日で」

「嫌だ」

 誰にも渡したくない。誰にも、触れさせない。

「数日でも嫌なんだ。カタリ、ずっと一緒に暮らそう」

「—―私もしたいよ。だけど」

「俺が黙らせる」

 カタリの胸に頭を入れる。俺が甘えたいと思ったらしいカタリが、何も言わずに頭を抱いてくれる。お陰で聞こえた。穏やかなカタリの心音に混じっている、波のさざめき。水晶の海とは違う、ただの海の波しぶき。

「お前か」

 水晶の海は全てに通じる。なぜなら、全ての生物はあの創生樹に、あの水晶の海から生まれた。あの海の支配者である白い方の眷属にして、海から生まれた俺ならば、手が届く。

「‥‥なに‥これ」

 震えるカタリを抱きしめて、震えを止める。そして、逃がさないようにする。

 カタリの夢、鏡界に入り込む。そこは海だった。遥かな地平線まで大海が広がり、遠くには島々が見える。それだけじゃない。

「‥‥まずは、名乗りなさい」

「リヒト、カタリの恋人。あなたに話がある」

 足場などない海の上に、女神のような存在が立っていた。受ける空気でわかる。この人は、紛れもなく神そのもの。そして、似た者を知っている。前に食べた。

「私と言葉を交わしたいのですか?」

「はい」

「では、何を差し出しますか?」

「何かを渡す気はない。カタリをもらう」

「—――乱暴な物言い。だけど、あなた方にはそれが相応しい」

 海から銀の椅子が浮いてくる。椅子だけではない。一緒に銀のテーブルと銀の杖が顔を見せる。杖には見覚えがある。カタリが使っている物と同じだ。

「私は、人間には好感を持っています。けれど、あなた方人外に力を貸すつもりは一切ありません。カタリ、彼女は私の子。彼女は私の力のひとつ。それを聞いた上で、あなたはカタリを連れ去ると?」

「カタリがあなたの子だとしても、俺はカタリの恋人です。カタリを大事に思ってるなら、彼女を連れて行かないで」

「‥‥それが、彼女の望みだとしても?」

「約束しました。一緒にいるって」

 一歩踏み出す。足が海に沈む感覚がしたが、それも一瞬のうちに砂浜がせり上がり、海から追い出される。

「私の海に踏み込む事は許しません。あなたの身体は、こちらの世界を浸食する」

「俺をこうしたのは、こちらの人間達だ。言う相手を間違えてる」

「—―正しい。けれど、人間はそれを認めないでしょうね」

 トーガと言われている一枚布の服のまま、足を組んでくる。どこか成長したカタリを思わせる風貌の女神は、無自覚に白い成熟した四肢を見せつけてくる。

「私は、人間のそういった部分も愛しています。あなたのような被害者がいるのも、わかっているつもりです。けれど、外から帰ってきたあなたを受け入れられる程、私もこの世界も寛容ではありません。失せろとは言いませんが、今後カタリには」

「では、あなた始末する」

 水晶の槍を造り出し、矛先を向ける。

「矛先を向ける相手を間違えていませんか?向けるべきは、あなたを生贄とした人間では?」

「余裕のつもりか?その首、引き抜いて」

「ダメ!!」

 背中に誰か――カタリが抱き着いてきた。

「やめて!!その人は、私の為に――私に‥‥」

「‥‥でも、俺は嫌だ」

 槍を消して、カタリの手に手を重ねる。

「もう嫌なんだ。俺はひとりなんて耐えられない。カタリがいないなら、俺は――世界を敵に回せる。災厄の一人に成れる」

「それを聞いて、私が黙っていると?」

 立ち上がった女神が一歩踏み出してくる。不純物ひとつない美しい水紋を起こして、近づいてくる。

「人間の敵は私の敵です。その首、ここで断ち切ってさしあげましょう」

 今の俺と比べて、確実に格上。神獣になれなれば噛み砕けるだろうが。

「カタリ、離れなさい。やはりその獣は、戻すべきではなかった」

「違う!!」

 俺の背中から離れたカタリが俺と女神の間に割って入る。

「私があなたと契約したのは、ずっとリヒトの為!!リヒトは私を連れ出して、褒めてくれた。一緒にいたいって、言ってくれた!!リヒトをただの獣だなんて言わないで、悪いのは全部、人間、全部私達でしょう!?」

「‥‥わかっています。けれど、こうも言った筈です。そこの彼は、遅かれ早かれ災厄の一人になっていた。カタリ、あなたに力を授ける条件に、彼が災厄になるのを出来るだけ先延ばしにする事と言った筈。忘れましたか?あなたが傍にいるれば、彼は早い段階で災厄になる」

「‥‥あなただって、もうわかってるでしょう?リヒトは、もう成ってる」

 カタリの言葉に、驚く事はしなかった。自覚があったからだ。もう俺は、向こうであの白い神の眷属になった時から、災厄の一人になっていた。ロタやマスターの心配は杞憂に終わっている。もう既に俺は――。

「わかってて力を貸してくれた。そうでしょう!?だから、もうリヒトを悪く言わないで。私の恋人を、貶さないで‥‥」

 語尾でわかった。

「泣くなって、自分で言ってただろう」

 泣く寸前でカタリを引き寄せる。服に涙を染みこませて頭を抱く。

「リヒトだって、よく泣いてるじゃん」

「カタリが泣かしてるんじゃないか――俺と離れたいか‥‥」

「‥‥」

「俺は、嫌だ。カタリと離れるなら、帰ってきた意味がない」

「‥‥私も、嫌。リヒトと離れるなら、リヒトを呼び戻した意味がない」

 女神を無視して、ふたりで抱き合う。波の音も聞こえない。聞こえるのはお互いの息遣い、それに重なった心音。感じるのもカタリの体温だけ。

「カタリを連れ去るなら、災厄を引き起こす覚悟を持って下さい。世界を滅ぼす覚悟、ありますか?」

 カタリと指を絡ませて、訴えかける。この人は決して敵ではない。俺を呼び戻す術を授けたのは、きっとこの人だ。

「認めて下さい。俺は、カタリが傍にいるなら、災厄にはなりません」

「私もそう思います。リヒトは、私を悲しませるような事はしない。災厄も私が止めてみせます」

 ゆっくりと目を閉じた女神は、振り返って椅子に戻った。

「いいでしょう。もしここであなた達を反故にすれば、あの存在を敵に回す。私では手も足も出ない。一瞬で、この世界が喰い尽くされる」

「じゃあ‥!」

「ひとまず、様子を見る事にします。それに私ひとりでは、カタリの苦しみを癒せる自信もありません」

 心底不服で、どうにか自身を納得させられる理由を見つけてくれたようだった。

「ありがとうございます‥私、やっぱり‥リヒトと離れたくありません」

「もういい、結構です。何度も聞きました。好きにしなさい」

「はい!」

 俺から離れて、海を走り、カタリが女神に抱きついた。一体どんな関係なのか気になるが、聞かない方がいいと思った。親子や姉妹、家族に見えてしまったから。

「俺は、帰ります。カタリ、後でな」

「うん。先に帰ってて。必ず戻るから」

 鏡界、夢の世界から立ち去る方法はいくつかある。残している肉体を叩き起こすか、気絶させる。あとはこの世界で眠る。もしくは、夢の主に追放される。

「俺を起こして下さい」

「では、目を閉じなさい」

 女神に願いを唱えて、声に従う。やはりこの人は敵ではない。カタリの恩人にして、俺を呼び戻す手伝いをしてくれた。どうしても、もう敵とは思い込めなくなった。



「起きたか?」

「マスター‥」

「そうとも、君のマスターさ」

 隣で眠っているカタリと俺の頭を撫でて、微笑んでくれる。

「起き上がれるか?少しだけ、話がある」

「マスターも、どこかに行ってしまうんですか‥」

「ん?まさか、君が嫌がったとしても、私は君の傍にいるとも。安心した?」

 安心した。お陰で、まぶたがまた重くなる。だけど、肩をゆすって起き上がるように命令してくる。カタリを起こさないように起き上がって、改めてマスターの顔を見つめる。そして、隣にいるロタも。だが、違和感を感じる。

