赤羽の〝化け物〟 第一話

「いえ。売って頂けるだけありがたいですよ」

 そう陽介が微笑むと、物件の現大家兼管理人は、初老の女性らしいふくよかな顔に安堵の笑みを浮かべた。

「そう、ならいいのだけど」

 賃貸マンションらしい簡素なエントランスを抜け、大家と一緒にエレベーターに乗り込む。築年数こそ三十年と古いが、定期的に大規模修繕がなされているのか古びた印象はない。共用部も清掃が行き届き、随所に物件に対するオーナーの愛が感じられる。本来は、一部屋さえ売り出すこともしたくなかったはずだ。

 そんな彼女が今回、ある一部屋を区分で売り出すことになったのには事情がある。

「あんな部屋を買い上げたいだなんて……どのみち二度と賃貸に出すつもりはなかったから、有難いと言えば有難いのだけど。でも、本当にひどい状態だから、実際に中をご覧になって、駄目だったら正直に仰って」

「わかりました」

 彼女の言う「ひどい」は、おそらく謙遜ではない。

 今から一年前、その部屋で火災が起こった。部屋には当時、若い夫婦と幼い子供が住んでいたが、生き残ったのは父親のみ。母親と子供は救助が間に合わずに焼死してしまったという。その唯一の生存者である父親の証言によると、母親が無理心中を働いたことで生じた火災だったらしい。業務用のスーパーで大量の天ぷら油を買い込み、それを部屋中に撒いて火を放ったのだそうだ。

 父親の証言は、その後行なわれた警察と消防による検証でも立証された。焼け跡からは、一般家庭としてはありえない量の一斗缶と、娘をきつく抱きしめたまま焼死した母親の遺体が見つかった……らしい。

 話に聞くだに凄惨な事件だ。が、それはそれとして放っておけば固定資産税等で赤字ばかり嵩んでしまう。大家は新しい入居者を募るべく、まずは補修を、とリフォーム業者を呼んだ。ところが結局、彼女はリフォームを断念し、火事から一年が経つ今も部屋は手つかずのまま放置されている。

 そこには、しかし、放置されるだけの理由があった。

「ご気分を害してしまったらすみません。一応確認しておきたいのですが……その後もお部屋で事故が立て続いた、というのは本当ですか」

「えっ……ええ。まぁ」

 陽介がこの物件を知るきっかけとなったオカルト板では、そうした噂をいくつも見かけた。見積もりのために訪れたリフォーム会社の営業マンが不幸に遭った。現場検証のために部屋に入った警察官や消防官が何人も死んでいる……もちろん、所詮はネットの噂だから、金魚よりも派手な尾鰭がついていることは疑う余地もない。が、火のない所に煙は立たぬとも言う。いくら荒唐無稽な噂でも、そこには何かしら火元が存在する。

 やがて、ようやくエレベーターが目的の階に到着した。

「ほら、あそこよ」

 見ると、廊下にずらりと並ぶドアの中に一つだけ、投函不可と手書きされた紙でドアポストを塞ぐドアがある。不要なポスティングを防ぐためだろう。逆に、それ以外は特に変わったところは見当たらない。

「大丈夫?」

 鍵穴に鍵を差し込みながら、そう夫人が問うてくる。

「ええ、構いません」

 この先には火災当時の、酸鼻を極める現場が広がっている。それを目の当たりにする覚悟はあるか、と問うていたのだろう。

 だが、陽介も決して素人ではない。この仕事を始めてまだ三年と短いが、その間、目を覆いたくなるほど悲惨な部屋には何度も出くわした。例えば、殺人事件の現場がそのまま放置された物件にも。さすがに放火心中の現場は今回が初めてだが、こうした渡世で糊口を凌ぐ以上、いずれは出会う光景だと割り切っている。

 案の定、出迎えたのは酷い光景だった。玄関先まで焦げた内装。床板や壁紙は無惨に焼け落ち、土台のコンクリートや壁の中の防火材が剥き出しになっている。事件から一年が経ったとは信じられないほどの生々しさに、さすがの陽介も息を呑んだ。

 夫人には、室内は汚れて足場も悪いからと靴のまま上がることを許された。言葉に甘え、革靴のまま奥に進む。間取りは玄関側に洋室が二つ。奥にLDKと、その傍らに六畳の和室。まさに絵に描いたような3LDKファミリー物件だ。今は煤でぼろぼろだが、コンクリートなど基礎構造は無傷だと専門家の鑑定が出ている。フルリフォームをかければ新築同様に生まれ変わるだろう。

