第30話  御匣殿 (みくしげどの) ~ 君ぞ知りける~


 飛香舎ひぎょうしゃ女御にょうご彰子様が内裏にお入りあそばすということで、中宮様は生昌なりまさの邸へ退出あそばすことになりました。内裏にお二人の后がいらっしゃるのは思わしいことではないのでした。敦康皇子が親王となられても叔父の伊周これちか様が後ろ盾では頼りないということなのでしょうか。上達部かんだちめ殿上人てんじょうびとが気に掛けるのは道長様のご機嫌ばかりでした。特に、このように中宮の参内と皇后の退出とがほぼ同時に行われれば、嫌でもそのことを見せつけられるのでした。

 それでも中宮様は、彰子様に五月五日の節句に、菖蒲の輿や薬玉を奉りあそばしました。また、若い女房や御匣殿みくしげどのは、かわいらしく薬玉を作って脩子しゅうし内親王様や敦康あつやす親王様のお召物におつけするなどして、それなりに風流にしつらえておりました。御匣殿は敦康様の母親代わりもなさっている方で、中宮様の妹君の中では一番中宮様とお顔もご性格も似ていらっしゃるようでした。時折、初めてお会いした頃の中宮様をそのままお見上げしているような気にもさせられます。中宮様は末の妹御匣殿をとても大事になさって、御匣殿もまた、中宮様を慕い尊敬なさっているご様子でした。お二人をほほえましく見申し上げていると、青麦でつくった菓子が垣根越しに届けられました。我に返った私は、それを青い薄様の紙を敷いた硯の蓋にのせて、中宮様に献上いたしました。

「青ざしでございます」

 古歌になぞらえ、垣根を越えて麦を食べる馬のように、障害があろうとも中宮様のおそばをはなれません、という思いを伝えたかったのでございます。

 中宮様は、薄様を少し引きちぎって御歌を書いてくださいました。


 みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける


「誰もが勢力の移った他の後宮へと挨拶に急ぐ日も、あなただけは、私の心をすべて知っていてくれるのですね」と。しんみりとした歌でございました。人は苦しみの中で明るく笑うほどに、心を深くしていくものなのでしょうか。

 中宮様の思いやりのお深さ、心づかいの細やかさは私にばかりではございませんでした。御乳母めのと日向ひゅうがへ下り、中宮様の元をお離れになる際にはたくさんの扇を餞別に下賜かしなさいましたが、その中に、一面には日のたいそううららかにさしている田舎の官舎を、もう一面には京で雨がひどく降っているのを描いてあるものがございました。そこへ、


 あかねさす日に向かひても 思ひ出でよ 都は晴れぬ ながめすらむと


 とご自筆でお書きあそばしているのをお見受けし、私ならばとてもこのような時にお側を離れてしまうことなど出来ないと、乳母の無情さを憎らしくさえ思ったものです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る