「‥‥ロタ‥」

「はい、ロタです」

「俺の‥ロタ‥」

「—―はい、あなたのロタです」

 寝ぼけている頭と身体を使って、できる限りマットレスを揺らさないように車椅子に滑り降りる。ふらついている身体をマスターとロタが支えてどうにか座れた。

 そこで、完全に意識が戻ってきた。

「ロタ、髪と目が黒い‥」

「ウツシミ‥いえ、すこしだけ、イメージを変えてみました。この人の人形を参考にしたのですが、いかがですか?」

「綺麗な黒」

「‥‥ありがと」

「動けるかな?私達だけで話したい事がある」

 真面目な声が聞こえてきたので、無言で頷く。金髪碧眼のマスターも無言で頷いて背中に回った。どこに連れていかれるか言われないまま、車椅子を押される。

 緊張感が走っている訳ではないが、マスターとロタという組み合わせで、特別な話であるのは想像が付いた。何より、特別でなければ、本体が来る事はない。

「あ、マスター、マヤカの事、聞きました」

「所属の話か。マヤカ君をスカウトするとは、オーダーも見る目があるが―――いや、彼女が選んだんだ。私が言える事はない」

「‥‥マズイ組織を選んだんですか?」

「そうかもしれないな。まさか、私と同じ科を選ぶとは――ふふ、まったく」

 嬉しいような、気恥ずかしいような、それでいて困ったような。

「ああ、それと、今後の君についても話したい事がある」

「進路の話ですか?」

「進路‥‥そう言うと、先生みた、いや、私は先生だ。そうだ、先生だった!」

 思い出したように叫んだせいで、周りから白い目で見られ始めた。なのに、我がマスターはそれを気にも留めず、「私は先生、私は先生」と何度もつぶやいている。

「まさか、本当に進路の話ですか?」

 焦って聞き直すが、何も言わないでただただ無言のまま車椅子を押してくる。傍らにいるロタも、何も言わないでただ歩いている。

「—―俺、追放ですか‥」

 車椅子が止まった。そこはエレベーターの前だった。ボタンをロタが押し、やはり無言でエレベーターの到着を待ち続ける。

「‥‥やっぱり、人間は、俺を排除したいんですね」

 水晶の杖を造り出し、立ち上がろうとするが、マスターが肩に手を置いてくる。

「今は何も言わないで、私を信じてくれ」

「でも、マスターは」

「落ち着いて」

「だって、俺は!」

 首に触れられた。その瞬間、首と頭が急激に重くなる。呼吸こそ出来るが声を出す事が出来なくなる。目すら閉じれなくなる。首の筋肉が緩んだ。

「すまないが、しばらくそのままでいなさい。—―私も少し整理したい事がある」



 エレベーターの振動に従い、頭が揺れる。マスターもロタも何も言わないで、俺をエレベーターに乗らせて、ボタンを押した階に到着するのを待ち続けていた。

「ロタ、君も先ほど言った通りでいいね?」

「‥‥不本意ですが、受け入れます」

「それでいい。私も、最初は渋々だった。日常として受け入れなさい」

「—――彼は」

「ああ、彼もだ。受け入れないといけない。でなければ、生きていけない」

 耳が言葉こそ伝えてくるが、頭がそれを組み立ててくれない。

「あなたも人間らしくなりましたね」

「それは心外だ。私は、決して人間になる気はない。人間程度の器では、私を御す事が出来なかったのだから」

 耳鳴りが酷い。だいぶ地下に降りてきたようだ。吸い込まれるようにエレベーターが地下に落ちていく浮遊感が、更に頭をほどかせていく。

「それで、あなたこそ、覚悟は出来たのですか?」

「—―ああ、もう出来てる。後はタイミングだけ」

 もう一度首に触れられる。揺れていた頭が手で固定される。

「何もかもが、誰かの筋書きのように感じる。私達の本来の役目が、もう不要とされた事すら」

「‥‥それは、誰ですか?」

「さぁ‥?私の方こそ知りたいよ」

 首の角度が整えられて手が離れた時、エレベーターの揺れが収まった。目的の階に到着したらしく扉が開かれる。白い廊下に降ろされて、やはり無言で押される。

「あのお医者様?」

「名前で呼んではどうだ?私の名前も」

「そのうち」

「‥‥手厳しい事だ。エイルは既にいる筈だ」

 天井のLEDが煌々と白い床を照らしている。光の中にいる錯覚がしてくる。

「もう一度聞きます。本当に、今の彼で大丈夫ですか?」

「ん?この彼よりも、体調が悪い時に負けた君が聞くのか?」

「答えて」

「まず問題ないだろう。最悪、この病棟ごと」

 廊下の突き当たりの扉が開かれる。

「冗談でも言わないように。次は看過しません」

「では、次言う時は気を付けるとしよう」

 そこにはあの女医さんがいた。軽口をマスターとしながら、膝を折って俺の顔を見つめてくる。

「可哀そうに、またしましたね?」

「必要な処置だ。それに、眠っているだろうから、覚えていまい」

「起きていますよ。しっかりと」

「え!?」

 マスターにしては、高い可愛らしい声が聞こえた。

「そ、それは‥き、記憶を飛ばす事は!?」

「彼にですか?そんな事不可能だとわかっていますよね?—―薬の準備を」

「マスター‥」

「そうだとも!!君のマスターはここにいる!!さぁ!どんな頼みかな!?」

 女医さんを押しのけて、マスターが眼前に出てくる。焦っているのを、全力で誤魔化す満面の笑みだが、後ろの女医さんとロタが大きくため息を吐いているのが聞こえる。

「髪か?キスか?食事か?なんでも言いなさい。私が君の」

「俺はこれから、どうなるんですか?」

 笑みの種類が変わった。だけど、決して哀れみじゃない。ただ愛おしそうに、頬を撫でてくれる。ゆっくりと目を閉じると、顔に息を吹きかけてくれる。

「俺、怖いんです。また、ひとりに」

「大丈夫。もうすぐ全て話す。もう私は誰も置いて行かない。君を捨てる事なんて、しない。今度こそ」

 背に腕を回して抱きしめてくれる。ゆっくりとした心音と体温を感じる。

「君は私達のわがままに全力で応えてくれた。全て君のお蔭だ、こんなに誇らしい弟子、そうはいない」

「俺は、弟子だけですか?」

「無論、君は弟子であり、私の勇者だとも‥ふふ‥なぜ、そこで泣くなのかな?」

「‥‥泣いてません」

 マスターの髪で目を拭いてから、離れる。顔にマスターの髪の香りが残り、肺に入れて楽しむ。マスターはここにいる。そう覚悟して目を開ける。

「怖いかな?」

「はい」

「それでいい。私も――覚悟を決めた」



「君には選択肢がある」

 扉の中に入るとそこは駅のホームだった。マガツ機関の地下にあるものと似ている。ホームで待っていたのは、前に乗って帰ってきた列車だった。レイラインを線路に見立てたそれに、車椅子に乗ったままの俺はマスターに運び込まれる。

「マスターの隣に座るかどうか、ですか?」

「それについては選択権はない。君は私の隣以外ありえない」

 マスターと女医さんに頼って座席に座る。右にマスター、左に女医さん、向かいの目の前にロタが座った。女医さんは無言で腕を取り、脈を測り始めた。

「少し早い。ヘルヤ、離れなさい。寝起きの彼には刺激が強すぎる」

「私の弟子にとっては、これぐらいの心拍が心地いいのだよ。それに、今後の為にもい慣れて貰わないと」

 女医さんは勿論、マスターにも腕を取られる。未だに寝起きの状態から脱せられていない頭に、ふたりの感触と呼気の香りが四方から襲い掛かる。

「講義中の邪魔にならないように、肌の露出と肉体を出来る限り目立たせない服を着ているのでしょう?怪我をしている彼の事を想っているのなら」

「興奮させて血の流れを速めるのも、新陳代謝を促す事にとって重要だろう?彼を早く回復させるなら、人肌で温めた方がいいのではないか?それに、この方が彼好み」

 女医さんは邪な考え一切なく俺の為に言ってくれているが、マスターから引き離す為に胸に頭を引き寄せてくる。—――やはり妙だ。ここまでされているのに、頭が上手く機能しない。頭と心臓のギアがちぐはぐだ。早まっている脈に、頭が追い付かない。

「秘境の外に行くんですか?」

「はい、このまま一度機関の監視から脱出します。マヤカさんや機関の上層部には、既に伝えてあるので、後の事は気にしないように」

「縄張りから離れるって事ですか?いいんですか、俺を、外に出して」

「その辺り、多くの議論があるから、こうして秘密裏に逃げるのだよ。そんな心配しなくていい。今日の夜にでも、帰ってくるから予定だから。それに――」

 そこで止まってしまった。女医さんの胸から離れてマスターに近づくと、隙をつかれて、マスターの胸に抱かれる。興奮、とは違う気する。安心感や出会いの嬉しさ。

 そういった意味での嬉しい興奮を感じる。

「ん?そうか、まだ酒が抜けないか」

「酒?」

「ああ、蜂蜜酒だとも」

 そうか。この頭の動きを阻害する火照りは、蜂蜜酒か。

「‥‥まさか、院内に持ち込んだと?」

「夢の中で」

「ヘルヤ様が飲ませました。私は止めたのに」

「ロタ!?」

 マスターが叫んだと共に、再度女医さんの胸に移動させられる。無言で圧力をかける女医さんに、マスターが慌てて弁解するが、「あなたなら、やりかねません」と一蹴される。同郷の出身という事でマスターの人となりを俺以上に知っているようだ。

「あれはロタが!」

「でも、私は一晩だけなら、好きに話していいと言われましたよ?蜂蜜酒に関しては、どこからかヘルヤ様が」

「出禁にしますか」

 マスターの嘆きが響きとなって車両に木霊する。前からこういう関係なのだと思うと、カタリと俺の関係を思い出す。

「冗談です。大方、ロタが彼を奪おうとしたのでしょう?さほど経験もないのに、何かと自分に溺れさせようと」

「姉様方以上に経験などある訳ないでしょう!?私の頃は――!!」

 ロタの絶叫が聞こえてきたが、女医さん体温の所為で睡魔が襲ってきた。本当に姉妹の会話を聞いている気分になってくる。家族同士の会話をただ聞くだけで、こんなにも安心感を持てるのか。



「なぜこうも、災厄の子はいつも寝ているのでしょう。全く‥」

「そう言わないでくれ。彼はよく頑張ったんだ。この数週間、本当に安心して眠れる時など無かったのだから。君の所の彼もそうだろう?」

「—―彼はどれだけ理不尽な場面であろうと、打ち勝ってから眠っていました」

「ふふ‥自分の子を自慢したいのもわかるが、それはこの子だって」

 話し方が女医さんやロタに似ているが、別の人だ。始めて聞く声。

「それで、いつになったら起こすのですか?」

「そろそろ起こすさ。そう慌てないでくれ、私達は、ゆっくりと時間を楽しむのが好きなのさ」

「‥‥そこまで他人に入れ込むとは。マトイにも」

「ああ、わかっている。彼を任せる。私はマトイに会って来るとも」

 ゆっくりと肩を揺らされる。そこでわかった。俺は横になっていた。柔らかいシートだと思っていたものは、マスターの足だった。

「時間ですか?」

「ああ、時間だ」

「わかりました‥」

 あくびをかみ殺して起き上がる。目を開けて、俺を見降ろしていた女性、魔に連なる者を見つめる。白いローブに目隠し。黒髪な所を覗けば、やはりマスター、ロタに似ている。この人に金髪碧眼を重ねれば、恐らくあの石像の誰かだと気づくだろう。

「—――オーダーにいて正解でした。ふたりも、この数日で確認できるなんて」

「あなたは?」

「私はオーダー法務科に所属している者です。羨ましい‥」

 その言葉の意味が、理解できず首を捻ってしまう。

「こうも寝起きがいいなんて、彼にも見習って欲しい――」

「寝起きはいい。だが‥‥いかんせんよく食べる‥」

「そちらにもそちらの問題があるのですね‥本当に度し難い‥」

 ふたり揃って溜息をつかれる。貶されているようだが、比較対象の『彼』も相当な問題児のようだ。会ったら、意外と気が合うかもしれない。

「車椅子が必要なのですね?乗りなさい」

 指で差されるそれに手を伸ばして、引き寄せる。マスターに手伝ってもらいどうにか座る。肘掛けを握りしめると安堵感を覚える。

「この車椅子は大事にしなさい」

 後ろに回ってきた目隠しの麗人が、行き場も告げずに列車から下ろそうとしてくる。

「あの、マスターは」

「私は私で少し行く場所がある。大丈夫、すぐ会える。先にロタがいるから、合流して待っていなさい」

 軽く頬を撫でてから、マスターは去ってしまった。後ろ姿が列車から消えるまで目が離せないでいると、やはり無言で車椅子が押される。

「マスター、それはあの人はそう呼べと?」

「いいえ、俺が無理矢理呼んでいるんです」

「‥‥そう。そこも、気に入ったのでしょうね」

「‥あなたも、マスターやロタと同じですか?」

「何を指して言っているのか、私にはわかりかねます」

 これ以上話す気はないようで、不機嫌そうに車椅子を押される。列車から降りると、元いた場所から移動していないのかと思って。だが、受ける空気が違う。ここは学院でも秘境でもない。完全に外に出て。