 ただ、幽霊らしき存在の気配はない。

 瑞月なら……すでに何かが〝視えて〟いるのだろうか。 

 いや駄目だ。もう、瑞月をこの仕事に関わらせるわけにはいかない。自分の弟がどれだけ〝特別〟かを、陽介は完全に見誤っていた。死者が視えるだけに留まらない。視えるがゆえの思考、論理、死生観――そうしたものを、陽介は完全にはトレースできていなかった。視える人間が取るはずの行動、巡らすはずの思考、至るはずの価値観――寄り添うことは、決して不可能ではなかったはずだ。ただ、心のどこかでブレーキをかけていた。本当は、単に死者が視えるというだけの、ごく普通の弟なのだと、そう、信じていたかったのかもしれない。

 でも。そのせいで瑞月に、逆に苦しい思いを強いていたのだとしたら。

 事実、かつて瑞月は引き篭もりを拗らせたことがある。死人が視える、死人と話ができる瑞月は、傍目には唐突に宇宙との交信を始める変質者だ。そんな瑞月を、多くの人間は薄気味の悪い変人として遠ざけた。社会から排除され傷ついた瑞月が自分の心を護るには、社会との接点を全て断ち切るほかに方法はなかったのだろう。

 そんな瑞月に何とか居場所を作りたくて、今の仕事を始めてみたが、結局は裏目に出てしまった。

 やはり無理なのだろうか。この世界に、瑞月が生きられる場所なんてものはないのだろうか。たとえ今日ここで陽介が死んだとして、瑞月が一人で生きられるだけの資産なら充分遺してやれるだろう。でも……それでは駄目なのだ。なぜなら、人は誰しも社会なくしては生きられない。それを否定する生き方は弟に選んでほしくない。

 でも。そんな願いすら弟を追い詰めるだけの余計な世話だったのだとすれば。

 とす、と腰に軽い重みを感じたのはそんな時だった。見ると、幼稚園児ぐらいの子供が腰にしがみついている。黒目のくりっとした愛らしい女の子だ。さては近隣の部屋に住まう子供が迷い込むでもしたのだろうか。

「おじさん、ココアの新しいパパ?」

「……は?」

「そう。だからほら、ご挨拶よ。心愛ここあ

 振り返ると、ダイニングのテーブルには早くもティーセットが用意されている。プレートに盛られているのは、いかにも手作りと思しき不格好なクッキー。少し焦げていて、でも、どこかぬくもりを感じさせるそれは、おそらく母子の手作りだろう。

「これは……二人で作ったのか」

 すると、テーブルの傍らに立つ女が鳶色の瞼をやんわりと細める。一度会った女の顔は忘れないのが信条の陽介だが、妙なことに、その女には見覚えがなかった。にもかかわらず女は、まるで古くからの知り合いに向けるような――むしろ、それ以上の存在に向ける親愛の眼差しを陽介に注いでいる。

「ええ。心愛ったら、新しいパパが来るからって張りきっちゃって」

「パパ……」

「ええ。約束したでしょう。心愛のパパになるって」

 そして女は、クッキーの山からひときわ大きな一枚をつまみ出す。よく見ると、それは人の顔を模したクッキーだった。

 そっと手を差し出し、クッキーを受け取る。逆三角の輪郭に三角の鼻。皮肉っぽく曲がった唇と、やや吊り目がちの目。……似ていない。ちっとも似ていないが、これは確かに、俺だ。

「へぇ、よくできてる――」

「誰とお話しなさっているの?」

 大家の声に、ふと陽介は我に返る。

 見ると、広げた手元には何も見当たらない。が、一瞬前までそこには何かが置かれていて、その温かさ愛おしさに胸が詰まったことだけは覚えている。

 改めて周囲を見渡す。部屋には、陽介と夫人の他には誰もおらず、目の前には、火災時のガス爆発で跡形もなく破壊されたシステムキッチンの成れの果てが無惨に転がっている。

「……すみません。少し、ぼうっとしていたみたいです」

 そういえばここ最近、眠れない日々が続いている。頭も何だかごちゃごちゃしてすっきりしない。今夜ぐらいは早く帰って、ゆっくり風呂に浸かって眠るか……

「あの、やっぱり気が進まない? そうよね、こんな不気味なお部屋じゃ……」

 ――パパ。

「いえ……是非購入させて頂きます。ここは……」

 俺の、唯一帰るべき家だ。

 根拠はないが、なぜか陽介はそう確信していた。



 麻布の屋敷に戻ると、なぜか瑞月の姿はなかった。

 大方、夕飯の買い出しにでも出かけたのだろう。そんなことを考えながら二階に上がり、今は私室として使う洋室のベッドに身を投げ出す。部屋はすでに黄昏に包まれているが、ふたたび立って部屋の隅の照明スイッチまで歩く気にはなれなかった。

