第29話 飛香舎 (ひぎょうしゃ) ~藤原彰子~
新しく立后あそばした道長様の御娘
中宮様が今内裏にお入りになると、主上様は趣のある坪庭の廊下を通っていつもお渡りになりました。ご再会から間もない二月の半ば、主上様はその廊下の西側、廂の間で笛をお吹きあそばしました。主上様の御笛の師、
そのような頃、ちょっとした事件が起きました。
主上様が大事になさっている猫がございました。名を「
「まあ、お行儀が悪いこと。おはいりなさいまし」
と呼ぶのにも知らぬふりで、日が当たっているところで眠ってじっとしております。それで今度はおどかすために、犬をけしかけました。
「翁まろ、そこにいたのか。命婦のおとどに噛みつけ」
愚か者の犬は命じられたと思い本気で走ったので、命婦のおとどは驚いて御簾の内に入ったのでした。ちょうどご朝食をお召し上がりになっていた主上様がご覧になって、たいへん驚かれました。命婦のおとどを懐にお隠しになり男たちをお呼びあそばしました。
「この翁まろを打って犬島に流してしまえ。今すぐに。守り役も代えよう。ひどく気がかりだ」
と仰せになりました。翁まろは、流罪となってしまいました。私ども女房は、翁まろとは親しくしていたので、口々に気の毒がっておりました。
「これまではたいへん得意な様子で歩き回っていたのにねえ」
「節句には行成様が柳のかずらを頭にのせさせて、桃の花をかんざしに、梅の枝を腰に挿させてお歩かせだったのも立派な姿だったのに。こんな目にあおうとは思っていなかったでしょうね」
「中宮様のお食事の時は必ず御前の正面に向かって伺候していたのに、いなくなると寂しいわね」
そんなことを話していて、三、四日が過ぎたころでした。
お昼ごろにひどく鳴く犬の声が聞こえましたら、それは帰参してしまった翁まろを見つけた忠隆たちが打ちつけているというのでした。私は急いで人を止めにやりましたが、遅かったようでした。
「すでに死んでしまい、門の外へ捨てたようです」
使いの報告を聞き不憫に思うのでした。すると夕方、ひどく腫れあがりみすぼらしい格好をした犬がぶるぶる震えて小庭を歩き回っているではありませんか。
「まあ、翁まろかしら。そんなはずはないわよね」
そう言いあいながら、名を呼んでみたりしましたが犬は返事をいたしません。
中宮様が、
「右近が顔をよく知っているから呼びなさい」
と仰せになりました。
中宮様が右近の内侍にお聞きあそばします。
「これは翁まろか」
すると、右近が答えます。
「似ておりますが、これは見るからにひどい様子でございます。また『翁まろ』と呼ぶといつもは喜んでやって参りますのに、呼んでも寄って来ませんので、やはりちがうのではないでしょうか。『翁まろは打ち殺して捨ててしまいました』と忠隆が申しておりましたので、生きてはおりませんでしょう」
「そうなの。かわいそうなことをしたわね」
中宮様は、ため息をおつきになりました。夜になって、食べ物をあたえますが食べません。別の犬だと私たちは決めてしまいました。
翌朝、私が中宮様の
「翁まろは打たれて死んでしまったのですね。どんなにつらかったことでしょう。今度は、何の身に生まれ変わってくるでしょうか」
私が呟いていると、なんと犬が震えながら涙をぽろぽろとこぼすではありませんか。それにはひどく驚きました。
「やっぱり、これは翁まろだったのだわ。昨日は我慢して我が身を隠していたのね」
私は、思わず持っていた鏡も置いて犬に駆け寄りました。
「それでは、翁まろなの」
犬はひれ伏して、ひどく泣くのでした。中宮様も、あまりのことに恐がりながらお笑いあそばします。女房たちも御前に集まって参りました。中宮様がまた右近の内侍をお呼びになってご説明あそばし、みなで笑って大さわぎとなりました。
「あきれたことに、犬などにもこのような心があったとは」
とお笑いあそばして翁まろをお許しになり、勘当もお解きあそばしました。主上様お付きの女房も皆こちらへいらっしゃいました。翁まろを呼ぶと今こそは立って動くのでした。
「傷の手当をさせたいものだわ」
私が言うと、中宮様は、
「あなたの翁まろ贔屓をここで告白してしまったわね」
などと、お笑いあそばします。そこへ、忠隆も話を聞きつけて参りました。
「ほんとうに翁まろなのですか。見せてください」
「まあ、恐ろしいこと。そんなものはいませんよ」
私は翁まろを隠しながら言いました。
翁まろは、もとのように宮中を歩き回れるようになりましたが、私から言葉をかけられて泣きながら出てきたときのことを思い出すと、おもしろくもどこか切なくもあるのです。翁まろの境遇を、他人事とも思えないからでしょうか。
中宮様のお言葉が思い出されました。
「私は世を嘆いてみせるのは、好きではないのよ」
翁まろは他の人々にもことばをかけられては泣いたりする犬だった。
私は、翁まろ事件を草子の中で、ただこう結びました。
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