「外が見たい‥」

「不許可です。ここでは私に従いなさい」

「はい、わかりました」

「結構。‥‥よく躾けられていますね」

「俺は人間ではないので」

「—―そう」

 ホームからエレベーター前に移動すると、ロタが立っていた。ロタは何も言わないで、俺の頬を撫でてくれる。自然とその手を取ると、微かに笑ってくれる。

「気分はどうですか?」

「あんまり良くないかも。ロタは?」

「私も、あまり居心地は良くないかも。ふふ、真似してみました。上手く出来てる?」

「バッチリ」

「よかった」

 目隠しの麗人から変わって、ロタが車椅子を押してくれる。後ろから漂う香りに身を任せて、目を閉じる。エレベーターに乗るとそれだけで気圧が変わる。

 エレベーターが上がるに連れて息苦しくなる。俺の様子にわかったのか、ロタが手で喉元を冷やしてくれる。

「気持ちいい‥やっぱり、氷か?」

「正確には違います。けど、あなたの顔を斬ったのは、氷です」

「食べたい!」

「わがまま‥。口を開けて」

 口を開けて待っていると、手から生み出して氷を口に放り込んでくれる。

 乾いた喉と熱い口を癒してくれる氷を、噛み砕いて楽しむ。

「ロタ、甘やかすのもほどほどに。彼は」

「彼が私を選ぶまで、徹底的に甘やかします」

「ロタを選んだら、もう甘やかしくれないのか?」

「選んでくれたら、更に甘やかします」

 二度目の氷を口に入れてくれる。今度はゆっくりと口の中で溶かす。

「まったく‥誰に似たのか‥。その身体は大切にしなさい。今までと同じように動けるとは思わないように。これはロタだけではなく、あなたにも言っていますよ?」

「—――はい」

「わかっているのなら、もう何も言いません。あなたのマスターからも言われているようですし」

 俺の中身を知っているようだ。オーダーの立場を持っているのだから、秘境の監視していてもおかしくない。しかもマスターとも個人的な知り合いらしい。

「あの、質問してもいいですか?」

「手短に」

「あの子、マスターの妹さんは、ここにいるのですか?」

「います。やはり、言っていないのですね。先程あの人が別れたのは『妹』に会いに行ったからです。それに、あなたの担当医も」

「あの先生もオーダーなのですか?」

「—――それは言えません。自分で聞くかしなさい」

 どことなく冷たい印象を与えてくる人だが、質問に、個人的な所感も交えて答えてくれる。オーダーとしての立場が強いのか、質問には誠意をもって反応してくれる。

 エレベーターが加速度的に上昇していくのがわかる。耳鳴りがしてくる。

「先に言っておきます。ここでの事は他言無用。列車に乗った事も秘密にしておくように」

「俺も魔に連なる者です。ボーダーラインについての分別は、持っています」

 そう答えた瞬間、エレベーターの扉が開いた。

「魔に連なる者らしい受け答えですね。降りなさい」

 ロタに押してもらいエレベーターから降りる。降りた瞬間、身の毛がよだつのがわかる。罠だ――そう思った時には、既に遅かった。

「‥‥やっぱり、俺を裁く気ですか」

「裁くかどうか、それはここで決めます」

 降りた先は巨大なすり鉢状の部屋だった。中央の台座にはひと一人分の乗れる程度の大きさ。そして上から見下ろす連中はそれぞれ各々の衣装をまとっている。

 オーダーだけではない。少なくとも、そう言った公的じゃない奴らもいる。

「ロタ、あなたはここまで。あとは彼に自分で」

「いいえ、運ばせてもらいます」

 車椅子を押してもらい、部屋の中央に移動させられる。漂っている空気は、人間のそれとは到底思えないが、それでも、まだ人間だ。

「後は自分で、頑張って下さい」

「ああ、後で」

 ロタが下がっていくのが足音でわかる。暗い部屋に俺を刺すように一条の光が差す。全員の重い視線が身体に突き刺さるが、それだけだ。

「では、これより―――聴取を始めます。罪状は、生命の樹の関与」



「君は秘境の教授と合作して、生命の樹を造り出した。そうだな?」

「何度も言うが、俺は被害者だ」

「しかし、君は今ここにいる。本当に生命の樹に寄生されたのなら、君は消えている筈だ。そこの矛盾点は、どう説明する気かな?」

「ならあんたも生命の樹に寄生されればいい。どうやって帰ってくるか、その無い頭使って考えろ、老いぼれ」

「き、貴様!?」

 数人から失笑が聞こえる。足を組んで、肘をつく。もう先ほどから同じ事しか聞かれないので、いい加減飽きてきた。人間とは、こうもつまらなかったか?

「年取って暇なのはわかるが、俺は若くて忙しい。てめぇに使ってやる時間はない。俺に教えを乞いたいのがよくわかるから、同じ目線に降りてこい。土下座でもすれば、唾液のひとつでも拝ませてやる。聞こえてるか?老いぼれ、お前に言ってる。返事はどうした?」

 何度も固い机を叩いている。駄々っ子以下だ。

「もう決まりだろう!!!?さっさとそこのガキを!!」

「調子に乗るなよ。死にたいか?」

 水晶の杖を取り出そうとした時、病院と同じように身体中に鎖が繋がれる。今度は一部の連中が、手を叩いて笑い出す。

「死にたいか?死ぬのは――」

 叩き斬る。腕に水晶をまとわせただけの一撃で、砕けてしまった。

「舐めるのもいい加減にしろよ。お前ら、どうせ秘境にあの背広共を送り込んだ雑魚だろう?プレイヤー気どりもいい加減にしろ。そんなに生命の樹が欲しいのか?」

 あの教授の言った事がわかった気がする。外にいる連中が、これ程までに無様で醜ければ、あてにしていないのもうなずける。しかも、雑魚だ。

 ずっと秘境にいて忘れていた。あそこは、魔に連なる者を集めて、切磋琢磨を続ける学び舎だ。秘境の外と中との技術に、差があるのは当然だ。こいつらとは、もう1000年レベルで壁がある。背広共が弱かったのも、それが原因か。

「息が出来てないぞ。もうボケたか?」

「あ、あり、ありえない‥」

「今度はこっちで、構わないか?」

 杖を造り出し、足にも水晶をまとわせる。立ち上がって水晶の杖を巨大化させる。更に鎖が身体や杖に巻き付くが、軽く身体を振っただけで、砕け散る。

「では死ね」

 軽く振った杖は、どうにか俺を有罪にしようとしていた一団の机を粉々に叩き割り、老人たちの身をすくませる。ここなら安全だと思ったのか、身を守る手持ちを何も持っていないらしい。それとも使ってこれなのか。

「惜しかった‥」

 自分ではなかった事に安堵している隣に杖を振り払う。

 何故自分が?そんな呆けた顔をした奴ら全員に杖を振り下ろし続ける。お陰で部屋中が木くずで汚れ続けるが、これもこれで見応えがある。

「逃げ惑えよ。逃げるのも、隠れるのも得意だろう?」

 後ろにいるロタと目隠しの麗人が、無言で見届ける。数人が後ろのふたりに助けを求めるが、聞こえないのか興味がないのか、やはり何も言わない。

「ロタ?」

「はい、なんですか?」

「殺していいって、思う?」

「私は構わないかと」

「却下します。あなたのマスターに、二度と会えなくなりますよ」

「仕方ない。腕か足の一本でいいか」

 杖から槍に作り替える。腰が抜けて開かない出口に殺到している人間達が、それを見て雄たけびとも泣き声ともつかない哀れな声を次々と上げる。

「まぁ、それなら構いません。ここは医療が整っています」

 振り下ろす。皆が皆、自分が床に逃げようと他人の腹の下に逃げ込む。老いも若きも関係ない。先ほどまでにやついて若い男女も、白髪交じりの老人も、誇りの欠片もなしに他人を蹴落とそうとしている。

 床を叩き割り、残っている巨大な机や椅子を壊し続ける。あれだけ素早く逃げる事出来ていたのに、もう這いずる事すら出来ないらしい。

「そんなに外に出たいなら、助けてやる」

 媒介たる鉛色の杖はないが、問題ない。

 出口の扉を見定める――仮定—―硬度は自然の扉と同等とする。腕、肩の水晶の強度を補強—―神の血を注入。支障あり――着席を推奨。無理がたたったか。

「ロタ、後ろ頼む」

「はい」

 ロタに支えて貰い車椅子に座る。投げる事は出来そうにないので、水晶の槍を宙に放る。水晶の槍を宙で回転をさせて、赤熱化させる―――神の血を増幅—―異常なし。回転数を上げて、加速させる。水晶の高温化させるのに成功――投擲可能。

「死ぬなよ。俺の為に」

 撃ち抜く対象—―決定—―指で示す――発射。

 槍を回転させ、速度熱量共に臨界点を突破を確認、扉をぶち抜く。

 槍は想定通りに扉を撃ち抜き、床の老人たちの背中を焼く事に成功する。ただ、余波が想定を超えてしまい、扉どころか壁や天井すら破壊する。轟音も距離を取っている俺ですら、頭が揺れる程だった。耳元で高射砲を撃たれては、いくら魔に連なる者でも耐えられないだろう。密室が良くなかった。

「自分達で作った結果だ。迂闊だったな。喉が渇いた!」

「はいはい」

 口を開けて、氷を食べる。



「派手にやりましたね」

「仕向けたのはあなただ。問題があるとすれば、そちらだ」

 少ない体力を使い切ってしまい、水晶ひとつ呼び出せなくなっていた。今の俺ならば、ただの拳で叩き伏せる事が出来るだろう。

「その通り。少し待っていなさい。ロタ、頼みましたよ」

「お任せを」

 俺とロタを木片だらけになった部屋に置いて、目隠しの麗人は去ってしまった。先ほどの人間達は全員どこかへ連れていかれた、病院かどうか知らない。そもそも興味もない。

「座らなくていいのか?」

「なら、失礼します」

 そう言って、膝の上に座ってきた。心地いい重みを感じる。それに、甘い香りも。

「マスター‥怒るよな」

「さぁ?私には、どうにも。けれど、少なくとも私は怒りません。私も人間は嫌いですし」

「気が合うな—―俺、楽しかったんだ。人間を追い詰めて」

「それの何が問題?」

「人間の違いが分からなくなってきた」

 あの中に、いる筈がないとしても、もしかしたら俺の味方になってくれた人がいたかもしれない。だけど、俺はまとめて全員敵として扱った。味方か敵かという極論的な見方しか出来なくなってきた。カタリが危惧していた事が、ようやく理解できた。

「後悔してる?」

「後悔はしてない。あのまま受け入れる気なんてさらさらない。だけど」

「人間を理解したい?」

「‥‥少なくとも、会う人間、会う人間全員が敵とは思いたくない」

「人間が好き?」

「まさか、嫌いさ。嫌いだけど、いつかカタリとも、分かり合えなくなるんじゃないかって」

 今思えば、帰ってきてから何度かあった。マヤカはマスターは一度も俺の敵ではなかったのに、敵対的な行動を取るのが当然だと思い、威嚇を続けてしまった。

 何故、あんな事をしていたか。それは、俺が人間に殺されたから。そう思えば、普通の行動なのかもしれない。だけど、あまりにも滑稽だ。

「今更、そんな事を言っているの?」

「ロタは違うのか?」

「私、人間という種族と分かり合おうとなんて、一切思ってませんよ」

「—――そうか」

「あなたは、違うの?」

「‥‥俺は、カタリと」

「なら、あの人間一人だけを信じればいい。私達が戦士や勇者を見出す時は、大体そうしていました」

 経験者の言葉だった。この高みまで登るのに、一体どれだけの人間を見定めてきたのか。だけど、俺には経験がない。人間と言っても思い浮かぶ数が、そもそも少ない。

「冷徹だな。俺も、そうなれるかな?」

「やはり、あなたには自覚がないのですね」

 ロタが目を見つめながら、頬に手を当ててくる。

「私達、人間以外の種族は、元からそういった考えの元、人間と共存していました。決して共栄ではありません。人間を一目で見抜きたい?あり得ない。人間は複雑です、私どころか、あなたのマスターでも、それは不可能」

「でも、敵かどうかぐらい」

「人間は須らく私達の敵です。元人間であろうと、変わらない。それに経験者としての所感で言わせてもらいますが、この場にいた人間に、あなたの味方となる者は、ひとりとしていませんでした」