 そもそも、二人で住まうのにこの屋敷は広すぎるのだ。リビングもダイニングもがらんと広く、本来は猫のように狭い場所を好む陽介はどうも落ち着かない。そうでなくとも、この屋敷にはあの〝桃子〟とかいう幽霊も棲み付いている。瑞月の伝える人物像から、危険な幽霊ではないと確信している。それでも、姿も視えず声も聞こえない存在が、同じ屋根の下で暮らす状況は、やはり、どうしても落ち着かない。

 それでも……瑞月が望んだことなら。

 瑞月がここに住むと言い出した時、口では散々文句を言ったが、本音を言えば、少し嬉しかった。あの、引っ込み思案で自己主張に乏しい瑞月が――とりわけ両親が死んで以来、死んだように無気力だった瑞月が、初めて自分の意志を示してくれた。兄の決めたことなら、と何でも首を縦に振っていた瑞月が、ようやく自我らしい自我を示してくれたのだ。

 あの事件がその延長線上にあったのなら、兄として、素直に喜ぶべきだったのだろう。なのに……

 ポケットに入れっぱなしだったスマホが不意にLINEの受信を告げる。見ると、瑞月から新規のメッセージが届いていた。

『今夜は何が食べたい?』

「何が……ねぇ」

 そういえば、ここ最近は家のことは全て瑞月に任せきっている。それだけではない。物件の管理も書類作成などの事務仕事も、瑞月は文句も言わずにこなしてくれている。自分には無理だからと渋っていた宅建の勉強にも、実はこっそり手をつけているらしい。

 瑞月は頑張っている。社会に排除され傷つきながらも――そんな弟の頑張りに報いてやりたいのに、噛み合わないギアは虚しく空回りするばかりだ。

 とりあえずオムライスと打ち込み、返信。ほどなく既読がつき、瑞月の好きなアニメキャラが両手でマルを作るスタンプが送られてくる。本人は必死に隠しているらしいのだが、瑞月が兄に隠れて萌えアニメを視聴していることも、関連イベントに頻繁に足を運んでいることも、陽介は全部知っている。

 そんな、どうでもいい部分はわかってやれるのに――

 死者が視える。そんな、オカルトネタでしか聞いたことのない症状を、弟が患っていることに気付いたのは、あの飛行機事故から一ヶ月ほど経った頃のことだ。

 ――父さんたちが帰って来たよ!

 そう瑞月が嬉々として告げた時、陽介は返す言葉を持たなかった。両親などどこにもいない。そもそも二人は死んでいる。なのに瑞月は、無人の玄関を指して父と母が帰って来たと言い張った。

 いや、今にして思えば確かに両親はいたのだろう。ただし死者として。そして……当然ながら彼らの姿は陽介には視えなかった。視えないものを視えると言い張る弟に、陽介は、心の底から恐怖し、そんな精神状態に弟を追い込んだ自分の至らなさを憎んだ。

 次第に瑞月自身も、己の身に起きた異変を自覚しはじめた。が、両親がすでにこの世のものでないことだけは一向に受け入れてくれなかった。今も納得しているかどうか、それは正直怪しい。陽介がそう強弁したからやむなく受け入れた、というのが本当のところだろう。

 心療内科や精神科を何軒も渡り歩いた。が、確かな原因は何一つわからなかった。医療すら、瑞月の〝目〟に救いの手を差し伸べてはくれなかった。かといって無暗に助けを求めるなら、いずれカルトや悪意あるメディアに捕まって利用されるのが目に見えていた。結局、一人で弟を護るほかに陽介の取りうる選択肢はなかった。

 それでも、陽介は兄として与えらえた役目を全うし続けた。

 なぜなら瑞月は、この世にたったひとり遺された愛すべき家族なのだから……

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