 まるで容赦のない事実を淡々と告げてくる。

「あなたは人間に期待し過ぎです。カタリさん?でしたか?もし彼女のよう人間が多くいると思っているのなら、それは間違い、私達に味方する人間など、まずいません」

「言い切れるのか?」

「言い切れます。いたとしても大方利用しようとする俗物のみ。自覚して下さい、あなたは人間にとっていい材料。味方の振りをするのが人間の全てだと思って」

 違和感なく聞き届けている自分がいる。認めたくない事実がロタの言葉で確証を得てしまった。人間は皆敵。カタリだけが特別。俺も前にそう言っていたではないか。

 大切な人とそれ以外の区別さえつけば、それでいい。

「わかった‥わかったよ。やっぱり人間は嫌いだ。理解してやる必要なんてない」

「はい、人間との相互理解など無用。都合のいい時だけ、相手をしてやればいいんです。そう、人間は無用。だけど、私はどうですか?」

 両腕を肩に回して耳に口を付けてくる。吹きかけれる息の音に身震いをしてしまう。

「人間なんていう数だけの種族より、貴重種である私との中を優先すべきでは?あなたが望むなら、黒でも金でも、どちらでもお相手しますよ」

「今は黒の気分かも‥」

 ロタの背中に腕を回して、髪に顔をうずめる。何も言わなくても、ロタは頭を撫でてくれる。

「疲れた。早く帰りたい」

「残念ながら、それは出来ない。もう少しここにいなければ」

 マスターの声だった。

 俺が破壊した扉から、聞こえてきた。後光を受けて入ってくるその姿は、それだけで人間ではないとわかった。人外じみた容姿を持った女神、この姿で迎えに来てもらえるのなら、俺はふたつ返事で手を取っただろう。

 そんな考えの俺がわかったのか、膝の上にいるロタが頬をつまんでくる。

「確かにあの人の方が、豊満かもしれません。だけど、私だって」

「ふっふっふ――ロタ、それこそ、愛のなせる力というものさ」

 髪をかき上げて降りてくるマスターを迎える為に、ロタは膝から降りて後ろに回った。俺と目線を合わせる為に、膝を折っている姿すら神々しい。そして額を突かれる。

「派手にやったとは聞いたが、ここまでやっているとは、思わなかった」

「一ヶ所にまとまってくれれば、こんなに破壊してません。それに、こう仕向けたのは、あなた達だ」

「正論だとも。そうさ、こうする為に君を法務科に引き渡した。爽快だったかな?」

「あと10回ぐらいしたいです」

 立ち上がったマスターの身体にしがみつく。マスターも無言で頭を撫でてくれる。

「まったく、本当に恐ろしいものを選んでしまったな。では、行こうか」

 示し合わせたようにマスターが離れた瞬間、ロタが車椅子を押してくれる。階段の隣に、設置されているスロープを使って、出口まで押される。外は物々しい警戒だった。黒服と白いローブ、各々拳銃や杖、ショットガンらしきものを持った奴らがいた。しかも、そいつらの視線は全て一ヶ所に集められる。

「人気者でなにより。私も鼻が高いよ」

「ありがとうございます」

「ああ、本心で褒めたとも。本当に、誇らしい」

 車椅子に乗っているただの学生である俺を、オーダーや魔に連なる者たちが恐れている。秘境から出張してきたのか、無意味にご苦労な事だ。

「マヤカ」

「そう、あなたのマヤカ、体調はどう?」

「あんまり良くないかも。空腹だし、眠い」

「終わったら食事にしましょう。帰りの列車でも眠っていい」

 白いローブをまとったマヤカが、膝を折って話しかけてくれる。その光景に、周りの緊張感が緩むのがわかる。どれだけ危険な存在と思っていたら、出てきたのはただの子供。しかも機関でりオーダー所属であるマヤカと親し気に話している。

「彼らはどうだった?酷い事した?」

「少ししか出来なかった。消化不良って、言うのか?」

「もう少し痛めつけてもよかったのに」

「そうかもしれない‥次は一生病院送りにしてみるか」

「そうしていい。どうせ彼らは一生牢屋入り」

 秘境に襲撃を仕掛けた連中という推測は正しかったようだ。

「俺は時間稼ぎに使われたのか。ここのやつら、殺していいか?もう存在する価値ないだろう?」

「そんな事を言ってはいけない」

 言葉が過ぎたか。マヤカからお叱りを受けてしまった。

「人間は、事実を言われると逆上する哀れな生物。可哀想な彼らを、いじめてはダメ」

「ふたりともその辺で。これ以上私の胃痛を増やさないでくれ‥」

 我らがマスターがロタに進むように指示して、マヤカを引き離される。手を振ってマヤカに挨拶してから、前を向く。先ほどから受ける視線の種類が変わった気がする。

「私の弟子たちは皆勇ましくて、私は満足だ‥はは‥」

「俺は悪くありません」

「そうだろうさ‥だが、ただでさえ人間は数だけは多いんだ。中身は共わないくせ」

 慌てて、咳払いをしたが、しっかりと聞かれていた。

 オーダーはマガツ機関の包囲網を突破して、どこの建物かもわからない廊下を進む。

「それで、どうだった?」

「あんまり頭良くないんだなぁって」

「彼らも必死なのだよ。私達秘境の者は、その恩恵を忘れてしまうが、あそこは魔に連なる者にとってこれ以上ない程の設備と法が整っている。そこの新しい技術や編み出された術は、街の外では高値で売れる。しかも、生命の樹となれば、ただ売るだけで、生涯の研究資金に頭を抱える必要はなくなる。自身の研究の為にもなる」

「だからって、襲撃を仕掛けるのはどうかと」

「その通りだ。だが、それこそが我ら魔に連なる者だ。自分の為に、他人を踏み台にし、他人を捧げる。一般の倫理感など邪魔であるのさ」

 そこは頷くしかない。俺も同じ考えだ。そもそも倫理感など気にしていたら、魔に連なる者など続けられない。

「だけど、もう俺達のルールよりも優先されるルールや条約があります。隠れもしないでただ自分の欲望のままに振る舞うのは、職務怠慢では?」

 俺からの進言に、我が愛しのマスターは隠しもしないで高笑いを始めた。

「私もそう思うよ。ああ、その通り。現代の魔に連なる者とは自身の研究よりも隠れる事。隠者である事を、優先するべきなのかもしれないな」



「謝りませんよ」

「構いません。期待などそもそもしていません」

 広い会議室に通された。長大な一つながりの机の奥に、先ほどの目隠しの麗人が座っていた。マスターは何も言わないで俺を机の端に置いてから、目隠しの麗人と俺を俯瞰するように座った。

「そもそも彼らは、オーダーの傘下の人間。あなたがどれほど痛めつけてもオーダーには何の損失はありません。それに魔に連なる者である彼らは、圧倒的に優位な立場にいながら、あなたに敗北した。オーダーは弱者に興味などありません」

「しかもあの人間達には、秘境に襲撃を仕掛けた教唆や幇助といった疑いまである。君が痛めつけなくても、別の誰かがやっていたさ」

「余計な事は言わないように」

 眉間に指を付けながら、呆れるように言った。だが、マスターはそんな様子が楽しいらしく、頬に手を付けて笑っている。

「話を続けます。リヒト、でしたね。今あなたは自分の置かれている立場がわかっていますか?」

「魔に連なる者として、優先されるは自身の力を隠す事。しかし、俺は秘境どころか外でも力を使ってしまった。機関だけでなく、オーダーも俺を危険分子と見ている」

「結構。であるなら、今後どう扱われるか、わかっていますね?」

「はい。あなた達の出方によっては、機関もオーダーも敵になる」

 指を重ねて大きく頷いた。

「オーダーの法務科は知っていますね?私のそこの所属です。よってはっきりと言います。あなたを拘束すべきだと法務科どころかオーダー本部からも、強く声明が出されています。無論、マガツ機関もそれに賛同しています」

「雑魚共が、群れなきゃ何も出来ないのか――」

 つい、吐き捨ててしまう。

「それで?俺をどうする気だ?」

「あまり強気にならないように。今のあなたの体調は、万全ではないとわかっています」

 拳を作ってみるが、まるで力が入らない。震えを納める力さえ残っていない。

「すまないね。私もオーダーの所属である以上、法務科に嘘は付けない」

 言葉では申し訳なさそうに言っているが、割と簡単に言ってくる。オーダーのどこ所属か知らないが、それでも法務科とやらには従うしかないらしい。

「‥‥俺は、何をすればいい」

「あなたが被害者だという事は、既にこちらとしても把握しています。それに、あなたの働きにより、尻尾を掴めた対象は数えられないほどいます。これだけで、嫌疑を晴らすのには、十分。しかし、それとあなたの中身については話が別です。帰って来てからの行動についても聞いています。随分と、破壊衝動が抑えられないようですね?」

「壊して欲しいって言ってくるんだ。俺の責任じゃない」

「言い訳にしても、もう少し考えなさい」

「事実だ。何もされなければ、俺は何もしていない」

 俺から何かしたとすれば、一番最初に教授の部屋に行った時だけだ。それ以外は、本当に俺は何もしていない。

「あなたの弟子はこう言っていますが、マスターとしてどう思いますか?」

「ん?そうだな。弟子の言う事は信じてやりたいが、身内の私が何か言う事は出来ない。だから、ノーコメントだ」

「否定も肯定もしないと‥‥それだけで十分養護しているでしょう‥‥」

「君に言われたくないはないかな?彼を、自身の弟子に」

「結構!!わかりました‥‥はぁ‥」

 恐らく一緒に住んでいたという、もうひとりはこの人なのだろう。この気のおかない対応やふたりにしかわからない会話をしている。ただ、毎日こんな感じに話していたのならば、心労が思いやられる。

「マスターは前からこうですか?」

「ええ‥‥前からこうです—――はぁ‥」

「何かね?ふたり揃ってその反応は?」

 思わず口角がふたりで上がってしまう。ただ、向こうはやっと肩の荷が下りたと言わんばかりの表情だった。

「こちらにいる時、マスターは、あなたにお任せします」

「いいえ、遠慮せずに独占しなさい」

「そうふたりで私と取り合わないでくれ♪」

 渇いた笑いが自然と出てしまう。

「それで、俺はいつになったら帰れるんですか?」

「単刀直入に言いましょう。オーダーに所属しなさい」

「断ります」

「受諾したと受け取ります」

「やはり、あなたもマスターと同じですね」

「—――似ていないのが、誇りだったのに‥。聞いておきましょう。何故、断るのですか?」

 相当ショックを受けたらしく、目隠しの下なのに、遠い目をしたのがわかった。

「オーダーに所属するという事は、オーダーにいいように使われるって事ですね?俺は魔に連なる者、秩序維持など興味もない」

「秘境の人間らしい事を言いますね。ただし、いくら排他的な魔に連なる者であるが、受け入れてもらいます。さもないと、あなたから秘境の魔に連なる者としての権利を剥奪する事になる」

 権利の剥奪。それは、オーダーの庇護下である秘境から追い出される事になる。秘境外での魔に連なる者は、はっきり言って哀れだ。技術も資金も知識も、全てが秘境とは比べ物にならないぐらい、劣化する。しかも――

「その時、あなたはオーダーの敵となる。オーダーの庇護下でもほかの組織に所属もしていないあなたを、オーダーは放置しません」

「その時は俺を殺すか?その時こそ、俺は災厄の一人になる」

 思わず言ってしまった。目隠しの麗人が無言でマスターを眺めるが、マスターは首を振るだけにする。

「誰から?」

「その前に答えろ」

「‥‥大方ロタでしょう。質問に答えるとすると、オーダーとしても、あなたとは出来る限り友好的でありたい。よって、オーダーに所属する事で、事を収めようと考えています。災厄の話を抜きにしても、あなたとだけは殺し合いたくない」

 恐らく事実。嘘をついていたとしても、構わない。後で始末すればいい。

「もし俺がオーダーに所属したとして、一体何をやらせる気だ?」

「無論、魔に連なる者の敵対者。あなたには階段を踏み外して者の対処、狩りをさせる事になります」

「君は魔に連なる者としての知識を持つ獣。知能を持った獣など、とても敵対などできない。勝手で済まないが、君か変化した姿もオーダーには提出している。あの腕や息吹など、受けられる者はほとんどいない」

 少し驚いた。ほとんどいない、という事はいくらかはいるのか。

「興味が出てきたかな?それにオーダーの所属と言っても、基本は秘境から動かない。秘境の人間が第一目標、監視対象だからだ。しかも、オーダーは金払いがいい」

「‥‥仕事を完遂さえして貰えれば」

「しかも、私やマヤカ君もオーダーの所属。言っていなかったが、ロタもだ」

 外堀から埋める気らしい。周りは俺の身内ばかり、しかも金まで払われる。一介のただの学生だった俺には、破格の待遇だろう。その上、仕事場は秘境の中が基本。

「因みにマスターとしても言っておく。断るという選択肢はない。君は、オーダーと機関の双方に所属しなければ、人間世界で生存する事は出来ない」

「さもないと、俺は狩られる」

「そして、見世物扱いだ」

 ここに来た時点で、いや、こちらに帰ってきた時から俺の趨勢の大半は決まっていたようだ。あの教授の実験体になるか、オーダーの研究対象になるか、もしくは、人間の首輪を受け入れるか。ならば、首輪の鍵をもらう事にしよう。

「条件があります」

「言うだけなら、ご自由に」

「マスターと同じ場所に所属させてもらう」

 想像していなかったのか、ふたりとも息を呑んだ。

「そして、直属の上司もマスターだ。これが条件」

「認められません。先ほど彼女が言ったように、ヘルヤはあなたのマスター、身内にあなたの首輪を渡す訳にはいかない」

「なら、俺は自然学の教授の理念を、引き継ぐことにする。あの館は、俺の物だ」

 いつの間にいたのか、マスターの人形と目隠しの麗人の人形が後ろから刃らしきものを突き付けてくる。首に押し当てられる切っ先は冷たいが、それだけだ。痒みすら感じない。

「言い直しなさい」

「言い直すのはそっちだろう?」

 後ろに突き付けられているマスターの刃を掴み、首に引き込む。だが、刃は布となってしまう。手から流れる血を抑える為、勝手に手に巻き付いてくれる。

「俺は死のうと思えば死ねる。もう何度も死んだから」

「自分の命を交渉に使う気ですか?それは悪手では?」

「悪手?まさか!俺の中身を知っているんだろう?この皮が破れれば、俺は災厄、しかも人間に憎しみを持った、人間狩りが出来る獣になる。これは交渉じゃない。脅しだ。死にたくなければ、俺に従え」

「‥‥私は法務科、オーダーの名代としてここにいます。その私を脅す?」

「たかが、人間如きの組織だ」

 足を持ち上げて、なんとか組む。血の巡りが悪い。呼吸も苦しい。だけど、脅しの場で弱みを見せる訳にはいかない。俺は、オーダーの喉元に刃を突き付けている。

「一度断ったから、更に付け加える。マスターの所属に俺を加える事、マスターもマヤカも今の所属から外さない事。そして、あの館を俺に渡す事。どうせ、持て余してるんだろう?」

「—――ヘルヤ、彼は本気で言っているのですか?」

「言うまでもないだろう?無論、本気だとも」

「‥‥館については認められません。しかし、前のふたつは受け入れましょう」

「なら、それでいい。言い直しはしませんね?オーダーの名代さん」

「二言はないと、言わせたいのですか――ええ、二言はありません」

 足を降ろして、肘掛けに頬杖を突く。もう、背筋を伸ばせる体調でもなくなってきた。

「ロタ、入ってきてくれ。帰る」

 ロタを呼び込み、会議室から外に出る。マスターも名代さんも、考え事や頭を抱えている間に外に逃げ去る。何か言われる前にとんずら。言いたい事だけ言って逃げる。これが交渉の極意であり、現代の魔に連なる者、隠者として生き方だ。

「待ちなさい、まだ話は」

「あとは俺の上司であるマスターに、それでも話したいなら、俺の担当医に話しを通して下さい。マスター、お小言、頼みます」

「ま、待って!?」

「良いでしょう、小言はヘルヤに」

 会議室からロタに連れ出されて、ようやく一息つけた。




「氷、食べますか?」

「‥‥ごめん、ちょっと無理そう」

 腹部と胸部の痛み、しかも腕まで上がらない。血を巡りだけで体力を使い切ってしまう。ロタが心配そうに手を握ってくれるが、掴み返せない。

 列車に乗る前に、丁度通りかかった休憩室で休む事にした。もう、意識すら保てなくなってきた。

「エイル様を呼びました。あと少しで来てもらえますから、楽にして」

「‥‥何から、何まで、世話になってばかりで‥」

 前に倒れそうになった時、ロタが支えてくれる。柔らかいローブに頭を預けて、深呼吸をする。気恥ずかしそうに笑ってくるが、頭も撫で続けてくれる。

「これは、おかしい‥‥」

「‥‥それは、剣を受け入れたから。その剣は、あなたにとって毒となっています」

 竜殺しの力を持った剣が、竜の身体にある。確かに、これは異常な事だろう。あの方は眠り程度と言っていたが、常時、刃に晒され続けている。紛れもなく、これは毒だ。

「まずい状況か‥‥?」

「あなたの身体は、人間程度が持ちうる竜殺しでは死ぬことはありません。ただ、身体が治り切っていない時に、刃を受けて、受け入れてしまった」

「悪い事が重なったって事か‥慣れるしかないのか?」

「今、あなたの恋人達が薬を作っています。それが出来るまで、我慢して」

 あの味のしない薬ならいいが、前に飲まされた苦い薬だったら嫌だ。ただ薬を飲んだだけで気絶した経験が、未だにトラウマだった。

「酷い汗‥‥今、水を」

 ロタが駆け足で自販機まで駆けて、戻ってきた。いつの間に自販機、しかも金を持っているのかと、つい笑ってしまう。

「飲めますか?」

 口の開いたペットボトルを掴み、どうにか持ち上げる。ただのペットボトルの重みすら支えられないでいると、ロタが手伝ってくれる。

「さぁ、飲んで」

 水を軽く唇に含ませる。冷たいままでは飲み込めないので、口中で少し温めてから喉に通す。慣れてきたら、冷たいままで飲み続ける。だが、せき込んでしまう。

「落ち着いて、ゆっくりしましょう」

 ロタが優しく背中を撫でながら、声をかけてくれる。会ってまだ数日なのに、背中に回されている手に親しみを持ってしまう。カタリやマヤカ、それにマスターに対してもそうだったが、看病をされると、相手との距離が加速度的に縮まっていくのがわかる。

「カッコ悪いか?折角、迎えに来たのに」

「どれほどの勇者や戦士であろうが、怪我や病、毒にも侵されます。それに、あんな状態でも、リヒトは私に勝利した。ただの人間では数秒と持たなかったでしょう」

「それでも顔に‥」

 思い出して顔を触ったが、傷などなかった。痛みを忘れていた。

「これ、ロタが?」

「いいえ、それはエイル様です。あの人は治療専門の方ですから――これも他言無用で」

「誰にも言わない。ふたりだけの秘密か?」

「はい、ふたりだけの秘密です。ふふふ‥」

 指を口に付けながらの、ウィンク。思わず見とれてしまう。やはりロタも人間ではないと改めてわかった。ただの瞬きひとつで、男性心をくすぐってくる。戦士や勇者を連れて行くと聞いたが、この仕草であれば、迷いなく手を取ったかもしれない。

「あなたとの出会い方を間違ったかもしれません。少し遊ばれるのがお好き?」

「かもしれない。だけど、俺の望みを言うと、完治してから会いたかった」

「では、あなたが退院したあかつきには、もう一度誘いに行くとしましょう」

 膝を折って下から見上げてくれる。汗まみれの酷い顔だろうが、仕方ない。

「足音がします。そろそろエイル様が来られますよ」

「ふたりだけの時間は終わりか、しばらく入院するだろうから、いつでも」

「はい。お邪魔しに行きますね」

 限界だった。首を落として、目を閉じる。死んだように力を抜いた俺の頭を下から持ち上げて、抱きかかえてくれた。心音や息遣いを感じる。もし、俺がもう一度死んで、ロタに誘われたら、この手を振りほどけないかもしれない。



「では、正式に伝えておこう。君はオーダーの外部監査科に所属する事となった」

「何をする科なんですか?」

「知らずに言ったのか‥はははは‥」

 ここまで感情のない笑いというのも珍しい。

 起きた時、俺は列車に乗っていた。ただし様子は少し違う。ベットで寝かされて、腕に点滴を付けられていた。その上、酸素マスクまで。

「俺、もしかして相当危険な状態でした?」

「それは難しい問いだ。君は、その毒では死なない。死なないが、死にかけている。生ける屍ならぬ、死さない身体と言うのだろうか。単純に言おう。死ぬほど苦しいのに、死なない。こういう事だ」

「度し難いですね‥」

 酸素マスクに、頼って呼吸をするが、ただの呼吸でさえ体力が減り続ける。ただでさえ息苦しかったのに、酸素マスクを使ってもこの息苦しさだ。

「さっさと帰りたいです」

「エイルにもそう言われたよ。本来なら、まだまだ向こうにいるべきだったかもしれないが、エイルからのドクターストップがかかった。あそこまで感情を露にする彼女は、久しぶりにしたかもしれない」

 医療関係者の発言力は、機関でもオーダーでも変わらないようだ。しかも、あの人はどうやら特別な存在らしいし。

「エイルさんも、オーダーですか?」

「書類上はね。彼女の場合、治療をする時々によって都合のいい立場を使っているだけだから、まだまだ肩書はあるよ。私でさえ、全ては把握していない」

「目が覚めましたか?」

 寝台車ならぬ、治療車らしき車両にエイルさんが入ってくる。その手には、俺のカルテルらしいファイルがある。ただ、何故かピンクなのが気になる。

「ああ、やっと。2時間と言ったところか?」

「2時間も経ってたんですか?」

「向こうで1時間、列車で1時間です。本来なら動かすべきではありませんでしたが、未だ被疑者扱いであるあなたを、あそこに置いていけませんでした」

 言いながらエイルさんは、俺の腕を取って脈を確認してくる。少し爪が痛い、医者がそばにいてくれるという安心感は、並みじゃなかった。

「あのビルは、どこだったんですか?」

「‥‥はぁ、ヘルヤ、言ってもいなかったのですか?」

「彼がオーダーになるまでは、言えないと思ってね。あそこはオーダー街。建物については秘密だ。君がもっと上に行けば、明かせる日も来るだろう」

 なんとなく察してはいたが、本当にオーダー街とは。あの杖ではなく、銃火器を主力として装備の数々は、それが理由か。

「オーダー街‥オーダー街にも、魔に連なる者がいるんですね」

「数は少ないし、大体がこちらからの出張だけどな。あまり失礼な態度は取らないでくれよ?オーダーの人間かと思えば、機関の人間という事もある」

 自分であれだけ言っておいて、よく言う。いや、溜まりに溜まった不満が、あの一言で炸裂してしまったのか。機関も大した事ないが、オーダーもそこは似ているようだ。

「マヤカは?」

「マヤカ君はまだ向こうだ。君の代わりに、事の顛末と今後の自身の扱いについてレクチャーされている。明日には戻ってくるだろうか?」

 一緒帰るつもりだったが、俺が倒れてしまったせいで、帰りが遅くなるようだ。

「俺、マヤカとも同じ科に所属したんですよね?人間狩りとか言ってましたけど、具体的に、どんな人間を狩るんですか?」

「では、少し説明しておこうか。我ら外部監査科とは、オーダーの犯罪者、または魔に連なる者の犯罪者を始末、逮捕する科だ」

「でも、それは――オーダーはどうだか知りませんが、機関が」

「ああ、基本はマガツ機関が逮捕する。けれど、それだけでは足りない、それこそ君のようなイレギュラーな力を持った者が必要になった時、頼られる影の組織」

 そういう事か。どうやら俺は、既にそれに類する事やってのけたようだ。あの教授は、機関では手も足も出なかったと聞いている。だけど、俺は狩ってしまった。

「本当なら君は法務科の異端捜査‥いや、それはこの際どうでもいいか。我が弟子リヒトよ、想定外ではあったが、君を歓迎しよう。ただし、我ら外部監査科は厳しいぞ?」

「教授ひとりに勝てなかった分際で、どこが厳しいんですか?」

「‥‥厳しいのは君の方だったか、失礼した」

「すみません、謝りますから置いて行かないで」

 目に見えてのウソ泣きだとはわかるが、マスターが背中を見せて去っていく姿に俺は本心で泣いてしまった。振り返るマスターの誇らしげな顔が愛おしくて仕方ない。

「うむうむ。小生意気な君も可愛らしいが、素直で甘えん坊な君も、愛らしいぞ」

 上体を起こせない俺の顔を撫でながら、いたずら好きなマスターらしい顔をしてくれる。その間も、点滴や酸素マスクの世話をしてくれるエイルさんを横目に。

「ヘルヤ、見守りの交代です。あなたがいては、彼がなかなか寝付けない」

「では、そうさせて貰おうか。向こうへの連絡をしてくるよ」

 マスターの手で眠気が迫った来た所で、マスターは出て行ってしまった。

「‥‥あの」

「何か?」

「もしかして、怒ってますか?」

 俺は無理をした。止められていた訳じゃないが、水晶を呼び出し、無理やり立ち上がって杖を振り回した。しかも、槍まで使った。ドクターストップを出してくれなければ、どう扱われていたか。

「‥‥そうですね。思うところはあります」

「すみません‥」

「いいえ、責任はあなたにはありません。それに、私だって向こうに行けば、あなたがどう扱われるか、想像していました。ヘルヤは何も言わなかったでしょう?」

「はい‥だけど、俺の限界を見極めていました。ロタをずっとそばに置いてくれたのだって、マスターです」

「—――言っておきたい事があります」

 ベット脇に椅子を運び、足を組んで座ってくる。どうしてヴァルキュリア達は皆、座った時に足を組むのだろうか。しかも、横になっている俺の隣で。

「ヘルヤ、彼女はとても優しい」

「はい、だから」

「そして私達の中で、もっとも残酷。しかも本人はその事に気付いていない。覚えがあるでしょう?」

 死にかけの俺の世話をしてくれたが、それでも戦力として数えていた。自力では歩けない俺を無理やり立たせて教授にけしかけた。あの時は俺自身、都合がいいと思っていたが、あの人に復讐心を利用された。

「そうかもしれません‥マスターは、昔から?」

「ええ、昔から。あの見た目と性格なので、多くの人間に愛されてきました。そして、無自覚に多くを滅ぼし、消し去ってきました。味方も敵も関係なく」

「危険な人なのですね―――俺も、その中のひとりになっている」

「はい。彼女とは長い付き合いです。彼女によって滅ぼされた人間達も多く見てきました。しかも、その度にヘルヤは心を痛めていました」

「やっぱり、優しい人なんですね‥」

 あの子を傷つけた。何度かそう言っていた。あの悲しい苦しそうな顔は、今までの積み重ねの結果。あの子も消し去りそうになったから、距離を取ったのだろうか。

 愛していたあの子との別れは、どれだけ苦しかっただろうか。

「私達にとって死とはすぐ隣にあるもの。そして完全な消滅も。‥‥だというのに、ヘルヤはその度に苦しんでいた。私達の中で、もっとも力を持ったひとりなのに」

「あの金色の髪と、関係しているんですか?」

 ロタも金色だった。だけど、もう黒髪になっている。決して染めている訳じゃない。あれは、肉体を乗り換えた。そんな気がする。

「—――私達は人間の世界に入り込む時の決まりがあります。肉体を人間のそれに近づけるという約定が。私もロタも、そしてイミナもそれに従いました。だけど、ヘルヤだけが出来なかった」

「力を持ち過ぎていた。人間の器では、耐えきれないほどに。こうですね?」

「‥‥ふっ、流石自分から志願した弟子ですね。その通り、彼女に相応しい肉体を用意出来なかった。だからヘルヤは、あまり人前には出たがりません。あの姿は、私本来の姿。死した人間を連れ去る死神そのもの」

 どうやら、俺が想像していた死神とは、遠くかけ離れた姿だったようだ。

「ただ傍にいるだけで、人を殺し、連れ去る。ヘルヤはその運命の力を、当時のまま持ってしまっている。全て彼女の責任には出来ませんが、ヘルヤと共にいると、あなたは傷つき続けてしまう。死ぬまで」

 思わず笑ってしまった。エイルさんは、驚いた様子もなく胸を撫でてくれる。

「だけど、俺は人間じゃない。そして、俺はマスターの死の運命を乗り越えた。あの人が、運ぶ死は人間にしか通じない。—――マスターを独占できますね」

「‥‥ふふ‥まったく。ヘルヤが夢中になる訳ですね。本当に」

 どうしてヴァルキュリアとは、こうもいい香りがするのだろうか。甘い、けれど大人の女性の香りがする。布団を握りしめて、耐えていると心拍の上昇が音で聞こえてくる。

「あなたにお願いしたいのです。どうか、死なないで、ヘルヤの為に。彼女に、本当の恋をさせてあげて。もう、悲しむ姉妹を見たくないの‥‥」

 耐えるように、忘れるように、俺の胸を撫で続ける。きっと俺が死にかける度にマスターは傷ついてきた。その度にエイルさんに頼った。一体、どれだけ苦しそうにしていたのだろうか。

「マスターは優しいんです」

「ええ、ええ‥‥」

「俺、優しいマスターに救われたんです。こっちに帰ってきて、みんな敵としか見えなかった俺の世話をしてくれました。傷だけじゃないんです。俺を、狂った俺を捨てないでくれた」

 カタリのそばにいない凶暴な俺の世話をしてくれた。ろくに動けなくなっていたとしても、直接食事の世話もしてくれた。しかも、未だに言えていない事がある。

「俺、完治したらマスターにお礼を言います。マスターがいてくれたから、俺は生きていられるって」

「‥‥はい、はい‥!」

 カタリとマヤカ、ふたりだけじゃない。俺は、ずっとマスターに支えられていた。確かに、あの人は死神かもしれない。あの人のそばにいる所為で、俺は死にかけているのかもしれない。だけど、そんなものは関係ない。俺は、マスターと共にいたい。



「カタリ君‥‥怒っていたね」

「怒られました‥‥」

 一緒に行くつもりだったのに、カタリひとりを置いて行った事がすこぶる気に食わなかったらしく、帰って早々に説教が始まり。しかも、隣にいたマスターもその対象となった。

「約束してたのにって、約束したんですか?」

「そうしなければ、列車ごと破壊すると言われたんだ。仕方なかろう?」

「だから怒ったんですよ。約束を破ったら、カタリはしばらく不機嫌ですよ‥‥」

「いつも不機嫌だと思っていたが、あれで上機嫌だったのか‥私の目もまだまだか‥‥」

 ひとまず言いたい事が終わったらしく、カタリはマヤカに連絡してくると出ていった。マヤカがなだめてくれれば、有り難いが、あまり期待できない。

「君も、苦労人だな。向こうで倒れるほど力を酷使して、帰ってきたらきたらでカタリ君の説教と。ふふふ‥私など、今日二回目の小言だ‥」

「謝りません」

「無論だ‥大半が私への小言だった。加えて君の保護責任者としての心構えすらレクチャーされたよ。はははは‥人を保護するとは、こうまで大役なのか‥」

「保護者?」

 ベットで横になっていたが、その単語を聞き返すべく起き上がる。

「俺は機関の一員でもあるのでしょう?それに、秘境の住人でもある。保護者なんて」

「君は特例や例外の塊なんだ。それに、今もオーダー法務科は君を懐疑的に見ている。今度こそ自分達に牙を剥くのではと」

 起き上がった所で、肩に手を付けて寝かせてくる。少し抵抗してみるが、額に口付けをされてしまい、力が抜ける。

「ふふ‥良い子だ。この保護者としての役目は、本来イミナが行う予定だったが、彼女も彼女で忙しい。名実ともに君が私の手元に来て、良かったさ」

「俺も、マスターの元でよかったです」

「私もだよ。やはり、君は私でなければ、相手が務まらない」

 もう一度額にしようとしたので、手で防ぐ。だが、それすら見越していたらしいマスターは、隙をついて唇を舐めてきた。しかも引き寄せと肩を抱くが、腕に力が入らず、枕元に腕をついて見下ろしてくる。

「引き寄せなくていいのか?それとも、君が来るか?」

 作戦を変更。自分が行くことにしたが、まるで届かない。腕の毒が思ったより邪魔だ。切り落としてしまおうか?

「ほら、どうした?私が欲しいのだろう?」

 もう千切れてもいい。この顔に噛みつきたい。

 そう思い、全力で腹筋や腕の骨を使おうとした時、上から被さって望んだ味を差し出してくれる。ロタの蜂蜜酒よりも甘くて温かい。それに、柔らかくて気持ちいい。

「勝てると思わないように。私は大人だぞ?人並に経験があるとも」

「俺だって」

「カタリ君とマヤカ君か?どちらにしても、君は攻められる側だろう?」

 否定できない。次の言葉を出そうとしたが、声が続かない。

「‥‥ふたりは、俺がいじめるのが好きなだけで‥‥」

「私もだよ。それに、構ってもらうのが好きなのだろう?諦めて私に組み敷かれなさい。返事は?」

「‥‥はい、マスター」

「結構。ふふ‥いじめるなら強気な戦士よりも、従順な弟子だな」

 腰の上に跨ってくるマスターの目がみるみるうちに、狂乱と化していくのがわかる。どうにかして一矢報いたいが、今は出来そうにない。下手に反撃でもしたら、何をされるかわからない。だが、このまま肉体を預けても、何をされるかわからない。

「ロタかエイルから聞いたか?この身体は、私が使い続けている身体。人と交わる事が出来るのは、経験で知っている。だが、神獣は知らない。試す気はないか?」

「‥‥やっぱり、経験、ありますよね」

 マスターからの誘いよりも、ある意味において気になった事があった。

「まぁ、私も大人だからな。詳しくは聞かないように、詮索する男性は苦手だぞ?」

「‥‥今は、俺しか見ないで下さい」

 最後の力を振り絞って起き上がり、マスターの背中に腕を伸ばす。ロタと同じ柔らかいローブであるのに、中身は大人の身体だった。それに、固いワイヤーを感じない。下に何も着ていない、ローブ一枚だった。

「柔らかい‥‥」

 抱かれた胸の奥から心音が聞こえる。それに楽しそうに耳を触ってくるマスターの手も。

「抱きつくだけでいいのかい?」

「‥‥まだ体力が回復していないので、それに」

 顔を上げて見つめる。柔らかい女神のような顔だった。俺を信じて待っているのがわかった。

「その時が来たら、俺から誘わせて下さい。その時には、もう男の子じゃないって証明しますから」

「そういう所が男の子なのだよ。待っている。あまり私を待たせないようにね」

 ベットから降りたマスターが、もう一度抱いてくれる。

「どうか、その時まで、私に殺されないでくれ。相手を選べない死神など、ただの災害でしかない。だけど、どうか、私を期待して待たせてくれ。もう、私もひとりになるのは嫌なんだ」

「俺もです。もうひとりは嫌なんです。どうか、俺を待っていて下さい」

 柔らかい身体が長く抱いてくれる。痛みなど感じない。不快感などある筈がない。その上、マスターの髪がある。長い柔らかくて艶やかで、いい香りで。

「噛みたいです」

「食べないように」

 垂らされた髪に歯を立てる。決して切れない柔らかい鋼鉄のような髪。だけど、血の味などしない。甘みも感じない。なのに、いつまでも口に入れてられる。

「そろそろカタリ君が帰ってくる筈だ。もう終わろう」

 髪を噛み続けている俺の背中を軽く叩いて知らせてくる。名残惜しいが、仕方ない。また今度噛ませてもらおう。

「マスター」

「何かな?」

「いつか、あなたを噛ませて下さい」

「変わった誘い文句だね。いいだろう‥」

 お返しなのか、こちらの耳を噛んで囁いてくる。

「好きな所を噛ませてあげよう。その時が来たら、必ずね」




「早速だが、君にして貰いたい仕事がある」

「生命の樹の量産を手伝っていた奴ですか?」

「想像していたかな?その通り」

 カタリから薬を受け通り、喉に流し込む。そして差し出した腕に投薬をして貰う。注射にも慣れてきてしまったし、カタリも慣れてしまった。無言で淡々と除菌シートを張ってくれる。

「リヒトの腕、段々太くなってきたね。だけど、もうあんまり筋肉付けないでよ」

「どうして?前はもっと強くなってって言ったのに」

「私は細身が好きなの、いい?わかった?」

「わかった。あんまり鍛えないようにするよ。カタリの好みになって見せるから」

「期待して待っててあげる」

 ベットに片膝を置いて、口付けをしてくる。離した瞬間の強気な顔が可愛くて、つい引き寄せてしまう。膝の上に置いてカタリが頬を突いてくるので、身を任せる。

「君達、私がいるのを忘れていないか?しかも、私は今オーダーの」

「私はリヒトの専属医です。これは医療行為の一つなので、邪魔しないで下さい」

 マヤカと何を話したのかわからないが、やけに上機嫌になって帰ってきた。しかも、無理やり膝に置いても怒らない。むしろ首に腕を回して抱き着いてくる。

「聞いたよ、向こうでも派手に動いたんでしょう?しかも、あいつら相手に」

「あいつら?知ってるのか?」

「若い男と女がいたでしょう?あいつら、私の邪魔をした連中なの」

 何をされたか知らないが、あまり人間に興味を持たないカタリがここまで恨みを持ち続けるとは。

「カタリが喜んでくれるなら、暴れた甲斐があったよ。褒めてくれる?」

「褒めて欲しい?」

「欲しい!!」

「子供っぽ~い♪いい子いい子‥」

 回した手で頭を撫でてくれる。本当に子供みたいな褒め方なので、無理やり口を付ける事にする。お互いが肩や背中を抱き合ってするので、口同士から艶めかしい音が止まらない。

「そろそろいいかな?」

「仕事らしいんだ。後で続けよう」

 口を離しはするが、膝の上から降りないカタリの背中を支えてマスターに顔を向ける。

「いくら真剣な顔をしても、それじゃあ‥まぁ、いいだろう。君の言う通り、狙いは生命の樹を生産、量産の手助けをしていた技術者だ。オーダーが調べ上げた資料の中には、そいつは錬金術師という呼称もされていた」

「私の同類って事ね」

「怒らないのかね?」

「別に?私以外にも錬金術師はいるし、それほど驚きじゃないかな?」

 俺達にとっての魔に連なる者や魔道を志す者、という呼び方と同じなのかもしれない。全てを一括りにした言い方が錬金術師なのかもしれない。

「そいつは今どこに?」

「それを調べるのも、私達の仕事さ。それに、恐らく君ならどこかわかる」

「‥‥樹を持ち歩いているんですね」

「樹、ではない。種だ」

 カタリが膝を組んで顎に手を付けた。生命の樹の種、話だけ聞いた事はあるが、現物を見た事がない。それは、生命の樹の原樹を生み出す唯一の存在。

 価値で言えば、原樹と同等か、それ以上だろう。

「君があの教授を始末した時を境に、この街は長い封鎖体制を取っている。出て行く者、入ってくる者、全てを許していない。知らなかっただろう?」

「外に出てませんから」

「つまり、彼ないし彼女は、今もこの街に潜んでいるという事だ。ここまでいいかな?」

「質問があります。なぜ種子を持っているとわかるのですか?」

「無論、どこを探しても見つからないからだ。しかも、大きさすらわからない。君とマヤカ君が教授の研究室に行った時、機関の人間が何か探していたのを覚えているか?」

 あの時、引き出しや棚を漁っていたのを、種子を探していたからか。機関に同情してしまう。大きさや形ひとつわからない物を探していたのか。

「はい、覚えてます。じゃあ、あそこにも館からも見つからないと?」

「館は、目下のところ探索中だが、あそこに放置している訳がない。それに放置も出来ない。君がやるべき仕事は、当該錬金術師の逮捕、及び種子の確保」

「私も手伝うから。錬金術師の考えは、錬金術師が一番知ってる。いいよね?」

「助かるよ。カタリを専門家として雇いたい。いいですか?」

「まぁ、一度約束を破ってしまったからな。いいだろう、私が許可する」

 事実として、カタリ以外錬金術師の思想はわからないので、頼らざるを得ない。しかも、また仲間はずれにでもしたら、後が怖い。

「だが、その場合、カタリ君も私の指示下に入って貰う。そうしなければ、機関やオーダーへ言い訳が出来ない。いいかな?」

「いいですよ。私は、先生の指示に従います」

「よし、いいだろう」

 椅子から立ち上がったマスターはカタリに手を差し出す。

「再契約だ。信頼の証として手を取りなさい」

 言われるまでもないと言う風に、カタリも立ち上がってマスターの手を取る。

 ふたりの間にどんな契約があったのかわからないが、俺を中心として何かがあったのがわかった。そして、そこにはマヤカも参加している。

「いつから始めますか?」

「取り敢えずは、今日は休みなさい。もう夜だ」

 窓のカーテンを開けて知らせてくる。忘れていた、もう夜だった。

「そろそろ夕飯が届くだろうから、私は失礼する。カタリ君はどうするかね?」

「私はリヒトの世話をもう少ししてから帰ります」

「あまり長くいないように」

 短い挨拶を済ませて、マスターは病室から出て行ってしまった。また、入れ替わりに女医さん、エイルさんが食事を運んでくる。

「今日はあなたが世話係ですか?」

「はい」

 ワゴンの上にある食事を受け取り、ベットのテーブルに置かれる。相変わらず、あまり美味しそうに見えない。早く退院したい。

「ヘルヤから言われましたか?仕事の事」

「はい、先生にも?」

「私もヘルヤから。何度も患者様を外に連れ出す許可は出したくないのですが、仕方ありません。あまり無理はしないように」

 返事は受け付けないと言わんばかりに、出て行ってしまった。やはり、少し怒っているようだ。

「あの先生も一緒に行ったの?」

「ああ、向こうで仕事があったみたいなんだ」

「お医者って、やっぱり忙しいのね」

 箸を取ろうとしたが、先にカタリに奪われる。抗議など受け付ける訳がないので、大人しくカタリの箸で食べさせて貰う。やはり、カタリも手慣れてきたらしい。

「で、向こうではどうだったの?マヤカから少し聞いたけど、またオーダーに使われたんでしょう?」

「みたいだな。ただ俺自身は、あんまり知らないんだ。本当にオーダーの都合で使われただけみたいで」

「ふーん、相変わらず、オーダーって何考えてるかわからないね。でも、暴れたって事は、罠にでもかけられたんじゃないの?」

「あー聴取って、言われたけど、なんか裁判みたいのをされたんだ」

 正直言ってあれは尋問だった。しかも、鎖が身体中に飛んできたという事は、あそこでは暴力も振るわれているのだろう。オーダーもまだまだ前時代的だ。魔に連なる者に拷問などしようものなら、俺じゃなくても、中から何かが飛び出すというのに。

「裁判ね‥。オーダー諸共壊してくればよかったのに」

「それが、どうやら出来そうにないんだ。俺と同じ奴がいるらしい」

 箸こそ落とさなかったが、息を呑む音がカタリから聞こえた。

「‥‥オーダーも危険な奴を飼ってるのね。でも、リヒトよりは人間よりでしょう?」

「俺の息吹と腕を耐えられるらしい。多分、俺と同等かそれ以上に人間じゃないんだと思う」

 前に白い方が言っていた、怖い人。もしかしてそれと関係しているのだろうか。

「まとっている神格が並外れてのね。敵に回さないようにしないと」

「‥‥ごめんな、オーダーに借りを作って」

「—―そんな事で謝らないで、それに私だって結局オーダーに世話になってるんだし、いいのよ別に。復讐はまたの機会にするから」

「その時は、俺も手伝う。だから」

「当然でしょう?その為にもリヒトを呼び戻して、この本だって上げたんだから」

 言いながらカタリがベットの下に潜った。何かと思い覗き込むと、本を手にしたカタリが這い出てきた。

「渡してからずっと入院中だったでしょう?少しは目を通しておいて」

「持ってきたのか、悪いな」

 自分の部屋に置きっぱなしだった本を受け取る。これは、カタリの家が代々書き記してきた異端の術が残されている。その価値や、異海文書と同等ぐらいだと考えている。

「今度の敵は、錬金術師なんでしょう?だったら、それが役に立つ」

「‥‥相手の見当が付いてるのか?」

「まぁ、少しだけね」

 手の中にある本に指を入れて、ページを開く。そこには生命の樹の精製や種類、そして用途が描かれている。ただし、それを読み解く事は俺とカタリ以外に出来ない。

「相手は確実に生命の樹の専門家。しかも、認めたくないけどあの教授が頼るぐらいの。けど、本を使った私には敵わない。リヒトにもね」

「ああ、当然だ。俺達に敵うやつらはいない。ずっとふたりで一番だったんだから」

 カタリとマヤカがどうやって生命の樹を造り出したのか。マスターの知識も当然あっただろうが、それだけじゃない。カタリは、自分の信念を変えてまで、本を使った。俺の為に。

「生命の樹を作るぐらい、異端でも資金もあって、時間もあったなら、たぶんこの街に拠点がある。誰にも見つからない、あの館以外にそんな場所がある。リヒトはどう思う?」

「そうだな‥資金があったのなら、スポンサーがいる。多分そのスポンサーは教授。それと、街を襲ったあの背広連中とマキト。ここで生命の樹を造り、生産も終わったら、一切合切奪う気だった。ならそれまでは資金と一緒に施設も提供している筈。館以外の、教授が用意した以外の場所がある」

「あの背広の雇い主が用意した場所ね。じゃあ、そもそも、あの背広達は何者なものか。それから調べよ。一番、背広達に近しい、それで口が軽い奴。誰かいる?」

「‥‥わかったよ。俺が聞きに行く」

「よろしくね!私、もう絶対!!あの馬鹿の顔も見たくないの!!」

 心底憎んでいる。であれば、俺が行くしかない。この状態のカタリを連れて行けば、その場で殺しかねない。実際、血が流れるだろう。

「マキトか‥‥大人しく言う訳ないよな。手土産が必要か」




「やっと、迎えが来たか。爺さんからの使いだろう?くくく‥結局、お前は俺よりも下の人間だなぁ」

 何を勘違いしてるのか、考えたくもない。

 ここは機関の拘置所。行政区であるここは、病院のある地区のすぐ近くだった。

「それで、俺はいつ出れるんだ?今日にでも帰って、俺を捕まえた連中を訴えないと」

 何か檻の向こうでぶつくさ言っているが、聞く気にもならない。

 檻はやはり鎖のような格子で出来ていた。魔に連なる者という身体ひとつで何をしでかすかわからない連中を捕えて、尋問する為の設備らしい。無駄な事を、マキトは何も出来ないのに。

 広い白い床の上に、マキトが足を組んで座っている。この状況ですぐにでも解放されると思っているのなら、滑稽な事この上ない。

「本来ならお前には黙秘権があるって言いたいが、それは言えない。俺は秘境の秩序維持の為に来た。何もかも話してもらう。お前は、テロリストの枠に入れられた」

「はぁ?」

「は、じゃないだろう。お前は、この秘境に襲撃を仕掛けた連中のひとりだ。わかるか?お前は、オーダーにも機関にも、攻撃を仕掛けて逮捕された。いくら家が大きかろうが、そうそう解放されないから覚悟しろ」

「はぁ?俺はすぐ出られる、そうだな?」

「‥‥マヤカ、コイツずっとこうか?」

 車椅子を押してくれたマヤカを見上げて聞くと、顔を押さえて首を縦に振る。

「自分が望む答えが出るまでずっと聞き続けるの。私も少ししか尋問してないけど、ずっとこう。こんなに疲れる事はない‥」

 無表情で人形のような印象を持つマヤカが、大きく溜息をついた。一体どれだけ苦労をかけたのか。

「‥‥お前はここから出れない。お前の親父と同じ場所に行く。わかるか?」

「やっぱり親父は外に出てたのか!!ついに俺達の家の功績を国が認めたんだな。おいリヒト、お前、外に出たら覚悟しろよ。お前を逮捕してやる!!」

 床を何度も踏みつけて、手を叩いて喜ぶ。ここまで来ると、もう――。

「どうする?正直言って、私でもどうする事も出来ない。拷問をしたとしても、何も話さないだろうし」

「ここで引き下がる訳にはいかない。マキト、お前は誰と取引してここに来た?」

「あ?俺は自分の意思でここに来たんだよ。機関も俺を出迎えたしな」

「‥‥スポンサーになる代わりに、何を対価に払うって言われたんだ?」

「対価だ?俺は、次期後継者だぞ?なんでも手に入るに決まってるだろう?やっぱり、お前は馬鹿なんだな?秘境に逃げ込ん負け犬がよ」

 鼻で笑うような態度で、にやついてくる。何度も向こうでされた俺だから、まだ耐えられるが、何も知らない奴にもしたとすれば、家の評判を下げるこれ以上ない手法だろう。だが、ここまで質問に答えられないのは、異常だ。

「‥‥少し休憩したい」

 マヤカが頷いて車椅子の方向を変えてくれる。その間も、マキトが「いつ出られる、いつ出られる」と何度も聞いてくる。前々からおかしい奴とは思っていたが、ここまでとは。

「あれは剣を受け入れた弊害か‥‥」

 マキトは、この剣を振り回してこそいたが、まるで使いこなせてなかった。あまつさえ、自分の手を切ってしまう程だった。使いこなせないどころか、剣の方に身体の主導権があった。しかも、そんな状況で俺が無理矢理奪ってしまった。

「あなたは平気?」

「‥‥腕が痛いだけ。それに、これも薬のお陰でだいぶ治まった」

「置いて行かれたって怒りながら薬を作ってたみたいなの。カタリにもっと感謝して」

「‥‥わかった。戻ったら、また言わないと」

「そう、何度でも感謝の気持ちは伝えて。いつ最後になるかわからないから」

「マヤカに言いたい。ありがとう、わがままを聞いてくれて。昨日も世話になったし」

「いいの。あなたのお世話をするのは、楽しいから」

 




「彼の聴取資料はこれで全部。ごめんなさい、あまり役に立たなくて」

「役に立たないのはマキトの方だよ。機関でもマヤカでもない」

 一室を借りて、マキトが逮捕されてからの動向は勿論、秘境に入ってからの動きを記した書類を受け取る。だが、マキトの動きは単調だった。

「ホテルに入って、すぐ病院。そこで一晩、過ごして一度ホテルに戻る。そこから動きが掴めなくなったと思ったら、病院であなたを襲撃。襲撃が終わったら姿をくらまし、館で騒ぎを起こす。マスターとエイル様は、あなたの様態や病院を優先して彼を機関に通報するに留めて、追いかけなかった」

「俺を優先してくれたのか。本当に、世話になりっぱなしか‥。にしてもマキトの奴、暇なのか、忙しいのか‥。あいつ、本当にホテルとか病院、それに館以外には行ってないのか?」

「機関は確認してない。だけど、もし別のどこかに行ったとすれば、あなたを襲撃する前の間と館に向かうまでの道のり」

「素直に答える訳ないか。あれも作戦か?」

「どうかしら、だとしたら、彼は知能犯のようね」

 資料室でマヤカとふたりだけでマキトの聴取を漁る。だが、想像以上に何も判明していない。どこから来たのか、何をしに来たのか、どうして今来たのか。

 そういった質問にさえろくに答えていない。マキトは、それこそ夢でも見ているかのように、質問と答えが噛み合っていない。

「彼は向こうでもこうだったの?」

「否定はしないけど、あそこまで酷くはなかった筈。それに悪さが、バレても家があったから、罰せられる事もなかったし。誤魔化しが出来るほど賢くもなかった」

「‥‥暗示?」

「あり得る‥‥」

 質問に正面から答えるな、もしくは質問を正確に聞くな。そういった強制、ギアスの類を受けている可能性を感じる。だが――。

「でも、その場合機関が見逃す筈ないだろう?」

「‥‥そうね」

 マガツ機関の仕事は、秘境内の秩序維持をする事。よって敵や仕事相手は、魔に連なる者となる。聴取で言えば、俺など足元に及ばないノウハウがあるだろう。

「‥‥彼の診断書もあるの。見る?」

 椅子から立ち上がったマヤカが、渡してきたのはマキトのカルテの写しだった。

「‥‥疑ってるのか?あの人を」

 カルテには、エイルさんの名が記されていた。

「私達機関よりも、あの人は彼と長い時間を過ごしていた。それに機関は、あの人の許可がないと尋問の時間を伸ばせない」

「それは治療の為だろう?」

「でも、暗示や洗脳、あの人なら‥‥いえ、あの人じゃないと出来る時間がない」

 マヤカが白いローブのボタンを掴んで歯を食いしばる。

「マヤカ、こっちに来て」

 震えて倒れそうになっているマヤカを呼び、無理して立ち上がって抱きしめる。

「あの人が、生命の樹なんて欲しがる訳ないだろう。それに、あの夜はマスターだってそばにいたんだ」

「‥‥なら、マスターも」

「たかが人間如きが求めているものを、あの人達が欲しがるって、思ってるのか?」

「—―そうね」

「それに、時間で言ったら、機関が今マキトを逮捕してるんだろう?この聴取を敢えて間違って書いてるかも、それこそ洗脳でもしてる可能性だってある。違うか?」

 柔らかいマヤカの身体を抱いてまま、テーブルに座る。呼吸が乱れてきたのがわかったのか、マヤカは背中と頭を撫でてくれる。

「疑う相手を間違えるなよ。機関は全力を挙げて、今も館を捜査してる。あの人達も、行き場がなかった俺やマヤカを保護して居場所や怪我の世話もしてくれてる」

「‥‥私、焦ってた?」

「かもしれない。オーダーだからって、全部を疑う必要ない。向こうで何か言われた?」

 オーダーとは、今やこの世界で一番の秩序維持組織。しかも国内で銃刀法のくびきを一部解き放たれて、オーダー街という基地さえ持っている。それらを向ける対象は捜査する側。行き過ぎて権力を止めて法の裁きを下す力を持っている。

 マヤカは、真面目過ぎた。

「オーダーの味方は、オーダーだけ。信用する相手は選ばないといけない‥」

「忘れたか?マスターもエイルさんも、オーダーだ」

「‥‥ふふ、忘れてた」

 抱きしめるだけで体力を使い切ってしまい、今度はマヤカに抱かれる。

「ありがとう‥‥思い出させてくれて」

 汗が止まらない俺を抱きかかえて、車椅子に乗らせてくれた。それに編んで作った布で汗も拭いてくれる。

「そうね。疑うべきは彼ら。マスター達じゃない。だけど、これが私の仕事。後で少し話しを聞きに行ってくる」

「ああ、きっとマスターもエイルさんも手を貸してくれると思うぞ」

「それに、ロタにも」

 そうだ、ロタだ。ロタこそ長くマキトと一緒にいた筈だ。何か知っているとしたら、彼女だ。

「ロタもオーダーになったって聞いたけど」

「そうよ。ロタも私と一緒にオーダーになった。それに私達と同じ外部監査科。今ロアがどこにいるか知ってる?」

 何度かマスターやエイルさんと一緒にいるのを見たが、今日は一度も見ていない。

「いいや、でも多分マスターかエイルさんの所じゃないか?」

「‥‥お願いがあるの。ロタとはあなたが話して」

「ロタから何か言われたか?」

 汗を拭き終わった布が空気に溶けていき、それを確認した後、マヤカが後ろに来て車椅子を押してくる。マヤカが人に頼るのは、少しだけ珍しかった。

「彼女はまだ自分達以外の種族を認めていない節がある。だけど、あなたは違うようだから」

「わかった。だけど、ロタは俺にも正直に話しって確証はないぞ」

 ロタの事だから、「人間の捜査如きに付き合うつもりはありません」とか言い出しかねない。しかも、一度はマキトを選んだ。そもそも話しを聞いてくれるか。

「いいえ、きっとあなたになら正直に話してくれる」

 だが、カタリは自信を持った声で太鼓判を押してくる。

「なんでだ?そんなにロタとは話してないんだろう?」

「‥‥本当に自覚がないのね。それとも、同性だからこそわかるのかしら?」

「なんの話?」

「さぁ?」

 煙に巻かれた気になったが、いつも通りのマヤカに戻ってくれて、安堵した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る